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検索対象: 日本大百科全書 21
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1. 日本大百科全書 21

る。法制史学は、広い意味の歴史学に入るもの民法典が公布・施行されてよりのちは、西洋法 換骨奪胎したものが多いが、それと並んで、単法制史ほうせいし としても、法現象の歴史的研究であるから、当制史もドイツの法制史学の圧倒的影響を受ける 純な中国鏡の模倣の域を脱した独特の図像文様 ことになった。すでにドイツでも一九世紀後半 然今日の法現象や法制度を念頭に置かざるをえ 〔西洋法制史〕 をもつものもある。また、映像用には不適切 よりモムゼン Th. Mommsen ( 天一七ー一九 0 三 ) ず、その意味で法社会学や比較法学とも密接な 〔中国法制史〕 な、直径四六・五垰一もある大型品や直径三に 〔日本法制史〕上代 / 上世 / 中世 / 近世 / かかわりをもっている。従来の個々の法制度やを嚆矢として実証的法史学が盛んとなり、多く も満たない小型品まであり、さらに、音響の発 近代 国家制度の歴史的研究ばかりでなく、法の一般の法史料の見直しが行われるようになった。ま 生を目的とする鈴鏡があって、これら彷製鏡が じゅぐ た、ローマ法を基礎として法のあり方を考えて 理論の研究や法学史の研究も行われるようにな 映像機能をもたない鏡、呪具であったことを暗 いこうとする人々 ( ロマニステン ) と、ゲルマ 〈田中琢〉 法制史とは、法制の歴史ないし法現象の歴史った。↓法↓法学 示している。↓鏡 ン法を基礎として法のあり方を考えていこうと 法制局ほうせいきよく法制局には内閣法制的展開をさしているばかりでなく、いわゆる基 西洋法制史 する人々 ( ゲルマニステン ) との対立も激し 局と議院法制局がある。内閣法制局は、内閣法礎法学の一つとして法現象の歴史的研究を行う 西洋法制史は、今日のほとんどの法分野にわく、ローマ法かゲルマン法かという論争がわが 制局設置法 ( 昭和一一七年法律一一五一一号 ) に基づ法制史学ないし法史学をも意味する。法制史学 たって世界の法制度の基本原則を生み出した点国にも大きな波紋を投げかけた。 いて、一九五二年 ( 昭和二七 ) 内閣に設置されは、人類が法というものを認識するようになっ 第二次世界大戦中のドイツにおいては、ナチ た。そのつかさどる事務は、閣議に付される法てから今日まで、その取り扱う範囲は非常に広で、きわめて重要な意義をもっている。日本で スがローマ法 ( パンデクテン法学 ) の排撃を行 は、明治初期にヨーロッパの先進的な国フラン 、単に過去の法制度ないし法現象の研究にと 律案、政令案および条約案を審査して、これに 、新たに大学に独立の科目として近世私法史 どまらず、今日の法制度のあり方や、将来のあスやイギリスの法を学び、ボアソナードをはじ 意見を付したり、必要な修正を加えて、内閣に へんさん しようへい 上申すること、法律案および政令案を立案しるべき法を明らかにすることにも寄与すべきもめお雇い外国人を招聘して近代的法典の編纂を設置した。これは、ナチスが民族主義を強調 て、内閣に上申すること、法律問題に関して内のと考えられる。今日の法制史学の現状は、そが試みられた。ドイツ帝国憲法を範とした強力してゲルマン法的思考を採用しようとしたもの ほづみ きんてい 、。ナれども実際の研究は、その 閣ならびに内閣総理大臣および各省大臣に意見の取り扱う対象によって、日本法制史、中国法な立憲君主制の欽定憲法が制定されると、穂積にほかならなし。 やっか ような政治的意図とは異なり、法現象を追求す 八束の「民法出テ忠孝亡プ」という論文 ( 天 を述べること、内外および国際法制とその運用制史ないし東洋法制史、ローマ法、西洋法制史 に関する調査研究を行うこと、その他法制一般ないしイギリス、フランス、ドイツなどの各国九 D を契機に行われた法典論争を経て、ドイツればするほど、ローマ・カノン法ないしローマ い一ん に関することである。議院法制局は、議員の法法制史というように分かれている。他方、法系の。ハンデクテン Pandekten ( 学説彙纂 ) 方式法学がいかにヨーロッパ全体の共通の法文化の による民法典が公布・施行され、ドイツ法の考基礎となっていたか、また近代法形成にあずか 制に関する立案に資するために、各議院に置か論も根強く、大陸法系、英米法系、中国法系、 って力があったかを知らしめることになった。 イスラム法系など、法規範の系統を軸にして法え方が法学説のなかに大きな比重を占めるよう れる ( 国会法一三一条 ) 。法制局長は、議長が になった。第二次世界大戦後はアメリカ法の影このことは、戦後に発表された諸業績や中世ロ 議院の承認を得てこれを任免する。ただし、閉を分類する方法もまだ多くみられる。けれど そうしょ ーマ法叢書にみられるように汎ヨーロッパ的研 も、法制史も法哲学や法思想史と同様、法の本響も受けている。このような意味で、ヨーロッ 会中は、議長がその辞任を許可することができ パ法史の研究は、人類の法文化の歴史を認識す究活動によく現れている。これらの研究を通じ る。法制局長は、議長の監督の下に法制局の事質、法とは何かを明らかにするのに寄与しなけ 務を行い、同局長のもとに参事その他の職員がればならないから、法制史にとっては法が具体るためばかりでなく、ヨーロッパやアメリカのて、近代法に先だっ近世法の意味の検討、従来 〈平田和一〉的にどのように形成されたのかを明らかにする法を受容した日本の近代法や現代法を理解するのローマ法の継受ないしローマ法の現代的慣用 置かれている。 の視点を発展させて、 0 ( ヨーロッパ共同 ほうせいさくがく広義には、現在ことがその出発点となる。残された法史料をみうえでも不可欠であるといえよう。 法政策学 わが国で西洋法制史という場合、広狭二つの体 ) における法の統一という課題と結び付けな の社会状態の客観的認識に基づいて、新たにどると「社会あるところ法あり」というようなも がら、ヨーロッパ法文化がローマ法以来統一的 のような立法が必要か ( 立法政策 ) 、あるいはのではなく、法の形成が国家の発生と密接なか意味で用いられている。広い意味では、ギリシ に連続して継承されたという主張も強力になっ かわりをもっていることがわかる。また、各時ア・ローマの古典古代社会の法、ゲルマン社会 現行法制度の解釈・運用をどのように現状に即 の法、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアてきている。また、日本で従来ほとんど研究の 応したものにできるかといった問題を研究する代、各民族の国家の支配者が、多くの守るべき 行われていなかった中世ビザンティン帝国の法 学問であるといえるが、明確なイメージや方規律 ( 社会規範 ) から何を法として抽出したのなどのヨーロッパ中世以降今日までの法という 法・体系があるわけではない。しかし近年、平か、あるいは法律を制定してどのように国家構ように、世俗法と教会法さらに法思想を含むョ史、東ヨーロッパの法史にも関心が払われるよ よしお うになった。 ーロッパの法の歴史全体をさし、またヨーロッ 井宜雄が、コース、カラブレジ、ポズナーら成員に強制したのかを明らかにすることが法制 他方、ヨーロッパ中世の国制史研究も進めら ハ古代の法を明らかにする意味でシュメール、 の、厚生経済学を理論的基礎とする「法と経済史の重要な課題となる。したがって、このよう ハビロニア、アッシリア、へ。フライ、エジプトれており、近代法との関連で具体的、実証的歴 に法と国家との関係を分析するには、単に法史 学」 law and economics に刺激されつつ、現 史分析を目ざしている。論点は多岐にわたる 代法を資源の効率的配分を実現するシステムと料のみでなく、広く政治、経済、社会、文化なの古代東方法も含まれる。狭い意味では、ロー が、その主要なものは中世初期の法と国家のあ して再認識し運用する考え方を「法政策学」のどの諸現象をも考慮に入れなければならないばマ法に対比して用いられ、ゲルマン古代の法と り方をめぐっての論争、中世都市法の性格をめ かりでなく、法を明らかにするのに、他の国家中世以降のヨーロッパ法の歴史をさす。明治初 名で提唱し、注目されている。それによれば、 ぐる問題、古きよき法たる中世の法の性格をめ 現代法は、裁判を中心とする個別的正義を目ざや他の民族の法との比較研究 ( 比較法史学 ) も期に、ヨーロッパの大学に倣ってローマ法と比 ぐる問題、近代法の形成過程などをあげること 較法制史 ( のちに西洋法制史となる ) という講 す権利・義務型の法から、政策的志向を強くも重要な手法となる。 ができる。さらに、最近は法を実際に生み出し 法制史が法現象の歴史研究を目ざす限り、歴座で出発して以来、日本ではこの狭義の、しか った資源配分の法へと重点を移してきており、 せそれに即応できる法制度設計の技術を提供する史学とはとくに深いかかわりをもっている。そもドイツ、フランス、イギリスを中心とした西てきた法学の歴史にも強い関心が払われてい る。このような法現象の分析は、一つには法が 7 〈名和田是彦〉のため、場合によっては法制史学が一般の歴史洋法制史が定着し、歴史法学派以来のヨーロッ , フのが法政策学だとされる。 バの伝統的法学を摂取し、パンデクテン方式の各歴史社会においていかなる具体的現象形態を 3 学とほとんど区別がっかなくなることもありう ほ回平井宜雄著『法政策学』 ( 一九全・有斐閣 )

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て生ずると考えたからだという。 ほう苞とも書き、包葉 ( 苞葉 ) ともい 一にび、イのような狭めの位置がロの前のほうに寄は、考えている閉曲面の表面を通 0 て、単位時包 ③法と正義 ius, droit, Recht などのことば 2 っているものを前母音、英語のウのような狭め 間当りに流れる電磁場のエネルギーを表す。積う。小包、総包片などを総括する広い意味に用 あと ん いられることもあるが、普通、花序において腋は「法」と同時に「正義」の意味をもっている の位置がロの後ろのほうに寄っているものを後分値の負号によって、閉曲面から流出するエネ 母音とよび、英語のウのような唇の丸めを伴う ルギーと区別することができる。また、同じ閉に一個の花をつける葉的器官をさす。その腋花 ( 英語の」 ustice も jus に由来する ) 。これは、 まる ひら の花柄に葉的器官がついたとき、これを小包と法は正しいものと考えられたことから出てい ものを円母音、伴わないものを平母音とよぶ。 曲面で囲まれた領域 > での体積積分 よぶ。包は普通葉 ( 茎葉 ) に比べて小さく、しる。 たとえば、トルコ語には母音が八つあるが、 ④法と権利 ius, droit, Recht などのことば ばしば無柄となる。したがって、形も簡単にな 前母音の i, ü〔 y 6 「〕 , e は、後母音の は、また「権利」をも意味する。これは、権利 り、分裂や欠刻も浅くなるが、キンボウゲ属な 一「〕 , u, 9 a と一語のなかで共存しないのは、この領域内に存在する電磁場の運動量ベク どでは逆に分裂が深くなることもある。花序のとは法の一側面であり、権利を実現することは が原則であり ( 外来語を除く ) 、語尾や接尾辞 トルを表す。 が続く場合にもこうした制限下に置かれる。 電磁場のエネルギーや連動量は、けっして抽まとまりが弱ければ、普通葉は連続的に包に移法を実現することだという考えに基づいてい る。両者を区別するために「法」を「客観的 köpek ( キョベキ ) 「イヌ」という語は前母音象的なものではなく、物質の力学的なエネルギ行するが、花序がよくまとまっていれば、包は 明らかに普通葉と区別され、極端な場合には退法」、権利を「主観的法」とよぶことがある。 ーや運動量と同等の物理量である。すなわち、 のみからなり、その複数形は köpekler ( キョ 化、消失する。プーゲンビレアなどでは包が大〔法の定義〕法の定義に関しては古くから論争 ベキレル ) となるが、 maymun ( マイムン ) 荷電粒子と電磁場とが相互作用している系にお きく発達して着色し、花を包む。〈田村道夫〉の対象になっているが、その主要な論点をあげ 「サル」という語は後母音のみからなり、その いては、荷電粒子のエネルギーや運動量ばかり ると次のようなものがある。 複数形は maymunlar ( マイムンラル ) となでなく、電磁場のエネルギーや運動量を考慮に法ほう law 社会規範の一種。法の定義に ①存在か当為か古来、法はあるべきもの ( 当 る。さらに koyun-u ( コュヌ ) 「ヒッジ・を」入れて初めて、系全体の物理現象が正しい物理ついては「いまでも法学者は法の定義を求めて いる」 ( カント ) といわれるように、いろいろ為 ) を定めるものであるとされてきたが、他 〈安岡弘志〉 対 kedi-yi ( ケデイイ ) 「ネコ・を」などでは、法則に従う。 方、法は裁判者がいかに行動するかの予測を示 な説があって、論争が行われている。 円母音と平母音の対立が加わる。母音調和はト ポイント尖頭器 〔法ということば〕法ということばにあたる各すものである ( ホームズ ) 、法もまた一つの経 ルコ系諸一一 = 〔語、モンゴル諸語、ツングース諸語ホイント 0 分岐器 などに広く認められるが、古代日本語にも似た ポイント・フォア・プログラム point 国語は、その成り立ちや歴史の違いによって、験的存在である ( ロス、オリべクローナ ) 、法 の定めるものは当為であるが、法そのものは一 その意味する内容が異なっている。 ような現象が認められている。 〈竹内和夫〉 Four Program 第二次世界大戦後のアメリ ①語源漢字の「法」はもと「渡」と書き、鷹種の観念的存在である ( ライナッハ ) などとい ポインティング John Henry poynting 力の発展途上国援助計画。トルーマン大統領は 一九四九年一月の年頭教書で、重要政策の第四という獣に触れさせて正邪を決定したことに由う批判がある。 ー一九一四 ) イギリスの物理学者。マンチェ ②外面性説法は社会規範の一種であるが、こ スター近郊のモントンに生まれる。オーエン項 ( ポイント・フォア ) として、途上国への開来するという。字の由来について『説文』には ごと ズ、トリニティの両カレッジで学び、キャベン発援助をあげたためにこの名がある。対ヨーロ「濃は刑なり。平らかなること水の如し。直かれと道徳規範、宗教規範、習俗規範などとはど らざる者に触るれば去る」とある。固有の日本こが異なるかという問いに対する古典的解答 ッパのマーシャル・プランに続くもので、もと ディッシュ研究所を経て、 ーミンガム大学の 語では、法は「のり」「おきて」などといわれが、法は外面的規範であるという解答である。 物理学教授を務めた。一八八四年に電磁場におより発展途上国での反共体制の整備と、アメリ たが、「のり」は「宣る」、すなわち神言を述べすなわち、道徳は個人の良心を拘束し、道徳義 けるエネルギーの流れを示す「ポインティンカの政治経済力の伸長とにその目標があった。 グ・・ヘクトル」を導入した。また、万有引力定 このため、同年六月の特別教書で、①技術援ることを意味し、「おきて」は設定を意味する。務は良心 ( 義務意識 ) に基づいて守る必要が 数の測定、放射圧、相転移、浸透圧などの多方助実施のための機関の設立、②政治的に不安定へプライ語の thorah は「教え」を、ギリシあり、その違反は「内面の法廷」 forum inter ・ な途上国への民間対外投資促進のため輸出入銀ア語の dike は「慣習」、 nomos は「配分」 num において裁かれるのに対し、法は外面を 面の研究を行った。晩年にはロイヤル・ソサイ ーミンガムで死行による投資補償の権限、③初年度費用に四五を、ラテン語の ius は「命令」、 lex ( フラン拘束するだけで、法規範に適合していればよ エティーの副会長を務めた。バ く、その違反は裁判所という「外面の法廷」 fo- 〈井上隆義〉〇〇万ドルを計上、を明らかにした。これらの目ス語の一 0 一 ) は「収集」を、フランス語の droit 去。 はラテン語の directum に由来し「整序され rum externum で裁かれると説く。この内 ポインティング・べクトル poynting's 的のために翌五〇年に国際援助法が制定された vector たもの」を、ドイツ語の Recht は「正義」、面・外面の区別の思想は原始キリスト教ないし が、五一年には相互安全保障法法 ) に 一八八四年にイギリスのポインティ 同じドイツ語の Gesetz および英語の law は古代ユダヤ教にさかのばるもので、近代におい ングが与えた電磁場におけるエネルギーの流れ吸収された。 てスピノザ、トマジウスなどは、これを権力に 当初、ポイント・フォア計画は、四九年現在「置かれたもの」を意味する語に由来するとい を示す・ヘクトル。電場と磁場″とが、空間の 対し良心の自由を擁護する理論として体系化し ある同じ位置、同じ時刻ーで共存する場合にで一人当り国民所得が一〇〇ドル以下の二八か た。しかし、この「内面」の概念が神学的起源 ②法と法則 lex, 一 0 一 , Gesetz, law などのこ は、べクトル S ( ) こⅡ黛 ) こ x ( ) 、 ) を考国、人口一五億六五〇〇万人がこの目的に該当 とばは「法」という意味と同時に、「法則」とのものであるため経験的定義が不可能で、故意 えることができる。この・ヘクトルをポインティするとされ、農業などを中心とする技術援助、 と過失の区別にみられるように、法も内面を問 いう意味をもっている。ハンス・ケルゼンによ ング・べクトルという。ポインティング・べク保健衛生、教育に力点が置かれたが、計画担当 トルの物理的意味は、ある閉曲面を考えて、そ者側の途上国の実情への無理解と、受け入れのれば、これは未開人のアニミズムにおいて自然題にすることなど難点も多い ③主権者の命令説「法は主権者の命令である」 の万物もおのおのこの魂をもっており、相互に の面上または面内の体積でポインティング・べ途上国側の社会構造上の困難などから、援助の ( オースティン ) という主張は、自然法を否定 クトルを積分したときに初めて現れる。すなわ効果はかならすしも十分にあがらず、アメリカ法で結ばれていると考えられていたからだとい ち、表面積分 議会からの批判も強まり、最後にに吸収う。たとえばギリシア語で aitia ということばする法実証主義の典型的法思想と考えられてい されたときには、ポイント・フォア本来の目標が同時に「罪」と「原因」を意味するのは、古る。この定義によれば、自然法のみならす、慣 習法や国際法の法的性格も否認することにな 〈陸井三郎〉代ギリシア人が自然現象もなんらかの罪によっ は閉曲面上の面積要素・ヘクトル ) はほば失われていた。 せんとうぎ ぶんぎき えき

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とするのが通説である。憲法違反の法律につい て ( 同法三九四条・三九五条 ) 、事実認定の誤者で勝訴の見込みのある者に対し、訴訟費用、 ノ取締ニ関スル件」の通称。一九一七年 ( 大正 まさたけ ては、最高裁判所の違憲立法審査権の対象とな りは上告理由たりえない ( したがって、上告審弁護士の手数料・謝金、保全処分等の保証金の 六 ) 九月一日寺内正毅内閣により公布施行され 〈長尾龍一〉では原則として口頭弁論を開かず、新たな事実立て替えを行う ( 償還が困難と認められる者に た。適用を受けた物品は、米穀類、鉄類、石 、フる。↓法 や証拠の提出も許されない ) 。 ) 」 に用事訴訟では、 ついては、償還が免除されることがある ) 。同炭、綿糸および綿布、紙類、染料、薬品、肥料 ま法律学ほうりつがく 0 法学 法律行為ほうりつこうい法律行為は、人が上告審が法律審である。ただ上告理由として、協会の事業以外には、地方公共団体、弁護士 ( 一八年六月追加 ) で、買占めや売り惜しみに 一定の効果を欲してなす行為であって、法律が原判決に憲法違反または憲法の解釈に誤りがあ会、法務局・地方法務局、新聞社の法律相談が 対して戒告、さらに三か月以下の懲役、一〇〇 その効果の実現に助力してくれるものをいう。 ること、判例違反があることがあげられるがあり、近時、各地方公共団体の消費者条例中に円以下の罰金が定められた。おもなねらいは米 このような法律行為は、個人の自由な意思によ ( 刑事訴訟法四〇五条 ) 、判決に影響を及ばすべ消費者に対する訴訟費用の貸付の制度を定めて価騰勢を抑えることにあったが、米騒動を未然 いるものがある。↓法律扶助協会〈本間義信〉 ってなされなければならないものとされておき重大な事実の誤認があることが原判決破棄の に防ぐことはできなかった。その後、日中戦争 ほうりつふじよきようかい民開始直後の三七年 ( 昭和一一 D 八月改正強化 り、これを法律行為自由の原則という。個人の理由とされていることからして、例外的に事実法律扶助協会 法律関係は、個人自ら欲するところに従ってこ 判断を行う法律審といえよう。 〈本間義信〉事・行政訴訟事件に関し、資力の乏しい者に対 ( 二六品目に拡張 ) され、さらに翌年七月全重 れを決定するというのが合目的であるとする私法律の留保ほうりつのりゅうほ行政法学上し裁判費用の立て替えと担当弁護士の斡旋を行要商品に適用されることになり、三九年一二月 的自治の原則が、法律行為に現れたものとみら と憲法学上の二つの意義がある。①行政権の行 う財団法人。現行憲法が保障する法の下の平等二六日「暴利行為等取締規則」として大改正さ れる。法律行為は、意思表示を不可欠の要素と使は法律に基づかなければならないという原理や裁判を受ける権利を実質的に保障するため、 れた。なお、関東大震災時の緊急勅令 ( 時限公 するが、この意思表示の数および方向によってをいう。法律の根拠ともよばれる。行政法の基一九五二年 ( 昭和二七 ) 、日本弁護士連合会に 〈松一兀宏〉 布 ) も暴利取締令と称される。 い・一ましカるカ 法律行為を分類すると、次のようになる。 ほうりゅうじ奈良県生駒郡斑鳩町に 本原理の一つである「法律による行政の原理」より設立された法律扶助制度であり、本部を東法隆寺 ①単独行為一個の意思表示で有効に成立するの内容の一つで、主として行政法学上用いられ京都に置き、その支部を各地方裁判所の所在地ある聖徳宗総本山。斑鳩寺 ( 鵤寺、伊可留我 法律行為。これには、債務免除などのように相 る。ドイツ行政法学の基礎を築いたオットー・ の弁護士会内に置いて広く活動をしている。扶寺とも書く ) 、法隆学問寺などの異称がある。 手方のあるものと、遺言などのように相手方の マイヤーの創始した観念である。↓マイヤー 助の決定は、同協会内の審査委員会が申込者の南都七大寺の一。 やくしによらいぎそう ないものとがある。 その妥当領域については学説上争いがある。資力、事件勝訴の見込みなどを基準に審査する〔歴史〕草創の由来は、金堂の薬師如来坐像光 ようめい 契約方向を異にし、内容を同じくする一一個従来、国民の権利自由を制限し義務を課する侵が、資金不足もあって、生活保護者やこれに準背銘によると、用明天皇が病気平癒を念じ、大 以上の意思表一小の合致によって成立する法律行害行為に限るとする侵害留保説が通説で、実務じる者に限られるのが実情である。このような王天皇 ( 推古天皇 ) と聖徳太子を召して造寺と 為 ( たとえば、売買や賃貸借など ) 。契約は、 の取扱いもそうであったが、最近ではそのほか扶助協会の窮状を打開するため、日弁連は法律薬師像の造立を誓願したが果たさず崩御した。 広義では債権契約、物権契約、身分法上の契約に、給付行政の領域にも及ぶとするものや、授扶助制度委員会を設置し立法化への推進運動や推古天皇と聖徳太子はその遺命を受けて、推古 なども含むが、一般的には狭義において、債権益的行為を含めていっさいの行政領域に及ぶと協会組織の改善等を検討している。〈名和鉄郎〉天皇一五年 ( 六 0 七 ) に寺と薬師像を完成したと けんしんとく′」うくけっしよう 契約のみを契約ということが多い する全部留保説も学説上提唱されている。 いう。これは『顕真得業ロ訣抄』『古今目録 法律要件ほうりつようけん売買契約の締結 ③合同行為内容と方向を同じくする一一個以上 ②国民の権利を行政権によって侵すことは禁ずによって売り主・買い主に権利義務が生じ、あ抄』などにも「推古二年起工十五年完成」とあ の意思表示の合致して成立する法律行為 ( たと るが、立法権によって侵すことは認めるという るいは相続によって権利を取得するように、私 って確かめられる。しかし、『東寺王代記』の すしゅん えば、社団法人の設立行為など ) 。〈竹内俊雄〉原理をさす。主として憲法学上用いられる観念法上の法律関係は一定の生活関係が存在する記す崇峻天皇の代、『興福寺年代記』の推古七 ほうりつしん裁判の審理・判決におで、明治憲法における人権保障は、この意味でと、権利義務の変動、すなわち法律効果が生ず年説、『興福寺略年代記』の推古一一一年説など、 法律審 いて裁判所のしなければならないおもなことの法律の留保を伴っていた。現行憲法下の基本る。このように、法律効果を生ずる生活関係建立年代をめぐって諸説がある。いずれにせ しやか は、事実の認定と法規の解釈・適用である。こ的人権は、この意味での法律の留保の制限を受を、法律要件という。「これこれの要件が満た よ、金堂の釈迦如来三尊像が六二三年、聖徳太 〈阿部泰隆〉 の両者を行う審級を事実審といし 法規の解けよ、。 ↓基本的人権 されているときは」というときの要件の部分が子逝去の翌年に造像されており、この年を下る はりま ほうりつふじよ貧困のため自己の これにあたる。法律要件はそれを組成する素因ものではない。太子は五九八年に播磨国の地五 釈・適用を主として行う審級を法律審という。法律扶助 しろ 審級制をとる場合は、まず事実審が先に置か権利を主張・実現することの困難な者を扶助すともいうべき事実 ( 法律事実というが、物理的〇万代を法隆寺に施入、その後も六〇六年に播 れ、その後に法律審が置かれる。①民事訴訟でる社会制度。日本国憲法第三二条は、裁判を受な事実だけでなく、意思に基づく作用もある ) 磨国水田一〇〇町を施入、六〇九年に二七〇余 は、第一審、控訴審および抗告審は事実審であける権利を規定しているが、わが国に法律扶助の総体ともいえる。たとえば契約 ( 法律要件 ) 町ずつ施納して経済的基盤を築いている。 って、上告審および再抗告審は法律審である。 に関する法律はない 。もっとも、わが国に国家は申込みと承諾という意思表示 ( 法律事実 ) を 寺域は、太子が六〇五年から六一三年まで住 いかるがのみや 裁判の事実認定は事実審の専権であって、上告的制度として訴訟上の救助 ( 民事訴訟法一一、 素因とし、相続は人の死亡を素因とする。法律し政務をとった斑鳩宮の西に位置した。六四三 そがのいるか 裁判所は原審 ( 事実審 ) の適法に確定した事実条以下 ) 、刑事訴訟における国選弁護の制度事実は訴訟法上の要件事実に相当し、たとえば年 ( 皇極天皇一 D 蘇我入鹿によって太子の子山 しろのおおえのおう に拘束されるのが原則である ( 民事訴訟法四〇 ( 憲法三七条三項など ) があるので、法律扶助売り主が買い主に売買代金の請求をするとき背大兄王が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法 三条。このゆえに、判決の既判力も事実審の最は、これ以外の分野を扱うことになる。歴史的は、売り主は申込みと承諾のあったこと、すな隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によ 終口頭弁論終結時を基準とする ) 。したがって、 には、わが国では大正末期から、法科大学、新わち契約の成立を、主張し、立証しなければなれば、六七〇年 ( 天智天皇九 ) 落雷によって全 がらん らない 上告理由となりうるのは、原判決に憲法の解釈聞社、弁護士会などが無料法律相談を行ってき 〈伊藤高義〉焼したとあり、その後に再建された伽藍が現在 てんじ の誤りがあること、その他憲法の違背あるこ たが、もっとも重要なのは、一九五二年 ( 昭和 ばうりとりしまりれい第一次世の法隆寺伽藍とされる。この天智天皇九年焼亡 暴利取締令 ならびに と、または判決に影響を及ばすこと明らかなる 二七 ) に設立された財団法人「法律扶助協会」界大戦期インフレによる物価騰貴を抑えるため説に対し、『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』や 法令の違背あること、その他の法令違背であっ による事業であった。同協会は、資力の乏しい 農商務省が定めた省令「暴利ヲ目的トスル売買その他の法隆寺関係文書に火災記事がないとこ あっせん やま 408

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ほうのし 小馬、ロ・ハ、牛、「小牛ほどもある土佐犬」な られたものと思われる。法然絵伝のみならず、果裁判所に紛争が付託されても、適用可能な規ど刑罰法規においては、類推解釈は類似か否か 絵巻の歴史上でも最大の規模を誇り、またこの則をみいだすことができないために、裁判を拒があいまいで刑罰権が恣意的に拡張されるおそどが通る場合を考えてみよ ) 。法の解釈とは、 やまと 時期の大和絵正系の画風を伝える意味でも重要絶しなければならないことがおこりうる。そうれがあるため、罪刑法定主義の原則に従って禁よい制度のモデルをつくる創造的作業の一環を なすものである。↓法学↓法〈長尾龍一〉 である。国宝。このほか掛幅画の遺品として いう場合をできるだけ少なくするために、裁判止されている。 もちろん は、愛知・妙源寺本、三重・西導寺本などがあ所に対し法の一般原則を適用することが認めら ほうのけいじゅ reception 0f law 3 勿論解釈「馬が通行止めなら象はもちろん法の継受 り、一般の布教に供されたことがわかる。↓拾れた。ここに法の一般原則とは、一般に国々の通行止めだ」とか、反対に「馬が通れるのなら他国の法制度を採用すること。甲国の法を乙国 遺古徳伝 〈村重寧〉国内法秩序において認められ、国内法廷で適用犬はもちろん通れる」など、小さいものの禁止が継受した場合、甲国を「母法国」、乙国を 両者の間に「法系」の関係 法然上されているような原則であり、国際裁判所は、 から大きなものの禁止を、あるいは大きなもの 「子法国」といい 回小松茂美編『続日本絵巻大成 1 ~ 3 が生じたという。継受された法は、継受法とよ 人絵伝』 ( 一一・中央公論社 ) 必要に応じそれらの原則を補充的法源として適の許容から小さなものの許容を導き出す解釈を , っ ほうねんまつり農作物の豊作を祝う用することができるのである。 〈皆川洸〉 ばれて、固有法と対比される。継受には法秩序 豊年祭 ほうのかいしやく法の適用との関 ④体系的解釈・目的論的解釈・社会学的解釈 全体にわたる全面的継受と、特定の法領域に限 祭り。この名の祭りは二通りあり、普通は秋の法の解釈 収穫祭のことと解されるが、同じ名称で春の予連で、法規範の意味を明らかにする作業をい 個々の法規が多義的である場合、法体系全体の定される部分的継受があり、また継受の態様に あった 祝祭をよんでいる例がある。名古屋市の熱田神 法の具体化に必然的に伴う過程である。 趣旨を考慮して解釈するのを体系的解釈とい よって立法的継受と司法的継受の区別がある。 宮では五月八日に豊年祭が行われる。「おため 〔出発点〕通常、法律問題は、最初に紛争や犯 う。目的論的解釈は、法の目的を考慮する解釈西ヨーロッパ近世におけるローマ法の継受は、 ルネサンス、宗教改革にも比較される。日本で し」または「花の撓」といわれ、五穀豊作を祈罪のような事件があり、これがどのような法律で、目的をどのように認識するかについては対 たがた りつりよう るという。同じく愛知県小牧市の田県神社と犬に関係するだろうかと条文を探し、その条文と立がある ( イエーリングなどが主張 ) 。また現は、律令制にみられる中国法の継受、明治以 おおあがた 山市の大縣神社内姫の宮が三月一五日に豊年その事件との関係を考えるという順序で進行す実の社会の必要性を考慮する解釈を社会学的解後のフランス法・ドイツ法の継受、第二次世界 、カントロビッツ、パウンドらが主張大戦後の憲法、刑事訴訟法などを中心とするア 祭を行っている。前者の祭りは巨大な陽物を、 る。とくに、たいていの人は、この紛争はこう釈といし メリカ法の継受などがある。 後者は女陰を祭る性的神事としてよく知られて解決したいとか、この犯罪はこのように罰すべした。 法の継受は、通常、土着の社会意識や法文化 いる。秋の豊年祭の変わった一例として山口県きだとまず考えて、その根拠となる条文をみつ ⑤公定解釈以上のようなさまざまな解釈が可 との間に、 一定の緊張関係をつくりだすのが常 蓋井島の九月二九日の豊年祭がある。ここは漁けようとする。ちょうどよい条文があればそれ能であるとすれば、裁判所ごとに、あるいは役 村であるが「山ノ神神事」を行い、豊漁を祝すを論拠とし、ちょうどよくなくても、解釈によ 所の窓口ごとに別々の法解釈が行われ、法的安で、そのような抵抗を排して継受法が定着する 〈大藤時彦〉 るという。↓収穫祭 って自説と条文を結び付けようとする。それは定性が損なわれ、不公平となる可能性がある。場合もあれば、結局、定着せずに空文化し、や ほうのいつばんげんそく国際合理的な決定に到達するための実践的議論の一そこで、解釈権をもっ機関の解釈によって、解がては廃止される場合もある。たとえば、日本 法の一般原則 司法裁判所は、付託される紛争を裁判するにあ分野である。法の解釈は、以上のように事件と釈を統一する必要がある。この解釈を公定解釈民法のなかの終身定期金や夫婦財産契約などの あるいは公権的解釈という。なお、裁判所の行制度はあまり定着していないといわれる。定着 たり、条約で係争国が認めた規則、慣習法の規条文との関係づけの過程で問題となる。 〔解釈方法〕法のことばは通常、幅のあるいろう解釈を司法解釈、行政庁の行うものを行政解する場合も、土着の慣習などと妥協して、母法 則に加えて、「文明国が認めた法の一般原則」 いろな意味をもっていて、いろいろな解釈をい 釈、議会が法律で解釈を定める場合を立法解釈国の制度とは違ったものになってしまう場合も を適用することができる。国際法は、条約や慣 〈長尾龍一〉 習によって創設される規則からなるが、それはれる余地がある。そのうえ伝統的に認められてという。公定解釈に反する解釈によって権利をある。↓ローマ法の継受 ほうのけんけつあるべき法が欠け 国内法体系に比較すれば不完全であり、その結 いる解釈方法にも、いろいろなものがある。文侵害された者は、不服申立てや上訴によってそ法の欠缺 ていること。立法者は全能ではないし、時代は の是正を求めることができる。 字どおりの文章上、文法上の意味を認識するの ⑥よい解釈法の解釈にも、よい解釈とあまり変化するから、法には必然的に欠缺が生する。 が文字解釈、文理解釈であり、そのはか、代表 スイス民法典第一条は、その場合には「裁判官 的なものに次のようなものがある。 よくない解釈とがある。よい解釈にも ( 特定の は拡張解釈・縮小解釈たとえば「子」という 宗教や政党の立場からみてよいという ) 、超法自身が立法者であるとすれば設定するであろう こ従って裁判すべしと定めた。 ことばが、実子という狭い意味と養子を含んだ的なよい解釈と、法内在的なよい解釈とがあところの原則」し , ただし、法が「あるべき」かどうかは、主観的 広い意味をもつように、広義と狭義がある場合る。法内在的なよい解釈とは、他の諸制度とう はを はたん 祭ュ輿 に、広義をとるのを拡張解釈、狭義をとるのをまく整合し、破綻なく連行する制度のモデルを判断に流れる危険もあり、立法者が不適当だと 年み神 縮小解釈という。日本では拡張解釈ということ形成する解釈である。まじめに法を守る人が損思った規範を適用者がかってにつくりだす危険 のつ日 もある。 〈長尾龍一〉 ばは、ことばの枠を超えた解釈の意味に用いらをしたり、するい人がもうけたりするような結 神た月 ほ、つの。ー ) はい れることがある。 「人でなく法が支配 果を導く解釈は、法秩序を紛糾に導く悪い解釈法の支配 ・ . 田を 類推解釈・反対解釈条文に含まれないが、 である。ケルゼンは、法は一種の「枠」であする」 Non sub homine, sed sub lege. 一冖テと の根く いう法原則。イギリス法においては、国王もま 市男歩類似しているものに適用する場合を類推解釈、り、法解釈とは枠のなかから一つの可能性を選 たコモン・ローの判例法体系に服すべきである 月れ練適用しない場合を反対解釈という。たとえば、 ぶ行為だとしているが、実際には枠ほどの輪郭 県らで ロ、 という原則として発達した。一三世紀の法学者 「車馬通行止」という立て札があって、牛の通のはっきりしたものではなく、法の文字どおり 愛て担 行も禁止する場合など、直接規定されていない の意味からの距離と実質的正当性との均衡を考プラクトンの「国王もまた神と法のもとにた 祭と性類似のものにも法規を運用するのが類推解釈えながら解釈するほかないものであろう ( たとっ」ということばは、一七世紀にクックによっ 年祭男 豊奇ので、それをしないのが反対解釈である。刑法な えば「車馬通行止」という立て札の立った橋をて、王権との抗争の際に引用された。一九世紀 ふたおい 395

5. 日本大百科全書 21

ほうけい 仏か岩安 ばんの違いは、文章語としても使われることで ( 駐車場 ) 、西日本の「校区・校下」 ( 学区 ) 、東 5 尊や灰長 ある。 日本各地の「校時」 ( ~ 時間目 ) 、鹿児島のラー 四本華石 の , はする フル ( 黒板ふき ) などである。全国共通語と思 〔いろいろな方言〕〔体系としての方言〕方言 高 像で質示あ りげん 全 り倚像〔材をが というと、普通、単語 ( 俚言 ) の違いがあげらわれていることばのなかにも、地域差を示すも 尊。式銘 れる。しかし、土地によることばの違い全体をのがある。「大分」 ( ダイプ ) をダイプン、「難 3 庫三る様の 安文るい唐造 「方言」とよぶというとらえ方によれば、発 ( ムズカ ) シイ」をムッカシイと読むのは西日 ←第長青なて初均 永られた韋 音・アクセントや文法の違いも重要である。ま本の人に多い かまれ日 兀京薩刻さ 3 た、ある地方の「方言」というときには、共通〔共通語の方言的背景〕全国共通語のなかに 東菩も成月 像侍 ~ 蓋完 9 語と同じ要素も含まれる。つまり、方一言は、言 は、そもそも西日本の言い方だったものが採用 尊文脇天 , 年 された例がある。いくつかの共通語形の日常で 語体系としては共通語と同等の価値をもつ。こ 三重となで 3 0 の使われ方を調べ、分布領域の重心を地図に示 こではます単語の違いを取り上げる。 仏 石 〔有名な方言〕「ことばは国の手形」ともいわした ( 図 <0 線の長さは全国の平均普及率を示 れるように、日本の各地にはいろいろな方言がす ) 。 < で囲んだ中のツュ ( 梅雨 ) ・イエ・オソ 宝 ロシイ・ツララなどは、近畿地方や中国・四国 ある。さまざまな特色のうちには、その地域の ばさっ 人が気づいて唱えことばのようにしているもの地方にとくに多い言い方が共通語に採用された 菩薩からなる三尊像 ( 一一一一石 ) と十一面観音像方言ほうげん いずも ものである。これに対し、 O は、東日本とくに がある。「長崎のバッテン」「出雲ズーズー」 ( 七石 ) がある。表情は明るく、体躯は均斉が てんがい とれており、華麗な天蓋、台座、装身具などに 言語と方言 / いろいろな方言 / 分化と統「三河のノンホイことば」「サロ ( 佐渡 ) のライ関東付近のことばが共通語として採用された例 コン ( 大根 ) 」「東京下町のペランメー ( べらばである。のように、全国的に普及したことば 合 / 各地の方言 / 有力な方言 盛唐期の仏像の特色が認められる。〈吉村怜〉 うめ ) ことば」「栃木 ( 茨城 ) のしり上がり調」も、もともとは関西か関東で使われていたもの ほうけいしゅうこうば方形や長 方形周溝墓 人間のことばは住む場所によって違う。場所のように、よく使われることばや発音・アクセだろう。以上のように、われわれが考える共通 方形に墓の周囲を溝で区画し、その内部や溝中 による違いのうち、一つの言語の内部の差が方ントの特徴をうまくとらえたものが多い。ま語は、さまざまな点で方言と連続的である。 に埋葬をする家族 ( 小集団 ) 墓の一形式。弥生 た、ある地方独特で、他には通じないとされる 〔独特の方言〕以上であげたものは、おもに語 時代前期末から古墳時代前期に、主として近畿言である。 のと 地方以東で盛行した。墓域は、数基あるいはそ〔言語と方言〕どの程度ことばが違ったら一一一一口語方一言がある。能登のべッチャ ( 違う ) 、高知の形 ( 言い方 ) そのものが共通語と食い違うよう れが数群で形成され、連結や規則的な配置を示としての差で、どの程度似ていたら方言としてイクニカーラン ( 行くだろう ) などである。方な例 ( とまったく一致する例 ) であった。各地 みやげ の方言には、語形が共通語と一致しないものだ 言は、観光土産に利用されることがあり、方言 すものが多い。墓の造営では、溝による平面区の差なのかについては、さまざまな判別法が唱 てめぐいちやわん 画に重点が置かれ、高さ一前後の盛り土をもえられている。中国の非常に違ったことばが中の単語を記したのれん・手拭・茶碗や、方一一一口会けでなく、単語の意味が共通語に訳せないよう な、独特なことばがある。雪国で雪に関する語 = = ロ言した絵葉書などが売られている。これら つものもあるが、墳丘構築を重視するのは後出国語としてまとめられ、ラテン語から分かれた に利用されるのは、他の地方の人には意味の見彙が発達しているのが典型的な例である。「下 的なものである。平面形態は、四隅の何か所かスペイン語・ポルトガル語などが別の一一一一口語とさ た 溝の一部を掘り残すことで、各種のバラエティれるのは、むしろ一言語以外の、政治や文化が基当のつかないような変わった言い方の単語であ駄の歯の間につく雪の固まり」 ( ポッコ、モッ コ、デンゴロ ) 、「木の枝にたまった雪が落ちる ーに富む。円形や前方後方状のものも含め、時準になっている。この意味で、日本語に関してる。このなかには、東北のメンコイ、関西のア りゅうきゅう カン、九州のヨカ ( よい ) などのように、全国こと」 ( シズ ( オ ) レ ) など、共通語では一語で 期的、地域的な傾向をもっ墓域と、複数の形態微妙な位置にあるのが琉球地方の方言である。 あまみ 表せない意味のことば ( 特有語 ) が、雪国では が同一墓域を構成することもある。埋葬施設かって奄美・沖縄諸島に琉球王国が成立し、そ的に有名なことばもある。 ど一一う つばかんかめかん さまざまに発達している。ドンドヤキ、サナプ は、木棺直葬や土壙を設け、壺棺や甕棺も一部の首都首里のことばが文字に記され、全土に通〔気づかない方言〕これと逆に、地域差があっ リなど、民俗に関する名称もこの例であり、東 じた時代には、「琉球語」としての地位をもって、ある地方でしか使われず、共通語にもない で小児用として使用する。副葬品は、大部分か くいものがある。西京付近にその行事が存在しないときには、有力 らは発見されないが、少数から玉類、鉄・銅製ていたとみなしうる。しかし、明治以降、鹿児言い方なのに、気づかれに この な方言の言い方を採用してよぶしかない 品が出土する。土器は、陂砕された葬送儀礼用島県・沖縄県に組み入れられ、本土と同じ標準日本のナオス ( しまう ) 、全国各地のコワイ せんこう や、穿孔 ( 焼成前または後に施す ) や一部を打語が文章でも教育・行政でも使われるようにな ( 疲れた ) 、中部地方のトプ ( 走る ) などがこのはかにも各地に、共通語にない意味の単語があ って、独立の一一一口語としての地位を失った。さら例であり、語形が共通語と一致して意味がずれる。中国地方では、「痛む」ことを、そのよう ち欠いて儀器化した供献用が出土する。 すによって別々の動詞で呼び分ける。東北地方 に、実は日本語から分かれてできたことばであているものに多い。公の場であまり使われない 方形周溝墓は、弥生時代前期末に近畿地方で ようなことばだと、方一一 = ロ差があることに気づか 北部や北海道のアズマシイということばは、共 発生して伊勢湾岸へ及び、中期以降に急速に東ることが言語学的に証明されたこともあり、 でんば まは本土方言と並んで、日本語の二大方言の一れることがさらに少なく、文学作品などにも使通語には訳せないが、英語なら comfortable 方へ伝播するが、西方への波及は少ない。しか われることがある。ウルケル ( 東北で、ふやけ にあたる。「水にぬれたときの不快な感じ」 ( ャ し古墳時代前期には、東北地方から南九州地方つ「琉球方言」として扱われている。 バツイ、東北 ) や、「背中などがチクチクする 〔共通語と方言〕方言はまた共通語・標準語とる ) 、櫛で髪をトク ( 西日本 ) 、みそ汁をモル までの汎日本的分布を示す。 類似の墓制に方形台状墓があり、丘陵上で溝対立してとらえられる。共通語・標準語も、起 ( 東北 ) 、ご飯をッグ ( 西日本 ) などである。こ感じ」 ( ノゲッポイ、関東 ) なども、共通語で による区画よりも、地形整形で立体的に構築す源をつきつめるとどこかの方言が基盤にあるれに対し、公的な場で堂々と使われることばでは一語で表せない 〔欠落語〕以上と逆に、方言では言い表せない が、いったん成立すると、他の方言とはまったあるために、かえって地域差があることに気づ るものである。弥生時代前期に発生し、中期以 く違った価値観でとらえられる。方言とのいちかないことがある。関西の「モータープール」意味のあることも注意すべきである。先にあげ 降に中国地方を中心に盛行する。〈鈴木敏弘〉 はん せ たいく やよい

6. 日本大百科全書 21

、間に長マアジ〔真鰺〕 T 、ミぎミ s をミぎ s じ正確さで拍子と足が当たるのではなく て前半生の十数年を獄舎で送り、出獄後三三歳の意。一八三六年刊。「森の主」とよばれるロ圏 あ短があ 0 てその微妙なずれが雅楽をよりおもし硬骨魚綱スズキ目アジ科に属する海水魚。日本で初めて筆をとり、以後全集七四巻に及ぶ膨大マンチックな盗賊ビレームとその恋人ャルミ一フ 7 ろく見せるという。どうやら日本の間にはリズ各地の沿岸、東シナ海、朝鮮半島の沿岸に分な作品を残した。このうち約三分の一は青少年の悲恋を中心として、人の世のできごとと自然 ま ムやタイミングのずれを喜ぶ不規則性が加味さ布。日本産アジ類のなかでもっとも普通な種類向き。舞台を中近東、アメリカ西部、その他との叫びを歌っている。全体は四部に分かれ、イ ほば三つに分けて冒険小説を書いた。主著は、 ンテルメッツオが二か所にある。内容的には、 れている。しかもたいせつな点は、西洋のリズで、主として巻網で漁獲される。全長四〇垰一に しゅうちょう ムは音や動作を伴う拍子そのものが耳に響く 達し、大形のものはオオアジともよばれる。体作者が「私」の形で、アバッチの酋長ウィネ客観的な叙事ーービレームは処刑され、ヤルミ しり そくへん ラは湖に投身するーーと主観的な叙情を交錯さ が、日本の間は拍子と拍子のあいだの空白を意 はやや側扁した紡錘形、臀びれの前方に二本のトウとの友情と大西部における冒険を語った きよく りよ・つりん 〈山口四郎〉せ、格調に富んだ作品で、とくに一人称の使用 識する違いがある。この空白はからつばの空で遊離棘があり、側線の全長にわたって稜鱗『ウィネトウ』全三巻 ( 天九一 (l) 。 が効果的。最終行の呼びかけには作者の名ヒネ はなく、次の拍子への緊張感を充実させた空で ( ぜんご ) が並ぶ。日本沿岸では、沿岸域で定舞まい広く「舞踊」の意に用いる場合と、 ある。つまり微妙に伸縮する時間の空白が間で着的な生活をするキアジと、沖合いを回遊する「」に対する「舞」としてその異なる要素をクが出てきて、急速に夢と現実が交錯する。 せんのりきゅう クロアジとよばれる二型がある。広く鮮魚、干区別していう場合とある。「舞踊」の語は一九「チェコの人びとはよき国民 : : : 」で始まる、 あり、それは空間意識の間に通じる。千利休は しょ・つよ - っ 絵画のなかに描き残された空白の部分にわびの物として食用にされるほか、養魚場や水族館で〇四年 ( 明治三七 ) 坪内逍遙の『新楽劇論』短い前置きのつく版もある。この詩は、チェコ じりよう は餌料として重要である。↓アジ〈鈴木清〉から一般的になっていったが、関西では古くかの国民にとくに愛好され、詩学者ムカジョフス 美があるといった。絵画や文学の余白、余情と 〈飯島周〉 ら舞の形式が残存していたため、舞踊の意をキーによる詳細な分析がある。 いう無規定、空白の間に美を認める考えは、日マアツリー Abü ) て A al ・ Ma'arri 本の建築にも表れる。西洋の大建築では、完全 ( 九七三 ー一 0 五七 ) アラビアの詩人。北シリアで生舞、江戸では踊という習慣がある。舞は本来マイアー・グレーフェ Julius Meier- な、しかもバランスのとれた設計図があって細まれた。若くして盲目となる。バクダードで仕「まわる」「まわす」という動きを表す意味のこ Gräfe ( 天六七ー一九三五 ) ドイツの美術評論家。 部まで決定されて工事が始まる。しかし日本の官を志したが、不遇のうちに故郷へ隠退し、著とばで、巡り回る運動を主とし、足は高く上げオーストリアのバナト地方 ( 現在ルーマニア やまと はやと 代表的建築である桂離宮をみると、初めの計画述と詩作に専念した。初期の詩は『サクト・アず床を滑るようにする。古代に「隼人舞」「倭領 ) に生まれる。雑誌 rpanJ を創刊 ( 天九五 ) 。 くせ ごせちのまい - 一うわか 一九世紀フランス絵画についてはドイツでもっ ツ・ザンド ( 燃え木の輝き ) 』に、後期の詩は舞」「五節舞」等々、中世に「幸若舞」「曲舞」 にはなかった二回の増築によって建物はアンバ しらびよ・つし 「白拍子舞」等々、数多くあり、能の舞が完成とも優れた研究者である。印象派を擁護し、セ 『ルズーミーヤート』 ( 正式には『ルズーム・マ ランスに発展し、現在の姿が完成した。初めか されている。「踊」が主として近世に大きな発ザンヌやゴッホ、ルノアールなどについて多く ・ラー・ヤルザム』。不可欠ではない義務の ら増築の余地が予定されていて、余白 ( 間 ) に 新しい意匠を加えて全体が完成される。日本人意で、韻律のむずかしさをさす ) に収められて展を遂げ、庶民的性格をもつのに対し、「舞」の著書を刊行。またドイツの画家ハンス・フォ ン・マレースに関する研究業績 ( 一九 0 九 ) は注目 いる。初期には詩人ムタナッビーの影響が認めは時代的に古く、貴族的性格をもっといえる。 の空間意識の間には、余白という無規定性ある じうた かみがた される。 〈鹿島享〉 られるが、後期にはペシミズムが色濃くなり、京阪に伝わる「上方舞」はおもに音楽が地唄 しは非相称性が含まれる。 ( 地歌 ) であるところから「地唄舞」とよばれ、 では、どこから日本人の間の発想が生じたの孤高を誇るようになる。 マイア、、、 Miami アメリカ合衆国、フロ ぶんらく 能の舞、あるいは文楽の人形の動きなどを取り リダ州南東部の観光・保養都市。人口三四万六 散文体の代表作は『ゆるしについての書』 か。間の意識の根底には、日本人が自分と他人 ( 一 0 三一 l) である。これは二部からなり、第一部入れ、独自の味を備えている。また「舞」は、九三一、大都市圏人口一五七万三八一七 ( 一九 との関係を非常に重視する思想があるだろう。 じんかん 「踊」「振」とともに日本舞踊を構成する技法の 含 ) 。マイアミ川の河口に位置し、ビスケーン 本来は人々の世界という意味の人間を日本人はで著者の楽園と地獄への訪問が語られている。 かぶき 湾に面している。世界的に有名な避寒地として 一つで、歌舞伎舞踊にも種々含まれている。↓ この作品はダンテ『神曲』の構成に影響を及ば 人という意味に転換させたが、それも、人と 〈如月青子〉知られる。観光業が最大の産業で、釣り、水 人との間柄のなかに人は存在しているという意したと考えられている。また、近代アラビア文踊↓振↓舞踊↓上方舞 能を演ずることを「能を舞う」というのは、 泳、ゴルフ、ヨット、競馬などの娯楽・レクリ ・フセインにもその影 識の表れだった。相手と自分の微妙な間柄を表学の巨匠の一人ター エーション施設が整備されている。工業として 〈矢島文夫〉すべての演技が写実を離れ、舞という様式性に 現する謙譲語や敬語が異常に発達したのも日本響がみられる。 は、アルミニウム製品、衣服、家具、機械、ガ 語の特徴である。あるいは世の中を意味する世マアナゴ〔真穴子〕硬骨魚綱ウナギ目ア統一され、抽象化されねばならないという、能 間ということばを、自己と世の中の間の社会関ナゴ科に属する海水魚。全長九〇に達し、体の理念を端的に表している。狭義の舞は、クセラス、印刷・出版などがある。また、冬野菜の 係として世間体などと使うのも、他者の目をつ側には一縦列の白色点があり、その直下の側線のように、謡われる文章によって舞われるもの集散・加工地でもある。 ちゅう と、序ノ舞、中ノ舞、神楽、楽、獅子などの、 一八三五年のセミノール・インディアンとの ねに意識する日本人の社会心理である。このよ孔も白く縁どられているので、白色点が二列に とりで ばかり うな相手と自分の間柄 ( 間合い ) を重視する土並ぶ。そのようすがさお秤に似ているのでハカ器楽演奏だけによる無機的な舞 ( 舞事 ) に大別戦いのときに建設されたダラス砦の近くに、 される。居グセのような不動の演技も、心が舞 八七〇年代になって最初の集落ができ、九六年 リメともよばれる。北海道以南の沿岸にもっと 着的な日本人の意識が、人間関係の微妙さを表 はえなわ う、より高度の舞という考えであり、また能のより市制が施行された。同年、実業家のフラグ も普通に産し、夜釣り、延縄、機船底引網など 現するさまざまの文化を生み、空間や時間の間 一フー Henry Morrison FlagIer ( 天三 0 ドラマの頂点部分で、具体的表現をまったくも に、西洋にはない不規則性や無規定性などの微で漁獲される。食用として各種の料理で賞味さ 〈浅野博利〉 たぬ舞事が舞われるのも、能が再現写実と逆方はフロリダ・イースト・コースト鉄道を延長し 妙な変化を鑑賞する日本の伝統文化を創造したれる。↓アナゴ ーー九 lll) ドイツの向の演劇であることを示している。狂言にも舞てマイアミを終点とし、港を整備し、観光開発 〈熊倉功夫〉 とみることができょ , つ。 マイ Karl May ( 天四 = の要素は豊富であるが、その多くが余興としてを進めた。一九二〇年代にフロリダの土地プー 伝統文 小説家。ドイツでもっとも多く読まれた大衆小 回西山松之助他著『日本人と「間」 ム月との本質的な違いである。 ムがおこり、これと同時にマイアミも発展し 化の源泉』 ( 一一・講談社 ) ▽南博編『間の説、少年小説作家。その発行部数は第二次世界舞われることは、ヒヒ 〈増田正造〉 た。現在、マイアミ都市圏にはキューバ系を中 研究ーー日本人の美的表現』 ( 一九ハ三・講談社 ) 大戦後だけでも三〇〇〇万部 ( いわゆるマイ・ 心とした約五〇万人のラテンアメリカ系の人々 ▽井上忠司著『世間体の構造』 ( 一九七九・日本ルネサンス ) 、累計では六〇〇〇万部に達するマーイ Måj チェコスロパキアの詩人力レ ( 一九含現在 ) 。極貧の家庭に生まれ、犯罪者とし ル・ヒネク・マーハの叙情詩的叙事詩。「五月」 が住んでいる。↓マイアミ・ビーチ〈菅野峰明〉 放送出版協会 ) かつら まい′一と ー一九一 lll)

7. 日本大百科全書 21

へるそな 分そがセ浮工完なれの帝のれ けた派遣国は、その者を召還するか、その者の 部 , 部クの着が要わ殿アさ 任務を終了させなければならない。ベルソナ・ る前にる壁が世重行見シ , 刻 最方え側世 ・カルこク ノン・グラータの意思表示は、任務地の領域に , 右見段 1 スは祭 つ。、殿のが階スセ殿年 た , あ列 、■ 入る前からいつでも可能である。また、使節団 ス立「柱殿門東ウク見新つはに行 が 0 百見の殿リル謁るあに下貢 の外交官以外の職員および領事についても同様 ポ柱殿が謁ス見ダセたあで壁配朝 セ石見前 〈広部和也〉 の制度がある。 。セ謁。クせで所側支のる ル〕冖謁手舎ク 〕り , さ式場段の族 ノ / ー一九七七 ) ペ〔がの兵ル 彫し成儀る階国民てヘルソン HarryHelson ( 一、九、 レ アメリカの心理学者。マサチューセッツ州の生 へ まれ。 ード大学でポーリング、マクドウ したかげたど クの仄暗いアーチをくぐり緑の並木の下翳を辿 ーガルの指導を受け、一九二四年学位をとる。 コーネル大学、イリノイ大学、プライアン・マる」と、フランスとは異なる自国文化への魂の ウア・カレッジを経て、第二次世界大戦中は国自覚を記している。ストラスプール ( シュトラ 、、「ノュトウ ~ ぐ 家国防委員会所属、その後テキサス大学教授、スプルク ) で若いゲーテと出会し しつぶうどとう ■ カンザス州立大学教授を歴任。コーネル大学に ルム・ウント・ドラング」 ( 疾風怒濤 ) 運動の 在職中 ( 一九一一四 ~ 一一五 ) 、コフカの演習に出てゲシ きっかけをつくった。七一年ビュッケプルクの ュタルト心理学に興味をもち、その紹介にあた宮廷牧師となり、七六年ゲーテの推薦でワイマ った。研究領域は非常に広いが、一般には、さ ールの教区総監督に迎えられ、その地で終生過 ごした。一八〇三年一二月一八日没。 【第まざまな判断の基準となる準拠系を研究した順 応水準理論の提唱者としてよく知られている。 彼の思索活動はきわめて多岐にわたるが、ま 「著書に「。 p 。ぎ、。。、 G ) ミご ( 一〈 = 0 、ず文芸理論の分野では「オシアン論』 ( 一戔 (l) 、 『 Ad 、ミトミミ T 0 こ一 . ・ゝ、 ~ E. e 、、ぎミミミ 『シェークスピア論』 ( 一七七三 ) 、『民謡集』 ( 一七大 ~ 七九 ) 、『へプライ文学の精神』 ( 一七全 ~ 盒 ) な d S s 、 2 ミミ、ゝト、き ac 、、 0 Be ぎ 0 、』 ( 一九 ・けいも、つ 六四 ) などがある。 〈宇津木保〉どがあげられる。いずれも啓蒙思想の主知主義 ヘルソン Xepc0H/Herson ソ連、ウク的文芸観に変革をもたらした画期的著作で、在 ライナ共和国南部、ヘルソン州の州都で港湾都来の文学観の基礎にあった、いわゆる三統一の り出した。これが酵素を実体として取り出した に、それそれ他から区別される個体性をもつ。 法則および古典古代の作品を文芸一般の規範と 最初の研究で、酵素の最初の発見とされる。こすなわち、御父においては、自らは生まれず、市。人口三五万二〇〇〇 ( 一九会 ) 。黒海に注ぐ みなす見方を退け、創造精神の自由こそ文学の の物質はジアスターゼと命名されたが、自己の御子を生み、聖霊を発出させること、御子におドニエプル川の河口から約二〇キ。上流の三角州 、ては、御父から生まれること、聖霊において頂点に位置する。クリミア、ニコラエフなどと原理であるとし、同時に民族の歴史と風土を文 重量の二〇〇〇倍の重量のデンプンを糖化する 能力があった。この研究は、その後の酵素化学は、御父から発出することがベルソナとしての鉄道や道路で結ばれる。港は海陸の貨物積み換学芸術成立の基盤とみる立場を確立した。また の発展の端緒になった研究として歴史的な重要固有性である。このような意味で三一神の教義え地点として発達した。造船、ボギー台車、電一一 = ロ語思想の面では『言語起源論』ほか 気機器、コンバイン、精油、。 カラス、繊維、魚があり、言語とは事物や観念の単なる恣意的な 性がある。ジアスターゼは現在のアミラーゼでは、「三つのベルソナ、一つの本質」 tres per- ふちょう ある。 sonae, una substantia という定式で表現され缶詰、ぶどう酒醸造など多種の工業がある。市符丁ではないとし、言語と意識と事物の関係を の創立は一七七八年で、一八世紀末建立のスパ 人間論的に問うとともに、言語をとりわけ母国 彼はほかに、酵母にショ糖をブドウ糖と果糖る。この場合ベルソナは、ギリシア語のプロソ ーポン prosöpon 、あるいはヒュポスタシス とに分解するインベルターゼ ( サッカラーゼ ) スキー聖堂が残る。二つの劇場、絵画館、郷土語の面から民族の文化形成との関連によりとら 〈渡辺一夫〉 〈宇佐美正一郎〉 作用があることを発見した。 hypostasis にほば対応し、具体的な個別存在館もある。 えたことは、フンポルトの一 = ロ語哲学への礎石を 据えるものとなった。さらに歴史哲学の領域で ヘルダー Johann Gottfried Herder ベルノナ persona 人格、位格を表すラテを意味している。さらに後代の神学では、ベル ( 一七四四ー天 0 三 ) ドイツの思想家。八月二五日、 ン語で、正確な発音はベルソーナ。元来、俳優ソナは神の存在様式 modus essendi, Seins- は、主要著作として、『人間性形成のための歴 / 学校教師の子史哲学異説』 ( 一七七四 ) 、『イデーン ( 人間史の哲 が頭部にすつばりかぶる仮面の意。転じて俳優 weise として説明されたり、近代的な人格観東プロイセンのモールンゲンにト・ 念と結び付けられることがあった。 として生まれる。ケーニヒスペルク大学で神学 が演する役割、役柄、登場人物をさし、さらに 学の諸理念 ) 』 ( 一天四 ~ 九一 ) がある。歴史を自然 人物、個人、性格、人格を意味するに至る。 日本語では「位格」と訳されるのが普通であと哲学とを学び、カントの影響を受けるととも に対立する概念とみなすのが通常一般のとらえ に神秘的思想家・・ ーマンに私淑した。方であるとすれば、これを転換して、人間精神 とくに古代キリスト教神学は、テルトウリアるが、「格身」などの訳語もある。〈水垣渉〉 一七六四年リガ ( 現ソ連西部、ラトビア共和国と自然世界とを統一的立場により把握する独自 ヌス TertuIIianus ( 一六 0 ころ ー = = 0 ころ ) 以来、御ベルソナ・ノン・グラータ persona な歴史観を確立した。とくに『異説』では、民 父と御子と聖霊の三者が一なる神であるとの三 non grata 冖テ「好ましくない人」の意味。外の首都 ) の司教座聖堂付属学校教師となり、 ろんそう さんみ 『近代ドイツ文学断想』 ( 一七六七 ) 、『批評論叢』族や時代について歴史事象の個体性の観念を導 一神 ( 三位一体 the Trinity) の信仰を説明す交使節を交換している国家間で、接受国は、い つでも、理由を示さないで、使節の派遣国に対 ( 一七六九 ) を発表し若くして名を知られた。六九き入れ、後の歴史主義へと道を開く一方、『諸 る場合の術語としてこれを採用した。四世紀に 確立した正統的な三一神論によれば、御父、御し、特定の外交官がベルソナ・ノン・グラータ年、リガを去りフランス・南ドイツへ旅した 理念』では、人間文化の展開の諸相を、人間性 子、聖霊は共通の本質として神性をもっとともであると通告することができる。この通告を受が、『旅日記』 ( 一七六九 ) に「わがゆく道はゴシッ の発展の理念のもとに終末観の枠組みによりと を : ほの 2 154

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ちょう 去外組△ロほうがいくみあい元来アメリカで承六 ) 日野資業の本願によって創建され、もと いわゆる蝶形双晶などはとくに有名である。セほどにか法界屋とよばれた。日清戦争を境に、 は、会社側に取り込まれた御用組合 company は天台宗であった。代々、日野一族門葉が資財メントをはじめ各種工業原料として重要。英名明清楽は敵国の音楽だという理由で衰退に向か がらん union,inside union とは逆の労働組合のことをなげうって堂塔を整えたので、伽藍の威容は は、ラテン語で石灰を意味する calx に由来すうが、剣舞をも取り入れた流しは増加する一方 おうにん をアウトサイダー・ユニオン outsider union 荘厳美麗を極めていたが、室町末期に応仁の乱る。一般に炭酸塩鉱物には複屈折の大きいもので、法界屋は婦女子のあこがれの的となり、流 、自主的な組合を意味する。しかしわがの兵火にかかって焼失し、現在は薬師堂 ( 本が多く、方解石はその代表例である。しかも、 しのあとを追う者が長い列をなしたという。そ あみだ 国では、労働組合法第二条本文の要件 ( 自主性堂、国重文 ) と阿弥陀堂 ( 国宝 ) の二宇が残他のものと比べて透明度が高く、劈開が完全でのため一九〇〇年 ( 明治三三 ) のころには、風 てんしよう の要件 ) および第五条二項の要件 ( 民主性の要る。本堂は天正年間 ( 一五七三 ~ 九一 l) に炎上し、 あるので、非常に観察がしやすい。〈加藤昭〉俗問題や交通妨害が起こってくる。さらに、芸 能を愛好する若者が厳しく指弾されたため、法 件 ) を満たした労働組合を法内組合、これらを現存の薬師堂は一九〇四年 ( 明治三七 ) 奈良県崩壊定数 ほうかいていすう decay constant かんじよう 欠くものを法外組合といし 、この法外組合のこ 竜田の伝燈寺の灌頂堂を移築した一四五六年放射性物質または不安定な状態にある原子核や界屋はしだいに姿を消し、『法界節』も連命を とをアウトサイダー・ユニオンともいう。自主 ( 康正一 l) の古建築である。堂内には国重文指粒子が崩壊する際の単位時間当りの確率を表すともにした。 〈倉田喜弘〉 でんぎよう すみだがわごにちのおもかげ 性の要件とは、使用者の利益代表者が加入して定の本尊薬師如来像 ( 伝、伝教大師作 ) と、定数。安定でない状態にある原子核や粒子は、 ほうかいばう 0 隅田川続俤 法界坊 きようじ ばさっ ガンマ にほんおんがく ほうがく日本音楽 いたり、使用者から経費援助を受けることなど脇侍の日光・月光菩薩像、十二神将像 ( 伝、種々の粒子や、線などの電磁波を放出して崩邦楽 うんけい を通じて使用者に支配されていないことをい 運慶作 ) を安置する。この本尊に祈願すると授壊する。この崩壊は個々の原子核や粒子につい 法に関する学問。法律学と 法学 う。また、民主性の要件とは、組合内で民主主乳の霊験あらたかであるといわれ、昔から多くては偶然に支配される確率現象であるが、非常もいう。狭い意味では法解釈学を、広い意味で ちち 義を確保するために労働組合法第五条二項に掲の人々に信仰され、「乳薬師」ともいわれてき に多数の崩壊する同じ原子核の集まりや同じ粒は法に関する学問一般をさす。広い意味の法学 ほうおうどう げる九項目を組合の規約中に定めることをい た。阿弥陀堂は平安時代に宇治の平等院鳳凰堂子の集まりについては、単位時間に崩壊する割 には、法解釈学のほかに、法哲学、法社会学、 ラムダ う。労働組合は、自主性および民主性の要件をと相前後して建てられたといわれてきたが、建合、 / は一定の値となる。この値、 / を崩壊定数と比較法学を含み、さらに法政策学、法論理学、 満たしていない場合、労働組合法で定める手築、壁画などから、今日では鎌倉初期の一一三 いう。崩壊定数は崩壊する原子核や粒子の状態法心理学、法人類学などを含めようとする学者 じようちょう 続、 すなわち法人登記 ( 一一条 ) 、労働協約の 六年 ( 嘉禄一 l) 造営と推測され、定朝作と伝 の種類一つ一つに対して固有な一定の値をも もある。ドイツ語では狭い意味の法解釈学を ざぞう 地域的拡張適用の申立て ( 一八条 ) 、労働委員える丈六の阿弥陀如来坐像 ( 国宝 ) を安置してつ。たとえば、自然放射性原子核系列にあるポ Jurisprudenz とよび、広い意味の法学一般を 会の委員の推薦手続 ( 一九条 ) および不当労働 いる。また、内陣長押上部の漆喰壁に描かれた ロ一一ウム原子核 Po は崩壊して鉛原子核さす場合 Rechtswissenschaft とよんで使い分 行為の救済申立ての手続 ( 七条 ) に参加するこ飛天図など一一三面の壁画 ( 国宝 ) は絵画史上貴 けることがある。 206Pb にかわる。この詈 Po の崩壊定数は一秒 しゅしようえ とができない 。このような不利益を与えること重なもの。一月一四日に行われる修正会の裸当りの崩壊確率として、 2 Ⅱ 5.8X1 ラで与えら〔歴史〕中国の古代王朝時代にすでに法学は専 を通じて労働組合法の要件を具備するように促踊りは有名。 3 阿弥陀堂 〈野村全宏〉れる。このような崩壊定数スは、放射性原子核 門的に研究されていたと考えられ、古代エジプ すことが立法目的である。 回『古寺巡礼京都四法界寺』 ( 一九七九・淡交社 ) に対してよく用いられている半減期 Tl/2 と トやメソボタミアにも法の知識を職業とする者 は、次の逆比例の関係式で結ばれている。 Tl/2 しかし、民主性は欠いていても自主性のある法解釈学 ほ , つかいしやくがく があったと伝えられる。またプラトンやアリス 組合の場合は、日本国憲法第一一八条で保障する Rechtsdogmatik 書実定法の解釈を任務と 日 0.6931 、 ( 洋 ) 。↓半減期 〈池田清美〉トテレスなどの著作を通じて古代ギリシアにお 団結権の権利主体であるといえるから、労働組する法学の一分科。実定法の原則を体系化し、 ほうかいぶし明治の流行歌。作詞・ ける法理論や立法技術の発達のようすをうかが 法界節 みんしんがく 合法によりとくに設けられた手続への参加はでそこからさまざまな法律問題について正しい解作曲者未詳。江戸末期に長崎へ伝わった明清楽うことができるが、近代法学の直系の先祖は古 きなくとも、憲法第二八条の権利は享有しうる釈をみいだして法実務を指導、批判しようとすは、一八七〇年代の後半から日本各地へ広まっ代ローマ法学である。 げつきんみんてき のであり、団体交渉や争議行為の刑事免責、民る学問分野である。その方法をめぐってはさま た。月琴や明笛は若者の間にもてはやされ、こ ①古代ローマ法学ローマ人は権利の行使に際 事免責が認められ、労働協約も締結できる。自ざまな学派の主張があり、その学問的性格を否れらを伴奏に新しい歌が生まれて としよしくるす はや 産 主性、民主性の要件を満たしているか否かの審定する批判者もある。日本でも宮沢俊義、来栖 くる。なかでも「ホウカイ」を囃 山 6 字 たけよし まさやす 査は、労働組合が労働組合法上の手続の申立て三郎、川島武宜、長谷川正安などが「法解釈学子阿とする曲は、一八九〇年代の 尾 る をするたびに労働委員会が行うのであり、労働の客観性」に疑問を提起して、論争が行われ初めに『法界節』と名づけられ、 県産よえ 組合の設立に際して審査が行われるわけではな た。↓法学↓法の解釈 木 , 国に見 〈長尾龍一〉大流行した。二、三人ずつが一組 ・一きゅう 石栃 3 中折に ほうかいせき炭酸カルシウムの鉱となった若者は、月琴や胡弓を奏 。この資格審査を経て初めて手続に参加で方解石 解 上 x 左 き、もし資格要件に欠けるところがあれば労働物。あられ石と同質異像関係にあり、これよりでながら流して歩くので、いつの 委員会が補正勧告をする。なお、法外組合の場は原子配列は粗である。石灰岩の主成分とし 合、組合としては不当労働行為の救済申立てはて、あるいは各種熱水鉱脈鉱床の脈石鉱物とし できないが、所属する個々の労働者自らが申立て、また超塩基岩ないし塩基性岩に脈をなして てをすることはできる ( 労働組合法五条一項但産するほか、産状はきわめて多い。自形結晶は けんが に珥・万 書 ) 。↓アウトサイダー・ユニオン↓御用組合変化に富み、板状、犬牙状、低い三方両錐など O 六 ↓労働組合 〈吉田美喜夫〉のほか、複雑な集合体も多くみられる。また石 ふしみだいごひの しようにゆう 名式 ほうかいじ京都市伏見区醍醐日野西灰華や鍾乳石のような形をなすこともある。 が法界寺 英成 しんごん とう・一うイ」ん 石・組分系 、フ大道町にある真言宗醍醐派の別格本山。東光山わが国では産地はきわめて多く、岐阜県の神岡 解名学成晶度重沢痕開 ひのやくし ひでしま と号する。通称「日野薬師」。一〇五一年 ( 永鉱山や赤坂などの良晶、岩手県宮古市日出島の方学化副結硬比色光条劈 すけなり 3 2.71 無ス向 白ガ白三 へきかい 2 293

9. 日本大百科全書 21

テトラー : ポリペプチ合物である。ビウレット反応で紅紫色に呈色すへプライ Hebrew へ。フライ語の tibri に中東地域の共通語で同じく北西セム語に属した んぞれジー、トリ・、 二 ~ 一〇個のアミノ酸からなるべプる。以前はタンバク質のペプシンによる分解物由来し、元来はヘブライ人の意であるが、のちアラム語に席を譲っていく。しかし、紀元二〇 には呼称として古代イスラエルの民族、文化 〇年ごろに集成されたユダヤ教文書 ( ミシュ 、ふチトをオリゴペプチドとよぶこともある。トリを意味した。種々のペプチダーゼによ 0 てさら ペプチド ( 図参照 ) 以上のペプチドは、ビウレッ に分解され、アミノ酸となる。微生物を培養す言語などを総称する際に用いられる。たとえばナ・ミドラシュなど ) のミシュナ・ヘブライ語 ト反応で紅紫色に呈色する。末端のアミノ基がるとき、窒素源として用いられる。〈野村晃司〉古代イスラエルの一一一一口語はイスラエル語ともユダは、一部で二世紀末ごろまで話されたらしい ャ語ともいわず、へ。フライ語とよぶ。へプライその後の中世へプライ語は、アラム語、ギリシ 遊離しているべプチドは、アミノ酸と同様に一一へ。フ一フ R ~ ・、、 e 、 Ferdinand von Hebra ンヒドリンで紫に発色する。ペプチドとタンバ ハ 0 ) オーストリアの皮膚科学者。近代人 ( へプル人 ) とはもともと民族名ではなく、 ア語などの要素も加わった人工的文学語で、 ク質を区別する明確な境界はないが、分子量五皮膚科学を樹立した。ウィーン学派創立者の一紀元前二千年紀、古代オリエント地域一帯に広レスチナだけでなく、欧州各地で宗教、哲学、 〇〇〇 ~ 一万以上のものはタンバク質とよぶこ人。プリュンに生まれる。グラーツ大学を経がっていた貧しい社会層ハビル babiru と関係文学、自然科学などの分野に多くの重要な作品 とが多い。天然のペプチドには、インスリンやて、ウィーン大学で医学を学び、一八四一年にするらしい。その一部が目に見えない神を信じを残した。こうしてユダヤ教徒によって文字一言 オキシトシンなどのホルモン、グルタチオンな卒業。一般臨床をスコーダ Joseph Skoda ( 天 て団結し、現在の。ハレスチナに定住した。これ語として継承されてきたへプライ語が、啓蒙主 どの補酵素、血圧上昇物質アンジオテンシン、 ハ l) に、病理学をロキタンスキー Karl がヘブライ人、すなわち古代イスラエル人の起義 ( ハスカラ ) に刺激され、一九世紀後半、エ 毛細血管拡張物質プラジキニンなどの生理活性 von Rokitansky ( 天 0 四ー七 0 に学び、四五年源であるともいわれる。事実、『旧約聖書』の 丿工ゼル・・ヘン・イエフダ Eliezer Ben Yehu- しもべ da ( 天大 ペプチドのほか、グラミシジンなどの抗生物ウィーン大学皮膚科主任、六九年同教授。当時なかでは、古代イスラエル人社会内の僕がヘブ ーー九 llll) らの献身的な努力によって、 しんめいき 質、タマゴテングダケのアマニチン、ミッパチあまり関心のもたれていなかった皮膚におこるライ人とよばれている ( 「申命記」一五章一二 ハレスチナに日常語 ( 現代へプライ語 lvrit) のメリチンなどの毒素などがある。これらのな疾患に注目し、皮膚科学を独立した体系とし節 ) 。『新約聖書』においては、当時ギリシア語 として復活、現在イスラエル国の公用語として しっしんかいせん かには非タンパク質性のアミノ酸やーアミノ た。湿疹や疥癬について研究し、それまでの病を話すユダヤ人に対し、ヘブライ語を話すユダ三〇〇万人近くの話し手をもっている。 酸を含むものもあり、また末端のない環状構造原説を改め、これらを治療しうることを示しヤ人をへプライ人とよぶ ( 「使徒行伝」六章一 〔特徴〕セム祖語の特徴をよく保存している古 をとるものもある。アミノ酸のかわりに乳酸のた。病理解剖学的立場から皮膚疾患の系統的分節 ) 。またそういうユダヤ人にあてて記された典アラビア語と比べると、すでに古代におい ひ・一う ほうしんのうか ようなオキシカルポン酸とのエステル結合を一類を行い、 紅色粃糠疹や疱疹状膿痂疹について「へプライ人への手紙」が『新約聖書』のうちて、強子音体系の単純化、格語尾の消失、双数 部に含むべプチドは、デブシベプチドとよばれ記載した。その皮膚科学書や図譜は、その後の の一書をなしている。使徒バウロも自分のこと形の退化などの現象の反面、母音体系の複雑 どひ る。ペプチドはタンバク質をプロテアーゼで限基本となった。日本の土肥慶蔵は皮膚科学を力をへプライ人といっている ( 「ピリピ書」三章化、動詞のワウ接続形 ( 接続詞の直後で完了 〈月本昭男〉 定的に加水分解しても得られるが、任意のアミポシ Moritz Kaposi ( 天三七ー一九 OII) に学んだ五節 ) 。 と末完了の意味が入れ替わる ) などの特色がみ ノ酸配列のものはアジド法、混合酸無水物法、が、カボシはヘ。フラの高弟で、したがって、日回前田護郎著『ことばと聖書』 ( 一九六三・岩波書店 ) られる。動詞体系はすでにミシュナ時代に単純 おう・一く 化し、ワウ接続形も消え、その意味もアスペク 活性エステル法、カルポジイミド法などによっ本にもへプラの皮膚科学が導入され定着したとへプライ王国ー・おうこく 0 ユダ王国 おんがく て化学的に合成することができる。指定された いえる。 〈長門谷洋治〉 ーーおんがく 0 ユダヤ音楽 トの対立から時制の対立へと変わり、現代へ。フ へプライ音楽 こうおん アミノ酸配列のペプチドを自動的に合成する機 ーーごアラビア語やエチオピ ライ語では強音、喉音は完全に消失、格の機能 へプライ語 械がすでにつくられている。 ア語などとともにセム語族に属し、古代ではフは前置詞が担うことになった。動詞 + 目的語、 一方、細胞内でのペプチド結合の形成、すな ェニキア語などと並んで北西セム語力ナーン語被修飾語 + 修飾語の語順は古代以来変わらぬ わちタンパク質の生合成は、リポゾームにおい 派を形成した。紀元前二千年紀後半にアラムが、主語は動詞に先行することもあり、現代で て巧妙に行われている。あるタンパク質のアミ ( 現在のシリア ) からカナーン ( 現在のパレスはこのほうが普通である。↓へ。フライ文字 ノ酸配列は遺伝情報として QZ< に組み込まれ イスラエル チナ ) に入ったイスラエル・ヘブライ人の一一一一口語 〈松田伊作〉 ており、これがメッセンジャー Z << へ転写さ が、同系のカナーン語と混交してできたものとへプライ人ー。・じん古代イスラエル人の れる。この情報に従って転移と結合した 一推定される。古代へプライ語の資料には、「。 ケ別名。へ・フライ語のイプリーに由来し、「進み ラ アミノ酸がリポゾームでアミノ末端から順次ペ プゼル農事暦」 ( 前一〇世紀 ) 、「シロアム刻文」ゆく」「越えてゆく」などの意味をもっ動詞イ へ プチド結合を形成してつなげられ、さらに数段 ( 前七 00 ころ ) などの短い碑文もあるが、もっともプルから転じて、「 ( ューフラテス ) 川の向こう 階の処理を経て各種の活性をもっタンパク質が へ・フ一フー lngrid HaebIer ( 一九一一六ー 重要なのは『旧約聖書』で、その大部分 ( 九八 からきた者」を意味する。もともとは川を渡っ できあがるのである。なお、タンバク質中のグオーストリアの女流ピアノ奏者。ウィーン生ま % 強 ) がヘブライ語で書かれたという事実が、 てきた遊牧民集団をさしたものである。紀元前 ルタミン酸の了ーカルポキシル基と、リジンのれ。ザルップルク、ウィーン、ジュネープの音 イスラエル・ユダヤ民族の運命と相まって、以一四世紀のアマルナ時代にシリア、。ハレスチナ 6 ーアミノ基が脱水縮合したものはイソペプチ楽院で学び、さらにパリでマルグリット・ロン後のヘブライ語の歴史を決定したのである。 に出没した「ハピル ( ハビル ) 」とよばれる集 はんちゅう ド ( 結合 ) とよばれる。↓タンバク質↓ポリ に師事。一九五三年ジュネープ、五四年ミュン 『旧約聖書』は、原資料まで考慮すれば前一三団と同一の範疇に属するといわれる。のちに ペプチド 〈野村晃司〉 ヘンの両国際コンクールに入賞、演奏活動に入 ~ 前三世紀にわたるが、一一一一口語的には、『死海文イスラエル ( 「神が支配する」の意 ) が民族の り、清澄な音と優雅な様式感覚でモーツアルト ペプトン peptone タンバク質の酸、アル 書』 ( 前一世紀こしに近い後期の諸書 ( 「歴代選民としての自覚に基づく自称として用いられ カリ、プロテアーゼによる部分分解産物中、プ奏者として名をあげた。六六年 ( 昭和四一 ) 初志」など ) を除くと、詩文、散文の区別はあるたのに対して、ヘブライは他民族によって世俗 ロテオースよりも低分子で、水によく溶け、熱来日。バイオリン奏者シェリングと組み、室内ものの、時代差、方言差をほとんど反映してい 的名称として用いられた。 〈高橋正男〉 凝固せず、硫安塩析などの沈殿法で沈殿を生じ楽でも活躍。レバートリーは限られているが演ない。 日常語としては、南王国ユダのバビロンへプライズム Hebraism 狭義ではヘブ ないものをいい、大きさの異なるべプチドの混奏の完成度は高い 〈岩井宏之〉捕囚 ( 前六世紀 ) のころから、しだいに当時の ライ語法を意味するが、広義ではヘブライ宗教 けいもう 100

10. 日本大百科全書 21

リアと区別されて、「国王の命によるプレカリ 降のことであって、右の意味での封建制の成反しない限り、という留保をつけること ) や、炻 ん法に即して、第一の概念を中心にして解説する 立・普及と並行する。それによって、従士制が 一身専属的従士制 ( ある主君に対し優先的に義 3 ア」とよばれた。 ナ . ゆえんである。 務を果たすことを条件にその従士となること ) この「国王の命によるプレカリア」を媒介と隷従的性格の強い社会関係を抜け出して高貴化 ヨーロッヾ によって、封建制の人的要因ないし主君の立場 され、国王の直臣や大豪族などにも適用可能な して、それまで主として聖界領で行われていた 〔成立〕狭義の封建制には、従士制 ( 主従関恩貸地制は、そこから抜け出して従士 ( 家臣 ) ものとなった。従士 ( 家臣 ) の負う義務も、しの強化が図られた。しかし、レーンの世襲化に 。こ、こ「助言と助力」 ( ことばと行為によって対しては有効に対処することができす、一二世 係 ) という人的要因と恩貸地制という物的要因制と結合するに至った。同じころ ( 後の ) 国王オしし は、家臣に対して、自己の土地をも、賃租の負助けること ) と要約されるようになり、実質的紀後半から一三世紀の封建王政期 ( 封建国家 ) とが、法的に不可分な形で結合されている。こ には軍事的奉仕を中心とするものになっていつを最後に、封建制はその政治的機能を果たし終 の両要因、従士制と恩貸地制はそれそれの前史担を伴わぬ終身の恩貸地として与えている。や える。つまり、封建制が国制の一つの柱である がて多くの貴族たちも国王に倣ったであろう。 をもっているが、それは関係項目に譲り、ここ これに対して、主君もまた、従士 ( 家臣 ) をという事態は、おおむね一四世紀以降はみられ では、もともと別個に存在していたこれらの両カール大帝が王位についたとき ( 七六 0 、家臣に 恩貸地を与えることはすでに一般的慣行となっ給養し保護する義務を負った。このうち給養のなくなる。 要因がいかにして結合されるに至ったか、とい しかし、それによってただちに封建制が消滅 うことだけを述べる。ちなみに、この点を中心ている。彼の治下において、ほかならぬ彼の政義務を果たす方法として一般的に用いられたの が恩貸地制であるが、ベネフィキウム ( 恩貸してしまったのではない。その人的要因はしだ に封建制の成立を考えることも、西欧 ( 法制策もあずかって、この封建的主従関係は急速に いに形骸化し、さらにはまったく忘却されてし 普及し、従士 ( 家臣 ) 制と恩貸地制の結合も完地。のちにドイツではレーンともよばれる ) と 史 ) 学界の伝統的手法である。 して従士 ( 家臣 ) に生涯限りで授与されたものまったのちにも、封建制は借地の一形式として 成されて、フランク国家の国制の一つの柱とな この両要因の結合の契機となったのは、古く ったのである。 かならずしも土地には限らす、官職や ( のは近世の奥深く、具体的には一八世紀 ( 所によ は、八世紀前半におけるアラビア人のヨーロッ 〔特徴〕狭義の封建制、つまりレーンの授受をちには ) 定期金なども含まれた。いずれにしてって一九世紀 ) まで長く存続した。近世におい ハへの侵入と、それを迎え撃っための騎兵隊の 創設 ( 七三二年、トウール・ボアチェの戦い ) 伴う主従関係の基本的特徴は、自由人と自由人もそれは、主従関係ならびに従士 ( 家臣 ) の側て、フランス語の féodal という形容詞は、な によりも一借地形式としてのレーンにかかわる の間で結ばれる関係であり、従士 ( 家臣 ) だけがの奉仕を前提とするものであったから、もとも であると考えられたが、今日では、とくにフラ ンク王国においてもそれ以前から騎兵が存在し義務を負うのではなく、主君の側も法的拘束をとは一代限りのものであって、主君・従士いずものであり、一七世紀になってから生まれた れの側が亡くなっても ( いったんは ) 返還され féodalitéということばも、レーンにかかわる たことが明らかにされた結果、この見解は克服受けるという意味で、双務的である点に存する。 たし、また従士の側に義務違反があった場合に法的規範の総体を意味したのであって、それが 封建制の人的要因である従士制は、託身の礼 されている。現在の通説は以下のとおりであ る。 「統治の体系」ないし「文明の状態」という意 と誠実宣誓によって設定される。このうち託身は没収された。 この意味では、封建制の両要因のうち、もと味で用いられたのは、一八世紀に入ってからで 七世紀末から八世紀前半にかけて、 ( 後の ) は、従士制の起源が隷属的な性格のものであっ たことを受け、従士が主君の保護と権力のもと もとは人的要因が優越していたといえるし、主ある。この「封建的統治」は、啓蒙的思想家た カロリング王権は、内戦、新たな征服、それに ひご に身をゆだね、生涯の服従と奉仕を約するもの君の負う義務は、しだいに「保護と庇護」と要ちによって、おおむね、自由と対立する貴族 アラビア人の侵入という事態に直面して、でき ( Ⅱ領主 ) の恣意的支配として、王権と市民か るだけ多数の家臣、とくに騎兵隊を必要としたであったが、これに対して、右のような封建制約されるようになる。そして、封建制が以上の が、最初、それら家臣を給養するための土地の基本的特徴を集約的に示しているのが誠実でような性格を保持した限り、つまり従士 ( 家らなる統一的国家に対置された。フランス革命 に際し、「封建制」や「封建的諸権利」の廃棄 臣 ) の側にもかなりの主体を認めつつしかも は、一部王領地、大部分教会領、修道院領に求ある。 が問題になったとき、そこで念頭に置かれてい められた。しかし、これによって教会生活は深 誠実は、主君に対するあれこれの奉仕を要求主従関係であった限り、それは、西欧の中世社 刻な危機に直面したため、七四三 ~ 七四四年にするだけではない。それは、もともとは、主君会において、政治秩序 ( 国家 ) 形成的機能を果たのは、もはやレーンとは直接の関係をもたな たしえたのである。 い領主制、領主的諸権利のことであった。 開かれた三つの公会議で、これら収公された土の生命や財産を損なうことはなにもしないとい 〔変質と崩壊〕しかし、早くも九世紀中葉以〔エピローグ〕このようにして原義とのつなが う消極的義務であるが、さらに進んで、主君の 地に関して次のような解決が図られた。 収公された土地は、法的にはすべて教会に返利益になることはすべてこれをなすという積極降、「封建制の物 ( 権 ) 化」と呼び習わされる現りを失うに至った「封建制」を、歴史哲学的な 象が認められる。つまり、従士 ( としての義務図式のなかで、人類進歩上の一段階として位置 還され、教会にその所有権が確認される。しか的、全体的な倫理的態度をも意味する。したが ってそれは、従士の義務を倫理化する一面をもを果たす者 ) に対してレーンを授与するのではづけたのは、フランスの初期社会主義者サン・ し、家臣たちの手中にある土地を奪うことは、 ( 後の ) 王権の基礎を危うくする。そこで ( 後つが、まさにそのことによって、服従と誠実のなく、レーンを受けあるいは確保するために主シモンが最初である ( 奴隷制の古典古代から、 引こま緊張関係が生まれる。具体的には、主君従関係を結ぶという現象である。もともと一代農奴制の「封建制」ないし「神政的Ⅱ封建的諸 の ) 国王は、家臣たちがそれを今後ともプレカ尸し。 限りのはずであったレーンが事実上世襲化され制度」へ、さらにそれから平和な労働の「工業 が不当な要求を強制するとき、従士はそれに服 リア ( 恩貸地 ) として保有することを命ずる。 家臣たちは、法的所有者である教会に対して賃従する必要がない、というだけで、はなく、従士るに至ったのは、その顕著な現れである。ま主義」へ ) 。ヘーゲルの「世界史」においても、 租を支払う。さらに教会に対しては、もう一つはむしろそれに抵抗する権利、否、むしろ義務た、それと並行して複数従士制、つまり一人の「封建的支配」は重要な位置を占めているが、 えん の代償として、十分の一税が創設される。これをさえもっとされる ( 抵抗権の一つの歴史的淵従士が複数の主君をもち、そのそれそれからレ彼にあっては、それは基本的には「君主政」へ 移行してしまった、ととらえられている。有名 ーンを受けるという現象も現れた。 らの土地は、同時にしかし、国王の恩貸地とみ源 ) 。こうして、やがては誠実は、単に従士の もちろん、主君の側、とりわけ国王は、このなマルクスのいわゆる「発展段階説」、継起的 なされ、国王によって授封される。家臣たちみならず、主君にも要求される倫理的態度とな つ ) 0 物化現象を座視していたのではない。複数従士な経済的社会形態の一段階としての「封建制」 は、国王に対しては、賃租を支払うのではなく ちなみに、従士制の設定にあたって、誠実宣制に対しては、誠実義務の留保 ( 他の主君の従の把握 ( 奴隷制↓封建制〈Ⅱ農奴制〉↓資本主 て、家臣として負う義務を果たす。このような プレカリアは、やがて教会のそれ以外のプレカ誓が付け加わったのは、おおむね八世紀中葉以士となる場合、とくに国王に対する誠実義務に義 ) は、こうした思想史的展開の延長線上に位