〈千々和到〉 いものであることから、その運用についても手が盛り上がった。 商業が一時革命的発展をみた。その後一五世紀力のビジネス・スクール business school ありのり 初めごろから開始される大航海時代に、クリス着目した森有礼は、福沢諭吉らの協力を得て、 形割引のような流動資産を中心に据えることが回上行寺東遺跡を考える会編・刊『中世の六浦 トバル・コロン ( コロン。フス ) による新大陸へ と上行寺東遺跡』 ( 一九会 ) 一八七五年 ( 明治八 ) 東京に商法講習所をおこ望ましいとされる。手形割引は、商業手形を銀 しようぎようしほん commercial の航路、バスコ・ダ・ガマのアフリカ南端回航 した。これに刺激されて、神戸や大阪など開港行券や預金通貨に手数料をとって変えるもので商業資本 による東洋への新航路などが開発された。その市を中心にして、公私立の商法講習所が設けらあることから、手形の期日が到来すれば自動的 capital HandeIskapital 資本主義の 結果、ヨーロッパでは、それまでの地中海およれた。 に銀行に資金が還流してくる健全な資金運用方もとでは、商業資本は、社会的総資本のうち流 び北海、バルト海を中心とする、主としてイタ 政府による商業教育は、工業や農業の教育よ法であり、自己流動性をもっているといえる。通過程にある産業資本が分離し、自立化した資 リア商人の活躍した商業圏が構造的に衰退し、 りも遅れて、一八八四年から本格化した。農商したがって銀行が流動性の高い預金を集めて、本である。産業資本の運動のなかには、流通資 セビーリヤ商人とカディス商人を主体とするス務省は商法講習所を直轄にして東京商業学校と これを自己流動性に基づいて運用することは銀本として絶えず商品形態に移行しようとする貨 ペインの新大陸日西インド貿易 ( 毛織物などのし、文部省は商業学校通則を公布した。その翌 行の健全性を一小すこととなり、このような考え幣資本と、貨幣形態になろうとする商品資本と ヨーロッパ産物と新大陸の銀との交換 ) と、ポ年、東京商業学校は文部省に移管され、それ以方を商業銀行主義とよんでいる。なお、わが国があり、流通過程の移行を行っている。流通過 ルトガルを中心とする東洋Ⅱ東インド貿易 ( 中降、文部省の実業教育法制などにより、高等おの普通銀行は、預金銀行ではあるが、定期預金 国の絹、東南アジアの香料、日本の銅・銀など よび中等の商業学校や商業補習学校などが整備の比率が高く、長期金融も行う兼営の形をとっ を主体とする半強制的貿易 ) がこれにかわっ された。 ており、厳密な意味での商業銀行とはいえな た。商圏が世界的規模に拡大され、約一世紀に 〈原司郎〉 。↓銀行↓普通銀行 第二次世界大戦中には、商業教育不要論が出 しょ , っギ、よ、つこ , っしんじよ mer- わたりイベリアの二国がその支配体制を確立すされ、男子の商業学校の多くは工業や農業の学商業興信所 る。一般にこれを商業革命とよぶが、新大陸か校に変えられたが、戦後において旧に復した。 cantile agency 企業や商工業者の営業状態、 ばくだい らの莫大な量に上る銀の流入は、スペインをは高等学校の職業科のなかでは、商業科がその数人物、経歴、世評などを依頼を受けて調査する じめヨーロッパに価格革命と称する物価騰貴をや生徒数においてもっとも多い。一九八四年機関。広く一般から依頼を受けて報酬を受け取 もたらし、中世末期まで栄えた南ドイツの銀山 ( 昭和五八 ) 現在、商業科の数は一〇七九で、 るものと、もつばら会員のために調査を行う会 は衰退し、ヨーロッパ商業資本の発展の陰に大二位の工業科の六八五を引き離し、生徒数は六員組織のものとがある。業務内容は次のごとく きな構造的変化をもたらした。やがてオラン五万三〇〇〇人に上っている。一九七八年に改である。①一般または会員からの依頼事項に ダ、イギリスの商業資本が主として東インド商定された学習指導要領では、五学科 ( 商業科、つき、敏速かっ秘密裏に調査をして回答する。 業圏に侵入し、さらには大英植民地帝国に代表経理科、事務科、情報処理科、営業科 ) からな ⑦倒産、支払い停止、不渡り、重要な訴訟提起 される帝国主義時代につながる先駆的役割を果り、一八の学科目のなかから選択して教育課程など取引に重要な影響を及ばす事件について、 たした。これを近代資本主義形成の一つの支柱を編成することになっている。 審問結果を待っことなく会員に警告する。③日 とする考え方もある。↓価格革命〈飯塚一郎〉 歴史的にみて、商業教育は私的な事業として報、週報、月報などにより諸種の情報を会員に しようぎようきよういく農業や工業出発したように、今日でも会計や計理などの各定期的に提供する。④信用情報を販売し、人名 商業教育 と並び、産業教育の一分野としての商業に関係種学校や専修学校が盛んである。高等学校の教録などを刊行する。⑤秘密情報を会員に閲覧さ ^ 森本三男〉 する教育をいう。狭義には、学校における商業育が時代の要請にどのように対応するか、女子せる、などである。 じよ , っギ、よ , つじひがしいせキ、横 教育、とくに高等学校の商業科の教育をさし、生徒の増加、商業に関心の薄い生徒の入学、大上行寺東遺跡 むつ、つら 広義には、大学における商学や経済学などの教学進学希望者の増加などにどのように対処する浜市金沢区六浦の中世遺跡。一九八四年 ( 昭和 育を含み、さらに広義には、各種学校や専修学か、解決すべき課題は多い。↓産業教育↓職五九 ) 、マンション建設の事前調査で発見され 校における商業実務関係の教育、企業や公共団業教育 〈三好信浩〉た。中世の鎌倉の重要な外港であった六浦の みなと 体の行う職業訓練なども含む。 しようぎようぎんこう commercial 湊を見下ろす凝灰岩の岩山にあり、四十数基 商業銀行 〔沿革〕日本では、貨幣経済の発達に伴って、 bank 短期の預金を集め、その資金を手形割の「やぐら」とよばれる中世の横穴墳墓群の存 でっち 商業の知識や技能を訓練するために丁椎とよば 引など短期に運用する銀行。イギリスで一八世在は以前から知られていたが、発掘の結果、頂 あみだ せつくつぶつ れた徒弟制度が発達した。商家では、家訓や家紀以降発達をみた金融機関で、長期金融や証券上部に阿弥陀とされる石窟仏を本尊とする「や 憲などを通して商人道徳が継承された。江戸中業務を兼営するユ一一バーザルバンクとしばしば ぐら」があり、その前面にお堂とみられる建物 まいがん 対比される。商業銀行は、典型的には、預金のと池とがつくられていたことが判明し、鎌倉 ~ 期になると、石田梅岩とその弟子たちによっ せきもん て、石門心学と称する商人道が提唱され、心学なかでも要求払預金 ( 通貨性預金 ) の取扱いを室町時代の寺院址、墳墓址として注目された。 講舎における道話を通して一般に普及した。ま中心とするところから、預金通貨の供給機関で従来、「やぐら」と建物とがセットになった例 は発見されておらず、「やぐら」の研究史を書 た、寺子屋では、商売往来などの往来物が手習あるともいえる。イギリスの商業銀行は要求払 き換える重要な遺跡として関心を集めた。横浜 いに使われ、そろばんの指導がなされた。↓石預金ないしは決済性預金のほか預金勘定 de ・ 、フ田梅岩↓石門心学 posit account 業務をも行っているが、これは市は、この遺跡について記した中世の文献がな いことなどを理由に、珍しくない遺跡として破 よ明治期に入っても、商業教育は民間の必要に七日間据え置き、以後前日の解約予告で払い戻 すことができる。預金がこのように流動性の高壊を決定したが、歴史研究者を中心に保存運動 し応じて、私的な事業として進められた。アメリ 上行寺東遺跡遺跡は上・中・下の 3 段からなっており , 写真は上段遺構である。岩山を削り平場を造成し , 西 ( 写真右方 ) に 阿弥陀とされる石仏と窟 , 南 ( 中央上方 ) に池 , 中央に建物柱穴などを , いすれも岩盤に刻み込んで残している 845
してい ④ ① しては空を背景にした山がよい。これらをあら に米粒大の堅果ができる。山地の森林内に、ほ 『三井寺』 ) 、前後まったく異なる人物の場合も かの木に混じって生えることが多い。北半球のかじめ図示 ( 夜間の目標も含め ) しておくと便 ある ( 例『船弁慶』 ) 。そのときも同一役者が 演ずるのが原則。シテは一曲一人であるが、と温帯や暖帯に約二〇種あり、日本には五種分布利である。 しめなわ 夜間は目標物として外灯や、建物の窓から見 に重要なツレを両ジテとして同格に扱う場合する。名は、果穂が垂れ下がる状態を、注連縄 たまぐし ふたりしずかせみまる もある ( 例『二人静』『蝉丸』 ) 。三役 ( ワキや玉串などに下げる四手に見立てたものであえる集光されない白色の電灯 ( 光度二五 ~ 一〇 はやし 〈菊沢喜八郎〉〇カンデラ程度 ) を選ぶ。さまざまな距離の電 方、囃子方、狂言方 ) に対するシテ方には、観る。 きた こんばるまうしよう 世・金春・宝生・金剛・喜多の五流がある。視程してい大気の濁りの程度を表す尺度灯のうち、ほとんど識別できなくなった電灯の 喜多流を除く四つの座は、江戸時代までは専属の一つ。気象視程ともいう。大気が清澄で遠方距離を求め、それとその電灯の光度 ( カンデ ラ ) とから図表を用いて視程を求める。この方 の三役を擁していた。明治以降は催しごとの自の山並みがよく見えるときは視程は五〇キ。メー 法を用いると、たとえ暗夜で一〇〇先が見え トル以上であり、霧がかかっているときは一キ。 由契約制となっている。シテのほか、ツレ・ト じうたい モ・子方などシテに従属する役、地謡方、後見メートル以下である。大気の濁りの程度を直接ない場合でも、大気の濁りぐあいに応じて視程 表す別の尺度として、光学器械を用いて客観的は一〇キ。メートルとか二〇キ。メートルという値 方、作り物の製作はシテ方の職責である。 〈大田正次〉 になる。↓視程計 に求めた「気象光学距離」と名づけられたもの ②狂言の主役。オモともいう。能のように独立 シティ CitY 0f London イギリスの首都 の職種ではなく、狂言方はシテにも相手役のアがある。視程はその目視観測に相当する。 ロンドンの中心部の一画。テムズ川の左岸 ( 北 〈増田正造〉 視程の観測結果は、気団の種類の判定、煙霧 ドにも扮する。 ①能の主役。仕手、為手。一曲のな シテ シデ〔四手〕 C ミき s カバノキ科のや霧などの濃さの判定などに使われる。実用的側 ) にある。ロンドン市長の直轄下に置かれた かで絶対的な重さをもっ演者であると同時に、 特別行政区域。面積約一一・七平方キ。、人口五八 には道路、鉄道、航空などにおける運行管理に 演出、監督の権限を有する。つねに現実の男性アカシデ、イヌシデ、クマシデなどクマシデ属 利用され、また近年には大気汚染の濃度の指標九三 ( 一九ハ D にすぎないが、歴史的にはロンド の総称。落葉高木または小高木。葉は互生し、 の役であるワキに対し、シテは女・老人・神・ きよし へり ふん ン発祥の地で、大英帝国全盛時代には世界の政 としても使用されている。 鬼・霊などにも扮し、能面をつける特権をも縁には鋸歯または重鋸歯があり、雌雄同株で、 治、経済の心臓部として栄えた。現在もニュー 視程は通常、目視観測で行われ、キロメート つ。前後二段に分かれ、シテがいったん楽屋な雌雄両花序ともに芽中で越冬し、春の開芽とと ル単位、近距離では一〇〇あるいは一〇単ヨークと並ぶ国際金融、保険、海運業の中心 どに退場 ( 中入 ) する能では、中入前を前シもに開く。雄花序は開花とともに垂れ下がる。 のち テ、中入後を後ジテとよぶ。同一人物が扮装を雌花序は枝先につき、熟すと垂れ下がって果穂位で表す。ただし目視観測では観測者の主観がで、昼間は六〇万を超えるビジネスマンや観光 改めて再登場するのが普通だが ( 例『井筒』となる。果穂には多くの包葉がっき、その基部入りやすいため、あまり細かい測定はできがた客が集まる。歴史は古いが、昔の建物はセン いので、表のような階級で表すこともあト・ポール大聖堂やギルドホールなどを除き、 る。なお空港の滑走路付近では透過率計大部分は一七世紀の大火や第二次世界大戦の空 などの光学器械を用いて観測することも襲によって消失した。第二次大戦後は近代的な ある。 ビルが林立して昔のおもかげはみられない。中 心部のバービカン地区は、再開発されて集合住 目視観測で得られた世界各地の観測値 を相互に比較できるように、視程観測の宅と音楽堂、劇場をもつ新しいシティの顔とな ^ 井内昇〉 った。↓ロンドン 」方法は国際的に次のように決められてい る。昼間は空を背景とした黒すんだ目標〔歴史〕狭義のシティは、右に説明された中心 物を選び、それが肉眼で識別できる最大部の一画をさすが、この地域の発展は、とくに の距離を観測する。目標物の大きさは、歴史的には広義のシティとしての中世自治都市 ロンドン全体とのかかわりが重要である。広義 視角が〇・五 ~ 五度程度とし、たとえば のシティの起源は、市域を画する城壁の築造と 一軒家、あまり大きくないビル、煙突、 木立群などが適している。遠方の目標と市参事会のもとでの自治特権の勅許に求められ よう。最古の城砦はローマ人の手になるが、 九世紀末アルフレッド大王がこれを再建し、の ちこの東側にウィリアム一世がロンドン塔を建 ててシティの守りを固めた。自治都市の特許状 表 11 ワ 4 ・ -0- -0 ・ -0 級É下 11 ワ】にゴ 階離以 ~ ~ 0 広戸 0 1-•-O -0- -0 -0- -0- -0 -0 -0 -0 視 11 ワ」 -4 ・ -0 -0 -0- 1 ワ ロ王 視 みいでら シデ① ~ ⑤果穂 ①サワシバ②イヌシデ③イワシデ ④アカシデ⑤クマシデ ⑥アカシデの花序。左が雌花序 , 右が 雄花序
じゅうた 住宅 / 歴史く西洋 > 監修 : 平井聖 使用人住居 厩舎・倉庫 馬車置場 室 中央ホール ホール 婦人部屋 所 台 浴室・便所 開廊 0 0 チ の 庭戸 中井 所 士ロ ニ = ロ の 番 園 庭 中庭 井 広間 中庭 寝室寝室 広間 ②古代ギリシアの住宅 B ℃ . 7 世紀ころの住宅の復原予 想図ディストスエウポ イア 客問 婦人部屋 穀物貯蔵所 ホール 小神殿 商用門 ①古代エジプトの住宅第 18 王朝 ( B ℃ .14 世紀 ) , テル・ 工ル・アマルナの貴族階級の住宅 士ロ ニ - 一口 の 食堂 アトリウム ( 中庭 ) 庭 ス ク 所工 台オ びフ一 - ニ一 7 室 店 店 店 ソーラー ④マナハウス 12 世紀イギリスの荘園 領主の住宅 ( キング・ジョンの家 ) 。 防御的な意味から , 生活部分をすへ て 2 階にとり , 1 階を納屋 , 家畜舎 などとしている ペリスタイル ( 列柱のある中庭 ) タブリヌム ( 書斎 ) ③古代ローマの住宅「バンサ将軍の家」アトリウ ム , ペリスタイルとよばれる中庭の周りに部屋を 配した , 富裕階級の邸宅 A. D. 1 世紀ポンペイ 店 貯蔵庫 屋 屋 畜納 家 店 店 2 階 マナハウスの現存遺構はほとんどなく、遺跡が伝えられて引 いるだけであるが、多くの場合周囲の壁は厚い石積みで、二 階の床を石造のポールトあるいは木造の梁で支え、小屋組み は木造のトラスであったと考えられている。ホールなど居室 の壁は、時代が下ると壁掛けなどで飾るようになった。屋根 ふ は石板あるいはシングル ( 木の薄い板 ) あるいは草で葺いて いたのであろう。また各地にみられる中世の城郭遺跡も、そ の居住部分は原則的にマナハウスと同じである。 一五〇〇年ころになると、イタリアのベネチアにある総督 宮、イギリスのランカシャーにあるラフォード・オールド・ ホール、同じくダービーシャーのハッドン・ホール、フラン スのアビニョンにある教皇庁などの遺構が残っている。 〔近世〕一五世紀のイタリアに始まるルネサンスは、イタリ ア各地に点在する都市国家の一つであったフィレンツェに始 まった。フィレンツェは豪商メディチ家、パッツィ家などを 中心に繁栄し、市街地は市役所に相当する共同体の建物であ るパラツツオ・べッキオとキリスト教の大会堂サンタ・マリ ア・デル・フィオーレを中心としている。そして、パラツツ オとよばれる豪商たちの住宅が都市の中に点在していた。 ルネサンス建築の特色は、安定した比例、均衡と調和をも った古典的な静的な美しさにある。それまで建築をつくるの は、石を積む職人であり、木工にあたる大工であった。そし てその職人が意匠にかかわり、施主の意向をくんで形をつく りだしていた。このような建築と違ってルネサンスの建築 は、職人のつくった構造の表面に仕上げを施すという形でル ネサンス建築のもっ特色である比例・均衡・調和を求めてい る。そして、意匠の基本的な要素は古代ローマの建築にあっ たから、石を積む技術あるいは大工の技術よりも、美に対す ぞうけい る鋭い感覚と古代ローマ建築に対する深い造詣が必要であっ た。そのために建築の意匠にかかわる建築家が生まれ、画 家、彫刻家あるいは文学を職とする人々が建築に携わること っ ) よっこ。 イタリアの都市住宅は、通常三階建てで、道路に面して敷 地いつばいに建ち、中庭をとっている。壁面は石造で、屋根 、つなない は見えないほど緩い勾配である。したがって、道路に面する 平面的な方形の壁面が、意匠の対象にされている。たとえ ば、フィレンツェの代表的な住宅であるメディチ家の。ハラッ ツオ・リッカルディでは、壁面の石の仕上げを一階は荒々し くして、さらに目地をくばませ、二階は平らな仕上げとして 目地だけくばませ、三階は目地もわからないようにまったく 平滑に仕上げている。すなわち、下ほど力強く、上ほど繊細
まいらど あかり れるのは、古墳時代の一般の住居の多くが平地住居になって にしていたと考えられている。正倉院に伝えられている古文部分に蔀戸を吊るほかは、柱間ごとに舞良戸二枚と明障子一 いたときに、竪穴住居が権力と結び付いた祭祀の場であった書でも、当時の住宅の主屋には板床が張られていたことが記枚を組み合わせて用いている。内部は、機能の上から大きく ふすま わら ことを物語っている。このように、先史時代の建物もその姿録されている。その他の建物には床はなく、土間に藁などを南北に分けられ、さらにそれそれを襖障子で間仕切りしてい つわのごしょ る。南は中央を主室とする接客、対面の場で、北は常御所、 に象徴的な意味をもっていたが、日本において本格的に建築敷いて生活していたと考えられる。 がつくられるようになったのは、朝鮮半島を経て中国大陸か 〔平安時代〕初期の住宅は記録も少なく、遺構はまったくな帳台の間などからなる生活の場であった。会所は和漢の詩 ら仏教建築や宮殿建築が伝わってからのことと考えるべきで 歌、楽、茶などで遊ぶための建物で、会のときには、大陸か いが、近年平安京の中心部から遺跡が発掘されて、ようやく あろう。 手掛りが得られるようになった。なかばを過ぎれば、記録やら渡来した絵画や道具などを飾った。 〔古墳時代〕住宅建築が明確に記念的な性格をもつようにな生活を主題にした文学が多くなり、断片的ではあるが住宅の 柱は角柱を用いるようになり、しだいに畳を敷き詰めた部 るのは、支配階層が確立した古墳時代からである。古墳時代主要部分が組み立てられるようになる。末期になると、絵巻屋が多くなっている。また、天井を張るのが普通になった。 だしふづくえ つけしよいん に墳墓に収められた埴輪のなかには、棟の飾りをことさら強物などに描かれるようになって、具体的な姿を知ることがでおもな部屋には、押板床、違い棚、出文机 ( 後の付書院 ) 、 ちゃうすやま 調した竪穴住居をはじめ、茶臼山古墳 ( 群馬県 ) 出土の埴輪きるようになる。 上段が、必要に応じて設けられるようになった。 屋群のように一群になった複数の埴輪があって、支配階層の 平安時代の藤原氏を中心とする公家貴族住宅は寝殿造とよ〔近世〕戦国時代を経て世の中がしだいに治まってくるにつ たいのや 住宅の規模をうかがうことができる。また、茶臼山古墳出土ばれ、中心に建てられた寝殿の東西あるいは北にも対屋を配 れて、武将の格式によってさまざまな対応の関係が生まれる の埴輪屋群のなかには、特別に棟飾りをつけた主屋と考えら し、寝殿と対屋の間を廊でつないでいた。東西の対屋から廊ことになり、屋敷を構成する主要な建物の数が増え、また屋 れるものがあって、主人の使う建物だけ特別であったことをが南に延びる。この廊は途中に中門があるので中門廊とよば敷に詰める武士の数も多かったので、中世の武家屋敷に比べ 表現していると考えられる。 れていた。寝殿の南には寝殿と中門廊で囲まれた平らな南庭て、台所、長屋、倉庫などの付属屋も増えている。とくに江 さみだ かんえい 佐味田宝塚古墳 ( 奈良県 ) から出土した家屋文鏡には、二があり、そのさらに南に中島をもっ池をつくる。中門に相対戸時代の初期、寛永 ( 一六一一四 ~ 四四 ) のころには、幕府をはじめ あげつちもん 棟の高床の建物、一棟の平屋の建物、一棟の竪穴形式の建物する外回りの築地には、四脚門あるいは上土門形式の表門を武家の繁栄を背景に、表門とその周辺の建物に極彩色の彫刻 てんじようずいじんどころ が描かれている。これらの建物がそれそれどのような役割を設ける。表門の内側の中門廊との間には、殿上、随身所、や彩色が施されて、華やかな景観がつくりだされた。 果たしていたのか、四棟からなる一群の建物がどのような意車舎などがあった。これらのほかに、台所やこの屋敷で働く 江戸時代の初期の武家屋敷に成立した書院造は、大書院、 小書院の二棟の書院を中心に、表側には出入りおよび接客の 味をもっていたかなどは明らかでなく、さまざまな推測が行人々の生活の場がなければならないが、その位置は明らかに いりもや ための門、玄関、式台などを、奥には主人の生活空間である われている。四棟のうちの入母屋風の屋根の高床の建物は、 されていない。円柱で構成された寝殿は、床は板敷きで屋根 この鏡の持ち主にかかわる住居と考えられる。 裏をそのままみせていた。東西両面の端の間など通路となる居間、寝所などを配置し、両書院の北には台所をはじめとす しとみど 住居と考えられる高床の建物は、湯納遺跡 ( 福岡県 ) から柱間を妻戸とするほかは、外回りの建具は蔀戸である。屋根るその屋敷で働く人々が労働し生活する建物を付属して全体 出土した部材によって復原が試みられている。家形埴輪で高は、檜皮葺きあるいは板葺きであった。平面は梁間二間、桁が構成されていた。以上の主人のための部分の奥には、夫人 みその もや ひ ) し 床の住居と考えられる例は、美園遺跡 ( 大阪府 ) 出土の柱に のための一群の建物がつくられる。 行五 ~ 七間の母屋の周囲に幅一間の庇を巡らしている。奥に めりごめ 書院は、八畳あるいはそれより大きな畳敷きの部屋を二、 飾りをつけた二階屋である。この埴輪屋の二階には、壁際にあたる母屋の端二間ほどは壁を巡らした塗籠で、寝室であ いりかわ 三室一列に並べ、周囲に入側を巡らしている。奥の部屋の床 べッドと思われるアンペラ風の敷物を敷いた床より一段高くる。母屋には置畳をし、周りに棚などを置いて座をつくっ あすか なった台が認められる。飛鳥時代になると権力者たちの宮殿 た。対屋も寝殿に準じた平面である。儀式や行事は、多くのを一段あげて上段の主室とし、座敷飾りを設ける。座敷飾り が建てられたが、 実態はほとんどわからない 場合寝殿と南庭を使って行われていた。 は床を中、いに配置し、これに違い棚、付書院、 ( 帳台構 ) で ちょうどういんだいり 規模の小さな寝殿造では、付属屋が少なくなるだけでな構成されている。天井は、部屋の機能により、あるいは格式 から おりあげ・こうてんじよう 、こるばお 〔奈良時代〕城宮の朝堂院や内裏などが発掘によ 0 て明 に応じて折上格天井、格天井、猿頬天井などを使い分けて らかにされてしる。朝堂院は基壇上に建つ唐風の建築で、柱 く、短い中門廊が寝殿から直接突き出している。 からかみは かわらぶ につち いる。壁や襖には絵を描くか唐紙を貼る。部屋と部屋との間 を丹土で塗り、屋根は瓦葺きであった。一方、内裏の正殿〔中世〕寝殿造が中世の武家の生活にふさわしく変化してで しゆでん らんま ひわだぶ は、日本的な板敷きの床のある檜皮葺きの建築で、柱などのきたのが主殿造である。その中心となる建物が主殿で、主殿の襖の上部には、欄間を用いることが多い。外回りの建具 しらき とおさむらい は、障子と引き通しの雨戸である。大書院の前庭には能舞台 木部は素木のままであったと考えられている。奈良時代の住を中心に表には武士の詰める遠侍、客を取り次ぐ式台な かいしょ つばね が、小書院の庭には茶室がつくられるのが常である。 宅建築の遺構である法隆寺の伝法堂は板床のある建築で、屋ど、奥には遊びのための会所、女性の生活する局などを配 うまや ペんがら し、このほか台所、厩をはじめとする付属屋から構成されて 江戸時代には黄色、弁柄色、青色などの色土壁が好まれ、 根は法隆寺に移される前は檜皮葺きであった。 い者 0 め ~ えんじ いる。主殿の南には庭園がつくられる。 藍色、薄い臙脂などの色紙、あるいはさまざまな文様を木版 飛鳥・藤原の地域や斑鳩、あるいは平城京で発掘された住 な 1 ) り 主殿は、寝殿造の中門廊の名残である中門を表に面した隅で刷り出した唐紙を壁や建具に使い、木部に色付けをし、丸 、つ宅の遺跡から明らかになる平面は、梁間二あるいは三間 ( 間 けたゆき すきや に差し出し、中門と中門の取り付くあたりの部分に妻戸、は太や面皮材を用いて意匠を凝らした数寄屋風の書院がつくら ゅ - は柱と柱の間のこと ) 、桁行が五から一〇間ほどの規模で、 れんじ じその桁行を二つに分け、狭いほうを土間、広いほうを板敷ききあげ連子、車寄せなどを設ける。車寄せに続く表に面したれた。 あい と、一 っ ゆ 533
よ切り離す新吉田川の開削が行われ干拓事業は完 (bét 「家」を表す図形で頭音を一小す方式 ) に 成し、沼は一望の水田と化した。〈境田清隆〉 よっている。図膨アルファベット〈矢島文夫〉 はんと , っ Sinai Peninsula よシナイ半島 シナガチョウ〔支那鵞鳥〕 Chinese goose 鳥綱カモ目カモ科の鳥。ガチョウの一 しエジプト東端部、アフリカ大陸とアラビア半島 との接点にある三角形の半島。東はアカバ湾、 品種で、サカッラガンを中国で飼いならし、家 漠覆 西はスエズ地峡とスエズ湾に、それそれ限ら 畜化したものである。比較的小形のガチョウ れ、北は地中海に面する。面積約六万平方キ。 で、羽色は野生原種と同じ灰褐色のほかに白色 般の 南部は結晶質岩の山地で、この半島の最高峰カ 種もあり、野生種よりも熱帯性気候によく耐え 全岩 は質 る。↓ガチョウ テリーナ山 ( 一一六三七 ) がある。中央部はチーと 〈西田隆雄〉 、、ノ日 ロ よばれる砂質の高原、北部の海岸地域は低い丘 しながわ東京都品川区北東部、国電 やまのて 、、も一ヾ、ン - 〕左ま 陵地帯である。ほば全域が砂漠で、人口密度は 山手・京浜東北線の品川駅の南方の地区。山手 写下撮 きわめて低い。一九六七年の第三次中東戦争以 台地から目黒川沿いの低湿地、さらに東京湾岸 右号 部真ⅱ 来、その大半をイスラエルが占領していたが、 の埋立地にかけて広がる。目黒川を古く品川と たかなわ 〈田村俊和〉 よんだこと、付近の高輪に対し品ケ輪と名づけ 八二年エジプトに返還された。 よろいおどし し部工 な、、〕 ~ 面南ジ 〔歴史〕この半島の山々は『旧約聖書』にも言 たこと、また鎧の威に用いる品革の染色が行わ しゆっ 及され、出エジプトと、モーセ ( 前一三世紀 ) れていたことが地名の由来という。現在、目黒 海でる 中帯れ が神ャーウェから十戒を授かった舞台でもあ ー .. いンコ爿、刀」爿ロロ月。 、目黒川以南のうち東海道本線 地地わ くさびがた る。シナイの名称は、セム系楔形文字アッカ を境として西側が西品川、 東側が南品川東音 島 半 ド語の「月の神」を意味するシン sin に由来 の埋立地が東品川と四地区に分かれる。 イ ナ するとされている。 中世には品川氏の居住地であったが、江戸時 シ 古代エジプトの編年上、重要な史料であるパ 代は幕府直轄地となった。京浜急行電鉄北品Ⅱ 北部シナイにおける戦いののちイギリス軍は全けられ、鍛冶、大工などの職人の町屋もできて駅と八ッ山通りの間の狭い道が旧東海道で、こ レルモ石碑文によると、すでに第一王朝のウデ イム王 ( 前三 000 ころ ) が遠征しており、以後第二 シナイ半島を占領したが、第一次大戦終了後工 いた。寺内町の造営は、寺院の主導によるも こに江戸四宿の一つ品川宿が置かれた。駅馬三 〇王朝のラムセス五世 ( 前一二世紀 ) までの諸 ジプトに返還された。ついで一九四八年のイス の、戦国土豪の城地寄進によるもの、門徒集団六匹、遊里もでき、四宿のなかでもっとも繁栄 ほんじゅく 王が遠征を繰り返し、銅、くじゃく石、トルコ ラエル共和国の建国とともに半島は両国の国境によるものなどに分けられる。人文地理的位置した。品川宿の中心、北本宿にあった本陣跡 せいせき は水陸交通の要地にあたっていて物資流通の拠は現在聖蹟公園となっている。 石などの採掘を行って同地を開発した。王朝衰地帯となり、五六年のスエズ動乱の際はイスラ どうかんやかた 退後はローマ帝国支配下のアラビア属領となエル軍が侵攻、占領したが、国際連合総会の要点たりうる可能性のある地区に選ばれているの 山手台地は太田道灌の館があったことから御 いっこういっき てんやま り、現在のポスラがその中心となった。初期キ請により撤退した。六七年六月の第三次中東戦も特色である。戦国時代には一向一揆の拠点と 殿山とよばれ、江戸時代は桜の名所であった。 リスト教時代は、半島南部の山地に多くの修道争によりふたたびイスラエル車によって占領さ なっていたが、その衰微に伴って衰え、近世に 現在は大使館が置かれ、高級住宅地となってい えっちゅう 者が住み、五二七年にビザンティン皇帝ュステれた。北部シナイの住民は漁業を含む農業を生入ると信仰中心の門前町に変容した。越中る。東品川は、ノリ採取地であったが、大部分 いなみじようはな ふる・一う イニアヌス一世 ( 在位五一一七 ~ 五六五 ) がアレクサン業としているが、戦後のガザはイスラエルとシ ( 富山県 ) の井波、城端、古国府 ( 高岡市伏は一八八七年 ( 明治二〇 ) 以降の埋立地で、エ やましろ やましなせつつ ドリアの殉教者聖カタリナを記念してジェ・ヘナイ半島とを結ぶ交易・交通の中心地となっ木 ) 、山城 ( 京都府 ) の山科、摂津 ( 大阪府 ) 業地区として発展、北東端に火力発電所、コン ひらかた いずみ 。レ」ロⅡ・つ ) キま ル・ムーサ ( アラビア語で「モーセの山」のた。その後両国間の和平交渉が進み、八二年四の石山 ( 旧大坂城 ) 、枚方、和泉 ( 大阪府 ) の テナターミナル、品川埠頭があるロ とんだばやしやまと たくあん 意 ) の北麓 ( 一五一一九 ) に現在の聖カタリナ修道月、「シナイ半島のターバ地区は係争地として貝塚、富田林、大和 ( 奈良県 ) の高田などがそ品川天王祭の品川神社、沢庵禅師開基の東海 ほんせん ともみ の好例である。 院を建立した。同地はやがてキリスト教徒の聖残し、今後両国間で話し合いを継続する」との 〈浅香幸雄〉寺、南品川には江一尸六地蔵の品川寺、岩倉具視 かいあん 条件付きで、シナイ半島返還が最終的に合意に もじ一九〇五年にイギリ 地となり現在に至っている。一八八四年に同修 の墓所の海晏寺があり、旧東海道筋には史跡が シナイ文字 〈高橋正男〉 スの考古学者・・・ピートリによりシナ多い 〈沢田清〉 道院から有名なシナイ写本 ( 大文字ギリシア語達した。 イ半島南方のサラービト・エル・ハ じないまち戦国時代の前半につくら ーデイム遺囮二万五千分の一地形図「東京西南部」 聖書写本 ) が発見され、また一九〇四 ~ 三五年寺内町 にわたって、この付近の神殿からヒェログリフれた人為的な町。浄土真宗の寺院を中心とし、 跡で発見された初期アルフア・ヘット文字。この 品川 ( 区 ) しながわ東京都区部の南部にある を模したシナイ文字とよばれる文字で刻まれたその周りに土塁や堀などの防衛施設が整えら文字で書かれたシナイ刻文はすべて落書き風の区。一九四七年 ( 昭和一三 ) 東部の旧品川区と えばら 碑文が発見された。一五一七年以後はオスマンれ、さらにその外周に町屋的なものが集まって稚拙なもので、紀元前一七〇〇年前後のころこ西部の旧荏原区が合併して品川区と改称。西部 めかま しーカみ いたもので、近世城下町の原初的なものとされこにあった銅鉱山の関係者によって使われたも 帝国に併合されたが、一九世紀初頭にエジプト から東部にかけて東京急行電鉄目蒲線・池上 は反乱を起こしてオスマン帝国から事実上独立る。寺院を中心とした防衛都市であるので門前 のと思われる。一九一六年にイギリスのエジプ線、都営地下鉄浅草線、国電京浜東北線、京浜 えちぜん やまのて 急行電鉄、東京モノレールが通り、北部を山手 八三一年半島もエジプトの統治下に入っ町と区別される。その始まりは越前 ( 福井県 ) ト学者 < ・ガーディナーがその一部を解読し、 よーレ》こき の吉崎 ( 金津町 ) で、初期の寺院は止陵北端の 一三個の子音文字からなるフェニキア文字 ( 後 た。他方、一八四〇年のロンドン条約でオスマ 線が走り、南部を東京急行電鉄大井町線が通 ン帝国の統治権は一九一四年の第一次世界大戦要害の地 ( 国指定史跡ー吉崎御坊跡 ) が選ば代の全アルファベット文字の原型 ) の原型に る。道路も中原街道、第二京浜国道 ( 国道一 ふもと たや 勃発まで名目上保持された。一九一七年一月のれ、その麓の低地には「他屋」という長屋が設近いものと推定した。アクロフォニーの原理号 ) 、第一京浜国道 ( 国道一五号 ) 、首都高速道 ばつばっ 4
ランスキーによる改革が行われ、トボリスク 付けることになった。またこれは、外国人を含 た科学技術や学術の発展のため、五七年にノボ うことがある。持続性、停滞性が大きく、寒候 4 あ めいりよう ( 一八三九年以降オムスク ) に西シベリア総督む大量の労働者と資本・資材をシベリアに流入シビルスク近郊に科学都市アカデムゴロドク期の気候図 ( 平均気圧分布 ) にも、明瞭に表 されている。その成因は、海陸分布と大地形 府、イルクーックに東シベリア総督府 ( 一 させ、シベリアにおける資本主義の発達をもた AKanewop0AOK/Akademgorodok が建設さ らした。 れ、ソ連科学研究の最大の中心の一つとなって ( チベット・ヒマラヤ山塊 ) の影響で、アジア し四年、沿アムール総督府を分離 ) が置かれると いる。↓シ・ヘリア鉄道 ともに、これを統制する機関をも設けた。これ 日露戦争 ( 一九 0 四 ~ 0 五 ) とその敗北は戦争に対 〈藤本和貴夫〉大陸東岸上空に偏西風波動の定常的な谷がで は一九一七年の革命まで続いている。またシベする民衆の不満を高め、一九〇五年の革命とな回アレン・ホワイティング著、池井優監訳『シ き、この谷の西側で北極海からシベリアに大規 リア現地住民に対する「異族人統治規定」もこ たが、この革命は、銃後に直接控えていたシ べリア開発の構図』 ( 一九ハ三・日本経済新聞社 ) 模に流入する寒気団が、チベット・ヒマラヤ山 のとき発布された。 べリアの各都市をも覆った。とくにシ。ヘリアで ▽望月喜市編『シベリア開発と北洋漁業』塊にせき止められて大陸上に蓄積されること、 〔農・鉱業の発達と流刑〕農業は当初、農奴制 は、「チタ共和国」「クラスノヤルスク共和国」 ( 一九全・北海道新聞社 ) ▽ソ連東欧貿易会また、大陸の地表面の放射冷却によって形成さ のヨーロッパ ・ロシアを逃れた農民によって行とよばれる、兵士と鉄道労働者を中心とした革 編・刊『シベリア開発の諸問題』 ( 一九含 ) ▽れる下層の寒気も大陸上に蓄積されること、な われたが、一 八六一年の農奴解放以後、農民の命派による一時的な都市支配が生み出されたの エドワード・エバンズ・プリチャード原著総どである。この寒気団は、日本近海を発達しな シベリア移住が急増した。一八九五年までに、 が特徴である。労働運動、革命運動も鉄道とと 監修、梅棹忠夫日本版総監修『世界の民族 がら北東進する低気圧の後面で、北西季節風 一四シベリア・モンゴル』 ( 一九七九・平凡社 ) ( シベリア風 ) となって大規模に吹き出して、 およそ七五万人がおもに西シベリアに移住してもにシベリアに広がったともいえる。 ▽白井久也著『新しいシベリア」 ( 一九七六・サ東アジア一帯に寒波をおこす。寒気が吹き出し おり、その結果、西シベリアはロシアの新たな 〔革命以後の発展〕一九一七年の十月革命は全 イマル出版会 ) ▽ Z ・ Z ・ネクラーソフ著、たあとは、シベリア高気圧は弱まり、中心もい 穀倉地帯となった。、、 イへリアにおける広大な末シベリアにソビエト政権を成立させ、一八年二 ・ロシアに 月にイルクーックで開かれた全シベリア・ソビ 鈴木啓介訳『シベリア開発構想』 ( 一九七五・サくつかに分かれる。しかし寒気がふたたび蓄積 開拓地の存在は、農民にヨーロッパ 比べて、より大きな自由を与えた。また鉱山業エト大会は、全シベリアの政治指導機関として イマル出版会 ) ▽小川和男著『シベリア開されると、また強まり、そのようにして数日 ~ シ・ヘリア・ソビエト中央執行委員会を創設し 発と日本』 ( 一九七四・時事通信社 ) ▽ S. P. 十数日の周期で消長を繰り返す。三寒四温の天 も発達した。一八世紀のシ・ヘリアには、銀山を 主とするアルタイ地方とザバイカル地方の二つオ こ。しかし同年夏、シベリア鉄道沿線で始まっ Suslov 【 P をき一 G き g き、を 0 ト As 、 s ・気変化もこれによる場合が多いモンゴル高気 sia ( 1961 , W. H. Freeman, San Fran- 圧とよばれることもある。↓高気圧〈倉嶋厚〉 の鉱山の中心があり、いすれも皇室領として発たチェコスロパキア軍団の反乱とこれに続く内 cisco) ▽ V. Con011y 】 S e 、 T0day d ーーしゆっ。へい大正期のロ 展した。一九世紀前半になると新たに金鉱山の戦、干渉戦争のなかで、ソビエト政権は一時消 シベリア出兵 TO ミ 0 、きミ ( 1975 , COIIins. London) ▽加 開発が外国資本を含む私企業によって進めら滅し、オムスクにコルチャークの軍事独裁政権 シア革命に対する干渉戦争。一九一七年 ( 大正 れ、シベリアにおけるゴールド・ラッシュをも 藤九祚著『シベリアの歴史』 ( 一九六三・紀伊國六 ) 一一月、ロシア十月革命が起こると、同年 が成立。東進した赤軍がイルクーックに入るの は一九二〇年初めであるが、バイカル湖以東の 屋書店 ) ▽相田重夫著『シベリア流刑史』 一一一月連合国最高軍事会議に革命政権への干渉 たらしている。その中心はレナ川やアムール川 ( 中公新書 ) ▽・タッパー著、鈴木主税訳計画が出され、翌年一月英仏は日米両国にシベ 流域で、全ロシアの金産出量の七五 ~ 八〇 % を一部を占領する日本軍との衝突を避けるため、 『大いなる海へ』 ( 一九七一・フジ出版社 ) ▽ソ リア出兵を要請してきた。 占めた。このようなシベリア経済の発達は、流 バイカル湖以東に緩衝国として樹立された極東 連科学アカデミー編、日本対外文化協会訳〔日本の対応〕英仏の提案に対して日米は積極 刑による移住民の増加と深く関係していること共和国を、ソビエト政府は承認した。同共和国 も無視できない。すなわち、一七世紀後半以 は二二年一〇月、日本軍のウラジオストク撤退 『大シ・ヘリア史 3 ・ 4 』 ( 一九七三、七四・東海大学的反応を示さなかったが、この時期外務省では 後、ロシア・ソビエト共和国と合流して消滅し 出版会 ) 降、農業、鉱山の労働力として大量の流刑人が 本野一郎外相をはじめ若手官吏、在外公館にシ うえはらゆう きだん冬季にシベリア べリア出兵の意見が強く、参謀本部でも上原勇 送り込まれ、一九世紀のシベリアへの流刑に伴た。また二五年の日ソ基本条約の成立により、 シベリア気団 ぎいち からふと 日本軍は北樺太 ( 北サハリン ) からも撤退した。 や中国東北区に発生する大陸性寒帯気団。厚さ 作総長、田中義一次長を中心にシベリア出兵の う家族を含めた移住人口は一〇〇万人以上とい われる。またシベリアは、デカブリスト、ポー 内戦終結後、シベリアは行政上シベリア地方二 ~ 三キ。メートルで、その上方に強い逆転層を計画が練られていた。彼らの意図は、連合国の ランド独立運動家、ナロードニキ、レーニンをと極東地方に分けられ、さらに前者は、一九一一一もち、非常に安定である。しかし、日本海や東制約を受けることなく北満、シベリア地域を日 シナ海に出ると、相対的に高温な水面から、熱本の支配圏に収めようとする自主出兵論であっ 含むマルクス主義者など、革命家や政治犯の流〇年に東シベリア地方と西シベリア地方に分割 と水蒸気が大量に供給されるので、急速に変質た。ところがアメリカは日本に警戒的で、日本 刑地としても有名で、彼らのうちにはシベリアされた。また革命後は少数民族の自立が認めら せき れ、一九一三年にヤクート自治共和国、一一三年し不安定となり、積雲や積乱雲が発生する。脊主導によるシベリアと中東 ( 中国東北 ) 鉄道の 研究に大きな足跡を残した者も多い りよう にプリヤ ート・モンゴル自治共和国 ( 五八年か梁山脈により強制的に上昇させられると一時支配にあくまで反対であったため、日米対立を 〔極東ロシア領の確保と鉄道〕一九世紀なかば に不安定を解消し、風上側にあたる日本海側の になると、アヘン戦争を契機に西欧列強の中国らプリャート自治共和国 ) や民族自治州などが 恐れた日本支配層の一部は自主出兵論に反対 はらたかしまきののぶあき 創設された。 地方に多量の雨や雪を降らせ、風下側にあたるし、臨時外交調査委員会では原敬や牧野伸顕 進出が決定的となった。ロシアも極東ロシア領 シベリアの本格的な開発は一九二〇年代末よ太平洋側の地方に乾いたよい天気をもたらす。 がアメリカとの協調出兵論を主張して、自主出 の確保のため、アムール川沿岸地方の植民を急 これが、日本の冬に顕著な天気分布である。↓ 兵論は実現できなかった。しかし、現実には一 速に進め、一八五八年、清国とアイグン ( 愛りの第一次五か年計画に始まり、当初は西シベ リアのクズバス炭田地域に集中した。その後、大陸気団 〈饒村曜〉九一八年一月に居留民保護を名目にウラジオス 琿 ) 条約を結んでアムール川左岸地方を、一、 川以東の第二次世界大戦中のシベリアへの工場疎開が、 こうきあっシベリアトクに巡洋艦二隻を派遣、四月には居留民殺傷 六〇年には北京条約によってウスリー シベリア高気圧 事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の 地方をロシア領に組み込み、不凍港ウラジオスノボシビルスクを中心とする地域の工業発展をに中心をもつ高気圧。おもに寒候期 ( 一〇月 ~ トクを得た。一八九一 ~ 一九〇四年のシベリア大きく進めた。五〇年代以降は、大河川に巨大三月 ) に現れ、冬季にもっともよく発達する。革命勢力に軍事的圧力をかけた。 横断鉄道の完成 ( この時点では中国領を通る東発電所が建設され、その電力を使った工業化が典型的な場合には、中心気圧が一〇七〇 ~ 八〇〔出兵〕一九一八年五月、シベリア鉄道経由で 、、ー . バールに達し、ユーラシア大陸の大部分を覆本国へ送還中のチェコスロパキア軍捕虜の反乱 清鉄道経由 ) は、ロシアの中心を太平洋と結び東シベリアや極東地方でも進められている。ま もとの
に本を / ) のスローガンにより、発展途上国に て、七世紀の唐時代初期に発明された本版技術ラの総部数は約二〇〇〇万部と推定されておラント』が一七〇二年に発行されたが、一九世 おける図書普及を訴えたが、今日までのとこ っとあわさ 0 て木版印刷の長い時代が始まるのでり、当時のヨーロッパ人口が一億に満たず、そ紀のなかばには欧米で大衆新聞が出現してい の大半が文盲であったことを考えると、驚くべる。その急速な普及を目前にみて、フランスのろ、一部の国を除いて、成果は遅々としている ある。洛陽で、官吏登用試験のため大規模な印 き普及ぶりであったといえよう。活版印刷の出社会主義者ジャン・ルイ・。フランは「本の時代のが現実である。↓新世界情報コ、 ) 7 ュニケーシ し刷事業が行われたのは九三二年のことである。 きぐ ョン秩序 〔写本の時代〕バピルスよりも粗末だが、ずつ現に危惧を抱いたのはローマ教会で、一四七〇は終わり、新聞の時代が始まった」と述べた と頑丈で安価な羊皮紙は、キリスト教徒によっ年代から八〇年代にかけて出版免許制度を敷が、その判断は早計で、このころから出版の大〔日本の出版〕〔江戸時代以前〕日本の出版の て大いに用いられ、やがて中世における書籍の き、一五五九年には有名な禁書目録をつくって衆化が始まっている。そして、一九世紀も終わ歴史は、現存最古の印刷物『百万塔陀羅尼』に りに近づくころには、マス・セールを前提とし始まるとするのが通説である。これは七六四年 主流を形成することになる。羊皮紙は一枚ごと読書規制を行っている。また、事業の利益を独 ( 天平宝字八 ) から七七〇年 ( 宝亀一 ) まで約 た低定価本の出版が各国で行われるようになっ に切って綴じることにより、現代の書籍の特徴占しようとする印刷業者たちはギルドをつくっ たので、書籍は依然一部富裕階級のみが利用でた。二〇世紀に入ってまもなくラジオが出現五年をかけて完成した四種の陀羅尼経であり、 であるべージ編成の冊子 ( コーデックス ) がく し、マス・コミュニケーションの時代に入る木版により印刷されたとみる説が多い。木版印 ふうされた。この形式は長文の聖書や法律文書きる高価な商品であった。 かすが 刷が活発化するのは平安末期からで、「春日版」 にとくに向いており、コーデックスからコード 一五世紀ヨーロッパにおける出版活動の中心 が、書籍、雑誌の普及も急ピッチで進んだ。 〔現代出版〕第二次世界大戦後の政治的・文化「法隆寺版」などのいわゆる南都版 ( 奈良版 ) code ( 法典 ) ということばも生まれた。紀一兀はイタリアおよびドイツで、それぞれ四二 % 四世紀以後一〇〇〇年以上にわたって、聖職者三〇 % を占め、続いてフランス一六 % 、オラン的特徴はその大衆社会化現象にある。出版におが多くの寺院でつくられた。また、鎌倉時代か いても、いわゆるべー ヾーバック革命に象徴さ ら室町時代にかけて京都五山を中心に出版され たちにより羊皮紙の写本が中世ヨーロッパの出ダ八 % であったと推定されている。一六世紀か そう たのが「五山版」である。五山版は中国の宋 ら一八世紀にかけて、出版は宗教中心からしだれる大量化現象が著しく、先進国はもとより発 版文化を担った。写本はしだいに美しいものに いに文学や実用書へと拡大していったが、同時展途上国においても、書籍の発行は急速に発版、元版の復刻が多く、またその版式の影響を なり、とくに中世後期の写本は極彩色の細密画 を有する美術品でもあり、また洗練されたアル に雑誌が姿を現してくる。今日の雑誌の起源展・増大しつつある。ュネスコ ( 国連教育科学受けているが、従来の仏典からそれ以外の書籍 ( 外典 ) にも及ぶようになった。そして同時代 は、一七世紀フランスの書籍業者が新刊紹介の文化機関 ) の統計によれば、一九五二年から八 ファベット文字は、次代の活字 ( タイプ・フェ ため発行したカタログだといわれるが、独立し一年までの三〇年間に世界で出版された書籍の末期には民間の出版業者も現れ、「坊刻本」と ース ) に直接影響を与えている。この時代、ラ まちはん テン語から分かれたロマンス諸一一 = ロ語 ( フランスた定期刊行物としては、一六六五年にパリで創年間総発行点数は、二五万点から五八万七〇〇か「町版」とよばれる出版が一般人を対象に行 刊された『ジュルナール・デ・サバン』および〇点と二・三倍に増大している。また、新聞用われるようになった。 語、スペイン語、イタリア語など ) で騎士物語 一方、一五世紀中葉にヨーロッパで発明され であるロマンスが書かれ出版された。すなわち同年ロンドンで刊行されたイギリス学士院の会紙を除く印刷・筆記用紙の消費量は、一九五〇 た活版印刷術は、一五九〇年 ( 天正一八 ) に帰 八〇年間に五・四倍に伸びている。従来は、 報とされている。また、世界最初の週刊新聞 小説 novel のルーツである。 てんしよう 一部の識字・知識層の独占物であった出版物が国した天正遣欧使節とイエズス会神父アレサ 『アビソ』が一六〇九年にドイツで発行されて 〔活版印刷の発明〕活版印刷の真の発明者がヨ ンドロ・バリニャーノによって日本にもたらさ 一般化していることを如実に示しているといえ いる。こうして、これまで大きな比重を占めて ハン・グーテンベルクであるかどうかは説の分 れた。翌九一年から約二〇年間にわたって九州 かれるところであるが、後世に伝わり直接の影 いた印刷業や書籍販売業にかわって、出版業者よう。 しかし、このような出版の大量化のなかで目を中心にローマ字または日本字で印刷された活 が企業家として登場することになる。 響を与えたのがグーテンベルクの開発した印刷 きりしたん もっとも活字そのも〔近代出版〕一八世紀後半におけるフランス革だった現象がいくつかある。その第一は、巨大字出版物 ( 約三〇点 ) を「切支丹 ( 吉利支丹 ) 術であることは疑いない。 そう のは、すでに一一世紀なかばの宋の時代に畢命やアメリカの独立は、出版にとっても画期的なメディア資本、メディア外資本による出版市版」とよんでいる。しかし、まもなく始まった しよう なできごとであった。近代憲法の構成要素とし場の制覇である。とくにアメリカでは「プロックキリスト教弾圧政策により切支丹版も姿を消す 昇という人物が粘土を素焼きした陶活字を、 ・ : つ、ら・い ハスター blockbuster 時代」とよばれるベス ことになる。これとは別に日本に金属活字をも また一三世紀のなかばごろ高麗で金属活字が発ての権利章典や人権宣言は、もっとも基本的な とよとみ 明された、といわれている。しかし、金属活字人権として言論・出版の自由を掲げ、市民が出トセラー症候群が健全な出版活動を侵食しつったらしたのは朝鮮に出兵した豊臣遠征軍で、の けいちょう にふさわしいアルファベット文字をもち、また版活動に携わる機会は増大した。それとともあるが、その他の先進国においても似たようなちにこの活字を模した木活字を用いて「慶長 に、出版業はようやく印刷業から離陸して近代現象が現れている。第二は、ニューメディアの勅版」が出版された。 まもなく宗教改革と大航海時代を迎えた近世ョ ふしみ ーロッパは、この発明を現実のものとし、歴史出版の時代を迎えることになる。一点当りの平進歩により、ビデオ出版など新しい波が押し寄〔江戸時代〕徳川家康の命でつくられた「伏見 するが せていることである。グーテンベルク以来の第版」は木活字、「駿河版」は銅活字を用いたも そのものを大きく左右させたのであった。活字均発行部数も二〇〇〇部以上となり、一七七六 プレス 二のコピー時代の到来で、出版文化や出版事業のである。しかしながら、ヨーロッパし 流の活版 に圧力を加えて用紙に印刷するこの技術は、こ年にペンシルべニアで発行されたトマス・ペイ ンの『コモン・センス』は実に数十万部に達し にも大きな転機が迫っている。第三は、先進国印刷は漢字・和字の複雑さから普及するに至ら れまでのいかなる出版技術よりもはるかに能率 と発展途上国との間の出版ギャップがますますず、明治を迎えるまで日の目をみることはなか たといわれる。また、一八一四年に発行された 的で、短時間に多量で鮮明な印刷を可能にし った。日本の民間出版が緒につくのは江一尸初期 バイロンの「海賊』は発売当日で一万部を売り拡大していることである。確かに、新興諸国の た。この印刷術は一世紀たらずのうちに、アル げんろく オ植技術も高能率化し、ナポレオンの出版が第二次大戦以前の植民地時代に比べての京都であるが、それは元禄時代 ( 一六公 プスを越え、ドー ー海峡を渡って、当時のヨ切っこ。卩」 治世が終わるより早く、一時間の印刷量は一五質・量ともに発達していることは事実である 0 四 ) になって開花する。一六九六年 ( 元禄九 ) ーロッパ世界にくまなく普及した。 かわちやりへえ 化河内屋利兵衛が刊行した『増益書籍目録大全』 が、経済力や技術力の格差により、読み物文 一五世紀以前に印刷された書籍をインキュナ年前の一日分よりも多くなっていた。オランダ には、約七八〇〇点に上る書籍が収録されてい プラ incunabula ( 初期刊行本 ) とよんでいるやドイツの後を追ってイギリス、さらにはアメのうえでも国民の享受度の開きがさらに大きく えちぜんのかみ なっている。ュネスコは一九七二年を国際図書る。また一七二一年 ( 享保六 ) 、大岡越前守が リカの出版活動が急速に隆盛となった。 が、宗教書を中心とするその平均印刷部数は数 そうし リー・クー イギリスで最初の日刊新聞『デー 年とし、「ブックス・フォア・オール」 ( みんな書物問屋、草紙屋に命じて作成させた書物目録 百部以内にすぎなかった。しかしインキュナプ ひっ げてん 672
じどうし サスペンション 前輪 / 独立懸架方式 ダブルウィッシュホーン式 れが多くなるとダンパーの効きを強めるものや、走行前方のりスポーティーな車に使われるが、最近の傾向としては旧来速度やエンジンの回転に応じて、高速ではパワーの効き方を 弱く ( ハンドルを重く ) 、低速では強く ( 軽く ) なるように、 少数派であったラック・ピニオン式が増えつつある。さらに 路面の不整を超音波などで事前に察知し、即座に調節してし 最近では直進付近の歯車比を遅くして、高速走行時には安全電子制御するものが現れている。 まうもの、などがある。 これまでの通常の四輪車では、と、各方式を ③ステアリング現在一般的なステアリングは、アッカーマなようにハンドルの効きを鈍くし、低速では歯車比を速くし 問わず、前二輪のみで操向を行ってきた。しかしごく近い将 ン方式といい、操向する左右前輪の中心線をかならず後車軸たバリア。フル・レシオ variable ratio のステアリングギャ 来に、四輪操向の車も実用化されよう。むろん主 の延長線上で交わらせることにより、スムーズにコーナーをも普及している。 大型車や小型でも車ではハンドルが重くなりがちなのたる操向輪は前輪だが、後輪にもその何分の一かの操向角を 回らせるものである。ステアリングホイール ( ハンドル ) の そうだ 回転を前車輪の首振りに変えるステアリングギャは、軽くスで、パワーステアリングで操舵力を補う。これは、エンジン与えて、スムーズなコーナリングを可能にしようとするもの 、ノドルをである。には前輪と後輪に同方向の舵角を与える同位 ムーズなリサーキュレーティングボール recirculating ball で駆動するポン。フで油圧をつくって蓄えておき、ノ、 相操向と、前後を逆にする逆位相操向とがある。前者は高速 ( ポール循環 ) 式と、より直接的で確実なラック・ピニオン切った際に、その切り方に応じてバルブを開き、シリンダー 「 ack and pinion 式である。前者は一般の車に、後者はよで車輪を曲げる力を補うものである。これも最近では、車の道路上での車線変更や駐車時に有利であり、後者は曲がりく の線 式 式 式 ク グ ン 車中 ン ン ン シ ワ ク ョ シ 後輪 ーアーム ショックアフソーノヾー セミトレーリング ロアアーム ( 後輪に用いられることもある ) ストラット式 ショックアフソーノヾー リーフスプリング ストラット ロアアーム アッノ、一コントロールアーム ロアコントロールアーム パワーステアリングの作動原理 リバーサータンク ステアリンク オイルポンプー , / タイロッド ラック ノヾワーシリンダ ビストン ナックルアーム ビニオン ホイールアライメント ( 車輪整列 ) キャスター トーイン キャン / 、一 キャンバー角 キングビン角 ・ - ーーーキングヒン中心線 垂直線 ホイール中心線 前の開き ( A ) キャスター角 垂直線ー」一キン・ビン 中心線 0 キャスタートレール、 ~ B—A をトーインという トーインとよはれる三つの要素が盛り込んである。いすれも , 操向輪である前輪にはキャスター , キャンバー 直進性を高めたり , 直進復元性をもたせたりするもので , 図では誇張してあるが , 肉眼でははとんどわからない 45 ~ ~ キングヒ。ンオフセット
かすが しんめい るが、宮殿の全貌は明らかにされていない る。しかし、この基準は普遍的なものではなく、建物それそられたが、神社には神明造、春日造など本殿の形式があり、 また、このころヨーロッパの各地に、キリスト教の伝道と れ、あるいは一つの住宅のなかのいくつかの建物に共通する仏寺にも宗派による決まりがあったので、武家の住宅の場合 修業のために修道院がつくられた。その一つであるスイスに くらいのものであった。平安時代においても同様であり、こ ほど一般的な規範という性格ではなかった。 の基準となる寸法は、梁などに使う材木の寸法が基礎になっ 武家住宅の木割は、柱間と柱の太さを基準として、その他つくられたザンクト・ガレン修道院の配置図が残されてい ていたと考えられる。中世に畳を敷き詰めるようになると、 の部材の寸法や部材の間隔を決める体系で、建物を形成するる。この図によると、教会堂を中心に、修道士たちの生活の ための食堂、食料を生産するための家畜小屋、菜園、病院、 畳の大きさが部屋の広さを決める基準になった。畳の寸法をすべての部材が体系化されている。しかし、この木割は設計 基準にした格子の間隔は、室町時代の七尺 ( 二賢 二 ) か にあたっての目安で、そのまま厳密に適用されるものではな学校などさまざまな施設が整っているうえに墓地まであっ て、その中で生活のすべてが完結していたことがわかる。 らしだいに小さくなり、江戸時代の初めには京都では六尺五かった。 しだいにヨーロッパの各地に定着し始めたゲルマンは、そ 寸、江戸などでは六尺が普通になった。基本的にはこの寸法 住宅の内部では、近世の武家住宅の場合を考えると、書院 のなかの支配階層の住居と教会堂を中心に集落を形成するよ の半分を単位にした方眼をもとにして、その上で平面を考えの主室の座敷飾りはどの家でも似たものであるだけでなく、 る設計方法が生まれ、現在までその習慣が続いている。さらそのなかで複雑に組み合わされた違い棚は、一見してそれそうになった。その支配階層である領主の住居を広くマナハウ に強く畳の寸法に拘束されているのが、近畿地方で行われてれの家ごとに異なった意匠と思われるが、その意匠はおおよスとよんでいる。マナハウスは主屋といくつかの付属屋を垣 きようま 根あるいは石やれんがで築いた高い塀で囲んでいるのが普通 いるいわゆる京間の設計法である。この方法では、六尺三寸そ五〇種類に集約される。とくに型どおりの書院造の場合に であった。ときにはその周囲に塀を巡らしている。マナハウ x 三尺一寸五分の畳を敷くことを想定して部屋の大きさを決使われる違い棚の形式は二、三種類に限定されている。 め、その外側に柱を立てる。このほうが手のこんだ設計方法 江戸時代には、標準となる形式を、古今の名作を尋ねるなスの主屋も狭義にマナハウスとよばれるが、イギリスではホ ールあるいはホールハウスとよぶのが普通である。 である。 どしてつくりあげ、実用と将来のために書き記した木割書が きわりひながた 狭義のマナハウスあるいはホールは、一階を納屋および家 〔木割と雛形〕建築のなかで住宅は、地域によって、あるい 大工の家系ごとにつくられるようになっている。違い棚につ いては雛形とよばれるパターン。フックがつくられて、実際に畜舎とし、二階の中心に広いホールを設ける。ホールには大 は時代によって、それそれ特色をもっている。日本の住宅で きな暖炉を備える。ホールのわきに台所を設けることが多 考えれば、年中行事絵巻に描かれた京の町屋は、間口に広はそのなかから選択するようになった。 い。領主の家族や武士たちが生活するのがホールである。通 ・狭いはあっても、同じような姿に描かれている。また、 住宅の歴史 常、生活部分である二階へ直接入るために外部に階段を設け 京都や金沢あるいは高山など古い町のたたずまいをみせてい る町には、よく似た形の町屋が並んで、それぞれ特色のある〔ヨーロッパ〕〔先史時代〕ヨーロッパにおいて、ゲルマンるが、防御のために階段をあがりきった踊り場の床を跳ね上 町並みを形成している。 民族が現在のヨーロッパの文化につながるような文化の芽をげるなどのくふうをしていることが多い 一三世紀のマナハウスはしだいに発展分化して、主人の居 外観だけでなく、農家の平面をみると、地域ごとに時代のはぐくみ、他の地域に並ぶ記念性をもった建築がつくられる 間にあたるソーラーを備えるようになる。このころのマナハ ようになるのは、一一世紀以後のことである。それ以前に 経過を反映して平面が変遷していくのがよくわかる。 ウスの標準的な構成は、一階を納屋とし、二階に大きなホー このような庶民の住宅の場合には、とくによりどころとすは、南から侵入した古代ローマ人がヨーロッパの各地に点々 ルをとり、平側の扉を入るとスクリーンで目隠しされた入口 るものがあるわけではなく、地域によって人々の暮らしに違と兵営や都市をつくっていただけで、その他のほとんどの地 になってい で、その上がホールに面する楽人のギャラリー いがないところから、きわめて似た平面になり、その平面の域は未開であり、原始的な集落が存在したにすぎなかった。 どうくっ たてあな ヨーロッパの各地に、洞窟住居、竪穴住居あるいは湖上住る。ホールは家臣たちの生活の場であったから、主人たちの 対応する立面にも類型が形づくられる。 ろくだか ために奥の壁際には床を一段あげたダイスがある。このダイ 居などさまざまな原始住居の遺跡が発見されている。 近世の武家住宅の場合には、禄高その他格式があって、門 それらの多くは方形の一室あるいは二室の住居で、その中スは主人たちの食事をする場所である。ダイスのあるほうの の形式をはじめとして、住宅をつくるにもさまざまな制限が 加えられた。その一方、武家の儀礼は、対面の形式をはじめに竈や炉を備えていた。南ドイツのフェーデル湖やポーデンホールの奥の上階にはソーラーがあった。このころになる すべて幕府の例を規範としていたから、住宅の平面や意匠を湖にみられる住居は、湖畔あるいは湖の中に杭を打ってそのと、主人とその家族はホールから分離したソーラーで生活す るようになっている。しかし、家臣たちの生活の場は主とし 規制する機能が、どの家でもその家の主人の身分によってほ上に人工地盤をつくって集落を形成していた。 ~ 一二世紀のロマネスク建築かてホールであり、主人家族の生活の場はソーラーであったか とんど一定であったと考えてよい。したがって近世の武家住〔中世〕建築の分野では一一 ら、その中で生活のすべてが行われていた。当時の絵画をみ ら、これに続くゴシック建築までを中世として区分してい 宅には近世の武家住宅としての類型が存在したことになり、 新たに建てる場合には規範が必要になったのである。このよる。この区分は、関連する美術史などばかりでなく一般的にると、ホールに簡単な長い机とべンチを並べて食事をしてい るところが描かれている。また、主人の部屋では、一部屋の うな背景から、近世の武家住宅には設計の規範となる「木歴史上の区分として広く使われている。 ふろおけ ロマネスクに先だっプレ・ロマネスク期の住宅に関する遺中にべッドと風呂桶があり、同じ部屋の一隅で長い机と・ヘン 、フ割」が存在した。 ゅ - 「木割」は、武家の住宅にだけ存在したわけではなく、神社構として、西ドイツのアーヘンにフランク王カール大帝の宮チを用意して壁を背に主人たちが食事をしている場面をみか ける。 じの鳥居や本殿など、仏寺の山門や本堂あるいは五重塔にもみ廷礼拝堂が現存し、その付近から宮殿の一部が発掘されてい かまど ぜんばう 529
どの商品売買論もしくは商品流通論になる。第 4 限され拘束されてしか行為することができな キ、貴族が給与の余剰を処理するためのものであっ級工業製品や原材料の調達と供給などであり、 二は、生産者から消費者に至る物資の流通活動 、という否定的な意味をもつだけではない。 問屋と小売りに分化した商人が、これらの機能 て、商業が本格的に成立したとはい、。ゝこ、。 いちま 、 , 皮らの活躍の場である市は、状況のうちでのみ人間は人間的自由の主体とし全体をもって商業とする狭義の概念にたっ商業 よ貨幣の鋳造は八世紀に始まっているが、流通はを担 0 てした。彳 小売市場から卸売市場へと広がり、さらに現物て存在することができるのである。状況は実存学である。その中心内容は、やはり商品流通論 十分でなかった。そのことが商業の本格的な成 じ になるが、卸・小売りに限定されることなく、 立を遅らせた一因ともいえるが、都から地方へ市場のみでなく、大坂の米市場にみられるよ , っ哲学の重要な概念である。ャスパースは、人間 ききもの めいがら によって変えることのできない状況ーー死、苦集荷機能、原材料流通機能、取引所機能などを に、銘柄による先物投機市場へと発展する。こ 商品を流通させる行商人が現れたことは注目さ しようえん 加えたものとなり、さらに購買、在庫、商品計 悩、争い、責めーーを限界状況と名づけた。ハ のような市場の広がりは、問屋による流通支配 れる。平安時代に入ると、荘園制が発達し、 イデッガーにおいて、状況は本来的に実存する画、価格政策、広告、市場調査など、商人 ( 商 地方の開発が進んで、市は広く各地に普及するを生み出し、商工業者による株仲間の中心的役 ようになった。↓行商人↓市 割を問屋が担うことになった。しかし、鎖国に者にとってのみ開示される。サルトルは、状况業経営 ) の主体的行動をも加えたものになる。 〔市と座の商業〕鎌倉時代から戦国時代に至るよる工業の遅れのため、問屋が産業資本に転化を即自の偶然性と対自の自由との緊張関係のう第三は、経済活動全体における財貨、資本、サ ^ 細川亮一〉 ービスの流通ないし交換取引をもって商業とす 中世に、商業は本格的に業として成立する。そすることはなく、せいぜい問屋制家内工業の段ちでとらえている。 回サルトル著、松浪信三郎訳『存在と無』 ( 一九る広義の概念にたっ商業学である。広義の商業 の基盤は、市と座である。まず市は日帰り行程階にとどまるだけであった。↓問屋↓市場 学では、狭義の商業学の中心内容である商品流 五六・人文書院 ) 〔近代的商業の展開〕明治維新による幕藩体制 の地域圏に族生するとともに、定期市になり、 しようぎようかいぎしょ一八九通論や商業経営論はもとより、経済活動全体を かっ開催日数が増えて常設市に近づく。これに の崩壊は、蔵屋敷、株仲間など近世商業を支え商業会議所 る柱を取り払い、一時的に商業は衰退する。し〇年 ( 明治一一三 ) 商業会議所条例によって市域円滑に進行させるための金融、保険、証券、信 関連して定住店舗が現れ始める。市を足場に、 農閑副業の商人が生まれ、商品経済を地方に浸かし明治中期以後、工業化が進行するにつれ、を単位に組織された地域別の資本家団体。九一一託、倉庫、港湾、運輸、情報処理、コンサルテ 透させていった。さらにこのような商業を発展工業生産に原材料を供給し、その製品を内外に年には全国商業会議所連合会が結成され、全国イングなどの第三次産業が対象として含まれ、 させるのが、座とよばれる特権的同業者集団で大量に流通させるための近代的商業が必要にな的連合会としての性格をもつようになった。さ各論を形成することになる。これらを単に並列 り、政府もまたこのための施策を講じたため、らに一九〇二年 ( 明治三五 ) には商業会議所法しただけでは「学」として成立しえないから、 ある。座と商業との関係は、公家や社寺の座が 広義の商業学の多くは、ます「商」の本質を論 余剰の処理について特権を与えられたことに始商業は再生する。近代的である理由として、商が制定されて会員の範囲が拡大された。 じ、いわば本来の商である商品売買業を基幹商 商業会議所は、商工業に関する制度や法律な まり、ますます盛んになった行商人がこれらの業の担い手が会社企業によっていること、商業 座に加わり、商人自らが独自の座を形成する形機能の内容が商品流通を中心に、各種補助商業どについて資本家の立場から意見を発表し、商業とし、金融等の商品売買業以外の諸業種を補 に発展した。座の特権には、営業課税免除、特 ( 金融、保険、倉庫、交通、通信など ) と有機的工業の発達を図ることを目的として活動した。助商業とする基本体系を形成している。以上の に結合したものになったこと、外国貿易を含む一九〇〇年には全国五六の都市に商業会議所が広狭三種の商業学のうち、最狭義の商業学はき 定物資の専売権、一定地域の行商権などがあっ 結成されており、総合的な資本家団体が結成さわめてまれで、広狭いずれかが多いが、学問的 た。戦国時代に近づくと、公家・社寺に隷属する市場の飛躍的拡大が生じたことがあげられる。 に狭義の立場をとる場合でも、著書などの記述 また、商業を円滑に機能させるための法律が整れていない明治期においては資本家団体の中心 座から商人のみで結成する座への脱皮が生じ、 では広義の商業の範囲にまで言及するものが少 さらに各種の業種別、職種別の座も現れてくる。備され、これに基づいて取引所や中央卸売市場的存在であった。活動は東京商業会議所によっ なくない このような動きにつれて、生産と流通の分離、が整備され、従来は小規模生業が主体であったて代表される面が強かったが、大正期に入ると といや 商業学が独自の学問として成立するかについ 小売業にも百貨店のような大規模店が出現する営業税廃止運動などを通じて地方商業会議所の 問屋と小売りの分離、生産者に対する問屋制前 貸制度など、商業の機能分化が進行した。商圏ようになった。日本では欧米に比して約半世紀活動も活発化していった。商業会議所の性格ては長い間議論が続いており、それは商につい みつこし は、議員選挙権有権者の納税額の基準が地域にての知識・技術の寄せ集めにすぎないとの否定 の拡大が顕著になり、市や定住店舗は都市や大遅れて現れた、三越 ( 一九 0 四 ) 、高島屋 ( 一九 0 七 ) 、松 論も根強、。否定論との必然的関連はないが、 よって異なっていたためもあって、東京商業会 集落に集中し、とくに近畿では、京都、奈良、坂屋 ( 一九 00 、松屋 ( 一九 00 、大丸 ( 一九 00 など てんのうじさかい 議所のように大資本の立場を代表するものと、商学という類似名称の場合には、商についての 天王寺、堺を拠点とする一種の広域市場が形成旧呉服店系の洋風百貨店である。こうして、日 知識・技術の総体、もしくは商についての諸学 〈森本三男〉 地方都市の中小資本の立場を代表するものとい されるようになった。座はその特権とさまざま本にも近代的商業が定着する。 の総称という意味合いが強い。すなわち、商学 な形での相互作用によって、広域市場を動かし回宮本又次著『日本商業史概論』 ( 一九五四・世界う複合的性格をもたざるをえなかった。一九二 七年 ( 昭和一 l) の商工会議所法によって商工会とは、狭義の商業学と金融論、保険論、証券論 思想社 ) ▽藤田貞一郎・宮本又郎・長谷川 ていた。やがて、座による市場支配は戦国大名 彰著「日本商業史』 ( 有斐閣新書 ) ▽豊田武議所に再編成された。↓商工会議所〈竹内壮一〉等々の集合名詞であるという理解である。以上 による領国内の産業振興と利害が衝突するよう とよとみ どちらかといえばドイツ系の学問論とは別に、 著『中世日本商業史の研究』 ( 一九四四・岩波書回依田信太郎編『東京商工会議所八十五年史 になり、織田信長と豊臣秀吉による楽市・楽座 上巻』 ( 一九六六・東京商工会議所 ) ▽永田正臣アメリカ系のマーケティング論がとくに第二次 店 ) ▽石坂昭雄・寿永欣三郎・諸田実・山 令により解体させられるに至る。↓座 著『明治期経済団体の研究』 ( 一九六七・日刊労世界大戦後、急速に商業学に代位しつつある。 下幸夫著『商業史』 ( 一久 0 ・有斐閣 ) ▽生島 〔近世都市商業〕信長と秀吉による兵農商業分 両者の関連は複雑であるが、マーケティング論 働通信社 ) 広治郎編『現代商業論』 ( 一九七七・中央経済社 ) 離政策と江戸幕府による幕藩体制は、城下町に しようぎようがく商業を研究対象に は主体の論理を前面に押し出し、経営論の色彩 じようきよう situation 外から観察、商禾ナ 都市商業を繁栄させることになった。これに幕状况 する社会科学の一分野であるが、商業概念の広が濃厚である点に特色があるといえよう。↓マ 府による江一尸・大坂・京都の三大都市と各城下記述される客観的な環境とは区別された、人間 ーケティング 〈森本三男〉 町とを結ぶ全国的商業網の展開が加わって、各がそれを生きざるをえず、また生きることによ狭に対応して、大きく分けて三つの考え方があ しょ , つぎよ , つかくめい commercral ってのみ開示される場をいう。人間は宙に浮、 る。第一は、物資の再販売のための売買活動の商業革命 藩の都市商業が全国的流通の結節点として機能 するようになった。具体的には、諸藩の蔵屋敷た無世界的な主観ではなく、状況のうちでの存みをもって商業とする最狭義の概念にたっ商業 revolution 一一世紀から一三世紀にかけて、 とくに十字軍以後の東西ヨーロッパでは遠隔地 の年貢米の集中と換金、生活必需品の集散、高在である。そのことは、人間が状況のうちで制学である。その中心内容は、卸売り・小売りな