インド - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 10
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1. 日本大百科全書 10

ものもある。とくに古典的な意匠としては、螺 8 紗紀 更世 旋風の連続文様を表す「パラン・ルサク」や、 2 ン 斜め縞の構成に一縞ずつ異なる文様を配した イ しつぼう 館 ン 「ウンダリリス」、輪繋ぎ、輪違い、七宝繋ぎの 物 テ 構成をもつ「カウン」文様などがあるが、これ 国 らは二〇世紀初頭まで貴族のみに用いられる禁 京 の 東制の文様であった。 蚊世 も 相田 ャ用 れ 〔ヨーロッパの更紗〕ヨーロッパの模様染め は、一七世紀前後に輸入され始めたインド更紗 白 の美しさに触発されて急激に発達したもので、 を部 初期においては、文様も技法もインド更紗を模 一倣することから始められた。しかし一七世紀後 、をイ用 半から一八世紀にかけて飛躍的に発達し、イギ リスでは一六七六年にロンドンのウィリアム・ シャーウインによって、木版によるプリントが ^ 実用化され、一八世紀初期スイスではチューリ ヒ、ジュネープに更紗工房が設立され、そして 更 フランスでは、一七六〇年にクリストフ・・ オーベルカンプ Christophe PhiIippe Ober ・ なっせん 模期 kampf によってジュイの捺染工場が設立され ナ初 ュ紀 た。とくに一八世紀中葉における銅版の導入、 いて一七八三年スコットランドのトマス・べ ク ルによる機械的なローラー・プリントの完成、 一」茜部 一九世紀の化学染料の開発は、ヨーロッパの更 紗布 紗を量産へと向かわせ、アメリカその他の世界 更掛 ド用 に大量に輸出されることになった。わが国で銅 ン院 イ寺 版更紗あるいはオーベルカンプとよばれている ~ 一九世紀にかけてつく 染料はごく初期のものは白地に藍のみであった更紗は、こうした一八 といえる。 の名があてられている。しかし本来「さらさ」 さきばいせん インド更紗の技術的な特色は、先媒染 ( 染料が、一七世紀以降にソガ染料が加わり、いわゆられたものである。 は輸入語と考えられ、その語源については、当 こわたり ろう 〔古渡更紗と和更紗〕今日古渡更紗といって珍 に浸ける前に、媒染剤で文様を描く ) と蝦防染るカイン・ソガとよばれる藍と茶褐色の色調の 時インド西海岸の要港であったスラート Sulat てんか とが併用されることで、手描きの場合はカラムものが主流となる。茜系の華やかな色彩のもの重される更紗類は、一七 ~ 一八世紀にかけて日 が転訛したものである ( 『紅毛雑話』 ) とも、 kalam とよばれる特殊なペンによって、型のは一八世紀に入ってジャワの北部の都市から発本に舶載されたもので、その大半はインド製の ジャワの srasah 、ポルトガルの sarassa, ものであるが、これらの更紗文様には、花卉、 saraqs 、スペイン語の saraza などからきたと場合は木型によって、媒染剤や蝦が布に置かれ達していった。またこのころに木綿ではなく絹 あかねあい もいわれているが、いずれも確かな証拠はなる。染料はインド茜と藍が主体で、それに黒や地のバティックもっくられている。一九世紀後花樹、鳥獣、人物などのほか、ヨーロッパに輸 もえぎ 萌黄、黄色の彩りが加えられる。用途は寺院や半には、手描きに対し、チャップ tjap とよぶ出されたインド更紗とはまったく異なる意匠ス く、今日では、もっとも古くから更紗を国外に テント用の掛け布、べッドカバーなど室内装飾型による蝦置きの技術が発達し、加えて化学染タイルのものが含まれていることが特色といえ 輸出したインドで、一六世紀末に極上の多彩な ひこね る。たとえば旧彦根藩井伊家伝来の更紗類、お 木綿布をさした saraso, sarasses の語 ( リン布としてつくられたものが多い。模様はクリシ料の使用が始まることによって、ジャワ更紗は まき しふくきれちょう へんばう 大きく変貌してきた。ドド ( ネ装用巻衣 ) 、サよび茶入れの仕覆や裂帳にみる古渡更紗には、 ユナ神をはじめヒンドウー教の神々やラーマー スホーテン著『東方案内記』 ) が、わが国に直 1 」うてんじよう ずきん ともえもんづくしいちょう 扇、香袋、巴、紋尽、銀杏、そのはか格天井 ロン ( 腰衣 ) 、カイン・カバラ ( 頭布 ) など、 ャナ物語、マタ女神などを主題とした宗教的な 接輸入されたとする説が支持されている。 とよばれる幾何学文様など、日本人の好みを強 〔インド更紗 ( チンツ ) 〕インドの更紗は、他ものから、大柄な立ち木、鳥獣、人物、花鳥や服飾用布として製作されたものに優れたものが ある。 く反映した文様が認められる。近年、こうした 国に比べてもっとも古い歴史を有し、すでに紀幾何学的な模様など、製作された地域により、 日本に伝来する古渡更紗にきわめてよく似た文 文様は独特に様式化されており、一〇〇〇か 元前後には遠く地中海地方に輸出されていたこそれそれに特色のある多様なものがつくられて ら二〇〇〇種を超えるモチーフがさまざまに組様の更紗がインドネシアのスラウェシ島のトラ とが知られている。しかし遺品のうえでは一七 ジャ族の間から多数発見された。そのなかには 〔ジャワ更紗 ( バティック ) 〕インド更紗に並み合わされて、各種の文様がつくりだされる。 ~ 一九世紀のものがもっ 世紀以降、とくに一八 モチーフには、非常に古くからインドネシアにオランダ東インド会社のマークを捺印した とも多く、それ以前のものではカイロの南部、び称される蝦防染を主体とした模様染め布で、 ものもあることから、当時インドで、日本や中 オールド・カイロにあるフォスタットより発見手描きのものはチャンチン ( 」 anting という特ある装飾文様に関連づけられるもののほか、イ ンドや中国、あるいはヨーロッパの影響を示す国、東南アジア向けの輸出用更紗が意識的に製 された一五世紀前後の更紗類が比較的古い資料殊な工具を使って蝦置きするのを特色とする。 紗 更 2 1 ジャワ更紗ウンダリリス模様印金更紗 サロン ( 腰布 ) 19 世紀 0 0 和更紗白地唐草鳥文様更紗 裂井伊家伝来 17 世紀 せん つな

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かんいんし 三竦さんすくみ中国周代の道学者関尹子〔歴史〕紀一兀前一五世紀ごろ、イラン高原より り、特殊な前接辞、後接辞を付してつくられ ークリット諸語を通して近代語に跡づけられる の著書とされる『関尹子』「三極」のなかに記分派して北西方よりインドに侵入したアーリアる。不定動詞形には不定法、絶対法、各種の分というべく、これに対してサンスクリットはこ さお されるたとえ。ヘビ ( 蛇 ) はナメクジ ( 蛞蝓 ) 人は原住民と戦い、これを駆逐してバンジャー 詞があり、造語法も豊かにかっ活発に展開してれら歴史的変化の流れに棹さすことなく、万古 を恐れ、ナメクジはカエル ( 蛙 ) を恐れ、カエ 。フ地方に定住し、インド最古の文献『リグ・べ いる。合成語は動詞合成語と名詞合成語に分か不易な聖語、雅語、教養語として俗語を睥睨し ルはヘビを恐れるとする故事から、転じて、三 ーダ』 ( 前一二世紀ごろ ) と称せられる神々へれるが、後者はなかんずく複雑で、古典サンスて今日に至っている。ただし、サンスクリット けんせい 、こんか といえども、歴史的にインド・アーリア人の接 者互いに牽制し合って、身動きのできない状態の讃歌集を伝えた。それより前四、五世紀までクリット語の一特徴となっている。 をいう。「みつどもえ」 ( 三つ巴 ) ともいう。こ のサンスクリット語の古層を通常「べーダ語」 このように複雑な文法体系はすでに前二世紀触した異民族の言語の影響を受けた。このなか の三竦を用いたものに、二人相対座して行う遊と称する。べーダ語は古典サンスクリット語よ に確立したが、著名な詩人といえども文法的誤でもっとも重要なものは、主として南インドに びゅう 戯、拳がある。親指をカエルに、人差指をへビ り複雑な変化を有し、特殊語彙を含み、時代謬を免れえず、いわんや一般庶民がこれらを分布しているドラビダ諸語で、サンスクリット 小指をナメクジに見立てて行う虫拳、ま的、地理的にも多彩な様相を呈している。前四忠実に遵守することは不可能であった。叙事の語彙に混入し、構文論にも影響の跡をとどめ しょつや しかている。 た、キツネ ( 狐 ) は鉄砲に負け、鉄砲は庄屋世紀ごろ文典家パーニニが現れて、当時の教養詩、なかんずく『マハー ーラタ』の一一一一口衄よ とうはちけん 〔伝播〕サンスクリット語はバラモン文化の媒 に負け、庄屋はキツネに負けるとする藤八拳人の一一一〕語に範をとって文法規則をその細目にわなりの不規則形を含み、プラーナ文献は繊細な きつねけん ( 狐拳 ) 、そして現在も遊ばれるじゃんけんのたって論じ、古今に冠絶する規範文法を編ん文法の味わいを無視して、「通俗サンスクリッ 体として、その波及に伴ってインド以外に伸 石、はさみ、紙もこの三竦を原形とする。江一尸だ。前二世紀までには、カーティャーヤナ、 ト」の様相を呈している。初期大乗仏典のサンび、タイ、ビルマ、カンポジア、ジャワなどの ごうかん じらいやにつけっ でんば 時代の合巻とよばれる挿絵小説『児雷也豪傑タンジャリが現れて「バ ーニニ文典」をさらに スクリットは、さらに正規の文法より逸脱する南海諸島に伝播した。また、仏教の伝播に伴っ ものがたり みずがきえがお ふえん 譚』 ( 初編一会九。美図垣笑顔ら作 ) は、この敷衍し、ここにサンスクリット語は文字どおり こと甚だしく、語彙も俗語起源のものを多く混て、中央アジア、中国より日本にまでサンスク ヘビ、カエル、ナメクジの三竦を趣向にとった「洗練され、完成された」言語として確立した。用し、独特の仏教混交梵語を形成している。た リットが伝えられている。真一言密教の儀式や佗 作として有名である。 〈棚橋正博〉 羅尼の類はサンスクリット原音を音写して伝 かくてそれ以後の優れた文筆家はバー一三文法だし、後期大乗仏教の論師たちのサンスクリッ だんな ご Samskrit 古の規則に細心の注意を払い、これにのっとるこ トは正規のそれに近づいている。 え、また日本語の語彙のなかにも、旦那、袈 サンスクリット語 がらん 代インドの雅語、文章語。中国および日本では とを旨としたから、サンスクリットは文典家の 〔プラークリット語との関係〕正規の標準的教裟、奈落、伽藍など、もとサンスクリットに淵 ^ 原実〉 梵語ともいう。元来「浄化、洗練、完成」を意定めるところによって固定化し、言語に自然な養語サンスクリット語のかたわらに、インド・ 源するものが少なくない。 味する動詞サンスクリ samskr- の過去受動分推移や変化はこの言語には原則として跡づけえ アーリア語は、既述の通俗語、プラークリット回辻直四郎著『サンスクリット文法』 ( 一九七四・ 詞サンスクリタ samskr-ta よりつくられたもぬこととなった。その意味で、サンスクリット 諸語の発達をみた。これらの俗語は歴史的、地 岩波書店 ) ▽同著『インド文明の曙』 ( 岩波 ので、「浄化、洗練された」「完成された」言語 は人為語、教養語の性格をもち、官用語や日本理的な方言的差異を提一小し、サンスクリットに 新書 ) そうろうぶん シャー bhäsyä) を意味し、プラークリ の候文に比較されるが、その作品に汎インド 比して、音韻論的にも形態論的にも単純化の傾三助さんすけ江戸時代における下男、 もの タ präkrta 「自然な、粗野な、人手の加わって的妥当性を期し、名を後世にとどめようとした向を示しているが、他面、サンスクリットのよ者など奉公人の通称。三介とも書く。この三は たいせき おの すいさん いない」言語、すなわち俗語、方言と対蹠され者はつねにサンスクリットで己が文章を綴った うに画一化されることがなかったために、形態炊爨の「さん」の意である。飯炊きその他雑用 る。また、同じ動詞より派生した名詞形サンスから、哲学、文学、宗教にわたるインド文化の 論のうえでは多数の形が並存して、多彩を極め に従事するからで、下女を「おさん」ともよ カーラ samskära は、古代インド人がその人精華はこの一一一一口語によって伝えられたということる。そのなかには、最古の文献『リグ・べー ぶ。その後、三助といえば一般に銭湯の下男を キ一し、・つな・つ 生の重要な段階において受くべき一連の通過儀ができる。これが、古典インドの文化の理解に ダ』に淵源するものもあるが、その方言分布のさすようになったが、このような呼称は享保 礼を意味したから、そこにはまた宗教的な意味サンスクリット語の知識が不可欠とされるゆえ様態は前三世紀のアショカ王の法勅碑文群にう ~ 三六 ) のころからといわれる。田舎から えっちゅう 合いが込められている。いわば、俗に対するんである。 かがうことができる。また正統バラモン教に反同郷など縁故を頼って奉公する若者で、越中 えちご 聖、自然に対する人工の意味合いが濃く、これ〔文法〕名詞は性に男、女、中の三性、数に 旗を翻した仏教やジャイナ教は通俗語をもって ( 富山県 ) 、越後 ( 新潟県 ) の出身者が多かっ たきぎ らがこの言語を特徴づけている。それは、この単、双、複の三数 ( したがって複数は三つ以 彼らの聖典を伝えたから、 ーリ語、アルダマた。見習いの間は、昼は焚木とか古材などの燃 一一一口語を使用する人たちの教養のほどを計る教養上 ) 、格に主格、対格、与格、奪格などの八格 ーガディー語はプラークリット語の古層を伝え料になるものを集め、夕方からは下足番を勤め かまた 語であり、またカトリック教会におけるラテンを備え、母音・子音にわたる多数の語幹がこのる。中世にはいわゆる戯曲用プラークリットがる。二、三年して釜焚き番をしながら流しに出 語のように、現在でも改まった儀式の席ではサ枠内で変化する。形容詞の変化は名詞の性に従あって四種 ( シャウラセーニー るようになって三助とよばれる。流し専用の桶 シュトリー ンスクリット語が語られている。 マーガディー 、代名詞は人称代名詞、指示代名詞、関係代 パイシャーチー ) を用意し、湯銭のほかに流し代を払った浴客の 一七八四年、イギリス人、ウィリアム・ジョ名詞など、名詞と同様な枠内で変化するが、格を数え、戯曲に登場する婦人、道化師などは、注文により、その専用桶を使って背中を流し ーンズがサンスクリット語と西洋古典語の類似 によって独特な語尾を有する。 教養あるバラモンや王族がサンスクリットを語 た。昭和の初めごろでも、一人前の三助になる を指摘して以来、インド・ヨーロッパ語比較言 動詞は、異なった活用の仕方に従って一〇種るに対して、これらのプラークリットを語る。 には普通一〇年かかった。年李を積むと番頭に 語学の成果はこの言語の系統を明らかにした。類に分類され、態に能動、受動、中間の三を数これらプラークリット諸語は時代とともにさら なるが、番頭は主人のかわりに番台にも座る。 サンスクリット語の古層は古イラン語ときわめえ、法に直接法、可能法、命令法、時称に現 に変化し、アパプランシャ語の段階を経て、近技術を覚え、資金を蓄えて三〇歳前後に独立し して近く、両者はインド・イラン語派を形成し、在、末来、過去を数えるが、過去時制はその様代インド・アーリア語 ( ヒンディー べンガリ て銭湯の経営者になるのが普通とされていた。 グジャラーティー す・それはまたギリシア語、ラテン語、ゲルマン 相に準じて半過去、完了、アオリスト ( 不定過 マラーティーなど北イ図ざくろロ 〈稲垣史生〉 りきゅ、つ SanSS()t1C1 ンドの現代語 ) に連なっている。したがってイ ん語、スラブ語などと姉妹関係にたち、これらは去 ) の三を含んでいる。第二次活用として使役 サンスーシ離宮 えんげん 六、すべてインド・ヨーロッパ語に淵源している。 法、希求法、強意活用、名詞の動詞化などがあンド・アーリア語史は、べーダ語より俗語プラ 一八世紀ドイツの代表的ロココ建築で、プロイ ばんご 415

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〔生活革命〕産業革命は綿工業から起こってくる。どうして産は飛躍的に増大した。その中心は南ウェールズ、バー 産業革命がヨーロッパの伝統的産業である毛織物工業からでガム周辺の中部地方およびスコットランドである。また機械 はなく、ヨーロッパにまったくなじみのなかった綿工業から工業においては、従来の時計工業、水車・馬車製造業におけ ・モーズリーおよ 起こってくるのか。その歴史的背景として、一七世紀後半にる伝統的技術を受け継ぎながら、ヘンリー おけるイギリスのアジアとの接触、それがもたらした生活革びその三人の弟子リチャード・ロバーツ、ジェームズ・ナス 命に注目する必要がある。 ミス、ヨゼフ・ホイットワースらによって、精度が高く自動 当時のアジアは豊かで、優れた文化が栄えていた。茶、陶化された旋盤や工作機械がつくられるようになり、一八三〇 磁器、絹、綿布などはヨーロッパ人のあこがれの的となった年以降には機械による機械の大量生産体制が確立した。 が、なかでもイギリス東インド会社がもたらした美しく染色〔鉄道の出現〕産業革命の技術的、生産力的成果の総仕上げ したインド・キャラコは、イギリスをはじめヨーロッパ人のは鉄道の出現である。鉄道の初期の歴史は石炭輸送をもって 尸に新奇なファッションとして人気を集め、一種の衣料革命始まったが、スティープンソンの発明した蒸気機関車は、そ を引き起こした。綿布はドレスのほか、べッドのシーツ、カの速度と能率において画期的な成功を収め、鉄道時代を迎え ーテンにも利用できるため、綿製品に対する需要が庶民の Ⅲるに至った。まず一八二五年には石炭を炭坑から水路まで運 に急速に広がった。その需要にこたえて、インド綿布に太刀ぶストックトンーダーリントン鉄道が開通し、ついで三〇年 にはマンチェスターーリヾ 打ちできる綿製品の製造が、一八世紀初めのイギリスの国民 ノブール鉄道が開通して商業的成功 的課題となった。原料の綿花は西インド諸島においてアフリ を収めた。その成功に刺激されて鉄道網は急速にイギリス全 カ奴隷を労働力とするプランテーションで栽培されたが、綿土に拡大し、産業資本循環の大動脈を形づくるとともに、国 工業それ自身は、イギリス本国と西アフリカと西インド諸島内市場が一挙に広がった。 て西ヨー を結ぶ三角貿易で栄えていたリバブールへ原綿が輸入された イギリスに始まった鉄道建設は、すぐそれに続い 事情もあって、リバブールの後背地マンチェスター周辺で始ロッパ諸国やアメリカ合衆国において急速に進められるとと まった。綿工業を推進したのは、旧来の支配階級であった地 もに、一九世紀中ごろ以降になるとインド、ラテンアメリカ 主や伝統的織物業者ではなく、主として商人およびヨーマン諸国など後進地域へも鉄道が広がり、鉄道はまさに産業文明 とよばれる農民であり、その多くは宗教的には非国教徒で、 のシンポルとなった。こうして世界の鉄道総延長は、一八四 国家の援助もなく、自助の精神で企業家になった人たちであ七年には二万五一〇〇キロであったのが、五七年には八万二八 つつ ) 0 〇〇キロ、六七年には一五万五七〇〇キ。へと飛躍的な発展を遂 経過 鉄道建設のためには、莫大な資金、建設資材、技師、労働 〔綿工業が主導〕こうして産業革命は綿工業から始まった。者を必要とするが、これらすべてを自給できたのはイギリス とびひ だけで、大陸諸国、アメリカ合衆国、未開発諸国において 綿工業における機械の発明は、ジョン・ケイの飛杼の発明 ( 一七三三 ) から始まり、紡績部門ではハーグリーブズのジェ一一は、初期の鉄道建設にあたって、資金、レール、機関車、建 設技師など、なんらかの形でイギリスに依存したのである。 ー紡績機 ( 一七六四 ~ 六七 ) 、アークライトの水力紡績機 ( 一七六九 ) 、 クロンプトンのミュール ( 一七七九 ) 、ロバーツの自動ミュール、 しかし先進資本主義国においては、鉄道建設。フームは、ロス ) の発明によ トウのいうティク・オフのための主導部門を形成し、鉄道主 織布部門ではカートライトのカ織機 ( 一七会 ~ って、蒸気力を動力とする機械制工場生産が確立した。その導型の産業革命を引き起こすことで自立的国民経済の形成に 中心はマンチェスターおよびグラスゴー周辺であった。綿工著しい役割を果たした。一方、後進的農業諸国における鉄道 業の発展は、鉄工業、石炭業、機械工業といった関連諸産業の導入は、かならずしもティク・オフへの契機にならなかっ たばかりか、かえってイギリス資本への従属を強める結果を の発展を促し、石炭と鉄の時代を現出した。 もたらした。 よ鉄工業における技術革新で注目すべきは、銑鉄生産過程に キ、おけるエイプラハム・ダービー一世によるコークス炉製鉄法 政治の変化と世界経済の支配 ん ( 一吉〈こしと、鍛鉄生産過程におけるヘンリー・コートのバ 六、ドル法 ( 一天三 ) である。とくにバドル法の発明によって鉄生〔自由主義経済体制へ〕産業革命は単に経済構造の革命的変 ばくだい 産業革命 / イギリス産業革命年表 一七六〇このころエンクロージャー盛んで、中産農民没落 ワースレイ炭坑ーマンチェスター間に運河開通 ーグリーブズ、ジェニー紡績機発明 ( ー六と 一七六四 ハプール間に運河完成 一七六七マンチェスター 一七六九アークライト、水力紡績機の特許を穫得 一七七九クロンプトン、ミュール紡績機を発明 ワット、 複動式蒸気機関 ( 動力機 ) を発明 ト、パドル法を発明 ( 、八四 ) 一七八五カートライト、カ織機を発明 ( 、八七 ) 一七九〇運河狂時代 ( 九〇年代初め ) ・モーズリ 、旋盤を発明 一七九七ヘンリ 一七九九「団結禁止法」 ( ー一八 00 ) 最初の「工場法」制定される 一八〇四 トレビシック、蒸気機関車を発明 ラダイト ( 機械破壊 ) 運動 ラダイト運動激しくなる 一八一三東インド会社、茶以外のインド貿易の独占権廃棄 される エリサベス「徒弟法」の廃止 ( ー一四 ) 一八一四ジョージ・スティープンソン、蒸気機関車試運転 一八一五「穀物法」発布 ラダイト運動再発 一八一九「工場法」九歳以下の児童の雇用を禁止 ピータールー」唐板事 . 件 一八二四「団結禁止法」撤廃される 一八二五ストックトンーダ . ーリントン間に鉄道開通 労働組合承認される 恐慌起こり、銀行、会社が多数破産 ロヾーン、自動紡績機を発明 バブール鉄道開通 一八三〇マンチェスター このころマンチェスター ガムなどの新興工業都市の人口一〇万人を超える 一八三二選挙法改正法案成立 一八三三東インド会社、中国貿易を開放 「工場法」工場監督官制度を採用 一八三四「救貧法」改正。全国労働組合大連合結成 一八三七恐慌起こる 一八三八チャーティスト運動始まる 一八四一一鉱山における婦人、幼年者の地下労働を禁止 第二回チャーティスト運動。中間恐慌起こる 一八四一一一機械輸出解禁 一八四四「工場法」九ー一八歳の労働時間を一日一〇時間に 制限。鉄道熱 ( ー四六 ) 一八四六 「穀物法」廃止 一八四七恐慌起こる。一〇時間法通過 一八四八第三回チャーティスト運動 一八四九「航海条例」廃止される ロンドン万国博覧会 一八五一 357

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さむかわ 流れを位置づけたことは有名。また同寺でチベ せられた。一九〇八年から雑誌に作品を発表し大学の助教授となり、四七年以来教授。第二次ガル、ビハール、ノザン・サルカールズ ( オリ ットで初の出家者六人の授戒、仏典のチベット ソサ南部からアーンドラの沿海地帯 ) で土豪領 はじめ、中編『ある地方の物語』 ( 一九一一 I) 、『地世界大戦中からアメリカ政府の経済関係機関の の果てで』 ( 一九一四 ) では、地方の生活をグロテ顧問や評議員などを務め、ケネディ大統領の経主型のザミーンダールを法制上の土地所有権者語訳が多く行われた。寺全体が仏教世界観を表 しゆみせんししゅう し、三層の本堂は須弥山、四洲八小洲・日月の ⅱ地租納入責任者とする制度を採用したが、こ スクな話体で描いた。一五年に砕氷艦建造のた済顧問としても活躍した。また計量経済学会や みどう ばつばっ アメリカ経済学会などの会長も歴任し、内外のれをザミーンダーリー制という。また、一九世御堂を配置して建てられたが、現在もその跡を めイギリスに派遣されるが、革命勃発を知り一 〈金岡秀友〉 とどめている。 紀には北西州、ついでアワドでタールクダール 七年秋に帰国、そのころから本領を発揮しだ 新聞や雑誌に多くの評論・時論を書いている。 、プ Samuel 古代 という在郷領主層に同じ権利義務を認めたが、 す。イギリス紳士の偽善を痛烈に暴いた中編 彼の研究業績は、理論経済学だけでなく、 サムエル第 m 一ライ イスラエルの士師 ( 神の霊力を受けた指導者 ) 、 『島の人々』『人間狩り』 ( ともに一九一 0 は、ゴ量経済学、統計学、数学などきわめて多岐に及このタールクダーリー制もザミーンダーリー ーゴリ、レスコーフの伝統を受け継ぎ、べールぶが、あえて分類すれば、乗数理論と加速度原の一種であり、・ヘンガルなどでは地租額が永代祭司、預一一 = ロ者、神の人。エフライム出身。イス イ、レーミゾフの影響を受けた、律動的・交響理の統合、公共経済学への先鞭、バーグソンー 固定されたのに、北西州などではおおむね三〇ラエルの王国成立に重要な役割を果たしたと考 えられるが、複数の伝承が混在し、一義的に人 的でグロテスクな「語り」の文体 ( いわゆるオサミュエルソン型社会厚生関数をはじめとする年ごとに地租額が再査定された。 りゅう サミーンダーリ ー制のもとでは、初期にはか物像を抽出することはできない。サムエル自身 ーナメンタリズム ) を明確にした。『竜』 ( 一九厚生経済学への寄与、貨幣・利子理論などの巨 どうくっ ヘリシテの圧迫に苦しむ は王制に反対したが、。 視的経済理論の面と、需要理論における顕示選なり多数のザミーンダールが過大に査定された 一 0 、『ママイ』『洞窟』 ( ともに一九一 (0) 、『洪水』 ( 一九一一九 ) などの作品は、ファンタジーを通じて、好理論の提示、 ( 非 ) 代替定理による産業連関地租の滞納に陥り、所領を政庁の競売処分に付民の意思に従ったともいわれる。神のお告げを それによりかえってよりリアルに革命直後の都分析への寄与、ターンパイク定理などによる最されて没落した。競売地を買い取った者たち知らせる預一言者として、サムエルはサウルをイ 市市民の日常生活を描き出している。政治宣伝適成長理論、安定条件論、動学理論などの新古は、近隣の他のザミーンダール、地柤を滞納しスラエルの君 ( ナギード ) と認め、彼に油を注 よういん ぐ儀式を行い、王とした。しかし、サウルが神 を排し、芸術の自律を目ざした作家グループ典派価格理論の面とに分けられよう。これら業たザミーンダール自身の所領管理傭員、政庁の りし画うしゅう のことばに背いたために、サムエルは、新た 地方下級官吏、商人などであり、滞納者自身の 「セラピオン兄弟」の領袖として、若い作家を績の摂取、批判、発展をめぐって現代経済学が にダビデを選んで油を注いだ ( 「サムエル記」 進路づけられているといっても過言ではない。 他人名義による買い戻しもまれではなかった。 鼓舞、育成する役割も果たした。アンチ・ユー 一六、一九、二八章 ) 。↓サウル↓ インドの大反乱 ( セポイの反乱 ) 以後の北イン上・一 トピア小説『われら』 ( 一九一一 0 執筆、一九一一四英訳 ) 二大主著としては、経済分析の方法論を展開し ^ 市川裕〉 は合理主義の行き着く果ての全体主義社会を予た『経済分析の基礎』 ( 一九四七 ) と、近代経済学ドでは政治的配慮からタールクダールの所領喪ダビデ き The book of Samuel 測した。スターリニズム体制の強まりゆくなかの標準的教科書『経済学』 ( 初版・一九哭 / 一四失を防ぐ措置が講じられるようになった。 サムエル記 サミーンダーリ ー制は結局は農民から搾取す『旧約聖書』中の歴史書で、元来は一巻の書で でしだいに仕事がしにくくなり、ことに二九年版・一九ハ 0 ) があげられる。一九四七年にジョ 『われら』のチェコ語訳からのロシア語訳がプン・べーツ・クラーク賞を、七〇年にノーベルる地代に寄生するだけで、農業生産には一物をあったが、紀元前三世紀のギリシア語訳聖書で 「列王紀」上下といっしょにされ、「王国の書」 ラハで出版されたため、激しい非難にさらされ経済学賞を受賞。↓経済学 ( 書名 ) 〈一杉哲也〉も寄与しない地主をつくりあげただけであり、 三二年バリに亡命した。なお戯曲や評論にも優回佐藤隆三訳『経済分析の基礎』 ( 一九六七・勁草彼らのある部分の富と力とは大きかったにせの二巻本となった。それ以来「サムエル記」は 書房 ) ▽・ドーフマン、・・ソロー よ、農村社会の実質的な権力は村方地主として上下に分かれた。本書は、イスラエルに王国が れた作品がある。↓セラピオン兄弟〈小平武〉 ・・サミュエルソン著、安井琢磨・福岡土地を集積した富農層が担うようになっていっ成立した事情、そして初代サウル王とダビデ王 回小笠原豊樹訳『われら』世界の文学 4 ザ ー制の統治まで ( 前一 ~ 前一〇世紀の約一世紀 ミャーチン / プルガーコフ』所収・一九七六・集 正夫・渡部経彦・小山昭雄訳『線型計画と経た。独立後のインドでは、ザミーンダーリ 間 ) を記している。ここには資料の系統など多 済分析』全二巻 ( 一九大 、五九・岩波書店 ) その他の植民地的寄生地主制は、有償ではあっ 英社 ) ▽川端香男里訳『洞窟』 ( 『現代ロシ せい 0 ザミー くの文学的伝承層が認められ、預言者にして士 たがいちおう全国的に廃止された。一九五〇年 ア幻想小説』所収・一九七一・白水社 ) ▽水野サミーンダーリー制 代初めまでの第一次農業改革がこれであるが、師であったサムエル ( 前一 0 四 0 ころ登場 ) 没後の王 忠夫訳『島の人々』 ( 『現代ソヴェト文学人ンダール 国史を語っているので、著者は、ユダヤ教タル 富農層の土地と貧・雇農層に対する地主的支配 集 1 』所収・一九六七・新潮社 ) サ = 、ーンダール zamindär ベルシア語 ムードが伝えているサムエル自身ではなく、そ で「土地所有者」を意味するが、イランの用語 は依然続い ており、現代インドの深刻な農村・ サ、、、ユエルソン paul Anthony Samuel- 〈高畠稔〉 の伝承記者たちで、最終的には、おそらく前六 son ( 一九一五ー ) アメリカの理論経済学者。ではなく、ベルシア語を公用語とするインドの農民問題の一因となっている。 ムスリム諸王朝、ことにムガル朝以後の北イ回川田侃編『インドの経済開発と土地制度』世紀前半の「申命記」史家が諸資料を客観的に 一九三五年にシカゴ大学を卒業、四〇年までハ まとめたもの・ O ・カールソン、・ノー ンドとべンガルで制度用語として確立された。 ( 一九ハ一・アジア経済研究所 ) ード大学大学院に学び、四一年同大学から トなどの説 ) である。サムエルの少年時代、サ しかし均質一様な社会層ではなく、ラージャ じ bsam-yas 中国、チベッ 博士号を得た。四〇年にマサチューセッツ工科 サムエ寺 ( 王 ) と称し、軍隊、警察、裁判機構を備えてト自治区の区府ラサ市の南東ャルルン地方にあウル英雄史話、王国成立、ダビデ登場、ナタン 広大な領域を支配し、ムガル皇帝の授権証書に る寺。正しくはベル・サムエ・ミンギュル・フ預一言とダビデ王国、優れた歴史記述である「王 ンドウブ・フクラカンという。インドのオーダ位継承史」ほかを通じて、一貫した神の選びの よって公租徴収と治安維持に任じられたべンガ ルの土豪領主Ⅱ在郷官僚型から、一村落の土地 ンタブリ寺を模して七七五 ~ 七七九年に建立。連続性が本書の主題となっている。〈吉田泰〉 を世襲的に占有する親族団体の成員として団体このころのチ・ヘットは仏教興隆の気運に向かサムエルソン 0 サミュエルソン しようなん 外の住民に優先する土地権益をもつ、北インド い、インド、中国から高僧が入国し、宗義上の寒川 ( 町 ) さむかわ ( まち ) 神奈川県湘南地方 の土地所有共同体農民型までの、多様な存在形論難も激しくなってきたが、チソンデッエン王のほば中央、高座郡にある町。一九四〇年 ( 昭 まかえん * 一がみ 態が認められる。 は同寺にインド僧カマラシーラ、中国僧摩訶衍和一五 ) 町制施行。相模川とその支流小出川と め ~ 、〕しり の間に広がり、中央を目久尻川が南西へ向かっ イギリス東インド会社は一八世紀末からべンを招いて宗論を行わせ、以後のチベット仏教の サミュエルソン せんべん 1 一 = ロ 249

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さとう かんしょ あ 日本への砂糖の渡来は奈良時代、七五四年 さとうサトウキビ ( 甘蔗 ) またはサ 食品で、ゆでて和え物、含め煮、みそ汁の実な「十五夜」といって、サトイモを供える風習は 砂糖 がんじん てんさい レ」、つ↓・′、 トウダイコン ( 甜菜 ) を材料としてつくったサ ( 天平勝宝六 ) に唐僧鑑真が来日の際、黒糖を どに調理する。塊茎を高温多湿の暗いところで全国に広く分布する。鳥取県東信郡ではこれを めいも 持ってきたのが最初といわれている。「東大寺 ッカロースを主成分とする甘味料。シュガー 発芽させた葉柄は芽芋とよばれ、白色で歯切れ「芋誕生」とよび、サトイモを初めて掘る日と sugar¯フドウ糖、麦芽糖など、他の甘味をも献物帳」 ( 七五六 ) にも「蔗糖」の記事がみえる もよく、汁の実などにされる。 〈星川清親〉 していた。十五夜はサトイモの収穫儀礼であっ がもう ひの が、これは薬用に用いられていた。室町時代に 〔民俗〕日本で古くから栽培されていたサトイ たらしい。滋賀県蒲生郡日野町中山では、九月っ糖類を含めることもある。 〔歴史〕砂糖の歴史は非常に古く、紀元前三一一入って、中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸 モは全国でつくられ、九州や四国の山間部では 一日に東谷、西谷の両集落がそれそれ持ち寄っ 主食の一部にもなっていたほど重要な作物であたサトイモの長さを神前で競い合い、年占をす七年、アレクサンドロス大王がインドに遠征軍入も多くなった。しかしその量は微々たるもの 〈湯川洋司〉を送った際、その司令官ネアチェス将車がインで、同じような状態が江戸時代まで続いた。 る。単にイモ、エグイモ、イへツィモ ( 『本る「芋くらべ祭」が行われる。 けいちょう ちょうしよっかん ドで発見したという。彼は「ハチの助けを借り 日本に製糖法が伝わったのは、慶長年間 か 8Araceae 単子葉植 朝食鑑』 ) ともよばれていたが、湿気を好むサトイモ科 あまみ すなおかわち みつ ~ 一六一五 ) 奄美大島の直川智が台風のため 性質があり、田でも畑でも栽培されたことか 物。テンナンショウ科とよぶこともある。地下ずに、葦の茎から蜜をつくっている」と報告し ( 一五九六 ら、タイモ、ハタイモとよぶ所もある。普通は に根茎、球茎があり、または地上茎があってしている。また、前三二〇年には、インドに駐在中国福建に漂着し、そこで甘蔗栽培と製糖の技 ゅ 子芋を茹でたり、煮たり焼いたりして食べる ばしば樹上に着生する。一部水生のものもあしたことのあるギリシア人メガステネスが、砂術を習得、ひそかに蔗苗を持ち帰って植え付け げんろく が、茎を食用にする所もある。正月の雑煮にはる。全体にシュウ酸カルシウムの結晶を含むこ糖のことを「石蜜」と紹介した。石の字が使わたのに始まるという。『南島雑話』には元禄年 りゅう もち 日 ~ 一七 0 四 ) 創始説も記されている。琉 なくてはならない食物であり、また「餅無し正とが多い。葉は互生し、単葉または複葉で、網れているところから、当時すでに固形の砂糖が きゅう 用いられていたと考えてよい。中国の文書では球では、一五三四年 ( 天文三 ) 甘蔗の栽培が 月」の習俗を伝える地域 ( 全国的にみられる状脈または平行脈がある。花序は肉穂花序で、 ぶつえんほう 行われていたことが記録にみえるが、製糖は奄 が ) では餅の代用にもされた。正月にオカンと普通、基部につく一個の仏炎苞に囲まれ、異臭『異物志』の記載が最初で、それには交趾 ( べ ぎましんじよう 美より遅れ、一六一一三年 ( 元和九 ) 儀間真常 トナム ) に甘蔗糖のあったことが紹介されてい を発するものが多い。花は両性または単性、単 よぶダイコンとサトイモを煮たものを年神に供 ′」かんじよ かひ える所や、九州の山村では正月の神棚にサトイ 性のものでは普通は花被片がない。雌しべは一る。また『後漢書』 ( 一 ~ 三世紀の中国の史書 ) が村人を貢船に便乗させて福建に遣わし製糖技 モを供えるなど、神祭りにはサトイモがなけれ個、多くは液果を結び、種子には普通は内でもインドに石蜜のあることが記されている。術を習わせたことによる。 き力い 、こつま にゆ、つ 薩摩藩は、三島 ( 大島・喜界島・徳之島 ) の 乳がある。世界に約一一五属二〇〇〇種があこれらのことから、砂糖はインドで初めてつく は収まらないとする考えが日本人にはあった。 られたと考えられ、その原料となったサトウキ砂糖惣買入れを始め、琉球産にも貢糖制度を定 り、大多数は熱帯、亜熱帯に分布し、温帯には 旧暦八月一五日の満月の晩を「芋名月」とか ビは、前二〇〇〇年ごろインドですでに栽培さめて収奪を図った。黒糖のはか白糖もっくられ 数が少ない。日本には一二属約五〇種がある きび たが、黍汁一斗から黒糖五 ~ 六斤が得られるの が、過半数はテンナンショウ属に属す。サトイれていたようである。 に対し、白糖はわずか一斤弱にすぎなかった。 砂糖は五 ~ 六世紀ごろには、インドから中 モやコンニヤクなど、食用などにするものがあ よしむね 八代将軍吉宗は、砂糖の輸入を制限し、国産を り、またアンスリウム、カラー、モンステラ、国、タイ、ジャワに普及した。一方、中央アジ フイロデンドロンなど観賞用とするものも多アを経てヨーロッパにも伝わった。八世紀にな奨励した。和製砂糖は初め薩摩藩の独占的産物 さめき 〈邑田仁〉ると、キプロス島を経て地中海沿岸にも普及であったが、江戸末期には、讃岐、阿波、土 いずみかわち し、その後アフリカ南部にまで移植された。一佐、和泉、河内などでも製糖が行われ、白砂糖 四九二年コロンプスのアメリカ大陸発見後、ス 祭南つでなし印 ペイン人、ポルトガル人が新大陸に進出すると い甲切んろ刺 3 る 俗な郡をでこに 1 す ともこ、キューヾ、 プエルト・リコ、メキシ 竹月を 民こ賀モ , い コ、プラジルなどの中南米諸国にもサトウキビ / お甲イ顔さてい願 め祈 モの県トの の栽培を伝えた。これらの地方は、一六世紀ご イ寺賀サ男鼓描初事 , 太をの農 ト照茲 ろには世界屈指の砂糖産出国にまで発展した。 サ浄町てんど年に 0 起源地 ーーや伝播経路 サトイモ / 起源と伝播 はん ① ② とし - つら あし せきみつ 183

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て、言語形式と文化との厳密な対応関係を否定ルの丘に集い誓約するところがあり、四〇年、 比べてはるかに小さい ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認され したが、その関連性を否定したのではない。ま この原因はまだよく解明 る。これより先、ポルトガル国王は東インドに されていないが、添加し た、習慣的な思考の溝としての一一 = ロ語記号の働き イエズス会の優れた人材を派遣することを望ん た微量元素のために表面に注目するとともに、潜在的な無意識を扱うた のさびの非結晶化がおこめの操作的手段としての顕在的な一一 = ロ語記号を重だので、ザビエルが選ばれ、四一年、彼はリス ポンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴ り、被膜の割れ目が減じ 視した。このことから、ことばと人格の関係に 保護作用が強化されたもついても貴重な考えを一小した。言語と思考の関アに至った。 行 ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管 のとされている。クロム係についてのサピアの主張は、彼の影響を受け 区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめ やニッケルなどを合金と ながら独創的な言語論を築いた・ *-2 ・ウォー 電の ふ び インド各地を巡り、さらに一五四五年から四七 一したステンレス鋼 ( 不フの考えと類似しているため、後年の学者によ しゅう - 」う 銹鋼 ) は、酸化性の環って「サピアーウォーフの仮説」とよばれ、多年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布 十 境下でも不働態化を容易 くの学際的議論をよんできた。彼はまた、音声教に従事した。その間、マラッカの教会で最初 図 O の日本人として鹿児島出身のヤジロウ ( アンジ にした一連の合金鋼をさ学の研究水準を高め、言語の構造と類型の探究 六三・塙書房 ) ▽草薙正夫著『幽玄美の美学』す。用途によりいろいろな成分のものがつくらを行い、歴史一言語学、比較一言語学の研究方法をロウ ) らに会い、彼らの母国日本にキリシタン ばうせい 〈有馬道子〉 宗門を広める大いなる熱意を抱いた。 ( 一九七三・塙新書 ) ▽秋山虔・神保五弥・佐竹れている。↓防さび剤↓防錆塗料〈山崎昶〉も取り入れた。 一五四九年 ( 天文一八 ) 八月一五日にザビエ 昭広編『日本古典文学史の基礎知識』 ( 一九回井上勝也著『さびの科学』 ( 一九七九・三省堂 ) ことばの研究』 ( 一九 回泉井久之助訳『言語 さつま ルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩 ( 鹿児島 毛・紀伊國屋書店 ) ▽平林幹郎訳『言語・ 七五・有斐閣 ) ▽『さび・しをり・細み』 ( 『潁サピア Edward Sapir ( 天会ー一九三九 ) ア すおう ひらど 原退蔵著作集川』所収・一九〈 0 ・中央公論社 ) ーソナリテイ』 ( 一突三・北星堂書店 ) 県 ) 、平戸 ( 長崎県 ) を経、周防山口 ( 山口県 ) メリカの言語学者、人類学者。ドイツで生ま —FII) でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したの ▽復本一郎著『さびーー俊成より芭蕉への展れ、五歳のときアメリカに渡った。コロンビアサビエル Francisco xavier ( 一五 0 六 物」カい 開』 ( 一九〈三・塙新書 ) ち、五一年の初めに堺に達し、ついで京都に赴 大学に学び、カナダ国立博物館、シカゴ大学をキリスト教宣教師。「東洋の使徒」とよばれる。 いたが、戦乱のために天皇も将軍も権威がない 経て、一九三一年エール大学の教授になった。 イエズス会創立期の司祭で、東洋に派遣され、 さび金属表面に沈着した腐食生成物をい のを悟る。落胆のうちに西下した彼は、周防の う。普通「錆」と書くが、とくに鉄の腐食生成若き日に・ボアズに出会い、アメリカ土語の日本に初めてキリシタン宗門を伝えた。 よしたか 物をいう場合は「銹」と書くことがある。英語 記録と分析を通じて得られる新しい展望を知っ 一五〇六年四月七日、ナバラ王国 ( スペイン大内義隆を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上し ぶん の rust は鉄の銹のみを意味している。通常は た。社会科学としての言語学という把握を行 北部の地方 ) の貴族の家に生まれる。幼少時にてその好意のもとに山口で布教した。ついで豊 水分を伴うものをいい、高温酸化の生成物はス 、各言語は文化を離れては存在しないと考え同国は隣国のカスティーリヤに敗北して滅びる 後 ( 大分県 ) にポルトガル船が入港したとの知 そうりんよししげ らせでその地に移り、大友宗麟 ( 義鎮 ) に謁し ケール scale といって区別する。 た。一一 = ロ語と文化は起源的には密接な関係にあるが、ザビエルはパリ大学に留学。二七歳のとき が、言語は変化が緩やかなために、時とともに に優れた指導者イグナテイウス・デ・ロヨラのたのち、五一年ひとまず離日してインドに帰っ 〔さびの成分〕鉄の銹 ( 赤銹 ) は水和酸化物が た。翌年中国布教を志してゴアから旅立った 主体である。さらに、大気中の二酸化炭素や一一その関係は薄くなっていく傾向にあると述べ感化を受け、三四年、同志とともにモンマルト おう 酸化硫黄、食塩分などによって生じた塩基性塩 も含まれる。銅の錆は塩基性炭酸銅 ( 青錆また ろくしよう は緑青 ) が主体である。鉄の銹は通常は二層 をなし、比較的強く密着した内層と、緩い結合 の外層からできている。しかし成分は大差な く、マグネタイト ( 四酸化三鉄 ) 、ゲータイト a-FeOOH 、およびレピドクロサイト r-FeO OH が大部分である。亜硫酸ガス汚染地域では マグネタイトが減じ、かわりに硫酸鉄囲四水和 物がみられることが多い 〔さび止めの方法〕一般にはさび層はマクロ的 な割れ目が多いこともあって、腐食に対する抵 抗力はあまり大きくない。人工的に酸化被膜を つくり ( 金属が直接空気や湿気に触れないよう に ) 、それ以上のさびの進行を食い止める方法 つもアルミニウムなどでは成功している ( 商品名 一んアルマイト ) 。いわゆる耐候性鋼はマンガンや ひクロムなどをごくわずか添加した低合金鋼であ 六、るが、大気中における腐食の速度は通常の鉄に 〔図 A 〕さびの生成反応 液滴 Fe2 Fe(OH)2 Fe(OH)2 02 供給 02 不足領域 02 供給表 領域面 領域 子 電 02 十 S02 FeOOH ( さび層 ) Fe304 eS04 Fe304 子 電 子 電 鉄表面 4 0 サビエル〔上〕来日 4 0 0 年を記念してゆかりの地山口市に建立され たザビエル記念聖堂〔下〕ルーベンスご聖フランシスコ・ザビエル の奇跡」 ( 17 世紀 ) 。ザビエル ( 画面右の台上 ) が病人を治し , 死者をよ みがえらせたというインドでの奇跡を描く。ウィーン美術史博物館 225

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さるのこ り、ユダヤ人の伝承にもある。ヨーロッパでは 与えた。彼は一方で、従来から取り組んでいた回伊吹武彦他訳『サルトル全集』全三八巻 ( 一九サールナート Sarnath インド北部、バ 膨大なフロべール論『家の縣鹿息子』 ( 第一 ハンガリーやラトビアにもあり、西インド諸島 五 0 ~ 七七・人文書院 ) ▽・ジャンソン著、 ラナシ ( べナレス ) 市郊外にある仏教遺跡。サ ば、こっ 二巻一九七一、第三巻一九七一 l) を発表するとともに、 ールナートはシャーランガ・ナータという菩薩のプエルト・リコのスペイン系住民の間にも知 伊吹武彦訳『サルトル』 ( 一九五七・人文書院 ) ろくやえん てんか 他方では中国の文化大革命に影響された小組織 られているが、数は少ない。西アジアからの伝 ▽鈴木道彦他著『サルトルとその時代ーーー総名の転訛といわれ、漢訳仏典の鹿野園のこと ( マオ派 ) を支援し、発禁と押収の続くその機 合著作年譜』 ( 一九六六・人文書院 ) ▽大江健一一一で、鹿が多く住んでいたのにちなんで名づけら播であろう。アフリカのザンジバルの類話も、 関紙を防衛するために、自ら編集長を引き受け 郎・加藤周一他著『サルトルとの対話』 ( 一九れたものと思われる。ここは、ブッダガヤで釈サンスクリット文学の流れとは別個のものとは じようどう び たり、その新聞を街頭で配布するなどして、従 〈小島瓔禮〉 六七・人文書院 ) ▽ポーヴォワール著、朝吹尊が成道して最初に訪れ、五人の比丘に説法考えにくい。 しょてんばうりん 来の知識人としての行動からようやく一歩脱皮 登水子訳『娘時代』 ( 一九六一・紀伊國屋書店 ) した所、つまり初転法輪の地として名高い。今 サルノコシカケ〔猿の腰掛〕担子菌類、 する姿勢を示した。しかし、彼の肉体はすでに 日ではダメーク・ストウーパ ▽同著、朝吹登水子・二宮フサ訳『女ざか ( 高さ四三・六 サルノコシカケ目サルノコシカケ科・マンネン 衰え、唯一残る左眼もまた七三年以降はほとん り』上下 ( 一九六三・紀伊國屋書店 ) ▽同著、 タケ科・キコプタケ科の菌類のうち、とくに木 >) をはじめグプタ朝の僧院址が発掘されたま ど失明状態になり、読書や執筆活動はほとんど 同訳『或る戦後』上下 ( 一九六五・紀伊國屋書まの状態で残り、遺跡に隣接した博物館にはア質で多年生となるキノコを総称した一般名。中 こそんがん ほんそう 不可能になった。『家の馬鹿息子』もこうして 店 ) ▽同著、同訳『決算のとき』上下 ( 一九 ショカ王建立の柱頭ライオン像や、グプタ朝の国では「獨鯀眼」と書き、本草書でも獨縣眼を ぶつだ 四巻目はついに書かれなかった。その後も彼は 七三、七四・紀伊國屋書店 ) 用いる。立ち木または枯れ木に生え、棚形か馬 初転法輪を表した有名な仏陀像をはじめ、多く の石像が陳列されている。また一九三一年に建蹄形に発達し、年々成長を続けて厚さと幅を増 インタビューなどに答えて発言に努めたが、そサルトロ・カンリ山。ーーさん saltoro のぶしこうせつ れも晩年にはほとんど現実的な影響力を失い Kangri カシミール北西部、カラコルム山脈立された寺院には日本の野生司香雪の筆になるす。数十年を経過した巨大なものは径一、厚 〈永井信一〉 輝かしい名声にもかかわらず、最後の数年間は東端付近にある高峰。標高七七四二。世界第仏伝の壁画がある。 さ数十にも達する。キノコの下面には無数の くだあな けっして幸福なものではなかった。それでも、 さるのいきぎも昔話。動物どうし微細な管孔が密に並び、その内面に胞子をつく 二位の高峰が三角測量されたと同じときに猿の生肝 八〇年四月一五日にサルトルが死んだとき、フ測量され、古くは川、それ以後はピークとの葛藤を主題にした動物昔話の一つ。「海月骨る。管孔は一年ごとに新しく下側に形成される おとひめ ランスの各紙は数ベージを割いて大々的にこれよばれた。世界第二位の長さをもっシアチェンなし」ともいう。竜宮の乙姫が重病にかかる。 ため、キノコを縦断すると管孔部には多くの層 かめ - を報じ、葬儀の日には数万の群衆が自発的に 氷河 ( 七五キロ ) とコンドウス川の分水界上にそ猿の生肝を食べさせると治るという。亀が竜宮 が認められる。サルノコシカケは種類が多く、 ひつぎ 柩のあとに長い行列をつくって、戦後史上のびえる。一九一二年アメリカのワークマン夫妻の王の命令を受け、猿をだまして連れてくる分類には顕微鏡的特徴も加えなければならない 無冠の巨人に別れを惜しんだ。↓嘔吐↓存在がこの山の写真を持ち帰り、三五年イギリスのが、門番の海月が、生肝を取るのだと猿に教えが、縦断面の組織 ( 傘の肉 ) の色で大別すると と無↓弁証法的理性批判 〈鈴木道彦〉ウオラー隊、五七年シプトン隊の試登に次い る。猿は、肝は木にかけたまま置いてあるから次のように分けられる。 で、六二年京都大学学士山岳会とパキスタンの取ってくるといって逃げ帰ってしまう。海月は ①傘の肉が白色ないし黄白色で、針葉樹に生え るツガサルノコシカケ、エプリコ、オオシロサ カラコルム・クラブ合同隊によって初登頂されよけいなことをいった罰に、骨を抜かれる。 〈金子史朗〉 江戸中期の赤本の『猿のいきぎも』など文献ルノコシカケ、広葉樹に生えるカシサルノコシ にも多くみえ、明治以後も絵本や読み物で親しカケ、ニレサルノコシカケ ( いずれもサルノコ サルナシ〔猿梨〕ゝミぎ斗ミ、 g ミ シカケ科 ) 。 (Sieb. et Zucc. ) Planch. マタタビ科の落まれている。北海道のアイヌにも知られてい と・つほん 葉藤本 ( つる植物 ) 。シラクチヅルともいう。 る。古くは古代インドのサンスクリット文学に 傘の肉が黄褐色で、針葉樹に生えるモミサル つるは高い木に絡みついて登り、髄は褐色で階みえ、『ジャータカ』や『パンチャタントラ』 ノコシカケ、マッノカタワタケ、エゾノコシカ 段状の空所があり、太いものは幹が径一五との話は、漢訳経典にも入っており、日本にも知ケ、広葉樹に生えるコプサルノコシカケ、メシ 実 果なる。樹皮は縦に長くはがれやすい。葉は厚く られている。平安末期の『今昔物語集』には、 マコプ、キコプタケ ( いずれもキコプタケ科 ) 。 てんじく 右 マタタビのようにつるの先の葉が白くなること天竺 ( インド ) の話として、経典からの翻案と ③傘の肉がチョコレート色で、広葉樹に生える はない。葉柄はやや赤みを帯びる。雌雄異株思われる類話が収められている。鎌倉時代の コフキサルノコシカケ ( マンネンタケ科 ) 。 花 しやせき か、同じ株に単性花と両性花が混じる。夏、白『沙石集』にもあり、日本では、仏教説話とし ④傘の肉が紫黒色で、広葉樹に生えるクロサル ナ両 て伝来したものが、昔話になって広まったのでノコシカケ ( サルノコシカケ科 ) 。 ル色花をつけ、雄花と両性花は集散花序となり、 雌花は単生する。果実は液果でやや球状、長さあろう。猿の生肝を欲しがる理由を、妻が懐妊 ⑤傘の肉が桃色ないし紫褐色で、針葉樹に生え 約二、緑褐色に熟す。日本全土の山林に生して異常なものを食べたがる「つわり好み」と るバライロサルノコシカケ ( サルノコシカケ え、東アジアの暖帯に分布する。 している例もある。 果肉は甘酸味があり、果実酒にする。つるは インドのはか、ビルマのシャン族、中国のチ これらはいずれも普通にみられる木材腐朽菌 いかた じようぶで腐りにくいので、筏を縛ったり、 べット族、ベトナム、朝鮮など東アジアにも分で、立ち木に侵入すれば心材または辺材を腐ら かずら や 蔓橋の材料とする。徳島県の祖谷川の蔓橋は布している。これらも、インド文化の影響のもせ、風倒、風折れの原因となる。こうしたこと 観光名所となっている。また、太いつるを切るとに伝えられたらしい。インドネシアでは『。ハ によって森林は壊滅的被害を受けることがあ と、根のついたはうの切り口から水が出るのでンチャタントラ』の翻訳『カリラとダミナの物る。また庭本、公園木、街路樹なども、こうし 飲用とされ、山でのどが渇いたときに役だっ。 語』で知られている。西アジアへも、『パンチた木材腐朽菌によって風折れとなることがある 名は、果実の形がナシに似ており、サルが食用ャタントラ』の翻訳『カリーラとデイムナの物ので警戒しなければならない。ただし、木材腐 3 とするためといわれる。 ^ 杉山明子〉 語』のシリア語訳やアラビア語訳で伝わってお朽菌が直接に木を枯らすことは少なく、木が材 3 かっと、つ

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じくかて ら、神の内在性をラディカルに訴えた宗教詩人分でない場合は、車両の動軸数を多くして動軸ジグソー ハスル jigsaw puzzle 板や 4 カビールの影響の下に、ヒンドウー教とイスラ重の低減をはからねばならない。動力車はっと厚紙などを曲線形にばらばらに切った断片を、 6 ム教を批判的に統合した点にある。シク教の最めて各動軸重が均等であることが望ましく、車もとの絵柄になるようにはめ込んでゆく遊び りんね つりあいばり ・ム終目標は、ヒンドウー教と同じく、輪廻から解両のばね装置や釣合梁によってバランスをとるで、絵のほかに文字合わせ、数字合わせなども がんぐ だっ とともに車両の機器配置の重量配分について設ある知育的玩具。ヨーロッパで一八世紀中ごろ ノ脱し、神と合一することであるが、ヒンドウー 創案されたが、 当時イギリスの製図家が地図を 言・配慮が行われる。↓車輪〈西尾源太郎〉 て教的な儀礼と修行にほとんど価値を置かない。 ばイ、つ しぐぜいがん仏教用語。菩薩 ( 悟境界線で解体できる教材をつくったのが始まり また、ヒンドウー教の根幹をなす力ースト制を四弘誓願 どうばう といわれる。それ以後、考えもの ( パズル ) ゲ 否定し、イスラム教のような強固な同朋主義をりを求める人 ) がつねに心していなければなら ームとして広く楽しまれるようになった。もと ない四つの誓い。菩薩ごとに固有の誓願を別願 唱える。第四代のグル・ラームダース ( 一五三四ー というのに対し、どの菩薩にも共通した誓願では解体。ハズルといったが、工具のジグソー ( 糸 (I) が、第五代のグルに三男のアルジュンを指 しゅじようむへんせいがんど 名して以来、グルは世襲制となった。このころあり、総願といわれる。①衆生無辺誓願度鋸 ) が二〇世紀にアメリカに伝わり、材料が細 まんのうむりよう じようぶつ から、ムスリム ( イスラム教徒 ) 政権であるム ( 衆生を限りなく成仏させよう ) 、⑦燒悩無量分されるようになってから、現在の名称となっ せいがんだん ほ、つッ 0 ーれ た。ヒクチュア・パズルともいう ガル朝との緊張が高まり、グルが迫害、拷問を誓願断 ( すべての煩悩を断ち切ろう ) 、③法門 むじんせいがんがく せいさん 日本にはアメリカから輸入され、一九七四年 受けて死に至るという凄惨な事件が起こるよう無尽誓願学 ( 仏の教えは残すところなく学びと ぶつどうむじようせいがんじよう になった。このため、シク教団はしだいに軍事ろう ) 、④仏道無上誓願成 ( 無上なる仏の道を ( 昭和四九 ) 東京・上野の国立博物館での名画 色を強めていき、第一〇代のグル・ゴービン成し遂げよう ) の四大決意。どの宗派でも共通「モナ・リザ」展の開催を機にモナ・リザのジ ふくちむ ・パズル熱が盛んになり、成人層にも愛 ド・シング ( 在位一六七五 ~ 一七 00 は、ついに軍事して用いるが、真一一一一口宗では②のかわりに福智無グソー へんせいがんじゅうによらいむへんせいがんじ 集団カールサー ( 純粋 ) 党を結成し、党員は頭辺誓願集と如来無辺誓願事を用いてつごう五好されている。現在、材料は厚紙が主として使 〈新井慧誉〉われ、絵柄には名画、各地の名所、観光風景な 文字にがつく五つのもの、つまり、ケーシュ大願を唱える。 たんこ ひげ 旦ッ院徒 シク戦争・・ーせんそうイギリス東インド会ど多くの種類があり、。ヒース ( 小片 ) も五〇〇 伉リ寺教 ( 髪、髭 ) 、カンガー ( 櫛 ) 、カッチュ ( 短袴 ) 、 ム金ク 社車とシク Sikh 王国との間で二次 ( 一会五 ~ カラー ( 腕輪 ) 、クリバーン ( 懐剣 ) をつねに 個内外の初心者向きのものから、四〇〇〇個に 教キア黄シ クサ都のる備え、名前の最後に「シング」 ( 獅子の意 ) を四六、 ~ 四九 ) にわたって戦われた戦争。これ及ぶ複雑なものまである。なお、江戸時代中期 シベ聖ルま ちえのいた つけなければならないとした。彼はムガル朝と に勝利したイギリスはインド植民地化の過程をに知恵板という和製玩具が登場、角、円形など の板を集め、いろいろな形を組み立てる子供の ( 昭和一七 ) の人口三万〇三一〇。木材、毛皮の戦いのなかで子をすべて失い、自らも対立部完了した。シク教徒の勢力は、インド北西部の 〈斎藤良輔〉 ハンジャープ地方を中心として、ムガル帝国と遊びがあった。 の集散地で、日本人絹工業の工場が稼動してい 族の手で暗殺された。もはや後継者がいなかっ た。付近に内川炭田があり、樺太庁鉄道の終点 たため、彼の遺言に従い、シク教の聖典『グ一フ激しい抗争を繰り返しながら強大になってい仕ロしぐち木造、鉄骨造、鉄筋コンクリ であった。 〈渡辺一夫〉 ント・サーヒ・フ』がグルとされた。そのため、 った。一九世紀の初め、ランジート・シング ート造などの構造物を構成する柱、梁、筋かい じくかてい / チューユーチェン ( 天九 0 ー一九 この聖典は『グル・グラント・サーヒプ』とも Ra 三 it Singh ( 一大 0 ー天三九 ) が出て、シク諸 などの部材が接合される箇所または方法の一 竺可楨 せつこう 七四 ) 中国の気象・地理学者、教育家。浙江省よばれる。シク教徒はバンジャープ地方を中心 勢力を統合し、強大なシク王国を形成した。し種。柱と梁、あるいは筋かいと柱や土台を継ぐ 紹興に生まれ、南京大学を卒業。アメリカに留 に一大王国を建設したが、 一八四九年イギリスかし彼の死後、シク王国は分裂的様相を示し始場合のように、部材をある角度をもって接合す 学してイリノイ、ハー バード大学で気象学、地 との戦いで滅ばされた。↓ナーナク〈宮元啓一〉めた。フランスをプラッシーの戦い ( 一七五七 ) でるときを仕ロという。これに対して、二本以上 ぶしよう 理学を学んだ。一九一八年から武昌高等師範学 EE ・シン著、斎藤昭俊訳『インドのシク教』破って以降、インド全域にわたって征服を推しの材を材軸方向に継ぎ、一本の材に接合すると つぎて ( 一九含・国書刊行会 ) 進めてきたイギリスは、この機に乗じて二度のきを継手という。 校、南京の東南大学、浙江大学などの教授を歴 仕ロは、部材に生じている力が集中し、その 任、一一六年国立中央研究院気象研究所所長。三 じくじゅう axial weight 鉄道車両戦争をしかけて、シク王国を最終的に滅ばし 軸重 六年浙江大学学長。五〇年中国科学院初代副院の一対の車輪車軸 ( 略称して輪軸とよぶ ) が負た。これによって、インドにはイギリスに敵対大きさや方向を変えるところである。とくに、 長の職につき学術行政に貢献した。全国人民代担している車両の部分重量が左右のレールに及する勢力がなくなり、イギリスによるインド植本造や鉄骨造のように、部材を組み立てる工法 表大会常務委員でもあった。中国地理学会会ばす垂直力。片側の車輪とレールの間に作用す民地化の大枠が完成した。↓シク教〈小谷汪之〉をとる場合には、構造上の弱点になりやすく その安全性を検討する設計が重要になる。仕ロ 長、中国気象学会会長も務めた。〈市川正巳〉る垂直力の場合は輪重と称する。走行中は車輪竺仙梵僊しくせんばんせん ( 一 = 九一一ー せつこう きよう Sikkhism ヒンドウ やレールの振動などのために軸重は多少変動す鎌倉末期の臨済宗の来朝僧。中国、明州 ( 浙江 は十分な強度と剛性をもち、がたや緩みを少な シク教 くりんせいも っ る ( 動的輪重 ) が、単に軸重というときは静止省 ) の人。俗姓は徐氏。古林清茂の法を嗣ぎ、 くして、構造物の骨組の変形に追随できる粘り 教から派生した宗教の一つ。ナーナク ( 一四六九ー みんきそしゅん 一三二九年 ( 元徳一 ) 明極楚俊とともに来朝。強さをもたなければならない。 一五三 0 を開祖とし、バンジャー・フ地方を中心に状態にある場合の数値を示す。 たかとき じようみよう 鉄道車両は車輪とレールの摩擦力によって転 北条高時の命で鎌倉の浄妙寺に住した。室町 鉄筋コンクリート造の仕ロは、鉄筋のコンク 今日でも強い勢力をもつ。「シク」はシク教徒 あしかがたかうじただよし きえ 時代に入ると足利尊氏・直義の帰依を受け、鎌 のことであるが、本来は「弟子」の意味。シク動推進する粘着カ駆動を原理とする特質上、駆 リートへの定着によって耐力を発揮する。鉄骨 じようち むりよう 教徒は、グル ( 師、法主 ) の忠実な弟子である動力の伝達を受ける動軸の重量 ( 動軸重 ) が、倉の浄智寺、三浦の無量寺、京都の南禅寺、鎌造では、ポルト、高カボルト、溶接などの接合 と考えられているからである。グルは、歴史上動力車の走行およびプレーキ性能を支配する要倉の建長寺に歴住し、四八年 ( 正平三・貞和手段を用いて、ピン、ローラー、剛接合などの わじよう 素となる。大出力の動力車が必要な場合で線路四 ) 七月一六日示寂。『竺仙和尚語録』『法語』仕口が形成される ( 図 <)0 木造の場合、わが の人物としては一〇代を数える。 ちゅう せん 〈中尾良信〉国においては古来より、巧妙な木の面の取り合 シク教の特徴は、一介の織ェであり続けながの規格構造に基づくレールの軸重負担能力が十『円覚経註』などを撰した。 物い nt ! は時物 ナンキン りんぎい 0

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しつぎよ ため賃金率は資本量に正比例し労働者数に逆頭にかけて成立した独占資本主義のもとで、加 争に介入するに及んで、一八三九年イギリスの就労の機会自体を得ることができるかどうかと いうことであるが、さらに広く個々の労働能力比例する、と説いた。この賃金基金説 wages 速化される。この時代には、膨大な過剰資本が 東インド会社がダージリン地区の獲得、領有を 宣言し、四九年にはタライ平野とティスタ川下と意思とに相応する就労であるか否かも、いま fund theory は、失業の形成を労働者の高賃累積されて、生産設備の遊休が慢性化し、産業 流域を領有、一八九〇年にはシッキム全域をイ一つの基準である。個々の技能や学歴に相応す金や労働組合の賃金協定の存在に求める考え方循環の好況局面においてさえ、慢性的な大量失 業が存在するようになる。 ギリス領インドの保護下に置いた。一九四七年る就労でない場合も、たとえ就労者として現れの源流をなした。 これらに対してリカードは『経済学および課〔相対的過剰人口の存在形態〕相対的過剰人口 インドの独立とともにインドがシッキムの外るとしても実質的には失業であると考えられ、 交、国防の任にあたった。五〇年正式にインド これを半失業という。失業および半失業の存在税の原理』第三版 ( 天一九 ) において、一国の資は、産業循環の変転に伴う急性的、慢性的な形 の保護領となり、七四年に準州、七五年五月に が社会的再生産の必要不可欠な条件をなす所有本総額一定というもとでの機械の導入は、労働態を別にすれば、流動的、潜在的、停滞的とい 第一三番目の州となった。 〈米田巖〉関係は、資本主義においてである。資本主義を排除して人口を過剰にするとしたうえで、資う三つの形態、およびそれらの沈殿層としての @> ・・コエルオ著、三田幸夫他訳『シッキは、資本の平均的な価値増殖欲望にとって相対本の蓄積が機械の導入もしくは使用の拡大を伴貧民として存在する。 流動的形態は、近代的産業の中心における吸 ムと。フータン』 ( 一九七三・集英社 ) 的に過剰な人口を再生産し、彼らを失業およびって行われる場合には、労働需要は逓減する割 引と反発を通じて形成される失業形態である。 と説いた。マルクスは、 合でしか増大しない、 しつぎよう unemployment 労働の半失業の状態に陥れるのである。 失業 リカードの見解を批判的に継承して相対的過剰機械の絶えざる変革のため吸引される労働力の 能力と意思をもちながら労働の機会を得ること〔相対的過剰人口の形成と作用〕失業および半 人口の理論を体系化した。機械の採用を伴って性・年齢・熟練等級は急速に変化し、この対極 のできないでいる労働人口部分の状態をいい、 失業は、経済学の歴史のうえでは長い間社会に 資本主義に特有な社会現象である。労働能力のとって「絶対的」に過剰な人口である、と考え進む労働生産性の増大は、労働力に比べた生産に、労働力を消耗させた労働者の反発と企業規 保有とは、労働不能や病気療養中などの場合をられてきた。マルサスは『人口の原理』 ( 一七九 0 手段の分量を相対的に増加させる。資本の技術模間もしくは熟練等級間の下方移動がある。潜 除いて簡単な労働を行う能力を備えているこ において、幾何級数的に増加する人口と算術級的構成におけるこの変化は、資本の価値構成在的形態は、農業の資本主義的な発展が農業人 ロのなかに生み出す失業形態である。それは目 に、すなわち可変資本に比べた不変資本の相対 と、と理解される。また、労働意思の保有と数的にしか増加しえない食糧との不均衡から人 に見えない形で潜在化し、絶えず都市労働者へ は、争議中の労働者のような意識的な労働忌避ロの過剰を説き、これを歴史を貫く自然法則で的な増加に反映させる。この資本の有機的構成 の移行を待ち構えながら農村に滞留する労働力 などの場合を除いて、消極的にしろ就労の意欲あるとした。・・ミルは『経済学原理』の高度化は、労働需要を相対的に減少させる。 を表明していること、と判断される。最後の労 ( 天四 0 において、賃金として支払われる資本この過程は、資本の集中と原資本の技術的構成である。農村労働者の賃金は、この潜在的過剰 の変化を伴うため急速に進む。社会的総資本の人口の圧力を受けて最低限の水準にまで押し下 働機会の有無とは、字義どおりに解するならば量は一定の時点では一定した基金であり、この げられる。停滞的形態は、マンパワー man 増大は、労働需要の絶対的な増加 power 会社 ( 人材派遣会社 ) 、期間の定めのあ をもたらすが、この過程自体が、 周期的な産業循環を伴い、諸種のる労働契約、社外工、中小企業の下層、零細企 ~ 生産部面における有機的構成の変業、家内労働などに働く就業が不規則で長時間 動を引き起こすため、労働需要の労働と低賃金を特徴とする労働者の失業形態で 相対的な減少と労働力の反発を生ある。この形態は、自由に利用できる「労働力 のくめども尽きぬ貯水池」を提供し、特別に劣 み出す。 こうして労働需要はしだいに減悪な賃金・労働条件を基礎としてのみ存在する 少する比率でのみ増大し、資本蓄中小零細企業を成立させている。これら三つの 積にとって相対的に過剰な人口が形態の最底辺には、公的扶助などを受ける過剰 生産される。ひとたび形成された人口の沈殿層としての受救貧民が存在する。こ 相対的過剰人口は、資本の突発的れは、本来のルンペン・プロレタリアート ( 住 な生産拡大の条件となり、産業循所不定者、受刑者など ) を別にすれば、老齢 環の進行の基礎となる。現実の人者、障害者、病弱者などの労働不能者からなる つでも過剰人口である。 口増加にかかわりなく、い これらの形態のうち停滞的過剰人口は、独占 資本が自由に利用しうる過剰人口 は、産業予備軍としての機能を担資本主義の成立以降、独占の発展に伴う労働市 う。賃金の水準は産業予備軍の規場の分断および格差構造の創出をはじめとし 模に規制され、また、その圧力て、農業の地位の低下による潜在的形態の減 少、国家の労働力政策などによる流動的形態の 力を麓ル踊ちは、就業者が賃金の取得に際し 。山南のでた クガ脈郊前士て、労働支出量を従来以上に増大停滞的形態への再配置などによって、その比重 トン山近の道 を増加させる。 ンユヤク院修させることを余儀なくさせる。こ カジラるト寺の れはこれで産業予備軍の圧力を強〔欧米諸国の失業・半失業〕各国における失業 ム都ンマすンク教 キ州工ヒ置ガッマめることになる。これらの過程者数および失業率は、各国政府ならびに国際機 7 ッ ) 丿チむ位 シ ン望に〔ムるは、一九世紀末葉から二〇世紀初関の公表する失業統計によっても、一九七〇年 8 0 1 新

10. 日本大百科全書 10

さでい いおり ズ郊外に庵を結び、隠遁生活を送り、静かな余角的である。この意味でサディズムは性倒錯で楽とは同じ感覚である」とポードレールはい 生を過ごした。その墓は「サーディーエ」とし はない。サディズムそのものは性衝動と関係な い、「両性間の極端な憎悪こそ愛の基盤である」 て知られ、シーラーズの名所になっている。 、攻撃とか征服欲のようなものとみなされるとダンヌンツイオは述べている。サルトルの実 長い放浪の旅を終え帰郷直後に執筆した一一つ こともあるが、一般にはサディズムとマゾヒズ存主義理論の根底にも、シュルレアリスムの の名作『果樹園』 ( 一一一五七 ) と『薔薇園』 ( 一一一五 0 ムは別個に独立したものでなく、サド・マゾヒ「黒いユーモア」の基盤にも、サド・マゾヒズ によってベルシア文学史上不朽の名声を得た。 ズム sadomasochism として一つのものと考ムは重要な役割を果たしている。なお、マゾヒ 約四〇〇〇句の『果樹園』は序と一〇章からな えられる。これは性衝動そのものが能動態と受ズムは、オーストリアの作家ザッヘル・マゾッ ていねん テ る叙事詩で、正義、良策、恩愛、愛、諦念、満動態をもつものであって、こうした対立によっ ホの作品傾向にちなむ命名。↓サド↓ザッへ サ ル・マゾッホ 〈渋澤龍彦〉 足などの表題で詠まれ、豊かな人生経験と学識て性衝動がつくりあげられているという考えに コラ・カントルムに入学し、ルーセル、ダンデ に裏づけられており、教訓詩の極致として評価 よる。すなわち、両者は切り離して考えることサティャーグラハ Satyägraha インド イに対位法を学んでいる。一四年に一幕喜劇 される。『サーディー全集』には多くの優れたのできないものと考えられるのである。サディ民族運動指導者ガンディーが、一八九四年から わな 『メデューサの罠』を初演して以降、サイレン、叙情詩も収める。叙情詩は現実生活の愛や酒をズムを性衝動との関係で考えるか、無関係に考一九一四年までの南アフリカにおけるインド人 タイプライター、ピストルなどの騒音をコラー 好んで歌い、自然な感情の表現を特色としてい えるかが重要な問題となってくる。↓マゾヒズ年季雇用労働者の公民権獲得闘争を通じて生み ム 〈黒柳直男〉 ジュしてスキャンダルとなった一七年のバレエる。↓薔薇園 〈外林大作〉出した運動形態に対して与えられた名称。それ 『パラード』 ( コクトーの台本、ピカソの装置と回黒柳直男著『ベルシアの詩人たち』 ( 一 0 〔文学・美術にみられるサディズム〕フランス以後のインドでの二度にわたる彼の指導による 衣装、ディアギレフのロシア・バレエ団上演 ) 、 東京新聞出版局 ) 一八世紀の作家サド侯爵が、その作品のなか大衆的反帝闘争がこの名でよばれる。サティャ 、こうした傾向の例をおびただしく描写した ( 真理 ) とアーグラハ ( 把握、主張 ) の二語の 一八年の交響的ドラマ『ソクラテス』、二四年サディズム sadism 性目標の質的異常 のバレエ『メルキュール』 ( ピカソの装置と衣 ( 性倒錯 ) の一種で、加虐性愛ともいう。マゾ ので、サディズムなる名称が生まれた。鞭打ち合成語。一般に「市民的非服従」運動とも称さ 装、マシーン振付け ) 、同年のバレエ『本日休ヒズムとともにアルゴラグニーと golagnie などによる肉体的サディズムから、攻撃欲、権れるが、内容をとって「非暴力抵抗」闘争との まくあい とうつう 演』 ( ピカビアの台本 ) とその幕間に上映され イ ( 疼痛性愛 ) に含まれる。すなわち、性対象カ欲、精神的虐待などを含めて、その範囲はき訳が与えられる。ハルタール ( 店舗や工場など た映画『幕間』 ( ルネ・クレール監督 ) を作曲 に苦痛を与えたり、与えられたりすることによわめて広く、正常の人間にも軽度のサディズム の全面的作業停止 ) やイギリス支配の行政業務 せんべん はしばしば認められる。フロイトは、サディズ し、ダダ、シュルレアリスム運動の先鞭をつけ って性的快感や満足を得ようとするものをアル への非協力などを具体的内容とするこの連動 、ヾーレ、一フージ ゴラグニーと、 る。晩年の彼の周囲にはデゾミエールらの若い しい、能動的アルゴラグニーをサムとマゾヒズム ( 被虐快感症 ) は同一の個人のは、二〇世紀初頭にテイラク 作曲家が集まったが、二五年七月一日、肝硬変 ディズム、受動的アルゴラグニーをマゾヒズムもとに、つねに同伴して現れ、両者の差異は、 パト・ラーイら民族派指導者の生み出した「受 ろくまく と肋膜炎により、独身のままの生涯を閉じた。 という。この両者は同一人物のなかに併存する いわば純粋に技術上の問題にすぎないといった 動的抵抗」の線上にあるが、ガンディーはこれ 一つのテーマを八四〇回繰り返す『べクサことが少なくない が、最近の分析学者の説では、この考えは疑問 にいっそう深い思想的意味を与えた。彼によれ シオン』 Vexations ( 天九そ し、環境音楽を先 サディズムは、ドイツの精神医学者クラフとされている。またサディズムと男性的傾向、ば、それは個人あるいはあるグループの人々に マゾヒズムと女性的傾向との間にも、直接には 取りする「家具の音楽」 musique d'ameuble ・ ト・エービング Richard von Krafft ・ Ebing よる受動的抵抗であるが、自ら苦難を求めるこ ( 天四 0 ー一九 0 一 l) が、フランスの作家サド侯爵の実なんの関係もない。 ment の思想、譜に書き込まれたことば、非ロ とで相手 ( 敵 ) の良心に訴えかけ、その心に変 マン主義、印象主義的なユニット構造の音楽、生活や小説のなかで典型的に示したこの種の性 サド以前にも、文学や美術のなかにサディズ化をもたらそうとするものであり、それはま しやだっ 風刺と皮肉に富んだ軽妙洒脱な文章などによ行動にちなんで命名したものである。性対象に ムの表現はみられる。プラトンの『共和国』に た、真理と非暴力への絶対的信頼に基づく魂の り、近年 ( ことにジョン・ケージが一九四八年対して苦痛を与えて性的な快感を得、ついには「死刑に処せられた者の死体を見たいという欲力によって、社会的、政治的困難を排除する方 にサティ擁護の講演を行って以降 ) 再評価の気ォルガスムスに達するので、正常の性交を求め望にとらわれて我慢できなかった男」のエピソ法であるという。 運が高まっている。 〈細川周平〉ることをしない場合もある。ときには性目標に ードがあり、ルクレテイウスの『万象論』に インド民族運動の過程では、第一次世界大戦 回中島晴子著『睡れる梨へのフーガエリッ 限定せず、攻撃的で苦痛を与えることのみを目「死と戦いつつある不幸な船乗りの危難を、岸後の一九一九 ~ 一三年と、インドも世界恐慌に ク・サティ論』 ( 一九七七・東京音楽社 ) ▽『音標として追求する場合もある。こうした者はサから見ているのは愉快なものだ」という文章が巻き込まれた時期の一九三〇 ~ 三四年の二度、 むち 楽の手帖サテイ』 ( 一九八一・青土社 ) ディスト sadist とよばれる。一般に、鞭で打ある。キリストの受難や聖者の殉教や地獄の刑彼はこの名でよばれる大衆運動を指導し、農民 Musharrif al-Din Sa'di ったり、縛り付けたり、辱めるような一言動が多罰を描いた中世の絵画には、明らかに画家の無を含め、インド全域に及ぶあらゆる階級、階層 サーディー いが、単にこれらの言動を空想するだけの幻想意識のサディズムが働いている。一方、サドをの人々を反英運動へと糾合した。その意味でイ ー九 (l) ベルシアの詩人。イラン南部の によって興奮する者もある。なかには快楽殺 都市シーラーズの学者の家に生まれる。郷里で ロマン主義の源流とみなすイギリスの文学史家ンドの反帝国主義闘争史上に大きな意義をも しかん 基礎学問を修めたのち、バグダードのニザーミ人、屍姦、動物サディズムなどもみられる。↓ マリオ・プラーツは、イギリスの小説家であるつ。しかし、いすれの場合もガンディー自身の けいじじよ、つ 〈白井将文〉 ーヤ学院に留学して高度の学問を学ぶ。一二一一異常性欲 ルイス ( 通称マンク ) Matthew Gregory Lew- 形而上学的な「非暴力」理念の枠組みが絶対視 ン Charles Rob- is ( 一七七五ー天一 0 やマチューリ 六年ごろ留学を終えたが、郷里に帰らず、放浪〔心理学〕精神分析の創始者フロイトの性理論 され、その枠外へ大衆運動が発展していくのに においては、サディズムは性倒錯とはみなされ ert Maturin ( 一大一一 の旅に出立、托鉢僧として約三〇年間西アジア ー一全四 ) ( 『漂泊者メルモ対して彼自らの口から停止命令が出され、運動 各地を遍歴、神秘主義の修行に努めた。五六年ていない。幼児の性衝動は特定の対象によってス』 ) 、ポードレール、フロべール、スウイン のより広い展開を阻害した。ただ農民、労働者 快感を得ようとするものでなく、可能なあらゆ 郷里に帰り、地方王朝サルガル朝君主やイル・ ーン、ミルポー ( 『処刑の庭』 ) らを結ぶサたちは、それ以後もしばしば自らの階級的要求 ハン朝の太守の知遇を受ける。晩年はシーラー る手段を使って央感を得ようとする。いわば多ディズム文学の系譜をつくった。「残虐性と逸を掲げた運動に対しても、このサティャーグラ たくはっ ーじ、ん 180