し たかとき 地位を占めていた。これに対して、姉川、高時川などによっ 位 」忸」柾 て形成された湖北平野と、石田川、安曇川などによって形成 0 2 0 % 人人人人 2 された湖西平野は、狭小で、より扇状地的な色彩が強い。ま 「自然〕地形 / 気候 - -0 11 ワ 8 0 立 だいなか 人 E 人 0 9 ′ 1 円 【 / 1 よ 8 ワ」戸 0 〔歴史〕先史・古代 / 中世 / 近世 / 近・現代 た湖岸には、細長い砂州と砂浜が広がる一方、かっては大中 -8 -8 -0 4 いりえ ・の 8 の 人人の 尸 0 -. 0 戸 0 戸 0 【 0 8 玉、ワ】 〔産業〕農林業 / 水産業 / 工業 / 開発 之湖、入江内湖、曽根沼などの内湖といわれる浅いラグーン 国国 8 一 0 全 1 全 《 0 ワ】 全 0 ゲ 男女 1 男女 〔交通〕 ( 潟湖 ) が存在したが、その大部分は第一一次世界大戦から戦 ナプ 年 年 年年年年年市クジッ 後にかけて干拓されて、いまではわずかに西の湖などの小規 〔社会・文化〕教育文化 / 生活文化 / 観光 章 0 2 千ヤ、、、′ 4 県〔伝説〕 1 よ 11 大シモカ 模なものを残すにすぎない。平野と山地の間に分布する丘陵 しいずれも高度二〇〇 ~ 三〇〇、南部に多く北部に少な 地 めのびきみなくち すずか 度 得在 近畿地方の北東部を占める県。周囲を山で囲まれ、中央部 い。鈴鹿山脈から西に延びる丘陵群 ( 布引・水口・瀬田止陵 密 数 かたた たいさんじのあえば びわ 帯 民庁花木鳥 など ) がもっとも広く、湖西には堅田丘陵、泰山寺野、響庭 県県県県県 には、県の面積の約六分の一を占める琵琶湖があり、その周面人 人 世 の 囲に広い平野が広がる。北は福井県、東は岐阜県、南は三重 野などがある。これらの丘陵地は乏水性のため開発が遅れた 県、西は京都府と境を接している。本州、四国、九州のほば このことがよく理解できる。一九八五年 ( 昭和六〇 ) の国勢が、最近では住宅団地、工業団地、ゴルフ場などとして激し へんばう 真ん中に位置しており、日本の人口重心もかっては滋賀県に い変貌を遂げつつある。近江盆地の最外縁部を取り巻く山地 調査時の県人口は、全国都道府県のなかで三六位、わずか約 あった。 は、その大部分が南北方向の断層によって形成された地塁性 一一六万人である。これは全国人口の〇・九五 % でしかない 滋賀県はその恵まれた交通的位置を生かして、古来、多く ( ちなみに県面積も全国の約一〇〇分の一、それゆえ「百分 ℃ E E E 5 3 の城下町、宿場町、港町などの歴史的都市を生み出してきの一県」という名でよばれることが最近多い ) 。しかし、一 おうみ 1 ーフー 00 た。滋賀県 ( 近江国 ) が、縄文時代以来つねに東日本と西日九七五 ~ 八〇年の五年間の人口増加率は約九・六 % で、これ じんしん 日皿 本との接点として重要視され、また壬申の乱をはじめとしては千葉県、埼玉県、奈良県に次いで全国第四位の高率であ 笂量 z 均水 6 数多く天下分け目の戦いの戦場となってきたのも、この地域る。すなわち、滋賀県は首都圏における千葉、埼玉両県と同 平降引 年年 3 が日本のほば中央部に位置する交通要衝であり続けたことに様に、近畿圏では奈良県とともに激しい人口増加の県になっ よるといってよいであろう。この特色は、現在もなお変わっているのである。この現象は、基本的には京阪神大都市圏の ていない。すなわち、東海道本線、東海道・山陽新幹線、国拡張として把握することができるが、県の北東部は中京圏に 道一号・八号、名神高速道路など、わが国でももっとも重要属していることも無視できない。いずれにせよ、滋賀県は、 みぞう な交通ルートが県内を走り抜けているのである。交通の点で いま未曽有の都市化の波にさらされているといってよい。こ 恵まれているということは、同時に、人や物資の流動が激しのような背景もあって、日本一の湖である琵琶湖の水質汚濁 いということでもある。たとえば人口関係の統計をみても、 が最近きわめて著しい。近畿地方の水の供給源である琵琶湖 をよみがえらせようと、一九八〇年には琵琶湖富栄養化防止 男女 条例が施行され、「琵琶湖元年」といわれた。また、八四年 八月には大津市で世界湖沼環境会議が開催され、広く世界に 年 湖沼の環境問題がアピールされた。 一九八六年五月現在、七市一二郡四二町一村からなる。 〔自然〕〔地形〕県域は、近江盆地というまとまった地形区 っ 0 る とはば一致する。その中心部には琵琶湖があり、それを取り 年 囲んで沖積平野、さらにその外側には古琵琶湖層といわれる量 水 丘陵、もっとも外縁部を山地が取り巻くという、同心円状の 降 と 地形配列を示している。沖積平野や丘陵、段丘の分布には地 日皿 人域的な偏りがあり、南部と東部に広く存在している。すなわ 気 国 位国 ち、草津川、野洲川、日野川などによって形成された湖南平 単全注 いぬかみ 県 野と、愛知川、犬上川などによって形成された湖東平野は、 賀 ともに広大な面積を有し、古くから近江の穀倉地帯としての滋 成 ロ男女 男年 年 O (C) 0 【う ) O 【う ) O Ln 0 Ln 0 【う ) O L-n C) L.n O 8 「ーっー -. 0 L.n L.n ・・ 4- っ 0 っ 0 っつ」 滋賀 ( 県 ) 45 100 歳以上の人口 ( 1980 年 ) 彦根市の気象 せきこ ) っっこっ」 つ」っ 0 ・ 4- E 彦 ーま あね - 月平均気温 - 月平均降水量 緯度 / 経度 示「三 ] 1986 年版「理科年表」による 年降水量 ロ 2800 。以上〔ここ」 1600 ~ 2000 2400 ~ 2800 〔こ」」 1600m 。未満 2000 ~ 2400 等温線 ( ℃ ) 2 月 8 月 。気象官署所在地 577
年齢別人口構成 80 歳 1980 年ロ男 ロ女 県東部は北の脊振山地と南の佐賀平野に大別される。脊振 位 位位 山地は筑紫山地西部の地塊山地で、脊振山 ( 一 0 五五 ) を主峰 とする地塁状の主脈が福岡県境を東西に連なる。その南に隆 「自然〕地形 / 気候 2 % % 人人人人 2 ひこだけ ー 0 0 1 6 位一 円 起準平原をなす高原状の丘陵が広がり、南西端で天山、彦岳 〔歴史〕先史・古代 / 中世・近世 / 近・現代隊い ーっ 4 0 4 . のの 、 1 -4 11 《 0 1 よ戸 0 人人の 、 1 11 -4 -4 0 一 4 -4- ー ( 会五 ) の山系が直接佐賀平野に臨む。脊振山地は県境や南 「産業〕農業 / 水産業 / 鉱工業 . 国 国 0 国 花 ′ 0 ワ】 CO 00 4 全全 -0 ・ 4- の 00 / ` ・ 00 ワ朝ー、ワ朝 1 男女男女 端部で部分的に蛇紋岩や変成岩類をみるが、大部分は花崗岩 〔交通〕 キキギ 〔社会・文化〕教育文化 / 生活文化 年 年 年年年年年市ノノサ類で、嘉瀬川など諸水系の河谷が樹枝状に発達し、小山間盆 0 0 さんろく 賀ススサ 地や峡谷を各地に形成する。脊振山地の南には、山麓部の洪 県〔伝説〕 1 1 11 1 佐ククカ 積台地を経て、低平な佐賀平野が有明海に向けて広がる。だ 地 度 得在 いたい標高五等高線以北に旧期沖積層 ( 低位段丘礫層 ) が 九州地方の北西部にある県。北東部と東部は福岡県に、西 密 数 所所 - 一うきょ げんかいなだ ありあけ 帯 民庁花木鳥分布。それ以南は新期沖積層で、溝渠 ( クリーク ) 網や、佐 部は長崎県に接する。北は玄界灘 ( 玄海 ) 、南は有明海に面積ロ 県県県県県 人 世 面人 がえはったえほんじようえ ひぜん 賀江、八田江、本庄江など海水逆流の江湖が平野の景観を し、この両海域に挟まれた、広義の肥前半島の付け根の部分 ちょうせき にあたる。佐賀県庁の数理位置は北緯三三度一五分、東経一国鉄特急の始発・終着駅とも県下にはなく、通過地域として特色づける。有明海湾奥部の潮汐干満差は日本一で、六角 ありた 日河口付近で大潮差は約六にも達する。沿岸には広大な干 三〇度一八分。「南国土佐」の高知県庁の北緯三三度三三分の回廊的性格を示してきた。しかし、有田の窯芸文化、佐賀 よりわずかに南にある。このような数理位置より、朝鮮半島藩の洋式工業ほか、外来文化の受容といった面では先進的な拓地や干潟が広がり、厚い有明粘土層地帯をなす。六角川下 からっ や長崎などに近いといった関係位置のほうが、本県域の歴史役割を果たした。また、唐津炭田、米作の「佐賀段階」、有流以南は白石平野と称し、俗に佐賀平野と区別する。 きしま 県西部には、松浦杵島止陵地や東松浦溶岩台地、多良火山 のうえに重要な意味をもった。県都佐賀市から首都東京まで明海のノリ養殖、玄海原子力発電所など、各方面で注目され たい・ ) う の鉄道距離は約一二三〇キ。。それに対し、青木月斗の「太閤てきた。人口動態をみると、第一回国勢調査の一九二〇年 月 なごや かすみかな ℃ E E (. 0 E 8 8 ( 大正九 ) に六七・四万、四〇年 ( 昭和一五 ) が七〇・二万、 が睨みし海の霞哉」の句碑が立っ名護屋城跡から、壱岐・ ふぎん っしま 0 ・ ) 。っ 8 対馬を経て朝鮮半島南端のプサン ( 釜山 ) に至る直線距離は第二次世界大戦後の四七年 ( 昭和一一一 l) には海外引揚げや復 わずかに二〇〇キ。足らずである。このような対外的近接性員などで九一・八万に上った。さらに炭鉱開発も進んで五五 気量 z 均水 5 は、国内支配中心の畿内・関東に対する遠隔性とともに、本年には九七・四万のピークを示した。五六年以後は相次ぐ炭 平降引 年年 3 県域の文化・経済にみる先進性・辺地性の二重構造の形成に鉱閉山などで人口減が続き、七〇年には八三・八万まで減少 した。七三年から増加に転じ、地域開発も進んで八五年には つながった。本県は面積で全国四二位、人口で四一位といっ 象 ・〇万を数えた。八〇 ~ 八五年の人口増加率一・七 % た、文字どおり福岡・長崎両県に挟まれた小県。県下最大 気 の は、福岡県の三・六 % より低いが、長崎県の〇・二 % より高 の県都佐賀市にしても人口一六・八万、広域中心都市の福 市 し八〇 ~ 八五年には県下四九市町村のうち、工業・住宅開賀 岡市や異国情緒豊かな長崎市の都市規模に比すべくもない。 佐 発など目だっ県東部市町村を中心に二七市町村で人口増をみ みやき 人 9 男女 万 た。なかでも、福岡県に近い三養基郡基山町では住宅団地の 造成が進み、実に県下最高の増加率一七・三 % を示した。減 年 せふり 少率五・九 % の脊振村、同一・三 % の富士町など脊振山地の 町村で人口減が目だった。 一九八六年五月現在、七市八郡三六町六村からなる。 ℃月月 る 6 2 8 線 〔自然〕〔地形〕県域は玄界灘斜面と有明海斜面に大きく分 はがね 年 けられる。両斜面の分水界は脊振山地西部の福岡県境羽金山 ( 〈 00 ) 付近から南下、天山 ( 一 0 哭 ) ・八幡岳 G ~ ( し付水 じんろく 近などを経て長崎県境神六山 ( 四四七 ) の南東方に至る。県と上 8 満 査 以未署 温 官地 人数東部は分水界が脊振山地の福岡県境に及び、だいたい筑後 気 たましま かせ 総国 0 0 8 象在 位国 ・嘉瀬川水系など有明海斜面にある。県西部では玉島川 量 4 気所 ろっかく 単全注 まつうら 0 松浦川・有田川水系や東松浦半島などの玄界灘斜面と、六角 しおた かしま 年 佐 ・塩田川・鹿島川水系などの有明海斜面とに分かれる。 佐賀 ( 県 ) さが 【う ) 0 【う ) 0 一う ) 0 L.n 0 1-n O LO 0 LO 0 【っ 0 「 / 「 / (. 0 (. 0 L.n 【う ) 4- ・つ 0 っ 0 っっ乙 きない とさ 100 歳以上の人口 ( 1980 年 ) げつと きやま O ) 0 L-n 0 【 ) 0 1.n 0 0 (Z) 0 0 0 0 E s--) っ 0 つ」っ」 0 0 0 0 CD 1 ー・つなっ 4- L-n : 日 0 佐賀 0 / ノ ロ月平均気温 月平均降水量 緯度 / 経度 標高 1986 年版「理科年表」による ノ れき たら 0
さんばい より八〇キ。離れた標高八〇〇の高原に位置す る。人口七〇三万三五二九 ( 一 0 ) 。二〇余り 雄 雄 っ の衛星都市を含む大サン・パウロの人口は一三 も を五〇万に及ぶ。亜熱帯地域に属するが夏も涼し 角 き一 、年間を通じてほば一五 ~ 二五度 0 で快適な れし 気候の地である。 を 群枝 る分 住民はポルトガル系、スペイン系、ドイツ の 一浴っ系、イタリア系、東ヨーロッパ系 ( ポーラン ン ド、ラトビアなど ) 、日系、レバノン系など世 い数 界中のさまざまな人種系統からなり、それそれ がかなりはっきりした居住区をつくっている。 工 ガ ハウリスタ Paulista とよばれるサン・パウロ ン 市民は精力的な実務家で、経済活動に励むので サ 町は非常に活気がある。自動車がひしめき、喧 そう 噪に満ちた都会である。 都心部に接するガルポン・。フェノ街付近に多く サン・パウロは。フラジル最大の商工業の中心 集まり、日本食の店、土産物店など日本語の看 地で、一九世紀後半にコーヒー栽培が盛んにな板と日系人があふれる町をつくっている。サ るのと並行して、コーヒーの集荷と輸出業務を ン・パウロには美しい公園が多く、レププリカ 中核として発展した。・ フラジル南東部の交通網公園、イピランガ公園、イビラブエラ公園、イ の中心に位置し、その商圏は同国の南東部から ピランガ水源州立公園などは市民の憩いの場と なっている。 〈山本正三〉 中央部、西部に広がる。第二次世界大戦中から 工業が目覚ましく発展し、戦後はアメリカ、西 〔歴史〕現在のサン・パウロ付近は、かってピ ヨーロッヾ、 ラティニンガとよばれ、原住民グアイアナ族の 日本など外国の諸企業がサン・ ウロ市内と近郊衛星都市に進出し、日系企業だ居住地であった。一五五四年ポルトガル人のイ けでも五〇〇社を超えている。とくに外港サン 工ズス会士マヌエル・ダ・ノ。フレガらによっ トスと結ぶハイウェー沿線、リオ・デ・ジャネて、この地にインディオ教化のための教会と学 イロに向かう幹線道路沿いなどで工業化が盛ん校が建てられた。これがサン・パウロの起源で ある。町名の由来は、町の建設記念の第一回の ( その度合いを値でも表しうる ) ひいてて植物に限られ、四倍体の植物と二倍体の植物である。自動車、織物、家具、化学工業製品、 ミサが、聖徒バウロがキリスト教に改宗した記 は酸敗は、空気、熱、光を避け、酸化防止剤を交雑することによって得られる。自然でも一一一衣服、セメント、食品など各種の工業が立地 ( たとえばビタミン ) および相乗剤 ( たとえ倍体の植物ができる場合があり、ポプラの三倍し、サン・パウロの工業生産額は。フラジル全体念日に施行されたことによる。植民地時代を通 の三分の一を超える。商業、金融業でもリオ・ じて同市の人口は二〇〇〇人程度で、住民の生 ばクエン酸 ) を使用することによって、ある程体は山火事が原因でできたといわれているが、 〈福住一雄〉人為的処理で比較的容易に得られる。「種なしデ・ジャネイロとともにブラジルの主導的地位活は貧しかった。やがて。フラジル奥地の金、 度抑止される。 スイカ」はこれを応用したもので、普通の二倍にある。また、リオ・デ・ジャネイロと並ぶ。フ銀、ダイヤモンドの発見と、北東部の砂糖業に 食品においては、油脂および油脂を含む食品 ラジル文化の中心地でもあり、サン・パウロ大奴隷として売却するインディオ狩りを目的とす が古くなると、油脂分の加水分解や自動酸化に体のスイカをコルヒチン ( アルカロイドの一 よって酸性となり、不快な臭気を発生し、味が種 ) で処理して四倍体の品種をつくり、これを学など。フラジルの代表的な大学があり、中世以るバンデイラ ( 植民者による奥地探検隊 ) の拠 点となった。一九世紀後半、この地方がコーヒ 悪くなり、あるいは色が変わることがある。こ母親として普通品種の花枌を交配させて三倍体降の西欧美術を集めたサン・パウロ美術館をは ー生産の中心地となると、サン・パウロは商 の種子をつくる。これを生育させてから花に一一じめ、美術館、博物館、図書館なども多い。。フ のような油の劣化現象を酸敗、または変敗とい ラジルのモダン・アートの発祥地で、ここで催業・金融のセンターとして急速に発展し、二〇 う。酸敗は食品への影響が大きく、とくに油脂倍体の花枌を人工交配すると、その実は種なし となる。一般に三倍体は二倍体より大きく、発されるビエンナーレは、この分野の世界的行事世紀初頭には人口も二四万人に達した。さらに を多く含む食品は、これによって風味を損なう である。また、市西部にあるプタンタン研究所一九三〇年代以後、全国の工業センターとな だけでなく、場合によっては毒性をもつ。酸敗育も盛んであるが、減数分裂が不規則なため、 ふねん り、他地方からの人口を吸引し、大都市に成長 を防ぐには、抗酸化剤 ( 酸化防止剤 ) を加え不稔性 ( 種子となるまでの過程における異常 ) は、毒ヘビの研究によって世界的に知られる。 している。 〈山田睦男〉 サン・パウロの都心は、日系人が「お茶の水 る、空気に食品が触れないように包装内の気体となる割合が高いので、挿木などの栄養生殖に を窒素ガスに置き換える、酸素吸収材を添付すよって繁殖させる。 〈吉田精一〉橋」とよぶ高速道路に架かる陸橋付近で、そのサンバカエル〔産婆蛙〕 midwife toad とミ es obs ミ、ぎ両生綱無尾目スズ るなどのほか、冷暗所に貯蔵する必要がある。サン・ハウロ Säo Paulo プラジル南東周辺のセントロ地区は高層ビルが林立する商業 トイツ、スイス、フラン 〈河野友美〉部にある同国第一の都市。南アメリカ最大の都地区である。。ハウリスタ街は、もとはコーヒー ガエル科のカエル。・ 酸敗の一部に油焼けもある。 で産をなした人々の大邸宅の並ぶ地区であったス、イベリア半島に分布する。灰色または褐色 さんばいたい細胞の染色体の基本数市でもある。サン・パウロ州の州都。リオ・ 三倍体 あんはん で小暗斑があり、号、ヒ」 の三倍の染色体数をもっ倍数体をいう。主としデ・ジャネイロの西南西約五〇〇キ。、大西洋岸が、最近は高層ビル街にかわった。日系人は、 し青但隆条がある。目は大 4 みやげ 452
しつぎよ ため賃金率は資本量に正比例し労働者数に逆頭にかけて成立した独占資本主義のもとで、加 争に介入するに及んで、一八三九年イギリスの就労の機会自体を得ることができるかどうかと いうことであるが、さらに広く個々の労働能力比例する、と説いた。この賃金基金説 wages 速化される。この時代には、膨大な過剰資本が 東インド会社がダージリン地区の獲得、領有を 宣言し、四九年にはタライ平野とティスタ川下と意思とに相応する就労であるか否かも、いま fund theory は、失業の形成を労働者の高賃累積されて、生産設備の遊休が慢性化し、産業 流域を領有、一八九〇年にはシッキム全域をイ一つの基準である。個々の技能や学歴に相応す金や労働組合の賃金協定の存在に求める考え方循環の好況局面においてさえ、慢性的な大量失 業が存在するようになる。 ギリス領インドの保護下に置いた。一九四七年る就労でない場合も、たとえ就労者として現れの源流をなした。 これらに対してリカードは『経済学および課〔相対的過剰人口の存在形態〕相対的過剰人口 インドの独立とともにインドがシッキムの外るとしても実質的には失業であると考えられ、 交、国防の任にあたった。五〇年正式にインド これを半失業という。失業および半失業の存在税の原理』第三版 ( 天一九 ) において、一国の資は、産業循環の変転に伴う急性的、慢性的な形 の保護領となり、七四年に準州、七五年五月に が社会的再生産の必要不可欠な条件をなす所有本総額一定というもとでの機械の導入は、労働態を別にすれば、流動的、潜在的、停滞的とい 第一三番目の州となった。 〈米田巖〉関係は、資本主義においてである。資本主義を排除して人口を過剰にするとしたうえで、資う三つの形態、およびそれらの沈殿層としての @> ・・コエルオ著、三田幸夫他訳『シッキは、資本の平均的な価値増殖欲望にとって相対本の蓄積が機械の導入もしくは使用の拡大を伴貧民として存在する。 流動的形態は、近代的産業の中心における吸 ムと。フータン』 ( 一九七三・集英社 ) 的に過剰な人口を再生産し、彼らを失業およびって行われる場合には、労働需要は逓減する割 引と反発を通じて形成される失業形態である。 と説いた。マルクスは、 合でしか増大しない、 しつぎよう unemployment 労働の半失業の状態に陥れるのである。 失業 リカードの見解を批判的に継承して相対的過剰機械の絶えざる変革のため吸引される労働力の 能力と意思をもちながら労働の機会を得ること〔相対的過剰人口の形成と作用〕失業および半 人口の理論を体系化した。機械の採用を伴って性・年齢・熟練等級は急速に変化し、この対極 のできないでいる労働人口部分の状態をいい、 失業は、経済学の歴史のうえでは長い間社会に 資本主義に特有な社会現象である。労働能力のとって「絶対的」に過剰な人口である、と考え進む労働生産性の増大は、労働力に比べた生産に、労働力を消耗させた労働者の反発と企業規 保有とは、労働不能や病気療養中などの場合をられてきた。マルサスは『人口の原理』 ( 一七九 0 手段の分量を相対的に増加させる。資本の技術模間もしくは熟練等級間の下方移動がある。潜 除いて簡単な労働を行う能力を備えているこ において、幾何級数的に増加する人口と算術級的構成におけるこの変化は、資本の価値構成在的形態は、農業の資本主義的な発展が農業人 ロのなかに生み出す失業形態である。それは目 に、すなわち可変資本に比べた不変資本の相対 と、と理解される。また、労働意思の保有と数的にしか増加しえない食糧との不均衡から人 に見えない形で潜在化し、絶えず都市労働者へ は、争議中の労働者のような意識的な労働忌避ロの過剰を説き、これを歴史を貫く自然法則で的な増加に反映させる。この資本の有機的構成 の移行を待ち構えながら農村に滞留する労働力 などの場合を除いて、消極的にしろ就労の意欲あるとした。・・ミルは『経済学原理』の高度化は、労働需要を相対的に減少させる。 を表明していること、と判断される。最後の労 ( 天四 0 において、賃金として支払われる資本この過程は、資本の集中と原資本の技術的構成である。農村労働者の賃金は、この潜在的過剰 の変化を伴うため急速に進む。社会的総資本の人口の圧力を受けて最低限の水準にまで押し下 働機会の有無とは、字義どおりに解するならば量は一定の時点では一定した基金であり、この げられる。停滞的形態は、マンパワー man 増大は、労働需要の絶対的な増加 power 会社 ( 人材派遣会社 ) 、期間の定めのあ をもたらすが、この過程自体が、 周期的な産業循環を伴い、諸種のる労働契約、社外工、中小企業の下層、零細企 ~ 生産部面における有機的構成の変業、家内労働などに働く就業が不規則で長時間 動を引き起こすため、労働需要の労働と低賃金を特徴とする労働者の失業形態で 相対的な減少と労働力の反発を生ある。この形態は、自由に利用できる「労働力 のくめども尽きぬ貯水池」を提供し、特別に劣 み出す。 こうして労働需要はしだいに減悪な賃金・労働条件を基礎としてのみ存在する 少する比率でのみ増大し、資本蓄中小零細企業を成立させている。これら三つの 積にとって相対的に過剰な人口が形態の最底辺には、公的扶助などを受ける過剰 生産される。ひとたび形成された人口の沈殿層としての受救貧民が存在する。こ 相対的過剰人口は、資本の突発的れは、本来のルンペン・プロレタリアート ( 住 な生産拡大の条件となり、産業循所不定者、受刑者など ) を別にすれば、老齢 環の進行の基礎となる。現実の人者、障害者、病弱者などの労働不能者からなる つでも過剰人口である。 口増加にかかわりなく、い これらの形態のうち停滞的過剰人口は、独占 資本が自由に利用しうる過剰人口 は、産業予備軍としての機能を担資本主義の成立以降、独占の発展に伴う労働市 う。賃金の水準は産業予備軍の規場の分断および格差構造の創出をはじめとし 模に規制され、また、その圧力て、農業の地位の低下による潜在的形態の減 少、国家の労働力政策などによる流動的形態の 力を麓ル踊ちは、就業者が賃金の取得に際し 。山南のでた クガ脈郊前士て、労働支出量を従来以上に増大停滞的形態への再配置などによって、その比重 トン山近の道 を増加させる。 ンユヤク院修させることを余儀なくさせる。こ カジラるト寺の れはこれで産業予備軍の圧力を強〔欧米諸国の失業・半失業〕各国における失業 ム都ンマすンク教 キ州工ヒ置ガッマめることになる。これらの過程者数および失業率は、各国政府ならびに国際機 7 ッ ) 丿チむ位 シ ン望に〔ムるは、一九世紀末葉から二〇世紀初関の公表する失業統計によっても、一九七〇年 8 0 1 新
二、◎ しこくち 四国地方 / 地勢 3 山陽 = 。。ノ県 . い .1 イ・家豊諸島 小豆島一鸞 0 を第星ヶ しんく一き 岡亠平野 海道・山、“ , 目 ー価。西能島 ・大熏 芸諸の。 。。安芸 : 攤・ " 戸 防予諸、 - 島 / 由利島 。青島重信川 福山平野、 し 笠戸島ダ 0 4 備後・い 0 高井神島 魚島 四最島 目 i 水島灘。 島半島 トーーメ / 高見島塩飽諸島 大平 , 。 0 伊吹島 讃岐平野 財田川 0 0 0 0 i 祝島 ( 公 乞△ 伊皀 一田皹毎飜 社川 1 社竃半團野 0 0 島 0 松山平野 △ 986 0 ム 引 6 △ 播磨攤 県 7 居浜平野 笹ヶ赤山 △属 5 ふ △ 7 赤 △用 60 、・、 . ノ、三傍示山 , 山を岩山 亠国見梶ヶ 高坂し △ー 400 ー△日 76 4 属 27 曳峠御在所山 △ー 0 、ケ森 △ 674 山ー 寺引 。辺ノ 石墨↓ 0 .1- 島毎。ー 壺神山 久万高 . 、 ・大 △ー 8 △ 8 に 出石亠 大川嶺 5 為月神山 雨包山 ・地峠・鳴形山症 、ン : △ 538 徳島平野 △ー 47 矢。筈 708 △ 尾山 ~ 。。 、 ~ △を 3 狗貧由丸鰻 △冖亀谷 △ 06 陣ヶ森 ー 0 に△ 9 ツ面亠 △ー 55 八早山 △ :.?25 宀所山 7 志野川 勝浦川 野 1 Ⅳ 940 , 大崎鼻 0 振′ △ー 0 ー 7 496 ー 80 △ 早山 7 ' 和ハ ' 在尸 高知平野 空△ 0 那慣川 0 ム △ー 9 音岳Ⅱ。、 ほ / 四万ト川 ( ハ ー 85 △ 八本 △ 954 八郎山 △ 9 ー 9 △ 566 大ノ」山 白ノ鼻 。蒲生田岬 693 伊島 皹 横島 ( 匹學 ・・大島 △ 75 ー 上佐湾 中村平野 貝ヶ ノ亠 △ 865 奈半利川 興津崎 1 島来島 ! 姫島 鼬ノ島 室戸岬 足摺半島 足 岬 うちわ の団扇、小豆島のしようゆ、愛ている。空港は徳島、高松、松山、高知の四つ があり、高松空港以外はジェット機が就航して 媛県今治市のタオルと縫製品、 伊予三島・川之江両市の水引・ 製紙などがある。 〔開発〕四国の開発プロジェクトは交通関係が 〔交通〕四国最初の鉄道は一八中心である。第一が本州四国連絡架橋で、一九 ・一じま、かいで 八年 ( 明治二一 ) に三津浜ー 七八年 ( 昭和五三 ) 児島ー坂出ルートの瀬戸大 松山間に敷設された伊予鉄道で橋の着工式があり、八八年開通の予定。また尾 みち おおみしま いんのしま ある。その翌年讃岐鉄道の丸亀道ー今治ルートの大三島橋・因島大橋、神戸ー ことひら おお ー琴平間が開通した。国鉄は一鳴門ルートの大鳴門橋はすでに完成している。 九二七年 ( 昭和一 l) 予讃線の高四国幹線自動車道は、 X 型に交差する川之江市 松ー松山間、三五年高徳線の高で一九八〇年起工式が行われ、横断自動車道一 松ー徳島間、土讃線の高松ー高五四キロ、縦貫自動車道一一一一四キロの建設に着手し 知間が全通した。現在、四国循た。原子力発電は愛媛県伊方町で実用化されて 物環鉄道の建設中で、土讃本線と いるが、他の候補地は地元の賛否両論で決定に 予讃本線が予土線ならびに中村至らない。一九八四年度末、四国の電力の原子 線で結ばれ、四国西半分の一周力発電比は三九 % である。 ルートが完成し、東半分の工事〔人口〕一九二〇年 ( 大正九 ) に第一回国勢調 しんちよく が進捗中である。高徳本線、査が行われたが、そのときの四国の人口は三〇 むど 牟岐線に続いて阿佐線 ( 海部ー 六万五六四三人で、全国の五・五 % を占めた。 ごめん 後免 ) ができれば徳島市から室一九八五年 ( 昭和六〇 ) の国勢調査では人口四 一尸経由で高知市に達し、さらに 一三万七二五一人で、全国比三・五 % 、人口密 すくも 宿毛線ができれば中村ー宿毛ー 度二二五人である。第二次世界大戦後の人口の 宇和島間も開通する。 推移をみると、いちばん多かったのが一九五五 道路は国道一一号、三二号、年の四二四万五〇〇〇人、少ないのが七〇年の 三三号のいわゆる > 字幹線道に 三九〇万四〇〇〇人である。すなわち、第二次 加えて、臨海部を通る五五号、大戦中の疎開などで四国の人口は急増したが、 五六号のルートの舗装、改良六〇年代の高度成長期には人口が大都市に流出 が進み、いまは快適な車による し、七〇年までの一〇年間に三一万七〇〇〇人 四国一周旅行ができるようにな の減少をみた。これが四国山地を中心にした過 った。道路の舗装率、改良率は疎化の波となって現れた。 ともに香川県を除く他の三県は 四県のなかで一九七〇年以降最初に人口増に きわめて悪い。なかでも改良率転じたのは香川県で、六五年の九〇万一〇〇〇 は全国最下位にこの三県が並ん人を最低に上昇に転じ、八〇年一二月には一〇 でいる。 〇万人を突破した。ついで愛媛県が七〇年一四 海上交通は国鉄宇高連絡船一万八〇〇〇人を最低に増に転じた。高知・徳 や、東京と徳島、高知を結ぶ長島両県も七〇年をポトムに七五年から増に転じ 距離フェリーのほか、短距離フてはいるが、年度別にみると愛媛は七一年か ーが無数にある。対岸の岡ら、高知・徳島は七四年から、それも増の幅は 山、広島、大分、和歌山各県と きわめて少ない。七〇年の国勢調査によると、 の間に多く、とくに宇野 ( 岡人口減少率一〇 % 以上の町村数は香川がゼロ、 山 ) と高松間は約一九分間隔で徳島が一二、愛媛・高知がそれぞれ一七である 0 一日五〇回の連航がある。四国が、八五年では香川がゼロ、徳島が四、愛媛が 0 各県から阪神への中距離フェリ 六、高知が八と激減している。人口流出の下げ ーも数多い。瀬戸大橋架橋後、止まりという点からいえば、安定成長期は四国 5 0 にプラスしているといえる。 これらフェリーのなかには大打 撃を受けるものも予想され、そ ただし六五歳以上の老齢人口の率の高いのが の補償交渉がいまから進められ 問題である。高知が全国二位、徳島六位、香川川 40km ー 35 。 おの
さつほろ 当 ) 区 ~ まるやま ぶんえん られた。このような形式を類書とよび、『文苑スキーが自らの生殺与奪の権をゆだねる旨の契まの現実化に打ち込んだ。死後その性的奇行が人口一二万七〇〇〇。四一年 ( 昭和一六 ) 円山 えいか たいへいぎよらん 英華』『太平御覧』などとともに、北宋期につ約書を貴婦人ワンダと交わし、ワンダとの間に性心理学者の注目するところとなり、「マゾヒ町、五〇年 ( 昭和二五 ) 白石村、五五年琴似町 とよひら しのろ くられた代表的類書である。とくに唐・五代に美男の「ギリシア人」なる第三者が介入してくズム」と命名された。↓マゾヒズム〈種村季弘〉と札幌、篠路の二村、六一年豊平町、六七年手 関する部分は、亡失して現在伝わっていない史るや、クジェムスキーの倒錯した快楽と苦痛の回種村季弘訳『毛皮を着たヴィーナス』 ( 河出町と合併した。市域の拡大とともに人口も合 〈柳田節子〉 料を含み、史料的価値が大きい アイロニカルな戯れがひときわ高まる、という 文庫 ) ▽種村季弘著『ザッヘルⅡマゾッホ併時ごとに、一九四一年二一万、五〇年三一 の世界し ( 一九会・筑摩書房 ) ▽ジル・ドウル万、五五年四〇万、六一年六二万、六七年八 サツへル・マゾッホ Leopold Ritter 愛の冒険物語である。マゾッホは実生活でもコ von Sacher-Masoch ( 天三六ー九五 ) オースト トウィッツ夫人や女優・ピストールらとの恋 ーズ著、蓮實重彦訳『マゾッホとサド』 ( 一九万と増加した。七二年川崎・福岡両市とともに 政令指定都市となり、人口は一〇四万となっ リアの小説家。ガリツィア ( 現ソ連領 ) のリポ愛をはじめ、お針娘 < ・リューメリンに貴婦人 七三・晶文社 ) フ生まれ。プラハとグラーツの大学で歴史学を教育を施したうえでワンダ・マゾッホを名のら札幌 ( 市 ) さつばろ北海道南西部、石狩平野た。それに伴って中央、東、西、南、 学ぶ。代表作『毛皮を着たビーナス』 ( 天七一 ) せて結婚し、「ギリシア人」に相当する男たちの西部を包括する近代的総合都市。道庁所在平、白石の七区に区分され、それぞれ区役所が 設置された。八五年の国勢調査時の面積は一一 によって一躍文名を高めた。青年貴族クジェムを二人の間に呼び込むなど、小説の事件そのま地。一九二二年 ( 大正一一 ) 市制施行。当時の 一八・〇一平方キ。。人口一五四万二九七九。中 、ん ~ 、つ 至苫小牧 央区の人口漸減に対し、周辺部の西区、北区の 伸びが顕著である。 文東 〔自然〕札幌市の背後を構成する山地は主とし て第三紀安山岩系の手稲山 ( 一 0 一一四 ) 、藻岩山 しし「新 ( 五三一 ) 、円山 ( 一一一一五 ) など市街に接するもの むいね と、その背後の余市缶、無意根山など一〇〇〇 上岸霊上文 級のものがある。これらの山地を切って流れ 宀 - 兀 る豊平川、発寒川などが形成する扇状地群と、 イた それに続く沖積平野が市の生活舞台になってい 陸れ る。さらに、南東部の支笏泥流の末端である石 つき 菶サ 山凝灰岩層や、表面に降下火山灰層をかぶる月 文 0 さむ のつほろ 寒台地、野幌丘陵の洪積台地面もその利用が進 衛駐 んでいる。沖積平野は海退を示すいくつかの浜 自内 堤列をもち、北の境界となる紅葉山砂丘が最大 寐空 である。 北道 岩区 気候は冷温帯湿潤気候型で、年平均気温七・ 一三六 : リである。夏季は一一 0 デ 2 れ通 〇度 0 以上の日が一か月以上続き、農耕や生活 《 0 - け - 00 (. 0 「ト っ 0 1 人 1 よ「 / - -0 イは・イ 4 ・ 00 -0- 、 1 っ 0 ュ・「 / -0- 」植 0 轆一みグ一 だ医 委会 ( 第一農 市民スキー場 ~ ロ幌中央競馬 円山動物園 山西町 幵伏見目 文文 ・ 352 上 宀え 72 コ△ 第若よを いしかり lkm 至定山溪 札幌市 / 区一覧 人口密度 面積 人口 区名 (km2) ( 人 /km2) 中央区ちゅうおう 46 . 11 180 848 3 922.1 北区きた 62 . 70 212 509 3 389 . 3 東区ひがし 57 . 27 224 539 3 920.7 白石区しろいし 59 . 46 263 938 4 438.9 豊平区とよひら 106.10 249 956 2 355.9 南区みなみ 654.87 141 738 216.4 西区にし 131.50 269 451 2 049 . 1 : 1986 年 5 月現在。人冂は 1985 年国勢調査による はっさむ 171
占めている。なお、日本の産業別組合は、一部 第一次世界大戦後の資本主義の全般的危機のしている。いずれにせよ、他の専用自動機との五八年にアメリカのコンソリディテッド・コン の例外を除き個人加盟の単一組合ではなく、企始まりとともに、それは労使 ( 資 ) 協調的色彩特徴的な相違点は、専用自動機が大量生産の有トロール社がディジタル制御によるプレイバッ 業別組合の産業別連合体または協議体である。 ク・ロポット ( 記憶再生式ロポット ) の原型を を強める。ワイマール共和制下のドイツでは、効な手段であるのに対し、産業用ロポットは、 ↓労働組合↓職業別労働組合〈早川征一郎〉ナフタリ F. Naphtali などの社会民主党の理対象物の種類の変化、モデルチェンジ、設計変発表した。引き続きアメリカのユニメーション さんぎようべつくみあいかし 論家が経済民主主義を唱え、そこでは事実上資更に対して改造することなく、時間的・空間的社や社が六二年に実用第一号機を製作し 産業別組合会議 エーエフェルシーアイオー 本主義体制の枠内での国民経済各レベルにおけ に弾力性があり、自由度の高い動作機能を有すた。ヨーロッパにおいては六三年ごろスウェー デンのカウフェルト社がプログラムの組める操 る労働者の共同決定権の獲得が第一義的目標と るもので、このため、中種・中量生産や多種・ 産業人口さんぎようべつじんこう産業別 就業人口ともいう。産業構成を第一次 ( 農林されて、資本主義的合理化への労働者階級の組 少量生産の自動化のための有効な手段である点 作機第一号を発表したのが最初である。 日本では一九六〇年代の初期には固定シーケ 業、水産業など ) 、第二次 ( 鉱業、工業、建設織的協力を引き出す役割を果たした。イギリスである。 ンス・タイプの産業用ロポットが開発されてい 業など ) とそれ以外の第三次 ( 公務、商業、運ではホイットレー委員会によって、産業民主制 1 操縦ロポット operating robot ロポットに しゅんべっ 輸業、金融業、サービス業など ) に分けると、 たが、開発・実用化が本格化したのは六七年 の拡張と称して、団体交渉と峻別された、労行わせる作業の一部、またはすべてを、人間が 経済が発展して一人当り所得が高くなるにつ使の協働による問題処理を原則とする労使協議直接操作することによって、作業が行えるロポ ( 昭和四一 l) にアメリカのプレイ・ハック・ロポ れ、第一次産業の就業人口の比重が小さくな ットが初めて輸入されてからである。翌六八年 制の理念と制度が勧告され、普及した。 り、第二次、第三次のそれが増大することが歴 には、技術導入や自主技術により国産のプレイ 一九六〇年代後半以降西欧諸国を中心に、産 ⑦シーケンス・ロポット sequence control ro- バック・ロポットが開発された。六〇年代後半 史的に知られている。この傾向をベティの法則業民主制は、企業内の諸決定に対する労働者の bot あらかじめ設定された情報 ( 順序、条件 れいめい という。さらに一人当り所得が増大すると、第関与すなわち経営参加の理念と制度という内容および位置など ) にしたがって動作の各段階をの黎明期、七〇年代の実用化時代に続いて、 〇年からは本格的な普及時代を迎え、八〇年は 二次産業の就業人口の比重が縮小し、第三次産をもって現れた。その主要な制度形態は、従来逐次進めていく口ポット。 「普及元年」と称されている。現在、日本は世 業のみが比重増大を続けることが、先進国共通の団体交渉制度の限界の認識に基づいた企業内 ③プレイバック・ロポット playback robot の傾向としてあり、これをサービス産業化ともへの団体交渉権の拡張Ⅱ資本の経営権の規制で人間がロポットを動かすことによって、順序、界第一のロポット王国といわれ、八四年末には いう。こうした歴史的傾向を生み出す動因としある。このような動きとともに、労使協調的な条件、位置およびその他の情報を教示し、その日本におけるロポットの稼動台数は約六万七〇 〇〇台に達し、これは共産圏を除く世界全稼動 ては、第一に生産性の高い産業に就業者を誘引労使協議制は後退を余儀なくされる。いま一つ情報にしたがって作業を行えるロポット。 配置しようとする国家による政策、第二に高生は、西ドイツの拡大共同決定法の制定 ( 一九七六 ) ④数値制御ロポット numerically controlled 台数の約六五 % にあたる。 産性すなわち高所得を求めて就業者が職業の選をはじめ、七〇年代に西欧諸国で法制化の進ん (NC) robot ロポットを動かすことなく、順〔日本における発展の要因〕ます第一に、産業 択をすること、第三に所得水準の上昇につれてだ労働者重役制である。これらの新しい産業民序、条件、位置およびその他の情報を数値、言用ロポットが導入された当時、日本は高度成長 需要増↓生産増↓雇用増の産業に就業者が誘引 主制も、政治的民主主義の徹底と官僚制の民主語などにより教一小し、その情報にしたがって作時代で、労働力が著しく不足していたことがあ げられる。人口増加率の低下などの影響で、最 されるという産業別需要の所得弾力性の高さ、 化を通じての独占資本に対する民主的規制、経業を行えるロポット。 などがあげられる。 〈一杉哲也〉済構造の民主的変革を目ざす経済民主主義の闘⑤ 知能ロポット intelligent robot 人工知能近の労働力増加率も年率〇・七 % にとどまって いる。これが日本における発展の基本的要因と 0 大印争と結び付けられない限り限界があり、資本家によって行動決定できるロポット。人工知能と 産業報国会さんぎようはうこくかい ほんさんギ、よ、つほう、」くかい 本産業報国会 側が意図するように、労働者の企業への統合手は、認識力、学習能力、抽象的思考能力、環境なっている。 段に転落する危険もはらんでいる。↓経営参加適応能力などを人工的に実現したものである。 第二が、石油ショックによって天然資源に乏 産業民主鬧・さんぎようみんしゅせい industri ・ ↓ホイットレ ] 委員会↓労使協議制 ^ 浪江巌〉知能ロポットは、感覚制御ロポット、適応制御しい日本が、アメリカやヨーロッパ諸国に比べ al democracy 政治上の民主主義だけでは労 働者の真の自由と平等は達成されないとして、・ウェップ著、高野岩三郎監訳『産業ロポット、学習制御ロポットの三種類に分けらてより強力なインパクトを受けたことである。 産業あるいは経済においても民主主義を実現し 民主制論』復刻版 ( 一九六九・法政大学出版局 ) れる。↓人工知能 このため、生産コストの上昇を防ぎ、国際競争 ようとする思想ないしそれを実現する制度。そ ▽法政大学国際交流センター編『団体交渉と また、動作機構からは、円筒座標ロポット、 力を維持するため、生産性の向上が強く要請さ 産業民主制』 ( 一九七九・木鐸社 ) 極座標ロポット、直角座標ロポット、関節ロポれた。 の思想的内容や具体的制度については、時代、 ットに分類することもできる。工程別に分ける 第三が、高学歴化による組立工、機械工、溶 国、論者によって多様である。この概念が初め産業用テレビジョンさんぎようよう 、 : っギ、しま、つしま、つ と、樹脂成形加工用、組立用、切削加工用、溶接工などの技能労働力の不足である。一九八四 て体系的に提一小されたのは、フェビアン社会主 0 工業用テレビジョン indus ・接用、プレス加工用、ダイカスト用、塗装用、年 ( 昭和五九 ) 労働省「技能労働者需要状況調 義の理論的指導者であったウェッ。フ夫妻の『産 産業用ロ卞ットさんぎようよう trial robot 国際的に統一された定義はない 入出荷用および検査用などの種類がある。 査」によれば、製造業においては約三〇万人が 業民主制論』 ( 天九七 ) においてである。夫妻は、 産業の民主的管理運営のためには、生産物、生が、現代の産業用ロポットは「人間の上肢の動〔歴史〕 industrial robot ということばは、不足していると報告している。そのうちの九 一九六〇年にアメリカの新聞ニミこきミミ・ 三・三 % が三〇〇人末満の事業所での不足であ 産方法の諸決定はそれぞれ消費者、産業指導者作機能に類似した多様な動作機能を有するか、 り、中小企業において技能労働者を補うための にゆだねられるべきであり、労働条件についてまたは感覚機能や認識機能を有し、自律的に行ミミミ守、』で使用されたのが初めであるとい は、内部の民主制に基礎をおいた労働組合の関動できる知能ロポット」ということができる。われているが、産業用ロポットの概念についてロポット導入が進められている。 第四が、日本の労働組合は産業別、企業別の よ与すなわち団体交渉を通じて決定されるべきでしかし、今後の技術進歩により、単に人間の上は、それより六年前の五四年にアメリカのデポ キ、ある ( それが無力なときは法律的規制が必要と肢の運動機能に類似するものだけでなく、下肢ル George C. Devol が出願した特許 pro- 組合制度によっていて、アメリカやヨーロッパ grammed Article Transfer によって初めて諸国のような職能別労働組合でなく、産業用ロ んなる ) とした。その後この理念は、労働組合とのそれに類似するものや、ヘビやカニのような 動物の運動機能に類似するものも出現しようと発表されたとみなされている。この特許によりポットの導入により職種、配置転換が容易であ 3 六、団体交渉の法認という形で制度化された。
による自然増と、人口移動すなわち人口流入数 の信仰を前提としている。確かに自然崇拝の一宿る呪力や霊魂への信仰を超えた、超越的存在ならば、その子孫もまた生存競争において有利 せ ひっす 部はこのような形態をとるが、そうでない場合者への信仰を、彼は宗教の必須条件と考えたのとなろう。こうした自然選択の効果が長い間蓄と流出数のプラスの差による社会増とによって ん もある。たとえばナイル川上流のヌエル族てである。こうした考え方の背後には、キリスト 積され続ければ、しだいに生物が変化し、新し増加する。マイナスの差がもたらすのが自然 ぜ は、クスとよばれる精霊への信仰があるが、ク教的な宗教観による偏向が存在したことは否定 い種が生じると考えたわけである。現代でも自減・社会減である。移民は国際間の社会増減に し スには天のクスと地のクスがある。天のクスはできない 。このような説は、未開社会のなかに然選択説は、変異の供給を説明する突然変異説ほかならない。わが国では第二次世界大戦後、 空中に存在し、ときおり人に憑いたりする。一も一神教的最高神の観念が存在することを指摘とともに、進化要因論の中心概念である。しか高度成長期には自然増の停滞と、産業地帯にお 方、地のクスには、一定の部族と結び付いたト した・シュミットの原始一神教説などを経てし、その実証例となると、ヨーロツ。ハの工業都ける社会増とその他の地域の社会減が著しかっ いんせき ーテム動物・植物のクス、川・火・隕石など自解体し、今日では顧みられない。宗教はおのお市で知られるガの工業暗化という現象など、わたが、石油ショック後の安定成長期になると、 じゅぶつ 然のクス、木片など特別な呪物のクスがある。 のの社会において独自であり、きわめて雑多なずかにすぎない。それらの例も、一つの種内で人口移動の減少に伴い各地域で自然増が社会増 〈一杉哲也〉 このように、ヌエル族の地のクスの多くは、自諸形態を自然崇拝として一括することにはさほの小さな適応的変化にすぎないので、自然選択減を上回る傾向にある。↓人口 然物や現象に結び付いており、その限りでは自 ど意味がない は、小進化の説明に限定すべきだとの見方も少 視線速度しせんそくど観測者から天体へ結 なくない。 ぶ直線を視線という。天体は空間を運動してい 然崇拝として記述することができよう。しか しかし、宗教的次元における人間と自然物・ し、天のクスはかならずしも自然崇拝には結び自然現象とのかかわり合い方は、なおかつ重要 生存競争における有利・不利は、生存率の差るが、その速度のうち、視線方向の成分を視線 付かない。すなわち、ヌエル族のアニミズム的な問題である。特定民族にとり、なにゆえにそではなく、次世代に寄与する子孫をどれだけ残速度とよぶ。簡単にいえば、天体が観測者から 信仰体系のうち、自然崇拝とよびうるものは、 の自然環境のなかの事物や現象のなかから一定すかで決まる。したがって、それは、ある個体遠ざかる、または観測者へ近づくときの速度で その一部を構成しているにすぎない。 要素が信仰・崇拝の対象となったのかという問 の一生を通して実現されるものであり、生活のある。視線速度は、天体から発する光のドップ でんば また逆に、すべての自然崇拝がア一一ミズム的題である。それをまったくの歴史的伝播の所産個々の局面での有利・不利とは、かならずしも ラー効果を利用して求める。天体の光のスペク であるということもできない。自然崇拝とよばであるとする立場もあり、また諸要素の心理学結び付くものでない。また、当然、環境条件に トルを観測すると多くのスペクトル線が見られ れるもののなかには、精霊または霊魂観念を含的価値を重視する考え方もある。さらには人間 変化がおこれば、有利な形質も違ってくる。自る。天体が観測者に対して視線方向に運動して まないものもあるからである。たとえばカリフ の思考の基本構造と結び付けて考える立場もあ然選択を最適者生存と同義にみる傾向がある いるときは、スペクトル線の波長は静止してい ォルニア・インディアンは、樹木はその下を通る。いずれにせよ、自然物や自然現象の崇拝が、前述のことからもわかるように、それは一るときの波長からずれる。これがドップラー効 る者の頭上に枝を落下させて人を殺すことがでは、おのおのの民族のもっコスモロジー ( 宇宙般に考えられているほど単純なものではない。 果で、そのずれは視線速度の大きさに比リ きると信じるが、この場合彼らは樹木に宿って観 ) の一部を構成するものとして重要な意味を条件を単純化して考える人間の頭のなかにしか し、遠ざかるときは波長の長いほうへ ( つまり いる精霊の存在を信じているわけではない。樹もっている。それは人々の居住空間のあり方と最適者は存在しえないともいえよう。↓工業暗赤いほうへ、このとき JR>O ) 、近づくときは 化↓人為選択↓生存競争 そのものにそうした能力があるとして恐れるのも密接な関係を有し、たとえば移動性の高い採 〈上田哲行〉短いほうへ ( 紫のほうへ、 J2 △ 0 ) ずれる。こ である。このように無生物や植物などに能動的集狩猟民の場合、崇拝される自然物や自然現象自然蒼鉛しぜんそうえん金属元素鉱物の一れらのことからを測ってを求めるのである な力があるとする信仰をアニマティズムとよぶは、彼らの活動の場としての森や山や草原の中種。蒼鉛の鉱石鉱物の一つ。ビスマスともい ここでスはその が、式で書くとⅡ ( 」戔 Dc 。 こともある。マナイズムも霊魂の存在を前提とで随時出会うものとして認識される傾向がある スペクトル線の静止時の波長、は光速度。 せず、超自然的なカそのものが物体その他に宿のに対し、定住的な農耕民の場合、人間の居住 は遠ざかるときをプラス、近づくときをマイナ 完好 ると信じる点でこれと共通している。したがっ空間とその外側の世界の区分は明確で、自然物 スとする。 〈大脇直明〉 向し E て、マナイズムが自然崇拝に結び付く場合もあの精霊などは日常生活の空間から排除されてい 2 白属灰方 自然村しぜんそん自然発生的に成立した村 co 六 2 9 ・銀金銀四な 〈瀬川昌久〉 るが、超自然力を保有する主体が自然物や自然ることも多い で、行政村に対していう。村は、日本はもとよ 名式 り世界的にも自然発生的に成立したものが多 現象に限られず、人間、たとえば首長の身体な自然選択しぜんせんたくある生物に生じた 鉛英成 どとされる場合もある。特定の物体のもっ呪カ遺伝的変異のうち、生存競争において有利に作 。そして同一の氏神をもち、血縁的にも地縁 組分系 然名学成晶度重沢痕開 への信仰をフェティシズムとよぶが、この場合用するものは保存され、有利でないものは除去 的にも深い結び付きをもっ社会集団を形成して とうた 自学 イ副結硬比色光条劈 され、選択されることをいう。自然淘汰ともい は自然物のみでなく人工物をも包括する。 いる。冠婚葬祭をはじめとする日常生活の講、 , つ。ダーウイン C. Darwin が、品種改良で行 上述のアニミズム、アニマティズム、マナイ う。気成鉱床、高ないし中温熱水鉱床、接触交組 ( 相互協力 ) 、生産生活の ( 相互労力提供 ) ズム、フェティシズムなどは、自然崇拝と並んわれる人為選択から類推し、自然界における新代鉱床中に産し、輝蒼鉛鉱などとよく共生し、 をはじめとして基本的な村落生活は、伝統的な で、未開社会の宗教の特色を、それそれ異なっ しい種の出現のための主要因として提唱した概また酸化帯中では、蒼鉛土、泡蒼鉛などに変化 相互扶助的結合によって運営されている。農業 た側面からとらえようとしたものであり、いず念。ダーウインは、生物が多産であるが、そのする。脈石鉱物として石英はほとんどっねに存 ( とくに水田耕作 ) に不可欠な水利や肥料用下 く ) いりあ れも宗教の始原形態に関する学説とかかわって子孫の多くが繁殖に参加することなく死んでし在する。自形結晶は知られていない。わが国で草や自給用小器具材の用立てに発した入衾地の いくの きた。とくに初期の宗教学においては、自然現まうことから、生存競争の存在を想定し、同じ は、兵庫県生野鉱山、栃木県足尾鉱山などに産利用についても伝統的慣行がよく守られてい 象や自然物の崇拝を低次で原始的な宗教形態と種の生物であっても個体は互いにすこしずつ異した。分析例が少ないので、副成分に関する情る。江戸時代には自然村をもとに行政が行われ なっている、つまり変異が存在することから、 報はあまり多くない。 みなす傾向があった。 〈加藤昭〉ていたが、一八八九年 ( 明治一三 ) 施行の市町 人類学においても、・フレイザーは、自然生存競争において生き残り、子孫を残すのは、 村制は数個の自然村が合併して成立した。その 自然増・社会増しぜんそう・しやかいぞう おおあギ ~ 物の呪力への信仰とその統御を目ざす行為を呪わずかでも生存に有利な変異をもった個体に違 natural increase, social increase ある地結果、自然村は現在の大字にほば相当する。近 ほじよう 術とよんで宗教とは区別した。個々の自然物に いないと考えた。有利な変異が子孫に遺伝する域、国の人口は、出生数と死亡数のプラスの差年圃場や水利施設の整備、農業の機械化・化学 方 した 808
さんてい コンポステラへと至る幾本かの ったが、その後パンパ地方の発展の陰に地方都市は飛行機に縁の深い都市で、一 〈今井圭子〉 ・モンゴメリーがグライダーでの飛行に成功 4 巡礼路沿いの要所の宿駅には、市として取り残された。 一一世紀後半に次々と類似した サン・ディエ saint ・ Diéフランス北東したのを皮切りに、多くの飛行家がチャレンジ 形態の聖堂が建造された。パリ 部、ポージュ県の副県都。人口二万四八一六を繰り返し、一九二七年には 0 ・リンドバーグ による世界初の大西洋横断単独飛行 ( 一一ユーヨ ゃべズレー、あるいはアルルを ( 一九公 D 。第二次世界大戦で破壊されたが、戦後 ク丿 ) の出発地点となった。至る所にス 出発地とするこれらの巡礼路聖再建された。一二世紀起源で赤色砂岩造のノー 堂は、コンクのサント・フォアトルダム教会、一部がロマネスク様式の寺院がペイン領時代のおもかげが残り、歴史公園であ ークが 聖堂、トウールーズのサン・セ知られる。精錬業、織物、靴下、プラスチックるオールド・タウン、プレシディオ・ 興味深い。文化施設の多く集まるバルボア・ ルナン聖堂などが今日も残るの工業がある。七世紀のベネディクト派修道院 ークや、ポート、水上スキー、釣り、水泳の楽 が、サンティアゴ大聖堂もオー の創設を町の起源とする。ドイツの地理学者マ しめるミッションべイ・ハ ークは市民の憩いの ベルニュ地方に発達したと思わルチン・ワルトゼーミューラー Martin Wald- れるこの型を踏襲している。 seemüller ( 一四七 0 ー一五一一 0 ) が新大陸アメリカに場として親しまれる。スクリップス海洋学研究 広い正面の扉ロ、半円筒穹ついて初めて触れた『世界地誌概説』は、一五所をもっカリフォルニア大学やサン・ディエゴ 〈作野和世〉 〈大嶽幸彦〉 窿の身廊部、交差穹窿あるい 〇七年にこの地で印刷された。 州立大学の所在地である。 どうぶつえん は四分の一穹窿の天井の側廊サン・ディエゴ San Diego アメリカサン・ディエゴ動物園 合衆国、カリフォルニア州サン・ディエゴ湾に 部、側廊部の階上間 ( トリビュ San Diego Zoological Park アメリカ合衆 ーン ) 、そして身廊左右の側廊臨む同州最南端の都市。人口八七万五五〇四国、サン・ディエゴ市にある動物園。一九一六 は翼廊を通って内陣を一周する ( 一九ハ 0 ) 。陸地に囲まれた良質の天然港が、同市年に開園され、サン・ディエゴ動物園協会が運 周歩廊へと続いている。なによの性格を特徴づけている。輸入港であるととも営する。面積四〇・五タ・。サン・ディエゴ市 りも、大ぜいの巡礼者を迎え入 、合衆国海軍の主要基地の一つとして多くのはカリフォルニア州にあり、年間三三〇日以上 れ、堂内を一巡できるようにな大規模海軍施設が置かれ、同市の労働者の多く 晴天という気候に恵まれる。同園は開園以来飼 っている。周歩廊には放射状にを吸収する。付近には農業・牧畜地帯が広が育動物も多く、オーストラリア以外で最初にコ り、その集散・加工地としても重要である。一 アラを飼育するなどの業績も多い。また七二 多くの礼拝堂が設けられてい る。西正面扉口には荘厳な彫刻帯は合衆国最大のアポカドの産地として知られ年、市の郊外四八キ。に七二八タという広さの が施されて巡礼者たちを迎えるる。工業の発達が目覚ましく、アトラス・ミササン・ディエゴ野生動物公園が併設された。両 が、サンティアゴ大聖堂では一イル社を中心とした航空機、エレクトロニクス園ともアラビアオリックス、モウコノウマなど ひん 一六八年から八八年に彫刻家マがその中心をなすほか、海洋を軸とした科学開絶滅に瀕した野生動物を多く飼育しており、ア ラビアオリックスについては、かっての原産地 テオの制作になる「栄光の門」発・研究が盛んである。そのほか、造船業やス に送り返す試みもなされている。〈斉藤勝〉 があり、年代的にみてすでにゴポーツ用品、衣料、家具などの製造も盛んで、 さんていかいせん 0 アウステルリ シック様式美術の到来を告げて近年、土地、労働力の確保が比較的容易なとこ 三帝会戦 たたか いる。南側翼廊部の扉口を飾るろから、多くの企業が同市に移転する傾向があツツの戦い 彫刻群は一一二四年には完成しる。このため人口増加が目だち、一九八〇年にサンディカリズムサンジカリズム ていたと思われ、その華麗さか は人口数が全米第八位 ( 一九七〇年は一四位 ) サン・ディジェ Saint-Dizier フランス ら「金銀細工師の扉ロ」とよば と急上昇している。さらに、温暖で湿度の低い 北東部、オート・マルヌ県の副県都。マルヌ川 〈名取四郎〉過ごしやすい気候と美しい海岸線、スペイン文 に沿い、人口三万七四四五 ( 一 R<II)O 古い城の 化を残す遺跡に恵まれ、メキシコ国境に近いこ 一部が残っており、一八世紀のノートルダム教 い→サンティアゴ・デル とも加わって観光業が重要視されている。 会と一五、一六世紀のサンマルタン教会が興味 ス一アロ Santiago del Este- やぎん ro アルゼンチン北部、サン ヨーロッパ移民がつくった都市のなかでは同をひく。冶金、食料品、織物などの工業が行わ ティアゴ・デル・エステロ州の 州最古の都市として長い歴史をもつが、その歴れる工業都市。ナポレオン戦争時の一 八一四 州都。人口一四万八三五七 ( 一九史はスペインから・・カプリ口が一五四二年、近辺で激しい戦闘が行われた。〈大嶽幸彦〉 含 ) 。乾燥した亜熱帯気候下で年ここに上陸したことに始まる。本格的なスペ 三帝同盟さんていどうめい Dreikaiserbund ン対中庁ど級ま イン人の定住は一七六九年からで、一、 生産される穀物、綿花、亜麻な ビスマルク外交の一環としてドイツ、オー . 堂 コの ( 市な大 , 院最をゴ聖 仰堂 どの集散地で、鉄道、道路交通にはメキシコ、さらに四八年には合衆国の統治ストリア、ロシアの三国皇帝間に結ばれた政治 デ 信聖は道世容 の要地でもある。一五五三年ア下に入った。一八五〇年から七〇年の間は捕鯨協定。一八七三年、三国皇帝がベルリンに会し ゴプ大に修中威るイラ , のいテテ アコた辺 ルゼンチン最初の継続的定住入基地として繁栄し、七〇年のゴールド・ラッシたおり、ビスマルクは、共和国フランスを中心 イラヤっ周殿り地てンス ュによって人口の急増をみた。近代化の始まり テテ聖なの宮ま礼えサポ植地として建設され、植民地初 とするヨーロッパの革命的諸潮流に対し、三国 ンス〕と ン面 サポ〔象央舎がのに コ正期の政治・宗教上の中心地とな は、一八八五年の鉄道の開通が契機となる。同が君主主義の原則のうえに、ヨーロッパの現状 りゅう きゅう
化をもたらしただけではなく、同時に政治的社会構造をも大軸とする先進工業諸国と、これに従属的な植民地的、半植民たやすく手に入らなかった。たとえばマンチェスターでは、 よ 地的農業諸国とに分かれ、これらが支配Ⅱ被収奪の有機的な一八〇九年に給水会社が創設され給水を始めたが、。フルジョ キ、きく変えた。政治的変化として注目すべきは、産業ブルジョ ばっ・一う んアジーの勃興の結果、従来の貴族・地主支配の政治体制に動関係で結ばれた世界資本主義として再編成された。ここに現アの住む地域には一年六シリングで豊富に給水したのに対 、揺が始まったことである。すなわち、新興産業ブルジョアジ代における「第三世界」「南北問題」の原型が形成されたのし、町の大部分は雨水をためた貯水槽から給水されていたに すぎない。またロンドンのクラーケンウエルのスラム街で ーは一八三二年の選挙法改正をかちとることによって被選挙である。 八六三年になっても一日にわずか二〇分しか給水され 権を与えられ、一方労働者階級も一般男子普通選挙権を要求 都市の生活環境 してチャーティスト運動 ( 一八三八 ~ 四 0 に結集した。こ , っした ない一本の水道栓に、十数世帯が頼っていた状態であった。 このように「水はビールのように貴重なもの」であったか 政治闘争は、資本主義体制が内部にはらんだ資本家と賃労働〔人口増加と工業都市の成立〕普通、産業革命が始まったと 者との矛盾対立と絡み合って、イギリス社会を大きく揺さぶされる一七六〇年ごろのイングランドとウェールズの推定人ら、労働者の家庭では飲料や料理に使うのが精いつばいで、 ロは六六〇万、その後一八〇〇年には九一六万、一八五一年それを洗濯や入浴に使う余裕はほとんどなかった。こうした ひょうばう また自由主義を標榜する産業プルジョアジーは、旧来の には一八〇〇万ヘと著しい人口増加をみた。従来停滞的であ生活環境はきわめて不衛生なもので、しばしば伝染病の温床 重商主義的諸規制や統制が彼らの自由な経済活動を妨げると った人口がどうして急激な上昇に転化したのか。一八世紀のとなった。とくに不潔な衣類がチフスの原因とされ、公衆衛 しかん の立場から、それらの撤廃のための強力なキャンペーンを展人口増加の理由として、徒弟制が弛緩して青年の自立が早ま生の立場から公衆洗濯場や公衆浴場を設けることが地方自治 開した。その推進力となったイデオロギーは、アダム・スミ り早婚になった結果、出生数が増えたとする意見もあれば、体に課せられるようになるのは、一八四八年の「公衆衛生 スからマルサス、リカードへと発展した古典派経済学の自由ベストの減少や生活環境の改善で死亡率が低下したとする意法」以後のことである。 〔食事、伝染病、高い死亡率〕この時代の労働者はいったい 放任主義である。こうして一九世紀前半、地主的、重商主義見もあってはっきりしない。 しかし増加した人口の大部分は都市へ流れ、工業都市の群どんな食事をとっていたか。多くの労働者にとって、。ハンと 的諸規制は逐次廃止されていった。そのおもなものは、エリ ジャガイモが食事のほとんどすべてであり、それにバター ザベス「徒弟法」の廃止 ( 天一三 ~ 一四 ) 、東インド会社の貿易生をもたらした。一七五〇年ごろには、ロンドンの七〇万を チーズ、べーコン、紅茶がすこしつく程度で、新鮮な肉はま 特権の廃止 ( 天三三 ) 、救貧法の改正 ( 天三四 ) 、穀物法の廃止例外として、人口一〇万を超える都市は一つもなかったが、 プーレ、ヾ ( 天四六 ) 、航海条例の廃止 ( 天四九 ) などである。他方、自由貿一八三〇年にはマンチェスター、リバ ーミンガムだぜいたく品であった。。ハンは初めは自家製であったが、主 易の実現は輸入関税引下げの形をとって進められた。それは など、人口一〇万を超える都市が七つも出現、いずれも工業婦が働きに出るようになると、パン屋のパンに依存するよう になった。パンが褐色のパンからしだいに白いパンに移った 一八二四 ~ 二五年のハスキソンの改革によって徐々に進めら都市であった。近代工業都市の特徴は、中世都市が宗教と芸 れ、四〇年代のピールの改革では、原料に対する最高関税限術の香りに満ちた美しい都市であったのに対し、石炭の煙でのはこのころである。白いパンをつくるのに漂白剤としてみ 度を五 % 、半加工製品は一二 % 、加工製品は二〇 % を限度と汚れ、不衛生で、悪臭たちこめる、労働者がひしめき合う不 ようばんを使うことが多く、ときには白亜、石粉、石膏、驚 したが、四五年に原綿の輸入関税は廃止された。ついで五〇潔な都市であった。 くべきことには人骨をさえ混合した。こうしたいんちき食品 はこの時代の紅茶やコーヒーにもみられた。にせものの紅茶 年代のグラッドストーンの関税引下げを経て、六〇年には保〔劣悪な生活環境〕生活の場が農村にあった時代は、生産し には出がらしの茶葉を再製、着色したものや、ときにはサン 護関税ないし差別関税はほば全面的に撤廃された。こうしてたものは自らそれを消費することができた。しかし産業革命 イギリスは自由貿易国となったが、イギリスの自由化に対応は、従来農村共同体のなかで一体であった生産と消費の分離ザシの葉を紅茶に仕立てあげたものさえあった。 また一九世紀前半、都市労働者の手に入った魚といえば、 して六〇年代には、英仏通商条約 ( 一会 0 ) をはじめヨーロツをもたらした。労働者は家庭を離れて工場へ働きに出かけね 。ハ諸国も自由化政策を採用し、自由主義経済体制が国際的に ばならない。ところがいまや生産の場となった工場内では、塩漬けのニシンしかなかったが、一八六〇、七〇年代になる 労働者は騒音と不衛生な環境のなかで、時計の示す時刻と監と、冷凍装備のトロール船によって捕獲された新鮮な魚が、 も完成をみるに至った。 〔世界資本主義の形成〕一九世紀を通じて工業化はイギリス督者の厳格な規律と服従のもと、一日一四、五時間に及ぶ長安い値段で庶民の台所に届くようになった。こうして新鮮な からフランス、ドイツ、アメリカ、さらにロシア、日本へと時間労働を強いられた。一方、労働者にとって消費や憩いの魚とくにタラがイギリスに入ってくるようになって登場した 拡大したが、工業化を民間の自生的な努力で達成したのはイ場である住宅といえば、たいていは工場の周りに建てられたのがフィッシュ・アンド・チップスで、それが労働者の食べ にわかづくりの粗末なバラック長屋であった。それは普通広物として定着したのは一八六四 ~ 七四年のころである。 ギリスだけで、後発諸国の工業化は、イギリスの機械制製品 の洪水的流入を防ぎ、国内資本の保護育成を図るため保護関さ六畳ほどの部屋が一一つ、しかも一つのべッドに三、四人が ところで労働者は、職場における長時間労働と劣悪な生活 税政策の採用など、国家の積極的な工業化政策に負うところ交代で寝起きし、便所は十数世帯の共同で、浴場の設備はな条件のなかで、肉体の磨滅と生命の短縮を強いられた。一、 三〇年代末、マンチェスター、リ。 ハプールなど工業都市にお が大きい。一方、工業化に成功しなかった農業諸国は、自由かった。 主義経済のもと、先進工業諸国に食糧や原料を供給し、工業飲料水は、生活の場が農村にあったときは自由に得られた ける労働者階級の平均寿命は、一五 ~ 一九歳という信じられ が、工業都市ではいまや水道会社から代金を払って買わねば 国からは工業製品を輸入するという、世界的な分業構造のな ないほどの低さであった。他方、農村に住む地主階級の平均 かに強制的に包摂された。こうして世界経済は、イギリスをならない商品であった。したがって貧しい労働者には、水も寿命は五〇 ~ 五二歳で、都市労働者階級とは大きな開きがあ つ ) 0 せつこう 358