はヘテロの状態になって、互いに一方の親からのが所務雑掌、在京して荘園の訴訟事務を行う ざっしゆきようせい hybrid vigor 合は、属間および種間交雑が行われる。これら雑種強勢 彼らは荘園において ものを沙汰雑掌といった。 , の雑種の多くは不妊であるため、一代雑種しか遺伝的に異なる両親の間に生じた雑種に現れきた不利な劣性遺伝子の表現を、他方の有利な とくぶん 一定の雑掌給という得分を得、本所・領家側の 得られない。属間雑種の例としては、台湾で肉る、生育、生存力、繁殖力などの優れた性質を優性対立遺伝子が覆い隠してしまう確率が高く トウホアンアー なる。そのようにして生じたは、両親のいす利害を代表した。江戸時代には公家の家司を雑 用アヒルとして飼育されている土蕃鴨があり、 へテローシス heterosis ともよばれる。 ツアイアー これは在来のアヒルである菜鴨の雌とバリケ自殖劣性の逆の現象である。すべての雑種に現れよりも有利になるという説明で、優性遺伝子掌といい、維新政府の成立後、一八七二年 ( 明 ンの雄との一代雑種で、早熟早肥で肉質は親にれる現象ではなく、両親の組合せによってその連鎖説といわれる。それと対立する別の説明治五 ) から八六年まで宮内省に置かれた職掌に 雑掌があり、宮中の雑務をとった。〈奥野中彦〉 勝る。種間雑種には、雌ウマと雄ロバの一代雑程度が異なる。一般に同一種内の遠縁のもののは、超優性説である。一つの遺伝子座につい 種であるラバがある。強健で耐久力があり、粗 間の組合せはど雑種強勢が強く現れるが、あまて、ヘテロ接合型が両親のいすれのホモ接合型回赤松俊秀著『古代中世社会経済史研究』 ( 一九 七三・平楽寺書店 ) ▽泉谷康夫著『律令制度 食の点はロバに劣らず、体の大きさとカの強さ り遠縁のものはかえって生育の不良な雑種弱勢よりも優れている現象を超優性という。両親の 崩壊過程の研究』 ( 一九七三・鳴鳳社 ) はウマに劣らない を示すことがある。 交雑によって、その間で異なる遺伝子がヘテロ 家畜では、一般的に品種間交雑が雑種強勢に 雑種強勢は、雑種性の程度と深く関係してお接合型となって雑種強勢が現れるという説であ 札沼線さっしようせん北海道西部を走る日 そうえんしんとつがわ 利用され、品種間雑種を単に交雑種または雑種り、雑種第一代 ( ) にもっとも著しく現れ、る。実際にはおそらくこれらの両方の現象がお本国有鉄道の線路名称。桑園ー新十津川間七 こっているものと思われる。↓雑種〈井山審也〉六・五キ。、全線単線。石狩川右岸を走り、札幌 とよぶ。これらの雑種は繁殖力をもっため、新以下、雑種世代が進むにしたがってしだいに強 品種の作出にも利用される。イギリスの在来馬勢の程度が減少する。 サッシュベルト sash belt 飾り帯のこ市 ( 桑園 ) と沼田町 ( 石狩沼田駅 ) を結ぶ鉄道 として一九二七年 ( 昭和一 D 着工、札沼北線、 の雌と東洋種の雄との雑種から徹底的に改良さ と。装飾的な幅広の、柔らかい材質でできた、 〔雑種強勢の現象〕ドイツの植物学者ケルロイ 札沼南線として工事を進めて三一 ~ 三五年開業 れてできたサラ。フレッドや、ヒッジの毛用種メ ター J. G. Kölreuter のタバコを用いた広範締め金具を使わない腰帯をサッシュ sash とい し、全通とともに札沼線となった。しかし、第 リノーの雌とイギリスの長毛種の雄の雑種のう 日本ではこれをサッシュベルトとよんでい な雑種研究で一七六〇年代に発見されたが、 とうべっ 二次世界大戦中の四三 ~ 四四年に石狩当別ー石 ち優れたものどうしの交雑を続けてできた毛肉これが農業生産に実用化されたのは、一九〇る。サッシュには、このような飾り腰帯や肩に かけるスカーフの類と、軍人などが肩から斜め狩沼田間が休止、四六 ~ 五六年 ( 昭和二一 ~ 兼用種のコリデールはその例である。とくに品〇年代初めのアメリカの研究者へイズ H. K. けんたい にかける肩帯や肩章などの意味がある。中世ま一 ) に復活したものの、七二年にふたたび新十 種間交雑による雑種強勢の効果は、肉生産のた Hayes 、イースト E. M. East 、シャル G. かきん H. Shull らのトウモロコシの雑種強勢の研究では肩帯だけを意味し、今日のような飾り腰帯津川ー石狩沼田間が廃止されてバスに転換され めの家畜や家禽の雑種にみられる。 た。列車はすべて函館本線に乗り入れて札幌駅 が登場するのは一四世紀になってからである。 さらに近縁な交雑種として、系統間雑種、近に始まる。アメリカのトウモロコシの生産は、 に直通運転される。近年は札幌郊外の宅地化が 交系間雑種があるが、実験用の小動物を除き、 一代雑種の利用によって飛躍的に増大した。日サッシュの名で服装に取り入れられたのは一六 生産用の家畜では近交系の作出と維持に要する本でも、一九一四年 ( 大正三 ) にすでにカイコ世紀以降のことで、部屋着の装飾ベルトとして進み、札幌ー石狩当別間は通勤・通学鉄道の機 ばくだい 〈青木栄一〉 能が強くなっている。 費用が莫大なため、近交系雑種利用は世界的に の一代雑種品種の利用が蚕糸試験場で開発さ男女ともに流行した。階級を示す肩章も騎士な ざっしよくどうぶつ動物性の食物 もごく少数の育種組織でニワトリに対して行われ、その後、急速に全国に普及した。雑種強勢どに盛んに用いられた。一八世紀以降、女性の雑食動物 れているにすぎない の利用は、異なる両親の間の交雑を必要とする正装にも登場し、今日ではおもに女性用装飾帯と植物性の食物をあわせて摂取する動物をさ となっている。男性用としてタキシードに着けす。このような食性を雑食性という。この食性 品種や系統間の交雑において、二系統の交雑ので、交雑種子の得られやすい他殖性の作物に ハンド cummerband があり、日本の の動物は食物の選択範囲も広いことが多く、食 によって得られるものを単交雑種または二元雑広く適用されてきたが、最近は遺伝的に花粉なるカマー ふねん 種とよび、この型の交雑はあらゆる家畜で広くどの受精能力を不能にする細胞質雄性不稔の利兵児帯、スペインのフアハ faja やフィリピン物条件の変化が大きい環境に生息しやすいと考 利用されている。三系統および四系統の交雑種用などによって、イネなどの自殖性の作物にものタピス tapis など民族服には を三元雑種および四元雑種とよぶ。二品種以上応用されるようになった。現在では、ほとんどサッシュの類が多い。〈田中俊子〉 を逐次循環させて交雑する循環交雑または輪番のニワトリ、カイコなどの動物、トウモロコ雑掌ざっしよう古代・中世 こくがしようえん シ、トマト、タマネギ、モロコシ ( 自殖性作 に国衙・荘園、貴族などに属し 交雑という方法があり、一般に循環交雑によっ て十分なへテロ性を与えられた雌に優れた雄の物 ) など植物の品種が一代雑種品種となり、まて雑事務をとった役人。元来、四 りつりよう どのつかい 度使 ( 律令時代に毎年、国司が 純粋種を交配させる : フタではとくに品種間雑た多くの野菜類、花、林木、家畜などの生産に 利用されている。 政治の成績を中央政府に上申する 種が主流であり、一代雑種、三元雑種、さらに 四元雑種、循環雑種がつくられている。肉牛も〔雑種強勢の原因〕生存に有利な遺伝子が、不ために派遣した四種の使 ) の従者 ・一うちょうし ちょうしゅうし 利な遺伝子に対して優性であって、そのようなで、貢調使雑掌・朝集使雑掌な 畜産先進国ではほとんどすべて品種間交雑種に 移行し、アメリカでは品種間の循環雑種の作出遺伝子の数が多いと、一方の親にそのような有どと称したが、平安時代に入って 利な遺伝子をすべてホモの状態で集めることは四度使の制度が崩れ、国衙の雑事 が肉牛にも普及してゆく傾向にある。これに対 とくに遺伝子の数が多い 務をとるものを某国雑掌と称する し卵用鶏では、雑種強勢を利用した品種間雑種非常にむずかしい。 と、限られた数の染色体上にそれらが連鎖してようになった。またこれに倣って は少なく、系統間雑種の利用へと移行し、ほと ほんじよりよ・つけ よ いる可能性が高いので、有利な遺伝子だけを一莊園領主である本所・領家はその んどが白色レグホンの系統間の二元・三元・四 し 元雑種で占められている。また乳牛において方の遺伝子型に集めることはさらにむずかし荘園の管理にあたるものを荘園雑 っ 。このような、有利な遺伝子も不利な遺伝子掌といった。鎌倉時代以降、在地 も、泌乳能力に雑種強勢効果はみられず、系統 〈西田恂子〉ももっている両親の間の交雑を行ったとき、 して年貢・公事の徴収にあたるも 六、門の循環交雑が行われている。 はこだて サ - ッシュべノレト 〔左〕 17 ~ 18 世紀 , 貴族の問て , 肩帯は勲章や紋章とは限らす 装飾用サッシュベルトとして , また腰帯も装飾ベルトとして 流行した。フランスペルサイユ宮殿 〔右〕ルーマニアの民族衣装にみられるサッシュベルト 165
も広く一般大衆を対象に定め、アメリカン・ジどで発行されるものだが、六〇〇万部を超す風 分類学的にさらに遠縁の、異なる種や属の間 ゅ . DAY 』 ( 一〈〈じ、『 Emma 』 ( 一〈会 ) であった。 ノ』タイジェスト誌 の雑種 ( 種間雑種、属間雑種 ) では、両親の間 しスキャンダラスなテーマを上手に扱って、男女ャーナリズムの幕を開いた。マンシーの革命的刺漫画誌『クロコディーレ、。 『スプートニク』などュニークな雑誌もある。 で、遺伝子ばかりでなくゲノム構成も異なる場 っ共通の読者を把握し、発行部数一五〇万部を超な広告獲得システムは他誌にも影響を与え、 すといわれ、「フォーカスする、される」「フォ 『レディズ・ホーム・ジャーナル』を嚆矢とし中国では文化大革命の際大半の雑誌が廃刊され合が多い。そのために、このような雑種は完全 ーカス現象」という流行語をも生み出し、各種て一〇〇万部の販売部数を達成する雑誌が出現 たが、「四人組」失脚後、次々に創刊、復刊さ不稔になって、一代限りになることが多い。こ 大衆誌の写真ページが一斉にこの手法をまねるし始めた。 れた。人気の高いのは大衆映画誌『大衆電影』 の場合、の染色体数を倍化して複一一倍体をつ ようになった。「大衆」はいまだ存在しえたの 一九二〇年代以降広告に依存するマス・マガで発行部数八〇〇万部を突破し、中国の一般誌 くると、稔性が高くなり、新たな系統として維 である。 ジンの時代が続き、新雑誌も登場するが、五〇での最高記録を達成した。↓出版〈鈴本均〉持することができる。自然界でおこったこのよ 〔雑誌ライター〕第二次世界大戦前の総合雑誌年代なかばにはニューメディアとしての商業テ回常盤新平著『アメリカの編集者たち』 ( 一九 うな例としては、栽培二粒系コムギ ( 四倍体、 は、論壇といわれるアカデミズム中心の書き手レビの急速な普及によって、広告市場を奪わ 含・集英社 ) ▽尾崎秀樹・宗武朝子著『雑ゲノム式 AABB ) と野生種のタルホコムギ にリードされるオビニオン・ジャーナリズムでれ、生産費の上昇、教育水準の向上、関心の多 誌の時代』 ( 一九七九・主婦の友社 ) ▽城戸又一 ( 二倍体、 (D) との間に生じた属間雑種 ( 三倍 あった。戦後もその傾向は続いたが、週刊誌が おイに対応できず、『コリアーズ』『サタディ・ 編『現代ジャーナリズム講座第四巻出版』体 ABD) の倍化によって生じた、現在広く栽 雑誌の主流を占めるにつれて、専門のルボ・ラ イ。フニング・ポスト』が廃刊に追い込まれた。 ( 一九七三・時事通信社 ) ▽木本至著『雑誌で読 培されているパンコムギ ( 六倍体、 AABBDD) イター、コラムニストが現れ、雑誌のセグメン テレビ視聴者に匹敵する購読者の獲得をねらっ む戦後史』 ( 一九会・新潮社 ) や、アプラナ属の。フラシカ・キャンベストリス ざっしゅ hybrid 遺伝的に異なる生き s ミきミ s 、ユ s ( ハクサイの仲間 ) と。フラ ト化が専門の各種評論家を輩出させた。総合雑た『ライフ』は年間予約料の大幅値上げを行っ雑種 誌を舞台にして現れたのは、終戦直後の『日本 たが、発行部数を八五〇万部まで伸ばしなが物の間の交雑によって生じた個体をいう。狭義シカ・オレアシア B. 。 c き ( キャベツの仲 評論』にルポルタージュの連載を続けた野口 ら、予約購読者は読者増につながらないとする には、問題にしている遺伝子に関してへテロ 間 ) との間の種間雑種の倍化による複二倍体。フ 肇、村上一郎、ついで『中央公論』の三人組、広告主の主張や雑誌郵送料の値上げなどで行き ( 異型 ) の状態であるものをいうが、広義には、 ラシカ・ナプス、ミを、 s ( ナタネやスウェー ひょうえ 藤島宇内、村上兵衛、丸山邦男らであり、週刊詰まり、同種の『ルック』とともに休刊するに異なる品種、系統、種などの間の交雑によってデンカプの仲間 ) がある。人為的には、ハクサイ かじゃまとしゆき みつはる 誌出身者は草柳大蔵、梶山李之、井上光晴、竹至る。雑誌の主流はゼネラル・インタレスト誌生じた、両親の性質をあわせもっ子孫をいう。 とキャベッとの間の種間雑種のを複二倍体化 中労らであり、『文芸春秋』は、立花隆をはじ からスペシャル・インタレスト誌に変わり、出また、これらを育成かっ増殖を図ることが育種したものから選び出されたハクランは、両親と めとして、大宅ノンフィクション賞を設けるこ版経営も広告収入依存型から一部売りを重視すである。↓育種 同じく結球性があり、キャベッとハクサイの食 とによって、ルボ・ライターを含むノン・フィ る販売収入依存型へ移っていく。一九八五年上 両親の遺伝的な差異が一つの遺伝子である場味をあわせもつ新しい野菜の品種である。 クションライターを輩出させた。鈴木明や沢木半期のマスコミ業界紙『ギャラガー・レポー 合には、その雑種を単性雑種、二遺伝子につい 逆に三倍体の不棯性を利用した雑種の品種と 耕太郎らがそうであるが、このほかにも電波ジ ト』によると、一号当り一〇〇〇万部を超えるて異なる場合には両性雑種、以下、三性雑種、して、通常の二倍体のスイカと、それを人為的 ャーナリズム出身の柳田邦男、田原総一朗、角雑誌は『リーダーズ・ダイジェスト』ガ四性雑種、多性雑種という。 に倍化して得た四倍体のスイカとの間の雑種 ま やすはるうえ 間隆、新聞ジャーナリズム出身の本田靖春、上イド』『ナショナル・ジオグラフィック』など 遺伝的に異なる純系の間の交雑によって得ら ( 三倍体 ) による種なしスイカがある。 まえ つぎき 前淳一郎、内藤国夫らにも多くの誌面を解放す五誌であり、一〇〇万部を超えるものは六九誌れる個体を雑種第一代といし 、普通の記号で 接木などによって、生殖過程を経ないで、両 ジャーナリ ることによって、いわゆるニュー に上るが、いすれも厳しい環境のなかでの競争表す。どうしの交雑または自殖によって生ず親の形質をあわせもった個体が得られたもの ジャー である。 ズムの旗手たちを育成した。↓ニュー る個体は雑種第二代 ( ) と いい、以下同様なを、栄養雑種または接本雑種といし 、ナスやト ナリズム イギリスでは長い歴史をもっ雑誌が多く、イ交雑または自殖の子孫を雑種第三代 ( ) 、雑ウガラシの類で実験的に得られている。また、 〔世界の雑誌〕現在アメリカの雑誌は種類の多ンテリ向けの『エコノミスト』「ニュー ・ステ種第四代 ( 増 ) という。は雑種性がもっとも近年の細胞培養技術の発達によって、異なる遺 さと圧倒的な発行部数で他国の雑誌ジャーナリ ーツマン』、ユーモア誌『。ハンチ』などがよく 高いが、どうしは互いに遺伝的に同一であ伝的構成の細胞を人工的に融合させてつくった ズムにぬきんでているが、国内では全国メディ知られている。発行部数第一位は四〇〇万部前 る。個体の間には、遺伝的な分離がおこっ雑種細胞から、これを増殖させてカルスをつく アの役割を果たし、海外雑誌への影響力も大き 後を、民間放送をカバーする『タイムズ』て、遺伝子型も表現型も互いに異なるものが生り、さらに再分化させて雑種植物を作出するこ との番組を網羅する『ラジオ・タイムずる。 。その変遷は近代雑誌盛衰の歴史でもある。 とが可能になった。異種のタバコの細胞の、細 初期はイギリスやヨーロッパの雑誌の焼き直しズ』が争っている。フランスではニュース誌 雑種には、その両親よりも優れた性質を示す胞膜を取り除いた原形質 ( プロトプラスト ) の にとどまっていたが、南北戦争後、資本主義の『レクスプレス』『ル・ボワン』『ル・ヌーベ雑種強勢 ( へテローシス ) が現れることがあ融合からっくられた複二倍体や、トマトとジャ ル・オプセレバトウーレ、グラフ士心『。、リ . 急速な成熟に伴い、マスプロ商品の広告媒体と り、その性質が農作物や家畜の品種として実用ガイモの原形質融合による雑種細胞から、トマ しての社会的機能を認知されるようになった。 マッチ』、高級ファッション誌『エル』などが的に利用される。しかし、遠縁のものの間の雑 トとジャガイモの両方の性質をもつ新しい植物 〈井山審也〉 印刷技術の発達、雑誌郵送に対する優遇措置が健闘しているが、いすれも部数的には伸び悩ん種には、かえって生活力が損なわれる雑種弱勢のボマトなどが得られている。 ふねん 講ぜられるに至って雑誌の総数がしだいに増加でいる。西ドイツではもっとも影響力のあるの現象が現れることがあり、また不稔や不妊と 〔動物の雑種〕家畜の場合にも、雑種は一方の し、全国をカバーするものがでてきた。一八九『モデル・シュピーゲル』、世界最大のグラフ週なる場合がある。 親の有利な特定形質の他方への付与、より優れ 誌『シュテルン』、人間と自然を主題にした 三年『マンシーズ・マガジン』発行人のマンシ 〔植物の雑種〕一般に同一の分類学上の種のな た新品種の作出、家畜としての性能が親よりも ーは、製作原価を割る定価設定で部数四万を一 『ゲオ』、もっとも古い伝統をもっ女性誌『プリ かの異なる品種や系統の間で雑種がつくられ、優れている雑種強勢を期待してつくられる。雑 年半後に五〇万部に伸ばし、この発行実績を基キッテ』などが有名である。ソ連ではほとんどその雑種強勢や、の均一性を利用した品種が種強勢現象は一代雑種にもっとも強く現れる。 礎に巨大な広告収入の獲得に成功し、編集面でがビュレテンとよばれる政府、党、労働組合な広く実用化されている。↓一代雑種 遺伝的に遠い個体間で雑種強勢を期待する場 うだい 164
たわらやそうたっ 俵屋宗達の名画も広く知られている。 三十三間堂で正月一五日に行われる「通し 矢」の儀は、江戸初期に始まったもので、一昼夜、 合 堂の西縁の南端から北端まで ( 約一一八 ) 矢を 〈中山清田〉 射通す競技である。↓通し矢 丗三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむな じよ、つるりぎだゅ、つ ぎのゆらい浄瑠璃義太夫節。一八二五年 ( 文政 一例の ′一りよう 八 ) 七月、大坂御霊境内初演。時代物。若竹笛 みなかむらあけい 一、のう 躬、中邑阿契合作。一七六〇年 ( 宝暦一〇 ) 一 ぎおんにようごここのえにしき とよたけ 二月豊竹座初演の『祇園女御九重錦』全五段 きやりおんど ン のうち、三段目「平太郎住家」「木遣音頭」を ゃなぎよこそね 独立させて改題したもの。通称「柳」。横曽根 りゅう みどりまる 士ロ士ロヤ一 平太郎と契り、一子緑丸をもうけた妻お柳は、 しらかわ 実は柳の古木の精であったが、白河法皇の病気 の原因を除くため、その柳を切って三十三間堂 三あることに由来してこの名がある。 を同時に鳴らす重音奏法に特徴がある。 ごしらかわ かげばやし ながうたときわ かぶき 一一六四年 ( 長寛一 l) 後白河院の勅願を受けの棟木にすることになったので、夫と子に別れ 歌舞伎では陰囃子の曲種、または長唄、常磐 きよもり 津節など舞踊音楽の曲節をさす。前者は特定のて平清盛が建立、平家滅亡後も後白河院は多くを告げて去る。切り倒された柳の大木は運ばれ の保護を加え、堂舎の増築、寺領の確保に努る途中、お柳の思いが残って動かなくなるが、 演出と結び付いた三味線だけの効果音楽で、忍 しよう たじま うれ び三重、愁い三重などがある。後者は場面転換め、鎌倉時代には但馬国 ( 兵庫県 ) 温泉荘をは平太郎父子の木遣音頭によって、やすやすと引 かれてゆく。詞章はほとんど原曲のままだが、 じめ多数の寺領荘園を有したことが記録に残さ に使われ、場面の冒頭や終結部、楽節の末尾な かぶき 現代では人形浄瑠璃でも歌舞伎でももつばらこ 〈ト田隆嗣〉れている。一二四九年 ( 建長一 ) 京都の大火に どに奏される。 なだい より堂宇、仏像のほとんどを焼失したが、千手の名題で上演され、とくに浄瑠璃では人気曲に 一ニ重仕△口さんじゅうけつごう triple bond 〈松井俊諭〉 なっている。 共有結合の一様式。窒素分子の中の二つの窒素観音像千体仏のうち一二四体と二十八部衆立像 みや 原子間の結合や、アセチレン ( アルキンの一 が救出され、一二六六年 ( 文永三 ) 後嵯峨上皇三十三年の夢さんじゅうさんねんのゆめ宮 こきとうてん によって復原されたのが現存の三十三間堂で、崎滔天著。一九〇二年 ( 明治三五 ) 国光書房 っ ) H-C=C-H の炭素間の結合が代表例。この かわらぶきいりもやづくり 刊。中国革命に情熱を注いだ滔天の数え年三三 二つの炭素原子間の三重結合をアセチレン結合単層瓦葺入母屋造の国宝建造物である。南北 はらん おうにん 朝の内乱、応仁の乱の兵火は免れたが、寺領か歳までの波瀾に富んだ自叙伝。本書は、熊本県 と一い , っ に生まれ、長兄八郎の影響で自由民権論に心 窒素原子の最外殻電子は ( 2 を ) 1(2 を ) 】 ( 2p し一らの収入が減少し、室町時代以降寺運は衰えて とよとみ いた。しかし一五八六年 ( 天正一四 ) 豊臣秀吉酔、また一時熱心なキリスト教徒であった彼 の配置をもつが、二つの窒素原子は、それそれ によって北隣に方広寺大仏殿が創建され、蓮華が、一一兄彌蔵の感化を受けて中国革命に全身を 、どうしが共有結合をつくるので、三 シャンハイホンコン つの結合が窒素原子核の間にできることにな王院もその境内に組み込まれて手厚い庇護を受捧げることを決意。上海、香港、広州、タイ、 シンガポールなどに渡航・潜入、また日本に亡 けた。南大門、築地塀 ( 太閤塀 ) はこのとき増 る。結合軸を 2 軸にとると、どうしの重なり そんぶんかいこう シグマ 命した孫文と邂逅し、孫文をはじめ中国革命派 からび結合ができ、どうしとどうしからは築されたもので、いずれも国の重要文化財に指 結合ができる。したがって、三つの結合はび定されている。江戸時代には、三代将軍徳川家の人々を支援して東奔西走する姿が描かれてい 結合一つと結合二つからできていることにな光によってさらに建造物、仏像の大修理が行わる。恵州挙兵 ( 一九 00 ) の失敗後、身を引き、浪 とうちゅうけんくもえもん なにわぶし る。アセチレンの場合は、炭素原子の混成軌れた。本尊は千手観音一〇〇一体で、堂の中央曲家の桃中軒雲右衛門の弟子となり浪花節語 たんけい しんがい に像高三三五一の中尊丈六坐像 ( 湛慶作、国りとなるところで本書は終わる。辛亥革命の成 道からび結合ができ、他の二つの結合は、炭素 原子の軌道の重なりによる結合であ宝 ) が安置され、左右に各五〇〇体の等身観音功は一九一一年のことであったが、本書は中国 立像 ( 国の重要文化財 ) 、堂の両端に風神・雷革命初期の実情を知るうえで貴重な文献であ る。一般に三重結合の原子間距離は二重結合の それより短く、また、炭素化合物における三重神像各一体 ( 国宝 ) 、二十八部衆立像 ( 国宝 ) る。また玄洋社系の国権主義的大陸浪人と様相 結合の反応性は高く、不安定である。↓アセチが中尊の西裏側に列置されている。これらの彫を異にし、自由民権の立場からアジア解放の夢 〈下沢隆〉刻は、康助、運慶、湛慶らが中心となって一〇に憑かれた明治青年の理想主義とロマン主義的 レン↓アルキン 三十三間堂さんじゅうさんげんどう京都市〇年間にわたって制作されたもので、千体立像熱情と行動をのびやかな筆致で描いた書物とし まわ れんげおういん 東山区三十三間堂廻り町にある蓮華王院の本のうち約二五〇体には制作銘が記されているても興味深い。なお本書刊行の翌年には早くも せんじゅかんのん 二種類の中国語訳が公刊されるなど、中国人の 堂。本尊は千手観音。蓮華王院は天台宗に属が、作者末詳のものがほとんどである。風神・ もんぜき 〈和田守〉 間でも広く読まれた。 し、天台三門跡の一つである妙法院が管理す雷神像は躍動的な力強さが生き生きと表現され まかず みどう オ回『三十三年の夢』 ( 平凡社・東洋文庫 ) る。南北に一二五ある御堂内の柱の間数が一一一た鎌倉彫刻の代表作で、これをモデルにしこ 一 2 みつ たい - 一う さ、こ 三十三間堂本堂に安 置される 1001 体の千手 観音像。後白河法皇の 御願により造立された が , 1249 年 ( 建長 1 ) の 大火で大半を焼失。の ち焼失部分は湛慶以下 の仏師たちにより分担 制作された。木造漆箔 像高 165 ~ 168.5cm 平 安後期 ~ 鎌倉時代重 文京都妙法院 卅三間堂棟由来柳の精・お柳は平太郎と老母に一子緑丸 のことを頼んで姿を隠す 398
向 ド herd 、つまり地域集霊長類学会は、八五年に発足した。 単雄複雌の集団は普通二〇頭未満とそのサイ四〇〇頭といったハー 方 〔飼育〕サルの飼育は、種によって難易の度は 団を形成して遊動する。またマントヒヒは、一 ズが小さいのに対し、複雄複雌の集団は三〇 ~ 行 進 六〇頭といったより大きなサイズをもち、とき つの単位集団のなかに、いくつかの単雄複雌の異なるが、多くが熱帯産であり、なかには特殊 化した食性をもつものがいるので、一般的に困 構成をもっ下位集団をもち、さらにこのような には数百頭に達する例も知られている。後者に ロ おいては、雄間、そして雌間に、直線的な安定構造をもっ単位集団がいくつも集まって休眠集難であるといってよい。また、幼児期には扱い ロ と やすくても、成長後は行動の制御が困難になる した順位が認められる。また、血縁集団間にも団をつくる。 ロ お などの点も留意しておく必要があろう。ニホン 安定した順位があり、同年に生まれた子の間で 類人猿の社会は、種ごとに多様な構造をもっ △ っ は、血縁集団間の順位が踏襲される。雄間の直ているが、そのいずれもがオナガザル類のようザルは保護動物であるから、自由に飼育するこ カ △ 線的な順位にはいくつかの分節が認められ、最な母系的な社会をもっていないという点で共通とは許されていない。サルは人間と共通の病気 △ している。テナガザルの単位集団は典型的なべをもち、またとくに熱帯から輸入されたもの 高位の一 ~ 数頭をリーダーとよぶ。リーダー 0 は、ウイルス、細菌、寄生虫など、まだ十分に 定クラスの雄は雌たちとともに群れの中心部に位アの集団であり、子は雄も雌も性的成熟までに 0 を置して群れの統制にあたり、より若い雄たちは出自集団を離れる。オランウータンは、真猿類解明されていない病原をもつものがあるので注 0 0 それを取り囲んで群れの周辺部を形成するとい 中唯一の単独行動者で単位集団をもたない。ゴ意を要する。一般の家庭では飼育しないほうが △ 〈伊谷純一郎〉 霊長類 う空間的配置をとる。帯状になって移動すると リラは、平均一〇頭ばかりの単雄複雌の集団をよい。↓ △ 固」 きにも、行列の先頭と後尾にはこれらの若い雄もつが、雌が集団間を移籍することが認められ〔人間との関係〕人間との類似性から、サルは 0 0 たちが位置する。 ている。ゴリラの単位集団は家父長的な雄が死すべての動物のなかでも特殊な位置を与えられ 若 0 0 ニホンザルについての長期にわたる研究によ亡すると、雌たちは単独行動をする雄や近隣のてきた。すなわち、サルは動物と人間あるいは △ 0 0 自然と文化の中間に置かれ、このことは、世界 集団の雄に奪われるから、結局継承されること って、集団内では血縁間の交配が避けられてい 子 レ」 0 0 ることが明らかにされてきた。とくに一親等、のない集団であるといえる。チンパンジーとピ中の神話や儀礼のなかに登場するサルのさまざ まな性格を説明している。 ^ 〕つまり母と息子、二親等、つまり兄妺、弟姉、グミーチンパンジーの単位集団はともに複雄複 多くの民族がサルに関しては一種の逆進化論 cO 祖母と孫息子などの間柄には交尾が認められな雌で、前者は平均四〇頭程度、後者は八〇頭程 0 0 。これまでに少数の例外的な記録がありはす度のサイズをもつ。集団は縄張りをもち、集団を語っており、サルはいわば退化した人間と考 0 間は互いに接触を避け合っているが、雌は性的えられている。たとえばメキシコのアステカ族 るが、統計的にみても近親婚は避けられている 0 0 あらし といってよい。さらにそれに加えて、ほとんど成熟に達すると隣接する集団に移籍する。両種の創世神話では、原初に激しい嵐がおこって 0 とも雄の移籍は認められていない。チンパンジ人々を吹き飛ばすが、風に運ばれた人々も生き ・すべての雄は出自集団を離脱し、近親の雌とは △ ロ これは人間が ーでは、集団内の雄間に強い結合がみられる。残った者もサルになったといい、 社会的な距離を置くことになるから、近親婚は ロ雌 ピグミーチンパンジーの集団は重層構造をもっ変身したものと考えられている。マヤ系インデ の さらに確実に避けられているわけである。 0 ロ 一方、単雄複雌の集団では、雄が一頭だけでているようであるが、まだその社会学的な意義イオのキチェー族の神話集『ポポル・・フフ』の と 0 ロ なかでも、サルは創造主が最初に木でつくった は明らかにされていない。チンバンジーには、 おあるために父と娘の間に近親婚がおこる可能性 まっえい 0 これまでに十数例の子殺しと共食いがみられて人間の末裔であると語られている。彼らは顔を があるが、実は雄が一つの集団に雌たちととも つぶされ破壊されてしまったが、その子孫はい いるが、この理由も明らかにされていない に生活する期間は四、五年であるために、結果 0 まもなお森の中に住んでいると信じられてい 的に避けられているわけである。ハヌマンラン 〔研究・実験〕サルの研究は、二〇世紀後半に こんとん と一 0 0 グールでは、単雄複雌の集団のほか、雄だけか入って急速に盛んになったが、現生のサルを対る。またチアパス高原では、サルは悪と混沌の △ ^ 〕ロらなる集団がみられ、ときおり後者は前者に攻象にして人間性の究明を目ざすという目的と、象徴とされ、女たちが男の誘惑に負けたりする △ 0 雄撃を加え、雄のすげ替えがおこる。このあと新医学、薬学、神経生理学、心理学などの実験動と、それはサルのせいだとされる。この否定的 △ しい雄は、雌たちが抱いている子を殺し、やが物としての必要性が高まったためである。一九な性格は、同地のカーニバルに現れて、いたす と 0 らの限りを尽くす道化のサルにも受け継がれて て雌たちは発情を開始して新しい雄と雌たちと六〇年以降は、各国に霊長類研究所がつくら 0 お いる。ポルネオ島のダヤク族でも、創造主が人 のつながりができるという過程をたどるのであれ、わが国においても、一九五六年 ( 昭和三 0 0 団 集 間をつくろうとした際の失敗作が、オランウー るが、この社会変動を機に若い雄たちの離脱と一 ) に財団法人日本モンキーセンターが、また △ 団△ の 上集 六七年には京都大学霊長類研究所がともに愛知タンやサルの祖先だと語られている。 △ 0 0 一 △〔一■子殺しによる消失などで集団のサイズはもとの しかし、サルはつねに否定的な性格を負わさ 約半数に減って新たな出発を迎えることにな県大山市に設立された。前者は、八十数種の生 ン 0 サ 行 ヒロニアやエジプト きたサルのコレクションをもち世界一を誇ってれているわけではない。パ・ ン る。この現象は、単雄複雌の構成をもついくっ 0 るし、麦亠名こよ、一彡ヒヒ、、、 幵変異、社会、生活ではサル ( ヒヒ ) は月の神と同一視され、とく かの種でみられている。 時一一口升 0 にエジプトでは太陽神を出迎える従者としての オナガザルの母系的な社会の一部に、重層の史、神経生理、心理、生理、生化学、系統など 0 移な サルの像が多数残されている。このサルは太陽 の部門が設置されている。また、日本モンキー 構造をもつものが知られている。ゲラダヒヒの ら 0 カ カ レ 単位集団は、単雄複雌の普通数頭からなる集団センターは国際学術雑誌『 P ュき』と、一神の仲間であるとともに、知恵の神や書記、学 る 頭 であるが、これがいくつも集まって、二〇〇 ~ 般誌『モンキー』を刊行している。また、日本者の守護神ともされている。東アフリカの王権 2 一口
肉から始まることが多い。歯間歯肉は隣接する歯に加わる力を緩衝する機能も果たしている。 ①歯肉炎一般に単純性歯肉炎とよばれるもの 歯の接触点下を満たすために、その外形は鞍状歯根膜の幅は、年齢のほか、歯に加わる力の大 7 で、歯肉に限局した慢性の炎症性病変である。 しゅちょう ゅ を呈する ( これをコルとよんでいる ) 。年齢の 、およびその期間の長短によって変化する。 し臨床症状は歯肉の発赤、腫脹および歯肉出血 ・、う・ゞ′キ 1 ・」う 1 」う 増加とともに歯肉は退縮し、歯間には空漿が生咬合機能を営んでいる歯根膜は幅約〇・二五・ . などである。歯肉炎は次に述べる辺縁性歯周炎 し じるため、歯間歯肉は、しだいに単純なアーチである。歯に加えられる外力、すなわち機械的 とともに、歯周疾患の大部分を占める。 形を示すようになる。 刺激は、歯根膜の神経機構で受容され、そしゃ 辺縁性歯周炎歯肉の病変が、深部の歯周組 く運動に影響を与える。 組織学的にみると、付着歯肉と歯槽粘膜との 織に拡大波及した病変である。臨床症状は歯肉 間にははっきりとした境界が存在するわけでは 〔セメント質〕セメント質は、歯根の表面を覆 の発赤、腫脹、歯肉出血などの炎症症状、歯周 っている石灰化した結合組織で、そのおもな機 ないが、付着歯肉から歯槽粘膜に移行するにつ ポケット ( 歯と歯肉との間の溝 ) の形成、排 れて上皮突起はだんだん短イ また、歯槽能は歯根面に歯根膜の線維を付着させることに 膿、歯の動揺、歯槽骨の吸収などである。 粘膜では弾性線維は比較的密一・太いが、歯肉粘ある。健康な歯のセメント質の厚さは一生を通 3 咬合性外傷なんらかの原因で、過度の咬合 こんせん 力が特定の歯に加えられた場合に、歯周組織に 膜移行線で徐々に太さと量が減り、付着歯肉でじて増加するが、その増加は、とくに根尖にお いて著明である。歯周病が進むと歯槽骨が破壊 質 ははとんど存在しなくなる。付着歯肉が不動性 おこる外傷をいう。歯槽骨の破壊によって歯の されて歯根膜もなくなり、セメント質ー歯槽骨 となるのはこのためである。健康な付着歯肉に 支持力が低下するため、歯の動揺がおこる。 糸メ質 膜ン骨 周ナ牙髄肉根メ槽管 間の歯根膜による歯の支持が失われ、セメント ④特殊な歯周疾患原因または病態が特殊であ は、スティップリング stippling とよばれる 歯工象歯歯歯セ歯根血 上皮のくばみがある。これは拡大するとナッミ質本来の機能も消失する。歯肉や歯槽骨が退縮 ることから、特殊な歯周疾患として取り扱われ し、セメント質がロ腔内に露出すると、セメン ているものである。①慢性鯡離性歯肉炎歯肉は、歯肉の炎症症状を伴わないで、著しい歯槽カンの皮のような外観を呈するもので、結合組 ト質のう蝕がおこりやすくなる。 症ともいわれ、病変部は赤く腫脹し、表面は滑骨の破壊を引き起こす特徴ある細菌が歯周症患織乳頭に入り込んでいるコラーゲン線維束によ すいほう って形成されている。スティップリングの程度〔歯槽骨〕歯槽骨は上顎あるいは下顎の一部を 沢で、水疱を形成することもある。また、上皮者の病巣からみいだされ、注目されている。 とうつう 〈加藤伊八〉や結合組織の状態には個人差があるが、一般に 形成し、歯を支持する役割を果たす。歯槽骨は が剥離するために刺激に対して敏感で、疼痛を歯周疾患 ルいレっ しじゅうそう 0 クアル一丁ット 年齢が増加するにつれてコラーゲン線維束やス固有歯槽骨と支持骨に区別される。固有歯槽骨 伴う。②急性壊死性潰瘍性歯肉炎歯肉の潰瘍四重奏 ししゅうそしき歯を取り巻いてし ティップリングは減少していく傾向がある。コ は、歯根を取り囲んで歯を直接支持している薄 形成と壊死を伴う急性の病変で、出血しやす歯周組織 い層板であり、支持骨は固有歯槽骨を支持する く、激しい疼痛を訴える。③抗てんかん剤による組織の総称で、歯肉、歯根膜、セメント質、ラーゲン線維はセメント質の歯頸部と歯槽骨の カく・」っ 骨膜面から線維束として配列しており、歯を歯働きをもつ。歯周病が生じると、固有歯槽骨は る歯肉肥大抗てんかん剤 ( ヒダントイン系 ) 歯槽骨からなる。歯周組織の機能は、歯を顎骨 その骨頂部から徐々に破壊吸収が進み、吸収に に保持することにあるが、硬組織を体表面に露槽骨に固定するのに役だっている。 の長期服用者にみられる副作用の一つで、歯肉 歯肉にははっきり区別できる粘膜下組織はな伴って歯がぐらぐら動揺するようになる。歯が の増殖性肥大が認められる。④歯周症比較的出させている歯と体表面上皮との接合部が保持 いが、歯槽粘膜の粘膜下組織は疎性結合組織で抜かれると固有歯槽骨は完全に吸収され、支持 若年者にみられる歯周疾患であることから、若の面からみると弱点となりやすい。このため、 せん 分泌腺を含み、弾性線維が多い。また、付着歯骨のみとなり、義歯装着時には粘膜を介してそ 年性歯周炎ともいう。この病変は歯肉の炎症症歯とロ腔内で接している歯肉 ( いわゆる歯ぐ き ) にはつねに慢性炎症がみられ、これの拡大肉の上皮はほとんど角化しているか、これに近しやく力を負担することとなる。〈村井正昭〉 状は少ないが、著しい骨吸収が早期におこるこ のうろう へんべい とが特徴である。↓歯肉炎↓歯周症↓歯槽したものが歯周病 ( 歯槽膿漏 ) である。以下、 い状態の重層扁平上皮で、刺激に耐えられる形仁寿殿じじゅうでん「じんじゅでん」とも だいり ししん ^ 加藤伊八〉それそれの組織に触れる。 となっているが、歯槽粘膜の上皮は角化してお読む。平安宮内裏の殿舎の名。紫宸殿の北にあ 膿漏↓歯肉肥大 ちゅうでん ひわだぶ 1 しーしゅ、つーしよ、つ らず、上皮突起や乳頭もあまりみられない り、中殿ともよばれた。檜皮葺きで東西七間 〔歯肉〕歯肉はロ腔粘膜の一部であり、歯槽骨 一般的な歯周疾患で 歯周症 ひさし のうろう と歯に付着しているが、そしやく中に物理的あ 歯肉溝は歯肉上皮の陥入によってつくられる南北四間の四面に廂がある南向きの建物。中央 ある辺縁性歯周炎 ( 歯槽膿漏 ) と同様に歯周組 めどう 織 ( 歯肉、歯根膜、セメント質、歯槽骨の総るいは化学的な刺激を受けるため、それに適応が、歯肉溝の上皮は角化しておらす、細菌の毒を通る馬道で東西に分けられる。紫宸殿との間 ろだい 称 ) の病的破壊を引き起こす疾患であるが、発する構造となっている。歯肉はその部位によっ素は上皮を通過して隣接する結合組織に浸透すは露台で、儀式の座が設けられたり、夏に公 ぎよう しんしゆっ 卿たちがここで涼をとったりした。仁寿殿は 病時期、初発部位ならびに臨床的経過が特徴的て付着歯肉、辺縁歯肉、歯間歯肉に分けられる。しかし、滲出液は逆に歯肉溝上皮を通し であるため、特殊な歯周疾患の一つである歯周る。付着歯肉は、その下にある歯槽骨に固定さて結合組織から歯肉溝へと分泌されていく。滲かって天皇の日常の居所で、南廂の東端には天 いしばいのだん 症として取り扱われる。発病時期は一〇歳代後れているため不動性であり、歯肉粘膜移行線出液は殺菌的な活性をもっさまざまな物質を含皇が神事を行う石灰壇があったが、平安中期 半から二〇歳代前半の比較的若年者に限られて ( 歯肉とロ腔粘膜との境 ) に沿って可動性となんでいるが、滲出量は炎症により増加し、炎症からは清涼殿がこれにかわり、仁寿殿では正月 うたあわせ すもう が進むにつれ膿性となり、いわゆる歯槽膿漏の の内宴や歌合などが催され、東庭で相撲が行 いることから若年性歯周炎ともいわれる。初発る歯槽粘膜 ( ロ腔内で歯槽を覆う粘膜 ) と、は じようがく きゅうし われるなどした。↓内裏 〈吉田早苗〉 部位は前歯および上顎第一大臼歯である。歯つきり区別される。肉眼的には歯肉は淡桃色状態となる。 しゅちょう 肉の発赤、腫脹などの炎症症状がほとんどみ に、粘膜は赤く見える。辺縁歯肉は、歯肉と歯〔歯根膜〕歯根膜は、歯を歯槽骨に固定する四十八体仏しじゅうはったいぶつ一八七八 きようじん 強靱な結合組織であり、歯根表面のセメント 年 ( 明治一一 ) 法隆寺から皇室に献納された三 られないのに、著しい歯槽骨の破壊が早期におとの間の溝の部分にあるもので、歯には付着し こってくる。その結果、歯の動揺、病的移動もていない。歯肉溝の深さは、歯肉が正常な場合質と歯槽骨との間を結んでいる。歯根膜は主と百数十点に及ぶ宝物 ( いわゆる法隆寺献納宝 認められる。原因としては代謝障害、内分泌異は二 = 、リ以下である。歯間歯肉は、歯と歯の間をしてコラーゲン線維からなり、線維の一方はセ物 ) の一部にあたる小金銅仏群の総称。一九四 メント質に、他方は歯槽骨に埋入して、歯を歯七年 ( 昭和一一一 D に皇室から東京国立博物館に 常、栄養失調、糖尿病などがあげられている埋めている歯間乳頭の歯肉である ( 乳頭とは乳 移管され、現在は同館構内の法隆寺宝物館にす が、詳細については不明である。一方、近年房状の構造物をいう ) 。歯肉炎は、この歯間歯槽窩内につるす形となっており、そしやく時に 歯肉溝 歯冠部 0 を予 0 第 . 歯根部
き ~ ら きよみず れて、罪をかぶった清水寺の僧清玄とともに晒は、おもに関東地方と中部地方以西の日本海側勤めている。宝生九郎と親交があり、九郎が流豊富なため多くの工業が発達し、近年はロケッ きゅうせん トエンジン、ミサイルなど航空宇宙産業やエレ 、らし者にされる。かって衆道の相手白菊丸を心中および大分県の北部を除く九州の河川上流で、儀を異にする伴馬の子桜間金太郎 ( 後の弓川 ) クトロニクスの中心地としても知られる。一 未遂で殺した清玄は、その生まれ変わりのしるアマゴの分布圏と明確に分離する。 に宝生会で隔月に能を舞う機会を与えたのは、 いわぶち 〈増田正造〉 明治能界の美談とされる。 三九年スイス人の・・サターが入植、四八 しをもっ桜姫を激しく恋し、流浪のすえに岩淵 幼稚魚では体側に鮮麗な小判形のパーマーク あんしつ さくらまみちお ( 天九七ー一九〈三 ) 能年サターの経営する工場付近に発見された金鉱 の庵室で姫と再会すると無理心中を迫り、誤っ が並び、この様相はニジマスと似る。河川生活桜間道雄 、一んばる こづかつばらゆうかく て殺される。姫は権助に売られて小塚原の遊廓二、三年目の春に体色が銀白化し、背びれ頂役者。金春流シテ方。桜間林太郎の次男。熊本脈が大ゴールド・ラッシュを引き起こし、町は ばんま ふうりん で風鈴お姫とよばれる女郎になるが、清玄の亡端、尾びれ末部が黒化して海に入る。この現象市生まれ。一六歳で上京、伯父の桜間伴馬、従物資供給地として大きく発展し、五四年には同 きゅうせん かたきしの ぎんけ は銀毛化変態で、その割合は五〇 % 内外で未成兄弟の桜間金太郎 ( 後の弓川 ) に師事する。 州の州都となった。のち河口港としての活躍が 霊に悩まされるうち、権助こそ親と弟の敵信 ぶそうた 目だっとともに、一八五六年に同州最初の鉄道 夫の惣太と知って、これを討つ。 熟の雌に多くおこる。河川に残留するものはヤ同年生まれで、同じ熊本出身の名手本田秀男、 ばんじゃく のターミナルとなってから、六〇年ポニー 風鈴お姫に、みやびなことばと女郎の卑しい マメ ( 北海道、東北地方ではヤマべとよぶ ) で桜間弓川亡きあと、磐石の技術と独特の能の ひがき ことばをまぜこぜに使わせるなど、作者独特のある。海の生活一年後の春から初夏に遡河し、主張で能界に重きをなした。老女能『檜垣』をクスプレスの西のターミナル、六九年の大陸横 されき 才気を中心に、桜姫、清玄、権助の絡み合い 九月中旬から一〇月上旬にかなり上流の砂礫底流儀に復興、三度演じ、八四歳で『道成寺』を断鉄道の開通まで鉄道交通の中枢都市としてさ で、愛欲の姿を鮮やかに描いた作。初演以後絶 に産卵する。場所によっては秋に遡河、産卵す舞うなど、前人末到の業績を残した。一九七〇らに発展した。 えていたのを、昭和になって復活、近年は五世る群れもある。成魚は通常、全長五〇 ~ 七〇 年 ( 昭和四五 ) に重要無形文化財保持者に認定 文化の中心でもある同市は、数多くの美術 たけち ばんどう 坂東玉三郎が得意とし、また前衛劇などでも取である。体色は青緑褐色で、遡河成熟すると緑 される。油絵をよくし、また武智鉄二演出の館、博物館をもつが、なかでもダ・ビンチ、ミ あや やしろ 〈松井俊諭〉 り上げている。 とピンクの婚姻色が現れる。一尾の卵数は約一一一『綾の鼓』 ( 三島由紀夫作 ) 、『絵姿女房』 ( 矢代ケランジェロ、レンプラントなど世界の巨匠の ふか 叫鶴屋南北全集 6 』 ( 一九七一・三一書房 ) 〇〇〇粒、水温八度 O で約六〇日で孵化する。静一作 ) などにも出演している。著書に『能作品を集めたクロッカー美術館や、博物館とし 捨心の芸術』がある。 〈増田正造〉て一般公開されているフォート・サター、昔の 沿岸漁業では重要魚種で、肉味ははかのサケ類 桜干しさくらばし 0 みりんモし しもう寺 ) さくらまきゅうせん ( 一会九ー一九五七 ) に勝る。北海道では人工孵化事業の対象になっ さくらみち近世に江戸から下総の佐サクラメントの町を復原したオールド・サクラ 桜間弓川 佐倉道 せんじゅ 能楽師。金春流シテ方。明治三名人の一人、桜ている。↓ヤマメ図サケ 〈久保達郎〉倉 ( 千葉県佐倉市 ) に至る街道。千住 ( 東京都メントなどが興味深い。ツバキの産地で、「ツ あだち にいド ) ゅ / 、もルっー ) ばんま さくらまちてんのう ( 一七一一 0 ー五 0 ) 〈作野和世〉 間伴馬の次男。前名金太郎。東京に生まれる。 足立区 ) で日光道中より分かれ、新宿 ( 葛飾 ハキの町」と別称されている。 桜町天皇 ン 流儀の古雅な芸風に鋭い感覚を加え、あらゆる第一一五代天皇 ( 在位一七三五 ~ 四七 ) 。第一一四代区 ) で水戸道と分かれ、中川・江戸川を越えサクラメント Sacramentum やわた なかみかど てるひと ひせき 曲に豪快あるいは巧緻な舞台をみせた名人。低中御門天皇の第一皇子昭仁。生母は新中和門院て、八幡 ( 千葉県市川市 ) 、船橋 ( 船橋市 ) なでは秘蹟とよばれる。カトリック教会がキリス うたい このえいえひろむすめ 音の利いた華麗な謡、鮮やかな型は比類がなか尚子 ( 近衛家熙の女 ) 。一七二八年 ( 享保一三 ) どの諸宿を経て佐倉に達した。八幡宿までは道 トの救いの力によって施行する儀式において発 ぶぎよう った。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 最高の秘曲『関立太子。三五年三月父中御門天皇の譲りを受け中奉行の管轄で、その先は勘定奉行の支配。佐揮する活作用のこと。それは、聖体、洗礼、堅 だいじよう でら せんそ 寺」んけい 寺小町』を上演。新作能にも意欲をみせ、高浜て践祚。三八年 ( 元文三 ) 一一月一九日大嘗倉藩主などの参勤交代、成田不動尊参詣および信、品級、婚姻、告解、終油の七つである。 きよし え ひがしやま ときむねよしつね 会を挙行。大嘗会は、祖父東山天皇のとき一下総北部と江戸を結ぶ交通路であった。その先 虚子作『時宗』『義経』『奥の細道』を演じてい サクラメントの本質はトリエント公会議 ( 一五 ごっちみかど の成田 ( 成田市 ) までは往来が盛んであったか る。五七年芸術院会員。桜間竜馬 ( 現・金太六八七年 ( 貞享四 ) に、後土御門天皇の一四六 四五 ~ 六三 ) によって次のように定義されている。 こあみ に Q. 、 ) はその長男で桜間会を主宰。従六年 ( 文正一 ) 以来の旧儀を復興したが、父中ら成田道ともよばれる。江戸小網町 ( 中央区 ) ①キリストによって制定されたこと、②神の超 ぎようとくがし おなぎ おんちょう しるし 〈増田正造〉御門天皇のとき中絶したのを再興したもので、 の行徳河岸から小名木川を通って、行徳 ( 市自然の恩寵を示し、それを与える印 ( シンポ 兄弟に桜間道雄がいる。 かみみようでんふたまた この後は定例となった。一七四七年 ( 延享四 ) 川市 ) で上陸して、上妙典・二俣 ( 市川市 ) ル ) であること、③その印は質料 materia と 回桜間金太郎著『桜間芸話』 ( 一九哭・わんや書店 ) とおひとももぞの さくらまばんま さくらまさじん 0 桜間伴馬 第一皇子遐仁 ( 桃園天皇 ) に譲位。歌道に秀を経て、海神 ( 船橋市 ) の先で佐倉道に合する形相 forma からなる統一体である。たとえば 桜間左陣 とわ サクラマス〔桜鱒〕 masu salmon/8 で、歌集『桜町院御集』『桜町院坊中御会和歌』通路も盛んであり、八幡からは利根川水運の便洗礼の場合、水で受洗者を洗うことが質料であ きおろしいんぎい かんえん せんにゆう 0 ミミをミぎ s きミ硬骨魚綱サケ科に属すなどがある。寛延三年崩御。京都東山・泉涌のある木下 ( 印西町 ) に行く木下街道も分かれり、洗礼を授ける者が受洗者にいうことば「私 〈山本光正〉 る魚。いわゆる太平洋サケの仲間の一種であ寺に葬るが、いまの御陵は今熊野にあり、月輪ていた。 は父と子と聖霊の御名においてあなたに洗礼を る。漁業者はこれを単にマス、あるいはママ陵という。 〈辻達也〉サクラメント Sacramento アメリカ合授ける」が形相である。「教会の秘蹟は外形的 さくらまばんま ( 天三五ー一九一七 ) 能衆国、カリフォルニア州中北部、サクラメント な儀式によって授けられるが、そのとき秘蹟の ス、ホンマスとよぶのが普通であるが、魚市場桜間伴馬 こんばる 役者。金春流シテ方。晩年祖父の名をとって左 などでは、ときにカラフトマスをサクラマスと 川に臨む同州の州都。人口二七万五七四一 ( 一九効果を霊魂に実現するのはキリストご自身であ じん きた よぶことがある。サクラマスの分布はカムチャ陣と改名。桜間家は喜多流の友枝家とともに熊 ハ 0 ) 。コースト山脈とシェラ・ネバダ山脈に挟る」 ( ピオ一二世「神秘体に関する回勅」 ) 。っ はちまん からふと 本の藤崎八幡宮に奉仕する能の旧家。伴馬は桜まれた肥沃なセントラル・バリ ーのほば中央に まり、秘蹟の効力の源は、救い主イエス・キリ ッカ半島南端、樺太 ( サハリン ) 、南千島、 海道、本州の北西域、オホーック、沿海州、朝 間家一七代。弟に金記、林太郎がいる。一一一歳位置する。行政および交通、商工業、文化の中ストの功徳、とくに受難と復活の功徳である。 心地であるはか、工業力と肥沃な農業地帯、さ 半島の東側である。北東沿岸・近海域を回遊で江戸に留学し、名人中村平蔵に学んだ。四六 七つの秘蹟は前述のような共通性をもつが、 かんたん 歳以後は東京で活躍し『道成寺』『邯鄲』など らに美しい景観を同時にあわせもった恵まれたおのおのはそれそれの機能と目的をもち、それ し、降海後は北東に、冬季には反転して南西に まうしよう 移動するのがおもで、北洋に回遊することはなの鮮技で、たちまち一六世宝生九郎、初世梅都市の一つといえる。サクラメント谷に産するでいて全体として一つの統一をなしている。 若実と肩を並べ明治三名人と称された。晩年ま野菜、果物の集散地、市場であり、これらが主 。本州沿岸の来遊南限は、太平洋側で神奈川 洗礼によって人間は罪が許され、神の子とな ごたいてん 県、日本海側で山口県であるが、ときに熊本県で舞台に立って至芸をみせ、大正天皇の御大典産業である食品加工業を支える。そのはか、石り、教会という共同体のメンバーとなる。堅信 たかさご に及ぶ。淡水生活型のもの ( ヤマメ ) の分布圏宮中能では八一歳の高齢で『高砂』の前シテを油、天然ガス、材木、鉱石、水力などの資源が によって人々は恩恵が増し、信仰は強められ、 こんばる せき みのる きんき ひょく
さけ サケ るか れつ死 群をく る床な をる産雄ま に越掘ちれ めてをださ たね礫た流 の跳砂とは もでる魚 産物れす親 ⑥・害び卵た 障尾産え のやが終 産ど頭 ) を 上滝雌雌産 遡⑦⑧⑨⑩ い卵床内で発生が進む。発生速度は水温によっ〇以下 ) があれば夜と同じように下る。夜 間、流水の中では餌をとらない。また、日中の て変わるが、八度 O の水温で三〇日目には卵膜 を通して目が認められる ( 発卵期 ) 。受精後六稚魚の摂餌量が不十分なほど、夜間に活発な流 〇日 ( 二か月間 ) 、積算温度 ( 平均温度と日数下現象をおこすのに反して、十分な摂餌量の個 体は浮上も少なく、流下も不活発である傾向が の乗積 ) 四八〇度 0 で卵から孵化する。 ある。 〔稚魚と降下移動〕孵化直後の稚魚は透明で、 川を下る稚魚は、体色も銀白色に変わり、パ , 髪腹側にしばらくの間、稚魚の栄養となる臍嚢と ーマークも淡くなり、背びれと尾びれが黒変す よばれる卵黄の袋をつけている。一週間くらい で体に色素が出始め、日数経過に伴って臍嚢吸る。降下移動の盛期は雪解け時期と重なる四、 収が進むと体側に特有な斑紋が現れる。稚魚は五月で、海に下った稚魚は、沿岸水域の餌料生 臍嚢吸収まで卵床内で静かに過ごすが、臍嚢吸物の多くなる時期とほば一致して、盛んに橈 きやく 収完了すこし前から稚魚の運動が順次活発にな脚類をはじめオキアミ類、各種の幼生、魚卵、 しぎよ 仔魚などを摂食して成長する。 って、砂礫の間を縫って上方に移動を始める。 〔人工孵化〕〔歴史〕人工孵化法が導入される 孵化後六〇日で臍嚢を完全に吸収して卵床から 日に遡上したサケを保護し、天然繁殖さ 離れる。卵床からは一、二週間で次々に脱出以前、 たわがわ はうれきめいわ せる種川制度があった。宝暦、明和の間 ( 一七五一 し、ただちに遊泳して摂餌活動をする。 みおもて ~ 七一 l) 、最初に新潟県三面川、ついで山形県月 この時期は、川の水温はまだ一 ~ 三度 0 と低 いため、比較的水温の高い産卵床付近の流水の光川で行われて以後、本州、北海道の各河川に 緩い所に群れをつくっている。その後、水温のも広まり、明治まで続けられていた。 一八七六年 ( 明治九 ) 、人工的に初めて茨城 上昇とともに遊泳も活発になり、生活領域を広 げる。 にとどまっている間、上流から流され県那珂川で採卵、東京の新宿試験場に運んで孵 さなぎ 栄か てくる小さいユスリカ、カゲロウの幼虫や蛹な 化に成功、本州各地に移殖放流された。一方、 らろ 北海道では七八年、札幌の偕楽園内の川から、 どの流下昆虫や、川面に落ちる落下昆虫を盛ん 黄の めいりよう ゅうらつぶ 同年遊楽部川のマス、茂辺地川のサケから採 に摂食する。この時期の稚魚には明瞭なパー ななえ るる魚 卵、試験的に七重勧業試験場で翌年稚魚が孵 マークがあるので一名パー稚魚 parr fry とよ すす稚稚 ばれる。 化、河川に放流している。八一年にアメリカ東 精発孵経し 稚魚は、おもに日没から夜間にかけて降下移岸メーン州のバックス・ポート孵化場に倣って 受ででをる長 ちとせ ①日す成 千歳中央孵化場が建設され、名実ともに国が行 動する。日中群れをつくっている稚魚が、暗く 数長にる っ -) ( 0 化約約十成 5 め なると群れを崩壊し、浮上して流れとともに下うサケ・マス人工孵化センターとなった。一九 孵後後後て 5 始 精精化し ~ る。日中、流水が清く澄んでいれば、ほとんど三四年 ( 昭和九 ) まで全道に孵化場が設立、盛 3 生受受孵給 4 下 発②③④⑤を流下しない。しかし、日中でも濁り ( 透視度一一んに事業規模で人工孵化放流が行われ現在に至 、こいのう
ことひら よど よどのつ さんよかいぎ幕末、京都で任命さ 2 参予会議 , フ Cyclopigidae のように両眼が一つにつながっ讃岐鉄道から引き継いだ高松ー琴平間 ( 現予讃て淀川沿いの與等津とも密接に結び付いていた どさん ことが知られる。近世には、山陽道は道路名とれた朝議参予による会議。一 八六三年 ( 文久 よて頭の前面を覆うものまであった。複眼の個眼本線・土讃本線 ) などを保有していた。一八 みそか も大きなものでは肉眼でもよくみることができ 八年 ( 明治二一 ) 兵庫ー明石間で開業したのをしては西国街道あるいは西国路と称された。↓三 ) 一二月晦日、京都において、将軍後見職徳 よしのぶ もたもり よしなが 五畿七道 〈金田章裕〉 川慶喜、京都守護職松平容保と、松平慶永、山 るものがある。胸を構成する各節は可動で、こ最初として、一九〇一年に本線を全通させた。 とよしげだてむねなり こを曲げて体を二つに折るものや、アルマジロそれより先、徳山まで開通してからは、一八九サンヨウブシ〔山陽附子〕き、ミミミ内豊信、伊達宗城の五名が朝議参予を命ぜら ひさみつ 。トれ、翌六四年 ( 元治一 ) 正月一三日島津久光も のように丸くなるものも多かった。尾部の各節 八年から徳山と門司との間に傍系の山陽汽船に きミ e Nakai キンボウゲ科の多年草 ぶんきゅう は癒合して尾板を形成するが、尾部にもさまざ よる連絡船を運航し、全通後は関門連絡船を設 リカプトの一種。全体が大きく高さ一一に達す加えられた。「文久三年八月十八日の政変」に くぎよう おのみち そんじよう まな突起や棘がある。 けた。一九〇三年には岡山ー高松間および尾道る。無毒種。葉は円形で厚く、五 ~ 七中裂すよって、尊攘激派の公卿や長州藩兵が京都を たどっ えんすい 〔発生と分化〕古くから発生学的にみて、カプ 追われたのち、かねてからの、雄藩連合による ー多度津間に連絡船を走らせ、讃岐鉄道と連絡る。九 ~ 一〇月、まばらな円錐花序をつけ、青 もちひさ トガニ類と三葉虫との類縁がいわれているが、 した。航路との競争があるためサービスの改善紫色花を開く。花柄、小包葉ともに、まったく 公武合体の主唱者島津久光 ( 薩摩藩主茂久生 三葉虫の個体発生の研究から、原始的な甲殻類 に熱心で、急行列車の設定、食堂車や寝台車の毛がない。湿った温帯林内に生え、関東地方以父 ) は、京都に入り、天皇のもとに雄藩の藩 との類似が知られるようになった。三葉虫が古連結は日本で最初であった。また下関には直営西の本州、四国に分布するが、少ない。尾瀬や主、前藩主など実力者を集め、幕政に指示を与 よ ) っえき 〈和久田康雄〉日光には、葉腋にむかごをつける変種ジョウシ 生代初期に出現したときにはすでにかなりの分の山陽ホテルを設けていた。 える公武合体政権の樹立のために動いた。その ュウトリカプトがある。 〈門田裕一〉 結果が、年末の朝議参予の任命であった。先に 化を遂げていたが、カン。フリア紀に栄えたもの三洋電機 ( 株 ) さんようでんき総合家電メー じよ・つい は同紀末か次のオルドビス紀末までに滅亡し、 さんようほんせん近畿・中国地方五月の攘夷断行のために上京していったん帰府 カー大手の一つ。一九四七年 ( 昭和二一 l) 松下山陽本線 いえもち いうえとしお ォルドビス紀になって出現した別のグループが幸之助の義弟井植歳男が、松下電器産業を退の瀬戸内海沿岸を走る日本国有鉄道の線路名した将軍徳川家茂も、また大坂経由で、六四年 - 」うべ これにかわる。これらはオルドビス紀、シルル き、設備も一部譲り受けて三洋電機製作所を創称。神戸ー門司間五三五・〇キロおよび兵庫ー和正月一五日に着京、二一日右大臣に任ぜられ 紀に大繁栄したが、デポン紀には衰退に向か業、自転車用発電ランプを生産。五〇年に三洋田岬間二・七キ。 ( 旅客支線 ) 、その他の貨物支た。任命以前から京都にあって、久光や慶永の 宿舎でたびたび会合していた参予の面々は、六 、石炭、ベルム ( 二畳 ) 両紀には一部の系統電機 ( 株 ) を設立、ラジオ生産も開始、五三年線計二・二キ。。全線複線 ( 一部に三 ~ 五線区間 に発売した噴流式洗濯機で大成功を収め経営基がある ) 、全線電化 ( 直流 ) 。山陽地方を縦貫す四年正月から二月にかけて、御所や一一条城で数 のものを残すにすぎず、ベルム紀中ごろに絶滅 盤を確立した。その後テレビ、冷蔵庫、掃除機る幹線鉄道で、東海道本線と結んで日本の人口 日ごとに会合し、大小の国政問題を議論した。 した。三葉虫の衰退と魚類の繁栄とが期を一に えさ さねとみ することから、三葉虫が魚の餌になったことが などの生産も始め、販売網の整備を進めて、六集中地区、工業地区である太平洋ベルト地帯をしかし、とくに京都を追われた三条実美らを受 あかし こがわ 結んでいる。沿線には明石、加古川、姫路、相 け入れている長州藩の処分や、横浜鎖港の可否 三葉虫衰亡の一因といわれている。三葉虫は古〇年ごろには早くも総合家電メーカーとしての かさおか おのみちみはら 生代を通じ著しく分化して多くの種を残し、古業容を整えた。五九年には、三洋電機グループ生、岡山、倉敷、笠岡、福山、尾道、三原、東をめぐり、朝廷の公卿たちゃ、将軍家茂、政事 ゃない なおかっ 広島、広島、大竹、岩国、柳井、徳山、新南総裁職松平直克らも含めての、意見が対立し 生代の主要な示準化石となっている。現在までの生産拠点として東京三洋電機 ( 株 ) を設立、 おのだしものせき に記録された三葉虫は一五〇〇属、一万種に上冷凍ショーケース、空調機器など業務用商品に陽、防府、宇部、小野田、下関、北九州などのた。松平慶永は二月一九日にいったん辞意を表 るといわれる。三葉虫は大陸の縁辺の海域に生も進出したほか、半導体の生産も開始した。近都市、瀬戸内海国立公園に属する観光地があ明し、山内豊信は二月二〇日辞職して帰国し ばかん た。久光の横浜鎖港反対論などが強く出された 息していたが、多くのものは深くない海底をは年は、 O< 機器、ソーラーシステム、太る。神戸ー馬関 ( 現下関 ) 間は山陽鉄道によっ ~ 一九〇一年 ( 明治二一 ~ 三四 ) 開 こともあったが、国政の実質的な主導権をめぐ っていたといわれ、そのはい跡や掘った穴の跡陽電池へと事業分野を広げている。また六〇年て一 って、家茂や慶喜と、慶永、久光、宗城らの対 の化石もみつかる。なかにはやや深い所にすむに三洋電機貿易 ( 株 ) を設立して輸出を本格化業、〇六年国有化された。第二次世界大戦中の もの、礁にいたものもあり、目の退化したものする一方、海外に生産、販売拠点を設置、七〇四二年 ( 昭和一七 ) 関門トンネルの開通によっ立が決定的となり、三月九日残る五名全員が朝 は泥中に潜っていたらしく、海中を遊泳したも年代末以降七六年に製造合弁会社を設立するなて、門司まで延長されている。電化は京阪神国議参予を辞職し、事あるときに参内することで のもいた。 ど対米進出を積極化。資本金は約六一三億円電区間の一部として、神戸ー西明石間が三四年天皇の了承を得たため解体した。〈河内八郎〉 日本の三葉虫化石の産出は多くはないが、か ( 一九〈五 ) 。国内九か所に工場をもつ。〈中村清司〉および四四年に、関門トンネルの開通に際して参与観察法さんよかんさつほう participant はたぶ りつりよう observation method 社会調査の一技法。社 なり発見されるようになり、最近その全貌が明山陽道さんようどう古代、律令期における幡生ー門司間が四二年と部分的に行われたが、 会調査におけるデータ収集の方法には、調査票 らかにされた。シルル紀 ( 高知県横倉山、宮崎国の上部の地域単位である五畿七道の一つ、お幹線列車のための電化は五八 ~ 六九年 ( 昭和三 おおふなと ぎおん よびそこに設定された官道の名称。中国地方三 ~ 四四 ) に完成した。七二年に新大阪ー岡山を用いる方法、観察法、自由面接法、テスト法 県祇園山、岩手県大船渡市など ) 、デポン紀 あき よしき かみたから 日 七五年に岡山ー博多間に新幹線が並行してなどがあるが、参与観察法は、研究者自身が調 ( 北上山地、岐阜県吉城郡上宝村福地、福井県の南側にあたり、七三四年 ( 天平六 ) に安芸、 すおう はりまみまさかびぜん 開業して、都市間旅客輸送の機能は低下し、各査対象となっている地域社会や集団に参加し、 大野郡和泉村伊勢など ) 、石炭紀 ( 北上山地、周防の国境が定められて、播磨、美作、備前 びっちゅうびんご えんぎしき : しくびき おうみ ( 『延喜式』では以上近国 ) 、備中、備後 ( 以上都市を中心とする短距離輸送に主たる役割が移その成員としての役割を演じながら、そこでの 新潟県叫頸城郡青海町、山口県秋吉台など ) 、 けせんめま 事象を多角的な側面にわたり長期的に観察・記 ベルム紀 ( 宮城県気仙沼市、福島県高倉山な中国 ) 、安芸、周防、長門 ( 以上遠国 ) が確定っている。 だぎいふ 山陽線には、山陽本線のほかに、加古川線、 述する観察法の一つである。この方法は、研究 〈藤山家徳〉した。美作以外の瀬戸内海側を京と大宰府を結 ど ) のものが知られている。 かじゃ きしん あ - 一 ) っ ばんたん さんようてつどう一九〇六年 ( 明ぶ古代の最重要路山陽道が貫通し、原則として鍛冶屋線、播但線、姫新線、赤穂線、津山線、者と著しく文化様式が異なり、構造のおおよそ 山陽鉄道 きび はくび ふくえん くれ びき 治三九 ) の鉄道国有法により国に買収された一駅馬二〇 ~ 三〇疋が常備されていた。駅数は吉備線、宇野線、伯備線、芸備線、福塩線、呉すらもっかめない地域社会や集団の実態をうか かべ がんとく がんにち ばかん しものせき 『延喜式』では合計五四駅であった。同書「主線、可部線、岩徳線、岩日線、山口線、宇部がい知る場合に、とくに有効性を発揮する。標 七社の私設鉄道の一つ。神戸ー馬関 ( 現下関 ) ばんたん 月野田線、美祢線が含まれる ( 一九会 ) 。 準化された調査法は、調査対象の実態が漠然と 間の本線 ( 現山陽本線 ) のほか、播但鉄道から税上」には山陽道諸国のすべてに海路の船賃を線、、 しかま 記載しており、陸路のみならず瀬戸内海を通じ東海道・山陽新幹線 〈青木栄一〉であれ予想できる場合にのみ用いることができ 引き継いだ飾磨ー姫路ー新井間 ( 現播但線 ) 、 ぜんばう さぬき よさん はかた さつま
じしやく 磁石 ④ 」磁 → ③ 棒磁石と方位磁針 ⑧ ⑦ 磁化した針につく鉄粉 ⑨ ⑥【 ' この写真でわかるように、鉄粉は磁石の両端 オリン O O 、プロモフェノール・フルー、。フロモ クレゾールグリーン、・フロモクレゾールバープ付近にもっとも強く引き付けられる。磁力が集 ルの適当量を混合した場合には、一・〇から中しているようにみえるこの場所を、磁極とい だいだい う。磁極には z との二種類しかなく、同名極ど 七・〇までの間で、一餌単位ごとに赤、橙、 うしは反発し ( 写真② ) 、異名極は吸引しあう 黄、緑、藍などの色に変化する。〈成澤芳男〉 フ じしやく magnet 鉄粉を引き付ける ( 写真③ ) 。写真④では棒磁石の極に磁針の Z 磁石 磁力をもつ物体のこと。工業的につくられる強極が引かれている。二極間の力は距離の二乗に ク い磁石を永久磁石というが、一般には単に磁石反比例し、磁極の強さに比例するクーロンの法 とよぶことが多い。古くから知られた天然磁石則に従う。磁極の強さと二極間距離との積を磁 は磁鉄鉱を主とする岩石だが、いままでの永久気モーメントと定義する。磁極は等しい強さの て れ z と (J) とがかならす一対になっているので、磁 磁石は鉄合金であったから、「磁石」というよ り中国語の「磁鉄」のほうが呼び名としては適極の強さよりも磁気モーメントのほうが本質的 石切ではなかったろうか。しかし最近の永久磁石な物理量であると考えられている。磁気モーメ ントはその向きも考えて、 T) から Z へ向かう・ヘ 生産ではバリウムフェライト ( 酸化物 ) 磁石が クトルで表す。二つの磁気モーメント間の力を もっとも多くなり、ふたたび「磁石」とよぶに 石石 計算すると、距離の四乗に反比例している。こ 磁磁ふさわしい時代となった。 。ししカオし物質れは二個の磁石間の吸引力がごく接近している 純鉄は磁力が弱く、磁石とま、、 ; こ、 ェであるが、外側にコイルを巻いて電流を通すときは強く、離れれば急速に弱まることの理由 O フ と、電流が流れている間だけ強い磁力を示す。である。また写真③のように異極は引き合って これを永久磁石に対して一時磁石と名づけ、こ互いに磁極を打ち消し、全体の合成モーメント 型 の構造物を電磁石という。さらに中の純鉄を取を小さくするように位置したがる。コイルに電 字 流を通すと一時磁石として働くと述べたが、円 石り去ってコイルだけにしても、電流を通すと一 用時磁石のように働くので、これも磁石というこ形に流れる電流は磁気モーメントを発生し、し 業 石 たがって円電流と磁石とは同じ性質をもっ ( 写 とがある。超電導コイルを用いた超電導磁石は 工 コ U 真⑤・⑥ ) 。この同等性は磁気の本質にかかわ この例である。 永久磁石は用途によっていろいろの形につくる重要な関係である。 られ、磁針、棒磁石、円柱磁石、形 ( 縣蹄〔磁石の内部構造〕磁石を分割してみよう。フ < コ エライト磁石はすぐ割れるから、この実験に適 形 ) 磁石などとよばれる。磁針が地磁気を感じ 石 している。破片はそれそれが磁石になる。粉末 て南北をさすことはよく知られており、北をさ 磁石 にまでしてもみな小さな磁石になる。実験はこ LL 久磁す針先は ( 指 ) 北極または z 極、反対側は ( 指 ) 永棒 の こまでだが、分割の行き着く先は原子である。 南極または極と名づけられた。 Z 極には Z と 種 各 刻印されるか、赤い色などが塗ってある。この磁気学では個々の原子が磁気モーメントをもっ 磁気コン。ハスも単に磁石といわれることが多原子磁石であって、それらがモーメントの方向 そして広い意味では、磁石になりうるもをそろえて整列していると考えている。このよ うな性質は鉄族原子や希土類金属原子など特別 の、すなわち強磁性物質すべてを俗に磁石とよ ぶことがある。↓永久磁石 のグループの原子のもっ特性で、これら特別の 〔磁界と磁気モーメント〕磁石のそばに置かれ原子を含む物質だけが強磁性体となることがで た鉄片は磁石に引き付けられる。このように磁きる。さらにミクロな話では、原子磁石の原因 力を受ける空間を磁界または磁堺とよぶ。磁石は主として原子中の電子の自転 ( スピン ) に伴 う磁気モーメントである。電子の自転は電荷の は磁界を生ずるといいかえてもよい。磁界のよ うすをみるためによく使われるのは鉄粉模様で円運動すなわち円電流であると考えれば、磁気 磁ある。磁石の上に白い厚紙をのせ、上から鉄枌モーメントをもっことが理解されよう。強磁性 の を一様に散布すると、写真①のような磁カ線模体内部はこのように初めから磁石となってお イ り、これを自発磁化という。 様が現れる。小さな磁針をのせると、この磁カ線 コ しかし、それではなぜ純鉄などは普通は磁石 に沿った方向をさす。ここで Z 極のさす向きを イ ノ磁界の方向と定める。これは磁石の Z 極から出 にみえないのだろうか。それは内部が自然に細 7 かな領域 ( 磁区 ) に分かれ、各磁区の磁気モー ソて極へ入る向きである。
二、◎ しこくち 四国地方 / 地勢 3 山陽 = 。。ノ県 . い .1 イ・家豊諸島 小豆島一鸞 0 を第星ヶ しんく一き 岡亠平野 海道・山、“ , 目 ー価。西能島 ・大熏 芸諸の。 。。安芸 : 攤・ " 戸 防予諸、 - 島 / 由利島 。青島重信川 福山平野、 し 笠戸島ダ 0 4 備後・い 0 高井神島 魚島 四最島 目 i 水島灘。 島半島 トーーメ / 高見島塩飽諸島 大平 , 。 0 伊吹島 讃岐平野 財田川 0 0 0 0 i 祝島 ( 公 乞△ 伊皀 一田皹毎飜 社川 1 社竃半團野 0 0 島 0 松山平野 △ 986 0 ム 引 6 △ 播磨攤 県 7 居浜平野 笹ヶ赤山 △属 5 ふ △ 7 赤 △用 60 、・、 . ノ、三傍示山 , 山を岩山 亠国見梶ヶ 高坂し △ー 400 ー△日 76 4 属 27 曳峠御在所山 △ー 0 、ケ森 △ 674 山ー 寺引 。辺ノ 石墨↓ 0 .1- 島毎。ー 壺神山 久万高 . 、 ・大 △ー 8 △ 8 に 出石亠 大川嶺 5 為月神山 雨包山 ・地峠・鳴形山症 、ン : △ 538 徳島平野 △ー 47 矢。筈 708 △ 尾山 ~ 。。 、 ~ △を 3 狗貧由丸鰻 △冖亀谷 △ 06 陣ヶ森 ー 0 に△ 9 ツ面亠 △ー 55 八早山 △ :.?25 宀所山 7 志野川 勝浦川 野 1 Ⅳ 940 , 大崎鼻 0 振′ △ー 0 ー 7 496 ー 80 △ 早山 7 ' 和ハ ' 在尸 高知平野 空△ 0 那慣川 0 ム △ー 9 音岳Ⅱ。、 ほ / 四万ト川 ( ハ ー 85 △ 八本 △ 954 八郎山 △ 9 ー 9 △ 566 大ノ」山 白ノ鼻 。蒲生田岬 693 伊島 皹 横島 ( 匹學 ・・大島 △ 75 ー 上佐湾 中村平野 貝ヶ ノ亠 △ 865 奈半利川 興津崎 1 島来島 ! 姫島 鼬ノ島 室戸岬 足摺半島 足 岬 うちわ の団扇、小豆島のしようゆ、愛ている。空港は徳島、高松、松山、高知の四つ があり、高松空港以外はジェット機が就航して 媛県今治市のタオルと縫製品、 伊予三島・川之江両市の水引・ 製紙などがある。 〔開発〕四国の開発プロジェクトは交通関係が 〔交通〕四国最初の鉄道は一八中心である。第一が本州四国連絡架橋で、一九 ・一じま、かいで 八年 ( 明治二一 ) に三津浜ー 七八年 ( 昭和五三 ) 児島ー坂出ルートの瀬戸大 松山間に敷設された伊予鉄道で橋の着工式があり、八八年開通の予定。また尾 みち おおみしま いんのしま ある。その翌年讃岐鉄道の丸亀道ー今治ルートの大三島橋・因島大橋、神戸ー ことひら おお ー琴平間が開通した。国鉄は一鳴門ルートの大鳴門橋はすでに完成している。 九二七年 ( 昭和一 l) 予讃線の高四国幹線自動車道は、 X 型に交差する川之江市 松ー松山間、三五年高徳線の高で一九八〇年起工式が行われ、横断自動車道一 松ー徳島間、土讃線の高松ー高五四キロ、縦貫自動車道一一一一四キロの建設に着手し 知間が全通した。現在、四国循た。原子力発電は愛媛県伊方町で実用化されて 物環鉄道の建設中で、土讃本線と いるが、他の候補地は地元の賛否両論で決定に 予讃本線が予土線ならびに中村至らない。一九八四年度末、四国の電力の原子 線で結ばれ、四国西半分の一周力発電比は三九 % である。 ルートが完成し、東半分の工事〔人口〕一九二〇年 ( 大正九 ) に第一回国勢調 しんちよく が進捗中である。高徳本線、査が行われたが、そのときの四国の人口は三〇 むど 牟岐線に続いて阿佐線 ( 海部ー 六万五六四三人で、全国の五・五 % を占めた。 ごめん 後免 ) ができれば徳島市から室一九八五年 ( 昭和六〇 ) の国勢調査では人口四 一尸経由で高知市に達し、さらに 一三万七二五一人で、全国比三・五 % 、人口密 すくも 宿毛線ができれば中村ー宿毛ー 度二二五人である。第二次世界大戦後の人口の 宇和島間も開通する。 推移をみると、いちばん多かったのが一九五五 道路は国道一一号、三二号、年の四二四万五〇〇〇人、少ないのが七〇年の 三三号のいわゆる > 字幹線道に 三九〇万四〇〇〇人である。すなわち、第二次 加えて、臨海部を通る五五号、大戦中の疎開などで四国の人口は急増したが、 五六号のルートの舗装、改良六〇年代の高度成長期には人口が大都市に流出 が進み、いまは快適な車による し、七〇年までの一〇年間に三一万七〇〇〇人 四国一周旅行ができるようにな の減少をみた。これが四国山地を中心にした過 った。道路の舗装率、改良率は疎化の波となって現れた。 ともに香川県を除く他の三県は 四県のなかで一九七〇年以降最初に人口増に きわめて悪い。なかでも改良率転じたのは香川県で、六五年の九〇万一〇〇〇 は全国最下位にこの三県が並ん人を最低に上昇に転じ、八〇年一二月には一〇 でいる。 〇万人を突破した。ついで愛媛県が七〇年一四 海上交通は国鉄宇高連絡船一万八〇〇〇人を最低に増に転じた。高知・徳 や、東京と徳島、高知を結ぶ長島両県も七〇年をポトムに七五年から増に転じ 距離フェリーのほか、短距離フてはいるが、年度別にみると愛媛は七一年か ーが無数にある。対岸の岡ら、高知・徳島は七四年から、それも増の幅は 山、広島、大分、和歌山各県と きわめて少ない。七〇年の国勢調査によると、 の間に多く、とくに宇野 ( 岡人口減少率一〇 % 以上の町村数は香川がゼロ、 山 ) と高松間は約一九分間隔で徳島が一二、愛媛・高知がそれぞれ一七である 0 一日五〇回の連航がある。四国が、八五年では香川がゼロ、徳島が四、愛媛が 0 各県から阪神への中距離フェリ 六、高知が八と激減している。人口流出の下げ ーも数多い。瀬戸大橋架橋後、止まりという点からいえば、安定成長期は四国 5 0 にプラスしているといえる。 これらフェリーのなかには大打 撃を受けるものも予想され、そ ただし六五歳以上の老齢人口の率の高いのが の補償交渉がいまから進められ 問題である。高知が全国二位、徳島六位、香川川 40km ー 35 。 おの