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検索対象: 日本大百科全書 11
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1. 日本大百科全書 11

ュス、アラゴン、ドイツのゼーガース、チェコ人情、世間の特殊相誇張に傾くのをみて、『国って、社会の進歩 progress と同一視されたのやラツツェンホーファーの主張にみられるよう に、生存競争と適者生存という生物学的な淘汰 スロパキアのフチークらの活躍を促した。とく 民之友』は一八九六年 ( 明治二九 ) 一〇月号にである。社会は、生物の進化と同様に、直線 に当時政治運動が人民戦線戦術に転換してゆく 「社会小説出版予告」を掲げ、「社会、人間、生的、累積的、不可逆的に進化するのであり、その発想を、人種間の闘争や征服に適用しようと いう視点を生み出し、さらにはファシズムの理 なかで、社会主義リアリズムのスローガンは反活、時勢といへる題目」の創作化による「文壇れが、内容からみれば、社会の進歩にほかなら 論へと包摂されていく契機を伴っていた。もう 革新」を唱えた。文壇、論壇の広範な反応を整ないとされたのであった。すなわち、第一に、 ファシズム文化擁護の運動に政治的立場の違い わせだ を超えて多くの作家を結集する役割を果たし、理して『早稲田文学』が、労働社会、下層社会生物有機体の器官の分化と同様に、社会の分業一つは、社会進化を社会の発展 social devel ・ プロレタリア文学という呼び名は、これ以後急の真相を写し、広く政治、宗教にわたる大型のが発展し、とくに政治機能や管理機能が分化す opment としてとらえ返す考え方であり、ここ ちくすい いわゆる 速に姿を消していった。しかし、このような政社会小説像を描き、金子筑水の『所謂社会小 ること、第二に、社会の進化が、人間の意志をでは、ダーウイン、スペンサー以来の生物進化 ろあん 治的な役割を別にすれば、社会主義リアリズム説』 ( 一兊 0 がこの論を進めた。内田魯庵の離れた必然的・法則的展開であるということか論的色彩が乗り越えられ、改めて、人間の主体 ら、人々の経済活動に対する干渉が否定され、的意志に結び付けられた社会の進歩の可能性が はかならずしも理論的に体系化されず、現実に 『くれの廿八日』 ( 天九 0 が社会小説の代表作と 追求されることになる。この社会発展としての は前衛芸術に対する極端な否定と古典的なリアして迎えられたが、『社会百面相』 ( 一九 0 一 I) の政自由放任の政策が肯定されたこと、第三に、 リズムへの復帰が顕著にみられ、さらにスター 界風刺は政治家主体批判を欠き、近代政治の核の自由放任の政策のさまざまな帰結について社会の進化という考え方は、さらに、主として とうた しゅんむ しみずごえ リン指導下のソビエト政権への無条件的支持・ 心をつかなかった。金子春夢『清水越』 ( 一〈九六 ) は、生存競争と適者生存という生物学的な淘汰社会計画を重視する視点と、人々の社会運動を 服従が作家の第一義的な資格とされた。 も、人間像の不鮮明な大型小説に終わった。社の考え方を適用すること、これらが社会進化論重視する視点に区分されることができる。↓社 おぐりふうようせいど 会ダーウイン主義↓社会発展段階説↓社会変 社会主義リアリズムの理論は、日本にも一九会小説観は小栗風葉『政駑』 ( 天究 ) 、後藤宙外の主張のおもな内容である。 ふにくだん とくとみろか ^ 田中義久〉 しかし、産業革命のもたらした技術的・物質動 三三年 ( 昭和八 ) ごろから紹介され始め、弾圧『腐肉団』 ( 天究 ) に継承され、徳冨蘆花の『下 ひん とぎす ~ 究 ) 、『思出の記』 ( 一九 00 ~ (1) 、的進歩に依拠する社会の直線的・継続的進化と E)> ・・オグバーン著、雨宮庸蔵・伊藤安一一 によって崩壊に瀕していたプロレタリア文学運如帰』 ( 天九ハ 訳『社会変化論』 ( 一九四四・育英書院 ) ▽ < ・ いう考え方は、一九世紀後半における社会の階 動に決定的な影響を与えた。それは従来の「政『黒潮』 ( 一九 0 一 l) に総合され、社会主義小説へと ギデンス著、大塚先訳『資本主義と近代社会 〈中村完〉 級的矛盾の顕在化と、帝国主義諸国と植民地諸 治の優位性」の理論のかわりに、「現実をあり展開した。 ーソン 理論』 ( 一九七四・研究社出版 ) ▽・ やかいしんか social evolution 国の矛盾の進展につれて、やがて崩壊を余儀な のままに描く」という世界観無用論を台頭させ社会進化 ズ著、矢澤修次郎訳『社会類型ーー進化と比 る契機になった。日本プロレタリア作家同盟が 社会の変動に関する一つの見方。人間の主体的くされるようになる。歴史の具体的な展開のな もりやまけい くば、こかえ 較』 ( 一九七一・至誠堂 ) ▽庄司興吉著『社会変 かで、社会進化と社会進歩との同一視は不可能 三四年に解散したあと、森山啓、久保栄らによ意志による当該社会の変革 revolution に対し になったのである。 動と変革主体』 ( 一 0 ・東京大学出版会 ) ▽ って、いわゆる「社会主義リアリズム論争」がて、人間の意志によることなく、社会が一定の 田中義久著『人間的自然と社会構造』 ( 一九 〔社会進化と文化〕このような状況を反映し 行われ、芸術運動再建の方向、日本に社会主義方向に向かって変動していくと考えられると 七五・勁草書房 ) リアリズムのスローガンを適用することの可き、これを社会の進化 evolution とよぶ。こて、社会進化の考え方についての再検討が行わ ー ) め、ん、い しやかいしんかろん 0 社ムムダー 否、世界観と創作方法との関係、等々についてこには、社会の歴史的変化を生物の進化からのれるようになり、社会の単線的進化という仮説社会進化論 議論された。第二次世界大戦後、社会主義リア類推によってとらえようとする発想が含まれてが歴史的事実に合致しないことや、ある社会のウイン主義 しやかいじんやきゅう〈ム社、官 リズムはますますスターリン個人崇拝の色彩をおり、下等動物から高等動物へという生物進化潜在的性質の独立した形での発展としての進化社会人野球 でんば の過程において生物有機体の諸器官の分化が進よりも、異文化間の伝播を重視しなければなら庁、銀行、クラブのチームなど学生以外の野 強くしたが、ソ連共産党第二〇回大会 ( 一九五六 ) に始まるスターリン批判以後、急速にその影響むという事実を、人類社会の「末開」から「文ないことなどが、文化人類学者や民族学者によ球。しかし、最近までは都市対抗野球が社会人 野球の主流を占めていたので、ほとんど同義に 力を失っていった。 〈栗原幸夫〉明」へ、原始社会から近代社会への分業の進展って主張された。文化人類学において、 *-2 ・ ・モルガンなどの進化論的解釈が批判され、用いられていた。一九四九年 ( 昭和二四 ) に Z 〔美術〕ソビエト美術界ではこの理論を保守派 に対応させて理解しようとする考え方である。 シュミット、グレーブナー、フロべニウスらの ( アメリカ野球協会 ) が主催する国際ノン 〔進化と進歩〕生物進化の考え方それ自体は、 の画家・批評家たちが低次一兀で受け止め、ゲラ 一八〇一年にラマルクによって提起され、五九文化圏説によってとってかわられたのは、そのプロ野球大会に社会人野球の代表として都市対 シモフ、ビメノフ HBaHOBHH 11HMeH- 抗の優勝チームが出場することになった。その 一例である。 0B/YuriyIvanovich Pimenov ( 一九 0 三ー七七 ) ら年にダーウインによって実証的に確認された。 また、・シェラーは、文化の内容を区別し ため、日本全国の社会人チームを一つの組織と が描いた党指導者の肖像、革命史をテーマにし 社会進化の発想は、このような生物進化論の展 たリアリズム作品だけを過大評価した。このた開と経済学におけるマルサス主義の影響を受けて、実証科学的知識の部分にだけ、直線的な発して統制する必要が生じた。また、この種の国 め世紀末からロシアに生まれた抽象美術は批判て、一九世紀の中ごろから後半にかけて広まっ展を認めた。・ウェーバーは、「文明」と際的な行事の場合、全社会人チームが一致して 「文化」を区別し、前者は直線的、継続的に発活動できる体制を整える必要上、日本社会人野 攻撃され、ソビエト美術は長い不毛の時期を迎た。 このような社会理論の集中的な表現は・ス展するが、後者は一回生起的な運動であると主球協会が誕生した。そこで、これまで都市対抗 えた。現在もなお、この理論はソビエトにおい て正式に否定されていないが、スターリン時代ペンサーの所説に求められる。スペンサーは、張した。・・オグバーンの「文化的遅滞」大会は毎日新聞社が主催していたのが、第二〇 cultural lag の概念も、このような文脈の下で回大会 ( 一九四九 ) から社会人野球協会との共催に のような権威は失われている。↓プロレタリア人間の社会が同質性から異質性へと分化してい なった。都市対抗が日本選手権試合と認められ 〈木村浩〉 くことを強調し、単純社会 simple society か提起されてきたものである。 美術↓ロシア・ソビエト美術 しやかいしゅギ、ろ , つど、つ 〔ニつの方向への分裂〕社会進化に関する考えたので、世界野球大会への出場が実現し、第一 ら複合社ムム compound society へと進化し、 い社会主義労働者党 しやかいしゅぎろうどうしやとう しやとう 0 ドイツ社会主義労働者党 さらに二重複合社会へ発展すると考えた。そこ方は、一九世紀の末から二〇世紀の前半にかけ回 ( 一九五五 ) は大阪・鐘紡が第五位、第二回 ( 一九 一つは、社会 しやかいしようせつ文芸用語。印では、社会の進化が、近代市民社会の急速な発て、二つの方向に分裂していく。 五六 ) は横浜・日本石油が第三位、第三回 ( 一九 9 や社会小説 ′、ま↑いた、 - み し清戦争 ( 天九四 ~ 九五 ) 後、観念小説や深刻小説が展に基づく無限の文明化への楽観的な幻想を伴ダーウイン主義の流れであり、グンプロビッチ五七 ) は東京・熊谷組中心の全日本チームが優勝 2

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はつぶん のころの字形の整った左右均整の華麗な字体を八分という。 という。近年これらの古代文字の芸術性が注目されるに至っ 書 た。このように形象・表意文字である漢字は、創生の始めか篆・隷は縦横の字画が均整で、終わりの筆を右にはねるよう にして止める。これを波勢という。漢時代は一般的には隷書 ら書体、書風という造形的な要素が重視され、実用の記号文 「中国書道史〕文字の発明と書の始まり / 書体の分化と が用いられたが、印や鐘銘など荘重な書体を必要とする箇所 発展 / 王羲之の出現と中国書道の確立 / 書風の発達字としての範囲を越えて、芸術として鑑賞される宿命をもっ にはまだ篆書が用いられていて、当時盛んになった碑は、頭 ていた。 / 宋代以降の書 〔日本書道史〕中国書道の影響 / 和様書道の開花 / 書道殷に続く周時代は西周から東周に分かれ、やがて春秋戦国部の題字だけは篆書で書くことが行われた。これを篆額 ( 額 、現在でも碑文にこの形式を踏むこと 流派の発生 / 和様の再興と唐様の展開 / 現代書道の ( 前八世紀 ~ 前三世紀 ) の世となって、封建諸侯の勢力は拡は頭部の意味 ) といし 大し、周王室は衰えた。文書、記録の類は多くなり、文字のがある。 流れと展望 / 墨象 漢末には、隷書のなかで使用頻度の高い文字は徐々に単純 数も増したが、政治が地方に分立してから字形の混乱がおこ 〔書の鑑賞〕 しようそう ・一そう そうしょ 化されて草書が現れた。これを古草という。古草から章草 り、正式な書体や略式の書体とともに装飾文字ができた。こ ぞうがん が生まれた。漢の章帝が発明したとも、皇帝に章奏する書に 筆・墨などを用い、漢字・仮名の文字を書くことによってれは、銅器の鐘の銘文や銅貨幣、兵器の剣やアなどに金象眼 ちょうしょ , 麦世「鳥書」とよばれるデフォルメされた用いたからともいわれる。この時代の草書は篆・隷の影響 表現される造形芸術。書は中国と日本で発達した独特の芸術して施された。彳 で、おもな字画や終わりの筆は下に続けす右にはね出すのが で、漢字のもつ造形的な要素と密接な関係がある。中国では文字もその一つである。 せつこ また石鼓とよばれる太鼓のような形の石に文字を刻んだも特徴である。のちに草書は下の字画へ続けて流すようにな 古くから六芸 ( 礼・楽・射・御・書・数 ) の一つに数えら ぎようしょ れんめんたい ひっす り、連綿体が生まれた。また隷書の速書きから行書が生ま れ、官吏や知識人の必須の教養科目であった。運筆、構成、のが一〇個、唐代に発見されたが、成立年代は東周あるいは りゅうとくしよう 墨色、配置などの美や、作品に現れた筆者の風格が尊ばれ、戦国初期と推察され、石に刻まれた文字としては最古の遺物れた。行書は漢の劉徳昇の発明といわれる。これと前後し 力いしト ` ちゅうぶん だいてん とうしん おうぎし て今日の楷書も形成された。こうして漢末には篆・隷・草・ 東晋の書聖王羲之の筆力が木に三分も墨が浸透するほどであで、この石鼓文の書体を大篆あるいは籀文 ( 周王室の史官、 しちゅう ひつどう じゅばくどう 行・楷の漢字の五体がほば出そろい、以後は字体の変化はな ったという故事にちなみ、入木道と称し、筆道ともいった。史籀の書いた文字 ) とよぶ。 書風が問題にされるようになる。 この時代にはまだ紙はつくられておらず、帛 ( 布 ) や竹に 書は文字を表記の手段としてだけでなく、筆者の芸術的創作 ろうらんとんこうきょえん せいいき ちょうさ 二〇世紀の初め、中国の西域地の楼蘭、敦煌、居延などの として鑑賞の対象とする。したがって、印刷文字や日常の実文書が記された。一九三〇年代の後半、湖南省長沙の古墳か 遺跡から、各国の学術探検隊によって、一万二〇〇〇点に及 。しかし、歴史的な実用書写であるら、帛に書かれた絵と文字からなる文書が発見され、また一 用文書は書とはいわない しん もっかん 書状や写経などで芸術的に優れたものは書として鑑賞され九五〇年代の初め、同じ長沙遺跡から、竹の細長い片に墨書ぶ漢・晋時代の木簡が発掘された。木簡は、木をそいで一片 ちつかん に一行一〇字前後の文字を墨書したもので、この木片を簾の る。書体、書風、書法など時代や流派によりさまざまであるされた竹簡が発見された。これらは副葬品の目録とみられ、 が、最近では古典を追究解明しようとする半面、従来の形式戦国末期の楚のものと認められている。肉筆による古代の筆ように編んだものを冊という。また一九七二年に前漢時代の まおうたい 二つの墓 ( 馬王堆一号墓と二号墓 ) からは多数の竹簡が発掘 写体文字の最古の資料として貴重である。 を離れた新しい分野の開拓が試みられている。 〔書体の分化と発展〕周が滅び戦国時代を経て、やがて秦された。これらの木簡・竹簡は日常の記事や公用書を筆記し 中国書道史 ( 前一一一二 ~ 前 = 0 六 ) が天下を統一すると、始皇帝は自国の文字た実用の書で、用筆もきわめて簡略で、書かれた年が記して 〔文字の発明と書の始まり〕中国の文字つまり漢字は、紀元を中心にして、混乱していた書体の統一を図った。統一以前あるものが多く、漢から晋に至る字体の成立発達過程をたど しんてん そうきっ 前二八〇〇年ころ、黄帝の史官であった蒼頡が鳥の足跡を見の文字を大篆 ( 籀文 ) とよぶのに対し、統一後の文字を秦篆る史料として重要である。 しようとく しようてん 木簡とともに西域出土の肉筆史料として写経がある。これ て発明したといわれるが、もとより伝説の域を出ない。中国または小篆という。始皇帝は各地に自らの頌徳碑を建設さ で文字が発明される以前は、縄の結び目によって数や事柄をせたが、大臣の李斯は始皇帝のために多くの刻石に筆を振るらは紙に筆・墨を用いて、通常の行・草よりやや謹厳な楷書 ~ いりん った。現存するものに始皇二八年 ( 前 = 一九 ) の紀年のある風の筆法で書かれている。ところで、紙は後漢の初期に蔡倫 伝えたといわれるが、文字の始まりはきわめて単純な線の組 たいざんのこくせき ろうやだいのこくせき かいん 『泰山刻石』『瑯邪台刻石』がある。あらゆる制度文物を統によって発明されたと伝えられる。それ以前は木簡のほかに 合せであった。その後、夏、殷の時代 ( 前一五 8 ごろ ~ 前一 0 五 0 ごろ ) に きっこう 絹の布 ( 帛 ) があったが、高価であった。紙の普及は書の発 一しようとした始皇帝は度量衡も官製の原器をつくり、秤に なって、亀甲や牛・鹿などの獣骨に小刀で線画のような文字 第、う一つぶん 達に重大な影響を及ばした。手に持って書いた木簡から、机 を刻んだ甲骨文が現れた。これらは、国家の大事、戦争や狩詔書を刻んで民間に配布した。 しん 秦が滅びたのち、漢の高祖は都を長安に定めた。漢時代はのような平面の上に紙を広げて書くようになり、書写材料の 猟や農事を占った記録であり、清朝の末期 ( 天究 ) に、殷の ) 一かん しようとん 前漢 ( 前一一 0 = ~ 後 0 と後漢 ( = 五 ~ = = 0 ) に分かれるが、当初変化は、当然、運筆の姿勢にも変化を及ばし、紙に書写する 都の跡といわれる河南省安陽県小屯で多数の甲骨片や古印 は秦時代の篆書がそのまま用いられていた。しかし、装飾的ことによって、書はいっそう芸術的に表現されるようになっ が発掘され、古代文字の存在が明らかになった。同じ遺跡か れいしょ ら陶片に墨で下書きしたものも発見され、古代にすでに今日で複雑な篆書は文書の作成に不便で、簡素化された隷書が下た。後漢時代の多くの美しい隷書の碑は、ます紙に書いてか ら石工が刻んだものと考えられている。 よの筆に近いものや墨が用いられていたことがわかる。また殷級官吏の間で発明され ( 隷は賤しい者の意 ) 、やがて一般も とたく そうき これい 、菓 この時代の書家には、篆・隷に曹喜、章草に蔡琶、杜度、 し時代には銅器に絵文字のような銘文が刻まれた。これを金文これを用いるようになった。初期のものを古隷と、 きんぶん はかり しん さく はせい イ ) い・よう てんがく すだれ

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しゅうき 宗教 / 世界の宗教人口比 ( % ) その他 1 .6 神道 1 . 5 儒教 0 世界の宗教分布 0 0 仏教 ヒンドゥー教 イスラム教 0 キリスト教 40.6 0 一 0 0 0 0 0 〇仏教 0 仏教・神道 0 仏教・儒教・道教 ヒンドウー教 0 イスラム教 ・ユダヤ教 ・プロテスタント 》・カトリック 0 ギリシア正教 〇諸派併存 21 . 6 注 : 色分けは , その地域の分布の状態を概括 的に表現したもの。原始宗教 , その他の 宗教は除く 0 0 注 : Britanica ・お 0 可の・ " ( 1983 ) による 0 0 パリ島 0 ( 0 ′ 0 0 0 わざるをえない運命とか、天地自的には解決できない問題から生じる緊張の解消の信仰の資料に促されて、その研究が活発とな 然の道という法則が予想されてい ということは、このことにかかわる。経験的、 った。超自然力をもった呪物 ( フェティッシ 4 る。 科学的にみて効果のある働きと違って、宗教は ュ ) の崇拝、フェティシズムを最古の宗教とす こうした究極的な存在から発し象徴的効果をもって作用する。これを非合理的る説を最初として、インド、ヨーロッパの神話 て、時間および空間をいかに象徴とよんでよい。葬式というのは、死体の処理と に自然神が多いところから、自然崇拝説、霊魂 的に把握するかということも宗教 いう手続ではなく、死者を無事にあの世に送るの信仰を起源とするアニミズム説、さらに、ア 思想の重要な要素である。天国と意図であるとすれば、その効果は経験的にはわニミズム以前に古い形の信仰があるとするプレ 地獄という空間の構造、仏国土、からないものである。このため、宗教は科学以アニミズム論のなかでは、超自然的、非人格的 神国という発想はしばしば認めら前の不合理な行動様式とみなす立場もある。一 な呪カ ( マナ ) の崇拝があるという説が有力で れ、自国を神聖とするナショナリ 方、死者をあの世に送るということは、表向きあった。また人間と動植物の親縁関係を示すト ズムとも結びやすい。時間の観念のたてまえであり、実際には、親しい者を失っ ーテミズムを呪カ信仰から解釈したうえで、宗 はいっそう豊富に展開し、祭りに た悲しみを少しでも解消しようとする働きをも教の原初形態とする説も出た。あるいは、物質 おけるように、日常的、世俗的な っているともいえる。この場合、宗教的行動は文化の貧しい末開部族のなかに、人格をもった 時間が中断して、非日常的、神聖合理的行動と共存するものであり、合理的行動唯一神の信仰が多いという証拠に基づいて、原 な時間が訪れる。原始古代宗教に によっては解決できない種類の問題が残る限始一神教説も唱えられた。 おいては、それは神話の時代が再り、宗教の機能は存続するという立場もある。 現在からみると、これらの説は単純な観念か 現することであった。世俗と神聖後者に従えば、情緒的緊張を解消する効果があら複雑な観念へという仮説によるか、物質文化 の二種の時間がリズムをなして交るとする。 に基づいた主観的な歴史解釈に基づいて、実証 替する。こうした繰り返しは時間 さらに、なぜ死んだかということが、科学的的根拠に之しいが、宗教の理論のうえには大き えい ) うかいき 観として円のような永劫回帰の思 に原因が明らかになったとしても、死の意味に な収穫となった。すなわち、人間が経験によっ 想ともなる。一方、時間を直線的ついては、別の次元で問題として残る。こうして、いかにして超経験的な宗教的象徴を認識し に考え、ある破局的状態を経て別 た知的緊張が、神とか連命という存在の秩序と たかというプロセスを研究したことになった。 の世界が現れると説くこともあ関連して説明されることにより解消する。これタイラーは、夢と死の経験から、目に見える肉 る。こうした発想は終末観とよば は「意味の問題」に答える機能である。 体のほかに、見えない存在があり、夢では一時 れ、世俗的な革命のイデオロギー 一般的にみれば、科学技術、あるいはそのほ的に肉体を離れ、死において永久に身体から離 にも影響を与える。 か社会制度の発展によっても完全に克服するこれる「霊魂」を想定するようになったと推理し 宗教共同体は、家族、民族、地 とのできない困難として、知的把握を超えた末た。このアニミズム理論においては、宗教的象 域集団のような他の目的をもった来への不安、感情的に堪えうる限界を超えた精徴は、夢と死の原因の誤った解釈から生じたも 集団と合致することもあり、信仰神的・肉体的苦痛、悪人が栄え、善人が虐げらのとみている。またデュルケームのトーテミズ の維持、発展のために、同信者だれるというような、抱いている期待と実現したム起源説は、集団感情の高揚から宗教的象徴が けの集団すなわち教団がつくられ現実との間には道徳的に納得しがたいずれがあ生まれ、集団表象として個人を超越して存在す ることもある。キリスト教の教り、不安、苦、悪として残ってゆく。神が存在ると述べている。フロイトがトーテミズムを父 そうぎや 親殺しと解し、そこに宗教の始まりをみいだし 会、仏教の僧伽、イスラムのウンマのような宗するのになぜこのようなことがおこるのかとい 教共同体は、理念としては世俗の権威にかかわう神義論もおこり、宗教の取り組む人間の問題たことは、実証的にはまったく支持できない りない共同体として結ばれた。こうした超越性はなくならないように思われる。 が、家族関係が象徴化されたものと、神観念と が人間の精神活動に与えた影響は大きい。 〔起源〕かっては、現存する未開部族のなかに の関係を分析している。シュミットの原始一神 〔機能〕宗教の定義というものは困難であり、 は宗教をもたないものがあるかのように説かれ教説は、原始時代の神の啓示というカトリック さまざまのものがあるが、その人の宗教の理解たことがあったが、これは、報告者の宗教観の の主張の実証であった。こうして宗教起源論は の仕方によって分かれる。神観念を強調する枠から判断した誤解であった。先史時代の埋葬それそれの立場においての宗教本質論とみるこ どうくっ とができる。 と、宗教垳動の志向する象徴を重視したものと法、洞窟壁画、女神像からみても、原始人がな じゅじゅっ なり、畏敬、神聖感、絶対の随順という感情をんらかの霊魂観、呪術観念、神観をもってい 〔発展段階〕進化主義に基づいた段階論、アニ 目印とするものは、実在感を味わう宗教体験をたことは明らかである。このように宗教が人類ミズムから多神教を経て一神教に至るとか、自 基礎としている。教団によって支えられた教とともに古く、また普遍的であるとすれば、し 然宗教から倫理宗教へという過程は、実証的根 説、ドグマをおもに宗教とみる見方は、社会的かにして宗教をもつようになったか。宗教起源拠が薄い。しかし、あらゆる宗教をそれそれの 側面からみた意味が含まれている。 論は、恐怖からとか、親愛の念からとか、心理個性に基づいて並列的に扱うことも一方の極端 宗教を人間の行動の側からみると、宗教の機的 ( 心理学的でなく ) 推測を加えながら、一九となる。宗教の歴史的発展段階をある程度たて 能ということが強調される。冒頭にあげた合理世紀後半になると、進化主義の理論と原始民族てみるとすれば、原始宗教、古代宗教、世界宗 キリスト教 〇

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じゅうた る共同生活を通して社会人として成長することづけられているが、その役割を実際に遂行するごく短い春があってその期間だけ美しい花園に するとき、そこに集団が形成され、存続してい なるが、それが過ぎるとふたたび空の色と土の るといえよう。その継続的な他者との協働過程なしには、個性的人間にもなりえないのであのは、それそれの個性をもった具体的人間とし で、お互いが守らなければならない集団規範がる。このような個性的人間を育成しなければ集ての父親であり母親であり、またこの両者の具色だけの砂漠に戻る。そこで、春を住まいの中 形成され、その規範の相互遵守によって集団の団の発展もありえないのである。それゆえに、体的な関係である。日本の家族という集団の特に閉じ込めておきたいという願いから、あの美 秩序が維持される。この集団規範による集団秩集団が集団として存続し発展するためには、 性を抽象して論じうるが、個々の家族はそれそしい花模様が生まれた。じゅうたんは貴重な財 産で、移動のときはウマに積んで連び、必要な 序は、各集団メンバーが集団のなかでそれそれ人々の間に共同性意識を育成することによってれの個性をもっているのである。↓集団行動 〔社会発展の要件〕それゆえに、われわれは集ときは切り売りした。運ぶには薄いほうが有利 一定の地位を占め、その地位に伴う一定の役割彼らに集団目標を達成させると同時に、そのこ を遂行することによって維持される。さらに集とを通して集団の個々のメンバーの諸欲求をも団を、単に個人を社会化し、個人をそのうちにであるが、絹を使うと重さは四分の一になる。 こうして絹のベルシアじゅうたんが発生した。 団の共同目標に向かっての継続的な協働過程満たし、彼らの個性や主体性を育成することに取り込むという側面からのみ考察するのではな くて、集団的な共同生活のなかで人々はそれそじゅうたんづくりの技術はやがて中国に伝えら で、人々は同じ集団のメンバーであるという よって、集団に対して彼らの創造的能力を発揮 れたが、中国は農耕民族で移動の必要がないか 「仲間感情」を抱き、それによって集団と外部させることである。共同性と個体性という一見れ個性ある人間として成長しうるということ、 して相反する要素のバランスのとれた補完関係そして、そのことが集団の、広くいって社会のら、厚いものほど高級だと考えられるようにな 社会との区別を意識するに至る。↓集団規範 った。一方ヨーロッパに伝えられたじゅうたん 〔共同性と個体性〕要するに、人間は一人では こそ、集団の存続、発展のための条件である。 発展のための基本的要件であるということから ↓社会集団は、イギリスで機械織りに発達して安くなり、 集団における共同性と個体性ということは、 も集団を考察しなければならない。 生存できす、そのために他の人々と集団を形成 ↓集団社会学↓組織↓集団意識〈佐藤慶幸〉大衆の必需品として広く普及するに至った。 することによって人間としての諸欲求を充足し次のように考えることができる。共同性は、集 一七世紀後半に宗教的迫害を受けた新教徒の うるのである。このような集団現象は、人間の団メンバーが集団の価値や規範を守り、共同目回清水幾太郎著『社会学講義』 ( 一九五 0 ・岩波書 店 ) ▽清水盛光著『集団の一般理論』 ( 一九だんつう職人たちが、・ヘルギーからイギリスの みならず、他の動物や昆虫などにもみられる標に一体化し、それを達成するために彼に与え アクスミンスター Axminster 、ウイルトン 七一・岩波書店 ) ▽思想の科学研究会編『共 が、それらが人間の集団と基本的に異なるのられた集団内の地位に基づく役割を遂行するこ 同研究集団ーー、サークルの戦後思想史』 Wilton 地方へ移って機械織りの基礎をつく は、人間の場合は、学習を通して習得性情報処とによって、維持される。しかし、この地位に り、それが産業革命への糸口となった。機械織 ( 一九七六・平凡社 ) 理能力を身につけることによって初めて、集団基づく役割は、集団の価値や規範によって規定 のメンバーとして行動できるようになるのに対 されているとはいえ、その規定は一般的で抽象じゅうたん〔絨緞〕広義には織物製の敷りじゅうたんの代表とされているウイルトンカ ーベット WiIton carpet はこのよ , つにして始 して、動物や昆虫の場合は、集団行動の仕方が的でしかない。その役割を遂行するのは具体的物の総称であるが、一般にはそのうちの手織り まったのである。その後アメリカでもじゅうた 生得的な生物遺伝情報として身体に組み込まれで個性的な生身の人間であるから、抽象的に規の高級品をだんつう ( 緞通 ) とよんで区別し、 ている点にある。 定された役割は、それそれ異なる個体性をもつじゅうたんといえば機械で織った長尺物の床用んの機械化が始まり、一九三〇年代には工業生 人間は集団生活を通して社会人として成長し生身の人間によって理解され解釈されて個性的敷物をさし、普通にはカーベット carpet とよ産が軌道にのった。さらに一九四〇年代にはタ フテッドマシン tufted machine が開発され、 に遂行されるのである。具体的にいえば、家族んでいる。床に敷物を敷く生活様式は西アジア 他の人々との共同性を身につけると同時に、ひ という集団にあっては、父親や母親という地位の遊牧民族から生まれ、現在でも最高級品がっ本格的な量産態勢がとられるようになった。 とりひとりが個性ある人間としての個体性をも 日本では明治中期にイギリスから機械を輸入 くられているが、それが発生した理由は次のよ 発揮し、社会に新しいものを付け加える能力をに基づく役割は、それそれの価値や規範 ( 文化 したのが機械織りじゅうたんの始まりである。 習得するのである。すなわち、人は集団におけや制度 ) によって、その望ましいあり方が方向うに考えられている。これらの地方の気候は、 第二次世界大戦後は生活様式が洋風化されたた 直でう上らわち裏しテ上 終立に布フ仕 基面め、じゅうたんの需要は急激に増大した。現在 垂機ゆらげ と織じか上ののう塗タの ニ断ではインテリア産業のなかで重要な地位を占め 色トよをるト 面のら下 第の ッいムすッ 織コ染 地型か るに至っている。 , べなコ着。へ んが直なるてル 一け成接一 ス た糸垂見織っトり 〔種類と使い方〕大別してウイルトンカーベッ 織カ抜合をカ程 う経るををか ク布 トとタフテッドカーベットに分けることができ ゅ〕な絵ん向る〕たがに布ドエ ッ基 カ いし に下たにれ〔っ毛面基ッけ る。ウイルトンカーベットは地糸に麻糸などを ラ第 使い、羊毛、合成繊維の糸を立毛状になるよ フ うに織ったものである。立毛には毛切り cut タ pile とわな織一 0 名 pile およびその組合せが ある。品質の判定には立毛の原料、長さ、密 度、図柄、色調などが基準になる。タフテッド 一系図カーベットは、綿または合成繊維製の荒目の基 断布に、立毛を多数の針で突き刺し、裏面にゴム の系の塗料を塗って立毛を固定したものである。 じゅうたんの長尺物は、床の全面に敷き詰め て使用する。また一枚物は床の一部に置き敷き ウカ にする。じゅうたんは床に柔らかさを与えて感 5 じゅうたん / 種類 バイル糸 バイル糸 地経糸

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いくことにもなるのである。ある意味では、社 段階を経て実証的段階に至るという三段階の法た、人によっては、これらを個人病理、集団病 面的服従をしか確保できなかったのに対して、 現代の統制は、説 , 得、宣伝、教育など、心理的則をたてた。神学的段階では中世的な有機的秩理、地域病理、文化病理などに分類している場会の豊かさが増すとともに問題もまた増えてい な誘 因操作によって人々をその内面から把握序が、形而上学的段階ではルネサンス以降の無合もある。これらを研究する学問を社会病理学く、ともいえよう。もちろん、全体的な政治経 済体制も、社会病理と無縁ではない。同じく社 し、管理することに成功している。↓管理社会政府状態が、実証的段階ではより高次の近代的 social pathology という。 〈大村英昭〉 〔病理現象の発生〕これらの現象は、個々の行会病理現象といっても、社会体制に関連する問 ↓社会化 な有機的秩序が実現するというのである。 動の事例に即してみるならば、もちろん、個体題もあれば、超体制的なものもある。たとえば ・デュルケーム著、田原音和訳「現代社会 一九世紀末のフランスの社会学者デュルケー の内的条件に基づいて発生している。たとえ貧困やスラムなどは、あるいは資本主義体制に 学大系 2 社会分業論』 ( 一九七一・青木書店 ) ムは、分業のない「機械的連帯」の社会から、 ▽・フーコー著、田村俶訳『監獄の誕生分業による「有機的連帯」の社会への発展を説ば、犯罪や非行では、これを行う犯罪者や非行固有なものということもできよう。しかし、犯 監視と処罰』 ( 一九七七・新潮社 ) き、イギリスの社会学者スペンサーは、「軍事者のパーソナリティーになんらかのゆがみがあ罪や自殺、離婚などは、体制にかかわりなく、 しやかいとうた social selection しうまでもない。自殺もまた、自殺資本主義体制の国にも社会主義体制の国にも共 型」の社会から、「産業型」の社会への発展をることは、、 社会淘汰 通に広くみられる現象である。たとえば自殺の 自然淘汰に対応する概念であり、人間の寿命、 説いた。ドイツの社会学者テンニエスは、利害者の精神構造の内面の不安定にかかわってい い例をとっても、ハンガリーやチェコスロパキア 出生率、死亡率が、その社会の制度、規範、職打算に基づかない人々の集まりとしての共同社る。しかし、これらの行為は、単に個別的と などの東欧社会主義国のほうが、アメリカやイ うばかりでなく、社会にある程度、大量に、か 業、収入、生活様式などの社会的諸条件によっ 会から、利害打算と契約とに基づく利益社会へ っ共通的、特徴的にみられるところに問題があギリスなどの資本主義国よりもむしろ高率でさ て影響される過程を意味する。具体的には、保の発展を説き、かっ利益社会の新しい高次の共 る。すなわち、広く集合的な社会現象としてみえある。↓校内暴力↓自殺↓犯罪↓離婚 健・衛生や医学上の知識、婚姻を規制する法同社会による克服を含意させた。 律、一定の租税や賃金などのように、直接的な 以上のさまざまな社会発展段階説よりも重要た場合、個体原因ばかりでなく、社会にその発〔社会病理の判定〕社会病理ということばは、 もともと医学における病理学から転用してきた なのがマルクス主義のそれである。それは、原生の根が求められるのである。 淘汰を示す事例と、職業上の疾病のように、結 病理現象は、全体社会を構成するもろもろのものである。医学における病理学は、病変の本 果として淘汰の作用を示す事例、の二つの種類始共産主義、アジア的生産様式、奴隷制、封建 がある。ダーウイン主義の影響を強く受けた考制、資本主義、社会主義という社会発展の段階次元、すなわち家族生活、職場、地域社会、教態を明らかにし、その病因を追究し、疾患の治 え方であり、生存競争と適者生存の結び付きを区分を行う。問題はアジア的生産様式の位置づ育などの諸領域に複雑にかかわり合っている。療と予防に貢献する学問である。社会病理の概 念は、社会を生物有機体に類比してとらえ、生 たとえば、犯罪や非行は、その行為者の家庭に けにあって、論者によって意見の分かれるとこ 社会現象のレベルに応用しようとしたグンプロ ビッチやラツツェンホーファーによって主張さろであるが、右の諸段階を単線的な発展段階とおける生い立ちゃしつけ、情緒生活と無関係で物有機体に病気が生じるように、社会にもその はありえないし、また、家庭内暴力、離婚葛藤有機的な活動や円滑な機能遂行を阻害する病態 れたが、今日ではあまり大きな理論的影響力をして理解するのは正しくない。アジアではアジ などが感情の不一致、役割関係の阻害などの家的現象がある、とする見方にたって生まれてき ↓社会ダーウイン主義〈田中義久〉 ア的生産様式を基礎として、アジア的奴隷制、 もたない。 、まってんだんかいせ たものである。確かに、人間の営む社会生活に ー ) や、力しー アジア的封建制等々が展開すると考えるべきで族生活のあり方そのものに関連することは、し 社会発展段階説 あろう。 うまでもない。精神不安や酒精依存、自殺、蒸は、右にあげてきた諸現象のように、有機体を っ Theory on the stages of social devel- このようなマルクス主義の社会発展段階説に発などが、忙しいビジネスの機械的生活や、職衰弱に導く諸疾患ともいうべきものがあり、そ opment 社会全体の歴史的発展の行程にい の原因をつきとめ、その治療や予防の対策をた 対抗して出されたのがロストウのそれで、それ場での複雑な人間関係の圧迫、苦痛にかかわっ つかの段階を画して、社会発展の法則を明らか は、伝統的社会し離陸のための先行条件し離陸て発生している場合も数多い。スラム、麻薬売てることは、きわめてたいせつである。 にしようとする理論。一八世紀においてイギリ しかしながら、社会という複雑な実体は、有 買、売春街、青少年問題などは、都市の繁栄と し成熟への前進↓高度大衆消費時代という五つ スのファーガソンは、狩猟、漁労、採取で生活 機体ということばで表せるような単純なもので 表裏の関係にある地域社会の問題でもある。非 の成長段階をたてた。 し、私的所有も支配服従関係もない野蛮状態、 行、校内暴力、登校拒否、いじめなどは、家族はなく、生物有機体をそのまま模写できるよう 現在、南北問題とのかかわりで、社会発展段 獣群の私有、貧富の差、保護者・被保護者の存 なものでないことも、考えてみる必要があろ しうまでもなく教育にもっとも 生活と同時に、、 在する未開状態、近代の文明的商業国民を最高階説が問い直されている。それは、後進国ない う。生物有機体においては、なにが疾病であ の段階としてもつ、私的所有とそれを保護するし低開発国は、先進国がたどったのと同じ道を深くかかわる問題である。さらに、公害、薬害 どのような などは、単に自然的災害というのでなく、本来り、どのような状態を健康といし 統治との存在する市民社会とを区別した。また通って発展するのか否かという問題である。こ の点で注目に価するのはガーシェンクロンの説的に人災であり、発達した産業社会の産物であ状態を病気といったらよいかを判定する基準 スミスは、狩猟民・牧畜民の社会と、製造業の る。 は、比較的に明確である。これに対し、人間の 改善と外国商業の拡大とに先行する営農の末開である。それは、後進国はまさにその出発点に 営む社会生活においては、純粋に個体的な疾病 総じて、これらの病理現象は、社会が複雑に 状態における営農者の社会とを野蛮な諸社会とおける後進性のゆえに先進国と同じ路線をたど なり、その変化が激しければ激しいほど生じゃと違って、なにがノーマルな望ましい状態であ 名づけ末開社会とよぶ。これに対して文明社会ることができないという複線理論である。ここ では、富裕の自然的進歩が農業↓製造業↓外国で問題となるのは、一国の社会の発展と一つのすい。そこには経済や利害の衝突、相互の競争り、どのような状態を病気とすべきかを正確に 別することは、 かなり困難な問題である。 貿易へと貫徹して、最後に「商業社会」が実現システムとしての世界体制の発展との関係であの激化、価値観の摩擦や相克、移動や匿名性 る。 たとえば、その評価の基準は、時代や社会、 〈古賀英三郎〉 anonymity の増大があり、その結果、人間関 することになる。 文化によって相対的であり、異なることがあ 係の不調整、社会の不統合が著しくなってい しやかいびようり social patholo ・ フランスではコンドルセが、人類の歴史を人社△ K 病理 く。社会の発達は、人々の生活の利便を増する。ある社会では同性愛が異常とされても、あ > 間精神の進歩に即して一〇期に段階づけた。彼 gies 社会に発生する病的な状態をいう。たと 力のこの段階区分に一貫した原理が欠けているとえば、犯罪、非行、自殺、浮浪、売春、汚職、が、同時に、右のような条件のためにしばしばる社会では異常とみなされない場合がある。そ や批判した社会学者コントは、人間の知性のあり家出、酒精依存、麻薬中毒、家庭内暴力などの個人への圧力となり、その不断の心理的な不安れは、時代によ 0 てさえも異な 0 ている。性の けいじじよう し方を基準に、社会が神学的段階から形而上学的現象をさしてこのことばが用いられている。ま定さを生み、病理現象発生の基底を形づくって解放的行動が、ある社会では不健康とされる 2 かっとう

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に本を / ) のスローガンにより、発展途上国に て、七世紀の唐時代初期に発明された本版技術ラの総部数は約二〇〇〇万部と推定されておラント』が一七〇二年に発行されたが、一九世 おける図書普及を訴えたが、今日までのとこ っとあわさ 0 て木版印刷の長い時代が始まるのでり、当時のヨーロッパ人口が一億に満たず、そ紀のなかばには欧米で大衆新聞が出現してい の大半が文盲であったことを考えると、驚くべる。その急速な普及を目前にみて、フランスのろ、一部の国を除いて、成果は遅々としている ある。洛陽で、官吏登用試験のため大規模な印 き普及ぶりであったといえよう。活版印刷の出社会主義者ジャン・ルイ・。フランは「本の時代のが現実である。↓新世界情報コ、 ) 7 ュニケーシ し刷事業が行われたのは九三二年のことである。 きぐ ョン秩序 〔写本の時代〕バピルスよりも粗末だが、ずつ現に危惧を抱いたのはローマ教会で、一四七〇は終わり、新聞の時代が始まった」と述べた と頑丈で安価な羊皮紙は、キリスト教徒によっ年代から八〇年代にかけて出版免許制度を敷が、その判断は早計で、このころから出版の大〔日本の出版〕〔江戸時代以前〕日本の出版の て大いに用いられ、やがて中世における書籍の き、一五五九年には有名な禁書目録をつくって衆化が始まっている。そして、一九世紀も終わ歴史は、現存最古の印刷物『百万塔陀羅尼』に りに近づくころには、マス・セールを前提とし始まるとするのが通説である。これは七六四年 主流を形成することになる。羊皮紙は一枚ごと読書規制を行っている。また、事業の利益を独 ( 天平宝字八 ) から七七〇年 ( 宝亀一 ) まで約 た低定価本の出版が各国で行われるようになっ に切って綴じることにより、現代の書籍の特徴占しようとする印刷業者たちはギルドをつくっ たので、書籍は依然一部富裕階級のみが利用でた。二〇世紀に入ってまもなくラジオが出現五年をかけて完成した四種の陀羅尼経であり、 であるべージ編成の冊子 ( コーデックス ) がく し、マス・コミュニケーションの時代に入る木版により印刷されたとみる説が多い。木版印 ふうされた。この形式は長文の聖書や法律文書きる高価な商品であった。 かすが 刷が活発化するのは平安末期からで、「春日版」 にとくに向いており、コーデックスからコード 一五世紀ヨーロッパにおける出版活動の中心 が、書籍、雑誌の普及も急ピッチで進んだ。 〔現代出版〕第二次世界大戦後の政治的・文化「法隆寺版」などのいわゆる南都版 ( 奈良版 ) code ( 法典 ) ということばも生まれた。紀一兀はイタリアおよびドイツで、それぞれ四二 % 四世紀以後一〇〇〇年以上にわたって、聖職者三〇 % を占め、続いてフランス一六 % 、オラン的特徴はその大衆社会化現象にある。出版におが多くの寺院でつくられた。また、鎌倉時代か いても、いわゆるべー ヾーバック革命に象徴さ ら室町時代にかけて京都五山を中心に出版され たちにより羊皮紙の写本が中世ヨーロッパの出ダ八 % であったと推定されている。一六世紀か そう たのが「五山版」である。五山版は中国の宋 ら一八世紀にかけて、出版は宗教中心からしだれる大量化現象が著しく、先進国はもとより発 版文化を担った。写本はしだいに美しいものに いに文学や実用書へと拡大していったが、同時展途上国においても、書籍の発行は急速に発版、元版の復刻が多く、またその版式の影響を なり、とくに中世後期の写本は極彩色の細密画 を有する美術品でもあり、また洗練されたアル に雑誌が姿を現してくる。今日の雑誌の起源展・増大しつつある。ュネスコ ( 国連教育科学受けているが、従来の仏典からそれ以外の書籍 ( 外典 ) にも及ぶようになった。そして同時代 は、一七世紀フランスの書籍業者が新刊紹介の文化機関 ) の統計によれば、一九五二年から八 ファベット文字は、次代の活字 ( タイプ・フェ ため発行したカタログだといわれるが、独立し一年までの三〇年間に世界で出版された書籍の末期には民間の出版業者も現れ、「坊刻本」と ース ) に直接影響を与えている。この時代、ラ まちはん テン語から分かれたロマンス諸一一 = ロ語 ( フランスた定期刊行物としては、一六六五年にパリで創年間総発行点数は、二五万点から五八万七〇〇か「町版」とよばれる出版が一般人を対象に行 刊された『ジュルナール・デ・サバン』および〇点と二・三倍に増大している。また、新聞用われるようになった。 語、スペイン語、イタリア語など ) で騎士物語 一方、一五世紀中葉にヨーロッパで発明され であるロマンスが書かれ出版された。すなわち同年ロンドンで刊行されたイギリス学士院の会紙を除く印刷・筆記用紙の消費量は、一九五〇 た活版印刷術は、一五九〇年 ( 天正一八 ) に帰 八〇年間に五・四倍に伸びている。従来は、 報とされている。また、世界最初の週刊新聞 小説 novel のルーツである。 てんしよう 一部の識字・知識層の独占物であった出版物が国した天正遣欧使節とイエズス会神父アレサ 『アビソ』が一六〇九年にドイツで発行されて 〔活版印刷の発明〕活版印刷の真の発明者がヨ ンドロ・バリニャーノによって日本にもたらさ 一般化していることを如実に示しているといえ いる。こうして、これまで大きな比重を占めて ハン・グーテンベルクであるかどうかは説の分 れた。翌九一年から約二〇年間にわたって九州 かれるところであるが、後世に伝わり直接の影 いた印刷業や書籍販売業にかわって、出版業者よう。 しかし、このような出版の大量化のなかで目を中心にローマ字または日本字で印刷された活 が企業家として登場することになる。 響を与えたのがグーテンベルクの開発した印刷 きりしたん もっとも活字そのも〔近代出版〕一八世紀後半におけるフランス革だった現象がいくつかある。その第一は、巨大字出版物 ( 約三〇点 ) を「切支丹 ( 吉利支丹 ) 術であることは疑いない。 そう のは、すでに一一世紀なかばの宋の時代に畢命やアメリカの独立は、出版にとっても画期的なメディア資本、メディア外資本による出版市版」とよんでいる。しかし、まもなく始まった しよう なできごとであった。近代憲法の構成要素とし場の制覇である。とくにアメリカでは「プロックキリスト教弾圧政策により切支丹版も姿を消す 昇という人物が粘土を素焼きした陶活字を、 ・ : つ、ら・い ハスター blockbuster 時代」とよばれるベス ことになる。これとは別に日本に金属活字をも また一三世紀のなかばごろ高麗で金属活字が発ての権利章典や人権宣言は、もっとも基本的な とよとみ 明された、といわれている。しかし、金属活字人権として言論・出版の自由を掲げ、市民が出トセラー症候群が健全な出版活動を侵食しつったらしたのは朝鮮に出兵した豊臣遠征軍で、の けいちょう にふさわしいアルファベット文字をもち、また版活動に携わる機会は増大した。それとともあるが、その他の先進国においても似たようなちにこの活字を模した木活字を用いて「慶長 に、出版業はようやく印刷業から離陸して近代現象が現れている。第二は、ニューメディアの勅版」が出版された。 まもなく宗教改革と大航海時代を迎えた近世ョ ふしみ ーロッパは、この発明を現実のものとし、歴史出版の時代を迎えることになる。一点当りの平進歩により、ビデオ出版など新しい波が押し寄〔江戸時代〕徳川家康の命でつくられた「伏見 するが せていることである。グーテンベルク以来の第版」は木活字、「駿河版」は銅活字を用いたも そのものを大きく左右させたのであった。活字均発行部数も二〇〇〇部以上となり、一七七六 プレス 二のコピー時代の到来で、出版文化や出版事業のである。しかしながら、ヨーロッパし 流の活版 に圧力を加えて用紙に印刷するこの技術は、こ年にペンシルべニアで発行されたトマス・ペイ ンの『コモン・センス』は実に数十万部に達し にも大きな転機が迫っている。第三は、先進国印刷は漢字・和字の複雑さから普及するに至ら れまでのいかなる出版技術よりもはるかに能率 と発展途上国との間の出版ギャップがますますず、明治を迎えるまで日の目をみることはなか たといわれる。また、一八一四年に発行された 的で、短時間に多量で鮮明な印刷を可能にし った。日本の民間出版が緒につくのは江一尸初期 バイロンの「海賊』は発売当日で一万部を売り拡大していることである。確かに、新興諸国の た。この印刷術は一世紀たらずのうちに、アル げんろく オ植技術も高能率化し、ナポレオンの出版が第二次大戦以前の植民地時代に比べての京都であるが、それは元禄時代 ( 一六公 プスを越え、ドー ー海峡を渡って、当時のヨ切っこ。卩」 治世が終わるより早く、一時間の印刷量は一五質・量ともに発達していることは事実である 0 四 ) になって開花する。一六九六年 ( 元禄九 ) ーロッパ世界にくまなく普及した。 かわちやりへえ 化河内屋利兵衛が刊行した『増益書籍目録大全』 が、経済力や技術力の格差により、読み物文 一五世紀以前に印刷された書籍をインキュナ年前の一日分よりも多くなっていた。オランダ には、約七八〇〇点に上る書籍が収録されてい プラ incunabula ( 初期刊行本 ) とよんでいるやドイツの後を追ってイギリス、さらにはアメのうえでも国民の享受度の開きがさらに大きく えちぜんのかみ なっている。ュネスコは一九七二年を国際図書る。また一七二一年 ( 享保六 ) 、大岡越前守が リカの出版活動が急速に隆盛となった。 が、宗教書を中心とするその平均印刷部数は数 そうし リー・クー イギリスで最初の日刊新聞『デー 年とし、「ブックス・フォア・オール」 ( みんな書物問屋、草紙屋に命じて作成させた書物目録 百部以内にすぎなかった。しかしインキュナプ ひっ げてん 672

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訳・大月書店・国民文庫 ) ▽マルクス著 史的一元論してきいちげんろん K BOIIPOCY 史的唯物論してきゅいぶつろん historische 「所有、商品交換の出現によって、共同体の崩壊 『経済学批判』 ( 武田隆夫他訳・岩波文庫 / 杉 が始まり、人々は諸階級に分裂し、階級社会が マルクスとエンゲルスに 0 pa3BHTHH MOHHCTHqeCKOPO B3 「工 Ha Materialismus イ 本俊朗訳・大月書店・国民文庫 ) ▽エンゲ よって提唱された唯物論的歴史観Ⅱ唯物史観の生まれた。私的所有の生産諸関係すなわち階級 HCTOPHK)/ 、 K voprosu 0 razvitii monisti- ルス著、藤川覚・秋間実訳『フォイエルバッ こと。史的観念論ないし観念論的歴史観ならび関係に照応して、④国家を中心とする法律的・ cheskogo vzglyada na istoriyu ロシアの ハ論』 ( 大月書店・国民文庫 ) 革命家プレハーノフの代表的著作。一八九五年に非歴史的・機械論的唯物論に対立する。それ政治的上部構造、◎社会的意識諸形態ないしイ は、マルクス主義ないし科学的社会主義の哲学 デオロギー ( 社会心理、宗教、哲学、芸術な私的労働・社会的労働してきろうどう・し 『一元的歴史観の発展に関する問題によせて』 やかいてきろうどう商品生産社会ではおのおの ど ) が形成された。前述の物質的社会関係に対 という表題で発表。一八八〇年に西欧に亡命しの重要な構成部分である。 して、④◎はイデオロギー的社会関係とよばれの生産者の労働の性格は私的労働である。しか 〔学説の概要〕①宇宙・天体・地球・生命など たのち、ナロードニキ主義からマルクス主義の る。②⑩が④◎を基本的に規定するが、後者しそれは自己の需要を満たすためのものではな についての自然史的世界観を前提として、人間 立場へと移ったプレハーノフが、八三年『社会 く、商品交換を通して他人の欲望を満たす限り 主義と政治闘争』を著して以来進めてきたロシ社会をも自然史的過程としてとらえる。もちろも相対的独自性をもち、前者に反作用する。 ⑤この階級社会の主要な形態は、奴隷制、封建で意味をもっている。つまり商品生産者の労働 ア初期マルクス主義理論研究の一つの到達点とん、人間は、自然界とは違い、意識をもち能動 いうべき作品。内容は、マルクス主義の見地か的に歴史をつくる。しかし、人間は、自然的諸制、資本制であり、その出現以来、歴史は階級は、私的労働ではありながら市場を媒介にして 社会的労働の一分肢であることが実証される。 ら、当時のナロードニキの代表的理論家 Z ・ 条件と、先行する世代の達成とを前提とし、そ闘争の歴史である。階級闘争の形態は、② に規定される。は②⑩の発展に規定されるそれは直接的に社会的労働の一分肢をなすので ・ミハイロフスキーに対する批判を行ったもれに制約されて、歴史をつくる。また、人間 しつ - 、く はなく、間接的形態で商品交換ののちに確認さ が、が②⑩の発展に照応できす、その桎梏に は、能動的に行動するが、その行動が衝突し相 ので、わが国では、一九二九年 ( 昭和四 ) に 『史的一元論』の表題で翻訳されたが、三二年殺しあって、無数の「カの平行四辺形」の合成なるとき、はより適応できる形態に変革されれる。おのおのの私的労働の具体的有用性の相 違 ( たとえば紡績労働、パン製造労働、家具製 〈尾崎ヘイワ〉力のように、人間の意識から独立した結果がもる。これとともに社会革命の時代が始まり、④ より終戦まで発禁となった。 造労働など ) にもかかわらす、それらが社会的 回川内唯彦訳『改訳史的一元論』上下 ( 岩波たらされる。このようにして、社会の歴史にお◎も徐々に、あるいは急速に変革される。 ⑥資本制社会が敵対的階級社会の最後の形態で労働の構成要素として同質性をもちうるのは、 いては、無数の人間の行動、意欲、偶然性に媒 文庫 ) してきじちのげんそく各人介されつつ、自然史的・必然的な法則性が貫徹ある。その胎内で発展する②生産力ないし生産おのおのの労働はいすれも同等な人間労働力の 私的自治の原則 諸カ ( とくに多数の個性をもっ労働者主体の形支出Ⅱ抽象的人間労働という点では共通してい の法律関係、社会関係を、それそれの自由な意する。 成、技術革命、科学革命、労働の社会化、交通るからである。商品経済が全面的に行き渡った ⑦社会の歴史を究極的に規定するものは、人間 思によってその欲するとおりに規律させる原 則。この原則は、普通には契約自由の原則としの「現実の生活の生産と再生産」、より具体的手段の全面的発展など ) 、⑩生産様式 ( 大工業 ) 資本主義社会における商品生産は、資本家のも とで分業に基づく協業の形態で行われる。そこ には、①労働による生活手段・生産手段の生が、この敵対の解決の物質的条件をつくりだ て現れるが、遺言の自由の原則などとしても認 められる。契約自由の原則は、個人の独立・平産、②生殖による次の世代の生命の生産というす。それらを前提として、労働者階級が国家権では多くの労働者が一か所に集められ、工場内 力を掌握することによって、資本制社会は変革分業が発展する。一工場内でみる限り彼らの労 等を前提とする。しかし、経済的・社会的関係二種類の生産であるが、歴史の発展とともに、 され、長期の過渡期を経て、搾取・収奪・暴働は私的労働から社会的労働に転化している からすると、人はけっして平等でも対等でもな①が②を規定するようになる。 類人猿から人間を発展させ形成させた活動はカ・階級支配がなく、「各人の自由な発展がすが、全社会的には依然として商品交換によって 経済的・社会的関係において著しく差異の のみ社会的労働の一環であることが実証される ある当事者間で契約を自由に放任することは労働である。自然史的前提と労働が社会の発展べての人の自由な発展の条件である」ような共 ( たとえば、資本家と労働者の間、地主と借地のもっとも基本的な原動力である。労働が自然同生産制社会が実現される。これとともに人類ほかない 分業と私的所有の廃絶された社会主義社会に 人の間、大企業と一般消費者の間での契約 ) 、を支配する能力を②生産力という。この生産力の前史が終わり、本史が始まる。 このようにして史的唯物論は、社会の歴史のおいては、人々の労働は商品交換と市場を媒介 は、生産諸カ ( 具体的には、労働対象としての いわば弱肉強食を認めることとなる。このよう とすることなく、直接に社会的労働の一分肢と 自然諸条件、人間の労働能力、技術、自然科必然性と偶然性、個人と大衆の役割を初めて科 な場合に契約を社会的に妥当なもの、合理的な 学、その応用能力、人口、労働組織、交通手段学的に説明し、社会諸科学、歴史科学の科学的して計画的に支出されるようになり、私的労働 ものにしようとするなら、当事者の自由意思に は止揚される。↓分業↓労働〈伍賀一道〉 任せておくべきでないこととなる。ここに契約など ) によって決められる。この生産諸力の結基礎を確立した。 〔その後の発展〕マルクスとエンゲルス以後、シデコプシ〔四手拳〕ミき守、。ミ予 自由の限界が認められ、その制約が必要とされ合の様式が⑩生産様式ないし労働様式 ( たとえ ざ召 Thunb. モクレン科の落葉低木ないし てくる。契約自由の制約、契約の合理化は、立ば、農業、手工業、大工業、大規模農業など ) 史的唯物論の研究は、とくに国家論、イデオロ 小高本。愛らしい花が好まれ、世界中で花木と である。そして、この②⑤に規定されて、④生ギー論、革命論などの分野でいっそう深められ 法、行政、司法の各方面から行われる。 して賞用される。コプシに近縁で、葉の形、質 た。この点で、レーニン、グラムシ、ルカー 私的自治の原則により個人の意思活動の自由産諸関係すなわち生産手段の占有・所有諸関係 がくへん とさかじゅんながたひろし が保障されることとなるが、この原則は他方でが形成される。それぞれの社会におけるこの生チ、戸坂潤、永田広志らの貢献が高く評価さや小さな萼片があることでは同じであるが、全 は、自己の故意・過失による行為については責産諸関係の総体が社会の「経済構造」ないしれる。史的唯物論は完成されたドグマではな体に小ぶりで庭木向きである。花弁が一二 ~ 。その諸基本概念とそれらの相互関係のいっ〇枚と多いのが特徴的。花の色や樹形に変異が 任を負担するが、他人の行為については責任を「経済的社会構成」とよばれる。それは、人間 く、いろいろな型にヒメコプシはかの名前が の意識から独立に形成される物質的社会関係でそうの解明をはじめとして、なお研究さるべき多 負わないとする自己責任の原則を伴う。なお、 課題に満ちた発展過程の学説である。↓マルクつけられているが、分類学的には区別できな ぶ国際私法上は、法律行為の準拠法を当事者の意ある。 〈芝田進午〉 中部地方のごく限られた地域に自生する ④人間社会は、初め、低い生産力に制約されス主義↓弁証法的唯物論 思によって定める原則を、私的自治の原則とい が、宅地開発や花木用の盗掘で減少している。 、い、わが国の国際私法上は、債権的法律行為にて、すべての人が共同で労働する原始共同体で回マルクス、エンゲルス著『ドイツ・イデオロ みしよう コ・フシを台木にした接木や、実生から容易に殖 5 ギー』 ( 古在由重訳・岩波文庫 / 真下信一 しついてこの原則が認められている。〈竹内俊雄〉あった。しかし、生産諸力の発展、分業、私的 こ つぎき

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じてんし ⑨明治時代初頭の錦絵にみられる自転車。日本へは慶 応年間に ミショウ型の改良型が渡来したといわれる ⑩ 1880 年代ころの日本製自転車。ミショウ型を手本に して , おもに鉄砲鍛冶が製作した。国産最初の安全型自 転車は 1890 年 ( 明治 23 ) 製銃技師宮田栄助の試作による ⑩自転車の国内保有台数は 1910 年 ( 明治 43 ) に約 24 万台 , 13 年 ( 大正 2 ) 約 49 万台でせいたくな乗り物であった。 東京の青年店主らのスタジオ写真 ⑩第 2 次世界大戦中 , 自転車は大いに利用された。 1942 年シンガポールを目ざして進む日本陸軍の銀輪部隊 ⑩第 2 次大戦後 , かっての軍需工場で自転車が生産さ れた。 1948 年の三菱重工業製ジュラルミン自転車 ⑩ 1961 年 ( 昭和 36 ) ころの国産自転車 ⑩中国 , 内モンゴル自治区包頭の冬の朝の出勤風景 ⑩ 1970 年代から日本では駅前などの放置自転車が社会 問題化し , 規制のため立法措置までとられるに至った ( 自転車は , 東京自転車文化センター蔵 ) を人間との関係でみると出力系と操縦系に大別 できる。さらに人間ー自転車系のインターフェ ースからみると、その接触面はハンドル、サド ルおよびペダルである。主としてハンドルは操 縦系に、ペダルは出力系に、サドルは安定性に それそれ関与している。これらの部品を含めた 自転車全体の形態は、人力を効率よく働かせる 主要因である乗車姿勢を適切にするための配慮 が必要である。これにはフレーム寸法が人体寸 法に適合していなければならないのは当然であ り、さらにサドルやハンドル、ペダルの位置も 適切でなければならない。またそれそれの部品 を設計する際に、人体の個々の寸法はもちろん のこと、人体の仕組みや働き ( とくに股関節の 仕組みや下肢の運動特性など ) が十分に取り入 れられていなければ、人力を有効に発揮できな しはかりか、疲労の原因となり、安全性を欠く ことにもなる 〔サドル〕サドルは自転車を安全に駆動、操縦 するための乗員の座席である。つまりサドルの 機能は体重を支えるばかりではなく、ペダリン グの際の下肢の屈曲・伸展、股関節の運動にお いて支障のない形態・構造でなければならな 。サドルの形態や構造は、ほば二〇〇年に及 ぶ自転車の歴史のなかで、さまざまの変遷をみ せている。一八〇〇年初頭のサドル、たとえば ドライジーネのそれは、一本の棒状のフレーム まくら の上に木製のシートを固着したり、枕状のシー でんぶ トが使われ、臀部の痛さを避けるために毛布を 巻き付けたり、厚い布を張り付けたりして用い られていた。 鉄製の板ばね付きサドルの開発は一八四〇年 ごろで、四五年にゴムが発明されると同時にサ ドルやタイヤにもゴムが使用されている。今日 のようなスプリング付きサドルは、ミショウが 六六年のバリ博覧会に出展した自転車につけて 話題となり、その後ミショウはサドルをフレー ム上で調節できるような機構を考案している。 サドル開発の過程で、近年、人体の会陰部へ の配慮からさまざまの試みがなされている。二 〇世紀初頭のサドルにみられるサドルのセンタ ーラインにくばみを設けたり、中央をくりぬい たりしたものもその例である。一九七〇年代の 後半、サドルの設計資料として人体の骨盤の骨 が用いられてサドルがつくられており、解剖学 的サドルとよばれている。さらに生体で人体の 会陰部とサドルの関係を体圧分布によって追究 15

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しゅんほ。 念的なものといえる。その後、山水画の発展と律で争議行為を禁止されているので、この禁止出版化した。 かんせい ともに各種の皴法が現れ、さらにこれらが形式に抵触することなく争議行為と同一の効果をも 錦絵が発明されて大成しこ月ロゝ オ日不カら寛政期 7 化して特定の名称が用いられるようになった。 たらす実力行使手段として順法闘争を生み出 ( 一七六四 ~ 天 (I) は、浮世絵の歴史でももっとも ひましゅん 披麻皴は麻の緒を開披したような皴の意で、五し、利用してきた。しかし、これは、官公労働注目すべき時代であるが、この時代はまた春本 そう とうげん 代 ~ 宋初の画家董源に始まると伝わり、主とし者の争議行為の禁止法制を打破するための権利の歴史にとっても一紀元を画した時代であっ はるのぶ きたがわうたまろ て南宗画に用いられた線的な皴である。解索闘争の初期についていえることであり、現在でた。鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、細田栄 し しゅんちょう 皴、乱麻皴、芝麻皴、牛毛皴、荷葉皴などはこ はストライキ自体が正当性の権利意識をもって之、勝川春潮らの名手が輩出し、新技法の多 おの の系統に属する。これに対し斧劈皴は斧で切り行われている。 色刷りを生かして、写実的な情景表現で情感あ ところで、順法闘争は形式的には諸規範に従ふれる性生活を写し出すとともに、同工異曲の 開いた劈面のような皴で、面的な性格が強く、 論経済学の本質と主要内容』 ( 一九 00 を著し、 北宗画に多く用いられた。これには大小二種あった行動であるが、現実にはストライキや怠業描写の弊を避けるため、話の展開や背景の設定 りレ」 - っ りしくん にも新趣向を積極的に試み、奇想というべき珍 ついで四年後の著作『経済発展の理論』 (一九 lll) り、大斧劈皴は李思訓 ( 唐 ) 、小斧劈皴は李唐などと同様の効果をもち、社会的には争議行為 で一躍、世界的にその名を知られるようになっ ( 宋 ) に始まるといわれている。このほか、雨である。そこで、とくに官公労働者の場合、順奇なストーリーの作品も数多く生まれている。 おうい きよねん た。前者は、ワルラスの静学的一般均衡理論や点皴は王維 ( 唐 ) に始まるとされ、董源、巨然法闘争が、禁止されている争議行為にあたり違また版一兀の資本力の拡充もあって出版点数も多 ぶんか ぶんせい ぺいふつ くなり、以後、文化・文政期 ( 天 0 四 ~ 三 0 ) 以降 当時のオーストリア学派の強い影響のもとに書らに用いられたのち、北宋の米董が完成したも法となるかが問題となる。この判断のポイント かれたものであったが、後者ではすでにその動の。米董のものはとくに米点とよばれ、横点では、法律的な意味で争議行為といえるための要のいわゆる退廃期の時代へと移っていき、絵師 でいりばってい くに寺 1 だ かっしかほく、こい 件である「正常な業務の運営を阻害する」 ( 労に歌川豊国、歌川国貞、歌川国芳、葛飾北斎、 学化が図られている。シュンペーター経済学のあるが、泥裏抜釘皴と称されるものは同じ雨点 けいさいえいせん じゅ ためながしゅんすい 核心ともいうべき経済発展の理論は、資本主義皴でも竪点である。元末の文人画風成立後はし働関係調整法七条 ) という場合の正常性とは何渓斎英泉らの名手を、作者として為永春水、 みんしん しようていきんすい ′一うかん 発展の原動力としての「企業者機能」に焦点をだいに増加し、明末清初の画論には三〇種以上かである。いかに非正常な状態が慣行化してい 松亭金水らの合巻や人情本の作者を得て、最 の皴法がみえる。 〈村重寧〉ても、違法であることに変わりはないから、そ盛期を迎えることとなったが、享楽的、刺激的 あてたところに特色がある。 彼によれば、資本主義発展の担い手としての な世相を反映して扇情的であくどい作品が横行 頂去闘争じゅんばうとうそう遵法闘争ともれを阻止しても違法とはいえない。そうでない し、明治時代になると、この傾向はさらに強く 企業者が導入する新機軸 innovation ( 技術進書き、労働基準法、労働安全衛生法などの法と、違法な業務運営を法律が保障することにな よっこ。 〈吉田美喜夫〉 るからである。↓争議行為 歩、生産組織の改善、新製品開発、新しい販路令、労働協約、就業規則あるいは労働契約が日 きようほう じゅんぶう の開拓など ) が経済発展の動力であり、それを常的には使用者によって守られていないという回東京大学労働法研究会編『争議行為・官公 享保の出版条例以来、春本は一般的に醇風 労』 ( 一九会・有斐閣 ) 可能にするのが銀行による信用創造であるとい 実態のもとで、逆にこれらの諸規範を厳格に守 良俗を乱すものとして猥褻視され、公式には本 しゅんばん性行為の場面を露骨に描屋や絵草紙屋の店頭から姿を消したが、貸本屋 う。この中心的な構想は、後年の大作『景気循ることを目的あるいは要求実現の手段として利春本 まくら 環論』 ( 一九三九 ) でも受け継がれ、新機軸導入に 用する労働者の集団行動をいう。順法闘争の具写することを主眼とした読み物。好色本、枕や小間物屋の手で出回り、「嫁入り本」の名が ぞうし わいはんわじるしよみわ えんばん よる「創造的破壊」が景気循環を生み出す源泉体的方法は多様であるが、代表的なものとして草子、笑い本、猥本、和印 ( 読和 ) 、艶本などあるように、性教育の一助ともなっていたこと の名もある。絵だけのもの、文字ばかりのも 〈宇田敏彦〉 は、①列車の安全運転に関する規程を厳格に守 が注目される。 であるとして、理論的、歴史的、統計的分析に しゅんまく目の角膜と瞼の間に存在 よって裏づける努力がなされている。ところって列車を遅延させ、運行を混乱させる安全運の、挿絵やロ絵がついたものなどと形式もさま瞬膜 かんすばん せきつい しし、脊椎動物のうち、サメ類、無 が、晩年の代表作『資本主義・社会主義・民主転闘争、②労働基準法第三六条に規定する残業ざまであれば、肉筆の巻子本であったり、浮世する薄膜を、 しゃれ はちゅう 主義』 ( 一九四一 D では、経済社会学的な考察から、協定の締結または更新を拒否したり、残業協定草子や洒落本に似せた版本であったりと、体裁尾両生類、爬虫類、鳥類にみられる。結膜のひ 資本主義の発展につれてこの企業者機能が衰退が存在するにもかかわらず残業を拒否する残業もまた多種多様である。全盛期は、木版によるだとして生じ、目の内角より発して角膜上に広 せん 印刷技術が確立大成され、出版文化が盛行した がっている。瞬膜には瞬膜腺またはハルダー腺 することや、政府介入の増大に伴う民間活力の拒否闘争、③就業規則などで定められている始 弱化などの要因とあわせて、独特の資本主義崩業・終業の時刻を厳格に守る定時出退勤闘争、江戸時代で、この時代の小説本のあらゆるスタ とよばれる皮脂腺に類似の腺があり、その分泌 ー・」ゅ・つ イルでつくられているとみてよい 液は角膜と瞬膜の摩擦を少なくする。哺乳類で 壊論を導き出すとともに、社会主義がいかにす④法律上保障されている年次有給休暇を労働組 こんせき はんげつ 江戸時代以前にも、土佐派の絵師たちによるは瞬膜は内角に痕跡的に残り、結膜半月ひだと れば民主主義的になりうるか、という比較体制合の構成員の一部もしくは全員が組合指令に基 づいて利用する休暇 ( 賜暇 ) 闘争 ( 全員が利用肉筆画の絵巻物が伝わるほか、木版印刷によるよばれ、瞬膜腺も退化している。〈八杉貞雄〉 論的なところまで視野を広げている。そのほ しゅんよ、つかし 洋画、版画の美術団 か、死後刊行された『経済分析の歴史』 ( 一九五四 ) する場合を一斉休暇〈賜暇〉闘争という ) など中国本の翻刻物が残っているが、技術的な面か春陽会 ら量産はむずかしかったようで、伝本はきわめ体。一九二〇年 ( 大正九 ) 院展洋画部を脱退し などの優れた著作がある。↓資本主義・社会主がある。 ほうあん かなえ 2 」 / 、トつ 〈佐藤経明〉 義・民主主義 順法闘争は、日常的に休暇もとれす、安全がて少ない。江戸時代になって整版印刷が行われた小杉末醒 ( のち放庵 ) 、山本鼎、倉田白洋、 あだち つねとも はせがわ 回日本経済新聞社編・刊『現代経済学ガイド無視され、無償のサービス残業などが強いられるようになり、浮世草子が一般化すると、春本足立源一郎、森田恒友、長谷川昇に新帰朝の梅 ひしかわもろのぶ きょのぶ りゅうざぶろう つるぞう ているという状態に対する労働者の批判ないし も飛躍的に量産化し、菱川師宣、鳥居清信、奥原龍三郎を加えた会員が、院展系の石井鶴三 人と理論のプロフィール』 ( 一九会 ) まさのぶ すけのぶ そうど さんせき しようはち りゅうせい 抗議の意思表示という意味ももっている。ま村政信、西川祐信ら第一級の浮世絵師らが筆をら三名と旧草土社系の本村荘八、岸田劉生、 皴法しゅんばう東洋画における山石など つばきさだお かずまさよろず のを描く画法。山、土、岩石などの立体感た、順法闘争は、正面きってストライキをするとるようになって、以後、浮世絵の歴史と密接椿貞雄、中川一政、萬鉄五郎らを客員として に関係する出版物となった。しかし一七二二年迎え一三年一月に創設。既成団体への社会的反 や量感を表現するための一種の東洋的陰影法でだけの力量が労働組合にない場合にも利用され ある。中国では古く秦・漢代の山岳図にその原るが、とくに重要なのは公務員や公社職員など ( 享保七 ) の「出版条例」の制定によって取締抗としてではなく、単なる芸術家の心をもって 始的形態をみることができるが、非写実的・観の官公労働者の場合である。官公労働者は、法りの対象となり、公刊の自由を失ってアング一フ因縁相熟したるものとの結成主旨を発表した。 しん ぐ / ユン′く - ータ ふへき にしきえ わいせつ まぶた

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田は、国家機関としての寺院が活動するために 極から放出された電子は、管内をサイクロイドひき機、それに続く蒸気や電気を動力とする粉イス・フォン・ザウエルプロン F こ、ミこ、 Karl Friedrich Drais von Sauerbronn ( 一大五ー天 要する寺田に限られていたが、寺院はそれを中運動をするが、ある磁界では陽極に達せず周回ひき機などが現れるまでの数千年の間、人間は し、空胴の溝の近くを通るとき、空胴と共振す自らの筋力や動物の筋力を駆使して、製粉した五一 ) が、本馬型自転車を改良し、方向転換ので 核に新規水田にまで不輸租田を増やし、それが しようえん 寺領荘園成立の一要因となった。〈村山光一〉る電波を発生し、円周上に電場の定在波 ( 定常り、水をくみ上げたりするなど、家事作業や産きるハンドルをつけたものである。 じじよでん ことばどおりの本当の自転車は、一 波 ) をつくる。この定在波は互いに逆方向に進業労働に必要な機械力を得ていた。その一般的 自伝じでん 0 自叙伝 しでんかい日本海軍で実用された最む進行波の合成と考えることができるので、進な方法は、たとえば回転レバーを回転軸に垂直年、フランスのピエール・ミショウ Pierre 紫電改 <lll) とその息子工ルネスト Michaux ( 天一三ー 後の戦闘機。川西航空機 ( 現在の新明和工業 ) 行波の速度と電子流の速度が一致すると、陽極に取り付けて、それを歩行する人間や動物が引 瓮 ) によってつくら っ張ったり、また傾斜させた円板の上を人間や Ernest Michaux ( 一会九ー が製作した紫電の改良型で、正式には紫電一一一 の分割数の半数の電子群による電子極が形成さ ヘロシベ リの世界博覧会に出品された。・ 型というが、紫電改という通称のほうが広く知れる。このとき、電子は、誘導により直流源で動物が歩行して回転力を得るという方法がとられ、 ードとよばれ、前輪にペダルが取り付けられて られている。もとの紫電は陸上基地用の迎撃機与えられたエネルギーを回路に与え、速度を減れていた。また脚力のような強い力を必要とし ない場合は、初期の旋盤のように手でハンドル ( 海軍は局地戦闘機とよんだ ) として一九四一一ずるとともに陽極に達しながら持続的なマイク いる。その後イギリスのミシン会社の技師ター 年 ( 昭和一七 ) 一二月に初飛行し、一〇〇七機ロ波を発生する。磁電管は、電子レンジに使わを回すことによって、上肢の筋力を機械力にかナー Rowley B. Turner ( 天四 0 ー一九一七 ) が、 べロシベードを取り寄せ、多量生産を始めて、 えてそれそれの目的を果たしていた。いずれに 生産されたが、それを全面的に改設計して性能 れる数百ワットの連続発振用のものから、レー と実働率の向上を図った紫電改は四四年一月に ダーなどのバルス発生用の数百万ワットのものしても、それらの作業の多くは、回転運動、つイギリスの自転車工業の基礎を築いている。一 八七〇年、ジェームス・スターレー James 初飛行。アメリカ戦闘機に十分対抗しうる優秀があり、一一 ~ 三ミリメートルのミリ波用のものも まり車の原理が取り入れられて目的を達成して 〈岩田倫典〉 Starley ( 天 0 一 ー全 ) は、イギリスの工業都市 いる。車の発明は古く、紀元前三五〇〇年 ~ 前 機として期待を集め、重点生産機に選ばれたが、ある。 わずかに約四〇〇機が完成しただけで終戦を迎自転時じてんじ地球の自転角によって決ま三〇〇〇年ごろのエジプトやメソボタミアの絵コペントリーに新しい自転車工場を建設し、仲 間らと多くのデザイン開発をした。たとえば自 えた。しかし、部隊に送られた紫電改は、六〇る時系をいう。自転角の目安となる太陽に対すに車輪をつけた運搬具がみられる。その後、車 〇キ。の最大速度と優れた空戦性能を発揮して本るものが視太陽時、平均太陽に対するものが平輪は大きな発展を遂げて、今日、さまざまの場転車のフレームに鉄製チュープを使用し、軽量 化を図ると同時に耐久性をもたらし、それ以 土防空によく戦い、最後を飾った。〈藤田勝啓〉均太陽時、春分点に対するものが恒星時であ所で利用されている。 こうした情況を背景にして、人力による車の来、鉄製チュープはさまざまの技術分野の広い 磁電管じでんかんマイクロ波を発生させるる。いずれも自転角三六〇度を一日とし、二四 電子管。マグネトロン magnetron ともいう。等分した一五度を一時、これの六〇等分が一着想はかなり古くからあった。人力車つまり自範囲で利用されている。 自転車開発の画期的なできごとは、一 転車の起源は、メソボタミアの神殿のレリーフ 円筒形の陽極と、その円の同心軸を陰極とし、分、これの六〇等分を一秒とする。地球の自転 四年にスターレーの甥、ジョン・スターレー に描かれている牛車にみられるといわれるが、 軸方向に一様な磁場を加えたもので、陰極からの速さは一様ではなく、その不規則性のため、 放出された電子のサイクロイド運動により電磁時の単位一秒は地球の公転から定義されるよう人力による乗り物は、一五世紀初頭にイタリア John K. Starley ( 天五四ー一九 0 一 ) によりつくら 波を発生させる。一九二一年にアメリカの << ・ になった。↓太陽時↓恒星時〈渡辺敏夫〉の建築家フォンタナ Giovanni Fontana が描れた安全型自転車の出現である。これは今日の いているスケッチ ( 一四一一 0 ) が最初のものであろ自転車の原型で、前輪と後輪の直径が同じ大き じてんしゃ bicycle 自転車とは、 ・ハルが提案し、三七年 ( 昭和一 (l) に岡部自転車 う。この人力車は、今日の技術からみても興味さで鉄製のチュープ・フレームを使用し、チェ 金治郎が陽極を分割することにより実現した。乗員の運転操作により人力で駆動され走行する ーン伝動をもったペダルと、ばね機構を備えた のある機械要素として複雑なギア機構を組み込 第二次世界大戦中アメリカでレーダー用として車両 ( 日本工業規格「自転車の分類と諸元」 ) 、 または前輪と後輪の車輪を有し、一つまたは複んだエンドレスロープによる手動の四輪車であサドルが用いられている。またジョン・ダンロ 種々改善がなされ、今日の形にまで進展した。 ップ John B. Dunlop ( 天四 0 ー一九一二 ) が発明し 数のサドルを備え、ペダル上の乗員の脚力で推る。一五世紀終わりには、芸術家であり科学者 陽極は高周波損失が少なく、熱伝導性のよい であったレオナルド・ダ・ビンチが、チェーンた空気入りゴムタイヤが使われている。 銅プロックでつくられ、。フロック内に溝付きの進される車両と定義される。いずれにしても、 〔人力に有効なチェーン駆動と変速ギア〕自動 機構の詳細なスケッチを描いている。いすれ 共振空胴がうがたれており、その形によって梅地上を移動するために、人間の筋力がもっとも たちばな きよくじっ 鉢形、橘形、旭日形などとよばれている。陰効率よく発揮されてその目的を達成できるのがの場合も実現することなく夢に終わっている。車の伝動機構トランスミッションによるパワー 自転車である。人間の人力車の出現は一九世紀の産業革命という技術の損失は一五 % であるといわれる。それに比べ る て自転車の伝動機構であるチェーン伝動による 筋力と技能が要求され的創造の時代まで待たなければならなかった。 ハワーの損失はわずか一・五 % にすぎない。チ て目的を成就すること〔自転車の誕生〕自転車誕生の経緯をみると、 のに発 子同が エーン伝動機構は、一五世紀末にレオナルド・ ができるのが道具であ初めは実用的な目的に供しようとしたものでは 電波 るとすれば、自転車は なく、人間の気まぐれの所産として生まれたも ダ・ビンチが、チェーンと歯車を組み合わせた の振磁 がんぐ 伝動機構の素描を残しているが、チェーン伝動 マシンというよりも道のである。つまり玩具である。一七八七年、イ ロ 具というべきであり、 ギリスの雑誌『 C 。ミ 4 g 鳶 i' ミ』に掲載され機構が自転車に組み込まれるまで、自転車発展 ネ の過程でさまざまの試みがされている。 二一世紀に継承されるているホビーホース hobbyhorse で、これは、 グ 初期の自転車は前輪駆動のものが優勢を占め 数少ない道具のなかの鞍にまたがった乗り手が足で地面をけって、そ し 一つであろう。 の反動で前進する仕掛けの、まだ方向転換もでていた。これは構造が単純で軽量であるばかり 電 〔自転車誕生の背景〕 きない木馬型の自転車である。今日、自転車のでなく、前輪に取り付けたペダルが人力パワー ん 管磁極 一七世紀に出現した風前身といわれているドライジーネとよばれる自をはば一〇〇 % 伝達できるからでもあった。し て電 2 陰 かし不便なことに、速度を大きくするためには ノ一八年、ドイツの貴族の息子ドラ 車や水車を利用した粉転車は、一、 陽極 ( 銅の筒 ) 電子の運動同軸ケープル ( 取出しロ ) 〔図 B 〕磁電管 ( マグネトロン ) の陽極の形 00 ④ 橘 交互短絡梅鉢形旭日形 ( strapped sunrise) (sunrise)