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検索対象: 日本大百科全書 11
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1. 日本大百科全書 11

シュティレ Hans stille ( 天七六ー 垂 l) 、『形而上学ー科学ー懐疑』 ( 一〈 ) 、「真理磁波のエネルギーを、すべての波長について総四五年の退職までカーネギー大学研究教授。遍 ドイツの構造地質学者。ハノーバ ーに生まれ 問題と意味論の理念』 ( 一九五七 ) 、『不完全性と決計したものをとすると、 S=aT 、と書ける。歴時代は統計熱力学と量子論の理論面でいくっ 6 て る。ゲッティンゲン大学で地質学を学び、プロ定不可能性』 ( 一九五九 ) および『科学理論と分析この比例定数をシュテファンーポルツマンの定かの論文を発表、一九年ころからそれらの理論 しし、Ⅱ 5.67032X10 W ・ m ー ~ ・ K よで表さ の基礎概念の実験的確証に関心を向け、分子線 しイセン地質調査所を経て、ゲッティンゲン大学哲学の諸問題と諸成果』 ( 一〈究 ~ 吉 ) 、またカル数と、 教授となる。『比較地体構造論の根本問題』 ( 一九ナップとの共著『帰納論理学と確率』 ( 一九五九 ) れる。ポルツマンが証明したのはがに比例の方法によりまず気体分子の速さを決め、理論 〈遠藤弘〉するということまでであったが、このころから 一一四 ) などの著書によって、世界の構造地質学界などがある。 との一致を確認した。次にゲルラハと銀原子磁 に大きな影響を与えた。「長い地向斜時代↓短回中埜肇・竹尾治一郎監訳『現代哲学の主潮熱放射の研究が盛んになり、量子論誕生の動機気モーメントを測定し、方向量子化を確認 ( 一九 い期間の一回ないし複数回の造山運動と大山脈 流』全四巻 ( 一九大 ~ 会・法政大学出版局 ) となった。その結果、びの値は、黒体放射と空洞 III)O さらに分子線による干渉効果を観測し、 の形成↓山脈の低平化」というサイクルを認 放射とが等しいことを用い、空洞放射に対するまた陽子の大きな異常磁気モーメントを発見し 、ンユ一アファン Heinrich von Stephan めいりよう め、これを「地体構造のサイクル」とよんだ。 ( 天三一ー九七 ) ドイツの政治家。ポメラニアのシプランクの放射公式を使えば。Ⅱ 2 、一 15 ラ た。これらはいずれも量子力学的効果を明瞭 このサイクルに相応して地向斜期、造山期、大ュトルプに生まれる。プロイセン郵便吏員となで与えられることがわかった。ここで々はポル に示すものであった。これらの業績により四三 陸期にそれそれに特有の火成活動があり、マグり、一八七〇年北ドイツ連邦郵政総監、七五年ツマン定数、は光速、んはプランクの定数で年ノーベル物理学賞を受けた。↓シュテルンー 〈藤井寛治〉 マ活動にもサイクルがあるとした。また不整合 〈小出昭一郎〉ゲルラハの実験 ドイツ帝国郵政総監に就任。ドイツ郵便の改革ある。 のじ を重視し、それが短期間の造山運動の現れであ に功績を残した。また万国郵便連合 シュテー ル Hermann Stehr ( 天六四ー一九 シュテルンーゲルラハの実験 るとみなし、長い静穏期を経たあとで世界中同の促進を図り、七四年その第一回会議の議長と四 0 ) ドイツの小説家。シュレージェン出身。 つけん一九二一年、シュテルンとゲルラハが、 時に造山運動がおこったとする説を述べ、多く なる。郵便葉書の創案者としても著名。著書に山村のト ' / 学校教員として教会の教育管理に抵抗磁場中で原子の方向量子化 ( 磁気モーメントの の賛同者を得た。 〈木村敏雄〉『プロイセン郵便史』 ( 一会九 ) 、『世界郵便と航 し、農民、職人、女性、子供ら、抑圧された人成分がとびとびの値をとること ) がおこること 〈今井修〉 空』 ( 一 0 四 ) がある。↓郵便 間の魂の自由を強調する自然主義的小説を書い を実証した歴史的実験。この場合、磁気モーメ シュティンネス Hugo stinnes ( 一 00 ントの成分は角運動量の成分から決まるので、 ー一九 = 四 ) ドイツの大資本家。家業の石炭・運シュテファン Josef Stefan ( 天三五ー九三 ) た。短編集『生死を賭けて』 ( 天究 ) 、長編『レ 輸業を継いで発展させ、電力業などにも進出、 オーストリアの物理学者。ウィーン大学に学オノーレ・グリーベル』 ( 一九 00 ) がこの時期の角運動量の成分がとびとびの値をとることを示 第一次世界大戦前にすでにルール重工業界で地ぶ。その名はシュテファンーポルツマンの放射代表作。のち、しだいに神秘主義的、反近代主した実験といってよい。電気炉内で加熱蒸発し 歩を占めた。大戦中は軍部と結んで利益をあげ法則で知られている。一八七九年、チンダルの義的な色彩を強め、『三夜』 ( 一九 0 九 ) 、『聖者屋た銀原子を真空中に噴出させ、小孔を通して原 たが、敗戦が迫るとそれまでの態度を一変し電熱白金線による実験をはじめその他の実験結敷』 ( 一九一七 ) 、『ペーター・プリントアイゼナー』子線をつくる。その進行方向に垂直にガラス板 て、労働組合を承認し、そのかわりに現存経済果から、放射エネルギーは絶対温度の四乗に比 ( 一九一一四 ) などの長編小説で、現実の醜さや貧しを置くと、ガラス板上に小孔と同形の銀影が映 体制を継続するという中央労働共同体 ( シュテ例すること ( 四乗則 ) を洞察し主張した。なおさに内面生活の豊かさを対置する独特の神秘主る。次に小孔とガラス板の間に原子線に垂直 インネスーレギーン協定 ) を自由労働組合らとフランスの物理学者プーイエ Claude Servais 義的、現実批判的な世界を描いた。〈池田浩士〉 ( これを方向とする ) に磁場をかけると、原 会 0 およびビオレ 結んで、経済界が革命期を乗り切るのを指導し Mathias Pouillet ( 一七九 0 ー一 ー一九子線は、 2 方向の磁場勾配と銀原子の磁気モー シュ一アルン William stern ( 天七一 た。ワイマール共和国前期にはインフレを利用 Jules Louis Gabriel Vi011e ( 天四一 ー一九一一三 ) の三 0 ドイツの心理学者。ベルリンの生まれ。 メントの 2 方向の成分に比例する大きさの力を して一大コンツェルンを築き、同時にドイツ人測定に基づき、放射法則から太陽の表面温度をベルリン大学に学ぶ。ハンプルク大学教授とな受ける。磁気モーメントは原子の角運動量から 民党国会議員、賠償問題の交渉役として政治的六〇〇〇と算出した。この四乗則についてはるが、ナチスに追われ渡米、クラーク大学教授決まるので、銀原子のスピン角運動量があらゆ にも大きな影響力をもった。とくに一九二三年 八四年にポルツマンが理論的に跡づけた。シュ となる。人間学と科学を調和させる独自の人格る方向に一様に向いているならば、ガラス板上 ルール占領の危機の際、反共和国的独裁樹立をテファンはまた気体の熱伝導、拡散、相移行、主義心理学を創唱。人は多くの部分からなる 2 方向に縦長の銀影が現れるはずである。実際 流体力学的現象、電磁気現象に関する優れた業が、目的と価値を本質的成分とする調和のとれ 画策したことはよく知られている。〈木村靖二〉 に観測されたのは、 2 方向に分離した二つの小 シュテークミュラー Wolfgang Steg- 績を残した。六三年ウィーン大学教授となり、 た全体として初めて理解しうる、一方、物は統孔と同形の銀影であった。これは、銀原子の基 müller ( 一九一一三ー ) オーストリアの科学哲以後、学部長、総長を務めるかたわら、科学ア 一のない部分の集積である、存在は上から全体底状態のスピンが % で方向が二方向に量子化さ 学者。インスプルックに生まれ、インス。フルツ カデミーの幹事と副会長、国際電気博覧会科学としてみるときは人、下から部分としてみるとれる結果、銀原子は 2 方向とそれに反平行の二 ク大学を卒業。一九五八年以降ミュンヘン大学委員会 ( 一犬三 ) と国際音響会議 ( 一公五 ) の議長きは物に化する、と説いた 〈藤永保〉方向しかとりえないことを実証するものであ ー一九六九 ) る。原理的には同様の実験によって原子の磁気 教授。・カルナップの影響を強く受け、西ドを歴任、幅広く活躍した。↓シュテファンーポ 、ンユテルン 0 ( ( 0 Stern ( 天 ィッにおける科学哲学運動の推進者として活ルツマンの法則 〈兵藤友博〉ドイツ ( 現ポーランド ) のソラウ生まれの物理モーメントの測定ができるが、ガラス板上で観 。いかなる学 学者。プレスラウ大学で物理化学の博士号をと 測される像の分離が小さくて実用にはならず、 躍。シュテークミュラーによれ、 シュテファンーポルツマンの法則 のほうそく黒体が出す熱放射エネルギーのり、ただちにプラハ大学へ行き、そこで会った ラービの分子ビーム法や核磁気共鳴法にとって 問分野においても思惟の自己弁明は論理的に不 けいじじよう 〈池上栄胤〉 可能である。科学にとって形而上学がかならす総量は、その絶対温度をとすると纒に比例すアインシュタインに従い、一年後チューリヒ大かわられた。 しも無意味でないとみなされたりするのはそのるという法則。一八七九年にシュテファンが実学へ移る (一九 IIII)O フランクフルト大学、ロス シュテルンハイム Carl Sternheim 八四年にポルツマンが熱カトック大学準教授を経て、一九二三年からハン ためである。とはいえ形而上学は真に科学の基験的に発見し、一 ー一九四一 D ドイツの劇作家、小説家。ライ 学を用いて理論的に証明したので、この二人の。フルク大学教授となった。ナチス体制下で予想ブツイヒの富裕な実業家の家に生まれ、後年は 礎たりえない。なぜなら形而上学がたてる問い された免職前 もまた同様の理由で真偽決定不可能だからであ名でよばれる。 」に、ユダヤ系の研究協力者解雇に プリュッセルに住んだ。表現主義文学を代表す る。おもな著作に『現代哲学の主潮流』 ( 一九 黒体の単位面積から単位時間に放射される電抗議して辞職し、アメリカに渡り、三三年からる一人で、簡潔にして奇警な文体と、辛辣な社 しんらっ

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せんべん とにより芯を繰り出すキャップスライド式、筆会長。一九一三年食変光星の大きさの決定法をあるリズム、機知と繊細な感覚にあふれた表現、グの先鞭をつけた。ヒッチコックへの傾倒から 記部と芯の両方の出し入れをノック操作ででき考案、近接連星の研究に貢献した。翌年ケフェ鮮明で大胆な和声をもつ。そのため彼は同時代サスペンスものが多く、『二重の鍵』 ( 一九五九 ) 、 め るダ・フルノック式などがあり、予備芯が自動的ウス型変光星の脈動説を提唱し、エディントン の作曲家を超え、サテイやラベルの音楽の先駆『ジャガーの眼』 ( 一九六五 ) 、『交換結婚』 ( 一九七一 D 、 に追従してくるものが多い。回転式は、らせんの恒星解析理論 ( 一九一一四 ) の基礎資料となった。者とされることもある。パリに没。〈美山良夫〉『ビオレット・ノジェール』 ( 一九七 0 などがあ 〈村山匡一郎〉 ほう 0 ル・シャプリエる。 パイプを伝わって芯を出し入れするもので、単また球状星団内脈動星に周期光度を適用し、そシャプリエ法 らせん式、交差らせん式 ( 二色式 ) 、先回し式の距離推定・空間分布から銀河系の形状と中心 法 シャベン cesar Estrada Chavez ( 一九 = 七 がある。ドロップ式は、芯を適当な長さに出しを見積もった。さらにマゼラン雲やアンドロメ ) アメリカの労働運動家。一九六〇年代 シャフリル 0 シャリル て固定する方式で、レッドホルダーとかドロッダ銀河などについて他銀河内脈動星によりその シャープール ( 一世 ) Shäpür 一生没年にメキシコ系労働者を組織化したことで一躍脚 プペンシルとよばれ、太芯の製図用である。最距離と大きさを提示した。晩年平和運動の組織不詳。ササン朝ベルシア第二代皇帝 ( 在位 = 四 = 光を浴びた。アリゾナ州ュマに生まれ、十分な 近では自動的に芯が出てくるノンストップ方式者として活躍。イギリス王立天文協会ほか諸学 ~ 一一七三 ) 。父アルダシール一世時代に養成された教育も受けられず、幼少のころから移動労働者 もある。芯径は〇・三、〇・五、〇・七、〇・ 〈島村福太郎〉 としての日々を過ごした。三五歳のころ、当時 会から多くの栄誉を受けた。 強力な軍隊を受け継ぎ、政治体制の中央集権化 九、リの四種類が一般的で、硬度は ~ まシャプリエ Emmanuel Chabrier ( 天四一を推進してササン朝の基礎を固めた。東はクシ西部の農園で過酷な労働を強いられていたメキ ↓シャ であり、〇・五ミリ芯にその種類が多い ー九四 ) フランスの作曲家。ピュイ・ド・ドーム シコ系季節移動労働者を連合農園労働者組織委 ャン帝国に攻撃を加えて中央アジアに進出し、 ープ ( 株 ) 〈野沢松男〉県のアンべールに生まれる。法律を学び役人と西はシリアに侵入して二六〇年にローマ皇帝ウ員会に組織化し、・ O—O に加入するこ al-Shahrastäni とにも成功した。非暴力の大衆行動を基本姿勢 なったが、早くから作曲、ピアノに習熟、オペレ アレリアヌスを捕虜とした。その勝利を記念し シャフラスターニー ( 一 0 七六ー二五三 ) イスラム教アシュアリー派の神 ッタ『星』 ( 一全七初演 ) などの成功を機に三九た浮彫りがナクシュ・イ・ロスタムやビジャプとし、サンオーキン平野の農園所有者に対する 学者。イランのホラサーンに生まれ、アプー スト ( 一九六五 ) 、サクラメントに至る三〇〇マイ 歳から音楽に専、いした。さらに一八、 ノ二年のス ール ( ともにイラン南部、ファールス州の遺跡 ) ル抗議行進 ( 一九六六 ) などが有名。また六九年に カーシム・アンサーリーから神学を学んだ。イベイン旅行の印象に基づく管弦楽の狂詩曲『ス の岩壁に刻まれている。従来の円形都市にかえ おこしたメキシコ国境一帯一〇〇マイル行進に スラム世界を広く旅し、三年間バグダードの一一 ペイン』 ( 一公 = 初演 ) で名声を確立した。ワー て、ギリシアの影響を受けた長方形都市を建設。 ザーミーヤ学院で教え、当代随一の学者との名グナーの楽劇の影響を受けたオペラ『グワンド ゾロアスター教を尊重するとともに、マニと親 は上院議員・ケネデイや黒人運動指導者・ 声を得た。代表作の『諸宗派と諸分派の書』 リーヌ』 ( 一公六初演 ) は彼の代表作とされる。交を保ち、マニ教を保護した。学問に関心が深・アバーナシーも参加したことから、同年の く、ギリシアやインドの医学、天文学、哲学な上院移動労働者小委員会では多くの支持を得 は、イスラム教内部の諸派の歴史をはじめ、キまた『絵画風の小曲集』 ( 一公一初演 ) 、『気まぐ 〈河内信幸〉 〈小玉新次郎〉 リスト教やインド・古代ギリシアの哲学の諸流れなプーレ』 (I<RI) などのピアノ曲は、生気ど多方面の文献を翻訳させた。 派などの記述を含んでいる。同書は、今日では シャー。フルック Sherbrooke カナダ、 シャーベット sherbet 果汁を主材料と 世と示ヌ , スず手ンジ 散逸して現存しない資料を多数引用しており、 ケベック州南部の工業都市。人口七万三〇〇〇して砂糖、香料、そのほか牛乳や卵白、ゼラチ 帝をアれプまはラビ ンなどを加えて凍らせたものを一般にシャー・ヘ 比較宗教学、イスラム宗教史の貴重な文献とさ ( 一九公 D 。マゴグ川とサン・フランソワ川の合流 ル皇とイらラざスイ 世一マこデけアひヌ 〈竹下政孝〉 れている。 点に位置し、モントリオールの東一三七キ。、アットという。食品の分類上は氷菓で、材料に牛 こルっ・てアるス ル一口っゴみスうリ メリカ国境に近い。鉄道の分岐駅で、農産物、乳や生クリームなどを用いたものでも乳脂肪が 、ンヤ。フラン Jean Chapelain ( 一五九五ー一六 一ヤの勝。踏プ請レて一 プシ人にりはツをアれアル 少ないので乳製品としては扱われない。シャー 七四 ) フランスの詩人、評論家。バリ生まれ。 畜産物の集散地でもある。付近の滝を利用し、 一の 3 い彫世リ平ウかフ一 ャ上 , 戦浮 3 イ和 フランス古典主義理論の確立に主要な役割を演 引部プ豊富な水力を得ることができるので各種製造業ペットの原型はトルコにあり、それが一六世紀 シ馬がのすスフはきを南ャ じた。アカデミー・フランセーズ創始時の会員 が発達し、とくに織物、メリャス製造業の一大にイタリア人によってフランスに伝わったとい 中心地である。木材の生産も盛んで、パルプ、われている。フランス語ではソル・ヘ sorbet と で、コルネイユの「ル・シッド論争」の際、ア リキュールなどの洋酒を果汁に加えて、 製紙の各工場がある。近くに石綿鉱山があり、 カデミーの意見公刊の主著者となった。長年に 一部液体が残るように凍らせた飲み物も意味す 採鉱用施設がある。また、電気工業や金属加工 わたり文壇に君臨したが、その理論を応用した 業も豊富な水力電気を使って行われている。アる。これは食事中のロ直しとしてアントレ ( メ 叙事詩「聖処女』 P ミ e ド ( 一六五六 ) の刊行は、 インの肉料理 ) のあとに供されたが、しだいに メリカ合衆国と結ぶ主要ハイウェーに沿ってい 識者、ことに若い世代、ボアローらの攻撃によ ちょうしよう るので夏季には観光客が多くなる。シャー・フル甘味の強い凍らせたデザートとして供されるよ って嘲笑の的となり、あわせてその勢威が急 〈山下脩二〉 〈福井芳男〉 ック大学の所在地。 うになった。果汁に水、甘味料、酸味料を加え 速に衰えた。 て凍らせただけのロあたりの固いものと、卵白 シャフロル Claude Chabrol ( 一九三 0 ー シャ。フリー Harlow Shapley ( 天会ー一九 ) フランスの映画監督。バリ生まれ。薬科やゼラチン、クリームを加えて泡立て、滑らか 七 (l) アメリカの天文学者。ミズーリ州ナッシ 大学卒業後『カイエ・デュ・シネマ』誌に映画な感触にしたものとがある。家庭でつくる場 ュビルに生まれる。同地の大学で数学、物理学 合、好みの果汁に水やワイン、砂糖、レモン汁 批評を書き、一九五七年にはエリック・ロメー を修め、一九一三年プリンストン大学でラッセ ゅせん ルと共著『ヒッチコック論』を出版。同年、妻などで味をととのえ、湯煎で溶かしたゼラチン ルに師事し、食変光星の観測をした。一四年ウ の伯母の遺産によって『美しきセルジュ』を自液、または泡立てた卵白を加えて容器に入れて っ イルソン山天文台のヘールのもとで球状星団内 しろうと 主製作して監督としてデビュー、その素人製作フリーザーで凍らせる。ほば凍ったら、スプー ード大学教 、ヘ変光星を観測。二一 ~ 五二年ハ と新鮭な映像で当時の映画界を驚かせ、第二作 ンでほぐすようにかき混ぜて、ふたたび凍らせ 7 や授および同大学天文台長。三九 ~ 四四年アメリ る。 〈河野友美〉 3 『いとこ同志』 ( 一九五 0 とともにヌー・ヘル・バー しカ芸術科学院長。四三 ~ 四七年アメリカ天文学 2 上 かぎ

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しゆとろ 授、四六年にキール大学教授となる。のちに同どころとして、師資相承の鎖 ( シルシラ ) のなでニューヨークに移住。スイスのアクセンシュ かに彼の名を含めている。著書としていくつか トーベンのほか、シューベル 大学学長、同大学世界経済研究所所長も歴任し タインで没。べー 〈竹下政孝〉 ト、プラームスの解釈で名をなし、欧米各地で た。一九三〇年代に双方独占・複占などの寡占の論文が残っている。 ー - にゆ・つ 理論や一般均衡論的限界生産力説の研究を発表シュナウサー schnauzer 哺乳綱食肉目演奏を続け、技巧的な弱点を指摘されながら し、その後・・ケインズの『一般理論』のイヌ科の動物。家畜イヌの一品種で、ドイツ原も、音楽を深いところで把握した風格のある表 普及にも努めた。主著には『経済理論入門』産。頑健でしつかりした体つきの犬種で、大現で聴衆を魅了した。 〈岩井宏之〉 じゅなん Passion キリストの受難と E ぎ、ミミぎ die ミ sc ぎ、ミ。斗全四巻形、中形、小形の三タイプがみられ、いずれも体受難 こうふん ( 一九四七 ~ 六一 l) がある。 〈大塚勇一郎〉型ははば正方形。被毛は針金状で堅く、ロ吻、贖罪死は『旧約聖書』の預言の中心的な主題 まゆげ であった ( 「イザャ書」五〇章六、五三章五を シュナイダー ReinhoId Schneider ( 一九目の上などに、ロひげ、眉毛状の長毛を有する。 ぎよう ふくいん ド入りをして大監督グリフィスの映画に出演。 0 三ー五 0 ドイツのカトリック作家。 ーデ大形のものはジャイアントシュナウザーとよば 「ルカ伝福音書」二四章二五 ~ 二七、「使徒行 おろし でん 一九年には監督第一作『アルプス颪』を発表し ーデン生まれ。歴史的素養と宗教的思索れ、農場作業犬、牧羊犬とされ、日本でも第一一 伝」三章一 八章三二 ~ 三五と比較 ) 。した じようじゅ た。三角関係の微妙な心理描写はハリウッド映 に基づく小説や評論を書いた。第二次世界大戦次世界大戦前は警察犬として活用された。体高がって旧約の預言の成就を記す『新約聖書』 エンドソル 画にかってないリアリティをもたらし、批評、 中は数多くのソネットや信仰告白的文書によっ 六〇 ~ 七〇。毛色は黒、ペバ には、キリストの最期に至る受難の記事は詳し 興行両面での成功を収めた。続いて『悪魔の合てナチスに抵抗、戦後は西ドイツの再軍備に反 ト、プラックエンドタンなど。中形はスタンダ く記されている ( 「マタイ伝福音書」二六 鍵』 ( 一九一一 0 ) 、『愚かなる妻』 ( 一九一一一 ) を発表、と 対するなど、現実問題にも積極的に発言した。 ードシュナウザーといわれ、体高四三 ~ 五〇七章、「マルコ伝福音書」一四 ~ 一五章、「ルカ セン 0 くに後者は彼の才能が十分に発揮されており、 本種が基礎となって大形、小形が作出され伝福音書」一一一一 ~ 二三章 ) 。そこにはキリスト 『カール五世とラス・カサス』 ( 一九三 0 など世俗 この映画における自然主義描写は大作『グリー 権力と信仰の対立を描いた歴史小説や評論『権た。牧羊犬、家庭犬として用いられ、毛色はペ教の信仰にとって中心的なもっとも重要な事件 おんちょう ーエンドソルト、黒である。小形のミニチュ が記されているだけに、わすか二日間のできご ド』 ( 一九一一四 ) で頂点に達した。しかし、飽くこ力と恩寵』 ( 一九四 0 ) 、『ウィーンの冬』 ( 一九五 0 かんべき となき完璧主義、常識を超える長尺化と予算超ほか多くのエッセイがある。 〈横塚祥隆〉アシュナウザーはテリアタイプの陽気で活発な とではあるが、非常に詳しく書かれている。そ すぎこしのまつり 過、感傷を拒否した露悪的人間観察はハリウッ シュナイダーハン Wolfgang Schneider- 犬種で、三種のうちもっとも人気がある。体高れは過越祭の二日前からのことであって、ユ ) オーストリアのバイオリン エンドソルト、 三〇 ~ 三五。毛色はペパー ドの製作傾向とあわす、『グリード』も結婚 han ( 一九一五ー ダの裏切りから書き始め、弟子たちとの最後の ばんさん 黒、。フラックエンドシルバーなど。各タイプと晩餐、ゲッセマネの園の祈り、逮捕、ユダヤ議 行進曲』 ( 一九一一七 ) も短縮版のみが一般公開され奏者。ウィョンに生まれ、一九二六年コペンハ ・ゴーラウンド』 ( 一九一三。 ーゲンでデビュー以来、ヨーロツ。ハ各地で天才も断尾し、断耳することもある。〈増井光子〉 会における審問、ペテロの否認、ビラトの裁 ウイド ー』 ( 一九一一五 ) 、出演少年として評判になった。ウィーン交響楽団、 共同監督 ) 、『メリー・ 判、むち打ち、いばらの冠、十字架背負い、処 シュナーベル Johann Gottfried Schna ・ 作に『大いなる幻影』 ( 一九三七 ) 、『サンセット大ウィーン・フィルハーモニーのコンサートマス bel ( 一六九一一 ー一七五一 l) ドイツの作家。ビッター ている。 〈野口誠〉 刑、死、埋葬と続い イギフラ Pas- 通り』 ( 一九五 0 ) など。五七年五月一二日フラン ターを務め、シュナイダーハン弦楽四重奏団をフェルト近郊のザンダースドルフ生まれ。ハル リスンス passlon 受難曲しゅなんきよく さんろく 、か / 、い・れ S10n マイナルディ スのモールバで没す。↓グリード〈岩本憲児〉主宰、さらに・フィッシャー ッ山麓のシュトルベルク伯爵家に仕え、週刊誌 『新約聖書』の四福音書のいずれか とピアノ三重奏団をつくり、室内楽でも活躍し 『シュトル・ヘルク新奇世界情報集』 ( 一七三一 ~ に伝えられるキリスト受難の物語に作曲された シュトロマイヤー Friedrich Stromeyer ( 一七七六ー一 0 一五 ) ドイツの化学者。ゲッティンゲた。六五年 ( 昭和四〇 ) 初来日。独奏者としてを発行。「一八世紀の愛読書」とうたわれた音楽。その歴史は長く、すでに初期キリスト教 ンに生まれ、同地の大学を卒業後、バリのポー は優雅で繊細な表現を持ち味としたが、情熱的『フェルゼンプルク島』四巻 ( 一七三一 ~ 四三 ) は時代には聖週間にキリスト受難が朗唱されてい たことが知られている。 クランのもとで分析化学を学び、生涯を鉱物のな力に乏しいため、真価を理解されないうらみ「ロビンソン・クルーソー風の物語」とユー 〈岩井宏之〉 ピア社会改造説との結合をみごとに描いた、文 分析に捧げた。一八〇二年ゲッティンゲン大学があった。 中世のローマ典礼では、単旋律の受難曲が用 化史的意義のきわめて深い叙事的写実主義の本 の私講師、一〇年に化学と薬学の正教授。ハノ いられた。物語に登場するイエスや群衆 ( トウ ジュナイド Abü 'l-Qäsim al-Junayd ー九一 0 ) イスラムの神秘家。早くから、お格的小説といわれる。 〈常本実〉 ヾー公国の薬局監督官を兼職し、一七年その ルバ ) および福音史家の役割が分担され、劇的 ・サカティーやムハ ーシビーなどの回常木実訳『南海の孤島フェルゼイフルク』 査察の際に、強熱すると黄色を帯びる不純な炭じのサリー な効果を出すために、朗唱する音域や速度も指 シ、ビ、ーと一レ」 7 も スーフィーに師事した。ムハ ( 一九七三・郁文堂 ) 定された。これが後のあらゆる受難曲の起源と 酸亜鉛に目を留め、このなかから新元素カドミ ウムを発見した。アラゴナイトの分析やヒ素化 なった。一五世紀中ごろになると受難曲は徐々 に、スーフィズムのバグダード派の代表者とみシュナーベル Artur SchnabeI ( 天 一九五 l) オーストリアのビアノ奏者で、二〇世に 長いものになるとともに、多声音楽による作 合物の研究、デンプンによるヨウ素の検出法のなされる。ビスターミーに代表されるスーフィ 紀最高のべートーベン演奏家の一人として名声曲づけがされていく。この多声音楽の典礼的受 発見などもある。リービヒに先駆けて大学に初ズムのホラーサーン派が、神のなかへの自己意 めての学生用実験室を設け、ブンゼンらの優れ識の「消滅」 ( ファナー fanä') と忘我的「酩を博した。リプニクに生まれ、九歳でウィーン難曲は、応唱的受難曲と通作的受難曲に分けら 〈内田正夫〉酊」 ( スクル sukr) を強調したのに対し、その名教師レシェティッキに師事し、急速に上れる。前者は、単旋律の福音史家の朗唱と、じ た化学者を送り出した。 の後にくる、高次の日常的意識への回帰である達、晩年のプラームスにその才能を注目されかに語りかける多声の部分が応答するもの、後 シュナイダー 0 シュネーデル かくせ、 た。一九〇〇年。ヘルリンに移り、独奏のはか室者は、福音史家を含めたすべての部分が多声部 シュナイダー Erich Schneider ( 一九 00 「残存」 ( バカー baqä') と「覚醒」 ( サフウ名・ (w) の状態を強調し、スーフィズムと聖法の内楽でも活躍、室内楽ではバイオリンのカー で扱われているものである。一六世紀イタリア ー七 0 ) 西ドイツの経済学者。ウエストファー 遵守の両立性を強調した。こうして彼は聖法を ル・フレッシュとの二重奏が評判になった。二ではイエスのことばが作曲される受難曲も出始 レン州ジーゲンに生まれる。ポン大学で・ ・シュンペーターについて経済学を学んだ。重視する穏健なスーフィズムに大きな影響を与五年ベルリン音楽大学教授に就任、多くの後進め、さらに一七世紀にかけて応唱的受難曲が数 多く生み出された。この時期の多声音楽による 一九三六年にデンマークのアールフス大学教え、多くのスーフィー教団は、その権威のよりを育てたが、三三年ナチスを避けスイス、つい シュトロ / 、イム 688

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しまだま に食物を盛り供える春盤の影響を考えることも綱マダコ科のタコ。体長九〇垰一ほどになる大形は議会活動と社会運動に専念した。大正一二年『子規・紅葉・緑雨』 ( 一九三五 ) 、『俳句の作り方』 おがさわら 〈村山古郷〉 できょ , っ 〈有山輝雄〉 ( 一九三六 ) などの著書がある。 〈井之ロ章次〉種で、紀伊半島から沖縄・小笠原までに分布す一一月一四日死去。 んねりゆ・つ 温亭忌われらのホ句も古りにけり しまだかすお ( 一九 0 九ー ) 推理作る。体は筋肉質で強固、皮膚には小顆粒が一面回木下尚江他編『島田三郎全集』全五巻 ( 一九一一四 島田一男 しまだとらのすけ ( 天一四ー五一 D 家。京都市生まれ。明治大学中退後、一九三〇 にあり、外套膜の背中線とその両側にリン光を ~ = 五・同書刊行会 ) ▽高橋昌郎著『島田一一一島田虎之助 なおちか けんぎん 年 ( 昭和五 ) 満州 ( 中国東北地区 ) に渡り、満発する縦縞が三 ~ 四列、各腕には同様の方形の 郎』 ( 一九五四・基督教史学会 ) ▽片子沢千代松幕末の剣術家。名は直親、硯山 ( 見山 ) と号 はんてん さんまく 著『島田三郎』 ( 『三代言論人集 4 』所収・一九した。豊後中津藩の下級士族島田市郎右衛門親 州日報社に社会部記者として勤務。終戦後の四斑点が二列並ぶ。傘膜は比較的広い。内臓諸器 ふさ 房の四男で、幼少より剣を好んだという。一三歳 七年 ( 昭和一一一 l) 『宝石』の懸賞入選作『殺人官はマダコ類とあまり変わらないが、墨汁嚢が 六三・時事通信社 ) とのだいっとう ( 一九 0 五ー ) 俳のとき、藩の剣術師範役、外他一刀流の堀次郎 演出』でデビュー。長編『古墳殺人事件』『錦退化的である。底生性のタコ類のなかでは、発島田正吾しまだしようご はっとり ほど 絵殺人事件』などを刊行。ジャーナリストとし光するものは現在まで一種も知られておらす、優。横浜市保土ヶ谷生まれ。本名服部喜久太左衛門のもとに入門。ここで断然頭角を現し、 八三二年 ( 天保三 ) 北九州、翌年南九州を歴 ての体験を生かした『社会部記者』で五一年、本種の場合もホタルイカなどの発光とは異な 郎。大阪の明星商業卒業後の一九二三年 ( 大正一 日本探偵作家クラ。フ賞を受賞、以降、達意な文り、一種のリン光 ( 外界の光によって発光能が 一 (l) 新国劇の沢田正二郎門下に入り、たちま遊、その後も近畿、山陽道に武者修行を続け、 じきしんかげ 章と庶民的な持ち味で「プン屋もの」を書き続残る ) を発するものである。同様のリン光を発ち頭角を現して二七年 ( 昭和一 l) には幹部に昇三七年の冬江戸に向かった。翌年春、直心影流 おだに け、五八年からはテレビ『事件記者』の脚本をするものにワモンダコがあり、この種も熱帯太進。二九年三月の沢田の急逝後その後継者に捩男谷精一郎と巡り会い、その内弟子となって免 てき しらのペんじゅうろう 数百編手がける。そのほか、刑事、弁護士、警平洋のサンゴ礁に多い 〈奥谷喬司〉擢され、同年『白野弁十郎』『沓掛時次郎』を許皆伝を許され、四〇年の東北歴遊後、独立し とり たつみ しまだこうそん ( 天穴ー九 0 明冶演じて好評を博し、辰巳柳太郎とともに新国劇て、浅草新堀に道場を開き、直心影流島田派と 察医、鉄道公安官を主人公にしたシリーズ、捕島田篁村 まぶた せきやた ものちょう てんばう 〈厚木淳〉時代の漢学者、文学博士。天保九年江戸・大崎の中心となった。『関の弥太っぺ』『瞼の母』な称した。その指導方針は剣心一致の精神を重ん 物帖などの作品もある。 かつりんたろう まかどかっすけちくぜん あざなけい またたび じ、門下に勝麟太郎、真角勝輔 ( 筑前 ) らを出 しまだぐみ幕末・維新期の政商。京 ( 品川区大崎 ) に生まれる。名は重礼、字は敬どの股旅物を得意とする一方、『霧の音』「ビル 島田組 せりふ たてごと いほをよそんあさかごんさい ^ 渡辺一郎〉 マの竪琴』などの現代劇にも、独特の台詞回し 都の豪商で、屋号を蛭子屋と称した。八代将軍甫、号は篁村。海保漁村、安積艮斎に学び、の よしむね かわせ しよ、つへい、一う しまだばんこん ( 天一一七ー一九 0 七 ) 明 吉宗から特別の恩顧を受け、幕府の為替方としち昌平黌に入学、さらに同校助教になる。諸による渋味のある重厚な芸風を示し、毎日演劇島田蕃根 すおう したや そうけい て十人組に属した。明治維新後、三井組、小野藩の招きに応ぜず、明治になり下谷に私塾雙敬賞 ( 一九五 0 、芸術選奨文部大臣賞 ( 一九七四 ) など治時代の仏教学者。周防 ( 山口県 ) 徳山藩の ぶんせい しようしゃ 〈藤田洋〉人。文政一〇年一二月二八日生まれ。幼名は円 組とともに、明治政府の財政的基礎の確立に努精舎を開く。のち高等師範学校、学習院の教を受けている。 てんしんこ によじようどうにんぎようかせんし せんおう しまだせいじろう ( 天究ー一九三 0 ) 真、如縄道人、暁華懺士、懺翁道人、天心居 め、政府から為替方ならびに府県為替方を命ぜ授を経て、東京帝国大学教授となる。明治三一 島田清次郎 じ げつちく ゃなか しん ト兇家。石川県の生まれ。旧制金沢一一中、金沢士、月竹道人などと称した。初め天台宗本山派 られ、三都を中心に創設された為替会社などに年没。墓は東京・谷中天王寺。清朝の考証学と しゅげんどう そうじゅ も参画している。江戸 ( 東京 ) 、大阪、京都を宋儒の義理をあわせとる学風を樹立した。著書商業学校中退。放浪生活のなかから小説『地を修験道教学院住職を務め、のち藩主の命により - 一うじよ、つかん あけがらす 拠点として、生糸、絹織物をはじめとする特産は『篁村遺稿』『篁村文稿』など。〈渡部正一〉超ゆる』 ( 一九一七 ) を執筆、歌人で評論家の暁烏興譲館の教授となる。一八七二年 ( 明治五 ) だいろく はや しまださぶろう ( 一会一一 ー一九一一三 ) 明敏の紹介で公表され、京都「中外日報』記者と教部省設置に際し大録に招かれてのち、内務省 物や年貢米あるいは貢租米の売買、官公預金の島田三郎 取扱いなどにも関係して富を蓄積した。しかし治・大正期の新聞記者、政治家。号は沼南。静なる。一九一八年 ( 大正七 ) 「地上』第一部を社寺局、内閣記録局などを歴任。この間、正確 ぎよう力、 かえい いくたちょう・一う 実力は三井組などに及ばず、一八七四年 ( 明治岡県出身。嘉永五年一一月七日、幕府御家の脱稿、翌年生田長江の推挙で新潮社から刊行で携帯便利な蔵経開版を発願し、福田行誡ら だいぞうきよう 七 ) 為替方の提供担保物件に関する規則改正が家に生まれる。沼津兵学校、大学南校、大蔵省された。天才肌の主人公が社会に反抗し、恋愛の協力を得て縮刷大蔵経を刊行した。また育 はたん 原因で、小野組とともに同年閉店、破綻した。附属英学校に学ぶ。一八七二年 ( 明治五 ) 『横する姿を描き、理想主義的な青年の共感を得児院の創設、聖徳太子の奉賛にも尽くした。明 〈金田諦応〉 ↓政商 〈加藤幸三郎〉浜毎日新聞』翻訳記者となり、同社社員総代島て、異常な売れ行きを示す。しかし、続刊され治四〇年九月二日示寂。 とよひろ シマダコ〔縞蛸〕 Arakawa's octopus \ 田豊寛の養子となる。元老院大書記生、文部大た第二部、第三部では概念的になり、末完に終島田墨仙しまだばくせん ( 天六七ー一九四三 ) 日 月冶十四年の政変 ( 天 わる。一一二年欧州旅行後は奇矯な言動が目だ本画家。本名豊。福井藩の島田雪谷の次男。初 0 ミ s 、 0 ミ 0 s きミミ・軟体動物門頭足書記官に就官したが、日 ~ しじよう こち、不遇のうちに精神病院で没した。はかに短め父に四条派を学び、一八九六年 ( 明治二九 ) 全 ) により下野。同年『東京横浜毎日新聞』し え おうめい 〉、第〕再入社、一一一一〔論を担当した。また嚶鳴社幹部とし編集『大望』 ( 一〈一一 0 ) 、評論集『勝利を前にし上京して橋本雅に入門し、本格的に画の修業 〈山田俊治〉を始め、日本絵画協会第三回共進会に出品した て立憲改進党の創立にも参画。八六年植村正久て』 (一九 llll) がある。 『致城帰途』で認められる。このころより歴史 から受洗し、以後はキリスト教的人道主義の立回『地上・・・ー地に潜むもの』 ( 一九七三・季節社 ) ゅうそくこじっ しまだせいほう ( 天 ー一九四四 ) 俳人物画の分野を志し、有職故実や漢籍を川崎千 場から言論・政治活動を展開した。とくに廃 嶋田青峰 しよう わせだ 娼運動には力を尽くした。第一回衆議院議員人。三重県生まれ。本名賢平。早稲田大学英文虎と信夫恕軒に学び、また日本古来の肖像画の 総選挙 ( 天九 0 ) に当選、以来病没するまで議会科を卒業し、国民新聞社に入社、一九一一年技法の研究に努めた。第五回内国勧業博覧会に ちから 政治家としても活躍。雄弁家として知られ、シ ( 明治四四 ) から『ホトトギス』の編集を担当出品した『大石主税刺鼠之図』で著名となり、 ど しのはらおんてい ーメンス事件弾劾演説は有名。当初は進歩党に し、二二年 ( 大正一一 ) 篠原温亭と俳誌『土文展、帝展に主として気品の高い歴史人物画を じよう 所属したが、のちには単独行動をとるようにな上』を創刊し、温亭没後これを主宰した。三発表した。ことに第五回新文展 ( 一九四一 D の司山 った。明治末期には足尾銅山鉱毒事件や労働問 四年 ( 昭和九 ) ころより新興俳句運動に加わっ鹿素行』は代表作となり、帝国芸術院賞を受け 〈星野鈴〉 題で活発な言論活動を行ったが、『東京毎日新て革新的作風に転じ、四一年危険思想に加担すた。 聞』 ( 『横浜毎日新聞』の後身 ) の経営は苦しる者として警察に検挙され、留置場に拘置中喀島田髷 しまだまげ若い女性の髪形の一種。 9 一九〇八年 ( 明治四一 ) 手放した。その後血したため帰宅を許された。『青峰集』 ( 一九一一五 ) 、 江戸時代初期に覆面の禁止があってから、女性 0 シマダコ 力いレ」、つ けっ / 1 一 = ロ かっ やま

5. 日本大百科全書 11

しんごんだらにみつごみつ ( 一九三四 ~ 四 l) 、『夫の記録』 ( 一九三 0 、『アンリ伯 種とは、個体間で交配が可能な一群の生物でもいう。同類の語に真一一一一口、陀羅尼、密語、密ン、ペギー、クローデル、。ンツドらと親交を結 ごんみようしんじゅみつじゅみつごう 父』 ( 一九四一 (l) などがある。また、信仰者的ある ぶが ( 彼らとの往復書簡集は有名 ) 、文壇的に あって、ほかの同様な生物群とは生殖的に隔離一言、明、神呪、密呪、密号などがある。真一一 = ロ、 、まモラリスト的観察に基づく多数の評論のほ は終始孤立を続ける。イプ・スカントレル、力しし されているもの、と定義してよいであろう。っ呪文といえば、なにか神秘的なまじないを連想 ぶつばさっ エルダル、セイプセなどの筆名を用いる。詩、か、直接自己を語る『回想』七巻 ( 一九五 0 ~ 七一 l) 、 まり、同種内の個体間では子孫ができるが、異するが、本来は仏菩薩の秘密語である。古くは ~ 〈三 ) など 種の個体間には子孫ができないということであインドの『リグ・べーダ』聖典における神々へ劇、旅行記、エッセイを手がけるが、つねに深『日づけのない日記』二八巻 ( 一九六一 あんぎや 〈長澤孝廣〉 がある。 い批評的省察を伴う。イタリア美術行脚ともい る。確かに、普通野外でみられる生物はそれその賛歌も一種の呪文である。中国においては道 しゆいしゅぎ voluntarism ー八日ー , つべき『傭兵隊長の旅』 Voyage C 。こミミ 主意主義 れ形や色彩などに種の特徴を示しており、似通教の呪禁の法との融合もみられる。↓真言↓ 〈小野塚幾澄〉 ( 一九一 0 ~ 三一 D 、エッセイ『私の兄の死について』の知性と意志はどちらが有力で他に勝るかとい った種でも一定の違いがあって雑種を生じるこ陀羅尼 う問題は、中世のスコラ哲学から生じたもので ( 一九 0 四 ) 以来、人間の苦悩、悲惨、死を芸術創 とがない。 しかし、なかには明らかに異なる二 綬じゅ①古代中国で、官吏の身分を表す印 ちゅう の鈕 ( つまみ ) の穴に通して身に佩びるための造にまで高める「偉大性」のテーマをみいだあるが、その場合、知性を上位に置く主知主義 種間に雑種を生じ、子孫を残すこともあって、 ひも に対し、意志を上位に置くのが主意主義であ 種の判定はかならずしも容易ではない。多くの紐。官位によってその色が異なり、たとえば金し、同時に、対象の核心を直観的にとらえ魂の 1 」かんじよ しじゅ ことばに置き換える独自の批評的方法を確立しる。人間の意志は知性によって決定されるので 印に紫綬が用いられた。『後漢書』に光武帝が 地方的な亜種に分化して、両極端の間では種間 わなこく はなく、それを決定する理由がなくても自由に 以上の相違が認められる種がある一方、外見的倭の奴国の使人に印綬を賜ったとあり、漢委奴た。時評集『生について』三巻 ( 一九 0 九 ~ 一一 l) 、 ハスカル、イプセン、ドストエフスキーの批評発動すると考えたイギリスのスコラ哲学者ドウ に区別が困難でも生殖的に隔離されている種も国王の金印には紫色の綬がつけられていたと思 ようろう ンス・スコトウスは、その代表者といえる。デ ある。生物の種の学名は二名式で、種の属するわれる。⑦養老の衣服令に規定された礼服に用的肖像を描く『三人』 ( 一九一三 ) を代表作として、 カルトもまた、人間の知性は有限であるが、意 いられる平組みの帯。衣服令には天皇について著作総数はおよそ八〇。なかでも『ヨーロッパ 属名 ( 大文字で始まる ) と種自身の小名 ( 種小 あ さいぐうき 志は神の場合と同様に無限であるとする点で、 名 ) を並記したもので、そのあとに小名の命名の規定はないが、『西宮記』に天皇礼服、白綬展望』 ( 一九三九 ) は、ヒトラーに偉大さの悪しき ばりぞうごん とあり、乳下に結び垂らすとある。③勲章、褒典型をみてとる、罵詈雑言批評の傑作とされ主意主義の系列に属する。 者を記すのが通例である。↓学名〈中根猛彦〉 る。 〈松崎芳隆〉 ところで広義では、意志を他のすべてに先だ Shu 古代エジプトの神話で、原初章、記章などをつけて垂らすための組紐や織り ー一九六七 ) っ根源的なものとみるのが主意主義で、たとえ 〈高田倭男〉 ジュアン AIphonse Juin ( 天会 の創造神から生まれた男神。同時に生まれた女紐。 フランスの軍人。陸軍元帥。アルジェリアに生ば、意志が世界や世界内の現象の本質であり本 、ンユアード William Henry Seward 神テフヌトの兄にあたり、シューは空気を、テ フヌトは水蒸気を表した。この二神はしばしば ( 天 0 一ー七一 I) アメリカの政治家。弁護士としてまれ、サン・シール陸軍士官学校を卒業。第一体であるとみるショーベンハウアーは形而上学 二頭のライオンの姿で表される。また、この一一世に出 ( 天 = = ) 、ホイッグ党のポス、ウィード次世界大戦に従軍し負傷した。大戦後は北アフ的主意主義の代表者であり、意志を人間の心の リカとくにモロッコでの勤務が長かった。第一一根本機能とみるドイツの心理学者プントは心理 <<ll) の援助でニュ 神から地の男神ゲ。フと天空の女神ヌトが生まれ Thurlow Weed ( 一七九七ー一 北フ主義的主意主義に属する。また総じて認識や思 ーヨーク州知事 ( 天三九 ~ 四一 (l) 、連邦上院議員次大戦では機械化師団長として・ヘルギー たが、父神シューは、初め抱き合っていた二神 ( 天四九 ~ 六一 ) を歴任。この間「一八五〇年の妥ランスでドイツ軍と戦い捕虜となったが、一九考が生活意志に基づいて展開されるとみるプラ を引き離したといわれ、墓陵の壁画などには、 頭上に羽毛をのせ、上方のヌトを支える姿で表協」、カンザス・ネプラスカ法案に反対、ドレ四一年ペタンの要求で釈放された。連合軍の北グマティズムの立場も、主意主義の一種といえ 〈宇都宮芳明〉 よう。↓主知主義 ッド・スコット判決を非難し、奴隷制との闘争アフリカ上陸後はその一翼として北アフリカ、 されている。その崇拝の中心地はレオントボリ イタリアに転戦し戦功があった。戦後は四七 ~ ジュイス・デ・フォラ Juiz de Fora ^ 矢島文夫〉 は「制しがたい衝突」と言明する ( 天五 0 な ス ( ライオンの都 ) であった。 Eugéne Sue ( 天 0 四ー五七 ) フランど、六〇年までに北部の反奴隷制感情を体現し五一年モロッコ総督、五一 ~ 五三年フランス陸プラジル南東部、ミナス・ジェライス州南部の た。また対外的には共和主義とナショナリズム軍総監、五三 ~ 五六年北大西洋条約機構軍中欧都市。リオ・デ・ジャネイロの北一五〇キ。、マ スの小説家。本名はマリ・ジョセフ・シュー ンテイケーラ山脈とセラドマール山脈の間の標 ハリ生まれ。代々高名な外科医の家に生を受を鼓吹し、共和党の有力政治家として、リンカ方面軍司令官などを歴任した。ドゴールのアル 高六五〇の高原盆地に位置する。人口二九万 ジェリア民族自決政策に反対し、六一一年退役さ ーン、ジョンソン両政権の国務長官 ( 一会一 ~ け、初め海軍軍医として艦隊に乗り込んだが、 父の死とともに文筆に専念。彼の名を一躍有名六九 ) を務め、南北戦争中はヨーロッパ諸国の介せられた。フランス陸軍の俊秀として同期のド九七二八 ( 一九ハ 0) 。ミナス南部の農牧業地域の にしたのは、新聞の連載小説『パリの秘密』入を防ぎ、イギリスとの外交危機を引き起こしゴールと比較されたが、ドゴールの政治的先見中心として発達し、メリャスを主とする織物、 たトレント号事件やフランスのメキシコ干渉問 性を欠いた。五二年以来アカデミー・フランセ醸造、精糖など六〇〇を超える工場があり、現 ト ) ミ嵶こ、 ) Paris ( 天四一一 ~ 四三 ) である。 〈平瀬徹也〉在、イギリスの援助で製鉄所がつくられてい ーズ会員だった。 パリの暗黒街にひしめく素性不明の男女、薄幸題を巧みに処理した。上院議員時代から、太平 る。気候は快適で、アレイジャジーニョ作の石 洋にまたがる「海洋帝国」建設を夢みていたジュアンドー Marcel Jouhandeau ( 天 の美少女、彼女を助ける気品にあふれた人物た 造彫刻のある教会や、マリアノ・プロコビオ博 ー一九七九 ) フランスの小説家。自身を描く ちが登場し、スリルと哀歓のドラマチックな展が、戦後膨張主義を推進してアラスカを購入し 〈山本正三〉 カ木物館などの名所もある。 「ゴドー氏」 Monsieur Godeau を中、いに、ロ 開につられ、新聞売場には読者の長蛇の列がで ( 天六七 ) 、カリブ海進出を図った。また、 < ・ジ ジュイスフルク 0 デュース・フルク きたという。これ以後、フランスでは新聞の連ョンソン大統領 ( 在任天六五 ~ 六九 ) を支持し南部空の田舎町シャミナドウールに生活するさまざ みん しゆいそん ( 一六一一九ー一七 0 九 ) 中国、明 との和解政策を進めた。 〈高橋章〉まな人々の苦悩に満ちた内面を、皮肉な寓意を朱彝尊 載小説が一九世紀末まできわめて盛んとなる。 あぎなせきちょう ー一九込めた神秘的新ロマン主義とよばれる文体で克末清初の文人、学者。字は錫鬯。号は竹咜。 シュアレス André Suarés ( 天穴 ほかに『さまよえるユダヤ人』 ( 天四四 ~ 四五 ) 、 一六歳で明の滅亡にあい、以後清朝に仕えず、 そ『七つの大罪』 ( 一〈 ~ 咒 ) など、いずれも大部哭 ) フランスの批評家。本名はイザック・フ明に描く作品群が大半を占める。『テオフィル エリックス・シュアレス。マルセイユ生まれの の青春』 ( 一九一一 D 、『バンサングラン家の姉妹』在野の学者、詩人として名が高かったが、康熙 〈宮原信〉 > の連載小説がある。 エコール・ノルマル・ンユベリュール くみつ ユダヤ人で、高等師範学校卒業後、教授資 ( 一九一一五 ) 、『ゴドー氏の内面』 ( 一九 = 六 ) 、『結婚した帝が知識人懐柔策として博学鴻詞科を設けた ゅ . 呪じゅ密教における三密のなかのロ密 ( 語 かんりんいん ゴドー氏』 ( 一九三三 ) 、『シャミナドウール』三巻際、五一歳で召しに応じて翰林院に入り明史編 4 し密 ) に相当する重要な実践要素で、「しゅ」と格取得に失敗し、文筆活動に専念する。ロラ レ

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ロ / く一ト・キヤノくコペン / 、一ヶン のトロッキー』 1931 年 1936 年 , スペインでの『人民戦線派 兵士の死の瞬問』で不世出の戦争写 真家として著名になった。 ハンガリ ーのユダヤ人として生まれ , ベルリ ン , バリを転々としつつ , のちにカ ルチェ・フレッソンらとマグナム・ フォトスを設立。インドシナ戦争で 爆死した マーガレット・バーク・ホワイト フォートペックの土曜日の夜 1 936 年 女流。 1 936 年に創刊された『ライフ』 誌にフォートペック・ダムの全容を 表紙写真として飾った。この作品は ダムエ事に働くキャンプの人たちを ルポルタージュしたもの。文明批評 的な眼をもった報道写真家で , 「ラ イフ』に数々の作品を残した 354

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いえなり ゆきなりあき 院大学教授。『社会学講義』 ( 一九哭 ) 、『社会心理順、斉明、斉彊 ( いずれも一一代将軍家斉の庶縄、水準器などを用いて見盤を水平もしくは垂 Combinatiom Cont 「 01' Confidence) は、そ なりあき 直にして測量する技法を金沢勘右衛門に学んの忍耐力と不屈の精神とともに有名。一九一二 学』 ( 一九五 l) などで、日本の社会学研究に烈子 ) と相続し、六代昭武 ( 水戸の徳川斉昭一八 な影響を与える。対日講和問題から六〇年安保男 ) は一八六七年 ( 慶応三 ) バリ万国博覧会のだ。一六八二年 ( 天和一 D 、師とともに津軽侯年 ( 大正一 ) 三井物産入社に伴いインドのカル カッタ出張所に配属、硬式テニスを始める。一 闘争期には、平和運動の指導者となる。その後 ために渡欧した ( のち水戸家を継ぐ ) 。八代好 に招かれ、藩内を測地し、国図を作成した。六 せんだっ 『現代思想』 ( 一九六 0 、「倫理学ノート』 ( 一九七一 l) 敏はわが国航空界の先達として知られる。↓ 一三六を望見・算定して、実測値と三も違三年よりべンガル選手権五回優勝。一七年出張 などで一一〇世紀思想を根本から問い直す作業を 〈上野秀治〉わなかったという。八八年 ( 元禄一 ) 辞去して先のプエノス・アイレスで南米選手権優勝。二 続けるとともに、清水研究室を主宰し、警世の清水建設 ( 株 ) しみすけんせつ建築中心の大江戸に戻り、塾を開いた。世に清水流とよば〇年ウインプルドン全英選手権二位。フェアプ とうりトつ きく 思想家としても活躍。 〈藤竹暁〉手建設会社。一八〇四年 ( 文化一 ) に棟梁とれ、規矩術中興の祖と称された。『規矩元法町レーの精神とスマイリー・シミーの愛称で一躍 回『社会心理学』 ( 一九五一・岩波書店 ) ▽『現代思 して清水喜助 ( 一天三 ー天五九 ) が江一尸・神田で創見一術』 ( 一七 0 六 ) 、『規矩元法別伝』 ( 一七 0 九 ) など人気者になる。一一一年日本初出場のデビスカッ くまがいいちゃ つきじ 〈石山洋〉プで熊谷一弥とともにチャレンジラウンド進出 想』上下 ( 一九六六・岩波書店 ) ▽『倫理学ノー 業。一八六八年 ( 明治一 ) 築地ホテル館を、続の著がある。 しゅんこう ー一九三三 ) 小説 という偉業をなす。この年マイヤーズ・ローン ト』 ( 一九七一一・岩波書店 ) しみずしきん ( 天穴 いて三井組ハウスを竣工するなど新しい西洋清水紫琴 〈六 ) 作曲家。建築を導入した。一九一五年 ( 大正四 ) に合資家。本名とよ。清水孫太郎貞幹の三女として岡テニス年鑑世界ランキング四位。長年日本テ一一 生月水攵月しみずおさむ ( 一九二ー 大阪生まれ。大阪外国語大学仏語科を経て一九会社、三七年 ( 昭和一一 l) 株式会社化を実現。山県に生まれる。一、 八一年 ( 明治一四 ) 京都ス界の指導者として活躍した。〈久保圭之助〉 三七年 ( 昭和一一 l) 東京音楽学校選科に入り、 この間、鉄筋コンクリート 工法など新技術にも府立第一高等女学校小学師範諸礼科卒業。八五回上前淳一郎著『やわらかなポール』 ( 一九全・ 文芸春秋 ) 作曲を橋本国彦らに師事。『インド旋律による積極的に取り組み、第一生命ビル、日比谷公会年民権家の代一一 = ロ人 ( 弁護士 ) 岡崎晴正 ( 正晴と 四楽章』 ( 一九五 0 ) や交響曲第一番 ( 一九五一 ) など堂などを施工した。第二次世界大戦後の四八年の説もある ) と結婚。奈良の大同団結運動に参 清水多嘉示しみすたかし ( 天九七ー一九〈 I) ( 昭和一一三 ) 株式会社清水組を現社名に変更。加し女権拡張のために活躍した。八九年岡崎と彫刻家。長野県に生まれる。一九一九年 ( 大正 の管弦楽曲によって注目された。『修禅寺物語』 いわもとよしはる きっちょむ 八 ) から二三年まで毎年二科展に絵画を出品。 ( 一九五四 ) 以来『俊寛』 ( 一九六四 ) 、『吉四六昇天』五〇年ころからのビル建設プームにのり成長、離別、上京して巌本善治主宰の女学雑誌社に入 二三年渡仏、プールデルに師事して彫刻を学 ( 一九七三 ) など多くのオペラを作曲し、戦後の創新丸ビル、。フリチストンビルなどを建設し、超社。清水豊子のほか生野ふみ子、つゆ子などの 作オペラ運動を担ってきた。四六年 ( 昭和二 高層ビルにも着手した。建築工事約八〇 % 、土名で探訪記などを執筆。九一年作家としての処び、サロン・ドートンヌに彫刻と絵画が入選。 一 ) 日本合唱連盟の創設に参画するなど、アマ木工事約二〇 % で建築の占める割合が高く、堅女作『こわれ指輪』を『女学雑誌』に発表し好サロン・デ・チュイルリー会員、サロン・デ・ こぎいよしなお チュア合唱団の育成にも努め、「月光とビエロ』実経営、民間建築に強いことで定評がある 。八評を博した。九二年古在由直 ( 後の東大総長 ) ザンデパンダン会員となり、二八年 ( 昭和三 ) 「山に祈る』など多くの人に親しまれる合唱曲五年の売上高は約九一一三五億円、資本金は三五と再婚。小説、随筆、感想などを諸誌に寄稿、帰国後は院展、国展、春陽会展などに出品し ^ 中村青志〉 を書いた。著書に『わがオペラの軌跡』 ( 一九七五 ) 七億円 ( 一九会 ) 。 強い人権意識に裏打ちされた作品が多い。九九た。四三年文展審査員となり、以後、文展、日 ほかがある。 〈吉見周子〉展の審査員を務めた。五二年 ( 昭和二七 ) サン 〈船山隆〉回清水建設株式会社編・刊『清水建設百八十年『移民学園』以後絶筆。 ハウロ・ビエンナーレ展に出品、芸術選奨文部 年』 ( 一九会 ) 回山口玲子著『泣いて愛する姉妹に告ぐーー古 ) 劇作 生水邦夫しみすくにお ( 一九三六ー わせだ 在紫琴の生涯』 ( 一九七七・草土文化 ) ▽『清水大臣賞を受賞、六五年日本芸術院会員、八〇年 家、演出家。新潟県生まれ。早稲田大学演劇科清水崑しみずこん ( 一九一一一ー七四 ) 漫画家。本 ゆきお ぜんぎ 紫琴全集』全一巻 ( 一九盒・草土文化 ) 在学中に処女戯曲『署名人』 ( 一九五 0 を発表。名幸雄。長崎市銭座町 ( 現天神町 ) 生まれ。長 学デ車」作 , 図せ ー一九一三 ) 明 一時、岩波映画で仁進とともにシナリオを書崎商業学校卒業。一九歳で家出して上京。街頭嘴水晴風しみすせいふう ( 天五一 年ズ留ル将敷ので構さ がんぐ 跖ン ロ スプア いたが、『狂人なおもて往生をとぐ』 ( 一九六九 ) で似顔絵かきを経て、一九三三年 ( 昭和八 ) ごろ治時代の玩具研究家。本名仁兵衛。江戸・神田 て にながわゆき プン だの視を 劇界での地歩を固めた。以後、演出家の蜷川幸から雑誌に似顔漫画を描き出し、漫画集団に所の生まれ。全国の伝承的な人形玩具類を初めて ラはルん中重風 イ 5 フ水ア」学を作 紹介した画集『うなゐの友』 ( 六編 ) の著者。 雄と組んで清新な作品を次々と送り出し、新世属。第二次世界大戦後、『新夕刊』『朝日新聞』 巧年清「像を滞性の の正 2 3 ごの馬刻も築師 丿ーになる。生来の厳しい清楚な 一八九五年 ( 明治二八 ) 、代々の家業 ( 運送業 ) 代の旗手となった。一九七六年 ( 昭和五一 ) 以嘱託を経てフー 男大 4 2 オ 高四しル騎彫品構はる 後は夫人の女優松本典子とともに木冬社を主宰心と、毛筆の太・細の線とが織り成した独自のをほかに譲って人形玩具愛好運 し、演出にも才能をみせている。代表作に『楽画風で和紙に描く。随筆・人物会見記などの文動に専心、「玩具博士」とよば 屋』 ( 一九七七 ) 、『戯曲冒険小説』 ( 一九七九 ) 、『わが魂章も希代の妙筆として知られる。おもな作品にれた。『うなゐの友』は彼の死 てきほ は輝く水なり』 ( 一久 0 ) 、『エレジー』 ( 一九会 ) な『筆をかついで』 ( 一九五一 ) 、『少年少女漫画集』後西沢笛畝が引き継ぎ一〇編ま 〈大島勉〉 ( 一九五一 (l) 、『かつば天国』 ( 一九五五 ) を代表作とするで完成。近世玩具研究の貴重な ど。八四年読売文学賞受賞。 かつばものや、『一筆対談』 ( 一九五七 ) 、『新絵本太文献とされている。〈斎藤良輔〉 回「清水邦夫の世界』 ( 一九全・白水社 ) 1 一さんきよう 〈陣内利之〉 生水監〔造しみずぜんそう 清水家しみずけ御三卿の一つ。九代将軍閤記』 ( 一九五九 ) などがある。 ーレげよし ー一九七七 ) 日本テニス史初 回『かつば天国』 ( 小学館文庫 ) 徳川家前二男重好を祖とする。重好は一七五八 年 ( 宝暦八 ) 一四歳のとき江戸城清水門内に屋清水貞徳しみずさだのり ( 一六四五ー一七一七 ) 江期を飾る国際的選手。群馬県出 やかた 敷地を与えられ、これを清水屋形と称したため戸中期の測量家。通称豊吉ヾのち太右衛門、九身。東京高等商業学校 ( 現在の ひぐちごん 郎兵衛、元帰または元帰斎と号した。樋口権一橋大学 ) 庭球部主将 ( 軟式 ) オ清水家とよばれる。翌年元服して徳川を姓と として活躍。学生時代の壁打ち す・し、屋敷も完成し、六一一年、十万石の領地を与右衛門 ( 小林義讎 ) が寛永年間 ( 一 ~ ( 話 ~ 噐 ) に オランダ人力スパルから伝授されたといわれ猛練習から生み出されたモット み・えられ、将軍の家族の一員として待遇された。 あつのすけ 四 O OZ (Concentration, し以後三度の中絶期間があったが、敦之助、斉る、コンバス、分度器、象限儀、磁石、間竿、 のり・」 なりかっ あきたけ けんぎお 清水多嘉示 3 209

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っ信託契約に基づき、総社債権者のためにその担や室内楽の様式は、古典派を準備するものとしマによる自然的過程を援助することにあり、医 こ保権の保存、実行を本来の任務とする会社で、 て高く評価されている。五七年三月三〇日マン化学を否定して瀉血などの排出療法を旨とし すうせい ハイムに没。長子のカール Carl Philipp Sta ・ た。このアニミズムは当時の機械論的趨勢に対 ゅ . 信託会社に限 0 て認められる。以上は社債関係 しにおけるものであるが、はかに証券投資信託や mitz ( ー一〈 0 一 ) 、および第四子のアントンする反動であったが、一八世紀後半の生気論の 貸付信託における受託会社がある。〈戸田修三〉 Anton Thadäus J0hann Nepomuk Stamitz 台頭の先鞭となった。 やきん ( 一七五 0 ー一含九 ) も作曲家、バイオリン奏者とし 化学における彼の影響は著大であった。冶金 シュタッスフルト Staßfurt 東ドイツ ク 西部、マクデブルク県の都市。ハルツ山地からて活躍し、マンハイム楽派を担う重要な作曲家や硫酸製造が重要産業であったこの時代には古 タ ュ 流下するポーデ川の渡河地点にある。人口二万となった。 ^ 樋口隆一〉代以来の四元素説は不十分なものとなってい シ ( 一九含 ) 。古くから知られる岩塩生産シュタムラー Rudolf Stammler ( 一会六た。シュタールはべッヒャーの色や可燃性の原 地。三十年戦争 ( 一六一 〈 ~ 四 0 後の社会不安や関 ー一九三 0 ドイツの法哲学者。ヘッセン州アル質「油性の土」をフロギストン ( 燃素 ) と改名る白いユダヤ人」と攻撃さえした。 税上の理由により、塩の採掘は中止された。しスフェルトの法律家の家系に生まれる。ライプし、燃焼とは可燃物中のそれが空気中に逸出す 一九〇五年、彼は、放電管中で生じた陽イオ かし・・リービヒによりカリ塩が植物栄養ツイヒ、ギーセン両大学に学んだのち、マールる過程であるとした。金属や硫黄、木は燃焼すンの粒子線 ( 陽極線 ) から放射される光のスペ となることが発見され、一 八六一年に世界最初。フルク、。 キーセン、ハレ、・ヘルリン各大学教授るとそれそれフロギストンおよび金属灰、煙霧クトルを、粒子線の方向とその反対方向に分光 のカリエ場が建設されて以来、カリ採掘が大規を歴任した。マールプルク学派の新カント主義 ( 水と結合して硫酸になる ) 、灰を生成する。植器を置いて観測し、静止した粒子から出される 〈佐々木博〉 模に行われている。 に立脚し、経験的な法内容に論理的に先行する物は空気中のフロギストンを吸収してそれに富それに特有のスペクトルと比べ、光のドップラ ー効果を発見、また電場中に原子や分子を置く シュターデ Frederica von stade ( 一九法の「純粋形式」を追究した。カントによる純み、金属灰は木炭からそれを得て金属となる。 ) アメリカのメゾ・ソプラノ歌手。ニ粋理性と実践理性との区別に対応して、法概念 フロギストン自体は単独では存在せず、直接のとスペクトル線が分岐することを、水素の陽極 ュージャージー州ソマービル生まれ。父はドイ と法の究極目的たる法理念とを区別し、前者を知覚はできないとした。また、定量的不整合、 線を光源として確かめた ( 一九一三 ) 。この二発見 ッ系、母はアイルランド系。一一ユーヨークで学「自主的、不可侵的に結合する意欲」と規定し、性質を担う元素という古い思考様式などの弱点 により一九年ノーベル物理学賞を受賞した。↓ び、メトロポリタン歌劇場のオーディションに シュタルク効果 〈藤井寛治〉 後者を「自由に意欲する人間の共同体」に求めをもっていた。しかし、酸素などの気体の知ら 合格し端役に出演したのち、一九七三年同歌劇 た。法理念とは「正法」の理念にほかならない れていなかった当時、酸化現象一般をフロギス こうか電界の中に置 シュタルク効果 場でロッシーニの『セビーリヤの理髪師』のロジ が、これは、形式は不変でも内容は歴史的に変トンという物質の移動によって統一的に理解し かれた原子や分子のスペクトル線が、電界の作 ーナを歌い成功。技巧の確かさ、端正な表現と 化し、それゆえ「内容可変の自然法」であると た理論は化学者の支持を受け、一八世紀末にラ用によって分裂する現象。一九一三年ドイツの 気品、美声で、短期間に世界の主要歌劇場、音主張した。シュタムラーの思想は法哲学におけ ボアジェによってとどめを刺されるまで一時代物理学者シュタルクによって発見された。分裂 楽祭で活躍するようになった。 〈美山良夫〉る新カント主義の興隆を促し、自由主義的色彩を画した。↓フロギストン説 〈肱岡義人〉の大きさが電界の強さに比例する一次効果と、 の濃い諸原理がそこから導き出されていると評回川喜田愛郎著『近代医学の史的基盤上』 シュタード一フー Ernst Stadler ( 天 二乗に比例する二次効果がある。前者は、水素 ー一九一四 ) ドイツの詩人、学者。独仏国境アル されているが、「近代的大工場で空気を製造す ( 一九七七・岩波書店 ) ▽島尾永康著『物質理論または水素類似原子 ( 原子核のほかに一個だけ るようなもの」と・ウェーヾ ノーに酷評された の探求』 ( 岩波新書 ) ザス地方の出身で、大学在学中の一九〇二年に 電子をもっ原子またはイオン。たとえばヘリウ シッケレらと『シュトウルマー』 ( 前衛 ) を創 ムイオン He + ) においてのみ現れるが、大き ことは有名である。結局、おおげさな理論構成シュタルク Johannes Stark ( 天七四ー一九 にもかかわらず、相対的に一般性の高い実質的五七 ) ドイツの実験物理学者 刊、アルザス精神文化を理想として掲げる。世 。ババリアの地主さは一般原子においてもみられる二次効果より せんしよう の子として生まれる。一九〇六年ハノー 紀末的な詩集『前奏曲』 ( 一九 0 五 ) のあと数年間 規範に「形式」の普遍妥当性を僭称させるとい ーエはるかに大きい。二次シュタルク効果の観測に う単純なトリックに依拠しているといえよう。 沈黙し、イギリス留学中もドイツ文学やシェー 科大学講師となったが、前任者と衝突して、〇は、きわめて強い電界を必要とするので、真空 クスピア受容史の研究に専念。プリュッセル大主著は『経済と法』 ( 一兊九 ) 、『正法論』 ( 一九 0 一 D 、九年アにヘン工科大学へ教授として移る。ゲッ 放電の陰極電位降下現象を利用したロ・スルド 〈井上達夫〉 学に招かれたころから、詩作、評論、フランス『法哲学教科書』 (一九 llll) など。 ティンゲン大学の教授を望むが果たせす、グ一フ法が用いられている。また、放電などによって 文学紹介にも力を注ぎ、詩集『出発』 ( 一九一四 ) シュター ル Georg Ernst Stahl ( 一六六 0 イフスワルト大学 ( 一九一七 ) を経て二〇年ウュルっくられるプラズマ中に水素原子やヘリウムイ ー一七三四 ) ドイツの医学者、化学者。プロテス で初期表現主義の一翼を担った。第一次世界大 ツ・フルク大学教授になるが、ここでも同僚たちオンが含まれていると、そのスペクトル線は周 〈飛鷹節〉タントの牧師の子としてアンスノ 戦で戦死。 ヾハに生まれと折り合わず二年後に辞職した。故郷で始めた囲にあるイオンや電子の影響を受けて幅が広く る。イエナ大学で医学を修めたのち、ワイマー 磁器業にも失敗し、職を求めていたとき援助し シュター、、、ツン Johann WenzeI An- なるので、プラズマ中のイオンや電子の密度の ton Stamitz ( 一七一七ー五七 ) ドイツの作曲家、ル侯侍医、ハレ大学教授 ( 一六九四 ) を経て、プロてくれたのが、ユダヤ人の物理学を攻撃してい 測定に用いられる。 〈尾中龍猛〉 イセン宮廷医 ( 一七一五 ) となる。「真正医学論』 ハイオリン奏者。六月一九日ポヘミアのニエメ たレーナルトであった。ナチスの権力奪取後、 シュタルケル Jånos Starker ( 一九 = 四ー おう ッキ・プロット ( 現ハ。フリーチクープ・プロッ ( 一七 0 七 ) や『硫黄についての論争』 ( 一七一 0 など三三年国立物理工学協会会長に、翌年さらにド ハンガリー出身のアメリカのチェロ奏者。 ト ) に生まれる。一七四一年、故郷を出てマン多数の著作を著す。 ィッ研究財団団長に就任、後者は二年後に辞め生地の。フダベスト音楽院で学び、プダベスト歌 しゅんべっ 医学理論において、生物と無生物とを峻別 ハイム宮廷に入る。ここでプファルツ選帝侯カ させられ、前者を三九年に引退した。彼は前半劇場の首席チェロ奏者となる。一九四六年フラ ール・フィリップとその後継者カール・テオド し、前者にはその活性原理である非物質の理性生において、後述のように新しい物理学の最前 ンスに移り、さらに四八年渡米、ダラス交響楽 ールの宮廷楽団をヨーロッパ屈指の水準に育て的「アニマ」が存在し、生命諸活動を統轄する 線で役割を果たしながら、後半生では、量子力団、メトロポリタン歌劇場、シカゴ交響楽団の 上げ、いわゆる前古典派マンハイム楽派の創始というアニミズムを唱えた。疾病はこのアニマ 学や一般相対論に反対し、ハイゼンベルクたち各首席奏者となる。五四年アメリカの市民権を ごびゅう 者となった。その新鮮な技法に根ざした交響曲の誤謬や外部からの阻害から生じ、治療はア一一を、アインシュタインの心をもつ「科学におけ得て、五八年インディアナ大学教授に就任。以 660

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回柴田実編『日本思想大系貶石門心学』 ( 一九郎、久保秀雄、渡辺篤、薬師寺英次郎、奥貫一その毒性色素の構造を決定、五九年それらの研 七一・岩波書店 ) ▽石川謙校訂『鳩翁道話』男、山口清三郎、服部静夫ら多くの植物学者が究で日本薬学会賞を受賞。六九年レオポルディ 〈佐藤七郎〉ナ・ドイツ科学者アカデミー会員。七三年「菌 育てられた。 ( 岩波文庫 ) しばたけいた しばたしよう ( 一九三五ー ) 小説家。類および地衣代謝産物の研究」により日本学士 柴田桂太 ( 一 0 七ー一九四九 ) 植物柴田翔 しようけい 寺生理化学者。薬学者柴田承桂の長男として東東京生まれ。東京大学独文科卒業。一九六〇年院賞を受賞。正倉院薬物調査員、東大薬学部 蓮 京に生まれる。一八九九年 ( 明治三一 D 東京帝 ( 昭和三五 ) 同人誌に発表した『ロクタル管の長、日本薬学会会頭、明治薬科大学教授などを 西 国大学理科大学植物学科を卒業、その後タケ類話』で注目される。翌年、修士論文を改稿した歴任。著書に『地衣成分の化学』 ( 共著・一九 井 福 の形態学的研究に従事、ササ属の新設に寄与し『親和力研究』でゲーテ賞を受け、ドイツに留五四 ) 、『植物成分の生合成』 ( 共著・一九六五 ) 、『薬 像 た。一九〇七年 ( 明治四〇 ) 第一高等学校教授学。六四年『されどわれらが日々ーーー』で第五用天然物質』 ( 共編・一九全 ) など。〈根本曽代子〉 あくたがわ しばたぜしん ( 天 0 七ー九一 ) 幕末か となり、東北帝国大学教授 ( 一九 0 八 ~ 0 九 ) を経一回芥川賞を受ける。「六全協」「スターリン 柴田是真 たちばな て、一〇年東京帝国大学理科大学講師となる。批判」以降の政治世代に属しており、左翼運動ら明治の漆工、絵師。江戸・両国橘町生まれ。 れいさい たいりゅうきょ ざせつ 田同年ドイツに留学、ライブツイヒ大学のプフェ の分裂や挫折の渦中に、新しい生を模索してゆ通称順蔵。幼名亀太郎、号は令哉、対柳居、 ・一まかんさい ちんりゅうてい ッファーのもとで植物生理学を、フランクフル く学生像を好んで描いている。小説に『贈る一 = ロ枕流亭。一一歳で蒔絵師古満寛哉に入門、 ( 一九六六・吉川弘文館 ) ▽高柳光寿著『賤ヶ岳トのゼンケンベルク研究所のフロイントのもと葉』 ( 一九六六 ) 、『鳥の影』 ( 一九七 l) 、『立ち尺、す明六歳のとき四条派の鈴木南嶺に絵画を学び、二 之戦』 ( 一九大・春秋社 ) で有機化学を学び、一一一年帰国して助教授とな 日』 ( 一九七一 ) 、『われら戦友たち』 ( 一九七三 ) 、評論四歳の春、京都に遊学し、南嶺の紹介で岡本豊 らい亠こんよう に『ゲーテ「ファウスト」を読む』 ( 一九会 ) な彦につく。また頼山陽と交わり、和歌を香川景 しばたかつね ( 一三 0 五ー六七 ) 南北朝り、一八年 ( 大正七 ) から退官 ( 一九三 0 まで教 斯波高経 おわりのかみしゆりのだいぶ ま・」と力い・一うたけし かずみ まつぎのぶひこ 時代の武将。孫三郎、尾張守、修理大夫。法授として日本の植物生理化学・生化学の基礎をど。小田実、開高健、高橋和巳、真継伸彦と樹に学ぶ。二七歳のとき、南嶺より号是真、 どうちょうむねうじ げん・一う あぎなたんぜん 号道朝。宗氏 ( のち家貞か ) の子。元弘の変築き、開拓者として功績を残した。一三年に植季刊同人誌『人間として』 ( 全一二冊 ) を刊行。字俯然を贈られ、これまでの号令哉を改めた。 あしかがたかうじ えちぜん 〈古林尚〉 以来足利尊氏に従い、越前守護となり、一三一一一物生理化学の欧文誌『アクタ・フィトキミカ』東京大学教授。 一八四〇年 ( 天保一一 ) 二月、江戸住吉明徳講 にったよしさだ 』『われら戦友たの依頼で王子稲荷社に絵馬『鬼女図額面』を制 八年 ( 延元三・暦応一 ) 新田義貞を討ち滅ばを創刊。退官後は岩田植物生理化学研究所を主回『されどわれらが日々 わか寺」 し、ついで越前を平定。一時若狭守護を兼ねた宰し、一時、徳川生物学研究所所員となり、四 ち』 ( 文春文庫 ) ▽『贈る言葉』『鳥の影』作奉納、その迫力ある筆致と気魄に満ちたみご かんのうじようらん が、尊氏に冷遇されたため、観応の擾乱には とな表現は江戸中の人気の的となった。同稲荷 一年 ( 昭和一六 ) から資源科学研究所所長を務 ( 新潮文庫 ) ただよし ただふゅ いばらぎどうじ し、よこしょ , っナ・、 ( 一会九ー一九一 0 ) 社には代表作の『茨木童子図額』も現存してい 足利直義に味方した。その後も足利直冬にくみめた。研究業績には植物のフラボン体の研究柴田承桂 かわり せ、ルしー おわり してふたたび背したが、 る。のち変塗りの青海波塗りや青銅塗りなどの 、五六年 ( 正平一一・延 ( 一九一八年、帝国学士院恩賜賞受賞 ) 、ミズ一一薬学者。薬学博士。尾張藩医永坂周二の次男に 文一 ) 幕府に帰順し、六二年 ( 正平一七・貞治 ラ精子の立体異性化合物に対する走化性、花の生まれ、同藩医柴田家を相続した。一八七一年技法を駆使して、是真流の漆芸を完成させた。 よしまさ かんれい 一 ) 四男義将を幕府執事に推して後見し、管領色素、多糖体、タンバク質の構造、微生物の呼 ( 明治四 ) 官命でベルリン大学に留学、ホフマ らのて蒔 よしあキ一ら す形漆銀 とよばれた。六六年将軍義詮に疑われて義将吸・代謝、チトクロム、成長素、光合成など多ンに有機化学を、ミュンヘン大学べッテンコー った黒のる 箱乙 館ニせを肉 ファーに衛生学を学ぶ。七四年東京大学教授に らとともに越前に逃れ、翌年七月一三日同国杣方面にわたる生化学的研究がある。その影響の やま 菓縦高物をわ烏薄て 山城 ( 福井県南条郡南条町阿久和 ) で病没し もとで田宮博、森健志、小倉安之、宇佐美正一就任、薬学教育を創始した。七八年内務省衛生 博箱合 うじつね 真報代 5 立のみは地現 た。なお、弟家兼は奥州探題、二男氏経は九州 行政指導参与。翌年公衆衛生の原典『衛生概 是《時巧国形組箱全表 へんさん 田・治 鷺 8 京方てのはで 探題となった。 論』を著す。第一版日本薬局方の編纂に次い 柴「 " 明横東長せこ鷺絵 しばたきゅうおう ( 一大三 ー天三九 ) で、初の薬律起草に貢献した。また官設製薬事 柴田鳩翁 とおる せきもんしんがく 江戸後期の石門心学者。名は亨、通称謙蔵、鳩 業達成を主導した。赤十字社創設委員。退官後 きゅうけいあん てんめい 翁・鳩継庵と号す。天明三年五月五日、京都 著述に努め薬学振興を助成した。日本薬学会名 ひきやく 誉会員。著書に『扶氏薬剤学』 ( 一 / ノ の飛脚業奈良物屋吉兵衛の子に生まれる。幼年 鏡用法』 ( 一公 l) 、『普通鉱物学』 ( 一九 0 五 ) ほかが 時代より生家困窮のため諸方を流浪したが、一一 ある。長男桂太は植物学者、次男雄次は化学 八歳のとき軍書講釈師として成功する。やがて さったとくけん とひもんどう 〈根本曽代子〉 者、孫の承二は薬学者である。 『都鄙問答』を読んで感動し、薩埋徳軒を知っ ) 薬学 て心学に関心を寄せ、一八二五年 ( 文政八 ) 四 柴田承ニしばたしようじ ( 一九一五ー 者。薬学博士。東京出身。東京帝国大学薬学科 三歳のときに年百両という高収入の講釈師をや あさひなやすひこ めて、「乞食覚悟」で心学布教に専念。四五歳 卒業。朝比奈泰彦の下で漢薬・地衣成分を研 てんばう で失明したが、天保一〇年五月三日五七歳で没 究。東大南方自然科学研究所・同大学薬学科助 教授を経て、一九五〇年 ( 昭和二五 ) 生薬学講 するまで精力的に活動を続けた。その教化は、 座担任教授となる。五三年ロンドン大学衛生熱 せ庶民はもとより、各地代官・諸藩士や京都所司 くギ一よ、つ 帯医学校教授レイストリックの下で糸状菌ペニ オ代・堂上公卿にまで及んだ。彼の平易で巧みな シリウム、イスランジクムの色素を研究。この ま舌術は『鳩翁道話』にまとめられ、心学道話の おうへんまい し代表的著作の一つとなっている。〈今井淳〉 菌は当時社会問題を提起した輸入黄変米菌で、 だ いえかね つ そま 太 田 柴 柴田承桂 まきえ 人云 なんれい 123

10. 日本大百科全書 11

しゆとろ はくだっ 、ンユトレー、、 の時間的隔たりは、諦念的雰囲気を醸し出すの占領、インフレの危機に際しワイマール共和国 剥奪され、五二年から一二年間亡命生活を強い へ Gustav von Struve ( 天 に役だっている。時は移ろいやすく、生あるもの首相として事態を乗り切った。以後死ぬまで 0 五ー七 0 ) ドイツの政治家。一八四〇年代にジャ られた。まずポッダムの陪席判事となり、五六 ーナリストとして西南ドイツで反政府運動を指年にはザクセンのハイリゲンシュタットに移のはかならず滅ぶとの諦念的運命観は、繊細な歴代内閣の外相を務めた。彼は、ドイツの経済 ばつばっ 導、一八四八年三月革命の勃発後「準備議会」り、地裁判事となった。その間ベルリンでアイ感性、豊かな叙情性とともに、シュトルム文学力の回復を基に、ドイツの強国への復帰、・ヘル で連邦共和制を提唱、その実現のため四月に南ヒエンドルフ、フォンターネ、ハイゼらの知遇の基調をなすものであり、彼の作品がとくに日サイユ体制の除去を目ざし、ドーズ案受け入れ による賠償問題の正常化、二五年のロカルノ条 ーデンで起、さらに四九年五月にも帝国憲を得る。六四年、故郷の地がドイツに帰属する本人の共感をよぶのもこのためである。人間は 法戦役で革命に身を投じた。その敗北後、スイ とともにフーズムに呼び戻され、行政と司法を最後にはひとり寂しく滅びゆき、人々の記憶か約、一一六年ドイツの国際連盟加入など、内外の 安定化を図って「シュトレーゼマン時代」とい ら消え去ることを彼は悲しみ、『城の中』 ( 天 ~ 六三 ) 、この間 つかさどる代官に選ばれた。六七年には行政組 スを経てアメリカに亡命 ( 天五一 六 l) では「愛もまた死すべき人間の一人身の孤われる外交上の一時期を築いた。二六年フラン 南北戦争において北軍側で戦った。〈末川清〉織の改革に伴い区裁判所判事となる。八〇年に しょ・つゆ・つ ス外相プリアンとともにノー・ヘル平和賞を受け ー一九職を辞して近郊の小邑ハーデマルシェンに隠独に対する不安にほかならない」と語ってい シュトルーベ Otto Struve ( 天九七 〈木村靖二〉 ている。 八年七月四る。こうした考えを反映して、彼の作品には、 六三 ) ロシア生まれのアメリカの天文学者。フ棲、静かな創作の日々を送り、 そうそん シュトロウカル Lubomir の( 「 ougal 家族や恋人との別離を好んで描き、主人公の悲 リードリヒの曽孫で、カルコフに生まれる。同日、七〇歳で同地に没した。 ) チェコスロパキアの政治家。南ポ 劇的な死をもって終わるものが多い。しかもそ ( 一九一一四ー 彼は生涯の大半を法律家として過ごしたが、 地の大学で天文学を修めたが、途中第一次世界 ヘミア出身。一九四五年プラハ大法学部入学と の死は、文字どおり『水に沈む』 ( 天七六 ) が、 大戦に従軍。ロシア革命後トルコに亡命し、一そのかたわら、愛や自然、ときには政治を歌っ そして『後見人力ルステン』 ( 天七七 ) や『白馬同時に共産党加入、卒業後地区の党書記とな 九二一年叔母の紹介でヤーキス天文台のフロスたおよそ四五〇編の詩と、約六〇編の中短編小 り、五八年から党中央委員、五九年から中央委 会 0 が示すように、水や高波によ ラーべなどとともにドイの騎者』 ( 一 トに招かれ、恒星の分光学的研究に着手、二三説を書き、ケラー 年シカゴ大学で学位を得、二七年アメリカ市民ツ・詩的リアリズムの代表的作家に数えられって引き起こされる点も特徴的である。彼にと書記となった。五九 ~ 六一年農林相、六一 カオス って水あるいは海は生命の源ではなく、混沌や五年内相を歴任。中道保守派であったが、六八 となり、三〇年準教授、三二年ャーキス天文台る。小説家としての創作活動は、「わたしの小 説は叙情詩から出発した」といっているよう死を象徴するものであった。このように彼の美年四月に副首相兼経済評議会議長に就任した。 長、三九年マクドナルド天文台を完成、五九 ~ あんうつ 同年八月のソ連の車事介入後、七〇年一月に改 六二年国立電波天文台長。その研究成果は広範に、叙情的・ロマン的要素の強い第一期、『一一一しく、また哀しい作品は、暗鬱な北海の厳しい 自然のなかから生まれたものであり、故郷の世革派のチェルニークにかわって首相になり、現 で、連星・特異星・早期型星・変光星・星間物色すみれ』 ( 天七三 ) 、『人形使いのポーレ』 ( 天 〈木戸蓊〉 七四 ) 、『静かなる音楽家』 ( 天七五 ) など性格描写界と強く結び付いている。諦念の美学を尊び、在に至っている。 質などについて理論、観測両面の活躍をしてい シュトロスマイエル Jos ぎ Ju 「三幻 ros ・ る。また惑星および恒星の進化論にも貢献しや心理分析に鋭さを加えた第二期、そして感傷故郷を愛する日本人の心情にこれほどかなった ていねん ↓人形使いのポーレ↓白 majer ( 天一五ー一九 0 五 ) クロアチアのカトリッ た。国際天文学連合の会長、王立天文協会金賞と諦念の世界から離れ、叙事的・写実的傾向を外国作家も珍しい 〈平田達治〉 ク司教、政治家。クロアチアに住むドイツ人軍 〈島村福太郎〉 一段と強めた第三期に分かれる。とくにこの最馬の騎者↓みずうみ の栄誉を受けた。 後の時期には、『水に沈む』 ( 天七六 ) 、『グリース回高橋義孝他訳『シュトルム選集』全八巻 ( 一九人の家に生まれる。学生時代からチェコの汎ス 、ンユトルム Theodor Storm ( 天一七ー ラ。フ主義者コラールらと接触し、南スラ・フの統 五九 ~ 六 0 ・清和書院 ) フース年代記』 ( 一公四 ) 、『白馬の騎者』 ( 一、 八 0 ドイツの小説家、叙情詩人。九月一四日、 一・独立を目ざす一八三〇年代のイリリア連動 「灰色の海辺の町」と自ら歌った北海に臨む港など、古文書を手掛りに過去の人間の情熱や悲シュトレーセマン Gustav Stresemann ー一九元 ) ドイツの政治家。第一次世界大の支持者となった。四八 ~ 四九年の革命時に 町フーズムに生まれる。キール、ベルリンの両劇を再現する年代記小説、自己の運命に戦いを ( 天天 大学で法律を学び、その間モンムゼン兄弟と知挑んで劇的な最期を遂げる人物を主人公とする戦前、ザクセン工業家団体の組織者として頭角は、牧師としてウィーンに滞在し、チェコの歴 り合い、共同で詩集を刊行。一八四三年には郷運命小説の名作を書いた。彼の文学は北独フリを現し、国民自由党国会議員となった。大戦中史学者パラッキーと出会い、ハプス・フルク帝国 は大規模な領土併合を支持する主戦派の一人との連邦的再編成という彼のオーストリア・スラ ースラントの厳しい風土と生活に深く根ざし、 里の町で弁護士を開業。そのかたわら創作の筆 して知られた。敗戦後、国民自由党の主流派を。フ主義的な考えの影響を受けた。六一年、ハン も進め、叙情詩のほか、哀愁に満ちた追憶の世その対象とする世界は限られてはいるものの、 界を繰り広げる『みずうみ』 ( 天四九 ) 、『アンゲ内面的真実性と悲しいまでの純粋さに貫かれて率いてドイツ人民党を創設、党首となり国会議ガリーとクロアチアの平等を唱えて人民自由党 リカ』 ( 一会五 ) など、繊細な感性と情趣に富おり、時と所を超えて広く読む者の心を打つ。員として活動。当初帝政復帰を掲げたが、やがを創設。六八年にハンガリーとクロアチア間に む短編を書き始めた。しかしまもなくシュレスその意味で郷土文学の最高峰をなすともいえて共和制の現実にたって、プルジョア勢力を主結ばれた「ナゴドバ」 Nagodba ( 協定 ) に反 ウイヒ・ホルシュタイン問題が起こり、独立運る。しかし最近の研究では、貴族や教会に対す体にして、社会民主党を含めた国民共同体を志対し、セルビアをも含めたユーゴスラビア統一 んっレっ 動を支援したためデンマーク政府によって職をる激しい批判、遺伝や親子の葛藤など、当時の向するようになった。一九二三年八月、ルール主義を主張した。六七年のユーゴスラビア科 学・芸術アカデミー創設、七四年のザグレプ大 社会問題への積極的アプローチ、啓蒙精神の発 〈柴宜弘〉 学創設に尺、力した。 展を阻む社会的因習の告発など、社会批判の文 学としての側面も指摘されている。 、ンユトロハイム Erich von Stroheim ( 一公五ー一九五七 ) アメリカの映画監督、俳優。九 〔短編〕約六〇編の中短編のうち実に五〇編近 月二二日オーストリアのウィーンに生まれる。 くが回想形式をとる枠小説である。『みずうみ』 経歴は定かでないが、本名はエーリヒ・オズワ に代表されるように、肖像画のモチーフによっ ルド・シュトロハイム、父親はユダヤ人の帽子 て失われた青春の日々が呼び起こされ、過去の 製造業者というのが真相らしい。遅くとも一九 7 世界が哀愁に満ちた追憶の調べを伴って静かに 〇九年までには渡米しており、一四年ハリウッ 語られる。その際、枠によって示される現在と シュトルム シュトレーゼマン