そこに人影がひとつ、蟹のように窓枠に手をかけ、はりついていた。見るとステテコにダボ シャツの丸坊主の男が女湯の中を覗き込んでいた。 ーー痴漢だ。覗き魔だ : と思い、男をよく見ると近所でも札つきのゴロで、女湯から洩れる灯りに男の刺青が浮かん でいた 私も弟も息を呑んだ。なにしろ十歳と六歳の少年である。 私たちは駆け出して家に戻り、台所に飛び込んで母親に告げた。 「大変だ。大変だよ。 x x 湯の高い窓に男がへばりついて女湯を覗いてるよ。ほら△△町の、 あのごんたくれだよ 私は事件の目撃者のように声を上げた。 母は、私と弟の顔をじっと見て言った。 「そう、覗いていたかね。それはよほどせんない事情があって、そうしてるのよ。早くタ飯を 食べなさい 私と弟はロをあんぐりさせて互いの顔を見合わせた。 これが、私が生まれて初めて耳にした、大人の事情であった。 よほどせんない ( 切ないでもいい ) 事情とは何なのだ ? 95 秋
仕事も何とか頑張っています。 と顔を突き合わせて語ってくれれば、それが本当に元気なのか、仕事が順調かは親にはわか る。子供を見てきた年数が違う。 この四、五年、独り暮らしの男のなす凶悪犯罪が目立つ。後で男たちの事情を知ると、共通 している点がひとつある。それは彼等が何年も実家に挨拶に帰っていないことだ。 実の親はテレビの取材に、子供の悪業を詫びながら、この数年、逢っていないと言う。 一人前の大人がなしたことを親にまで詫びさせるマスコミの報道のやり方にも腹が立つが、 親のことを考えない子供が増えているのも事実である。 父が亡くなる直前の正月、一人で庭をじっと眺めていることが多くなった父を心配し、母が 私に一一 = ロった。 「父さん、この頃、静かなので少し話しかけてあげてくれませんか 私は父のそばに座り、昔話やら、自分のことを話したが、父はうなずくだけでほとんど話を せき しようとしなかった。それが或る人の名前を出すと、堰を切ったように当時の話を語りはじ め、顔に生気が戻った。その時の母の喜びようはなかった。 家というものはさまざまな事情をかかえて正月を迎える。外から見る他人の目には本当の、 1 7 3 冬
私は返答のしようがなかった。 かくして二カ月後にの父は死んだ。 よくある話なんだろう。 三歳と一歳の子供を部屋に鍵をかけたまま放っておいた若い母親の事件を、マスコミはこぞ って書き立てる。風俗で働いていることを罪のように書くが、それは間違っている。 以前、歌舞伎町のビル火災の時の被害者に何人かの従業員と風俗嬢がいた。そこで働いたこ とがイケナイという論調があった。 風俗で働くことが悪いわけがない彼女たちも人の子であり、夢があり、何か目的、事情が あって働いている。私は健げだと思う。性の捌けロ、孤独の依る所は社会にとって必要だから こうして存在しているのだ。 自分のことを棚に上げて、正義を振りかざす輩を嘘つきと呼ぶ。 やから
しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや 記施にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だというこ とを私は後になって学んだ。 人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。 9
妻と死別した日のこと 「いろいろ事情があるんだろうよ : : : 」 大人はそういう言い方をする なぜか ? 人間一人が、この世を生き抜いていこうとすると、他人には話せぬ ( とても人には一言えない という表現でもい いが ) 事情をかかえるものだ。他人のかかえる事情は、当人以外の人には想 像がっかぬものがあると私は考えている。 五十年近く前の晩秋、私と弟は日が暮れそうな時刻まで二人でキャッチボールをしていた。 やがてポールが見えにくくなり、それでもキャッチボールを続けたかった私は同じ町内の銭湯 のそばの路地に場所を移した。そこは銭湯の高窓から灯りが道に洩れて、明るくなっていた。 一一人して路地に行くと、弟が急に立ち止まった。 「どうしたんだ ? 私が訊くと、弟は少しおびえた表情で銭湯の高窓を指さした。 平を
帽子を取り私に頭を下げて、 「ありがとうございます」 と目をしばたたかせて言った 私は救われたような気持ちになった。 今しがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。 あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかも しれない 私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などとい うものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。 あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ。そう感じたのだからま 父親との待ち合わせか、家に待っ ずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから : 人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない もう死 あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに んでしまった人の用事だ。今さら急いでも仕方あるまい という感情が働いたのかもしれない 97 秋
ウデモナインダガ ) 。 それでもひとっ間違うと生命の危険に晒されることは何度かあった。 旅というものはそういうものなのだ 当人がどれだけ注意していても災難の大半はむこうからやってくる。交通事故と同じだ。 スイスの登山鉄道、ユタ州の自動車事故と楽しいはずの海外旅行での悲劇が続いた 自動車事故の方はまだ原因がはっきりしないが、運転手の過労による運転が取り沙汰されて いる。同乗者の弁で、何度か車が右に左にゆれるように走ったと言う。 このことが事実だとしたら、なぜ誰かがその場ですぐに運転手に注意しなかったのか、それ が私には解せない 時々、私は遠出の時やゴルフで車を手配されることがある。その折、運転が危険だったり妙 に思えると即座に運転手に訊く 「君、疲れているのかねー ( いえ」 それで運転が直らなければ高速道路であろうが、山の中であろうが、 「君、車を止めなさい」 と言って下車し、タクシーなり別の交通手段を選ぶ。これがもう一一「四度あり、ロでは一言わ さら 2 1 春
母のそばにいるお手伝いに一言わせると、 「これで安眠なさいます」 となる ならば海外などへ行かなければいいのだが、私は私で残りの時間でやりたい仕事があり、そ のためには自分の目でたしかめたいものがいくつかあった。 エジプトでミイラを見ることも、スペインの巡礼の道を歩くこともそうであり、ポーランド のアウシュビッツを訪ねることもそうだった 行き帰りに母に連絡をする度に申し訳ない気がしたが、同時にそれが旅の警鐘となっていた のも事実だ 旅がひと区切りした時、旅日誌なるものを机の上に積んでみた。たいした量だった。 よく生きていたものだ : それが実感だった。 私が海外に出かけると不思議と飛行機事故やテロが勃発した。 そのニュースをテレビで見ると母はすぐに仙台の家人に電話を入れた 「お母さん、今はスペインですから、その事故は関係ありません」 その度に家人は返答し、危険なことをする人じゃありませんから、と言っていたらしい ( ソ
花見もそうだが、結婚式も多い 先日、東京の常宿で部屋からエレベーターに乗り込んだら、ウェディングドレスを着た花嫁 が一人きりでいた。ちいさなホテルの狭いエレベーターである。私は会釈して乗り込んだ。古 しエレベーターだからすぐに扉が閉まらないし、スビードも遅い これで三度目か、花嫁と二人っきりの密室は : この十数年、このホテルを使っていて、このケースはたしか三度目だった 普段は新郎、家族、もしくは付添いの女性がいる。何かの事情で一人で乗ったのだろう。忘 れものでもしたのか。 最初の時もそうだったが、花嫁と一一人に、私はどぎまぎしてしまった これは作家という職業の習性なのか、私という人間の、人生に対する考えが、そうなのか、 よ′、、わか、らたいか 今、この状況で : と妄想してしまう 「す、すみません」 花嫁が急に私に声をかけてくる。切羽詰まった声である。 「はあ、何か ?
だから正月の旅行というものを一度もしたことがない それが家の事情というものであり、それぞれ家族が引き受けるものだと考えている。 三年前、父が九十一歳で亡くなった。正月の松の内が明けてほどない冬の日だった。 次の正月は、母は淋しそうだった。 しかし母はその手のことはロにしない自分の感情を他人にも家族にも一言わないし、言った ことを一度も聞いた記憶がない そういう生き方をしてきた人である 最初は父の不機嫌と、母の辛さを思って正月の帰省をなかば自分に義務付けていたが、十 年、一一十年と続けて行くと、子供たちの、息子の様子を年の初めに自分の目でたしかめておき たいという父の気持ちが少しずつわかるようになってきた。親にとって子供は何歳になっても 子供である。 きちんと生きているのだろうか 何か憂いはないだろうか 本当に健康だろうか それを自分の目でたしかめたいのは親の心底にある愛情以外の何ものでもない 元気でやっています。 うれ 1 7 2