んは「公僕」、つまり国民に奉仕するこ こうするだけで、おもしろいアイデアが は「バリア」の意味を紹介する文章を書者が安心して使えるトイレが設置された とが仕事だから、車椅子利用者や老人が ことでわかる。確かに、身体的障害をも 出てくる。たとえば、こういう方法が書 困っていたら、トイレの介助をするぐら ア barrier とい , っことばは、わが った人々が外出し、街を移動する機会が いてある。「ガイドマップをつくるとき、 いのボランティア活動はあたりまえとな 増えたのである。もう、失禁の心配をし 国では一部の専門家を除いてはなじみが ほろ酔いコースとかデートお薦めコース る。 なくてもすむからだ。 しかし、そのスペルをみると、 少ない などを載せる」。 トイレといっても、入口の段差 ところで、いまから数年前に車椅子市 = = ロ、 , が bar にあることがわかる。バリ つまり、福祉問題をまじめに考えるだ をなくして手すりをつけた洋式便所でい けでなく、 民全国集会に出席した席でのことだっ ほがらかに考えてみると意外ケード barricade も同じ語根をもつ。 いカら、費用はあまりかからない、、 一人の重度障害者が発言した とユニークなアイデアがひらめくもの いうまでもなく、 ーとは一本の横棒で ト戦闘機数機分で全国各地に設置でき にトイレをつくってほ ある。健常者にとっては、恋人と夜の楽「派出所 ( 交番 ) だ。そういえば、『日本大百科全書』も、 るだろう。もし財政の余裕があれば、自 しい」と。私は、おもしろい提案だと思 しいひとときを過ごす「止まり木」であ 「百科事典を一〇倍楽しむ方法」という った。つまり、その人がいうように、市動洗浄装置付きに奮発しておけば、快便 っても、その一本の棒が車椅子使用者に ガイドブックを添えておけば、本の売れ まちがいなしである。 とってま、ヾ丿 役所や銀行に車椅子使用者も使えるトイ ーケード以上の「障壁」と 行きもぐっと増えるかもしれない ⑦将来性がある。世界でも例をみないほ なってしまう。 レができたけれど、定刻になれば閉まっ バリア・フリー・デザイン どの高齢化社会へ向かっているわが国で てしまう。障害者だってタ方や夜まで買 「バリア・フリー」といっても、なかな は、大いに役だっ。 し物や食事に行くこともある。そのとき、 か一般の人には理解してもらえない さて、「福祉のまちづくり」をテーマ ⑧いまがチャンスである。グリコ・森、水 ノー」と関係することを説明す使えるトイレがなくて困ってしまうの とする私の研究室では、まじめなことも 事件や警察官の不祥事 ( 銀行強盗や殺人 れば、それが「障壁のない設計」だとい やっている。たとえば、寝たきりだった など ) で名誉失墜の警察当局が、国民的 ところが、もしも交番に車椅子用トイ , っことがわかってもらえるだろう。 被爆者・渡辺千恵子さんの自立を目ざし 信頼を回復できる、またとないテーマで レをつくったらど , つなるかトイレ付き 研究室では、公共建築物編に続いて住宅 た車椅子向け住宅、壱岐・老人夫婦の あるから、運動によっては警察もその気 交番の効果はいくつかある。 家、沖縄・土の宿 ( 木村浩子さんが提唱編をつくろうと作業を開始したところで になるだろう。 ある。 ①まちがいなく交番の数ほどたくさんト した障害者と健常者が交流できる民宿 ) 、 こうやぎちょう 以上、思いつくまま書いてきたが、か イレができる。 長崎県香焼町車椅子向けモデル公営住 トイレの話 って「ポストの数ほど保育所を ! 」とい ⑦二四時間使える。交番には閉店時間が 宅などの作品を手がけてきた。 まや「交番の数ほ う運動があったが、い ないので、いつでも使える。 そろそろ、福祉のまちづくりをおもし 最新の成果では、『バリア・フリ ど車椅子トイレを ! 」が新しいスローガ ③わかりやすい。交番がどこにあるか ろくする方法も、「フジ三太郎」の四こ デザイン 公共建築物編』 ( 八五年三 ンになるかもしれない。なにしろ、だれ は、そこの住民ならだれでも知ってい まマンガと同じく「落ち」をつけないと 月、長崎県・長崎県身体障害者福祉協会 る。 にもわかりやすく、費用があまりかから いけない。なににするか迷ったが、やは 連合会発行 ) がある。これは、公共建築 りトイレのエ自にしょ , っ ④安全である。かってのように、車椅子すに、しかも将来性のある国民的スロー 物を設計する際の手引書であり、県内の ガンはそうない。 これこそ「福祉のまち トイレが性犯罪に利用されるという危険 一九七〇年代に発展した「福祉のまち 建築士や建設会社へ無料で配布された。 まひ づくりを一〇倍おもしろくする方法」に や、使用する際はいちいち管理事務所へ づくり 障害者の生活圏拡大運動」 その表紙には脳性麻痺者である永元正夫 値するのではないだろうか さんの絵が彩りを添えているので、「絵は、各地で大きな成果をあげた。そのこ連絡して鍵を開けてもらう、というバカ げたこともなくなる。 とは、多くの公共建築物に段差をなくし 本のようだ」という声も聞かれ、うれし ⑤ボランティア付きである。おまわりさ てスロープがつけられたり、車椅子使用 くなる。この「絵本」の編集後記で、私
の一人シープーラバ ( 一九 0 五ー七四年 ) 、 文学者の思想弾圧を開始した一九五八年 タイの伝統社会とその伝統文学を、虐げ から、チット・プーミサック殺害の六五 られた者の立場で批判したために、官憲年ごろまでを、現代タイ文学の暗黒時代 に捕えられ殺害された反抗の詩人チッ と呼ぶ見方もできなくはない。だが、そ ・プーミサック ( 一九三 0 ー六五年 ) や、密 のような弾圧の時代でさえも、文学者の 林に逃れたのち、今はラオスにいるらし 良、いはしたたかに生き抜き、その結晶で いナーイビー ( 一九天 ) などで、権力ある作品も、黄金の沈黙を守って生き残 ることができた。 による反体制文学者の圧迫は、多かれ少 ている。 なかれ現在に至るまでも続い タイがベトナム戦争と間接的にかかわ り、その特需で新興。フルジョア階級が生 「新世代」の誕生 まれるようになった一九六〇年代なかば 立憲革命 ( 一九三一一年 ) 前後が近代タイ文 ごろから、こういった新興貴族の悲哀を れいめい 学の黎明期であるとするならば、日本軍扱った小説が続々と書かれ、創作活動が が東南アジアへ進駐した第二次世界大戦活発になってきた。やがて経済状況が悪 タイ国の首都バンコクへは、成田から 強行したりして、文学者の暗黒時代をつ の最中は一つの停滞期であり、終戦後の 化して、日本との貿易不均衡が顕著にな の直行便で六時間余の距離である。「タ くり出してきたことである。その被害者十余年を文芸復興期とみることができ った七〇年代初期にかけて、タイの社会 イ」という国名は、そもそも「自由」を としてまず挙げられるのは、独裁者サリ る。とはいえ、軍部の実力者サリット大や文化の状况に鋭い批の目を向ける、 6 意味する。そのタイにおける現代文学が ット元帥の弾圧を逃れて北京に亡命し、 将が政権を握り、さらに一兀帥に昇進して タイの「怒れる若者たち」ともいえる新 東南アジアの他の諸国と比べて何よりも客死することになった近代文学の先駆者憲法と議会制度を廃止、進歩的知識人や世代が登場、文学活動が盛んになった状 幸運だったことは、西欧列強の植民地化 況は、日本における昭和初期の。フロレタ を免れたために、政治や経済面における リア文芸高揚期を思い起こさせてくれ ムと 従属よりももっと残酷だといえる文化侵 る。創作集「靜寂』を出して現代に生き ホ示家 ムを作 略の洗礼を受けなかったことである。こ る人間の不安を、鋭いプラック・ユーモ カ心る のためタイの文化は自己のアイデンティ アで描き出したスチャート・サワッシー オのて 一イれ ティーを失うことなく、自国の伝統文化 ラタわ をはじめ、創作集『だから私はその意味 に基づく独自の文学を育み発展させるこ を求める』で、体制順応の知識人たちに とができた。 衝撃を与えたウィッタヤコン・チェンク 人 で しかし、現代タイ文学にとってきわめン ーン、詩集「俺は天下の学生さまだ』 の 作 て不幸だったことは、時の権力者たちク 家 で、意味もなく大学に学ぶ若者たちを痛 作 る 罵したスチット・ウオンテートなどは、 が、自分の政治支配力が弱められることエ ルン・マイ ッ学る そういった新世代の指導者であり、その チ文い を極度に恐れ、これまでに進歩的な ( 反 ( 表 代 プアて コ を 体制の立場にあることが多い ) 文学者を 一ジれ代表格でもあった。 コアさ 弾圧したり、滑稽ともいえる文化政策を 南待 ツ・世 ト東期 イ、新 一年が ウ ャ来 現代タイ文学の動向 活力と未知の可能性を秘めて 岩城雄次郎いわき・ゅうじろう一九三五年 ( 昭和一〇 ) 東京生まれ。東京外国語大学タイ語 科卒。七〇 ~ 七七年にタイ国チュラロンコン大学 文学部客員講師として日本語を教えるかたわら、 タイ文学の研究に励み、現代作家との交友を深め る。現在は産業能率短期大学助教授。著書は「日 タイ比較文化考』 ( 勁草書房 ) その他、訳書は 曰現代タイ国短編小説集』 ( 井村文化事業社 ) ほか 多数。「日本大百科全書』では、「タイ文学」ほか 多数の項目を執筆。 スチャート・サワッシー 総合誌編集長で作家でもある 岩城雄次郎 ルン・マイ
バイオテクノロジーの一つとして、染生 ) を応用し、生存能力のある雌性発生 0 高齢者 色体の倍数化が、アユやヒラメなどで実 の子をつくりあげる試みは、新しい品種 験的に進められ、成熟の抑制により増肉 をつくる期間が著しく短縮される利点が 効果を高めることがわかってきた。受精ある。海水魚では、雌性発生をうまく利 卵の温度処理または加圧により、容易に 用することで思いがけない成果が期待さ い ) や 三倍体が得られる点で育種 ( の期待が大れよう。これから二一世紀にかけて、四。「 0 00 0 の きい。また、精子に紫外線を照射して雄億年以上もかけて自然がつくり出した魚 の染色体を遺伝的に不活性化させ、同時より、一段と優れた品種が育成されるに に雌の染色体を倍化する方法 ( 雌性発違いない。 交番の数ほど車椅子トイレを , 福祉のまちづくりをおもしろくする方法 フジ三太郎氏と私 「福祉」を『国語大辞典』 ( 小学館 ) で ひくと「幸福」とある。だから、「福祉 のまちづくり」とは人々を幸福にする街 をつくることになる。しかし、 いまの世 の中、障害児殺しや車内暴力、国鉄ロー カル線廃止など反福祉のことが多いだ から、私は法を活用する。法と 日比野正巳 上を 日比野正巳ひびの・まさみ一九四八年 ( 昭和 新 6 一一三 ) 名古屋市生まれ。七〇年名古屋大学工学部 建築学科を卒業。京都大学と名古屋大学の大学院 を経て、現在、長崎総合科学大学工学部建築学科 助教授。専攻は都市計画。著書に气「学生時代」 様の自動車」 ( 一九八五年四月六日付け ) 倍おもしろくする方法」を学生に書か 熱中宣言」 ( 講談社 ) 、「福祉のまちづくり』 ( 水曜 社 ) 、「パス輸送改善資料集成』 ( 編、運輸経済研 もそうであろう。「乗りやすいドア」に せ、そのいくつかを実行する。たとえば 究センター ) はかがあり、障害者住宅の設計も手 するため、片開き戸ではなく引き戸 ( ス 「住居学体操」とあれば、講義の始めに、 がけている。「日本大百科全書しでは「身体障害 者と交通問題」「点字プロック」を執筆。 ライディング・ドア ) にしてある。これ家を書くように全員で体操する ( 拙著 は住宅でもいえることで、車椅子使用者『「学生時代」熱中宣言』参照 ) 。 は、あの法 ( 川喜田二郎氏が創始し や老人には段差のない引き戸が適してい 一〇倍法は学内だけでなく、外でも試 た情報処理・発想法 ) のまねで、私なり る。あるいは、「駅の長い階段を楽しみ みる。第一六回全国ボランティア研究集 の知的生活の方法をいうのだが、「ほ ; ながら登る方法」 ( 八五年二月七日付け ) 会 ( 八五年二月、山口県 ) の「障害者が もあったりして、おもしろい らかでまじめ」という意味もある。 地域で生きるーー地域での自立の条件」 ほがらかになるためには、マンガが役 というテーマの分科会に助一 = ロ者として参 一〇倍法テスト にたつ。私は『朝日新聞』朝刊連載の 加したときもそうである。分科会のまと 「フジ三太郎」を毎日見せてもらうが、 マンガを楽しむだけでなく、機会をみ めをしたあと、先のテーマに文字を付け そこには作者の福祉時代を見つめる眼を つけては法を実行している。たとえ 加えて問題を出した。 「障害者が地 感じることがある。たとえば「高齢者仕ば、私も大学教師なので、「講義を一〇域で〈一〇倍楽しく〉生きる〈方法〉」。 ヤキ わかリやすい目盛り 1985 年 4 月 6 日付け
であるが、このヒーローが、とくに世話 十月政変と新しい文学潮 になったことのある恩師の依頼に応じ 一九七三年の十月政変は、これまでに て、訴訟の仕事を引き受けるべきか、む あえ ない表現の自由をタイの文学者たちにも しろそれを拒むことによって、貧窮に喘 たらし、文学の潮流を大きく変える契機 ぐ同郷の農民たちに加担すべきである かっとう ともなった。これまで思想弾圧の真っ暗 か、という葛藤に苦しむ場面がある。日 闇に葬られ、ごく少数の人を除き、その 本人の読者ならば、するするとその小説 の世界に引き込まれ、ヒーローの悩みを 存在さえも知られなかった反体制文学者 ンた たち、ナーイピーやチット・プーミサッ 共有するに違いな、。 よみがえ ポ , め ワで勤 だが、タイの文学には、日本文学とは クらが陸続と歴史の中から甦り、発一言 ウ者も サ作使 権の高まったタイの「怒れる若者たち」 明らかに異質な面も確かにある。登場人 の大 物の行動様式や価値観の違いはもとよ に大きな影響を与えたのは当然のことで 一妖ビ り、はっと胸を打つような犠牲的精神が あった。その結果、「民衆のための文学」 セ「元 描かれるかと思えば、なんとも陰湿な世 志向がこれまでになく高まり、書き手の 界も提一小される。私が翻訳者としてタイ たが、これと同時に、 ンに亡命していた作家ラーオ・カムホー ジャンルにわたって、たとえ表現形式に 階層も拡大した。。 ムをはじめ、密林に逃れていた若手の文 違いはあっても、同じアジアの稲作民族文学と取り組もうとするとき、ときには 貴族の専有物でもあったタイの伝統文学 ふと考え込み、どうしたら日本人の読者 学者たちは、「過去の政治的罪は問わな が共有するに違いない暗黙の了解が成り への反発が起こり、それが一部の急進主 ふんめつ 立つような要素が多い。たとえば「同じ に分かってもらえるのだろ、つか、と首を 義者による古典文学焚滅運動にまで広が い」という政府の平衡感覚に富んだ呼び ひねることがある。そのひとっとして挙 かけに応じてバンコクに戻り、ふたたび 釜のめしを食う」とか、「めしは食った っていった。性急に社会の変革を求める ゆが げられるのは、底抜けに明るいタイのユ か」などという発想がタイにもあるの あまり、文学観が多少歪んだまま、現代文筆活動を続けている。禁書リストは依 ーモア、そして、それをくるりと裏返し 然として撤回されぬままだが、それは政で、われわれはごく自然にタイの文学に 文学の状况に加わった、ということが指 た、まるでタイの香辛料でも噛むような 府がなおも断固とした姿勢で文学者を弾入っていくことができるし、同じアジア 摘できるかもしれない プラック・ユーモアの味である。また、 しかし、軍部の巻き返しによる七六年圧しているということではない。文学者人としての共感にも誘い込まれる。 一九五三年に書かれ、その二〇年後爆作品に登場するタイのヒロインたちに たちは現在、軍部をとくに刺激しないよ の十月クーデターは、社会派の若い文学 は、日本女性にはみられない、たくまし うに気遣いながらも、各自の持味を生か 発的に読まれるようになったセーニー 者たちをふたたび弾圧の暗闇に突き落と して創作活動に打ち込み、間接的な方法サウワポンの小説『妖魔』 ( 井村文化事さや激しさがある。 す結果になった。内務省から、三回にも タイの文学作品は、最近トヨタ財団の で、社会的発一一 = 口をもしているのが現状で業社刊、岩城雄次郎訳 ) を見てみよう。 わたって合計三〇〇項目の禁書リストが ふる ある。 これまでのタイ社会を支配してきた貴族「隣人を知ろう」プログラムの助成によ 公布され、これまで健筆を揮っていたジ って、三〇冊以上が翻訳出版されるよう 優位の論理を突き崩すべく、新しい価値 ャーナリストや文学者たちは皆、急に発 日本文学との共通要素と異質点 になったが、まだその読者は少ない。タ 観を携えて登場した農民の息子サーイと 言を封じられ、またもや文学の暗黒時代 い , つアンティ・ヒーローと、彼に丑ハ感を イ文学の未知の可能性を探るためにも、 があれか タイの文学には、日本文学との類似点 が訪れたかのようにみえた。、 : その何冊かを手当たりしだいに読んでみ を思わせるものが多い。民話はもとよ覚える名門貴族の娘とのかかわりを通し ら数えてもうすでに一〇年目を迎える。 てはどうであろうか て描かれる、世代・階層対立の社会小説 り、詩歌や現代小説などかなり広範囲な 歳月が流れるうちに、かってスウェーデ 〃ル らか 「妖魔 左上にタイトル , 右下に著者名が ある表紙
は、盲目的な自然食品信仰は百害あって のものは出来ないし、どうしても師匠に 積を基礎としてマスターした上でなくて として自然に返してやらなくてはならな 一利もない はかなわないであろう。調理のプロセス は本来は無理なはすである。「マズそう 「あらゆる化学物質は人間に有害であ でのいろいろな手順や条件は、化学的に になる。」などとけっこ , つなことを一言っ いわゆる「有機肥料」は、野生の植物 る」とかいう無責任な言を吐かれる一部 ちゃんとした意味をもっているのだが、 て学問を無視されるような主婦の作品 にとっては成分的にかなり満足出来るも の「識者」のために、「化学肥料」や のではあるのだが、栽培植物は消費者の 「そんなことを教わると、せつかくの料は、先人の苦労の結果蓄積された情報を 「化学調味料」を営々と生産されている 嗜好に合せるために、はとんどが大量に 理がマズそうになるワ」などと言われる まったく無視されているわけで、どうし しかもかなり偏った組成の養分を必要と 企業のかたがたは、極めて肩身の狭い思 御婦人が多いのは困ったことである。筆ても上手になるまでには、ひとかたなら いをさせられているのだが、水も、空気 するように出来ているので、吸収されや 者の存じあげている化学科や薬学科の御ぬ回数の試行錯誤を繰り返すことにな も、人体を構成しているものもすべて すい形の化学肥料を与えてやらなくては り、哀れな犠牲者たるダンナサマの消化 出身のミセスのかたがたは、例外なくお にほかならない 。どんな物 「化学物質」 とても生育出来ない。化学肥料が自然に 料理が巧みである。 器を痛めることになるのであろう。 しいたけかつおぶし 調理においての学問 ( 化学 ) の役割 昆布や椎茸、鰹節の旨みの成分を発見もとるものであるからといって、いっさ質でも過剰にあると害になり、逆に不足 しても欠乏のためにますいことになるの したのは、みなわが国の先輩の化学者で い養分を補給せす、いわゆる「有機肥 は、駆け出しの末熟練者でもしくじらす は、化学の面からは至極当然のことであ 一定のレ・ヘルのところまでを保証す ある。無責任なマスコミがよく「日本人料」だけを土壌に還元していると、やが て略奪のツケがきて、自然はみごとに破る。砂糖も食塩も、アルコールも香辛料 ることにある。だから、自分の腕を存分 の創造性の欠如」などを特集するが、実 おくゆか も、さては水でさえも過ぎれば人体に害 にふるいたければ、これだけの先人の蓄際にはみな奥床しくて派手なをしな壊され、荒れた土だけが残ることとな にしかならない る。ただ、雨の多いわが国では、肥料は いだけのことであり、このような先駆的 さらに、特定の元素でも、どのような 7 流亡のため有効に利用される割合が少な な仕事を評価出来ない記者諸公のほうが 興 化学形であるかによって性質はみな異な いから、耕作者はとかく過剰に施肥をす よっぱど問題である。 るから、生理作用にも大きな差が現われ る傾向があるので、そのために土壌のな の 自然から摂取した分は も ることは、もっと世間の方々に理解され かの生体系を破壊しがちになるのであっ 自然に還す 旨 てもよいことである。たとえばヒ素など て、化学肥料の罪ではない も、ミステリーや歴史、公害摘発の本な 「自然食品」も昨今しばしば問題とな 百害あって一利もない の どから、われわれはとかく猛毒のイメー っている。われわれはいくらカッコいし 験 自然食信仰 実 ジのみがあるのだが、ヤギやヒッジなど ことを口にしていても、自然の恵みを植 ではヒ素が欠乏すると生育障害が起こる 数千年以前に戻って、野山の産物を採 物や動物から横取りして自分たちの生命 実 ことが知られている。つまり健康に生命 取するだけで生活を維持できる自信のあ を維持している。そのためには自然界に 学 なんらかの形で養分 ( 化学物質 ) を返却るかたがたであれば、大いに自然食生活を維持するには不可欠なのである。おそ の らくは人間においても同じであろうが、 しなくてま、ヾ ノランスを保つことは出来を励行される価値があるが、現代の文化 まだ確証されていない。われわれの平常 。もちろん極めて長期間の何百万年生活にドップリと漬かった都会人種に の食餌には、牧草などよりも格段に多く といったタイムスケールであれば、その は、とても実行できないであろう。だい の 学う のヒ素が含まれていて、ちょうど人体の たい、食べられる野草の見分けや下ごし うちに人類が滅亡して自動的に新しいバ 大ろ ンあ 必要量を満足しているらしく、なかなか らえ、アク抜きなどがもはや知識として ランスがとれるかもしれないが、我々は セで ギた 作物が土壌から搾取した分だけは、肥料伝授されていない都会の人間にとって欠乏症状は起こりそうにないのである。
反体制思想家として登場するようになる 新しいタイプのソーシャル・ のは、大正デモクラシー期の民衆連動の デモクラットとして 高揚という状况に支えられてのことであ いくお 昭 る。それも吉野作造、大山郁夫、河上肇 ソーシャル・一丁モクラットとは日木 年 など、その数はきわめて少ない では社会民主主義者となる。この社会民 如是閑は、新聞ジャーナリストとして主主義者という用語法は、革命戦を断固 こ部 は、新聞「日本』 ( 一九 0 三入社 ) の時代か 闘い抜くコミュニストの眼からみれば、 ら「大阪朝日』 ( 一九只 ~ 一 0 退社までの 議会利用者として結局は数の支配の下に 村学 約一五年間とその期間はあまり長くない 敗れ去る階級的裏切り者としての蔑視用 是中 が、それと雑誌ジャーナリストすなわち 語であった。事実、一九二〇 ~ 三〇年代 の閑 「我等』「批判』 ( 一九一 八 ~ 三四 ) を主宰した から第二次世界大戦にかけて、社会民主 時代の約一五年間を通算すれば、かなり主義者の多くは軍部や戦争に協力した。 倉谷 長期にわたってジャーナリズムの第一線 このため、「社民」という言葉は、戦後 に身を投じていたことになる。とくにこ もかなり長期間にわたって蔑視用語とし ます第一に、ソーシャル・デモクラッ 社会民主主義者を社会帝国主義者として の期間は、日本における民主主義と国家 て通用した。しかし、七〇年代に入って トの立場から如是閑は、大正後半期にま敵視していた方針を転換させて、反ファ 主義、ファシズムがまさに雌雄を決すべ 各国共産党も時代状況の変化に応じて議 すます勢いを強めてきた国家主義イデオ ッショ統一戦線論を提起した「デイミト く一大攻防戦を展開していた近代日本史会主義を採用するようになったので、事 ロギーに対して、自由の確立と平等の保 ロフ報告」をリべラリスト如是閑の思想 2 上もっともドラマティックな時代であっ 実上「社民」という語は死語となりつつ 障を主張し、民主主義とイギリス型社会 と重ね合わせてみれば興味深い。第四に た。如是閑は「大阪朝日』時代は、編集ある。こうした歴史的事実を考慮して、 主義 ( マルクス主義も含めて ) の普及に このような立場は、社会主義政党が合法 部の中枢にいて多くの学者・知識人を結 混乱を避けるため、私はあえてソーシャ 努めた。第二に軍部ファシズムの台頭期化された戦後において、もしも当該政党 集して大正デモクラシーを先導した優れ ル・デモクラットという一一一一口葉を用いてい においては、ラスキと同じくファシズム の行動が硬直化した場合には自由に批判 ォルガナイザー はっ・、う た組織者であった。「白虹筆禍事件」 ( 一九 るが、内容的にはイギリスの政治学者と対決した。如是閑が社会主義を理解し する立場をも留保していることを意味し 一 0 による退社後は、商業新聞の限界性 ・ラスキ ( 天九一一 ー一九五 0 ) に近い思想を ていたことは、はとんどのリペラリスト た。このため戦後の如是閑は、良識ある を自覚して自主独立の啓蒙雑誌を創刊念頭に置いている。つまり人権尊重のう が、ファシズムとコミュニズムの選択を保守的知識人に擬せられているようだ し、『大阪朝日』時代に培った豊富な人 えで自由の確立を重視するが、一九世紀 迫られた時点でファシズムに走ったと が、むしろ彼は、人間尊重と平和主義の 材を誌面に登場させ、前半は陰険な国家末以来の社会・労働問題の顕在化に対応き、彼をして反ファシズムの立場へと向 立場から何事についても批判精神を失わ 主義と、後半は狂暴な軍部ファシズムと して実質的平等の保障も図るべきだとす かわせたのである。第三に、彼は社会主 ない「抵抗の思想家」と位置づけるべき であろう。 秘術を尽くして闘った。その活動の末期る思想である。当然にここでも、自由主義を実現するためには、広範な層にわた には「新人会」などの若い血を導入し戦義と社会主義の関係が問題となる。如是 って自由と民主主義的基盤を形成する必 線を広げたが、これらの人たちのなかか 閑は一九一〇年代のなかばころまでに 要があると考えていた。このことはリべ 以上にみてきたように、如是閑は、明 ら戦後民主主義の再建に献身した人々が は、ソーシャル・デモクラットの立場に ラリストからコミュニストまで含めての 治三〇年代末以降の日本民主主義形成過 多数輩出したのである。 到達していたと思われるが、彼はこの方統一戦線の形成を意味した。一九三五年程におけるあらゆる重要な時点にかかわ 程式についていかに身を処したか。 の、第七回コミンテルン大会において、 り、国際的な民主主義発展の正道を、日 われら 」一を単一ふ
0 日本大百科全書 ENCYCLOPEDIA NIPPONICA OI 0 月報 コ笊ニカ通信 第 18 巻・第 18 号 1987 年 11 月 対抗した社会主義的思想と行動の研究に エンサイクロペディスト 重点が置かれ、何事も白黒を決めてかか 日本の「百科全書学者」長谷川如是閑 りたがる日本人的性格も手伝ってーー反 批判精神を貫いた抵抗の思想家として 面、政治の世界では原理性よりも、腹 田中浩 芸、玉虫色などといった怪しげな行動力 どうも中間的な色 が横行しているが 田中浩たなか・ひろし一九二六年 ( 大正一 五 ) 佐賀県生まれ。陸車経理学校、旧制佐賀高等 合いをもつ自由主義者の研究はあまり好 学校を経て東京文理科大学哲学科卒業。英・独・ まれなかった、ということも考えられ 日の比較政治思想研究を行っている。東京教育大 る。 学教授を経て一橋大学教授。法学博士。著書に 「ホッブズ研究序説』 ( 御茶の水書房 ) 、訳書に、 二つ目は、如是閑の名前が中学・高校 「政治的なものの概念』 ( 末来社 ) 、『帝国主義と知 の社会科の教科書にほとんど登場してこ 識人』 ( 岩波書店 ) など。共同研究「長谷川如是 閑と「政教社』の人々」で、一九八六年度「朝日 ないこととも関係しているようである 学術奨励金」を受賞。「百科全書』の編集委員。 ある大学で如是閑の話をしたときに、そ んなに偉い人がなぜ教科書に載っていな ちゅうちょ いか、という質問を受け、改めて教科書 人に、私は躊躇なく如是閑を選ぶ。三 今回、私は『日本大百科全書』第一、 はせがわによぜかん の与える影響力の大きさを痛感したもの 巻に「長谷川如是閑」 ( 天七五ー一九六九 ) と人の名前のリストは研究者によってさま である。 ざまであろうが、少なくとも私はそうす いう項目を執筆した。編集部の配慮で他 る。にもかかわらす、現在においても、 の辞典よりはかなり多めの行数をいただ ジャーナリストとして ォルガナイザー 如是閑の名前は、福沢諭吉、中江兆民、 いたが、なにしろ、明治・大正・昭和の えもり みのペ 組織者として 植木枝盛、吉野作造、美濃部達吉、河上 三代にわたってほとんど一世紀近く生き 日本では、。ンヤーナリストとい , っと、 抜き、生涯のうち三〇〇〇編以上の論肇などに比べて、かなり知名度が低い のはいかなる理由によるものであろう大学教授よりも一段低い地位にある者と 文・評論・エッセイを書き、一〇〇冊近 エンサイク . ロペデ いうイメージがある。しかし、近代日本 い著・編書を刊行し、日本の「百科全書か。一つは、如是閑研究の圧倒的立ち遅 の思想を形成した思想家や政治家のほと 学者」とよばれた如是閑の思想と人間像れ、が指摘できる。私自身も実は一〇年 んどは実はジャーナリスト出身者なので ほど前から彼に関心をもち始めたが、そ をわずか五〇行程度にまとめて描くこと くがかつなん ある。福沢諭吉、中江兆民、陸羯南、田 のとき如是閑の専門研究者はわすかに三 は至難の業に近い。月報紙上を借りて、 うきち ロ卯吉などの思想家たち、島田三郎、田 名程度を数えるにすぎなかった。如是閑 日ごろ感じている如是閑像をいささかで さかいとしひこあぺいそお 中正造、堺利彦、安部磯雄、片山潜、 は一九六九年 ( 昭和四四 ) まで存命であ も補うことができれば幸いである。 たんぎん ったため、なかなか研究対象にしにくか石橋湛山などの政治家、社会運動家たち 如是閑の思想は近代日本史上にお はいすれも、自ら新聞・雑誌のオーナー った、という点があろう。次に戦後、日 ける一大モニュメントである 本思想史研究の出発点としては、日本民兼主筆であるか、あるいはジャーナリズ ムの世界に足場を置いて活動した人々で 近代日本の思想家のなかでベスト・ス主化という課題の下に、一方では天皇制 ある。大学教授が一一一一口論・思想界において 的国家主義思想の分析、他方ではそれに ーを選べということであれば、その一 はじめ
権五高は一八九七年、この村で生まれ 由からである。 貧乏儒者の長男であった。権五高と 変わり果てた権の故郷 いえば、何はともあれ挙族的な抗日運動 であった「六・一〇万歳連動」を思い起 権五高はたしかに優れた共産主義者た 尹学準 こす。一九二六年六月一〇日 ( この日は った。大邱師範学校在学時から反日運動 李王朝最後の王である純宗の葬儀の日で のリーダーだった彼は、卒業を目前にし 尹学準ュン・ハクジュン一九三二年、朝鮮・ 慶尚北道に生まれる。大邱大学 ( 現嶺南大学 ) 法 あった ) に起きたこの抗日闘争は、一九 て退学させられたし、三・一独立運動に 文学部中退。五三年渡日。五八年法政大学文学部 一九年の「三・一独立運動」と、一九二 参加して検挙されたこともある。一九二 日本文学科卒業。早稲田大学語学教育研究所・国 九年に起きた「光州学生運動」とともに 学院大学文学部講師。著書に「時調ー朝鮮の詩 一年には郷里で元興義塾を開設して教 心』 ( 創樹社 ) 「オンドル夜話ー現代両班考』 ( 中 日帝植民地下での三大抗争事件として位育・啓蒙活動をしたり、小作人組合を組 公新書 ) 、共著「韓国を読むし气韓国を歩く』 ( 集 置づけられているが、それを組織指導し織して小作争議なども指導した。また、 英社 ) その他がある。曰日本大百科全書新では 「朝鮮文学」「歌辞」「郷歌」「時調」「許筋」「金時 た最高責任者がはかならぬ権五高だっ 一九二四年には朝鮮労働総同盟の創立に 習」ほか多くの項目を執筆。 た。彼はこの事件で逮捕され、苛酷な拷参加、翌二五年には金在鳳、朴憲永らと 問によって虐殺されたのである。 ともに朝鮮共産党と高麗共産青年会の創 抗日独立運動の闘士であり、革命家で まったく見えない。今は切り倒されてな 朝鮮侵略の元凶・伊藤博文をハルビン 立に参加したのである。 アンジュングン あった権五萵の生まれ育ったカイル村を くなっているが、三〇年前、私が通って 駅頭で暗殺して処刑された安重根が民族 侵略者に対する彼のたたかいの様相を 私が訪れたのは、一九八二年の春のある いたころは、堤の上に桜が植わってお の英雄としてあがめられ、三・一独立連 ここで詳しく述べる余裕はないが、あの 6 日だった。 春ともなるとそれらがもえるように 動のとき、少女の身ながら示威に参加、 挙族的な抗日運動であった「六・一〇万 ュグアンスン カイル村ーーー正確には慶尚北道安東郡咲き乱れる。その美しさにつられて堤の 日本の憲兵によって虐殺された柳寛順歳運動」を組織したときは、彼は共産党 豊川面佳谷洞だが、この村の前を私は二 上まで足を運び、小高い山のふもとにう が、朝鮮のジャンヌ・ダルクとしてたた の中央委員であり、共青の責任秘書の地 〇歳を過ぎるまで数かぎりなく通ったも すくまる村を眺めたことは幾度かあっ えられていることは広く知られている。 。民族陣営との統一戦線が組め のである。私の村からは一里半ほどしか 村は小さな湖を前にし、いつも平和 そればかりではない。近年韓国では殉国 たのも、彼の優れた指導力によるのだと 離れていない隣村であるが、わが村から な姿を見せてくれた。そのころの私は、 烈士や独立有功者、そして祖国の解放と 研究者たちは評している。 外界へ出るには、どうしてもこのカイル このおだやかな農村から権五高をはじ 独立のためにたたかった無名の戦士たち 私は、わすか三〇歳という若い生涯を 村の前を通らねばならぬからだ。しか め、幾人もの抗日独立闘士たちが生まれ を探しだして顕彰する事業が、全国いた 祖国の解放と独立のために献げた権五高 し、それまで私はこの村に足を踏み入れ育ったとはついそ知らなかった。 るところで繰り広げられ、銅像や石碑な を思いつつ、村の中に足を踏み入れた。 たことはなかった。とりたてて用事があ どが無数に建てられている。独立に功績村のたたすまいは昔のままだったが、し 抗日運動の指導者の運命 るわけでもなく、他人の村にむやみに闖 のあった人や、その遺家族には国家から かしよく見ると、ほ , つばう歯が抜けたよ にゆう 入することへの気おくれもあったが、 権五萵といっても日本の読者には耳な年金まで支給されているくらいだ。 うで、かってのようなまとまりのある村 それにも増してこの村には、よそ者をよ れない名であろう。もっとも今では本国 ではなかった。 それなのに、抗日闘争の優れた指導者 せつけない敷居の高さがあった。村のた ( 南北を問わす ) の人たちでさえ、その であり、獄中で虐殺された権五高の名は 従妹の夫 ( 彼はこの村の出身 ) の案内 たすまいからしてそうであった。 名を忘れ去っているのだから無理もな人々の記憶から忘れ去られようとしてい で村を見てまわったが、五高の旧宅は数 る。ただ、 村は是防に遮られており、通りからは 彼はコミュニストだという理年前火災にあい、土塀だけがながながと クオノソル 独立運動家・権五高の村を訪ねて 祖国朝鮮の解放と独立に殉じた生涯 みギ一 ちん ばん早、い
0 故事ことわざの辞典 ▽第七巻の月報で、天文・科学史 の担当者が、ハリ ー彗星に関する 話を紹介していた。なんでも、前 回出現のとき ( 一九一 0 年 ) 、彗星の 尾に含まれる有害ガスで地上の生 物が滅びるというので、たらいの 水に顔をつけて息を止める練習を していた、というのである。わた しは思わすニャリとした。バカバ 力しいというのではない。なんと も素朴で一途で真剣で、しかも、 ちょっとばかりとばけていてユー モラスだからである。 ▽しかし、よくよく考えてみれ ば、これはわれわれの戯画ではな いのか末知なる場面に出合った とき ( 生きることはそれらの連続 だろう ) 、人間の心の動きやまた ▽第八巻の「編集室だより」でも お伝えしましたように、この二月 下旬から、八巻セットセールを全 国的に開始しています。既刊の八 冊ならびに新しい巻を先渡しし て、分割払いをお願いする方式で す。これは年末まで続けますの で、いっそう愛読者が広がり、百 科全書による知的生活が豊かに普 及していくことを祈ります。 ▽おかげさまで「日本大百科全 書』は好評をいただいています。 業務の都合でさまざまな会合に出 席しますが、学界や文壇のかたが たから、各自のオリジナルな利用 法をうかがっております。朝礼の 話題を探す校長先生、。ヘージを繰 って俳句の着想を得る俳人、園芸 行動を見ると、当時も今もそれほ ど変わっているとは思えないから である。驚き恐れて右往左往す る、相も変わらす好きだ嫌いだと わめく・・ : なんだ、この人間とい うャツは ? と疑問を持っとき、 わたしの担当の分野の出番がく る。 ( 心理学、文学担当・沖山 ) ▽六年先に予定されるコロンプス のアメリカ大陸「発見」五〇〇周 年記念行事で、「発見とは、原住 民である祖先を無視した一方的表 現だ」として、キューバやメキシ コが、その参加に難色を示したと いわれます。「地理上の発見」と して通用していた歴史概念の「お かしさ」が摘発されるまでに、実 に五〇〇年を要したともいえる象 植物の撮影のアングルを学ぶ人、 クイズ番組のプランをたてるプロ デューサー、古寺巡りの下調べを する女性など、実に多彩なことに 驚かされます。また、収録されて いる項目の執筆者について、カラ ー写真の撮影者やその問い合わせ 先について、ジャーナリズムから の質問も増えています。この中間 セットの成功によって、さらに利 用者の多くなることを願っていま す。どうかお知り合いのかたがた にお奨めいただきたいものです。 ▽先に実施された国勢調査の速報 値 ( 総務庁統計局「要計表による 人口しが発表されました。この 第九巻より、わが国の行政地名 ( 県、市、町、村 ) の項目に記載 徴的な出来事です。 なんじ ▽世界史は、現代人に常に「汝自 身を知れ」との呼びかけをやめま せん。時々刻々生きるためにする 決断の力が、世界をどのように 見、歴史をどう考えるかという課 題に根底から関わっているという ことを、右の「発見」の話は教え ています。 ▽ヨーロッパ「先進」勢力の「発 見」につらなる諸地域ーアジア、 アフリカ、ラテン・アメリカの諸 項目の見直しと充実を方針上のポ イントのひとっとし、北欧、東 欧、南欧史への目配りも厳にし、 世界史各項目自体のもつ「カ」を ひしと実感しながら編集中です。 ( 世界史担当・吉田 ) される人口は、それに基づくもの であります。多少の差がこれから 生するにしても、データは新しい にこしたことはありません。 ▽編集部は、すでに大半の原稿を コンピュータに入力しましたが、 変動が予想されるデータにつきま しては、事前にマークを付してあ ります。各項目を校了にするに先 だって、執筆者と協議し、できる だけ新しいデータを加えることに しています。百科全書がいたすら に変貌する情報のスビードを追う ことは、その本意ではありません が、絶えす現代性を究明してまい りたいと存じます。おのすからそ のことが、新鮮なイメージの内容 になりうると信じています。 ( 篠 ) 小学館 含蓄にとんだ人生の知恵 1 万 4 千 5 百項目を収録。 ・人生、仕事、愛情・・・など関連の深い項・出典欄の漢籍には、訓読や読み下し文 目を集めた「恥頁別索引」っき。同傾向を付し、原文の意味の理解を深めます。 のことわざがすぐに検索て、、きる最新辞典。・「古事記」「日本書紀」をはじめ、古今 ・同意・類意のことばも加えた幅広い解の文献から渉猟した豊富な用例を収 故事 ことわヤ の典 く編集〉 尚学図書 言語研究所 く発行〉 小学館 く並装〉定価 4 500 円く背革装〉 6 000 円・判 / 総し 280 ペ→ ( 本文 L069 べ→ / 事項別索引ペ→ )
まで引いて行く」。彼女は「死にいそぎ」 とするこの小説の中で、龍之助Ⅱお浜の の人である。この第六巻「間の山の巻」子供・郁太郎、駒井Ⅱお君の子供・登の あたりで介山は作品の思想的な骨格を整存在は例外的といってよかろう。ここに えていくことになる。 介山のライフ・スタイルの、そして作品 のキイ・ワードになるものがあるのかも 介山の創造した女性像は机龍之助系統 の宿業の女たちと、元幕臣で、近代主義しれない こまいのとのかみ 者、かっ海洋思想の体現者・駒井能登守 じんギ一ぶろう せふる お松とお雪ちゃん《 ( 甚三郎 ) 系統に分けられよう。伊勢古 市の女芸人お杉お玉 ( お君 ) は、後者と お松はいわば介山の当為としての、理 のかかわりで登場する女である。お客に 想の女性像だが、お人形ふうで、色気に えんさき うすべ へきとう 呼ばれると座敷の縁先へ薄縁りをしいて乏しいと評されている。彼女は開巻劈頭 ちょ、つもく 座り、「間の山節」を唄い、鳥目を撥で に大菩薩峠で机龍之助に斬り殺された老 受け止めながら、三味の音を崩さない奇 巡礼の孫娘であって、龍之助の無動機の 芸の持ち主。彼女は幼な友だちの槍使い 殺人の第一の犠牲者である。彼女にとっ で、「身の丈は四尺位」、宇治橋の下に立 ては龍之助は仇となるわけだが、小説は ち、「竿の先の五色の網の袋で客の投げ そのようには展開しない なりわい た銭を受け止める」のを生業としている 島原遊廓へ売られたりする逆境の中で よねとも 宇治山田の米友、それに彼女の忠実無比育ち、生来の利発さと兄の仇・机龍之助 ひょうま の愛犬ムク犬がトリオを形づくってい をねらう宇津木兵馬との恋愛やその裏切 る。 り、旗本屋敷での奉公などを通して、自 お君は駒井能登守が江戸に残してきた 由な、自立的な女性へと成長していく。 ビルドウングス・ロマン 病妻と瓜二つだったために、彼の側室と 彼女の描き方だけが、やや教養小説的 とい , んよ , っカ なる。不正規とはいえ、階級・身分をこ じようじゅ えた愛の成就は彼女を不幸の淵におい 駒井甚三郎は東経一七〇度、北緯三〇 やることになる。そのために駒井が旗本度のミッドウェイ諸島付近に無名丸で漂 の陰謀を誘発し、失脚する。米友から、 流して、ユートピア〈椰子林共和国〉を 築くことになるが、そのバートナーがお 「馬鹿 ! 出世じや無えんだ、慰み物に なってるんだ」と痛烈な批判をあびる。 松である。駒井は「個人の確立のため 駒井の子 ( 登 ) をやどすお君は結局、 に」大家族主義を否定し、「一人一家主 はかない最期をとげる。この登を養育す 義」を実践しようとする。そして介山の ることになるのが、後述のお松である。 性急な理想を直接法で表白するので滑稽 性愛に関する記述は多々あるが、生殖感を懐かせる次のようなお松の言葉ーーー への言及の不在、母性原理の否定を特徴「あなた様もまた、女として、友として、 291 小事典 アメリカ議会図書館の稀覯書にかけた情執 本項目「図書館」は、本巻間べ」ジにあります。 一九四五年夏、ラジオの人気番組の司 る」と語った。当時グアテマラの政情は 会者べン・グラウアーはグアテマラ市に 不安定で、与党は少しでも足をすくわれ 向かっていた。当地の市庁舎にあるべル る種を公的には受け入れられなかった。 ナル・ディアス Bernal Diaz del Castillo 議会図書館には「ベルナル・ディアス イストリア・ベルダデーラ ( 一四九一一 —IF<I) の『真実の物語』導き 7 友の会」が結成され、この本をもとに コンキスタドーレス 『仼服者』という詩を書いてピュリッ ミ手稿原本を見るためであっ ツアー賞を得ていた詩人の前館長アーチ た。グラウアーはラテン・アメリカに興ポルド・マクリーシュ ArchibaId Mac ・ コンキスタドーレス Leish ( 天九一一 ー一九 0 ) が中心メンバーとな 味をもち、スペインの「征服者たち」の 本を蒐集していたが、一六三二年のマド った。会では専門家の派遣も論議された リード版には省略や書き加えがあること が、途方もない費用がかかるとわかっ が、グアテマラ市庁舎の刊本に基づいた た。駐米グアテマラ大使にも打診してみ 新たなメキシコ版で判明したので、原版たが、文化保存に理解ある大使は、転任 を見たくなったのである。 を間近にしていたときだったという グアテマラの文部大臣その他にあてた 古典の保存は図書館の義務 アメリカ要人の手紙を携え、グラウアー 市庁舎に原本はあったが、放置されて がふたたび国境の南へ飛んだのは一九四 ほこりをかぶり、表紙から初めの部分は 八年初夏であった。写本は公文書館の館 隅が大きくすり切れていた。このままで長室に移されていた。交渉に入ったグラ は原本はさらにいたみ、もとの姿を留め ウアーは陸路、空路による持ち出しを口 にしてみた。写本の修復に異存のないプ ないまでになると考えたグラウアーは、 ラド館長の恐れは、この国宝級の品物の 当地のアメリカ人に相談してみたが、こ の国の当局を相手にしては、ことはかえ破損であった。陸路では、いっワシント ンに着くかわからない 。どんなに秘密裡 って面倒になるとの答えをえた。帰国 に運ばうが、山賊が待ち伏せることは必 後、撮ってきた写真を見せて回ること二 年、カリフォルニア大学図書館パウエル 定であろう。「空路 ? 」とんでもない 館長の紹介で、アメリカ議会図書館長ル飛行機が落ちたらどうなる。 " 征服者。 には恨みのある原住民子孫が森にはうよ ーサー・エヴァンズに会うことができ うよいる、と館長は肩をすくめた。アメ た。館長は、「古典の保存は図書館の義 リカから戻らない場合もありうるとの心 務であり、わが館には補修の専門家がい るので、ぜひやってみたいが、それには 配も、言葉のはしにうかがえた。結局、 本を非公式にワシントンに運ぶ必要があ本の安全な持ち出し、貸出し期間の短 きこ、つ