発展 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 10
468件見つかりました。

1. 日本大百科全書 10

〔生活革命〕産業革命は綿工業から起こってくる。どうして産は飛躍的に増大した。その中心は南ウェールズ、バー 産業革命がヨーロッパの伝統的産業である毛織物工業からでガム周辺の中部地方およびスコットランドである。また機械 はなく、ヨーロッパにまったくなじみのなかった綿工業から工業においては、従来の時計工業、水車・馬車製造業におけ ・モーズリーおよ 起こってくるのか。その歴史的背景として、一七世紀後半にる伝統的技術を受け継ぎながら、ヘンリー おけるイギリスのアジアとの接触、それがもたらした生活革びその三人の弟子リチャード・ロバーツ、ジェームズ・ナス 命に注目する必要がある。 ミス、ヨゼフ・ホイットワースらによって、精度が高く自動 当時のアジアは豊かで、優れた文化が栄えていた。茶、陶化された旋盤や工作機械がつくられるようになり、一八三〇 磁器、絹、綿布などはヨーロッパ人のあこがれの的となった年以降には機械による機械の大量生産体制が確立した。 が、なかでもイギリス東インド会社がもたらした美しく染色〔鉄道の出現〕産業革命の技術的、生産力的成果の総仕上げ したインド・キャラコは、イギリスをはじめヨーロッパ人のは鉄道の出現である。鉄道の初期の歴史は石炭輸送をもって 尸に新奇なファッションとして人気を集め、一種の衣料革命始まったが、スティープンソンの発明した蒸気機関車は、そ を引き起こした。綿布はドレスのほか、べッドのシーツ、カの速度と能率において画期的な成功を収め、鉄道時代を迎え ーテンにも利用できるため、綿製品に対する需要が庶民の Ⅲるに至った。まず一八二五年には石炭を炭坑から水路まで運 に急速に広がった。その需要にこたえて、インド綿布に太刀ぶストックトンーダーリントン鉄道が開通し、ついで三〇年 にはマンチェスターーリヾ 打ちできる綿製品の製造が、一八世紀初めのイギリスの国民 ノブール鉄道が開通して商業的成功 的課題となった。原料の綿花は西インド諸島においてアフリ を収めた。その成功に刺激されて鉄道網は急速にイギリス全 カ奴隷を労働力とするプランテーションで栽培されたが、綿土に拡大し、産業資本循環の大動脈を形づくるとともに、国 工業それ自身は、イギリス本国と西アフリカと西インド諸島内市場が一挙に広がった。 て西ヨー を結ぶ三角貿易で栄えていたリバブールへ原綿が輸入された イギリスに始まった鉄道建設は、すぐそれに続い 事情もあって、リバブールの後背地マンチェスター周辺で始ロッパ諸国やアメリカ合衆国において急速に進められるとと まった。綿工業を推進したのは、旧来の支配階級であった地 もに、一九世紀中ごろ以降になるとインド、ラテンアメリカ 主や伝統的織物業者ではなく、主として商人およびヨーマン諸国など後進地域へも鉄道が広がり、鉄道はまさに産業文明 とよばれる農民であり、その多くは宗教的には非国教徒で、 のシンポルとなった。こうして世界の鉄道総延長は、一八四 国家の援助もなく、自助の精神で企業家になった人たちであ七年には二万五一〇〇キロであったのが、五七年には八万二八 つつ ) 0 〇〇キロ、六七年には一五万五七〇〇キ。へと飛躍的な発展を遂 経過 鉄道建設のためには、莫大な資金、建設資材、技師、労働 〔綿工業が主導〕こうして産業革命は綿工業から始まった。者を必要とするが、これらすべてを自給できたのはイギリス とびひ だけで、大陸諸国、アメリカ合衆国、未開発諸国において 綿工業における機械の発明は、ジョン・ケイの飛杼の発明 ( 一七三三 ) から始まり、紡績部門ではハーグリーブズのジェ一一は、初期の鉄道建設にあたって、資金、レール、機関車、建 設技師など、なんらかの形でイギリスに依存したのである。 ー紡績機 ( 一七六四 ~ 六七 ) 、アークライトの水力紡績機 ( 一七六九 ) 、 クロンプトンのミュール ( 一七七九 ) 、ロバーツの自動ミュール、 しかし先進資本主義国においては、鉄道建設。フームは、ロス ) の発明によ トウのいうティク・オフのための主導部門を形成し、鉄道主 織布部門ではカートライトのカ織機 ( 一七会 ~ って、蒸気力を動力とする機械制工場生産が確立した。その導型の産業革命を引き起こすことで自立的国民経済の形成に 中心はマンチェスターおよびグラスゴー周辺であった。綿工著しい役割を果たした。一方、後進的農業諸国における鉄道 業の発展は、鉄工業、石炭業、機械工業といった関連諸産業の導入は、かならずしもティク・オフへの契機にならなかっ たばかりか、かえってイギリス資本への従属を強める結果を の発展を促し、石炭と鉄の時代を現出した。 もたらした。 よ鉄工業における技術革新で注目すべきは、銑鉄生産過程に キ、おけるエイプラハム・ダービー一世によるコークス炉製鉄法 政治の変化と世界経済の支配 ん ( 一吉〈こしと、鍛鉄生産過程におけるヘンリー・コートのバ 六、ドル法 ( 一天三 ) である。とくにバドル法の発明によって鉄生〔自由主義経済体制へ〕産業革命は単に経済構造の革命的変 ばくだい 産業革命 / イギリス産業革命年表 一七六〇このころエンクロージャー盛んで、中産農民没落 ワースレイ炭坑ーマンチェスター間に運河開通 ーグリーブズ、ジェニー紡績機発明 ( ー六と 一七六四 ハプール間に運河完成 一七六七マンチェスター 一七六九アークライト、水力紡績機の特許を穫得 一七七九クロンプトン、ミュール紡績機を発明 ワット、 複動式蒸気機関 ( 動力機 ) を発明 ト、パドル法を発明 ( 、八四 ) 一七八五カートライト、カ織機を発明 ( 、八七 ) 一七九〇運河狂時代 ( 九〇年代初め ) ・モーズリ 、旋盤を発明 一七九七ヘンリ 一七九九「団結禁止法」 ( ー一八 00 ) 最初の「工場法」制定される 一八〇四 トレビシック、蒸気機関車を発明 ラダイト ( 機械破壊 ) 運動 ラダイト運動激しくなる 一八一三東インド会社、茶以外のインド貿易の独占権廃棄 される エリサベス「徒弟法」の廃止 ( ー一四 ) 一八一四ジョージ・スティープンソン、蒸気機関車試運転 一八一五「穀物法」発布 ラダイト運動再発 一八一九「工場法」九歳以下の児童の雇用を禁止 ピータールー」唐板事 . 件 一八二四「団結禁止法」撤廃される 一八二五ストックトンーダ . ーリントン間に鉄道開通 労働組合承認される 恐慌起こり、銀行、会社が多数破産 ロヾーン、自動紡績機を発明 バブール鉄道開通 一八三〇マンチェスター このころマンチェスター ガムなどの新興工業都市の人口一〇万人を超える 一八三二選挙法改正法案成立 一八三三東インド会社、中国貿易を開放 「工場法」工場監督官制度を採用 一八三四「救貧法」改正。全国労働組合大連合結成 一八三七恐慌起こる 一八三八チャーティスト運動始まる 一八四一一鉱山における婦人、幼年者の地下労働を禁止 第二回チャーティスト運動。中間恐慌起こる 一八四一一一機械輸出解禁 一八四四「工場法」九ー一八歳の労働時間を一日一〇時間に 制限。鉄道熱 ( ー四六 ) 一八四六 「穀物法」廃止 一八四七恐慌起こる。一〇時間法通過 一八四八第三回チャーティスト運動 一八四九「航海条例」廃止される ロンドン万国博覧会 一八五一 357

2. 日本大百科全書 10

さんきよ さんぎよう industry モノ ( 物的財という一連の機械装置を備えた工場制度を確立 4 産業 貨 ) やサービスを生産する経済活動の単位であさせた。大量生産される安価な商品の登場によ 3 り、人々が生計を維持するために従事する生産って、経済発展の原動力は農業から工業に移行 的活動のことである。農林漁業、鉱業、製造し、機械工業の発展はその素材部門としての鉄 業、公益事業、運輸・通信・倉庫業、建設業、鋼産業、エネルギー部門としての石炭産業、輸 商業、金融・保険・不動産業、その他のサービ送手段としての鉄道・船舶とその製造業を急激 ス業など、社会的分業として遂行されるいっさ に発展させることとなった ( 産業革命 ) 。産業 いの経済活動を含む。 活動の中軸をなす物的生産の発展は、物的流通 〔歴史〕人間は自己の生命を維持し、その集団を拡大し、その他の関連産業やサービス業に多 を維持・拡大 ( 繁殖 ) することによって歴史を岐にわたる分業体系のネットワークを押し広 つくりだしていく。その基礎となるのは、人間 げ、産業活動全体を活性化させ、経済発展の原 が特定の目的意識を有する労働 ( 人間的労働 ) 動力となった。 によって、その労働対象である自然に対して、 〔産業分析〕産業活動の発展は、①その生産水 各種の道具や機械など労働手段をもって働きか準の上昇など量的拡大の側面と、②産業構成あ け、その生活に有用な物的財貨を生産すること るいは産業構造の変化という側面から考察する である。人間労働と労働手段の組合せによってことができる。①に関していえば、生産活動の 形成される生産方法は、長期にわたってしだい 発展がなによりも物的生産の増大となって現れ に前進、発展してきた。労働手段が石器、木器るので、産業活動指数、鉱工業生産指数、労働 などに依拠していた段階では、人間は、一定の生産性指数などの統計や、工業統計表や個別業 生活空間を移動しながら、自然に存在する鳥獣種の動態統計、在庫統計、生産能力指数および 魚貝草木石などの産物や素材を採集し、それを稼動率指数、企業経営の諸指標に関する統計な 調理・加工することによって衣食住を確保しな どが利用できる。 ければならなかった ( 移動狩猟採集経済 ) 。人 産業活動の発展は、産業全体における各種産 間が自然条件に恵まれた所で定住生活 ( 定住狩業の比重やそれら産業間の組合せ ( 産業構造 ) 猟採集経済 ) に移ると、自然条件 ( 生態系 ) のを変化させる。産業構造の変化を調べたり、外 差異を有する人間集団の間で採取した物資の交国の産業構造と比較する場合、一定の基準に基 換が行われる。農耕が始まり、家畜の牧養が始づいて作成された産業分類が必要であるが、わ 〈中村清司〉 八五 ) 。国内に七工場。 まると、人間集団の定住性が高まり、牧畜の延が国では、国連の国際標準産業分類を基準にし しかも小プルジョアジーのみを基盤とするアン ようす・一う さんきよう / サンシャ中国、揚子江長上に遊牧という特殊な生活様式を有する人間て、日本の経済と産業構造の特質を加味して作 ラジェ ( 過激派 ) やエ・ヘール派といった分派が三峡 しせん 生まれ、独裁の必要上これらを抑えざるをえな ( 長江 ) 上流部にある大峡谷。四川省東部の奉集団が誕生する。食糧の採取段階から育成段階成される「日本標準産業分類」があり、産業構 ギ一しよう せつ 造の変化や新産業の出現に応じて、産業分類の くなったため、九四年七月の「テルミドールの節県白帝城から湖北省西部の宜昌市南津関まへの移行は、人間生活の安定度を急激に向上さ で、全長二〇四キ。にわたる。奇岩、怪岩、巨峰せた ( 食糧生産革命 ) 。生産用具の加工を中心 新設や統合が行われている ( 「標準産業分類」 反動」でプルジョアジーが反撃に転じたとき、 くとう 〈樋口謹一〉 が連なる景勝地で、上流から瞿塘峡、巫峡、西とする手工業生産も、鉱物資源の利用 ( 銅、青 の項参照 ) 。このはか、産業構造の分析目的に もろくも敗退することとなる。 りよう だいは 三共 ( 株 ) さんきよう製薬会社。創業者塩原陵峡の三峡谷に分かれる。揚子江が大巴山脈、銅、そして鉄 ) とともに発展し、動物性食糧、応じて、いろいろな分類が行われる。 だいろう はちめん 産業構造の変化を時系列でみたり、外国の産 又策 ( 天七七ー一九五五 ) が友人二人と共同で一八九大婁山脈、八面山脈などの石灰岩山地を刻んだ植物性食糧、手工業原料・製品の交換・交易を 九年 ( 明治三一 l) に三共商店を設立、高峰譲吉峡谷で、両岸は絶壁をなし河流は急で暗礁が多基盤に、農業、工業、商業の分化が本格化し業構造との横断的比較のために利用されるの いため、古くから揚子江水運の難所。現在では た。この分業関係の発展と交通・運輸手段の開が、イギリスの経済学者 0 ・クラークによって の発見したタカジアスターゼの輸入販売を開 始。一九一二年 ( 大正一 ) には鈴木梅太郎が世河道が整備され定期船が就航し、「三峡下り」発は、産業活動の多様化を促進し、人間の生活行われた三大分類である。彼は、産業全体を第 界で初めて発見したビタミン、オリザニンを製の名で内外の観光客を集める。物資の輸送路と内容を高める役割を果たした。その集約的到達一次産業 ( 農林・水産、牧畜狩猟業 ) 、第二次 ひきぶね 品化した。一三年に三共 ( 株 ) を設立、第一次して貨物船、曳船の航行も多い。瞿塘峡の白帝点としてのいまから五〇〇〇年前の都市文明の産業 ( 鉱業、製造業、建設業、電気・ガス・水 ぎゅうかんばは、 誕生 ( 都市革命 ) は、人間集団における本格的道業 ) 、第三次産業 ( 商業、金融・保険、運 世界大戦下の薬品輸入の途絶期に、相次いで新城、巫峡の巫山十二峰、西陵峡の牛肝馬肺・ 〈青木千枝子〉 な階級社会の成立でもあった。 輸・通信、公務、家事使用人労働、その他サー 薬の国産化に成功した。第二次大戦後は五一年兵書宝剣などの名勝がある。 産業活動が急激な発展をみせるのは、機械に ビス業 ) に分け、国民経済の発展につれて、労 ( 昭和二六 ) に抗生物質クロロマイセチンを国三峡 ( 省 ) さんきよう / サンシャ中国中部、四 せん よ、つすこう ・湖北両省の揚子江流域に、一九八六年新設 よる工業生産の開始と動力源の転換である。一働人口と所得の比重が第一次産業から第二次産 産化、六一年には活生ビタミン剤「ビオタミ された省。人口約一八〇〇万。省都は湖北省の 八世紀後半の綿工業における機械制生産の開始業へ、さらに第二次産業から第三次産業に移動 ン」を発売している。アメリカのバーク・デー ぎしよう 宜昌市。↓四川 ( 省 ) ↓湖北 ( 省 ) は、人力、畜力、水力にかわる動力源としてのするという歴史的な傾向があることを統計的に ビス社、デンマークのレオ社など有力メーカー ) さんきよう 蒸気機関の開発を促し、動力、伝動機、作業機立証した。この傾向を日本についてみると、図 との提携も多い。資本金は約二一三億円 ( 一九 三卿さんきよう 0 御三卿 三峡三峡下りの入口にある瞿塘峡。李白の「朝に辞す白帝彩雲の問・・ の詩で有名な白帝城がある

3. 日本大百科全書 10

さんきよ 産業革命 / 経過 18 世紀イキリスにおけ る産業革命は綿工業か ら始まった。各種の枋 績機か発明されて機械 制工場生産か確立し , それは鉄工業 , 石炭業 , 機械工業の発展を促し た。やがて鉄道が出現 して速度と能率を高め , 市場が一挙に広がって 産業革命の完成をみる ~ 第ゞ 都市の生活環境と社会の変化 産業革命は多数の労働者を ⑤イギリスの炭鉱で した彼らはスラムに沈み , 石炭車を引く少年と 劣悪な労働条件と貧困な生 少女。産業革命初期 活環境のなかで , 「彼らの人 には婦人 , 子供も過酷ミ、 問性の最良の部分を犠牲」 な労働を強いられた ( F ・エンゲルス ) にされ 若くして死め者も多かった。 ⑥富める者と貧しき 一方 , 産業プルジョアジー 者。産業革命による の勃興と社会矛盾の発生は 資本主義の確立は , 政治・労働運動となってイ 中・上流階級と貧し ギリス社会を揺さふった い労働者階級を生ん ⑦ ) ロンドンのスラム 街ギュスタープ・ ドレ画 1872 年 ⑧チャーティスト運 動。普通選挙権を要 求する群集を銃と貔 棒で弾圧する車隊と 警官。絵入口ンドン新 聞 1842 年 8 月 20 日 ①アークライトの改良 型水力紡績機 ( 1775 年 ) ロンドン科学博物館 ②イギリス綿工業の中 心、 , ランカシャーの紡 績工場 ( 1830 年ころ ) 。 梳綿 , しの綿など最初 の工程を行っている。 機械は水力または蒸気 機関で運転され , 動力 がベルトで伝動されて いる ③製鉄所の内部。産業 革命は製鉄の技術革新 で発展した バリ国 立図書館 ④グラスゴー近郊の鉄 道駅の風景 ( 1832 年 ) 。 すでに貨物列車が輸送 に活躍している。ロン ドン科学博物館 359

4. 日本大百科全書 10

、もい , っ に一九三〇年代以降、今日の産業社会を産業構 いう著作のなかで初めて体系的に論じている。 それが、ほば同一の重化学工業化率にもかかわ 2 よ 産業広告と消費財広告とは次の点で異なる。 造的な視点でとらえるようになってから、本格ホフマンは、「工業化」とは迂回生産が進むこ らず、工業の生産性では大きな遅れとなってい ①生産財の購買にあたっては、事業所の多数の的にこの分野の研究は発展してきた。 とであると主張した。迂回生産というのは、直る。したがって加工、組立ての産業のウェイト ん 人々の決済で行われることが多い。したがっ 〔研究の広がり〕その際に、もっとも基礎的な接に最終目的の製品をつくるのではなく、そのを高めていくこと ( 高加工度化 ) が、これからの て、個人的な満足感で求める消費財と違って、分析と考えられているのは、 o ・クラークの分ための製造設備などの資本財をつくり、それらわが国の産業構造の変化の方向であると彼は主 組織の人々に共通する満足感が必要とされる。析である。彼の主著である『経済進歩の諸条 の資本財を利用するという回り道 ( 迂回 ) をす張している。わが国の産業は、資源を大量に消 ②生産財の購入に際しては、事業所側では厳格件』 ( 一九四 0 ) は、産業を第一次産業、第二次産ることによって、生産性を高めるという考え方費する鉄鋼、化学などの産業が相対的に過大で な予算統制に基づいて行うため、消費財よりか業、第三次産業の三つに分類した <t ・フィッシである。したがって、ホフマンによれば、工業あるとの感じをもっていた者が多く、資源多消 なり長期間にわたって購入品の性能、品質、納ャーに倣って、世界各国の長期にわたる資料を化は、年々に生産される製造業製品の用途の変費型の産業構造といわれていたが、これを加工 期、価格などが多面的に検討される。③産業広分析し、次のような結論を引き出したものであ化を生み、消費財に対して資本財の比率が高ま度の低さとして明確にした点が大きな功績であ 告の目的とする商品の購買対象は、ある特定分った。すなわち、それぞれの産業の就業者数っていくはずである。このことから、彼は、消る。その後、産業構造を考える際には高加工度 野の企業、業種に限定されていて、ほとんどあは、経済進歩の進まない段階では第一次産業が費財産業と資本財産業との比をとることで、エ 化という分析視点が不可欠なものとなった。 らゆる層の人々を対象とする消費財広告とは異圧倒的に高い比率を占めているが、経済の進歩業化の度合いがわかると考えた。現実に彼が消 一九七〇年代になると、それまでの高度成長 なっている。④生産財の特性、買い手の特質、とともに変化を遂げ、ます第一一次産業の就業者費財産業と資本財産業とを分類するうえで採用を第一とする考えが反省される時期に入り、産 購買過程の特徴からみると、消費財に比べてパ の比率が増加し、やがて第一一次産業と第三次産した方法は、彼の本来の意図とは異なり、各産業を判断する基準がしだいに変わっていった。 ーソナル・セーリングの比重が高いので、セー 業の就業者の比率が増大して第一次産業の就業業の製品の用途がどの程度まで消費に向かい、 所得水準の上昇、環境問題の深刻化などがそれ ルスマンと協調態勢をとる必要がある。⑤産業者の比率は低下する。さらに経済が進歩するあるいは資本として使用されたかという基準をを促した。そこで生まれてきたのが、産業構造 広告の表現では、感清に訴え欲望を刺激する消 と、第二次産業よりもむしろ第三次産業の就業もとにしている。彼の方法は、産業連関分析がの知識集約化という発想である。これは、これ 費財広告と違って、理性に訴える説得解説型の者の比率がより大きくなり、就業者では最大の発達した現在の時点からみると、財の用途と産までの重化学工業化あるいは高加工度化という 商品広告と、企業イメージの創成をねらっての部門となっていくというものである。彼はその業の財の産出とを近似して行っていることから 議論とは発想の異なるもので、これからの産業 企業の方針、信用、哲学、主張などを訴える企際に、農業、製造業、商業という順に収益が高難点が多いとされている。彼が事実上分析しては、知識集約型の産業がしだいにウェイトを増 業広告とが併用される。⑥産業広告は、主対象まるという・ペティの法則を採用している。 いるのは、消費財と資本財の両産業の比ではな していかなければならない、 というものであ である専門技術者だけでなく、セールスマン、 なお、今日の産業の三大部門の分類と 0 ・ク 一種の重化学工業化率である。 る。具体的には、研究開発集約型産業 ( 航空 問屋、消費者に対しても、経済紙 ( 誌 ) 、専門 ラークのそれとは同一ではなく、公益事業など 製造業の内部の重化学工業化は、従来の軽工機、電子計算機、ファインケミカルなど ) 、高 紙 ( 誌 ) 、技術紙 ( 誌 ) 、ダイレクト・メール、 の扱いが異なっている。一般に産業の分類は、業 ( 食品、繊維などの諸工業 ) に対して、重化 度組立て産業 ( 数値制御工作機械、工場生産住 カタログ、ビデオ、映画、イベントなどの媒体それを使う目的によって最適なものが決まるの学工業 ( 鉄鋼、非鉄金属、機械、化学などの諸宅など ) 、ファッション産業 ( 高級家具、高級 を通じて訴求する。↓企業広告 〈島守光雄〉で、分析目的によって産業の組み替えなどが行工業 ) のウェイトが高まることを意味してい 雑貨など ) 、知識産業 ( エンジニアリング、コ われる。一般にはそれらの最大公約数として標る。しかし、重化学工業化比率の高さだけでエ ンサルティングなど ) の諸産業をより振興して 産業構造さんぎようこうそう industrial structure 一国の産業全体のなかでの産業間 準産業分類がつくられている。 業発展の水準を判断することは適当ではない。 いくことを内容としている。これは、産業の判 の関係をさす。その際に、対比される産業をど O ・クラークの分析は、比較的資料の入手が 一九六〇年代のわが国の重化学工業化率は、す断基準の変化に伴って、これまでは軽工業の分 のようにとらえるか、また何を基準として関係容易な就業者数を使っていることから、多数のでに、アメリカ、イギリス、フランスなどのい 野であるがゆえに軽視されがちであった家具、 を考えるかは、それを問題にする視角によって国について、長期間の分析ができることが利点わゆる欧米先進工業国と同一の水準となってい 衣料品、雑貨などのなかにも、所得水準の上昇 異なってくる。一国の産業全体のなかの産業間 となっている。しかしながら、就業者数の比率た。しかし、その時点でも、わが国とアメリカを背景にして、高級な、ファッション性のある の関係については、経済学の研究が進みだした は、産業別の所得水準が異なることから、厳密とは、工業の生産性において大きな隔たりがあ製品が十分に存在意義をもっことを指摘してい 当初から、優れた経済学者の頭脳のなかでは明 に産業の相対的な大きさを反映するとは限らな った。ここから、重化学工業化率とは別の、エる ( 軽工業製品の一部を再評価 ) 。また、一般 確に意識されていた。古くは重農主義者の・ 。また、経済進歩の結果として最大の部門と業水準を判断する基準が求められるようになっ的な高加工度化の傾向にもかかわらず、素材で ケネーが『経済表』 ( 一七五 0 において、地主階なる第三次産業については、そのなかに家事労てきた。製造業の部門を素材産業と加工・組立もファインケミカル ( 医薬品、高級接着剤な 級、生産階級 ( 農業 ) 、不生産階級 ( 商工業 ) 働に従事する者を含むことなどから、後進的なて産業とに分割し、その比をみようという試みど ) に象徴されるように、研究開発の成果を集 いである。 部分が進歩的な部分と同一の取扱いとなって の三者を区別し、その間の経済循環を論じてい 約したような製品はこれからも機会が豊かであ しのはら る。また、・マルクスが『資本論』第二巻るとの批判もある。さらに、産業を三大部門に 篠原三代平は、その論文「加工度からみた産ることを示している ( 素材産業の一部の再評 ( 一会五 ) のなかで再生産を論じている際の第一分割することによって、産業の大きな変化は把業構造の一視点」 ( 『経済研究』一八巻二号所価 ) 。さらに、たとえ組立て製品であっても、 部門 ( 生産手段の生産部門 ) と第二部門 ( 消費握できても、第二次産業部門内部あるいは第一一一収・一九六七 ) のなかで、アメリカと日本の繊維関国際競争などとの関連では高度なものへと発展 手段の生産部門 ) という一一部門分割も、産業間 次産業部門内部での変化をより細かく観察する連産業の分析を行い、そこにアメリカとわが国を遂げていくべきであると強調している ( 組立 の分析を含んだものである。ドイツの歴史学派という視点に欠けるという弱点がある。 との工業製品の加工度の差異をみいだし、新して製品の限定 ) 。知識産業では、従来の「物」 第二次産業の内容が、経済の進歩に伴ってど に属する多くの論者も、その経済発展段階説 い産業構造をみる視点を指摘している。わが国をつくるということから、そうした過程で体得 は、一種の産業構造の議論を展開しているとも う変わっていくかについての考察は、一九三一 の産業は素材産業の大きさに比べて、素材を加 してきたエンジニアリングなどの無形の知識を いえる。しかし、二〇世紀に入ってから、とく 年に・ホフマンが『エ業化の段階と類型』と工し、組み立てる産業が十分に発展していない。 売ることの重要性を指摘している ( 一種の「物

5. 日本大百科全書 10

さんみん 世界のおもな山脈 スンジナビア山脈 ペニ、山脈 ベルホャンスク山脈 ャプロノイ山 ャン山脈 チェルスキ山脈 アラスカ山脈 チュコト脈 0 0 もウラル山脈 ノルタイ山 ロス カフカス脈天山脈 カラコルム山 ン′ - アルトウン山 ア丿レ′丿ズ山脈 4 0 60 。、 スタノボイ山 6 ロッキ ;—山脈 カスケード山脈 コースト山脈 シェラ・ネバダ山脈 西シラ・マドレ山脈 東シェラ・マドレ山脈 0 コリマ山爬 大興安嶺 五台山脈 太行山脈 秦嶺山脈 南嶺山脈 カルバディア山脈 アルフス ビレネ山脈 シェラ・レナ山脈 アバラチィ山脈アトラス脈 アベニシ山脈 ディナルアルプス 0 8 ・ロス山 バトカイ山 アラカン山脈 0 バカライマ山脈 ギアナ高土 西・一ツ山脈 0 崑崙山脈 バリサン山脈 カプアス山脈 グート・ディバイデング山脈 ノ丿レプス オーストラリ・ マケオ山脈 0 ミトウンバ山脈 2 アンデス山脈 コルドバ脈 ドラケンスバグ山脈 4 60 。ト 0 レ ー 8 げ 150 。ト : 120 。 15 げ、、 120 。 種族主義で、民族主義が植民地民族解放闘争と れている。 いう内容に発展するのは、後期になってからで 断層運動で形成された山脈を、断層山脈とよ んでいる。この山脈は、断層変位で生じた断層ある。民権主義は共和主義とデモクラシーで、 崖とよばれる急崖で限られている。地塁山脈主としてアメリカを模範としながらも、立法、 は、山脈の両側 ( またはその周縁 ) が断層崖で司法、行政の三権に加え、考試、監察の五権分 限られた山脈である。わが国には地塁山脈の発立を構想した。民生主義は、孫文が初め理想と きそ 達が良好であり、本州の木曽・赤石・鈴鹿など考えた欧米社会にも貧困が存在するのを知り、 の山脈はその適例である。傾動地塊山脈は、山それを未然に防ぐための経済政策で、平均地権 脈の一方の側が断層崖、他の側は傾いた山地斜をおもな内容とした。平均地権はアメリカの経 ・ジョージの学説に触発され、 面からなる地形である。アメリカのシェラ・ネ済学者へンリ 社会発展によって生じた地価の値上がり分に課 バダ山脈はその典型として知られる。 〔時代による区分〕古生代に生じた山脈 ( パレ税することで貧富の差を縮小し民生安定を図る ひっす イデン paläiden) 、中生代から新生代にかけてという考えである。社会発展の必須条件は交通 生じた山脈など、形成された地質時代によっての発達であるとし、孫文はこの点で鉄道振興策 山脈を区分することがある。前者の例としてョを重視していた。一九〇五年、東京で結成され くじよだつりよ た中国同盟会が、その政綱に駆除韃虜 ( 満州族 ーロッパのカレドニア山脈・ヘルシニア ( バ スカン ) 山脈、後者の例として環太平洋造山帯追放 ) 、恢復中華 ( 以上が民族主義 ) 、建立民国 およびアルプス・ヒマラヤ造山帯の山脈などが ( 民権主義 ) 、平均地権 ( 民生主義 ) の「四綱」 あげられる。 を掲げたのは、前期のいわゆる旧三民主義の原 〔形・位置による区分〕円弧状の一部をなすよ型とされる。 うに配列する山脈を弧状山脈という。日本列島〔後期の三民主義〕ところが辛亥革命のあと、 えんせいが、 を含むアジア大陸周縁部には、この地形の発達革命の成果は北洋軍閥袁世凱に奪われたが、孫 がん・」う が著しい。対曲・連鎖・平行・雁行・分岐など文は、清朝の崩壊により民族主義が、また共和 の諸型がある。主分水嶺の位置にある山脈を脊制の実現により民権主義が実現され、残るは民 りよう 、この典型的な例はロッキー山生主義のみと考えて、袁のもとで全国鉄路督弁 梁山脈といし 〈有井琢磨〉の地位についた。しかし、まもなくその夢想は 脈である。 このえのぶただ 破れ、反袁の第二、第三革命も成功せず、孫文 三藐院さんみやくいん 0 近衛信尹 しんがい 三民主義さんみんしゅぎ辛亥革命の指導者は日本に亡命したりして、車閥の分立抗争の状 そんぶん であり、中国国民党の創立者である孫文の唱え況のもとで暗中模索を続けた。そこに一九一九 た政治理論。民族主義、民権主義、民生主義を年、五・四運動が勃発、帝国主義反対と封建軍 あわせて三民主義という。アメリカの第一六代閥反対とを結合させた新しい大衆運動の季節を 大統領リンカーンの「人民の人民による人民の迎えた。孫文はその転換を前にして思想を変 発展させてゆき、自ら率いる中国国民党を ための政治」にヒントを得たものだが、内容的化、 ひん には孫文独自のもので、衰亡の危機に瀕した中改組し、共産党と提携することを決意するに至 国をいかに救うか、という「救国」の立場に発った。 一九二四年一月、広州で国共合作による国民 想の基礎を置いている。孫文の革命活動は、市 しん 民社会の建設を前景に置いて清朝打倒を目ざし党第一次全国代表大会が開かれ、そこで連ソ・ た辛亥革命の前後の時期と、この革命のあと車容共・エ農扶助の三大政策を打ち出すととも 、三民主義の連続講演を行い、後期の三民主 閥混戦の事態が現出するなかで大衆闘争と結合 した時期との、二つに分けられるが、三民主義義の新しい立場を明らかにした。この講演筆記 が「三民主義」という名を冠したものとしては の思想も、それに従って前後二つの時期に分け ることができる。↓孫文 唯一の著作である。 ここで孫文は、民族主義とは被抑圧民族の立 〔前期の三民主義〕前期の三民主義は、一八九 〇年代に孫文がヨーロッパに亡命していたころ場から反帝闘争を通じて中国民族の自由と独立 めつまんこうかん 着想したもので、その民族主義は滅満興漢を内を図るものであるとし、民権主義については、 容としていた。これは、国内少数民族たる満州従来の市民的民主主義に加えて、直接民権の構 しん ひょうばう 族の建てた王朝、清朝打倒を標榜する一種の 想を主張した。また、民生主義の平均地権に ぶんすいれい せき ばつばっ

6. 日本大百科全書 10

しずおか ーみ・、第を / ′地球観測衛星ランドサット撮影の画ツ考グ スから発する急流性の大井川 , 安倍を . : ・ : 、ツ・ , 川 , 富士川は駿河湾に臨海扇状地を ルつくった。遠州灘の白い海線は海 ′を , 流と風による砂丘であり , 天竜川河 , ソロの赤茶色は土砂流出による濁りで . ”ある。富士山に雲がかかって頂上の 火口は見えない たが、七八年に東京府に移管された。 一八七五年松崎製糸場が設立され、伊豆西海岸一帯より繭 が集荷され、松崎繭は県下の新繭相場の標準となった。七七 みずおち 年には静岡水落町に県立製糸所ができた。七九年清水港波止 場が海港の一歩を踏み出し、県下各地の茶は移輸出されて外 貨獲得に貢献した。八三年静岡ー清水間に電信が開通、八九 年には東海道線が全通し、東京ー熱海間の公衆電話が開通し た。また、九五年には熱海に県下最初の電灯がともった。八 ふくで やまはとらくす 五年山葉寅楠がオルガンをつくり、九四年福田にコール天織 とよだ が始まり、九六年豊田佐吉 ( 湖西市の生まれ ) が木製動力織 機を発明し、浜松地方の楽器・織物業の発展の基礎をつくっ た。富士地方でも近世の駿河半紙の伝統をもとに近代的パル 。フ工場・製紙工業が発達した。九九年清水港は開港場とな り、茶・ミカンが輸出され、翌年県農事試験場、一九〇三年 きんばら あら ( 明治三六 ) 新居に水産試験場が設立され、〇四年には金原 疎水財団設立などがあり、農漁業の発展が図られた。一九年 すんず ( 大正八 ) 駿豆鉄道の全線電化、遠州軌道会社が設立され、 近代化は著しく進むことになった。 政治的には一八七六年浜松県民会が開かれ、明治一〇年代 には演説結社、政治結社が県下各地に組織され、岡田良一 とよたろう たかとし 郎、前島豊太郎、荒川高俊らが自由民権運動に活躍した。八 五年伊豆で借金党が活動を強め、翌年には静岡事件が起こっ た。一九一八年米騒動は県下各地に広がり、労働争議、小作 争議も引き続き頻発した。十五年戦争に入ると労働運動、農 民運動も抑圧され、浜松、静岡、清水、沼津市などの悲惨な 空襲を経て終戦を迎えた。 第二次世界大戦後、電源開発と食糧増産が図られ、佐久間 はたな一 いかわ ダム、井川ダム、畑薙ダムなどが完成。水資源の多目的開発 と土地利用の高度化が図られた。また、国鉄飯田線の付け替 え工事によって山間地域の開発が進んだ。高度経済成長期に は臨海工業地帯の形成が進み、新幹線、東名高速道路の建設 など交通体系が整備され、県下各地に工場が進出、農地の宅 たごのうら 地化も著しく、御前崎港、大井川港、田子浦港、清水港の港 湾整備も顕著であった。一方、急速な開発は公害を生み出 し、各地に住民運動がおこり、健康で文化的な環境で生活す る願いは強まっていった。一九五四年 ( 昭和二九 ) ビキニ沖 で水爆実験の死の灰を浴びた焼津港所属の第五福竜丸乗組員 久保山愛吉の死を契機におこった原水爆反対運動は根強く続 けられている。平和を願う活動と生活向上と環境を守る運動 〈川崎文昭〉 は静岡県でも着実に広く、深くなっている。 〔産業〕静岡県の就業者数は一七四万人で、本県人口の四 776

7. 日本大百科全書 10

じげんかいせき物理法則を表す等の設計にも有用である。 〈江沢洋〉合的な権利。この権利は、第二次世界大戦後経 ん分とを組み合わせてできる図形は二次元図形で次元解析 しげん cartel on re- 済的自立を目ざす発展途上国が、国有化問題を 6 、ナ . ある。ここで三角形はどのように曲がっていて式があるとき、物理量の単位の選び方によら資源カルテル sources 特定の資源の生産、価格形成および契機に経済的自決権として主張したもので、一 もよいので、たとえば球面などは二次元図形でず、その両辺は同じ次元 dimension をもたな じ ければならない。 この事実に基づく解析を次一兀販売を規制して、共通の利益を確保するため九六二年の国連総会決議一八〇三により定式化 ある ( 図 0)0 一般に〃次元以下の単体からなる に、当該資源の生産国によって結成された生産された。この権利の内容は、その後の国際社会 多面体は〃次元の図形である。図形の次元はそ解析という。物理量は ( 簡単のため電磁気的な の局所的なホモロジー群またはルべーグの敷石ものをひとます別にすれば ) すべて長さ、質国同盟や輸出国同盟のことをいう。その先駆との実行のなかで明確にされ、豊富にされてき た。たとえば、外国人資産を国内法により国有 定理などを用いても定めることができる。われ量、時間の組み合せで定義される。それぞれをなったのは、一九六〇年に石油メジャーに対抗 オペッ 化したり、外資系企業の活動を規制・監督する われは三次元空間の中に生きているので、三次「ト〕第ミ」 , 「 T 」で表すと、たとえば速度はするために結成された石油輸出国機構 受入れ国の権利が恒久主権に含まれることが認 元空間以外の三次元図形や四次元図形などは三 変位 ( つまり長さ ) を時間で割って定義される 0) であり、さらには六八年にアラ。フ産油国に よって結成されたアラ。フ石油輸出国機構 ()< められ、またこの権利は経済水域制度確立の根 から、その次元は 次元空間の中では描けないので、現物を示すこ 拠になった。↓資源ナショナリズム↓発展途上 O ) であった。 とはできないが、平面の中に三次元図形の立方 一九七三年の第一次石油危機以降、国開発問題↓排他的経済水域 体を描くように、四次元の立方体を描いてみると書き表すことができる。加速度は速度の変化 〈佐分晴夫〉 のぎきかんのん と図のようになる。↓ホモロジー〈野口広〉を時間で割って定義するから の成功と、おりからの資源ナショナリズムの高慈眼寺じげんじ 0 野崎観音 しげんしよくぶつ資源植物という 回田尾鶉三著『次元とはなにか』 ( 講談社・。フ まりに刺激されて、資源カルテル結成への動き資源植物 レーバックス ) そしてカはニュートンの運動の法則により質量は活発化した。上記のと以用語は最近しばしば用いられるようになった 外の主要な資源カルテルとしては、銅輸出国政が、この名称は、人類の生活上、必要とする物 と加速度の積に等しいから ジーケン Siegen 西ドイツ中部、ノルト 府間協議会 (0 — 0) 、天然ゴム生産国連質を生産することが期待できる植物を意味して ライン・ウエストファーレン州の都市。人口一 いる。たとえばエネル、キー問題に関連して、炭 合 ( Z 0 ) 、ポーキサイト生産国機構 一万一三七六 (IR<II)O ライン川右岸の支流ジである。基本量からの組み立てを表す右のよう 化水素関連化合物を含有する石油植物として注 ーク川の上流、ライン片岩山地のほば中央に位な式を次元式という。単なる数や、物の個数、、バナナ輸出国機構、水 銀生産国連合、鉄鉱石輸出国連目をひくようになったホルトソウ、アオサンゴ 置する。その発展は先史時代以来の鉄鉱石採掘あるいは 合 (<—OQO) 、タングステン生産国会議ぎミきミや、ユーカリ類、鯨油に似 に支えられ、刃物生産で有名な都市ゾリンゲン 、東南アジア木材生産者連合 た植物油が種実よりとれるメキシコ原産のホホ などに原料を供給した。一九世紀後半以来、商のような比は無次元であるという。 樹液にセスキテルペンを含むコパイフェラ 次元式のなかにが / 乗で含まれている物理などがあげられる。 工業が発展し、岩山の上の中世の旧市街から谷 また、資源カルテルが成功し、強力な市場支属 C 。をミき植物などがある。 沿いに市街地が延びた。鉱山は一九六二年に閉量は、時間の単位を倍にすると、その大きさ このことは、人類文化の発展と社会の進歩に 鎖されたが、鉄鋼加工はいまも盛んである。南を表す数値が 1 、、 1 倍になる。他の基本量につ配力を発揮しうるための要件としては、とく に、①埋蔵量および生産の集中度が高いこと、伴い、必要とする植物資源の種類や量が増加し 〈齋藤光格〉 いても同様なので、物理法則を表す式は、その 北方向のアウトバーンが通る。 てきていることによるものであろう。栽培植物 資源エネルキー庁しげんーーちょう通商両辺の物理量が同じ次元式をもつものでなけれ②需要の価格弾力性が低いこと、③生産国に共 は当然資源植物に含まれるが、資源植物といっ 。このことから法則の推定ができる通の経済的・政治的利害関係があること、など 産業省に置かれる外局。一九七三年 ( 昭和四ばならない た場合、どちらかといえば現在あまり利用され 八 ) 設置。主たる任務は、鉱物資源の合理的な場合もある。たとえば、質量供長さ / の単振が重要とされている。しかし、このような要件 を満たす資源はきわめて少なく、成功を収めたていないとか、末利用の植物をさしていると考 開発および電力等のエネルギーの安定的な供給り子の周期は、これに重力加速度 9 を加えて 資源カルテルには、のほかがあえるべきであろう。したがって新しい有用な植 ( 主 ) Ⅱミ 97 x ( 滯洋 D ) の確保、これらの適正な利用の推進、電気事業 げられる程度である。 〈入江成雄〉物の探索的意味をも含めて用いられることばと 等の運営の調整に関する事務を行うことにあの形に書けると予想される。 いえよう。↓石油植物 〈近藤典生〉 る。その所掌事務は、鉱物資源および電力等の 試験管しけんかん test tube もっとも簡 しげんすう quaternion 四つの一兀 便な化学実験器具。ガラス管の一端を閉じて丸四元数 エネルギーに関して総合的な政策や計画を立案これが「〕日〔 T 」と同じになるのは Ⅱ O, 3 十 r Ⅱ 0 , ・ノ、々を基底とする実数体上の線形 底にしたものが一般的である。少量の薬品を用 したり、それら資源およびエネルギーに関する ー 1 、、 2 , 3 Ⅱ 1 、、 2 と いた溶解、加熱、冷却などの操作、呈色反応、空間〃を、 1 を乗法についての単位元とし、 国外事情について調査・分析を行い情報を提供のときである。よって、 7 Ⅱ 沈殿生成反応などの観察等、予備実験容器とし すること、石油や石炭およびそれらの製品等のなり、 て使われ、細菌の培養などにも利用される。保 に心Ⅱ ーミ日Ⅱ 輸出、輸入、生産、流通および消費の増進、改善お ③只 ) Ⅱ ( Ⅱ ) e こ ) よび調整に関すること、などである。その権限で表されることがわかる。次元解析では無次元存容器としても便利である。特殊なものとし は、電気事業・ガス事業または熱供給事業の許の定数までは定められない。力学によれば、こて、共栓付き、目盛り付き、着色ガラス製、金を満たすように乗法を定義することにより、乗 可、電気・ガスおよび熱供給の料金その他供給の場合の定数は 2 である。電磁気的な量を属製、合成樹脂製のものなどもある。図化学法について可換でない体にすることができる。 〈岩本振武〉この″を四元数体といし 、″の元 条件の設定または変更の認可、「核原料物質、核組み立てるには普通、電流の次元ミ〕を加え実験 ④Ⅱ 01 十十 0 十 ( 0 de ) しげ・んこ , つきゅ、つしゆけん per- 燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」に基る。同時に真空の誘電率として次元をもっ定数資源恒久主権 はで b Ⅱ c =d Ⅱ 0 の 新を導入するので、その次元解析には注意を必 manent sovereignty over natural wealth を四元数という。とくに、 ) づき、実用発電用原子炉の設置等に関し、許 and resources 天然資源に対して、その地域ような四元数工は実数であり、 c 日日 0 のよ 可・認可等を行うことなどである。なお内部部要とする。 「〕Ⅱ「トーミー】 T ミ」 の人民または民族がもっ権利で、資源を所有うなは複素数 + である。この意味で、 局には、石油、石炭、公益事業の三部があり、 七つの審議会等が置かれている。〈平田和一〉である。次元解析は相似法則の発見や模型実験し、自由に開発・使用・処分する権利を含む総四元数体″は実数体と複素数体を部分体と

8. 日本大百科全書 10

さんばい より八〇キ。離れた標高八〇〇の高原に位置す る。人口七〇三万三五二九 ( 一 0 ) 。二〇余り 雄 雄 っ の衛星都市を含む大サン・パウロの人口は一三 も を五〇万に及ぶ。亜熱帯地域に属するが夏も涼し 角 き一 、年間を通じてほば一五 ~ 二五度 0 で快適な れし 気候の地である。 を 群枝 る分 住民はポルトガル系、スペイン系、ドイツ の 一浴っ系、イタリア系、東ヨーロッパ系 ( ポーラン ン ド、ラトビアなど ) 、日系、レバノン系など世 い数 界中のさまざまな人種系統からなり、それそれ がかなりはっきりした居住区をつくっている。 工 ガ ハウリスタ Paulista とよばれるサン・パウロ ン 市民は精力的な実務家で、経済活動に励むので サ 町は非常に活気がある。自動車がひしめき、喧 そう 噪に満ちた都会である。 都心部に接するガルポン・。フェノ街付近に多く サン・パウロは。フラジル最大の商工業の中心 集まり、日本食の店、土産物店など日本語の看 地で、一九世紀後半にコーヒー栽培が盛んにな板と日系人があふれる町をつくっている。サ るのと並行して、コーヒーの集荷と輸出業務を ン・パウロには美しい公園が多く、レププリカ 中核として発展した。・ フラジル南東部の交通網公園、イピランガ公園、イビラブエラ公園、イ の中心に位置し、その商圏は同国の南東部から ピランガ水源州立公園などは市民の憩いの場と なっている。 〈山本正三〉 中央部、西部に広がる。第二次世界大戦中から 工業が目覚ましく発展し、戦後はアメリカ、西 〔歴史〕現在のサン・パウロ付近は、かってピ ヨーロッヾ、 ラティニンガとよばれ、原住民グアイアナ族の 日本など外国の諸企業がサン・ ウロ市内と近郊衛星都市に進出し、日系企業だ居住地であった。一五五四年ポルトガル人のイ けでも五〇〇社を超えている。とくに外港サン 工ズス会士マヌエル・ダ・ノ。フレガらによっ トスと結ぶハイウェー沿線、リオ・デ・ジャネて、この地にインディオ教化のための教会と学 イロに向かう幹線道路沿いなどで工業化が盛ん校が建てられた。これがサン・パウロの起源で ある。町名の由来は、町の建設記念の第一回の ( その度合いを値でも表しうる ) ひいてて植物に限られ、四倍体の植物と二倍体の植物である。自動車、織物、家具、化学工業製品、 ミサが、聖徒バウロがキリスト教に改宗した記 は酸敗は、空気、熱、光を避け、酸化防止剤を交雑することによって得られる。自然でも一一一衣服、セメント、食品など各種の工業が立地 ( たとえばビタミン ) および相乗剤 ( たとえ倍体の植物ができる場合があり、ポプラの三倍し、サン・パウロの工業生産額は。フラジル全体念日に施行されたことによる。植民地時代を通 の三分の一を超える。商業、金融業でもリオ・ じて同市の人口は二〇〇〇人程度で、住民の生 ばクエン酸 ) を使用することによって、ある程体は山火事が原因でできたといわれているが、 〈福住一雄〉人為的処理で比較的容易に得られる。「種なしデ・ジャネイロとともにブラジルの主導的地位活は貧しかった。やがて。フラジル奥地の金、 度抑止される。 スイカ」はこれを応用したもので、普通の二倍にある。また、リオ・デ・ジャネイロと並ぶ。フ銀、ダイヤモンドの発見と、北東部の砂糖業に 食品においては、油脂および油脂を含む食品 ラジル文化の中心地でもあり、サン・パウロ大奴隷として売却するインディオ狩りを目的とす が古くなると、油脂分の加水分解や自動酸化に体のスイカをコルヒチン ( アルカロイドの一 よって酸性となり、不快な臭気を発生し、味が種 ) で処理して四倍体の品種をつくり、これを学など。フラジルの代表的な大学があり、中世以るバンデイラ ( 植民者による奥地探検隊 ) の拠 点となった。一九世紀後半、この地方がコーヒ 悪くなり、あるいは色が変わることがある。こ母親として普通品種の花枌を交配させて三倍体降の西欧美術を集めたサン・パウロ美術館をは ー生産の中心地となると、サン・パウロは商 の種子をつくる。これを生育させてから花に一一じめ、美術館、博物館、図書館なども多い。。フ のような油の劣化現象を酸敗、または変敗とい ラジルのモダン・アートの発祥地で、ここで催業・金融のセンターとして急速に発展し、二〇 う。酸敗は食品への影響が大きく、とくに油脂倍体の花枌を人工交配すると、その実は種なし となる。一般に三倍体は二倍体より大きく、発されるビエンナーレは、この分野の世界的行事世紀初頭には人口も二四万人に達した。さらに を多く含む食品は、これによって風味を損なう である。また、市西部にあるプタンタン研究所一九三〇年代以後、全国の工業センターとな だけでなく、場合によっては毒性をもつ。酸敗育も盛んであるが、減数分裂が不規則なため、 ふねん り、他地方からの人口を吸引し、大都市に成長 を防ぐには、抗酸化剤 ( 酸化防止剤 ) を加え不稔性 ( 種子となるまでの過程における異常 ) は、毒ヘビの研究によって世界的に知られる。 している。 〈山田睦男〉 サン・パウロの都心は、日系人が「お茶の水 る、空気に食品が触れないように包装内の気体となる割合が高いので、挿木などの栄養生殖に を窒素ガスに置き換える、酸素吸収材を添付すよって繁殖させる。 〈吉田精一〉橋」とよぶ高速道路に架かる陸橋付近で、そのサンバカエル〔産婆蛙〕 midwife toad とミ es obs ミ、ぎ両生綱無尾目スズ るなどのほか、冷暗所に貯蔵する必要がある。サン・ハウロ Säo Paulo プラジル南東周辺のセントロ地区は高層ビルが林立する商業 トイツ、スイス、フラン 〈河野友美〉部にある同国第一の都市。南アメリカ最大の都地区である。。ハウリスタ街は、もとはコーヒー ガエル科のカエル。・ 酸敗の一部に油焼けもある。 で産をなした人々の大邸宅の並ぶ地区であったス、イベリア半島に分布する。灰色または褐色 さんばいたい細胞の染色体の基本数市でもある。サン・パウロ州の州都。リオ・ 三倍体 あんはん で小暗斑があり、号、ヒ」 の三倍の染色体数をもっ倍数体をいう。主としデ・ジャネイロの西南西約五〇〇キ。、大西洋岸が、最近は高層ビル街にかわった。日系人は、 し青但隆条がある。目は大 4 みやげ 452

9. 日本大百科全書 10

反映して、資源といえば工業原燃料に関心が集中してきた。 し、自然の人間への反作用の側面ないし人間と自然との調のあり方が根本的に再検討され、生態学的な自然循環や物質 それでは、今後はどんな資源がもっとも重要となるのであ和・バランスを軽視し続けてきた。とくに第二次世界大戦循環を尊重し、積極的に公害や環境汚染を防除し、廃棄物や ろうか。いったいどんな経済社会が到来し、その担い手とな 後、世界全体と日本の急速な経済発展が持続し、人間の自然汚染源因子の処理・再生を図り、新たに再資源化していく再 る産業は何なのであろうか。一般には、高度知識情報社会なへの働きかけ、具体的には、資源の開発・消費さらに廃棄が循環 ( リサイクリング ) 経済への転換が、重視されるように いし脱工業化社会が出現するといわれており、同時に高齢化 急増し、自然がもつ人間の働きかけを同化・吸収・処理するなっている。 さらに、これらの決定因の根底には、人間の価値観や基本 社会の到来も必至であろう。もちろん、これまでと同様に、 能力を超え、深刻な反作用を人間に及ばすようになった。こ 人間が生き、快適な生活を送るためには、食糧や工業原燃料れらの資源枯渇問題や環境資質悪化の問題・公害問題は、狭目標が大きく作用している。資源は安価に多量に存在するこ は不可欠ではあるが、末来社会を担い中心となるのは、どん い意味での資源問題の結果・裏面にほかならす、これらの全とを前提とする、使い捨ては美徳であり、高度成長こそ至上 な産業部門なのだろうか。そしてこの産業部門で主として必体を資源問題の真の所在として把握し、対応していかねばなであるといった従来の価値観や目標を問い直し、資源は有限 要とされる資源は何なのかを、突っ込んで考究していくこと らなくなっている。 で希少であることを基本前提として、節約・有効利用こそ美 が、今後の展望のためには不可欠であろう。 〔基本的課題と決定因〕したがって、資源問題の基本的課題徳であり、人間の真の生きがいや福祉を尊重する価値観や目 具体的に、「近年、経済社会の急激な情報化の進展、宇は、人間が自然との調和・バランスを図り、これをうまく活標への転換が、ますなされていくべきであろう。 〔資源問題の大きな展開過程〕世界の資源問題の大きな展開 宙・海洋といった新領域の拡大のなかで、各産業分野で活発用することによって、人間が快適に真の生きがいを感じなが な研究開発が行われているが、素材分野においても、これま ら、しかも末来永遠にわたって生存していける条件をつくり過程を、この二つの基本的決定因との関連で簡単に整理して での素材にはない高度な機能を有する新素材に対するニーズあげることであろう。人間を尊重し、本当の人間福祉を重視みれば、次の三つの時期に区分することが可能であろう。 が高まっており、研究開発も活発に進められている。とく 第一期は、人類の誕生以来、産業革命に至る非常に長い期 し、現世代だけではなくて長期的な末来世代をも考慮しなが に、新金属材料については、従来の構造材的側面に加え、超ら、資源問題の解決を大きく目ざしていかねばならない。 間である。世界の人口規模や生活水準の急増が生じたのは、 電導特性、半導体特性、磁気特性、核特性等の機能材的側面 さらにこうした本質理解によって、次の二つの資源問題の産業革命以後であり、それ以前においては、土地に代表され ニーズが拡大してきている。このような新素材の高度な基本的決定因もまた明らかとなろう。第一は、人間の自然・ る資源の希少性が、成長・発展への基本的制約要因として働 機能を生み出すために必要不可欠な資源がレアメタルであ環境への働きかけの全体としての量や規模ないし時間にわた いており、人間の生存維持のための資源獲得が基本問題とな り、超、リニアモーターカー、核融合炉、超高性能磁る増加率であり、第二は、人間の自然に対する働きかけの仕っていた。人間はむしろ受動的に自然に反応し、生活水準の 石、レーザー発光素子等の先端技術材料用として、ガリウ方・方法であり、これは総括して、技術体系・技術要因であ向上や人口増加には一定の限界が存在し、成長・発展は長期 ム、ニオプ、レアアース等のレアメタルが新たに用いられ始るといえよう。 的には持続できないと考えられてきた。 めている」 ( 鉱業審議会鉱山部会レアメタル総合対策特別小 第二期は、産業革命以来一九六〇年代末に至る期間であ 具体的に説明すれば、第一の決定因は、人口規模とその生 委員会『レアメタル総合対策についてーー技術革新、産業活活水準・所得水準とを掛け合わせたものと、それそれの増る。欧米先進国では、自己維持的な経済成長が定着し、天然 性化、経済安全保障を目指して』一九八四年一二月一〇日 ) 加・上昇率にほかならない。世界全体ないし各国の適正な人資源の絶対的かっ特定の希少性は打破できると考えられ、技 のように、レアメタルが注目されるようになっている。 ロ規模なり可能な人口増加率やそれらの上限はどれだけなの術革新が重視され、また資本や人的資源が注目を集め、資源 〔資源問題の本質・所在〕一般には、世界や日本の人々の生か、また生活水準や所得水準の限界はどこにあり、許容でき 制約は軽視されてきた。 活や正常な経済活動を維持し、さらにその向上や発展のためる上昇率はどれだけなのか、国際間における格差是正はどの さらにこの期間を、第二次世界大戦以前と以後とに区分す に必要とされる資源を、いかに効率的に ( 安価に多量に ) 確程度なされるべきなのかなどが、その基本的決定因である。 る必要があろう。第二次大戦以前は、とくに一八七〇年代以 保するのかが、主たる問題の所在や内容であると考えられて第二の決定因である技術体系・技術要因は、人間と自然・環降、欧・米・日の諸列強の間で、天然資源は国力・軍事力を きている。これは、資源問題の重大な一面であるが、同時に境とのかかわり合 い、相互作用を左右するものであり、資源象徴すると考えられ、「領土を得ずんば資源を得す」として、 わいしよう しれつ 問題を矮小化させ、公害・環境問題や資源枯渇問題を発の供給は、生産技術と資源管理能力の関数であるともいえる熾烈な植民地・資源の獲得抗争が展開されていった。第一 生・深刻化させる一因となっていると思われる。 であろう。資源の利用可能量や価値は、科学や技術の水準や次・第二次の両世界大戦も、植民地を含めてみた資源をもて もっとも単純化してみれば、資源問題の本質とは、主体でその向上・革新に主として依存している。 る国々 haves と、もた、る国々 have-nots との対立・抗 ある人間と客体である自然・環境との相互作用・相互関連と しかも最近、従来の技術体系の目標ゃあり方自体に関し争に帰することができるであろう。 いえるであろう。人間の自然への働きかけと、自然の人間なて、問い直しや反省がなされている。これまでは、人間の自 第二次大戦後は、まさに劇的な国際資源情勢の変化が生じ いし人間社会への反作用という二つの面があり、一方的働き然に対する一方的働きかけ、すなわち、いかに多量かっ安価 た。一九六〇年代末近くまでは、国際平和・国際協力の下 かけではなく、相互作用がなされていることが重要である。 に資源の採取・開発・利用を行うかに重点が置かれてきた に、自由貿易による低廉・良質の資源の輸入・確保が世界的 ん これまでは、人間の自然への働きかけの面、とりわけ自然が、その結果、公害・環境問題が深刻化し、人間の生存その に可能となり、資源制約を深刻に考慮することもなく、世界 しからの資源の効率的な採取・開発・獲得・利用のみに集中ものが脅かされるようになっている。それゆえに、技術体系経済は年率五 % もの末曽有の高度成長を謳歌してきた。 679

10. 日本大百科全書 10

のボアポードランがサ ド ) 国の一つで、五世紀以降の中国の史書には 0 2 1 Z 1 3 5 8 しつまんきんさつまつけん , 0 っ 4 0 9 10 3 5 ー 8 7 Z マルスキー石から分離 悉万斤、颯秣建の名で知られ、別に康国ともよ 属 9 にしとつけっ 金色 し、鉱物の発見者であ 数 ばれた。六世紀には西突厥に支配され、七一四 圓 E 亜褐性 子 るロシアのサマルスキ 年にアラブの将軍クタイバに攻略されてからイ ~ 赤射 原 '-u O ー , 斗 6 2 黒脂 ~ し放 の 6 9 ・ビホべッ Vasilii スラムの都市となり、サーマーン朝、カラ・ 0 0 ・漆樹黒な強 田 0 0 3 N 4 8 6 9 Erafovich Samarski- ン朝、セルジューク朝、ホラズムシャー朝の中 当位 3 ″ 9 7 9 ー 2 4 7 •< キ名式 Bykhovets にちなん 2 、 4 7 第 E 心都市の一つとなり、イスラムの学芸文化、東ス英成 他 組分系 っ 0 っ 0 9 で命名した。主要鉱物 2 4 7 ー 西中継商業の最大の中心地として繁栄した。一 マ名学成晶度重沢痕開の E 3 2 4 7 0 十一 はサマルスキー石、ガ 二二〇年モンゴルのチンギス・ハンの侵入軍に イ結硬比色光条劈そ サ学ヒ 6 0 0 -0- 0- ハ 0- ドリン石、セル石など 方宙殼水 攻略されたが、まもなく復興した。一五世紀の 「 ) 1 亠 1 亠 11 六宇地海 せきペグマタイト である。酸化物を金属 ティームール帝国の首都となり、グール・イ・サマルスキー石 ム 度 Ⅳ 2 4 N 7 ビービー ランタンで還元して灰 ハヌム、シャー・イ・ジン産の放射能鉱物の一つ。花崗岩ペグマタイト中 号 在 白色の金属を得る。空 に産し、他の酸化鉱物とくにコルンプ石をよく ダなどの現存する建築物が建てられた。一五〇 リ記番量 系存 4 っ ~ 6 0 -8 「 -0 00 ノ 4 1 2 3 5 8 タ 7 チ マ素子子点点重晶素 5 7 「ン ~ ク ~ 気中で一五〇度 0 以上 〇年シャイバーニー朝に占領され、その滅亡後伴う。自形は斜方短柱状で、柱面、ときに庇面 サ元原原融沸比結元 に熱すると酸化物にな がよく発達し、単斜晶系の特徴を示すこともあ に興ったブハラ・ ハン国はブハラ市を首都とし る。熱水、希酸に水素を発して溶ける。普通、都。同共和国の中東部にあり、 ハミール高原北 たので、サマルカンドの政治的地位はやや低下る。通常は、メタミクト状態 ( 自分自身のもっ 八六八年帝政ロシアに占領され、一九放射能によって、結晶質状態の特徴を失うこ 酸化数 + の化合物をつくるが、 + のものもあ麓から西流するゼラフシャン川の河谷に位置すした。一 る。サマリウム化合物の常磁性は、希土類一兀る。人口五一万五〇〇〇 ( 一九会 ) 。交通の要地二五年ウズベク共和国の首都となったが、三〇と。加熱によって結晶化する ) で産する。ロシ 素化合物中もっとも弱い。 アの鉱山技師サマルスキー・ビホ・ヘッ Vasilii 天然に存在する同位で、空港があり、鉄道、幹線道路も通じる。年にタシケントが新首都となった。〈佐ロ透〉 アルファ 体のうちサマリウム一四七は放射体なので絹、 毛織物、皮革、農業機械、化学肥料、建築 〈守永健一〉 弱い自然放射能をもつ。 材料、食品などの工業が盛ん。ソ連の中央アジ アでもっとも古い都市の一つで、一四 ~ 一五世 サマーリンう p 一、三 (l)é洋 OPOB 一主 CaMa ・ pHH/Yuriy Fyodorovich Samarin ( 天一九紀の建造物が残されている。旧市街と、ロシア ー七六 ) ロシアの思想家、ジャーナリスト。名革命 ( 一九一七 ) 後、近代都市に発展した新市街地 門貴族の家柄に生まれる。モスクワ大学を卒業とからなり、市を二分している。総合大学があ 後、バルト地方で官吏として勤務。一八四〇年り、タシケントと並んでウズベク共和国の経 スラボフィル ( スラ。フ派 ) の指導的思想家ホミ済・文化の中心地で、同共和国第二の都市であ ヤコフに会い大きな感化を受けた。五二年公務る。また史跡と温暖な気候に恵まれ、一年中観 を退き、ジャーナリストとして活躍、農奴解放光客が絶えない サマルカンド州は面積一万六四〇〇平方キロ の必要性を力説した。六一年の農奴解放に際し へんさん て解放令の法典編纂委員を務めた。〈外川継男〉人口一八八万 ( 一久四 ) 。平均気温は一月零下 サマリンダ Samarinda インドネシア、〇・三 ~ 零下〇・九度 0 、七月二五 ~ 三〇度 ポルネオ島東岸のマカッサル海峡に臨む港湾都 0 、年降水量は二〇〇 ~ 四〇〇 = 、リである。した 市。東カリマンタン州の州都。人口一一六万四七がって大部分が砂漠的な植物相である。産業は ( 一九ハ 0) 。マハカム川河口のデルタ上に位農産物の加工が中心で、果樹や肉類の加工業が 置し、河口から約一九キ。さかのばった所にあ盛ん。機械製造工場はサマルカンドとカッタク る。航行には数本の水路があるが、普通はムアルガン KaTTaKypraH/Kattakurgan ( 人口五 万九〇〇〇、一九会 ) に集中している。じゅうた ラ・バヨール川による。長さ一二〇、喫水六 までの大型船が寄港できる。奥地の林産物のん、木彫、金細工などの伝統工芸品もっくられ 〈山下脩二〉 集散地として古くからジャワ、シンガポール方ている。 〔歴史〕ソグディアナのオアシス都市として紀 面との交易が行われたが、二〇世紀初頭以来、 付近の石油と石炭の開発に伴い急速に発展し元前五〇〇年ごろに成立した。古代の主要街区 かきよう た。住民には多数の華僑やマレー人が含まれは現サマルカンド市の北東に接するアフラシア 〈別技篤彦〉 プの丘であり、ソ連考古学者によって発掘調査 ねつきほう 中である。ここはアレクサンドロス大王が東征 0 熱気泡 るサーマル まサマルカンド CaMapKaHÅ/Samarkand 中、占領したマラカンダとして初めて文献に記 録された。ソグド人の中心地区、粟特 ( ソグ 六、ソ連南部、ウズベク共和国サマルカンド州の州 ろく サマルカンド 〔上〕市の中心部レギスタ ン広場を囲むように三つ のメドレセ ( イスラム学 校 ) が建つ。これはその ーっ , シル・ドルのメド レセの正面 ( 17 世紀 ) 〔下〕サマルカンド州は果 % 樹栽培が盛んで , 州都の 市場ではさまざまな種類 の果実がみられる 247