傘 00 しやるる 方、常備軍の整備、フランス教会の組織改革、地方 ) からフランスに進入しようとして失敗。オースマン知事は、凱旋門を中心とする円形広 政商ジャック・クールを登用しての財政改革なナポレオン時代はイギリスに滞在した。第一次場として整備を行い、新たに七本の大通りを放 ど、王政の拡充に努めた。ブルゴーニュ、。フル王政復古 ( 天一四 ) のとき、王国総代理官として射状に配した。一九二一年無名戦士の墓が安置 〈高橋正〉 ターニュなど、なお残る大諸侯領への王権の浸連合国と軍事協約を結んだ。第二次王政復古でされた。↓エトアール凱旋門 透は、彼の代に準備された。王妃マリ・ダンジ は政務から遠ざかったが、極右王党派 ( ュルト シャルル・ドルレアン CharIes d'Or ・ ューの腹に生まれたルイがその仕事を仕上げるラ ) の勢力拡大に力を注いだ。一八二四年ルイ léans ( 一三九四ー一四六五 ) フランスの詩人。バロ ことになる。五三年、ギュイエンヌを接収し一八世の死により王位を継承した。統治初期ア朝第四代のフランス国王シャルル六世の弟ル て、百年戦争に終止符を打った。〈堀越孝一〉 は、新聞検閲の廃止など自由主義的政策を打ちイ・ドルレアンの子。政争に巻き込まれ波瀾万 とくせし ヒレール内閣の反動的諸立法 ( 漬聖丈の青春を送る。プルゴーニュ侯の刺客に暗殺 シャルル ( 八世 ) Charles V[I ( 一四七 0 ー九 0 出したが、。 、小′、ー ) ゅエノ ハロア朝第七代のフランス王 ( 在位一哭三 ~ 九 0 。法、亡命貴族一〇億フラン法、国民衛兵の解散された父の復讐を目ざし、アルマニャック派 母はサポイア公女シャルロット。父ルイ一 など ) はシャルル一〇世の人気を落とし、自由の首領としてフランスを二分して戦う。アザン 一世は、幼少のシャルルを姉のアンヌの後見の主義プルジョアの台頭を招いた。このため、彼クールの戦いで捕虜となり、イギリスで二五年 下に置いた。アンヌは一四九一年、弟の妻にプは「七月勅令」を発布してプルジョアを政治かの虜囚生活を送る間、フランスをしのび『獄舎 きじよ ルターニュ公女アンヌ Anne de Bretagne ら排除しようとしたが、かえってパリ市民の反の歌』をはじめ、意中の貴女を歌う優雅なバラ ードやシャンソンを綴る。自由の身になるや平 ( 一四七七ー一五一四 ) を迎え、プルターニュ公領取得抗を助長し、七月革命の勃発を招いて退位、イ の下ごしらえをした。このころから若いシャルギリスへ亡命した。北イタリアのゴリツィアで和のための調停役を務めたが、変わり果てたフ 〈志垣嘉夫〉ランスに幻滅を感じ、政治生活を捨て、プロワ ルは、イタリアのナポリ王国獲得を夢想し、ア死去。 / ンンヤルワール イ、、つ了一、つ の居城に引きこもり、「無関心」を旨とし、お ラゴン王家、オーストリア大公家等関係諸勢力に シャルル・ドゴール空港 いんとん 多大の譲歩をあえてして遠征を強行し、九五 Aéroport Charles-de ・ Gaulle フランスの首気に入りの詩人たちに囲まれて隠遁生活を送 年、ナポリ王国に進駐したが、オーストリア、都バリの国際空港の一つ。ル・プルジェ、オルる。一四五七年に催した詩会にはビョンも参加 アラゴンが警戒心を募らせ、結局、両者の干渉 リーに続くパリにおける第三の空港で、パリ都した。新鮮な感覚と繊細な感情の持ち主で、完 心部より北東二四キ。、ロアシー・アン・フラン成された最後の宮廷風恋愛詩人、最後の王侯詩 が彼の野望をくじいた。九八年、再度遠征を企 画中、アンボアーズ城内で事故死した。ここに スに位置する。一九六八年にル・プルジェ空港人として、巧みなフランス語でアレゴリーを駆 かんべき ハロア王家の直系が絶えた。 ^ 堀越孝一〉 の代替として着工し、七四年に開港した。面積使し、優雅と憂愁を込めたロンドーを完璧の域 〈高田勇〉 に高めた。 三〇二一く長さ三六〇〇と三六一五の シャルル ( 九世 ) Charles ( 一五五 0 ー七四 ) のほうそく 0 ケイ・ ハロア朝第一二代のフランス王 ( 在位一五六 0 ~ 七四 ) 。滑走路二本、ターミナル二棟を有する。八三年シャルルの法則 リュサックの法則 アンリ二世の子。兄フランソア二世の死によりの利用客数一三四一・一万人。開港時より。ハリ 一〇歳で即位し、母后カトリーヌ・ド・メディ 北駅との間に空港アクセス鉄道を開通させ、航シャルルビル・メジェール Charleville ・ シスの摂政。治世は宗教戦争前半期である。 空利用客の大量・高速輸送を可能とする態勢を Méziéres フランス北東部、アルデンヌ県の リの南東二三九キロにある。人口六万一 第三次宗教戦争を終結させたサン・ジェルマン整え、ヨーロッパでもっとも広い空港敷地内で県都。 やきん の和議 ( 一五七 0 ) および妹のマルグリットとナは二つのターミナルビルと空港鉄道駅、駐車場五八八 ( 一九〈一 D 。アルデンヌの冶金工業の中心 バール王アンリ ( 後のアンリ四世 ) との結婚をを連絡する無料バスが頻繁に運行している。ロ地。シャルルビルとメジェールはミューズ川を 通してカトリックとユグノーの平和共存を図るアシー空港ともいう。 〈青木栄一〉挟んで位置し、橋で連絡している。かって双子 ひろば 都市であった両者は、一九六六年に他の三町を ことを目ざしたが、母后やギーズ一門、反ュグシャルル・ドゴール広場 ようイ、い 含めて合併した。メジェールはかって要塞都市 ノー運動の圧力に屈して、サン・バルテルミー PIace CharIes-de ・ GauIIe フランスの首都バ 六年に撤去された。 の虐殺を断行した ( 一五七二年八月 ) 。その後 リ西部にある直径一二〇の円形の大広場。シであったが、要塞は一八八、 シャルルビルは一六〇六年の設立。この地は戦 ャンゼリゼなど一二の大通りが放射状に発し、 この事件を引き起こした責任と良心 がいせん の呵責に耐えかねて、消耗の果てに中央部に高さ五〇、幅四五の凱旋門がそび略要地であるため、たびたびドイツに占領され た。とりわけメジェールは、第一次世界大戦初 〈志垣嘉夫〉 この世を去った。 える。略称ドゴール広場。旧称エトアール 館 シャルル ( 〇世 ) Charles x Etoile 広場。一九七〇年、ドゴール大統領の期にドイツ軍の手に落ち、一九一八年の休戦後 美 ュ まで占領された。メジェールの教区教会は一六 会六 ) 。フルポン朝第七代の死により改称された。かってシャイヨーのエト 世紀にさかのばるみごとなゴシック建築であ サフランス王 ( 在位一全四 ~ 三 0 ) 。ルイアール ( 星 ) の丘とよばれた所に位置し、多く レ 〈大嶽幸彦〉 の小道の交差点であったことから、入市税を徴る。 一五世の王太子の第四子。ルイ一六 ペ 世、ルイ一八世の弟にあたる。一七収する役所が置かれた。アウステルリツツの戦シャルルマーニュ 0 カール ( 大帝 ) 世画 ばつばっ 八九年、革命の勃発とともに亡命 いの勝利により、一八〇六年ナポレオン一世が シャルルロア Charleroi ベルギー西部、 エノー州東部の工業都市。人口二一万三〇四一 し、ヨーロッパ各地を転々とし、九巨大な凱旋門の建設を計画し、シャルグランの ャエ 二年ュウ島 ( フランス西部バンデー 設計により一八三八年に完成した。一八五四年 (I*<III)O 首都プリュッセルの南約五〇キ。、サン 409
じぶち とねかた の完全独立を主張したた 、、で、一人当りでは四八〇【 ~ ( 一〈〈 l) である。至仏山しぶっさん群馬県北東部、利根郡片 みなかみ め、フランスとジプチ港輸出総額は一一三九万ド ~ 、輸入総額は一億七七村と水上町の境にある山。日光国立公園尾瀬 からの鉄道輸送に頼るエ 二二万ドル ( 一九七九 ) で、大幅な輸入超過となってヶ原の南西にそびえ、標高二一三八 。山体の じゃもんがん チオピアはアファール族 いる。貿易相手国はフランスが圧倒的に多く 上部は蛇紋岩からなり、山頂部の西側は険阻な の自治政府を支持した。輸出で八七・一 % 、輸入で四六・八 % を占め絶壁状であるが、東側は普通の斜面である。 ふもと そうへき 一九五八年および六七年る。日本からは、自動車、綿織物、電気製品な燧ヶ岳と並び尾瀬の美しい山の双璧で、麓か の住民投票ではフランスどを年間一三五八万ドル ( 一九七九 ) 輸入している。 ら山頂のハイマッ帯まではホソバヒナウスユキ 四領にとどまることが決定〔社会・文化〕住民はイッサ族 ( 四八 % ) とアソウ、オゼソウなどの高山植物の宝庫である。 はとまち やまはな され、六七年七月にはフ ファール族 ( 三八 % ) で国を二分している。南南東の鳩待峠、北東の山ノ鼻小屋から山頂まで ・イ部のイッサ族はソマリ系でソマリアにまたがっ 三 ~ 四時間。眺望がよく最近は登山者も多い 一ランス領アファール 〈村本定雄〉 ↓尾瀬 ッサと改称した。七〇年て居住している。北部のアファール族はエチオ 代に入り、イッサ族のアピア北東部にまたがって居住し、エチオピアで二万五千分の一地形図「至仏山」 フリカ人民独立連合 (*-2 はダナキル族とよばれている。両部族とも牧畜視物質しぶ 0 しつ光受容器内の視細胞に含 まれる感光色素タンパク質で、光を吸収する性 — ) とアファール族民であり、ラクダ、ヒッジ、ヤギ、ウシ、ロバ せきつい かん の独立民族連合 ()Z などの家畜を飼育している。しかしイッサ族は質をもつ。脊椎動物の網膜には、桿状体 ( 桿 すい —) をはじめとする五政ジプチなどの都市人口の大半を占める。ともに体 ) と錐状体 ( 錐体 ) の二種類の視細胞があ 党が大同団結し、七七年スンニー派のイスラム教徒である。ほかにアラ り、それそれの外節には性質の異なる視物質が 五月の住民投票で独立をブ人やフランス人も居住する。 存在している。桿状体の視物質は桿状体物質、 月 公用語はアラビア語であるが、ほかにおもな錐状体の視物質は錐状体物質とよばれ、前者は 一決定、六月二七日ジプチ ℃ E LLJ E 入 共和国として独立を達成言語として、アファール語、ソマリ語、フラン薄明視に、後者は昼間視に関係している。これ 出 ス 輸 ス語が用いられている。宗教はイスラム教徒が らの視物質は発色団レチナール ( Ⅱ ・シス型 ) ン 8 日皿 〔政治・経済〕初代大統大部分であるが、カトリック教徒も約一万二〇とタン。ハク質部分であるオプシンとが結合した 7 気量。 もので、光を照射するとレチナールはオールト 領はイッサ族のハッサ〇〇人居住している。教育は初等学校一万六 手 6 均水ⅱ 表 年 5 平降 ン・グールドが就任、四一人、中等学校三八一二人、技術学校一二七ランス型に変化する。オールトランス型レチナ 本年 年年 ールは異性化酵素の作用で、ふたたびⅡ・シス 「脱部族政策」を打ち出九人 ( 一九〈一 ) の児童・生徒がいる。テレビ台数 経韆チ 量 し、国を二分するイツ は一万台 ( 一九七九 ) 、乗用車は一万一八〇〇台型となり、オプシンと結合して視物質が再生さ 出 2 水度高 6 ジ輸 気降緯標 輸サ、アファール両部族の ( 一九七七 ) となっている。 〈赤阪賢〉れる。一方、レチナールにはレチナール 1 とレ チナール 2 の二つがあり、オプシンにも桿状体 均衡政策を政治の基本とジプチ ( 市 ) Djibouti アフリカ北東部、 している。外交は非同盟 ジプチ共和国の首都。アデン湾支湾のタジュラオプシンと錐状体オプシンの二種類があるの ~ 四〇度 0 、一〇月から五月にかけては比較的と積極的中立を基本路線とし、戦争状態にある湾南岸に位置する港湾都市である。人口約一五で、これらの組合せで四種類の視物質 ( ロドプ 隣国のエチオピアとソマリアに対しても等距離万 (IR<I)O ノノノ年フランス領ソマリ海シン、ポルフイロプシン、アイオドプシン、サ し、わししが、それでも二五 ~ 三〇度 O に及ぶ。 〔歴史〕一八五九年スエズ運河の建設に着工しの立場を貫いている。旧宗主国フランスとは友岸の植民地支配のために建設された。一九一七ィアノブシン ) が理論上存在することになる。 たフランスは、六二年スエズ航路の要衝である好協力条約を結び、フランス軍の駐留を認めて年、アディス・アベバとの間にエチオピア鉄道 これまでに、ロドプシンが多くの脊椎動物の この地に進出し、タジュラ湾北岸のオボク、タ いる。議会は一院制 ( 定数六五名 ) で任期は五が開通し、エチオピアとの貿易の窓口となっ桿状体物質として、ポルフイロプシンが淡水魚 ジュラの両港をスルタン藩王から租借した。一年、進歩人民連合 ( ) が唯一の合法政党でた。またスエズ運河の海運の拠点としても繁栄や両生類の桿状体物質として、アイオドプシン した。コーヒー、皮革などを輸出する。住民のが鳥類の錐状体物質として、それそれ確認され 八八八年にはタジュラ湾南岸に新しくジプチ港ある。軍隊は陸軍四〇〇〇人、空軍二〇〇人。 国土が乾燥地帯のため農業は不振で、オアシ大部分はソマリ系のイッサ族。 〈赤阪賢〉ている。ヒトでは単一錐状体の光吸収を測定す を建設し、これらをあわせて九七年フランス領 スや都市近郊での野菜栽培などにとどまる。住 しぶつきせい生物の死体や排出物ることによって、それそれ赤色、緑色、青色に ソマリ海岸とよばれる植民地をつくった。。ン・ 死物寄生 チ港は一八六九年のスエズ運河の開通とともに民の半数以上は、ウシ、ヒッジ、ヤギ、ラクダなど死んだ有機物から栄養をとって生活するこ感する三種類の錐状体物質を区別することがで などの牧畜に従事し、畜産物や皮革は輸出の重とをいう。活物寄生に対する語で、腐生ともよ きる。無脊椎動物では、頭足類の網膜や甲殻 石炭補給港として発展、また、一九一七年には ジプチからエチオピアのアディス・ア・ヘバに達要産品の一つとなっている。一九六七年にスエばれる。腐敗菌、シイタケ、ギンリョウソウな類、昆虫類の複眼からロドプシン様の視物質な 〈山口恒夫〉 ズ運河が閉鎖されるまでは、ジプチ港の港湾収ど、植物に多くみられる。動物では落ち葉を食どが抽出されている。 する鉄道が開通し、以後ジプチはエチオピアの 外港の役割を果たすようになった。第二次世界入が重要な位置を占めたが、七五年の再開後もべるササラダニ、腐肉を食べるハエの幼虫 ( ウジフテリア diphtheria ジフテリア菌が ひまっ 大戦後の一九四七年フランスの海外県となって往時の勢いは戻らなかった。エチオピアへの鉄ジ ) などが死物寄生者に含まれる。死物寄生者おもに呼吸器の粘膜に飛沫感染しておこる急性 フランス領ソマリランドと称し、五六年には自道輸送も、一九七七年から二年間エチオピアのは、生態系の物質循環において有機物を無機物の感染症で、法定伝染病の一つ。流行期は冬で に分解する役割を果たしており、分解者とよばあるが、都市部では年間を通じてみられる。と 治政府を樹立した。ィッサ族はソマリ族の統合内戦のため中断され、輸送収入が激減して大き 〈近藤高貴〉 な打撃を受けた。国民総生産は一億八〇〇〇万れることも多い。↓寄生 に幼児に多く、一〇歳以上の年長児や乳児に を図る大ソマリア計画を支持し、フランスから ジプチ市の気象 、 44 。 EØ 广ィエン民主 人民共和国 - ℃ ) っっ / 」っ乙 1 ー 1 ー ジフチ ーサ・ア住 / 2063 、 . 300 250 200 150 100 50 0 マ 5 。。 イ収明タジ ・、 0 、ジ、ラ湾 オボク ジプチ ノ 50km 1 : 5 , 0 0 , 000 000 ソマリア′ 総額 オランダ 3.4 百万 米ドル 16.5 イギリス 3.9 工チオビア日本 その他 146.3 177 . 2 3.8 28.1 北イエメン 3.3 ベルギー 16.0 70.5 ~ 87 工。— ひうち
し自動車 / 歴史 外国 入 ~ 6 ・エチェンヌ・ルノアール、二サイクル複動式ガスエンジンを製 作 ( フランス ) l<(l ・グスタフ・シュミット、 圧縮効果を発見 ( ドイツ ) ・レッド・フラッグ・アクト ( 赤旗法 ) が制定、一八六五年から 九六年まで施行される ( イギリス ) 一会一・ポー・ド・ロシャ、四サイクル理論を発表 ( フランス ) ・バルサンティとマテウス、ガスエンジン自動車を試作 ( イタリア ) 入六三・エチェンヌ・ルノアール、ガソリンエンジンを馬車に積み、往 復一八キ。の試走に成功 ( フランス ) 一全 = 一・アメデー・ポレー、前輪独立懸架の八人乗り小型蒸気バスを開 発 ( フランス ) 入耄・ジークフリート・ マルクス、二サイクル自走車を製作 ( オース トリア ) 一〈実・ニコラス・オットー、四サイクル・ガス機関の特許を取得 ( ド ィッ ) 一〈合・カミュ・フォール、電気自動車を製作 ( フランス ) 入全・シャスループとロー 、電気自動車で時速六三キ。を記録 ( フ ランス ) 入会・ゴットリ ープ・ダイムラー、四サイクル・ガソリンエンジンを 製作 ( ドイツ ) 入会・ドラマール・ドブットビルとレオン・マランダン、がソリン自 動車を試作 ( フランス ) 入会・ゴ / ープ・ダイムラー、一気筒、二五〇 8 、〇・四馬力、 最高時速一一言。のガソリンエンジン付きオ ートバイを製作、約 三キ。の試走に成功 ( ドイツ ) ヘンツ、一気筒、一八〇 8 、〇・七五馬力のガソリン エンジン付き一二輪自動車を製作 ( ドイツ ) ープ・ダ . イムラー、一気筒、四六〇 8 、一・一馬力の ガソリンエンジン付きの実用的な四輪自動車を製作 ( ドイツ ) 入・ジークフリート・マルクス、四輪車を製作 ( オーストリア ) 一九・世界初の自動車会社、バナール・エ・ルバッソール社設立 ( フ ランス ) 一兊一・アンドレ・ミシュラン、自動車用の空気入りタイヤを製作 ( フ ランス ) ・エミール・レヾッソール、エンジンを座席の下方後部から前方 に移し、クラッチ、変速機と縦一直線に並べた近代的な配置の ハナール・エ・ルバッソール車を製作 ( フランス ) 一兊一一・ルドルフ・ディーゼル、圧縮点火のディーゼルエンジンの特許 を取得 ( ドイツ ) ・ダイムラー社、べンチュリ ーとノズルを組み合わせた近代的な キャプレターを開発 ( ドイツ ) ・ジョージ・セルデンとチャールズ・デュリア、ともにアメリカ 初のガソリン自動車を製作 ( アメリカ ) ・べンツ社、ゴムタイヤを装着したビクトリア号を発売 ( ドイツ ) リールーアン間一 入九四・史上初の自動車レースがパ 二六キ。で開催され、 ハナール・エ・ルバッソールとプジョーが優勝を分け合う ( フ ランス ) 天九セ・ポッシュ、電気点火用の高圧磁石発電機の開発に成功 ( ドイツ ) 一兊〈・ルイ ・ルノー、プロペラシャフトとべベルギャ式ディファレン シャルギャをもっ近代的な動力伝達システムを製作 ( フランス ) 一〈究・ダイムラー社、アセチレンガス灯の明るいへ ッド一フィトル休用 ・カミュ・イエナツツイ、電気自動車で時速一〇五キ。を記録 ( フ ランス ) 1899 ( ドイツ ) カール・べンツの三輪自動車 ( 1886 年 ) ~ ルーアン間レースで優勝したプジョー ( 1894 年 ) ・フォードと初の / 、ン′リ 試作車 ( 1896 年 ) ゴットリープ・ダイムラーの四輪自動 車 ( 1886 年 ) タクリー号 ( 吉田式乗用 車 ) と内山駒之助 ( 1907 年 ) 監修・髜島鎮 ドラマール・ドブット ビルとレオン・マラン ダンのつくったガソリ ン自動車 ( 1884 年 ) 山羽虎夫の蒸気自動車 ( 19Q5 年 )
じどうし 自動車レース / フォーミュラ 1 グランプリワールド・チャンピオンシップ優勝者 注 : 林信次著 " F ノ G 杞生 VD 戸 / X ノ 950 ・ -7980 " による 年度チャンビオン 国籍 規格 年度チャンヒ。オン マシーーン 国籍 規格 マシ - ーン 非過給 4.52 1950 G. ファリーナ イタリア アルフア・ロメオ イギリス 1968 G. ヒル ロータス アルゼンチンアルフア・ロメオ過給 1.52 以ド 1969 1951 J. M. ファンジオ J. スチュアート イギリス マートラ 22F2 によって 1970 1952 A. アスカーリ イタリア オーストリアロータス フェラーリ 争われる 1953 A. アスカーリ イタリア イギリス フェラーリ J. スチュアート 1971 ティレノレ マセラッティ / メルセデス 1954 J. M. ファンジオアルゼンチン 1972 E. フィッティノヾルデイプラジル ロータス イギリス 1955 J. M. ファンジオアルゼンチン J. スチュアート メルセデス ティレノレ 1973 1956 J. M. ファンジオアルゼンチンフェラーリ 1974 E. フィッテイバルデイプラジル マクラーレン マセラッティ オーストリアフェラーリ 1957 J. M. ファンジオアルゼンチン 1975 N. ラウダ イギリス マクラーレン非過給 32 1958 M. ホーソン イギリス フェラーリ 1976 オーストラリアクー オーストリアフェラーリ過給 1 . 52 以ド 1959 J. プラノヾム 1977 N. ラウダ オーストラリアクーパー J. フ - ラノヾム 1978 M. アンドレッティアメリカ ロータス 1960 1961 P. ヒル 南アフリカ アメリカ フェラーリ フェラーリ 1979 J. シェクター 1962 G. ヒル イギリス オーストラリアウィリアムズ BRM 1980 A. ジョーンズ イギリス 1963 J. クラーク 1981 N. ピケ フ・ラジノレ フ - ラノヾム ロータス イギリス 1964 J. サーティーズ フィンランド ウィリアムズ フェラーリ 1982 K. ロスペルク イギリス 1965 J. クラーク 1983 N. ピケ フ。ラノヾム ロータス フーラジノレ 1966 J. プラバム オーストラリアプラバム 1984 N. ラウダ オーストリアマクラーレン ニュージーランドフ・ラノヾム 1985 A. プロスト 1967 D. ハルム マクラーレン フランス ② 非過給 2.52 過給 0.752 以ド 非過給 1 .52 以下 ① ④ ③ 5 年ツール・ド・フランス、一九〇〇年パリーツ ど、二〇年代後半から三〇年代初期にかけては ールーズー 、〇一年バ ーベルリン、〇二イタリアのアルフア・ロメオ Alfa Romeo 、 オ 年パリーウィーンなど、公道を使った都市間レ フランスの・フガッティ Bugatti などがあった。 ジ 三四年の新七五〇キロフォーミュラからは、レー ースが開催された。しかし、当時の地方の人々 ンクア ア は自動車に慣れていないために、競技車両の通スによる国威発揚をねらうナチの強力な後援を フ丿ラチウ ヒクスラ 過する道路を埋め尽くして見物するというあり受けたメルセデス・・ヘンツおよびアウト・ウニ 」 C5 」上 Z ①②③④⑤さまで、事故は絶えなかった。とくに一九〇一一一オン Auto Union のドイツ勢がヨーロッパの せつけん 年のバ ーマドリード・レースは参加者にも見サーキットを席巻した。 物人にも多くの死傷者を出し、ついにフランス 第二次世界大戦直後はまずアルフア・ロメオ 政府はポルドーでレースを中止させ、以後公道が圧倒的強さを示し、ついで同じイタリアのフ エラーリ Ferrari がそれにかわったが、 上でのレースを禁じてしまった。 一九 そこでフランス自動車クラ・フは、一九〇六 五四年の二・五リッター・フォーミュラではふ 年、フランス中西部ル・マン市郊外の公道を閉たたびメルセデス・ペンツが王座に返り咲い 鎖してサーキット ( 周回コース ) をつくり、一た。五五年のル・マンの事故後メルセデス・ペ 、カ引退してからは、フェラーリ、 マセラッ 定のフォーミュラ ( 規格 ) のもとに、第一回の フランス自動車クラブ・グランプリ ( 大賞 ) ・ ティ Maserati のイタリア勢と、バンウォール レースを開催した。都市間レースで多くの犠牲 Vanwall 、クー Cooper 、アストン・マー 者が出たのは、一つには、参加車がより高い速ティン Aston Martin などのイギリス勢の角 : イ度を求めて安全の限界を超えて大きく強力なエ逐が続いた。六一年の一五〇〇 8 フォーミュラ ンジンを搭載したからであった。背が高く、安以後はイギリスのロータス Lotus 、、 定が悪く、操縦性も制動力も低い車が時速一〇クー イタリアのフェラーリ、西ドイツの 〇キロで無舗装路を走ったのであるから、事故がポルシェ Porsche 、日本のホンダなどが参加、 起きないはうが不思議であった。フォーミュラ イギリス勢が圧倒的強さを示した。 はこの無法状態を収拾しようとするもので、一 一九六六年には三〇〇〇 8 ( 過給一五〇〇 九〇四年のバンダービルド・カップ・レース 8 ) フォーミュラが施行され、イギリスのロー プラバム Brabham 、 ( アメリカ ) で初めて用いられ、第一回フランタス、、クー ス自動車クラブ・グランプリ・レースにも適用マクラーレン McLaren 、ティレル TyreII 、 されたのは、車両重量一〇〇〇キ。グラム以下とマーチ March 、ウィリアムズ Williams 、フ いうものであった。重さを制限すれば、大きな ランスのリジェ Ligier 、イタリアのフェラー エンジンは積めないだろうと考えられたのであ アルフア・ロメオ、日本のホンダなどが活 る。以後フォーミュラ・レースとグランプリ・ 躍している。七七年にはフランスのルノーがタ レースは同義語になって今日に至っている。 ーポチャージャー付き一五〇〇 8 のマシーンで しかし一つのフォーミュラを決めると、人々 フォーミュラ 1 (æ—) に挑戦、かなりの戦力 はその範囲内でふたたび安全限界を超えるほどをみせたところから、しだいにターポチャージ 強力で速い車をつくりあげてしまう。したがっ ャー付き一五〇〇 8 に転向するチームが増え、 てまたフォーミュラを強化する、車が速くな 八六年からははそれのみになり、三〇〇〇 る、というぐあいで、自動車は規則と技術の果 8 は廃止された。 てしない追いかけっこによって発達してきたと 〔ワールド・ドライバーズ・チャンピオンシッ いってよい プの誕生〕一九五一年、得点制 ( 一位九点、以 〔グランプリ・レーサー〕各時代に活躍したお下六、四、三、 一一、一点 ) で年間最多得点ドラ もなグランプリ・レーサーとしては、一九〇〇イハーに与えるワールド・ドライバーズ・チャ 年代から一〇年代にかけてフランスのルノー ンピオンシップの制度が発足した。ドライバ Renault 、プジョー Peugeot 、イタリアのフでは八五年までの三五年間に、五回 ( 一九五一、五四 ィアット Fiat 、ドイツのメルセデス Mercedes ~ 五七 ) チャンピオンになったアルゼンチンのジ などがあった。二〇年代の前半には、アメリカュアン・マニュエル・ファンジオが最多で、三 のデ = ーセンバーグ D = 。。 = 0 。「 g 、フランス回のオーストラリアのジャ「ク・プラバム ( 一〈 のバロー Ballot 、フィアット、メルセデスな五九、六 0 、六六 ) 、イギリスのジャッキー・スチュ
しゃんふ 25 0 50 、 丿丿ンヌ号、 ュ ) ぐセンプレク戸 0km 1 : , 〇 00 じんあい 〈植田祐次〉 ー会員。 一ンヤンビ Djambi インドネシ 脂のほかに、大気中の塵埃がヘアスプレー、ヘ シャン。フ一フン Samuel de Champlain ア、スマトラ島南東部の都市テラナイアクリームなどに合成され、酸敗作用がおこっ ー一六三五 ) フランスの探検家。一六〇三 て不快な臭いや頭皮のかゆみも生じる。さらに プラの旧称。↓テラナイプラ 頭皮の皮脂腺をふさぐことによって、抜け毛の年、フランス王アンリ四世の派遣により、北ア シャンピ一一ョン champignon カ 本来は菌類またはキノコを意味す原因ともなるので、シャンプーは重要な意味をメリカのセント・ローレンス川流域の測量に赴 ど き、そこにフランスの北アメリカ植民地設立の るフランス語であるが、日本では欧米もってくる。 ん とる シャンプー剤として適当とされるのはアルコ可能性をみいだす。〇八年、現ケベック市に の栽培キノコであるマッシュルームだ とりで と けをさす。マッシュルームはセイヨウ ール系洗剤で、とくに天然のやし油などを原料砦を建設、以後一五〇年間にわたる植民地経 畑料 ・フランス にしたものがよいとされる。脂肪酸の汚れを効営の基礎を築いた。二七年にニュー ししいずれも ~ 三二年のイギリスによる占 プン俗称であり、正式の和名はツクリタケ果的に洗浄でき、必要以上の脱脂をしない性質総督となる。二八 るイ 領期を除き、ケ・ヘックで没するまで北アメリカ ~ ~ ・ーい、、ゞ、 - がワである。ックリタケの栽培法がフランをもっているから、といわれる。効果的なシャ に包スで開発されたこと、フランスが「料ンプーの方法としては、①。フラシで全体をとか大陸北部の探検とこの地におけるフランスの覇 ・フランスの父」 し、髪をよくぬらして櫛通りをよくして洗剤を権確立に尽力。彼は「ニュー し発理の国」であることなどから、マッシ 沿る 〈大原祐子〉 浸透させる。②汚れのひどいときは二度洗いをとよばれる。 れュルームと同様にシャンピニョンの語 する。③洗い流しはぬるま湯が効果的で、十分ジャンプル JlxaM6YJIZDzhambul ソ も日本では使われる。↓マッシュルー 〈今関六也〉 に行うこと。不十分だと洗剤が残り、そのまま連南部、カザフ共和国ジャンプル州の州都。タ の名ム 、近のンヤンプー shampooing 頭髪乾燥させると、ふけやかゆみ、抜け毛を引き起シケントの北東二五〇、。に位置し、タラス川の ネ を洗うこと。洗髪。毛髪や頭皮の汚れこすことがある。④洗い流したのち、リンス扇状地にあるオアシスの中心地。人口二九万八 ごルン ーマ毛、〇〇〇 ( 一九会 ) 。家畜の飼育・売買が行われて ペヤを洗い落として清潔にするだけでな ( すすぎ ) を行うこと。ヘアダイ毛、パ いたにすぎなかったが、ロシア革命 ( 一九一七 ) 手指によるマッサージ効果とし損傷毛の場合は、事前または事後にヘア・トリ ュ 後、化学工業 ( 過リン酸石灰 ) 、軽工業 ( 羊毛、 ートメントも忘れないこと。シャンプー剤に て、頭皮や毛根を刺激することによ り、血行を促し、毛髪の生育を助けるは、毛質の状況に応じて、油性、乾性、普通、皮革、ビール醸造 ) 、機械製造・修理工業が急 ことも重要な目的である。毛髪や頭皮損傷毛、ふけ防止など、タイプも用途別に分け速に発展した。中央アジア最大の製糖コンビナ ートもある。タラス Talas の名で七世紀には の汚れには、体内分泌物である汗や皮られているので、自分にあうものを使うのがよ 一二世紀にカラ・ハン朝 い。なお、シャンプーの回数は通常の人なら夏すでに知られ、一一 びようば オト・ 期で二日に一回、冬期は二 ~ 三日に一回が適当の都となった。当時の寺院や廟墓が現存してお り、建築史上でも貴重である。一九三六年まで 〈横田敏一〉 とされる。 アウリエ・アタ AYJIHe-ATaZAulie-Ata 、 ー五一一五ころ ) シャンファラー Shanfarä ( ? ~ 三八年はミルゾャン三 HP30 工 H \ M デ イスラム以前の古代アラビアの勇壮詩人。幼少九三六 のころ他部族に捕らえられて成人するが、のち zoyan といったが、カザフの民族詩人である ジャンプル・ジャパエフ羡 aM6 イ = 〈 a6aeB にこの部族の一〇〇人を殺すという誓いをた DzhambuI Dzhabaev ( 天四六 ー一九四五 ) を記念 て、死の直前になってこの誓いを果たしたと伝 〈山下脩二〉 して改称した。 えられる。古代アラブの武人の勇気と自由をた たえてタアッパタ・シャッランと並び称されシャンフルリー Champfleury ( 天一二ー る。各節の末尾がすべて / で終わる『ラーム韻兊 ) フランスの小説家。本名ジュール・ユソ 詩集』は、アラビア文学史の初期を飾る傑作でン Jules Husson 。ラン市の庶民的家庭に生ま 〈内記良一〉れる。一八四三年来。ハリでミュルジェールらい ある。 シャンフォール Chamfort ( 一七四 0 ー九四 ) わゆるポエーム bohéme ( 放浪芸術家 ) と交 わり、パントマイム脚本、美術批評で認めら フランスのモラリスト。本名はセバスチャン・ ロック・ニコラ Sébastien Roch Nic01as0 私れ、四七年、極貧画家の生活を写実的に描く 『シャン・カイユー』で若干の成功を得る。以 生児として生まれ、グラサン学院を出て戯曲な どを発表して成功を収めたが、彼の真価はモ一フ後、画家クールべを擁護し、写実主義運動の総 帥となるが、多く奇人変人を題材とし、文体も リストとして残した作品にある。大革命時代に 、。まかに発表 穏和派のかどで逮捕され、獄中で自らの体を切素朴、感傷的で今日は読まれなし。 り刻み、その傷がもとで死亡した。没後、彼の当時一〇万部発行した『モランシャールの市民 しんげん たち』 ( 一会五 ) など長編小説二〇編余。評論集 7 遺作は友人の手で『箴言と断想』『性格と逸話』 『ル・レアリスム』 ( 一会七 ) など。 ^ 斎藤一郎〉 と題されて一七九五年に刊行された。アカデミ ルヒ 20 。 アデヌ ア 工 ・レル・コレ シュイップ \ ヌノヤノ・マルヌ シンノ、 工 レ シャン / く一 セザン プバンゞ・・ . ン久ール .. , フラ シュル・セーヌ フ ショ / 、 バル シュル・フ・ : ・ ン サ ロ ン・ロランタ ングし オー ロブドウ栽培地域 ( 一五六七 ?
したが、 たといえよう。加えて、首都バリの改造とルー とりわけ一四六一年ルイ一一世の登位シャルレ ノ ( 二世 ) 0 カール ( 二世 ) もの理論の実践として小説『土地は彼らのもの』 が転回点となり、公家はアラスの和議で得たソ プル宮の造営は、シャルルの王権理念の物的表 シャルル ( 四世 ) Charles IV ( 一 = 九四ー一三 る ( 一〈巴 ) 、『フォンティル』 ( 一〈 ) を書いてい 象であった。 〈堀越孝一〉 る。一九三四年にモントリオール文学運動の中ンム川沿い諸都市の上級領主権を王家に収奪さ 一一 0 カペー朝最後のフランス王 ( 在位一三一一一一 ~ や ンヤレレ、 心となった文芸誌『ラ・ルレー。フ』を発刊。四れた。当時シャロレー伯であったシャルルは、 = 0 。美王 le 一といわれる。フィリップ四 ノ ( ~ / 世 ) Charles ミ ( 一三穴 じ 〇年にはケベック文学の出版社として知られる ここに公家家政の実権者として頭角を現し、反世の第三子で、兄フィリップ五世の後継者。財 llll) ハロア朝第四代のフランス王 ( 在位一一穴 0 アルプル社の創設にも参加した。 〈西本晃二〉王家路線を明白に打ち出すことになる。六四年政と司法の再建に尽力。その治世はイギリスの 一三八〇年、父シャルル五世の急死 には、ルイ一一世に反逆した諸侯の先頭にたプランタジネット家との緊張関係の強化によっ 〉ンヤルモ Jarmo イラク北東部、クルデ 彳に即位した。四人の叔父が後見についた。八 イスターンのキルクークの東方約六〇キ。にあるち 、。ハリ近郊で王車と戦い、軍事的指導者として特色づけられる。彼には世継ぎの男子がな 八年に親政に入ったが、四年後間欠的に狂気の だんがい 農耕村落遺跡。深い涸れ谷の断崖上にある。初ての名声を高めた ( 公益同盟戦争 ) 。六七年父 く、その死とともに直系カペー朝は断絶する。発作をおこすようになり、後見政治が復活。と ぎせつ 期定着農耕時代に比定されるが、この調査によ 公を継いでのち、七二年の内戦に挫折してから新国王にはバロア朝のフィリップ六世 ( フィリ りわけ、叔父のバロア家系初代プルゴーニュ公 ひょく って農耕文明の起源についての問題が、「肥沃は、フランスの内政に対する関心を捨て、フラ ップ四世の甥 ) が選ばれるが、イギリス国王工 フィリップ、王弟ォルレアン公ルイの権力闘争 な三日月地帯」を中心としておこった。遺跡は が激しく、バイエルン・インゴルシュタット公 ンスとドイツとの間に独立国を建てる方向に決 ドワード三世 ( フィリップ四世の娘イザベルと ハビエールの存在 一六層が検出され、住居址から約二〇〇人の人定的に歩み出す。アルザス、ロレーヌ、フリ エドワード二世との子 ) は、これに異議を申し家出身の王妃イザポー・ド・ ロであったことが推定される。小麦、ヒッジ、ヤスラントと支配地を広げたところで、ドイツ神立てた。男系親による王位継承の原則は貫かれも絡んで、政情は混迷し、アルマニャック派と ギなどの遺物とともに、床面を掘りくばめた穀聖ローマ皇帝に対し「王号」を要求した。ルイ たものの、この事件は百年戦争を誘発する結果プルゴーニュ派との抗争のうちに、一四一五年 〈井上泰男〉 物の貯蔵庫とみられるものも発見され、後期に イングランド王ヘンリー五世の北フランス出兵 一一世は、公家の独立を阻止しようと権謀術数となった。 はかまども発見されている。付近から産出しなの限りを尽くしてシャルル包囲陣をつくる。シ シャルル ( 五世 ) CharIes V ( 一三三七ー八 0 ) をみる。政局は、プルゴーニュ公の主導のうち に推移し、二〇年トロア条約によりフランス王 い黒曜石が用いられているので、各地との交易ャルルの頼んだイングランド王家もルイに買収 ハロア朝第三代のフランス王 ( 在位一三六四 ~ も考えられる。木製の柄にナイフを詰めて鎌と され、スイスもルイの側について、孤立したシあだ名は賢王 le Sage0 王家の歴史を軸にフ家はイングランド王家と和し、一三年、シャル ようへい いーヒっす ル、ついでヘンリーの死後、両王家は合同し したものや石臼などがあるため、現在では定着ャルルは七七年、ロレーヌ公のスイス人傭兵隊ランス史を考える場合、彼は王政の組織者とし 農耕文化の最古のものであるとみられている。 た。王妃イザポーとの間に三男四女をもうけた とナンシーに戦って敗死した。一四五七年、プて特筆に値する。祖父フィリップ六世の治世末 が、男子二人は早世し、末息シャルルはアルマ ジャルモ式彩文土器とよばれる特徴ある良質の ルポン家のイサベルの腹に生まれたひとり娘マ年と父ジャン ( 二世 ) の時代、フランス王政は リアは、ここに公家家督を相続し、フランド 土器が出土し、赤色磨研土器も出ている。発掘 ニャック派に加担して廃嫡され、ヘンリー五世 いわば難破船であった。一三五六年ボアチェの 者のシカゴ大学の。フレイドウッドは年代につい に嫁した女子力トリーヌが生んだヘンリーが家 ル、ネーデルラント諸邦の支持の下に、ハプス戦いにイングランド王家の捕虜となった父王の て、℃の測定のなかから紀元前六七五〇年を選プルク家のマクシミリアンと結婚し、公家をハ 〈堀越孝一〉 名代として、エチェンヌ・マルセルの乱、ジャ督を相続する形となった。 て六〇年、イングラ んでいるが、疑問は残っている。〈糸賀昌昭〉プス・フルク家に接ぎ木して、からくも公家北方クリーの乱を収拾し、続い シャルル ( 七世 ) Charles VII ( 一四 0 三ー 〈堀越孝一〉 シャルモン Josef Charmont ( 一会九ー一九領国を保全した。 ンド王家とプレチニー・カレーの和約を結ん ハロア朝第五代のフランス王 ( 在位一四 = 一一 ~ 六一 ) 。 一一 = ) フランスの法学者。モンペリエ大学で民シャルル Jacques ・ Alexandre ・ César Char- だ。アンジューープランタジネット王家の旧大母はバイエルン公家のイザポー。兄二人が早世 les ( 一七四六ー 法学を講義。『自然法の再生』ご、 e きを 一全三 ) フランスの物理学者。ポ陸領土の返還の約束と引き換えに、エドワード し、王太子号をとったが、一四一九年、アルマ droit き、ミミ ( 一九一 0 ) の著者として知られ ージェンシー生まれ。初めパリで役人をしてい 三世にフランス王位請求権の放棄を認めさせた ニャック派の陰謀に加担して、プルゴーニュ公 る。彼はこの著書において、法の危機を訴え、 た。三三歳のときフランクリンに出会い、実験この条約は、まさに「賢王」シャルルの外交的ジャンを殺害し、王太子号を奪われた。二〇年 その危機は法の理想を軽視する当時の歴史学物理学の勉強を始めた。一七八二年以降、機械勝利であった。 トロア条約で、父シャルル六世はイングランド 派、実証学派に由来するとして、新しい法的理技師ロべール兄弟とともに気球製作にとりかか 一三六四年、虜囚の地で没した父王を継いだ王家と和解し、一三年、父王の死後「イングラ 想主義Ⅱ自然法を再生させなければならないと り、当時、熱気球の研究をしていたモンゴルフ シャルルは、王政の立て直しを図った。財政に ンドとフランスの王」を名のる幼王ヘンリー 説く。もっとも、その自然法は、中世、近世をイエ兄弟に対して、水素気球方式で開発を競おける三大収税体系、すなわち、諸団体に課す ( シャルルの姉カトリーヌの子 ) が立った。北 し八三年九月モンゴルフィエが成功し、シャ 一般税 ( タイユ ) 、都市の援助金 ( エード ) 、塩フランスはイングランド王家の軍勢と、その同 通じて唱えられた超歴史的、永久不変の自然法 ではなく、限られた時代、空間における理想の ルルらは同年一二月一日、「四〇万人の群衆の の専売収益 ( ガベル ) を整備した。戦争会計を盟者・フルゴーニュ公家の勢力下に置かれ、シャ 法といったものである。このような思想は、一 前で」飛行に成功した。この成功により以後の切り離し、不時の支出に備えて「王の金庫」をルルはロアール河畔に臨時政府をたてた。「プ 九世紀末からヨーロッパに盛んとなり、新自然気球は水素方式が主流となった。彼はまた気体置き、下級身分から人材を登用し、王家官僚の ールジュの痴れ王」の伝説には根拠がなく、彼 法思想とよばれたが、この著書はその運動に大の熱膨張に関する「シャルルの法則」でも知ら系譜を後代に残した。封建家臣や親族に頼ら は冷静に反攻の機会をうかがっていた。プルゴ ーニュ公フィリップ二世との和解がシャルルの きな貢献をした。主著にははかに『私法変遷れる。「気体は一定圧力のもとでは温度に比例ず、専門家集団に王政をゆだねる発想であっ ようへい かなめ 論』ご、きこミミ d き ~ 、ミ (一九 lll) してその体積を増加する」というもので、一七た。また、傭兵を主とする王の常備軍を編成戦略の要にあり、そのことは三五年アラスの和 〈高橋康之〉 これはのちにゲイ・リ がある。 八七年にみいだしたが、 し、下級身分から登用した将官ベルトラン・デ約に実現された。そこに至る過程に、ジャン ハロア家ュサックにより確立されたため、ゲイ・リュサュ・ゲクラン Bertrand Du Guesclin ( 一三一一 0 ? ヌ・、ダルクの参加したオルレアンの戦い、ラン 、ンヤルル CharIes ( 一四三一一一ー七七 ) たいかん ックの法則ともいわれ、ポイルの法則とあわ 系。フルゴーニュ公家第四代当主 ( 一四六七 ~ 七七 ) 。 〈 0 ) にこれを預け、六九年に再開された戦争スにおける戴冠が位置する。三六年、首都バ 母はポルトガル王女イサベル。父フィリップ公せ、ポイルーシャルルの法則としても知られ において、失地の回復を図った。、、 ノヤルルの改を回復したシャルルは、ノルマンディー、ギュ る。↓ポイルーシャルルの法則 〈高山進〉革は、封建王政を絶対王政につなぐものであっ の晩年、フランス王家との関係はしだいに悪化 イエンヌ方面でイングランド勢力に対処する一 408
0 じてんし 自転車 ① ② ③ ①ほとんどが木製のドライジーネ。サドル前部に胸あてが ある。地面を足で蹴って走行した ( 1810 年代 , 復原品 ) ②マクミラン型自転車。後輪駆動装置により , 初めて走行 中に両足が地面から離れた ( 1839 年 ) ③前輪にペダルを取り付けたミショウ型自転車。車輪は木 製である ( 1860 年代 ) ④前・後輪のサイズが極端に違うオーディナリ型自転車 ⑤オーディナリ型の乗車の光景 ( 1870 年代 ) ⑥チェーン駆動装置のコペントリー型三輪自転車 ( 1880 年ころ ) ⑦後輪へのチェーン駆動機構 , ばね付きサドルなどを備え たセーフティ ( 安全 ) 型自転車 ( 1880 年ころ ) ⑧ 1900 年代初めのフランスの自転車宣伝ポスター ④ ⑤ ⑥ GR ド ON 40 ouisB 師 0 町 必然的に前輪が大きくなってしまい、オール ド・オーディナリとよばれる前輪の直径が六〇 インチ ( 約一・五一一 ) にも達する自転車が生 まれている。オーディナリ型の自転車時代に は、速度を増加させるためにクランクの有効長 を調節することによって、前輪をクランク軸の 二倍の速さで回すくふうがされたり、車輪軸に ポールべアリングを使用したり、前輪にギアを 取り付け、前輪軸より下方のクランク軸との間 をチェーンで結び増速する方法がとられてい る。このギア付きオーディナリ型自転車は、安 全型自転車出現への足掛りともなっている。 レオナルド・ダ・ビンチによるチェーンと歯 車を組み合わせた後輪駆動の原理は、一八二九 年フランス人ガル André Galle によって再発 見され、荷重伝達用チェーンとして使われてい る。後輪へのチェーン駆動機構が実際に自転車 に取り入れられたのは、七九年イギリスのロウ ソン Harry J. Lawson が自転車の生産を始 めてからである。しかし、切れやすいチェーン が自転車の共通の悩みでもあった。このため自 やきん 転車製造業者は冶金学者らと協力して新しい材 料を開発、切れない自転車用チェーンの量産は さまざまの機械の発展に貢献し、やがて自動車 の伝動機構としても利用されることとなる。 チェーン伝動が自転車の駆動装置として定着 し始めるとともに、人力を有効に利用するため の変速ギアが開発されている。変速ギアは道路 条件や風の影響などの環境条件の変化のなか で、乗り手が自己の体力の状態にあわせてペダ ルの踏力や速さをあまり変えることなく、ギア の比率を変えることによって人力を効率よく推 進力に変える装置である。走行中の状況に応じ てギア比を変える着想は、自転車にチェーン伝 動が取り入れられ始めたころからあり、世界で 初めての変速ギアは、一 八六八年、フランスで 発表されたレトロ・ダイレクト retro-direct 型式の逆転ペダル型のもので、この型式の変速 ギアは一九〇〇年以降に市販されている。その 後、変速装置はフランスとイギリスでさまざま の考案がされており、変速ハ。フ機構の内装変速 装置はイギリスで、ディレラーに代表される外 装変速装置はフランスを中心とするヨーロツ。ハ 大陸で開発され、今日に及んでいる。 〔自転車と人体の接点〕自転車は、フレーム、 ハンドル、前後輪、ペダルやチェーンなどの駆 動装置およびサドルなどで構成されるが、これ 14
じゃんぬ ら、シャルルに味方している。ロ・ヘールがジャ 的となり、あらゆるアイロニーに満ちたものに ノヤンデリアの基本形式はさしシャン・ド・マルスの虐殺ーーのぎやく 導入されたが、ヾ ンヌにつけてやった数人の護衛のうちには、王 さっ Massacre de Champ ・ de ・ Mars フ変わり、博識によって百科全書派的啓蒙主義の て変わらず、とくに劇場、ホテル、宴会場な きゅうしゃ ランス革命期の人民弾圧事件。一七九一年六月一面も示した。中世の物語文学に転機を画し太子の厩舎掛の職名をもつものもいた。いす ど、娯楽性や趣味性の強い大空間の照明に大き リこノヤンヌに関する情 〈神沢栄三〉れにせよ、王太子が事前し、、 た。↓ばら物語 ^ 友部直〉の国王ルイ一六世のバレンヌ逃亡事件ののち、 な役割を果たしている。 0 レリー 報を入手していたことは確かである。 憲法制定議会を支配するフィャン派は、立憲王ジャン・ド・レリー シャンデルナゴル <> チャンデルナゴル ぶんろ 戦局の焦点は、一四二九年のロアール川中流 制を守るため、憲法の規定を若干後退させて国ジャンドロン Maurice Gendron ( 一九 = 0 シャント <> 分路 スワトウ のオルレアン市攻防にあった。ここを落とせ ) フランスのチェロ奏者。ニース生まれ。 シャントー 王に承認させ、国王を無罪放免しようとした。 0 汕頭 ハリ音楽院を首席で卒業、プラードでカザルスば、イギリス軍はノルマンディーとギュイエン これに対し共和主義者は国王の廃位を求める大 シャン・ド・マルス le Champ-de ・ の教えも受けた。独奏と室内楽の両分野で活ヌという二つの占領地域をつなぐことができ Mars フランスの首都バリ西部の広場。軍神衆請願運動を組織、七月一七日バリ西部のシャ マルスの原 ( 練兵場 ) の意。北はセーヌ川左岸ン・ド・マルス ( もと陸軍士官学校の練兵場。動、しだいに頭角を現し、フランスの代表的なる。王太子としては、ここで敗北すればロアー に面してエッフェル塔が建ち、セーヌ川のイエ革命期には公私の大集会用の広場 ) で大衆の署チェロ奏者の一人となる。一九六九年 ( 昭和四ル川流域からさらに南に撤退しなければならな そういう存亡の危機に立たされた王太子の ナ橋を挟んでシャイヨー宮と対する。南はエコ名を求めることにした。これに対し司令官ラフ四 ) 初来日。技巧的に多少弱いところを残して いるが、チェロを華やかに歌わせ、楽趣を盛り上もとに、王太子を救えという神の命令を受けた ール・ミリテール ( 士官学校 ) に至る。かってアイエットの指揮する国民衛兵隊が無警告で発 と称する女が現れた。王太子は、この女ジャン ホ砲し、死者五〇人を出し、この弾圧で民衆運動げてゆくうまさがある。七〇年以来バリ音楽院 はグルーネル Grenelle の野と称されたが、。、 ヌの志の誠実さを認め、オルレアンの守備隊に ンパドウール夫人の進言でルイ一五世により士は一時後退し、九月立憲王制を規定する「一七教授。近年は指揮も手がけている。〈岩井宏之〉 さんとう 参加させた。信仰の熱情にあふれ、慣行にとら ↓バレンヌ逃亡事シャントン ( 省 ) 0 山東 ( 省 ) 官学校が建設されてその練兵場となり、一七六九一年の憲法」が成立する。 き ~ んとうはんとう ーーはんとう 0 山東半島われない戦闘指揮をみせるジャンヌは、兵士た 〈樋口謹一〉 シャントン半島 五年に現在の地名となった。一七八〇 ~ 一八五件 やり ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc ( 一四ちの心をとらえた。ジャンヌの率いる槍小隊 ジャン・ド・マン Jean de Meung 七年には馬場として利用され、一七八三年には ー三 l) 一五世紀前半、イギリスのランは、日が暮れても戦闘をやめす、ついにイギリ 物理学者シャルルにより水素気球の飛行実験が ( 一一一四 0 ? ー一三 0 五 ) フランス中世の詩人、翻訳二 / とりで カスター王家が仕掛けてきた戦争 ( 後期百年戦ス軍が築いた砦の一つを落とした。これが戦況 行われた。一七九〇年七月一四日革命一周年記家。本名ジャン・ショピネル J. Chopinel 念の連盟祭、九四年国民議会によって宣一言されラテン作家の仏訳、二編の風刺詩、とりわけ争 ) の最中、神の命令を受けたと称して現れ、を大きく変えた。同年五月上旬、イギリス軍は 含 ) がある。寓意的手フランスのバロア王家を支援したロレーヌ出身ォルレアンから撤退した。ォルレアンの戦いの 『ばら物語後編』 ( 一一一七五 ~ た国家宗教の祭典エートル・シュープレーム祭 のち、ジャンヌはランスでのシャルル ( 七世 ) の女。二年後、異端として殺された。 の舞台となり、また、たびたび万国博覧会会場法による優雅な恋愛術の物語であったギョー たいかん 今日われわれのみるジャンヌ・ダルクは、国の戴冠式に列席し、北フランス諸都市を歴訪す ム・ド・ロリス Guillaume de Lorris ( 一 = 8 一会九、一九 00 ) 。ェッフ となった ( 天六七、天大、 / ロア王家の「神の証人」 エル塔は一八八九年の万国博覧会の際に建設さ / 一 = 一 0 ー岩 = ろ ) の『ばら物語』は、マンの自然民国家意識の高揚した一九世紀のフランス人のる「王の巡行」に、ヾ 〈高橋正〉哲学・脱神秘化の試みにより一貫して反ロリスみたジャンヌ像であり、国家主義的、王党派的として、華麗な衣装を身にまとって同行した。 れた。 見方に貫かれている。ジャンヌ関係の根本史料ジャンヌの生涯の、これが華であった。 〔異端にして聖女〕翌一四三〇年五月、ジャン は、ルーアンの宗教裁判記録を第一とするが、 ヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で、プル 一九世紀中葉の活字本には多々不備があり、一 みのしろきん 九六〇年代に入り、新たに校訂本の刊行が開始ゴーニュ方の車勢に捕らえられた。身代金はイ された。ジャンヌ研究は、いまようやくにしてギリス王が支払い、ジャンヌはノルマンディー のルーアン城に留置された。シャルルは沈黙を 始まったところである。 守っていた。パ丿 ー大学神学部は、ジャンヌに異 〔ォルレアンの戦い〕ロレーヌの生村ドンレミ ( 現在ポージュ県ドンレミ・ラ・ピュセル村 ) 端の嫌疑をかけ、フランス王国宗教裁判官によ る宗教裁判を要求し、イギリス王家側もこれに を出て、一四二九年二月初め、王太子シャルル が本陣を置くシノン城市に姿を現すまでのジャ同意し、法廷に身柄を引き渡した。裁判は、三 第幸、、 ~ なンヌの動静には、不明な点が多い。近在の城市一年一一月二一日を初日として一四回の審理を重 リのねた。教会の聖職者の仲介を経す、直接神的存 ポークールールの守備隊長ロペールは、パ ーニュのショーモン代官職在に接触したと主張すること、異端嫌疑の根拠 王政府からシャンパ はここにあった。「地上の教会」の組織原理が、 ) , 淑′、・ : 一を預かる叔父の代理を務め、ドンレミ村の裁判 領主である。ジャンヌの父ジャコは、村の代訴一少女の純な信仰によって試されている。宗教 人として口べールの法廷に出たこともある村の裁判官の審問は、ジャンヌの主張が、日ごろ目 にする神的存在の画像に触発された心理的錯覚 有力者である。娘のジャンヌは、ロべールを頼 に出ることを論証することに的を絞っている。 った。ロべールは、形式上はあくまで王太子シ ャルルと敵対しているパリの王政府 ( イギリスもし、これを少女が認めれば、少女の罪は聖像 とフランスの王を称する幼王ヘンリー六世の摂崇敬という信仰の迷いにほかならず、異端の嫌 3 政ペドフォードの政府 ) の役人でありなが疑は消える。法廷は、ジャンヌの魂と肉体を救 4 ジャンヌ・ダルク 〔上〕甲冑に身を固めた肖像。 詩集の写本飾り絵として描か れたものと推定され , 信頼の おけるジャンヌ像といわれる。 バリ国立公文書館 〔下〕シノン城に到着する馬上 のジャンメ・ダルク。 1429 年 , フランス王太子シャルルの本 陣に姿を現したときの場面を 描いた同時代の綴織。オルレ アン美術館 一ん 0
じどうし 1900 1925 一九 8 ・ロコモービル蒸気自動車会社設立、輸出が始まる ( アメリカ ) ・パッカード社、舵棒のかわりにハンドルを使用 ( アメリカ ) 一九 0 一・ダイムラー社、円ハンドル、車軸をよけてカープしたフレーム、 半格円板ばねの足回り、蜂の巣状のラジェーターを装備した近 代的なメルセデス車を完成 ( ドイツ ) ・ルノー社、クローズド・ボディーとエンジン・ポンネット、ラ ジェーター・グリルを組み合わせたデサインを採用 ( フランス ) ・スタンレー社、蒸気自動車で時速一二〇。を記録 ( アメリカ ) ・オールズモビル社、カーブド・ダッシュ車を四二五台生産し、 史上初の量産車となる ( アメリカ ) 一九 0 = ・セルポレ、蒸気自動車で時速一二〇キ。を記録 ( フランス ) ・スパイカー兄弟、世界初の四輪駆動乗用車を製作 ( オランダ ) 一九 0 一 = ・オールズモビル社、初めてスピードメーターを装着 ( アメリカ ) ・フォード、フォード自動車会社を設立 ( アメリカ ) 一九 0 四・ウィリアム・・バンダービルト、アメリカ初の自動車レース をニューヨークで開催、ジョージ・ヒースが優勝 ( アメリカ ) 一九望・フォード社、イグニッション・キー付きの型を発売 ( アメリ カ ) 一九 0 六・第一回フランス・グランプリがル・マンの公道を閉鎖したサー キット ( 周回路 ) レースとして開催され、四気筒、一 一〇五馬力のルノーが二日間で一二四八キ。を平均時速一〇一キ で走り優勝した ( フランス ) ・スタンレー社、蒸気自動車で時速一九五・七二キ。を記録 ( アメ リカ ) 一九 0 〈・フォード社、型の製造を開始、ハンドルの位置が左となる 一空 0 ・ド・ディオン・プートン、 > 型八気筒エンジンを完成 ( フラン一」第′ 一九 = ・キャデラック社、電気式スターター・モーターを採用 ( アメリ カ ) ・オールズモビル社、車体前部に安全のためのバンパーを装着 ークの新エ場で流れ作 一九一 = 一・フォード社、ミシガン州ハイランド・ 業による大量生産を始める ( アメリカ ) ッドライトを採用 ( アメリカ ) 四・キャデラック社、電灯式へ ・ナイト社、手動式ワイ。ハーを開発 ( アメリカ ) 一九毛・シトローエン社、現在のものと同し鋼板プレスのディスクホイ . ールを採用 ( フランス ) 一九天・ダ . ッジ社、オール・スチール製ボディーの量産車を発表 ( アメ リカ ) 一九一九・ダイムラー社、飛行機用エンジンで実用化されたスー ージャーを自動車に流用する実験を開始 ( ドイツ ) ーチャージャーを採用 ( ドイツ ) 一九一一 0 ・ダ . イムラー社、スー 一九一三・シトローエン社、八五五 3 、一〇馬力のライトカーを発表、 小型大衆車プームを起こす ( フランス ) ・ランチア社、フレームを使わないモノコック構造のオープンカ ラムダ . 発表 ( イタリア ) 一空三・第一回ル・マン二四時間耐久レース開催、レガチェーレオナー ド組の一一一エンジン、シェルナー・ワルケール車が一三七二・ 九四マイルを平均時速五七・二マイルで走行し優勝 ( フランス ) 一九 = 五・デューセンバーグ社、四輪に効く油圧プレーキを採用 ( アメリ カ ) ーンを採 ・スタッツ社、合せガラスによる安全ウインドースクリ 用 ( アメリカ ) ・シポレー社、乗り心地向上のため低圧タイヤを採用 ( アメリカ ) ( アメリカ ) ( アメリカ ) を・ド心をマい 第 4 盟 シトローエン 5 cv( 1922 年 ) こ ( キャデラック・モデル 30 ( 1 91 1 年型 ) T 型フォード ( 1914 年型 ) 厚ーロ 000 年 ム 一フ ン ラ , / / 円太郎バス ( 1923 年 ) 日本 一九 8 ・アメリカン・トレーディング社、アメリカ製蒸気自動車ロコ . モ ビルを輸入 一九 0 = ・吉田真太郎と内山駒之助がアメリカから持ち帰ったガソリンエ ンジンを使った乗用車の試作に成功 ・吉田真太郎と内山駒之助が日本初の自動車メーカー、オートモ ビル商会を設立 ・オートモピル商会、広島より一二人乗りバスの製造を受注、ア メリカ製一八馬力ガソリンエンジンを使用した日本初のバスを 完成するが、タイヤに問題があり実用化できす 一九望・山羽虎夫、国産第一号の蒸気自動車を完成 一九皂・ダラック車 ( フランス ) を手本に東京自動車製作所が初の国産 ガソリン乗用車タクリー号を製作。正式には吉田式乗用車とい 、水平対向一一気筒一八五三 3 、一二馬力の国産工ンジンを搭 載 一九 = ・橋本増次郎が輸入車の組立て工場、快進社自動車工場を東京に 設立 一九一四・快進社自動車工場が乗用車、ダット号を製作 一九一六・九州の矢野倖一が試作したガソリンエンジン乗用車アロー号、 福岡県庁の車両検査に合格し自家用 c-v 六号として登録された 一九宅・フィアット・ ゼーロ ( イタリア ) を手本に三菱造船神戸造船所 が三菱型乗用車を製作 一九入・軍用自動車保護法施行。自動車は軍事上も重要なため陸車の規 格にあったトラックに補助金を出すというもので、自動車工業 発展を促す初めての法律 一九一九・東京瓦斯電気工業がトラックを開発、この年第一号の 型が完成 ・簡便な実用車を生産する目的で、久保田篤次郎が大阪に実用自 動車製造を設立 一空 0 ・実用自動車製造がウィリアム・ゴーハムの設計でゴルハム式自 ッドライトを装備し、大量生産を前 動三輪車を製造。電気式へ 提とした ・石川島造船所がイギリスのウーズレー社と提携して乗用車ゥー ズレーを国産化 一九一三・関東大震災で麻痺した東京市の交通機関として型フォードの シャシー利用の円太郎バスを製作。翌二四年から市営バスとし て運行開始 一空五・円太郎バス用シャシーの大量注文を受けたフォード社は、極東 進出の拠点を上海から日本へ変更しフォード日本支社を設立、 横浜でノックダウン生産を開始 流れ作業による T 型フォードの生産 ( 1914 年 ) ダット号 1 号車 ( 1914 年 )
じどうし 1960 年代後半 , アメリカのフォード社は豊富な資金力を 自動車レース / 歴史 1906 年 6 月 26 日 , フランスのル・マンで行われた第 1 回ヒトラーは国威発揚の場を自動車レースにも求めた。写真は国家のもって , スポーッカー耐久レースに参入した。写真は , フランス・グランフリ。写真はスタート直前の優勝車ル援助を受けて走るメルセデス・ペンツ ( 1939 年ホー・グランフリ総合 2 位に入賞したフェラーリ p 4 を追走するフォード G T ( 1967 年ル・マン 24 時間レースフランス ) フランス ) ノー 3 A し uce デ : 、 ILERS MobiI 自動車レース / 現代 各国を転戦し , 年間 16 戦行われるフォーミュラ 1 グランフリ。 写真はモンテカルロの公道を閉鎖して繰り広げられるモナコ・グ ランフリで , 日本の本田技研もエンジンを提供している ( 1986 年 モナコ ) 願う。チャンピオンになったドライバーは、フがいるが、これは主客が転倒している。確かに プれ年 一わ跖 ットボール、ゴルフ、テニス、野球、ボクシン自動車レースは高回転で高出力のエンジン、軽 ル一丁 ( 戦 グ、レスリング、スキーなどのプロスポーツの グて ( 2 く空力的なボディー、接地性や操縦性に優れた けんが るしい第 チャンビオンたちと同等、あるいはそれ以上の懸架装置、強力なプレーキなどを生み出し、一 れ限高プ わ制か 人気とあこがれの的である。他のスポーツとは般の実用的な自動車の発達に大きく貢献してき 争を気シ て造人ン 異なって、つねに死と背中合わせなので、当然た。自動車レースがなかったら、われわれはい っ改くオ よのすヒ ながら収入は多く、優勝すればたいへんな資産まだに、もっと低性能で安全性の低い自動車の に車やン 家になる。↓レーシングカー 使用を強いられているに違いないしかしそれ 一販ちャ カ市もチ ス はあくまでも結果論であって、人々が自動車レ ローカルな自動車レースは自ら参加して楽し グ般を ースを行うのは、おもしろいからにほかならな ギむアマチュアスポーツだが、世界的な規模の大 , 近カ イ レースは、全世界の人々に大きな娯楽を与える ーノ—L 完全なプロスポーツである。したがって、それ〔自動車レースの誕生〕世界最初の自動車レー 型一めー 産レた一ン スが開催されたのは、ドイツのゴットリ 生 < るツニを開催することは、観客の入場料収入やテレビ ダイムラーが史上初の実用的な自動車 ( 本製一一 の放映権収入などを目的とする興行といってよ でイ 最近では一つのレースやレースシリーズに輪車 ) を完成してからわずか九年後の一八九四 ススド 商品名をつけてしまう、いわゆる冠大会も珍し年のことであった。この年、先見の明をもっピ 久フし くない。レーシングカーをつくり、走らせるの エール・ジファールが主筆を務めるフランスの 耐て勝 るけ優 は自動車会社の場合もあるが、多くは小規模な新聞『プティ・ジュルナル』の主催で、パリ れかで わにス プライベートチームで、レーシングカーの製作 ルーアン間一二六キ。で、自動車の速さと、信頼 争日一 費やドライバーの契約金、チームの運営費など性、実用性を競う競技会が開催された。同競技 て 1 レ っ月間 はスポンサーからの資金によってまかなわれ会の目的の一つは、自動車の原動機としてガソ よ 6 時 リンエンジン、蒸気機関、電気モーターなどが る。その結果多くのレーシングカーは商品の。ハ カ日マ ソケージの塗装を施されたり、たくさんの商品 それそれ優位性を主張するなかから、何がもっ とも理想的かを探し出すことにあった。結果は のステッカーを張られて、走る看板のようにな 一月丿 2 ホ 5 回 っている。自粛の申合せがあるのは、その性格フランスのド・ディオン伯爵の乗るド・ディオ ス年工 O 跖第シ 上アルコール類をスポンサーとすることだけでン・。フートン蒸気自動車が六時間を要して、平 フ円たル 一はれホ ある。また現代の自動車レースでは、勝敗に対均時速二一キ。で一着になった。しかし同車は操 かまたき ル真わの グ写行ッ するタイヤの寄与率が高く、タイヤ戦争とさえ縦士のほかに缶焚が必要で、簡便でないという いわれている。立場を変えれば、タイヤメーカので三等に落とされ、二着のパナール・ルバッ ( いすれもダイムラー ーにとっては絶好の宣伝の場であり、各社は樊ソールと三着のプジョー 大な予算を組み、優れたレーシングタイヤをつ特許のガソリンエンジンをもっ ) に一等賞金が くり、各チームに無償で供給している。それは分かち与えられた。。 カソリン自動車の優位性が スパークプラグ、バッテリーなどの電装品メー 立証されたわけで、ド・ディオン・。フートンも カーなどについても同様である。 まもなくガソリン自動車に転向する。 このように、現代の自動車レースは、商業主 自動車競技のおもしろさに魅せられた人々 義によって動かされる興行としてのプロスポー は、翌一八九五年にはパリーポルドー ツになりきっているが、それを支えているので初の本格的な自動車レースを開催したが、そ は、週末ともなれば世界中で無数に開催されるのためにド・ディオン伯やジファールらが組織 小規模なアマチュア・レースであることも否定したのが今日のフランス自動車クラブ (<O Autom0bile Club de France) である。同 できない。そして人々を自動車レースへと駆り 立てるものは、「速く走る機械があるから、そ時に今日の国際自動車連盟 (=—< Fédéra- れで競走しようとする」きわめて根源的な本能 tion lnternationale de I'Automobile) や国際 なのである。それは、実用的なガソリン自動車モータースポーツ連盟 Fédération が完成されてからわずか九年後には、早くも自 lnternationale du Sport Autom0bile) の祖 動車レースの芽が芽生えていることでも証明でもある。 ーマルセイユーパ その後も一八九六年のパ される。また、よく「自動車を発達させるため 、九九 、九八年パリーアムステルダムー に自動車レースが行われた」という論を説く人 だい