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検索対象: 日本大百科全書 11
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1. 日本大百科全書 11

せんべん とにより芯を繰り出すキャップスライド式、筆会長。一九一三年食変光星の大きさの決定法をあるリズム、機知と繊細な感覚にあふれた表現、グの先鞭をつけた。ヒッチコックへの傾倒から 記部と芯の両方の出し入れをノック操作ででき考案、近接連星の研究に貢献した。翌年ケフェ鮮明で大胆な和声をもつ。そのため彼は同時代サスペンスものが多く、『二重の鍵』 ( 一九五九 ) 、 め るダ・フルノック式などがあり、予備芯が自動的ウス型変光星の脈動説を提唱し、エディントン の作曲家を超え、サテイやラベルの音楽の先駆『ジャガーの眼』 ( 一九六五 ) 、『交換結婚』 ( 一九七一 D 、 に追従してくるものが多い。回転式は、らせんの恒星解析理論 ( 一九一一四 ) の基礎資料となった。者とされることもある。パリに没。〈美山良夫〉『ビオレット・ノジェール』 ( 一九七 0 などがあ 〈村山匡一郎〉 ほう 0 ル・シャプリエる。 パイプを伝わって芯を出し入れするもので、単また球状星団内脈動星に周期光度を適用し、そシャプリエ法 らせん式、交差らせん式 ( 二色式 ) 、先回し式の距離推定・空間分布から銀河系の形状と中心 法 シャベン cesar Estrada Chavez ( 一九 = 七 がある。ドロップ式は、芯を適当な長さに出しを見積もった。さらにマゼラン雲やアンドロメ ) アメリカの労働運動家。一九六〇年代 シャフリル 0 シャリル て固定する方式で、レッドホルダーとかドロッダ銀河などについて他銀河内脈動星によりその シャープール ( 一世 ) Shäpür 一生没年にメキシコ系労働者を組織化したことで一躍脚 プペンシルとよばれ、太芯の製図用である。最距離と大きさを提示した。晩年平和運動の組織不詳。ササン朝ベルシア第二代皇帝 ( 在位 = 四 = 光を浴びた。アリゾナ州ュマに生まれ、十分な 近では自動的に芯が出てくるノンストップ方式者として活躍。イギリス王立天文協会ほか諸学 ~ 一一七三 ) 。父アルダシール一世時代に養成された教育も受けられず、幼少のころから移動労働者 もある。芯径は〇・三、〇・五、〇・七、〇・ 〈島村福太郎〉 としての日々を過ごした。三五歳のころ、当時 会から多くの栄誉を受けた。 強力な軍隊を受け継ぎ、政治体制の中央集権化 九、リの四種類が一般的で、硬度は ~ まシャプリエ Emmanuel Chabrier ( 天四一を推進してササン朝の基礎を固めた。東はクシ西部の農園で過酷な労働を強いられていたメキ ↓シャ であり、〇・五ミリ芯にその種類が多い ー九四 ) フランスの作曲家。ピュイ・ド・ドーム シコ系季節移動労働者を連合農園労働者組織委 ャン帝国に攻撃を加えて中央アジアに進出し、 ープ ( 株 ) 〈野沢松男〉県のアンべールに生まれる。法律を学び役人と西はシリアに侵入して二六〇年にローマ皇帝ウ員会に組織化し、・ O—O に加入するこ al-Shahrastäni とにも成功した。非暴力の大衆行動を基本姿勢 なったが、早くから作曲、ピアノに習熟、オペレ アレリアヌスを捕虜とした。その勝利を記念し シャフラスターニー ( 一 0 七六ー二五三 ) イスラム教アシュアリー派の神 ッタ『星』 ( 一全七初演 ) などの成功を機に三九た浮彫りがナクシュ・イ・ロスタムやビジャプとし、サンオーキン平野の農園所有者に対する 学者。イランのホラサーンに生まれ、アプー スト ( 一九六五 ) 、サクラメントに至る三〇〇マイ 歳から音楽に専、いした。さらに一八、 ノ二年のス ール ( ともにイラン南部、ファールス州の遺跡 ) ル抗議行進 ( 一九六六 ) などが有名。また六九年に カーシム・アンサーリーから神学を学んだ。イベイン旅行の印象に基づく管弦楽の狂詩曲『ス の岩壁に刻まれている。従来の円形都市にかえ おこしたメキシコ国境一帯一〇〇マイル行進に スラム世界を広く旅し、三年間バグダードの一一 ペイン』 ( 一公 = 初演 ) で名声を確立した。ワー て、ギリシアの影響を受けた長方形都市を建設。 ザーミーヤ学院で教え、当代随一の学者との名グナーの楽劇の影響を受けたオペラ『グワンド ゾロアスター教を尊重するとともに、マニと親 は上院議員・ケネデイや黒人運動指導者・ 声を得た。代表作の『諸宗派と諸分派の書』 リーヌ』 ( 一公六初演 ) は彼の代表作とされる。交を保ち、マニ教を保護した。学問に関心が深・アバーナシーも参加したことから、同年の く、ギリシアやインドの医学、天文学、哲学な上院移動労働者小委員会では多くの支持を得 は、イスラム教内部の諸派の歴史をはじめ、キまた『絵画風の小曲集』 ( 一公一初演 ) 、『気まぐ 〈河内信幸〉 〈小玉新次郎〉 リスト教やインド・古代ギリシアの哲学の諸流れなプーレ』 (I<RI) などのピアノ曲は、生気ど多方面の文献を翻訳させた。 派などの記述を含んでいる。同書は、今日では シャー。フルック Sherbrooke カナダ、 シャーベット sherbet 果汁を主材料と 世と示ヌ , スず手ンジ 散逸して現存しない資料を多数引用しており、 ケベック州南部の工業都市。人口七万三〇〇〇して砂糖、香料、そのほか牛乳や卵白、ゼラチ 帝をアれプまはラビ ンなどを加えて凍らせたものを一般にシャー・ヘ 比較宗教学、イスラム宗教史の貴重な文献とさ ( 一九公 D 。マゴグ川とサン・フランソワ川の合流 ル皇とイらラざスイ 世一マこデけアひヌ 〈竹下政孝〉 れている。 点に位置し、モントリオールの東一三七キ。、アットという。食品の分類上は氷菓で、材料に牛 こルっ・てアるス ル一口っゴみスうリ メリカ国境に近い。鉄道の分岐駅で、農産物、乳や生クリームなどを用いたものでも乳脂肪が 、ンヤ。フラン Jean Chapelain ( 一五九五ー一六 一ヤの勝。踏プ請レて一 プシ人にりはツをアれアル 少ないので乳製品としては扱われない。シャー 七四 ) フランスの詩人、評論家。バリ生まれ。 畜産物の集散地でもある。付近の滝を利用し、 一の 3 い彫世リ平ウかフ一 ャ上 , 戦浮 3 イ和 フランス古典主義理論の確立に主要な役割を演 引部プ豊富な水力を得ることができるので各種製造業ペットの原型はトルコにあり、それが一六世紀 シ馬がのすスフはきを南ャ じた。アカデミー・フランセーズ創始時の会員 が発達し、とくに織物、メリャス製造業の一大にイタリア人によってフランスに伝わったとい 中心地である。木材の生産も盛んで、パルプ、われている。フランス語ではソル・ヘ sorbet と で、コルネイユの「ル・シッド論争」の際、ア リキュールなどの洋酒を果汁に加えて、 製紙の各工場がある。近くに石綿鉱山があり、 カデミーの意見公刊の主著者となった。長年に 一部液体が残るように凍らせた飲み物も意味す 採鉱用施設がある。また、電気工業や金属加工 わたり文壇に君臨したが、その理論を応用した 業も豊富な水力電気を使って行われている。アる。これは食事中のロ直しとしてアントレ ( メ 叙事詩「聖処女』 P ミ e ド ( 一六五六 ) の刊行は、 インの肉料理 ) のあとに供されたが、しだいに メリカ合衆国と結ぶ主要ハイウェーに沿ってい 識者、ことに若い世代、ボアローらの攻撃によ ちょうしよう るので夏季には観光客が多くなる。シャー・フル甘味の強い凍らせたデザートとして供されるよ って嘲笑の的となり、あわせてその勢威が急 〈山下脩二〉 〈福井芳男〉 ック大学の所在地。 うになった。果汁に水、甘味料、酸味料を加え 速に衰えた。 て凍らせただけのロあたりの固いものと、卵白 シャフロル Claude Chabrol ( 一九三 0 ー シャ。フリー Harlow Shapley ( 天会ー一九 ) フランスの映画監督。バリ生まれ。薬科やゼラチン、クリームを加えて泡立て、滑らか 七 (l) アメリカの天文学者。ミズーリ州ナッシ 大学卒業後『カイエ・デュ・シネマ』誌に映画な感触にしたものとがある。家庭でつくる場 ュビルに生まれる。同地の大学で数学、物理学 合、好みの果汁に水やワイン、砂糖、レモン汁 批評を書き、一九五七年にはエリック・ロメー を修め、一九一三年プリンストン大学でラッセ ゅせん ルと共著『ヒッチコック論』を出版。同年、妻などで味をととのえ、湯煎で溶かしたゼラチン ルに師事し、食変光星の観測をした。一四年ウ の伯母の遺産によって『美しきセルジュ』を自液、または泡立てた卵白を加えて容器に入れて っ イルソン山天文台のヘールのもとで球状星団内 しろうと 主製作して監督としてデビュー、その素人製作フリーザーで凍らせる。ほば凍ったら、スプー ード大学教 、ヘ変光星を観測。二一 ~ 五二年ハ と新鮭な映像で当時の映画界を驚かせ、第二作 ンでほぐすようにかき混ぜて、ふたたび凍らせ 7 や授および同大学天文台長。三九 ~ 四四年アメリ る。 〈河野友美〉 3 『いとこ同志』 ( 一九五 0 とともにヌー・ヘル・バー しカ芸術科学院長。四三 ~ 四七年アメリカ天文学 2 上 かぎ

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しゆっじ どうあん 間は死んでしまうと考えるからである。タヒチそれは、出産が母体にとって危険であるという料および訳経僧の略伝をも掲げる。道安 ( 三一 = ケサス諸島、タヒチ、ハワイ諸島などでは住居 ー三会 ) の経録 ( 現欠 ) が本書の主たるよりど とは別の産小屋を建ててそこで産んだ。そのよでも産婦は食物に手を触れてはならす、他の者だけでなく、社会的にも重要な意味をもってい ころとなっている。異訳、失訳、疑経について に食べさせてもらった。出産の習俗として有名るからである。出産を経て、女性は母としての うな場合たいてい妊婦とごく少人数の介添えだ ぎべん バード ( 擬娩 ) がある。妻の出産役割を獲得し、ときには真に妻として認知され注意が払われているが、まだ大乗・小乗の区別 けで行われる。しかし公衆の面前で行われる場なものにクー る。というのは、初生児の出産後、初めて婚姻は明一小されていない。また南朝の著作のため、 合もあり、たとえばかってのサモアでは老若男時に夫も床について、苦しんだり、さまざまな 北朝については手薄になっている。しかし中国 が成立する社会もあるからである。もちろん男 女二〇人か三〇人の前で行われ、子供も追い払禁忌に従ったり、周囲の人たちから産婦のよう 古代の仏教受容を知るうえで不可欠の重要文献 にとっては父になることを意味する。出産儀礼 われなかったという。出産の手助けは出産経験に扱われ、手厚い世話を受ける。スペインのバ 〈岡部和雄〉 いである。↓僧祐 の豊富な女性のほか、妊婦の母が行うことが多スク、ソ連のバルト海の一部、北米・中米・南はこのような新しい社会的地位の獲得、ある しゆっし法人や組合が事業を営むた は地位の変化を儀礼という形で表している。他出資 サモアのアシャンティ族ではかならず母系米のいくつかのインディアンなどにみられる。 なお、出産時の産婦の姿勢は、寝た形のほか、方、出産は子供にとっての出生であり、誕生のめに必要な資金として、金銭その他の財産、労 親族の女性の世話を受け、父系親族の者からは とくめい しゆっえん 助けを受けない。出産時に夫が同席するか否か座ったりひざまずいた姿勢が未開社会によくみ儀礼は生まれた子を社会の一員として確認し、務、信用を出捐すること。各種の会社、匿名 組合、民法上の組合、協同組合などについて、 位置づける意味をもっている。なお、ファン・ は社会によって異なる。インドシナ半島のモンられる。 法律上この用語が使われているが、株式会社に へネップは、出産・出生を人間が一生のうちに 出産時に注意深く扱われるものに胎盤などの 族では夫はひざまずいた姿勢をとった妻を支え あとぎん てやる。逆に出産時の夫の不在例もよくみられ後産とへその緒がある。これらは生まれた子の通過しなければならない段階の一つとしてとらおける株式の払込みも出資にほかならない。出 る。メラネシアのロイヤル諸島では出産は一種連命に影響を及ばすと考えられ、慣習に従ったえ、その際の儀礼は他の通過儀礼と同じく、隔資には、金銭その他の財産による財産出資のほ の見せ物で、男も女も子供も見に集まるが、夫処理がなされるが、しばしば生まれた子が男か離、移行、統合の三段階からなるとした。先のか、労務出資と信用出資があるが、労務出資と 信用出資は、人的会社の無限責任社員 ( 合名会 だけはおらず、出産後も子がはいはいができる女かによって処理の仕方が異なる。スーダンのアラベシュ族はその一例である。〈板橋作美〉 ようになるころまで妻子のところを訪れない。 遊牧民ハデンドワ族は、男児の後産はキャンプ回『家閑談』 (r 定本柳田国男集新』所収・一九社の社員と合資会社の無限責任社員 ) に限って 六三・筑摩書房 ) ▽『旅と伝説六ノ七誕生認められるにすぎない。合資会社の有限責任社 から遠く離れた木陰に埋められ、女児の後産は 出産時の妊婦の隔離は、出産、とくにそのとき けがれ ・三元社 ) ▽大藤ゆき著員、株主、有限会社の社員、匿名組合員、協同 と葬礼号』 ( 一九三三 島では後産を 流れる血を不浄、穢と考えたり、危険な力をもテントの内部に埋められる。バリ 組合の組合員等については、財産出資が認めら 『児やらい』 ( 一九穴・岩崎美術社 ) 男の子の場合は家の入口の右側に、女の子なら っていると考えるからである。 妻だけでなく夫も同様に扱われることもあ左側に埋める。モン族はヘその緒を男の子なら出産休暇しゆっさんきゅうか婦人労働者のれるだけである。出資義務は、社員や組合員と いう資格に随伴するものであるから、出資は社 る。アラベシュ族は台地の上にある集落から離家の戸口の下、女なら寝台の脚の下に埋める。母性を保護するための産前産後の休暇。略して れた低地に隔離小屋を建て、そこで出産する。サモアでは男の子のへその緒は海に投げたりタ産休ともいう。労働基準法 ( 昭和一三年法律四員や組合員としての当然の義務である。なお、 九号 ) 第六五条第一項は、六週間以内に出産す出資の履行が社員資格取得の要件となっている ロイモの下に埋めた。女の子のへその緒はタバ 出産後、母子は集落と出産小屋の中間にある別 の仮小屋へ移る。夫は最初の四日間仮小屋へ入布の材料になる木の下に埋める。出産後、生まる予定の女子が休業を請求した場合、使用者は場合もある。たとえば、株式の払込み、現物出 れず、五日目に清めの儀礼を受けてから会う。れた子供に儀礼を施すこともよくなされる。メその者を就業させてはならないこと、また第一一資の給付など、出資の履行に関する一連の手続 さらに数日後に夫婦とも清めをしてから自宅へキシコのツオッイル語系マヤ族では男の子の場項では、産後八週間を経過しない女子を就業さを経なければ設立登記ができず、会社が成立し くわおの 戻る。しかし産後一か月間は産婦はもちろん夫合は鍬、斧、山刀、女の子の場合はトウモロコせてはならないことを定めている ( ただし、産ないから、株主資格の取得ということはないか はたお シ、トウガラシ、塩、機織りの道具を赤ん坊の後六週間を経過した女子は、本人が請求した場らである ( 商法一七〇条・一七七条、有限会社 も自宅にこもっていなければならす、そのあと 合、医師が許可すれば就労することができる ) 。法一二条 ) 。 宴会を開き、禁忌から解放される。コスタリカロに当てて唱え一一 = 口をいう。これらは男女の違い 財産出資はかならすしも金銭による出資に限 後者が強制的な休暇であるのに対して、前者は では産婦は産後一か月隔離小屋で暮らすが、そを世界観のなかで位置づけ、男女の役割を確認 られるものではなく、金銭以外の財産をもって の間、食物は他の女性が調理して運び、棒の先することを意味していると考えられる。なお、婦人労働者の請求を要件としている点に相違が に刺して与えた。産婦が使った道具に触れた人初乳を赤ん坊に飲ませないとか、赤ん坊が最初ある。なお、男女雇用機会均等法の成立 ( 一九する出資 ( 現物出資 ) も認められる。しかし、 これを無制限に認めると、現物出資された財産 会 ) に伴う労働基準法の改正によって、産後の に飲む乳は母親以外の を過大評価して過当な株式を付与し、資本の充 女性の乳でなければな休暇は六週間から八週間に延長され、わが国に らないとする所があおいても、産前産後を通じて一四週の休暇を勧実を害するおそれがあるので、株式会社につい る。たとえば。フッシュ 告した九五号勧告 ( 一九五一 D の水準によ , っては設立に際し現物出資をなしうる者を発起人 偶国 土コ に限るとともに、変態設立事項として厳格な規 マンのクン部族では赤やく到達した。しかし、わが国の場合、依然と 型シ 大キ ん坊がすぐ母親の乳をして休暇中の賃金に関しては全額支給が法律上制を加えている ( 商法一六八条一項五号・二 のメ 。↓母性保護〈湯浅良雄〉項、一七三条・一八一条・一八四条一一項・一八 ろ飲むと母子ともに死ぬ明記されていない さ 〈戸田修三〉 しゆっさんそうきしゅう仏教書。五条 ) 。↓現物出資 と信じているので、最出三蔵記集 そうゆう せいりよう 高 しゆっじ・しゆっじしゅ , っ」 初は他人の女性の乳を一五巻。中国の斉・梁代の学僧、僧祐 ( ~ 四五ー出自・出自集団 す 示期館 五一 0 の作。中国でつくられた経録 ( 仏典目録 ) ん descent 出自とは、ある個人が過去の祖 を典物飲ませる。 産古博 このように出産は多のなかで現存 ( 『大正新修大蔵経』五五巻所先との間に、その系譜的連鎖によってもってい 座化学 文類 くの信仰、禁忌、儀礼 収 ) するもっとも古いもの。後漢から梁代に至る関係をさす。そしてその系譜的連鎖の特定の 7 産ヤ人 出マ立に取り囲まれている。 る訳経の記録であるが、経序や経後記などの史形態が規則によって規定され、意味を付されて 6

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しどたいらおんせん岩手県中南の重傷を負いながら、水筒の水を傷ついた兵卒暖である。平均気温は最暖月 ( 一月 ) が二一・ 志戸平温泉 とよさわ はれはま・等」 に譲るという逸話を残している。文学者として九度で、ほば東京の六月に相当し、最寒月 部、花巻市にある温泉。豊沢川の渓流に臨む。 ( 七月 ) が一二・三度 0 で、東京の一一月に相 は、牧歌風の物語『アーケイディア』 ( 一五九 0 ) 、 七八二年 ( 延暦一 ) の発見と伝え、湯治場に利 用されてきたが、近年、千人風呂、公認温泉プペネロペ・デベルーへの恋情を素材としたソネ当する。年降水量は一二〇五 : リである。 〔産業・交通〕シドニーは、ニュー・サウス・ ット集『アストロフェルとステラ』 ( 一五九 l) 、道 ール、遊園地などが整備された。花巻温泉郷県 ば・つしよう ン 3 Z ト 立自然公園の一部。泉質は含食塩芒硝泉。東徳的見地から文学を批判するゴッソンの書物がウェールズ州の中心都市であるとともに、メル シ z ケ 北本線花巻駅からバスの便がある。〈川本忠平〉機縁となって執筆され、英文学史上最初の重要ポルンと並んで、オーストラリアの産業、交 シ 囮二万五千分の一地形図「花巻」 な詩論と認められる『詩の弁護』 ( 一五九五 ) など通、文化の中心都市であり、また同国の代表的 〈藤井治彦〉な工業都市、港湾都市でもある。商工業従事者 の著作を残す。 ある。亜硝酸の作用で脱アミノ化されてウラシ 、ンドッチ Giovanni Battista Sidotti ′ノノ が集中しており、とくに金融・保険・不動産業 ルとなる。 5 位の炭素に置換反応がおこり、 ー一七一五 ) キリシタン禁制下の日本に潜入回大塚定徳他訳『アストロフェルとステラ』 〈入江伸吉〉 従事者数は州の八割、全国の三分の一を占めて ロゲンやニトロ基が入る。 した最後の宣教師。イタリアのシチリア島に生 ( 一九七九・篠崎書林 ) いる。工業生産額は全国の四分の一以上に達 まれる。ローマ教皇クレメンス一一世の命を受シドニー Algernon Sidney ( 一六 = = ー 吏徒 = = ロ夂木しとしんじよう symbolum apos- し、同国最大の工業都市といえる。ほとんどの tolicum 冖テキリスト教会はきわめて初期のけ、一七〇八年 ( 宝永五 ) 一〇月和服帯刀の姿イギリスの政治家。二代目レスター伯の次男と ころから、弁証と教育のために信仰の内容を表で屋久島に単身上陸、ただちに捕らえられて長して、ケント州ペンズハーストに生まれる。ピエ業業種がそろうが、とくに機械、化学、金 属、紙・印刷などに特色がある。港湾は、都心 現するうえで簡単な定式を用いていた。『新約崎に送られた。ついで翌年秋に江戸に送られてユーリタン革命期にはクロムウエルの独立派に 聖書』のなかにすでにそのような信条の萌芽を 小石川のキリシタン屋敷に監禁されたまま、属し、のち共和派。王政復古後、「国王殺し」部に接するポート・ジャクソン湾 ( 狭義のシド しようとく ニー港 ) と南部のボタニー湾との二か所にあ みることができる ( 「コリント書」一五章三以正徳五年一〇月そこで病死した。将軍の補佐 ( チャールズ一世処刑 ) の嫌疑を受け、ヨーロ あらいはくせぎ 八一一一り、その取扱い高は両港をあわせて州の海外輸 下など ) 。現在の使徒信条はガリアで五、六世役で彼の取調べにあたった儒者新井白石はその ッパ各地で亡命生活を送る。帰国後、一六 さいらんいデん 紀にできたものであるが、その元となる古ロー 尋問をもとに、世界地理の書『采覧異言』 ( 一七年のライ・ハウス陰謀事件で逮捕され、同年一出額の三分の二に達し、石炭、肉類、羊毛など マ信条は二世紀の中ごろにまでさかのばる。異 llll) や『西洋紀聞』 ( 取調べのようす、世界地二月七日処刑された。ロバート・フィルマーのを輸出する。また州の海外輸入のほとんどを取 り扱い、輸入額は同国最大で、全国の約四割を 端的な教えが発展するにつれて、この信条が真理、キリスト教の三部からなる。一七一五年『バトリアーカ』を批判した彼の主著『政府論』 Discourses 二年 ) を書いている。シドッ きミ e こ il Go ミこ、ミミ ( 一六九 0 占める。ボタニー湾北岸にあるシドニー ( キン きロ干行は一八八 のキリスト者を不信者や異端者から区別する己。リ 「しるし」となるところから、この信条に対しチは、日本にキリスト教を布教するという彼本は、近代民主主義の思想的源流として今日的意グスフォード・スミス ) 空港は、国内航空路線 〈今中比呂志〉網の中心であるとともに、同国最大の国際空港 てシンポルム symbolum ( 象徴 ) ということ来の目的は果たすことはできなかったが、鎖国義をもつ。 ばを使うようになった。伝承された本文は次の下の日本に国際世界についての視野を開かせる回今中比呂志著『イギリス革命政治思想史研で、同国の国際線乗降客の約六割 ( 約一八〇万 人 ) が利用している。 究』 ( 一九七七・御茶の水書房 ) ごとくである。「我は天地の造り主、全能の父 一つの契機となった。↓西洋紀聞〈冨倉光雄〉 Sydney オーストラリア南東〔都市問題〕シドニーも世界の他の大都市と同 なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イシトド〔鵐〕鳥綱スズメ目ホオジロ科ホオシドニ 様に都市問題を抱えている。都市問題の背景と ジロ属のうちの幾種かに対して古くから一般に部、ニュー・サウス・ウェールズ州の州都で、 エス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやど り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ビラトつけられた地方名であり、日本で普通にみられ同国最古、最大の都市。大都市としてのシド一一なるシドニーの特色の第一は、地価上昇と一戸 建て持ち家指向の強さを反映して、住宅地が広 ーの範囲は一定していないが、統計局の定義に のもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死る種に限られる。シトドあるいはシトトと称す よみ にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうる鳥は、日本鳥学会が定めた和名に当てはめてよる市街地人口は二八七万六五〇八 ( 一九全 ) で大な郊外に拡大していることであり、下水道を ちよりよみがえり、天にのばり、全能の父なるみると、ホオジロ、アオジ、クロジ、カシラダある。この市街地は、ポート・ジャクソン湾のはじめとする生活環境整備や遠距離通勤の問題 神の右に座したまえり、かしこより来りて生け力が該当する。シトドと発音するのは東北地方南岸に位置する都心部 ( 狭義のシドニー市、人を生じている。都心部への通勤では公共輸送機 一九〈一 ) を中、いに、北はホーク関 ( 鉄道、バス ) への依存度が高く、住宅地は ロ五万一八三六、 に多く、そのほかの地方ではシトトが多い。っ る者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を いでアオジ、クロジ、ノジコなど肉眼での野外スペリ 川河口、南はボタニー湾の南岸、西は 鉄道に沿って延びている。第二の特色は、都心 信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の と・つろく ゆる からだ プルー山地の東麓にかけて広がり、三八の地方部および都心部に近く歴史の古い地区では、道 赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。識別が困難な個体を総称してアオシトドあるい 路の狭さや建物・諸施設の老朽化などによる都 〈野口誠〉はアオシトトとよぶ地方があり、ホオジロをア自治体の全域あるいは一部にまたがり、市街地 アーメン」 シード・スパイス seed spice 香辛料カシトト、クロジをクロシトト、ミャマホオジ面積は東京二三区の約二・四倍に達する。さら市環境の悪化がみられることで、都市再開発が 口をヤマシトトとよぶ地方もある。 ^ 坂根干〉 に社会・経済統計用の統計地区として、四四の課題となっており、古い建物が取り壊され高層 を主として味によって種子系 ( シード・スパイ 八六 ) 地方自治体を包含する広義のシドニー都市圏ビルや中高層マンションに生まれ変わりつつあ Si1 、 Philip Sidney ( 一五五四ー シドニー ス ) 、香草系 ( ハープ・スパイス ) 、香辛系 ( ス パイシー・スパイス ) と三つに分類したうちのイギリスの詩人。ルネサンスの理想的宮廷人の ( 人口三二〇万四六九六、一一 ) をさすこともる。第三の特色は、東西に細長く延びるポー ちょうしん ト・ジャクソン湾およびその西から同に注ぐ 一つ。シード・スパイスには、マスタード、フ典型。エリザベス女王の寵臣レスター伯の甥多い。都市行政も複雑で、基本的な行政サービ ハラマッタ川によって市街が南北に分断されて スを各地方自治体が行うはかに、都市計画、都 エネル、フェニュグリーク、キャラウェー、セとして生まれる。オックスフォード大学に学 いることである。北部と南部とは橋と旅客フェ ロリシード、ディル、クミン、セサミシードなび、ヨーロッパに遊学、ルネサンス文化に触れ市交通、上下水道など都市運営事業の多くは、 リーによって結ばれているが、そのうち都心部 どが含まれ、小さな種子の香辛料をさす。ナッる。帰国後、新教徒の理想に忠実な政治家としそれそれの目的ごとの事業主体あるいは州政府 に直結する鉄道・道路併用橋シドニー バー、カルダモンなど大きな種子のもて活躍、宮廷の寵児となる。新教徒への援軍を機関によって広域的に行われる。 Ä」メグ、ペ ・プリッジ ( 一九三一一開通 ) はもっとも重要で、 8 気候は西岸海洋性気候 (Cfb) で、比較的温 〈斎藤浩〉率いてオランダに出征し戦死。このとき、瀕死 しのは含まない。↓香辛料 HO N 工ノール形 ひんし

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ある。↓タルポット しかし現実には、前述した機能的な意味伝達のための映像ム・ハイド・ウオラストンが、プリズムを応用した「明るい ん はんらん 〔ポートレートの流行〕一八五〇年代はダゲレオタイプやカ しが社会に氾濫しており、こうした映像はステレオタイプ化し部屋」を意味するカメラ・ルシダを一八〇六年に発明してい ロタイプによる肖像写真 ( ポートレート ) が大衆的な人気を ややすいし、事実、使い古された言語同様、慣習的なコードにる。 八一一二年 ( 二六年説もある ) 七月、フ一フ博した。多くは画家から転向した写真家が欧米の各地でスタ し負ぶさっている。映像文化といわれるものの情況もまた、文〔写真術の誕生〕一 ンスのニエプスは、アスファルトを塗布した合金板に版画をジオを開いた。ダゲレオタイプの肖像写真家としてもっとも 化一般の制度化ないし物神化に対応しており、映像文化が、 ート・サンズ・サウスワース 新しい文化的記号としての新鮮さを保持し、絶えざる活性化 複写することに成功し、一 八二六年夏「書斎からの眺め」を著名なのはアメリカのアルバ を果たすためには、つねに身体に感応せしめるような、表現撮った。カメラ・オブスキュラを使用し、定着された最初の ( 天二ー九四 ) とジョサイヤ・ジョンソン・ホーズ ( 一ハ只 的映像の創造にこそ課題があるといわなければならない。 風景写真であった。彼はこれを「太陽の描く絵」を意味する (1) の共同スタジオによるもので、性格描写を目標とした彼 ふうばう 〔写真の歴史〕〔前史〕ナルシスの神話は、自分の分身の発へリオグラフィと名づけた。 らの作品は人物の風貌を堂々と撮っている。 イギリスの・・アーチャーは、ダゲレオタイプとカロ 同じフランスで、ジオラマの興行師であったダゲールは、 見への驚きを物語っているが、同時に、映像となった分身を 永久に残して死からの恐怖を超えたいとする願望も込められその原画にカメラ・オプスキュラを利用していたことから写タイプの欠点を改良し、ガラス板に感光剤を塗ったコロジオ ン ( 湿板 ) 法を発明した。露出時間も六秒に短縮され、かっ ていたと考えられる。古代ギリシアの哲学者アリストテレス真の研究に進み、一八二九年ニエプスと研究契約を結んだ。 は、小さな穴から射し込む光が、暗い部屋の壁や暗箱の側面四年後ニエプスは死去し、そこでダゲールは独力でダゲレオネガから多くのプリント作製が可能となった。コロジオン法 、外部の光景を逆さに映し出すことに気づいていた。これタイプ ( 銀板写真 ) を完成した。一八三九年八月フランス科を応用してフランスのアンドレ・アドルフ・ユージェヌ・デ 学学士院で正式の発明品として認められ公表された。↓ダゲイデリ ( 天一九ー九 0 ) は名刺サイズを考案し、量産システムに はラテン語で「暗い部屋」を意味するカメラ・オブスキュラ ール↓ニエプス とよばれてきた。カメラ・オブスキュラは一〇世紀ころから 成功した。ナポレオン三世は、イタリアへ出発する軍隊を彼 オリエントの学者たちにも知られていたという。また公表し ダゲレオタイプは、銀板もしくは銀を塗布した金属板にヨのスタジオ前で止め、兵士たちに肖像を撮らせている。↓ア ーチャー なかったが、レオナルド・ダ・ビンチは手記 ( 一四八〇年かウ素蒸気を当てたもので、映像はきわめて鮮明であった。欠 点としては、鏡像同様に左右逆像であること、複製ができな イギリスの・オクタビアス・ヒルと助手のロバート・ア ら一五一八年までと、一五〇八年ごろに書かれた二つの草稿 いこと、露出に二〇分以上要したことなどがあったが、新しダムソン ( 一全一ー四 0 は、カロタイプによる肖像写真家とし 群 ) を残している。そのほかオランダのゲンマ・フリシウス い発明品としてまたたくまに全世界に迎えられた。 て優れた作品を残した。カロタイプはダゲレオタイプに比し も一五四五年図説入りで発表している。一六世紀にはほば実 ・バッティスタ・デ 用化され、イタリアの科学者ジョバンニ 一方フランスの大蔵省官吏イボリット・バイヤール ( 天 0 一て鮮明度に欠けていたが、それを逆用して、明暗のマスを強 ラ・ポルタ ( 一吾入 ー一六一五 ) も著書『自然の魔術』 ( 一夭九 ) で、 ーハ七 ) も同じころ、すでに写真研究を始めており、硝酸銀溶調し、また一七世紀オランダ市民絵画のリアリズムに着目 絵画描写の補助手段に使うことを勧めている。ルネサンス期液を塗布した塩化ナトリウム紙に、カメラ・オ。フスキュラをし、風俗描写も採用したことが注目される。↓ヒル タゲレオタイプの発表に衝撃を受 同じイギリスの上流夫人マーガレット・カメロンは、四八 の画家たちの遠近法描写を解決するのに必要とされたからで使って映像を完成したが、。 ふうび ある。一七、一八世紀になると、携帯用のものがつくられ、け、科学学士院に申請したものの受理されなかった。そこで歳から写真を始め、晩年は当時風靡した絵画ラファエル前派 できし つや 穴に凸レンズを、像を受ける反対側に艶消しガラスが取り付一八四〇年溺死人を演じたセルフ・ポートレートを発表し抗 に影響された寓意的な作風に堕したが、それ以前のポートレ けられるようになり、スケッチに画家たちも大いに利用する義した。 ートは一九世紀写真史のなかでもっとも高い評価を受けてい ようになった。このカメラ・オブスキュラは一九世紀のポッ イギリスのタルポットは当初カメラ・ルシダを使ってスケる。彼女はコロジオン法を使ったが、少量の光で七、八分の もっ クス・カメラやレフレックス・カメラの原型といえる。 ッチしていたものの、結局カメラ・オプスキュラを使い、没露出時間をかけた。そのために映像はぶれがちで、職業写真 し、よくし 家たちから非難を受けたにもかかわらす、とりわけクロー 他方、古代人は、ある種の物質に光が当たると、その表面食子硝酸銀を用いて潜像から現像する方法を一八四〇年に 、 : おそらく光に対するアニミ 。ゝ変化する現象を知ってしたが、、 完成した。いわゆる現代のネガ・ポジ法の原型である。タルズ・アップ像は当時もっとも新しい手法であり、人物の性格 ズム信仰を抱いていたと考えられる。一七二七年ドイツのヨポットはそれ以前の方法をフォトジェニック・ドローイングを生き生きと表象していた。彼女自身、人間の「永遠の内 ハン・ハインリッヒ・シュルツェ ( 一穴七ー一七四四 ) は、その変とよんだが、新しい完成手法について、ギリシア語の「美し容」を再現したいと願っていたが、とりわけ「ジョン・ きよう い」を意味する「カロ」と、「描く」意の「タイプ」を合成シェル卿」 ( 一会九 ) や「トーマス・カーライル」 ( 一会七 ) は傑 化する物質が銀塩類であることを証明した。またイギリスの ーシェル作中の傑作である。↓カメロン トマス・ウェッジウッド ( 一七七一 ー天 0 五 ) は、一九世紀の初めしてカロタイプと名づけた。また、友人ジョン・ 同じころ、教師で『不思議の国のアリス』の著名な作家ル 硝酸銀溶液を塗布した紙や皮革上に、ガラスに描いた油絵やの示唆でフォトグラフィの語も生まれた。タルポットは芸術 的才能もあり、一八四四年から四六年にかけて作品集『自然イス・キャロル ( 天三一一ー九 0 はおびただしい少女像を撮り、 線画をのせて露光する日光印画を作製している。 一方、近代市民社会の成立に伴う大衆の肖像熱にこたえの鉛筆』を刊行した。カロタイプによる二四枚のオリジナ日常的なポーズで無邪気さを強調し、最近、写真史上再評価 て、フランスではシルエットをなぞるフィジオノトラースと ル・プリントで、建築、風景、植物、グラスなどを題材としされるようになった。 いう装置が一八世紀末に考案された。イギリスではウィリアており、とりわけデザイン的な処理をした静物作品は秀作で フランスのナダール ( 本名ガスパール・フェリックス・ト 344

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しゆりよ ② ながる形を示してはい 狩猟者の登録を受ける者に対して課する税。狩引 る。ともかく、山中に猟者の登録は、狩猟を行おうとする都道府県ご 演る「無主」の鳥獣を追う狩 とに受ける必要がある。一九五〇年 ( 昭和二 があ 」が人団は、こうした伝承を五 ) に都道府県税として狩猟者税が設けられた 艮拠こ自在の狩猟活動をが、六三年の狩猟法の全面的な改正に伴い、狩 キ神本し の 「神仏の特認」のもとに猟者税が廃止され、狩猟免許税と入猟税が新設 シ シ祭 行いうる特権を保持するされた。前者はその使途を制約されない普通税 と称し、一般農民もまたであるが、後者は、鳥獣の保護および狩猟に関 たシそれを広く認めたのであする行政の実施に要する費用にあてる目的税で 模るる。いわばそれは「狩猟ある。狩猟免許税は七九年に狩猟免許制度の改 をナ 認許」の特権表示であ正により狩猟者登録税となった。狩猟者登録税 り、また正統の狩人であと入猟税はその使途を異にしているが、狩猟者 でと入に の登録を受ける者は両税をあわせて納付しなけ シれる証明でもあった。 ノ切 村あの紙 イ七 〈大川武〉 ば葉の麓やる また「山の神」が「オればならない。 しゆりよう , を い椎猟山幣す しゆりようじゅう 0 狩猟 コゼ魚」を好むという伝狩猟獣 郡狩 , 御念 き杵 , るはや祈 じゅりようちたい債務の履行につ 社頭承も広く残り、それを山受領遅滞 臼れあで餅を 東らが村 , 猟 の神に供えたり、あるい き受領その他債権者の協力を必要とする場合に 県じ俗 ! 木で豊 峪・信習 5 朽代え は狩猟の際その「干物」おいて、債務者が債務の本旨に従った提供をし 宮とる郡依供 むえ島のに たにもかかわらず、債権者が協力をしないか、 都イを携えて豊猟を山の神に 尾好供高神木 ~ ~ ) 、 1 県原催促する「まじない」なできないために、履行が遅延している状態にあ のをに県の神 シゼも賀山を ども行われた。また一方ることをいい、債権者遅滞ともいう。この受領 宮丿 シコと滋がど ノオと。キな 。後にはオコゼ自体が「狩り遅滞の法的性質が、債務不履行の一種か、それ イが尾事ャゼ ネと神の神ケコ 、ジ・・神その幸」を恵むという伝承とも信義則に基づく法定責任かに 0 いては争い 儀セのシ神るオ コ山シのあた れもあって、山の神信仰と がある。民法は、受領遅滞の効果として、単に 猟 オ , ノ山にい 一【ト新」 ~ 〉③」「ゼ魚」奇妙な《《わ債権者が遅滞 0 責」任ず〈きも 0 と」 = 」るだ / し気、①はイ②ロ描③ りをもつもののようだ けなので ( 四一三条 ) 、その内容は明確ではな が、その原拠は分明でない。 いが、一般的には次のように解されている。 勝負」などといって一人前の配分にあずかれた に大別できるようである。 ばんじばんざぶろう つまり、①万三郎山神、または磐次磐三郎物 狩人が「猟運」を「シャチ」としし 、、、「シャ債務者は不履行に基づく責任を免れ、約定利息 わけで、本来「無主物」相手ゆえ狩猟にはこう 語、②狩場明神系の物語、③大摩小摩、またはチ神、シャチ山の神」を豊猟祈願の対象としては発生しなくなる。⑦受領遅滞の後に不能とな した古風な考え方も残ったのであろう。 おおなんじこなんじ 〔狩猟神信仰〕狩人の第一の信仰対象は「山の大汝小汝の物語である。①は「日光派」系と祀ることもかなり広くみられる。「シャチ」はるときは、不可抗力に基づく場合にも、なお債 神」で、もつばら豊猟を祈念し、獲物があれば通称され、すでに『日光山縁起』などにもみえ猟をもたらす「精霊」の類らしく、猟連に恵ま権者の責に帰すべき履行不能となる。③債務者 - 一うや るところである。②は「高野派」系といわれるれた仲間から「シャチ」を分けてもらう作法も は債務の履行につき注意義務を軽減され、故意 まずそれに奉謝した。しかし農民や木こりの信 こうやさん あり、また獲物をしとめた弾丸は抜き出して、 または重過失についてのみ責任を負うこととな 仰する「山の神」とはかなり別趣で、もちろんもので、『高野山旧記』に記されると同じく、 、」うまう 神道教義のものとはかかわりがない。その神格弘法大師の高野開山にまつわる狩場明神系伝承それを新しい弾丸に混ぜ入れると、猟運に恵まる。④債務者は受領遅滞のために増加した保管 はいろいろに思念されていて、女神とするものである。③は南九州や中部山地に伝存されるもれるともいっていた。ともかく、まったくの偶費用・弁済費用を債権者に請求できる等。な しゅげん お、受領遅滞を債務不履行の一種とみる立場か が多いが、かならずしも一定せず、もちろん個ので、修験仏徒の習合を経ぬ古い型とみられる然に支配される狩猟では、山の神に祈願したり、 が、『神道集』の「熊野の本地譚」となお一脈あるいはいろいろの呪法を尽くして、好運の訪らは、⑤遅滞によって生じた損害賠償を請求で 性的な神名も伝わらない。ただ狩猟の場である のつながりをもっている。ともかく三者ともれを待つよりほかなかったので、古い信仰や呪きる、⑥債務者は契約を解除しうる、という効 山岳地帯をしろしめし、猟の恵みを与える神霊 おそ 〈竹内俊雄〉 「狩りの名手」が山の神を助け、あるいは高僧術伝承が久しく残ったのである。〈竹内利美〉果も認められることとなる。 として「畏れ慎む」べきものと思念され、厳し しゆりようちょう game bird 法律 い禁忌伝承を伴っていた点は共通していた。東の開山の手引きをして、殺生自在の特認を得た回大林太良編著『日本民俗文化大系 5 山民と狩猟鳥 と伝えるところで、③の伝承では兄弟の狩人の 海人』 ( 一九〈三・小学館 ) ▽千葉徳爾著『狩猟 によって一定の制限の下に捕獲が認められてい 北のマタギ組には『山立根本巻』『山立由来記』 伝承研究』『続狩猟伝承研究』『狩猟伝承研究る鳥をいう。したがって、その種類は法の改正 などという「職の本縁」を伝える旧記を伝存すうち弟のみが「神の助力」に努めたゆえ、その 後篇』 ( 一九六九 ~ 耄・風間書房 ) ▽『山民の生 によって変化する。歴史的にみると、日本では るものが多く、また同類の「狩猟伝書」は他地末孫だけが正統の狩人になり、山の神の恵みに 活』定本柳田国男集 4 』所収・一九六三・筑摩明治時代には現在とは反対に、捕獲してはなら 方にも伝えられていた。多くは山の神信仰に根あずかれると伝える。つまり②は高野開創伝承 書房 ) に付会し、また①の「日光派」系は日光山に拠 ない鳥を指定してそれを保護鳥とよんでいた ざす「職の由来」を記すもので、あわせて山猟 ーしゆり・よ , つ、ー ) や : っ が、一九一八年 ( 大正七 ) の法改正で、現在の の呪法などを書き留めてあるが、そこにみられる修験団の修飾を経た形で、③はより古い民間狩猟者登録税・入猟税 ろくぜい・にゆうりようぜいいすれも都道府県が、 ように狩猟島を指定することになった。最初の る「祖神伝承、職の本縁譚」はおよそ三つの型伝承のままらしいが、なお「熊野本地譚」につ たん ④ かぐら

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きようほう しばいちやや江戸時代から昭和初 り」興行を重視する古例があり、それに伴う諸 ものであるうえに、支配人は営業上の秘密にわを始めることが多い。江戸では享保 ( 一七一六 ~ 芝居茶屋 かぶき 期に至るまで存在した歌舞伎観劇機関。江戸時たる事項にも通じているから、営業主のために 三六 ) 以後三座ともに曽我の世界を扱い、上方で種の行事が行われた。 まくあい キ′い」い、 代の劇場は座席のほかに付属設備がなく、幕間 芝居年中行事は、多くの年中行事がそうであ 全力を尽くすとともに、営業主との間に競業関 はかならず傾城買の場面を仕組み「けいせい」 げだい の休憩所も食堂もなかった。そこで、上等客が係が発生するのを防止するために支配人には重の文字を外題につけることになっていた。二月るように、民俗行事が近世都市社会に流入して いなりまち はつうま 一日の芝居見物を楽しむことができるように い義務が課せられている ( 同法四一条 ) 。これ初午の日は稲荷町とよんだ下級俳優が中心とな形を変えたものであるが、水ものとされた不安 と、さまざまなサービスをしたのが芝居茶屋で に違反すれば、営業主は支配人の解任、損害賠り、楽屋全体で稲荷祭の酒宴を行う。三月三日定な興行の安全を願うための宗教儀礼的色彩が やよい 〈服部幸雄〉 ある。茶屋は桟敷席の予約、食事の世話をはじ償の請求のほか、競業避止義務違反の場合は、 は「弥生狂言」の初日。この興行は宿下がりの濃い点に特色がみえている。 め、持ち物を預かり、さらに観劇後は贔屓俳優それを理由に介入権を行使できる。〈戸田修三〉御殿女中の見物を当て込んで、『先代萩』や回『芝居年中行事集』 ( 一九七六・国立劇場芸能調査 ほにゆ、「・ 室 ) を招いてする酒宴の席にもなった。茶屋は二階柴犬しばいぬ哺乳綱食肉目イヌ科の動物。『加賀見山』のような御殿物がよく出た。『肱 のれんちょうちん しはいもんじよ古文書学上の用 建てで、軒に暖簾・提灯をかけ、表の通りか家畜イヌの一品種で、日本在来の小形犬。一九六』もこの時期に出された。五月五日は「皐月紙背文聿 あだうち ら座敷の内部が見通せるようにすることを義務二八年 ( 昭和三 ) の日本犬保存会設立時に、在狂一言」の初日。仇討物が多い。五月二八日は曽語。裏文書ともいう。使用ずみの反古になった づけられていた。 来犬を体格別に大形、中形、小形犬に分類し調我祭。楽屋で酒宴を開き、そのあと万灯などを紙の紙背 ( 裏 ) をふたたび料紙に利用したと き、反古にした側 ( 本来の表側 ) の文書のこと 掛け茶屋が初期歌舞伎の時代に劇場周辺の空査が実施されたが、柴犬は小形日本犬として標持って町内を練り歩いた。六、七月は原則とし き地につくられたのに始まるが、しだいに規模準がつくられた。文部省 ( 文化庁 ) は在来家畜て「土用休み」で、芝居を休む。七月中旬あるをいう。反古を利用したことによって、結果と して偶然にも後世に表・裏に書かれた ( または が大きくなり、大茶屋・小茶屋の等級も生じを天然記念物に指定し、保存運動を行っている いは八朔 ( 八月一日 ) を初日として「盆狂言」 刷った ) 両者が伝来する。たとえば、七〇二年 がある。今日のいわゆる夏狂言で、水仕合い た。江戸では明和年間 ( 一七六四 ~ 七一 D 中村座に大が、柴犬は三六年に天然記念物に指定された。 ちくぜん 茶屋一六軒、小茶屋一五軒、市村座に大茶屋一以前は小形日本犬と称されていたが、現在は柴怪談物・早替りなどに趣向を凝らした作品が演 ( 大宝一 l) の筑前戸籍は、七四五年 ( 天平一七 ) きくづき じられた。九月は九日初日で「菊月狂言」を始に反古として翻して再度米塩請求文書として利 〇軒、小茶屋一五軒、森田座に大茶屋七軒があ犬として犬種団体も呼称している。 どうとんばり って隆盛を極めた。大坂では、道頓堀に非常に 日本犬の渡来については、北方から渡来しためる。その年度の俳優の契約最後の興行とな用されたことにより断簡として伝来し、九〇二 あわ 数が増えたのを、幕府が退去させ、改めて一六ものや、南方から渡来したものなどが考えられる。契約が切れると江戸を離れる俳優は、お名年 ( 延喜一 l) の阿波戸籍は、反古の紙背に写経 1 ) り したためその大半が伝わった。正倉院文書も、 九二年 ( 元禄五 ) 一二軒を許可、その五年後にている。柴犬は南方系に属し、東南方面などか残狂言・一世一代などの称をつけて得意の狂一一 = ロ 四六軒を追加公認したため、あわせて五八軒のら渡来したものとみられ、 リア犬に近いものや所作事を出すことがあった。この興行は一〇 いったん反古になった官庁文書が東大寺写経所 く学一よう 茶屋があった。これがいわゆる「いろは茶屋」と思われる。現在ニューギニア島の山地に野生月一六日に舞い納めるのが例で、この日を「千に交付されたものである。公卿の日記も、時人 で、かならずしも四八軒と定まっていたわけでするニューギニアシンギングドッグなどは、毛秋楽」とよんだ。九月一二日の顔見世狂言の の消息を記した文書や請取証文などを反古にし よりぞ て長巻にしたものが多い。史上著名人士の自筆 はなく、幕末にはさらに増加し、「前茶屋」と色、体形、体格などがきわめて柴犬に似る。 「世界定め」、一〇月一七日の「寄初め」など、 かおみせ よばれるようになった。明治以後は、明治二〇 中部、北陸、長野、山陰、四国などの各地方これから年間を通じての最大行事である顔見世消息などを偶然にみつけて研究上一大発見とし えちご 〈荻野三七彦〉 興行の準備に関する諸行事が続く。顔見世興行て世間を驚かせた例は多い。 年代に開場した歌舞伎座・明治座ともに一一軒にそれそれ系統があり、美濃柴、越後柴、信州 ・のー ) ルが しばうじ足利一門の守護大名。清和 の茶屋があり、大阪の前茶屋も二〇軒はど残っ柴、山陰柴などと産地の名称をとってよばれたの初日は一一月一日で、一二月一〇日前後には 斯波氏 おわり ぶえい すす もちっ かんれい が、第二次世界大戦後の改良普及期に信州柴が舞い納めた。一二月は煤取りから餅搗きなどの源氏。嫡流は室町幕府の管領家。尾張家、武衛 ていたが、いすれも大正末から昭和初期にかけ やすうじ いえろ′し て消滅した。 〈服部幸雄〉主力を占め、系統別の地域差はみられなくなっ年末の行事、さらには初春狂一言を華やかに行 , っ家ともいう。鎌倉中期に足利泰氏の長男家氏が しはいにん商人によって選任され、 た。柴犬の語源については、毛色が柴に似てい ための準備に明け暮れる。上方では「二の替陸奥国斯波 ( 志波、紫波 ) 郡 ( 岩手県紫波郡 ) 支配人 そう 営業主にかわりその営業に関するいっさいの裁るからとか、柴をくぐって駆けるからとかいわ を領したのに始まる。家氏の曽 たかうじ そんたかつわ えちぜん 孫高経は足利尊氏に従い越前守 判上・裁判外の行為をなす権限を有する商業使れている。小さくとも性質は剛胆、動作は俊敏斯波氏 / 略系図 よしあきら 護などとなり、将軍義詮のも 用人 ( 商法三七条・三八条 ) 。支配人は営業主で、体質は強健である。手ごろな大きさと扱い むわいえむねうじ 足利泰氏ー家氏ー宗家ー上小氏 ( のち囀こ とで幕府執事となった子息の義 の営業全般にわたる包括的な代理権 ( 支配権 ) やすさのため、著しく愛好者を増やし、最近は を有する者であり、その名称のいかんを問わな 北欧やアメリカ合衆国にも進出し、その性能を 将を後見したが失脚。義将はや よしみつよしもち い。なお、支配人でもないのに、支店長・支社高く評価されている。体高三五・五 ~ 四一・五 がて義満、義持を助け三度管領 うじつわ 毛色は赤、胡麻、。フラックエンドタン、白 となって幕府に重きをなし、子 長など営業所の主任者であることを示す名称を 氏経 よしのり などである。↓日本犬図しイヌ〈増井光子〉 よしあっ つけられた者は、取引上、支配人と同一の権限 義教 ( 初め義重 ) とともに斯波 氏頼 とおとうみ 義一 ( ゅこ しばいねんじゅうぎようじ江 氏が越前、尾張、遠江三国守護 があるものとみなされ ( 同法四二条 ) 、善意の芝居年中行事 かぶき 義将ー義教 ( 義亜 ) 義郷ー義腱・敏 戸時代、歌舞伎の劇場を中心に、定例として行 を世襲する基を開いた。のち義 相手方の保護が図られている ( 表見支配人 ) 。 よしとし ほうれきめいわ もちたわ よしたわみったね 健に嗣子がなく、一族の義敏と 支配人は営業主である商人が選任するが、会社われた諸行事。宝暦・明和 ( 一七五一 ~ 七一 D のころ 義廉 義種ー満種ー持種 よしかど しぶかわ 、・しみ・つ に形がほば定着したものと思われる。 渋川氏から入った義廉とが家督 にあっては、社員の過半数または取締役会など おきなわた おうにん 義第ー義達ー義統ー義銀 じ 元日は座元の「翁渡し」「仕初め」の古式に を争い、応仁の乱 ( 一四六七 ~ 耄 ) の決議が必要である。その選任および代理権の はつはる 舌中越前を の一因となった。し、 、フ消滅は登記事項である。支配人の代理権は広範よってあける。正月の芝居を「初春狂言」とい 古くは二日初日、のちに多く一五日初日に かっ強力なもので、営業主がこれに制限を加え 重臣朝倉氏に奪われ、戦国時代 7 かみがた いまがわ なる。上方では、このころ「二の替り」の狂一言 には遠江を今川氏に奪われ、斯 しても善意の第三者に対抗できない不可制限的な さじき ひいき まつり はっ ~ く い」かな 冢兼 ( 大崎氏の ) やすうじ ( 最氏の楸 ) なおもら かれより せんだいはぎ 寺 ~ つき よー、むれ、・しかわ まさ あさくら

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しようか チ ズ ッ ャ ホ シ 物 物 ウ 物 動 動 動 食 立ロ 食 食 摂 物 摂 摂 物 動 ギ 体 食 の 草 ヒ ル物腸嘔物 さ、由ⅱ 道道頭 IO 4 っ一 マ回中結 下 肛幽胃 食食咽 しょ , つか ー前一九三 ) 中国古代の政中心とした熱帯アジアと推定されているが、野 それまでの「唱歌」という教科名が「芸能科音蕭何 晶体とよばれる。 りゆ・つほ、つ ⑤液体摂食動物ミッパチの胃は蜜胃とよばれ楽」と改められた。それ以後は、「歌曲を正し治家。前漢朝高祖劉邦の最初からの臣で、劉生種は発見されていない。古い時代に中国に伝 ほっゅ・つ はちみつ く歌唱し」というように、音楽の授業において邦と同郷のの豊邑 ( 江蘇省豊県 ) の生まれ。わり、三世紀以前に日本にも渡来したらしい て、蜜から花粉を濾し分けて蜂蜜とする濾過装 しゆりえん しん ショウガの塊茎には特有の香りと辛味があ 初め秦の沛県の主吏掾という下級官吏で、有能 置をもつ。血液を吸うダニなどでは唾液腺から歌うことは「歌唱」とされ、「唱歌」というこ とばは、「平易なる単音唱歌を課し」また「文だったらしい。劉邦が一農民だったころから援り、利用面も多いが種子ができす、塊茎で増殖 抗凝固剤が分泌され、クモ類は強力なタンバク かんよう 質分解酵素を含む唾液を獲物にかけて消化す部省唱歌」などというように、主として歌唱教助しており、のち、劉邦が役目がら首都咸陽へするので品種の分化は比較的に少ない。塊茎の 行ったとき、他の者より多くの餞別を出したこ大きさによって小ショウガ、中ショウガ、大シ る。ヒルは胃に普段の体積の一〇倍もの血液を材としての「歌曲」を意味するようになった。 ゃなか ョウガの三群に分けられ、小ショウガには谷中 〈川原浩〉とは劉邦にとって終生忘れがたいことであった ↓音楽教育↓小学唱歌 蓄え、数週間ないし数か月後からやっと溶血し みしまおうみ きんとき て消化する。 〈八杉貞雄〉硝ヒしようか nitration 有機化合物に一一ようだ。劉邦の起兵後はその参謀として一族をや金時など、中ショウガには三州や近江ショウ あげて加わり、武人としてよりも民政官としてガなどの品種がある。小ショウガと中ショウガ トロ基を導入する反応。ニトロ化ともいうが、 回銭場武彦著『胃・腸管運動の基礎と臨床』 化学工業方面ではとくに硝化ということのほう活躍、劉邦の窮地をしばしば救った。劉邦が天の品種は、日本で栽培され、分化したものであ ( 一九七九・真興交易医書出版部 ) ▽・・ギ さん - 一う ヤノン著、松田幸次郎他訳『医科生理学展が多い。たとえばべンゼンからニトロべンゼン下を平定すると功臣中第一に推され鄧侯に封ぜる。大ショウガは江戸時代以後に渡来したと考 じようしよう られ、やがて丞相から相国となった。秦軍とえられ、印度生姜、広東生姜などの品種があ とする反応、セルロースやグリセリンからニト 望』 ( 一九会・丸善 ) ▽・・ネッター著、 の抗争中、都の咸陽城を落とした漢軍の諸将がる。また、利用面から根ショウガ、葉ショウ ロセルロース ( 硝化綿ともいう ) やニトログリ 海藤勇他訳『チバコレクション第三巻消化 ~ 七九・日本チバガイギー社 ) ▽セリンとする反応などがそうである。硝酸と硫金銀を争奪したのに、彼ひとり秦の記録文書をガ、芽ショウガなどにも分けられる。根ショウ 器編』 ( 一九大 ・モートン著、八杉貞雄訳『消化管』 ( 一九酸との混合物 ( 一般に混酸という ) がもっとも収め、それによって劉邦が天下の形勢をよく知ガは、秋にとった塊茎を貯蔵して随時出荷する 〈春日井明〉 もので、薬味や香辛料、漬物などに利用され、 一般的な硝化剤である。↓ニトロ化〈中原勝儼〉りえたのは有名である。 〈 0 ・朝倉書店 ) ′彡ヒ しようか / チャンホワ中国南東部、台 ショウカ〔生姜〕 Z ぎを ~ 、 0 当 c ぎミ e 干しショウガにもされる。葉ショウガは、植え しようか英語のソング song または 唱歌 湾省中西部の市。彰化県の県政府所在地であ Rosc. ショウガ科の多年草。ハジカミ ( 薑 ) 付けた塊茎から伸びた偽茎に、葉が三 ~ 四枚開 スインギング singing にあたる「唱歌」とい いた状態で出荷するが、新しい地下茎が肥大し うことばが、日本の学校教育において最初に用る。人口約一八万。台湾省最古の都市の一つともいう。地下茎を食用とする。茎は地中にあ しん はんせん り、節くれだって肥大し、塊茎となる。節から始めたころで、生食に適している。葉ショウガ いられたのは、一八七二年 ( 明治五 ) の学制にで、旧称半線。一七二三年清朝が「顕彰皇化」 りんべん はつか よって、小学校における一教科として「唱歌」の意を込めて改称し、県が置かれた。東に八卦地上に伸び出る茎状のものは、鱗片状の葉や葉を栽培するのに利用した種ショウガは辛味が強 ひわ 、老成ショウガとよばれて薬味に利用する。 が規定されたときである。その後、それに伴っ山を望み、西約一〇キ。に清末に対大陸貿易の外鞘部が重なった偽茎で、上部に普通の葉を互 て『小学唱歌集』『中学唱歌』『尋常小学唱歌』港として栄えた鹿港がある。土地が肥沃で、生し、高さ五〇 ~ 九〇一になる。葉身は先のと芽ショウガは、光を遮って育てたもので、軟化 だえん など学校唱歌のための教科書が刊行された。し米、サツマイモ、豆類のほか、バナナ、バイナがった細長い楕円形で、長さ一五 ~ 三〇、温ショウガともよばれ、柔らかく、紅色で美しい かんきっ ップル、各種柑橘類などの果実や花卉の栽培が帯では花をつけることはまれであるが、熱帯やので和食の付け合せに最適である。〈星川清親〉 たがって唱歌といえば、授業において「歌うこ しようきよう 〔薬用〕漢方では新鯡な根茎を生姜といし と」 ( 歌唱 ) 、および歌うための教材つまり「歌盛んである。また台湾中部の農産物の集散地と亜熱帯では花が咲く。地下茎から高さ二〇拜一ほ ふるね どの花茎を出し、その先に短い穂状花序をつけ薬とする。八百屋で老成生姜または古根と称し 曲」の両方を意味していた。その後一九四一年して商業も盛んであり、近年では工業も発展し ちんおうちん 〈劉進慶〉る。一般に種子はできない。原産地はインドをているものがそれで、健胃、利尿、鎮嘔、鎮 ている。 ( 昭和一六 ) に小学校が国民学校と改称され、 消化 胃田月 第第食 第四胃 十ニ指腸 直腸 回腸 ー腸問膜 みつ 盲腸ー 腸 砂嚢 ( 3 ) 肉食動物〔ヒトデ〕 ひょく 盲腸 ー幽門盲嚢 しよう 逆転した胃の輪郭 水 ←ーー食物 内柱 咽頭 排出孔ー せんべっ 食胃腸 咽頭 大顎腺 食道 饌嚢 月リ月 直腸 802

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に関係なく生じる生得的反応であり、オペランくして条件刺激を呈一小するとふたたび条件反射 消去すると消去刺激には般化は及ばない ( 分化無条件刺激 ) が操作されるが、オペラント条件 トは一定の誘発する刺激はなく、生活体の側か づけでは反応 ( 条件反応 ) の出現が前提であ が出現する ( 自発的回復 spontaneous recov- 条件づけ differential conditioning)0 ら自発的に作動する反応であって、反応の結果 ery)0 条件反射は興奮と制止との両過程に制 条件刺激 ( 音 ) に対する条件反射が形成されり、反応の積極的・消極的結果 ( 強化 rein ・ に依存して制御される習得的反応である。これ御されることが予想され、制止過程は時間経過たのち、別の条件刺激 ( 光 ) に対して次々に条 forcement) に対する反応の選択形成・維持が らの反応の条件づけは、それそれ型ーレスポ に従って弱められるとみられている。条件づけ件反射を形成することができる ( 高次条件づけ重視される。したがって反応数・時間経過によ ンデント条件づけ、型ーオペラント条件づけの途次、条件刺激以外の刺激を導入すると条件 higher order conditioning)0 一一つの中性刺激ってどのように強化されるかのプログラム ( 強 とよばれ、古典条件づけと道具条件づけと、ほ反射が弱められるし ( 外制止 externalinhibi- ( 光と音 ) を反復対呈示したのち、一方の刺激化スケジュール schedules of reinforcement) ば対応する意味をもっている。近来は、古典条 tion) 、消去時、条件刺激以外の刺激を呈示すを条件刺激として条件反射を形成すると、他方が実験されている。反応ごとに強化する連続強 件づけとオペラント条件づけとに分類することると消失しかけた条件反射が再現することがあの刺激に対してただちに条件反射が誘発される 化 continuous reinforcement に対・ 1 しイ・、、一 - 仄 かんけっ が多い る ( 脱制止 disinhibition)0 応生起に間歇的に強化する間歇強化 intermit ・ ( 感性 ~ 則条件づけ sensory pre-conditioning)0 〔古典 ( 的 ) 条件づけ〕パプロフがイヌを用い ある条件刺激 ( たとえば一〇〇〇振動の音 ) 〔オペラント ( 自発的ー作動的 ) 条件づけ〕オ tent reinforcement が区別される。間歇強化 て行った古典条件づけでは、無条件刺激 ( たと に対して条件反射を形成すると、それと同一次ペラント条件づけは古典条件づけの原理に従っ は時間に関して一定な定間隔 fixed interval えば食物 ) unconditioned stimulus と、条件元の刺激 ( たとえば八〇〇振動の音 ) に対してて操作され、これと類似した条件づけ、消去の強化と、不規則な変間隔 variable interval 強 刺激 ( たとえば立日 ) conditioned stimulus と も条件反射が生じる ( 刺激般化 stimulus gen- 諸様相が認められる。しかし、古典条件づけで 一定の反応数ごとの定率 fixed ratio 強 の対呈示を反復し、本来、無条件刺激に対する eralization)0 一方の刺激を条件づけ、他方をは反応 ( 条件反射 ) と独立に刺激 ( 条件刺激・ 不定の反応数に対する変率 variable ratio だえき 無条件反射 ( 唾液分泌 ) unconditioned reflex 強化に大別される。これらはさらに、修飾・複 完で銘が買るる一社 と同様の反応が条件刺激によって誘発される 合され多数のスケジュールが組まれるが、これ に場一売あれュ会れ 月会 2 タ , がわヒ券さ ( 条件反射 conditioned reflex ) 。唾液分泌とい らによって条件反応はそれそれ特徴的な条件づ 立いンれス行ン証示 。多ウわ一がコ各表 う反応が無条件刺激のかわりに条件刺激によっ け、消去の反応経過を定常的に示している。一 くの力行プ 働高のがの取第る置 て誘発されたという意味で、刺激置換が生じた 昭 定の刺激の下で条件反応が形成される際、この が買角せ社買 年人売四合会し取て末 ともいわれたが、条件刺激に対する条件反射の 刺激は弁別刺激というが、弁別刺激について刺 だけ券売買れ端 ちん付証で売わの 量は無条件刺激に対する無条件反射の量より少 激般化が認められ、条件反応が制御される ( 刺 約う並のに場の行用 なく、また、無条件反射としての唾液分泌はそ , のに文際会券で員る激性制御 stimulus control)0 また、弁別刺激 館 えんげ 場た。柄央注壁立株ム会れ しやく、嚥下と直接関連するが、条件反射とし が二次的に強化の役目をもっことがあり、これ 市し銘中買の国テ取わ てのそれは関連しないことから、条件反射は無 所館場。売右室内ス才行を条件性強化 conditional reinforcement と 引開さ上る , 左買のシ , が 取月広部れで。売外買は理 いう。↓条件反射 条件反射の完全な模写ではなく、部分的成分反 券 5 一さトるムズ売文処 しようけんとりひきじよ stock 応 fractional component response 、ある 証年場第引スすテる注せ証券取引所 京会証取ポ立ス銘よの合 は期待反応 anticipatory response であると exchange, securities exchange 有価証券の 東 , 立東が引成シ ①成②は柄取が③タか付 いう見方もある。 需要と供給とを付き合わせ、それにより公正な 条件刺激と無条件刺激との時隔を種々に変化 ] ノ市場価格を形成させながら売買を促進する、具 すると、条件づけの経過が異なる。条件刺激が 体的な流通市場をいう。証券市場は発行市場と 無条件刺激に先だって呈一小される先行性条件づ 流通市場とに区分されるが、証券取引所は典型 け forward conditioning では条件刺激がわす 的な流通市場である。↓証券市場↓株式市場 かに無条件刺激より先行する同時条件づけ si- 〔沿革〕第二次世界大戦前、日本の証券取引所 multaneous conditioning が有効で、条件刺 は株式会社組織で運営されていたが、戦時中に 激にかなり遅れて無条件刺激が呈一小される延滞 半官半民の特殊法人へと組織替えさせられた。 条件づけ delayed conditioning 、条件刺激と 戦後新しく証券取引法 ( 昭和二三年法律二五 無条件刺激とがまったく重ねられないで、条件 号 ) が制定・施行され、同法により大蔵大臣の 免許を得て設立される会員組織となった。取引 刺激の終止後、時間を隔てて無条件刺激が呈一小 こんせき 所における取引は、すべて正会員である証券会 される痕跡条件づけ trace conditioning は有 効でない。条件刺激が無条件刺激に後行する逆 社を通じてのみ行われ、取引対象となる証券も 上場銘柄に限られる。証券取引所の最高意思決 行性条件づけ backward conditioning は困難 で、結果が不確かである。 定機関は会員総会であるが、通常業務の運営権 条件づけが形成されたのち、無条件刺激を伴 は、会員から選出された理事および会員外から , フわないで条件刺激だけを反復呈示すると条件 の理事によって構成される理事会にゆだねられ ている。 よ反射はしだいに消失する ( 実験的消去 experi- し mental extinction)0 しかし、消去後、しばら① 証券取引所は、一九四九年 ( 昭和二四 ) に東め ② 1 証券取引所 物第置 ノ・ 2

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ばきゅう は特定の家筋の者で、血取り、馬灸 ( 血ゃい ) 、 信大尉らを誣告罪で逆告訴した。軍法会議がこ 8 、の〒は死 馬つくろいなどがおもな施療であった。この れを取り上げなかったため、三五年七月「粛車 4 , フ 「馬つくろい」のために村々には一定の場所が ニ関スル意見書」を配布、統制派攻撃を公然と ゅ 設けられて、年々伯楽の巡回を迎え、またそれ し 」 ~ 第開始した。この結果両派の対立は激化し、相沢 ばとうかんのん しん を契機に馬頭観音講、馬無尽講などの信仰、親 事件を誘発することになった。↓相沢事件↓ 皇道派・統制派 〈榎本勝己〉 1 睦、共済の仲間も広くつくられていた。なお、 こ・新しい獣医の活動は、明治以後の畜産制度のも 回今井清一他編『現代史資料 4 国家主義運動 とでまったく別個に始まっている。〈竹内利美〉 1 』 ( 一九六三・みすず書房 ) ▽高橋正衛著『昭 1 回農林水産省畜産局監修、日本獣医師会編『獣 和の軍閥』 ( 中公新書 ) じゅういちゃぎさぶろう ( 天九七 医畜産六法昭和六〇年版』 ( 一九会・新日本 十一谷義三郎 法規出版 ) ー一九三七 ) 小説家。神戸市に生まれる。父の死、 兄の出奔と続く艱難を経て、高校時代から文学 雌雄異株しゅういしゅ雌雄同株に対する語 で、単性花をつける植物のうち、雄花と雌花と を志す。東京帝国大学英文科在学中、同人誌 が別の個体に生ずる植物のこと。雌雄別種、雌 『行路』を創刊。卒業後、教職のかたわら創作 じゅういちがっ November NO- に励んで『静物』 ( 一九一一三 ) を上梓する。一九二 雄異体、「一家花ともいい、雌花をつける植物体一一月 フラ novembre を雌株、雄花をつける植物体を雄株とよぶ。雌 vember ト 一年一二か月の四年 ( 大正一三 ) 「文芸時代』創刊に参加。『青 雄異株は木に多く、イチイ、イチョウ、アオ第一一番目の月。節は初冬で、月初めの七、 草』 ( 一九一一四 ) 、『仕立屋マリ子の半生』 ( 一九一一 0 、 しもだ キ、モクセイ、クワ、ヤナギなどが含まれる。 日ごろには立冬の日があり、野山の風景のみな幕末下田の史実に取材し好評を博した『唐人お 草では、アサ、イタドリ、カナムグラ、ホウレ らず、家々のなかにも冬めいた感じの漂う季節吉』 ( 一九一一 0 、『神風連』 ( 一九一一三 ~ 三四 ) などの代表 ンソウなどがある。雌株と雄株では染色体構成である。陰暦一一月は霜月ともいい、冬もすっ 作を遺して病没。敗残者への共感、現世放棄的 の異なるものもある。↓雌雄同株〈吉田精一〉 〈高橋真理〉 かり深まって、霜の厳しく降りる季節である傾向に特徴がある。 しゅういたい 生物学用語で、雌性が、陽暦では一年のなかでももっとも気候の変回『現代日本文学大系十一谷義三郎他集』 雌雄異体 めいり、よ・つ 、わ 配偶体と雄性配偶体とが明瞭に区別される場ヒ、 : イが少なく、穏やかで春のような暖かい、し ( 一九七三・筑摩書房 ) こはるびより 合をいう。雌雄同体の対語。植物では雌雄異株ゆる小春日和の日々が続くころにあたり、人々 シュウィーン Schwyz スイス中部、シ 医医がる種も考 が美しい自然の風物を求めて野山に遊ぶ行楽の ともいう。動物では、卵巣をもっ雌と精巣をも ュウィーツ州の州都。人口一万二〇〇〇 ( 一九 馬馬なし 1 、 7 をと館 のって草性た物 っ雄とはほとんどの場合異体で、それぞれに由季節でもある。 〈宇田敏彦〉 (I)O 田園都市であるが、繊維、家具などのエ 物漢にれ薬用っ博 じゅういちがっかくめい 0 ドイ業もある。一二九一年のスイス独立連動におけ 巻秕舎かの実あ立来する雌性および雄性の配偶子、すなわち卵と十一月革命 かくめい 絵 , 厩描馬 , で国 ッ革命 精子の合体により有性生殖が行われる。これに る三州盟約の唯一の古文書を蔵する連邦古文書 のはとがはれ書。京 せん じゅ , ついち - がっかくめい 一九一館、中心広場から放射状に広がる道路沿いに並 代に像馬にさのる東対して、両性の生殖腺が同一個体に存在する場十一月革命 師時』の名部解伝れ 医倉紙人た半図秘ら文合は、雌雄同体という。↓雌雄異株〈町田武生〉七年一一月、ロシアの臨時政府を倒し、ソビエぶ長屋造りの民家、市庁舎、旧領主屋敷などみ 獣鎌草れ後がっえ重 ト政権を生み出した革命。ロシア暦では一〇月るべきものがある。鉄道も自動車道も市の西郊 ジュウイチ〔十一〕 Horsfield's hawk じゅっきとう にあたるため、「十月革命」ともいう。↓ロシを通過するため、この町には田園的雰囲気がい 術祈疇とが混交した形で、特殊な技法が伝存 cuckoo \ 0 ミ、き s 鳥綱ホトトギス まもって残されている。 されてきた。伯楽は中国漢代の「馬相見」の達目ホトトギス科の鳥。全長約三二、体上面はア革命 じゅういちがつじけん一九三四 シュウィーツ州は面積九〇八平方キ。、人口九 人の名にちなむといし 、あるいは馬の守護星の黒灰色、下面は淡赤褐色をしている。アジア東十一月事件 名によるなどともいうが明らかではない。そし部の温帯域から熱帯域に分布しており、日本に 年 ( 昭和九 ) 一一月二〇日、皇道派青年将校の万八七〇〇 ( 一九八三 ) 。スイスの独立にあたり、 たかじ いそべあさいち ・は′、つつっ リーダー的存在であった村中孝次、磯部浅一おウリ、ウンターワルデンの二州とともに盟約三 て牛馬の仲買人を博労 ( 馬喰 ) とよぶのも伯楽は夏鳥として北海道から九州までの各地に渡来 えんぎしき 州の一つとして、現在のスイス国家形成の中心 と関連するらしい。すでに『延喜式』 ( 九一宅撰 ) し繁殖する。本州では標高一〇〇〇前後の山よび士官学校予科区隊長の片岡太郎が、陸軍士 には官馬を扱う馬医と馬薬の記事があり、鎌倉地森林に多く、明るい所にはあまり出てこな官学校生徒五名を率いてクーデターを計画した となり、国名の「スイス」はこの州名に、また 毛虫などをとって食べる。鳴き声は「ジュ として逮捕された事件。士官学校事件ともいわ国旗はこの州の紋章に由来する。州の面積の九 期には『馬医草紙』 ( 一一一六七奥書 ) という馬医の 秘伝書などもっくられていた。そこでは医療よウイチー、ジュウイチー」と聞こえ、名はこのれる。軍法会議は証拠不十分との理由で不起訴四 % は農耕可能地で、住民のほとんどはドイツ じひしんちょう りむしろ呪術的要素が濃く、その祭神、祭文、声に由来している。また、慈悲心鳥の名もあとしたが、村中、磯部、片岡は停職、士官学校語を話し、カトリック教徒である。高山、亜高 せんじゅうろう 祭具などの記事も詳しい。また『療馬六鑑集』るが、これも鳴き声を「ジヒシン」と聞きなし生徒は退校処分となった。林銑十郎陸相のも山地域を含むこの州の中核地は、地質構造運動 により成立し、氷期に氷食を受けたプルンネン ( 一六五一 l) などはその伝統を受け継ぐ馬医の伝来たことに由来する。カッコウやホトトギスと同とで、永田鉄山軍務局長を中心とする統制派 書で、馬相見と医療、祈疇との混交した特殊な 様、自分では巣をつくって繁殖せず、ほかの種は、皇道派を軍中央部から一掃し、青年将校のからアルトに至る谷底平野である。ここは一八 たくらん 技法の伝流を示している。こうした伝統を受けの鳥に托卵する。托卵するおもな相手はコル政治的策動を封じ、軍の一元的統制強化を図っ 六六年以降ゴタルド街道の、一、 八二年以降は 継ぐ伯楽 ( 馬医 ) は明治期までは馬産地に残存 、オオルリ、ルリビタキなどで、コルリと同ていたため、村中、磯部ら皇道派はこれに反ゴタルド鉄道の通過地で、交通上重要な位置を つじまさ じ青い卵を産む。 して、村々の馬牛の回診にあたっていた。多く 〈樋口広芳〉発、統制派によるでっちあげ説を主張し、辻政占めている。この州は周辺地域同様に牧畜地域 丁しロ死 せん ジュウイチ てつぎん かんなん

10. 日本大百科全書 11

よしま寺 ~ みちかた 、つの考えをどのように転換させて「福祉国家」へたがって、現代国家においては、「自由」と五一〇年代にドイツ、ニュルンベルクの銃工に の久米栄左衛門通賢や近江の国友藤兵衛能当の の道を歩むことになったのだろうか。これにつ「平等」は離れがたく結び付いているといえよ よって、ぜんまいばねで鋼製歯車を回転させ、 ような進歩的技術者によってごくわすか製造さ 4 ゅ 、つ いては、一九世紀中葉から末にかけて活躍した 〈田中浩〉これに黄鉄鉱片を当てて火花を出させて点火薬れたが、一般的には普及せす、火縄銃だけが一 じ しりん イギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーン ( 天 ・・ラスキ著、飯坂良明訳『近代国家に に着火させるホイールロック ( 歯輪 ) 式が発明九世紀中ごろまで長く使用されたのである。し <ll) の思想が重要である。当時イギリスで おける自由』 ( 一九五 0 ・岩波書店 ) ▽・フロ されたが、当時としては高度の製造技術を必要かし、一八〇六年 ( 文化三 ) ロシアの択捉侵略 も貧富の差が拡大し、労働者階級は悲惨な状態 ム著、日高六郎訳『自由からの逃走』 ( 一九としたため、きわめて高価な銃となり一般に普 によって太平の夢を破られた日本は国防が急務 に置かれていた。そこで弱者救済のために国家 及しなかった。まもなく一五八五年には火打石となり、ふたたびヨーロッパの新式銃が注目さ 五一・東京創元社 ) たかしましゅうはん 八三一年 ( 天保一 l) 高島秋帆によって じゅう gun 一般に火薬、スプリング、を当て金に打ち付けて火花を出させて点火するれ、一 や政府が積極的な施策をとることが強く望まれ銃 すいせき た。その場合、高額所得者に累進税をかけ、そ空気、電気などの力を利用して、弾丸を発射すフリントロック ( 燧石 ) 式のスナッブハンス銃ゲべール銃、ヤーゲル銃などの外国製燧石銃が よしおじよう、ん このうち口径の比較的小さいも れを財源として公立学校を設けたり、さまざまる銃砲をいい、 がオランダで発明され、一六四八年にはこれを輸入され、吉雄常三らによって雷汞の研究、国 な社会保障政策をとることなどが論議された。 のを銃という。旧日本海軍では口径四〇ミリまで改良したミスケレット式発火機構が考案され、産化が進められた。一八四四年 ( 弘化一 ) 以後 しかし、そのような措置は、自由の重要な柱でを ( 機 ) 銃と称したが、旧日本陸軍では口径一 以来一九世紀初めまで広く使用された。一九世は徳川幕府末期の騒乱期にあたり、三〇〇諸侯 ある個人の財産権を不当に制限するものである一ミリ以下のものを銃と規定していたので、普紀に入ると産業革命によって欧米では工業技術 は争って外国製新式銃の輸入に努めたため、雷 が発展し、アメリカの南北戦争やヨーロッパに とか、政府が経済活動に介入するのは伝統的な通、一〇ミリ程度以下の銃砲を銃という。 管式のミニエー銃をはじめ、おびただしい種類 自由放任主義に反するものであるとか、主とし 〔歴史〕火薬を使用した初期の火器は、一三世おける普仏戦争などが銃の機能に飛躍的な進展の外国銃がわが国に持ち込まれた。 て有産者の側からさまざまな反対論があった。 八三六年にフランス人ル・フ 紀ごろ日本やヨーロッパに侵攻した蒙古軍が鉄をもたらした。一 明治維新後、新政府によりその大半は整理さ とうてき グリーンはこうした状况において、人間にと炮とよばれた投擲用の爆発物を使用したことが オショーの考案した。ヒンファイア ( ピン打ち ) れて建車時の日本陸軍は、紙薬莢後装式のスナ かせん ってもっとも重要なことは「人格の成長」にあよく知られているが、同じころ中国では火箭と式、ドイツ人ドライゼが発明したニードルファ イドル銃を主幹小銃とし、不足分をエンフィー やっきよう るとし、自由はそのための手段である、と述べよばれたロケットも発明されて使われている。 ィア ( 針打ち ) 式の金属薬莢は、この薬莢を ルド銃、スペンサー銃、ドライゼ銃で補った つなよし た。「人格の成長」とは要するに人間が人間ら ロケットは推進体に噴進用火薬を詰め、自力で利用した弾薬を使用する銃の優秀さと相まっ が、一八八〇年 ( 明治一三 ) 歩兵中佐村田経芳 もと ) ひしょ・つ しく生きる、ということである。ところが、今飛翔できるので、構造が簡単であったから、火て、銃の後装化 ( 元込め ) に拍車をかけた。まの設計による村田式単発銃が完成し、以後しだ た空気抵抗の少ない椎の実型の弾丸を発射した いに村田銃は外国銃と交替した。一八九四年の 日の社会では、自由を目的とすることによっ薬が発明されてまもなく、銃器より早く発達し じゅ・つ・一う ひかそう かりゅうそうとっかそう らせん につしん て、かえって多くの人々の自由が阻害されてい た。同じころ中国で飛火槍、火竜槍、突火槍、ときの横転を防ぐため、銃腔に螺旋状の溝日清戦争にはこの銃を改良した十八年式村田銃 りかそう る。目的は手段に優先するから、「人格の成長」梨火槍などとよばれた紙や竹製の筒状火器が発 ( ライフリング ) を刻み、発射された弾丸に回および二十二年式村田連発銃が使用され、つい もちふみ 明されたが、これらが進歩して銅筒火器とな を実現するためには、「自由」が制限されるこ 転を与えることは古くから試みられていたが、 で無煙火薬の採用により有坂成章大佐によっ そうてん ともやむをえない、というのがグリーンの提一言 り、原始的銃器に発達していったものである。 口径よりも大きな外径をもっ実弾を装鎭するたて新しく開発された三十年式歩兵銃が日露戦争 であった。このグリーンの「コロンプスの卵」中国で発明されたこれらの原始的火器は、一四めには後装銃が理想的であったので、後装銃の に活躍したが、戦後実戦の経験から一部を改良 的な「自由」の観念の転換によって、以後、イ世紀ごろアラビア人によってヨーロツ。ハに伝え実用化と同時に銃腔に旋条したライフル銃が一した三十八年式歩兵銃が制定された。以後三十 ギリスの政治は福祉国家の方向へと大きく前進られ「マドフア」とよばれる木製銃筒火器とな般的となり、旋条のない滑腔銃は散弾銃として 八年式小銃は、一九三九年 ( 昭和一四 ) 制定の り、北ヨーロッパに広がるが、まもなく金属製おもに狩猟に使用されている。 九九式とともに日本陸軍の主幹小銃として太平 今日、世界の国々の憲法において、社会や公銃筒となり、小型化されて手で保持して発射で 日本に銃が伝えられたのは、一五四三年 ( 天洋戦争の全期間使用された。現在の自衛隊は一 しゅじゅう たねがしま 文一 (l) 八月二五日、種子島に漂着したポルト 九六四年 ( 昭和三九 ) に開発制定された六四式 共の利益のためには個人自由の制限もある程度きるハンドキヤノン ( 手銃 ) が出現した。ハ 小銃を装備している。↓鉄砲伝来 やむなしとする「社会権」 ( 「社会権的基本ンドキヤノンは銃筒の後部がふさがれ、さらにガル人がもたらした二丁の火縄銃が最初といわ 権」 ) 的規定が盛り込まれているのはそのためその後部に木柄が差し込まれて手または肩で支れる。当時日本は戦国時代の初めであり、有力〔分類〕銃は大別するとライフル銃、散弾銃、 そうてん である。そして、こうした社会権的考え方を最えられる。銃口から火薬と弾丸を装填し、薬室な地方豪族は争って銃の入手に努めたため、種特殊銃に分けられ、軍用、狩猟用、射撃競技 さかいおうみ かもんさび 初に規定した憲法は一九一九年の「ワイマール上部の火門に差し火して点火するタッチホール子島はじめ堺、近江の国友および日野など各地用、護身用などの用途別によって構造、機能が けんじゅう 憲法」であった。そこでは、たとえば、「経済式であった。 で銃砲の製造が盛んになった。とくに織田信長異なる。軍用銃には小銃、機関銃、拳銃 ( ピ 手で差し火する点火方法は、一五世紀中ごろは若年からこの新兵器に着目し、一五七五年ストル ) 、軍用散弾銃、信号銃があり、小銃は 生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する ながしの に TJ 字型の火縄保持具となり、木柄は両手で保 ( 天正三 ) 長篠の戦いでは、三〇〇〇丁の銃でさらに発射機能によって単発銃、連発銃、自動 生活を保障する目的をもっ正義の原則に適合し なければならない 。この限界内で、個人の経済持しやすい木製銃床に発達し、さらに一四五〇鉄砲隊を組織して、天下無敵といわれた武田勝銃に分けられ、用途によっても突撃銃、歩兵 そげき ~ 七〇年ごろ、スプリングと引き金とを組み合頼の甲州騎馬隊を撃破し、国家統一への道を開銃、騎兵銃 ( カービン銃 ) 、狙撃銃などに区別 的自由は、確保されなければならない」 ( 一五 いた。その後、徳川政権の確立によって銃の目 される。狩猟用銃にはライフル銃、散弾銃、空 一条一項 ) 、続いて「所有権は義務を伴う。そわせた火縄保持具 ( 火縄ばさみ ) が考案され の行使は、同時に公共の福祉に役だつべきであて、引き金を引いた瞬間、スプリングによって的が軍事を離れ、幕府の厳しい統制のもとに砲気銃があり、主として大物猟用にはライフル 銃、鳥猟には散弾銃、小鳥猟には空気銃が使用 る」 ( 同条三項 ) と規定されている。また日本火縄が点火薬上に落ちて着火させる火縄式銃が術による標的射撃や狩猟のように非軍事目的に 国憲法第二九条「財産権の保障」においても、考案された。しかし、火縄銃は風雨が強いと操置かれるようになった。したがって、長崎のオされる。射撃競技用銃はライフル銃 ( 大・小口 財産権の保障 ( 自由権 ) と同時に公共福祉によ 着火した火縄を携帯していなけれランダ人からわずかに伝えられる海外における径 ) 、散弾銃、空気銃 ( ェアライフル ) 、拳銃が さめき る制限 ( 社会権 ) の規定が並列されている。し ば発砲できない、という欠点があったため、一歯輪銃、燧石銃、空気銃などの新式銃は、讃岐使われ、護身用や信号用にはおもに拳銃が使用 0 より ふふつ かっ えとろふ