ると同時に , ある文化をもった社会やコミュニティの存続や発展にかかわる営 みでもあります。教育という営みをとおして , 一人ひとりの人間は , かけがえ のない存在としてその固有な可能性を開花させていきます。その潜在的な力は , その人がもつ自然が , その人にとって意味のある他者や , その人が意義を認め て参入・参加しようとする文化と出会い , かかわり合うなかで , はじめて花開 きます。 究のポリティクス 1 2 ・ c H R p T E R 1 よい教育ってどんな教育 ? ある社会・文化情況のなかで , そこにある姿とそこであるべき姿との「間」 ( ケイ , 1979 , 140 頁 ) れにたくさんの訓練された人間で , よく教育された人間ではない。」 見たのは , いくらかの甘やかされた人間 , 一部の追い立てられている人間 , そ 「わたしはいまだかって , よく教育された人間を見たことがない。わたしの 年 ) は , アイロニーを込めてこう語ります。 スウェーデンの教育学者 , エレン・ケイ (Ellen Kar01ina S0fia Key, 1849 ー 1926 すれば , それはどのような教育を意味するのでしようか。 では , 「よい教育」とはどのような教育なのでしようか。「よりよい教育」があると 印凵 E 5 T ーロ N うことがつねに問われてきたのです。 何のための教育か , 何を根拠にそれが「よい」ということがいえるのか , とい もし「よい教育」というものがあるとすれば , それは , だれのための教育で , と ( 教育的価値 ) が , その歴史的 , 社会的な環境のもとで問われてきました。 す。この 2 つの位相において , 人間にとって何が値うちのあることかというこ みの位相です。もう 1 つは , 文化の創造的継承に向けた発達援助という位相で 必要性が自覚されてきたということがわかります。 1 つは , いのちのケアと育 このようにみてくると , 人間には , 教育という営みが , 2 つの位相で , その
日記」を綴りながら , 教育的な思索を深めはじめていました。教育学の父とも 称されるベスタロッチは , 「書斎の哲人」ではなく , つねに「いま・ 生きている目の前の子どもとのかかわり合いから思索を深めました。ベスタロ ッチが偉いのは , 声高に理想を語ったからではなく , 自己の体験をとおして , 生涯にわたり , 立ちどまり , 問い続け , 根源的な問いを編み直し続けたことに あるのだと考えられます。 子どもの本性は善か悪か ? ところで , あなたは , 人間の子どもは , 生来 「善なる存在」だと思いますか , それとも「悪なる存在」だと思いますか。その理由も 明らかにしながら話し合ってみてください。 W ロ RK ⑤を 18 世紀後半の社会状況と当時のキリスト教文化のなかで , ベスタロッチは , 当初 , 子どもは天使のように善い存在だと仮定することからはじめました。し かし , その後 , 子どもは悪い存在だと考えざるをえない経験を繰り返します。 そして晩年になってようやく , 子どもを社会生活のなかで , そして教育によっ て , 善にも悪にもなりうる存在としてとらえるようになったのです。 ベスタロッチのように考えると , 「子どもは天使だ」と手放しで信じること も , 「子どもは悪魔だ」と決めつけてしまうことも , ともに一面的な見方だと いうことになります。子どもは生まれながらに善なる存在でも , 悪なる存在で もなく , 社会環境や教育のなかで , 善にも悪にもなりうる存在です。善と悪と は , 歴史的で社会・文化的な現実を生きている一人の子どもの 2 つの側面です。 善のなかに悪の萌芽が芽生えることも , 悪のなかに善への透明な希求が眠り 込んでいることもあります。このようなまなざしで子どもと出会い直してみる と , 大人も新たな視点で自分自身と出会い直すことができるかもしれません。 子どもの発見 ( ルソー ) 次に , 人間の育ちの時間軸でみてみましよう。一般に , 子ども (child) は , まだ大人になっていない若くて幼い人間 (a young human who is not yet an adult) を意味することばです。 32 ・ CHRPTER3 子どもという存在 / 人間という存在
ぶり , 私たち大人に小さな ( そしてときに深い ) 問いを投げかけてくれる存在で もあります。 子ども時代の生活世界から考えてみようあなたがよく歌ってもらった子守 唄は何ですか。あなたが , 幼い頃に親や大人から聞いたお話 ( 昔話や民話 ) は覚えて いますか。幼い頃にあなたが楽しんだ手遊び歌は覚えていますか。子ども時代に , あ なたが見て , 聞いて , 感じていた生活世界を思い出しながら , 互いに語り合ってみて ください。子どもという存在を理解する手がかりがみえてくるかもしれません。 たとえば , 日本の子育て文化のなかで , 幼い子どもは , 「七つまでは神の子」 , あるいは「六つまでは神のうち」などといわれてきました。幼い子どもは , 神 ではないが , まだ人間にはなりきっていない曖昧な存在 - ーー神と人との中間的 存在ーーとされてきたのです。そこには , 幼い子どもがもつ「聖性」への敬意 とともに , 困窮のなかで , 小さな生命を守ることさえ難しかった民衆の切ない 現実があったといわれています ( 浜田 , 2009)0 いのちの儚さと , いのちの輝き に出会うなかで , 大人は , 決して万能ではないみすからの存在を問い直し続け てきました。そして , その苦悩や困難を他者と分かち合い , その時代の社会や 文化のシステムそのものをよりよくしようと努力し続けたのです。 本田和子は , とても興味深いエピソードを紹介しています。幼い子どもが遊 んでいる姿に出会うと , 私たちは , しばしば不思議な経験をします。たとえば , 泥 ( どろ ) で遊ぶ幼い子どもをみて , 何か神々しい「聖性」を感じることもあ りますが , 何かやっかいな「野性」を感じることもあります。本田は , このよ うな感覚を抱きながら , 大人は子どもの間にさまざまに新しい関係を発生させ ているというのです。 ( 本田 , 1992 ) 。 私たち大人は , 子どもに聖性を感じたかと思ったその瞬間 , その 子どもの野性に翻弄されている自分に気づくことがあります。古来 , 子どもは 大人をうっとりさせるような清らかさと , 大人をどっきりさせるような野性を あわせもつ存在です。このように心を揺さぶられる出会いをとおして , 大人も みずからの存在や生き方を問い直し , 子どもと大人の関係が絶えず編み直され ているのかもしれません。そして , 子どもの聖性と野性から , 他者とのかかわ り合いや , 社会や文化というシステムそのものをふりかえりながら再構築する 30 ・ CHRPTER3 子どもという存在 / 人間という存在 W ロ R K ④
きる権利」があること , 第 2 に「育っ権利」があること , 第 3 に「守られる権 利」があること , そして第 4 に「参加する権利」があることです。生きる権利 とは , 病気・怪我や戦争によって生命を奪われないことや , 適切な治療を受け られることを意味します。育つ権利には , 教育を受けることだけでなく , 必要 な休息や遊びが保障されることも含まれます。守られる権利には , いかなる種 類の虐待や搾取からも自由であることを意味し , 特に障がいのある子どもや少 数民族の子どもが保護されなくてはなりません。そして , 参加する権利は , 自 由に自分の意見を表明したり , 仲間と活動が行えることを意味しています ( 日 本ュニセフ協会 HP より ) 。 このように , 子どもの権利条約の基本的理念は , 子どもを弱い存在として特 別な保護が与えられるべきであるとしながら , 未熟な存在として思想や行動を 制約するのではなく , 子どもが自分らしく生きること , さまざまな権利を行使 することを通じて発達する権利を保障する責務を社会全体に負わせることです。 この条約を批准した国・政府には , 子どもにかかわるあらゆることを決定し実 行する際に , 子どもの意見を聴き , 子どもにとっての最善の利益がはかられる ようにする責務があります。日本政府は , 1994 年にこの条約を批准しました。 印凵 E S T ーロ N 子どもの権利という視点からみたとき , 現在の日本の教育にはどのような課題があ るでしようか。 日本の教育の課題 子どもの権利条約の批准国において , 子どもの権利を実現する責務が果たさ れているかどうかを審査するために国連・子どもの権利委員会という機関が設 置されています。この委員会の最新の審査所見 ( 2010 年 ) では , 日本の教育が きわめて競争的な環境下にあると判断されています。そして , そのことが子ど もたちのいじめや精神的不安や不登校・ドロップアウト , 自殺などの問題を引 き起こしている可能性に対する懸念を表明して , 国として早急に対処すべきだ と勧告しています。また , 日本の子どもの貧困が深刻化していて , それが虐待 や養育放棄など人権侵害の危機にある子どもの増加を招いていることにも強い 5 子どもの権利・ 69
ロ H 日 P T E R 子どもという存在 / 人間という存在 第 ー N T R ロ D LJ C T ーロ N たいと思います。 を問い直しながら , その育ちを援助する教育の在り方も問い直してみ ういう意味なのでしようか。この章では , 人間としての子どもの存在 在なのでしようか。子どもが人間として育つ , 人間らしく育っとはど 人間という自然 ( 本性 ) からみたときに , 子どもとはどのような存 うときもあります。子どもは摩訶不思議な存在です。 ります。そうかと思うと , 不安やとまどいを感じて , 困り果ててしま 子どもに出会うと思わす笑顔になり , 心から可愛いと思うときがあ 聖性 人 ァイ K EY W ロ R D S 野性ベスタロッチキリスト教文化 アリエス小さな大 子どもと大人の境界ギャングエイジ人間の自然ヒューメイ 成長発達ブルーナー ストーリー ステップ・バイ・ステップヴィゴッキー セルフ・アイテンティ 発達の最近接領域 情動体験ピア・パートナー 関係論
う見方もできます。近代社会の成 立や学校制度の拡充が , 子どもを 大人からは独立した存在として認 めようーー子どもは子どもとして めよう という社会的な機運 ロ・い を形成していったとみることもで きます。このような社会環境が生 まれることによって , 子ども時代 に , 子どもらしく生きるというこ とに積極的な価値が見いだされ , その育ちの時機に相応しいケアと 小さな大人 発達援助とは何か , という教育学 ( 出所 ) 中野・志村 , 1978 をもとに作成。 的な問いが生まれるようになった と考えられます。 ルソーは , 子どもは「小さな大人」 ( 大人を小さくしただけの存在 ) ではなく , 子どもという時代を子どもとして , みずからさまざまな困難を乗り越えながら 生きる存在としてとらえ直しました。そして , 子どもの育ちにおける自然の歩 み ( その本性が開花し , その時どきの社会・文化環境のなかで発揮されていく道筋 ) に ついて洞察を深め , その歩みに寄り添う技芸 ( アート ) としての教育を探索し 続けました。 もちろん , ポストマン (2001) がいうように , 今日の新しいメディア環境の なかで , 「子ども期」がしだいに消滅しつつあるという指摘もあります。今日 , 大人が固有にもちえていた情報へのアクセスは子どもでも容易になりました。 その結果 , 子どもと大人の境界が曖昧になり , 大人のような子ども , 子どもの ような大人も増えているという現実をどう理解すべきか , という問いにも興味 深いものがあります。 また , 今日の社会には , 子どもはできるだけ早く ( 効率よく ) 一人前の大人 に育てるべきだという考え方もあります。子どもは未熟で半人前だから , 一刻 も早く一人前にしなければならないという考え方もあります。子どもは大人と 比べてさまざまな能力が劣っているのだから , 一刻も早く有能にすることが教 34 ・ CHRPTER3 子どもという存在 / 人間という存在
第 2 部 先人の知恵から学ぼう PA R T ロ H 日 p T E R 3 4 5 6 試行錯誤の歴史 子どもという存在 / 人間という存在 教え方は試行錯誤されてきた 教育を受ける権利 子どもの学びを支える仕組み
子どもと出会い直すとき 印 u E S T ーロ N あなたにとって「子ども」とはどのような存在ですか。純粋で , 無邪気で , 思わす 守ってあげたいと思う存在ですか。それとも , 奔放で , わがままで , 手を焼く存在で すか。愛しくみえたり , 小憎らしくみえたり , 神々しくみえたり , する賢くみえたり ーーーそのような子どもとの出会いから , 私たち大人は何を問いかけられているのでし ようか。 儚さと輝き 次の詩は , 幼い子どもを謡った八木重吉の作品です。 「美しくあるく こどもが せっせっせっせっとあるく すこしきたならしくあるく そのくせ ときどきちらっとうつくしくなる ちいさい童が むこうをむいてとんでいく たもとを両手でひろげてかけていく みていたらば わくわくとたまらなくなってきた」 ( 八木 , 1958 , 96 ー 97 頁 ) 幼い子どもをみていると , 私たち大人は , その未熟さ ( 弱さ ) と根源的な生 命力 ( 輝き ) にふれ , どきっとしたり , ほっとしたり , わくわくしたりします。 幼い子どもには , 生命の儚さと躍動感が同居しているゆえに , 大人の心を揺さ 子どもと出会い直すとき・ 29
もの姿が , あまりにも不自然にみえていたのでしよう。 18 世紀末 , ベスタロッチ ( 1993 ) は『隠者の夕暮』の冒頭で「玉座の上にあ 一体 っても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間 , その本質からみた人間 , 彼は何であるか。何故に賢者は人類の何ものであるかをわれらに語ってくれな いのか」と問いかけています。ベスタロッチの目の前には , 戦乱や貧困で親を 失い , 「やせ細って骸骨のようになり , 顔は黄色く , ほほはこけ , 苦悩に満ち た眼をもち , 邪推と心配でしわくちゃになった額をもった子ども」が数多くい たのです。 ルソーをはじめとする近代教育学の古典家と呼ばれる人たちは , 子どもや人 間という存在を , つねに社会・文化や政治・制度の問題と深く結びつけた知識 人でした。そして , 戦争 , 飢餓 , 貧困 , 災害等を被り , 耐え難い苦悩を抱えて 生きようとしていた子どもや援助者に深く心を寄せることで , みずからの教育 学を構築しようとした一人の人間でもありました。 そう考えると , ルソーがいう「天職」でもあり , 生徒に第一に教えたいと思 っている職業である人間という意味も , ベスタロッチがいう「その本質からみ た人間」という意味も , 厚みをもって理解できるのではないでしようか。 オランダの霊長類行動学者 , フランス・ドウ・ヴァールは , 人間性の原義を ヒューメイン (humane : 慈悲深く寛容であること ) としてとらえ直しています ( ヴァール , 2010) 。ヴァールは , 苦しみ悩んでいる他者や動物と痛みを分かち 合い , 人道的なケアを遂行する志向性が , いま生き残っている人間のゲノムに 深く刻み込まれているというのです。 2 人間が「育つ」ということ 他者・文化・自己のストーリー 子どもは , その固有な歴史的 , 社会的 , 文化的諸条件のなかで , さまざまな 制約を受けながら , その自然 ( 本性 ) を発露して育ちつつある存在です。 36 ・ CHRPTER3 子どもという存在 / 人間という存在
受けることができなかった場合には , 人間として育っための潜在的な可能性さ え著しく制約されかねないという厳しい現実です。 く弱さ〉を慈しむケア このように , 人間の子どもは , 他者との応答を絶たれ , 一人で放置されたま までは , 生きることも育っこともできない「弱さ」をもっています。他の人間 によって養育されなければ , いのちを維持することもできなければ , その人間 に眠り込んでいる可能性を開花させることもできない弱さをもっています。し かしその弱さゆえに , 人びとがつながり合って , そのいのちをまるごといとお しみ , 守り , 育むための叡知と共同体 ( コミュニティ ) をつくり合う必要も生 まれました。 フランスで活躍した思想家で , 教育学に大きな影響を与えたルソー (Jean- Jacques Rousseau, 1712 ー 78 年 ) は , 『エミール』 ( 1762 年 ) で次のように述べてい ます。 「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさ せるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは 人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある 証拠だ。わたしたちのひとりひとりがほかの人間をぜんぜん必要としないなら , ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたし たちの弱さそのものからわたしたちのはかない幸福が生まれてくる。」 1963 , 32 頁 , 下線は引用者 ) ここに人間の子どもが他の人間による教育を必要とする 1 つの理由があると 考えられます。このように「弱い」存在としての子どものいのちの育みとケア ( 保育や養育 ) に関する叡知が , しだいに蓄積され , 世代から世代へと継承され て , 教育という営みの原型がつくられました。そこから育児や子育てや共同保 育という文化が創造されてきたのだと考えられます。 育みと教えをつなぐもの ルソーは , 『エミール』で次のようにも述べています。 5 人間に必要な「教育」とは ? ・ 9