ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 日本大百科全書 OSHOGAKUKAN 1986 1986 年 7 月 1 日初版第一刷発行 1988 年 7 月 1 日初版第二刷発行 定価 7 , 800 円 10 編集著作 出版者 発行所 印刷所 本文 製本 ( 特製クロス ) 表紙 ( 特抄アート紙 ) ( 特抄百科用紙 ) 相賀徹夫 小学館 郵便番号 101 電話編集・東京 03 ー 230 一 5620 振替東京 8 ー 200 番 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 3 ー 1 若林製本株式会社 凸版印刷株式会社 夕、イニック株式会社 三菱製紙株式会社 王子製紙株式会社 凸版印刷株式会社 販売・東京 03 ー 230 ー 5739 業務・東京 03 ー 230 ー 5333 * 本書に掲載した日本関係地図は , 国土地理院発行の 2 万 5 千分の 1 地形図 , 5 万分の 1 地形図 , 20 万分の 1 地勢図 , 2 万 5 千分の 1 土地利用図および『日本国勢地図帳』を使用したものです。 * 造本には十分注意しておりますが , 万一 , 落丁・乱丁などの不良 品がありましたら , おとりかえいたします。 * 本書の内容の一部または全部を , 無断で複写複製 ( コピー ) するこ とは , 法律で認められた場合を除き , 著作者および出版者の権利 の侵害となりますので , その場合はあらかしめ小社あて許諾を求 めてください。 Printed in Japan I S B N 4 ー 0 9 ー 5 2 6 0 1 0 ー 6
さばく 砂漠 / 植物 トを 記録している。年変化としてはスーダンでの五 五度 O から零下二度 O まで低下した記録があ る。海岸冷涼砂漠は亜熱帯に位置しているが、 夏にも高温とはならず、四四度 O を超えること はほとんどない 〔地形〕砂漠の地形の特徴は鋭い山陵と広大な 平坦面、内陸流域の存在、それに風により形成 される地形である。砂漠では植生が少ないため に基盤が直接大気に接している場合が多く、機 械的風化作用が卓越している。機械的風化作用 の主営力としては、大きな温度変化による日射 風化、塩類が割れ目に侵入し、結晶や温度変化 により増大し、その圧力で破壊する塩類風化が あげられる。砂漠の年平均降水量は湿潤地域と 比較するとはるかに少ないが、しばしば豪雨と ・光 , 科 なり、しかも植生が少ないために侵食や運搬カ 茎テリ 。っポエソ が強く、地形を形成する主営力となっている。 第、すもサキ一 第、、ノとにラウウ山地斜面は急勾配であり、造山地帯の地形発達 - 落量シオト の初期には多量の砂礫が生産されるため、その を多ハっ 葉をなもナ 前面にバハダ bahada とよばれる連続した扇 と体大をゾ 、・こる緑巨刺 状地が形成される。山地斜面はその勾配を変え す葉⑧のア ずに侵食され後退するので、その前面にペディ 乾り漠多カ ドーを メント pediment とよばれる侵食緩斜面が拡 ムとラ茎メ ウるノいア大し、やがてインゼル・ヘルク lnselberg 書と 」「イれソ長 よばれる孤立丘となり、最後には孤立丘も消滅 キよ力と し、広大な平坦地形となる。降水量より可能蒸 左右 セ , メ 発量のほうがはるかに大きい砂漠では、しばし い 4 、・種幹アウロ ュチ ば流水が海まで到達しない内陸流域がみられ、 の緑うチコ 科 ( 行イオそのもっとも低い所にはプラヤ playa とよば メデをケ種 れる、降雨後一時的に水がたまる非常に平坦な マル成ン一 ⑦ペ合べの 地形がみられる。 風による侵食作用としては、末固結な細粒物 が吹き飛ばされるデフレーション deflation と、砂が風により吹き付けられて研磨するアプ レーション ablation がある。前者によって形 くーち 成されるおもな地形としては砂漠用地やデザー ペープメント desert pavement 、後者に よる地形としてはヤルダン yardangs がある。 たいせき 風による堆積地形としては、砂床、砂伝、レス loess がある。砂床はその表面に風紋がみられ るだけのまったく平坦な平原であり、砂の厚さ は五〇メートル程度のこともあり、その面積 は二〇万平方キロメートル近くに達することもあ る。おもな砂丘としては三日月状の平面をもっ バルハン barchan 、風向に直交する横列砂丘、 風向に平行する縦列砂丘がある。レスは細粒物 ①ヒナゲシの原野。水分条件と気温条件とにより , し、つ せいに開花 , 結実する。トルクメン , カラクム砂漠 ②アロエの一種。多肉質の葉をもち , 茎は木化する。南 アフリカ北部 ③カタバミの一種。雨のない時期は地上部を枯らし , 球 根の形で次の雨を待つ。南アフリカ北部 ④キク科の一種。種子の形で乾燥期を過こし , 雨後 , 急 速に成長して開花する。南アフリカ北部 ⑤スビニフェックスとよばれるイネ科の一種。砂漠では 一面に生えることはなく , 孤立した株状になるのが特徴。 オーストラリア ⑥リュウゼッラン科ュッカの一種ジョシュア・ツリ 茎は木化し数メートルにもなる。カリフォルニア , モハ ーベ砂漠
さがみは と江ノ島線の分岐点 ) 、国道 相模原台地さがみはらだいち神奈川県のほ区がます居住地となり、縄文・弥生の住居跡や き一かい 一六号・一二九号が通ずる。 ば中央部、相模川と境川との間に広がる洪積台 高塚古墳がみられる。古代には三角州平野が主 ざま えびなやまとあやせ っ 西部の段丘をや東部の地。相模原、座間、海老名、大和、綾瀬の五市要な水田地域で、相模国の米産額の約三分の一一 ちきき 一・つい き一むかわ おおいそ 境川河畔がまず開け、縄文と寒川町、それに藤沢、茅ヶ崎両市の北部にわがここで産出し、海老名、伊勢原、大磯と三遷 かっさか やよい でん 代盛 ( 勝坂遺跡など ) 、弥生、古墳たっている。地質時代 ( 更新世 ) に相模川がっした相模国府の支持基盤をなし、条里制水田跡 交ら くった扇状地が隆起したもので、地形上からは が広くみられる。奈良時代にはまた朝半島か 時代 ( 谷原古墳など ) の遺跡 年か 毎期が八〇余か所もみられる。古上位・中位・下位の三段の段丘に分けられ、西らの渡来人の居住も多かった。中世に入って相 えびな 1 が中 部には多摩丘陵と同じ高さの丘陵が連なってい 模平野の土豪たちは源氏や北条氏の鎌倉政権 落治代には南接の海老名地域が相 模国府の地として栄えた。鎌る。台地の表面は一面に関東ローム層 ( 火山灰や、小田原の後北条氏を支持する中心勢力をな 4 じしゅう していた。近世に入ると天領が多く、相模川水 倉時代に入って時宗の開山一土 ) で覆われるので、風食を受けやすく、冬に での たいま しんたん 凧も 遍が相模川河畔の当麻に入は霜柱が長期間みられ、地下水位が低く、狭長運が米、木材、薪炭やしようゆ、魚類、干鰯な なる 大祈 な侵食谷壁や谷底低地のほかは、地下水位が低どの重量物資の輸送に使われ、平野南辺の海岸 り、前後三回もここに滞在し やぐらさわ 巨を の長「一所不在」を旨とした一遍 く採水が困難で、村の成立や開発が遅れてい 近くに東海道が、またほば中央部に矢倉沢往還 ル、カ ゅうすい 方成 た。各段丘の崖下には湧水がみられ、縄文・ が通じて東西の連絡と江戸への消費物資の搬送 四なとしては例外的な長期滞在地 やよい となった。そのゆかりで、の弥生土器の出土地や高塚古墳があり、勝坂遺跡路をなし、沿道では特産物づくりが発達しつつ むりようこう 健ち無量光寺が建てられた。 ( 相模原市 ) は国指定史跡。古代には海老名にあった。 け供戦国時代には当麻を通る南北 相模国府が設けられて相模の行政中心地とな 近代に入ると東海道沿いに東海道線が開通し とうろく あ子 凧 道は小田原と関東山地東麓地 り、台地面を北東へ横切って東海道がつくらて全平野の交通、流通の主流となったが、昭和 うまや 大る 方との連絡道となり、当麻市れ、浜田の駅家が設けられ、また国分寺跡 ( 国初年に中央部に小田急線などが開通し、第二次 市あ 場も設けられていた。江戸時指定史跡 ) が残されている。平安後期には、国世界大戦後は平野の東半が早期に首都圏整備法 かみみぞ 模原代に入ると上溝が相模原台地司として来任していた相模平氏その他による侵 による市街地開発地域に指定されたのをはじめ の商取引の中心市場町とな食谷底低地の開拓が行われた。しかし、上位段 として京浜の衛星都市化が進められ、京浜に直 〈浅香幸雄〉 足柄地方の蜜柑や石材、大住郡秦野の煙草、津り、当麻の機能は人馬継ぎと相模川渡渉の渡頭丘面は水利が悪くて平地林のままに推移し、江結した諸活動がみられる。 つむぎかしわのは 久井地方の漆、紬、柏葉 ( 漁網の染料 ) など集落が主となり、市は衰えて不定期に開かれる戸時代の新田開発も不成功に終わったものが少 相模屋政五郎さがみやまさごろう ( 天 0 七ー きようかく にすぎなかった。幕末に至って生糸輸出が開け なくなかった。幕末の開国に伴って生糸輸出の があり、相模灘に面した大住郡須賀村の鰹は 会 ) 幕末の侠客。江戸・芝のロ入屋、定右衛 あゆ 門の一一男として生まれ、京橋の同業相模屋幸右 「御菜初鰹」として、また相模川の鮎も将軍にてからは、台地一帯の桑園化が進められて養蚕道が開け、貿易港横浜に近い相模原台地は急速 ふんせい ノ〈 ~ 三 0 ) には 献上された。文化も江戸との関係から盛んで、 が盛んとなり、貿易港横浜に近い有力な生糸生に桑園化されて、養蚕地域になった。第二次世衛門の養子となる。文政年間 ( 一、一 ・一うしよう あいまさ おおいそしぎたつあん 淘綾郡大磯の鴫立庵は相模俳壇の中心となっ産地域となった。一九三七年 ( 昭和一 (l) 以界大戦中には、軍の学校、エ廠、病院、飛行店を構え、「相政」と名のった。彼の名声を高 ・一うしよう しんもんたつごろう た。また北相では自在庵派が栄えた。一八五一一一降、相模原台地上には陸軍の諸学校、エ廠、場がいくつも設けられたが、戦後まもなく食糧めたのは、新門辰五郎の子分が酔って市村座の おおげんか 小屋を壊したので、大喧嘩になったのを仲裁し 年 ( 嘉永六 ) 三浦半島浦賀にペリーが来航、日病院などの諸施設が設けられ、軍都化がここの増産のために、相模川河水統制事業が進めら れがい 本の封建制は破れ、六八年 ( 慶応四 ) 神奈川十都市化のきっかけとなった。第二次世界大戦れ、畑地灌漑による水田化、畑作物増産のモデたためといわれている。一八四六年 ( 弘化三 ) あい - 」う ル地域となった。これと相前後して、国鉄横浜 に土佐藩山内屋敷の火消御用を務めた。藩主山 里四方の大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、三後、これらの軍諸施設は米軍に接収され、基地 とよしげ 線、小田急線、東京急行電鉄田園都市線、相模内豊信 ( 容堂 ) にはその侠気心を好まれ、寵 の町となった。五四年の市制施行後、五八年に 浦郡の一部が神奈川府 ( のち神奈川県 ) 、七一 年 ( 明治四 ) 廃藩置県により、一一月鎌倉郡、は東接の町田市 ( 東京都 ) とともに首都圏整備鉄道の沿線に住宅地開発と工場進出が相次ぎ、愛された。意気に感じた彼は五五年 ( 安政一 l) 三浦郡が神奈川県に、足柄上郡・下郡、淘綾法による第一次市街地開発地域に指定され、市台地の五市は首都圏内でも人口増加率の最高地藩邸の火災の際に、火薬庫を火から守った。七 たな 郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、津久井郡が足柄街地の造成と住宅・工業両団地の開発が進めら域となっている。北西の田名地区と南の小出地二年 ( 明治五 ) に容堂が死去すると殉死しよう たいすけ 県に編入され ( 七六年神奈川県となる ) 、相模れた。そしていまは横浜線沿線がおもに工業地区は、それそれ大規模有畜 ( 養鶏、養豚 ) や野としたが、板垣退助に止められた。〈芳井敬郎〉 まなづる 〈神崎彰利〉域、小田急沿線が住宅地域に変わりつつあり、菜栽培を中心とする近郊農業の典型地域として 国は消滅した。↓神奈川 ( 県 ) 相模弯さがみわん神奈川県西部の真鶴岬と じよう 首都圏内有数の人口急増地域となっている。相知られる。 〈浅香幸雄〉三浦半島南端 ( 城ヶ島 ) を結ぶ線から北の海域 回『神奈川県史』全三六巻三八冊 ( 一九七一 ~ たな さがみへいや神奈川県の中央部にをいう。湾の西部に深さ一〇〇〇 ~ 一二〇〇 神奈川県 ) 模川河畔の田名はアユ漁の名所、五月五日子供相模平野 かいきょ 相模原 ( 市 ) さがみはら神奈川県北部、相の日前後の「大凧あげ」は有名。県立フィッシ広がり、相模川とその諸支流がつくった平野。の海渠がみられるが、この海底地形は、相模馮 あつぎ せはら ングセンターもあり、ブドウ、ナシ、クリ、イ左岸の厚木、伊勢原、平塚三市と右岸の相模の北西から日本海溝 ( 伊豆諸島東部 ) に連なる 模原台地北部を中心とする内陸性工業と住宅の ぎま ちさきやまとあやせ えびな モ、カキなどの観光農園の多いのも特色。人口原、座間、海老名、茅ヶ崎、大和、綾瀬、藤沢 相模トラフによるもので、一九二三年 ( 大正一 衛星都市。一九五四年 ( 昭和二九 ) 市制施行。 さむかわ 〈浅香幸雄〉 の七市と寒川町にわたる平野をいう。地形上 (l) の関東大地震のときにおこった海底の沈下 市域は相模川と多摩丘陵との間に広がり、西部四八万二七七八 は、台地 ( 相模原台地 ) は隆起扇状地、低地は現象は、この構造地帯の活動によるものとされ に相模川がつくった三段の段丘が発達し、南部回『相模原市史』七冊 ( 一九六四 ~ 七一一・相模原市 ) むさしふちゅう しようなん 三角州、相模湾岸には湘南砂丘が発達する。 ている。沿岸潮流は相模川河口から三浦半島西 に相模横山とよばれる南北に続く丘陵がみられ二万五千分の一地形図「武蔵府中」「原町田」 座間」「八王子」「上溝」 台地の狭長な侵食谷の低地や段丘崖下の湧水地岸へかけて東流、ついで南東流するものが強く る。国鉄横浜線・相模線と小田急線 ( 小田原線 みかん はだのたばこ かつお ぎま たこ 力しカゅうすい やよい ちょ ) っ
しずおか 静岡県 / 市町村一覧 地図 市名 索引 静岡市しすおか 浜松市はままっ 沼津市ぬまづ 清水市しみす 熱海市あたみ 三島市みしま 富士宮市ふしのみや C 6 伊東市 し、とう 島田市しまだ 磐田市 いわた 焼津市やいづ 掛川市かけがわ 藤枝市ふしえだ 御殿場市こてんは・ 袋井市 ふくろい プ ( - 竜 i てんリゅう 浜北市はまきた 富士市 ふし 下田市しもだ 裾野市すその 湖西市 郡町村名 賀茂郡 東伊豆町ひがしいす F 8 河津町 かわづ 南伊豆町みなみいす G 7 松崎町 まっざき 西伊豆町にしいす 賀茂村 田方郡 たがた 伊豆長岡町いすながおか D 7 修善寺田」・しゅせんし 土肥町 函南町 かんなみ 韮山町 にらやま 大仁町 おおひと 天城湯ヶ島町あまぎゅがしま 中伊豆町 なかいす 戸田村 駿東郡 すんとう 清水町 しみす 長泉町 ながいすみ C) 7 小山町 おやま 富士郡 ふし 芝川町 しはかわ 庵原郡 いはら 富士川町 ふじかわ 蒲原町 かんはら 由比町 志太郡 岡部町 おかべ 大井川町おおいがわ F 4 榛原郡 はいはら 御前崎町おまえざき G 4 11 . 96 11 324 相良町 さがら 58 . 06 26 316 榛原町 3.8 はいばら 52 . 84 24 190 注 : 1986 年 5 月現在。人口は 1985 年国勢調査。増減率は 1980 ~ 1985 年による。▽は減少。地図索引は静岡県地図 ( 777 ページ ) と照合 はたなギ ) の供給も目的とした。大井川上流の畑薙、井川にもダムが建 東部の東駿河湾工業地域は、化学・機械・金属工業を主と駄 ( 現在はサンダルに移行 ) など木漆関係の製品が多く、小 設され電源地帯となった。六〇年代の高度経済成長期は工業 する三島沼津地区、製紙・パルプを主とする岳南地区に分け規模家内工業で生産されている。ミカン、茶、魚類を原料に 開発に移行し、県の第六次計画は重化学工業化を目ざして三 られる。富士川流域には伝統的な駿河半紙の製造がみられた食品加工業も重要で、輸出用缶詰も生産されている。 浜松を中心とする西遠工業地域は、遠州織物の伝統を背景島沼津地区にコンビナート誘致を図ったが、環境破壊批判の が、明治中期より原木や水資源を立地条件に機械製紙が発達 いわたべっちん した。一九五八年の田子浦港着工は、臨海部に豊富な地下水 に浜松や浜北の綿織物、磐田の別珍、コール天など繊維工業うちに挫折した。東駿河湾地区は工業整備特別地域の指定を をもとに化学繊維・食品工業などを誘致したが、紙・パルプに特色がある。明治中期に始まった楽器も重要で、ピアノの受け ( 一九六四 ) 、田子浦港を中心に岳南工業地区が形成され、 へドロ公害や地下水障害も発生したが、工業用水道の敷設や が中心で輸入原料に依存し、用水は富士川を水源とする工業生産比率は非常に高い。戦後は紡績機械工業の転換も加え て、輸送用機械器具の生産が発達し、ヤマハ、ホンダ、スズ諸規制で防止に努めた。七〇年代は脱工業社会開発を志向 用水道でも供給されている。 し、生活環境整備に転換した。八四年浜松市周辺地域がテク 中部は静岡と清水を中心に静清工業地域とよばれる。清水キなどは関連産業を集積させ、自動一一輪の出荷が多い ノボリス ( 技術集積都市 ) の指定を受け新しい型の開発が始 港周辺の臨海部にはアルミナ、造船、合板、精油などの工場〔開発〕一九五〇年 ( 昭和二五 ) 国土総合開発法の制定は、 まった。 が集中する。茶の輸出港として発展した清水は特定重要港湾電源開発と食糧増産を柱とする水系別方式で開発が進んだ。 おきっふとう 〔交通〕交通体系をみると、陸上交通の主要幹線が東西に並 であり、興津埠頭はコンテナの基地となっている。静岡は伝天竜東三河地区はその指定地となり、天竜川中流に佐久間 とよかわ ひなぐ 行して走り、大動脈を形成している。国鉄は、一八八九年 統的な在来工業が中心であり、鏡台、漆器、雛具、家具、下秋葉両ダムが建設され、発電のほか豊川用水、三方原用水へ 4 ・ CO 8 0 0 LO っ【 / 【 0 【 / 「 1 -0 ワ】ワ】 CO ・ 1 ワ 0 っ 0 00 4- 00 / ~ 手 C) っ 00 「 / 4 ・つ」 つ」 ( 0 -8 0 -0 -8 -8 11 ワ 1 よ -8 尸 0 -8 4 -8 1 よワ -8 咸「ー 1 ・ 4 ・つ 0 帯 -4 00 《 0 1 よ 1 亠 -0 00 00 「 / -0 ワ」《 0 ・ 0 -0 っ 0 ワ】 ▽ ▽▽ ▽▽▽ 11 ・ー人 11 1 よ 丗一 - -4- 【 0 「ー 1 人 C'¯•ワ 0 11 ワワ】、 1 ワ 0 ワ】 11 1 よ 1 よ -8 -8 1 よ -8- 1 -4 -0 00 ワ】《 0 ワ -0- ワ】 CO -4 ・ -0- っ編 1 人ワ ~ 00 -4 ・ 11 ワ」 11 -0- 《 0 ワ】 CO 「 / 《 0 -8 - -0 ・ 4 ・ 1 よ 11 ワ 11 ワワ」 亠 -8 00 ワ】ワ 0 , 1 1 《 -8 【 0 00 - -0 -0 -8 「 / 8 ーワ】【 0 / 1 、 11 -0- -4 ・ 0 ) 《 0 っ 0 っ 0 -8 -4 ・ 11 -0 -0 「ー ・ー・ - 4 ・ 11 00 11 00 っ 0 1 1 人 1 “ワ -8 - -0 00 / 11 -0- -0 -0- -0- ワ I-O 面 ′ ( ワ戸 0 1 人ワ「 / 11 ワ】 11 11 CO 「′っ 0 っ CO 8 ・ 4- 00 0 0 L-n 1 ー - 4 ・〔 0 (. 0 つ」 (. 0 1 ・ (T) 図引 LL LL LLJ O 〔 0 4 ・ O っ乙 (. 0 4- (. 0 ( 0 8 (. 0 0 ( 0 4 ・つ」 0 0 ・ ) 地 ( 咸 % 2 4 3 0 ▽ ▽ ▽ 、つ 、つ か わち わわ か、つカ さえさか のたばでうまくだおやなさ ~ カかさす・とおさが、つ らうみなそなっ るわさ / 、ゆ / 、さよよっま しなわかんがお ワ」 -8 -4 ・《 0 - - -0 ワ一 .0 8 1 よ戸 / ワ -0 -8 一「 / 11 -0- ワ 3 み 《 0 11 《 0 ゥー -0- 4 ・ -9 ~ -8 、 1 戸 0 ワ】 ( う -8 -0 ワ】 LO 1 よ -4 ・「 / さみととたはまあゆかい よかかなはおおだはおきしもはい ロ・ ) ′ 00 1 よ -4 ・ 11 っ 0 00 11 っ -8 一戸 0 ー -9 -4 -0 ワ】 4 ・ワ 11 っ ・ ( 、 -8 -4 ・ -0- ワ -9 、ワ・ 0 ワ -0 -8 -8 1 人 -4 ・ -. 0 t-—一 4- -0- 戸 0 1 よ 人 〒」〒」 11 1 人 -4 ・ -4 11 「 / / -8 -0 、 1 ー -4 ・ワ】 11 00 ・ 4 ・・ 4 ・宀石 〒」〒」 〒」 t::2 〒」〒」」日川—〒」・ 1 」↓ 74 卩—・「ー・亠 7 」 日 村 笠須東岡笠川智町野田羽田洋久窪田岡山名阪居踏美佐江佐ケ 町田谷根月月 郡吉金川中本小大大浜小菊周森春磐浅福童佐水豊豊竜浜舞新雄可引細引三 (. 0 1 ー 8 っ ") 0 ーっ 0 00 っ 0 1 ー 0 ー ) 0 ) ーっ」 0 0 フ」 0 っ 1 ーフーっ 0 O っ′」 っ 0 LI¯) フー ▽▽▽ ▽▽ ▽ ▽▽▽▽▽ 0 っ 0 ワ」ーワ」 -4 ・ワ】ワ」 ーワ】 1 人っん・ 4 戸 0 「 / 「ー -0- っ -0- ワ 3 「ーワ】っ 0 O 戸 0 (. 0 ワ】 《 0 - 途・ 00 11 ワ 4 ・ -8 、 .0 一 .0 11 1 よ 1 よ・ー人 ・ー画 1 ー 4 00 1-- 1 人 -0- -4 ・ -0 1 人 -8 1 亠ド 0 -0 「ー 0 《 0 っ 0 1 よ 1 人ワ」 ^. 0 - -0 11 ワ ワ】 00 / LO -4 ・ 11 戸 0 4 ・ 戸 0 -0- 《 0 -4 ・ 00 っ 0 -0 11 ワ」 1 よ《 0 0 戸 0 -4 ・、 1 00 積 面 市制施行日 1889 ・ 4 ・ 1 1911 ・ 7 ・ 1 1923 ・ 7 ・ 1 1924 ・ 2 ・ 11 1937 ・ 4 ・ 10 1941 ・ 4 ・ 29 1942 ・ 6 ・ 1 1947 ・ 8 ・ 10 1948 ・ 1 1948 ・ 4 ・ 1 19 51 ・ 3 ・ 1 1954 ・ 3 ・ 31 1954 ・ 3 ・ 31 1955 ・ 2 ・ 11 1958 ・ 11 ・ 3 1958 ・ 11 ・ 3 1963 ・ 7 ・ 1 1966 ・ 11 ・ 1 1971 ・ 1 ・ 1 1971 ・ 1972 ・ 1 ・ 1 地図面積人口増減率 索引 ( km2 ) 1 145.96 250.38 151 . 17 227 . 92 62 . 42 61 . 81 314.22 124.18 130.75 64 . 35 44 . 49 186.05 141.98 198.59 78 . 73 181 . 85 66 . 45 215.34 104 . 60 137 . 82 55 . 06 (km2 ) 12 111 33 . 65 45 . 98 19 139 5 3 . 91 22 154 13 047 30 . 31 63 . 50 27 739 っ 0 っ ") 月 4- 44 44- LL IL ( ロ LL LL. 134.32 20 663 7 877 ▽ 6 . 6 252.79 ロ . LL 一ト O O LL LLJ 8 . 81 26 803 24 . 09 32 324 134.21 23 263 ざせつ 74 . 50 10 011 5 . 03 11 192 12 . 47 16 840 7 . 88 14 004 4 . 11 13 128 しない ) (. 0 53 . 42 12 732 25 . 11 21 548 33 . 90 18 687 120.44 15 112 69 . 62 16 486 779
二条一項本文 ) 。ただし、失踪宣告後その取消つの新しい生き方として実存の問題を提起した〔アルべール ・カミュ〕カミュの場合、サルト 的女性論である『第二の性』 ( 一九咒 ) は、「女生跖 し前に善意をもってなした行為は、その効力に のは、第二次世界大戦後のサルトル、カミュ、 は雌と去勢者の中間的存在として社会的心理的 ルの『嘔吐』と同じような位置を占める作品が そ 『異邦人』 ( 一九四一 l) である。その主人公は「不条 につくりあげられるもの」であり、女性が他者 っ変わりがない ( 同但書 ) 。この点は善意の再婚ポーボアールらの文学である。 と旧婚との関係についてとくに問題となるが、 このような文学が生まれる契機になったの理」 absurde の意識をもつがゆえに、日常性 によって自己を規定されるのは人間として堕落 じ 多数説は、旧婚も復活して重婚状態になる、と は、二〇世紀前半のたび重なる戦争や動乱であと良識を代表する社会によって殺人罪で裁かれであるとの観点から、女性の復権を求める。さ ぎまん 解する。しかし、旧婚は復活しない、とする有った。とくに第二次大戦によって、人間は、自るが、実は裁く側も自己欺瞞の罪によって告発らに四部からなる回想録『娘時代』 ( 一九〈五 ) 、 力説もある。 〈淡路剛久〉己の個性や本質やそれらが形づくる自由が、歴されているのと同然である。カミュはこの、人「女ざかり』 ( 一九六 0) 、『或る戦後』 ( 一九六四 ) 、『決 間に虚偽や欺瞞を強い、 じっそくす地図をその作成方法によ史や社会や現実の前でいかに無力であるかを知 人間の真の存在を否定算のとき』 ( 一九七一 l) と『おだやかな死』 ( 一九六四 ) 実測図 って大別したものの一つで、空中写真の図化 った。そこで、神が本質をつくるという従来のする不条理との戦いこそ人間の義務であるとすは、ポーボアール自身の「女性になることへの や、地上での測量の結果から直接地図としてま考え方を拒否し、本質に先行するところの「存る。そしてこの義務はこうした不条理な人生へ実存」に至る過程を精神形成と重ね合わせて語 の抗議、反抗の形をとって、エッセー『シシフる、同時代のドキュメント豊かな作品である。 とめたもの。これに対して、これらの実測図や在」、つまり「即自」 en soi ( 単に存在するこ ↓ポーボアール オスの神話』 ( 一九四一 I) では、永遠に崖の上に岩 各種の資料から編集してまとめた地図を編集図と ) から「対自」 pour soi ( 存在することにつ 〔他の作家たちとその影響〕このほか、ジャ という。一般に、縮尺の大きい地図は実測図で いての意識 ) へと移行する「存在」を中心命題を押し上げねばならぬ絶望的な反抗行為とな り、そこに人間のあるべき姿をみようとする ン・ジュネは、サルトルから「聖ジュネ」とよ あることが多く、国土地理院発行の縮尺一一万五とする無神論的実存主義が脚光を浴びるように こうして、カミュにおいては、反抗が不条理ばれ、「参加の文学者」として世に出たが、『泥 〇〇〇分の一の地形図をはじめ、地方公共団体なった。 〔サルトルにおける実存主義文学〕サルトルは意識をもつ人間の参加行為となり、これを具現棒日記』 ( 一九四九 ) 、『花のノートル・ダム』 ( 一九 などでおもに調査や計画のためにつくられる五 シュルレアリスム かんべき 四四 ) など超現実主義風の手法による長編小説 〇〇〇分の一や二五〇〇分の一などの地形図最初、芸術によって存在を完璧なものにしようするのが長編小説『ベスト』 ( 一九四セ ) の主人公 は、実測図である。国土地理院の縮尺五万分のと考えたが、やがて戦争体験を経ることによで、彼はベストのために恐慌をきたした町で、 で、男色者、職業的犯罪者としての自己の屈辱 と反抗の半生を自己欺瞞に陥ることなく描い 一の地形図は従来実測図であったが、現在は一一り、真の自由の獲得と、したがって真の存在の神や悪魔の無力を知って孤独地獄に陥る人々に た。サルトルの友人で、第二次大戦中戦死した 万五〇〇〇分の一の地形図を基にして編集され完成とは、歴史や社会や現実に参加することに囲まれながら、因襲や安易な妥協に甘んじるこ るようになっている。 ^ 五條英司〉 よって獲得しなければならぬと考えるに至っ となく、人間の連帯を頼みにして己の職務を遂ポール・ニザンは、自己の階級への反抗、社会 おうと シッノン Charles Jasper Sisson ( 一穴五た。こうして長編小説『嘔吐』 ( 一九三 0 は、実行する。こうした意味で、不条理に反抗し続けの偽善の告発を文学の形で行った。ポア ルに認められた特異な女流作家ビオレット・ル ー一九六六 ) イギリスの文学者、ロンドン大学教存意識に目覚めた人間が小説を書くこと ( 芸て人間性を追求する道がまたヒューマニズムに 通じている。そして不条理的人間による人間性デュック Violette Leduc ( 一九 0 七ー七一 l) の自伝 授、シェークスピア研究所副所長。シェークス術 ) で生の意味を発見しようとする姿を描き、 月説『私生児』 ( 一九六四 ) は、同性愛者としての ピアを中心とするエリザ・ヘス朝演劇の実証的研短編小説『壁』 ( 一九三七 ) では、人生を選択できの誠実な探求の道が、このような反抗と行動の 自己をあらゆる観点から汚れた醜い存在だと 究家、古文書研究の大家として知られる。論文ず、ただ存在するだけのものとして存在する人形をとるがゆえに、不条理の文学も必然的に社 ドレゅ・は′、 はえ し、その呪縛から逃れられず、しかも自ら周囲 間を示し、劇作『蠅』 ( 一九四三 ) では、自己の状会への参加を行うものとなる。↓カミュ 『シェークスピアの神秘的悲しみ』 ( 一九三四 ) 、著 に張り巡らした孤独の環を打ち破ろうとする物 書『シェークスピア時代の失われた戯曲』 ( 一九況を乗り越える行動によって自己を判定する人〔シモーヌ・ド・ポーボアール〕ポーボアール たきび は学生時代にサルトルと巡り会い、二人の結合 語である。「他者」の焚火で暖まりたいと願う 間を浮き彫りにした。さらに四部からなる連作 三六 ) 、遺稿『ポアズへッド劇場』 ( 一九七一 I) のほか つぶや へんさん 『シェークスピア全集』 ( 一九五四 ) 編纂の業績があ長編小説『自由への道』 ( 一九四五 ~ 四九、第四部は激烈な反順応主義と、出生の環境 ( プルジョ女性の個性的な意識と呟きが語られ、つねにア る。 アジー ) に対する反抗によって強固にされたウトサイダーである存在が真の自由を発見しょ 〈小津次郎〉『最後の機会』は末完 ) では、大戦の前中後の じっぞんてつがく が、この二つの命題が彼女の文学的出発点とな うとする、回帰転生の物語としてとらえること 時代を生きる一知識人が、こうした実存的人間 実存じっそん 0 実存哲学 じっぞんてつがく り、そこにはすでにこの実存主義文学の女王のができる。 じっぞんしゅぎ 0 実存哲学 の発展をたどりつつ、ついに新たな真の自由と 実存主義 生涯のテーマがかいまみえる。すなわち、ポー なお、サルトルらの実存主義文学は、文学的 じっそんしゅぎぶんがく文学新たな自己を発見する過程を描いた 実存主義文学 さらに、実存主義文学が社会への参加の文学ボアールの文学活動は、女性であることの「本意識、文学の方法、文学者および文学作品の社 的に明確な主義、形式、流派を指摘しうるもの ではないが、実存意識つまり存在の不条理性にである以上、文学者は書斎での孤独な創作活動質」と女性になることの「実存」の矛盾相克の会参加などの点で、以後の文学に多大かっ多様 な影響を及ばしたが、とくに、意識を「事物」 。こナことどまることをやめて、積極的に社会や苦悩を核として展開されるといえよう。長編小 対する意識 ( 存在に対する不安 ) を出発点とすオし しっと のほうへと疎外しながら人間の条件と形成を考 る文学。つまり、自己の本質をつくりあげる政治の問題に発言し、それに対して熱烈に働き説『招かれた女』 ( 一九四三 ) は嫉妬という永遠の えるとい , っ点で、プランショ Maurice Blan ・ かけることになる。こうしてサルトルは、さまテーマを一新するもので、主人公フランソアー ために人生を選択し、責任ある行動をとり、 シチュアシオン ) 、ロ。フ・グリエ、・ビュト ハンガリー事ズは自分と夫との間に介入してくる「他者」の chot ( 一九 0 七ー ざまな社会、政治、時事問題 「状況」 situation のなかで、歴史や社会に アンガージュマン ール、 Z ・サロート、 O ・シモン、・デュラ 「参加」 engagement しながら、その状況件、アルジェリア問題などーーに正面からかか存在である招かれた女グザビエールを殺す。他 スらのヌーポー・ロマンの文学に根本的な影響 を受け止め乗り越えて、真の自由を獲得しようわり合っていった。そうした参加からまた、政者の幸福に対する指向と他者の存在とはつねに とする人間を描こうとする文学と解せられる。治における目的と手段を描く劇作『悪魔と神』自我の破壊であるという認識である。長編小説を与えた。文学を現象学的領域のものと考え、 ト説は「作中人物をつくりださず、作中人物を ( 一九五 l) などの作品を生み出した。以上のよう『他人の血』 ( 一九四四 ) では、レジスタンスにおけ ↓実存哲学 な意味合いからサルトルの文学および実存主義る連帯と責任の問題を扱い、長編小説『人はす物語りもしない」 ( ロプ・グリエ ) ものであり、 実存意識を底流とする文学はすでに古くから べて死す』 ( 一九四七 ) では、真の個人と歴史との文学は「現実がいかにしてわれわれに現れうる あったが ( ポードレール、モーパッサン、ドス文学は、新しい意味でのヒューマニズムの文学 相克を描く。膨大な社会学的、心理学的、文学かを一小す実験室」 ( ビュトール ) とする考え方 トエフスキー、カフカなどの作品 ) 、人間の一といわれている。↓サルトル
さやはし で。と 倉れ ( し・る 源と山れ 起茶狭ら の越ま知 立ロ可 ( く 栽は広 み当さ 茶れの 、 . 、のわⅡ質 山との 狭る既そ 市のまれ 狭さ「称 サヤハシチドリ〔〔鞘嘴千鳥〕 sheath bill 広義には鳥綱チドリ目サヤハシチドリ科に属す前の一九三八年 ( 昭和一三 ) から、南部の台地 に陸軍航空士官学校が建ち、戦後はアメリカ軍 る鳥の総称で、狭義にはそのうちの一種をさ す。この科 Chionididae の仲間は、南極周辺基地 ( ジョンソン基地 ) とかわり、現在は航空 自衛隊入間基地となっている。 に二種が分布しており、全身白色をしている。 くーちば 1 し 周辺の台地は、東京近郊の野菜産地で、とく 上嘴の基部に角質の鞘状をした付属物があり、 にゴボウ、ニンジンの生産が際だって多い。ま 鼻孔を保護している。雑食性で、餌は海獣類の 死体、ペンギン類の雛や卵、動物の排出物、甲た、茶の生産も多く、県下では上位の生産量を かわごえ 殻類、軟体動物、藻類などいろいろである。人もつ。一九六二 ~ 六七年に市北東部から川越市 にかけて川越狭山工業団地が形成され、また七 間の住まない地域にいるので、人間を恐れな ンの建設など住宅地化が進んでいる。人口五万よぶ東京都の上水道の貯水池となっている。一 三年に西部の入間台地に狭山工業団地が造成さ 。二、三卵を産み、雌雄とも抱卵する。 種のサヤハシチドリ 0 ぎミは全長約れ、事業所総数三八六で、製造品出荷額は川口〇二四六。↓狭山池↓狭山藩〈位野木寿一〉帯はアカマツや雑木林に囲まれた景勝地で、都 立および埼玉県立の自然公園に指定されてい 四〇垰一。サウス・ジョージア、サウス・オーク市に次いで県下第二位 ( 一九会 ) である。県の史。狭山町史』三巻 ( 一九六六 ~ 六七・狭山町 ) ふるいち とんだばやし ななまがりのい る。西武鉄道はこの地に多摩湖線と狭山線を引 囮二万五千分の一地形図「古市」「富田林」 ニー、サウス・シェトランドなど南極海の島々跡として、七曲井や堀兼の井などがあり、地 みなみかわち やホーン岬付近などで繁殖する。嘴は黄色がか下水の深いことを示す。また、自然公園のハイ狭山池さやまいけ大阪府南部、南河内郡き、ユネスコ村や西武園などの観光施設がつく ためいけ いりそしし ・一さっ 〈中山正民〉 ドバークや古刹広福寺があり、入曽の獅子舞、狭山町にある溜池。面積三・八平方キ。。東部のられている。 り、足は黒色を呈している。ヒメサヤハシチド おうめ きようあい はびきの 羽曳野丘陵と西部の泉北丘陵間の狭隘部にあ囮五万分の一地形図「青梅」 リ C. き、は南極大陸やプリンス・エドワ梅宮神社の甘酒祭など民俗芸能も多く残ってい にしきのいりひこの 〈中山正民〉り、『古事記』しし ード島、ケルゲレン島、 ード島などで繁殖しる。人口一四万四三六六。 こよ垂仁天皇の子印色入日子狭山湖さやまこ埼玉県と東京都との境界に みこと めさき ている。眼先と嘴は黒色で、足はピンク色であ囮二万五千分の一地形図「川越南部」「所沢」命の築造とある。狭山古扇状地の水田約二〇ある狭山丘陵の北部にある貯水池。埼玉県所沢 ん ~ ーれい はんのう 〇〇タを灌漑する。府指定史跡・名勝で、池市に位置する。柳瀬川の侵食谷をせき止めてつ 〈柳澤紀夫〉 「飯能」 みなみかわ いるま くった人造湖で、南部にある多摩湖とともに、 狭山 ( 市 ) さやま埼玉県南部、入間川をま狭山 ( 町 ) さやま ( ちょう ) 大阪府南部、南河畔には狭山遊園地が設けられ行楽地となってい 〈位野木寿一〉東京都の上水道の貯水池である。山口貯水池と 内郡にある町。一九五一年 ( 昭和二六 ) 町制施る。 たいで広がる市。一九五四年 ( 昭和二九 ) 入間 ふるいち とんだばやし ためいけ ほりかわおくとみかしわばらみずとみ もいう。一九三四年 ( 昭和九 ) 完成。周囲一九 川町と入間、堀兼、奥富、柏原、水富の五村行。町名はわが国最古の溜池の一つ狭山池に由囮二万五千分の一地形図「古市」「富田林」 、満水時の水面積一・八九平方キ。、貯水量約 が合併して市制施行。市名は狭山茶の生産地で来する。町域の西半は泉北丘陵の東斜面、東半狭山丘陵さやまきゅうりよう東京都と埼玉 むさしの はむら 一九五三万立方。多摩川の沿岸の羽村から導 は狭山古扇状地の一部にあたる。狭山池の東を県の境にある丘陵。武蔵野台地上に紡錘形をな あることによる。入間川の沖積低地を挟んで、 - : つや むさしの して存在し、最高点は西部で一九四、東部で水して貯水する。付近は雑木林や松林に囲ま 東の武蔵野台地と西の入間台地が相対す。西武南海電鉄高野線が、西を国道三一〇号が走る。 八〇で、台地面との比高は二〇 ~ 五五となれ、都立および埼玉県立の自然公園に指定され 鉄道新宿線、同池袋線と国道一六号が通じる。歴史は古く、『古事記』に狭山池築造の記事が している。西武鉄道は西所沢から狭山線を引き、 っている。丘陵の地質は狭山層とよばれる古、 中心市街地入間川は鎌倉街道の要地で、渡河地みえ、農業の先進地であった。近世は狭山藩北 ろくさいいち 点でもあり、江戸時代には二、七日に六斎市が条氏の所領で、池畔に陣屋を構えた。明治以洪積層で、上部には厚さ三〇にも及ぶ多摩ロ終点の西武球場前駅付近には、ユネスコ村、野 球場、屋内スキー場、ゴルフ場などの観光開発 ーム層がのっている。丘陵の東部には、柳瀬川 立ち、農産物の集散が行われた。明治時代は製降、近郊農業地として野菜の栽培が盛んであっ を行い、 人々でにぎわっている。〈中山正民〉 たが、第二次世界大戦中に中小規模の金属・機によって刻まれた南北二つの侵食谷があるが、 茶、製糸業が盛んであり、農村地域では野菜と くにゴボウの生産が多かった。第二次世界大戦械工場が進出した。丘陵地には狭山ニュータウ今日ではこれらをせき止めて多摩湖、狭山湖と囮二万五千分の一地形図「所沢」 ひな さや えさ ゃなせ ゃなせ 狭山湖南東上空から見た狭山湖周辺。狭山県立公園の中心にあり , 湖畔は桜 とツッジの名所でもある。手前は西武ライオンズ球場と屋内スキー場 , 中央は ユネスコ村 262
ながら、しだいに酸素濃度を上げていく方法がている。しかし、山村の農業は、標高の高い傾る村落で、散居村落ともよばれ、規則的な分散三尊像 とられる。②酸素中毒高濃度の酸素を長時間 斜地にあることから、寒冷な気候に適した作物形態をとるものと不規則な分散を示すものとが せき 脇侍 吸入させると、咽頭痛、咳、胸痛、呼吸困難な に限られ、畑作の比重が高く、耕地面積も狭くある。規則的なものは、整然とした計画的地割 文殊菩薩 どがおこる。さらに進行すると、肺にも変化が ならざるをえない。したがって林業生産が停滞を行って民家を設けるもので新しい開拓地にみ 普賢菩薩 おきてくるが、これは酸素中毒の症状である。 した場合、山村住民の所得の向上には困難が多られ、タウンシップ制に基づくアメリカ合衆国 薬王菩薩 くなる。 したがって、長時間の酸素吸入では、六〇 % 以 の中央平原の孤立農場や、明治初年に開発され 薬上菩薩 とんでんへい 上の酸素を与えてはならない。③末熟児網膜 山村の置かれている立地条件から、山村集落た北海道の屯田兵村に基づく村落などにみられ 観世音菩薩 となみ 虚空蔵菩薩 症末熟児に高濃度の酸素を吸入させると、あは規模も小さく、散在・散居形態のものが多る。不規則な散村では、富山県砺波平野、大井 いずも とになって網膜症をおこすことがある。④全身 都市から離れて各種の社会的施設の利用の 川下流、讃岐平野、出雲平野その他の例があげ 観世音菩薩 勢市菩薩 けいれん一気圧ではおこらないが、高圧のも 便益に乏しいうえに、疎散性が強いことから、 られているが、その成立過程を通して、平野の 日光菩薩 とに酸素を吸入させると、全身のけいれんをお医療機関の利用をはじめとして、生活環境条件微高地、水利条件、フェーン現象などの地理的 月光菩薩 こすことがある。 〈山村秀夫〉 の整備には困難が多い。そこで、山村の生活条条件が問題にされている。↓集村〈中田栄一〉 法音輪菩薩 ざんそんしゆけん residual sover- 山村さんそん山地にある、林業に依存す件の改善を目ざして、山村振興法が制定され、残存主権 大妙相菩薩 ることの多い村落。立地条件と生業の種類か山村住民の生産・生活に関連する各種の基盤整 eignty 甲国の領土の一部に、乙国の施政権 観世音菩薩 ら、他の類型の村落と区別されるのであるが、備などを進める施策が行われてきた。しかし、 ( 統治権 ) が全般的に行使されることが認めら 虚空蔵菩薩 いずれも相対的な基準であるため、一義的な規山村地域では、経済成長が進むにつれ、人口流れる場合、甲国に残されている権限を残存主権 薬師如来 定はできない。そこで、農林統計においては、 出が進み、山村の多くが過疎化し、あるいは激という。潜在主権または残余主権といわれるこ 千手観音菩薩 ①市町村単位に経済地帯の区分を行い、耕地率しい人口の高齢化を生じるに至っている。わが ともある。乙国の権限は、単に統治権の行使で ばうすい 一〇 % 以下、林野率八〇 % 以上、林業兼業農家国の地形的な特質から、山林は、国土の保全ゃあり、その地域の処分の権限を含まない点で、縦横の比が 1 】 2 の紡錘形で表現される。図の かんよっ 率一〇 % 以上の地域を山村とする、②旧市町村水源の涵養に大きな役割を果たしており、山寸 本割譲とは異なる。乙国は、甲国の同意なくし端のほうでは図形のゆがみが大きいので、世界 単位に、林野率八〇 % 以上の地域を山地村とすはそのような山林の維持にとって軽視することて、その地域の領有権や統治権を第三国に譲渡図の図法としては適当ではない。一六五〇年フ る、③集落単位に、総戸数に対する林家率七〇のできない存在である。その意味で、山村の多することはできない。また、その地域に対する ランスのサンソン N. Sanson の考案によると % 以上の集落を山村集落とする、などの規定が くが過疎化しつつある現状は、きわめて重大な 統治権の行使が終了したときは、甲国の統治権伝えられるが、実際には一六〇六年のメルカト いのうただたか 行われてきた。また、山村振興法 ( 昭和四〇年 問題といわなければならない ↓過疎問題 が当然に回復される。このような甲国の地位ルの地図帳に使用され、また伊能忠敬の『大日 法律六四号 ) では、旧市町村を単位に、林野農村問題 〈蓮見音彦〉を、甲国が残存主権を有するという。 本沿海輿地全図』もこの図法によっている。 〈小坂和夫〉 率、人口密度を基準に山村の定義を行い、「林〔地理的特色〕山村は、標高が高く、河谷斜面 残存主権は、一般的にいえば、租借地にみら地図 きゅうりゅう さんそんそう仏教寺院の諸堂宇に安 野面積の占める比率が高く、交通条件および経が急で、耕地の土壌は浅く、気温が急低下し、れる。一九世紀末に九竜半島をはじめ中国の三尊像 済的・文化的諸条件に恵まれず、産業の開発の 雪や雨が多くて、耕種農業が制約される。農業地域に認められたイギリスなどの租借地、一九置される一組の尊像の場合、中央の主尊および りようじ 程度が低く、かっ、住民の生活文化水準が劣っ は経営規模が零細で生産性が低く、自給を主と〇三年アメリカが。ハナマから統治権の移譲を受左右の両侍を三尊像と総称する。主尊は普通、 わきじわきしわきだちい っし上う 中尊といし 、両侍は脇侍、脇士、脇立、一生 ている山間地その他の地域」を、山村振興対策し、養蚕や畜類飼育、植林 ( 木材生産 ) をあわけた運河地帯などはその例である。 ふしょ ばイ、つ を講ずる対象地域 ( 振興山村 ) として指定してせて、経済の安定・発展を図っている。また、 わが国で残存主権の語が多く用いられたの補処の菩薩などという。この三体の像を三尊と あみだ 自然風景に優れ、古来、山岳信仰の対象とさ は、沖縄など南方・南西諸島の地位に関連して 、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊という ゅうしゆっ 山村を一般的な村落社会から区別するものれ、温泉の湧出や古い民家や民謡・伝統的遺であった。対日平和条約 ( 一九五一一発効 ) 第三条ようによぶ。中尊と脇侍の組合せは一般的に一 は、土地利用のうえで山林が多く、産業のうえ 習が残存していて、観光地として注目を集めてで、アメリカがこれらの諸島を信託統治制度の定しており、中尊の尊像名が不詳の場合でも、 で林業に依存するということにあるだけに、林 いる所もある。しかし、山村は交通条件に劣下に置くことを提案したときには日本国がこれ脇侍像によってそれを推定することができる。 り、労働力や生産物の市場化に恵まれないの 業の特質によって山村の特徴も形成され、また に同意すること、および、それまでの間はアメおもな中尊と脇侍との組合せは表のようにな 〈江口正尊〉 その類型も生み出される。すなわち、国有林とで、都市地域への人口流出が少なくなく、過疎 リカがその地域の立法・司法・行政のすべてのる。 公有林・私有林との比率などの山林の所有形態イし ヒこ鹵む山村が多い。その防止対策の研究が平権限 ( 統治権 ) を行使できることが定められ三田 ( 市 ) さんだ兵庫県南東部にある市。 の差によって、また、人工造林の進展程度に示地村に比べてより盛んなのも山村の特色といえた。サンフランシスコ講和会議でアメリカ首席三田盆地のほば中央を武庫川が貫流し、東部と よ , っ される林業生産の発展の差によって、さらには 〈浅香幸雄〉代表ダレスは、この条項を、日本国に残存主権 北部は山地、南西部はなだらかな止陵地であ 』を残すものと説明した。↓主権〈石本泰雄〉る。一九五八年 ( 昭和三三 ) 市制施行。福知山 林業経営や林業労働の形態の異なるのに応じ回山村振興調査会編『日本の山村問題・Ⅱ て、山村にはさまざまな類型がみられる。さら ーーすほう擬円筒図法の一線、神戸電鉄三田線、国道一七六号が通じる。 ( 一九六七、六九・東京大学出版会 ) ▽同編『山村サンソン図法 こんしん 、林業生産の消長は山村の盛衰そのものを規 の変貌と開発』 ( 一九七一・古今書院 ) ▽三井田種。正積図法で、緯線はすべて平行直線でその中心三田は、中世までは金心寺の門前町として 定することにもなる。もちろん、林業に依存す 圭右著『山村の人口維持機能』 ( 一九七九・大明長さは地球上と等しく、中央経線上での間隔は 開け、一六三三年 ( 寛永一〇 ) 以降九鬼氏三田 堂 ) オるといっても、山村住民は林業にだけ従事して 緯度差に対する経線長に等しい。中央経線は直藩三万六千石の城下町として繁栄する。いまも んいるわけではなく、農業をはじめ、山地の条件散村さんそん村落の平面形態の一つ。集線で、その他の経線は各緯線を経度差に応じてそのおもかげを濠と土塀のある士族屋敷、狭い 六、を生かした生産やその他の賃労働などに従事し村に対する語。分散した民家から構成されてい 等分した点を結ぶ正弦曲線となり、地球全体は屈曲した道路にわすかにとどめている。三田地 さめき 盧遮那三尊盧遮那仏 釈迦三尊釈迦如来 阿弥陀三尊阿弥陀如来 薬師三尊薬師如来 弥勒三尊弥勒如来 中尊
〔気候〕本県は温暖・多雨の東海気候型を呈し、ミカンや茶 位 か静岡 ( 県 ) しすおか など暖地性植物の栽培の条件を与えている。しかし垂直的に お 人人人人 0 0 8 2 0 LO 、 1 2 0 は、日本最高地点の富士山頂の寒冷な気候から、太平洋岸の 〔自然〕地形 / 気候 行 E 立 ィー E 人 円 - -0 ・ 4 0 11 し -4 ワ t---—ワ尸 0 1 人 -0 戸 0 黒潮に洗われる沿岸部までの比高の大きさが気候にも反映し 〔歴史〕先史・古代 / 中世 / 近世 / 近・現代 -8 一ワ】立 4 ・・イい . の 6 の 7 8 8 6 7 人人の ウ 11 、 1 《 0 11 11 玉 9 2 . 国 ている。たとえば富士山頂の年平均気温は零下六・五度 0 、 国国 〔産業〕農業 / 林業 / 水産業 / 鉱業 / 工業 ョ 7 全 5 全 《 0 っ 男女 3 男女 チ御前崎一六・二度 o で、その較差は二二・七度 o となる。南 「開発〕 イウ 年年年年年市ジセコ 年 年 伊豆は無霜地帯となっており、静岡など沿岸部の積雪も珍し 「交通〕 -0- LO -0- ワ】 岡ックン 1 ー亠 1 ー 4 1 よ、ー 4 静ッモサ い現象となっている。しかし、遠州灘沿いは冬の李節風がか 〔社会・文化」教育文化 / 生活文化 らっ風として吹き、防風林をもっ集落景観や海岸砂丘の発達 「伝説〕 地 度 得在 にも関係している。降水量は梅雨と台風の時期にピークをも 数 密 所所 ずするが ロ 帯 民庁花木鳥 っ太平洋岸式気候の特色をもち、県域の年平均は約一一四〇〇 中部地方南東部の太平洋岸に位置する県。伊豆、駿河、 県県県県県 人 世 面人 とおとうみ おまえギ、き あかいし '. に達する。この豊富な水資源は電源開発や森林資源の育成 遠江の三国から成立。南端の御前崎から北端の赤石山脈間 ノ岳までの南北約一一、 、伊豆半島東岸から愛知県境まで増加率も高いが、伊豆や北部山間地域の減少傾向は継続しての背景となったが、気象災害も多く、狩野川台風 ( 一九五 0 な 〈北川光雄〉 ど土地条件と相まって大きな被害を与えた。 の東西約一五五キロであり、面積七七七三平方キロを占めてい いる。一九八六年一月現在二一市一二郡四九町五村からな みつびただき しずはた る。 〔歴史〕〔先史・古代〕浜名湖の北、三ケ日町只本、浜北市 る。県名は、賤機山にちなんで静岡藩と改称した藩名による。 ねがた 根堅の石灰岩採掘場から更新世 ( 洪積世 ) 末期の人骨が発見 古来、関東と関西とを結ぶ交通路の通過地に由来する回廊〔自然〕〔地形〕地形や地質の構成は複雑で、地域差も大き あしたかさんろく され、三ケ日人、浜北人と称される。東部の愛鷹山麓から北 く自然景観の博物館ともいえる。そのような特色を形成した 性を現在でも脱皮できず、都市化や工業化の進んだ東海道メ いわたはら ガロポリスの谷間の区域にあたる。また富士山や赤石山脈と要因として、第一は、本州の中央部を南北に横断する地溝帯伊豆、中部の日本平、西部の磐田原で旧石器時代遺跡が発見 その前衛の山地が海に迫り、沿岸部の台地や低地が帯状に連のフォッサ・マグナの変動帯に位置し、地殻運動、火山活され、県内にはわが国でも早くから人類が住んだことがわか やすみば る。休場遺跡 ( 沼津市 ) は国指定史跡で、日本の細石器文化 続する地形的条件もこの回廊性を規定しているといえる。江動、活断層や地震の発生の多いことがあげられる。第二は、 いといがわ 戸初期に整備された東海道五十三次のうち一一一一宿が県内に含フォッサ・マグナ西縁にあたる糸魚川・静岡構造線と中央構の代表的遺跡である。縄文時代の遺跡は県内各地に分布し、 造線という一一つの重要な地質構造上の境界が県内を通過し、前半期の遺跡は富士・愛鷹山麓、北伊豆に、後半期の遺跡は まれ、その街道筋を中心に都市や生産が集中し、その東西交 ふくろい 流を基本に地域性が形成されてきた。また、東西二大文化圏水系や山系を規制している。第三は、海岸地帯から日本最高大井川流域から浜名湖周辺に目だっ。袋井、磐田、浜松にか しじみづか の接触・漸移地域であり、浜名湖周辺がその境界とも考えらの富士山、赤石山脈の山岳地帯までの高度差が大きく、波けては貝塚がみられ、浜松市の蜆塚遺跡 ( 国指定史跡 ) は 貝塚を伴う集落遺跡として有名。狩猟、採集、漁労の場は広 れてきた。現在では行政や経済的には名古屋との結合も強く浪、河川、雪や氷など各地に対応した営力が作用してきた。 かの やよい がり、墓や装身具に変化がみられるようになった。弥生時代 なり、中部圏に位置づけられるが、南北方向の交通体系が遅第四は、豊富な降水量が狩野川、富士川、安倍川、大井川、 せんにゆう 天竜川など急流河川に流出し、上流の峡谷や穿入蛇行、下は稲作と金属器の普及をみ、木製農耕具は著しく発達した。 れ、その一体性は欠けている。 とろ たがた くわたげた 東西に延びる県域は、南流する諸河川によって分断される流部に田方平野や静岡平野などの扇状地や三角州を形成させ登呂遺跡 ( 特別史跡 ) からは木製の鍬や田下駄が出土し、水 いわたはらみかた あんきょ が、富士川と大井川を境として東部、中部、西部に三区分でた。第五は、沿岸部の隆起運動により牧ノ原、磐田原、三方路・暗渠を備えた水田跡は、稲作技術の高水準を示してい おがさ にらやま めまづ る。沼津市の沢田遺跡、韮山町の山木遺跡でも水田跡が発見 きる。生活圏もほばこの区分に一致してまとまり、沼津と富の各台地、小笠山、日本平の各丘陵地が発達し、海岸沿い どう しみず され、県内各地に登呂のようなムラが営まれた。静岡県は銅 士を核にする東駿河湾 ( 岳南 ) 地域、清水と静岡を核とするの砂丘を形成するもととなった。このような地形的特色は、 たく 鐸文化圏の東限で、出土は遠州に限られる。型式は三遠式で 静清地域、大井川以西はやや分散する核をもつが、浜松はそ美しい自然の造形を示し、重要な観光資源を提供している。 自然公園には、雄大な富士山と温泉地帯の伊豆半島、さら近畿式と異なる特徴をもち、独自の文化を育てていたことが の中心となる。伊豆半島は独自性をもっ特異な存在である あたみ みしま しもだ に箱根の一部を含んだ広い地域で、四季を通して美しい景観知られる。 が、南伊豆は下田、東伊豆は伊東や熱海、西伊豆は三島や沼 をみせてくれる富士箱根伊豆国立公園や、赤石山脈に属する 県下には大小多数の古墳が八世紀まで築造された。磐田市 津との結び付きが強い。 ちょうしづか しようりんざん ひじり やつやま 人口は、現在約三五七万であるが、明治初期には九〇万、聖岳、赤石岳、荒川岳、塩見岳など重厚な山々が連なり登の銚子塚古墳 ( 国指定史跡 ) 、松林山古墳、静岡市の谷津山 第一回国勢調査の行われた一九二〇年 ( 大正九 ) には一五五山愛好家のあこがれの的となっている南アルプス国立公園、古墳はそれそれ全長一〇〇を超す大型で、松林山古墳は東 たてあな さらに、佐久間、秋葉の両ダムと天竜渓谷の自然がこよなく 日本の代表的古式古墳で竪穴式石室をもつ。古墳や副葬品か 万、二〇〇万人を超えたのは一九四〇年 ( 昭和一五 ) で、一 調和して美しく、とくに初夏の新緑と秋の紅葉がみごとな天ら、被葬者は地方の有力豪族あるいはクニの首長の地位の者 九二〇年から一九八五年の間に約二・三倍になったことにな やまと おくみかわ る。産業別人口構成では第一次、第二次、第三次ともいずれ竜奥三河国定公園がある。また、県立自然公園には浜名湖、で、大和政権とのつながりが考えられる。古墳の分布と『国 なだ ぞうほんぎ とおつおうみ 造本紀』の六か国が比定され、遠淡海国は浜名湖周辺、久努 も全国平均値に近い値をもつ。人口は東海道沿線に集中して日本平、奥大井、御前崎遠州灘の四か所がある。 章 県 がくなん は まき 0
しこっこ 人至朝里 I.C 札樽自動車道 支笏洞爺国立公園 \ 市 . ティネハイランド ゾ札幌国 . スキー場 ノスキー場 女鱒岳・ 小金湯温泉 定山渓温泉 無意根工 ム岳 ' 。、田郡 △「 4 いわみざ 林至、庭¯• 0 平川 奪 1 、引 恵庭市 狩庁漁月ム 、別岳ー 休暇村 〕、心馴物 . 留 中荘 イ中峠 . オコタンペ測ト、 ・オコタン 0 登 美笛ー 36 貫気別亠 ′青原 △ 994 / ・。三滝 . 、・ ' 白老滝 に徳程ま山 ホロホロ荘 ・洞爺 きたゆざわ ! ・ . / ・・を北湯沢温泉・ ・渓みギー場 ~ 仙台藩陣 林博蟠渓温物 胆「振支 白老アイメ 弁景滾泉 フレ峠・ ・を・白老 オはノ \ / 、カル丿以温泉 支笏測 おしやまんへ 樽前 、ノ△ 虻田郡・・ 至長万部おしやまんべ リーなどの病的状態の際も、こ急崖をつくり、静寂な趣を残している。一九 のタイプの思考がしばしば生じ七二年 ( 昭和四七 ) の札幌オリンピックのと る。道徳的な意味での利己主義き、北壁の恵庭岳が滑降コースになり、湖岸を かで とは異なる。 〈天野清〉決勝点としたが、その後撤去された。北側の湖 まるこま 彡胡 ゅうしゆっ しこっこ北海道南西岸に、伊藤、丸駒、オコタンの温泉が湧出し、 支笏湖 ちとせ 部、千歳市西部にある標式的カ湖上遊覧船で湖畔の基地と結ぶほか、湖畔道 方タ あかん ルデラ湖。周囲四〇キ。、面積七路、支笏湖国道などが利用される。阿寒湖から 真オ 写は 七・三平方キ。、水面標高二四八 移入されたヒメマスの養殖が成功し、夏のチッ 、最深部三六〇・一で国内プ釣り ( ヒメマスのアイヌ名 ) が名物になって 笏れ 〈奈良部理〉 支ま第二の深さをもち、冬も結氷し カよ で囲 ない。約三万年前のビュルム氷 囮二万五千分の一地形図「湖畔」「樽前山」「恵 きせ 噴林 期に大火山活動があり、その軽 庭缶」「風不死岳」 川とさ の生 うまおい の少る しこっと , つやこ / \ り・つャ ) , っ いー ) い・ 、ぶりしりべし 6 減す 石流は札幌市南部、馬追丘陵東支笏洞爺国立公園 を用 部にまで及んでいる。この溶結 えん北海道南西部、石狩、胆振、後志の三支 山手 日さ作 凝灰岩の噴出により、円形のカ庁にまたがる国立公園。面積九八三・三平方 状る ルデラができたが、その後、北 一九四九年 ( 昭和二四 ) 指定。火山地形をし、大きければ負になって物体を減速する ( 図 鐘れ ふつぶし じようぎんけい のばり・ヘつようてい のる部に恵岳、対称地点に風不死基盤とし、支笏湖定山渓、洞爺湖登別、羊蹄参照 ) 。ある時間力を加え続けたときの効果は、 たるまえ ぎん 中と缶、樽前山が噴出し、繭型の湖山の = 一地域からなる。前二者は新旧火山活動のと物体の動いた距離の積で表される。が一 写 0 岸とな 0 た。東側のカルデラ壁組合せ、後者は各種型式の火山の組合せ、これ定でないときには、物体の軌道を細分して、短 を破って千歳川が流出し、その に著名な温泉を伴って北海道でもっとも多くの 園変 い区間ごとにそのときのと動いた微小距離ホ 出口付近に狭い平地があって、観光客をひきつけている。 の積を求め、それを加え合わせれば ( 積分すれ 立形も みやげ 国繭り観光ホテル、土産物店、バスセ 支笏湖は古い火山活動による陥没で生じたカば ) よい。これを力が物体にした仕事とよぶ。 爺らよ 洞か湖ンターなどが立地するが、大部ルデラ湖、海面下に達する深さと透明度の高い 運動方程式を用いると、物体に働くすべての 笏形笏 支円支分はカルデラ壁が水面に迫ってことで知られ、ここで釣れるチップ ( ヒメマカの合力のする仕事は、物体のもっ運動エネル たるまえ ス ) が名物。周囲の恵庭岳、樽前山は新しい火ギーの変化分に等しいことが導かれる。物体の レ」 6 - 」聿 6 い 山で支笏湖に変化を与える。定山渓は古い温泉質量を供軌道上の点と点における物体の で、札幌に近い有利さをもつ。洞爺湖は支笏湖速さを広、とすると、 < からまでの間にカ と同じカルデラ湖で、中央にある火口丘の中島のした仕事は が単調性を救う。南には現在も活発な火山活動 うすぎん Ⅱー 2 こ、、ーー当ま A を示す有珠山、畑地に一九四四年 ( 昭和一九 ) 爆発出現した昭和新山など話題も多く、学術的となる。↓運動エネルギー にも貴重なうえ、湖畔の比較的新しい洞爺湖温 物体。 こいくつかの力が働いているときには、 泉とともに観光の中心地。こことオロフレ峠の合力だけでなくそれそれの力についての仕事を 道で結ぶ登別温泉は、湯量や湯種の豊富さで知考えることができる。たとえば地上で物体を手 さんろく られる古い温泉地。富士山型の羊蹄山は山麓にで持ち上げたり運んだりするときには、手が物 ゅうしゆっ 各種火山地形と多くの地下水湧出地をもち、体にする仕事と、重力が物体にする仕事とを合 登山やスキー客が多い 〈柏村一郎〉 計したものが、運動エネルギーの変化高に等し じこっぴ 0 クコ 地骨皮 手でゆっくり持ち上げるとき、手は正の仕 仕事 しごと運動の法則によれば、カが物事をしているのに運動エネルギーが増さないの 体に作用するとその速度を変化させる。べクト は、同時に重力が負の仕事をしているからであ ルとしての力を各瞬間ごとに、物体の運動の方る。鉛直上向きに 2 軸をとると、点から点 向 ( 速度の方向 ) の成分とそれに垂直な成分までの間に重力のする仕事は、重力加速度を 9 とに分けて考えると、んは速度の大きさ ( 速として、きを一ーきを = と表され、 22 のほうが高 さ ) を変え、は速度の方向を変える働きをも ければこれは負になる。手が物体にした仕事と つ。力の方向と速度の方向との間の角を〃とすこれとの和が運動エネルギーの変化高に等しい ると、 Ft=Fcos0 と表されるので、〃が九〇が、ゆっくり持ち上げて置いた場合には広もレ 度より小さければこれは正になって物体を加速もなので、結局手のした仕事はミを B ー、ミ あし、 、△日新む 。伊達 ( い老川 原始林 てもれ′べつ・ の一ま 0 中稀府・鷲別岳癶別 ・凍蝦夷藩 = 別 北太平洋 140 。 142 。 登別川 内浦湾 ( 玳火湾 ) ろ室 10km 地球岬 1 : 8 〇 0. 〇〇 0 きゅうがい おもむぎ ポール ポール 〃く 90 。のとき , 力は速 さを増すように作用す 710
さんかく 三角州 / 地形と内部構造 後背湿地 潟湖 分流路 静水域 基盤岩 沼沢 前置層 自然堤防 底置層 頂置層 前置斜面 底置斜面 木曽川河口付近の三角州。右に木曽川 , 左に揖斐川が並んで伊勢湾に流入し , 低平な三角州 が広がる。木曽川の東は愛知県の鍋田干拓地 , 西は三重県長島町の干拓地が , それぞれ堅固 な堤防に囲まれている。このあたりは , 伊勢湾台風の被害が大きかった。遠景の岐阜県境の デルタは「輪中」の発達する地域である ③ 基盤岩 注 : ギルバート原図を参考に筆者改変 種類 ①円弧状三角州 ( ナイル川 ) ②カスプ状三角州 ( テべレ川 ) ③鳥趾状三角州 ( ミシシッヒ。川 ) ① ② アメリカ合衆国 イタリア ポートサイド アレッド 農業地域の限界、 一丁 ・ / ・エジプト やカイロ メキシコ湾 リビア砂漢 すれすれの水準にあるため、きわ大河川の下流部には、広い三角州が形成されて めて低湿で、しかも勾配が緩やか いる。東京、大阪、名古屋などの大都市は、こ 3 で、河川は分岐しつつ蛇行してい れら諸河川のデルタ上に立地している。木曽川 わじゅう る。河川の両側には、自然堤防と下流には、集落ごとに洪水を防ぐ輪中堤防 ( リ よばれる土砂堆積の高まりがみら ング状堤防 ) が発達する。また、筑後川下流に れる。この微高地の間には、後背は、排水や水利用のクリーク ( 溝・水路 ) に代 湿地とよばれる湿地・沼・三日月表される水郷景観がみられる。しかし、急流河 湖・潟湖などの占有する広大な低 川の多いわが国では、粗粒な砂礫が河口部にま 湿地がみられる。また、冷涼な地で供給されるため、扇状地状デルタとよぶ扇状 方では、泥炭地が広く分布してい 地に類似した乾燥土性の三角州が発達すること る場合が多い。海岸線付近には、 が多い。天竜川 ( 静岡県ほか ) 、大井川 ( 静岡 砂州や砂丘がみられる。洪水時に県 ) 、常願寺川 ( 富山県 ) などの下流平野は、 自然堤防が破堤すると、その切断このような型の地形である。 箇所から新たなデルタがつくられ 〔三角州の利用〕洪水のたびごとに三角州の上 ひょく たり、低湿地に粘土が堆積したり に河川によって運搬されて沈積する肥沃な土 する。 は、農業の発展の大きな原動力となった。その 〔三角州の内部構造〕三角州は、 ため、ナイル川三角州や西アジアのティグリ シルト ( 泥 ) や粘土からなる底置ス・ユーフラテス三角州は、古くから優れた農 層、砂の卓越する前置層、および業地帯であり、輝かしい文明の発祥の地ともな 細粒の砂やシルトからなる頂置層ってきた。日本においても、水田農業が三角州 からなる。河口より沖合いの三角上に発達し、多くの農業人口を支えてきた。と 川前縁部にはやや急な前置斜面が くに、河口付近の浅海の三角州は、近世以降の へいたん あり、その沖の海底には平坦な底干拓や、明治以降の埋立てによって陸化され、 置斜面が認められる。海岸地帯の陸上の交通機関、水路・港の整備によって、農 三角州は、完新世 ( 沖積世 ) の海業のみならず、商工業の充実を招き、都市化す 進・海退の影響を受け、貝殻片混るに至っている。 じりの海底層や河成の地層の互層 他方、土地が低湿で、洪水の害や高潮の害を からなることが多い 受けやすいことや、地盤が軟弱で、地下水の過 〔三角州の種類〕平面形から三角剰揚水を原因とする地盤沈下などが懸念される 州を分類すると、四つに大別され 問題である。 〈豊島吉則〉 る。①アメリカ合衆国のミシシッ さんかくすたいせきぶつ河口 三角州堆積物 ピ川の河口にみられるような鳥趾の三角州で形成される堆積物をいう。斜交層理 れき 状三角リ 羽、②イタリアのテべレ川 を示す砂岩層や泥岩層・礫岩層などで特徴づけ の河口にみられるカスプ状 ( 尖状 ) られる。三角州 ( デルタ ) は地形用語としては 三角州 ③エジプトのナイル川河海面上の部分のみをさし、三角州堆積物は海面 ロ部に代表される円弧状三角州、 下の堆積物を含めた全体をいう。三角州堆積物 さいせつ ④フランスのセーヌ川やイギリスは、河川によって運ばれてきた大量の砕屑物 のテムズ川河口にみられる、ラッ が、波や潮流で運び去られないときに形成され ハ状の幅広い入り江状地形に形成る。大規模な三角州では、厚い堆積物のため される三角江三角州、などであ に、アイソスタシーで地殻が下方にたわむこと る。また、三角州が隆起したものが知られている。 は隆起三角州、海面下に沈降した 三角州堆積物は、頂置層、前置層、底置層の 地 ものは沈水三角州とよばれる。 三層に分けられる。頂置層は海水面付近の傾斜 しなの 低 下〔日本の三角州〕信濃川 ( 新潟の緩い地層であり、前置層は頂置層の前縁に 地面 湿海県 ) 、江戸川 ( 東京都・千葉県 ) 、ある程度海洋側に傾斜して堆積する地層であ きそ よど 木曽川 ( 三重県はか ) 、淀川 ( 大る。底置層は前置層のさらに海側に緩い傾斜で 阪府 ) 、筑後川 ( 福岡県 ) などの堆積する地層である。砕屑物がさらに供給され 5km 5 km 10km 毎 せきこ きれき