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検索対象: 日本大百科全書 21
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1. 日本大百科全書 21

おおとりけいすけ 全域に波及するのは、蝦夷地内に縛り付けられたことに対す武揚の率いる旧幕府海軍が大鳥圭介らの旧幕府脱走軍ととも 玉やビーズ玉も入ってきた。続縄文文化の末、七世紀には北 ) 一りようかく に蝦夷地に上陸、箱館五稜郭で新政府軍と一戦を交えた戦 方系の海獣猟を中心としたオホーック文化が、オホーック海るアイヌの不満が底流にあったからである。 げんろく ちしま いである。榎本は投票で総裁に選ばれ、いわゆる榎本政権が 一商場に派遣できる船は夏船一隻に限られていたが、元禄 沿岸から千島列島などの流氷接岸地帯に広がった。金属器と ますなまこびき あきあじ ~ 一七 0 四 ) ころから、秋味 ( サケ ) 、鱒、海鼠引な樹立されたが、翌年五月には政府軍に敗れ降伏した。 ともに石器も多く、多様な骨角器を発達させた。遺跡では、年間 ( 一六犬 あ・はしり 箱館戦争後の一八六九年 ( 明治一 l) 七月、蝦夷地開拓を重 大規模な住居跡、墓地を伴う網走市モョロ貝塚が著名であど特定名目で船の派遣を許したので、蝦夷地内での漁業も活 だじようかん 視した政府はその専掌機関として太政官直属の開拓使を設 る。八世紀ころには、本州文化の強い影響のもとに最後の土発化し、点にすぎなかった商場も、漁業を行う場所を含めた 器文化である擦文文化が広がった。土師器との関連をうかが空間的な広がりをもつようになった。また、場所の経営を商置し、八月には蝦夷地は北海道と改称された。開拓使は、近 きようほう はけめ ~ 三六 ) には顕在世以来の場所請負制を開拓の阻害要因とみて廃止の方針を打 わせる刷毛目をもった擦文土器をもち、鉄器を使い、石器は人が請け負う場所請負制も享保年間 ( 一七一六 てんめい みられない。小 化し、天明年間 ( 一大一 ~ 兊 ) には和人地の鰊がほとんどとれち出し ( 天七六全廃 ) 、北海道の新たな政治的拠点となる札幌 規模ながら農耕も行われた。オホーック文化 ・、まちとり なくなり、和人漁民が蝦夷地に入漁する鰊「一取漁業が発達本府の建設に着手した。ただし、全道の開拓実施は困難なた と同じく、一二、一三世紀に終末を迎えた。 くなしりめなし わたりしま し始めた。一七八九年 ( 寛政一 ) の国後・目梨のアイヌの大め、札幌など重要地を開拓使の直轄とするほかは、本州の諸 一方、奈良・平安時代の北海道は、中央政府から渡島と よばれ、渡島の蝦夷は交易のため毛皮類をもって渡来した。蜂起と、翌年の和人地漁民の一揆は、場所請負人の横暴に対藩や華族・士族に開拓を委任する分領支配の方式がとられ た。が、こうした方式では全道の統一的な開拓が不可能とな 出羽国がこれを管轄し、私交易を禁じた。平安時代末になるする抵抗であった。 一方、一八世紀も後半になると、ロシア勢力の南下が顕在るため、七一年八月までに廃止され、開拓使の直轄となっ と、蝦夷ヶ島、蝦夷ケ千島とよばれるようになった。↓続縄 文文化↓擦文土器文化↓オホーック文化↓蝦夷地 化し、幕府も蝦夷地に目を向け始めた。天明年間の蝦夷地開た。この間、渡島半島西部の旧松前藩領は、六九年以後、館 あんどう おきつぐ ざせつ 〔中世〕鎌倉幕府は蝦夷島を重罪人の流刑地とし、津軽安東拓計画は田沼意次の失脚で挫折したが、一七九二年ロシア使藩、館県と改称され、七一年には青森県の管轄下にあった からふと あぶた ねむろ かんれい ( 安藤 ) 氏を蝦夷管領に任じこれを統轄させた。鎌倉時代の節ラクスマンが根室に、九六年英船プロビデンス号が虻田沖が、翌年開拓使に移管された。また、当初開拓使管下の樺太 あげち ひもとから第一わたりとう には、ロシアとの外交関係の緊迫化により、七〇年樺太開拓 来航したため、九九年幕府は東蝦夷地を仮上知し蝦夷地の 蝦夷島には日の本、唐古、渡党の三類が住み、渡党は交易に ぶぎよう 、二〇隻に及ぶ関東御経営に着手した。一八〇二年 ( 享和一 l) には蝦夷地奉行 ( の使が置かれたが、翌年ふたたび北海道開拓使に併合されてい のために津軽外ケ浜に渡来したといい きょたか はこだて 免津軽船が蝦夷島の産物を積んで日本海を航行した。安東氏ち箱館奉行 ) を置き、永上知に改めた。さらに一八〇七年る。七〇年五月、開拓次官に就任した黒田清隆 ( 天七四開拓長 みなと せん ( 文化四 ) には松前・西蝦夷地も召し上げ、翌年奉行所を箱官 ) は、同年一〇月、樺太の放棄と西洋技術の導入を骨子と の本拠のあった十三湊は室町時代に至るまで夷船、京船でに ぎわった。交易活動の活発化に伴い、一三世紀には擦文文化館から松前に移し、松前奉行と改称した。しかし、ロシアのする北海道開拓に関する建議を行った。これにより、七二年 八二一一からの一〇年間に総額一〇〇〇万円の経費を北海道の開拓事 脅威が薄れ、蝦夷地経営も思わしくなかったため、一 が終わりを告げ、近世アイヌ的文化の形成が始まった。 おしま 年 ( 文政五 ) からふたたび松前藩が松前・蝦夷地の経営にあ業に投下するという開拓使一〇年計画が発足することとなっ 室町時代中期になると、渡島半島南部には安東氏配下の小 たてめし た。まず開拓使顧問としてアメリカの農務省長官を務めたホ 豪族である館主が割拠していたが、安東氏の弱体化により一たった。 ーレス・ケプロンが招かれ、アメリカ人を中心とする多数の 一八五四年 ( 安政一 ) 日米和親条約に伴う箱館開港に備 四五六年 ( 康正一 l) コシャマインの蜂起に始まるアイヌ民族 を巻き込んだ長い戦乱に突入した。この戦乱のなかで、アイえ、幕府はふたたび箱館付近を上知して箱館奉行を置き、翌お雇い外国人が来道した。彼らの指導の下に、開拓使は、道 えさし もく」く とりで ヌ民族は木柵と空堀で囲まれた砦であるチャシを築き、ま五五年には松前・江差方面を除く松前・蝦夷地を直轄した。内の地下資源調査、道路建設、河川や港湾の整備、幌内鉄道 一八五九年には警衛にあたっていた六藩に蝦夷地を分与しの建設など開拓の基礎事業に着手した。さらに、士族集団を た、いくつものコタンを統率する首長層も現れた。↓コシャ とんでんへい マインの戦い た。また、幕府は和人の蝦夷地永住を許すなど内陸部の開拓中心とする移民の招来、屯田兵制度の実施、札幌農学校の創 八六一年 ( 文久一 ) には山越内関所を撤設などが行われ、これらの事業に支出された経費は、当初額 〔近世〕一五一四年 ( 永正一一 ) 上ノ国の蠣崎氏 ( 後の松前を積極的に進め、一 氏 ) が館主を統一し、徳山 ( 松前町 ) に新城を築き、一五五廃し、和人地と蝦夷地の往来を自由にした。ここに蝦夷地はの二倍以上の二〇八二万円余に達している。一〇年計画終了 直前の八一年には、「明治十四年の政変」の発火点となる開 一年 ( 天文二〇 ) には東西のアイヌと講和し、対アイヌ交易その存立の意義を失うに至った。↓シャクシャインの戦い とよとみ ↓場所請負制 〈小林真人〉拓使官有物払下げ事件が起こり、払下げ計画は中止された。 を城下で行う体制を確立した。一五九三年 ( 文禄一 D に豊臣 はこだて 秀吉から朱印状を、一六〇四年 ( 慶長九 ) には徳川家康から〔近代〕維新変革により成立した明治政府は、幕領下の蝦夷翌八二年二月、開拓使は廃止され、札幌、函館、根室の三県 対アイヌ交易の独占を認める黒印状を得、近世松前藩が成立地を支配した箱館奉行所にかわり、一八六八年 ( 慶応四 ) 四が設置された。八三年一月には、従来の官営諸事業を総括す うるう かんえい した。寛永年間 ( 一六一一四 ~ 四四 ) のころには藩領域を明確にする月に箱館裁判所を設置した。同閏四月、裁判所は箱館府と改る農商務省北海道事業管理局も設置された。しかし、この三 必要から、蝦夷島を和人地 ( 松前地 ) と蝦夷地に分け、城下称されたが、これらはいずれも地方行政機関でありながら、県一局体制は行政の不統一や開拓の進展を阻害する結果とな か交易を廃止して蝦夷地内にアイヌと交易する商場を設け、こ同時に蝦夷地開拓という国家的事業を兼務するという変則的り、八六年一月には三県を廃止、新たに北海道庁が設置され みちとし た。初代長官岩村通俊は従来の移民政策に顕著な直接保護を つれを上級家臣に分与した。商場知行Ⅱ商場交易制の成立であな機構であった。そのうえ、同年一〇月からの箱館戦争の影 えのもと ~ る。一六六九年 ( 寛文九 ) のシャクシャインの蜂起が蝦夷地響もあり、開拓はほとんど進まなかった。箱館戦争は、榎本廃止し、行政の簡素化や官営事業の払下げ、殖民地選定事業 5 かみ ほうき かきギ、き いっき にしん やまこしない たけあき せんてい ほろない たて

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ほっかい ー不ー田ロ 田 - いガ田告町・」 臼頃滝竜万冠部臼追尻富部岸甲 里頓別辺文麻 斜中愑留礼当更羅豊白雨長新茅糶鹿利豊乙厚斜 庁庁庁庁庁庁庁庁庁庁庁庁市庁庁庁庁庁庁庁庁庁 支支支支支支市支市支支支支支牧支市支支支支支支支支市市 走谷走走谷川広勝室室勝走知島小高広島室勝谷谷山路路張広 網宗網網宗上帯十根根十網空渡苫日帯渡根十宗宗槍釧釧タ帯 地地理岩 落落物地地植 息生節地武 群群植生殖生 生自状息玄 自繁野 マラ柱生粒 構 「 / ッ野ギバ鳥浜 の コク岩ナ粗 セ落ツのヤ ジ ロザ林山プン頭場 ウ 顆帯華丘 セ物群 キ帯ウカ島ケッ ョ ロ マ丘安ヒュ露農 ョ手・ . リコー「 ラ念原アサ一 球原灰頂林 ク ワ林泉シシ砂ののシ大学 岩湿石 シリ欠オチ岸岬沼コ理炭大 紋層の岩山 ダ記草洞沼ム同ケのカト ルシフ ラシトワシマンイヤ天宀を , 全工桃乳を原モヒ岸落流高泉熔火力ク間のの海の潭ン節石産主 ゲワフロワシガクンチ定海別冫 ー場島鍾聯湿いの海群の沼温山泥ののの測島内鮪床、状の畜坊 ー尻咲部岸シ柱張広勝 レ日津物滝竜股前冠正部臼 称マヌラジオゾクシガメ指里頓卅根文麻闢別 名クイカオオエコヒマヒ道斜中佐温礼当札更羅大自雨二樽新大茅羅然利稚乙厚オタ帯 の の長町 コ セ 京 東新し 庁定町す ——匕日 田 . いカ田 - 屈川町 田 . 田 - しイーー 部町内 田 ' 支指町安斛 高満前津幌す 似子岸茶 寒島似暼川勝す岸知区差中沢前松幌 様弟厚標日女松標羽め 阿広様壮上十め厚倶 , 央区江浜厚松黒 庁庁庁庁庁庁庁庁庁定 庁庁庁庁庁 , 定庁庁町中南庁庁庁庁庁庁 地支支支支支町を支支別市市支支市支支支市支市市支支支支町支支支市支支を 在路狩高振川瑛域路志茂幌幌山路別山島志路萌寄〃室〃高骼骼路高走島笠室萌域 釧登檜渡後釧留名根日釼釧釧釧日網渡三根留地 釧石日胆上美地釧後喜札札 地 帯 生 オ 地 自地 ア落限地 落帯 物 ジ地生 北殖 - 世市 群物 び群 カ物 落化 ッ生発 よ物生繁地地 物植 ヒン念 本君ウ ツ・目、、、地 お植自リ限息地 植山 ウネモ 始物 ィッゼ殖 の・ ~ 〕回 ロ地成ッド 生殖 然念モ植 原植 ョカウ * 山 * 島の ナ生形マキ生ナ繁僧カマン繁 天 流生サ然チタョ サウミ島 ウ蠣山林林ス自炭林ウナ自プ鳥 然マ林高 * ョ牡蹄始始アッ泥始ョズナヒ海石師石のヨン海原源湿島カ原自大キッヒ 天の始岳山 * 道 ー別小ミ湿の道ハセヒ 定湖原イ新山チ湖羊原原キマ布原ゴミプ島鈴高車岬ゴミ島湿 別川オ才採売寄寄室石満琴黒路流満前ゾ津尻海スイサ 海称指寒幌ボ和雪ン岸方山岩ノド多 沙女松工標焼北ウダア 北名国阿野ア昭大タ厚後円藻ヒ霧登鶉オ歌春天名名根落幌和大釧 せんてい を遂げ、そのなかからいわゆるアイヌ文化が形成されてきた〔先史・古代〕現在のところもっとも古い先土器時代の遺跡平底、南西部は尖底であった。約六〇〇〇年前から土器の大 ちとせしゆくばいさん はくへん は、剥片を利用した石器をもっ約二万年前の千歳市祝梅一一一型化が始まり、尖底土器が姿を消し、やがて南西部では東北 こと、②こうしたアイヌ民族の居住する蝦夷地に、一二世紀 かくやま かみしほろしまき ごろから和人 ( 中近世に本州から移住した日本人のこと ) が角山遺跡、上士幌町嶋木遺跡などである。やがて石刃技法で地方を本拠とする円筒式土器をもっ文化が、北東部では北筒 渡来し始め、アイヌ民族と対抗しつつ道南地方に和人政権をつくられた石器が普及し、続いて湧別技法などによる細石刃式土器をもっ文化が発達した。縄文時代の最後である三〇〇 あきないばちぎよう 成立させ、それが商場知行制 ( のちに場所請負制へ移行 ) 文化の段階に達し、次に弓矢の使用をうかがわせる石器が現〇 ~ 二〇〇〇年前には本州から渡ってきた亀ケ岡式土器が石 まつまえ 狩低地帯まで波及し、低地帯の北東側の土器にも影響を与え を経済的基盤とする近世の松前藩に発展すること、③維新れて終末期を迎えた。 やよい 土器が出現し、明確に縄文時代を迎えるのは約八〇〇〇年た。紀元前後には弥生文化が北日本に波及したが、北海道で 後、明治政府はこの地を北海道と改称し、日本資本主義の内 は依然として狩猟漁労の生活が続き、縄文土器の系統を継ぐ 国植民地として位置づけ、囚人や土工、一般移民を投入して前である。石狩低地帯を境に東北地方からの影響を強く受け その開拓を意図したこと、である。それは、北海道が内国植る南西部と、北海道的伝統をもっ北東部では、その文化に差土器が使用された。それでこの文化を続縄文文化とよんでい 〈桑原真人〉異がみられた。初期には貝殻文土器が広く分布し、北東部はる。弥生文化の影響を受けてわずかに金属器が使用され、管 民地から「内地」化する過程でもあった。 念 きロ 所在地 地域を定めす指定したもの ゅうべっ ュ 〔上〕根室車石 ( 根室市 ) 〔左〕タンチョウ 工ソシマフクロウ かめおか ヒシクイ ウスパキチョウ アサヒヒョウモン 548

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ち一てザポンの砂糖漬けをつく 0 たのは鹿児島市の岩石侵食面からなり、中心部付近にはプラヤ筋に沿う道路とともに、古来重要な交通・ 村 playa とよばれる平坦な凹地があるが、ソル運輸の動脈として知られている。③の曲降 ロ ん文旦堂初代坂之上次助で、一八六九年 ( 明治 ケ (l) のことである。ザポンの外皮をはぎ、中皮ト・パン salt pan とよばれる塩分の多い平坦盆地の大規模な実例としては、アフリカの 県 コンゴ、チャド、カラハリなどの諸盆地が を糖液で煮る作業は、仕上がりまでに三週間を地のこともある。モンゴルのゴビ砂漠 ( 岩石砂 コ ス 〈沢史生〉漠分布地 ) には、風食で形成されたパン・キャある。また、日本の関東平野を含む関東構 要する。 ク , 衣 ばんち basin 周囲をより高い標高ン pang Kiang とよばれる深さ一〇〇、直造盆地 ( 関東テクトニック盆地 ) の範囲人 盆地 ばうそ・つ ルの の地殻で囲まれた凹地。盆地には、さまざまの 径一〇キ。メートルに及ぶ盆地の存在が知られては、房総丘陵、三浦半島北部周縁部、関東 やみぞ ベオ イ いる。乾燥気候区には、普通深さ一程度、広山地東縁、足尾山地南縁、八溝山地南縁部 形態・規模・位置・成因をもったものがあり、 ョデ などを含んでいる。この盆地は、埼玉県加 盆地内の起伏の特色も異なっている。盆地とい さ数平方キロメートルに及ぶ凹地があり、これは ンイ 須市、茨城県南西部付近を中心とした造盆 えば、普通、陸上にあるものをさしている。しデフレーション・ホロー deflation hollow と ボの かし海底のさまざまの深度にあり、形態も異な よばれている。この地形の大規模なものは、南地運動 ( ネオ・テクトニック運動 ) で形成 の形として誤り伝えられ、服形をさすようにな る凹地は海底盆地 ( 海盆 ) とよばれている。陸アフリカでパンとよばれ、凹地の広さが数百平された凹地状地形である。この盆地の周縁に がんせったいせき 地から運搬される岩屑が堆積される陸棚付近の方から三〇〇平方キロメートル、深さ七 ~ 一〇は、古い段丘面である多摩面相当の地形面が分ったといわれる。中央の穴に頭を出して外衣と 凹地を、堆積盆地とよぶことがある。また陸棚 に及ぶものもある。この凹地も侵食盆地の一布し、盆地の中心部に向かって順次、新期のして着用したり、そのまま毛布として用いたり むさしの たちかわ から深海底に至る間にある凹地に地名を付し種といえよう。③の型としては、ポリエ polje 武蔵野面、立川面相当の段丘面が分布しているする。現在では世界的に、防寒用外衣、レインコ 〈有井琢磨〉 ことが明らかにされている。 ートなどとして親しまれている。〈深井晃子〉 とよばれるカルスト凹地がある。この地形は、 て、海盆とよぶこともある。日本列島付近の日 ばんちょう ( ? ー一七一四 ) 江戸中期の 本海盆や四国海盆、および北西太平洋海盆、 石灰岩が広く分布しているユーゴスラビアが模ポンチ punch ①けがき工具の一種。工具凡 むつま寺一 かせい 鋼でできた丸棒または多角形の棒の一端を鋭く 俳人。野沢氏。名は允昌。俳号は初め加生、晩 アメリカ海盆、中央インド洋海盆などはその例式地とされている。ポリエは石灰岩地域の人間 研いだもの。目打ちは、穴の中心や、けがき線年は阿圭とも称した。金沢の人で、京に出て医 である。これらの海盆の形成と形態は、大規模の居住地として重要な場合が多い。 しようふうま、 の交点に小さい点を打つのに使われ、目打ち点 を業としたが、 やがて蕉風俳諧し、 こ近づき、一 に地殻運動によるものこれに属する盆地はテ の地殻運動によって制約され、陸棚付近の堆積 おうみ 六九〇年 ( 元禄三 ) から翌年にかけて、近江・ 盆地は、堆積層の荷重による影響を受けて形成クトニック盆地とよばれ、①断層盆地、②褶曲を大きくするのに心立ちポンチが使われる。 ばしよう けがき 京方面に滞在していた芭蕉から親しく指導を受 の向斜部にある盆地、③曲降運動で形成された されるものと考えられている。日本海やフィリ さるみの へんさん 雌型に対する雄型。板金加工で板素材を曲げ け、去来とともに『猿蓑』 ( 一六九 I) の編纂にあ ピン海などのような、島弧と大陸の間の縁海付盆地 ( 曲降盆地 ) などがある。①の断層盆地に たるなど、一躍蕉門の代表的作家の地位を獲得 近には大小さまざまの海盆がある。それらの形は地溝盆地と傾動盆地 ( 断層角盆地 ) とがあるのに上型、下型あるいはポンチとダイスによ した。しかし、その後まもなく芭蕉から遠ざか る。地溝盆地は、盆地の両側またはその周囲がる型曲げが行われるが、この場合、 ( 日 成年代は、前記の諸大海盆のそれよりもはるか り、また事に座して投獄されたりしたため、作 に新しいことが推定されている。縁海付近の海断層変位で、相対的に高まって生じた凹地であ本工業規格 ) では雄型をさしてポンチと名づけ 〈志村宗昭〉風はまったく生彩を失うようになり、とくに晩 盆の規模は、深海の大海盆のそれに劣る。しかる。日本の中部地方の山間にある諸盆地は地溝ている。↓ダイス し島弧上にある盆地よりは大きい傾向がある。 性の盆地である。傾動盆地は、その一方側が断盆地霧ばんちぎり盆地にできる霧。放射年は零落した生活を送ったらしい。『猿蓑』時 のうび 〔成因〕陸上にある盆地は、形成されたおもな層崖で限られた凹地である。濃尾平野や京都府霧、蒸気霧である。周辺の山地斜面が放射冷却代の俳風は、具象性、叙景性に優れ、感覚的で かめおか し、それに接する空気も冷却して重くなり、流 印象鮮明な句にみるべきものがあった。俳人羽 営カ ( 作用 ) によって、①侵食により形成されの亀岡盆地、長野県の善光寺平 ( 長野盆地 ) な ・一う 〈堀切実〉 どはその例である。広域的傾動盆地と地溝盆地れ落ちて盆地にたまるので、平地の場合よりも紅は彼の妻である。 たもの、盟地殻運動により形成されたものとに かんなづき 群は、アメリカ合衆国西部のべースンアンドレ放射霧はできやすい。甲府や山形でよくみら 禅寺の松の落葉や神無月 分類できる。 インジ地形区 ( ネバダ州の大部分、一一ユー ・メれ、蒸気霧 ( 川霧 ) も混じっていることが多回井本農一著『野沢凡兆』 ( 『俳句講座 2 』所 1 侵食によるもの侵食盆地には、①湿潤気候 ↓霧 〈大田正次〉 収・一九五九・明治書院 ) ▽中島斌雄著『同門 環境下の侵食作用で形成されたもの、②乾燥気キシコ、アリゾナ、カリフォルニア、オレゴ こ Lake Pont- 評判圓凡兆』 (r 芭蕉の本 3 』所収・一九七 0 候環境下の風食作用で形成されたもの、③石灰 ン、アイダホ、ユタ諸州にまたがる ) に発達しポンチャトレーン胡 chartrain アメリカ合衆国、ルイジアナ州に 角川書店 ) ▽堀切実著『凡兆論の試み』 岩地域のカルスト作用 ( 水による石灰岩の溶解ている。これらの盆地群は、南北走向をもつも のが多い。オーストリアアルプスを構成してい ある湖。長さ約七〇キ。、幅約四〇キロ、深さ平均 ( 『芭蕉・蕪村・一茶』所収・一九大・雄山閣出 作用 ) で形成されたものなどが含まれる。①の しゅうきよく 版 ) 型のものとして、ドーム状構造または褶曲背るポヘミア山地、カルク高アルプス山脈、低タ五。ニュー・オーリンズのすぐ北に位置し、 ウエルン山脈の間には傾動盆地が発達してい 斜部における侵食作用で形成された盆地、およ ミシシッピ川、メキシコ湾にそれそれ連結して本朝画史ほんちょうがし江戸前期に著され び褶曲向斜部に残留した盆地などがある。これる。②の褶曲構造の向斜部にある盆地の実例と いる。周囲にはレクリエーション地が点在すたわが国最初の本格的画論・画史書。全六冊。 かのうさんせつ えいのう らの地形はアバラチア山脈、ロッキー山脈、アして、バリ盆地をあげることができる。この盆る。 〈永井信夫〉狩野山雪の遺稿をもとに、その子永納 ( 一六三四ー どうゆう 元来は、南アメリ 一七 00 ) が黒川道祐の援助を得て、増補を加えて ルプス山脈などに発達している。②の型のもの地の東方には、中生界の地層からなって西側にポンチョ poncho 只 としては、アメリカ南西部やメキシコ西部の内背面を向けるナンシー 、ベルダンなどおおよそ力、アンデス山地の原住民が着用していた外完成させた。初めに画原、画官、画考、画運、 陸にあるポルソン bolson とよばれる凹地 ( 乾四つのケスタ cuesta 地形があり、それらの最衣。布の中央に頭の通る穴をあけた貫頭衣で、 画式、画題について概説し、次に四〇五人に及 燥盆地 ) がある。この盆地に流れ込む河川は、西端の斜層上にパリ盆地がある。オアーズ川 衣服の基本形の一つ。本来は、麻とラマの毛でぶ古代から当代に至る画家の小伝を記し、最後 に諸家の印影を集めた「本朝画印」を付す。一 末無川となっている場合が多い。この盆地の周マルヌ川、セーヌ川、ロアール川などはバリ盆織った鮮明な色彩の織物の名称であったが、ス はやしがはう ペイン人によって、この布で仕立てられた衣服 縁部は、ペデイメント pediment とよばれる地側に向かって求心的に流れ下り、これらの川 六七八年 ( 延宝六 ) の林鵞峰の序文を載せ、九 すえなし 768

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いわれる。日本海西側の寒流系は、リマン海増す利点もある。また、草丈の高いもの ( 上繁②テッダー・レーキ ( 牧草の反転乾燥促進と草人』 ( 一大七 ) などを書く一方、ポルテール、ル ソー、デイドロなどの作品を翻訳した。代表作 流、沿海州海流、北鮮寒流よりなるが、あまり草 ) と低いもの ( 下繁草 ) を混播すると、土地集めに兼用できる機械 ) 。③ペーラー ( ヘーベ ーラーといわれて乾草梱包用に開発・利用され『ドウーシェンカ』はラ・フォンテーヌの『プ 明瞭なものではなく、既暖流の反流、補流の利用度が高くなり合理的である。牧草は傾斜 と考えられている。 〈半澤正男〉地や果樹園に下草などとして栽培されることが たが、雨の多い日本では高水分の草を梱包して シケとキュピドン』に想を得たもので、当時ロ ほくそう 0 宋 多く、土壌保全の役割も担っている。世界の永サイレージにする技術にも使われる。梱包の形シアで流行していた物語詩というジャンルの代 表作でもあって、その後約半世紀にわたって広 牧草ばくそう家畜の飼料として栽培され年採草および牧草地の面積は三一億く耕地には角と円筒状のものがあり、大きさには八キ ている飼料作物のうち、比較的小形で群としておよび樹園地一四億タよりはるかに広い。しグラムから八〇〇キ。グラムまでの幅がある ) 。 く読まれ、大きな影響を与えた。〈藤家壮一〉 草地栽培されるものをいう。ィネ科、マメ科に ④フォレージハ かし、日本では九五万タで、耕地五五一万タ ー・ヘスター ( 牧草を刈り取りまホグダーノフ AJ1eKcaHAp A. neKcaHApo ・ 属する草本植物が多い。牧草は、遊牧時代からの約五分の一しかない。 〈西田恂子・星川清親〉たは拾い上げ、細かく切断して運搬車に吹き上 BHq bornaHOBZAleksandr AIeksandrovi ・ どうちてい げる機械。トウモロコシやソルガムなどの大き ー一九一一 0 ソ連の革命家、 よく繁茂し、家畜の好みに適することが知られ穆宀不ばくそう 0 同治帝 ch Bogdanov ( 天七三 ばくそうようきかい牧草地の更な飼料作物専用の機械はコーンハーベスターと文芸理論家。本名マリノフスキー MaJlHHOB ・ ていた野草を改良したものが多く、ウシ、ウ牧草用機械 。、リコフ大学医学部卒 マ、ヒッジなどの草食家畜にとってもっともた新、種播きから、牧草を刈り取り調製して、収よんでいる ) 。⑤運搬用機械 ( 普通の運搬車の cKHü/MaIinovskiy ノ いせつな飼料である。 業。一九〇五年革命前からの古参ポリシェビ 納舎やサイロなどに収納するまでの間に使われフォレージワゴン forage wagon のほかに、 牧草は、生存年限からは一年草と多年草とに る機械の総称。牧草収穫用機械の種類は非常に コンべャーやエレベーターの荷降ろし装置付きキ。その著『経験一元論』 ( 一九 0 四 ~ 0 六 ) はレー 分けられる。一年草は水田裏作などに、多年草多い。これらの機械は古くから使われ、一八〇のもの、拾い上げ切断装置付きのローディングニンの『唯物論と経験批判論』で批判される。 のうち短年草は短期の輪作に、永年草は草地に 〇年代の後期には鎌を中心とした人力作業にか ワゴン self loading wagon などがある ) 。⑥ルナチャルスキー、ゴーリキーらとカプリの党 用いられる。また牧草は、生育の形からは、直わって畜力を利用した草刈り機 ( モーア ) が現牧草乾燥機。干し草圧縮成型機 hay-wafer な学校に参加、独自の組織論に基づく未来社会論 ほふく 〈松山龍男〉を展開した。十月革命後は「プロレトクリト」 立して草丈の高い立型と、地面を低くはう匍匐れた。ついで、刈った草を反転乾燥させるヘー ほくたいが / ペイタイホー中国、河北 の理論的指導者となり、党、国家の統制外にプ 型に分けられる。立型は刈り取りに適し、匍匐テッダー hay tedder 、乾いた草を列状に集め北戴可 しん - うとう 型は家畜の踏みつけにも耐えるので放牧地に適るヘーレーキ hay rake 、運搬車に積み上げる省北東端、秦皇島市の海岸にある保養地。海洋ロレタリア文化運動を発展させようとして、ふ する。すなわち、利用法の面からみれば、立型ヘーローダー hay loader が使われた。これ性気候をもっため盛夏にも日平均気温が二三度たたびレーニンと対立した。ただし芸術遺産を は乾草・サイレージ用の刈り取り型で、匍匐型らは長い草のばら積みであるが、ヘープレス O 前後と涼しく、美しい海岸風景とあわせて、無視したなどの批判はあたらない。小説 ベキン は耕地・山地用の放牧型ということになる。牧 hay press 、ヘーベーラー hay baler の出現大陸的酷暑の北京からの格好の避暑地となって『赤い星』 ( 一九 00 、『技師メンニ』 (一九 lll) の著 しん こんばう 草はさらに、発生地にしたがった生態型として により干し草を長方形に圧縮梱包することがで いる。清末に秦皇島が開港されると外国人の保者としても知られ、とくに前者は原子力ロケッ は、寒冷地に適する耐寒性の強い寒地型と、夏きるようになり、作業がいっそう能率化され養地となり、各国の西洋風の別荘が建ち並び特ト、オートメーションの応用される末来社会図 の高温や乾燥に強く暖地に適する暖地型に区分た。一九〇〇年代に入るとトラクター利用にか異な景観を呈した。清皇室も正式に避暑地と定を描いている。一一六年モスクワに血液交換研究 される。 わり、牧草用機械も牽引式からトラクターへのめ、上流階層の中国人も住むようになった。解所を創設し、自身が人体実験の犠牲となって死 〈江川卓〉 寒地型牧草はイネ科のオーチャードグラス、 直装式に移行した。 放後は公園や療養施設が設けられ人民の保養地去した。 イタリアンライグラス、マメ科のアカクロー 〈秋山元秀〉 ほくだん ( ちょう ) 兵庫県淡路島北 第二次世界大戦後は他の農業機械の進歩ととへと性格を変えた。↓秦皇島 北淡 ( 町 ) シロクロー バーなどで、暖地型にはイネ科 木の舌のある金属製の大き西部、津名郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 富 もに牧草用機械の改良・開発も著しく進み、と木鐸 むろっ くにフォレージ、 のローズグラス、バヒアグラス、マメ科のスイ ベスター forage harves- な鈴。古代中国では、政令を布告する際、この島町と育湊、仁井、野島、浅野、室津の五村が あかし ートクロー バーなどがある。牧草地や採草地に ter の出現が省力的なサイレージ生産を可能に木鐸を鳴らして人民を市や村の辻などに集め、 合併して成立。富島港から明石港への定期船 はちいっへん は永年草のチモシー、オーチャードグラス、アした。 説明をする習わしがあった。『論語』「八价篇」が運航する。淡路島のなかで弥生遺跡の多い地 もっ ルファルフア、シロクロー ハーが、畑作には一 牧草収穫用機械 ( 生草給与作業にも使う ) を に「天下これ道なきや久し。天まさに夫子を以域として注目される。富島、室津などの漁港を 年草のイタリアンライグラス、・ヘッチ類が適大別すると、干し草調製用とサイレージ調製用て木鐸となさんとするごとし」などとあるよう中心に水産業が盛んで、ノリ養殖地としても重 し、アカクロー ーのような短年草はそのいすに分けられる。共通に使われるものもある。 に、これから転じて、世論を喚起し、民衆を教要である。津名丘陵地を利用してジャガイモの れにも適する。乾草・サイレージ用にはオーチ 作業機を動かす動力はトラクターから取り出え導く人物をなそらえることばとなった。な栽培が行われ、カキ、ブドウの生産も多い。人 〈吉田茂樹〉 ャードグラスのような立型が、放牧地にはレッ 口一万一九八九。 すものが多いが、エンジンを自ら積載した自走お、舌も金属製のものは金鐸といって、軍事に かりや ドトップ、シロクロー ーのような匍匐型がよ式のものもある。今後は作業機の自走化が注目 関する件の布告に用いられた。 〈田所義行〉二万五千分の一地形図「明石」「仮屋」「志筑」 く、またアルファルフアのようにどちらにも適される。機械の大きさは種類によって違うが、ホグダノービチ H11110JIHT (t)é 0 を B 一主牧玄田文化ばくちくぶんか牧畜は、群居性を する中間型もある。 肩掛けや歩行用の小さいものから二〇〇馬力以 bornaHOBuq/Ippolit Fyodorovich Bogda ・有する有蹄類を群れとして管理し、搾乳によっ はんすう ィネ科牧草は繊維が多く、反芻胃家畜の粗飼上もある乗用大型まで各種のものがある。最近 novich ( 一七四四ー天 0 三 ) ロシアの詩人。ウクて得る乳、毛や皮、肉などの産物に基盤を置く 料として不可欠である。マメ科牧草はタンバクの収穫用機械のおもなものは次のとおりであライナの貴族の家に生まれ、モスクワ大学に学生活様式である。伝統的な生活様式としての牧 こんばん る。 2 、質や無機質に富む。普通は両者を混播栽培し、 ぶ。ヘラスコフの指導のもとに文学活動を始畜は、ユーラシア大陸からアフリカ大陸にかけ ち収穫もいっしょに行う。混播するとマメ科植物 ①モーア。モーアコンディショナー (mower ・ め、物語詩『二重の幸せ』 ( 一七六五 ) 、叙情詩集て広くみられた。牧畜という生活様式が、い たて - ) と / 、の根粒による窒素供給などを通して共生関係を conditioner 刈り取り圧砕機。刈り取りと同『竪琴』 ( 一耄三 ) 、物語詩『ドウーシェンカ、自つ、どこで、どのような過程を経て人類史のな まもち、単播の場合よりも肥料が少なくて収量を時に牧草の茎葉を圧砕して乾きやすくする ) 。由詩による古き物語』 ( 一天三 ) 、戯曲『スラブかに登場してきたかは、 かならずしも明らかで 4 そう ゅうてい やよい しづき

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しんごん された所が多く、国有林経営が本格化する時期〇年 ( 弘仁一 ) 真一一 = 〔宗威光寺として開創。一三 2 、関係のある事柄である。なお、各科学特有の個囲の牧草のみを利用させる繋牧が行われること 一二年 ( 正和一 ) 日蓮の弟子印源が日蓮宗に改 からは林業に押されて奥山へ後退していった。 ま別的な方法についての議論を「小文字の方法もある。 特殊な方式としては、植林地の下刈り労力のそれでも、耕うん機が普及する一九六〇年 ( 昭宗して以来、威光山法明寺と寺号を改めた。本 , フ論」ということがある。たとえば、心理学や経 ま済学はこの小文字の方法論がいまなおよく行わ節減のため林内放牧したり、草種に対する選択和三五 ) 前後までは、北海道、東北の北上・阿堂から三〇〇ほど離れた地にある鬼子母神堂 くじゅうはんだ ぶくま 〈吉田夏彦〉採食性の差を利用して肉牛とヒッジとをいっし武隈山地、中国山地、九州の阿蘇・九住・飯田は一六六六年 ( 寛文六 ) の建立で、徳川家光よ れている分野である。 り御朱印を受けた。江戸時代以来、堂内に奉納 ほうほく ( ちょう ) 山口県北西部、よに放牧する混合放牧がある。暖地で冬期放牧など、農耕牛馬の供給地を中心に約三〇万診タ 豊北 ( 町 ) しらびよう くるそん 豊浦郡の町。南に名勝狗留孫山 ( 六一六 ) がそも可能な広大な牧野では年間通じて周年放牧がの放牧地が残されていた。今日の放牧地は、人されている絵馬のうち「大森彦七の図」「白拍 行われる。放牧地には牧柵、給水場、給塩場、工的に造成された草地と野草地とを組み合わせ子の図」は都重要文化財。また境内にある樹齢 びえるが、大部分は丘陵地で、日本海に臨む北 あま ひいん たもので、畜種は乳牛の育成牛、繁殖用肉牛が五〇〇年の大イチョウは古くから「子授けイチ 岸、西岸が入り江の多い沈水海岸となり、海士庇陰林などが必要である。↓放牧地〈西田恂子〉 いりめい しん つの ほうばくし中国、晋代の道教の士、主体である。管理主体も入会形態のものだけでヨウ」「子育てイチョウ」とよばれ、都天然記 ケ瀬一尸を隔てて玄武岩台地の角島が浮かぶ。一 抱朴子 たすきかみたまかんだ たきべ なく、市町村営、農協営など公共的なものが増念物に指定されている。一〇月一六日から一 ー三四三 ? ) の著書。彼の号を書名とし 九五五年 ( 昭和三〇 ) 滝部、田耕、神玉、神田、角葛洪 ( 天三 えしきまんとうねりくよう ないへん あがわあわの 日の鬼子母神会式に万燈練供養が行われる。付 た。現行の八巻本には内篇二〇巻に二〇章、外加し、電気牧柵、退避舎、給水・給塩施設など 島、阿川、粟野の七村と宇賀村の一部が合併し 近で売られている「すすきみみずく」は東京の て成立。山陰本線と国道一九一号、四三五号が篇五〇巻に五二章 ( 第四九巻は三章同巻 ) を載を備えた近代的な放牧地がみられるようになっ しまどうらひじゅう 〈田村晃祐〉 た。しかし従来の奥山放牧地を継承しているた民芸品の一つである。 通じる。沿岸には粟野、阿川、島戸浦、肥中、せる。内・外篇の内容を一六〇篇と記すものも りし画う ほうむかん 0 プラエトル 特牛、角島、矢玉など小漁村が分布し、刺網ゃあり、梁代以来その巻数は「もつれた糸のようめ、立地条件が悪く、管理費の高騰と相まって法務官 しこぜんしょ ほうむしよう国家行政組織法第三条 赤字経営が大半を占めるなど、問題も少なくな法務省 一本釣りが盛ん。内陸の丘陵地の間には滝部、である」 ( 『四庫全書総目提要』 ) といわれてい たんさ 〈宇佐美繁〉 一一項に基づき、法務省設置法によって設置され 田耕、北宇賀の小農村が散在し、養牛、養鶏農る。内篇は丹砂 ( 水銀との化合物 ) や動植 ひじゃ た行政機関。その沿革は次のようなものであ ほうばくりん大面積の放牧地では、 家が多い。土弗ケ遺跡 ( 国の史跡 ) からは物の薬、呼吸法、護符、避邪、鬼神の駆使、歴放牧林 時代の人骨二四〇体余を出土した。島のウ渡臓法 ( 身中の神々を想念する ) 、戒律などを示土壌の大規模な流出や風害などが発生しやする。一八七一年 ( 明治四 ) に設置された司法省 にその源を発し、一九四八年 ( 昭和二三 ) に占 く、それを防止するために放牧地やその周辺に して、仙人となる方法や仙人の種類を記す。道 来地、恩徳寺の結びイプキは国指定天然記念 物。人口一万六九〇三。↓角島〈三浦肇〉家思想を本 ( 先 ) とし儒家思想を末 ( 後 ) とす森林を造成することが多い。また放牧家畜を炎領軍当局の指示により、従前の法制局の事務を る。外篇は儒家を本として、政治、社会、処世暑や酷寒から守るため、日陰林や避難林が設け吸収するほか、公職追放者等の調査観察等に関 回『豊北町史』 ( 一九七一一・豊北町 ) たわらやま 二万五千分の一地形図「俵山」「阿川」「滝のことを説くほか、文学も論じており、その文られる。このような放牧地の維持管理や家畜のする事務、人権擁護に関する事務が新たにその ペんれいぶん 所掌に属することになり、法務総裁を長として 体は四六駢儷文発達史上注目されている。巻五保護を目的として設けられる森林を放牧林とい 部」「小串」「角島」 ばくやりん ほうばく家畜を草地に放し飼いにし〇の自叙は、葛洪の生涯や本書述作の動機、内う。牧野林とよばれることもある。〈飯田繁〉法務庁が発足した。その後、法務府を経て、五 放牧 ほうしのうぐん 二年の行政機構改革の際、大幅な整理の断行に ほうまく 0 胞子嚢群 て生草を自由に摂取させる飼育法をいう。十分容を伝えている。今日『抱朴子』といえば一般包膜 あわ より法制に関する事務を内閣に移管し ( 内閣法 運動でき、新鮮な外気と日光に接しうるので家に内篇をさす。彼は、後漢末の左慈ー従祖父ホウマッ 0 泡 だぎいふ かっげん ほうまんざん福岡県中部、太宰府市制局の設置 ) 、出入国の管理に関する事務を外 畜の健康にもよい。とくに子畜の育成には不可 ( いとこおじ ) の葛玄ー師の鄭隠へと伝わる道宝満山 かまど ちくしの くけっ 欠である。また直接生草が利用されるので養分術を正統とし、そのロ訣 ( 奥義の宗教的ロ授 ) と筑紫野市の境にある山。竈門山ともいう。古務省から吸収し ( 外務省の外局の入国管理庁を みか、こ さんぐん の損失がなく、多頭飼育の場合は労力の省力化を受けたものを明師とし、老子や荘子をはじめ代は御笠山と称された。三郡山地南部の山で標廃止 ) 、法務省として新発足した。法務省は、 ができるので有利な飼育法である。放牧の対象他の道流を排斥した。明師を選び修行すれば仙高八六九。おもに花崗岩からなり、山頂一帯検察、行刑、恩赦、更生保護、国の利害に関係 ひこさんくばて となるのは主として肉牛、乳牛、ウマ、ヒッ人になれる ( 神仙可学 ) と説く点に葛洪の貴族は岩壁となる。県内では英彦山、求菩提山と並のある訴訟、国籍・戸籍・登記および供託、人 しゅげんどう ジ、ヤギなどの草食家畜である。放牧シーズン出身の知識人らしさが示されている。一方、星ぶ修験道の霊場として栄え、盛時は僧坊三七〇権の擁護、出入国の管理・難民の認定 ( 一九八 二年一月一日施行 ) ・外国人の登録、破壊活動 は草生期間である春から秋にかけてが適期で、宿 ( 生星と死星 ) による宿命論を説いて神仙可余を有したが、現在は遺跡が残るのみである。 さんろく 防止法の規定による破壊的団体の規制に関する 普通はこの期間のみの季節放牧が行われる。放学説への批判をかわし、各種の養生法や道徳を山麓に六六四年 ( 天智天皇三 ) 創建されたとい 牧方式は多様で、放牧地を大きい一牧区のまま兼修と称して奨励しており、従来の道術が集大われる竈門神社、山頂に上宮がある。山頂から事項などの多岐にわたる行政事務を一体的に遂 ・ : つ物ルカく 行する責任を負う。組織としては、大臣官房の 放牧シーズン中継続利用する連続放牧、放牧地成されている。↓葛洪↓功過格〈宮沢正順〉の展望がよく、参道は九州自然歩道として多く をいくつかの小牧区に分けて順次変えて利用す回大淵忍爾著『道教史の研究』 ( 一九六四・岡山大の登山客でにぎわい太宰府県立自然公園に属すほか、民事、刑事、矯正、保護、訟務、人権擁 学共済会書籍部 ) ▽窪徳忠著『世界宗教叢る。山頂一帯はロック・クライミングの練習場護、入国管理の七局と大臣官房の司法法制調査 ることによって草地を一定期間休息させて草生 書 9 道教史』 ( 一九七七・山川出版社 ) ▽村上として知られる。太宰府天満宮から山頂まで徒部からなる内部部局、法制、民事行政、矯正保 回復を図る輪換放牧があり、後者は牧野を荒廃 〈石黒正紀〉護の各審議会および刑務所、拘置所、少年院等 歩約二時間 嘉実著『抱朴子』 ( 一九六七・明徳出版社 ) させない合理的な方法である。これをさらに集 からなる施設等機関、法務局、地方法務局等か 囮二万五千分の一地形図「太宰府」 ほうばくち牛馬を放し飼いにして飼 約化して一日または半日だけ放牧させる広さの放牧地 かいみよう らなる地方支分部局、公安調査庁、公安審査委 ほうみよう 0 戒名 小牧区を多数設けて、家畜が触れると電気ショ養する野草地。自給的農業の時代には採草地と法名 としま まくイ一く に員会等の外局、そして最高検察庁以下の検察組 ほうみようじ東京都豊島区南池袋 ックを与える電気牧柵を順次移動させて家畜集ともに牛馬の主要な飼養基盤で、村人の共同管法明寺 : ちれん 団を小牧区内に追い込んで囲み、採食跡地の再理の下に牧柵や土塁を築き、入牧期間、頭数をある印蓮宗の寺。威光山と号する。本尊は鬼子織によって編成されている。司法省は、司法行 おび 生草の二度食いを避ける帯状放牧という放牧法制限し、火入れを行って維持されてきた。しか母尊神 ( 寺では鬼子母と書く ) 。子供の守り神政全般をつかさどっていたが、現在は司法権の ぞうしゃ 十・いめ・ゅ - っ 、一独立の保障のもとで、法務省は裁判所に対して もある。少頭飼養では草地に留して一定範し一八〇〇年代末の官民区分で官没 ( 国有化 ) で、雑司ヶ谷の鬼子母神とよばれ名高いノ かっこう ~ く一く ていいん こちげん いえみつ

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ほっきよ 部が北極圏の北部を占めている。面積約二七〇 〇万平方キ。に及ぶが、陸地の面積は約一〇〇〇 万平方キ。で、海洋の面積に比べて著しく狭いの 〈市川正巳〉 が特徴である。 〔地形・地質〕北極地域の北極海周辺部の陸地 たてじよう は大部分は古い楯状地や卓状地が多く、主と ん ~ ・ごっ へんま して先カンプリア時代の片麻岩、花崗岩、結晶 片岩など、結晶質岩の地域が広く分布してい たいせぎ る。その上に古生層を堆積している地域も存在 する。山脈としては、グリーンランド東部 ( 北 極の最高点グンビエルン、三七 00 ) 、パフィン 、メい ) 、タイミ メし、エルズミア島 ( 一一九一六ト 島 ( 一一究一ト ル半島のビルランガ山 ( 二四六 ) などがあるに すぎない。大部分は標高四〇〇 ~ 七〇〇の止 陵地をなしている。 北極の地域は鉱産資源に富み、豊富な金鉱脈 が一八九七年にアラスカのクロンダイク ( 北緯 六四度 ) に発見され、その地は樹木の北限界の 北側にあった。カナダの北極圏にあるグレー ト・べア湖の湖岸にウラン鉱があり、第二次世 界大戦中の原子爆弾の原料となった。グレー ト・べア湖の北部には広範にわたり銅鉱が埋蔵 している。また、北極には、石炭、石油、銀、 プラチナ、錫および鉄などが埋蔵している。 〔極と地磁気〕北緯九〇度は地球の自転軸が地 表と交わる所で、地理学的極点としての北極点 であるが、このほか地球の磁場に関連した極が ある。すなわち、地磁気の分布からみて伏角が 九〇度となる地点を北磁極 ( 一九八〇年で北緯 七七・八度、西経一〇二度付近 ) という。ま た、地球の磁場を地球の中心に位置する磁気双 極子で近似した場合の極点は地磁気北極とよば 八八度、西経七 れる ( 一九八〇年で北緯七 〇・八度の付近となる ) 。なお北極地域でも、 上の ル山 以地ギ凍るべ氷 北緯八四度、西経一七〇度付近は、陸岸からも E 裸ルるのけ つる ッあ , 融 十ー ッ河もれ っとも遠く、到達至難極 ( または到達不能極 ) しスで区が ビ氷をわ 高とサ種治層スド端思 とされたが、南極地域と異なって現在ではほと 標々た一自表島ン先と 寒れのツは主ラたるんど取り上げられなくなった。 トっす 漠のさ紋ネ層の オーロラ ( 極光。北極のものは北極光 auro- 砂有成風ネ土島スが来 地特形る・凍諸ムと由 ra borealis とよぶことがある。南極のものは ルロ 極帯にれロも プた可 の地上さマで 南極光 aurora australis である ) は、地球外 ラ原成ャ夏ルたき氷 連ドる雪形 から降り注ぐ電子や陽子の粒子が、超高層大気 出て部 ソンがので連隊 ッ広ド下ソ査スりれ北 に衝突して発光する現象であるが、粒子は磁カ 島 , がン風 ( 調領せ崩 線に沿って入射するため、極地域で発現するこ ルく土ラ強島る一にがン ゲな形ンの半す工岸端ラ とが多い。地磁気緯度で六七度付近がもっとも ンは角一有ル査るウ海末ン ラ山多リ特マ精あルの河一 よくオーロラがみられる所であり、この統計的 ウ高にグ圏ヤをでノン氷リ ④の中⑤極⑥層け⑦ゲ⑧グ によくオーロラの出現する地磁気緯度六五 ~ 七 北極 ①太陽高度の低い地帯で見られるハロ ( 暈 ) 現象 ( 1980 年 1 月 6 日撮影。 5 枚の写真を合成 ) ②オーロラのうち , もっとも明るいカーテン状オーロラ。背の 高いカーテン状のひだの折れ曲がりは , 磁カ線に沿って上に延 びる ③タイミル半島のツンドラ地帯の湿地。蒸発量が少なくミズゴ ケ類 , アシ類を中心とした植物が生育し , 池塘とよばれる小凹 地が形成される

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0 まきえ しんちゅう 手で行われている。 りに錫、真鍮、アルマイトなども使われる。 上絵で おきめ 外銀文漆る 5 湖 ~ 時都 これら金属粉には、平安時代に考案された 〔技法〕蒔絵の下絵を置目というが、その工程 内に重黒 わ琶出京 やすりふん けしふんひらふんまるふん の地 て。琵研 , は、まず絵柄を墨で薄紙に写し取り、それを裏鑢粉のほか、消枌、平粉、丸粉、半丸粉、平 箱金 分し縦はな えうるし 部表る 目粉、梨地粉などがある。伝統的製法の鑢粉 返して絵漆 ( 漆に半量のべんがらを加熱して加 出る 4 のをれ代表流 、幅板大さ時 , 蓋はⅱ え漉したもの ) を含ませた根朱筆で輪郭線をな は、棒鑢でおろした粗粉を鉄棒を転がし圧延し 背洋ー 戸文 そる。この薄紙を器面に賺り、指頭やヘらでこてつくるが、近世以降は消粉と平枌が多用され 2 錆れ代のとは彫江館波問 いろうるし けしふんと はら時す子人 ( 透物年 すって絵柄を転写し、上から消粉か砥の枌を真ている。また金属粉のほかに彩漆を粉木化し 」どい山【椅蛮が作博る【保 かんしつ くな用桃の南ウ籤立れ」享 綿につけて摺り付け、文様を弉明に浮き出させた乾漆粉、朱、石黄、青漆粉、レーキ顔料や白 鳴坡が 式 , ゾ【政国さは みでに見京絵誠 色顔料末などが用いられ、切金を使うときは金 て下絵とする。 ぞ土法引 畳絵か , 塩東蒔政 と , 技部 代皮な が見 もっとも基本的な平蒔絵の技法でみると、まや銀を薄い延板にして漆を接着剤として貼る。 千やま、椅折平の箱 5 山塩 道具では一般の漆器製作用具のほか、蒔絵筆 八岩ざ望父 ず下絵に沿って漆で絵を描く。このとき漆を入 たの形硯良の師 ま絵寺せ銀阯菱絵 4 ヒ 上者絵 をでさ蒔光さと花高と作蒔れた小さな器にパラフィン紙をかぶせて塵埃をがもっとも重要である。用途に応じて各種あ つめばん 世し地 , 人瑞差金は山 5 舟 防ぐ。蒔絵師は左の親指に爪盤とよぶ水牛の角り、線描筆と地塗筆に大別される。線描筆には くるし 御い梨ど蛮交 , に良 ねずみ わきげ 力しな南都をり部。比ゅあ躍製の小さなパレット状のものをはめ、根朱筆を鼠の毛でつくった根朱筆、脇毛筆があり、地 うのけ , , 濃 ( 金④京脚塗上⑤横をで活 用いて爪盤で漆の調子を調えながら絵をなそる塗り用に卯毛筆、狐毛筆などがある。粉筒は粉 しゃ じがき ふんまき が、これを地書という。次に粉蒔に移るが、毛を蒔くのに用い、鳥の羽軸か竹筒に絹や紗を張 ふんばんふんちん ふんづっ 棒 ( 房 ) か粉筒で蒔絵粉を蒔くと漆の付着部分ったもの。そのほか腓毛、毛棒、粉盤、枌鎮、 ば、み のみに粉がつく。きれいに蒔絵が入ったところ置目べら、筆架、筆洗い、切金鋏、切金皿など ぶろ ふんかた 〈郷家忠臣〉 で粉固めをするが、高めの温度の乾燥風呂に入がある。↓漆器 すりうるし れて乾かしてから擦漆を施し、乾燥させたの回岡田譲著『日本の美術肪日本の漆工』 ( 一九 七五・小学館 ) ▽荒川浩和編『蒔絵』 ( 一九六九・ ち炭・種油・角枌で磨いて仕上げる。これには まぎはな 至文堂 ) ▽岡田譲・松田権六・荒川浩和他 粉を蒔き付けたままの蒔放し法もあり、また研 あら 著『日本の漆芸蒔絵— ~ Ⅳ』 ( 一九大・中央 出蒔絵では粉がやや粗く、絵の部分のみならず 公論社 ) 全面を漆で塗り込めてから磨き上げる。 高蒔絵は模様の部分を高く盛り上げる技法撒餌まきえ一定の水域に魚群を集め、集 えさ で、肉上げ ( 盛り上げて厚みをつけること ) 材まった魚群を滞留させる手段として撒く餌。コ さび として錆 ( 漆に砥の粉を混ぜたもの ) 、炭枌、マシ、コマセ、カプシなどともいう。カツォ一 やきすずふん 焼錫粉、砥の枌、地の枌、鋸屑があり、普通は本釣りに使用する生きイワシ、サバハネ釣りや ともえ した 炭粉を用いる。地書の上に毛棒で炭粉を蒔く下ムロアジ棒受網では友餌 ( 同じ魚の身 ) のミン まきいれ 蒔入を施し、風呂で乾かしたのち漆を塗る。炭チ ( 細片肉 ) が用いられるが、天ビンを用いる えかご アジ、サバ、イサキなどの釣りでは、餌籠 枌固めをしてなお何度も漆がけと研磨で固め、 次に蒔絵粉を蒔き、あとは研出蒔絵と同様に仕 ( 袋 ) に塩漬けのアミやイワシ、サンマのミン 上げる。 チを入れて魚を集める。淡水魚のコイやフナで こめめか 文しを長で文 ' / は、米糠、小麦粉、うどん粉、マッシュ ( じゃ 肉上げ材や蒔絵粉の違いでさまざまの呼称が 重現き柄鈿重君 くろろ たかあげうるし うるしあげ 表働 鳥あり、高上漆で肉上げした漆上高蒔絵、黒呂 がいも枌 ) 、蛹などの適宜配合の練り餌などが ヘムよ む色漆のみを用いた黒蒔絵、錫粉を蒔いた錫高蒔寄せの効果がある。近年、遊漁者の急増ととも 横蒔ををす 出味長文横こ に、撒餌の使用量が増加して内湾の海底に沈 絵、錆漆で肉上げした錆上蒔絵、高蒔絵と研出 研情総葉 磯蒔絵を併用して立体的に造形化した肉研出蒔積、それの腐敗が水質汚染の原因の一つとして の斂拵杏 5 ひしあい 宮に 銀も 〈吉原喜好〉 問題になっている。 で絵 ( 菱合蒔絵 ) などと区別している。 縦金法代」幡地 つけがきかきわりあびせまき したじめり に技時八懸縦 まきえし漆塗りの技法には下地の揉 そのほか応用技法として付描、描割、浴蒔、蒔絵師 代地の倉岡殀 えがき 時のし鎌鶴金代 の研切蒔絵などもあり、また空間の地に施すもの漆と、加飾の画漆と、彫漆とがあり、画漆の専 じまき ひょうもん 安塵暈 へいじんへらめじなしじ 平 ~ 平い蒔ら刀川鞘町 を地蒔といい、平塵、平目地、梨地、沃懸地な 門職人が蒔絵師で、平文師とともに一二世紀 のた太奈 , る室 どがある。 箱淡ど ~ ( 鈿神でい に糅漆の塗師から分化した。蒔絵はおもに食器、 手をな ~ 螺刀て箱館 〔材料と用具〕蒔絵粉の材料には古くから金・ 家具、調度などに施され、貴族、武家、大名、 絵寺匠は坡る葉宝太し硯物 あおきん は ~ 、→つ、つ 蒔剛意ど土い」杏国の配絵博 銀のほか、青金 ( 金と銀の合金 ) 、白鑞 ( 錫と大商人の需要に応じたもので、なかなか庶民の 冖雀金な。てし地類っ蒔立 しぶいち △ ~ 辺的るし懸宝ず「山国 5 今鉛の合金 ) 、銅、白金、四分一 ( 錫粉と炭枌のものとはならなかった。京都が生産の中心地で こ【天神双凵塩者 絵野阪本いナ 蒔①大日て果②古三③京 混合 ) などを用いたが、近代では金・銀のかわあったが、一七世紀からは江戸、金沢など地方 と ! だし とぎきり いろ つのこ じんあい さなぎ せきおう ひら 826

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ぼらんど 程度、丘陵地で六〇〇のドイツからポーランドにかけての林相は、お地方都市は農産物の集散地として発展した。ポ 6 ~ 七〇〇ミリ、高地ではおむね連続的である。動物相も林相の連続性に ズナニには古くからの総合機械工業のコンビナ 八〇〇 ~ 一二〇〇、リ 対応してはば連続的である。 ートがあり、発電 ( コニン ) 、化学 ( イノブロ ッワフ、ビドゴシュチ、トル一 l) 、・ コム、食品 、なる。タトラ山脈では 一八〇〇ミリにも達す 加工などの工業が全域に広く分布している。 る。 〔南部地域〕カトビーツェ県、チェンストホバ ポーランドでは、ビエルコボルスカ地方、シ 〔生物相〕農用地が国ロンスク ( シュレージェン ) 地方、ポモジェ県、オポーレ県、ビエルスコ・ビアワ県。ポー ) 土面積の約六〇 % を占 ( ポメラニア ) 地方、マズーリ地方などの、長ランド最大の重化学工業の中心は、カトビーツ め、森林面積は二七・ い歴史の検証を経た慣用的な地方名が用いられ工、ザプジェ、グリビーツェ、ソスノビエッな 六 % を占めている。 ている。行政的には、これらの地域単位を踏ま どの工業都市群が集中する上シロンスク工業地 部や東部には針葉樹林えた八つの地域区分 ( 大経済地域という ) が採帯である。この地域には、豊富な石炭や鉛・亜 が多く、もっとも著名用されている。以下、この八つの地域に従って鉛など、恵まれた鉱産資源を基礎に金属・各種 な大森林地域はビアウ解説する。 機械工業、化学工業が発達している。地域経済 オビエジャとアウグス 〔中央地域〕ワルシャワ県、ウージ県を含む七の発展ももっとも高い水準にある。↓シロンス ( 0 ・ トフの森林である。山県。ポーランドの政治、経済、社会、文化の中ク 岳地帯にはマツやモミ 心地ワルシャワと総合繊維工業都市ゥージを中〔南西部地域〕プロッワフ県を含む七県。この 2 などの球果類が卓越し核としている。ワルシャワはポーランド最大の地域は、第二次世界大戦後にドイツから得たい ている。しかし国土の総合機械工業地で、自動車、電気機械、印刷、わゆる「回復したポーランド領」で、高い工業 大部分、とりわけ西化学工業がある。 発展とともに集約的な農業が行われている。オ ひょく 〔中西部地域〕ポズナニ県など七県。ビエルコドラ川左岸の肥沃な土壌、温暖な気候、長い作 満部・南部や中央部には 上 以 ~ ~ 未広葉樹と針葉樹の混交ポルスカ平野の集約的な農業が特徴的で、歴史物生育期間に恵まれている。住民の多くは、戦 广度 0 巧 林が多く、ブナ、力的にも早くから豊かな農業地帯であった。比較後広く全国から、また東方のソ連に割譲した地 シ、マツ、スギ、モミ的規模の大きい富裕な個人経営が中心で、ポズ域から移住した。多くは農業改革によって土地 人は などがみられる。西方ナニ、トルニ、ビドゴシュチ、カリシュなどのを得て農民となり、国営農場の比重も他地域に 比して高い。また、石炭、褐炭、銅 鉱石、ニッケルを産し、機械、化学、銅 ス レ ス などの工業のほか、食品加工、繊維 レ ナ 工業などの伝統工業が盛んである。 工 ワ コ スデティ山脈は保養地として知られ レ 力ア カ る。 ク ン ピ ク スピク 工 フ ア 工ホチラ・チト エグンクエ 〔北部地域〕グダニスク県、シュチ ン ッワ ャヤ フッ ンウチッ チスニ ジフトンフドコュスレクワシフ ニジロロレュ一ユッスフノリフチュルツナエプルキフプヌスソジボスシイ エチン県を含む五県。北部の「回復 オオェッムナムリニュシ レムジプト一シピシルニクスャュンシシドラロチ一エウヌノハンニ・プワルゴゥ一 したポーランド領」で、グダニス 都工オ一ルスポルトリエダラロシジニモ工工工工ュウキバルルエエルビウアエドャョワウウシロウズドプグシル 県イウウェオオオカカキグククコゴコサジシシジシスススタタチチトノバピピピピピピププププへボラルレレワ ク、グディニア、シュチェチンはポ ーランドを代表する海港都市であ -0 -0 0 0 -0 -0 0- O -0 0 -0 0 -0 0 0 -0 0 0 0 0 0 -0 0 0 0 0 0 0 0 -0 0 0 0 -0 0 -0 -0- 0 0 0 -0 0 -0 0 0 0 0 -0 0 0 ー 11 ーっ 0 ヴーー -4 4 ′ 0 っワ 8 ワん 00 00 -. 0 ワ】 0 c-D 1 人 -0 0 -0 1 ・・ 4 -4 8 8 1 人 -4 ワ 0 8 0 っー -4 ワ -0 -8 -4 00 -. 0 《 0 ー 1 -. 0 ワ】ー 1 、 1 ^ 0 ワ、 1 0 8 ー 0 っー LO ーっ 0 1 LO 00 0 8 - -0 0 0 っ 0 る。造船業の中心であるほか、バノ 生・ 1 ・・つ -4 c_D -8 1 よワ】 1 、 0 0 0 / -8 -8 - -0 8 0 -4 -4 0 4 -4 8 11 -4 00 00 ー -8 っ 0 ワ 11 4 ワ 8 っー 11 4 ・ ロ 8 ト海に沿って多くの保養地がある。 ワ 7 ー 1 よ 1 ・ - 14 農業は市場指向的な国営農場が卓越 -8 - - っ 00 -8 - -0 ー 0 ワ】 1 よ・ 4 -4 ワ 0 4 0 / 8 1 0 0 1 人 00 ワワ 8 、 8 8 4 0 - -0 【 / っ朝ゥー 1 -4 っ朝ー -4 8 っ 0 ? っ 「ー -8 つん -0- 00 っ 0 - -0 1 よ 11 戸 0 0 ー 8 00 8 《 0 (. 0 8 - -0 8 8 -4 ー《 .0 -4 0 -4 L-O 0 ・ 1 -0 っ 0 -8 《 0 戸 0 9 、つ 0 0 8 8 している。 て ・・、 -4 、 1 よ、 .0 、 .0 8 ワ朝《 0 「ー - -0 8 8 -0 、 6 -4 8 ・ 4 8 9 、ーっ 0 0 -4 《 0 ^ 0 戸 0 4 -. っ 0 0 0 ( 0 8 - -0 -4 -4 っ 0 -8 ー ~ 4 -4 っ 0 フ」 1 1 〔南東部地域〕クラクフ県を含む八 県。クラクフは長くボーランドの首 工 カワ カ スア 図都が置かれた、古い文化と学術・芸 ロ ン ク ク ラピクフ 区術の中心地である。南東部は農業地 ア エグンク 工ホチド・チトク ベル 人 おう 工 ン ッワ ャヤ ェク フッ ンウチッ ジフトンフボコュスルクワシフ 行域で、戦後、天然ガスや硫黄の採掘 ロロレュ一ユッスフノリフチュルツナエプレキフプヌスソジ・スシイト 積 字 が進み、化学肥料、セメント、機械 オオェッムナムリニュシ レムジプト一シビシルニクスャュンシシドラロチ一エウヌノハンニ・プワルゴゥ一 面 ヾレレエエルピウアエドャョワウウシロウズドプグシル 工オ一ルスホルトリ 工ダラロシジニモ工工工工ュウキノノノ 丸などの新しい工業が発展した。南部 イウウェオオオカカキグククコゴコザジシシジシスススタタチチトノバビピピピピピププププへボラルレレワ 県県①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑩⑩⑩⑩⑩⑩⑦⑩⑩⑩⑩ @ @ @ ④① @ @ ④⑩⑩ @ ⑩ @ ⑩⑩ 3 ⑩⑩⑩ @ ⑩⑩⑩⑩⑩⑩計注国境のカルバティア山脈は年間を通 行政区画 0 ② ノ。 ④ 7 0 7 3 3 ⑤ ③ 9 ⑩ . ⑩ k ・⑩ 8 200km 100

9. 日本大百科全書 21

しようへし ほっかいど , っー・ - ・・ーキ、よ、つか ほっかいど , つかいたく の中心は水産業から農業に移行した。 近世までが招聘された。 北海道アイヌ協会 北海道開拓 わじん こうした外国人技術者の指導の下に、開拓使〔第一期拓殖計画〕そこで、北海道の開拓をよ 一九三〇年 ( 昭和五 ) に設立された北海道先住のアイヌと少数の和人を除けばほとんど末 ほろない あさひかわ 在住アイヌ ( 旭川などを除く ) を構成員とす開拓の地であった北海道に、明治初期から大正は道路建設、河川港湾の修築、幌内鉄道などのりいっそう促進するため、北海道庁によってさ る団体。アイヌの同化を前提に、その社会的地期にかけて、政府や本州資本が巨額の財政投資交通機関の整備、といった開拓の基礎事業に着まざまの拓殖計画が立案された。ます一九〇一 やすかた 位の向上を目的として北海道庁の主唱によってを行い、本州から多数の移住民を送り込むとと手した。また産業の基本たる農業は、在来農業年 ( 明治三四 ) からは、園田安賢長官の下で国 組織された。機関誌『蝦夷の光』 ( 第一 ~ 四号 ) もに、主として内陸部の農林業を中心とする開が欠如しているため、外来品種と欧米農法を積費三三〇〇万円の北海道一〇年計画が発足した を発行し、それを通してアイヌの民族的自覚を発を強力に行った現象をさす。 極的に導入しようとした。このほか、幌内炭鉱が、日露戦争による経費節減の影響を受け、そ えぞ 訴えたが、戦時下は活動が停滞した。敗戦後の 〔開拓使時代〕近世まで蝦夷地とよばれた北海の開発や各種官営工場の設置もなされた。さらの実績は当初計画の五〇 % 弱にとどまった。後 まつまえ 士族を中心とした移民の招来と保護、対外任の河島醇長官は、この計画を一年早く打ち切 四六年 ( 昭和二一 ) に社団法人として再建さ道は、松前藩や徳川幕府の手で漁業を中心とすに、 ーいっ , か とんでんへい れ、新冠御料牧場解放運動などの主体となっ る開拓が一定程度進められていたが、明治維新防備を目的とする屯田兵制度、開拓の人材養成り、一九一〇年より一五年間に総額七〇〇〇万 た。その後、六〇年には、アイヌ差別を理由に とともに中絶された。 を目的とする札幌農学校の設置なども実施され円の国費を投入して河川・港湾の修築、道路・ きようりよう 協会の名称を「北海道ウタリ協会」 ( ウタリは 維新変革のなかから誕生した明治政府は、北 た。この一〇年計画終了直前の一、 八一年には橋梁の建設など土木関係を中心に拓殖上緊要 アイヌ語で同胞の意 ) と改め、現在に至ってい 方問題に明るい有識者の建議などで蝦夷地問題開拓使官有物払下げ事件が発生し、払下げ計画な事業を実施しようとした。これが北海道第一 る。同会は、国・北海道・道内各市町村のアイの重要性を認識し、一 八六八年 ( 慶応四 ) 四は中止された。↓開拓使官有物払下げ事件 期拓殖計画とよばれるもので、実際には二年延 ヌ福祉対策の窓口になるとともに、北方領土や月、蝦夷地の地方行政を担当しかつ「蝦夷開拓〔三県・道庁時代〕一 八二年二月、開拓使は長して一九二六年 ( 大正一五 ) まで実施され、 はこだて ねむろ 教科書におけるアイヌ記述の問題など、アイヌ ノ事ヲ兼知」する機関として箱館裁判所を設置廃止されて新たに函館、札幌、根室の三県が置その総支出額も一億五八七一万円に達した。 うるう にかかわる社会的問題に対しても積極的に意見した。同閏四月、裁判所は箱館府と改称された かれ、八三年一月には、旧開拓使の官営事業を これにより、計画開始時の人口一六一万〇五 を表明している。とくに近年では、「北海道旧 が、まもなく勃発した箱館戦争のためその開拓所管する農商務省北海道事業管理局も置かれ四五人、耕地面積五三万八〇三四町歩、鉄道営 きっ・一う 土人保護法」の撤廃とそれにかわるアイヌ新法事業は中断した。戦争終了後の六九年 ( 明治オ こ。しかし、三県と管理局の拮抗はかえって開業距離七二四・三マイル ( 一 なかそね の制定へ向けての運動や、中曽根首相の「単一 一 l) 七月、政府は官制改革を実施し、蝦夷地開拓の進展を阻害する結果となり、八五年に三県は、終了時点でそれぞれ二四三万七一一〇人、 しよしようけ、 けんたろう 民族国家発言」に対する政府への抗議行動など 拓の専掌機関として「諸省卿同等」の長官を下の北海道を巡視した金子堅太郎の指摘もあっ七八万四一一六九町歩、一七三六 なべしまなお を通して、その存在を広く国民に印象づけた。 いただく開拓使を設置し、旧佐賀藩主の鍋島直て、翌八六年一月、三県は廃止されて北海道庁七九四・一 キ。 ) に増加した。とりわけ農業生産 そらち ↓アイヌ 〈竹ヶ原幸朗〉正が初代長官に就任した。同八月には蝦夷地をが設置された。 の発展は著しく、空知・上川地方では米作が、 みちとし とかちあばしり はつかいどうおうだん 北海道と改称し、一一か国八六郡を置いた 初代長官に就任した岩村通俊は、今後は「貧道東の十勝・網走地方では畑作が定着した。こ 北海道横断自動車道 じどうしやどう北海道の中央部と道東部を東西 当初、開拓使は、直轄地以外の経営を水戸・ 民ヲ植工ズシテ富民ヲ植エン」ことを主張し、 の間、地方自治や参政権など行政上でのさまざ おたる ひょうぶ につなぐ高速道路。起点の小樽市から、札幌市佐賀などの諸藩や東京府、兵部省などに割り当従来の移民政策に典型的な直接保護政策を廃止まの差別的取扱いもしだいに解消され、一九一 ちとせ 八年 ( 大正七 ) には「開道五十年」を迎えた の北部を経て、札幌市の東部から千歳市の間はてる分領開拓の方式を採用したが、全道の統一して間接保護政策に転換し、積極的な資本家招 とかち ゅうばり 北海道縦貫自動車道と重用し、タ張市・十勝平的開拓が困難なため、一八七一年八月までにす来政策を推進した。ます、土地制度を改め、一 が、これは北海道が開拓地から脱して準「内 くしろ からふと 野を経て、終点の釧路市に至る釧路線と、本別べて開拓使の直轄となった。なお、樺太と改称〇万坪以上の大地積処分を可能とする北海道土地」化したことを示すものであった。 きたみ しかし、他方で小作地率もしだいに上昇し、 町付近で釧路線と分岐して、終点の北見市に至された北蝦夷地には、ロシアとの関係が緊迫化 地払下規則を制定するとともに、移住民の入植 一九二五年には五〇 % を超えた。このため、二 る北見線の二路線がある。北海道縦貫自動車道したため、七〇年二月、開拓使の管轄から外れ適地を調査する殖民地選定事業が実施された。 きょたか 〇年には道内で最初の小作争議が神楽村御料地 との重用区間を除いて総延長は三七六キ。、全区て樺太開拓使が置かれ、開拓次官黒田清隆がそまた、開拓使以来の官営工場も相次いで民間に ・つりゆ・つ はちすか 間四車線。一九八七年 ( 昭和六一 l) 現在、小樽の専務となったが、翌七一年八月北海道開拓使払い下げられ、とりわけ幌内炭鉱と幌内鉄道で発生し、雨竜村の蜂須賀農場などにも波及、 たんこう かりぶと ありしま に併合された。開拓次官の黒田は、就任直後に 市ー札幌市間二四キ。が開通しており、清水町ー は、北海道炭礦鉄道会社にきわめて安い価額で二二年には狩太村の有島農場が解放されるな かみ 池田町間および札幌市内は建設に着手してい 道内および樺太を巡視し、七〇年一〇月、樺太払い下げられた。さらに岩村長官は、内陸の上ど、小作争議の発生も活発化していった。 かわ る。インターチェンジは、開通区間に五か所あの放棄と西洋技術の導入を骨子とした北海道の 川地方の開発にも着手したが、そのための道路〔第ニ期拓殖計画〕この第一期拓殖計画終了間 かばとしゅうちかん り、建設中の区こ、ゝ しノカ所設置される予定であ開拓に関する建議を行った。 開削には、樺戸集治監などの囚人労働が多数使近より、当時の過剰人口や食糧自給問題を北海 る。 役された。↓囚人労働 これを受けて政府は、一八七一年八月、七二 道で解決しようとの気連が高まり、一九二七年 きゅう ひだか たいせつ この道路は、大雪山から日高山脈に至る急年より一〇年間に一〇〇〇万円の財政投資を行 この結果、明治二〇年代以降、北海道移民が ( 昭和一 l) からは、四六年までの二〇年間に九 しゅん 峻な山岳地により隔てられた道央部と道東部 い、北海道の開拓を実施するという、開拓使一大量に流入したこともあって、北海道の開拓は億六三三七万余円を投じて農耕適地一五八万町 の交通を、時間的にも量的にも改善してその交〇年計画を決定した ( 実際の支出額は、計画の急速に進んだ。一八九七年には土地払下規卸し 」こ歩の墾成、牛馬百万頭計画、総人口六〇〇万人 流を促進し、諸産業の振興に役だつほか、冬季約二倍の二〇八二万円 ) 。このため、同年開拓 かわって、新たに北海道国有未開地処分法が公 の達成を目的とする、北海道第一一期拓殖計画が の交通状況を改善して沿線の生活利便の向上を使顧問としてアメリカ農務省長官ホーレス・ケ布されたが、これによって大地積の処分を受け発足した。この計画は、その直後の世界恐慌や もたらすものである。また、札幌市の北部を迂プロン Horace Capron が、翌年にはその部下た者は、本州の華族・官僚・地主などが大半を相次ぐ凶作で予算の多くが経済更生などに使用 ばつばっ 力回する区間は、札幌都市圏の環状線として建設としてライマン Be 三 amin Smith Lyman が、 占め、これら不在地主による寄生地主制が道内され、あるいは日中戦争の勃発と太平洋戦争へ される札幌新道の一部となり、都市圏の形成をまた七六年にはクラーク William Smith Clark で広範に成立する契機となった。明治三〇年代の拡大といった過程を経るなかでその目的変更 9 へんばう 推進する役割ももっている。 ^ 肥田木修〉が招かれるなど多くのアメリカ人お雇い外国人 に入ると北海道の産業構造は大きく変貌し、そを余儀なくされ、計画終了の四六年、耕地は七 5 ばつばっ はこだて じゅん

10. 日本大百科全書 21

ほてる ホテル / 日本 をわー . 謇をら ルは合理的な設備・サー 年一半易室ど完こ子が 田の , 貿寝なはい生戸 ビスの改革と、一〇〇〇 地でと。る備造 留築ルこけ設木ろる につ室単位の大量生産方式で ル又のよい 館居建テい言 根頼 ル地るホてをてたはて 価格を引き下げ、高級宿 テ築めのね炉し ホ・占民兼暖とて窓ら 人 1 か 地京を半をは時し - 一、 0 泊施設として 0 ホテ ~ 機 カ下た - 尋ら・との 能を確保しながら、一般 築東画官所に当備壁っ 第レら 地れ , され テか大衆も負担できる料金を ア階とさ 年 5 作存 準ペみé横実現、大きな成功を収め 上傑保 て、ホテルの大衆化、大 地の築 、き客料 , 築移 人食規模チェーンホテル発達 て造建に 国の への端緒をなした。世界 応一近県 、えを外ど 対リは知 的に名高いヒルトンホテ にク物愛 ル・チェーンや、シェラ 増コ。村 トンホテル・チェーン の筋た治 客鉄し明 は、スタットラーを手本 テム 人る業「 国よ開は として発展したものであ み一外にが部 士ン 来設本 〔日本のホテル〕日本で ののれ は、江戸時代中期の一六 ティ 3 懐 ホラ 室ー 八年 ( 元禄一 ) 、長崎 国家客取 帝築 , 年 から江戸へ入るオランダ 旧建階 人を宿泊させるため、江 戸本石町に洋風の旅館長崎屋が建てられたの開業した。料金はスタットラー方式を取り入れ を、ホテルの嚆矢とする説もあるが、純洋式ホて、おおむね低価格化に成功している。現在国 つきじ 造し ご・」木有 テルとしては、一 八六八年 ( 慶応四 ) 東京築地際観光ホテル整備法によって政府に登録されて づ第はを に開業したホテル館 ( 築地ホテル館 ) が最初で いるホテル数は五五四、建設中または計画中の 物数 あろう。ホテル館は、約二万三〇〇〇平方のもの九〇余を数える ( 一九八七・一 0 ・一現在 ) 。 イ建室 〔種類〕ホテルには大別してシティホテルとリ ・一一【に年 9 敷地に一〇三室を備え、創業はロンドンのサポ 余イやパリのリツツよりも早い。この後、一八七ゾートホテルがあり、やや機能を異にしてい 八年 ( 明治一一 ) 箱根に建てられた富士屋ホテる。シティホテルは、都市にあって旅行者、商 テで ルが成功を収めてリゾートホテルの先駆をな用客を対象とするが、宿泊機能以外に、地域の ホて =. いに国建 し、一八九〇年には東京に帝国ホテルが建設さ人々の社交、集会、結婚式、宴会、食事、各種 象帝階 ) の 3 れた。帝国ホテルは当初ルネサンス風の木骨一一一発表会などの催し物会場を提供し、都市生活に 」、時の 階建てであったが、一九二三年 ( 大正一 (l) に密接な関連をもっている。このためロビーのほ アメリカ人建築家ライト Frank L. Wright か大宴会場、集会場、主食堂、グリル、バー ール、売店などのパ。フリック・スペース ( 公共 リのオテル・リツツ HöteI Ritz が、高級ホテ の設計で全面的に建て替えられ、日本を代表す や公共の建物をさした古いフランス語 hostel これらは貴紳富豪をもてる都市ホテルとなった。このように日本のホテ 空間 ) を豊富に備え、多様な社会的機能を果た ルの指標となったが、 からきており、・ヘルサイユ ( フランス ) にオテ リツツ系統の高すよう設計されるのが普通であり、ことに結婚 ル hötel とよぶ宿泊施設が現れたのは一八世なすための高い格式と、豪華な設備、最高の料ル業は意外に早く発足したが、 紀後半であった。 hostel から音が消えたホ理を備え、一般大衆には手の届かない高級なホ級ホテルとして、外国人や一部の富裕階級以外式の披露宴は、ホテルで行われることが多い リゾートホテルは、有名観光地、保養地にあ は手の届かない高価な宿泊施設であった。 テル ( フランスではオテル ) という語が、高級テルであった。 はんしよう 日本のホテル大衆化には、一九六四年 ( 昭和 って行楽客を対象とし、。ハ。フリック・スペース 一方、アメリカでは、一八二九年にポストン 宿泊施設の汎称として用いられるようになっ 、娯楽室、名産品売場などを設けるのが一般 たのは、このころとみられている。その後、スイで開業したトレモント・ハウスがホテルの発達三九 ) の第一八回オリンピック・東京大会を契 ー一九一 0 と、フを促したが、やはり富豪中心の重厚な古典的ホ機として起こったホテル建設、、フームが大きく寄的である。なかには、地方の特色ある芸能を演 ス人リツツ César Ritz ( 天五 0 テルが主流であった。二〇世紀初頭に至って、与した。高度経済成長政策による日本人の富裕じるための舞台を備えるホテルもある。ほか ランスの名料理人工スコフィエ G. A. Escof ・ スタットラー E. M. Statler ( 一会三 ー一九一一 0 が に、ビジネス旅行者を対象としたビジネスホテ 化にも支えられて、ホテル業は順調な発展を fier ( 天四六 ー一九一一一五、フランス料理のバイプル ルがあり、設備・サービスの簡素化と空間の有 バッファローに、一九〇八年、大規模なスタッみ、七〇年代、八〇年代と、三度の建設。フーム 『料理案内』の著者 ) が協力して建てた、ロン トラーホテルを建設した。スタットラーのホテを経て、地方都市、観光地にも多くのホテルが効利用で、安価な宿泊料を設定している。 ドンのサポイホテル Savoy H0tel 、そしてバ 富 590