さくせん レ グ ュ 公 ン ③ ク . ヒ 3 ン ② 系 略 年 ス 在 朝 ン ク ③ ① ようせつ を用いて発音し、キー・システムをもっことか ザクセンシュピーケル Sachsenspiegel 夭折後、一世の弟の孫ハインリヒ二世が継いでらクヌード六世の一一八五年までを取り扱い ドイツ最古の法書で、ザクセン生まれの騎一〇二四年まで続き、その死後ザリエル朝にか同時代人スペン・アッゲセンの『デンマーク王ら木管楽器に分類されるが、考案者サックスの 意図は、木管楽器と金管楽器との中間的な音色 士アイケ・フォン・レプゴー Eike von Rep ・わった。マジャール人、ノルマン人などの異民国略史』とともに貴重な文献史料となってい ー一一一三一一一以後 ) が各地の裁判所で参族の侵入を撃退して、ドイツ王国の安全を確保る。名文家を意味するあだ名「グラマティクの楽器をつくり、吹奏楽で両者の音色が溶け合 gow ( 一天 0 ころ , つよ , つにすることにあった。 審員として活動した経験を基にザクセン地方のし、西方では、一時西フランク王国に服属してス」は、一四世紀の年代記に最初に現れるが、 サクソフォーンには、ソプラニーノ、ソプラ いたロートリンゲンを奪い返した。国内では教広く知られるようになるのは一六世紀以降であ 慣習法を成文化したもの。最初はラテン語で書 、ヾリトン、ノス、コント ノ、アルト、テナー 〈牧野正憲〉 かれたが、のち中世ドイツ語に書き改められ、会勢力と結んで、いわゆる帝国教会政策を遂行る。 Saxony ドイツの歴史的地域ラバス、の音域の異なる七種類があり、ソプラ し、諸部族大公の独立化を抑えて、中世ドイッサクソニー 後者が現存している。一二一五年から三五年ま ノ、テナー 一世はイザクセンの英語名。↓ザクセン ハス・サクソフォーンはの移調 での間に成立したと推定される。普通法 ( ラン王国の基礎を固めた。とくにオットー タリアに遠征してローマ皇帝の帝冠を受け、ド サクソニー saxony サクソニー羊毛また楽器、その他はの移調楽器である。最初は管 ト法 ) と封建法 ( レーン法 ) の二部からなり、 はメリノ羊毛を用いて織った、手ざわりの柔ら弦楽用として管、 O 管の楽器もっくられた ィッ、。フルグント、イタリアにまたがる神聖ロ 『ドイッチェンシュピーゲル』『シュワーベンシ ーマ帝国を樹立し、教皇権をその保護下に置く かな紡毛織物、またはこれに類似する織物。東が、現在は管弦楽においても管、 ュピーゲル』など南ドイツの法書も本法書に倣 新管が使わ へんさん とともに、東方スラ。フ人地域へのキリスト教のドイツのザクセン地方、つまりサクソニー地方れる。このうちもっとも多く用いられるのはア って編纂された。法書とは私人の編纂になるも 〈平城照介〉で産する羊毛糸で織ったものをさしたが、他のルトとテナーで、ソプラノとバリトンがこれに のであるが、法典と同様に取り扱われた。『ザ布教にも強力な支援を与えた。 あや クセンシュピーゲル』も、翻訳本や絵解き本なサクソ・グラマティクス Saxo Gram- 良質な羊毛を使い、平織か綾織にし、メルトン次ぐ。実音音域は、アルト・サクソフォーンが ゝ ~ -n であるが、記譜にはと ー一一一一一 0 こしデンマークの歴仕上げを施したものにもこの名がつけられてお どとして普及し、ドイツのみでなく、ロシアや maticus ( 一一五 0 ころ ~ 、テナーが ポーランド、ハンガリーなどにも影響を与え、史家。シェラン島出身。ルンド大司教アプサロ り、紡毛織物では最高級に属する。一般に縞、の楽器も高音部譜表を用い、その音域は ~ ~ いレ」・つ ンの書記として、彼の要請で大著『ゲスタ・ダ格子縞など柄物が多い。背広、ズボン、外套地である。運指も全楽器に共通している。吹奏楽 封建制度研究の重要な史料である。〈平城照介〉 〈角山幸洋〉のほかポピュラー音楽、とくにジャズの主力楽 ノールム』 Gesta を 0 、ミき ( デーン人の事績 ) などに用いる。 回久保正幡・石川武・直居淳訳『ザクセンシュ ビーゲル・ラント法』 ( 一九七七・弘文堂 ) を書き始め、バルデマー二世とアプサロンの後サクソニア Saxonia ドイツの歴史的地器になっている。一方、歴史が新しいため管弦 楽での用例は多くないものの、フランスではべ ーーちょう Sachsen 響中世継者アナース・スーネセン大司教に献呈した。域ザクセンのラテン語名。↓ザクセン サクセン朝 イギフラ Sax- リスンス ルリオーズの『テ・デウム』 ( 一会九 ) やビゼー ラテン語に精通し、古典文学に博学であること サクソフォーン saxophone ドイツ王国の最初の王朝 ( 九一九 ~ 一 0 一一四 ) 。東フラ ノノグル・リードの『アルルの女』 ( 天七一 l) などに早くから使わ ンクのカロリング家の王統が断絶したのち、フからみて、フランスに滞在し、ここで当時の学 0Phon 〈前川陽郁〉 の木管楽器。サキソフォン、サックスともよばれている。 問的教養を身につけた可能性が強い。『ゲス ランケンのコンラート一世の過渡的治世を経 そく saxhorns サク て、九一九年ザクセン公ハインリヒ一世が国王タ・ダノールム』は一六書からなり、一書かられる。ベルギーのアドルフ・サックスが考案、サクソルン属 ソフォーンの発明者として知られるアドルフ・ に選ばれて創始した。オットー一世 ( 大帝 ) 、九書ではデンマークのゴルム老王に至る神話、製作し、一八四六年にパリで特許を得た。管は 伝説時代を、一〇書以降ではハラール青歯王か当初より金属製であるにもかかわらず、リードサックスが考案し、一八四五年に特許をとった 二世、三世と直系で相続され、オットー三世の ( 962 以降神聖ローマ 帝国阜 . 帝 ) オットー 1 世 ( 大帝 ) ( 936 ~ 973 ) オットー 2 世 ( 973 ~ 983 ) オットー 3 世 ( 983 ~ 1002 ) ハインリヒ ( バイエルン公 ) ハインリヒ ハインリヒ 2 世 ( 1002 ~ 24 ) ロイトガルト ハインリヒ コンラート 2 世 ( サリエル朝 ) サクソフォーン左からソプラノ ()D ) とテナー (B') ② 0
さくせん 大きくして、地層から油やガスの噴出を防ぐこ さくせいせいていすう 0 安定度う。もっとも生起の可能性の高い条件を設定し石炭、鉄などの地下資源に恵まれており、東ド 錯生成定数 て計画をたてておき、そのとおりの事態が発生ィッの重要な工業地帯となっている。ほかにケ とである。ニュースで報ぜられる石油井の油の定数 ムニツツ、ライブツイヒなどの都市がある。 噴出は、泥水圧力が地層圧力に負けた結果であ作戦さくせん広義には、軍隊が与えられしたときは計画に従って作戦行動を発動する。 〔歴史〕ドイツ北部には古くより西ゲルマンの ることが多い た任務達成のために遂行するあらゆる軍事行動異なった事象が発生したときは計画の変更が必 〔ターポドリル〕ロータリー式掘削は地表で掘をいう。旧日本陸軍では、師団以上の部隊のあ要になるが、通常はいくつかの事態を設定してザクセン族が居住し、八世紀末カール大帝に征 服されてフランク王国の一部となり、キリスト 管に回転を与えるため、掘管が回転中坑壁に接る期間にわたる対敵行動の総称として用いた。複数の作戦計画をたてておく。 触しエネルギーの損失がおこる。これを避ける陸上自衛隊でも近接戦闘や火力戦闘、対空戦 自衛隊法では作戦の語を用いず行動という。教化した。九世紀後半に強大なザクセン部族公 へいたん ため、ビットの直上にタービンを取り付け、泥闘、兵站などの機能をもっ師団や空挺団以上のそれは、防衛出動、治安出動、海上における警国が形成されたが、一一八〇年ハインリヒ獅子 水でタービンとビットに回転を与える方法が考部隊によって遂行される一連の行動を作戦とい 備行動、災害派遣、領空侵犯に対する措置の実公の失脚によって瓦解、その所領の一部とザク 案された。この方法はターポドリルとよばれ、 う。これは狭義に用いたものである。この作戦施などを命じられた部隊などが任務達成のためセン公位を継承したアスカニア家 ( 一三五六年 にとる各種の行動をいう。これについての計画選帝侯位を取得 ) も一四二三年断絶し、ザクセ ソ連で開発され使用された。ターポドリルは理の個々の場面で戦闘力を行使することを戦闘と ンの範囲は縮小して、マイセン辺境伯のウェッ 論上ビットに大きな馬力が伝えられるが、地層 いう。広義の作戦には戦闘も含まれる。アメリ は防衛計画または行動計画と称している。ま 条件によりつねにロータリー式より速く掘れるカ軍では operation を、広義には訓練、兵站た、これらの行動に関して発せられる命令は行ティン家がその所領と選帝侯位を得た。以後こ 〈藤井治夫〉 のウェッティン家の支配地域であるエルべ川上 とはいえないので、石油井掘削の主力はロータを含む軍事行動一般について使用し、狭義には動命令という。↓戦略・戦術 リー式掘削である。 捜索、機動、補給、攻撃、防御、移動などを含サクセン Sachsen ドイツの歴史的地域流の地がザクセンとよばれることになる。ウェ 〔傾斜掘削〕石油井の掘削は現在では垂直に坑む一連の戦闘行動について用いる。自衛隊もほ名。ラテン語名サクソニア Saxonia 、英語名ッティン家は一四八五年エルンスト系とアルプ レヒト系に分かれ、エルンスト系が選帝侯位を サクソニー Saxony 。その範囲は時代によっ 井を掘るより、傾斜した坑井を掘ることが多ば同じように使う。 広義の用例としては、朝鮮作戦とか電撃作て変遷しているが、一一八〇年以前は、ドイツ相続し、宗教改革時代にはルターを庇護したフ 海底油田のように一つのプラットホームか リードリヒ賢公 ( 三世 ) を出して、新教派諸侯 ら多くの坑井を掘らねばならぬときは、傾斜掘戦、攻勢作戦、突破作戦、防勢作戦などがあ北部のライン川とエルべ川の間、ザクセン族の ノュマルカルデン戦争 りで油田の開発を行う。目的箇所を中心にしたる。狭義に用いたものとしては、第二次世界大居住地域をさし、現在の西ドイツのニーダーザのリーダーとなったが、、、 に敗れて選帝侯位と所領の一部はアルプレヒト 直径二〇程度の円の内部に傾斜井を誘導して戦における日本軍のハワイ作戦、アメリカ軍のクセン州にその名が残る。↓ニーダーザクセン 一四二三年以後はエルべ川の上流、現在の東系に移り、以後アル・フレヒト系がザクセンの中 いくことができるので、油の噴出をおこした坑オリンピック作戦 ( 九州上陸作戦計画 ) などが ドイツ ( ドイツ民主共和国 ) 南東部の地域をさ 心的存在となった。フリードリヒ・アウグスト 井の油の流出を止めるためにも、傾斜掘りを実ある。 し、ドレスデン、ライブツイヒ、カール・マル 一世 ( 在位一六九四 ~ 一七三三 ) と同二世 ( 在位一七三三 ~ 作戦遂行のための方策が戦略、戦術である。 施することがある。 クス・シュタットの三県の範囲にほば相当す六三 ) の時代に絶対主義的統治機構が整い、学芸 一般に戦略は作戦を対象とし、戦術は戦闘を対 〔石油井の深度〕石油井の深度はしだいに深く なり、アメリカの最深井の記録は一九八〇年 に象とする。戦略、戦術が現実に適用、具体化さる。この地域は、一九四七年から五二年まで東が栄え、繊維工業を中心として産業も発展し、 ドイツの一州をなしていた。当時の面積は一万ザクセン選帝侯はポーランド王位を兼ねた。当 九五八五である。日本でも新潟県下で約五〇れたものが作戦、戦闘なのである。作戦計画と 六九九三平方キロ、人口約五五五万八〇〇〇であ時の首都ドレスデンがバロック風の華麗な都市 は、指揮官が任務を達成するため、ある状況、 〇〇の深度に達した坑井がある。↓採油 となったのもこの時代である。しかしポーラン った。中心都市はドレスデンである。今日でも 〈田中正三〉 石油↓油田 条件を基礎として定めた作戦に関する計画をい ド王位を兼ねたことから北方戦争 ( 一七 00 ~ 二 ) ン ジ に巻き込まれ、また七年戦争 ( 一七五六 ~ ン ーストリア側について大打撃を被った。一八〇 工 六年にはナポレオンにくみしてライン同盟に加 入し、ナポレオンから王国を名のることを許さ れたが、ウィーン会議 ( 天一四 ~ 一五 ) でその領土 のなかば以上をプロイセンに割譲させられた。 フランスの七月革命 ( 天三 0 ) の影響のもとに暴 八三一年憲法を発布したが、四 動が起こり、一 八年ドイツに起こった三月革命以後は反動的政 治に傾いた。プロイセン・オーストリア戦争で 八六六年北 はオーストリア側にたって敗れ、一 ドイツ連邦に加盟、以後ドイツ帝国、ワイマー ル共和国へと引き継がれた。第一次世界大戦後 の一九一九年王制が廃止され、ナチス支配下の 三三年ドイツ ( 第三帝国 ) の一州となった。第 二次大戦後はドイツ民主共和国に属して一州を 〈中村賢二郎〉 構成した。 さく井 綱式掘削 ラ ム バンドホイール モーター ロータリー式掘削 ウォーク ライン ドローワークス あんていど ス ホ ロータリ テープ丿レ 泥水ビットへ ポンフより 泥水 掘管 ドリルカラー カカし
はここをうかがうが、その関心は石炭など重要 ている。一九二〇年 ( 大正九 ) 猿山灯台が設け 、ミ、ミ , S. e ミ e こ、斗 s , S. ミ c 曾 e ミ , 紛争が生じた。これをザール問題という。 ます、第一次世界大戦後、フランスはここをられたが、交通は輪島港から舟によった。現在資源にあった。第一次世界大戦後フランスはこ S. ミミ斗ミ p, S. ミ . S. 0 ミ 0 など 〈矢ヶ崎孝雄〉 こを併合しようとするが失敗し、・ヘルサイユ条 が多く、海外感染 ( 輸入 ) 例では S. ミミきド併合しようとしたが、英米の反対で失敗し、賠は林道、自然歩道が通じる。 約で国際連盟監督下の自治地域となり、一九三 S. 、を , S. 0 きなどが多数検出されてい 償の一部として炭坑の利用権を得たにとどまっ囮二万五千分の一地形図「能登黒島」 る。また食中毒の原因となるサルモネラ菌は、 た。ベルサイユ条約はここを国際連盟監督下のサールラント Saarland 西ドイツ南西端五年住民投票の結果ドイツに復帰した。第二次 原則として硫化水素を産生し、リジンを脱炭酸自治地域とし、その最終的帰属の決定を一五年にある連邦州の一つ。州都はザールプリュッケ大戦後フランスはここをドイツから分離し経済 する特徴があげられる。これらを腸内細菌とし 後の住民投票にゆだねた。、 ドイツの早期復帰の ン。州域はザール川およびその支流の流域にあ的に統合しようとするが、一九五四年のザール て自然に保有する動物も多種類に上り、家畜や外交的努力は結実しなかったが、フランスの現 り、南はフランスに、西はルクセンプルクに、 地位協定が翌年の住民投票で否決されると断念 かきん 家禽をはじめ、イヌ、ネコ、カメなどのペット し、五六年一〇月ザール条約を結び、ザールラ 状維持ないし併合の努力も失敗した。一九三五 北から東にかけてはラインラント・プファルツ のほか、昆虫、ヘビ、トカゲ、ネズミなどがあ年一月の住民投票では、ナチス・ドイツ下にも 州に接する。フランス語名サール Sarre0 面ントはドイツ連邦共和国に編入された。↓ザー 〈吉田輝夫〉 ル問題 げられる。なお、感染源としては、感染動物をかかわらず、九〇 % 以上はドイツ復帰を希望積二五七一平方キ。、人口一〇六万〇四〇〇 ( 一九 とちく 処理する屠畜場や鶏肉処理場で汚染されやすし、現状維持は八・、。、 ノ % フランス帰属は〇・ ールルイ Saarlouis 西ドイツ南西部、 <II)O 北部はフンスリュック Hunsrück 山地のサ けいがん 、汚染された食肉が市販されて感染すること四 % が表明したにすぎない。 一部をなす結晶片岩や珪岩の山地 ( 最高地点はザールラント州の都市。旧称ザールラウテルン もある。食品取扱者の保菌率は、一般の人に比 第二次大戦後、フランスはここを占領する五九五 ) で、広く森林に覆われている。その Saarlautern ( 一九三六 ~ 四五 ) 。人口三万八四九六 べて高いとされている。 はかは比較的解析の進んだ丘陵地帯で、森林、 ( 一九公 D 。 一六八〇 ~ 八六年、フランス王ルイ一 と、英米の黙認の下、ドイツから切り離して親 症状は発熱、腹痛、下痢を主徴とするが、初 仏的自治政府を育成するとともに、経済的統合牧草地、耕地が混在する。気候は西岸海洋性四世によってザール川左岸に設置された要塞都 お・つと 発症状は悪心や嘔吐で始まる。腹痛と下痢の程の強化を図った。一九四七年一一月の州憲法前 で、年間八〇〇ミリほどの降水は周年的であり、市。都心部には当時の施設が残る。現市域は右 度は多様であり、軽い腹痛と数回の軟便程度か文には、ドイツからの政治的独立、フランスと年平均気温は八 ~ 九度 0 である。ザールプリュ岸にも拡大し、鉄鋼業、食品加工業などが立地 〈朝野洋一〉 ッケンの北から東にかけては森林が広く残り、する。 ら激しい腹痛と一日三〇 ~ 四〇回にも及ぶ水様の経済的統合、フランスによる防衛権と外交権 0 デ・サルロー 便がみられる劇症まである。発熱は通常三八 の行使などが明確に述べられていた。このよう はばこれに沿って炭田が分布する。 サルロー さるわか初期歌舞伎の役柄および狂 三九度 0 で、悪寒を伴うこともある。予後は一 な保護国化政策はドイツの反発を招かすにはお 一九世紀後半から炭田の開発と製鉄業が活発猿若 言の名。①初期の女歌舞伎に登場した道化役。 般に良好で、三 ~ 五日で自然治癒に向かうこと かない。ドイツ連邦共和国 ( 西ドイツ ) が成立 になり、この地方は貧しい農業地帯から近代工 ひとえ きやはん が多い。しかし、小児や老人などでは重症にな し、難航のすえ、主権回復と北大西洋条約機構業地帯へと変化した。製鉄、鉄鋼、機械などの粗末な青色系統の単衣を着け、黒の脚絆・白足 び ることがあり、ときに死亡例もみられる。 (Z<+O) 加盟Ⅱ再軍備とが、五四年一〇月工業は、州西部のディリンゲン Dillingen an 袋を履き、手拭のような布でかむりするとい ふんそう とううちわ 治療としては、脱水症状と電解質障害に対す 一九公 D から南った独特な扮装をし、唐団扇を持った。舞台で リ協定で認められるが、ここにはザール地位 der Saar ( 人口二万〇五八三、 る応急処置が重要で、菌血症を認めたときには協定 Saarstatut も含まれ、ザールラントのヨ部のザールプリュッケンを経て東部のノインキは、主役が扮する歌舞伎者の下人の役どころで きやり クロラムフェニコールを投与する。免疫は成立 つまり現状維持がうたわれてい ルヘン Neunkirchen ( 人口一万四四七一、一九 登場し、木遣の音頭取り、獅子踊り、雄弁術、 ものまね た しないので、予防としては、食品製造と処理に た。この地位協定が五五年一〇月住民投票に付 <ll) に至る地帯に集中する。かっては石炭産業滑稽な物真似芸など雑多な芸をこなした。女太 しようぎ ゅうおしよう 対する衛生面の改善をはじめ、調理人の健康管 されると、六八 % 弱は拒否し、親仏的政府は退が活発で炭鉱労働者が多かったが、一九六〇年夫 ( 和尚といった ) の登場について、床几や持 理と手洗いの励行、生肉の摂食を避けるなどに陣せざるをえなかった。同年末の議会選挙では、代のエネルギー革命以降、産業構造の改変が進ち物を運ぶこともあった。この役柄が野郎歌舞 どうけがた み、第三次産業就業者の比率が高まった。農業伎時代の「道外方」に受け継がれた。なお、民 頼るほかはない。↓食中毒 〈柳下徳雄〉西ドイツ編入を主張する政党が勝利を収めた。 ひょく ー一九六九 ) フランスはザールラントのドイツからの分離をは、フランス国境に近い部分では肥沃な土壌が俗芸能や大道芸にも、猿若と名づける道化役や サルモン André SaImon ( 天 フランスの詩人。アポリネールらと立体派の運断念し、五六年一〇月二七日西ドイツとザールあり、やや活発であるが、その他の地域では経物真似芸を見せる芸人がいたことが知られる。 ↓道外方 営規模が一〇タ以下の農家が多いこともあっ 動に参加。初期作品を集めた『信用状』 ( 一九一六 ) 条約 Saarvertrag を結ぶ。翌年一月一日ザー ⑦一六二四年 ( 寛永一 ) に猿若勘三郎が創始し から『母音発声練習』 ( 一九六 0 ) まで多くの詩集ルラントは西ドイツに編入されたが、経済的にて、あまり振るわない。穀物栽培と、肉牛・乳 ・一とぶき もドイツに復帰したのは五九年七月であった。牛の飼養が一般的に行われている。↓ザールプた猿若座 ( 後の中村座 ) に、由緒のある「寿 は、新しい旋律をなかば伝統的な唱法で歌った リュッケン フランスの政策転換の背景には、フランスに復 〈朝野洋一〉家の狂言」として「猿若」という狂一 = 口を伝承し 現代の叙情歌である。『帽子の中にあった原稿』 せ 〔歴史〕ザールラントの名称は、一九一八年まていた。これは、主人に隠れて伊勢参りをした ( 一九一九 ) などの小説のほか、『現代芸術』 ( 一九帰したロレーヌ地方の工業発展に伴い、ザール しっせき はやりうた IIO) 、『ドラン』 (一九 llll) など近代画家についてラントの鉱・工業は伝統的な南ドイツ市場とのでは行政上も、政治的にも、歴史的にも存在し下人が、主人の大名の叱責を逃れようと流行唄 結合を強化せざるをえなくなった事情がある。 ない。帝国騎士の小所領からなるこの地域は、 まじりで道中話をする筋の単純な狂言で、その の著述が多い。『はてなき回想』 ( 一九五五 ~ 六一 ) は 一七世紀の三十年戦争以後フランスの影響を受なかに木遣音頭や獅子踊りなど、初期の猿若が ピカソ、モジリアニらの素顔を伝える当時の文こうしてザール問題は解決された。〈吉田輝夫〉 け、ルイ一四世に一時占領された ( 一天 0 ~ 九七 ) 。得意にした芸が取り入れてある。〈服部幸雄〉 壇、画壇の重要な資料である。 〈曽根元吉〉猿山岬さるやまみさき石川県能登半島の北 たいとう ふげし もんぜん 西端にある岬。鳳至郡門前町に属す。日本海に もんだい Saarfrage フランス革命期にはライン左岸地域とともにフ猿若町さるわかちょう東京都台東区北東部、 ル問題 きゅうがい てんばう ランスに併合されたが、ナポレオン敗北後のパ 現在の浅草六丁目あたりの旧地名。天保の改革 カザールラント Saarland はドイツとフランスと約二〇〇の急崖で臨み、地名は猿の多く住 ふきや リ条約 ( 天一五 ) で、その大部分がプロイセン にあたり、一八四二年 ( 天保一三 ) 堺町、葺屋 わの国境地帯にあり、石炭など重要資源を産するむ山に由来するといわれる。落葉樹が豊かな奥 しよくせいそう 一びき しようてん 能登唯一の植生叢自然林で、末踏の自然が残に、南東部がバイエルンに編入された。プロイ町、木挽町にあった芝居小屋を浅草聖天町に っヨーロツ。ハ有数の工業地帯であるため両国間に セン・オーストリア戦争の際、ナポレオン三世移し、猿若町と改称。江戸三座といわれる中村 3 、しばしばその領有ないし経済的利用をめぐってされ、能登半島国定公園の特別保護地区となっ ナ た
さんじゅ 三十年戦争 プラハ王宮事件 ( 1618 ) しポヘミア王フェルディ ナント ( のちの皇帝 ) の ! 弾圧政策に抗議した新 教徒が , 王の側近を宮 殿の窓から突き落とし , これが三十年戦争の発 端となった。当時の銅 版画 へ 0 ト 0 ・ヤー第ヤ 1 トダ 1 ー第や を」三 44- を 、 1-1 プライテンフェルトの戦い 1 631 年 9 月 1 7 日 , ライブツイヒ近郊で行われた 皇帝軍とスウェーデンのグスタフ・アドルフ軍との戦い。それぞれ約 2 万の 兵をもって対決 , ティリ麾下の皇帝車は撃破された。銅版画 天皇制、半封建的地主制、独占資本主義にある ①ポヘミア・プファルツ戦争 ( 一六天 ~ = = ) 内 乱の渦中の一九年に、フェルディナントが皇帝 とし、とくに天皇制の相対的独自性を強調、日 に即位すると、ポヘミア議会はフェルディナン 本革命は、天皇制を打倒し地主制を廃止するプ トの王位を取り消し、新教派のプファルツ選帝 ルジョア民主主義革命から社会主義革命に強行 侯フリードリヒ五世を国王に選んだ。そのた 的に転化する、とするものであった。これによ って三一年テーゼ草案は廃止され、労農派とのめ、戦争のドイツ全体への波及は不可避の形勢 思想的区別が明確になった。刊行中の『日本資となったが、フリードリヒがカルバン派であっ 本主義発達史講座』はこのテーゼの内容と基本たために、わずかの新教派諸侯の協力しか得ら 的に一致し、テーゼの正しさを実証するものとれず、他方皇帝は、旧教派諸侯の指導者バイエ なった。テーゼは日本の国家権力に科学的規定ルン公マクシミリアンの協力とスペインの援助 を与えた画期的なものであったが、当時のコミを得て反攻に出、二〇年フリードリヒの軍をプ ンテルンの方針を反映して、社会ファシズム論ラハ西方のワイサーベルクに破った。続いて皇 のセクト主義や、革命情勢近しとする主観主義帝は、反乱に加担した新教派諸侯軍を各地に破 り、スペイン軍もプファルツ領に侵入した。 的判断があったと今日、日本共産党によって自 デンマーク戦争 ( 一六一一五 ~ 一一九 ) デンマーク王 己批判されている点も含まれていた。↓日本共 産党 〈犬丸義一〉 クリスティアン四世は、この機会に乗じ、イギ リス、オランダの援助を取り付けて、二五年北 回日本共産党中央委員会出版局編・刊『日本共 ドイツに侵入した。苦境に陥った皇帝は、ワレ 産党の六十年』 ( 一九全 ) 、んじゅ , つにばん ( し ンシュタインを皇帝軍総司令官に任命し、ワレ 三十ニ番職人歌合絵巻 ンシュタインはバイエルンの司令官ティリと協 よくにんうたあわせえまき室町時代 ( 一五世紀 ) の絵巻。作者不詳。一巻。三二人の諸職人が左力してクリスティアンを破り、二九年リューベ 右一六組に分かれ、「花」と「述懐」の題でそックの和約を結ばせた。同年皇帝は、回復勅令 れそれ一六番、あわせて三二番の歌合をしたこを発布して新教派に圧迫を加えたが、この法令 えとき ー ) ーしまい せんずまんざい とを題材としたもの。千秋万歳・絵解・獅子舞は、それまで中立を維持していた新教派諸侯を 物を こうやひじり 人利館 などの芸人、虚無僧・高野聖・巡礼などの念仏反皇帝派の側にたたせることになり、また皇帝 の勝術 ゅぎよう ・一しかき 上に美遊行をはじめ、鳥刺し、輿舁などの珍しい職人勢力の強大化を恐れた旧教派諸侯も、皇帝に迫 馬軍デ って、三〇年ワレンシュタインを罷免させた。 白合ン が登場する。絵は、職人たちが左右に相対した ③スウェーデン戦争 ( 一六三 0 ~ 三五 ) バルト海域 姿を描き、これに各自の詠歌を添えている。中 公ク デルイ 世の諸種多様な職業人の風俗を描いて史料的なでの勢力の拡張を図っていたスウェーデン王グ ンプイ コステ 〈村重寧〉 スタフ・アドルフは、皇帝勢力の北進に脅威を 価値は大きい 大ブン るハヤ 感じ、フランスの援助を得たうえで三〇年ポン 三十年戦争さんじゅうねんせんそう Drei- けかシ メルンに上陸し、三一年ティリの軍をプライテ お軍 Thirty Years' War ßigjähriger Krieg イ にス画 フラ Guerre de trente ans ンフェルトに大敗させ、ポヘミアにまで進出し ント 四八年の間、ドイツを舞台として戦われた戦た。皇帝はワレンシュタインを再度、皇帝軍総 のフコ 司令官に起用した。ワレンシュタインは三二年 争。最後で最大の宗教戦争といわれる。 ロ年 ク 4 た リュッツェン Lützen の戦いでグスタフを戦 〔発端〕ドイツでは、アウクスプルクの和議後 ロめ 死させたが、戦いには敗れた。皇帝は和平策謀 まもなく新旧両派の対立が再燃し、一七世紀に を理由に三四年ワレンシュタインを暗殺し、ス 入ってからは一触即発の状況になっていたが、 ばつばっ ペインの援助を受けて新教派軍を破り、三五年 戦乱はまずポヘミア ( べーメン ) で勃発した。 ポヘミアでは、一六〇九年、貴族たちが神聖ロ新教派諸侯の多くにプラハの和約を結ばせた。 ーマ皇帝ルードルフ二世から信仰の自由の承認 ④フランス・スウェーデン戦争 ( 一六三五 ~ 四 0 を獲得していたが、一七年フェルディナントフランスは、三十年戦争の開始以来、つねに反 ハプスプルクの黒幕的存在として新教派に援助 ( 後の皇帝フェルディナント二世 ) がポヘミア 王位につくと、新教派を圧迫して、貴族たちのを与えていたが、新教派が劣勢となると、いま や公然と戦争の表舞台に登場し、軍をドイツに 反乱を引き起こした。 〔経過〕戦争の経過は、皇帝派の対戦国に応じ入れた。その後、戦況は一進一退を続けたが、 長年の戦争に倦み疲れた皇帝、ドイツ諸侯、ス て次の四段階に分けられる。
っ ん とのさ 民層であり、要求そのものれた一六日になってからで、一八日国王フリ 軍戦圧 は、諸邦における三月要求ドリヒ・ウイルヘルム四世の名で検閲の廃止、 3 規囲鎮 正包は ししオしたが連合州会の速やかな招集が布告された : ヘルリ とさほど、逞、まよ、 と このデモ隊に対して軍隊が ン市民の根強い要求であった軍隊の市内からの 人画ケ革 の版リ , 館投入されて五人の死者が出撤退は約束されなかったものの、この譲歩は将 ン銅バて物 のたっ博るに及んで、事態は中途半来に希望をつなぎ、その他の自由主義的要求も ル時れよ史 ペ当わに歴端な形では収拾不可能となやがて実現されるといううわさとも相まって、 。行撃立 る。それにウィーンの場合布告当日の王宮前広場は国王に感謝の意を示さ 日たで銃市 れンのン には、市壁の外に居住するんとする幾千もの人々で埋め尽くされた。とこ 月さ一軍一 多数の労働者の存在を無視ろが同日午後、広場を取り巻く軍隊の側から数 年展ウ正ウ 4 ・カ できない。彳 皮らの多くは、発の銃弾が発砲されたことによって事態は一変 戦日げ画 〕あルスラブの農村から職を求めし、ベルリン市内はたちまちのうちに数百のバ 市月をベ て首都ウィーン目ざして流 リケードで覆われ、手工業職人、労働者および 命し年総ゲれてきたものの、市内への市民と正規軍との間の街頭戦が夜を徹して戦わ 革突同 月衝〕・暑 ( た 立ち入りすら許されなかつれた。この戦いは、二三〇人以上の犠牲者を出 三が〔光れ た初期工業化段階に特有のしながらも勇敢に戦った人民の側の勝利に終わ すあげなければならないのは、ライン地方を中は、フランスに隣接するバーデン、ウュルテン存在であった。彼らの一部は同日、市門を突破り、国王は翌朝、軍隊撤退を命じ、プロイセン ベルクなどの西南ドイツ諸国にいち早く波及すして市内の学生たちと合流することに成功し、 がドイツ統一の先頭にたっことを確言し、プロ 心とする自由主義的プルジョアジーであろう。 彼らの台頭は、一八三〇年代中期以降の産業革る。そして三月初旬バイエルン、ヘッセン・ダ軍隊との衝突において重要な役割を果たした。 イセン議会の招集、 . 他のすべての三月要求の承 認を約束したのである。同月二九日には、ライ 命の本格化、ドイツ関税同盟結成 ( 天三四 ) によ ルムシュタット、ナッサウへと広がり、さらに だが大半は市内突入を武力で阻まれ、市外区、 プラウンシュワイク、ザクセン はハノー リーニエの外側で商店、工場などを襲撃し、火ンの自由主義者カンブハウゼンを首班とし、ハ るオーストリアを除くほばドイツ全域にわたる ンゼマン David Hansemann ( 一七九 0 ー一会四 ) 統一的関税圏の成立、一八三五年から始まる鉄などの中・西部諸邦にまで広がってゆく。先陣を放ち、ウィーンの市壁の外側を炎で包んだ。 この日の戦闘でのガ働者の死者は五〇人以上をを大蔵大臣とする「三月内閣」がプロイセンに 道建設などと直接にかかわっており、彼らこを切ったこれら諸国における運動の経過はどこ も誕生する。 そ、自らの経済的実力の増大と政治的無権利状もほば同じで、まず大衆集会、デモが行われ、数えたといわれるこのような事態を背景にし しつ - 一く 〔その後の展開〕三月革命によって権力の座に 態という矛盾に直面して、桎梏としての現体制出版・結社の自由、人民武装、陪審裁判制、ドて、宮廷と政府は同日夜譲歩を余儀なくされ、 ついた自由主義。フルジョアジーは、この時点で の克服を目ざさざるをえなかった社会階層であィッ統一議会などの自由主義的な「三月要求」メッテルニヒは解任され、皇帝フェルディナン った。また、このようなプルジョアジーの背後 が一様に提出される。これに対する各邦政府のト一世 Ferdinand 一 ( 在位天三五 ~ 四 0 は憲法革命は完了したとの認識をもった。もともと彼 には末定形のプロレタリアートがすでに生み出対応もはば同じであり、現体制の暴力的転覆の制定を約束し、市民軍、学生兵団の創設が認めらにとっては、革命そのものが意図せざるとこ られ、自由主義的ピラースドルフ Franz Frei ・ ろであったといえよう。というのは、彼らの目 されており、さらにこの両者の中間に、さまざ危険と運動の急進化を避けようとの意図から、 ひょつばう —I<KII) 内閣が五標は、あくまでも歴史的法基盤にのっとり、王 まな色合いの共和主義を標榜する、民主主義政府側からの暴力的対決はほとんどなされず、 herr von Pillersdorf ( 一大六 月四日に誕生する。このようにして三月革命は室との協定によって平和的に改革を遂行し、そ 者と称されるプチ・ブルジョア知識人グループ政治的要求はほば全面的に受け入れられ、各地 に市民車が創設されて、統一ドイツ国家樹立に が加わって、政治運動をいっそう複雑なものに ハプス。フルク帝国の首都においても勝利を収れによって「合法的に」国家内での指導的地位 していた。 向けて尽力することを各国王自らが約束した。 め、同時に帝国内の非ドイツ系諸民族の自立連を確保するというものであったからである。し じゃっき また忘れてならないのは、民族問題の存在でまた、各邦において自由主義的「三月内閣」が動をも惹起し、チェコ人、マジャール ( ハンガたがって、各邦の「三月内閣」は、自らの革命 ある。ポーゼン州のポーランド人問題、シュレ誕生し、ガーゲルン ( ヘッセン・ダルムシュタ ー ) 人、イタリア人が公然と反乱を開始する的出自を否認し、旧体制の権力機構 ( 官僚・軍 ット ) 、レーマー Friedrich von Römer ( 一七 に及んで、帝国の存在そのものが揺るがされる隊 ) を温存し、一八四八年夏以降、旧権力その スウイヒ・ホルシュタイン問題を抱えるプロイ こととなる。 九四ー一会四 ) ( ウュルテンベルク ) 、シュテューベ ものの蘇生を許すことになる。これに対して、 センも民族問題と無縁ではなかったが、この問 他方、ベルリンにおいて革命の命運が決せら三月革命は革命の第一段階にすぎないと考え、 題はとりわけ多民族国家たるオーストリアにか Johann Karl Bertram Stüve ( 一七九ハ ー ) らの著名な自由主義者たちが入れたのは、三月一 一九日であった。ベルリ 立憲君主制の枠を越えた政治体制と社会問題の かわるものであった。つまりここで問われたの より徹底した解決策を求めたのが民主主義者と は、「自由」と「統一」というドイツ的理念は閣した。だがこれら中小諸邦における運動の成ンでも三月初め以来、多数の失業者たちをも含 ぜんしよう よばれる人々である。彼らは、三月に獲得され ハプス。フルク帝国内の諸民族にも適用されるの功はいまだ前哨戦のそれでしかなく、革命のむ数千人規模の大衆集会がプランデン。フルク門 た出版・結社の自由を最大限に用いて、各邦の か否か、ということであった。後の困難を予測勝利を決定づけたのは、オーストリア、プロイの外で繰り返されていた。それに対してプロイ させるこれらの問題を抱えつつ、フランスの一一センのそれぞれの首都ウィーンとベルリンにおセン政府は原則的な点ではいっさい譲歩を拒否地方レベルで協会、クラブ、委員会を組織する し続け、同月一三日に市民と軍隊との最初の衝とともに、新聞・雑誌の発行にも全力を傾け、 月革命を直接のきっかけとしてドイツ三月革命ける人民蜂起であった。 ウィーン蜂起は、三月一三日に招集された低突が起こり、一五日には市民の側に数人の死者それらの影響力で「三月内閣」のもとでの左翼 は開始される。 が生じるに至った。政府がようやく限定的な譲的反対派としてかなりの大衆を動員することに 〔革命の進展〕国王ルイ・フィリップを追放オーストリア領邦議会への請願デモから・始ま し、臨時革命政府を樹立させた。ハリの二月革命る。そのイニシアティブをとったのは学生・市歩に踏み切ったのは、ウィーンの事態が報じら成功した。四八年五月以降のウィーンでの民主
じえぬひ ムに叙せられた。 〈市川雅〉 シェーネラー Georg 、 e 、、 von Schö・ ジェノバ Genova イタリア北西部、リグ 2 はにゆっ ジェネット genet 広義には哺乳綱食肉 nerer ( 一八四 = ー一九一一 l) オーストリアの政治 リア州の州都。人口七六万二八九五 ( 一九八 I)0 5 目ジャコウネコ科ジェネット属に含まれる動物家。成金の下級貴族の子としてウィーンに生ま英語名ジェノア Genoa0 リグリア・アベニン の総称で、狭義にはそのうちの一種をさす。狭れる。一八七三年自由派の国会議員となった山脈が背後に迫るジェノバ湾の奥に位置する港 義のジェネットであるヨーロッパジェネット が、七六年以降、ドイツ民族主義運動に投じ、 湾・工業都市。一九二六年に一九のコムーネ ミミミはヨーロッパ南西部、アラビオーストリアのドイツ人救済のため、ハプス。フ ( 市町村 ) が併合し、現在の大ジェノバが形成 ア半島、地中海東部からアフリカ南部まで分布ルク君主制に反対、ドイツ帝国との併合を提された。市の面積は二三八平方キ。で、海岸線に する。ヨーロッパ南西部に分布するものは人間 唱、また反ユダヤ主義運動を推進して、のちヒ 沿って西のポルトリから東のネルビまで三三キ によって移入されたものといわれる。頭胴長四トラーに大きな影響を及ばした。一方、農民の にわたって広がり、内陸部はポルチェべラ川に はんもん ー、セン 0 七 ~ 五八、尾長四一 ~ 四ノ 斑紋が美しい 保護や森林、河川の保全などを要求、大資本本沿って北のポンテデチモまで延びている。ジェ 小形のジャコウネコで、体が細長く、長い頭、位の自由放任政策を攻撃している。また、反カノバ港は、リグリアのみならずロンバルディア ふん とがった吻および卵形の耳介をもつ。前後肢は トリック教会 ( 「ローマからの分離」 ) 運動を州およびピエモンテ州というイタリア最大のエ さや 比較的短い。 つめはネコのように鞘に引っ込め進め、自らもルター派に改宗したが、その非妥業地帯を後背地に有し、取り扱う貨物量の多さ ることができ、歩き方は指行性である。体毛は協的な行動のため、二〇世紀に入ると彼中心の においては同国第一位 ( 一九七 0 の規模を誇って 短く、滑らかで、黄褐色または灰褐色の地色に 運動は衰えていった。 〈中井晶夫〉 いる。またフランスのマルセイユとともに地中 ネ 工黒斑があり、背の正中線上に逆立てることがで ジェノア Genoa イタリア北東部、リグ海でも最大級の港となっている。同港の重要輸 きるたてがみ状の黒色毛がある。尾は先が細 リア州の州都ジェノバの英語名。↓ジェノバ 入品である石油は、ジェノバとその周辺で利用 しゅうせん じよ、つやく Geno- 月の牢獄生活ののち、テルミドールの反動の前 く、黒白の輪がある。臭腺は明らかであるが、 されるだけではなく、二本のパイプラインによ ジェノサイド条約 日に処刑された。生前にははとんど詩は知られジャコウネコほど発達しない。夜行性で、日中 cide Convention 「集団殺害罪の防止およびって、コルテマッジョーレ ( ピアチェンツア ていなかった。代表作には『若きタランチー は岩の割れ目やほかの動物が掘った穴に単独ま処罰に関する条約」の略称。ジェノサイドはラ県 ) に、あるいはミラノ近郊のローを経て遠く とら ヌ』『若き囚われの女』のような短詩形式の、 たは一対ですむ。小獣類、鳥類、昆虫などを捕テン語で集団殺害を意味する。第二次世界大戦 ドイツにまで運ばれている。工業活動として 牧歌、田園詩、哀歌、叙情詩や、ホメロスを歌食し、木登りがうまい。多くは獲物を地上でと中、ナチス・ドイツによってユダヤ人の大量虐は、製鉄 ( イタルシデル社 ) 、造船 ( アンサル はいド ) ドレしよ、つ った『盲人』、形而上詩『ヘルメス』などの長らえる。特定の繁殖期はなく、年じゅう繁殖可殺が行われ、戦後に国際軍事裁判所による「人 ド社 ) 、石油化学、匕・、 イ学食品などの部門が盛 編詩がある。古典文学、とくに古代ギリシアの能で一産二、三子を樹洞、地中の穴、高い草む道に対する罪」を犯した犯罪人の処罰をもたらん。地域的にいえば、サンピエルダレーナから 詩の影響がみられる。獄中で書いた『風刺詩』 らなどに産む。寿命は約一五年であるが、飼育したが、この条約は、このような非人道的行為ポルトリにかけての海岸地帯とポルチェべラ川 には恐怖政治に対する絶望が語られている。最下で三五年の記録がある。 の防止と処罰を一般的に制度化しようとするもの渓谷が、ジェノバの工業地帯となっている。 後の古典派とも最初のロマン派ともよばれてい ジェネット属には一一種があり、ヨーロッパ のである。一九四八年一二月、国連総会で満場他方、地域経済に占める農業の比重はごくわず 力いちょう るが、詩句に諧調や柔軟さを与える詩法上の かにすぎない。 ジェネットのほかはすべてアフリカに分布す一致によって採択され、五一年一月に発効し 革新は、ロマン派へとつながるものであった。 る。アフリカ南部にはヨーロッパジェネットに た。ソ連、イギリス、中国、フランスを含む約 コロンプスの生地として知られ、彼の家や洗 その生涯、とくに革命期のシェニエの姿は、イ よく似るが地色が黄色に富み、斑紋が大きいト 一〇〇か国が当事国になっているが、わが国は 礼を受けたサント・ステーフアノ教会がある。 タリアの作曲家ジョルダーノによってオペラ ラフジェネット G. 、、、 il ミがいる。 ^ 吉行瑞子〉 これに加入していない。アメリカは署名してい ポルチェべラ川の河口付近にある空港は、彼に ちなんでクリストフォロ・コロンポ空港と名づ 『アンドレア・シェニエ』 ( 天九 ~ ( 初演 ) に描かれジェネパ Geneva スイス南西部の都市ジるが、批准はしていない。 〈原好男〉 ている。 ュネープの英語名 ( 発音はジェニー この条約は集団殺害を国際法上の犯罪とすけられている。市内には由緒ある建築物が多数 回谷長茂・佐貫健訳『シェニエ詩集』 ( 『世界名ネー。フはフランス語名。ドイツ語名はゲンフる。条約によれば、「国民的、人種的、民族的あり、とりわけガリバルディ通りとバルビ通り 詩集集大成フランス編—』所収・一九六 0 ・平 Genf0 ↓ジュネープ または宗教的集団を全部または一部破壊する意 には一六 ~ 一七世紀の宮殿が多く残っている。 凡社 ) シェーネマン Johann Friedrich schö- 図」をもって行う集団構成員の殺害、肉体的ま なかでもガリバルディ通りにあるボデスタ宮 こくみんそうせいさん nemann ( 一七 0 四 CZA«ジーエヌピー 0 国民総生産 —<ll) ドイツの俳優。一七一一一たは精神的な重大な危害、肉体的破滅をもたら 殿、現在美術館となっている白の宮殿と赤の宮 ジェネーミ Adeline Genée ( 天大〇年にノイバー夫人一座に入座、四〇年に自分す意図による生活条件の強制、出生防止措置、殿、また、バルビ通りのウニベルシタ宮殿、か ー一九七 0 ) デンマーク生まれのイギリスのバレ の一座を設立し、観客の趣味を高め、古典悲劇 児童の強制移住はすべて集団殺害とされ、この っての王宮バルビ・ドウラツツォ宮殿などは有 ーナ。ロンドンのエンバイア劇場に一八九七を導入しようと努力した。この一座からエクホような行為、その共同謀議、教唆、未遂、共犯名である。そのほかにもサン・ロレンツォ大聖 ーフ、シュレーダー、アッカーマンが出る。一 年から一〇年間在籍し、『コッペリア』の主役 は、平時たると戦時たるとを問わず、処罰され堂 ( 一二 ~ 一四世紀 ) 、著名なサン・ジョルジ スワニルダを当り役とした。ディアギレフの口座はおもに北部、東部ドイツを巡業したが、五るべきものとされている。そのために当事国はオ銀行の本部が置かれたサン・ジョルジオ宮殿 シア・バレエ団のヨーロッパ公演により、新た〇年にシュべ ーリンの大公の宮廷に抱えられ、国内立法を行う義務を負う。行為地の国内裁判 ( 一一一六 0 ころ ) 、国立美術館となっているスピノラ宮 な人気バレリーナ、アンナ・バブロワ、カルサェクホーフとドイツ最初の俳優学校を設けた 所のほかに、条約は国際刑事裁判所による国際殿 ( 一六世紀 ) 、サンタ・マリア・ディ・カリ ビナがロンドンに現れ、彼女の人気は去った。 ( 一七七三 ~ 七四 ) 。大公の死後ハン。フルクに出たが、的手続での処罰をも構想しているが、この裁判 ニャーノ教会 ( 一六世紀 ) などがある。温和な 一九二〇年から約三〇年間、ロイヤル・アカデ五七年に一座は解散。一座の上演した脚本集が 所は設立をみていない。↓戦争犯罪↓人道に 気候と美しい海岸線で知られる国際的観光地帯 〈岩淵達治〉 対する罪 ミー・ダンシングの会長を務め、五〇年にディ出版されている。 〈石本泰雄〉 リビエラの中心地でもある。 〈堺憲一〉 ろう 1 ) く
た。孫権も別に年号をたてたが、一三九年建業 ンス、ロシアの三国協商と対立し、サライエボ ナンキン 事件を世界大戦に拡大させる原因となった。 ( 南京 ) にあって即位した。三国は初期にあっ 一三五年以後は魏対呉・蜀 〔成立〕三国同盟の成立は、プロイセン・フラ ては魏・呉対蜀が、 ンス戦争 ( 天七 0 ~ 七一 ) に勝利を収めたドイツの 館といった対立を軸にして動いていくが、二三四 しよかつりよう ビスマルクが、フランスの報復を恐れ、孤立さ 博年の諸葛亮の死後はさしたる戦いもなかった。 せる政策をとろうとしたことに由来する。つま 一一六三年、魏は蜀を滅ばし、鼎立の時代は終わ 古 しん 庵 りビスマルクは、フランスがロシアに接近する ったが、一一六五年、魏も晋の武帝に国を奪われ ことを警戒し、一八七三年にロシア、オースト た。呉が滅亡したのは二八〇年のことである。 国 ちんじゅ リアとともに三帝同盟を締結した。しかしこの 韓陳寿の『三国志』は三国時代の正史であり、 同盟は、バルカンをめぐるロシアとオーストリ る 『三国志演義』はそれをもとにした小説である。 アの対立によって効果が疑問視された。加えて 三国時代を挟んで漢と晋・南北朝とを比較し て 泉 ロシア・トルコ戦争 ( 一七 ~ 七 0 終結のサン・ れてみると、社会や経済、文化など種々の面にお 定 いての差異をみることができる。このことが三 ステフアノ条約を修正するべルリン条約がベル ヒ日 国時代の特徴をよく一小している。まず漢による リン会議で成立したが、この条約に不満をもっ 宝 ロシアとドイツの関係も悪化し、三帝同盟は事 国統一支配が崩壊して、つねに複数の王朝の存在 の する分裂の時代が生じた。中央の官制について征伐ヲ事トスル者地理ヲ不知トキハ安危ノ場ニ実上、破産した。そこでビスマルクは、英仏が 国 韓 いえば、尚書省、中書省、門下省が形成され発失有 : : : 」とある。九一年『海国兵談』が禁に エジプト、チュニジアの権益を相互に承認しあ 展し、貴族の政治関与に役割を果たしたが、漢あったとき、本書もともに絶版となる。外圧を う協定を結ぶと、これを支持した。というの 国代の皇帝側近の官から分かれ出たものである。予感した先見的な書として意義が大きい。のちは、フランスが北アフリカに関心をもてば、そ また官吏登用法では、魏成立期に九品官人法が リで翻訳出版され、アメリカとの小笠原諸島れだけヨーロツ。ハにおける独仏の緊張が回避で きようきよりせん きると考えたからである。フランスは八一年、 で、新羅中心史観でまとめられたとされるが、施行されて、漢代の郷挙里選にかわり、さら帰属問題が争われたときの有力資料となった。 にその運営は貴族制をつくりあげるものとなっ『林子平全集』 ( 第一書房 ) 所収。〈塚谷晃弘〉英仏協定に従いチュニジアを占領した。これは 三国を対等に本紀で扱っている。本紀は新羅が しやみげんとう 一二巻、高句麗一〇巻、百済六巻で、新羅の分ていった。土地制度の面では、曹操がすでに本三国伝記さんごくでんき説話集。沙弥玄棟ビスマルクの思惑以上の結果をもたらした。っ きよしよう 量が多いのは存続年代からみて当然といえる。拠地の許 ( 河南省許昌 ) において民屯を開き、編。室町時代中期 ( 一五世紀前期 ) 成立。インまりフランスのチュニジア占領は、リビアに関 きんゅ ド、中国、日本の説話が順繰りに配され、全一 心をもつイタリアに大きな衝撃を与え、イタリ はか年表三巻、地理・職官など志が九巻、金無主の土地を人民に耕作させて小作形態をとっ しんがいそぶんきゅうえい 信、蓋蘇文、弓裔など列伝が一〇巻、計五〇たが、それが魏一代を通して行われ、晋代の占二巻、各巻三〇話、合計三六〇話の集成であアは急速にドイツ、オーストリアに接近してき りちょう 田・課田制へと展開していった。また兵制でる。漢文の訓読調を主体に、和漢の名詩句や美たからである。かくして八二年、ドイツ、オー 巻からなる。完本としては李朝中宗代 ( 一五 0 六 ~ は、魏は兵戸制を行って、兵士を一般戸籍から辞麗句をちりばめた技巧的な文章で展開しておストリア、イタリアの三国同盟が成立した。 四四 ) に慶州で刊行された木版本が現存最古のも ほ・つゆ・つ り、その説話典拠は多くが先行の説話集に求め 〔更新〕この条約は、ロシア、フランスを仮想 ので、その影印本が流布している。〈田中俊明〉分かち、その身分を世襲させた。呉では奉邑制 られる。全体的に仏教信仰の色濃い説話が目だ をとって、諸将に軍隊を養う奉邑を与えてい 敵とし、相互軍事援助または好意的中立を約束 回金思燁訳「完訳三国史記』上下 ( 一九ハ 0 、 たん おうみ る。次に文化面をみると、儒教の地位が相対的つ。また寺社縁起譚も顕著だが、とくに近江国したもので、一八八七年には更新された ( 第一一 六興出版 ) ▽井上秀雄訳注『三国史記 ** せいだん に衰え、老莊思想が重んぜられ、清談が行われ ( 滋賀 ) 神崎郡周辺の寺社のそれが多い。これ次同盟 ) 。ところが九〇年、ビスマルクが退陣 Ⅱ・Ⅲ』 ( 平凡社・東洋文庫 ) ごとぺいどう さんごくじだい 中国、三世紀に た。五斗米道や仏教もしだいに教線を広げ、文は本書の成立背景や編者玄棟について示唆するすると、ドイツは従来の対ロシア接近をやめ、 三国時代 ていりつ ところとなっている。序文の構成には『太平 ドイツ・ロシア再保障条約 ( 一公七 ) を更新しな 魏、呉、蜀の三国が鼎立した時期約四〇年間を学その他の芸術も独自の価値を認められた。↓ ) 」かん 〈狩野直禎〉 記』巻三五「北野通夜物語」が影響している。 かった。このためロシアは必然的にフランスに いう。後漢の混乱期に各地に独立した勢力のな魏晋南北朝 そうそう けんてい かで、曹操は後漢の献帝を擁し、河北の統一に 回森鹿三・狩野直禎他著『東洋の歴史 4 分裂の古代から中世まで連綿と制作されてきた説話集接近、九一年にはロシア・フランス同盟の前提 せきへき 時代』 ( 一九六七・人物往来社 ) ▽川勝義雄著『中のいちおうの終結点として注目されている。な となる政治協定が締結された。そこでドイツは 成功し、二〇八年南下を企てた。しかし赤壁の りゅうびそんけん 国の歴史 3 魏晋南北朝』 ( 一九七四・講談社 ) お江戸初期写の平仮名本も伝わる。〈徳田和夫〉九一年、三国同盟を更新した ( 第三次同盟 ) 。 戦いで劉備、孫権の連合軍に敗れて北に帰っ し このとき、第二次同盟条約では個別協定となっ た。一方、赤壁の戦い後、劉備と孫権は荊州 三国通覧図説さんごくつうらんずせつ林子回池上洵一校注『三国伝記』上下 ( 一九七六、 しせん 三弥井書店 ) ▽安藤直太郎監修、名古屋一一一ていたオ ] ストリア、イタリア間のバルカン協 ( 湖北、湖南 ) および益州 ( 四川 ) の領有をめ平が一七八五年 ( 天明五 ) 江戸で五色刷で刊行 した地誌。五枚一冊。それまで万国か本邦の地 国伝記研究会編『三国伝記〈平仮名本〉』上定、ドイツ、イタリア間の北アフリカ協定を同 ぐって争い、結局、劉備が益州を、孫権が荊州 中下 ( 一九全 ~ 会・古典文庫 ) 盟条約に一本化し、有効期間六年、延長六年の を手にし、孫権はもとからの支配地であった揚図はあるが隣国の地図がなく、国防・行政に必 にちどくいさんごくどう ようすこう こうそせつこう 去 ( 江蘇、浙江 ) とともに揚子江以南を領土と要として著した。日本を中心とする総図、朝鮮三国同盟さんごくどうめい 0 日独伊三国同条約として強化した。条約は一九〇二年 ( 第四 りゅうきゅう 盟 八道、琉球三省、三六島、蝦夷国 ( 北海道 ) 次同盟 ) 、一二年 ( 第五次同盟 ) と更新された し、三国鼎立の業がほとんどできあがった。二 かつらがわ おがさわら そうひらくよう さんごくどうめい Triple Alliance が、この間情勢が変化していた 二〇年一一月、曹操の子曹丕は洛陽において献全図、小笠原諸島の図よりなる。自序と桂川 三国同盟 あずか ほしゅう 〔消滅〕エチオピア侵略に失敗 ( アドワの大 帝の譲を受けて魏を開き、これを聞いた劉備は甫周の序がある。「題初」に「国事ニ与ル者地第一次世界大戦前のドイツ、オーストリア、イ さげ しらざる のそみうしなうあり 翌年四月、成都に即位し漢 ( 蜀漢 ) が成立し理ヲ不知トキハ治乱ニ臨テ失有、兵士ヲ提テタリア間の車事同盟。同時期のイギリス、フラ敗、天九六 ) したイタリアは、これを機にドイ 三不刮之真七 2 をら、一 0 = 一 ~ キ三 臧外 ~ 斌亠す・洋を鉙一朝洋 嗣又丁立永 2 ニキま 2 子】 ~ 一第 夫余 、高句 三国時代 鮮卑 魏 函谷関菅 かんぎき ・遼 7 建 一赤 ( 广 、、五破蜀 0 3 南 都 図おもな戦場 南
に取り入れられた。 主義連動の進展はとくに注目に値する。だがこ 化が秋まで進んだものの、四八年六月プラハのを総辞職させ、宇垣内閣を実現させるというも ⑦アントニオ・、ダ・サンガッロ Antonio da のであった。宇垣がのちになって参加を拒否し の派の最大の弱点は、構成員の大半がプチ・プ蜂起が鎮圧され、翌月にはイタリアでピエモン ざせつ たため計画は挫折し、事件は闇のなかに葬られ S こ = Vecchio ( 一四五五ー一五三四 ) ジュリアーノの テ軍が敗北するというように、革命の外堀は、 ルジョアジーという雑多な階層に属していたこ たが、それは急進ファシズム運動の呼び水にな弟。同名の甥と区別し「年長者 ( イル・べッキ とから、運動の目標とそのための方策について 翌年八月までもちこたえたハンガリーを例外と り、同種の事件が頻発する契機をなした。↓桜オ ) 」とよばれる。作品の数は多くないが、モ 各人の見解に大きな隔りがあることであった。 して、どんどん埋め尽くされ、四八年一〇月に ンテプルチアーノのサン・ビアジオ聖堂 ( 一五天 〈榎本勝己〉 彼らの間で一致していたのは、。フルジョア的秩はウィーンの蜂起もついに鎮圧されて革命は終会↓十月事件 ~ 一一 0 はルネサンス建築の傑作とされる。これ 序をドイツにおいて民主主義的国制の形で実現結する。プロイセンにおける革命は、一二月五回中野雅夫著『橋本大佐の手記』 ( 一九六三・みす きんてい はプラマンテのサン・ピエトロ大聖堂の設計案 ず書房 ) ▽今井清一他編『現代史資料 4 しようという意図だけであり、民主主義的君主日のプロイセン国民議会解散、欽定憲法発布に に着想を得ており、ギリシア十字形プランの交 国家主義連動 1 』 ( 一九六三・みすす書房 ) ▽田 制の支持者、世襲大統領制を唱える共和主義よって実質的に終息したといってよい。この両 えんがい しゅうえん 差部にクーボラ ( 円蓋 ) をのせ、十字の縦軸と 中隆吉著『裁かれる歴史』 ( 一九哭・新風社 ) 者、さらには、君主制か共和制かは各邦の住民国における革命の実質的終焉を考慮に入れる ひなまつり 横軸との間に四基の塔を配置するのが当初の計 投票によるとする連邦国家論者までいたのであならば、フランクフルト国民議会が差し出した三月節供さんがっせ 0 く 0 雛祭 画であったが、実際には塔は一基だけしか建立 る。他方、労働者の側についてみれば、彼ら 「ドイツ皇帝位」をフリードリヒ・ウイルヘル 三月堂さんがつどう奈良東大寺の法華堂の ふくうけんじゃくかんぜおんばさっ されなかった。ほかにローマのサンタ・マリ は、マルクスのいう、近代的工業に対応する近ム四世が拒絶したことによって、四九年五 ~ 七通称。不空羂索観世音菩薩像を本尊とすると ころから、古くは羂索堂 ( 院 ) とよばれた。平ア・モンセッラート聖堂 ( 一四九五 ) が知られる。 ーデン、バイエルン領プファル 代工場労働者という意味でのいわゆる「産業的月ザクセン、 3 アントニオ・ダ・サンガッロ Antonio da 定在」ではなかった。その大半は手工業職人ツ、ライン地方の一部で生じたいわゆる「ドイ安時代にはこの堂で三月に法華会が恒例的に行 S こ = Giovane ( 一哭五ー一五四六 ) 同名の叔父と か、その境遇からなかばはじき出されて工場でツ国憲法闘争」は、三月革命のエピローグのエわれたため、法華堂、三月堂と称するようにな ノーネ ) 」とよ った。↓東大寺 区別して「年少者 ( イル・ジョヾ 熟練工として働く職人労働者かのいずれかであピソードであった、ともいえよう。↓二月革命 じようるり 〈松岡晋〉 ↓一八四八年の革命 った。多くの場合、民主主義者の指導のもとに 三勝半七さんかつはんしち浄瑠璃、歌舞伎ばれる。ローマに出て活躍、一五二〇年にラフ アェッ口が没すると、その後の建築界を主導 の一題材。一六九五年 ( 元禄八 ) 一二月七日、 あった「労働者協会」 Arbeiterverein に結集回矢田俊隆著『三月革命』 ( 一九大・弘文堂 ) ▽ やまと 大坂千日の墓所で心中した大和国 ( 奈良県 ) 五し、代表的設計にパラツツオ・ファルネーゼが 柳沢治著『ドイツ三月革命の研究』 ( 一九七四・ した労働者は彼らであった。このほかに「ルン おんなまい あかわや 岩波書店 ) ▽良知カ著『向う岸からの世界条新町の赤根屋半七と女舞の芸人 ( 一説にはある。ルネサンスの都市建築で最大規模を誇る ペン・プロレタリアート」とよぶにふさわしい みのや この建物は、一五三四年に起工されたが、工事 史ーーー一つの四八年革命史論』 ( 一九天・末来島の内の下級遊女 ) 美濃屋三勝 ( 本名おさん ) 彼らはその住居も市壁の外 労働者も存在した。 , なかばにして彼が没したため、ミケランジェロ 社 ) ▽同編『〔共同研究〕一八四八年革命』をモデルとする。事件直後、大坂の岩井半四郎 側にしかもっことを許されず、その意味で「市 あかわいろあげ ( 一九七九・大月書店 ) ▽同著『青きドナウの乱座で上演された『茜の色揚』をはじめ多くの作の手で完成された。三九年にはサン・ピエトロ 民社会」から完全に締め出された存在であった はですがたおんなまい に脚色されたが、なかでは浄瑠璃『艶容女舞大聖堂の主任建築家に指名され、前任者の一人 痴気』 ( 一九会・平凡社 ) が、いったん事あらば戦いの場で身を捨てるこ ちせつ ぎめ さんがっかくめい一九一七年三月、衣』が有名。新歌舞伎に大森痴雪作『あかね。フラマンテの設計に対する修正案を提出した ともいとわない人々であったことは、ウィーン 三月革命 〈松井俊諭〉 が、これは採択されなかった。また教皇庁内の ロシアの帝政を崩壊させた革命。ロシア暦では染』がある。↓艶容女舞衣 蜂起が示すとおりである。その後も彼らは広く ハオリーナ礼拝堂のデザインや、パラツツオ・ 二月にあたるため、二月革命ともいう。↓ロシ ヨーロッパ各地を覆った「一八四八年の革命」 サンカッロ Sangallo 一五、一六世紀の イタリアで活躍したフィレンツェ出身の建築家サッケッティの設計を担当したほか、多年にわ の重大な局面に大きなインパクトを与える存在ア革命 たりチビタベッキア、ベルージアなどの防御施 一族。次の三人によって代表される。 として登場してくる。三月革命後のドイツ各地三月事件さんがつじけん陸軍内部で企図さ 〈濱谷勝也〉 ジュリアーノ・ダ・サンガッロ Giuliano da 設にも参画した。 の運動は、前述の諸階級・諸階層が明確に別のれ、未遂に終わったクーデター事件。一九三一 しではらきじゅうろう さんかてき さんか微生 年 ( 昭和六 ) 二月幣原喜重郎臨時首相代理は s. ( 一四四五ー至六 ) 大建築家。フルネレスキのも酸化的リン酸化 道を歩み出したことを一小している。 っとも優れた後継者の一人。師匠の確立した初物から人間まで含めて生物が食物の代謝からエ 一八四八年五月一八日、フランクフルト・ア衆議院の答弁で、ロンドン海軍軍縮条約を天皇 が承認したことを盾に批判を封じようとした。期ルネサンス様式を終生守り続けた。青年時代ネルギーを得る方法は、発酵と呼吸による二つ ム・マインに統一ドイツの母胎となるべきドイ がある。発酵は無酸素的な食物の分解である ツ国民議会が招集された。同議会は、長期にわこのいわゆる失一一一口問題で議会は混乱した。それ ( 一四六五 ~ 七 = ) はローマに滞在し、バラツツオ・ きんごろう ベネチアの造営に関与したようであるが、彼のが、呼吸による代謝は食物を酸素などと燃焼さ たる論議のすえ、一〇月「ドイツ国民の基本を背景に、橋本欣五郎 ( 参謀本部ロシア班長 ) 権」を制定し、翌年三月には「ドイツ国憲法」をリーダーとする桜会の幕僚将校は、民間右翼設計による建築のほとんどはフィレンツェ周辺せてエネルギーを得る。生化学的にいえば、こ しゅうめい に散在、ポッジオ・ア・カイアーノのメディチれは酸化のエネルギーで < ( アデノシン二 を議決するなどの成果をあげた。しかし、それの大川周明の協力と軍首脳部の賛同を得て、 っ ~ キ、か ~ 干・ー ) リ リン酸 ) をリン酸化して < ( アデノシン三 、五 ) 、プラートのサンタ・マリ らを施行せしめるためのいかなる権力基盤もも陸相宇垣一成を首班とする軍部政府樹立を計家別荘 ( 一哭 0 ~ / はじめ リン酸 ) を得る現象なので、酸化的リン酸化と 聖堂 ( 一哭五 ) 、フィ たす、オーストリア、プロイセン両大国の政策画、国家改造の推進を目ざした。杉山元 ( 陸軍ア・デッレ・カルチェーリ こいそくにあき にのみやはるしげ ほんろう に翻弄されて、ドイツ国民が期待するような統次官 ) 、二宮治重 ( 参謀次長 ) 、小磯国昭 ( 陸軍レンツェのサンタ・マリア・マッダレーナ・デよぶ。動植物、酵母などの細胞中で酸化的リン たてかわよしつぐ 一国民国家創設の中心点にはとうていなりえな省軍務局長 ) 、建川美次 ( 参謀本部第二部長 ) イ・。ハツツィ聖堂の柱廊 ( 一四九 0 ~ 九五 ) 、サン酸化を行うのはミトコンドリアの内膜であり、 細菌では細胞膜である。糖や脂質は代謝の過程 ト・スピリト聖堂の聖器室 ( 一四九一一 ~ 九四 ) などが らがこの計画に賛成したといわれ、資金は徳川 かった。ドイツのみならずヨーロッパの「一八 ある。またフィレンツェのパラツツオ・ストロで分子中の炭素は炭酸ガスに、水素は Z << 義親 ( 貴族院議員 ) が援助した。計画は、大川 四八年の革命」全体の流れを変えたのは、バ丿 ( ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド ) な ツツイの模型を作製 ( 一哭九 ~ 九 0 ) し、ベネデッ が無産政党と連絡して三月二〇日ごろを期して カ労働者の六月蜂起の敗北 ( 六月事件 ) であり、 ト・ダ・マイアーノとクロナカによって施工さ どの水素運搬の補酵素分子に渡され、次に電子 7 ここから反革命勢力は本格的な反撃に転じる。民衆一万人動員による対議会デモを実行、軍隊 ん 伝達系で酸化され、最終的には酸素と結合して 3 六、オーストリアでは、ウィーンでこそ運動の急進が議会保護の名目で議会を包囲し、民政党内閣れたこの建物には、ジュリアーノの構想が大幅 よしちか やみ ほっけ かぶき
つつある世界は、文字どおりグローバルな世界 マニアエ・ヒストリカ ) をつくった。これは五 〔ランケ・ルネサンス〕ランケ以後、ドイツの後、社会経済史学の分野の基礎となった。 しかしそのマルクスでさえ、ヨーロッパ中、い史の視点を求めている。 〇〇年から一五〇〇年間にわたるドイツの中世歴史家は国民的統一の方針に沿って政治と歴史 〔競争的共存史観〕かってランケ史学によって 史料集で、ドイツ史学が近代史学の先駆けをす学を結び付けた。歴史学を国家目的に従属させ史観は捨てきれなかった。マルクスがとらえた ふうび る役目を果たした。 た。プロイセン学派がそれをもっとも強力に主生産様式の発展段階は「アジア的、古代ギリシナショナリズム史観が世界を風靡したあと、自 〔ランケの歴史観〕こうして基礎がほばできあ張した。しかし、その代表といわれるトライチア・ローマ的、封建的、近代プルジョア的」と由主義と共産主義の冷戦時代にはマルクス主義 の社会史観または階級史観が大きな力を振るつ がったところに、歴史家ランケが現れた。彼は ュケでさえ自由主義的なところもある。 いう四段階で、これは形体的にはランケやヘー たが、いま史上空前の技術革新によって巨大な 一九世紀のほとんど全期間を生きて、ベルリン 一八七〇年以後ドイツの国家的統一が遂げらゲルのと同じである。マルクスが、ギリシア・ 大学で講義するかたわら、たくさんの歴史書をれると、この学派の目的は遂げられたので、そローマの奴隷制社会から中世の封建制社会を経経済成長がもたらされ、迅速なコミュニケーシ 書いた。『ローマ的・ゲルマン的民族史』『ロー の勢力は衰え、歴史学を政治と切り離すランケて近代資本主義社会に至る歴史コースを世界史ョンは地球大の規模に広がって、狭いナショナ マ教皇史』『宗教改革時代のドイツ史』『フラン史学が復興された。この「ランケ・ルネサン リズムの枠が破れて世界は宇宙時代になった。 の基本型としたことは、まだヨーロッパ中心主 巨大な経済成長は、自由主義国にも共産主義国 ス史』『イギリス史』『世界史』などは一九世紀ス」から出たマイネッケは二〇世紀のドイツ史義にほかならなかった。 ドイツ史学を代表する傑作である。ランケはヨ にも共通の指針となり、「豊かな社会」を目ざ 学最大の歴史家である。彼は国民主義と自由主〔現代の歴史観と歴史記述〕〔文明史観の方法〕 してイデオロギーの違いを抜け出していく。階 ーロッパ各国の古文書館を歩いて原史料を集義、政治史と精神史を調和させる歴史観によっ 二〇世紀に入って第一次世界大戦が終わるこ 級闘争史観が退いて競争的共存史観が出てき め、宗派や政党の立場に偏らないように心がて、『世界市民主義と国民国家』『国家理性の理ろ、不安なヨーロッパの世相を反映して新しい け、事実を事実のために調べて、アカデミー史念』などの優れた歴史書を書いた。 歴史観が生まれた。シュペングラーの『西洋のた。それに伴って一元的歴史観から多元的歴史 学の本領を発揮した。 観に視点は移り、グローバルな世界史像が求め ースは一八八七年 ( 明治二〇 ) 日本に招か没落』は、世界に君臨していたヨーロッパ ; 、 しかし、ランケの歴史観は明らかにナショナれて、ランケ史学の方法を日本に伝えた。 よいよ没落するという予言をもって人々に衝撃られている。この視点の変化によって歴史がど とう書き換えられる う見直されるか、また、・ リズム史観である。歴史の基体は民族であり、 〔フランス史学の特色〕フランスは、革命中はを与えた。トインビーは、年代を離れて大きな 民族の国づくりが歴史の主題であった。彼の書歴史に無関心であったが、ナポレオン時代から 視野で歴史をみると、同じような型の事件が遠か、現代の歴史学は一つの曲り角にきている。 〈神山四郎〉 ↓歴史学 く歴史的事件は、国と国の主権の衝突であり外王政復古になると、ロマン主義の影響を受けてく隔たった時と所に共存しているのを発見し 交交渉であった。だから政治史に偏していると盛んに歴史が論じられた。その史風は文学的なて、それを「哲学的同時性」といった。トイン 中国 もいえる。しかも、それをみる彼の立場は自由ところが多いが、啓蒙思想の本家として百科全ビーは、たくさんの事実のなかから、そういう 中国は史書のきわめて多い国である。『左氏 主義に反対する保守的なもので、王制を支持し書の精神が文化史や社会史の発達を促し、現在非時間的な類型化しうる側面をみつけだした。 アナール 伝』に始まる編年史、『史記』に始まる歴代正 ていたから、ランケはプロイセンの権威主義に の「年報派」に至るまでの伝統がある。また一そのために彼は、歴史の基礎を、国家や社会よ 史の紀伝史、『史通』などの史評と形式も内容 仕えたとさえ批判されている。一方、ランケ九世紀以後、自国のフランス革命の研究では他り広い活動領域としての文明というものに置い た。文明はある時期に生まれ、栄え、やがて滅も豊富であるが、ほとんどが統治の参考のた は、ヘーゲルらの観念論的な歴史哲学には反対の追随を許さない。 したが、歴史の理念というものは認めていた。 〔イギリス史学〕イギリスの歴史学はドイツやびるものとみた。生物が発生・成長・死の過程め、官人が書き官人が読むもので、道義や名教 彼は事実の個別研究にもまして、事実の関連やフランスにやや遅れるが、近代史の研究はやがをたどるように、文明も発生・成長・解体の過の主張が一貫していた。史学は政治の仮面で、 程をたどる。そしていろいろな文明は、その同したがって純粋史学、真正史学といった思想は て進み、一九世紀後半にはオックスフォード、 傾向といった普遍的なものを重視した。 〔ヨーロッパ中心主義〕この時代の歴史観のもケンプリッジ両大学を中心に大きな業績をあげ じ過程を繰り返している。トインビーはその文容易に生まれなかった。しかし統治体制の相違 きよう に伴う性格の変化は認めることができる。これ た。アクトン卿が編集した『ケンプリッジ近世明圏を一一一ないし二三数えあげて、それらが前 う一つの特徴はヨーロッパ中心主義である。こ を氏族史、宮廷史、官僚史などと規定すれば、 れは、もともとキリスト教の直線史観に沿った史』はその一つの結晶である。イギリス人は歴記サイクルをもつものとみた。 〔ヨーロッパ中心主義を超えて〕トインビーの世界に共通する場にのせることができる。 人類・文化一元論からくるものである。世界史史を好み、イギリスの史風は市民意識とともに あけばの は古代オリエントの曙から始まって、ギリシ発達して経験的、自由主義的であるといえる。 文明史観は、一回的事件を年代的に記述する古〔氏族史〕文字製作者といわれる黄帝のころの そうきっそしよう ア、ローマに進み、それからキリスト教的ヨー 〔社会構造史観〕一九世紀後半になると、新し典史学と全然違う方法である。古典史学に比べ蒼頡、沮誦、史家の祖といわれる周の史佚、楚 、しよう しんとうこせい ロン 0 、、、ゝ の倚相、史家の模範とされる晋の董狐、斉の南 ノカてきあがり、最後にゲルマン的・ロー い歴史観が生まれた。それまでの政治史、外交て実証性に乏しいうらみはあるが、歴史の探究 マ的民族史としての近代ヨーロッパ諸国家の形史の底に社会条件があるのに着目し、それを生に新しい局面を開いたことは事実である。また史などみな記録を残したものであろう。しかし この文明史観は、ヨーロッパ中心史観をくつが古くは中国も口誦による伝承が主流で、祖先神 成という一本の歴史コースである。これが世界産関係にまで突きつめて歴史の動因を解明しょ うとする歴史観である。これはもともとマルクえしたことでも意味がある。それまで、世界はの功業をたたえ、系譜を述べ現支配を誇り、豊 史の基本線で、アジア、アフリカ、アメリカの スの考えたものであるが、マルクス自身は歴史一つで、その中心がヨーロツ。ハにあると思われ作や戦勝を祈り、勧戒を語り感動を歌うものな 歴史はこれの枝葉にすぎない。 こんせき これは、奇しくも、歴史家ランケと歴史哲学家ではなく、純粋に歴史記述とみられるものはていたが、この文明史観によると、それは二〇ど、その痕跡は『書経』『詩経』などにみられ る。ただ文字の使用が祭祀や儀礼にちなんで発 ほとんど書かなかった。 , 彼の探究目的は、歴史 いくつかの文明の一つにすぎず、世界史はヨー 者へーゲルに共通の世界史の枠組みである。こ ロッパの「拡散」ではなく、多元的文明の「並達したので、記録はこれに偏り、周代には王室 れは、キリスト教的ヨーロッパ人の根深い歴史の事実そのものを明らかにするよりは、そのデ ータに基づいて歴史の発展段階、歴史の法則を行」である。この見方は、二〇世紀なかばにきや諸侯の宮廷に蓄積されたようである。今日み しの見方で、帝国主義時代になると、巨大な経済 て、世界史の主導力がヨーロッパからアメリカられるものは、代の甲骨文を除くと、春秋期 / 、カと政治力と軍事力にものをいわせて世界に君みいだそうとするところにあったのであるが、 きゅうちょう カ臨したヨーロツ。ハ人の優越感が、それに輪をか彼の歴史的社会の構造分析の方法は一つの社会やソビエト連邦に移った現実を踏まえていっその魯、戦国期の魏の遺文が「五経」や「汲冢 3 う固まった。いま、ますます多極化、多元化し書」にそのおもかげを残している。そのなかの 5 しけてヨーロッパ中心主義を言い張った。 科学的方法として歴史学にも取り入れられ、以
は一義的に定められないこともある。チオ硫酸プラックはその代表例であって、芳香族アミン塩と硫酸の反応で得ら E 圧 0 イオンが四チオン酸イオンに酸化される反応 の種類により、黒色、褐色、暗青色、紫色、黄れる。工業的には、触 CC げわ 1 人 2S 0 ー↓ S 0 + 2e- 色などの色調のものが得られる。安価で、比較媒の存在下でアンモニ っ 0 11 2 0 9 舐 けんろう 川隻 。っ 0 . u. -9 、 日皿 において、図の構造式の変化からは、 O 原子と的に堅牢性のよい黒色の染色法として、木綿、アの酸素酸化で得られ 素 2 0 7 正 -0 【 0 一。イは・れ 窒 1- ・イ レーヨンに使用されていたが、色調が安定してる。無色の常磁性気素 結合している原子の酸化数が + から + に変化 度 っ 0 1 人・ ( 、 することがわかるが、すべての T) 原子を等価と 度温圧化 C 得にくいことや、染色が複雑であること、芳香体。空気中で酸化され化 酉 Z 量点点重 酸 z 量点点度解界界夋 した組成式の変化で考えると、 + から二・五と族アミン類の毒性などにより、しだいに利用さて赤褐色の二酸化窒素 式融用比 式融沸密溶臨臨三 いうローマ数字では表しにくい酸化数になってれなくなってきている。 N02 になる。水には ーし士っ 〈岩本振武〉 。窒素と酸 人毛や獣毛繊維の染色に用いられるヘア染色溶けにくい 泉 C さんか tin oxide スズと酸 にも酸化染料が用いられる。日本ではいわゆる素から高温で直接生成 酸化スズ しらが 素の化合物。次の二種の化合物がよく知られて白髪染めとして古くから知られているが、。フロするので、二酸化窒素 いる。ほかに三酸化二スズ Sn203 や、さらに ンド、プルネットに染色も可能である。人によ とともに大気汚染源と 酸素の含有量の多い Sn304 なども報告されてっては芳香族アミン ( 主としてパラフェニレンなる。多くの物質と反 しっしん ジアミン ) により湿疹や皮膚炎をおこすことが応しやすく、酸化され あるので注意が必要である。↓アニリン・フラッ やすい。金属塩の溶液 「哥 0 ク 〈飛田満彦〉 に吸収されやすく、た Z 。語 titanium oxide とえば、硫酸鉄とは 方 酸化チタンさんか・・ー の 0 Ⅳ チタンと酸素の化合物。チタンの酸化数によっ不安定な褐色のニトロ 構 て、三種の酸化物が知られている。 シル化合物をつくるの ズ 度 ス 素 窒 で、検出に用いられ素 かつりん イ量点点重晶華 窒 る。↓褐輪反応 式融沸比結昇 ン 酸酸 三酸化二窒素は無水 bC タ 二 Z 五 Z 亜硝酸と俗称すること チ 系点 イ量点点重晶解 もある。酸化ヒ素に硝酸を作用させて得られり、人事の世界でもようやく慌ただしい季節を 0 0 酸式融沸比結分 〈宇田敏彦〉 る褐色の気体で ON-N02 分子からなる。液体迎えるのである。 方 0 、 11 さんがっかくめい Märzrevolution ①酸化チタン囲化学式 TiO 式量六三・九。と固体は青色。不安定で水に溶けて亜硝酸を生三月革命 ズ ス o バイドイツ三月革命ともいう。・ヘルリン、ウィ 酸化チタン Ti02 とチタンを真空中で一五じるが、さらに硝酸と一酸化窒素になる。 系点 化量点点重晶解 五〇 ~ 一七五〇度 O に加熱すると生ずる黒色結 三酸化窒素 N03 は、窒素の酸化物とオゾン ーンの一八四八年三月の人民起および同時期 酸式融沸比結分 晶であるが、正確に TiO の組成を得ることはの反応によって生じる気体であり、独自の吸収のその他のドイツ連邦諸国における政治的変革 をさす。ただし、わが国では四八年から四九年 スペクトルにより存在が証明されている。ま ①酸化スズ ( 酸化第一スズ ) スズ亜塩溶液困難である。 にかけてのドイツ各地の革命の全体をさす用語 2 酸化チタン刪酸化チタンを水素と四塩化 た、六酸化二窒素 N 20 。は、二酸化窒素と液 にアンモニア水を加えて生じた沈殿を脱水して つくる。黒色の結品。水に不溶。空気中で熱すチタン TiC14 との混合気流中で一〇〇〇度 0 体酸素との反応によって生成するきわめて不安としても用いられている。 に加熱して得られる紫色結晶である。 〔背景〕ナポレオン戦争後のウィーン会議 ( 天 ると酸化スズ腸になる。還元剤として用いる。 定な緑色固体である。 すず ③酸化チタン刪二酸化チタンともよばれ、チ ほかに、一酸化二窒素 ( 亜酸化窒素 ) N20 、 ~ 一五 ) によって成立したドイツ連邦は、それ ②酸化スズ ( 酸化第二スズ ) 天然には錫石 二酸化窒素、四酸化二窒素 N20 、、五酸化二窒それ主権を有する三九の、君主国および自由都 として産出する。金属スズを空気中で熱するタンの酸化物のなかではもっとも安定である。 か、スズを硝酸に溶かしたものを強熱して得らチタンの水和酸化物を強熱すると得られる無色素 N205 がある。↓一酸化二窒素↓五酸化一一市の連合体で、近代的国民国家とは遠くかけ離 窒素↓二酸化窒素 〈守永健一〉れた存在であった。しかもそのなかで指導的役 れる。無色の結晶。水、アルカリ、アンモニア粉末であるが、天然には、ルチル ( 金紅石 ) 、 さんがっ March 材 März イ mars 割を果たしていたのはプロイセン、オーストリ 水に不溶。水酸化アルカリと溶融するとスズ板チタン石、鋭錐石 ( アナタース ) のそれそれ三月 一年一二か月の第三番目の月。節は初春アの二大国であり、その政策は、正統的君主制 結晶構造の異なる鉱物として産出する。白色顔 酸塩となる。電気伝導性がある。炭素または水 素と熱すると金属スズを得る。錫石は金属スズ料 ( チタンホワイト ) 、磁器原料、研摩剤、医にあたるが、春もまだ浅く、自然の風物にも活原理と人民抑圧政策を一身に体現するオースト おもむき リア宰相メッテルニヒによって代表されてい の原料、ガラスや金属の研摩材、エナメルや乳薬品、化粧品などの用途がある。↓二酸化チタ気がみられず、寒々として趣には乏しい。陰 やよい ン 〈岩本振武〉暦三月は弥生ともいい、季節も三春の終わりでた。したがってウィーン会議以降一八四八年に 〈守永健一〉 色ガラスの製造などに用いる。 ある晩春にあたる。この月になると、風雨も春至るまでのドイツ各地の政治運動の目標は、国 さんかちっそ nitrogen OXide 酸化九木料さんかせんりよう oxidation col- 酸化窒一系 っ our 繊維など染色されるものの上で酸化によ窒素の酸化物の総称で、酸化数—からまでのらしく改まり、萌え出た草木がいよいよ生い茂家的分裂の克服と各領邦国家内の自由の拡大に カり生成と同時に発色する染料。芳香族アミン誘化合物が知られているが、一般には一酸化窒素るとされ、「やよい」の語も「いやおい月」の置かれた。当時のドイツにおいて「統一」と 「自由」というスローガンが一般化したゆえん 転化したものだという。江戸時代には、この月 ん導体は無色であるが、適当な酸化剤で酸化すれをさすことが多い 一酸化窒素 nitrogen monoxide は、亜硝酸の五日に奉公人の契約更改 ( 出替わり ) があである。そのような政治連動の担い手としてま 六、ば水不溶性の染料となって発色する。アニリン 150.7 1630 。 C えいすい 1 」 86 A 1.126 A 3 電了・結合性 ) l.20A 1.20A l.86A 1.14A N 0 165 。 C 0 + Z 134 。 ・・・ N03 [ > ー 78 ℃の固体 ] ートロニウ l. 15A N O ムイオン 硝酸イオン 1.15A 1.24A