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検索対象: 日本大百科全書 21
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1. 日本大百科全書 21

にかけてまずイギリスに始まった産業革命は、輸出が増大し、イギリスの王座が脅かされ始め 6 ヒこ伴って生産の最適規模が大きくなるにつゆえ、国民経済はそれだけ国外の経済変動の影 キ、イし きようあい たのである。一八五〇年には世界の鉄鋼製品輸 2 れ、一国内の市場だけでは狭隘にすぎて規模響を受けやすくなり、不安定性や不確実性が強貿易にも変革を引き起こした。産業革命により え の経済を享受できないような場合に、貿易が市まり、貿易が中断したときの危険が大きくなる綿工業が機械化され、綿織物が低廉に大量生産出に占めるイギリスのシェアは五〇 % を超えて されるようになって、一般大衆の生活資料とし 、こが、七〇年代の後半には三七 % に低落し 場の拡張によって生産性を高めることを可能にであろう。貿易が国民経済に及ばすこのような さまざまな効果やその国が置かれている状況がて広く普及し、手工業的な毛織物にかわって綿た。第一次世界大戦直前には、鉄鋼生産でアメ するのである。第二次世界大戦後の ( ヨー リカとドイツがイギリスを追い越し、世界輸出 絡み合って、それそれの国の貿易のあり方や各織物がイギリスの輸出貿易で大きな地位を占め ロッパ共同体 ) 形成の一つのねらいは大市場化 に占める主要諸国のシェアは、一九一三年には による規模の経済の実現にあり、域内の経済や国が採用する貿易政策の違いが生じてくるのでるようになったのである。イギリスの輸出の増 加は目覚ましく、一九世紀中葉には全世界の輸イギリス一三 ~ 一四 % 、ドイツ一二 ~ 貿易の発展はそのような規模の経済に負うとこある。↓国民経済↓国民所得 ~ 一三 % 、フランス七 % で、イギ ろが大きい。しかし、貿易が市場の拡張を通じ 〔貿易の歴史〕〔資本主義成立期以前〕貿易の出の四分の一から三分の一のシェアにまで伸張アメリカ一二 リスはかろうじて首位を保ったものの、ドイツ て一国の産業を発展させるという効果は、最初歴史は古く、すでに紀元前にフェニキア人は工した。イギリスの輸出品は完成品が多く、とり に国際市場に進出した国の産業の生産性を高ジプトや東地中海で貿易を行っていたことが知わけその三分の二は綿織物などの繊維製品や鉄とアメリカの進出は著しかった。自由貿易の気 め、それがいっそう輸出を増大させるという形られているし、その後ギリシア時代やローマ時製品であり、一方、輸入品は主として綿花など運が逆転して、ふたたび高率の関税による国内 で累積的な産業の発展を促すが、他方、発展の代には、地中海沿岸に加えてさらに東方との交の原料や食糧であった。加工貿易という近代的産業の保護の動きが現れ、また海外へのダンピ ングが行われるようになった。イギリスはこの 遅れた後続国の産業に対しては、先発国の産業易も盛んになった。シルク・ロードを経て中国な貿易へ移行し、イギリスを「世界の工場」、 との間の国際競争のもとで発展を推進しなけれとの間で貿易が行われたことは有名である。しその他の世界を原料や食糧の供給地とする国際時期、資本輸出を拡大した。 第一次大戦後の貿易の世界における著しい特 ばならないというハンディを負わせ、自由貿易かし、この時代の交易品は、奴隷、貴金属、宝分業体制が確立されたのである。それに続く三 がその国の産業の発展を阻害するであろう。そ石、高級織物など当時の上層階級のぜいたく品〇年間は、このような貿易が急速に拡張された徴は、イギリスなどヨーロッパ諸国の後退と、 こで、後続国でその産業を発展させるために が大部分で、貿易は商品生産に深く根を下ろす時期である。鉄道や汽船の発達により、貨物はそれにかわるアメリカの躍進である。大戦によ 安く、しかも迅速に輸送されるようになり、綿る被害を受けなかったアメリカは、ヨーロッパ は、ある期間その産業の保護が必要となる。比ような種類のものではなかった。 ローマ帝国崩壊後の中世の封建社会では、貿花、石炭、鉱石など、比較的重量の大きい貨物諸国が戦争で経済力を消耗していた間に生産力 較優位差が生じる根拠がこのような規模の経済 や技術格差である場合には、日本のかっての繊易は一時衰退し、その後コンスタンティノープも遠隔地間で取引されるようになって、貿易のを増進し、戦後輸出ではイギリスを抜いて第一 ルを中心にアラビア人などが貿易で活躍するよ拡大に拍車がかけられた。さらに、一九世紀中位になった。また、カナダや日本が新しい工業 維産業や戦後の自動車産業にみられるように、 後続国の産業が保護によって発展に成功し、比うになったが、貿易が盛んになったのは十字軍ごろのイギリスの穀物条例の撤廃を契機とし国として貿易の舞台に進出してきた。さらに、 ロシアが一九一七年の革命によって社会主義国 較優位産業に転化することもあるが、一方ではの遠征以降である。十字軍遠征を契機に・ヘネチて、イギリスを中心に自由貿易の気運が高ま としての歩みを始め、資本主義世界市場から姿 ある種の発展途上国にみられるように、先進国アなどイタリア北部の都市が貿易によって繁栄り、それも貿易の拡張に貢献した。しかし、イ との間の貿易がいっそう後続国の経済発展を抑し、地中海で支配権を確立した。一方、ヨーロギリスを主軸に自由貿易が発展したこの時期にを消した。世界貿易の発展に大きな役割を果た ツ。ハ北部でも、ハンザ同盟の諸都市を中心に貿も、当時の後進国ドイツなどでは国内の幼稚産した金本位制は、第一次大戦で一時中断した 圧するという逆流効果を生むこともある。 が、二〇年代の中ごろに各国は相次いで金本位 〔貿易と国民経済〕一国の輸出や輸入の規模易が栄えた。中世の交易の地域は古代よりも拡業の育成のために保護貿易が行われていたこと かわせ に注意しなければならない。 制に復帰した。戦前の貿易と国際金融の中心で は、国民所得水準、外国為替相場、交通手段の大し、貿易品の種類も増えて香辛料など大衆化 世界貿易の発展に寄与したもう一つの要因あったロンドンと並んで、新たにニューヨーク 発達などに依存する。国民所得の循環では、輸した商品もみられるようになったが、基本的に は、国際金本位制の確立である。いち早く金本が国際金融市場に登場してきた。大戦によって 出は、一国の国民所得の流れへの外からの需要はまだ上層階級のぜいたく品が主であった。 ちょうらく 一五世紀末の地理上の発見とそれに続く商業位制を樹立したイギリスに次いで、一九世紀後一時凋落した貿易は、その後しだいに回復し、 の注入として、国内生産や国民所得を増加させ る乗数効果をもち、逆に輸入は、国内で生み出革命は、貿易を大きく変えた。貿易の舞台は地半には大多数の国々が金本位制に移行した。国世界貿易は二〇年代後半には戦前の水準を大き く上回るまでに発展した。しかし、二九年アメ された所得が外国の財に対する需要として漏出中海やバルト海からアメリカ大陸やアジアにま際金本位制は、各国の通貨の間の交換性と交換 比率を安定的に維持することを通じて、貿易の リカに端を発した世界的な大不況によって、ア することを意味するから、国内の生産を減少さで広げられ、地理上の発見で大役を果たしたポ メリカやドイツなどで工業生産が半減し、失業 せる負の乗数効果をもつ。したがって、国内でルトガルとスペインが新市場に躍進した。ポル決済を容易にし、通貨面から通商を発展させる トガルは東方から香辛料、スペインは新大陸か基盤となったのである。 が急増して、世界貿易も大幅に縮小した。その 失業や不況に悩まされている国は、輸出を促進 ら金銀やタバコなどを輸入し、毛織物を輸出し イギリスの優位は貿易面だけではなかった 3 額は三〇年代の前半には二九年の三〇 ~ 四〇 % し輸入を削減するような政策をとれば、それら にまで激減している。国際貿易は、かって経験 を緩和することができる。しかし、一国の輸出た。毛織物の輸出によってヨーロッパで毛織物一九世紀後半、イギリスは世界の商船の過半数 は相手国の輸入であるから、貿易が一国の国民工業が盛んになったが、その中心はその後オラを有して世界の海運業を支配したし、国際金融したことがなかったほどに大きく自由貿易から ンダやイギリスに移り、とくにイギリスで輸出の面でもロンドンは世界の金融の中心地としての後退をみせた。 所得に及ばすこのような効果は、相手国にとっ ては逆の効果となり、そのため交易国相互の間 産業として高度の発展を遂げた。それに伴っての地位を築いた。 一九二〇年代に復活された金本位制は、三一 で利害が対立する。なお、貿易は当事国に生産ポルトガルやスペインの貿易は衰退し、貿易の 一八七〇年代の初めまでは、イギリスが世界年のイギリスの金本位制の停止を契機にふたた の特化や規模の経済による貿易の利益をもたら中心はオランダからさらにイギリスへと移って貿易で指導的な役割を演じたが、七〇年代の不び崩壊し、国際決済機構は動揺した。各国は、 いった。このような貿易の拡大が、資本主義的況期の前後を境に、貿易の世界にも新しい変化海外の経済変動によってもたらされる経済や通 す反面、国際分業の相互依存関係によって経済 がおこった。、、 トイツやアメリカの工業の発展と貨の混乱を遮断し自国経済の安定を図るため 循環が国内だけで完結せず、国民経済を世界経な工業生産の発展に大きな影響を与えた。 くに鉄鋼業の発展に伴って、その製造工業品の に、国家主義的な政策によって、貿易や国際資 済の網の目のなかに組み込むことになる。それ〔資本主義成立期以後〕一八世紀から一九世紀

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ど のためとくにホワイトカラーの間で国外移住熱展、ポーランド文語を確立させ「ポーランド文〔戦後のポーランド文化〕戦後のポーランド文送はである。ラジオ、テレビとも国営であ んが高い。さまざまな障害があるにもかかわら学の父」とされるレイ、当時のスラブ世界最大化は、社会主義政権の誕生に伴う新しい文化政る。新聞は九七紙 ( 一〈会 ) あるが、政党・政府の 機関紙がおもで、統一労働者党機関紙『トリプ 、らず、一九七一 ~ 八五年に毎年平均二万三〇〇〇の詩人でその後幾世代もの手本とされたコハノ策と伝統的なカトリック的西欧への志向との間 ま人が移住している。住宅事情は、家賃が低く抑フスキらを輩出した一六世紀ルネサンスが、ボでさまざまな軋轢を経験しながら、高い芸術性ナ・ルドウ』 ( 「人民の声」の意 ) が最大の一 えられているもののきわめて深刻である。ワル ーランド文化の絶頂期であった。バロック期に と実験精神あふれる作品を生み出している。文一〇万部 ( 一九会 ) を発行している。〈小原雅俊〉 シャワなどでは住宅の待ち期間が二六年となっ訪れた国家の没落と文化の衰退を救おうとする学ではイワシュキエビッチ、アンジェイエフス 十・いごっ 日本との関係 ている。女性の社会的進出は平等原則の実現に啓蒙主義は、クラシッキに代表される優れた作キの散文、レムの、ムロジェク、ルジェビ よって著しいものがあるが、離婚率は一九八五家・思想家を生んだが、彼らの努力は実らず、 日本とポーランドの正式な国交が樹立するの ッチの戯曲、カルポビチ Tymoteusz Karpo- 年に一〇〇〇人当り一・三で日本よりもむしろポーランドは一八世紀末以来三次にわたる列強 ) 、ヘルベルトらの詩が比較的は、ポーランドが第一次世界大戦後に独立して 低い の分割を受けて消滅した。 知られる。ショパン以後の音楽では二〇世紀初 からのことであるが ( 一九二一年公使館相互設 〔福祉・教育〕無償医療、年金制度、身障者に 〔ロマン主義と民族意識〕一九世紀前半の独立めのシマノフスキ、戦後のルトスワフスキ、ペ置、一三年通商航海条約締結、四一年第二次大 ほ - っキ一 対する保障、母性保護などが徹底している。し回復を目ざす相次ぐ民族蜂起の時期に成立した ンデレッキ、べールト Tadeusz Baird ( 一九天戦による国交断絶、五七年国交回復 ) 、相互へ かし、個人農にその恩恵が及んだのはようやく ロマン主義は、強い愛国的性格をもっことにな ) らが世界の作曲界での地位を確立した。 の関心はもちろんそれ以前にも存在した。まず 一九七〇年代に入ってからである。また福祉の った。この時期以降、文学はポーランド人の民 第二次大戦中ドイツ占領下で徹底的破壊を受ポーランドでは、一九世紀末にフランスなどの 質にも問題がある。国民の三分の一近くが政府族意識の保持と民族的統合の核としての役割をけた多くの文化遺産の復原作業が一九七〇年代影響もあって文学、美術、民俗学などを中心に の定める社会的最低線以下で生活しており、と 担うことになり、ポーランド文化のなかで伝統初めにいちおう完了し、一〇世紀ロマネスク様日本への関心が芽生えたが、それが学術研究だ くに年金生活者の生活が苦しい。平均寿命は先的に特別な地位を占めることになった。ロマン式以来の諸様式の建築が各地で保存されてい けでなく一般のレ・ヘルで飛躍的に高まるのは日 進国に比べて低く、一九七〇年代後半からさら主義はおもにフランスを中心とする亡命地で栄る。とりわけゴシック、ルネサンス、バロック露戦争を契機としてである。独立を目ざすポー に低下している。男子は七五 ~ 七六年に六七・ え、愛国心とフォークロア性、幻想性や神秘性の優れた建築、彫刻、絵画が各都市やよく整備ランド人が「敵の敵」日本に親しみを抱いたた 三歳、女子は八〇 ~ 八一年に七五・四歳であっ の強い作品を生み出し、ミッキエビッチ、スウされた美術館でみることができる。戦後のポー めで、一九〇四年 ( 明治三七 ) の・ピウスッ たが、八五年にはそれぞれ六六・五歳、七四・ ォワッキ、クラシンスキ、ノルビッドらポーラ ランドのグラフィック・アートは世界的に高い キ、ドモフスキという二人の傑出した政治指導 八歳となっている。 ンド文学史上最高の詩人群を輩出した。ポーラ 評価を得ている。戦後のポーランド文化を代表者の来日もこの延長線上にある。 教育は、幼稚園から大学に至るまで無償、義ンド・ロマン主義の真骨頂は詩の領域にあったするものに、『灰とダイヤモンド』や『地下水 独立後のポーランドにおいても、基本的に 務教育は八年である。伝統的に強かった公教育がゆえに ( またそのあまりにも強い愛国心のゆ道』のワイダ、『尼僧ョアンナ』のカワレロビ は、日露戦争時に形成された日本観が受け継が に対するカトリック教会の影響力は排除されたえに ) 世界的価値を獲得することがむずかしかチ、さらにムンク Andrzej Munk ( 一九一一一ー れていったといえるが、とりわけ日本が第一次 ものの、宗教教育の復活を求める声が強く、し ったとすれば、それを補ったのがポーランド・ 六一 ) 、ボランスキらの「ポーランド派」の映画、大戦で戦勝国となり西欧列強の仲間入りをした ばしば両親や生徒の抗議行動が起きている。 ロマン派「ピアノの詩人」ショパンである。 グロトフスキ、カントルらの演劇がある。八一 ことで、いよいよ「強国」日本のイメージが定 ・四・五制をとっており、中等教育はフラン 八六三 ~ 六四年の一月蜂起敗北のあと、学年以降ポーランド文化界はふたたび内部亀裂が着した。日本研究も独立とともに本格化し、一 スのリセに倣った四年制普通科学校と五年制職 問や教育、経済の発展を通じて独立の準備を目深まり、なお今日混迷状態を脱しきれていな九一九年にはワルシャワ大学に初の日本語講座 業学校とに分かれている。一般に一九七〇年代ざそうとする「実証主義」の運動がおこり、 。図書館、劇場、映画館などの文化施設はよ が開設された。第二次大戦後は日本の復興・高 なかばをピークとして中等学校以上の就学者が 『クオ・バディス』のノーベル賞作家シェンキく整備されており、国民に廉価で高質な文化を度経済成長に伴い、従来の「伝統の国」という 減っている。七五年に同一年齢人口のうちの普 ェビッチやオジェシュコバ、プルスらの優れた提供している。 イメージに「経済大国」「技術大国」のイメー 通科中等学校 ( 高校 ) 生の割合は二四・五 % 、散文作家を生んだ。この流れのなかから出たの 学問分野で世界的貢献をなした人では、社会 ジが重ね合わされるようになり、その限りでは いしずえ 大学生の割合は一三・五 % であったが、八五年が現代物理学の礎を築いたキュリー ・スクウ学のズナニエッキ、民族学のマリノフスキー 他の国々の日本観と大差はないが、日露戦争以 にそれぞれ一九・〇 % 、一〇・六 % に落ちてい オドフスカ ( マリー・キュリー ) である。一九論理学のウカシェビチ ( ルカシェービチ ) 、タ来の親日感情はいまも健在である。日本研究で る。中等・高等教育を受ける労働者農民の子弟世紀末から一一〇世紀にかけて、自然主義とモダ ルスキー、現象学のインガルデン、言語学のポ は、ワルシャワ大学に戦後新たに設置された日 〈伊東孝之〉 は年々減る傾向にある。 ニズム運動のなかから『農民』でノーベル文学 ードアン・ド・クルトネー、クリロウイチ、経本学科を中、いに地道な成果をあげている。 賞を得たレイモントや、ポーランド・ロマン主済学のランゲ、カレッキ、数学のバナッハ、オ 日本におけるポーランド観としては、政治 文 義の伝統をよみがえらせたジェロムスキ、ポー ルリッチ Wladyslaw Orlicz ( 一九 0 三ー ) 、思的・歴史的観点からの「悲劇の国」および文化 〔西欧的文化の発展〕九六六年のラテン典礼に ランド現代演劇の祖ウイスピャンスキらが出想のシャフなど数多くあげることができる。↓ 的観点からの「作曲家ショバンの国」という二 よるキリスト教受容によって、ポーランドは、 た。第一次・第二次両世界大戦の戦間期はトウ東欧映画↓東欧演劇↓ポーランド文学 つのイメージが併存しているといえよう。前者 民族・言語はスラブでありながら、とりわけイ ービムや戦後アメリカに亡命しノーベル賞を受〔放送・新聞〕テレビの本放送は一九五三年に はそもそも明治維新後、富国強兵が進められる タリア、フランスなどの西欧と深く結び付いた けたミウオシュ ( ミーワッシュ ) も含む多くの開始され、七〇年テレビ第二放送が開始、カラなかで定着したもので、ポーランドは反面教師 ポーランド 文化を発展させることになった。長い国家消滅詩人、ドン・フロフスカ、ナウコフスカやもっと ー放送は七一年ワルシャワ局で始まった。第一ととらえられ、軍歌『波蘭懐古』にも歌われ の時期には、その民族的一体性を文化の「連続も二〇世紀的作家群ーービトキエビッチ Stani- 放送は教育番組が主体で、夕刻から一般向け番た。しかし、こうしたイメージは他方で、歴史 王んろう 性」によって保ち続けた。コペルニクスやクラ slaw lgnacy Witkiewicz ( 一会五ー一九三九 ) 、シュ 組を流し、第二放送は地方都市向けの番組が多に 弄されてきたポーランド人への同情や共感 クフ大学の隆盛にみられる一五世紀の学芸の発ルツ、ゴンプロビッチらを生んだ。 。ラジオは第四放送まであり、第三、第四放として表現され、近年の自主労組「連帯」の連 あつれき きれつ

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が開設され、今日の王立美術院の基がつくられて、生の現実を不気味なまでに描き出したムン , っち、大地と山々は震え、木々は根こそぎとなつれるこれらの国々は、長く氷河に覆われていた て山は崩れ、すべての足枷といましめが解かれので ( アイスランドは九世紀なかばまでほとんた。この世紀の後半には、スウェーデン人芸術ク、同じ国の彫刻家ビゲランの情念的表現は、 お ど無人島であった ) 、文化的発達も後れた。そ家によるロココ風のグスタビアン王朝美術時代大なり小なり、北欧人に共通な深層の発現とみ る。怪狼フェンリルは自由の身となり、天にま まで届く大口を開けて目と鼻から火を噴き出し、れでも、この地における人類の遺産は、およそが開かれ、幻想的な末完の大作『グスタフ三世てよいだろう。 どとう そのナイープな資質は、二〇世紀に入ってよ 肉迫する。ミドガルドの大蛇は怒濤とともに陸紀元前六〇〇〇年までさかのばることができ戴冠図』を描いたピロ Carl Gustav Pi10 ( 一七 に押し寄せ、北からは死者の軍勢を乗せた船がる。先史時代の狩猟・漁労民がノルウェー北岸二ー九三 ) 、ローマに学び写実的なラテン彫刻をり率直に吐露される。ダダに接近して抽象映画 もたらしたセルゲル Johan Tobias sergel をも試みたスウェーデン人工ゲリング Viking やってきて、東からはムスペルスへイムの軍勢の岩盤に刻んだトナカイやクジラの具象的な線 Eggeling ( 一公 0 ー一九 = 五 ) 、同じ国の幻想彫刻家 が海原を渡ってくる。戦のどよめきのなかで天刻画がそれで、「極北美術」の名で知られる。 ( 一七四 0 ー天一四 ) らが活躍した。 ろうしゃ ミレス、聾者の身で国民的英雄像を数多く残し 大陸に近いデンマークでも、一七五四年デン ついで、琥玳の小彫刻や櫛文土器が現れ、これ は裂ナ、」 剣をきらめかせたスルトがその軍勢の マーク美術院が創設され、ドイツ人メングスたフィンランドのアールトネン Wäinö Aalto- に併行して巨石遺構も散在する。 先頭にたつが、彼らがビルロストの橋を渡ると nen ( 一兊四ー一九六六 ) 、さらには第二次世界大戦 前一五〇〇年ごろ金属器時代に入ると、青銅 Rafael Mengs ( 一七天ー七九 ) が伝えた絵画は、 橋は砕け落ちる。ヘイムダルはここに至ると、 つのぶえ 後コペンハーゲンに発生した現代美術グループ の小彫刻とともに、南部の農耕・牧畜民が岩盤アビルガルド NiC01ai Abildgaard ( 一七四三ー 力の限り角笛を吹いて神々全員を目覚めさせ、 「コプラ」、そして南スウェーデンのイマジニス に刻んだ円や舟形などの「北欧図式美術」がみ 0 九 ) に受け継がれて発展した。そして一九世紀 神々は集合する。世界樹は震え、天も地も恐怖 かっちゅう 前半には、ラファエル前派の画家ェッカースベトであるスパンべリ Max Walter Svanberg られるようになり、紀元前後にローマ文化が伝 に包まれ、アサ神と死せる戦士たちは甲冑に やり ちゅうみつ かぶと しすれもミスティ ー天五三 ) 、新 ( 一九一 0 ー ) らの活動には、 ) リ Christ0ffer Eckersberg ( 一天三 身を固めて戦場に進む。黄金の兜をいただき槍わると、稠密な金銀細工やガラス器などがお ックな幻想が認められる。より若い世代ではデ を手にしたオーディンは、先頭を切って進み怪びただしくつくられた。下って紀元後五、六世古典主義の彫刻家トルバルセンが出て、デンマ ンマークのコプラを支えたヨルン Asger Jorn ーク美術の黄金時代を築く。また、フィンラン 紀ごろから北欧古代文字ルーンを刻んだ墓碑や 狼フェンリルと、トールは大蛇を相手に、フレ ( 一九一四ー七三 ) 、ノルウェーの造形作家ネシャー イはスルト、ヘイムダルはロキと、チュールは浅彫りの着彩画碑が、また八世紀からのバイキドではエクマン R0bert Ekman ( 一八天 ー一九 0 六 ) ) 、同じくスウェーデ Carl Nes 」 ar ( 一九一一 0 ー 一フィト Ferdinand von Wright ( 一全一一 ング時代には怪奇な動物と植物とが絡み合った 冥府のイヌとそれそれ戦う。死闘のすえフレイ ンのリンドプロム Sivert LindbIom ( 一九三一 はスルトに倒され、チュールとイヌは相討ちでケルト文様の彫刻物が盛んになる。これら北方らが、ノルウェーではダール Christian Dahl ) 、フィンランドの女流彫刻家ヒルツネン ( 一七会 ー一会七 ) らが北欧人の心情を自然に託し 果てる。ヘイムダルとトールも同じく相討ちとゲルマンの芸術 konst が優美なラテンの ars かいじゅう EiIa HiItunen ( 一九二ー ) 、そしてアイスラン なるが、トールは大蛇を血祭りにあげたもののとはかけ離れ、ときに晦渋とみえるのは、そて描き、近代絵画の祖といわれている。 ド生まれでバ リに住むポップ画家ェロ Errö 一九世紀後半のロマンチックな民族主義は北 吹きかけられた毒のために倒れる。オオカミはれらが単に地理的な隔たりによるのではなし に、まったく別の北欧神オーディンを中心とし欧にも及び、スウェーデンではアカデミズムへ ( 本名 Gudmunder Gudmundsson 、一九三一一 オーディンを飲み込むが、間髪を入れずその子 、ゝ、、六年、ノルドストレーム の反抗者たちが一ノノ / ) らが注目されよう。 た精神世界に長く支配されてきたからであり、 ビーザルがオオカミのロを引き裂く。スルトが 〔建築と工芸デザイン〕森林の国々では、建築 大地の上に火炎を投げて全世界を焼き尽くすそれはいまなお深く北欧芸術の根幹に影響を及 Karl Nordström ( 一会五ー一九一一三 ) の主導のもと も古くから木造であったから現存するものは少 に美術家連盟を結成し、自立運動を展開する。 と、大地は海に没し、炎と煙は猛威を奮い、火ばしているようである。 せいぜっ ない。かってはアイスランドやスウェーデンの それに拠ったヨセフソン Ernst Josephson したがって、早くから勇者が南欧に進出、 炎が天をなめる。凄絶な戦いののちにこの世は でんば ちょうりよう ー一九 0 六 ) は幻想的な荒々しい画法で、ラウブサラに北欧神の神殿が築かれたと伝えられ 滅びるが、『エッダ』ではそのあとのことにつ跳梁したにもかかわらず、キリスト教が伝播 ( 一会一 ルソン Carl Larsson ( 天五三 ー一九一九 ) は世紀末るが、ノルウェーのポーグンドやロムに現存す いて、海中から美しい緑の大地が浮かび上がするのは遅く、ユトランド半島やバルト海中の がらん 一二世 の装飾的な描法で、ツォルンは印象主義の影響る木造伽藍はキリスト教伝道後の一一、 り、その新しい世界には生き残った神々と人類ゴトランド島に、ロマネスクの木刻像やゴシッ しつくい が住み、永遠に幸福な生活を送ることになるでクの漆食絵画がみられるようになるのはようやを受けながら、それぞれ民族の独自性を映し出紀のものである。そのころから石造建築技術も した。デンマークでもスコ。フガール Joachim 伝わり、一三世紀にフィンランドのウイイプリ く一〇〇〇年前後からである。一五、六世紀に あろう、と巫女が予言するところで終わってい ー一九三三 ) やウイルムセン城、一四世紀にかけてゴシック様式でスウェー 〈谷口幸男〉 る。↓ェッダ↓オーディン ルネサンス文化も伝えられたが、その真の開花 Skovgaard ( 一会六 デンのウブサラ聖堂、ノルウェーのニダロス聖 Ferdinand WilIumsen ( 天六三 ー一九五 0 らが、 回谷口幸男訳『エッダー。、、古代北欧歌謡集』は次の世紀まで待たねばならない。 堂が知られる。一六世紀末にはルネサンス様式 グスタフ一世を開祖に国力を増大し、バルト象徴主義の運動を展開している。スウェーデン ( 一九七三・新潮社 ) ▽フォルケ・ストレム著、 じゅうりん によるデンマークのフレポレグスポー城、さら 菅原邦城訳『古代北欧の宗教と神話』 ( 一九海東岸にまで勢力を伸ばしたスウェーデンでとロシアに長く蹂躙されてきたフィンランド は、クリスティーナ女王の時代 ( 一六三 = ~ 五四 ) にでは、北欧人のなかでも異なるフィン族の根源に古典主義の影響によるコペンハーゲンのロー 全・人文書院 ) しようへい ほくおうびじゅっネー一丁ルラント 外国の高名な文化人を招聘したが、哲学者デをカレリア地方に求める民族運動が激しく燃えセンポー城がある。一七世紀から一八世紀にか 北欧美術 けてのストックホルム王宮、一九世紀のコペン 上がり、ガレン・カレラ Akseli Gallen ・ Kallela カルトとともに招かれたドイツのクロッカー 以北を北欧あるいは北方とよんだ時代もあり、 ーゲン大学図書館、ストックホルムの北方博 美術史では「北方ルネサンス」といった用例も David Klöcker ( 一六 = 九ー九 0 は絵画技法を伝 ( 一会五ー一九三一 ) は民族詩カレバラを主題に描き、 物館、ノルウェーのオスカルハルト城、二〇世 ショルフ・ヘック Helene Sc 三 erfbeck ( 天六一一ー え、「スウェーデン絵画の父」と称せられてい あるが、文化の北上に伴い今日では、スウェー せいひっ 一九四六 ) は女性の心象を静謐に描き出して人々の紀にかけてのストックホルム市庁舎など、いず フィンランドのスカンジナる。ついで天文学者セルシウス、植物学者リン デン、ノルウェー 心をとらえた。ノルウェーでも独立の機運のなれも天空の高みを希求するロマン主義的傾向が ビア三国に、デンマークおよびアイスランドをネ、思想家スウェーデンポリらが輩出して「自 うかがわれる。二〇世紀に入ると、まずフィン 由の時代」とうたわれた一八世紀には、フランかで、クローグ Christian Krohg ( 天五 = ー 加えて北欧と言い習わしている。本項目でも、 一一五 ) らが中心となって官展を開くとともに、民ランドで、サーリネン父子やアールトが木を生 。、、ール Thomas Taravar スから招いたタラノ この五か国の美術について考察する。 かした暖かなフォルムで国際的に注目を浴び、 ( 一七 0 一ー五 0 ) によって一七三五年に王立図工院族的な壁画運動を推進した。二〇世紀にかけ 〔絵画と彫刻〕「ヨーロッパの屋根」とも称さ たいかん

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べたれい ーダーンタとは「べーダ聖典の終わり」「べー フマンと個我・物質世界とはともに実在で、両 4 0 ダ聖典の極意」の意味で、本来はウバニシャッ 者は不一不異であると説いた ( 不一不異説 ) 。 - -0 ワ 0 ドをさしたが、のちにウバニシャッドの体系的そして、。フラフマンをクリシュナ神と同一視 解釈を行うべーダーンタ学派の名称となった。 し、信愛を本来の情的なものに戻して、いわゆ し Z 単 6 幻 本学派は紀元前三世紀ころすでに存在していたる恋愛的信愛を創始した。一五、一六世紀に は、バッラバが不異説をさらに徹底させた。彼 と考えられ、ミーマーンサー学派とは姉妺関係 組分系 にある。後世この学派内部で開祖とみなされるの説は純粋一元論で、プラフマンと個我・現象 ン げだっ タ名学成晶度重沢痕開 タ ーダラーヤナが、前一世紀に現れ、解脱とそ世界とは、ともに純粋精神であり不異であると ペ学化副結硬比色光条劈 ばん の手段としての。フラフマン ( 梵 ) の認識を重視 している。その後、ペーダーンタ学派は、近代 もいう。結晶形を示すことはきわめてまれで、国民的英雄となった。一七年には全フランス軍して、祭式の実行を重視するミーマーンサー学のビべーカナンダ、タゴールをはじめ多くの思 普通は葉片状の劈開片ないし塊状で産する。リ の総司令官に就任し、出口のみえない戦争に絶派との相違を明確にした。五世紀には、本学派想家に影響を与え続け、現代に至っている。↓ ーダラーヤナ↓プラフマ・スートラ↓六派 チウムに富むべグマタイト中に産し、石英、長望したフランス軍兵士の相次ぐ不服従運動を温の根本聖典『。フラフマ・スートラ』が、現存す へんさん りんうんも 〈島岩〉 石、鱗雲母などと共生する。わが国では福岡市情的処置により抑え、体制の危機を防いだ。大る形に編纂された。この聖典は、当時有力だっ哲学 ながたれ 長垂でのみ産する。葉片状劈開が著しいことか戦終了時に元帥となった彼は、二五 ~ 一一六年モたサーンキャ学派の説く純粋精神と原物質の二 べーダーンタ・サーラ vedänta ・ sära ら、英名は、葉を意味するギリシア語に由来すロッコのリフ族の大反乱を鎮圧し、陸相 ( 一九 元論に対抗して、純粋精神プラフマンを唯一のインド哲学の、シャンカラ系統べーダーンタ学 る。なおカストル石 castor または castorite 三四 ) 、駐スペイン大使 ( 一九三九 ~ 四 0 ) を歴任しフ世界原因とする一元論を展開した。本書の出現派の綱要書。一五世紀にサダーナンダが同派の むみよう げだっ はこのペタル石のことであるが、これは、かっ ランス陸軍の大御所的存在であったが、第一次で、べーダーンタ学派は、・フラフマンの考究を無明論、宇宙論、個我論、解脱論を総合・折衷 てイタリアのエルバ島では葉長石とポルクス石大戦の経験にとらわれてドゴールの戦車師団重最大の課題とする学派として確立した。その的立場から約二四〇の短文に簡潔にまとめたも ふたご がつねに伴って産するため、双子と見立て、葉視の理論を軽視する誤りを犯した。四〇年春の後、大乗仏教の影響を受け、本学派は幻影主義ので、この派の入門書として、近代の学者にも アルファ 長石を星のカストル ( ふたご座星 ) と名づドイツ軍の大攻勢の最中にレーノー内閣に副首化した。一例をあげれば、七世紀のガウダ。ハー っともよく読まれ、研究された。また、本書に じゅ ゆいしき ダ作『マーンドウーキャ頌』しし けた。しかしカストル石は結局ペタル石と同定相として入閣し、やがて自ら首相に就任して対 こよ唯識思想の影は、サーンキャ哲学の三構成要素説などが取り されたため、鉱物名としては採用されなかっ 独休戦を実現した。、、 ヒシー時代には国家一兀首と響が著しい 入れられており、サーンキャ哲学とべーダーン 〈松原聰〉して「労働、家族、祖国」をスローガンとする 〈島岩〉 しかし、八世紀前半になると、彼の孫弟子シタ哲学との融合が認められる。 べタレイン betalain アカザ科、オシロ権威主義体制の樹立を目ざす一方、強いられてャンカラが逆に仏教をベーダーンタ哲学に取り ペダントリー pedantry 知識や教養をひ イバナ科、サポテン科など主として中心子目のではあったが対独協力政策を実行し、しだいに 込んだ。そのため、プラフマンと個我と現象世けらかすこと、学者ぶること、知ったかぶりを げんがく 植物群に分布する赤色ないし黄色の色素の総レジスタンス運動と敵対した。フランス解放界がともに実在であるとする『プラフマ・スー いう。衒学、衒学趣味。フランス語ではペダン 称。赤ビートの根の色素であるべタニンなどの後、対敵協力の罪で死刑を宣せられたが、ドゴトラ』の実在論的一元論は、プラフマンのみがチスム pédantisme0 ペダンチック pedantic 赤色色素をベタシアニン、サポテン類の果実の ールにより終身禁固刑に減ぜられ、服役中死ん実在で個我と現象世界は幻影であるとする幻影は形容詞形である。ペダント pedant は元来、 ふにいちげんろん 色素であるインジカキサンチンなどの黄色色素 だ。↓ビシー政権↓ベル、ダンの戦い〈平瀬徹也〉主義的一元論 ( 不二一元論 ) へと変容した。ま教師をさしたことばであったが、教師のもつ一 をベタキサンチンとよび、両者をあわせてべタベタンクール R6mulo Betancourt ( 一九た彼は、プラフマンの認識のみを解脱の手段と属性の気むずかしい頑固さや、知ったかぶりが 只ー全 ) ベネズエラの政治家。同国民主政治考え、行為を否定した。八世紀後半には、バー レインと総称する。構造中に窒素を含むので、 強調されて、学問を鼻にかけ、気どって学者ぶ スカラがシャンカラを批判し、伝統的な実在論 カロチノイドやフラボノイドなどの他の植物色の基礎を築いた大統領 ( 在任一九五九 ~ 六四 ) 。カラ ったり、物知り顔をすることや、空理空論をぶ ちぎようへいごう しやくしじようぎ カス近郊に生まれ、カラカス中央大学に学ぶ。的一元論と知行併合論の復活を図ったが果た 素と異なる。生体内では芳香族アミノ酸の酸化 って杓子定規に規則にこだわる人を、ある種の 亜意をもっていうことばとして用いられるよう 生成物とアミノ酸が縮合して生成する。この色一九二八年に反ゴメス独裁の学生運動を組織、せなかった。一一世紀に入ると、ラーマーヌジ 〈宇田敏彦〉 素を含む植物は、アントシアンを含まない。最亡命・地下活動のなかで著作と新聞発行を続ヤが、信愛によるビシュヌ神崇拝の高まりを背になった。 け、反政府組織の民主行動党 (<Q) を結成し景として、べーダーンタ哲学を実在論の側に引 、ノガリー南部、ドナウ川右 近、ペニテングタケの菌傘の赤い色素も・ヘタレ ペーチ Pécs ノ、 インであることが明らかとなった。〈吉田精一〉 た。四五年に一部軍人と組んでクーデターに成き戻し、行為を再評価した。彼はシャンカラを岸に位置する特別行政区の指定都市。バラニヤ 功し、改革に着手するが、保守派に追われる。批判し、プラフマンと個我・物質世界とはとも県の県都をも兼ねる。人口一七万五〇〇〇 ( 一九 ペタン Philippe Pétain ( 天五六ー一九五 l) せいげん に実在で、後者は前者の身体であるとする制限 フランスの軍人、政治家。陸軍士官学校、陸軍しかしペレス・ヒメネスの独裁に対する幅広い 会 ) 。同国南部の文化、工業、経済の中心地。 ふにろん 大学に学ぶ。陸軍大学教官 ( 一九 0 一 ~ 一 0 ) として反対運動を指導して、五八年に大統領に選出さ不二論を唱えた。そして、プラフマンをビシュ古代ローマ帝国の領有時代は、クインク・エク レジェ Quinqu Ecclesiae ( 「五つの教会」の 歩兵学を講じたが、火力の優越を重視するそのれ、農地改革や民族主義的な石油政策を実施。ヌ神と同一視し、神への信愛を説いたが、その 一三世紀に意 ) とよばれ、九世紀にはこれを翻訳したドイ 理論は当時支配的であった積極攻勢論にあわ改革政策に反対する極右と極左ゲリラ勢力を抑信愛は知の色彩が濃かった。一二、 ばつばっ ツ語の呼称フュンフキルヘン Fünfkirchen の ず、第一次世界大戦勃発時は大佐にとどまってえ、平和裏にキリスト教社会党は、マドバが、実在論をさらに推し進め、・フラ に政権を移譲して、二大政党による文民支配をフマンと個我と物質世界はともに実在で、おの名で知られるようになった。ハンガリー最初の いた。開戦とともに戦功を収め急速に昇進し、 〈乗浩子〉おの明確に異なる存在であると主張して、実在大学として一三六七年に設立 ( 一九 = 一一再開校 ) さ 一九一六年第二軍司令官としてドイツ軍猛攻下定着させた。 ようさい がくは Vedänta 論的な別異論を唱えた。一四世紀には、一一ンバ のベルダン要塞を死守して「ベルダンの勝利 れたペーチ大学は、ヨーロッパでも有数の古い べーダーンタ学派 、か - っ第 : っ 者」とたたえられ、その端正な風貌と相まってインドの六派哲学中でもっとも有力な学派。べ ールカが、ラーマーヌジャの影響を受け、プラ歴史を誇る。おもな産業は、たばこ、酪製品、 灰白 ~ 白 , 淡桃 ガラス 一方向に完全 , 一方向に明瞭 ト、

5. 日本大百科全書 21

ュスペクは友人リカとともにヨーロッパの知恵上陸したが、約一万のアテネ軍 あめにきわめて難解な言語である。 、パリに居を構え、そこではミルティアデスの作戦に従っ し近世ベルシア語 ( 単にベルシア語 ) は中世べを求めて故国を離れ あいしよう ルシア語を母体として成立し、アラビア文字一一故国の友人、召使い、愛妾たちと手紙を交換てこれを破り、ベルシアのアテ る 八字にベルシア語の音を表す四字を加えて、計する。やがてユスペクは危急を告げる手紙を受ネ占領を阻んだ ( マラトンの戦 三二文字で表記され、アラビア語からの借用語 け取る。彼の後宮に混乱がおこり、彼の命令で せんりつ が多い。七世紀なかばにイスラム・アラブ軍に 戦慄と恐怖が後宮を支配するが、愛妾ログザー 〔クセルクセス一世の遠征〕遠 ヌは彼を欺いたことを光栄に思うと彼に告げ征に失敗したベルシアは、その 祉服、支配されて、約二世紀間イランの公用語 にはアラビア語が用いられ、この間に近世ベルて、毒杯を仰ぐ。他方、ユスペクとリカの手紙後ダリウスの子クセルクセス一 せっしよう シアが成立し、主として話しことばとして用い には摂政時代 ( 一七一五 ~ 一一三 ) のフランスの風俗世の下で軍備を整え、前四八〇 られた。九世紀にイラン系民族王朝が樹立され に対する風刺や社会批判、政治制度に関する哲年、第一次遠征軍をはるかに上 ると、ベルシア語はしだいに文学語として用い 学的省察が述べられる。むろん著者の真の意図回る大軍を王自らが率いて、ふ られ始め、一〇世紀にサーマーン朝が樹立さ はここに存する。この作品が大成功を収めたのたたびギリシア本土を目ざし れ、民族文化復興政策をとった結果、ベルシアは、ルイ一四世の晩年の陰惨な専制政治から解た。ギリシア側は、一部の都市図 地 語は詩と散文の両分野において完全に基礎を確放された当時の世相にびったり合致していたかを除き、スパルタとアテネを中経 〈坂井昭宏〉 心に結束を固め、エウポイア島 立した。古代ベルシア語から中世ベルシア語へらである。 第路 の進年年年 の移行の場合に、すでに文法はかなり簡素化し回大岩誠訳「ベルシア人の手紙上下 ( 岩波文の北端アルテミシオン岬と中部争ア アの 0 0 ・ 4- 4- 4 ・ たが、イスラム期において近世ベルシア語はい 庫 ) ▽根岸国孝訳『世界文学大系ベルギリシア北端のテルモピレー峠 シ とを結ぶ線を海陸の防衛線と定 っそう文法、発音の面で容易になり、イランの シア人の手紙』 ( 一九六 0 ・筑摩書房 ) レ 文化発展に伴い、中世においてはイランだけでベルシア戦争ーーせんそう紀元前五世紀めたが、二つの拠点はともに激 なく、東は北インド、アフガニスタン、西はト 前半にベルシア帝国とアテネ、スパルタを中心 戦のすえに破られ ( アルテミシ ルコ、北は中央アジアにわたる広大な地域で公とするギリシア諸都市との間で行われた戦争。 オンの海戦、テルモピレーの戦 / アジア西岸 用語、学術語として用いられ、イスラム世界に 〔イオニア反乱〕戦いの発端は、ト い ) 、ベルシア陸上軍はアテネに侵入する。こを喫し、キプロスでもベルシア側の反攻にあっ おいてアラビア語に次ぐ重要な地位を占めた。 イオニア地方のギリシア諸市がベルシアの支配の危機に際し、アテネの知将テミストクレスて、前四五〇年これを放棄するのやむなきに至 一〇世紀から一五世紀末に至る間にベルシア語 に対して蜂起した、いわゆる「イオニア反乱」 は、アテネ西方サラミス島東側の海峡にベルシ った。この戦いでキモンが死亡したことは、ア せんしゅ はもっとも輝かしい時代を迎え、詩においては にある。前五〇〇年、ミレトスの僭主アリスタア海車を引き寄せて決戦を挑む策を連合軍の軍テネに和平の機運を生じさせ、前四四九 / 前四 幾多の大詩人が輩出し、散文においても歴史、ゴラスは、自らその地位を退くとともに、他の議で主張して、それを通し、陸上の玉座から観五〇年ギリシアとベルシアとの間に正式に和議 地理、伝記などに多くの優れた作品が執筆されイオニア諸市にも、当時ベルシアにより支配の戦するクセルクセスの目の前でその大艦隊を壊が結ばれて ( カリアスの和約 ) 、ここに半世紀 た。「東洋のフランス語」としても知られるこ手段として利用されていた僭主政を廃止するよ滅させ、ベルシアのギリシア制圧の野望をくじ にわたるべルシア戦争は終結した。イオニア諸 う働きかけた。この呼びかけは、ベルシアの支 いた ( サラミスの海戦 ) 。ベルシア陸上軍の一市は独立を認められ、ペロポネソス戦争末期に の甘美な言語は、西欧の東洋学者の研究対象と なって久しく、わが国でもいくつかの大学で教配をはねのけようとする市民たちに広く受け入部は将軍マルドニオス指揮の下にギリシア北部至るまでベルシアの支配から逃れえた。 れられて、各市に反僭主・反ベルシアの運動が にとどまったが、これも前四七九年、中部ギリ 〔意義〕ベルシア戦争は、東方の大国ベルシア 育、研究が行われている。 シアのプラタイアイでギリシア連合軍に敗れ、 なお、アフガニスタンではダリー語とよば起こった。これらイオニア諸市は同盟を結び、 と西方ギリシアの小国家の連合とが戦い、兵力 れ、同国の公用語の一つである。〈黒柳恒男〉ギリシア本土に来援を求めてベルシアと戦い 撤退を余儀なくされた ( プラタイアイの戦い ) 。 において格段に劣るギリシアが世界の戦史に輝 さんさい Persian three- サルディス、ビザンティオン、キプロスを攻め同じころイオニアのミカレ岬でも、上陸したギく大勝を陸上、海上を問わずに博したことで名 ベルシア三彩 リシア軍が大勝して、イオニア独立への道を開高い。この勝利をギリシア側からみれば、各ポ color glazed ware 陶磁用語。九世紀からて成果をあげたが、ベルシア車はやがて反攻に 一一世紀にかけてイスラム世界で製作された多転じ、前四九四年、ラデ島沖の海戦で勝利を収 いた ( ミカレ岬の戦い ) 。こののちベルシア軍 リスの市民たちが、自ら享受していた自由と平 えんゅう 彩鉛釉陶器の別称。その装飾様式が中国の唐一一一め、ミレトスを占領して大勢を決した。イオ一一とギリシア連合軍との戦いは、主戦場を東方に 等を、一人の専制王と彼に服属する臣民とから 彩に似ており、こうよばれる。一般にこの手のア諸市はふたたびベルシアの支配に服すること移して続行される。 なる異民族の大軍に対して守り通したことを意 〔終結まで〕前四七八年ギリシア軍はキプロス味した。アテネをはじめギリシア諸市は、当 多彩陶器は、素地の表面に。ハルメットその他のとなるが、僭主政は復活されなかった。 草花文を線刻し、その上に緑、黄、白、褐色な 〔ダリウス一世の遠征〕反乱鎮圧後、ベルシア島の諸都市の反乱を助け、ビザンティオンを攻時、民主政をほば確立し、市民たちの間には自 らの国家を守る気概が満ちわたっていた。その どの異なった色釉を流し掛けるか、まだらに施の目は、それそれ二〇隻、五隻の艦船をイオ一一めて、いずれもベルシア支配からの解放に成功 ことがギリシア防衛を成功させた究極の原因と している。製作地はイラン北東部からメソボタアに送ったギリシア本土のアテネ、エウポイアする。前四七七 / 八年デロス同盟成立後もギリ ミア、エジプトに及んでいる。 〈前田正明〉島のエレトリアの両市に注がれた。前四九二年シア側の攻勢は変わらす、前四六七年アテネのみられるが、このときの勝利はまた、東方の専 に海路トラキア遠征を行ったのち、前四九〇将軍キモンの指揮の下に、小アジア南岸エウリ 制王国とは対照的な、自由な市民たちからなる ベルシア人の手紙ーじんのてがみ Let ・ tres persanes モンテスキューの書簡体年、報復のためダリウス一世は大軍をギリシア メドン河口でベルシア軍を破り、前四五九年に世界についての自覚をギリシア人の間に芽生え 小説。一七二一年刊。この小説の筋はきわめて に派遣した。ベルシア車はエレトリアを制した はエジプトでの反乱を助けるべく兵を送ってい させ、以後のギリシアにおける政治と文化の著 簡単である。ベルシアの宮廷での政争に疲れたのち、アテネを襲って北東岸のマラトン平野に る。しかしエジプト遠征軍は前四五四年に大敗しい発展の重要なばねとなった。〈伊藤貞夫〉 フラ あざむ ほうき トラキア 0 アトス岬 [ 7 テッサリ テモピレー ベル、、ア帝国 7 オア 、ン 0 工リア ク サルディス アアーイ ア 。ン サ オリンビア ロポネソ ス 一下。 0 4 ロードス 100 km おもな戦場 146

6. 日本大百科全書 21

へれにず は、プトレマイオス王国の滅亡、すなわち紀一兀君主崇拝 ( 王が絶対者として自らを神化し、神 この巨匠と共演。一九七〇年リスト賞受賞、本「三人は全世界にこのうえなく優しく切ない恋 まっ 格的な演奏活動に入る。七八年 ( 昭和五三 ) 初の鑑」と別れを告げる。彼らの気高い心情とそ前三〇年にはば異論はないが、上限は、諸家ま像を設けて祀らせる ) の制度を敷くなど、後者 の三王国は共通の基盤のうえにたっ同じ性格の 来日。優れた演奏技術の持ち主だが、作品の内の変転の明暗を、優美な旋律と激情の交錯で描ちまちで一定しない。多くは、アレクサンドロ いた傑作。この作は先輩コルネイユと同一主題ス大王の没年 ( 前三一一三 ) からとするが、彼がペ典型的ないわゆるヘレニズム型国家だった。こ 的緊張の再現を目ざす本格派。コダーイ、べー ルシア征討に出撃した年 ( 前三三四 ) とか、それのほかトラキア系やイラン系の王朝でギリシア トー・ヘンなどで持ち味を発揮する。〈岩井宏之〉の競作となったが、ラシーヌは序文で、「無か ヘレニウムミキク科ヘレニウら創作した」単純な内容に悲劇の「荘重な悲を最終的に滅ばして自己の世界支配形成を開始文化に触れていたポスポロスやポントスなどの ム属の総称。耐寒性の一年草または多年草で、 哀」を盛ったことを誇り、暗に先輩の複雑な筋した年 ( 前三三一 ) 、あるいは彼の即位年 ( 前一一一三六 ) 諸王国、中央アジアのバクトリア王国 ( ギリシ 〈岩瀬孝〉やカイロネイアの戦いにより自立的な諸ポリスア遺民の国家 ) もヘレニズム地域を構成する。 アメリカ大陸に約四〇種分布する。そのなかで立てを批判している。 ヘレニズム時代史をひとことでいえば、前半 北アメリカ原産の三種が、おもに切り花、花壇回伊吹武彦訳『べレニス』 (r ラシーヌ戯曲全集の時代が終わった年 ( 前三三 0 など各説がある。 歴史をみる視点の違いによるもので、これらは相互にせめぎ合った四王国が、後半は次々と西 用に栽培される。アウタムナーレ種 . きミ・ 巻一』所収・一九六四・人文書院 ) nale L. は多年草で、和名ダンゴギク。高さ約ヘレニズム Hellenism このことばは広おおむね政治史的観点に寄っている。これに反方の新興国ローマに蚕食され、アイトリア同盟 ひしん 一・五、葉は広披針形で長さ約一五に達す狭二義に用いられる。広義では、ヨーロッパ文し、思想、文学、芸術、宗教等を含む文化全体やアカイア同盟に代表される自立的なギリシア 明の根底をなすキリスト教精神 ( へプライズオし。ネ よ、しょ上会・経済的諸側面をも包み込んだ構諸ポリスともども ( 前一瓮、前一六四 ) 順次征服さ る。花が半球状に咲くことから和名がついた 花期は七 ~ 一〇月。多数の品種があり、花色はム ) に対立するギリシア精神を意味し、狭義で造全体から広義にとらえるならば、時限はさられて、ローマの地中海世界支配が確立されてい しゅうえん く過程だった。ヘレニズム世界へのローマの介 黄、赤、赤褐色、花形も大輪と小輪がある。ビ は、古典ギリシア世界の終焉からローマ時代に広がる。ヘレニズムは、ギリシア語が覆った ゲロビー種洋 b を ~ A. Gray. は多年草成立に至るまでをさす文化史的あるいは政治史世界であり、ついでギリシア的な質が普遍化し入は、前二〇〇年ごろから始まる。諸国は相互 で、和名ャハズダンゴ。花色は黄または赤褐色的時代概念である。 て文化を培養した時間・空間であるとするならの抗争を巧みにローマに操られて逐次各個撃破 された。マケドニアは、三回にわたる戦争 ( 第 〔語義〕元来はギリシア人の自称である「ヘレ ば、ローマ帝政期の前半、少なくとも紀元後一 である。フレクスオーサム種洋さミ 一 ~ 第三次マケドニア戦争 ) で前一六八年に滅 Raf. var. ミ d ミ。ミ Nutt. は多年草で分枝ネス」 Hellenes からの造語で、「ギリシア風」世紀まで含まれよう。 亡し、ベルガモンは、王国を自らローマ元老院 空間的には、およそ中央アジアやインダス川 が多い。花色は赤紫、黄、褐紫色。 の意。すでに古代にあっても、「バルバロイ」 えびす に遺贈するという形で自滅 ( 前一三三 ) 。シリア 日 ( 夷風 ) に対立する概念として、「正しいギリシ以西から南イタリアやシチリアにわたる広大な いずれも栽培は容易で、土質を選ばない は、ハンニバル処遇をめぐってローマに口実を 当りと排水のよい場所でつくる。繁殖は株分けア語の使用」または「ギリシア的思考や生活」範囲に及ぶ。ギリシア本土、小アジア、シリ みしよう 〈岡田正順〉あるいはそれらを模倣することをまれにヘレニ ア、エジプト、西地中海域が枢要だった。わが与え、長い敵対のあと前六四年にポンペイウス または実生による。 により息の根を止められた。また、前二世紀初 ズム (Hellenismos 蓊 ) とよび、また初期キ国では当然ながら東方へレニズムに関心がもた べレニス Bérénice フランスの劇詩人ラ かいらい あすか リスト教時代にはこの語で異教をさしたが、今れ、もつばらガンダーラ美術や飛鳥美術といつめ以来ローマの傀儡と化していたエジプトは、 シーヌの五幕韻文悲劇。一六七〇年初演。ロー でんば ローマ三頭政治のあおりで自ら破滅を招き、前 マ皇帝テイチュスは東方遠征から連れ帰ったパ 日の用語はそれとは別に由来する。 た文化伝播としてヘレニズムが観念されがちだ 三〇年女王クレオパトラは自殺し、最後のヘレ が、重要なのは西方へレニズムである。イタリ レスチナ女王べレニスと相愛の仲だが、ローマ 一九世紀のイギリスの文芸評論家アーノルド ニズム王国として時代の幕を引いた の掟は異国人との結婚を禁じている。二人の友が、ヨーロッパ精神形成の二つの源流としてキア半島では、東方で土着文化が示した反発も、 〔ヘレニズム世界の経済・社会〕ヘレニズム諸 リスト教と古典的伝統とをあげ、それそれを最終的に土着文化がヘレニズムを退潮させたよ で東方小国の王アンティオキュスも女王を恋し 「へプライズム」「ヘレニズム」と表現して以 ているが、皇帝との結婚を待ちこがれる彼女は うな退行現象も起こさなかった。ローマの文化的国は専制支配の広域国家で、これら王国の経営 のため需要一般が増大して経済は活況を呈し 耳を貸さない。苦悩する皇帝は重臣ポーランに来、後者はギリシア文化一般を表す語としてし形成の培養基となったギリシア文化は、ギ丿ノ ようへい 説得され、アンティオキュスに女王を伴い東方ばしば用いられる。しかし歴史上の概念としてア本土直接のものではなく、海外ギリシア植民た。要因の一つは大量の傭兵需要で、それへの へ帰るよう頼むが、彼女の絶望の前に動揺すの「ヘレニズム」は、ドイツの一九世紀の歴史地の二次的媒体すなわち西方へレニズムの文化支弁が経済開発や消費を喚起し、人口移動を促 家ドロイゼンの命名に始まる。それまで、アレ る。女王は皇帝の愛を確かめて、「この苦しい だったが、これがローマ帝国に吸収されて後世進した。セレウコス朝初期のおびただしい都市 クサンドロス大王以後ローマ帝国成立に至る三 建設も、これを促した。ギリシア本土や周域の のヨーロッパにつながったのである。 瞬間に、最後のカであとを飾りたい」と決心し 世紀間よ、・ キリシア文化が低劣化した時期とし〔ヘレニズム時代の歴史〕アレクサンドロス大人口が雇用を求めて流出し、繁栄の重心はアレ 種 て関心をもたれず、歴史家たちにも無視されて王の没後その広大な版図はたちまち分裂し、遺クサンドリア、アンティオキア、セレウキア、 レ キリシア本土で ロードスなどの東方に移った。・ いたが、アレクサンドロス大王に傾倒して大王将たち ( ディアドコイ ) の約四〇年間にわたる ム史およびそれに続く諸時期の開拓者的叙述をなすさまじい抗争のなかから前三世紀前半にはセは、アテネにかわってコリントが栄え ( 「ヘラ したドロイゼンは、その時代にヘレニズムの名レウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプスの星」とうたわれた ) 、また前二世紀後半以 ウ ア称を与えた。ローマ、ゲルマン両要素の複合をト、アンテイゴノス朝マケドニアおよびシリア降はローマから関税を免除された自由港デロス も ロマニズムとよぶ類推からの着想で、その時代から分立した小アジアのアッタロス朝ベルガモが繁栄した。経済活況の第二の要因は、前三世 を 名 のなかに彼はギリシア、オリエント両文化およ ンの四王国が成立した。ともにマケドニア系の紀のヘレニズム国家間の勢力均衡である。シリ 和 び両系諸民族の融合をみたのであった。 王家を頂き、家父長的な民族王国マケドニアをア、マケドニア、エジプトの三国とヒェロン二 の ムク 〔ヘレニズムの範囲〕ヘレニズム時代は、大ま除けば、いずれもマケドニア人、ギリシア人が世治下のシラクーザとの間には、ヘレニズムの ウギ かにいえば、古典期ギリシアの終焉からローマのオリエントの現地住民を支配する専制王国で、影響下にあったカルタゴを含めて一円の経済圏 が成立した。東方に向けては、アケメネス朝以 へダ世界支配確立までの約三〇〇年間をさす。下限それら外来者たちが軍や官僚層を形成し、また おきて かがみ 185

7. 日本大百科全書 21

ほくおう 北欧映画 いた。しかし現代の北欧演劇は、イプセン、ス ウェーデンのクリスティーナ女王に招かれてい する名優が輩出してヨーロッパ最高の演劇をつ にスウェーデンの・ヘルイダール Victor Berg ・ トリンド・ヘリの新演出に支えられているといっ くりあげていた。このハイベア夫人の舞台に、 dahl ( 天大ー一九三九 ) がおり、一九六〇年代以来た哲学者デカルトが、一六四九年に三十年戦争 ても過言ではない。第二次大戦前のスウェーデ ときおり長編もっくられるようになった。ドキ終結記念のバレエ劇『平和の誕生』を作曲した青年期のイプセンが深い印象を受けた。 ュメンタリー作家としては、スウェーデンのス ことは有名だが、宮廷人はフランス、ドイツの ノルウェーは、一八一四年にデンマークの属ンには・リンドベリや O ・モーランデルが出 ックスドルフ Arne Sucksdorff ( 一九一七ー ) 劇団を抱えたりもした。自国語による上演の気国たる地位を脱し、ようやく独自の文化を育成て革命的な演出をみせ、戦後も・シェーベリ とレイセル Erwin Leiser ( 一九一一五ー ) が国際運が出てくるのは一八世紀になってからのこと し始める。最初の常設劇場は一八二七年に開場や—・ベルイマンらが引き継いで北欧演劇を主 的に知られている。また、スウェーデンの画家である。 したが、長くデンマーク演劇の模倣に甘んじて導してきた。 まず一七二二年にデンマークのコペンハーゲ いた。一九世紀の後半になって、イプセンと、 今日北欧が腐心するもっとも重要な演劇問題 ェッゲリング Viking EggeIing ( 一犬 0 ー一九 = 五 ) の短編実験映画で抽象アニメーションの『対角ンに国民劇場が開設された。そこに作品を提供もう一人当時は高く評価されたビヨルンソンが は、福祉社会における役割である。北欧では公 ーしも、つ 線交響楽』 ( 一九一一四 ) は、世界の実験映画の先駆したのが、啓蒙思想家の大学教授ホルべアであ出るに及んで、ノルウェー演劇は一躍世界の注立劇場のみならずほとんどの演劇活動が公的な 的作品である。 った。「北欧のモリエール」とよばれる彼は 目の的となる。ビヨルンソンは多方面に活躍し財政援助を受けているが、巡回専門の国立劇団 今日の北欧五か国の長編映画の製作本数は各『丘のイエッペ』『エラスムス・モンターヌス』 た作家で、散文市民劇の試みも社会問題劇の制もあり、近年は地方に拠点となる劇場をつくっ 国年間一〇 ~ 二〇本程度 ( アイスランドは三、をはじめとした多様で一級の喜劇を三十数編書作もイプセンに先んじたが、近代劇の確立はイて、辺境の地にまで演劇受容の機会を与えよう 四本 ) で、外国映画を含めた国民一人当りの年き、ドイツでもかなり上演されている。この国プセンの力によるものだった。しかし、『人形としている。小さなグループ演劇が工場、刑務 所、学校などを回ることも一般的である。劇作 間鑑賞回数は二 ~ 四回程度 ( アイスランドは約民劇場は財政難と首都大火のため閉鎖させられの家』『幽霊』『ヘッダ・ガプラー』などを書い 一〇回 ) である。 〈三木宮彦〉たが、その後王立劇場として再開し今日に至っ たイプセンも、晩年は、隣国スウェーデンに現でも福祉社会の矛盾をつく作品が少なくなく、 れたストリンドベリに追い上げられてくる。 スウェーデンのイエーテポリ市立劇場の若い演 回『世界の映画作家ドイツ・北欧・ポーラている。 いかだ ストリンド・ヘリはイプセンに劣らぬ過激な自 劇人が集団創作した『筏』 ( 一九六七 ) 以下の一連 ンド映画史』 ( 一九七七・キネマ旬報社 ) スウェーデンでは、一八世紀なかばに、プロ ー』などを書い の劇は北欧中で注目を浴びた。デンマークの地 北欧演劇ほくおうえんげき北欧演劇の歴史イセンから嫁いできた王女ウルリーカが、首都然主義戯曲『父』『令嬢ジュリ は世界に誇りうる劇作家を三人生んでいる。デ郊外のドロットニングスホルム離宮に劇場をつたが、一九世紀末から二〇世紀初めにかけて方都市に根拠地を置く演劇実験所「オーディン ンマークのホルべア ( 一六八四ー一七五四 ) 、ノルウェー 『ダマスカスへ』『夢の劇』などのまったく新し 劇場」は国際的にも知られる。 くり、多くの芸術家を集めて盛大な催しを楽し じんかい のイプセン ( 天天 ー一九 0 六 ) 、スウェーデンのストんだ ( この劇場は二〇世紀になって塵芥に埋も い形式の作品を生み出し、表現主義演劇の先駆 フィンランド演劇は、一九世紀後半のキビ リンドベリ ( 天四九ー一九一一 l) で、今日も北欧演劇はれていたのを発見され、今日も使用されてい けとされる。イプセンもビヨルンソンも青年時イ、女流イプセンとよばれるカント夫人に始ま これら三人の影のなかにあるといってよい る ) 。自国語の演劇は一七七一年に即位したグ代に劇場活動とかかわっていたが、ストリンドるといってよいが、スウェーデン語による上演 ホルべア以前の北欧演劇は、一六〇〇年ごろスタフ三世によって推進される。王は自ら戯曲べリはむしろ晩年になって自らの「親和劇場」を旨とする劇場の存在や、内乱後の政治状況を 反映する複雑な演劇様相をむしろ福となして、 まで続いた中世宗教劇にせよ、一六世紀なかば も書き、俳優の養成に尽力したが、一七九二年をつくり、自作品を集中的に上演させた。 とんぎ から一七世紀なかばの人文主義者による学校劇 に暗殺され、演劇の成長は頓挫した。 二〇世紀前半の劇作家では、スウェーデンの今日では北欧の最先端にたっ水準をもつように しろうと ラーゲルクビスト、デンマークのアベルと・ 一九世紀前半はデンマーク演劇の黄金時代だ なってきた。数千といわれる素人劇団の活動も にせよ、またその後の宮廷祝祭劇にせよ、先進 った。エーレンシュレーガー ハイベアらのロ ムンク、ノルウェーの Z ・グリーグがもっとも世界的に有名である。 国の模倣の域を出なかった。民衆の芝居熱には アイスランドでは一八九七年に最初の劇場が イギリス、ドイツの旅劇団がこたえていた。ス マン主義作家に加えて、ハイベア夫人を筆頭と高く評価される。いずれも反ナチスの姿勢を貫 ル・時イの年督ン一ンく マレラ多 監 レレ金ルリ ルノ黄ペペ賞円同賞イトグも 受 , た受ルス祭後 夏イ家的一 テ術エンリ督きリペ一画の ス芸 シリプ監てプ・エ映そ の ・トン一けンルシ際は ッっ期フスラヤ続ラ一・国ン ル豪グイいグマル 門祭グ一リイ ンっア文祭ラロ の画ドを画ントルル - を・マノイの一ン映・愛映イクベペ サ作リデ際ルと際ビ , 匠 , 表ュ一国一仰国こ ( き巨 一をのる代ジメ信アち師描のる : 、吹ウに画令スカ蹟かネ野老顧映て , 奇期ペ 作映 回欧し でト 画 , 画 , の北表 品化画ンで映品へ発 一作プたン作画映レ作、一作生にを 、 : 「一、碆をデ年一げデ年映クイ表デ年人し品 一レ上一 の一サ代一引の賞作 工 円ルき工円曲マのエ四 , 受た ウ , ゲ築ウ , 戯ン , 後ウ , 演をれ 。、。 ~ ス督一をス督名デ品戦ス督主リ優 レを①監ラ代②監同③作の④監ムプの 4 ④ ① 4 ② ③ 4

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へれにず ヘレニスム / 前 200 年ごろのヘレニズム世界 ぞうげ デモティク 商人たちは、香料や象牙をアラビおける土語への配慮も類なく高かった ( ちなみロードスのラオコーン群像、サモトラキのニケ跖 アやソマリ方面から運んだ。イン に二言語文書がおびただしく遺存しているの像、ミロス ( ミロ ) のビーナス像、。ヘルガモン が、この王朝下での特色である ) 。地方では、 ドへの直航はローマ帝政期以後に のゼウス大祭壇の浮彫りなどは有名である。 なるが、このような経験が紀元後ギリシア人とエジプト人との混血が進み、アレ 〔影響〕ヘレニズム世界の諸傾向は「ローマの ぎせつ 一世紀に南海貿易路の航海案内書クサンドロス大王ののち挫折した東西融合が、平和」に引き継がれて、なお古代世界の終末ま で持続した。東方では表面的なヘレニズムはし 『エリトラ海案内記』を生む。し図らずもエジプトの農村で現実化した。 だいに退潮したが、 かし、空前の活況は物価騰貴に導〔文化〕ヘレニズム文化は後期ギリシア文化に 潜在してイスラム文明の母 胎となった。イスラム科学はヨーロッパよりも いた。騰貴は初めベルシアからのほかならないが、古典期文化に比べると、ポリ まくだい 早くへレニズムの遺産を現実化した。エジプト 樊大な接収貴金属が流通に出たとスが主権的存在を失って市民の公生活が変化 きにもみられたが、ヘレニズム時し、脱共同体的な、あるいは市民の公生活とかではギリシア人・ローマ人の支配が終わったあ 代全体を通じて経済はつねにインかわらない個人主義的、普遍主義的な性格を帯と、エジプト人たち自身によって自己のヘレニ フレ傾向だった。したがって、繁びてきた。反面、学問は専制君主の保護下に発ズムが開花した。コプト文化である。コプト文 典 出 栄が同時に貧窮大衆を生み、社会達した。学問の中心はアテネを離れ、国王の富字は二 ~ 三世紀にギリシア文字からっくられ 的緊張が高まる。まして異民族支財を投じてつくられたムセイオンと蔵書七〇万た。だがヘレニズムのもっとも直接の嗣子はビ 配の専制諸王国では、ヘレニズム巻を誇る大図書館とを擁するアレクサンドリアザンティン文明だった。それはヘレニズムのギ リシア文明を一〇〇〇年間保存して語辞集成や に移った。文献学では、カリマコスやゼノドト 時代の後半、土着民衆の反抗に手 セプトウアギンタ スが名高い。『旧約聖書』の「七十人訳」も前古典写本等をヨーロッパに伝えたのである。し を焼いた 民族的闘争がもっとも激烈を極三世紀にアレクサンドリアで刊行され、そのギかし、それにもましてヘレニズムが残した最大 かて めたのはシリア王国だった。この リシア語コイネー ( 共通語 ) は、前代ポリス期の糧はキリスト教だった。キリスト教はヘレニ 国は、アレクサンドロス遺領の最のギリシア語が方一一 = ロごとに孤立していたのに対ズムの環境のなかで生まれ、信仰化され、ヘレ して方言差のなくなった普遍語で、ヘレニズム 一一ズム的普遍世界下における伝道によって成長 大部分を継承して発足したが、領 内の多民族性も相まって早くから世界全体はこの平俗ギリシア語により媒介されしたのである。↓ギリシア科学↓ギリシア美術 ↓ギリシア文学↓ヘレニズム思想〈金澤良樹〉 版図の分解作用を起こし、漸次領 た。また、自然科学では、数学のアポロニオス やユークリッド ( エウクレイデス ) 、天文学の回坂口昂著『世界に於ける希臘文明の潮流』 域を失った。その末期には、シリ ア北部とキリキア東部に局限されエラトステネスやアリスタルコス、医学のヘロ ( 一九一一四 / 復刻版・一九五 0 ・岩波書店 ) ▽マイエ フイロスなどを輩出した。シラクーザのアルキ ル著、村田数之亮・一一宮善夫訳『希臘主義の たまま命運を終わるが、積極的な メデスもアレクサンドリアで学んでいる。 ギリシア化政策が特色で、四〇を 東漸』 ( 一九四一一・創元社 ) ▽・・トインビ 超すギリシア風都市を建設したほ 市井の平凡な小生活のうちに慰謝を得ようと ー著、秀村欣二・清永昭次訳「ヘレニズム』 ( 一九六一・紀伊國屋書店 ) ▽・ウッドコック か、オリエント系在来都市も多数する傾向は散文家のテオフラストス「性格論』 ギリシア化された。それらは、神 にみいだされる。散文では、はかにポリビオス 著、金倉圓照・塚本啓祥訳註『古代インドと ギムナシオン ギリシア文化』 ( 一九七一一・平楽寺書店 ) ▽・ 殿、劇場、体育堂といった都市のやディオドロスの歴史記述がある。 ・ターン著、角田有智子・中井義明訳『へ 時代精神の変化は哲学にいっそうよく現れ、 外観だけでなく、政治上のいちお レニズム文明』 ( 一九・思索社 ) うの自治権をもつものだった。だ客観的認識の世界よりも個我の安心立命を求め ーーしそうへレニズム時 が、ギリシア風生活の強要と君主て、普遍主義的ⅱ個人主義的なストア派哲学やヘレニズム思想 崇拝の強制とはユダヤ人の民族闘エピクロス派哲学などがおこった。他方、東方代の思想は、①古典時代の遺産の継承と整理、 の救済型宗教が人々の心をとらえ、在来の宗教 に世界のうちに個として生きるための知恵を模 争を激発させ ( マカべア戦争、前 ~ 前一四 l) 、結局それを収拾でと習合してさまざまなシンクレティズムの現象索して、多数の学派が展開した「生きる術」 ars vivendi としての多数の哲学思想の並存、 を生んだ。一つはエジプトのセラピス神だが、 来の広域経済圏をはるかに超える大遠隔地交易きなかった。 きえ プトレマイオス王国はこれと対照的で、ファ これは官制的に礼拝されたため真の帰依には遠という二要素によって特徴づけられる。 が、セレウコス朝のもとに行われた。すなわ あかし く、人々はより強烈な救いの証を求めてミトラ は遺産の継承アレクサンドリア、ベルガモン ち、セレウコス一世がメガステネスを遣わしてラオ時代からの習俗、伝統をなるべく変えぬ方 ラオイ 針で土民に臨み、反面巧みな産業統制の網をか 信仰、イシス信仰のような密儀的なものを好んなどアレクサンドロス大王の後継者の首都に建 ペンガル地方まで探査 ( 前三 00 前後 ) させて以 ほうじよう 設された大図書館には古典作家 autores clas ・ 来、同朝はインドとの交易に力を入れ、おもにぶせて豊穣な国土を存分に活用し、ヘレニズだ。「融合」と「普遍」そのものであるシンク sici の著作が収集され、批判的に校訂され、編 レティズムこそヘレニズムの精神界をもっとも 陸路によってインドから香料、こしよう、綿、ム諸国中最大の富力を有した。したがってギリ さん 纂された。「古典文献学」 classical philology 真珠、宝石等を輸入し、シルク・ロードの一終シア化政策をほとんどとらす、プトレマイス以象徴的に示す現象であるといえよう。 おうせい 芸術は、しばしば君主らの旺盛な都市建設やの成立の端緒がここにある。現存する『プラト 点セレウキアには中国産の絹も到来した。これ外には新たな都市建設も行わなかった。原住民 ン著作集』 Platonis 0 をきの編纂と正典の決 は徹底した王家独占経済によって収奪された以都市美化によって促進され、周辺の島々や新し に対しプトレマイオス朝は、紅海、インド洋に い都市に優れた作品が多い。とくに彫刻では、定はこの紀元前三世紀にさかのばるとみなされ 向けての南海貿易に精出し、アレクサンドリア外は表向き行政上の差別を受けず、公的文書に ミアンテイゴノ朝アッ朝 マケドニア ン カ フキア ビザンティオ、 ガラチアッパ、、 アンティオキ シノベ トロバテネ ア ノヾノレティア、 王国 ・ヘカトンヒ。ロス ン ・バクトラ 、、バクトリア王国イ・・ ー。。ードス クレタ 朝 セ ) ウプリ キプ。ス フ シ アレンドリア イ オ テイロス ガザ プ バヒイ レ マ \ ノ メンフィス 朝 、工 ス ・ベルセポリス ン アラビア プ ノ 、ン ア 海 500km たぐい

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キ、の金貨鋳造が求められれば政府はこれに応じる貨幣とし他方の金属をそれに従属させる場合をとな 0 た。↓碁〈河野直達〉 こと、およびその逆 ) による金の市場価格と鋳跛行本位制度という。 ポーン・ウィリアムズ 歴史的には一九三〇年代の世界恐慌ないし第 Ralph Vaughan Williams ん造価格 ( 純金七五〇 = 、。グラムⅡ一円 ) との乖離 ー一空 0 ホルストとと 防止を通じて、また、金の自由輸出入、中央銀二次世界大戦前まで金本位制度がとられていた ( 天七一一 だかん もに二〇世紀前半のイギリス が、現実にはかならずしも純粋な形態ではなか 行券の金貨兌換によって、価格標準を固定し、 かわせ った。すなわち、金本位制度には理論的に金貨を代表する作曲家。王立音楽 為替相場を安定させることとなった。↓貨幣 ↓補助貨幣 〈齊藤正〉本位制度と金核本位制度とがあり、金貨本位制力レッジ、ケンプリッジ大学 リー、ウッド、スタンフ ほんいきごう natural Auflö- 度が真の金本位制度といえるものであるが、現でパ 本位記号 bécarre 実には概して金核本位制度がとられていたのでオードに学んだのち、ベルリ sungszeichen bequadro 材 フラ ノリでラベル 五線記譜法で用いられる変化記号の一種。ある。この制度は、国内通貨と対外決済とを区ンでプルッフ、ヾ に師事。本格的な作曲活動は ナチュラルともいう。シャープ ( # ) 、フラッ 別し、国内通貨では金の節約のために兌換銀行 比較的遅く、三〇歳ごろに始 ト (•) 、ダブルシャープ ( または ) 、ダブ券を流通させ、対外決済には銀行券の兌換によ かわせ ルフラット ( 防 ) の変化記号を取り消し、それって金地金または金為替を利用するというものまる。彼の音楽の基盤は、ル らによって生じた派生音を幹音に戻す働きをすであった。金地金と兌換される場合を金地金本ネサンス期のイギリス音楽と こある。乍ロロに る。第の記号で、臨時記号として多く用いられ位制度とよび、金為替と兌換される場合を金為イギリス民謡ー 替本位制度という。金為替本位制度は、第二次は、『海』『ロンドン』『田園』 るが、転調時には調号としても使用される。 〈黒坂俊昭〉大戦前には、宗主国に対して従属する植民国が「南極』などの標題をもっ九 変化記号 本位制度ほんいせいど standard system 採用した本位制度で、典型的にはインドにみら曲の交響曲をはじめ、オペ イギ 一国経済の安定れた。金為替本位国は金地金本位国に従属するラ、管弦楽曲、協奏曲、合唱 Währungssystem イ しり・」 0 皿 が描す装の 〈寺田兼文〉 銘を表仮送て踊 と成長とには貨幣制度の確立が必要である。貨ところに意味があった。これに対して、戦後の曲、歌曲など多数。 のりをな鎮して潟 幣は価値の基準ないし交換・支払いの手段とし 踊霊様霊示つ新 体制は、各国の通貨がドルにリンクするホンウイル W. G. A. Bonwill ( 天三三 盆亡多祖くよ ー究 ) 歯科用エンジンの考案者として知られ ことから一種の金為替本位制度といえるが、そ て機能するが、なによりもその貨幣が人々によ のやのよにう 年渡馬巾りを装違 これを貨幣こには戦前の金為替本位制度のような支配・従る。アメリカ、デラウェア州に生まれ、一八五 って受け取られなければならない。 り 4 佐絵頭踊性扮も社 踊政るた面盆流 振神 の一般的受領性という。貨幣制度のうち、貨幣属の関係はない。そのうえ、各国とも国内にお三年ごろから歯科医学を志した。のちにポルテ 盆文あい覆で風るの釡 、ハリスに師事したが、七一年に いては管理通貨制度がとられていることに根本イモアに移り の一般的受領性を保証する仕組み全体をとくに はフィラデルフィアに転じた。彼は歯科用機器人とともに楽しく踊ってあの世に帰ってもらう 的な差異がみいだされよう。管理通貨制度は今 本位制度という。 をいろいろと考案し、七四年には電気式マレッ のである。こうした日本固有の精霊観に、仏教 本位貨幣とは、一国における価値尺度および日、変動相場制とリンクしている。↓貨幣 うらばんえ 価格の度量基準として機能する無制限通用力を本位貨幣↓金本位制度↓銀本位制度↓複本トの発明、七六年には歯科用リーマーの創案、の盂蘭盆会が習合してより強固な年中行事に成 長した。盆に念仏踊を踊る例もあるが、念仏踊 〈石野典〉七七年には歯科用エンジンの特許権を得てい もっ貨幣として国家権力が定めた貨幣である位制度↓管理通貨制度 きゅうまく かどう は死者の成仏祈願に主眼があり、一般に盆踊り が、それが人々によって受け取られるために本因坊ほんいんばう算砂を初代とする囲碁る。窩洞を乾燥させるのに吸墨紙を応用し、 とは別個の認識にたつ。 は、その裏づけが必要である。これを、素材価の家元で、現在は選手権制によるタイトルの一隔壁法も考慮し、歯科補綴学におけるポンウィ ふしみ - 一う′」う 一五世紀初頭に伏見の即成院や所々で踊った ル三角の発見と咬合器の改良など、数々の創案 値に求める場合を拘束本位制度 ( または金属本つ。一般に碁の強い人の別称としても使われる。 ねんぶつおどりねんぶつはやしもの かんもんぎよ たっ という盆の「念仏躍」「念仏拍物」 ( 『看聞御 一六世紀に、京都・寂光寺の本因坊という塔をしている。また安全ピンも彼の発明と伝えら 位制度 ) とよび、素材価値に求めずに金融政策 ちゅう しようにん 〈本間邦則〉 記』 ) は、まだ後の盆踊りというより念仏の風 で貨幣数量をコントロールすることによって本頭の住職日海上人は碁の名手として知られ、れている。 りゅう につしよく とよとみ 流の色彩が濃いものであったが、同世紀末に 位貨幣の価値を維持しようとする制度を、拘束初め織田信長に引見され、のち豊臣秀吉、徳川本影ほんえい 0 日食 本位制度に対し自由本位制度 ( または紙幣本位家康に仕えた。信長は日海の技量を名人とたた 盆踊りばんおどり盆に踊る民俗芸能。祖昼は新薬師寺、夜は不空院の辻で踊られたとい かすがごんかんめししじん 制度 ) という。しかし、完全な自由ということえ、秀吉は碁会を催し、成績抜群の日海に二十霊、精霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返う「盆ノヲドリ」 ( 『春日権神主師淳記』 ) は盆 はありえないから、現実には管理通貨制度をと石十人扶持の官賜「碁所」の位を贈った。秀吉すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊りの色彩を強めたものであったろう。盆踊り うた の没後、家康は日海を江戸へ招いて、名人碁所踊り唄にのって集団で踊る。手踊、扇踊などあはそのほか伊勢踊なども習合することになった っている。 に任じ、五十石五人扶持を与えた。日海は本因るが、歌は音頭取りがうたい、踊り手がはやらしいが、にぎやかで華やかな踊りで、異類異 拘束本位制度ないし金属本位制度は、素材で ふんそう , りゆ - っ ある金属により金本位制度と銀本位制度とに分坊を号とし、算砂と改名した。これが本因坊のす。太鼓、それに三味線、笛が加わることもあ形の扮装をしたとあり、まさに風流振りであ ・一うた みようせき けられる。さらに、単一の金属を本位とする名跡の抬まりである。以後、世襲制がとられ、る。古く日本人は旧暦の正月と七月は他界のもる。一六世紀中ごろには小歌風の盆踊り唄がっ にながわごじようひきつけ ど - っさく どうち か、そうでないか、によって単本位制度と複本本因坊としては、四世道策、五世道知、九世察のが来臨するときと考えた。正月は「ホトホくられていた ( 「蜷川家御状引付』 ) 。江戸時 しゅうえい じようわ ト」「カセドリ」などいわゆる小正月の訪問者代以降いよいよ盛んになり、全国的にそれそれ 位制度とに分けられる。しかし、理論的には本元、一二世丈和、一九世秀栄らの名人が輩出。 位貨幣は一つの金属による以外にないから、複二一世本因坊秀哉が引退を期に名跡を日本棋がこの世を祝福に訪れ、七月は祖霊が訪れるもの郷土色を発揮して、いまに行われている。 今日みる異類異形の盆踊りには、鳥獣類の仮 本位制度は単本位制度への移行に際する過渡的院に譲り、本因坊は一九三九年 ( 昭和一四 ) かのとした。盆棚で祖霊を歓待したのち、無縁の ひこさず な制度といえよう。その間で一方の金属を本位ら選手権制に改められ、囲碁のタイトルの一つ精霊にもすそ分けの施しをし、子孫やこの世の装はなく、秋田県の「西馬音内盆踊」の彦左頭 ごどころ さんさ だかん 」気 730

10. 日本大百科全書 21

ロの二〇 % ) を占め、チュニジア、リビアなど が、急速に崩壊しつつある。家族、村落の規模地域で、一月の平均気温は零下三六 ~ 三八度 0 回井上定訳『秋の園』 ( 菅原卓編『現代世界戯川 る トである。 〈津沢正晴〉 はアラブより小さく、父系制が中心で、一部 は一〇万人程度にすぎない。・ヘルベルの名称は 曲選集 9 アメリカ編Ⅱ』所収・一九五四・白水 べ のばくしゃ P0imén 社 ) ▽稲葉明雄・本間千枝子訳『未完の女 ウアレグ族のように母系制。生活形態の柱は農ヘルマスの牧者 っギリシア語の「バルバロイ」 ( ギリシア世界の 外に住む非文明人を意味 ) に由来するが、彼ら業と遊牧であるが、フランスへの出稼ぎを含むキリスト教の「使徒教父文書」の一つ。原典 リリアン・ヘルマン自伝』 ( 一九〈一・平凡 へ はアマジグ ( 複数形イマジゲン、高貴な出の人都市生活者も相当数いる。女性にはベルベル語 ( ギリシア語 ) の題名は単に『牧者』となって 社 ) ▽中尾千鶴訳『ジュリア』 ( 一九大ヾ 間、自由人の意 ) と自称。民族系統は地中海人しか話さない者が多いが、都市生活者はアラビ いる。黙示文学の一種で、ヘルマスという人物 フィカ ) ▽小池美佐子訳『眠れない時代』 種の一系統に属するといわれるが不明。言語的ア語やフランス語との二重または三重一 = ロ語使用がおそらく口ーマで二世紀の中ごろに書いたも ( 一九大・サンリオ ) にはアフロ・アジア語族に属し、方言群からザ者である。 〈私市正年〉の。本文は五つの「まばろし」、一二の「いまベルマン carl MichaeI BeIIman ( 一七四 0 ナータ系、マスムーダ系、サンハ ージャ系の三 しめ」、一〇の「たとえ」の三つの部分からな ー九五 ) スウェーデンの詩人。はで好みで、文 ヘルベルト Zbigniew Herbert ( 一九一一四ー ちょうぐう つに大別される。一部の儀礼的文字 ( ティフナ ) ポーランド戦後派を代表する詩人。ウクる。悔い改めの必要を説き、全体の基調は実践芸、芸能を愛したグスタフ三世の寵遇を得て、 グ ) 以外に固有の文字をもたない。 ライナのリポフに生まれる。ナチス占領中は国的、禁欲的。一時は「聖書」同様にも取り扱わ宮廷秘書の称号と年金を賜る。ストックホルム 彼らの遺跡は紀元前一万年以上も前の石器時内軍 (<) の一兵士として戦い、一九四八年れたが、二世紀の教会の一面をよく反映してい の酒場に入り浸り、酒と恋をモチーフに人生の 一 = ロ 〈菊地栄三〉 代までさかのばれる。歴史時代に入ってフェニ こ詩人としてデビューした。現代の思想的・道る。 哀歓を歌い、軽妙なバロディーを奏でた。彼の うた キア人、ギリシア人の植民、ローマ、 詩は楽の音にあわせて歌う唄で、一七六八年こ ハンダ徳的な問題を取り上げる内省的な叙情詩が多ヘルマン Johann WiIheIm Herrmann ビザンティンの支配を受けたが、それらは く、詩集として出版されたのは、五六年 ( 『光 ( 一会六 ーー九 llll) ドイツのプロテスタント神学ろからの作品を集めた詞華集『フレードマン書 つる 海岸部の諸都市に限られ、深い影響を残さなかの弦』 ) で、以後『ヘルメス、犬、星』 ( 一九五七 ) 者。一二月六日メルコウに生まれる。一八七九簡』に番号をつけて収められている。毎年七月 った。これに対し、紀元後七世紀から始まるアをはじめ自選詩集が七一、七三年に出された。年以後マールプルク大学教授。リッチュル学派二六日には「ベルマン祭」がストックホルムで 〈田中三千夫〉 ラ・フの侵入・征服は、その初期にベル・ヘル人のほかにフランス、イタリア旅行の美学的ェッセのもっとも独創的な神学者であり 、バルトやプ華やかに行われる。 〈吉上昭三〉 指導者クサイラやカーヒナらの抵抗を鎮圧するイ集などもある。 ルトマンの師である。カントに従って宗教を自ベルマン Jla3ap bepMaH/Lazar Berman しゅん・ヘっ ) ソ連のピアノ奏者。レニングラー と、ベルベル族をしだいにイスラム化、アラプペルボウラリスク FlePBoypaJlbCK/Per- 然の領域から峻別し、人間の倫理的矛盾を克 ( 一九 = 0 ー 化していった。ムラービト朝 ( 一 0 五六 ~ 二四七 ) 、 voural'sk ソ連、ロシア共和国中部、ウラル 服する独自の体験領域とみなす。キリスト教のド生まれ。モスクワ音楽院で学び、一九五六年 リーン朝 ( 二 史学的研究を重んじつつも、しかも史的な枠を ムワッヒド朝 ( 二き ~ 一一一六九 ) 、マ にある工業都市。人口一三万八〇〇〇 ( 一九会 ) 。 リスト国際コンクール第一位、五八年エリザベ 九六 ~ 一四六五 ) はイスラム化したベルベル族の王朝チュソバヤ川にシャイタンカ川が合流する地点超えて歴史的キリストが現在の人間に人格的感 ート国際コンクール第五位となる。国内および である。アラブ化の進行の要因は七世紀から始 一七三二年製鉄所が建設されたのが市の始銘を与え、救済体験を生じさせ、世界に対する自東欧で演奏活動ののち、七六年アメリカ演奏旅 まる征服活動、一一世紀のアラブ遊牧民であるまりである。第一次五か年計画時に鋼管工場が立的態度を成立させる点を強調する。一九一三 行で成功を収め、一躍西側でも注目された。七 ヒラール族とスライム族の侵入、一二世紀以後つくられ、第二次世界大戦後拡張された。その年一月二日マールプルクにて没。〈森田雄三郎〉七年 ( 昭和五一 l) 初来日。スケールの大きい達 者な技巧の持ち主で、とくにリストを得意にし のモロッコ南北へのアラブの移住、レコンキスほか、珪石れんが製造、鉱業用設備製造の工業へルマン Lillian Hellman ( 一九 0 五ー タの圧迫後、イ・ヘリア半島からのアラブ系住民がある。 〈中村泰三〉アメリカの女流劇作家。ニュー・オーリンズ生ている。 〈岩井宏之〉 まれ。「政治の季節」といわれる一九三〇年代へルマンス Willem Frederik Hermans の流入などの外的要因と、これらと並行して地ベルホャンスク Bepx0flHcK7Verho- に『子供の時間』でデビューした。南北戦争後 ( 一九一二ー ) オランダの小説家。第二次世界大 域社会内部で進むアラブとの混血およびアラビ yansk ソ連、ロシア共和国東部、ヤクート自 ア語・アラブ文化の浸透、一四世紀後半から顕治共和国にある小都市。人口約二〇〇〇 ( 一九 の混乱した南部の町で自我を主張して生きる女戦後、オランダ文学界の第一人者。大戦中詩人 著になるアラブ血統意識 ( シャリフィズム ) の六九 ) 。北緯六七度三三分にあり、一八八五年にを描いた『小狐たち』 ( 一九三九 ) 、第二次世界大戦として出発したが、小説に転じた。長編『アカ 高揚などの内的要因とが考えられる。こうした零下六七・八度 0 の気温が観測され、北半球の 間近のアメリカにおける、反ナチス地下運動の シャの涙』 ( 一九四九 ) は、大戦下のアムステルダ アラブ化の進行により、・ヘルベル族の居住地域寒極の一つといわれる。平均気温は一月零下四指導者、ドイツ人技師一家の苦悩を描いた『ラ ムと解放後一週間の。フリュッセルの悲惨な姿を は山岳地、砂漠、島などに偏在するようになっ 六・三度 0 、七月一五・一度 0 で、最高気温は インの監視』 ( 一九四一 ) 、夏の終わりのニュー・オ描いた秀作。戦後のオランダ文学の頂点ともい たが、反面ではモロッコのリーフ山地を舞台に 一九三七年の三四・六度 0 。一六三八年に冬営 ーリンズの避暑地で人生の秋を迎える中年の男われる長編『ダモクレスの暗室』 ( 一九五 0 も、 したアブド・アルカリームの反乱 ( 一九一一一 ~ 一一六 ) 、所として建設され、一九世紀後半から革命 ( 一九女と身寄りのない若い娘とを対照させた『秋の第二次大戦を舞台にし、その巧妙なコンポジシ アルジェリア独立戦争 ( 一九五四 ~ 六一 l) でのカビー 一七 ) に至るまで流刑地であった。現在はヤナ川 園』 ( 一九五一 ) など、社会のなかの個人を見つめョン、迫力あるストーリーは秀逸である。誌上 〈三上正利〉 ル人の戦いなどでは、その居住地の環境が生か右岸の河港都市。 たリアリズム演劇の秀作を発表し、劇評家賞を論争に長じ、多くの有名人と誌上で激しい論戦 された。しかし、二〇世紀に起こった・ヘル・ヘル ーーさんみやく Bep- 受賞。他方、スペイン戦争や第二次大戦を実地を展開した。ほかに中編の『バラノア』 ( 一九 ベルホャンスク山脈 に取材、五〇年代には国内のマッカーシー旋風吾 l) 、『三篇のメロドラマ』 ( 一九五七 ) などがある。 族の反乱は政策への不満を表明したもので、民 X0flHCKH1i Xpe6eT/Verhoyanskiy Hrebet 族意識に基づく自治や独立を目ざしたものでは ソ連、東シベリア北部、ヤクート自治共和国中と対決、六〇、七〇年代には市民権運動に参加フローニンゲン大学の地文学教授を退職、現在 ない。最近のアルジェリアのカビール地方での央部にある山脈。全長約一二〇〇キ。、最高点はするなど、自由と市民の権利のために活動し、 フランスに住み、その執筆活動は衰えを知らな 「ベルベルの春」事件 ( 一九〈 0 ) も同様であるが、標高二三八九。古生代ベルム紀から中生代ジ『未完の女』 ( 一九六九 ) 、『ジュリア』 ( 一九七一 l) 、『眠 〈ド・フローメン紀子〉 そこには一一 = ロ語、音楽、詩などのベルベル文化の がわ Helmand アフ ュラ紀にかけての砂岩、片岩、石灰岩、泥岩なれない時代』 ( 一九七六 ) 、『メイビー』 ( 一九含 ) などへルマンドⅡ ル′、せい 覚醒と復古への強い要求がみられる。最近までどからなり、斜面は砕屑土で山岳ツンドラを呈の自伝で、自己を歴史と社会とのかかわりのなガニスタン南西部を流れる同国最長の川。同国 慣習法、民主的評議会、部族同盟が存在したする。南極大陸を除くと世界でもっとも寒冷な かで鋭く洞察した。↓子供の時間〈小池美佐子〉中央部、カープルの西方八〇キ。、ヒンドウー けいせき さいせつ こぎつね