バイオテクノロジーの一つとして、染生 ) を応用し、生存能力のある雌性発生 0 高齢者 色体の倍数化が、アユやヒラメなどで実 の子をつくりあげる試みは、新しい品種 験的に進められ、成熟の抑制により増肉 をつくる期間が著しく短縮される利点が 効果を高めることがわかってきた。受精ある。海水魚では、雌性発生をうまく利 卵の温度処理または加圧により、容易に 用することで思いがけない成果が期待さ い ) や 三倍体が得られる点で育種 ( の期待が大れよう。これから二一世紀にかけて、四。「 0 00 0 の きい。また、精子に紫外線を照射して雄億年以上もかけて自然がつくり出した魚 の染色体を遺伝的に不活性化させ、同時より、一段と優れた品種が育成されるに に雌の染色体を倍化する方法 ( 雌性発違いない。 交番の数ほど車椅子トイレを , 福祉のまちづくりをおもしろくする方法 フジ三太郎氏と私 「福祉」を『国語大辞典』 ( 小学館 ) で ひくと「幸福」とある。だから、「福祉 のまちづくり」とは人々を幸福にする街 をつくることになる。しかし、 いまの世 の中、障害児殺しや車内暴力、国鉄ロー カル線廃止など反福祉のことが多いだ から、私は法を活用する。法と 日比野正巳 上を 日比野正巳ひびの・まさみ一九四八年 ( 昭和 新 6 一一三 ) 名古屋市生まれ。七〇年名古屋大学工学部 建築学科を卒業。京都大学と名古屋大学の大学院 を経て、現在、長崎総合科学大学工学部建築学科 助教授。専攻は都市計画。著書に气「学生時代」 様の自動車」 ( 一九八五年四月六日付け ) 倍おもしろくする方法」を学生に書か 熱中宣言」 ( 講談社 ) 、「福祉のまちづくり』 ( 水曜 社 ) 、「パス輸送改善資料集成』 ( 編、運輸経済研 もそうであろう。「乗りやすいドア」に せ、そのいくつかを実行する。たとえば 究センター ) はかがあり、障害者住宅の設計も手 するため、片開き戸ではなく引き戸 ( ス 「住居学体操」とあれば、講義の始めに、 がけている。「日本大百科全書しでは「身体障害 者と交通問題」「点字プロック」を執筆。 ライディング・ドア ) にしてある。これ家を書くように全員で体操する ( 拙著 は住宅でもいえることで、車椅子使用者『「学生時代」熱中宣言』参照 ) 。 は、あの法 ( 川喜田二郎氏が創始し や老人には段差のない引き戸が適してい 一〇倍法は学内だけでなく、外でも試 た情報処理・発想法 ) のまねで、私なり る。あるいは、「駅の長い階段を楽しみ みる。第一六回全国ボランティア研究集 の知的生活の方法をいうのだが、「ほ ; ながら登る方法」 ( 八五年二月七日付け ) 会 ( 八五年二月、山口県 ) の「障害者が もあったりして、おもしろい らかでまじめ」という意味もある。 地域で生きるーー地域での自立の条件」 ほがらかになるためには、マンガが役 というテーマの分科会に助一 = ロ者として参 一〇倍法テスト にたつ。私は『朝日新聞』朝刊連載の 加したときもそうである。分科会のまと 「フジ三太郎」を毎日見せてもらうが、 マンガを楽しむだけでなく、機会をみ めをしたあと、先のテーマに文字を付け そこには作者の福祉時代を見つめる眼を つけては法を実行している。たとえ 加えて問題を出した。 「障害者が地 感じることがある。たとえば「高齢者仕ば、私も大学教師なので、「講義を一〇域で〈一〇倍楽しく〉生きる〈方法〉」。 ヤキ わかリやすい目盛り 1985 年 4 月 6 日付け
であった。そのときの成果がのちに彼の 著『沖縄産植物総目録』 ( 一九一一四 ) となる。 その序文に、行を共にした採集の思い出 のくだりがある。文を現代仮名遣いに、 また多少改めて記す。 「 : : : 本島は、北は辺戸の岬から南は喜 いりおもて 天野鉄夫 ( 一九一一一 屋武の岬まで : : : 宮古、石垣、西表、 ー会 ) は沖縄県国頭郡 はてる きんじよう 与那国とおもな島々を巡り尽くし、波照 に生まれ、旧姓名を金城鉄郎と名のり、 う - スばるく ) まくら 間岳の露営、上原の草枕と、博士はず県立農林学校 ( 前身は国頭農学校 ) 在学 いぶん悪戦苦闘の限り困苦欠乏の極をな 中から植物採集を始め、その採集品の大 部分を京都大学に送った。田川はその労 められ、ヤマビルの攻撃、・フョの侵害、 ことにマラリア病をもって人の恐れる西を多として『植物分類地理』 ( 九巻こ三 、まに至 表島にあっては死を決して : 一九四 0 年 ) 誌で、「琉球フロラ研究は、 って過ぎにし旅を思いたどると感慨無量近年多和田真淳、金城鉄郎、高嶺英一一一口、 平良芳久諸氏の努力によって大いに進歩 しだ したが、特に羊歯は多和田・金城両氏に 現在でも西表の山地での採集にはかな りの困難を伴うが、当時にあっては想像負うところが多い」と述べている。天野 の戦前戦後の、高嶺の戦後の採集品は、 を絶するものがあったであろう。明治の さくよう 人々の気概をここにみる。彼の目録は沖琉球大学の胎葉室に収められている。と 縄の植物研究に一時代を画したもので、 くに天野の標本は田川が引用したものの 好評をもって迎えられた。沖縄在勤中に 重複品や、 Walker 2 ミミミ of Oki ミき しゆり 首里で夫人を失っており、序文には夫人 and 、 S 。ミこ Ry ケミ ls ~ を斗当 ( 197 への献辞に「四児を残してギリーチ原の 6 ) に引用されたものが多数含まれてお 煙と消えた妻は、身寄りのないこの沖縄り、たいへんに貴重なものである。ま た、ウォーカーのこの著書の基盤になっ で私を励まし、かつは慰め、私の研究を 助けてくれたが、ついに犠牲となってく たのは、在琉研究者の園原咲也・多和田 かくしてできたこの れたのです : 真淳・天野鉄夫共著『沖縄植物誌』 ( ウ オーカー編、英文・謄写版、一九五一 I) であ 書、これを亡き妻の霊に捧げて、ありし る。在琉研究者が総力を結集して目ざし 昔の労に報いる」と書いている。 ていた、坂口の『沖縄産植物総目録』を 小泉の来琉を契機に、在琉の研究者た ざせつ 超える出版で、これは戦争で一時挫折し ちは採集品を京都大学に送るようになっ たが、ここにきてやっと結実する た。これらの標本は、小泉およびその門 じさぶろう 天野は豪放磊落でかっ細心、徹底して 下の大井次三郎、田川基二らによって研 ィ一ィ一 ら 究され、新種、新記録種が続々と発表さ れるようになり、琉球列島の植物相の解 明は一段と進展した。京都大学との交流 があった人々のうちの一人を次に紹介す る。 291 小事典 の窓 多彩なヨーロッパ 項目「窓」は、本巻行ページにあります。 向田直幹 かって『アメリカの窓』 ( 一九公 l) とい しい異国での最初の冬が哀しく予感され う本を小学館から上梓した際、作家の五 た。ホテルの窓から見える街の窓も閉じ 木寛之さんに推薦文をいただいた。それ られていることが多くなり、楽しく明る は「異文化への通路として」と題されて かった夏が遠のいていくのが確実に感じ られた。 次のような書き出しで始まっている。 「目は心の窓である、という。その言葉 そんなころ、私にとってヨーロッパの を裏返せば、窓は心の奥底を映す目であ人々の生活を知り、窓と対話できるの る、ともいえる。そして、ヨーロッパ文は、キャフェのテラスに腰をおろしてコ 明における窓は、常にその文明の隠され ーヒーを飲むひと時であり、公園のべン た底部をかいま見ることのできる精神の チでばんやり過ごすひと時であった。目 通路とも考えられるだろう」と。 の前に展開される街並みを見ながら、そ の窓を通して、間接的に人々と対話する 窓との対話から始まって : ことをおばえ、窓は私にとって、ヨーロ 二五年前、私の海外生活は窓との対話 ハの人々の心を表すシンポルとなっ によって始まったといっても過言ではな た。そうして、窓を眺めていると、窓に し初めてヨーロッパ の土を踏んだの もさまざまな色や形があり、その多様性 は、まだ海外旅行が自由化される前で、 と、窓に対する自分自身の気持ちを表現 ハリやロンドンなどの大都会以外では、 するために、窓の写真を撮り始めた。パ めったに日本人の旅行者に出会うことは リの窓からスタートした私の窓のコレク よかった。最初はパリはモン。ハルナスの ションは、私の行動半径の拡大ととも 安ホテルに滞在し、フランス国内と、近 に、ヨーロッパ全体からアメリカにも及 隣のベルギーやオランダに車で小旅行に び、その結果が「ヨーロッパ の窓』と、 前記の『アメリカの窓』の二冊の本にま 出かけ、だんだんと行動半径をひろげて でなったのである。 しオノリではモンパルナスに集まる 日本人を中、いに、友だちもでき、貧しか 窓は、人々の心を表すシンポル ったが楽しい日々であった。 ことわぎ 「目はロほどにものをいい」という諺が ハリの市街を初めて目にしたのは四月 であったが、やがて夏が過ぎ、秋になっ あるが、窓は建物の目に相当すると思 リでま、 た。日本に比べて緯度の高いノ う。人物写真を撮るとき、目の動きをキ ャッチするのがコツである。語りかける 秋は瞬くうちに過ぎ去ってしまう。やが てパリの秋はいっそう深まって、もの寂 目、やさしい目、毅然とした目、それぞ
こうして、古くて、新しい課題で 一方、末来の課題として、日本で ある利雪をめぐって「利雪文明」さ は利雪の時代を迎えようとしている え構想することができると、『学鐙』 のは、冒頭に述べたとおりだが、リ 禾 ( 一九八六年一月号 ) に書いたとこ 雪というと、積雪地域の問題だと思 ろ、それが『朝日新聞』の「天声人 植物遺伝資源収集保存の重要性がとり おらが自慢のカキの木は消えて われがちだが、 実は、そうではな 」 ( 同年一月九日 ) に取り上げら ざたされ、あるいはセンセーショナル に、またあるいは地味に新聞やテレビな れた。 「村祭のころ ( 九月下旬 ) には思いもよ 2 雪とは関係がなさそうな所で、 どに散見するようになってから二〇年に らす、霜の降るころ ( 十月下旬 ) になっ すでに利雪が実用化されているの 私が、「利雪文明は実現するか、 なろうとしている。日本の対応は出遅れ ても甘味の中に渋が残って食べられな を、これも最近に知ってびつくりし どうか、わからない。わからないか たとはいえ、関係各省庁諸機関の精力的 いまは植えかえられてなくなった ら、やめようと思うか、それとも逆 な取り組みによって、たしかにその面の が、先年まで庭先にあって子供のころに 東京のド真中、銀座にあるデパ に、わからないからこそ、挑戦しょ事業は実務面でも研究面でも大きな前進食べたカキの木は、 いまはどこにも残 をみた。 トの冷房が氷によって行われている うと思うか、そこに積雪地域が二一 っていない。惜しいことをした・ : 」。子 「植物遺伝資源は万国共通の宝」という 供のころだった。そのカキの実は五、六 のである。安い深夜電力を利用して世紀の魅力的存在になるか、どう 国際植物遺伝資源理事会 (lnternational 粒の種子をもち、それほど大きな果実で 夜の間に氷をつくり、それが融ける 力、がかかっている」と書いたの Board for Plant Genetic Resources. 。なカたが、甘さは強く、一年・おきに に、共鳴してくれたのである。 時にうばう熱によって館内を冷房す 略称の理念のもとに、筆者枝もたわわに実をつけて、訪れの早い伊 みの るシステムである。東京電力が開発 こんな挑戦の可能性こそ、利雪の も関連分野の仕事に携わってきた。その那谷の稔りの秋を楽しませてくれた。新 した方法で、「氷蓄熱」とよばれて 最大の魅力である、と私は思ってい 、国の内外の多くの機関や村々を訪 たに植えられたそのカキの木は甘さを発 ね、限りない協力をいただくとともに、 現することができなくて、いま悲しんで る。 いる技術だが、利雪も経済的になり 受けた感銘も多い。ここに数例を記し、 たつのは、やはり付加価値の高い東 ふゅう 甘くて大果の富有や次郎柿がこの地方 あらためて植物遺伝資源収集保存の今日 京か、といささか廡然たる思いがし を考えるよすがとしたい。 に知れわたったのは第二次世界大戦後の アメリカでは利雪の技術として行わないではない。それに、「氷で冷房 れているが、中国では、二千年も前 しています」とい , っと、クリーンな 、単純な作業ながら同じような利 イメージがあって若いギャルに平«¯ というのだから、なおさら 雪を目ざした技術が存在したことは 驚きであり、利雪に関する視野が広東京らしい利雪である。 がる田いがする 余話・植物遺伝資源探索 特徴ある品種を守る各国の努力 飯塚宗夫 飯塚宗夫 いいづか・むねお一九二二年 ( 大正 一一 ) 長野県生まれ。京都大学農学部農林生物学 科卒業。京都大学食糧科学研究所、農林省果樹試 験場、千葉大学園芸学部教授を経て浜松市フラワ ーク公社公園長。植物の遺伝・育種、作物の 起源と進化などの研究に従事。国際植物遺伝資源 理事会理事、同顧問歴任。中・南米、南・東南ア ジアの植物遺伝資源探索収集と保護にあたる。著 書に司植物遺伝資源をめぐる諸問題』 ( 養賢堂 ) ほ か。「日本大百科全書』では果樹類の編集委員。
0 日本大百科全書 ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 0 月報 コ笊ニカ通信 1987 年 9 月 第 17 巻・第 17 号 のばる餓死と、それ以上の人々が故国を すて、他国に移住することを余儀なくさ れた。また近くは、一九七〇年に、アメ リカにおけるハイ。フリッド・コーンのゴ マ葉枯病による壊滅的な打撃により招来 された世界的経済恐慌など、多くの食糧 上の危機が訪れた。これらはいすれも限 られた系統から育成された品種に大きく 依存した結果、招来された破局の典型で ある。病原菌に対する研究は常に行われ てはいるが、病原菌も長年の間には突然 変異などによって、新しい型の病原菌が 新生するのであって、恒久的に抵抗性を もっ品種は存在しないことは自明のこと である。したがって、いすれの大凶作も はじめに 遺伝資源とは 破局を招く限定品種への依存 突発的に起こる特徴をもっていたのであ ヨーロッヾ る。ジャガイモの場合も、 遺伝資源の確保の必要性が識者の間で 近年、遺伝資源の問題が提起されてき のものは一六世紀にイギリスがカリブ海 強調されたのは、けっして新しいことで たが、かならずしも正しい認識がなされ はない。その発端は文明の進展に伴う土沿岸から収集した一系統より育成された ていない節がある。以下に、筆者の研究 品種群に依存していた。トウモロコシの 地の開発が、自然植物資源の消失として 対象である「植物の遺伝資源」について 見解を述べる。遺伝資源は生物資源、ま現れたことから、遺伝子の補給源として場合も、限られた系統間の雑種組合わせ を長年の間用いてきた結果である。その たは資源生物と混同されがちである。生野生種の重要性を説く方面から提言され た。栽培植物の起源に関与した祖先野生ような歴史的教訓があるにもかかわら 物資源、または資源生物とは、木材のよ ず、作物の限定品種による栽培の傾向は うに人類に有用なもので、生物全体が直種はまだまだ多くの有用形質をもっ可能 性が多い。しかし、現実は、経済的生産世界的規模で進行している。 接的に利用可能な生物的資材をいう。一 この現象に拍車をかけたのは、「緑の 方、遺伝資源とは、かならすしもそのも 性の追及などから限定品種依存による遺 革命」とよばれるもので、世界的規模で 伝資源の画一化が進められ、それによっ のが直接的に利用されるとは限らない 特定の品種が普及した。その結果、各地 て各地域の在来品種は消滅の傾向をたど が、耐塩性に関与する遺伝子のように、 った。このような、限定品種による依存域の在来品種は絶滅に追い込まれ、とく 有用形質を提供できるか、またはその可 に遺伝資源の補給源の役割を演じていた がいかに危険な末路をたどるかは、幾多 能性をもつものをいう。つまり、遺伝資 それそれの栽培植物の遺伝的多様性の中 の歴史的教訓がある。たとえば一八四〇 源とは、「ある種の遺伝的特性をもった 心地域ーーそれぞれの栽培植物の起源地 年にアイルランドのジャガイモの疫病は 生物体 ( 多くの場合種子 ) 」のことをい 大凶作を招き、その結果二〇〇万人にも域ーーーまでも限定品種によって占められ うのである。 植物遺伝資源の保存と現状 新たな視点からの見直し 田中正武 田中正武たなか・まさたけ 一九二〇年 ( 大正 九 ) 台湾・台北市生まれ。四七年 ( 昭和二二 ) 京 都大学農学部農林生物科卒業。七三年京都大学農 学部附属植物生殖質研究施設長を経て、京都大学 名誉教授。現在 ( 財 ) 木原記念横浜生命科学振興 財団常務理事。遺伝学および栽培植物起源学専 攻。一〇回に及ぶ中近東・中南米遺伝資源探索 行、とくにコムギおよびその近縁野生種の収集 で、国際的に活躍。「日本大百科全書』では多く の栽培植物名項目で「起源と伝播」につき執筆。
コ 集 つまりコムギ、イネ、トウモロコシの三 食糧、地域的特殊性、 3 新開発または で つである。これらの作物は全世界の広地基礎的研究の進展のための三つに大別で 市 きる。 オ種域に適応性を有し、また、人類によって イロロ もっとも品種改良が進み、その成果をあ 国際的役割も高い デ来 ン在 わが国の遺伝資源研究 げてきた。しかし、これらの作物はもっ イの ロ とも「緑の革命」の集中を受け、限定品 わが国の遺伝資源の実態がいかにも貧 対モ種が世界的規模で普及し、その結果、各弱で、世界各国に比べてかなり遅れてい デウ ザ生 ント の野 地域の在来品種が急速に消失し、遺伝的るとの言論と報道が社会的に支配してい クの 一フギ 央 画一性が進行している種類でもある。し るが、はたして貧弱であるかという問題 たがって、在来種の確保と、それらの近 にふれておく必要がある。植物遺伝資源 た。在来品種の消滅は、変異性の消失と といわれており、これらの人々の食糧を縁野生種の収集を積極的に実施すること の探索・収集の重要性に関する提言では なって莫大な遺伝子の消失を意味する。 まかなうには、現在の食糧生産の約六〇 がきわめて重要である。第二の対象は、 国際的にもわが国は主導的立場にあっ 以上、遺伝資源の画一性とそれに伴う % 増が必要とされている。しかし、耕作 地域的な特殊性をもっ作物である。第一 た。国際的な遺伝資源の探索・収集・保 遺伝資源の消失の現状は、人類の「食の可能地には限界があり、食糧生産量の増 の対象とされた主要三大作物は、地域に 存・利用を推進する機関として、 歴史」において経験したことのない憂慮大にも限界がある。しかも、さきにみた よってはかならずしも十分な自給の体制 ( 国際植物遺伝資源委員会 ) が発足 すべき事態といえる。 がとりえない ように、遺伝資源の画一性と消失は急速 しかも、しばしば国際的したのは一九七四年であるが、わが国は に進もうとしており、この結果、かって な流通機構が何らかの事情で悪化した場 これに先だって七一年に京都大学農学部 2 新たな視点に立った遺伝資源の研究 経験した世界的な大凶作が起こらないと 合、食糧の供給が途絶する危険もはらん附属植物生殖質研究施設が発足し、野生 先史時代は一五〇〇種以上の野生種を い , っ保障はどこにもない でいる。したがって、主要三大作物以外種を中心とした植物遺伝資源の探索・収 食糧の対象として採集し、有史時代では このような予測される事態を回避する に、地域的な特殊性を活用した作物を確集を活発に実施した。とくに近縁種を含 採集から栽培化に入り、約五〇〇種が野 ため、筆者は、「新しい視点に立った遺保することが必要となってくる。たとえ むコムギ野生種の探索・収集活動は早く きはらひとし 生型から栽培型への転換に成功した。そ 伝資源の研究ーー探索・確保・保存」を ばわが国では、イネ以外にアワ、ソバな から進められ、木原均博士 ( 天九三ー の後、経済作物としての選択がもっとも 強く提唱しこ、。 オし以下に筆者の考えを述 どの雑穀類、北ヨーロッパではジャガイ 六 ) を隊長とする京都大学力ラコルム・ 進行したのが現代である。現在の栽培植 モ、熱帯地域ではイモ類、などである。 ヒンズークシ学術調査が行われたのは五 物は約八〇種、そのうち食糧の大部分は 筆者はかねてより、遺伝資源研究の対第三の対象は、時代的要求 ( バイオテク 五年である。この調査隊の木原均博士 三〇種に依存している。なかでも、コム 象とすべき植物を大きく三つのグループ ノロジーへの利用など ) や、特定の利用 ノンコムギの一つの祖先種であるタ ギ、イネ、トウモロコシの三つは人間の 目的 ( 品種改良など ) に応えるためのも に分けている。 ルホコムギの主要分布地域を調査した。 穀物消費量の七四 % 以上に達する。 ます第一の対象は、人類の食物史上少 のである。それは栽培化が進んでいな収集されたタルホコムギはパンコムギの 世界の人口は現在五〇億で、今世紀末 なくとも一万年以上の実績と経済性をも 、自然界の植物ーー特定の野生種であ 直接利用可能な遺伝資源として、アメリ には六〇億を超えるといわれている。現ち、社会的評価に耐えてきた作物であ る。ここでは、遺伝的多様を豊富に確力は一七九点にも及ぶ全系統の分譲を強 在も一部の地域では深刻な食糧難に見舞る。それは、このような歴史的背景を考保することが重要である。 く要望した。その後、五五年に続い われており、このままでは、今世紀末に えるとき、食糧確保にもっとも重要な役 以上、二一世紀に託する植物遺伝資源回以上、西南アジア地域を中心とした調 として確保すべきものは、①世界的主要査が筆者らによって実施された。これら は飢えに苦しむ人はおよそ六億に達する 割を果たしてきた世界的に主要な作物、 を 01 、ツ
台一かっこ。しかし、なにはともあれ ~ 賚殖 ろも多い、一方、ケルン市のように市の プリの生殖腺の発達状態を知ることが先 交通混雑のひどい地域は、路面電車を浅 決で、一年目にはそちらへ研究の主眼が く掘った簡単な地下鉄路線に入れ、運転 向けられた。 速度を上げて渋滞なく走らせている。 二年以上にわたって養殖した体重数キ。 ◇公共資産としての鉄道と市民 グラム以上の雄プリでは、三 ~ 五月にか 落合明おちあい・あきら一九二三年 ( 大正 けて成熟した精子をもっことがわかっ ドイツの鉄道も最初は選帝侯が州民の 一一 l) 三重県生まれ。京都大学農学部卒。京都大 学助教授を経て高知大学教授、愛媛大学大学院連 た。しかし、雌では卵巣は肥大するが小 ため、公共交通機関として敷設したもの 合農学研究科教授。魚類学・栽培漁業学専攻。日 さく、卵も良質でなくて、ホルモンを投 であった。市内電車も今日まで大切に保 本魚類学会、日本水産学会、動物分類学会の各評 与してもなかなか排卵しなかった。二、 存利用されているのは、先祖たちがつく 議員。底魚の分類、・フリ・アジ類などの生態研究 は著名。著書は「魚類学』 ( 恒星社厚生閣 ) 、『魚 三回続けてホルモンを注射しているう ったものは大切に利用しようという、ス 類生態学』 ( 蒼洋社 ) 、「土佐の魚たち』 ( 丸ノ内出 ち、一尾だけが排卵し、研究二年目でよ トックを尊重する城塞都市の市民意識が 版 ) のほか多数。「日本大百科全書』では、魚類 部門の編集委員として「魚類」ほか多数執筆。 うやく人工受精と孵化にこぎつけた。こ あるためだと思う。日本の場合はとくに のときの感動が、その後もプリと長くっ 戦後経済がフロー至上主義で、スクラッ き合う原動力となった。 として、ハマチ養殖に強い反対意見が出 プリやタイ、ヒラメなどの高級魚を地 プ・アンド・ビルドの高度経済成長を遂 それからモジャコの生産をほば軌道に げてきたのであるが、国全体としての公先の海で養殖する技術は、第二次世界大された。これに対してモジャコを人工的 に生産できないかということになり、以乗せるまでに、二〇年余りを費やしてし 3 共資産 ( ストック ) の充実改善の蓄積度戦後四〇年を費やしてほば完成した。そ まった。養殖プリの成熟期間は四月中ご 来、その研究に関与してきた。 れより少し遅れて、これらの子づくりの を眺めると、ヨーロッパ諸国に比べては ろから五月中ごろまでの短期間に限ら 当時、定置網に入った天然の産卵・フリ 技術が開発され、しだいに完成の域に近 るかに見劣りがしてならない を採捕し、これにホルモンを注射して人れ、水温が二〇度 0 を超えると急に生殖 それそれの国情にもよるが、市民の税づきつつある。今後は、よい品種を育て 腺が退縮してしまう。夏から翌春までは あげるとともに、効果的な海洋牧場の造 工成熟させ、熟卵をしばり出して精子を 金の使途についての十分な理解、つまり かけ合わせる方法は、すでに開発されて実験が不可能であり、反復実験による確 は、政治家の選び方など政治意識の成人成が切望されている。 実な基礎知見を知ることが容易でなかっ 確かに天然。フリを用いると採卵は イがいちばん問題なのかもしれない。交 養殖プリの稚魚づくりにニ〇年 容易であるが、適当な親プリが入手でき 通の側面だけをみてもいろいろ考えさせ それでも一年ごとに成熟や産卵に関す る場所は、日本でも二、三か所しかなか 私が魚づくりの研究を手がけてから、 られることが多い。これからの日本は道 る知見が蓄積された。依然として残され った。そこで、なんとかして養殖プリを かれこれ二〇年余りになる。当初、ハマ 路さえどんどん充実してくれればよい しぎよ た問題は、せつかく孵化した仔魚が、生 チ養殖は、つくる漁業として大きな脚光使ってモジャコをつくろうということに 私はマイカーでゆこう、貨物は宅配便が よっこ。 後一〇日ほどで大量に死亡してしまい を浴びた。食べて美味なうえ漁業に活力 やってくれる、というだけで果たしてよ ふどま モジャコに発育するまでの歩留りが著し もともと、・フリは日本の沿岸表層域を を与える点で大いに注目されたのであ いものであろうか。国土計画、都市計画 る。 く低いことである。発育初期に起こる大 適温を求めて大きく南北に回遊する習性 の中で総合的な公共交通機関の整備につ 量死亡は、孵化後三、四日目に外界の餌 がある。これを狭い網のなかで飼育した ところが、養殖用のプリ稚魚 ( モジャ いて、国や市の安全保障の立場で考慮し せいしよくせん を食べだすころから起こる栄養失調が大 コ ) を大量に採捕したので、定置網業者場合、まともに生殖腺が発達するかど オしかと田 5 , っ次第 てみる必要がありはしよ、 きな原因である。ほかの魚にもこの現象 うか疑問があり、むしろ悲観的な見方が からは大形プリの漁獲量が年々減少する である。 新技術にかける魚づくり 種苗生産から品種改良へ 1 落合明 えさ
一」年をシンポルにしているが、来世紀 意気に感じた二人の交流が、ここにみら れ、また採集に伴う苦心がしのばれて興 れる。 に出版される次の百科事典には、どんな味深く、胸を打つものがある。このこと ことが書かれているだろうか、楽しみな をすでに故人となられた人々について書 黒岩の功績を記念した学名や和名が、 ことである。 いてみることにする。以下の文章では敬琉球の植物にいくつか残されている。本 称を略する。 土とは人情・風俗も異なり、その時代に は陸上交通機関はなく、風土病、ハプの 黒岩恒 ( 一会〈 ー一九三 0 ) は土佐 ( 高知危険にもさらされ、採集は困難を極めた 県 ) の人。動物の専門家だったが、沖縄であろう。 まつむらじんぞう 県師範学校に在勤中、沖縄各地の植物を 一八九七年 ( 明治三〇 ) 、松村任三が 採集し、同郷で親交があった牧野富太郎 沖縄で採集したおりには国頭地方を案内 ー一九五七 ) に送った。その標本を基した。彼はまた、海藻も採集して岡村金 よろずちょうはう にして牧野は、『植物学雑誌』 ( 八巻】三七太郎に送っている。『萬朝報』の創始 者黒岩涙香は恒の弟である。 0 ー三七一一、四二ー四一七、一〈九四年。九巻こ ( ー一四、 黒岩の植物採集は、師範学校在職中が せんかく 三七九ー三全 主だったようである。その間、尖閣諸島 、一〈九五年。一〇巻【九ー一 一〈九六年 ) の動植物の調査も行った。現在の名護市 にあった国頭農学校の校長に転じてから 3 、題して「黒岩恒氏採集琉球植物」と いう記事を三年にわたって連載してい は、鋭意学校経営に努めて生徒に慕わ る。記事の冒頭に、その間の経緯を漢語 れ、また経済作物の導入にも力を入れ た。彼の晩年は一男二女をすべて亡く ここで琉球列島とは、奄美諸島、沖縄年表的なものが主である。いすれも記事調で書いており、これを書き直すと 「 : : : 黒岩恒 ( ひさし ) 君は自分と同郷し、夫人にも先だたれて寂しく不遇だっ 諸島、宮古列島、八重山列島をさすこと は詳細で遺漏はないと思われる。 きらたっ た。農学校の教え子たちが組織する黒岩 このような事清があって、それに加え で、明治三五年に郷里を去って遠く辺地 にする。この地域は、気候的には吉良竜 夫 ( 一九一九ー の琉球に行き、劣悪な気候風土条件を押恒先生功績顕彰会が出した『黒岩恒』 ( 一 ) 博士がいう温量示数が一 るような事実を私は何も持ち合わせてい して山地や渓谷を詳しく探り、同島の博九六九 ) に、その経歴と業績が詳しい ない。そこで、前記二書であまり触れら 八〇 ~ 二四〇の範囲にある亜熱帯に属す る。日本本土から訪れる人々は、この地 れていない裏話みたいなことを拾ってみ物学の発展を期している。琉球行きに際 坂口総一郎 ( 一公七ー一九六五 ) は和歌山の しての約束は、採集した植物の発表を託 の植物景観が本土のそれと著しく異なる されたことであった : 人。故郷で見た亜熱帯植物にあこがれ、 のに気がつくだろう。この特異的な植物 一九二〇年 ( 大正九 ) から二五年にかけ さらに文中に黒岩からの書簡を掲げて 琉球列島の植物相解明は、外来の人々 相の研究は、古くは本草学の時代から行 てその本場である沖縄県立一中に在職 おり、その内容は「 : : : 業務の余暇に採 の採集によるものもあり、またこの地に われてきた。その研究史を記述する試み し、各地を巡って精力的に採集した。お は、これまで初島住彦教授の『琉球植物定住した研究・採集家が、本土の専門家集し、琉球植物界の解明に努めたい : あなた りよく京都大学の小泉源一が一九二三年 私は喜んで貴方の採集人になろう」とあ に同定を請うことによってもなされた。 誌』所載の「琉球植物探検年表」や、天 に奄美を経て来琉し、三か月にも及ぶ採 る。彼は牧野の切なる要望を入れて来琉 この人々と本土の専門家との交流の跡を 野鉄夫氏の「沖縄県史』五巻所載の「植 し、採集することになったらしい。人生集には終始行を共にし、得るところが大 たどってみると、心暖まる友情が感じら 物学」の項にみられる。天野氏の記述も そうこの傾向が強まるだろう。百科事典 はその時代までの公知の知識のモニュメ ントにすぎす、知識はさらに時代ととも に動いてゆく。この百科全書は「二〇〇 琉球列島の植物相研究 研究史に足跡を残した人々 はっしま あまみ 島袋敬一 島袋敬一しまぶく・けい、 しち一九二七年 ( 昭 和二 ) 沖縄県生まれ。一九五七年琉球大学文理学 部卒業。一九六一年同文理学部講師。一九八二年 同理学部教授、現在に至る。琉球諸島の植物調査 を進め、琉球シダ植物目録“曰沖縄大百科事典ト に琉球列島のシダとマメ科植物を執筆。「日本大 百科全書』では、「アカギ」「ヒルギ」ほか多数の 項目を執筆 五六ー六 0 、六三ー、
の天上には、目をいからせ矛を握り、古 つくり、額を飾り、ろうそくをともし の壁はホー・チ・ミンの額に取り囲まれ れていることが多い。かっての中国での 典劇の将車のいでたちをした怖い神々 て、線香に火をつけた。真剣に拝む。と るようになったばかりではなく、帰国に 毛沢東像と同じく、国家・党への忠誠証 うわさ が、ベトナムにあだなす外国人をみつけ ってもなんといっていいかわからな際しては、噂を聞き伝えたベトナム人の 明であると思い、あまりいい感じはもっ だし、天罰を与えんものとひしめいてい ホー・チ・ミンは生前語学の天才友人諸君から、数多くのホー・チ・ミン ていなかった。しかし、このこと以来、 るのである。 で、英仏中露はおろか、タイ語の会話ま像の贈呈を受けた。現在、京都大学の研 ホー・チ・ミンは、かっての民族英雄た そのなかで、いかにやすつばい同情か でできたというが、日本語はだめだった 究室の壁を占領しているのは、そのとき ちがみな神になったように、いやその ら発した言葉とはいえ、「天に憎まれて らしい。やむをえすべトナム語の「南無 の一部である。かくて「神」としてのホ神々や大乗の仏たちの頂点にある存在と あみだぶつ いる」などとても許されることではな阿弥陀仏」を繰り返す。ちょっとわきを ・チ・ミンの御加護を受けて、ベトナ して、今なお天上から、その一生を通じ たた どの神に祟られたのかは知らない 見ると、そばで女中さんも手をあわせて ム滞在中、何度かのベトナム人との激論 て愛したベトナム人を、見守っているこ のろ が、なにかその恐るべき英雄神に呪われ にもかかわらず、これといった病気をす とを知った。いや多くの・ヘトナム人の心 もくとうささ こに、理いないと。 二人で奇妙な黙疇を捧げた後、「先生 ることなく終わった。 理のなかでは、ベトナム人は党や国家を 霊験あらたかな の病気はすぐ治る。なぜなら、先生がホ 媒介することなく、 ベトナム人の心に生きる いつも、直接、ホ ホー・チ・ミンの肖像画 ホー・チ・ミン ・チ・ミンを敬愛していることはだれ ・チ・ミンと向かい合い対話し続けて 翌朝、女中さんが出勤してくるのを待でも知っている」という。とたんに腹の ベトナム人の家には、祖先の位牌や仏 いるのではないかとさえ思う。ほんの少 って、以上の事情とわが考察を述べた 痛みが嘘のように消えた。以後、私の家像とともに、ホー・チ・ミンの像が祀ら しベトナムがわかった。 ほとんど私と年の違わない、独立と革命 の時代に生まれ、ホー・チ・ミンが未来 を託した六〇年代の子供たちである彼女 は、その時代の楽天主義を残していささ か笑い上戸の癖がある。腰を折って笑い と一 だし、それがいつまでも止まらない ころが、やがて、私が真剣なことを知る と、突然のように顔を緊張させる。こん な表情の変化は、ベトナム側の代表と公 的な談判をするときに相手が見せる「友 好的態度」と「原則的対応」との使い分 けの表情と同じである。「先生、ホー チ・ミンにお願いしな六、い」とい , つ。私 のベトナム語ではこれ以上、むずかしい 論議はできない レにか / 、、、トル・ショ ップに行って、数あるホー・チ・ミンの 肖像画のうち、もっとも高価な額を買っ てきた。・ 「へトナムの農家に倣って、棚を 〔上〕ベトナム国民の尊崇するホー・チ・ミン像を 製作する少女。クアンニン省 〔下〕イネの害虫を捕虫網で捕る農民たち。ホア・ スアン郊外の水田にて円 87 年 4 月 ー霻ー第 うそ まっ
0 日本大百科全書 ENCYCLOPEDIA NIPPONICA OI 0 月報 コ笊ニカ通信 1986 年 5 月 第 9 巻・第 9 号 る。この定義によれば、日本には城はあ っても、城郭はないことになる。また内 容的にいっても、「城は民をさかんにす るもの」という『説文』の解説は、日本 の城郭には適応しない。都市機能の面で いうならば、日本の城郭は支配下の領民 を保護するものではなく、威圧するもの である。町民の側からみると、この支配 者の横暴に反旗を翻してよさそうなもの を、「おらが領主の偉大さを示すもの」 として、町民や領民の自慢の種になって きた。ここに世界にまれな日本の城郭を 作りあげた原因がある。さらにいえば、 このような日本人の価値観やその上に咲 いた日本文化の精華を、若い日本人や外 能の相違によるものと思われる。近代化 規模の大小や技術の巧拙を問わなけれ 国人が、なかなか理解できないのも、や の波に洗われてしだいにその姿を消しつ ば、城郭はほとんど全世界の集落にある むをえないことといえよう。 つあるが、世界の多くの都市には、かっ といっても、過言でない。ごく簡単な柵 てその街を守った城郭の一部が残されて に見張り小屋を配置する程度のものか 居住地を守る中国の城郭 いる。小都市や田舎町では、かっての城 ら、二、三〇メートルの高さをもっ城壁 日本の城郭と対照的なのが中国の城郭 やその上に楼門を配するいかめしい城郭郭がほとんどそのまま残り、城門すれす ナンキン である。北京でも南京でも、巨大城壁や れに観光バスが通るところさえある。こ まで、各種・各様のものが見られる。そ 城門が、今はその役目をおえ、記念的文 のような城郭は街全体を守るのに対し、 のなかで、日本はしばしば城郭のない街 化財として保存されている。かって、こ と外国人にいわれてきた。しかし、日本日本の城郭には城下町を守る城壁は見当 れらの王都は、この城門や城壁に守られ たらない。城下町は城を守るためのもの には古代から城郭があり、とくに近世の ていた。ただ、日本と異なるところは、 であり、戦闘に障害をきたすときには、 城郭は、優れた戦闘機能をもつだけでな この城郭で守られたのが、たんに支配者 、天守閣を中心とする建物群の美しさ城主が城下町を焼き払うことさえあっ や軍隊だけでなく、都民全体であったと た。日本の城郭は、町民を守るためのも は、一種の芸術ともいえるほど洗練され ころにある。その巨大な城門をくぐると のではなく、武士たちの戦闘用だけのも たものであった。それがどうして外国人 き、ふと大阪城や金沢城の大手門をくぐ のであった。城郭は町全体を守るものと の目に城郭と映らなかったのであろう 考えていた外国人の目には、日本の城郭るときの気持がよみがえる。若いころに は日本の城門をくぐるとき、かってここ か城郭とは見えなかったのであろう。 支配者を守る日本の城郭 城郭の原義によれば、内側の城壁を城を通った城主の姿を思いうかべ、英雄気 どりになったものである。しかし、これ その理由は、おそらく、城郭のもっ機といい、外側の城壁を郭というようであ 東アジアの城郭 日本・中国・朝鮮の城郭観 井上秀雄 いのうえ・ひでお一九二四年 ( 大正 井上秀雄 一三 ) 名古屋生まれ。京都大学文学部史学科卒。 東北大学文学部附属日本文化研究施設教授。朝鮮 古代史・古代日朝関係史を専攻。一九八四年、中 国吉林省の広開土王 ( 好太王 ) 碑を戦後最初に視 察した一人でもある。著書は「古代朝鮮ズ ZZ ブックス ) 、〕。任那日本府と倭』「古代朝鮮史序 説』、『新羅史基礎研究』 ( 東出版寧楽社 ) など多 数。气日本大百科全書』では「高句麗」「新羅」 「百済」などの項目を執筆。
0 日本大百科全書 ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 0 月報 コ笊ニカ通ー 1985 年 2 月 第 2 巻・第 2 号 一枚布のように貫頭のための穴をあける 必要がないわけである。おそらく、日本 古代の貫頭衣は、縫い合わせであろう。 貫頭の穴はどんな形であったのか 織り布は柔らかで曲がるし斜めにのびる ので、穴の形を円形にする必要がない 一般に貫頭衣の穴とは、タテ切りかョコ 切りの直線か、それに近い切れこみにす ぎない。日本の貫頭衣の穴がそのどちら であったか。縫い合わせなら、当然タテ 切り穴であったろう。 3 脇の開きをどうしていたか・・ | ・・・布の中 央の穴に頭を通して身体の前後に布を下 げ垂らす以上、身体の側面は開いてしま 古代日本人は何を着ていたか ? う。これをどうしていたのか。開いたま だが、「倭人伝」のこの記述もこれま しんちんじゅ まか、上からひもをまわして押さえつけ 中国、晋の陳寿 ( 二三二 ~ 二九七年 ) た単純すぎて、われわれが知りたい点を とういでん 明らかにしていない ていたのか、腕を出す部分を残して両脇 具体的に言えば、 の撰による『魏書』の中での「東夷伝」 ぎしわじんでん を縫いとじていたのか、このことに何も 倭人の条は、俗に「魏志倭人伝」と呼ば次の三点である。 ①どんな一枚布であったのかーーー貫頭衣ふれていない れ、日本の古代を知る重要な文献である こ」は、、 しうまでもないことである。こ は、今でも世界のあちこちに残ってい 着物の起源を推理する る。それをみると、幅のせまい布を縫い の中の記述に、 右のような三点を、なぜ知りたいの 婦人被髪屈紛作衣如単被穿其中央つないで一枚の布にした貫頭衣と、広幅 か。古代日本人の姿を絵にする場合、三 の一枚布に穴をあけた貫頭衣との二種が 貫頭衣之 点のいすれかでイメージが変わってくる と、ある。訳せば、女性は髪をつかねてある。この差は、織機の種類できまる。 が、興味はこれだけでない。日本の着物 髷を結い、 衣服は一枚の布のものであ垂直型織機なら幅広い布が織れるので、 がこの貫頭衣から発展した可能性もあり り、中央に穴をあけ、頭を通してこれを縫わない一枚布で貫頭衣がつくれる。一 着ているーーということになろう。原文方、水平型織機では一人で織るため、ど得るからである。と一言うと、貫頭衣と着 物 ( 前割れの前合わせ着 ) の間に何の関 うしても左右の手で杼を動かせる五〇 ~ の「貫頭衣之」の傍点部をとって、こう かんと・つ 係があるのだと、思われるであろうし、 した衣服を " 貫頭衣〃とわれわれは呼ん六〇センチ幅の布づくりが限度となる。 一般に両者は無関係のものと思われてい でいる。それは、長い長方形の布の中央つまり、こうした小幅の布は縫いつなが なければ貫頭衣にできない。ただし、二る。しかし、考えてみよう。頭を通す穴 に頭を通す穴をあけ、そこに頭を通し、 がタテ切りで、両脇を縫いとじた貫頭衣 枚の布を縫い合わせるとき、貫頭部分を 肩から身体の前後に布を垂らし下げた という、衣服として単純なものであ縫い残しておけば、それですむ。広幅のを、古代日本人が着ていた、と仮定して 「魏志倭人伝」の 記述への不満と疑問 儿一石年 ( 大 深作光貞ふかさく・みっさだ 正一四 ) 東京生まれ。京都大学文部卒。東京大 リ大学に留。石田英一郎 に師筆し文化人獅三ん一専・・収。ワシントン用 - 立大 客員教授、京都精華大学学長を経て、奈良女「大 学教授。著書は『日本文化および日本人論』 ( 三 書房 ) ゞ日本人の笑い』 ( 川大学出版部 ) 、『ミイラ 文化誌ズ朝日新聞社 ) はかを二丗。日本大ⅱ科全 北をでは「仮面」「ミイラ」などの項目を執 ~ 聿。 る。 深作光貞 ひ