考え方 - みる会図書館


検索対象: 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS
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1. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

的に重要とされることによって , その資質の伸長が促されると指摘しています。 このような教育の社会的機能を , 一般に 社会化 (socialization) と呼びます。 日本の教育学者のなかにも , デュルケームと同様 , 教育の社会的機能に注目 した人たちがいました。たとえば , 社会教育学者の宮原誠一 ( 1909 ー 78 年 ) は , 教育はそれ自体としては目的をもたず , 政治の要求 , 経済の要求 , 文化の要求 を人間化するのが教育であるという「教育の再分肢説」という考え方を唱えま した。たしかに , 私たちは一人で生きているのではありません。社会の成員と して共同生活を営んでいる以上 , その社会を支え , 貢献する人間となることが 求められているといえるでしよう。 個性・能力の伸長 しかし , 社会からの要求にただ順応するだけでは問題もありそうです。 教育による社会化があまりに強く働きすぎると , 個人が可能性としてもって いる多様な個性や能力の伸長が抑制されてしまうかもしれません。また , 現在 の社会や近い将来の社会にとっての必要性という観点が強調されすぎると , 教 育は現状を維持する機能を果たすようになり , 長期的視点からの社会の発展可 能性が損なわれるということもありえます。 そう考えると , 教育の社会化機能が , 個人を社会から求められる人間という 鋳型にはめ込むような固定的なものであることには問題があります。むしろ , 個人が社会の要求に応えつつ , 個性や能力の自由な伸長をとおして現在の社会 をさらに発展させていく可能性を含んだ , 応間ど社会の動態的な相互作用とし て考えるほうがよさそうです。宮原が , 社会の要求の「教育化」にこだわった 意味も , この点にあるといえます。 このように教育のとらえ方には , 政治や経済や文化の維持発展を目的として , 人間を社会に適応させる過程であるという考え方と , 個人がもっている個性や 能力を引き出し , その発展を促す働きかけだとする考え方があります。この 2 つの教育のとらえ方は互いに対立する場合もありますが , いずれか一方を絶対 的に正しいとしてしまうと , 個人と社会の双方にとって発展可能性が狭められ てしまうかもしれません。 1 」教育の意義と目的 ・ 17

2. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

整序し , それを効率よく系統立てて伝達することを強く意識してつくられたも のです。 系統主義の学習は , 既存の文化価値や教育内容を , 確実に効率よく伝達した いと願う大人 ( 教師や講師 ) にとっては , 利便性の高い教育方法だと考えられ ています。たしかに「正解」がみつかったときには , 子どもにある種の達成感 も生まれます。しかし , このデザインの授業では , 子どもはいつまでも受動的 な学びの客体 ( お客様 ) のままで , 学びの能動的な主体 ( 主人公 ) になることが 難しくなります。 デザイン B の場合は , 発問 ( 問 ②子どもに問いかけ , 主体的に学ばせる ? いかけ ) をすることで , A の場合よりは , 子どもを主体的な姿勢で学ばせよう という工夫はみられます。しかし , そこでは , すでに正解を知っているのに知 らないふりをして問いかける教師の擬似的発問と , 正解を知らないか , 知って いてもしばらく知らないふりをして振る舞おうとする子どもとの擬似的応答が 織りなす儀礼的な対話が展開されます。 教師が子どもに問いかけ , 子どもが問いをもち , 子どもが主体的に学べる環 境をつくろうとすることは重要です。しかし , デザイン B の場合 , 子どもの 子どもたちは , その正解にだれがいちばん早くたどり着けるかを競い合う傾向 しまいます。教師は , にこまでおいで」と巧妙に正解へと子どもたちを導き , やはり教師が隠しもっている正解に強く誘導されて も生まれます。 探究や発見のプロセスは , 主的 , 創造的 , 批判的な思考能力を高めようとする学びを組織しようとするも ようと努力することをとおして , みすからの経験や知識を再構成しながら , 自 みで探究されてきた考え方です。これは , 子どもが直面している問題を解決し これは , 歴史的には問題解決学習 (problem-solving-learning) と呼ばれる枠組 境を準備することも考えられます。 い」をみつけさせ , 子ども ( たち ) がそれを主体的に解決できるような学習環 はなるべく教えることを控えて , 子ども ( たち ) にみずから考えるべき「問 デザイン C のように , 教師 ( 3 ) 子どもか間いをつくり , みずから解決する ? c H 日 p T E R 1 1 子どもがよく学ぶためには ? ルーナー第 3 章 ) が提唱した発見学習や , コルプい第 12 章 ) が提唱した このような考え方の源流はデューイ第 7 章 ) ですが , その後 , プ 1 52 ・ のです。

3. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

合いのことです。 先人たちは , 目の前のかけがえのない「いのち」の尊厳を守り , それをケア し , 育むことを導きの糸として , 教育の目的と倫理を探究してきました。また , 先人たちは , それぞれの時代の社会や文化と格闘しながら , 次世代の社会に必 要だと考えられる文化価値の体系を , 教育課程 ( カリキュラム : curriculum) と して精選・整序してきました。 さらに , 先人たちは , その文化価値の体系を , よりよく伝達・習得させるた めの教育内容・方法も開発してきました。教育の目的と目標が吟味され , 人類 の文化価値が教科として区分され , その到達目標の細目が整序され , それを達 成するための内容と方法が探究されました。それは , 教科中心力リキュラム (subject-centered curriculum) の開発と呼ばれています。今日では , あるテーマ を探究するために , 各教科の壁を越えた領域横断力リキュラムや , 課題探求カ リキュラムも開発されてきています。 一方 , 学習者 ( 子ども ) の経験を重視して , 教育の内容・方法を再編するこ とを重視する子ども中心力リキュラム (child-centered curriculum) あるいは経験 中心力リキュラムも開発されてきました。近年では , 学習者の学びの物語性に 注目した , ストーリー中心力リキュラム (storycentered curriculum) のように 教科中心の考え方と子ども中心の考え方との統合を志向したカリキュラム開発 も行われています。 カリキュラムは , 教育の目的 , 内容 , 方法 , それらにアプローチする教育者 の基本的姿勢を意味する場合があります。そもそもカリキュラムということば の語源は , ラテン語のく "currere" = 走る + "culum" = コース〉です。この く走るコース〉を , 主に教える者の側の視点で考えると , より整序された教科 内容・方法が構造化されていきます。一方 , これを , 学習者 ( 子ども ) の視点 で考えると , その子どもの人生におけるユニークな学びの軌跡こそがカリキュ ラムだということもできます。カリキュラム開発では , 教えるべき内容を批判 的に吟味しながら整序・再構成するとともに , 具体的な学習者 ( 子ども ) のか けがえのない人生のカリキュラムが豊穣化できるように援助できるかどうかが , 教師に問われています。 148 ・ c H R p T E R 1 1 子どもがよく学ぶためには ?

4. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

員参加の授業 ) をつくりたいと , この教師は願っていました。 多様な特性 ( もち味 ) のある他者との出会いと学び合いのなかで , 一人ひと りの子どもが自尊感情を回復し , 新たな社会や文化の形成者 ( 創り手 ) として 自立できるように援助していく営みを , 日本の教師たちは , 諸外国の研究と実 践にも学びながら , 学習集団づくり , あるいは , 協同学習の創造というデザイ ンで探究し続けています。この教師も , こうしたデザインで , 明日の授業を構 想しようと考えていました。 学指導案を構想する この授業構想カンファレンスでは , 学習指導要領をていねいに参照したうえ で , 一人ひとりの子どものことを具体的に語り合いながら , 同時に , 教科内容 の文化価値 ( 0 〔ゼロ〕の学問的・生活的意味や , 0 〔ゼロ〕と 0 〔ゼロ〕を加算するこ との学問的・生活的意味など ) を問い直し , それを多様なもち味や個性のある子 どもたちと一緒に学び合えるような授業をどうつくるか , ということが考え合 われました。 はじめ , この教師は , いくつかの可能性を考えました。 【デザイン A 】 <0 + 0 = 0 〉という「答え」をあっさりと教えて確認し , より難 易度の高い次のステップに進む。 【デザイン B 】く 0 + 0 って何だろう ? 〉と , 教師も正解がわからないふりをし て , 子どもに発問し , 学び合い , 最後に〈 0 〉という正解をいわせて終わる。 【デザイン C 】子どもに「 <0 + 0 〉について何か考えてみたいことがある ? 」 とたずね , 新たな問い ( 問題 ) そのものを子どもと一緒に考えていく。 【デザイン D 】くそもそも , 0 + 0 って何だろう ? 〉と , 教師も真剣に考えて学 び直し , 子どもたちが正解にたどり着くプロセスを考える。 どれもありうるが , どれもしつくりこない , と思ったこの教師は , 同僚や研 究者とともに , 次のようなことを話し合いました。 ( 1 ) スモールステップで教える ? デザイン A の場合は , 教科内容の難易度 の順序性をふまえていて , 子どもにスモールステップで課題を着実に解決させ ようとしていくものです。この考え方は , 一般に系統主義の学習と呼ばれる学 びのデザインです。このような学習様式は , 既存の文化価値を教育内容として 2 「学び」のデザイン再考・ 151

5. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

う見方もできます。近代社会の成 立や学校制度の拡充が , 子どもを 大人からは独立した存在として認 めようーー子どもは子どもとして めよう という社会的な機運 ロ・い を形成していったとみることもで きます。このような社会環境が生 まれることによって , 子ども時代 に , 子どもらしく生きるというこ とに積極的な価値が見いだされ , その育ちの時機に相応しいケアと 小さな大人 発達援助とは何か , という教育学 ( 出所 ) 中野・志村 , 1978 をもとに作成。 的な問いが生まれるようになった と考えられます。 ルソーは , 子どもは「小さな大人」 ( 大人を小さくしただけの存在 ) ではなく , 子どもという時代を子どもとして , みずからさまざまな困難を乗り越えながら 生きる存在としてとらえ直しました。そして , 子どもの育ちにおける自然の歩 み ( その本性が開花し , その時どきの社会・文化環境のなかで発揮されていく道筋 ) に ついて洞察を深め , その歩みに寄り添う技芸 ( アート ) としての教育を探索し 続けました。 もちろん , ポストマン (2001) がいうように , 今日の新しいメディア環境の なかで , 「子ども期」がしだいに消滅しつつあるという指摘もあります。今日 , 大人が固有にもちえていた情報へのアクセスは子どもでも容易になりました。 その結果 , 子どもと大人の境界が曖昧になり , 大人のような子ども , 子どもの ような大人も増えているという現実をどう理解すべきか , という問いにも興味 深いものがあります。 また , 今日の社会には , 子どもはできるだけ早く ( 効率よく ) 一人前の大人 に育てるべきだという考え方もあります。子どもは未熟で半人前だから , 一刻 も早く一人前にしなければならないという考え方もあります。子どもは大人と 比べてさまざまな能力が劣っているのだから , 一刻も早く有能にすることが教 34 ・ CHRPTER3 子どもという存在 / 人間という存在

6. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

ならないことが経験学習理論では強調されていることを忘れてはなりません ( 第 11 章 ( 。ⅳ mn ) 。 W ロ R K ⑩、」を て深く考え , より意味のあるものにしていく視点を提供してくれるのが生涯学習と 学校教育を相対化するとともに , 私たちが絶えす行っている学習という行為につい に限られるものではありません。現代の社会ではもっとも大きな位置を占めている 生涯学習という理念は , 生涯にわたる学習の継続という時間的広がりの意味だけ によって受け継がれている部分もあります。 社会教育が追求してきた自主的・自律的な学習・文化活動という理念は , 生涯学習 に硬直した学校教育への批判と知識基盤社会という観点から考察しました。戦後の この章では , 生涯学習の必要性が提起されるようになってきた背景について , 主 S 凵 M M A RY びというものを考え , 話し合ってみましよう。 家庭 , 学校 , 社会という場の違いや学習者の年齢段階にあまりとらわれす , 理想の学 プの経験学習論を参考にすると , これからの学びはどのようにあるべきでしようか。 理想の学習とは ? 生涯学習の理念や , ノールズのアンドラゴジー論やコル いう理念であり , 考え方であることが重要です。 さらに学びたい人のために B00kguide 佐藤ー子『現代社会教育学一一一生涯学習社会への道程』東洋館出版社 , 2006 年 フレイレ , P. / 小沢有作・楠原彰・柿沼秀雄・伊藤周訳『被抑圧者の教育学』 亜紀書房 , 1 979 年 ノールズ , M. / 堀薫夫・三輪建二監訳『成人教育の現代的実践ーーペダゴジ ーからアンドラゴジーへ』園書房 , 2002 年 5 学びの再考・ 171

7. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

☆ て読まれました。ロックは , 白紙 ( タブラ・ラーサ : tabula rasa : 蝋石板 ) のよう な状態で生まれてくる子どもの魂に , 経験をとおして観念や習慣を形成し , 健 康な精神と身体を鍛練し , 理性を磨くことによって , 自立した立派な紳士を形 成することを目的とした教育論を説きました。 はじめは何も書かれていないまっさらなタブラ・ラーサの上に , 教えるべき 文化価値が , 経験をとおして書き込まれていくというロックの考え方は , どの 子どもにも発達の可能性があることを示唆していますが , 経験さえあれば , 教 育によってどんな子どもも思いのままに育てられるという教育万能論に陥る危 険性もはらんでいました。 W ロ RK ⑧ 子どもの教育可能性をどうとらえればよいのか ? あなたは , 子どもの精神 をタブラ・ラーサに見立てて行われる教育について賛成ですか , それとも反対ですか。 その理由も明らかにして話し合ってみてください。 リペラル・アーツ この時代 , 有産階級の子どもたちの多くは , 伝統あるラテン語学校から大学 へと進学していきました。そのエリート教育の過程では , 当時 , 実践的な知識 や学問の基礎となると考えられていた , 文法 , 修辞学 , 論理学 , 算術 , 幾何 , 天文学 , 音楽のような教養 ( リべラル・アーツ ) が教えられていました。学校や 家庭において , 次世代に継承すべき教育内容の精選は進みましたが , その教え 方 ( 教育方法 ) は , きわめて権威的で , 管理的な色彩が強いものだったと考え られています。次の挿絵は , 中世のラテン語学校の風景に関する想像図ですが , 教師の脇には , 体罰に用いる「木の枝」がおいてあります ( ハリスン , 1996 ) 。 民衆のなかには , 成立しはじめた近代の学校制度に , 教育を受ける機会を見 いだそうとする者もありましたが , それは , 当時の社会状況のなかでは , 決し note ☆、 'tabula 「 asa" の原義はラテン語で「磨いた板」という意味です。タブラ・ラーサの思想は古く , プラ トンやアリストテレスの著作にもみられ , 教えとその方法の 1 つの原型となるイメージになっています。 ☆当時 , これらは自由 7 科 ( セブン・リべラル・アーツ ) と呼ばれ , 哲学がこれらを統治すると考えられ ていました。リべラル・アーツの原義は「人を自由にする学問」という意味です。特にヨーロッパの大学 では , 中世以降 , リべラル・ア - ツは , 教授内容の基本的要素とみなされてきました。 ☆ 2 「教え方」を探究した人びと・ 49

8. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

であるべきですが , 未来を生きる世代が子育てや介護など世代間関係の問題を 含む家族・家庭のあり方 , ワークライフバランスなどの働き方の問題 , 男女の 関係のあり方 , 性の問題などを学習することは必要でしよう。ジェンダーにか かわる問題は , 私たちの身近にもたくさんあります。すでに , 家庭科や保健体 育科だけでなく , 社会 , 理科 , 国語 , 総合的な学習を使って , 子どもたちのジ ェンダーに関する深い学びを成立させている実践は少なくありません。 道徳や特別活動は何のためにあるの ? 印凵 E S T ーロ N 「学校では何を学ぶの ? 」と問われると , つい国語や算数などの教科や総合的な学 習のことばかり考えてしまいがちです。でも , 時間割表には , 道徳や特別活動の時間 もあります。こうした教科以外の教育課程では , 何を学ぶのでしようか。いったい , 何のためにあるのでしようか。 道徳性の発達 道徳教育の目的は , 子どもたちの道徳性の発達にあるといえるでしよう。し かし , そもそも , この道徳性をどうとらえるかということがたいへんに難しい もので , いろいろな考え方があります。 たとえば , アメリカの心理学者コールバーグ (Lawrence KohIberg, 1927 ー 87 年 ) は , 道徳性をものごとの善悪にかかわる判断や行動の基準ととらえました。そ して , ①行動の結果もたらされる報酬や罰にもとづく「前習慣的段階」 , ②他 者への配慮や社会的規範 , 法律などにもとづく「習慣的段階」 , ③個人に内面 化された原理にもとづく「脱習慣的段階」という順を経て道徳性は発達すると いう理論を唱えました。このコールバーグの理論は , 1970 年代くらいまで広 く支持されましたが , やがて , 善悪の判断に重きを置きすぎている点に修正が 加えられるようになり , 現在では他者に対する配慮 , 思いやり , ケアといった ことも道徳性の重要な要素であると考えられるようになっています。 このような道徳性の発達につながる学習は , 教科や総合的な学習の時間でも 道徳や特別活動は何のためにあるの ? ・ 113

9. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

ません。社会教育法 3 条にあるように , 「すべての国民が」生涯にわたって学 べるようにするためには , 国や地方自治体がしつかり環境整備の役割を担い続 けることも必要でしよう。 生涯学習社会といわれる現代だからこそ , 社会教育はもう必要ないと簡単に 切り捨てるのではなく , 歴史と現状をふまえて , その意味をあらためて考えて みることが求められているのではないでしようか。 社会教育はほんとうに要らない ? 自主的・主体的な学習を国や地方自治体 が「支援」することなどはできないのであり , 結局は「統制」にならざるをえないの でしようか。また , ほんとうに自主的な学習に対する専門的な見地からの支援は必要 ないのでしようか。もし , そのような学習支援が必要であるとすれば , その役割はだ れがどのように担うのがよいのでしようか。これらの問いについて , あなたはどう思 いますか。できれは , 他の人と話し合ってみましよう。 学びの再考 印凵 E 5 T ーロ N この章でこれまで学んできたように , 私たちの学習は学校を卒業したら終わりでは ありません。学びは生涯続きます。でも , 学び方も , すっと変わらす同じなのでしよ う力、。 W ロ R K ⑩ 成人の学習 人間はどう学習しているのか , 何をどう教えるのがよいかに関する体系的知 哉や科学を一般にペダゴジー (pedagogy) といいますが , 特に大人の学習に関 する科学をアンドラコジー (andragogy) と呼ぶことがあります。この区別の前 成人の学習は子どもの学習とは異なっているという考え方があります。 提には , 大人 , 成人という意味の adult と pedagogy の合成語であるアンドラゴジー ことばを広めたのは , アメリカの成人教育研究者ノールズ (MaIcolm という 1913-97 年 ) です。ノールズは , 人間のライフサイクルに即して学習 Knowles , の特徴に応じた支援がなされる必要があるとして , アンドラゴジーを「さまざ CHRPTER12 学校を卒業したら学ばなくてもよいのか ? 168 ・ 一三ロ

10. 問いからはじめる教育学 = EDUCATION BEGINNING WITH QUESTIONS

っただ中に投げ込まれるという面があります。 そのため , 個人が競争に勝ち抜くのに必要な能力を身につける手段としての 教育の意義はますます高まりますが , 同時にそうした能力は個人的所有物 ( 人 的資本 ) であるとする考え方が支持されるようになっています。教育を受ける ことを自分への投資と考え , 教育を市場で売買されるモノと同様にみなす傾向 , すなわち教育の商品化傾向が強まっているのです。 日本を含む先進諸国では , 国民国家の経済成長に伴って生じる大規模な社会 変動によって個人と家族が危機的な困窮状態に陥らないように , 社会保障制度 ( 社会的弱者を社会的に守る仕組み ) を整備してきました。しかし , 先進諸国経済 の基調が低成長もしくは不況へと転換した 1970 年代後半以降 , 生活に影響を 及ばす社会変動のリスクが大きくなりすぎ , 個人を保護する社会の力はもはや 限界に達したので , 自分は自分で守らなくてはならないとする「自己責任」論 が強く唱えられるようになりました。 個人や企業の競争を社会経済の発展に必要不可欠としながら , その競争に参 加する個人の能力発達 ( 教育と職業能力の訓練 ) と競争の結果個人が負うリスク ( 職を失ったり , 貧困に陥ったりすること ) に対する国家の責任を最小限に抑えよ うとする , このような考え方は , 「新自由主義」 ( ネオ・リべラリズム ) と呼ばれ ます。 家庭の経済力と学力 しかし , 子どもの教育に投資する家庭の能力 ( 経済力 , 親の学力・教育志向 , 子どもの教育にかけることができる時間と労力など ) には , もともと差があります。 特に弱い立場にあるのが , 経済的弱者です。 厚生労働省が 2014 年 7 月に発表した「国民生活基本調査」によれば , 日本 社会の相対的貧困率 ( 年間所得が全体の中央値の半分に満たない国民の割合 ) は 16.1 % であり , 統計をさかのばることができる 1985 年以降 , 最悪の数字とな りました。ちなみに , 2010 年における OECD 加盟 34 カ国の相対的貧困率の 平均値は 11.3 % であり , 日本は 2 番目に貧困世帯の占める割合が高い国とな っています。さらに , 一人親世帯の子どもに限れば , 54.6 % が相対的貧困と判 断される経済水準のもとで生活しており , これは OECD 加盟諸国のなかで最 4 教育と不平等・ 23