あすか ひのぐまのおおうち 〔『エミール』にみる児童中心主義〕この主張 六 0 ・玉川大学出版部 ) ▽デューイ著、宮原年に没し、天武の檜隈大内陵 ( 奈良県明日香機」で、全体が切手自動販売機と葉書自動販売 村に治定 ) に合葬された。『万葉集』に歌六首機とポストの三機一体化形式のユニークなもの の源流はルソーに求められる。彼は『エミー 誠一訳『学校と社会』 ( 岩波文庫 ) 〈直木孝次郎〉であった。これは現在、東京・大手町の逓信総 じどうてあて児童手当法 ( 昭和四がある。 ル』 ( 一七六一 D において、児童を大人への準備段児童手当 階にある末熟で不完全な存在であるとみなして六年法律七三号 ) に基づいて支給される手当。回直本孝次郎著『持統天皇』 ( 一九六 0 ・吉川弘文合博物館に陳列されている。歴史的にいうと一 けもの 九二五年にアメリカのロウ William Rowe が 館 ) いた従来の見解に対して、「子供は獣であって児童を養育している家庭に対し、家庭における じどうにりんしゃ 0 オートバイ考案した異なった値段で多品種を売るたばこ自 も成人した人間であってもならない。子供でな生活の安定と、次代の社会を担う児童の健全な自動ニ輪車 じどうはんばいき automatic 動販売機が近代自動販売機の始まりといわれて ければならない」と力説し、児童の人格および育成および資質の向上の二つの目的をもっ制度自動販売機 いるが、自動販売機がもの珍しさの段階を過 児童期はそれ自体固有の価値をもつものであである。義務教育終了前の児童を含む一八歳末 vending machine 通貨 ( 硬貨、紙幣 ) また り、教育は児童の本性に干渉することなく、そ満の児童三人以上を監護し、かっこれと一定のはこれにかわるカードなどを挿入することによぎ、本格的な実用化段階を迎えたのは、欧米で の「自然の歩み」に従い、その自由な発展を保生計関係にある者に対して、第三子以降の児童 って、自動的に物品やサービスを提供する機は一九三〇年前後で、日本では戦後の一九六〇 ーマーケットの年代以降である。 護し、援助することであると提唱した。 一人につき月額五〇〇〇円 ( 市町村民税所得割械。小売店の対面方式、スー ルソーのこの思想は、その後ベスタロッチや非課税者の場合には七〇〇〇円 ) の手当が支給セルフサービス方式より一歩進んだ無人販売方〔構成〕自動販売機の構成は、金銭装置 ( 選 フレーベルらによって継承・深化され、二〇世されていたが、一九八六年 ( 昭和六一 ) 六月か式で、流通・販売部門での代表的な省力機械で別・計数・釣銭装置からなる ) 、指示装置 ( 制 紀初頭エレン・ケイによって現代に復活させら らの三年間で段階的に制度改正を行うことになある。人手不足、人件費高騰の対応策として効御装置 ) 、貯蔵・加工装置、販売装置からなる。 れた。彼女の著作『児童の世紀』 ( 一九 00 ) はド った。おもな改正点は①支給対象児童として新果があり、休日・夜間も営業できる利点があ金銭装置は自動販売機の心臓部分で、挿入され つ、」う ィッで大反響をよび、当時勃興しつつあった芸たに第二子を加える、⑦支給期間を義務教育就る。日本での普及台数は一九八四年 ( 昭和五た通貨の真偽判別、金種選別を行い、金額を計 術教育運動と相呼応して、「児童から」 Vom 学前とする、③手当額を第二子については二五九 ) 現在で約五一四万台を数え、アメリカをし数し、必要に応じて釣銭を出す。真偽判別のチ ェックポイントは、硬貨については直径、厚 Kinde aus を標語に掲げた新教育運動を生〇〇円、第三子以降については五〇〇〇円とすのいで世界第一位である。 み、重量、材質等で、紙幣については縦横寸法 んだ。↓エミール る、④所得制限は一九九一年五月までは現行 〔種類〕大別すると物品自動販売機と自動サー 〔デューイの児童中心学校〕一方アメリカで ( 前年所得が六人世帯で四〇九万四〇〇〇円 ) ビス機に分けられる。おもな物品としては飲などの外形的要素と肖像、模様、すかし、印刷 インキの色などの紙幣特有要素を組み合わせて も、教育の中心が児童の外側にあった旧学校程度とする、などである。一九八一年現在、世料、食品、たばこ、切符、切手、葉書、新聞、 を、児童が「太陽」となり、その周りを教育の界で児童手当制度が実施されている国は六六か雑誌、日用品、雑貨などがあり、なかには一台総合判別する。カード方式の場合には、カード の照合判別、金額確認を行う。指示装置は、押 諸々の営みが回転する新学校に改造しようとし国であり、大多数の国 ( 六〇か国 ) では所得制の機械で数種類の異なった物品を販売するもの 限を設けず、しかも第一子から支給している。 や、ホットとコールドの飲料を同時に販売するボタンで商品を選択すると、その販売指示を出 たデューイの実験学校 ( 天九六 ~ 一九 0 四 ) を皮切り ↓児童福祉↓社会保障 〈渡辺益男〉 コンビネーション型の自動販売機もみられる。す。押ボタンのかわりに音声による応答システ に、一九一〇年代から二〇年代にかけて、多く ム ( 音声合成、音声認識 ) を組み込んだものも じとうてんのう ( ~ ( 噐ー七 0 一一 )i 鳳また自動サービス機としては両替機、コインロ の「児童中心学校」 child-centered school が 持統天皇 ソカー、靴磨き機、傷害保険引受機、金融機関ある。貯蔵・加工装置は、商品を種々の形態で 設立された。これらの学校の主義主張は多岐に 時代の天皇。第四一代に数えられる ( 称制六会 うののさらら ~ 穴九、在位六九 0 ~ 六九七 ) 。鷓野讃良皇女といし で使われている ( 現金自動支払機 ) 、貯蔵し、必要に応じて調理等の加工を行う。販 わたるが、そのほば共通した目標は、児童に自 おくりなたかまのはらひろのひめ やまとねこあまのひろのひ ( 現金自動預金支払機 ) 等がある。このほか売装置は、販売指示を受けて選択された商品を 然に発達する自由を与え、児童の興味を学習の諡は高天原広野姫または大倭根子天之広野日 てんじ め でがのくらやまだいしかわ ^ 佐渡勝利〉 動機とし、教師は監督者としてではなく、ガイ女という。父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川 通貨で操作される機械として公衆電話機やジュ取出しロへ送り出す。図 3 間 まろむすめおちのいらつめ おおあま しどうひょうせいど instruction 麻呂の女遠智娘。父の弟大海人皇子の妃とな ークポックス、ゲームマシーンなどの娯楽機も ドとしての自覚をもって児童を援助し、また児 指導票制度 童の心身の発達を科学的に研究することなどでる。大海人は天智天皇の皇太子の地位についたあるが、これらはその用途からみて、通常は自 card system 企業がその生産活動を計画的 はんちゅう かつ効率的に推進するため、作業管理の手段と あった。日本における大正期や第二次世界大戦が、天智の晩年に意思の疎通を欠き、六七一年動販売機の範疇には含まない 〔歴史〕紀元一世紀ごろエジプトの寺院に出現して指導票を用いるシステムをいう。指導票制 ( 天智天皇一〇 ) 朝廷を去って吉野山に入り、 後の新教育連動もこうした児童中心主義の系譜 持統もこれに従った。天智の没後、持統の異母した聖水自動販売機が世界最古である。この機度を考案し、それを作業管理に導入したのは、 に属していた。 児童中心主義に対する批判は、おもに、児童弟の大友皇子が天智の後を継いだが、大海人は械はヘロンの発明ともいわれ、ドラクマ硬貨を・・テイラーの科学的管理法であった。指 じんしん - 」うぶん の自然的本性をあくまでも善とみる楽天性・観六七二年壬申の乱を起こし、大友 ( 弘文天皇 ) 入れるとその重みで栓が開き、数滴の水を出す導票には、作業の内容、手順、手段、方法が詳 てんむ あすかきょ 念性や、あまりにも個人主義的で、教育の社会を倒して皇位につき、天武天皇となり、飛鳥浄という仕掛けであった。この種のアイデアはそ細に記入され、これに従って作業を遂行すれ みはら ば、全体としての作業計画が確保されることに 性への認識の甘さに向けられる。いすれも児童御原に都を定め持統を皇后とした。持統は天武の後一七世紀に入ってイギリスで復活し、広く 中心主義の弱点をつくものであるが、伝統的なの政治を補佐し、六八六年の天武の死後は皇太欧米に伝わって、たばこ、切手、チューインガなる。指導票に記載されている項目には、作業 ムなどの自動販売機の考案に生かされた。日本名、原材料、使用する治工具・機械、図面番 教師中心の教育に対し、児童こそ教育の主体で子草壁皇子を助け、六八九年 ( 持統天皇三 ) , りよう たわらやたかしち では、一 、、八年 ( 明治一一一 ) に俵谷高七の発号、見取図、作業の開始時間、標準作業時間、 あり、教育は児童の心身の発達の的確な把握か草壁が没したのち、飛鳥浄御原令を施行、つい 明によるたばこ自動販売機が最初で、この機械機械の操作法、作業者の要件などがある。指導 ら始まらねばならないことを認識させた児童中で六九〇年正式に即位し、諸制度を整備して、 票を用いる管理は、工場においてのみでなく、 、か心主義の功績はけっして見逃されてはならな律令国家の確立に努め、藤原京を建設して六九は当時東京で開かれた内国勧業博覧会に出品さ もんむ 〈森本三男〉 ↓進歩主義教育↓デューイ〈山崎高哉〉四年に遷都した。六九七年に皇位を孫の文武天れ好評を博した。俵谷が考案したなかでもっと事務作業にも応用できる。 だいじよう じどうふくし child welfare 児 ど 回ルソー著、今野一雄訳『エミール』 ( 岩波文皇に譲るが、太上天皇として文武の政治を助も有名な自動販売機は、一九〇四年 ( 明治一一一児童福祉 じ庫 ) ▽ケイ著、原田実訳『児童の世紀』 ( 一〈け、大宝律令の成った七〇一年 ( 大宝一 ) の翌七 ) に製作した木製の「自働郵便切手葉書売下童福祉には三つの概念が区別される。第一は理 くさかべ つりせん
ヌカンはまた、鳥の鳴き声や戦争のありさまな ン・バレ ( 科学博物館 ) があり 、北には劇場が律はより厳しく守られ、パゴダ ( 仏塔 ) もビル 一五世紀には、プルゴーニュ公国の宮廷がシ ある。ロン・ボアン以西は、かっては貴族の住マ族のものと類似している。 〈清水純〉 ャンソン創作の最大の中心地となった。ここでどを巧みに描写した標題シャンソンの分野にも は、バンショア GiIIes Binchois ( 一四 00 こ ー六 0 ) 秀でていた。一方この時期には、ゴン・ヘール 宅が多かったが、多くの有名商店、レストラ 、ンヤンソン André Chamson ( 一九 00 ー ー一五六 0 ころ ) やクレキ ン、劇場、航空会社の営業所などが建ち並ぶ繁会 ) フランスの小説家、エッセイスト。ニー を中心とした作曲家によって、マショー以来の Nicolas Gombert ( 一四九五こ ー一五五七こし ョン Thomas CréquiIlon ( 一四ハ 0 ころ 華街となっている。一六六四年コルべールの命 ムに生まれる。古文書学の専門家でもあり、プ歌曲定型によるシャンソンが多数書かれた。宮 により整地が始まり、一七〇九年シャンゼリゼチ・バレ美術館長 ( 一九四五 ) 、フランス古文書館廷風の愛をテーマとし、最上声部は歌で、下声などのフランドル出身の作曲家たちによる通模 ( 楽園の原の意 ) と命名され、一七二四年シャ長 ( 一九五九 ) を務めた。ェッセイ『態度』 ( 一九 = 四 ) 部は楽器でという形態は変わらなかったが、ほ倣書法で書かれたシャンソンも存在した。 一六世紀の後半になると、ふたたび変化がみ イヨー ( エトアール ) の丘まで遊歩道が開かれで文壇にデビュー、人民戦線派の態度を明示すとんどは三声曲であった。・フルゴーニュ・シャ 〈高橋正〉る旗手として注目された。小説の処女作『赤毛ンソンはその周辺の地域に大きな影響を与えたえ始める。声部数は、三声、四声、五声、六声 と多彩になり、ホモフォニー様式が一般化し、 ・・。ーそく Shan ビルマのシャン の悪漢』 ( 一九一一五 ) は良心的脱営兵の物語で、故が、サボア公国の宮廷、北イタリア、カン・フレ シャン族 といったプルゴーニュの周辺で活躍した大作曲臨時記号を多用したり、半音階的手法などが 州を中心に居住する民族。タイ諸族の一部。そ郷セべンヌ地方の一挿話に取材している。続く しばしば試みられた。グーデイメル Claude の一 = ロ語シャン語はタイ語と密接な関係にある。 『道ゆく人々』 ( 一九 = 七 ) 、『義人の罪』 ( 一九 = 0 も家デュファイ Guillaume Dufay ( 一四 00 こ ビルマの歴史を語るときには、ビルマ族だけで同傾向の作品で、峻厳にして反骨精神に富む七四 ) も、。フルゴーニュ風シャンソンを多く生み Goudimel ( 一五一四 / = 0 ー七一 l) 、ル・ジュヌ Clau ・ de Le Jeune ( 一五三 0 こ ー一六 00 ) 、コストレ Guil ・ なく、シャン族の動向にも注目する必要があ同郷人たちを共感こめて描いている。政治・社出した。しかし、デュファイのいくつかの作品 ー一六 0 六 ) 、ベルトラン には四声曲もあり、歌われる声部も一声部に限 laume Costeley ( 一五三 0 こ る。この民族の古代の歴史や、民族名の起源な会問題への関心の度が深まるのは『遺産相続』 / 四 0 ー一夭 0 / どについてははっきりわからないことが多い られないなど、プルゴーニュ的性格を離れよう Anth0ine de Bertrand ( 一五三 0 ( 一九三一 I) からで、『敗者の年』 ( 一九三四 ) 、『ガレー きせき 公 l) 、一フッソ Orland0 di Lasso ( 一五三一一ー九四 ) が、八世紀以前からすでに、東南アジアの河谷船』 ( 一九三九 ) 、『奇蹟の井戸』 ( 一九四五 ) では同時代とする傾向もみられる。 などがこの時期の代表的シャンソン作曲家だ 一四七七年の・フルゴーニュ公国崩壊後、シャ 沿いに居住地をつくって住み着いていた。やがの政治的・社会的・道徳的諸条件下における個 、、 : レ・ジュヌを中、いに、古代の音楽の理想を ンソンの作曲法に少しすっ変化が現れた。オケカノ て一三世紀になって、元の侵攻を受けたビルマ人の真剣な努力と抗争のさまが描かれる。ま ー九七 ) の追求した韻律音楽によるシャンソンの試みもな ヘム J0hannes Ockeghem ( 一四一一五こ 族の。ハガン朝が衰えると、シャン族は上ビルマた、自伝的色彩の濃い作品として『青春の四つ シャンソンはまだプルゴーニュ・シャンソンそされた。しかし、リュートを伴奏とした独唱歌 地方において勢力を伸ばし、一六世紀にふたたの要素』 ( 一九三五 ) 、『雪と花』 ( 一九五 I) 、『命の日 のままだったが、ビュノア Ant0ine Busnois 曲も多く書かれるようになり、多声シャンソン びビルマ族が勢いを盛り返すまでの間、この地数』 ( 一九五四 ) などがある。アカデミー・フラン ー九 (l) のものには定型によらない自由は、こうした新しい音楽にしだいに道を譲るよ 方を支配した。シャン族は小土侯国に分かれ、 セーズ会員 ( 一九五六 ) 。国際ペンクラプ会長 ( 一九 うになって、一七世紀には姿を消してゆくので 〈長澤孝廣〉曲が多くみられる。一五世紀末から一六世紀初 サオバーとよばれる首長のもと、絶えず戦闘を FIII)O 〈今谷和徳〉 行っており、統一国家としてのまとまりはなか回堀ロ大学訳『青春の四つの要素』 ( 一九七五・出頭にかけて活躍したジョスカン・デ・プレ Jos ・ある。 quin des Préz ( 一四四 0 こ ー一五一一 l) 、コンペール 帆社 ) った。一六世紀なかばになるとシャン諸国はビ シャノノン chanson ー一五一 0 などのフラ フランスの世俗 Loyset Compére ( 一四五 0 こ ルマ族のタウングー朝支配に服し、以後は政治シャンソン chanson シャンソンの特徴 / シャンソンの歴史 / シ 的にも文化的にもビルマ化されるようになっ的な歌の総称。わが国では普通、一九、二〇世ンドル楽派の作曲家たちはしだいに定型を離れ ャンソンの種類 / 日本におけるシャンソン た。その後、一九世紀のイギリスによるビルマ紀を通じて歌われているフランスの流行歌曲をて、通模倣書法を主体とした自由形式に移行 し、三声曲だけでなく、四声、五声、六声曲も さすが ( 同名別項参照 ) 、音楽史のうえでは、 併合、二〇世紀に入ってからのビルマ独立と社 「歌謡」「小歌」の意味で、一般にフランスの 会主義政府の樹立を経て、シャン族はビルマ連狭義には中世後期から一六世紀末まで展開され書き、単旋律の俗謡を素材とした曲も取り上げ ポピュラー・ソング、とくにパリを中、いにした ていった。 邦に参加することになり、サオバーも代々継承た多声歌曲のことをいう。 ノリを中心に新しい様式流行歌をさす。昨今では、アメリカをはじめ世 フランス語で歌われる多声のシャンソンが登 一六世紀前半には、ヾ してきた権力を放棄するようになった。シャン 族のおもな居住地は、ビルマ東部高原のシャン場したのは一三世紀末で、トルーベールのアダのシャンソンが開花した。その開拓者はセルミ界各国のヒット曲がフランスに入り、同国の歌 ー一五六一 D で、手によっても歌われているので、広義にはすべ ジ Claudin de Sermisy ( 一四九 0 こ ン・ド・ラ・アールらによって試みられた。っ 州であるが、ビルマの他の地域や、ラングーン 伝統的な歌曲定型を廃し、最上声部に親しみやてを含めてシャンソンとよんでも差し支えない いで一四世紀には、マショー Guillaume de などの大都市にもシャン族の共同体がある。現 が、伝統的なシャンソンには、他の国々の歌と ー七七 ) が二声ないし四声のシすい旋律を置いてホモフォニー書法を重視し、 在約二〇〇万人がビルマに住んでいる。シャン Machaut ( 一三 00 ころ ャンソンを多数残し、それまで展開されてきた簡潔な形式によるシャンソンを書いた。四声曲は異なった特徴が認められる。 族は農耕民で、水稲、陸稲をはじめ、ジャガイ 〔シャンソンの特徴〕シャンソンでは、曲より が一般的で、歌われたテーマも男女間の率直な モ、茶、コーヒー、藍、小麦、綿花、タバコ、単旋律のトルーベール歌曲の形態を継承して、 もむしろ歌詞が重要視され、物語風の内容をも ハラード ballade 、ロンドー rondeau 、ビル恋の喜びや悲しみ、庶民の生活など多彩になっ オレンジ、モモ、アンズ、ナシなどを栽培す て、セルトン Pierre Cer ・ っ歌が多い。歌詞は日常生活で使われるような た。セルミジに続い る。また、山の斜面でケシを栽培し、生産されレー virelai などの歌曲定型を確立した。そこ ことばを用い、ときには隠語 ( アルゴ ) を交え ー一五七一 l) やジャヌカン Clément Jane ・ たアヘンの多くはタイへ密輸されている。シャでは宮廷風の愛を中心テーマとして歌い、最上 ton ( ? ー部 ー一五五 0 などの作曲家がこの新てつづられる。曲は、クープレ ( ストーリ 声部を歌で、下声部を楽器で奏する形がとられ quin ( 一哭五ころ ン族は銀細工や絹織物に優れているほか、ター 分 ) とルフラン ( 繰り返し部分 ) とからなり、 た。一三六〇年ごろから作曲技法を複雑化してしい形のシャンソンを手がけていったが、とく 必」バンの上にかぶる竹の鞘で編んだ帽子やシャ にジャヌカンはホモフォニーとポリフォニーの両者が交互に現れる。歌手は、声のよしあしゃ いこうとする傾向がみえ始め、群小作曲家たち んン紙などでも有名である。シャン族の大多数は 音楽的な正確さよりも、その歌をどのように解 によって技巧過多ぎみのシャンソンが一五世紀技法を巧みに組み合わせた優れた作品を多数書 や上座部 ( 小乗 ) 仏教徒であるが、ビルマ仏教の りしつが そうりよ シャ釈し、個性的な表現で聞き手に伝えるかという 4 き、他の作曲家を凌駕する存在となった。、、 し影響を強く受けている地域では、僧侶たちの戒初頭ごろまでつくられ続けた。 しゅんげん ( 一四三 0 ころ
ひいらぎ いる。現行の正月行事も、現在からさかのばっ る。節分の柊と同様に、ちくちくするものをか、家々で過ごす場合は、いろりに大火をたる餅その他を年玉というようになり、やがて金 かどまも じゅぶつ 門口に立てて門守りの呪物としたものが、年神き、火をたき続けて起き明かすものであった。銭の形に統一されてきた。 、フて把握できる限りの正月行事は、すべて稲作中 よりしろ 寺院では百八つの除夜の鐘を鳴らして煩悩を払 正月の仕事始めは、屋内作業、農作業、山仕 心に塗り込められているが、かすかに焼畑時代様の依代と理解されるようになったのではない よ 、朝を迎えるが、古くは明け方についたもの事、商家の仕事始めに大別することができ、期 しの名残と思われる行事もあり、稲作中心に再編か。もとは他人の山から自由に切ってきてよい ごんぎよう しん 日としては二日、四日、一一日などが多い。屋 成した改変のあとをたどることもできる。そう とされ、山の頂上近くの芯松をとって家に持ちで、寺で勤行のために朝晩ついていたのが、 わらぞうり 一年の総決算としての除夜に移行したのであ内作業の仕事始めは、縄ない、藁草履作りなど いう立場から、年中行事全体を見直すことが必帰ると、年神様もいっしょに迎えることになっ る。↓おせち料理 の「ない初め」、女性は針仕事の「縫い初め」 要であるが、稲作中心に塗りつぶされてからのた。山から切ってきた松を数日間、屋外の清い 〔大正月〕元日の朝は、年神祭りの司祭者であなどがある。藁草履なら一足、針仕事なら袋の 歴史も古く、現行行事の基本になっているのも場所に休ませておく所がある。門松を立てる日 くまっ 事実である。ここでは稲作中心の正月行事を解取りは、九松 ( 苦松に通じる ) といって二九日る年男が、早く起きて若水をくむ。年男は家長一つもっくって、あとは休む。寺子屋で手習い いちゃまっ 説し、必要に応じて焼畑その他にも触れることや、一夜松といって大みそかに立てることを忌の役目であったが、仕事の内容は家事・雑事な ( 習字 ) をするようになって、書初めも広く行 くわ っ にしたい。 ので、長男にくませたり、下男にさせる家もあわれるようになった。農作業の仕事始めは、鍬 む。餅を搗く日も一定しないが、その村、その いちくわ 初め、一鍬、農はだて、田打ち初めなどとい 正月に家々を訪れてくるトシガミ ( 年神 ) 家では慣例があり、たいてい年末の一日を定めった。若水は人を若返らせる力をもっ水という としとく おみき てめぐい ことで、若水くみには新しい手拭と手桶を整う。門松の小枝、鏡餅の小片、御神酒などを持 は、正月様、若年さん、年徳様などともよばている。多く搗く家では労力交換のユイで搗い いなだま たり、都市部では賃搗きも流行した。やはり九え、この水で雑煮をつくったり、湯を沸かしてって田か畑に行き、供物をあげて拝んでから、 れ、穀物霊、ことに稲魂から発達した農耕神と ふろ 福茶を飲んだり、顔を洗ったり、風呂を沸かし鍬でちょっと土を打ってくる。山仕事の仕事始 されている。そして年神の神格形成にあたって餅は苦餅に通じるなどといって、二九日の餅搗 おりかけだる きを忌む。 たりするもので、すべて年男の役目であった。 めは、竹でつくった折掛樽に酒を入れて山に行 は、祖霊信仰の影響を考えなければならない き、木の一本も切ってから別の立ち木に折掛樽 正月には家中が年神祭りの祭場になるので、 いまでも年神様への供物だけは、男が上げるこ 先祖の霊に対する信仰は自然発生的なものであ しめなわ ったろうが、ここにいう日本的祖霊信仰は、数屋内に注連縄を張り巡らし、あるいはその簡略とにしている所がある。雑煮は、年神様への供を掛け、山の神を拝んで帰ってくる。そのとき まゆだま わじめ っ切った木を若木といし 小正月の繭玉の木にす 種の神学風の理論を整え、中世末から近世にか形として輪注連などを飾り付ける。年棚は天井物を下ろして、ごった煮にして神と人とがい っ から吊ったり、鴨居のところにしつらえ、そのしょに食べるもののことである。丸餅と角餅、ることもある。 けての時期に形成されたものであろう。祖霊信 えほう 漁村でも舟祝い、乗り初め、釣り初めなどと 仰が整備されてからの正月は、盆とともに年に年の恵方に向ける。年俵と称する米俵を祭壇にみそ仕立てとしようゆ味などの区別があるが、 としおけ たま 一般には餅吸い物のことをいう。大多数の雑煮 いって、港の近くを二、三周してくる。商家の 二度の魂祭り ( 祖霊祭 ) の機会で、個性を失っする所もあり、年桶という桶に、米、かちぐ まっ には餅が不可欠のものとされているが、全国の仕事始めは帳祝い、倉開き、初荷などといし て祖霊に融合同化した先祖の霊を迎え祀る機会り、干し柿、するめ、昆布などを入れ、上に餅 さんばう であった。ところが盆のはうは早くから仏教とをのせたものを飾ったり、三方の上に同様のも雑煮を詳細に検討してみると、餅よりも里芋を当日は実質的な商売をしないが翌日から始め いもかん ぐそく くいつみ のをのせて「莱」「お手かけ」「食積」などと重視するものがあり、また芋羹といって里芋のる。昔の武家では具足開きがあり、剣道などの 結び付き、死者の霊の供養行事と考えられ、こ さいわぎ あつもの かんげいこ けがれ いう。九州や四国の一部では「幸い木」と称羹を食べる所がある。焼畑耕作を主生業とし寒稽古もこの時期に重なってきた。農山漁村や れに対抗して正月のほうは、死の穢に関係のな た時代の名残が、儀礼食のなかに姿をとどめて家庭内の仕事始めは、実際の労働に先だつもの 清らかな祭りであることを強調した結果、し、松などの丸太を土間に横にかけ、魚、ダイ いるのではないかと考えられている。大みそかで、形ばかりを模擬する予祝儀礼であるが、商 コン、炭などを下げる。塩物のサケやプリをぶ 盆と正月とはまったく別の行事のように理解さ うお の晩から村氏神に御籠りしている場合もある家の倉開きなどは実務の仕事始めである。正月 れてきたが、年の夜に声をあげて死者の霊を呼ら下げ、「掛けの魚」という所は広い。門松の としぎにゆうぎ はつもう みたま 一一日の鏡開きなどは、年神に供えた鏡餅を下 が、家々で年取りをするときには村氏神に初詣 び迎えるとか、東日本では年末か正月に、御魂根元には、年木・新木といって割り木を立てか けておき、これを正月中の燃料とする。正月準でをする。近隣の神社、寺院を含めて巡拝するろし、打ち欠いて食べるのであるから、当然に の飯に客を突き立てて祖霊に供えるとか、主と えほうまい 例もある。恵方参りの縁起を担ぐことが流行す年神祭りの終了を意味する。農村を中心とする して西日本で元日に墓参をする習俗があるなど備の品々を整えるため、年の市も開かれる。 せち は、いずれも正月の魂祭り ( 先祖供養 ) の名残 おせち料理は、節の日 ( 改まった機会 ) の料るようになると、その年の恵方にある社寺に参年中行事に、商家や俸給生活者 ( 武家 ) が参加 ることになり、いまは村氏神に限らず、著名なすることになって、予祝儀礼と実務の開始と年 である。 理ということで、本来は正月に限った名称では 〔正月の準備〕一二月一三日ごろから始めるのなかった。食生活の貧しい時代には、煮しめ、社寺を目ざす人が多くなった。年始の回礼など神祭りの終了儀礼とが混同して理解されるよう あい すす になったのである。 ごまめ、昆布巻き、煮豆などのおせち料理のは都市的な行事であるが、分家の者が本家へ挨 が古風である。この日を煤とり節供、事始め、 ) 一ちそう さっ 正月の三日間、五日間を、三が日、五かん日 正月始め、正月おこしなどという。江戸の千代品々は最大の御馳走で、正月は台所に立っこと拶に行き、「おおばんぶるまい」などといって、 おもむき といって、正月のなかの中心的な期間として祝 も少なくなるので、自然に保存食の趣をもっ本家・分家の者が集まって共同飲食をすること 田城でも一三日が煤掃きで、正月の祭りに先だ うが、門松を取り払うのは七日、一一日、一四 つ物忌みに関係のある日であったが、のちにはてくる。大みそかの夜の食事を「おせち」「年は広く行われていた。 ぜん お年玉というのは本来、家族の一人一人が自 日などで、門松の立っている間を松の内とい ただの大掃除と考えられ、期日も正月直前に繰取りの膳」などと称して、正月の正式の食事 分の霊になぞらえた餅を出して並べておき、年う。正月はめでたい祭りだという考えが強いた り下げられた。昔は、いろりで薪を燃す生活だを、元日でなくこの夜に食べる所もある。古く そうりよ は日没時を一日の境とし、大みそかの夜をすで神の霊威に触れて霊力を更新しようとするものめ、三が日の間は僧侶の来訪を嫌い、四日を寺 ったから、煤がたまったのである。門松につい に正月と考えた名残である。いまも、夕食後ふであった。身祝いの餅というのは、その流れを年始として僧が各戸を回る。浄土真宗の濃厚な ては、江戸時代から急速に広まったのではない くむものである。しかし年神の霊威は物理的な 地帯では、三が日も僧侶の出入りを忌むことが かといわれている。宮廷には門松を立てる習慣たたび膳につき、雑煮などを食べて年をとる風 ない。六日の晩には若菜迎えがあり、春の七草 かないし、ある家、ある一族では、先祖が戦い習を残す村がある。一般には年越そばを食べる存在でない。分家の者が本家に挨拶に行くと、 ことが広まっている。また大みそかの晩は、集本家の主人が年神の代役になって餅を与える。 を刻む。七草は時代によって変動があるが、セ に敗れ、松で目を突いたので、門松を立てない やしろ お・一も こういうことから、目上の者が目下の者に与え ナズナ、ゴギョウ、ハコペラ、ホトケノ 家例を守っているし、杉や榊を立てる家もあ落中の人が鎮守の社に集まって御籠りをすると さかき たきぎ がき としだな 816
くから栄えた。河谷に沿う平野部では水稲がつより推測した事項を供述させることもできる 度 ( 超音速 ) で物体 ( たとえば飛行機 ) が動く る毛管圧力と同種のカである。種類の異なる粉 くられ、山地では小麦、トウモロコシなどを産が、この供述は、鑑定に属するものでも、証一言 とき、物体により発生した気体の圧力変化は、末粒の接触部では混じり合って均質になろうと 衝撃波に集中する。この波面では気体の密度と したり、化合物をつくろうとする力も原子の移するはか、クルミ、アプラギリ、カキ、薬草のとしての効力を妨げられない。また、特別の知識 ^ 秋山元秀〉 によって知りえた過去の事実に関する供述も証 速度が不連続的に変化する。超音速ジェット機動を引き起こし、焼結現象はきわめて複雑にな栽培量も多い えんすい 言である。証人が正当な理由なしに証言を拒む では、マッハ しようけん特定の商店、商店街、さ ・コーンとよばれる円錐内のみに る。また、圧力をかけながら焼結すると粒子間商圏 らに中心地としての都市の商業機能の勢力、影と、過料、罰金または拘留に処せられる。↓証 ジェット機による圧力変化が伝わり、円錐面上接触部は圧着され、原子の動きもさらに活発に は衝撃波となっている。また、物体がなくてなり、焼結しにくい物質でも比較的容易に固め響の及ぶ地域的範囲をいう。それは、商品やサ言拒否権↓自由心証主義↓証人〈内田一郎〉 ービスを供給する商店、商店街、都市と、それ〔証言 ( 供述 ) の心理学 psychology of testi ・ られる。焼結中に成分の一部が溶けて粉末粒子 も、気体自身が自らの音速以上で流れるとき、 mony 〕過去のある時点に発生した犯罪事実の 密度と速度が不連続変化をする衝撃波が発生すのすきまにしみ込んでいく場合には、融液の毛を入手して生活を営む消費者の双方から形成さ る。たとえば、核爆発がおこれば、そこの気体管圧力により粒子ま互、 ししに引き付けられ、短時れる。商圏は主として、前者の側にたってみた存在を、裁判の過程を通じて立証するために もので、後者の場合は生活圏とよばれる。なおは、通常、①犯人自身の供述 ( 自白 ) 、②被害 は加速されて超音速で広がり始め、衝撃波が発 間で緻密な塊ができる。これは液相焼結とよば 生する。このような場合を爆風波とよび、高圧れ、融点の高い金属粉やセラミック枌のように商業には小売りと卸売りの二つの面があり、そ者や目撃者の供述 ( 証言 ) 、③犯罪に使われた こんせき でんば のガスの波となって伝播する。原爆や水爆の爆そのままでは焼き固めにくい粉末を焼結するとれそれ卸売商圏、小売商圏とよばれるが、現在道具や犯罪の結果生じた傷や破壊などの痕跡 きによく用いられる。工業的には、粉末の種類では一般的に商圏は小売商圏をさすことが多 ( 物証 ) が、用いられる。一般に、犯罪の被害 発で家や橋を吹き飛ばすほどの大きな圧力を一小 それに対し卸売商圏は広い範囲をもち、経者や目撃者は、あらかじめ予定されたできごと すのは、この爆風波 ( 衝撃波 ) である。衝撃波や性質および製品の使用目的に応じて焼結の温 の前面と後面の圧力の比を衝撃波の強さと定義度、時間を変える。また、金属粉などは粒子表済圏とよぶことが多い。なお、商業機能を広義の観察者ではないので、知覚は不確かで、その に解釈し、レクリエーション、医療、教育、行記憶に基づく証言には思いがけない誤りが混入 し、それが決まると、速度や密度がどの程度不面に酸化物があると焼結しにくいので、水素や 連続変化するかは、ランキンーイゴニオの関係分解アンモニアガスのように還元力のあるガス政などの各サービスをも含め、サービス圏としする。これらの誤りが生じるのは、①記憶する 時点での見間違いや思い違し 、、⑦己憶している 〈渡辺龍三〉 たり、都市圏と同義に用いられたりする。 式で求められる。衝撃波面に立ってみると、上中や真空中で焼結する。 あがつまながのはら 間に体験した他のできごととの混同や忘却、 商圏内における商店、商店街、都市など中心 流側から超音速の流れが入り、下流側へ亜音速照月湖しようげつこ群馬県吾妻郡長野原町 あさま きたかるいぎわ にある人造湖。浅間山北東斜面の北軽井沢大学的な施設と、それを利用する周辺の消費者との想起する時点での勘違い、④想起したことを表 で流れ出している。このとき、上流側の流れの 運動エネルギーの一部が熱エネルギーに変わ村 ( 法政大学村 ) の北、標高約一〇四〇。湖結び付き ( 依存、指向、連係度または率 ) は、現することばの不正確さ、などからである。 証言の心理学は、最初、③の「記憶を想起す 中心からの距離が遠くなるにつれて弱まり、や り、高温高圧状態が下流側につくられるのであ畔のキャンプやポート遊び、釣りが楽しめる。 る。星の爆発による 1020cm もの大きさに広一九二八年 ( 昭和三 ) ごろ法政大学関係者の山がて結び付きはなくなるが、それは中心的な施る時点 ( 証言の時点 ) 」での誤りができるだけ 設の規模の大きさや交通的条件などによって異生じないようにする質問形式、すなわち尋問技 がった衝撃波や、太陽からくる。フラズマ流のた荘が建てられたとき、渓流をせき止めてつくっ しん もよりひん ならさわいけ なる。また最寄品 ( 日常必需品、低次財 ) を主術の研究から始まったが、その後、証言の信 た棆沢池の改称。大学村には学者、文化人の別 め地球の磁気圏で衝撃波が生じていることなど かいまわりひん びよう 〈池内了〉荘が多く、カラマツの林と周囲一キ。の湖は別天とする場合は、商圏は小さく、買回品 ( 高級憑性を実験的に測定するなかで、われわれの もよく確かめられている。 焼結しようけっ sintering 細かい粉末を地の観があり、群馬大学が譲り受けた哲学者田品、専門品、選好品、高次財 ) では商圏の範囲日常体験ーーたとえば、クラス会でのメンバ なべはじめ よ広、。 このような階層的な差によって、小規の到着順や席順などーーーの知覚や記憶がいかに 高温に加熱したときに、融点以下の温度でも枌辺元の田辺山荘も大学村にある。北軽井沢か やきん 〈村本定雄〉模な低次財中心の商圏は、大規模高次財中心の不正確であるかを証明する結果となった。な の粒子が互いに付着して固まること。粉末冶金らバス一〇分。 商圏の中に包含され、重層的構成を示す。現在お、想起したことを表現することばの問題は、 や窯業のもとになる重要な現象であり、陶磁器囮二万五千分の一地形図「北軽井沢」 いけ花 では、ヒンターランド ( 後背地 ) や市場圏も同一般の面接法など、コミュニケーションの研究 や種々の工業材料をつくるのに利用される。焼松月堂古流しようげつどうこりゅう ぜしんけんいちろ 結がおきているときには粒子どうしの接触部で流派。是心軒一露によって一七六一年 ( 宝暦一じような意味で用いられている。〈沢田清〉のなかでも取り上げられている。このほか、証 ゅうかしようけん いんようごぎよう 言の心理には、証一言動機の問題があり、裁判に しようけん 0 有価証券 原子が粒子の表面や内部を通ったり昇華したり一 ) に創流された。陰陽五行説をもとに、いけ 証券 あんき して活発に動いており、加熱を続けるうちに粒花を宇宙の表現とする生花の花体を生んだ。公歙県しようけん / ショーシェン中国、安徽省おける真実発見に協力するという社会的動機の しんあんこう たいせき たかまさ 子間のすきまを埋めるように原子が堆積し、初家の植松賞雅が継承したが、門人のなかから花南東部にある県。新安江の上流域に位置し、浙ほか、報復を受ける恐怖、自分にも非難が向く あな かもしれないという不安、犯人に対する攻撃感 務職を選定し五大坊とし流儀の運営が任されて江省に隣接する。漢代に歙県が置かれ、唐代に めはスポンジ状を呈していたものも孔の少ない そう きしゅう ちみつ 緻密な塊になっていく。雪が〇度 0 以下の温度きた。現家元雅房まで一四代を数え、今日は生歙州の治所となり、宋代に徽州に改められた。情などが複雑に絡んで、証言行動を促進した わいきよく みんしん 明・清代は徽州府の治所であった。周辺農村でり、抑制したり、歪曲したりすることになる。 でも付着して固まっていくのも一種の焼結現象花様式のほか盛り花、投入れ花の様式をも加 ろう - 」うギ」んもうほう 一方、犯人自身の自白の動機には、罪障感や 〈北條明直〉 は米のはか茶の栽培が盛んで、黄山毛峰茶、老 え、幅広い活動を行っている。 である。また鉄鉱石を粉砕したときにできる細 せんせい ちくたいほう しようけん / シャンシェン中国、陜西省竹大方茶などの銘茶を産出する。伝統工業では償いの感情のほか、許しを期待する甘えの心理 かい粉鉱石は、そのまま溶鉱炉に入れると棚吊商県 しようらく すずり しんれい などあるが、この点については、日本とアメリ り ( 鉱石がシャフトの局部にひっかかって下降南東部の県。商洛地区の公署所在地で、秦嶺製茶のほかに、墨、硯の製造が行われ、徽墨、 しなくなる状態 ) などをおこし操業に支障をき山脈の南、漢水の支流である丹水の上流にあ鉐。の名で知られる。県の北西境にある黄山力ではかなりの差異があり、その社会の責任に せいあん 〈林和生〉 ついての考え方や罪障感の成り立ちなど、文化 は観光地、保養地として名高い。 たすので、それを避けるため焼結して適当な大る。西安より秦嶺山脈を越えて河南省南部と結 しようげん自分が実際に経験した事的背景が絡んでいる。また、幼児の証一言能力の ぶ交通路の要衝で、漢代に上洛県が置かれ、唐証言 、フきさのつぶれにくい通気性のある塊にする。 問題なども、広い意味での証言心理学のテーマ 3 実を証人が裁判所に対して陳述すること。証人 よ焼結の原動力は主として物質の表面張力であ代には商州となった。産業はあまり振るわない 〈瓜生武〉 8 に証言させる場合、彼が実際に経験した事実にである。 が、交通上の利点を生かし商業中心地として古 しるが、これは細いガラス管の中の水を持ち上げ
しゆくば くろいそ なべ る「許我の渡し」に比定され、古代から渡良瀬本陣一、脇本陣一、旅籠屋四一④三代将軍家鍋掛 ①下野国那須郡 ( 栃木県黒磯市鍋 著了れけい 川の渡し場として関東平野中央の要衝の地。室光の東照宮参詣のおり、大沢御殿が営まれた。掛 ) ②四一里八町三四間③家数六八軒、本 / 、ば・つあーしんルが 町時代には古河公方足利氏の拠点として、江一尸日光杉並木が有名。 陣一、脇本陣一、旅籠屋二三④一六〇四年 時代には利根川、渡良瀬川など河川交通上の中今市 ①下野国都賀郡 ( 栃木県今市市今 ( 慶長九 ) 奥州道が整備されたとき那珂川沿い 、い地としてにギ、わった。 市 ) ②三四里三町二〇間③家数二三六軒、 に設けられた宿場。那珂川には橋、舟渡しがな ー ) もつけ かわどめ 野木のぎ①下野国都賀郡 ( 栃木県下都賀郡本陣一、脇本陣一、旅籠屋二一④日光街道の 増水時には川留されて宿場はにぎわった。 こえ ①下野国那須郡 ( 栃木県黒磯市越 野木町野木 ) ②一六里二四町二〇間③家数ほか、日光街道壬生通、会津西街道などが合流越堀 ばり 一一一六軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋二五④し、日光の表玄関に相当する。 堀 ) ②四一里一七町一三間③家数一一三軒、 はち 下野国最初の宿場。古社野木神社がある。 鉢石 ①下野国都賀郡 ( 栃木県日光市中本陣一、脇本陣一、旅籠屋一一④一六四六年 おやま 間々田 ままだ①下野国都賀郡 ( 栃木県小山鉢石 ) ②三六里③家数二二七軒、本陣一、 ( 正保三 ) 新たに宿場として認められたもので、 市間々田 ) ②一八里一五町二〇間③家数一脇本陣一、旅籠屋一九④宿場というより日光那珂川増水時の仮宿泊所が発展したもの。 七五軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋五〇 門前町であった。中世には坂本とよばれ、日光芦野あしの①下野国那須郡 ( 栃木県那須郡那 小山おやま①下野国都賀郡 ( 栃木県小山市小 山内とは区別されていた。一六四一年 ( 寛永一須町芦野 ) ②四三里二九町四間半③家数一 山 ) ②二〇里二町二〇間③家数四二三軒、 八 ) 幕府が、日光山内にあった民家を移転させ六八軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋二五④鎌 本陣一、脇本陣二、旅籠屋七四④中世関東の てから、門前町が形成されるようになった。 倉時代以来那須氏などの居城が設けられた那須 名族小山氏の本拠地で、城下町として栄えた。 地方の要所。下野国最北宿場として栄えた。 ひでただ 奥州街道 ( 奥州道中 ) しら 一一代将軍徳川秀忠の日光社参のとき御旅所とし ①下野国那須郡 ( 福島県白河市白 白坂 さか 道 ーレもつけ かわち しら 街 て小山御殿がつくられた。 白沢 さわ ①下野国河内郡 ( 栃木県河内郡河坂 ) ②四六里三三町三四間③家数七一軒、 光 しん でん ①下野国都賀郡 ( 栃木県小山市羽内町白沢 ) ②三〇里四町二〇間③家数七一本陣一、脇本陣一、旅籠屋二七 新田 かわ きめ しら 川 ) ②二一里一三町二〇間③家数五九軒、軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋一三④鬼怒川 宿 ①下野国那須郡 ( 福島県白河市白 かわ おおまち 山 本陣一、脇本陣一、旅籠屋一一④大町新田を右岸にある町で、宇都宮を起点とした場合の第河 ) ②四八里三〇町三四間③家数一二八五 新田宿とよび、一八七三年 ( 明治六 ) に羽川 宿一番目の宿場。奥州道は、江戸・日本橋から宇軒、本陣一、脇本陣一一、旅籠屋三五④奥州へ かすかべ かす ①武蔵国埼玉郡 ( 埼玉県春日部市と改めた。 都宮まで、日光街道と重なる。 粕壁 かべ の表玄関として、古代以来重要な所。白河市旗 しおや じゅく こカ 春日部町大字粕壁 ) ②九里二町③家数七七 小金井 ①下野国都賀郡 ( 栃本県下都賀氏家 わい ①下野国塩谷郡 ( 栃木県塩谷郡氏宿にある白河関所跡は国史跡。中世、近世の 三軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋四五④毎月郡国分寺町小金井 ) ②二二里六町二〇間③家町氏家 ) ②三一里二二町二〇間③家数一一白河城城下町としてもにぎわった。ここより延 みんまやはこだて 四、九の日に市が立ち、にぎわった。 家数一六五軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋四三 三五軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋三五④慶長して三厩、箱館に至る仙台、松前道があり、 ちょう かっー ) か たなくら ①下野国都賀郡 ( 栃木県下都賀郡長年間 ( 一五九六 杉戸すぎと①武蔵国葛飾郡 ( 埼玉県北葛飾郡石橋 ~ 一六一五 ) に開設された鬼怒川最会津街道、棚倉街道を分岐する。 あくつがし 杉戸町大字杉戸 ) ②一〇里二三町③家数一一一石橋町石橋 ) ②二三里二四町二〇間③家数上流の阿久津河岸をもち、鬼怒川河川交通の要 六五軒、本陣一、脇本陣二、旅籠屋四六④一 七九軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋三〇 衝。また、原街道、会津中街道、会津西街道な かわち 六一六年 ( 元和一 l) 奥州街道の宿駅となった。 雀宮 ①下野国河内郡 ( 栃木県宇都宮市ども氏家宿に集中するため、下野北部の流通に さって①武蔵国葛飾郡 ( 埼玉県北葛飾郡雀の宮 ) ②二五里一一町二〇間③家数七一一大きな役割を果たしていた。 幸手 きつれ 幸手町幸手 ) ②一二里一二町③家数九六一一軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋三八④地名の ①下野国塩谷郡 ( 栃木県塩谷 喜連川 がわ ふると 軒、本陣一、脇本陣なし、旅籠屋一一七④古利由来する雀宮神社がある。 郡喜連川町喜連川 ) ②三三里二二町二〇間 うつの 根川沿いにある古くからの町場。 宇都宮 ①下野国河内郡 ( 栃木県宇都③家数二九〇軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋一一 みや でんま ①武蔵国葛飾郡 ( 埼玉県北葛飾郡宮市伝馬町 ) ②二七里一二町二〇間③家数九④宇都宮氏の支族塩谷氏の居城喜連川城の 栗橋 一二一九軒、本陣二、脇本陣一、旅籠屋四二 栗橋町栗橋 ) ②一四里一五町③家数四〇四 城下町として中世以来栄えた。江戸時代には、 ふたあらやま あーしか一 軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋一一五④徳川家④二荒山神社 ( 宇都宮大明神 ) を中心として古足利氏の流れをくむ名族喜連川氏の城下町。 おおたわら 康による利根川の開削に伴い、栗橋村 ( 現茨城来栄えた。下野のみならす北関東の商業流通の佐久山①下野国那須郡 ( 栃木県大田原 県猿島郡五霞村元栗橋 ) の住民が移り住み、新中心地。奥州街道を分岐する。 市佐久山 ) ②三六里一六町五六間③家数一 しもとく 栗橋村を称した。利根川の西岸に位置し、渡船下徳次郎 じろう 二一軒、本陣一、脇本陣一、旅籠屋二七④ ほうき 、はかとく 場および栗橋関所があった。 じろう 箒川右岸に佐久山河岸をもつ。那須氏の一族 中徳次郎 かみとく 中田 じろ、つ ①下野国河内郡 ( 栃木県宇佐久山氏の佐久山城があった。 なかだ①下総国葛飾郡 ( 茨城県古河市中上徳次郎 、おおた 都宮市徳次郎町 ) ②下ー二九里二五町二〇間 田 ) ②一四里一五町③家数六九軒、本陣一、 ①下野国那須郡 ( 栃木県大田 大田原わら わたらせ 脇本陣一、旅籠屋六④渡良瀬川と利根川の左中ー二九里二九町二〇間、上ー三〇里七町二〇原市本町 ) ②三八里六町三七間③家数二四 岸にあり、栗橋宿の対岸に位置している。渡船 ③家数一六八軒、本陣二、仮本陣一、脇本五軒、本陣二、脇本陣一、旅籠屋四二④那須 場があった。 陣三、仮脇本陣一、旅籠屋七二④上・中・下氏一族の大田原氏が大田原城を築き、城下町と ①下総国葛飾郡 ( 茨城県古河市古三宿をあわせて一宿場とされていた。 して中世以来栄えた。日光北街道、塩原街道も 古河こが おお 河 ) ②一五里三五町③家数一一〇五軒、本大沢 さわ ①下野国河内郡 ( 栃木県今市市大集中して、奥州街道のなかでは大きな宿場の一 陣一、脇本陣一、旅籠屋三一④万葉集にみえ沢町 ) ②三二里三町二〇間③家数四三軒、つであった。 、、は みつ ちま 〔宀 白川宿 ( 奥州街道 ) はた 624
しばりぞ 岸平野、フロリ、ダ半島、メキシコ湾岸に至る広 樹、南部は混合林が繁茂し、クマ、ウスリート しばぐちかいづか神奈川県川崎 史考古学会 ) 子母ロ貝塚 ちとせ わかた い地域に路線網を延ばすこととなった。八〇年 ラなどが生息する。石炭、金、錫、褐炭などが 市高津区千年子母ロ根方にある縄文時代早期の シーホース 0 タッノオトシゴ しんきよう にチェッシー 〈小宮山武治〉 ・システム鉄道とともに (T)X コ 貝塚・集落跡。一九二九年 ( 昭和四 ) 大山史前 シーホーツ〔石河子〕中国、新疆ウイグ埋蔵、採掘されている。 やまのうちすがお てつどう ーポレーションの傘下に入り、八二年現社名と 学研究所をはじめ、岡栄一、山内清男、三森ル自治区北西部にある市。人口一〇万 ( 一九〈一 ) 。 シーポード・システム鉄道 〈青本栄一〉 定男、川崎市などが何回も発掘を行い、子母ロ天山山脈北麓のマナス河左岸、ジュンガル盆地 Seaboard System Railroad アメリカ合衆なった。 しばりそめ模様染めの一種で、 式土器の標式遺跡として注目された。多摩川との南端にあり、一九五〇年以後解放軍が荒地を国の大手鉄道会社の一つ。 ージニア州リッチ絞り染め ふはく 矢上川の間の台地斜面に五か所の貝層があり、 開墾してから発展した新興都市である。自治区モンドを起点として、ミシシッピ川東岸のアメ必要な部分の布帛をつまんだり畳んだりしてこ ハイガイ、サルボウ、マガキを主とする。貝層の有力な食糧基地で、小麦、ワタ、砂糖などをリ カ南東部の一二州に路線網をもち、アトランれを縛り、縫い締めまたは木片などで挟み締め ーミンガム、メンフィス、ニューオー て、染液がそこへ浸透しないようにして染める 中に出土する子母ロ式土器は、細隆起線文、絡生産し、炭鉱、石灰石鉱山もある。〈駒井正一〉 のり じようたいあっこんもん ンズ、ジャクソンビル、マイアミ、タンバなど方法。「ろう」や糊などのような付着防染に対 条体圧痕文、貝殻腹縁文、点列文をもち、わシホテ・アリニ山脈 , ーさんみやく CH- して、圧力防染ということができる。染めは原 ずかな繊維を含む尖底深鉢形土器。関東地方の XOT3 AJlHHb/Sihote と in' ソ連、ロシアの諸都市を結んでいる。総延長二万五三三九キ。 縄文早期後半とされるが、その時期と系統につ 共和国東部、沿海地方とハバロフスク地方にま ( 一九公 D 。アトランティック・コースト・ライン則として浸染であり、一色染めが多いが、一つ せきそく いしさじれつき いては問題とされている。石鏃、石匙、礫器、たがる山脈。日本海の北東岸に沿って北東ー南鉄道とシーポード・エアライン鉄道が一九六七の色の上に別の色を重ねては、縛りを解いたり 石錐、石皿、骨針、やすも出土。貝塚は県史跡西に延びる。長さ一二〇〇キ。、幅二〇〇 ~ 二五年に合併してシーポード・コースト・ライン鉄加えたり、あるいは部分的に染液に浸けたり、 ときには刷毛で塗り染めをしたりして、多色染 だが、台地上は未調査で遺存。 〈十菱駿武〉〇キ。。平均標高八〇〇 ~ 一〇〇〇。最高峰は 道となり、七一年にはルイビル・アンド・ナッ ⑩山内清男著『日本先史土器図譜』 ( 一九六七・先タルドキ・ヤニ山の二〇七七ト 。北部は針葉シュビル鉄道を合併して、シカゴから大西洋海めをすることも行われる。このように絞り染め の技法は、原則的に非常に素朴なものであるか ら、古くから世界の各地に広い分布度をもって 行われてきた。極言すれば、布そのものを織る 、力を甲 か木違 技術が発達しなかったオセアニア ( メラネシ ア、ポリネシア、ミクロネシアなど ) の島を除 背色合 。染度 いては、ほとんどの地方で行われていたといっ での てよい。そしてその技術は、ある中心地から伝 絞藍透 と浸 播していくケースに対し、各地で単独に発生 〕〔括実てる ののつれ し、発達してきたものも少なくないと思われ 円ラよさ る。産地のなかで、その技術がとくに古くから 同コさみ のは長生発達し、また現在も盛んに行われている所とし 方トのが インドネシア、 。様ては、インド、中国、。ヘルー、 一アケ時模 アフリカ、日本などをあげることができる。 ンす石 どうくっ ペエラら理 インドの絞り染めは、古くアジャンタの洞窟 ジプさ大 紀イるに の壁画などにもみられ、現在でもその国内での 世ナい料こ 怩④て染衂生産地の多いこと、使用範囲の広さなどでは、 世界における絞り染め生産の中心地といえるで あろう。生産の中心は中北部ラージャスターン と←双氿木 およびグジャラート州で、技法としては細かい 絞度 の一ン絞 一目絞りと、縫い締め絞りに部分染めによる華 本でバで 日ん一んョ やかな色づけをしたものが多いが、なかにラー たタまチ ジャスターンのジャイプルを中心とした地方 で、ラハリア laharia といわれる縞や格子の 綿折絞々の 木 , 縞別ク 絞り染めは、薄手の木綿の裂を斜めに強く引い のり子っ一 一格ずワ て巻き、これに糸をかけて、一見、絞り染めと ねの枚チ は思えぬような直線模様を表した、珍しいもの ラかプを である。中国の絞り染めには、古く中央アジア ャ枚イ布た ジ何ャ綿せ の遺跡などから発掘されたものがあり、わが国 グをジ木わ ・つけち - , 布 , の合 にも纐纈としてその技術が伝えられたが、その ン字縫 後はあまり目だった発展はみられすに現在に至 イなイ—J に っている。ベルーのプレ・インカ時代の絞り染 ①異②③後 せきすい ①③ せんてい きれ 167
号に実用化第一号として装備された。日本では という積分要素を付加する場合が多い。積分要五〇万人未満の地方公共団体の中央児童相談所 そ 入 行入 一三年 ( 大正一一 ) 山下汽船の北米丸がスペリ 素は、風などで船が一方に流されるのを防ぐたを級、その他の児童相談所を 0 級とし、それ 進 を進 ら 走でう ー式ジャイロコンバスを取り付け、就航後オー めに舵に一定の操舵角を与えるのに必要であぞれに応じて内部機構の標準が定められてお ど 、刀凪目、一丁 0 、ヾ、、 トハイロットを採用した。 る。従来は、操舵の回数が多くなっても、命令り、また、所長以下、スー ノイザー ( 査察 上なで じ し 地わ縦 熟練した操舵手は、コンバスによって針路が された針路を忠実に保針することが要求されて指導員、主任指導員 ) 、児童福祉司、相談員、 ネら一丁ロ罘 ′ィー十イ・ 偏ったことを知ると、針路を戻すように操舵す いた。しかし、操舵すると舵の抵抗のために速精神科医、心理判定員、セラピスト ( 療法士 ) 、 がく動 を なた自 外 る。針路が戻り始めると舵も元に戻すが、針路力が落ち、エネルギーをむだに消費することに 小児科医、保健婦、理学療法士、臨床検査技師 しつを 視ま走 の戻り角と舵の戻り角とを比例させて、針路が なる。最近では次の式の評価関数を最小にするなどの職員配置の基準が決められている。児童 で目を滑 ちょうど元の針路に復したとき操舵量もゼロと ように操舵することがオートバイロットに求め相談所の業務の運行は、原則として、受理会 階を認上 段外確地 られている。 なるように操舵する方法を比例操舵という。比 議、判定会議、措置会議による検討・協議を経 0 終う機視び 日取打 , 目レ小 例操舵をすると、慣性のために船首は元の針路 7 Ⅱ〒十 2 望 て進められる。一九八四年度における受付件数 O のを後のお を越えて反対側に振れてしまう。この反対側へ は偏角の二乗平均値、望は操舵角の二乗平は二四万九四〇二件で、その相談内容は図のと 陸陸陸外陸 標考 着着着機着 おりである。↓児童福祉 〈渡辺益男〉 の振れを防ぐには、船首が元の針路に戻る前に均値である。スは重み関数である。 舵を反対側に操舵する当て舵を行う。操舵手は 最近のオートバイロットは、測位システムや自動着陸装置しどうちゃくりくそうち auto- 路 0 -0- 比例操舵と当て舵とを上手に使って、船首が所 コンピ、ータと組み合わせて、予定された航路 matic landing 40m 霧や雨などで視程がの走程ⅶ繝繝 骨視 定の針路を保つように操舵するのである。オー 上を自動的に航海できるような総合航海システ低下した状態でも、自動的に安全、正確に飛行陸 ョ・トー 着 トパイロットには、操舵手がコンバスを見たムになってきた。 〈飯島幸人〉場への進入・着陸を行わせる装置。航空機の離 -0 -0 -0 6 3 シ り、適当な角度の当て舵をとるときの勘を、具児童相談所 じどうそうだんじよ児童相談所陸から着陸までの一連の操作を自動化して操縦自 体的に信号の形で与え、演算によって最適な動 には、児童福祉法 ( 昭和一一一一年法律一六四号 ) 士の負担を軽減し、安全性と定時性を確保しょ 置 きを算出し舵を制御するようにしなければなら に基づいて全国の都道府県に設置が義務づけら うとする自動飛行制御装置の一部で、オートバ ない。いま船首の予定針路からのずれ角を〃とれている公立のものと、大学・民間諸団体によ イロット ( 自動操縦装置 ) 、オートスロットル、 陸 すると、比例操舵は ~ 0 で表される。また当る教育相談を中心としている私立のものがあ低高度用精密電波高度計、 ( 計器着陸装着 ゴゴゴゴゴ テテテテテ て舵操舵は船首振れ角の角速度に比例する操舵る。公立の児童相談所は、児童福祉の中心的な置 ) で構成されている。 自区 カカカカカ で、やき、、ミである。したがって操舵角は機能を果たすことが期待されている第一線の機 従来から用いられている OO< ( 地上誘導着 öⅡ ~ 0 十 R ・ dO 、、ミ 関であり、一九四八年 ( 昭和二三 ) に発足し、 陸方式 ) は地上からレーダーで誘導し、—決めて地上設備と機上装備の改善を推進してい で与えればよい。ルとは比例定数である。八四年一〇月現在、全国に一六五か所設置されでは地上からの電波を受信して計器に表示させる。現在、カテゴリー—とⅡはほとんどの主要 は船首一度の偏角に対して何度の舵角をとらせている。一般に、①相談、判定、調査、指導をて進入・着陸を行っているが、いずれも機器の空港で達成され、自動進入着陸を必要とするカ るかを決める定数で、舵角調整といわれる。 行う相談業務、②一四歳末満の触法少年を関連能力の関係で、進入の最終段階は操縦士の肉眼テゴリーⅢを目標に整備が進められている。ロ は一秒当り一度の角速度に対し何度の舵角をと施設に送致したり、要保護児童を関連児童福祉 によって滑走路を確認し着陸操作を行ってい ッキード・トライスター機はすでにカテゴリー らせるかを決める定数で、当て舵調整とよばれ施設に入所させたり、あるいは里親または保護た。このため、それぞれの飛行場ではデシジョ Ⅲの能力を備えているが、飛行場側の施設が る。偏角信号〃はジャイロコンパスや磁気コン受託者へ委託したりする措置業務、③一時保護ンハイト decision height 操縦士完備していないので自動着陸は許可されていな バスから得られる。き、、ミの信号はりの信号をの三大業務が行われている。 が着陸するか否かを決定する高度 ) や滑走路視 い状態である。 全国の児童相談所は、人口一五〇万人以上の程 runway visual range) の最低値 電気的微分器にかけて得る。最近のオートバイ 自動着陸装置による着陸は、オートパイロッ ロットでは、この二つの信号のほかに、 0 ミ 地方公共団体の中央児童相談所を < 級、人口一を決め、気象条件がそれを下回るときは上空でトとによって正確に滑走路に進入し、低 待機するか、定められた代替飛行場か予備飛行高度用精密電波高度計が約一五の高度を測定 養のな , 害 害 る題は 場に着陸して、天候の回復を待っことになる。すると、自動操縦装置が機首上げの操作を行う 等 由障 で , 身 に上為う 航空機事故は悪天候下で着陸を強行することでと同時に、オートスロットルがエンジン推力を 行 4 不言四薄症心 ど境行 花 ` 去 2 な環法をる 体聴 7 神閉症 8 起こることが多い。自動着陸装置は、この着陸絞って滑走路に接地する。カテゴリーⅢ 0 で ・ a (. 0 婚育触談よ 受 1 賃冖ー・ 教 肢視引精自重 離養ど 時の安全性と、運航の定時性を確保するために は、その後のタキシングも自動操縦で行う。↓ レ」 なる 版 気なう暴す i--* T) ↓ - オートハイロット 開発された装置である。 〈落合一夫〉 年 病児い乱関 5 内 の侍を , に じどうちゅうしんしゅぎ child- 自動着陸装置の理想は、雲高ゼロ、視界ゼロ児童中心主義 者虐談浪為 護被相孚行』 の状態でも、安全に着陸し、タキシング ( 地上 centered education 児童を大人中心・教師 相 保 , る , 題 , 児す出 滑走 ) を行えることである。 ( 国際民中心の立場からみて教授・訓練するのではな は棄関家の 、こ 所 , 童「 間航空機構 ) では全天候着陸装置の開発にあた く、児童の人格とその独自性を認め、児童の自 談児童は児編 談 相難児と , 省 談 って、一九六四年に雲高と滑走路視程に関して由・活動・興味・自発性を尊重して、教育はす 6 護困る護が生 相相相 養育あ教い厚 五つのカテゴリー ( 、Ⅱ、Ⅲ << 、Ⅲ 22 、Ⅲ O べて児童の発達を中心として行われるべきであ 童護 9 行 5 児養非四 の五段階 ) を設け、その段階ごとに到達目標をるとする教育の主張。 0 0 心身障害相談 125 673 50 . 4 しつけ , 性向 38 067 適性 , 長欠 , 7 . 1 不就学 1 7 738 育成相談 55 805 その他 22 . 4 0 0
じようし もに台北に移り、再度国営企業となった。大陸 登場する。本曲からとられた邦楽・舞踊は古く などである。上場会社は決算期ごとに有価証券 の残存船舶・施設は中華人民共和国成立後、国 から多くあったが、今日伝わるものは少な報告書を提出するなど企業内容の公開が義務づ ながうた 〈岡部牧夫〉 営輪船公司が継承している。 く、長唄『二猩々』、地歌『女猩々』、一中節けられている。市場第一部銘柄の指定基準に満 じよ , っしょ , っキ、り・ゅ , っーエ亠刀冖」・回、か ) 『猩々』などが行われている。 〈増田正造〉 たないものは第二部銘柄に上場され、第一部銘 上昇気流 う空気の運動。下方に向かう運動は下降気流と じようしよう中国前近代、天子を補佐柄でも条件を満たさなくなると第二部に指定替 丞相 いう。風はおもに水平に吹く。それは、大気が して宰相の任にあたる高官名。春秋戦国時代に えになる。なお、銀行取引停止、更生など上場 しん 安定な密度成層をなしているためである。安定 この種の官はあったが、制度が成立したのは秦廃止基準に該当するときは上場から外される。 な密度成層とは、空気塊が、ある高度から上方 代であり、始皇帝は左・右丞相を置き、その上上場会社は新聞などを通じて公開されることに しよう・一く に向かうと、密度が周りの空気よりも大きくな に相国を置くこともあった。漢はこれを受け、 より、社会信用を増し、それに伴って、人材の って下向きの重力が働き、下方に向かうと密度 ときとして相国、または ( 大 ) 司徒と改称した確保、販売の促進、資金調達などが容易にな が周りの空気よりも小さくなって上向きの浮カ こともあったが、一人ないしは二人の丞相を置り、株式の担保力が増大するなど多くのメリッ が働く状態をいう。このため、水面に浮かぶ船 トが期待される。なお、商品取引所で売買され いた。唐代では三省の制が完備したためとくに なんそう みん が復原力のために空中にも水中にも行けないの 〈桶田篤〉 置かれず、南宋の時代に復活したが、明代の初ている商品を上場商品という。 と同じ理由で、空気はもつばら水平方向に運動 めにふたたび廃止された。 じようじよう / シャンラオ中国、江西省ショウジョウカイ〔猩々貝〕 king 〈尾形勇〉上饒 じようじよう株式や債券が証券取引所 北東部の信江上流に沿う市。上饒地区の公署所 thorny oyster/ S をミき s 、 e を軟体する。したがって上昇気流が生じるのは、やや 上場 の審査を経て大蔵大臣の認可を得、取引所の取在地。人口約一三万五〇〇〇 ( 一九公 D 。三国時動物門二枚貝綱ウミギクガイ科の二枚貝。普通特殊な場合に限られ、次のような成因があげら 引銘柄として登録されること。上場された株式代に呉が上饒県を設けて以来、同名の県が一時は殻長七弩、殻高八、殻径三・五ぐらいでれる。 ①山の斜面に沿って風が吹くとき。⑦二つの を上場株 ( 式 ) 、個々の上場株を上場銘柄、そ期を除いて存続してきた。一九四九年、同県かあるが、大形のものは殻長一五以上にもな の発行会社を上場会社という。株式の上場は取ら市街地を分離して上饒市が設置された。古る。紀伊半島以南、沖縄、華南、フィリピンな気団の境界面で、寒気の背に暖かい空気が乗り せつこう 引所によって決定されるが、その基準を上場審来、江西省と浙江省を結ぶ水運上の要地で、現どに分布し、潮間帯下より水深五〇ぐらいの上げたときで、おもに寒冷前線面および温暖前 せつかん 線面で生じる。③暖められた空気塊が浮力で上 査基凖といい、市場第一部への上場は次の条件在も、浙籟鉄道に沿い、江西省北東部の物資集岩礁にすむ。右殻の殻頂部分で岩に固着する。 せきとう を満たす株式であることが要請される。すなわ散と交通の中心地である。自動車修理組立て、殻色は鮮やかな赤橙色ないし紫紅色。左殻の表昇したとき。地表面が日射で強く熱せられて生 しようきよく じる場合と、雲の内部で水蒸気が凝結するとき ち、資本金一〇億円以上、総株主数三〇〇〇人電子機器、化学肥料、農業機械などの工業があ面に多くの小棘列を生じ、さらに太くて長い ばうかれい に発生する潜熱 ( 気化熱 ) によって空気塊が暖 る。市の南郊にある茅家嶺の集中営跡は革命史棘列が六 ~ 七列ある。大棘の先端が多少葉状に 以上、いすれか一か所の取引所に上場されてい 〈河野通博〉広がったものをセンニン ( 仙人 ) ショウジョウめられて生じる場合とがある。積乱雲が上空に る場合には、最近六か月間の月平均売買高が一一跡の一つとなっている。 じんたい 〇万株以上あること、配当は最近二年間一〇 % ショウジョウェビ〔猩々蝦〕 kangaroo ガイとよぶ。右殻には三角形の靱帯面があり、向けて発達するのは後者の場合である。④性質 以上の有配で、継続しうる見込みがあること、 sh ュ mp 、、、ぎ s きミ s ミ節足動物かみ合せには一対の大きな突起がある。内面はの似た二つの気流が合流した結果、一部の空気 じっきやく 〈奥谷喬司〉 が上空に押し出されるとき。上昇気流の生じる 門甲殻綱十脚目オキエビ科に属するエビ。体白い。観賞用にされる。 ようがんえんちょう を精嶋 しようじようかざん 0 溶岩円頂範囲が線状になるので、そこを取束線という。 長二〇を超える大形種で、水深二〇〇 ~ 一一一 鐘状火山 波妖豊 キ、ゆ・つ ⑤風が海から陸地に向かって吹くとき。風が海 〇〇の深海にすむ。体は一様に鮮やかな紅赤丘 りよう そくへん 上随 海 ー ) よ、つー ) よ、つキ、よ / 、 中国の水運企業。岸線を越えると急に地表面摩擦が大きくなって 色。頭胸甲は強く側扁し、背正中線は鋭い稜と招商局 酔て なる。額角はごく短く、その上縁から頭胸甲の清末の中国では、水運業はアメリカ、イギリス風速が弱まるので、一部の空気が上空に向か 豊 背正中稜にかけて数個の小さな歯がある。頭胸などの外国資本が独占していた。これに対抗う。これを内部境界層ということがある。ま 猩酒け蹴 ( 訓 甲の側面には肝域を中心に前後に一一本ずつの稜し、民業の振興 ( 招商 ) を図るため、直隷総督た、海風前線 ( 海風の先端部 ) にも上昇気流が り - 」うしよう 、ンヤンハイ・ が走る。雌の腹部は大きく膨らみ、とくに第一一李鴻章の提議で一八七二年上海に創業。政府生じる。⑥台風や竜巻のような強い渦巻の中心 日本産は、一九一八年の融資を受け、漕米を独占するなどの保護策が部。渦巻の中心部は周囲より気圧が低いので、 腹節が著しく大きい せっしようのみや きんじよ・つ ( 大正七 ) 春、当時摂政宮であった今上天皇とられ、民族水運業の中心的存在となった。七地表面付近の空気が渦巻の中心部に集まってく が沼津御用邸に滞在中、暴風雨の翌朝海岸に打四年商弁に改組。しかし外国資本の勢力は強大る。その結果、上昇気流が生じる。 上昇気流はグライダーのパイロットやトビな で、その後一九三〇年代に至るまで、各港出入 ち上げられた一尾を発見したのが最初である。 どワシタカ科の鳥にとってたいせつなばかりで その後、やはり沼津付近から五個体ほど採集さの船舶トン数は一位のイギリスと二位の日本と なく、気象学的に重要な意味をもつ。気圧は上 れただけのまれな種である。学名は今上天皇にでつねに五〇 ~ 六〇 % 台を維持する状況であっ ちなんでシンパシファェア・インペリアリスた。加えて経営の拙劣、軍閥・官吏の利権争空ほど低くなるので、空気塊が上昇すると膨張 ミききぎをこ s とよばれていたが、奪、民族造船業の不振など悪条件が重なり、招し、その際に空気塊の温度が下がる ( 断熱冷 最近の研究によってインド洋産のシンパシファ商局は長く低迷を続けた。国民政府は同局の再却 ) 。その低くなる割合は一〇〇上昇するご ェア・アンネクテンス S. ミミ e ミ s とともに 興を計画し、一九三一一年国営にして経営を改善とに約一度 0 である。この減少率を乾燥断熱減 2 しゅ・つけい したが日中戦争で休業。四三年重慶で再建さ率という。空気中には水蒸気が含まれているの 大西洋産と同一種とされ、標記の学名となっ 〈武田正倫〉れ、戦後、官民合弁を経て国民政府の移転ととで、露点温度に達すると雲が発生する。さらに ショウジョウガイ 881
son politique ( 政治的シャンソン ) 、シャンソ に興隆し、やがて一八世紀のカボーや一九世紀 <OO およびのディスク大賞を受賞した 〔シャンソンの種類〕シャンソンは、そのテー ン・アンガージェ chanson engagée ( プロテ マが幅広く、歌い方もさまざまなため、とくに の芸術的キャパレーがそのおもな舞台となっ 一九六〇年代に入ると、ロック調の歌が爆発決まった分類法があるわけではないが、便宜た。第一次大戦後はいささか影が薄くなったスト・ソングのこと ) 、シャンソン・ド・メチ 工 chanson de métier ( 職業に関するシャン 的に流行し、イエ・イエ Yé・ Yéとよばれた。 くつが、第二次大戦後、復興の兆しをみせ、今日の 上、種々の型に分けられる。ここには、し ソン ) など、いろいろな呼び名で分類される。 このイエ・イエのトップ・スターがジョニー シャンソン界にも受け継がれている。アポリネ かの例をあげておく。 〔日本におけるシャンソン〕日本にシャンソン アリディ ( 一九四三ー シャンソン・ポピュレール chanson popu ・ ールの詩による『ミラボー橋』や、アラゴンの ) であり、彼と結婚 ( のち ひとみ が本格的に紹介されたのは、一九二七年 ( 昭和 に離婚 ) したシルビー ・バルタン ( 一九四四ー 詩による『エルザの瞳』などはその好例 laire 「民衆の歌」の意。英語のポピュラー (l) に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー しわゆる流行歌をさす場合も ⑦シャンソン・レアリスト chanson réaliste は「イエ・イエの女王」の座につき、映画『アソングと同様に、、 『モン・パリ』を初演してからのことである。 イドルを探せ』 ( 一九六三 ) の主題歌などによってあるが、シャンソン史では読み人知らずの民「現実的なシャンソン」の意。恋をテーマにし 以降『パリゼット』『花詩集』などのレビュー たものが多いが、物語をドラマチックに展開さ 謡、およびこれに準ずるものをいう。 日本でも人気を獲得した。 の主題歌として、いくつかのシャンソンが使わ また、ベルギー出身のアダモ ( 一九四三ー ②シャンソン・サバント chanson savante せ、現実の庶民生活のもっとも暗い面をリアリ たやりきぞう スティックに描き出す。好んで取り上げられるれた。三一年には田谷カ三の歌で『巴里の屋根 は、イエ・イ工と従来のシャンソンとの中間的「学識のあるシャンソン」「高級なシャンソン」 しようふ の意。シャンソン・ポピュレールに対して、作主人公は、やくざ者や娼婦、舟乗りや兵士などの下』がヒットし、その影響でアコーディオン なスタイルをとり、一九六二年『サン・トワ・ マミー』のヒットでデビューを飾った。一方、者の明確なものをいう。中世の宮廷を中心に発で、下町や港がドラマの舞台となる。この種のが流行した。 佐藤美子もいち早くシャンソンを取り上げて 動乱でアルジェリアから引き揚げたエンリコ・ 達し、恋の歌が多かった。歌詞の形も整い、曲シャンソンは一九世紀の末ごろから台頭し、ア あわや リスチード・プリュアンらによって数多くつく先駆者的役割を果たしたが、とくに淡谷のり子 マシアス ( 一九三ハー ) は、親しみやすい曲調でも芸術的で、近代シャンソンの発達を促した。 られた。これをおもなレバートリーとする女性は『暗い日曜日』 ( 一九三六 ) 、『人の気も知らない ③シャンソン・ド・ジェスト chanson de ges- 愛と平和を訴え、『恋心』 ( 一九六四 ) などのヒット te 普通「武勲詩」と訳される。中世のころに 歌手をシャントウーズ・レアリストという。男で』 ( 一九三 0 などの大ヒットを放って、第二次 を放った。 一九六〇年代の後半になると、ミレイユ・マ発達した叙事詩の一種で、おおむね騎士や王の性ならばシャントウール・レアリストだが、こ大戦前の日本にシャンソンを浸透させた。戦 チュー ( 一九四六ー ) が「エディット・ビアフの武勲をたたえた内容をもち、歌うというより吟のジャンルの歌手はほとんどが女性。第二次大後、一九五三年 ( 昭和二八 ) にフランス帰りの こうひでお 高英男が歌う『ロマンス』がヒットし、五五年 唱された。↓武勲詩 戦後、この種のシャンソンは急速に下火となっ 再来」と騒がれて、『愛の信条』 ( 一九六六 ) でデビ にはイベット・ジローが初来日してシャンソ ヒアフは最後のシャントウーズ・レアリス ューする。「ロックとロマンの融合」というキ④コンプラント complainte 中世にプロバンた。。 よしこあしの ン・プームが巻き起こった。石井好子、芦野 ス地方からおこった世俗的な歌曲の一種。ロマトであったといわれる。 ャッチ・フレーズで日本でも人気を博したミッ ひろし あきひろ ⑧シャンソン・ファンテジスト chanson fan ・宏、丸山明宏 ( 後の美輪明宏 ) ら、多くのシ シェル・ポルナレフ ( 一九四四ー ) がデビューし ンチックな悲恋物語や、宗教的な受難などがっ みさお ャンソン歌手が活躍し、六三年には中原美沙緒 taisiste 「幻想的シャンソン」と訳される。さ たのも、同じく一九六六年のことである。彼らづられ、哀愁を含んだメロディーをもつ。一六 まざまなタイプを含む漠然とした分類で、自由が『夜は恋人』 ( 原題は『メア・キュルバ』 ) の歌は、わが国ではフレンチ・ポップスという世紀ごろから、主としてジョングルールとよば ・一しじふぶき を歌って成功を収める。翌六四年には越路吹雪 名でよばれた。『マイ・ウェイ』の原曲『いつれる吟遊詩人によって盛んに歌われた。この名自在に空想を働かせてつくったシャンソンをい の『サン・トワ・マミー』、六五年には岸洋子 う。才気にあふれ、コミックな要素をもってい ものように』 ( 一九六七 ) を創唱したクロード・フ称は現代にも伝わり、シャンソンの題名にしば ぶし の『恋心』が大ヒットして、アダモやエンリ ランソワ ( 一九三九ー七 0 も、ジョニー・アリディ しば用いられて、「哀歌」「嘆き節」などと訳さて、おもにカフェ・コンセールやミュージッ コ・マシアスの来日に道を開いた。その後は長 ク・ホールのステージで歌われた。これをレバ れている。 と並ぶ人気を誇っていた。 い低迷期が続いたが、昭和五〇年代後半に至っ ートリーとする男性歌手をシャントウール・フ ⑤ロマンス romance 元来は中世の吟遊詩人 一九七〇年代には、ロックの波もようやく収 ゆかり モーリス・シュバリエ て金子由香利の成功を機に、復興の気運がうか まり、深い内容のある歌が見直され、本格派のが歌った長編の感傷的な物語歌であったが、そアンテジストといし 〈永田文夫〉 シャルル・トレネらがこのジャンルに入る。女がえる。 の後しだいに甘くやさしい歌を広くこの名でよ 歌手が台頭する。左岸のキャパレーでデビュー し長い間不遇であったユニークな女性歌手兼作ぶようになり、器楽曲にも適用された。一九世性の場合はシャントウーズ・ファンテジストと回蘆原英了著『エンサイクロペディア・アシワ ラ 3 シャンソンの手帖』 ( 一九会・新宿書房 ) いうが、きわめて数が少ない ) の『黒いワ紀につくられた『桜んばの実るころ』なども、 詞・作曲家バルバラ ( 一九三 0 ー ▽永田文夫著『世界の名曲とレコードシャ ⑨シャンソン・ド・シャルム chanson de シ』 ( 一九七 0 ) がヒットしたのも、その表れの一広義のロマンスの一種とみなすことができょ ンソン』 ( 一九〈四・誠文堂新光社 ) う。現代のシャンソンにも、この系統に属する charme 「魅惑のシャンソン」の意。おもに愛 つであろう。七三年には、堂々たる歌唱力をも をテーマにした甘いシャンソンのことで、これ ) ンヤンノン Francis Jeanson ( 一九 = 一一ー ) が『恋ものが多い っミッシェル・サルドウー ( 一九四七ー ) フランスの哲学者。サルトルに傾倒し、 ⑥シャンソン・リテレール chanson littéraire を歌う男性歌手をシャントウール・ド・シャル のやまい』で、セルジュ・ラマ ( 一九四三ー みち 「文学的シャンソン」の意。シャンソン・ポピムという。このことばは一九三〇年代にティ彼の主宰する雑誌『レ・タン・モデルヌ』の有 『灰色の途』で人気を確立した。 その後も、ディスコ調、ポップス調など、時ュレールに対して、シャンソン・サバントと同ノ・ロッシに対して初めて用いられ、アンドカな書き手となる。数冊のサルトル論、現象学 の研究などがある。アルジェリア独立戦争 ( 一九 レ・クラボーに受け継がれた。女性の場合はシ の流行に応じてシャンソンは目まぐるしく変化様な意味でも用いられるが、一般には詩人の詩 五四 ~ 六一 l) が始まると、ただちに著述を通して公 ャントウーズ・ド・シャルムで、リュシェン に作曲家が節づけた作品をいう。一五六七年に し、一九八〇年代にはレ・アール地区を中心と 然と独立運動を支持し、のちには地下組織をつ ヌ・ボワイエらがこれに属するが、むしろシャ 」する若者たちによる新しい波がおこって、きわ詩人のジャン・アントアーヌ・ド・バイフと音 くってフランス車隊からの脱走兵を積極的に援 ントウーズ・サンチマンタル ( 感傷的女性歌 んめて複雑な様相を呈している。しかし反面で楽家のチボー・ド・クルビーユが「詩と音楽の 助するなど、その行動は広く海外にも反響をよ アカデミー」を設立してから、このジャンルの手 ) とよばれることが多い は、シャンソンの伝統はかたくなに守られてい や 〈鈴木道彦〉 4 そのはか、シャンソン・ポリティーク chan- んだ。 シャンソンが発達した。一七世紀に入って大い じることも見逃せない。
じどう は、荘園・公領や幕府の職の枠内の未成熟で制 約された存在にすぎないという見方と、実態面 職 を重視して中世領主の典型とする見解とがある 地 が、それらは制度と実態のいずれの側からみる ・イ の かによって生ずるずれで、実際には両面をもっ 野 ていたものとみるべきであろう。 ^ 義江彰夫〉 回三浦周行著『続法制史の研究』 ( 一九一一四・岩波 野文 書店 ) ▽中田薫著『法制史論集第二巻』 ( 一九三ハ・岩波書店 ) ▽牧健二著『日本封建制 を所 政政 度成立史』 ( 一九三五・弘文堂 ) ▽安田元久著 す文え」い 朝家 山軍 『地頭及び地頭領主制の研究』 ( 一九六一・山川出 筮人三第ール月 + 言まメ 版社 ) ▽石母田正著『鎌倉幕府一国地頭職 状示 貪郭ま第佐笋第工 任を の成立』 ( 石母田正・佐藤進一編『中世の法 ( ト 2 ー鷲へ と国家』所収・一九六 0 ・東京大学出版会 ) ▽ 上横手雅敬著『日本中世政治史研究』 ( 一九 し 七 0 ・塙書房 ) ▽大山喬平著『日本の歴史 9 地補 鎌倉幕府』 ( 一九七四・ 小学館 ) ▽義江彰夫著 け継ぐか、それがなくとも最低限一一町ごとに 『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』 ( 一九天・東京 合法的に掌握し、種々の公事課役 ( 雑税 ) を自る。↓高其佩 〈永井信一〉 きゅうでんたんべっ さんやかがいしょ 一町の給田、反別五升の加徴米、山野河海所 大学出版会 ) 由に賦課して在地への支配を強化していった。 じどうが幼児期から思春期までの子 児童画 しゆっぷっ ・一くしりようけ さらに、契約している請料の滞納・末済なども供によってかかれた絵をいう。幼児期の子供の 出物の国司領家との折半、犯罪人跡所領三分寺洞じどう / サトン朝鮮民主主義人民共和 の一の収得など制限付きながら権益が保証され国、平壌市の東郊にある無煙炭産地。平南南部多く、地頭請の結果、地頭の封建領主化が進ん絵をとくに幼児画というのに対して、小学生以 〈安田元久〉上の子供の絵を児童画という場合もある。児童 た。この新補地頭に対する規準設定にうかがえ炭田に属する平壌炭田で、一九〇七年開発されだ。 るように、幕府は地頭の存在や機能を積極的に た。炭層は古生代平安系の寺洞統に含まれてい シトウェ Sittwe ビルマ西部、べンガル画の研究はクックやイタリアの美術史家リッチ けつがん 肯定・拡大しようとした反面、一貫して一定のる砂質頁岩、黒色粘板岩などの互層中に八 ~ 九湾に臨む港湾都市。カラダン川河口に位置し、 C. Ricci らによって一九世紀末から始められ、 枠内に封じ込め無制限な成長を抑止しようとしの炭層をなしている。炭層は地殻変動により粉ラキン ( アラカン ) 州の州都。別称アキャプ日本では大正期に霜田静志 ( 一八九 0 ー一九七三 ) らに た。それは、鎌倉幕府が朝廷や荘園領主勢力と炭化している。 〈魚塘〉 Akyab0 人口一四万三二一五 ( 一九七三 ) 。小漁村よって手がけられるようになった。子供の絵の しようえん じとううけ荘園領主が地頭に荘園にすぎなかったが、一 八一一六年アラカン地方が「発見」が児童中心主義的児童観の高潮する時 妥協した武家公権であり、かっ地頭の無制限な地頭請 成長が幕府の存立を揺るがすと判断された結果管理を全面的にゆだねるかわりに、毎年の豊凶イギリス領インドに併合されたとき、アラカン代になされたのも偶然ではない。児童画は子供 と解されている。 にかかわらず一定の年貢の進納を請け負わせる王国の首都ムラウウ ( 別称ムロハウン ) にかわの独特な感情や世界観を写し出している鏡であ うけしょ 〔地頭の発展〕しかし地頭は右の枠内に収まる方法のこと。「地頭請所」ともいう。この一定って、その中心都市となった。港湾施設が整備り、したがって大人の絵に適用される審美尺度 うけりよう 存在ではなく、幕府の抑制を踏み越えて鎌倉時額の年貢を請料という。鎌倉初期からみられされ、精米業など新しい工業がおこり、対インを子供の絵に当てはめるのは不当なのである。 る現象であるが、一般的な成立は鎌倉中期から ド貿易港として繁栄した。沿岸・内陸航運の結〔発達段階〕児童画の発達段階は大きく三つの 代を通して一貫して所管荘公所領の全一的支配 そうが したじちゅうぶん を志向し、地頭請、下地中分などを通して、 後期にかけてである。鎌倉幕府設置の地頭は、節点であり、首都ラングーンとは海路、空路で時期に分けられる。第一の段階は「掻画期」と よばれ、一歳過ぎから三、四歳ころまで続く。 全一的所領支配の制度的な足掛りをつくりだすその権限を乱用、荘園領主に進納すべき年貢を結ばれる。町の歴史は新しいが、北東六〇キ。に ようになった。こうして地頭は南北朝時代には不法抑留することが多くなった。その年貢抑留あるムラウウにはシッタウン寺をはじめ寺院やこの時期の絵は運動的興味に基づくものである 〈酒井敏明〉 ことが多く、具象的な形態をなさないなぐりが パゴダなど歴史的建築物が多い ますます幕府の地方職員としての枠を超える者の表面上の理由は、水損、風損、干損などの天 しとうが指画、指墨ともいい、筆の きである。しかし、一見無意味な絵の色彩、線 になっていったので、室町幕府は地頭を地方幕災による収益の減少であるが、荘園領主はその指頭画 はらつめ たびに地頭と紛争を起こし、幕府への訴訟によ かわりに、手の指の肚や爪に墨をつけて描く水の形状や配置、スペースなどはしばしば子供の 府行政の末端の役人として組織しないようにな ちょうそう 心の状態を投射したものである。第二の段階は った。その意味で南北朝から室町初期に至る時って解決を図った。そこでこの紛争解決の煩わ墨画の技法の一つ。中国唐代の張理が始めた しさから免れるためにとられた方法の一つが、 といわれるが、これは筆を使った画面の一部に 「図式期」であり、四、五歳から八、九歳くら 代は幕府制度としての地頭の消滅期といってよ いまでの時期である。この時期の絵は見たもの いが、平安末期の発生以来の実態上の武力領主この地頭請である。地頭請には、荘園領主と地用いたものと思われる。本格的なものは清代の こうきはい としての性格は、この間むしろ発展したとみる頭とが直接に私的契約を結んで成立する請所高其佩が最初で、指頭画の祖とされ、従孫の高をかくようにみえて、実は彼らの表象を表現し ′、にゆこっ たものである。頭足人、大小関係の無視、展開 べきである。戦国・江戸時代においても、伝統と、幕府ロ入の請所があった。後者は、幕府が秉に「指頭画説』 ( 一七七 D がある。日本では柳 きえん 的な開発領主の系譜を引き、検察力を背景とし地頭優遇策として、荘園領主側に請所とするこ沢淇園が描いたのが初めといわれるが、現存の図法的な描法、レントゲン画、並べがき、重ね いけのたいが らかん とを要求して成立したもの。このような地頭請 遺品はなく、池大雅の『五百羅漢図』がそのがき、アニメーション的描法、対象性や平面性 て在地を領域的に支配しつつ大名の給人や軍役 は、荘園に限らず国衙領でも行われた。このこ もっとも優れた遺品である。毛筆では表せない の描法など特徴的な絵がかかれるのは、技術の 衆に連なる領主は、各地で地頭とよばれ続けた。 地頭の中世社会のなかにおける位置についてとにより地頭は在地における事実上の支配権を描線や墨の濃淡があり、独自の画趣を備えてい 未熟さによる面もあるが、むしろこの時期の子 7 しん 指頭画池大雅『五百羅漢図』 18 世紀紙本淡彩 180 . 7 x 1 1 4 . 9cm 重文京都万福寺 現在掛幅に改装されているが , 万福寺方丈 の各室の襖絵として描かれた。大雅の作品 中ても第一に位する大作で , 四十代の制作