第二次世界大戦 - みる会図書館


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ドイツ名。↓ストラス。フール シュトラル、スント Stralsund 東ドイツ 、らラーにて文筆活動に入る。硬質な一言語による簡シュトラウス B0th0 St 「 auß ( 一〈噐ー めいせき 潔にして明晰な表現と音楽性を秘めた文体、対 ) 西ドイツの劇作家、小説家。ニュルンべ シュトラスマン Fritz Straßmann ( 一九 」部、ロストック県の港湾都市。シュトラルズ 6 と 位法的な構成と作品を包むューモアゆえに、ヘ ルクに生まれる。ベルリンの「シャウビュ ) ドイツの核化学者。ハノー ーのエ ント海峡を挟んでリューゲン島に面する。人口 ネ」で一九七〇年前半に文芸部員を務めた。体業大学を卒業し、一九二九年からベルリンのカ七万四九〇〇 ( 一九〈一 l) 。東ドイツ第三の港で、 しッセは「ドイツ語の古典主義的作家」と評し た。郷土シュワー。ヘンに取材し、海外体験を織制と化した市民の認識を打ち破るために、観客イザー・ウイルヘルム研究所化学部で放射能の褐炭が輸出され、食品や原料が輸入される。造 り込んだ『エンゲル亭の主人 ( 一九 0 一 ) 、音楽的 にショックを与えることを意図する。いわば物研究を始めた。研究のほとんどは化学部長であ船所があり、二五〇〇トン級の大西洋型の漁船が 才能に恵まれた少年の悲劇を描いた『友ハイ 語の線を随所で断ち切って、点と点の非連続的った O ・ ーンや (-) ・マイトナーらとの共同の建造されている。ほかに製糖、醸造業がある。 ン』『生命の十字路』『べール』『生の舞踏』をな断片にするところに彼の作風の特色がある。 もので、日放射性元素ウラン二三九、プロトア リューゲン島へは海峡上に土手が築かれ、鉄道 経て『三和音』 ( 一九四五 ) に至るまで、その基本劇作品として『気で病む者たち』 ( 一九七一 l) 、『再クチニウム二三三などの発見をした。三八年ハ と道路が通じ、ベルリンとスウェーデンを結ぶ 主題は「内面と外部より押し寄せる破壊的な力会の三部作』 ( 一九七 0 、「大と小』 ( 一九含 ) などが ーンとシュトラスマンは、ウランを中性子で照連絡通路になっている。一三世紀初頭以来の古 に耐えて、自らに忠実であれという要請」であある。小説の代表作は『マルレーネの姉妹』射した際の生成物質のなかに放射性バリウムを い町で、一二七八年ハンザ同盟に加盟。一六四 った。世紀転換期のどの文学的潮流にも属さな ( 一九七五 ) 、『騒ぎ』 ( 一九八 0 ) 。 〈宮下啓三〉みいだし、「これまでの核物理学の経験といっ 八年スウェーデン領、一八一五年からプロイセ かったが、 純化された人間性を追究したという さい相反する」と報告した。この結果はただち ン領。第二次世界大戦中に被害を受けたが、中世 シュードラカ Südraka 生没年不詳。三 意味で一九世紀散文の系譜を引く。〈谷口泰〉世紀ごろ活躍した古代インドの劇作家。サンス に・マイトナーと O ・フリッシュによってのゴシック式教会や市庁舎が残る。〈佐々木博〉 シュト一フウス Oscar straus ( 天七 0 ー一九クリット劇『ムリッチャカティカー』 ( 土の小 「核分裂」と説明され、中性子の連鎖反応によシュトルン Robert Stolz ( 一 0 ー一九七五 ) 五四 ) オーストリアの作曲家。生地ウィーンで車 ) の作者といわれ、一〇〇歳の長寿を全うし る原子力の実用化の可能性を与えるものとなっオーストリアの作曲家、指揮者。グラーツ生ま 学んだのち、ベルリンで・プルッフに師事。た学徳円満の王と伝えられる。一〇幕からなるた。第二次世界大戦中力イザー・ウイルヘルムれ。ウィーン、ベルリンで学んだのち、一九〇 ベルリンで劇場指揮者として活躍するかたわら この劇は、ヒロインの名をとって『バサンタセ研究所崩壊のあとも核分裂の研究を続け、戦後七年からアン・デア・ウィーン劇場の楽長を務 よせ 文学寄席の音楽を書き始め、ヒット曲『音楽が ーナー』ともよばれ、零落した商人と遊女の恋 はマインツで研究を行った。四六年マインツ大め、多くのオペレッタを上演、またオペレッタ やって来る』で人気を得た。レハールのライバ 愛を主題とする。第四幕まではバーサの戯曲学無機化学教授となり、無機化学・核化学研究や歌曲の作曲で広くウィーン市民に親しまれ ルとして「オペレッタのシュニツッラー」とい 『チャールダッタ』をほとんどそのまま取り入所 ( 現、核化学研究所 ) に勤務。〈小林武信〉 た。ナチス占領により第二次世界大戦中はアメ われ、ウィーンの世紀末を典雅なメロディーでれている。場面の多くは市井のできごとで変化 リカに亡命したが、四六年ウィーンに帰り、べ シュト一フッサー Gregor Strasser ( 天 活写。代表作に『ワルツの夢』 ( 一九 0 七 ) 、『チョ に富み、登場人物も多く、悲劇・喜劇的要素を九一一 ー一九三四 ) ドイツの政治家。薬剤師で、第一 ルリンでレコード録音中に没した。歌曲は二〇 コレートの兵隊』 ( 原作は・・ショーの備え、二十数種のプラークリット語を使用した次世界大戦に将校として参加した。復員すると〇〇余、なかでも『プラーター公園の春』など 『人と超人』。一九 00 、『愛のロンド』 ( 一九一四、以古典劇中特異の作品。 〈田中於莵弥〉反共的な義勇軍 Freikorps で活躍し、一九一一は今日ではウィーンの民謡になっている。オペ 上ウィーン初演 ) がある。第二次世界大戦中は回岩本裕訳「世界文学大系 4 インド集土の 一年ナチス党に入り、二三年のヒトラー一揆に レッタの代表作に『二人の心はワルツをかな アメリカに移住、ハリウッドで映画音楽も手が 小車』 ( 一九五九・筑摩書房 ) 参加した。ヒトラーの入獄中党の再建に努め、 で』 ( 一九三三初演 ) がある。 〈寺崎裕則〉 けたが、一九四八年ヨーロッパに戻り、 北ドイツで党勢を拡大した。弟のオットー 9 ・ シュトラスフルカー Eduard Strasbur- シュトルーへ Friedrich Georg Wil- 〈寺崎裕則〉 ド・イシェルで没した。 ger ( 天四四ー一九一一 I) ドイツの植物細胞学者。 to Strasser ( 天九七ー一九七四 ) とともに、ナチス helm von Struve ( 一七九三 ー天六四 ) ドイツ生 シュトラウス Franz Josef Strauß ( 一九ポンとイエナの大学で学び、イエナ大学教授を党綱領を反資本主義的、社会革命的方向で実現まれのロシアの天文学者。ハンプルク近くのア ) 西ドイツの政治家。ミュンヘン生ま経てポン大学教授。種子植物における受精過程しようとするが、三〇年グレゴールがヒトラー ルトナに生まれる。ドルバト ( タルトウ ) 在住 れ。ミュンヘン大学を卒業して第二次世界大戦を研究し、ベネデン、ギ一一ャール Jean ・ Louis- に屈服したのに対して、オットーはナチス党かの兄のもとに移住、同地の大学で言語学を修 に従軍。戦後キリスト教社会同盟 (OTD) の Léon Guignard ( 一会一一 ー一九一一 0 と前後して減ら分裂し、「革命的ナチス闘争団」 ( 「黒色戦め、転じて一八一三年天文学の学位を得、教授 創設に参加して一九四九年同党書記長、五二年数分裂を発見し ( 一公 0 、植物の発生学を開拓 線」 ) を組織した。。 クレゴールは三二年末、シ に就任。一七年同地天文台長。三八年ロシア皇 同党副党首、六一年同党党首に就任。四九年連した。また有糸分裂と染色体の詳細な研究を多ュライヒャーの右翼連立政府への参加をめぐり帝の招請でプルコボ天文台の建設に努力し、三 邦議会議員に選ばれ、五三 ~ 五五年無任所相、数発表して、生殖における染色体の行動を明ら ヒトラーと対立して党内の職を失い、三四年六九年完成とともに台長に任命され、死の二年前 五五 ~ 五六年原子力相、五六 ~ 六二年国防相。 かにした。これはメンデルの法則の再発見 ( 一九月レーム事件の際殺害された。 〈吉田輝夫〉まで観測に精進した。終生の業績は、精密測徴 ろうえい 六二年 Z<+O 軍に関する国家機密漏洩のかど 00 ) の条件をつくり、細胞遺伝学の基礎を固め シュトラム August Stramm ( 天七四ー一九計を駆使して二重星の継続観測に従事し、一 で雑誌『シュピーゲル』の記者を逮捕させて権たものであり、ドイツ細胞学の権威を世界に確一五 ) 表現主義の言語破壊と言語創造を実践し二二年および二七年の再度にわたり『二重星目 カ乱用として世論の反撃を受け ( いわゆる「シ立した。日本では藤井健次郎が彼に師事してそたドイツの詩人。ミュンスター生まれ。第一次録』を公刊、収録個数は三一一二対に及び、こ ュピーゲル事件」 ) 、このため同年国防相を辞の学風を移入し、日本の細胞学、遺伝学の性格世界大戦中、東部戦線にて戦死。『シュトウルれらは分離角によって類別されている。加えて づけに大きく影響した。専門書『ミ e 、ま 任した。 ム』誌上に、極度な圧縮を特徴とする文体で前 五一八組の多重星を発見した。三九年同器を用 und Ze ミ e ミ』 ( 天七五 ) などのほか、 その後もキージンガー内閣で蔵相 ( 一九六六 ~ 衛的作品を発表。のちにダダイスムを経て、第 いてベガ ( 織女星 ) の年周視差〇・一一六四秒角 六九 ) を務め、八〇年の総選挙ではキリスト教民教科書、 ~ 、斗、 B ミミ』 ( 天九四 ) は広二次大戦後のレトリスムス、ポエジー ・コンクを検出した。また一八一六 ~ 五〇年父子二代に 〈佐藤七郎〉 く読まれた。 主同盟 (OQD) との統一首相候補とし レートなどの実験詩に至るまで影響を与えた。 わたりノルウェーからドニエプル河口までの子 した て戦ったが、社会民主党 (T) ) の・シュ シュトラス " フルク Straßburg フラン詩集に『きみーー愛の詩』 ( 一九一四 ) 、『滴たる血』午線測量事業に献身した。子孫四世にわたる天 〈深谷満雄〉 ミットに敗れた。 ス北東部、パ・ラン県の県都ストラスプールの ( 一九一九 ) 、ほかに戯曲もある。 〈谷口泰〉文学一門の宗祖である。 〈島村福太郎〉 いっき

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れそれに発達し、軍縮条約廃棄後は、対空兵装 翌年第一回展を開催、さらに二四年客員制を廃に発展した。この艦種は、排水量が七〇〇〇 ~ タ 一万五〇〇〇トンにもなり、そのなかには、航続および防御力強化、主砲の性能向上などで排水 して会員制とし、以後毎年春に公募展を行って タ いる。その後、梅原、岸田の脱退など会員の移力と速力を若干減じ、砲力、防御力を強化して量を増し、第二次大戦末期には一万四〇〇〇 ~ プ コ 一万七〇〇〇トンに達し、技術、性能両面で両艦 動は頻繁であるが、大正期には帝展、二科と鼎戦艦を補助し主力艦との戦闘に用いられるもの りつ みぎしこうたろうちょうかいせいじ も出現した。日露戦争の日本艦はその典型で、種の相違はなくなった。ほかに機雷敷設能力を 立する勢力をもち、三岸好太郎や鳥海青児な へ どの異才を世に送った。初期には草土社風の暗戦後には戦艦と砲カ同等、約二ノット優速の大もっ敷設巡洋艦、候補生の遠洋航海に用いる練 つくば い色調や南画趣味ないし日本的油絵志向が顕著型装甲巡洋艦 ( 筑波型、伊吹型 ) が建造され習巡洋艦を建造した国もある。第二次大戦直前 ど タ砲Ⅱ であったが、その後近代性を加え、第二次世界た。一九〇七年、砲力は弩級戦艦と同等、速カおよび戦中には、対空・対水上両用砲を搭載 しかのすけ みぐも コ 7 タ一タ・包☆ x 砲 大戦後は岡鹿之助、加山四郎、三雲祥之助、中は蒸気タービン機関の採用により一一六ノットのして艦隊・船団防空にあたる防空巡洋艦 ( イギ はせがわきよしこましてつろう プタブⅧ砲 リス、アメリカ ) 、重巡洋艦撃滅・中型高速戦 谷泰や版画部の長谷川潔、駒井哲郎、北岡文巡洋戦艦がイギリスに出現したため、装甲巡洋 コプコ 0 1 7 み 石 X 2 コー 7 ・ Z 艦対抗用の一一一弩砲搭載の三万トン級大型巡洋艦 雄などの活躍が目だっている。なお五一年 ( 昭艦はその存在価値を失った。 砲 2 x へ ( アメリカ ) 、潜水戦隊旗艦用巡洋艦 ( 日本 ) な 6 E X ☆ 中・小型の艦は最初無防備だったが、一八 和二六 ) から六一年まで、一時舞台美術部が設 へ , つん「ト 2 み用 4 ど、新用途の艦も出現した。 けられた。 〈佐伯英里子〉〇年代に、中甲板に薄い装甲を施した防護巡洋 X ☆ X — ・ E 兼 x 1 1 ク砲 x 砲ⅣⅡ 4 じゅんようかん cruiser 第二次世界艦 protected cruiser が出現してこれにかわ〔現代の巡洋艦〕第二次大戦後、飛行機、ミサ 巡洋艦 ク石 x 1 一 Z ッ E 砲 E つ「 ) 0 大戦までと、その後とで巡洋艦の概念はかなり 八二年イギリスで完成したチリのエイル、潜水艦、電子兵器、核兵器などの発達に ロ 6 E X , ス 5 ・ o 5 ま << CO 置 違っている。第二次大戦までの巡洋艦は、排水スメラルダ Esmeralda ( 二九六〇トン ) が最初のより、砲と魚雷を主兵装とする巡洋艦は存在価 ス 7 Ⅷ 2 ア ・ク . X ア 量と砲力が戦艦と駆逐艦の間にあり、速力と航本格的防護巡洋艦といわれ、以後この艦種は各値を失った。かわって、現代の海上戦闘に対応 1 ツ・買い「 X X 2 x X 発 , ロ用一 して対空・対艦ミサイル、対潜装備、電子戦装 — x ☆ x •--a 直続力が大きく、優れた航洋性を有する水上戦闘国で建造され、一万トンを超す大型艦も現れた。 x Ⅷ 1 ス兼ダ ⅣⅡ > 垂 し艦艇をいった。艦隊前面の偵察・警戒、索敵、 一九〇〇年代初頭には、高速かっきわめて軽備をもった艦が建造されるようになり、また指 、ー - 1 人 Ⅱク x アクン z 主力部隊の直衛、通商破壊、陸上砲撃、上陸作防御の軽巡洋艦 light cruiser が出現して防護揮、通信、電子装置を装備の主体とし、艦隊な 0 兼 0 ス 2 Z テスク x ス , 装 連戦支援、海外警備など、戦時、平時を通じてあ巡洋艦にかわり、この艦種は各国で著しい発展どの総合指揮や、有事に国家最高指導者を乗せ アッ☆ア 2 を遂げた。イギリスでは第一次大戦直前に、防海上より戦略指揮を行う指揮巡洋艦が、新造あ ロ・ X らゆる任務に用いられた。 ' 2 8 Ⅷ っワ】ワ】ワ】 るいは改造により出現した。一九五三年完成し x 2 スドドⅣ x x x x *_a _ 現代の巡洋艦は、有力な艦隊防空能力、水上護巡洋艦にかわる五〇〇〇トン以上の中型艦と、 ☆ x ア一一ン 1 人、 1 4 ダダ一 3 3 3 3 より軽快高速力で水雷戦隊旗艦や敵水雷部隊のたアメリカのノーザンプトン Northampton 打撃力、対潜能力、陸上攻撃能力、指揮機能な げきじよう スアアンンプⅣ どを一つ、またはいくつか備え、航空母艦と行撃攘にあたる三〇〇〇トン級の小型艦とに分か ( 一万七二〇〇トン ) は、この艦種の最初のもの タタ一 兵タテテススハ 一弱、一九砲装備である。第二次大戦直後は、防空能力が重視さ 装動をともにしてその直衛にあたるか、あるいはれ、前者は大戦末期に一万ト 自ら水上部隊の中核として行動しうる能力をもの艦まで出現、後の重巡洋艦建造の端緒となつれ、若干の戦時末成艦がこれに適するように改 0 0 0 ュュュ 1 5 5 4 3 4 ち、駆逐艦より一般的に大きく、おおむね基準た。後者は大戦初期に飛躍的進歩を遂げ、大戦造、ついで対空ミサイルが実用化するや既成 00 っ 0 00 ーレーレ 00 00 っ 0 っ 00 00 単 0 0 -0 っ 0 CO 排水量五〇〇〇トン以上、航洋力、航続力に優直後には一五・二砲装備、七五〇〇トン級のエ艦、新造艦に装備された。アメリカは一九六一 心れ、三〇ノット以上の高速を有する水上戦闘艦メラルド Emera1d 型に発達して近代巡洋艦の年以降、空母機動部隊の護衛を主任務として、 量 基礎を築いた。大戦末期から、巡洋艦は索敵用対空ミサイルを主とし対潜装備を従とした、原 艇をいう。 。 ) ・ 0 0 0 0 0 -0 -4 0 0 -0 0 ・以一 子力推進艦を含む五七〇〇 ~ 一万四七〇〇トンの 〔沿革〕帆船時代には、戦列艦より軽快で艦隊飛行機と高角砲を装備するようになった。 おワ 0 《 0 ワ】 LrO 0 C.D -4 1 よ 0 つん 0 - 」艦 隹一・ 4 ー 8 0 -4 8 つな 0 対一 っ編、 1 の耳目・手足として敵艦隊の捜索・態勢観測お〔第ニ次大戦終了まで〕ワシントン海軍軍縮条ミサイル巡洋艦を多数建造した。最新のタイコ 基 ☆ 艦 ンデロガ Ticonderoga ( 一九〈三完成 ) はイージ よびその報告、あるいは単独索敵、偵察、海上約 ( 一九 llll) で巡洋艦の排水量と備砲の大きさが 羊 水 ス装置の装備により高い対空戦闘力をもつ。当 制限され、その上限である一万トン、二〇・三 交通保護、護衛、通商破壊などの任務にあたる 11 ワゥー -4 《 0 ーー -0 っ 0 0 ワ朝 巡艦年 《 0 / ー -8 《 0 ーウー 8 8 4 村 な 1 成 初から巡洋艦として建造されたロング・ビーチ フリゲート、コルべットなどを巡洋艦 ( クルー ( 八弩 ) 砲搭載艦 ( 条約型巡洋艦 ) が、その後 的第完 Long Beach 以外は一万トン以下で、最初ミサ ザー ) と総称していた。 各国で建造された。一九二六年 ( 大正一五 ) 完 表 ふるたか 〔第一次世界大戦直前まで〕一九世紀中ごろ、成の古鷹は七一〇〇トン、世界最初の二〇砲搭イル・フリゲートあるいはミサイル駆逐艦とさ 代数 の隻 載軽巡洋艦で、その優秀性は世界の注目を集れたが、のちに巡洋艦に変更された。一九六一 中蒸気機関および鉄製さらには鋼製船体の採用に 造 より、フリゲート、コルべットなどは、砲と魚め、以後日本は巡洋艦建造技術で列強をリード年完成のロング・ビーチ ( 一万四二〇〇トン ) は、 建 ソ 型型 * 型型 雷を主兵装とする優速軽快な戦闘艦艇に発達した。続く口ンドン海軍軍縮条約 ( 一九三 0 ) で備原子力推進を採用した最初の水上艦で、原子炉 チジ型ア * ガ カ 二基により八万馬力、三〇ノットの能力を有 型型 * 一ツンニ型ロ し、これらも巡洋艦と呼称され、一八八〇年代砲により巡洋艦が区別され、一五・五 ( 六 ピリタルアデ型 弩 ) ~ 二〇・三社ン砲の装備艦を甲級または重し、全速力で一〇万海里、二〇ノットで三六万 に至り軍艦の艦種名称として定着した。 メ プスオニンワタタ型フ型進 グンクフジコクススラロバ推 初期の巡洋艦は、五〇〇〇トン以上の大型艦と巡洋艦 heavy cruiser 、一五・二弩以下の砲海里もの長大な航続力を得た。その後は、原子 それ以下の中・小型艦に分かれて発達した。大装備艦を乙級または軽巡洋艦と規定し、日本、炉の小型化が図られ、原子力空母の護衛用とし ん艦ロベトカバタモククカキス原 げんそく 型装甲の艦は一八九〇年代に強固な舷側甲鈑とアメリカ、イギリス、フランス、イタリア五かて七六〇〇 ~ 一万トンの艦が建造されている。 ソ連 じ巡国アメリカ ソ連は、対艦ミサイルを開発し、アメリカの 7 注砲塔砲を備えた装甲巡洋艦 armored cruiser 国の保有量を定めた。重・軽巡洋艦はその後そ 、 1 、 1 -11 っ】 -4 -4 ワ】 -4 0 ーっ 0 11 ぶき

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しょ・つ 〔第三期ハ三一一 ~ 一 0 一一五〕同国から中国への入貢 八九一年から一九〇五年まで陸軍参謀総長。参四 っ九年 ( 明治一 (l) 、明治政府の命により国王尚 影 泰が城を明け渡すことにより王国は崩壊、王宮 が再開されており、。ハレンバンを経由する国際謀将校の育成に多大の功績があった。モルトケ 日取 としての首里城の歴史にも終止符が打たれた 貿易がふたたび盛んになったことがわかる。こ流の作戦をさらに進展させ、ドイツが東西二正 晃 さんぶっせい 下 の時期、同国は中国史料に「三仏斉」として現面戦争を強いられることを想定して、それに対 し ( 琉球処分 ) 。その後、熊本鎮台沖縄分遣隊の営 所として用いられたが、 伊東忠太らの尽力で 木れ、イスラム商人の寄港地であり、マレー半島応する最高戦争指導法の立案に長年にわたって 一九二三年 ( 大正一 (l) 大修築が行われ、その のケダーとバレンバンが重要な地点であった。専念し、第一次世界大戦の緒戦におけるドイツ 二年後に国宝に指定された。四四年 ( 昭和一 ーフェン・プ 一南インドのチョーラ朝の攻撃を受け ( 一 0 一七年ケ陸軍の作戦の基本となる「シュリ 九 ) 日本軍第三二軍の司令部壕がその地下につ ユダー、一 0 一一五年パレンバン ) 、大打撃を受けた。 ラン」を策定した。 〈岡部健彦〉 くられたためアメリカ軍の砲爆撃を受け全壊し 〔第四期一 0 一一五 ~ 一三ハ 0 ころ〕この時期、王国の中シュリーフェン・プラン schlieffen た。戦後、アメリカのきもいりで跡地に琉球大れらを優美に、色彩感豊かに表現するのに独特 、い地はバレンバンからジャンビに移ったと考え 一九〇五年一二月にプロイセン陸軍 plan 学ができたが、大学が移転したため、目下史跡の能力を発揮する。それがとくにイギリスとアられているが、むしろ各地に小勢力が分立した参謀総長シュリーフェンにより策定されたフラ 〈岩井宏之〉 公園整備に向けての城壁、城門の復原工事が進 メリカで高く評価されている。 と考えるべきであろう。したがってこの時期を ンスに対する作戦計画。従来のロシア・フランス しやか められている。国指定史跡。 シュリービジャヤ王国の歴史に含めるかどうか 二正面作戦の原則に大改定を加え、ドイツ軍の 〈高良倉吉〉周利槃特しゆりはんどく釈迦の弟子。サン シュリック Moritz Schlick ( 天 は問題がある。 スクリット名をチューダバンタカ Cüdapantha- 〈生田滋〉全力を西方に傾注して、フランス軍を急襲、こ はんだか せんめつ 三六 ) ドイツの哲学者。ベルリン生まれ。ベル ka といい 、朱利槃毒、周利槃陀迦などとも音回生田滋著「国家の形成と高文化」 ( 『民族のれを捕捉殲滅することをその内容としている。 世界史 6 東南アジアの民族と歴史』一四・ リン大学で、マックス・プランクの弟子として写する。兄マハ ンタカ Mahäpanthaka ドイツ軍の左翼をポージュ Vosges で堅持し、 ぶつだ 山川出版社・所収 ) 物理学の論文で学位をとった。キール大学など ( 摩訶槃特 ) とともに仏陀の教団に入ったが、 右翼に主力を集中して進撃させ、 ハリを含むフ そうめい いくつかの大学で教えたのち、一九二二年から兄が聡明であるのに対し、愚・鈍なことで知らシューリヒト carl Schuricht ( 天含ー ランス車を包囲する。その際、ベルギーの中立 あんしよう ウィーン大学教授となる。その間にアメリカのれ、短い詩を四か月かけても暗誦することが一九六七 ) ドイツの指揮者。ダンツイヒ ( 現グダを侵犯することが、最初から計画されていた しっせき げんぞく 大学に教えに行ったこともある。彼同様に自然できず、兄から叱責されて、還俗するようにい ニスク ) 生まれ。ベルリン音楽大学に学び、ド このシュリーフェンの計画は、ロシアが日露戦 ちり あか 科学の素養があったノイラート、カルナップ、われた。しかし、仏陀から「塵を払い、垢を除 ィッ各地の指揮者を歴任したのち、一九一二 ~ 争の敗北と第一次革命で弱体化していたことを ワイスマン、ゲーデルなどとともに、検証可能 く」ということばと掃除だけを与えられ、それ四四年ウィースパーデン市の第一指揮者、のち前提として作成されたものであるが、第一次世 あらかん な命題だけを基礎に哲学を再編成しようとする を繰り返し毎日続けて、ついに大悟して阿羅漢音楽総監督。この間ベルリン・フィルハーモ一一界大戦の勃発まではとんど修正されず、緒戦に ウィーン学団を結成し、宣一一 = 口を発表し、国際会果を得たという。これより転じて、愚鈍な者を ライブツイヒ・ゲバントハウス管弦楽団、採用されて、ドイツ軍作戦の失敗の原因となっ さすことばともなった。 〈石上善応〉 議を開き、機関誌を発行するなど、この学団の ドレスデン・フィルハーモニーなどにしばしば 〈岡部健彦〉 活動の中心人物であった。ノイラートやカルナシュリービジャヤ Sriwijaya 東南アジ客演した。第二次世界大戦後はウィーン・フィ 、ンユリーフホート Shreveport アメリ ア、スマトラのパレンバンを中心とし、マレー ップの極端な物理主義とは異なり、精神現象に ルハーモニーと共演することが多く、このコンカ合衆国、ルイジアナ州北西部の石油工業都 ギ一じよう ついて述べる一一 = ロ語の独立性を説き、ウィーン学族の建てた海上王国。その最古の記録は義浄のビによるモーツアルト、シューベルト、。フルツ 市。人口二〇万五八一五 ( 一九〈 0) 。州第三の都 ぶっせい 団のなかでは右派といわれる。一九三六年、彼『南海寄帰内法伝』にみえる「仏誓国」であり、 クナーの演奏は、気品が高く典雅の極みと評さ市で、石油、天然ガス関係の工業のほかに、金 は精神異常の学生に暗殺された。まもなく学団その成立は、義浄が同地を訪れた六七一年をあれた。 〈岩井宏之〉属、綿織物、木材、畜産品、機械工業がある。 挈 - - つ この のメンバーはナチスの弾圧を避けて諸外国に亡まりさかのばらない時期であったらしい シュリーファー John Robert Schrieffer 一八三五年レッド川の遡行最終地点に集落が建 命し、論理実証主義の内部崩壊が始まりかけた国に関する史料も考古学的遺物も乏しいため ( 一九三一ー ) アメリカの物理学者。バーディー 設され、一九〇六年の石油の発見によって町が ン、クー に、その歴史を明らかにすることは困難だが、 ので、彼はこの主義と興亡をともにしたシンポ ーとともに超伝導現象を解明する理発展した。ルイジアナ・センテナリー大学、ル ルのようにいわれることがある。主著に『一般ほば次のようにまとめられる。 論理論 ) を提唱し、一九七二年ノーベイジアナ州立大学シュリ ー。フポート校の所在地 ふなん ~ 七四一〕おそらく扶南国にあっ 認識論』 ( 一九一 0 、『倫理学考』 ( 一九き ) などがあ〔第一期六七 0 ころ ル物理学賞を受賞した。マサチューセッツ工科である。 〈菅野峰明〉 る。 〈吉田夏彦〉 た大乗仏教の教団が移動してきたことから、こ大学を卒業、イリノイ大学大学院に進んだ。ド シュリーマン Heinrich Schliemann ー一丁ィーン、クー のシュリービジャヤ王国が成立したものと考えクター・コース在学中にバ ジュリーニ Carlo Maria Giulini ( 一九一四 ( 天一一一一ー九 0 ) 古代のトロヤの遺跡の発見者とし られる。この時期、同国は中国に盛んに入貢 ) イタリアの指揮者。べローナ近郊バル ーの共同研究に加わり、超伝導現象の担い手とて広く知られるドイツの考古学者。ドイツ北 しつりぶっせい レッタに生まれ、ローマのサンタ・チェチーリアし、「室利仏逝」として中国史料に現れている。 しての多数のク ー。ハー対のとるべき状態を量子部、バルト海に面するメクレン。フルク州で牧師 音楽院でビオラ、作曲、指揮を学ぶ。ビオラ奏大乗仏教が盛んで、優れた仏教美術がつくられ統計、変分法などを駆使して決定した。この研の子として生まれる。幼時からホメロスの物語 者として活動ののち、一 . 九四四年指揮者としてていると同時に、西アジアの貿易船の寄港地と究で彼は学位を取得し、六四年ペンシルべニア にあるトロヤの遺跡の実在を信じ、これの発見 一丁ビュー ローマ放送交響楽団、ミラノ放送交して国際貿易の中心地であったと思われる。 大学教授、七一年科学アカデミー会員となっ を生涯の目的とした。前半生はこのための資金 あい 〔第二期七四一 ~ 盒一一〕この時期の史料はまった 〈高山進〉 響楽団、ミラノ・スカラ座を経て、七三 ~ 七六 づくりのためロシアに移住しインド藍の貿易商 くないので、はっきりしたことはいえないが、 年ウィーン交響楽団首席指揮者、七八年からロ シュリーフェン Alfred G 、 von を営み巨利を得た。四〇歳代前半には事業をや サンゼルス・フィルハーモニーの音楽監督。六 国際貿易の構造変化とジャワのシャイレーンド Schlieffen ( 天三三 ー一九一三 ) プロイセンの陸軍め、世界旅行をしている。このとき中国や日本 ばつ、う ラ王国の勃興によりシュリービジャヤは一時的元帥。参謀将校としてプロイセン・オーストリ 〇年 ( 昭和三五 ) イスラエル・フィルハーモニ にも立ち寄っている ( 一会五 ) 。ついでギリシア に衰えていたものと考えられる。 ーと初来日。ドイツの交響作品を得意にし、そ ア戦争、プロイセン・フランス戦争に参加。一古代史の本格的な研究に入り、ギリシア、小ア 1 ) う ばつばっ

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他方、共産主義の側でもスターリン主義批判回太田雅夫著『明治社会主義政党史』 ( 一九七一・ 半立憲主義体制のドイツでもドイツ社会民主張とを区別して共産主義とよんだ。 ばつばっ ミネルヴァ書房 ) 主党の例にみられるように、マルクス主義は社 第一次大戦の勃発とともに、マルクス主義的 ( 一九五六 ) 以後、ソ連や東欧の現存する社会主義 しやかいみんしゆと , っ Sozial ・ 会民主主義として現れ、かっそうあろうとする社会主義としての社会民主主義は、右からの修のマイナス面が知れわたるにつれて、ポリシェ社会民主党 己 demokratische Partei Deutschlands 略称 努力が払われてきた。しかし世紀の変わり目を正主義、左からの共産主義の挟撃を受けて分裂ビキの国際共産主義運動における一枚岩的支酉 境に独占資本主義の成立とともに、イギリス、 し、第二インターナショナルは崩壊した。一九体制も揺らぎ始めた。その結果、西欧先進諸国ドイツ社会民主党は一八六三年に・ ドイツなどの先進資本主義諸国では、外に向か 一七年末ロシア革命成功後、共産主義が社会主の共産党はポリシェビキ型社会主義が唯一の正ラッサールの指導のもとに結成された「全ドイ っては帝国主義が、内に向かっては労働者大衆義労働運動において威信を高め、ドイツ、フラしいモデルであるという従来の考えを捨て、各ッ労働者協会」と、六九年に < ・・ヘーベル、 の要求にこたえて普通選挙制度や社会政策が採ンス、イタリアなどでは共産主義者が社会民主国にはそれそれの事情に応じた多元的で多様な・リープクネヒトらによって設立された「ド 用されて、労働者は何も失うものをもたぬプロ 党から脱党し、それそれ共産党を創立し、これ社会主義への道がありうると主張して、暴力革ィッ社会民主主義労働者党」とが七五年にゴー レタリアートの存在から、守るべき「祖国をも らの諸党は一九一九年ポリシェビキの指導下に 命とプロレタリアート独裁を否認し、議会制民タ大会で合同し、「ドイツ社会主義労働者党」 っ市民」へと変容しつつあった。それとともに国際共産主義組織を創立した。こうして国際的主主義による社会主義の実現を主張した。こう ( 九〇年以降「ドイツ社会民主党」と改名 ) と して出発して以来すでに一〇〇年を超える歴史 社会民主主義とマルクス主義とを同一視する考にも社会主義労働運動は共産主義と広義の社会した動きはソ連型共産主義と区別して「ユーロ え方に疑問を提起するものがイギリスやロシア民主主義の両陣営に分裂した。正統派マルクス コミュニズム」と称されている。これはその理をもつ。同党は第一次世界大戦前に国際社会主 はんちゅう から現れた。 主義はロシア革命を経験したのち、暴力革命と論と実践からみて広義の社会民主主義の範疇義運動 ( 第二インターナショナル ) において名 イギリスでは議会政治によって漸進的に社会プロレタリア独裁を否認し、議会制民主主義に に入るものと考えられる。 実ともに指導的地位を占めるに至った経験をも 改革を積み重ねることで社会主義を実現しよう よる社会主義の実現を主張し、革命の方法の点 日本では、現在のところ、社会党が第一次大つが、第二次大戦後も、とくに一九六九年のプ とするフェビアン協会が一八八四年創立され、 で修正主義とフェビアニズムに接近していった戦までのドイツ社会民主党型の広義の社会民主ラント政権の登場以来、ヨーロッパ国際政治に ひょう その掲げる理念は一九〇六年創立されたイギリ が、その世界観的基礎としてはマルクス主義を主義を、民社党は民主社会主義をそれそれ標おいて、改めて顕著な指導性を発揮している。 同党の歴史は、ドイツ近・現代史の展開にあ ス労働党の基本綱領となった。それは社会民主固執したために、社会民主主義のなかには、正し、共産党はユーロコミュニズムを志向して しるようにみえる。↓社会党 〈安世舟〉わせて、第二帝制期、ワイマール共和制期、ナ 主義を目標に掲げている点ではマルクス主義と 統派マルクス主義を名のるオーストリア社会民 共通する側面を有するが、その世界観的基礎と主党やドイツ社会民主党左派から、修正主義な・メーリング著、足利末男他訳『ドイツ社チス第三帝国期、第二次大戦後のドイツ連邦共 六九・ミネルヴァ 和国 ( 西ドイツ ) の四つの時期に分けて考察す して理想主義的ヒューマニズムを掲げ、既存の いしは改良主義、フェビアニズムまでの多種多 会民主主義史』上下 ( 一九六公 国家を前提として民主主義の原理の社会的・経様な形態がみられるようになった。 書房 ) ▽安世舟著「ドイツ社会民主党史序るのがよい ます、第二帝制の時期についていえば、同党 済的領域への拡大を主張し、したがって史的唯〔第ニ次大戦後の社会民主主義〕第二次大戦 説』 ( 一九七三・御茶の水書房 ) ▽・リヒトハ 後、ファシズムとスターリン主義を経験し、両 イム著、庄司興吉訳『社会主義小史』 ( 一九は、ゴータ大会以降、その発展が軌道にのりか 物論や階級国家論、階級闘争説を否認した。こ ~ 九 0 ) によ けた時点で社会主義者鎮圧法 ( 天大 七九・みすず書房 ) れは第二次大戦後、「民主社会主義」として定者を同種とみる全体主義論が西欧の社会民主主 しやかいみんしゆとう日本最初る弾圧に直面しなければならなかった。しかし 式化された狭義の社会民主主義の原型である。義者の間に受容され、冷戦の激化とともに共産社会民主党 むち この試練は、この法律を「鞭」とし、一連の社 一八九六年からドイツ社会民主党内に、このフ主義に対してますます民主主義が強調されるよの社会主義政党。一九〇一年 ( 明治三四 ) 五月 あめ せん いそお なおえこうとく ェビアニズムとカントの理想主義哲学の影響を うになった。その結果、「社会主義は民主主義一八日に片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳会保険制度を「飴」として労働者階級の体制内 きよし ・ : っし・つ、つ しゅうすい 結合を図ったビスマルクの退陣 ( 天九 0 ) で終わ 受けたベルンシュタインは、マルクス主義の原によってのみ実現され、そして民主主義も社会秋水、河上清、西川光二郎が結成。「純然たる 理そのものを否認し、労働組合と協同組合を主主義によってのみ達成される」とする民主社会社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破りを告げ、その後は、同党は、帝国議会での議 して全世界に平和主義の勝利を得せしめん」こ席が、一八九〇年の三五議席 ( 得票率一九・七 体とする社会改良活動と、議会と地方自治体に主義がイギリス労働党と西ドイツ社会民主党に おける政治的民主主義の徹底化によって社会主よって唱道された。そして一九五一年両党が中とを宣言し、八項目の理想として、人類同胞主 % ) から第一次大戦前の最後の選挙 (l*lll) で の一一〇議席 ( 第一党、得票率は三四・八 % 、 義を実現することができるという「修正主義」 心となって開催された社会主義インターナショ義、軍備廃止、階級制度打破、生産機関の公 を主張し、国家拒否主義を固執する「正統派」ナル第一回大会で民主社会主義は同インターの有、交通機関の公有、分配の公平、政権の平党員数は一九一四年に一〇八万六〇〇〇人 ) へ マルクス主義的党指導部に政策転換を迫った。綱領として採択された。それは徹底した反共産等、自由教育を掲げた。また貴族院・治安警察と躍進する発展を示した。しかしこうした発展 は、同党のイデオロギー的立場と、第二帝制に 他方、一九〇一一年以降、ロシア社会民主労働党主義の立場から、マルクス主義と絶縁を宣言し法の廃止、普通選挙の採用、集会・言論・結社 の多数派すなわちポリシェビキの指導者レー一一たばかりでなく、国有化政策を後退させるなの自由など、二八項目の綱領も定めた。ドイツ対する基本的姿勢に関連してさまざまの問題を もたらすことになった。ます、社会主義者鎮圧 ンは、専制主義的ロシアでは国家権力の合法的ど、所有の社会主義のかわりに、機能の社会主社会民主党の綱領を参考にしているが、プルジ な獲得の道は閉ざされているので、職業革命家義、たとえば西ドイツの共同決定法による労働ョア民主主義の要求を強く打ち出している。主法に対する戦い ( 同党の「英雄時代」 ) は党内 唱者六名のうち五名までがキリスト教徒であのラッサール派の影響力を弱め、マルクス派の からなる労働者階級の前衛政党による暴力革命者の経営参加などを主張した。イギリスや北 を含めてのあらゆる方法を用いて既存の国家権欧・中欧では社会民主主義政党が政権を担当り、その観点もうかがえる。従来、社会民主党勝利を結果した。一八九一年のエルフルト綱領 は即日禁止されたといわれてきたが、禁止を受は、ゴータ大会で採択された折衷的なゴータ綱 力を打破し、プロレタリアート独裁を樹立してし、民主社会主義の実験に着手したが、最近、 けたのは五月二〇日で、二日間存続している。 領と異なり、マルクス主義の論理で貫かれたも 、初めて社会主義は実現の緒につくことができるそれを可能にした高度経済成長も行き詰まり、 なお結社禁止と同時に、社会民主党宣一 = ロ書を掲のになっていた。しかし現実の運動において 力のであり、暴力革命とプロレタリアート独裁をそれに陰りがみえ始めている。この民主主義は や認めるものこそ真のマルクス主義者であると主広義の社会民主主義と区別して「社会自由主載した諸新聞も発売禁止とな 0 た。↓社会主義は、九〇年代の選挙戦を通じての躍進ととも 〈成田龍一〉 協会 に、とくに南ドイツ諸邦の議会を中、いにして体 3 し張し、正統派マルクス主義と修正主義と自己の義」と称する人もいる。

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物ー 0 第 アンセル・アダムズ ュー・メキ シコの月』 1941 年 もっとも質の高い印画をつくる写真 芸術家として知られている。生涯を 西部の大自然描写に捧げた。白から 黒に至る階調に 8 段階あると主張し , 科学と美学の表現的一体性も合理的 技術によって可能だとして自ら実践 してみせた。ウェストンの影響を受 けた一人 アンリ・カルチェ・フレッソン オ ート・プロバンス」 1954 年 ライカを肉眼の延長として使い , 1 9 52 年処女写真集『決定的瞬間』によ って , スナップ手法の巨匠となった 日常的現実に潜在化した非日常的イ メージをスナップ手法で引き出して いる。第 2 次世界大戦後 , キャパと ともにマグナム・フォトスを結成し 355

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術ばかりでなく、映画、テレビ技術とも結び付き、それ自体ような瞬間を意識するようになる。このような現在意識は、 ん写真 し マス・メディアとしても発達し、さらに科学技術分野での応われわれの日常意識に深く浸透しており、現在と同時性の気 分でつながっている。 や〔文化としての写真〕写真と現代社会 / 写真と生活 / 写用範囲もきわめて広いことは前述のとおりである。 し 他方、写真に写された事象はすべて過去に生起したもの 真と芸術 / 文化的記号としての写真 写真は、映画、テレビなど他の映像文化同様、その時代そ 「写真の歴史〕前史 / 写真術の誕生 / ポートレートの流の時代の世相を鮮明に写してきたが、これは大衆の「見る」の、その一瞬の凍結だといえる。そこで、フィルムはしばし ば記憶を貯蔵する鏡とされ、レンズは外へ向けられた窓の働 行 / 絵画的写真 / 都市への関心 / 旅行と冒険 / アメ ことへの潜在的な心理的欲望の反映でもあった。事実、一、 リカの記録写真 / 近代写真 / アバンギャルドの動世紀末にはヨーロッパで幻灯ショーやのそきからくりが興行きをしているといえる。事実、カメラはどのような場所にも され始め、また光学ショーとしてパノラマやジオラマも人気不意に現れ侵入する。しかも自由なカメラ・アングルはそれ き / 転換期の一九三〇年代 / 第一一次世界大戦後 〔日本の写真史〕初期 / 明治時代 / 大正時代 / 昭和初期を高め、後者は一九世紀に入って頂点に達する。ジオラマは までの固定した視点を解放し、対象は新しい意味とイメージ と新興写真 / 第一一次世界大戦後 巨大な画布に風景画が描かれており、それを透射光で眺めるを伴って装いを変える。レンズは遠くのものを引き寄せるば のに対し、パノラマは反射光で眺め、ともに劇場風の建物内かりでなく、近くのものにも限りなく接近し、ついに月の表 英語のフォトグラフ photograph は、ギリシア語を語源で公開された。とりわけジオラマは立体化し、また画面を円面から雪の結晶までもとらえる。さらに、眼にとまらぬ運動 として、「光で描く」という意味で、イギリスの天文学者ジ筒状にして回転させたりした。さらに現実感を強調するためをする物体の瞬間的なビジョンをすばやく固定し、動きに対 ョン・ に、カメラ・オ。フスキュラを利用し、精密な描写画を原画にする肉眼の印象のあいまいさを指摘してやまない。 ーシェルが、タルポットの発明した紙印画法に対し したりした。このようにジオラマやパノラマに大衆が熱中し このようなカメラの行動力と裸の眼としてのレンズの率直 て一八三九年に命名したもの。タルポットはそれまでフォト ジェニック・ドローイング photogenic drawing とい , っこ たのも、大衆の現実世界への関心が高まっていたからであな観察力を背景にして、一九三〇年代にグラフ・ジャーナリ とばを使っていた ( フォトジェニックとは「光で生じた」のり、さらに末知の世界への好奇心が、視覚の精密化と拡大をズム時代が訪れる。『ライフ』の創刊にあたって発行者へン ・ルースは、「生活や世界を見る。大事件を眼前にする。 意味 ) 。なお、フォトグラフィ photography は写真術をさ要求したためでもあった。写真の発明者の一人、フランスの おおっきげんたく ばんすい らんぜいべん す。写真という訳語は、大槻玄沢 ( 磐水 ) が著書『蘭説弁ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが、。 シオラマの興行者と貧しい人たちの顔と、おごれる人たちの姿を見る。新奇な事 わく 惑』の下巻『磐水夜話』 ( 一天 0 のなかで、ラテン語で「暗して、カメラ・オプスキュラへの興味から写真術研究を開始象ーーー機械、軍隊、群衆、ジャングルの中と月の表面の影 した事実を忘れるわけには、ゝよ、。 い部屋」の意味をもっカメラ・オ。フスキュラ camera obscu- を見る。人間の創造物ーー絵画、塔、そして発明・発見 写真術誕生は、オーストリアの写真史家カール・パべーク ra に対して使ったのが最初である。 を見る。一〇〇〇マイルも隔たったもの、壁の背後と部 ) が指摘するように、個々の事物へ現象学的に接屋の中に隠されているもの、接近しては危険なものを見る。 写真は光または放射線、粒子線などの光エネルギーを使っ て可視像をつくる方法技術をいう。しかし通常写真術という近し、三次元的世界を模写するために「われわれの眼と、事愛する女性や多くの子供たちを見、かつ見ることに喜悦す 場合、レンズによる像形成、ハロゲン化銀乳剤を塗布したフ実としてそこにあるものの間に、存在の橋を架けた」ところる。見、かっ驚く。見、そして教えられる」と趣意書に書 にその意義があった。またフランスの映画批評家アンドレ・ き、視覚文化時代の到来を告知したのであった。 イルム上への潜像形成、現像定着などの化学処理法による可 バザンは、外部世界の像が人間の主観の介在なしに、純粋客 けれども、このような「写真の時代」への楽天的な姿勢は 視像形成、さらに印画紙へのプリント作製という一連の物 観的に呈示された最初のできごととして、つまり視覚の歴史すぐに訂正されることになる。グラフ・ジャーナリズムは発 理・化学処理のプロセスすべてをさしている。 写真術の応用的範囲はきわめて広く、顕微鏡写真、医学写的な革命であったとしている。レンズは意識を帯びない物質行部数を伸ばすにつれて機構的に巨大化し、システム化され た編集は個々の写真家の発表活動や個性を統制し画一化した 真、放射線写真、原子写真、天体写真、航空写真、地形写としての眼であったのである。 真、水中写真、分光写真、赤外線写真、紫外線写真、高速度 一方、近代市民社会が成立した一八世紀では、市民階級のばかりでなく、『ライフ』のようにアメリカの世論を代弁す 写真、光弾性分析写真、物理的測定記録、写真製図、犯罪学絵画所有熱を背景にして各種の版画技術が出そろって絵画のる役割をもつようになると、国益のためにイデオロギッシュ にならざるをえず、しばしば政治的情况に内容が揺れるよう 写真などがあり、またホログラフィーなども含まれる。映画複製が行われ、写真術はむしろ新しい版画術の誕生として熱 烈に歓迎された。自由と平等を理念とする近代市民社会の成 になる。あるいは、大衆に迎合してセンセーショナルな編集 は写真的技法を基礎にしているが、テレビジョンは電気ない に堕することも多く、数多くの人権上の問題がそこに発生し し電子技術による像形成システムに含まれるため、写真術と熟があってこそ、写真は誕生したといえよう。 複製手段としての写真術は、外部世界の客観的な記録再現た事実は、今日でもそれほど変わってはいない。 は区別される。↓カメラ またテレビの出現は最初に映画を脅かしたばかりでなく、 〔文化としての写真〕〔写真と現代社会〕一九世紀なかばに機能に支えられつつ、やがて印刷術と結び付き、のちにグラ 誕生した写真術は、今日では個人的技術として普及し、カメフ・ジャーナリズム時代を開花させる。カメラは、異なった速報性や報道の臨場感においても写真に大きな影響を及ば 時・空間に生起するあらゆる社会事象を人々にかわって体験し、改めて写真の記録表現性に反省が強いられるようになっ ラはもう一つのペンとして一般生活に浸透している。一九八 四年 ( 昭和五九 ) 現在、カメラ生産世界一を誇るわが国の生的に目撃し、迅速かっ広く大衆社会に伝達する。かくして世た。『ライフ』が最盛期八五〇万部の発行部数を誇りながら、 産台数は年間一五三〇万台に達している。また写真術は印刷界はレンズの前に開かれ、大衆は現にそこに投げ入れられた一九七八年復刊したとはいえ、七二年いったん休刊を余儀な しやしん ( 一九 0 六ー 342

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じゅねぶ 半径の大きい大型巡洋艦の保有を有利としてい れ、制裁が実施されることになっていた。さら 2 たことであった。日本は調停に努めたが、アメ に、議定書の発効は、軍縮計画の採択・実効に 光着 リカ、イギリスの巡洋艦をめぐる対立は解け従属していた。同議定書には、フランスなど一 観発 ン ず、同年八月四日、会議は散会した。↓ワシン九か国が署名したが、イギリスが一九二五年三 トン海軍軍縮会議 〈前田寿・納家政嗣〉 月の連盟第三三回理事会で正式に不加入を表明 水 がくは Ecole de したことが影響し、必要な数の批准が得られす ジュネープ学派 イギ 館 ン Geneva School スイスの末発効に終わった。フランスを中心とする連盟 0 一一一一口語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールの の安全保障強化のための方策は、相互援助条約 ン ざせつ 学説を継承・発展させた学派。直弟子のバイ案 ( 一九一一三 ) に続いて挫折し、この原因となった 0 ル イ、セシュエ、カルツェフスキーらに代表されイギリスは、以後、ロカルノ条約 ( 一九一一五 ) に結 る第一世代と、フレ、ゴデル、エングラーらに実されるラインラントの安全保障条約案の具体 0 〈植田隆子〉 代表される第二世代に分けられる。 化に乗り出すことになる。 、 04 う , 当物・・ 0 きょ , ってい Geneva 第一世代が結成したジュネー。フ言語学会 So- ジュネープ協定 一口「凵朝 0 院ノ》、ー 0 0 、本 ciété Genevoise de Linguistique の機関誌 Agreements ジュネープ協定とはジュネープ ナ 『ソシュール研究誌』 Cahiers Fe il ミミ で開かれた国際会議において妥結された協定を 一ラ一委尸 ア S ミ、 ss ミべは一九四一年に創刊され、第二世代 、第二次世界大戦後ではおもにインドシナ 十 のソシュール研究サークル Cercle Ferdinand 休戦協定とラオス中立協定をさし、一般にジュ 4 de Saussure に引き継がれて今日に至ってい ネープ協定という場合にはインドシナ休戦協定 フ るが、その特色は、①ソシュール文献学 ( 『一を意味する。インドシナ休戦協定は、交戦当事 なま 般言語学講義』〈一九一六〉の生の講義録とソシュ者のベトナム民主共和国 ( 北。へトナム ) 、ベト ネ ールの手稿に代表される原資料研究 ) と、②ソナム国 ( 南・ヘトナム ) 、ラオス、カンポジア、 ュ シュール解釈学 ( 晩年の神話・伝説やアナグラ フランスの五か国に米、英、ソ、中の四か国を ジ 0 ムをも射程に入れたソシュール理論の再検討 ) 加えた九か国が参加して、ディエン・ビエン・ の二つであるといえよう。 フー陥落の翌日 ( 一九五四年五月八日 ) から討 八七年に「自由特許状」をジュネー。フに与えて備制限会議。アメリカ大統領クーリッジは、同 一九六〇年代以降、興味深い伝記的事実も発議が開始され、七月一一一日に妥結した。この協 〈丸山圭三郎〉定は、ベトナム、ラオス、カンポジアに関する いる。一五世紀初頭には、市参事会の存在も確年二月、先のワシントン海軍軍縮会議 ( 一九一一一 ) 掘・考証されている。 ぎていしょ Gene- 三つの休戦協定 ( 敵対行為の終止に関する協 認される。一方、サポイア家は都市周辺の土地 が合意に失敗した補助艦の制限について、五大ジュネープ議定書 フラ を支配下に収め、司教の地位にも同家の出身者国会議を呼びかけた。フランスは、国際連盟主 va Protocol Protocole de Genéve 定 ) 、各国政府が休戦協定の履行に関してそれ 催の軍縮会議準備委員会の作業が進行中である正式名称は国際紛争平和的処理議定書 Proto- それ単独に行った九つの宣言、会議の最終宣言 を多数つけるようになり、都市の自治を脅かし col for the Pacific Settlement of lnterna- との合計一三通の文書からなる。 た。一五三三年司教は都市ジュネープの支配権こと、またフランスの主張である総トン数制限 tional Disputes *ZProtocole pour le régle- をサポイア家に譲り渡そうとしたので、市民は方式 ( 総トン数の限界内で艦種構成の自由を認 ベトナム休戦協定は一九四六年以来八年にわ ment pacifique des différends internationaux める方式 ) にアメリカが反対していることなど たるフランスとベトナム民主共和国との間のイ 司教を都市から追放した。この独立闘争には、 を理由に参加を拒否、イタリアもこれに同調し である。一九二四年一〇月二日に国際連盟ンドシナ戦争に終止符を打つもので、①敵対行 一五二六年以来同盟関係にあったベルンとフリ ・フールの後押しがあった。一五三六年以降のフた。その結果、アメリカ、イギリス、日本三か第五回総会で採決され、前文および二一か条か為の停止、②兵力引き離し ( 北緯一七度線の南 アレルとカルバンによる宗教改革の導入は、司国の会議が同年六月から開催された。アメリカらなる。仲裁裁判、安全保障、軍備縮小の三原方で、第九号公路のやや北方に暫定軍事境界線 則によって国際紛争を平和的に解決し、国際連を設け、ベトナム民主共和国軍は境界線の北側 教からの政治的、教会的自立を完成させる役割が、ワシントン海軍軍備制限条約の比率 ( アメ に、フランス連合軍 ( フランス兵、ベトナム・ リカ五、イギリス五、日本三 ) を、各種補助艦盟の欠陥を補完する目的で作成され、前文では も負うことになった。しかし、新教派都市とな にも適用する艦種別総トン数主義の立場をとっ 侵略戦争は国際犯罪と規定されている。同議定ラオス・カンポジア兵、外人部隊からなる ) は ったジュネープは、スイスのカトリック諸州の たのに対し、イギリスは、補助艦を大型、小型 書は、とくに、あらゆる国際紛争に拘束力ある南側に引き揚げる、軍事境界線の両側に幅五キ。 強い反対でスイス連邦に加入することはできな に分け、大型巡洋艦にのみ「ワシントン比率」裁決を下し、解決に導くことを取り決めてい の非武装地帯を設け、軍隊、軍需品、軍事物資 かった。一七世紀初頭サポイア家は巻き返しの る。すなわち、常設国際司法裁判所規程第三六 はすべて非武装地帯から撤退ないし撤去する ) 、 奇襲に失敗して、正式に都市共和国ジュネープを適用する艦種艦級別トン数主義の立場をとっ シュネー・フがスイス連邦に加て対立した。日本は、巡洋艦、駆逐艦で対米七条二項が規定する紛争の義務的管轄を締約国が③軍事情勢の凍結と非軍事化 ( 増援部隊・補充 の独立を認めた。。 入したのはナポレオン体制崩壊後の一八一五年割、潜水艦でそれ以上の比率を要求した。もっ承認し、それ以外の紛争は最終的に国際連盟理軍事要員の導入、武器・弾薬・その他軍事物資 〈森田安一〉 とも重要な問題点は、海外植民地・海外基地を事会による審査、あるいは仲裁裁判によって解 の搬入、軍事基地の新設を禁止する。ベトナム である。 もつイギリスが多数の小型巡洋艦の保有を有利決される。ここに定められた紛争解決手続に付民主共和国はベトナム北部が、フランスはベト ジュネーブ海軍軍縮会議 んしゆくかいぎ一九二七年ジュネープで開かれとしたのに対し、大西洋・太平洋の両洋に面すことを拒否し、また理事会の勧告、裁判判決ナム南部が確実に軍事同盟に加盟せす、また敵 に反して戦争に訴えた国は、侵略国と認定さ た、アメリカ、イギリス、日本三か国の海軍軍し、海外基地も制限されていたアメリカが行動 対行為の再発や侵略政策のために利用されない 至ローザンヌ プリマ 4 れ公〔園 機関 ・教究所 0 1 ュ ン 小コ ・ 400 フラ

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、んかい tection of war Victims の四条約を基本とのエチオピアに赴く。以後スペイン内戦、第二 んかい 0 軍縮委員会 ようにする ) などを主要内容とした。 し、同条約に対する一九七七年六月一〇日の一一次世界大戦下のヨーロッパで捕虜の保護、市民 各国政府の宣言のうちカンポジアとラオスは ジュネープ軍縮会議ーぐんしゆくかいぎ の救護にあたる。四四年赤十字国際委員会駐日 一九五五年中に総選挙を行うこと、ともに侵略一九三二年に六一か国が参加してジュネー。フで追加議定書によって補完されている。 ジュネープ条約は赤十字条約ともよばれ、ナ代表に任命され、翌年六月ジュネープをたって 政策に加わらず、侵略政策に自国の領域を利用開かれた軍縮会議。国際連盟理事会は一九二五 イチンゲールら篤志看護婦のクリミア戦争 ( 一〈戦火を避けながら八月九日羽田に飛来。日本降 されることを許さない旨の決意を表明してい 年末に軍縮会議に向けて準備委員会を設置した 五四 ) における傷病者救護の活動に刺激され、ア伏後ただちに連合軍捕虜三万四〇〇〇人の解放 る。最終宣一言は三つの休戦協定を承認し、各国が、三〇年一一一月同委員会は条件付きながら、 に奔走する一方、九月二日広島の惨状を伝える 政府の宣言に考慮を払う ( テーク・ノート ) こ イギリス・フランス案を中心とする軍縮条約案ンリ・デュナンがイタリア統一戦争 ( 一会九 ) の とを約したもので、要点は、①軍事境界線は暫の概要につき合意に達した。そこで三一年一月際の救護体験とそれに基づく傷病兵救護策を記電文を入手するとマッカーサーを説得、九月八 定的なもので、政治的、領土的境界ではない、 の連盟理事会の決定に基づき、三二年二月から述した『ソルフェリーノの思い出』の出版を契日一五トンの医薬品を岩国へ空輸、翌九日午前広 五九か国 ( のち、ドミニカ、イラクが加わり六機に、ジュネー。フ公益協会が各国に呼びかけて島市に入り医薬品の分配と医療に従事し多数の ②ベトナムでは国際委員会の監視と管理下に一 創設された国際赤十字の武力紛争時における傷市民を救う。四六年一一月ジュネープの赤十字本 九五六年七月に総選挙を行って政治問題を解決一か国 ) が参加してこの会議が開催された。し 部に帰着するとただちに米軍の原爆投下を糾弾 かし、ベルサイユ条約による厳しい軍備制限か病者救護の精神によって作成された。 する、政治問題の解決はベトナムの独立、統一 するアピールを発した。同年末ュニセフ代表、 ら免れようとして均等軍備権を主張するドイツ 最初のジュネープ条約 ( 赤十字条約 ) は一八 および領土保全を原則として行い、ベトナム住 五三年赤十字復帰、五九年赤十字国際委員会副 民に基本的な自由を保障する、③会議参加国は と、歴史的な経験からその前提として確固たる六四年八月一三日に作成され、わが国は一八八 カンポジア、ラオス、ベトナムの主権、独立、安全保障制度の構築を主張するフランスとの対六年 ( 明治一九 ) 六月五日に加入した。この条委員長、同年八月北朝鮮帰還問題で再来日。六 〈丸山幹正〉 一年六月一六日スイスにて没。 統一および領土保全を尊重し、三国の国内問題立が障害となって話し合いは進展しなかった。約は陸戦における傷病者救護を目的としたもの で、その後、一九〇六年、二九年の改正を経て・ジュノー著、丸山幹正訳『ドクター・ジ に対する干渉をいっさい慎む、というものであイギリスは再三妥協案を提示したが、三三年一 ュノーの戦い』 ( 一九ハ一・勁草書房 ) った。休戦協定は交戦当事国の軍事代表者間で月にドイツにヒトラー政権が誕生、同年日本、四九年の ( 第一 ) 条約になっている。 一八九九年七月二九日「ジュネープ条約ノ原ジュノー Juneau アメリカ合衆国、アラ 調印され、したがって一方の調印者はフランスドイツの国際連盟脱退と環境が悪化し、調停の 則ヲ海戦ニ応用スル条約」が作成されたが、同スカ州南東部の不凍港を有する港湾都市で、同 連合軍司令官で、ベトナム国代表は調印に加わ努力は成功しなかった。軍縮会議は三四年末以 八 ( 一 0 ) 。面積 州の州都。人口一万九五二 〈前田寿・納家政嗣〉条約は、一九〇七年の改正を経て四九年の ( 第 らなかった。ベトナム国は休戦協定に反対し、 後再開されなかった。 こ Lac de Genéve ( 八〇五〇平方キ。 ) は合衆国の都市中最大。交 一 l) 条約となった。 最終宣言には調印しなかった。アメリカも調印 ジュネープ湖 ふりよ この精神を拡大し、戦闘外に置かれた「俘虜通の要地、交易の中心地として繁栄する。漁業 しなかった。しかしベトナム国、アメリカともスイス南西部とフランス東部の国境付近に広が が主要産業の一つで、サケ、ヒラメ漁が盛んで ノ待遇ニ関スル条約」が一九二九年七月二七日 るレマン湖の別名。↓レマン湖 休戦協定に武力をもって反対することはしない に作成されたが、改正され四九年の ( 第三 ) 条あり、これら水産物の加工工場も多い。製材 旨を明らかにした。 ジュネープ国際音楽コンクール こくき、いおんがく Concours lnternational 約Ⅱ捕虜の待遇に関する条約となった。敵国の業、観光業も重要である。一八八〇年に・ジ インドシナ戦争は植民地戦争として出発し、 バーツ山で金鉱脈を発見して d'Exécution Musicale, Genéve 毎年八月管轄下に置かれた文民の保護を目的として作成ュノーが近くのロ のち冷戦下の国際戦争となって拡大したものだ から金の町として発展した。アラスカ・ジュノ されたものが、四九年の ( 第四 ) 条約である。 が、その終結案としてジュネープで提起された末から九月にかけてスイスのジュネープで開催 ー金鉱山は当時採掘量世界最大を誇ったが、一 わが国は、この四条約に一九五三年 ( 昭和二 のは民族自決、一種の中立化 ( 外部干渉の停される音楽コンクール。一九八五年には第四一 八 ) 一〇月二一日に加入した。現在、世界のほ九四四年以来閉鎖されている。一九一二年にア 止 ) 、事実上のベトナム分割という方式であっ回を迎え、この種のコンクール中もっとも多く ラスカ準州の州都となり、アラスカが州に昇格 とんどすべての国が加入している。 の開催回数を誇り、参加者も多い。例年四種目 た。民族自決と中立化は民族解放闘争の勝利の 締約国は、すべての武力紛争や占領時にこれした五九年、引き続き州都となる。市内から二 結果であり、ベトナムの実質的な分割は冷戦の程度のコンクールを行うが、種目は毎年変化す らの条約を守るべきものとされ、敵国が締約国〇キ。の所にメンデンホールの大氷河がある。ま る。ベネデッティ・ミケランジェリ、アルヘリ ハワー・ポリティクスによる妥協の産物であっ た、州の歴史、エスキモー、インディアンの展 ッチ、グルダ、ショルティ ( 以上ビアノ ) 、シでなくても、条約の規定を受諾し適用するとき た。民族自決と領土の分割は矛盾するが、その 〈作野和世〉 は相互に条約に拘束され、内乱などの非国際的示物が多い州立博物館も興味深い 矛盾を受容することなしには休戦協定をまとめュターダー、ロス・アンヘレス、アメリンク ジュノー Juno 小惑星。一八〇四年にハ あげることはできなかったであろうし、その妥 ( 以上声楽 ) 、ニコレ、デポスト、ピエルロ、ホ武力紛争の場合にも、最小限の規定 ( 共通三 ーディングによって発見された第三番の小惑 リガー、オンニュ、アンドレ ( 以上管楽器各条 ) を守ることが義務づけられている。 協がまた次の戦争 ( ベトナム戦争 ) を生むこと 追加議定書は、国際的武力紛争と非国際的武星。軌道の半長径一一・六七天文単位 ( 三億九九 になった。大国間の利害関係を局地問題の犠牲種 ) らが一位になった。日本人で一位を得た者 に打楽器の吉原すみれ ( 一九七一 D 、フルートの河カ紛争に分け、戦争犠牲者の保護を詳しく定め四〇万キ。メートル ) だが、離心率は〇・二五七 のうえで調節するという戦後処理の図式はドイ ようへい 〈美山良夫〉 とやや大きい。軌道面の傾斜角も一三・〇度あ 一般住民の保護、市民防衛、傭兵の不保護に言 野俊子 ( 一九七三 ) がいる。 ツ、朝鮮と並んでベトナムにも適用された。 〈宮崎繁樹〉る。公転周期は四・四年。衝のころの平均光度 じようやく武力紛争及している。 なお、ラオス中立協定は一九六二年七月二三 ジュネープ条約 は九・七等級で、四大小惑星 ( ケレス、パラ 日、ラオスが自ら中立を宣言し、会議参加一三時に敵対行為に直接参加しないか、戦闘外に置回藤田久一著『国際人道法』 ( 一九〈 0 ・世界思想 ス、ジュノー、ベスタ ) のなかでもっとも暗 社 ) かれた者 ( つまり、傷病者、難船者、捕虜、文 か国がこれを尊重する旨を誓ったものである。 ) ンユノー Marcel Junod ( 一九 0 四ー六 I) スく、直径も二四七キ。メートルでもっとも小さ ↓インドシナ戦争↓インドシナ問題〈丸山静雄〉民 ) の保護を目的として、一八六四年以降ジュ 。表面の反射能は〇・一五一で比較的大き ネープで結ばれた諸条約をいう。現在では、一イス人医師、赤十字活動家。一九三五年ジュネ の回浦野起央著『ジュネー。フ協定の成立 ( 一九 く、光度変化から七・二時間ほどで自転してい ーブ大学で外科のインターンをしていたとき、 九四九年八月一二日に作成された「戦争犠牲者 ゅ・吉・巌南堂書店 ) 〈村山定男〉 6 ぐんしゅ / 、いし 保護条約」 Geneva Conventions for the pro ・赤十字の要請で派遣員となり、イタリア侵攻下ることがわかる。 じジュネープ軍縮委員会 ぐんしゆくいし

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しゃんそ ジ丿レベー丿レ・ペコ ジョルジュ・フラッサンス ( 左 ) , ティノ・ロッシ ( 右 ) シャ丿レ丿レ・アズナプー丿レ ミレイユ・マチュー テージではシャンソンのほか、ときには踊りや 芝居を交えたショーが繰り広げられる。そし て、カフェ・コンセールと違って、客は飲食物 をとる義務を負わず、入場料を払って鑑賞す コる。ミュージック・ホールとい , っ英語名の一小す レ とおり、その起源はイギリスにある。一八四〇 グ 年、ロンドンのウインチェスター・ホールで歌 を含むさまざまな演目の興行が行われたが、こ 工 れがこの種のショーの始まりである。フランス ュ のカフェ・コンセールも、一九世紀の後半、こ ジ れをまねてサーカスまがいのショーを取り入れ たりするようになり、その成功がより広くて設 備の整ったミュージック・ホールの設立を促し にツ : っーし一にノー。 、ヾ丿こ「ゲーテ」 ( 一会〈設立 ) 、 ・ベルジェール」 ( 天六九設立 ) 、「カジ 八六八年カフェ・コンセー ルとして発足、九〇年に移転してミュージッ ク・ホールとなる ) などが次々に誕生した。た ン タ だし、ミュージック・ホールの名称がフランス ン モでも用いられたのは一八九三年、ジョゼフ・オ プ レーという人が、同年設立した「オランピア」 イ をこの名でよんだのが最初である。「オランピ ア」は現在もシャンソンの殿堂として名高い 初期のミュージック・ホールでは、シャンソ ンはさほど重要な地位を与えられていなかった が、しだいに演目の中心を占めるようになっ た。そのステージの構成方法として、歌い手や 芸人が次々に登場して出番を埋めるという行き 方 ( トウール・ド・シャン tour de chant) のほか、ミュージック・ホールならではの大掛 りなレビューが制作された。これは、装置や照 明を豪華にして、歌と踊りとアトラクションを 結び付けたシーンを次々に展開させ、全体とし て一つにまとめたものである。 ハリのミュージック・ホールにおける最初の 、六年こフォリー . ・ヘルジェ レビューは、一 ールで上演された『若者たちの広場』というシ ヨーであった。二〇世紀に入って、一九一〇年 。ころから、ほかのミュージック・ホールもレビ ューを打ち出して人気をよび、そして、第一次 世界大戦が終わると、戦勝気分ともマッチし ルて、レビューの全盛時代が訪れた。 当時多くのレビューに主演し「ムーラン・ル ク ジュの女王」とよばれたのがミスタンゲット ャ ( 天七三 ー一九五六 ) で、一九二六年に彼女が創唱し ジ ・ハリ』は全世界 たレビューの主題歌『サ・セ に知られている。彼女の相手役を勤めて世に出引 ノヾ丿レ / ヾラ 「フォリ . , ー

10. 日本大百科全書 11

じゅねぶ ① ② ③ -CALVINÉ 「 AR 匸 シュネーデル Schneider S. A. フラン現在国連ヨーロッパ本部となっている。そのほ 八三六年、シュネーデか、国際労働機関、世界保健機関、世界気象機 スの総合重工業会社。一 ル兄弟の Adolphe Schneider ( 天 0 一一ー四五 ) と関をはじめ多くの国際的な機関がある国際都市 ー七五 ) が、 で、国際会議が頻繁に開催され、市内に住む外 Joseph Eugéne Schneider ( 天 0 五 フランス中部のル・クルゾーの製鉄所を経営し国人の数は人口の四分の一を占める。 一六 ~ 一七世紀にフランスからの宗教難民が たことに起源をもつ。創業の翌年、機械工場を 設置し、国産第一号の蒸気機関を製作した。三入り込み、彼らがもっ時計製造の技術がここに 八年にはシャロンに造船所を建設し、五〇年代時計工業をおこし、スイスの代表的な工業とし きょ - つりよう からは鉄製橋梁の製作も手がけた。七〇年代た。一九世紀末まで盛んであった繊維工業にか 以降、大砲、装甲鋼板などの兵器生産に進出わって、現在は機械工業 ( タービン、機関車、 ミシンなど ) 、精密機器製造業、化学工業など し、世紀末には重電機部門を新たに付け加え た。一九〇〇年、電気機関車の生産を開始し が盛んである。伝統的な装身具製造もいまに残 っている。また、スイス南西の玄関として、商 た。第二次世界大戦後、銀行部門に進出し、四 九年、持株会社に組織変更。六六年以来ベルギ業・貿易の中心としての機能も備えている。各 ーのアンバン財閥が介入、同年、現社名を採用種見本市が開かれるが、なかでも毎年の自動車 した。一九八三年のグループの売上高は三八〇見本市は有名である。スイスのフランス語圏最 億冖ラで、海外売上げ比率は五五 % 。スピ・バチ古のジュネープ大学 ( 一五五九年アカデミーと ニョール Spie Batignolles 、クルゾロアール して創設、一八七三年大学となる ) には、国内 Creusot-Loire 、メルラン・ゲバン Merlin のドイツ語圏からも在学する学生が多い。ヨー Gévin 、ジュモンシュネーデル .Jeumont- ロッパ共同原子核研究所 (OQZZ) には、世 Schneider の四子会社が、それそれ多数の会界中から研究者が集まる。市街はローヌ川によ 社を傘下に収めて生産活動を行っている。従業り二分され、左岸の丘陵部に旧市街がある。そ 広ナきる わえ 員総数九万五〇〇〇人。 〈湯沢威〉の象徴はサン・ピエール大聖堂で、ほかに宗教 岸デ両み 両 のが ジュネープ Genéve スイス南西部の都改革記念碑、大学、美術歴史博物館、市庁舎な おもむき 点レ像名 出 の市。チューリヒとバーゼルに次ぐ同国第三の大どがあり、これらを含む旧市街には古い趣の しれの都市で、同名の小州ジュネープ州の州都。英ある建物が並ぶ。右岸は新市街で、駅や郵便局 ヌ成ら示 語名ジェニー Geneva 、ドイツ語名ゲンフがあり、住宅地がここから広がっている。湖岸 完てを ロ に建置 Genf0 人口一五万七四〇〇、周辺を含む人口や市中に美しい庭園があり、アルプスの名山モ の年て位 ン。フランを遠望できるこの町は、スイスでもっ 湖る引しの集中地区の人口三三万八七〇〇 ( 一九〈一 l) 。スイ え念像 プみ ス南西端のレマン ( ジュネー。フ ) 湖からローヌとも美しい都市といわれる。 一にれるをぞ ジュネープ州は一八一五年に連邦に最後に加 川が流出する地点の両岸に位置する。北西には ネ下らい年れ ュ左ててそ 二・二平方キロ、人口三五 ジュラ山脈、南東にはアルプスの山地を望む谷盟した州で、面積二八 ジが建れ 4 部てか誕ス 間にあり、フランスとの国境に近い。そのた万六〇〇〇 ( 一九公 I) 。ジュネープ市域を中心に、 ン一し置生ク マのとがンツ め、フランス風の思考・生活様式の影響を受フランスへの穀物、野菜、果物などを供給する レそ部部バノ , 本本ル け、「スイスのパリ」ともよばれる。住民の七農業地域がその周辺を取り巻く。〈前島郁雄〉 盟バカズ 割はフランス語を話し、プロテスタントとカト 〔歴史〕ローヌ川、レマン湖を利用した水上交 後あ連ツに 背に際ロ年ペ リック教徒の数は相なかばする。湖岸集落の起易、および陸上交通の拠点として、ローマ帝政 を涬国一四 ン 脈左にヨ円 源は旧石器時代にさかのばるが、都市としての時代より栄えた。四〇〇年ごろより司教所在地 山は後連 ラ街戦国碑ル となる。カロリング帝国の崩壊後、プルグント 発展は・カルバンに負うところが大で、ヨー ュ市大は念カ ジ旧界在記 ロツ。ハの宗教改革の中心地、さらにはプロテス王国、ついで一〇三二年以降神聖ローマ帝国に 世現革ル タンティズムの世界的な中心都市となった。一属したが、都市支配権をめぐって在地の領主ジ 頂街次。改レ を市 1 ン教ア 八世紀のルソーによる哲学・教育学、・・ ュネープ伯と司教は長期間争った。一一二四年 雪る第オ宗フ ①が②シ③に ド・ソシュールなどによる自然科学研究の活況の協定により、初めて司教が都市領主として正 が、現在のこの都市の学術・文化の基礎となっ式に君臨することになった。一三世紀後半以降 になるとサポイア家がジュネープに支配の足場 た。この町出身のデュナンが創設した赤十字の ネ 国際委員会の所在地であり、第一次世界大戦後を築き始め、今度はサポイア家と都市君主たる ュ ジ に国際連盟が置かれたバレ・デ・ナシオンは、 司教の闘争が展開された。この間、司教は一三 6