正月 - みる会図書館


検索対象: 大人の流儀
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1. 大人の流儀

正月、父と母と話す大切さ 私は正月を生家の、母のそばで過ごす。 三年前までは父も健在だったので、三人で過ごした。家人は一一匹の犬の移動が大変なので仙 台で彼等の面倒を見てもらう。まあ正月くらいは彼女にも休みを差し上げる方がよかろうとい う気持ちもある ( 力しがい大晦日の夕刻に着く 生家によこ、 二人立っている。 だから私は毎年、大晦日の午後は駅のプラットホームか空港のロビーに 一一十五年余り、それを続けている。 生前の父は、正月に子供たちの姿が一人でも欠けていると不機嫌になった。姉や妹が嫁いだ 後は私だけは必ず帰省した。 一度、私が帰らない正月があり、その年の正月の父の不機嫌は凄まじかったらしい。怒りは すべて母にむく。それを知ってから私は正月は家に帰り、父のそばにいるのが自分の役割と決 めた。黙ってそこに居て、父の酒の相手と、来客への挨拶をすればそれで済む。 1 7 1 冬

2. 大人の流儀

だから正月の旅行というものを一度もしたことがない それが家の事情というものであり、それぞれ家族が引き受けるものだと考えている。 三年前、父が九十一歳で亡くなった。正月の松の内が明けてほどない冬の日だった。 次の正月は、母は淋しそうだった。 しかし母はその手のことはロにしない自分の感情を他人にも家族にも一言わないし、言った ことを一度も聞いた記憶がない そういう生き方をしてきた人である 最初は父の不機嫌と、母の辛さを思って正月の帰省をなかば自分に義務付けていたが、十 年、一一十年と続けて行くと、子供たちの、息子の様子を年の初めに自分の目でたしかめておき たいという父の気持ちが少しずつわかるようになってきた。親にとって子供は何歳になっても 子供である。 きちんと生きているのだろうか 何か憂いはないだろうか 本当に健康だろうか それを自分の目でたしかめたいのは親の心底にある愛情以外の何ものでもない 元気でやっています。 うれ 1 7 2

3. 大人の流儀

家族のこころの底は決して映ることはない。善きにつけ悪しきにつけ、それが家族であり、正 月は家族の姿が如実に出る数日である。 まだ二十代の頃、一人東京で正月を過ごさねばならぬ年があった。それを知って友人が家に 遊びに来ないかと誘ってくれた。 訪ねるといきなり家族での麻雀に入れさせられた。すぐそばで友人の姉と妹たちが双六をし ながら小銭をやりとりしていた。途中、トイレに立っと、開け放った離れの部屋で友人の祖母 さんと母親が間に座蒲団を敷き、花札を真剣な目で引き打ちしていた。 どういう家族なんだ ? いろんな家族の正月の風景がある。 1 7 4

4. 大人の流儀

大阪の宿から会場にむかっていて、ここが作家の黒岩重吾さんの家に近いことがわかった。 そうとわかっていれば仏前に線香を上げに行ったのに、と思った。夫人にも挨拶ができ る。命日も近かった。 去年、和歌山にある黒岩さんの墓参に出かけた。海の見える美しい墓所だった 墓前で手を合わせると、 「伊集院、ちゃんとやっとるのか と声がしそうで緊張した 犬なんかもそうらしいが、最初に調教を受けたり、叱かられた人に対しては生きている限 緊張し、怖れを抱くそうだ。 本当に世話になった。 「黒岩さん、作家というのはどんな正月を送るもんですかね」 「阿呆一一 = ロうな。作家に盆も正月もあるか。書いて書いて死んで行くんや」 「は、はい ラジオ番組でインタビューを受けた。 久世光彦さんの特集だった。むけられたマイクに思ってることを話した 「この頃、久世さんを思い出すことが多くて、聞いてみたい、打ち明けてみたいことがあるん 169 冬

5. 大人の流儀

仕事も何とか頑張っています。 と顔を突き合わせて語ってくれれば、それが本当に元気なのか、仕事が順調かは親にはわか る。子供を見てきた年数が違う。 この四、五年、独り暮らしの男のなす凶悪犯罪が目立つ。後で男たちの事情を知ると、共通 している点がひとつある。それは彼等が何年も実家に挨拶に帰っていないことだ。 実の親はテレビの取材に、子供の悪業を詫びながら、この数年、逢っていないと言う。 一人前の大人がなしたことを親にまで詫びさせるマスコミの報道のやり方にも腹が立つが、 親のことを考えない子供が増えているのも事実である。 父が亡くなる直前の正月、一人で庭をじっと眺めていることが多くなった父を心配し、母が 私に一一 = ロった。 「父さん、この頃、静かなので少し話しかけてあげてくれませんか 私は父のそばに座り、昔話やら、自分のことを話したが、父はうなずくだけでほとんど話を せき しようとしなかった。それが或る人の名前を出すと、堰を切ったように当時の話を語りはじ め、顔に生気が戻った。その時の母の喜びようはなかった。 家というものはさまざまな事情をかかえて正月を迎える。外から見る他人の目には本当の、 1 7 3 冬

6. 大人の流儀

ひとつのリンゴをテープルに置き、同じ照明、同じカメラでプロとアマチュアがシャッター を押す。プロが撮ったものは歴然と違う。なぜか ? 理由はひとつ、プロだからだ ( 一流のプ ロカメラマンのことですぞ。この頃、プロの基準が甘いから ) 。 プロと一言えば、作家の黒岩重吾さんは作家の先輩の中でも " 怖い先輩。としては一、二だっ た。作品もそうだが、風貌が凜として気安く話などできなかった。編集者でも怒鳴られた経験 のある人は多かった。生前、私はなぜか親しくさせて頂いた。九州、小倉の競輪でスッカラカ ンになり、東京までの電車賃はなし、ようやく大阪に迪り着き、駅から、先生、やられまし 飯と酒を少々、と電話すると、この阿呆が、あと二時間で仕事の切りがつく、 x x で飯を 喰っとれ、となる。あとは黒岩さんの馴染みのバーで一杯やっていれば、布い目がドアを開 け、昔話や艷つばい話を聞きながらほろ酔う。 或る時、家族思いで有名な黒岩さんに盆、正月の過ごし方を訊いたことがあった。 「馬鹿者、作家に盆も正月もあるか。そん時、働かんでいっ働くんや」 た 0 んだ、 ? て - フい - っこレ」か 「盆は恩師、先輩の墓に行け。それを欠かしたらあかん」 今春、私は和歌山に黒岩さんの七回忌に出かけた。墓参が果せていなかった。 つや

7. 大人の流儀

「ゆとり」が大人をダメにする 月曜日の午前中、少しばかり用事があって東京の事務所に連絡を入れた。 何度呼び出しても応答がない 皆死に絶えたか ? 念のためカレンダーを見ると旗日 ( 祝日 ) であった。三連休に気付かなかった。 もっとも作家という仕事には祝日も、盆も正月もないただ書くだけだ。 また三連休か っし休みが多過ぎないか 不況、不況って騒いでるのなら、 〃私共、休み返上して働きます〃 と世間なり国にむかって宣一言する会社や地域があってもいいんじゃないか 私は週休二日制になったあたりから日本の経済や日本人の労働に対する考えに歪みが出はじ めたと思っている。 0

8. 大人の流儀

妻と死別した日のこと 生まれた -= 地、暮らしている上地 命をかけて守るべきもの 自分さえよければいい人たち 企業の真の財産は社員である 料理店と職人に一言申す 松井秀喜が教えてくれた店 大人の身だしなみについて 人間は誰にも運、不運がある 愛する人との別れ、妻・夏目雅子と暮らした日々新 大人にも妄想が必要だ 女は不良の男が好きなんだよ 生きることに意味を求めるな 下町の大人にはこれがある 大人の仲間人りをする君たちへ 大人のラブレターの流儀 贈り物と礼節について 大人が界儀で見せる顔 正月、父と母と話す大切さ

9. 大人の流儀

強いチームなのだ : ひそかに期待していたら新聞のスポーツ欄のちいさな試合結果を見ると着実に勝ち進んでい た。そうして決勝まできた 一分毎にかわる試合経過を見ていた。一回裏に先制点、五回に追加点で 2 対 o で五回を終え た。しかし六回表に 2 点入れられ同点、九回裏のチャンスを逃がし延長戦になった。十回表に 1 点を取られ、その裏ランナー二塁で打者の打ったライナーが野手の正面をつきゲームセッ 残念だが、よくやった。選手と監督、マネージャー、お疲れさん。 四十数年前の夏、私も山口地方大会のグラウンドにいた。」 前年の秋季大会の決勝リーグに進 出し、早鞆高校に 1 対 o で敗れた。甲子園に手が届くところだった。 懐かしいナ : それにしても一年で休みの日が正月の元旦の一日しかなくとも辛いと思わなかったし、真夏 のグラウンドで十時間近く練習しても平気だったのだから驚く。 しかも水を一滴も飲ましてもらえなかった。これが身体に悪いとは、あの頃の指導者が誰一 人知らなかったのだ。ぶたれるワ、尻をバットで叩かれるワ、あれはいったい何だったのだろ うか。今思えば笑い話だが、当人は真剣だった。 はや A 」・し

10. 大人の流儀

一九八五年の二月に入院して、梅雨に入る頃に不平は一度も口にしませんでした。私でしたらと は一一度目 ( よく覚えていませんが ) のアタックに入てもじゃありませんが点滴を外して外に飛び出し り、冶療中は無菌室をセッティングするようになていたでしようね。よく耐えたと思います そうできたのは当人の強靱な意志でしようが、 りました。少しずつ強い薬を使うようになり、ア タック直後からの白血球が零状態の時の感染症が同時に私が仕事を休止して付き添っていたこと 々 一番危険なので、菌の侵入の防止のためです。私で、頑張らなくてはと思ったのではと後になって 思いました。数日くらいは病院を飛び出して、 も消毒した衣服で入室していました。 雨の多い五、六月でした。病院の裏手の焼却炉「何が治療だーという気分で好きな場所で思い切 のそばで軒先から滴る雨垂れを見ながら煙草を吸りやりたいことをさせてやるべきだったのではと雅 目 っていた記億があります。病院での日々というの思います。その海みは〃生還〃にこだわり過ぎた夏 はこちらも神経が昂っていますから普通の日々よ私の誤ちではなかったかと思っています。 私には " 生きる〃ということが何なのか、まる り速く時間が過ぎたように思います。ただ当人は 退屈する時もありましたが、マスコミのこともあっきりわかっていなかったんですね。若かったこの ともあるでしようが、それ以上につまらない観念人 り散歩に出してやることもできず可哀相でした。 す にこだわっていました 性格が明るい上に、向上性というか、物事に興味 愛 を抱くとそれを実際に見てわかろうとするので病 室での日々には不満はあったと思いますが、でも