す . 含む行政、文化の中心地である。気候は、東〔歴史〕マダガスカルの原住民は東南アジア出ル共同機構 ) を結成するのに重要な役 部、北西部の雨量の多い熱帯性気候、西部、南身で、アフリカ大陸の東海岸に移住したのち、 割を果たした。さらに人種主義の南アフリカ共 ヾこ部の乾燥地域気候、中央高地の温帯気候と変化一〇世紀ごろマダガスカル島に移住したといわ和国とも友好関係を保った。七二年五月、チラ に富んでいる。 〈林晃史〉れる。そして一七世紀初頭、中央高地にアンドナナの政策に反対する学生のストライキに対す ま 〔動物相〕アフリカ大陸からの距離は約四〇〇 リアナ王国 ( 後のメリナ王国 ) を建設した。王る弾圧を契機に、軍隊がクーデターを起こしラ キ。と比較的近いが動物相は特異であり、動物地国はアンドリアナ王家と貴族階級 ( ホバ ) 、奴マナンツオア少将が政権を握った。 理学上はセイシェル諸島など隣接諸島とあわせ隷 ( アンデポ ) からなる中央集権的王国であ〔政治・外交〕ラマナンツオアは国家資本主義 ひょうばう て旧熱帯区のマダガスカル亜区として区分されり、王都はアンタナナリボに置かれた。ヨーロを標榜し、議会にかわって人民国家開発評議 る。概して種類数は多くなく、東洋亜区 ( イン ッパ人の渡来は一五〇〇年のポルトガル人が最会を置いた。同評議会は一九七一一一成 ド、東南アジア ) よりはエチオピア亜区 ( アフ初で、オランダ、イギリス、フランスがこれに年フランス軍の撤退を要求し、南アフリカ共和 ロ男女 リカ ) に近いが、マダガスカル特産の動物群が次いだ。一九世紀初頭にイギリスとフランスの国との関係を断ち、かわりにソ連、東欧と外交人口ロ 多い 宣教師による布教活動が始まり、一八六一一年 に関係を樹立した。同時に OO<> およびフラン 男年 ほ冖」ゅ・つ よくしゅ 哺乳類は翼手類と人間が持ち込んだとみなさ両国の領事館が置かれた。六九年ラナバロナ一一圏からも脱退した。七五年二月軍内部の権力抗 年 (T) 4 0 ・ ) 4- 0 ) 4 0 ・ ) 4- 4- 0- ) 4 0 ・ ) -4- 0 ) 4 ・ れるものを除くと、食虫類、霊長類、歯類、世がキリスト教 ( プロテスタント ) に改宗し国争によってラチマンドラバ大佐がラマナンツォ O に 0 0 【う ) O 【う ) O 一 - っ O L.n O 冖う ) O (C) O L.n 0 食肉類の四目だけが生息する。食虫目のテンレ教として以降、キリスト教は全土に広がった。 アにかわって政権を掌握したが、六日後に暗殺 ク科はマダガスカル特産で、 リネズミに似たアフリカ分割を決めた一八八五年のベルリン会 され、アンドリアマハゾ将軍が全権を掌握して 地上性の種、モグラに似た地中性の種、カワネ議の結果フランス領となったが、カトリック国軍評議会を設置した。同年六月軍評議会は国家 ズミに似た水生の種など約三〇種に適応放散しフランスの支配に対しプロテスタントのマダガ元首として新たにラチラカ元外相を任命した。 ている。霊長目は原猿類のキツネザル科、イン スカル人は反抗し、九五年フランスは武力を用ラチラカは同年一二月新憲法を制定するととも ドリ科、アイアイ科だけが生息し、齧歯目 ( キ いて制圧した。しかし植民地化以後もマダガス に軍評議会を解散し、かわって以下の諸機構を ヌゲネズミ類 ) と食肉目 ( ジャコウネコ類 ) はカル人の反抗は続いた。一八九六年のメナラム 設置した。①ラチラカを議長とする最高革命評 固有のそれそれ数属に分類される。 ハの反乱、一九〇四年の反乱が鎮圧されたの議会、②行政府の最高機関として首相を長とす 鳥類ではマダガスカルモズ類やジカッコウ類ち、一三年には民族運動組織「ビ・バト・サケる政府、③立法府として人民国民議会、④司法 が適応放散し、飛べない鳥のクイナモドキ科の リカ」 ( 「鉄と石」の意 ) を結成しフランスの府として立憲最高裁判所、⑤国防・社会経済開 特産種や絶滅した巨鳥のエピオルニスがよく知支配に抵抗した。 発計画諮問機関として車事開発委員会の五つで られている。その他の動物群にも特産種が多い 第二次世界大戦中に植民地政府がビシー政府ある。さらに国家建設の方向として社会主義路 が、淡水魚は一種も生息しない。 を支持したため、一九四二年イギリス軍は日本線を主唱し、その基盤は政府の奨励する農村共 かって、マダガスカルの特異な動物相を説明軍の侵攻に備えることを口実にマダガスカルを同体 ( フォコノローナ ) にあるとした。 するため、古代にアフリカとインドを結ぶレム占領した。翌四三年イギリスはマダガスカルを 政党としては一九七六年一二月に革命防衛国 リア大陸があったと想定されたが、現在では否 ドゴールの自由フランス政府に引き渡した。四民戦線 ( ) が結成された。この 定されている。 〈新妻昭夫〉七年三月、フランス支配に対しマダガスカル革には、それ以前の政党であるマダガスカル革命 〔植生〕全般に乾燥していてマメ科 ( ジャケッ命民主運動 ( 一九四六結成、党首ラセタ ) の指導によ前衛党、党首ラチラカ ) のほか七党 イバラ亜科 ) やバオバブ類 ( アダンソニアを る大規模な抵抗が起こり、多数の犠牲者を出し が含まれている。外交面ではラチラカは共産圏 を ) などの樹木の疎生するサバンナの面て鎮圧された。五六年フランスは基本法を制定よりのラマナンツオア路線を継承したが、七八 積が広い。南部は乾燥が厳しく、ユーフォルビ して植民地に対し大幅な自治を認めた。同年@* ・年九月のフランス公式訪問ののち対仏関係は修 ア、パキボデイウムなどの多肉植物と、刺植物チラナナは社会民主党を結成し、フ復された。そのほか国連、アフリカ統一機構に の低木群落で占められる。島の東部寄りには南ランス議会のマダガスカル代表議員となった。 も加盟し、との第二次ロメ協定にも調印し象 北に走る山地があり、ここではやや雨量が多五八年フランスの第五共和政移行とともにドゴた。軍隊は、陸軍約二万人、海軍六〇〇人、空気 ス く、密集した雨緑林がみられる。山頂部は硬葉 ールがフランス共同体構想を打ち出したため、軍五〇〇人で、空軍は七八年以降ソ連と北朝鮮地ア 樹の低木林、あるいはツッジ科のヒース状の群同年一〇月マダガスカルは同共同体内の自治国の援助を受け、ミグ幻型戦闘機八機を有する。 レ 〔経済・産業〕マダガスカルは農業立国であ 落となっている。種類相は、アフリカ中部、おとなり、六〇年六月二六日フランスから正式に ゴ カ 工 よびインド西部からサハラにかける地域と類縁独立してチラナナが初代大統領となった。 り、国内総生産に占める農業の割合は三九 % 、 ス イ をもつが、総種数の八五 % が固有種で、ディデ 独立後、チラナナは親西欧 ( とくにフラン全就業人口の八三 % が農業に従事している ( 一九ガデ イエレア科など五つの固有の科がある。マダガス ) 政策をとった。一九六一年には旧フランス 七 0 。主要農産物は米、サトウキビ、コーヒー マ スカルの植生は独立性が高く、セイシェル島な領一二か国の元首がアンタナナリボに集まって ハニラ、チョウジ、コショウ、綿花、サイザル 麻、豆類、ラッカセイ、タバコである。さらに どとともに旧熱帯植物区系界のなかにマダガス経済、社会面での協力を目的とするアフリカ・ カル区系区としてまとめられる。〈大場達之〉 マダガスカル連合 ( のちアフリカ・マダガスカ独立以降、東部海岸でパーム油と茶の栽培が進 アンタナナリポ トウレアール O 仄・ ) O LO O 仄ー ) O LC) ) っ 0 つ」っ 300 250 200 150 100 50 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 月 18.2 ℃ 24.1 ℃ 1315.9mm 421.4mm 1 8 。 54 ' S / 47 。 32 ' E 23 。 23 ' S / 43 。 44 ・ E 1310m 8m 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 →温年平均気温 25.8 ℃ - 降水量年降水量 1086.9mm 緯度 / 経度 12 。 21 ・ s / 49 。 18 ' E 105m 1988 年版「理科年表』による 60 40 1984 年「世界人口年鑑」による 60 万人
まんが 西洋 漫画 ①ドーミエ「おれの子かな」 1 9 世紀後半フランス人 問性を風刺した作品。子供 の誕生にちょっと妻への疑 惑を抱く男の弱さ ②ナスト「リンカーンのニ 面性」 1860 年代アメリ カ北部には平和を説き , 南部は剣で圧迫。南部連邦 からみたリンカーン像 ③ジル「リヒアルト・ワグ ナー像」 1869 年フラン ス音符で耳を削り込む音 の彫刻師。ジルは肖像漫画 表現の可能性に尽力した E ロ b. 「 0 ー【当 E 1 ト、 01 い . ート「ト . 「 0 画 ! E 町物は bt. ー・一にれト一 000 、・物に E 物 g•E - 和夏 0 ーいを ー 0 転ー OE ー OP を : 一日 0 ! ④フォータン「 1871 年のカーニバル」 1871 年 フランスプロイセン・フランス戦争に勝利し , バリに進駐したドイツ軍に媚を売るフランス娘を 風刺。「血で泡立つシャンペン」は裏切り女が飲む にふさわしいといいたげだ。「カーニバル」には「異 様な人間」の意味もある ⑤ウォース「黒人の自由の女神」 1885 年アメ リカカリアー・アンド・アイプス版画の一枚で , 「世界を驚かしている自由」と題する。人種差別 , と くに黒人への差別撤廃運動に対して風刺している ⑥ガバルニ 「ババ , 頭のてっぺんに毛がないよ」 1 9 世紀後半フランスそれを初めて知った瞬間 の男の驚きの表情を描く。ガバルニはドーミエと 並ぶ 19 世紀風俗漫画の名手である ⑦ロップス「プタに引かれる女」 19 世紀後半 ベルギー「好色」を象徴するプタに盲従する退廃 的な女。デカダンスを象徴する作でもある。工ロ ティックで幻想的な戯画を描いたロップスの傑作 ⑧ハイネ「ドイツのイヌと英国のプルド ッグ」 1900 年ドイツロシア・フラン ス同盟とドイツ・オーストリア・イタリ ア三国同盟の対立下 , ドイツがイギリス に媚を売っている図。止まり木はフラン スを , その上のワシはロシアを表す ⑨レーメーカー「死傷兵輸送列車」 1916 年オランダ黒い車体の戸の隙間から せいさみ 流れ出る赤い血。列車の中の凄惨な光景 を想起させる反戦漫画。ドイツの軍事侵 略に抗議を唱えている ⑩グロッス「泳げる者は泳げ , 弱すぎる 者は沈め」 1922 年ドイツ資本家対 労働者。富の分配の偏った資本主義社会 の冷酷さを風刺。グロッスの作品は大正 時代の日本の漫画家に影響を与えた ⑩ゲバラ「ヒトラーとムッソリー 1934 年アルゼンチン両独裁者の蘰 さ , 冷酷さを強調した似顔絵漫画の傑作 ⑩ククルニクスイ「ナ チの変身」 1942 年ソ 連ナチス侵略軍の運 命を描くボスター漫画。 ククルニクスイはトリ オ漫画家の統一ペンネ ーム。下段はデミカン・ ペードメイの詩で , フ アシストたちの運命を 呪っている ⑩ロー「ドイツの分断」 1948 年イギリスド イツ統一を支持しなが ら , 実際は分断しよう とするマーシャル国務 長官 ( アメリカ ) とモ ロトフ外相 ( ソ連 ) を 風刺している cl をツ d を′ 00d ルて物 協 % 01 ツ、川 u 0 ・ 196
まるてい いにはをカ廷 任シマ た以後に、彼の禁欲的生活が始まったといわれが結末という傾向は、作品制作に協力した妻のた 描ョニさか宮 〈菅愛子〉 る。三六〇年ごろボアチェ近郊に西方世界の最影響が大きいとされている。 アンをチ一麗うやる サ語ツィ華で家あ 初の修道院といわれるリギュジェ修道院を、さ回永田寛定訳『子守唄』 ( 岩波文庫 ) の 5 堂物ウテのま楽で 風に音と ス下の らに三七二年のトウール司教叙任直後、同都市マルティネス・デ・トレード 0 アル ヌ 2 堂人。マ廷部むご にマルムティエ修道院を設立した。エジプトフォンソ・マルティネス・デ・トレード テ 5 聖聖面を宮細囲み コの場派や。をが ス紀一ナ式た人飾的、オリエント的修道制の影響を受けた同修道マルティーネス・デ・ラ・ローサ 聖コ工世のエ様せ聖装 スチ 4 伝シクさとの院の形態は、彼の僧房を中心とする弟子たちの Francisco Martinez de la Rosa ( 一七〈七ー レン堂るスたツ練カど I<KII) スペインの劇作家。グラナダで生、没。 僧房の集合体であったが、規約は存在しなかっ ニフラ拝よ拠ヌれシ洗写な 一フ礼にイさゴに描服 た。五〇七年クロービス一世が西ゴート戦をマ地元大学の哲学教授を経て自由党急進派の政治 イろ・ノ」テ立・らなな 説ル確スさ確美 ルテイヌスの霊の導きで戦勝したと信じて以家になる。中道穏健思想に転向後は閣僚も務 レ 年サイイマてン , 正華 マ 4 テ金聖っラえるの来、彼はフランク王国の第一級の国家聖人としめ、一八三四年には首相になった。その間、二 ・ンル「たよフ加え人 て崇敬の対象となった。 〈徳田直宏〉度にわたる亡命生活をフランスで送り、ユゴー の作品に触れてロマン主義を知る。成功作に、 の政治家として文部大臣、マルティネ Henri Gilles Martinet ( 一九 ) フランスのジャーナリスト、政治家。フィリップ二世治下に起きたムーア人の反乱を 植民大臣など歴任。日記、 バリに生まれる。。ハリ大学文学部卒業後、アバ 扱った時代色の濃い『アベン・ウメャ』 ( パリ 回想記にも興味深いものが ある。 〈河島英昭〉 ス通信記者となりジャーナリストの道を歩む。初演・一盒 0 、マドリード初演・一盒六 ) や、一四 でんば ・グ世紀・ヘネチアの史実を素材に、政治と恋を絡ま ーーとう Martinique 人民戦線期には、共産主義学生同盟のパ 一四世紀前半にイタリア各地に伝播したビザンマルティニーク島 ループの代表として活動したが、スターリンにせた地方色の濃い悲劇『ベネチアの陰謀』 ( 天 ティン様式を克服しながら、一方ではアルプス西インド諸島東部、小アンティル諸島中のウィ 三四 ) などの史劇があり、スペイン・ロマン主義 以北のゴシック様式を積極的に取り入れて独特ンドワード諸島中部の島。フランスの海外県のよる粛清裁判に抗議して、一九三八年フランス 一つで、面積一一〇〇平方キロ、人口三二万七〇共産党を脱党。第二次世界大戦中はレジスタン演劇の皮切り作品とされている。〈菅愛子〉 の線描法、彩色法を駆使し、情緒にあふれる画 スに参加し、非合法紙『反乱者』を編集した。 風を確立した。一三一五年に制作した『マエス七三 ( 一九会 ) 。中心都市はフォール・ド・フラ マル一アイノフ JIe0HHJ1 HHKOJ1aeBHC1 タ』 ( シエナ市庁舎 ) は彼の最初期の作品であンス。火山島で、南部は丘陵地であるが、北部戦後、フランス通信社編集長、『フランス・オ MaPTblHOBZLeonid Nikolaevich Martinov ( 一九 0 五ー ) ソ連の詩人。シ・ヘリアに生まれ る。一七年にはナポリ王ロベルト・ダンジュー には標高一三九七のプレー火山がそびえる。プセルバトウール』紙編集長を歴任し、『ヌー たいかん に招かれて『戴冠図』 ( ナポリ、カーボディモおもな産業は農業で、サトウキビ、バナナなどベル・オプセルバトウール』『フェール』各紙る。初め新聞記者として各地を旅行し、ルポル ンテ美術館 ) を制作した。二八年の制作時が銘の輸出用作物が栽培される。工業はラム酒の製にも携わる。政治家としては、統一社会党副書タージュを書く。『詩と叙事詩』 ( 一九三九 ) でデビ 記長 ( 一九六 0 ~ 六七 ) を経て再生社会党に入党、社 ュー、清新な叙情で注目されたが、第二次世界 記されている『グイドリッチオ・ダ・フォリア造と製糖およびバイナップル缶詰の生産がおも ーノ将軍騎馬像』 ( シエナ市庁舎 ) は騎馬を主なものである。一五〇二年コロンプスによって会党全国書記 ( 一九七五 ~ 七 0 として自主管理社会大戦後ジダーノフ批判のあおりで沈黙するに至 題とした現存絵画では最古の事例で、彼の写実発見され、一六三五年フランス人の植民が始ま主義理論を展開、欧州議会のフランス代表議員る。「雪どけ」後は自由派の最前線の詩人とし 〈瓜生洋一〉て活躍した。『詩集』 ( 一九五七 ) は叙情性と物語性 ( 一九七九 ) にも選ばれた。 った。ナポレオン一世の皇后ジョゼフィーヌの 的力量がよく示されている。アッシジのサン・ 〈工藤正広〉 〈菅野峰明〉回熊田亨訳『五つの共産主義』上下 ( 岩波新の緊密な結合を示す。 フランチェスコ聖堂にある聖マルテイヌス伝や生地である。 書 ) ▽同訳『七つの国の労働運動』上下マルティノン Jean Martinon ( 一九一 0 ー 聖女キアーラの肖像も彼の手になるものとみなマルテイヌー B0huslav Martinü ( 天 九 0 ー一空九 ) チェコスロパキアの作曲家。・ ( 岩波新書 ) ▽佐藤紘毅訳『スターリン主義七六 ) フランスの指揮者。リョンに生まれ、 されているが、三三年に義弟リッポ・メンミ リに没。パリ音楽院でバイオリンを、卒業後ル を語る』 ( 岩波新書 ) Lippo Memmi の協力を得て完成した祭壇画スークおよび・ルーセルに師事。新古典主義 ーセルに作曲、ミュンシュに指揮を学ぶ。創作 『受胎告知』 ( ウフィッイ美術館、図受胎告 に属する作曲家であるが、その音楽は、民族主マルティーネス・シェラ Gregorio ー一九四 0 スペインの活動ののち指揮に転じ、一九四六年バリ音楽院 知 ) は彼の画風が典型的に示された代表作であ義的作風、コンチェルト・グロッソをはじめと Martinez Sierra ( 天 る。三九年までにアビニョンに赴き、シエナのするバロック時代の音楽形式への傾倒、ジャズ劇作家。マドリードで生、没。詩や小説も書管弦楽団指揮者に迎えられたのを手始めに、ラ ムルー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニ 画風と北ヨーロッパ・ゴシック様式の媒介者とのイディオムの導入など、折衷主義的傾向を示き、メーテルリンクの作品集を全訳し、新聞・ 、デュッセルドルフ交響楽団、シカゴ交響楽 している。第二次世界大戦中はアメリカに渡雑誌界でも活躍した。五〇編近い戯曲は、主題 して活躍し、国際ゴシック様式の形成に重要な 〈濱谷勝也〉り、プリンストン大学、カーティス音楽学校なの社会性においておおむねべナベンテ路線だ団、フランス国立放送管弦楽団の常任指揮者や 役割を果たし、同地で没した。 みなしご きようべん どで教鞭をとる。多作家として知られ、そのが、修道院で育った孤児娘への尼僧たちの愛を音楽監督を歴任した。五三年 ( 昭和二八 ) 初来 マル一アイーニ Ferdinando Martini ( 天 うた ー一九 = 0 イタリアの劇作家、小説家、政治作品はオペラ、バレエなどの劇音楽から、管弦繊細な筆致で描いた代表作『子守唄』 ( 一九一一 ) 日。典雅な演奏スタイルと清澄な響きに特色が 家。初めは軽妙な喜劇『男は申し込み女は待ち楽曲、協奏曲、室内楽曲、合唱曲に至る膨大なをはじめ、『秋の日の春』 ( 一九一 D 、『お母様』あり、とくにフランス近代音楽で高い境地を示 〈岩井宏之〉 〈寺田兼文〉 ( 一九一一 l) 、独白劇『女たちのためにだけ』 ( 一九した。 構える』 ( 天六一 I) など発表。ついで『ファンフ数に及んでいる。 一三 ) 、『幸福になりましよう』 ( 一九 = 九 ) など、筋マルデイプ 0 モルジプ ッラ・デッラ・ドメーニカ』 ( 天七九 ) 、『子供新マル一アイヌス Martinus ( 三一五ー三九七 ) の中心に女を据え、おもに母性を通して女性心 トウールの司教、聖人。パンノニア出身のロー マルティン・サントス Luis Martin 聞』 ( 一公 0 ) を創刊し、コッローディの『ピノ ッキオの冒険』を世に送り出した。小説『侯爵マの軍人。三三五年アミアンにおいて、厳寒に理を甘く感傷的に描写した秀作が多い。女性中 Santos ( 一九 = 四ー六四 ) スペインの小説家。サ 心思想と、キリスト教的人間愛による問題解決ラマンカ、マドリード両大学で医学を修めたの 夫人』 ( 天七七 ) などを書く一方、左派自由主義震える乞食を装ったイエスに自らの外套を与え 0 こじき がいとう
まだがす 50 。 E マダガスカル コモロ 「ンル岬 ディエゴ・スアレ ( アンチラナナ△ 7 メーシベ島。 、ル火亠 ヘル・ル 、アラナ亠 められている。フランス人によって経営されてカル航空はおもに国内各地を結んでいる。 街ロ 独立以降現在まで四次にわたる開発五か年計 いたコーヒーやサトウキビのプランテーション 市た人し 画を実施しており、第一次 ( 一九六四 ~ 六九 ) は通 は一九七七年国有化された。 されは 鉱産資源も豊富で、主要鉱産物として黒鉛、信、農業に力点が置かれたが、第二次 ( 一九六九 ~ 通設わで うんも ス建飼岸 雲母、クロム、ポーキサイト、ウランなどのほ七四 ) 以降、社会主義建設を目標として基幹産業 ンてて東 デいしカ かアメシスト、ガーネットなどの宝石も産出すの国有化、アフリカ人化を進めている。しか ンづと べ基産フ る。ただしこれらの鉱産物採掘はほとんど外資し、第一次石油危機以降の石油輸入額の増大、 デに財ア 一九七〇年代末の農業危機による食糧輸入の増 系企業により行われている。近年石油探査がア ン画の イ計庭れ メリカ、フランス、イタリアによって行われて大によって財政的には苦境にあり、など 街市家わ 心都各る行 いる。また最近北西部のソア一フラで鉄鉱脈が発の国際金融機関、一一国間援助に依存している。 中のはあで の人シで地 〔社会・文化〕約一〇〇〇万の人口のうちヨー 見された。 ポスウ一各る ロッパ人 ( 主としてフランス人 ) 三万人、インド 製造工業は未発達で、工業製品は国外からの ルナラ牧世除て ナフ放はをつ輸入に依存している。わずかにある工業は農産人一万六〇〇〇人、中国人九〇〇〇人を含む。 タらの数部な 物加工がほとんどで、その他の工業にセメンインド人、中国人はおもに商業に従事している。 スンかシ頭南と ガア末ウのは食 ン、化マレー・ポリネシア系のマダガスカル語が公用 、紙、バルプ、石油精製、製靴、マ、チ 都紀プり作主 タ首世コ当稲が学肥料、プラスチック加工、自動車組立て、ト語となっているが、フランス語、英語も学校で ①②人③米 ランジスタ・ラジオ組立てなど教えられている。一人当りの国民総生産は二七 があり、そのほとんどは首都ア〇ドル ( 一九会 ) と低い。経済活動人口の八〇 % 以 ンタナナリボのほか、アンチシ上は農業に従事しており、サービス産業就業者 ラバ、マジュンガ、ディエゴ・ が一〇 % 、工業労働者はわずか四 % である。 一四歳が小学 スアレス ( アンチラナナ ) 、タマ 教育制度はフランス式で、六 生で義務教育にあたり、小学校は公立・私立含 タブ ( トアマシナ ) に集中してい る。カナダ、イラク、フランスめて六〇五四校、生徒数は約一一一万八〇〇〇 の協力でアンデカレラ水力発電人。中学校は五〇八 LO 0 0- ) 校、高等学校はわすか額万レ 所が建設中である。 0 ) つ」 総百米 44 一八校にすぎない。唯 主要輸出品は農・鉱産物の一 一の大学は首都にあり 次産品で、機械、輸送器機、エ 業品、食糧、石油が輸入の大半法・文・工学部あわせ を占める。貿易相手国はフランて学生数は約六〇〇〇 ス、アメリカ、西ドイツ、日人である。 メリナ王朝のラナ・ハ ャ本、サウジアラビア、インドネ シアなど、恒常的な入超で赤字ロナ二世がキリスト教イ日 に改宗して以来プロテ が続いている。 交通は首都を中心とする脊梁スタントが全土に広ま 山脈部と北西海岸部を中心に全ったが、その後フラン 長四万、。の道路があるが、東海スの植民地化を通して 岸部は未発達である。現在道路カトリックも広がり、 , 第、延長計画に世界銀行、中国、ク現在カトリック教徒は出 ウェート、アフリカ開発銀行が約一三〇万人 ( 教会数 【 ~ - 援助している。鉄道はタマタブ五〇〇〇 ) 、プロテス国 ーアンタナナリポーアンチシラタント教徒一九〇万人手 バ間とフィアナランツオアーマ ( 教会数五一六〇 ) で ある。マダガスカルは , 、ナカラ間のものが主要路線で、 》西海岸〈通ずるものはない。主アフリカ大陸南部の島カ年 8 つ」 0 しつ」 「 / 8 「 / 00 C" 0 ) る。国際航空便はフランス航プラック・アフリカ諸タ入出 マ輸輸 空、イタリア航空で、マダガス国と異なり、マレー ヒサン ? ンドレ岬 アナララハ マロアンツェトラ マジュンガ ロ新 : リット・初ー島 タマタアトアマシナ ) ダカ、、 - カル 、タナ マインティ ミアノ : リドゾ モロンタ穴 2 0km 1 : 20 , 000 , 000 モロンペ ーンツア ポビ トウレア二ル ー ( 可アラ ) ー 23 。 27 : ベトロカ 25 。 S フォール・ドーファン ( タオラナロ ) サント・マリー岬 珍ノ 「一フフンス 13.5 サウジアラビアーー , をンドネシアアメリカスペイン 9.5 9.3 シンガポール 27.5 28.3
まんさく ノ man- マンサプダーレ sabdär インド、ムガル 城スな 帝国の支配を支える軍事と 一し祖 トとの 一般行政上の両方の官僚を シき建 さす。制度として成立した 1 なっ義 のは、第三代アクバル帝時 ~ 的す主 2 統 , 典 代の一五七〇年代なかばと 伝ド古 いわれているが、その成立 スサン 時の状況はいまだ十分明ら イフた。 かではない。アクバル帝時 フ。れる 代末に完成した制度として ラ館ら光 邸ぎが は、皇帝から位階 mansab ンっく 0 月 を与えられたものをすべて 現明的 マンサプダールといい、 ヌずで知 帝一人を除き、皇子、皇 一は線理 の直の 族、貴族、将軍、高官らは レのら一 すべて、一定の数値によっ ュンがサ て序列づけられることとな ぎマ っていた。これは、帝国の 歌詞や囃詞からソウダイ節、オイトコ節、ノ ン受な 機構の官職の上下とはかな ホホン節、楽器から四つ竹踊、主たる演目から しもつま たかこ ) しらまっ サを根 , 響屋 らずしも一致しないが、高 高砂踊、粉屋踊、白松踊、木更津節、下妻節、 ノ部影の い数値をもっマンサプダー 広大寺節などともよぶ。手踊りが主流だが、所 西のき 築葺品 ルはほばそれに見合う重要 作入り手踊り、段物 ( 万作芝居 ) 、茶番狂一 = ロ、 の建ト作 な官職についていた。この 地芝居などと種類も演目も多様である。段物は LL ハ館レっ 科ウ ほんギ一よう 数値はまた、各マンサプダ 本行どおりに演ぜずにバロディー化しているクフ がいせん にわか ールが受け取る給与高と直接関連しており、給三 0 では、中央部の凱旋門モチーフなど古典様 点、俄に似ている。万作踊は粗野で野太いのが がんにん 与は普通は土地からあがる税収によっていた。式を採用しながら、建築体の構成やプロポーシ 特徴で、江戸住吉踊、江戸願人の芸系に属し、 めいせき 〈小名康之〉 ↓ムガル帝国 ョンに明晰、簡潔、そして優雅といったフラン 幕末に流行し、現存。かつばれも同系の芸であ おんな ス固有の感覚をよく生かしている。代表作とみ まんざもう沖縄本島北部、恩納村に 〈西角井正大〉が栽培される。 〈山崎敬〉万座毛 フラ なされるメゾン・シュル・セーヌ ( 一六五一、現在 ある海岸景観地。東シナ海に面した岬部で、 か 8Hamamelidaceae マンサード屋根・・・ーやね mansarde マンサク科 りゅうきゅう 双子葉植物、離弁花類。常緑または落葉の高木屋根の両面において上部が緩勾配で下部が急傾琉球石灰岩からなる台地に広場をなし、古来のメゾン・ラフィット ) の外観にはバロックの もう 一一うばい から若い男女が集まって歌や踊りに興じた ( 毛影響が否めないが、勾配の急な屋根や煙突の多 斜した形をなす屋根形式。腰折れ屋根あるいは または低木。全体に星状毛があるものが多い あし しようけい たくよう 葉は単葉で互生し、托葉がある。枝先に穂状花フランス屋根ともいう。下方の部分が上方より遊び ) ところから、尚敬王が一七一一六年の巡用によってフランス建築の伝統様式が確保され 〈濱谷勝也〉 序または頭状花序をつくり、両性または単性の長いのが通常。ドーマー窓をうがって内部に屋行のおりに命名されたと伝承されている。沖縄ている。 がくへん マンサール Jules Hardouin-Mansart 花を開く。萼片、花弁は多くは四または五枚で根裏部屋を設けることが多い。その名は一七世海岸国定公園にあって沖縄本島北部観光のメッ ー一七 00 フランスの建築家。建築家フラ 放射相称であるが、花弁のないものもある。雄紀のフランスの建築家フランソア・マンサールカとなり、近接して万座ビーチの海水浴場があ ( 一六四六 〈目崎茂和〉 ンソア・マンサールの姪と王家画家アルドウア に由来するといわれるが、最初の考案者はピエる。 しべは四または五本であるが、それと互生して かゆうずい ン某の子として生まれ、一六六八年以降マンサ ール・レスコーであろう。↓屋根〈前川道郎〉二万五千分の一地形図「石川」 五本の仮雄蕊があるものもある。雌しべは二枚 はいしゅ ールを名のった。二八歳のときルイ一四世の愛 の心皮からなり、子房は二室、胚珠は一、二個マンサニョ Manzani110 キューバ南東部、マンサール F 「 anqois Mansart ( 一究八 。パリに生まれる。人モンテスパン夫人のためにクラニのシャトー 一六六六 ) フランスの建築家 であるがまれに五、六個のものもある。果実はカリブ海に面する港湾都市。人口一二万四五三 さくか 果皮の堅い蒴果で二裂し、中に大きな種子があ七 ( 一九ハ D 。サトウキビ・プランテーションの義兄のもとで修業したのちサロモン・ド・プロ ( 城館 ) を完成して力量を認められ、宮廷建築 家に登用された。ルイ・ルポーの死後、後任者 る。熱帯から温帯に広く分布し、一三属約八〇南東部への拡大に伴い、一七八四年に建設されッスに師事したといわれる。一六世紀初頭のバ ひょく ロック様式に影響されるが、これを克服し、古として七九年に・ヘルサイユ宮殿の増改築を任さ 種が知られる。五亜科に分類され、日本にはマた。肥沃な農業地帯を控え、港から砂糖、タバ コ、果物、ウシなどを積み出す。主要工業は食典的モチーフをフランスのシャトー ( 城館 ) 建れるが、八八年までに庭園に面した翼屋を南北 ルバノキ亜科のマルバノキ属、マンサク亜科の 品加工業である。なお、マンサニョはグランマ築の伝統形式に調和させて、フランス古典主義に拡張した。この建造物に課せられた使命は、 マンサク属、トサミズキ属、トキワマンサク 絶対主義王制下の国王、貴族および廷臣の統制 州の州都バヤモの外港としての機能を果たして建築の立役者となった。初期の傑作である。フロ 属、イスノキ亜科のイスノキ属の三亜科五属八 〈栗原尚子〉アのシャトーのガストン・オルレアン翼屋 ( 一六ある生活ぶりを誇示すべく、一種の舞台装置た 種が野生し、シナマンサクやフウ亜科のフウ属 はやし・一とば 万作踊懿踊。女装した青年が人形を背 中にくくり付け , まりをついて踊る「子守」 みなみしたう・ 神奈川県三浦市南下痛町菊名 , 白山神社 ききらづ マンサク科 / 分布 ロ分布域 206
まるせい ー宮廷楽長として活躍、 にスエズ運河が開通し、地中海ルートの貿易が 三一年以後はハノー イスター』 ( 一九三三 ) など多数。また児童劇『森ルガン奏者として活動し、バリに没した。作品 じゅうにつき 〈樋口隆一〉活発化するに及び、大貿易港としての地位を確 はオルガン曲、チェンバロ曲が残されている。同地で没した。 は生きている』 ( 原題『十二月』一九四一 (l) はソビ 立した。港湾の発展に伴って、海外原料による エト児童劇の代表作で、ほかに『魔法の品売りそのなかには、旋律の簡明さに対しきわめて生マルス Mars 古代ローマの古い軍神で、 きそう のちギリシア神話のアレスと同一視された。ま製油、小麦粉製造、製糖、せつけん製造、綿織 ます』 ( 一九六四 ) などがある。また一方、シェー 気に満ちたリズムを用い、綺想曲風な個性的ス 〈美山良夫〉た、のちには火星のヨーロツ。ハ名ともなった。物工業、染色工業などが発達したが、一九世紀 クスピア、バイロン、キーツ、プレイク、ハイ タイルをとる作品が多い。 ラティニイ族では古くはマウォルス Mavors には造船およびその関連工場が設立され、さら ネらの翻訳者としても高い評価を受けている。 マルシャン André Marchand ( 一九 0 七ー ) フランスの画家。セザンヌの生地としてといわれ、オスク族やサビニ族の間ではマメル に商取引関係の会社、銀行、運輸会社など、港 四回ソ連邦国家賞を受け、一九六三年レーニン ス Mamers とよばれた。マルスをめぐる古い 湾活動を支える商業、サービス業が加わった。 賞も受賞。六四年七月四日没。↓森は生きてい も知られるエクサン・プロバンスに生まれる。 る 伝説としては、オウイデイウスの伝えるアン従来マルセイユは旧港 Vieux Port とよばれ 〈内田莉莎子〉故郷やプルゴーニュでの光と自然の探究から、 たん 回村山士郎・北畑静子訳『人生のはじめ』 ( 一九表現主義的な強い色彩対比により、装飾的な風ナ・ペレンナ祭の起源譚しか残されておらず、る港地区のみに港湾機能を有していたが、一九 六〈・理論社 ) ▽内田莉莎子訳『しずかなお景や人物を描く。一九四一年の。ハ リにおける対マルスとウエヌスの恋など多くの話はアレスに世紀に近代港湾都市として発達してくると、旧 港だけでは狭くなり、一八四四年以降、港湾施 独レジスタンス的意味合いをもった「フランス関するギリシア神話に基づく はなし』 ( 一九六三・福音館書店 ) 伝統青年画家」展の創立メンバーで、このグル 軍神としてのマルスの崇拝は古く、ヌマ王に設の拡張がなされた。施設は旧港の北側の外洋 マルシャン Louis Marchand ( 一六六九ー一七 に向かって、南から漸次北へ延びていった。防 三 (l) フランスのオルガン奏者、作曲家。リョ ープはのちサロン・ド・メに発展し、その創立よって設けられたその神官団サリイは、ローマ い′、イ」 ンに生まれ、各地の教会ォルガン奏者を経て、 会員としてフランス画壇に活躍している。絵画人に戦の時期の始まりと終わりを告げるため、波堤の延長距離は二七キ。にも達する。現在、旧 リで教会と宮廷で活躍した。しかし一七一七のほか、タベストリーや壁画なども多く手がけ毎年三月と一〇月に武装して踊り歩いた。また港は漁港とレジャー用ョットの係留場、イフ城 カンプス・マルテイウス 〈染谷滋〉 ている。 一〇月一五日には「マルスの馬場」で二頭立て ( シャトー・ディフ ) への観光船の発着場とし 年フランスを離れ、ドイツに演奏旅行を行う。 この際バッハと競演して敗れたという挿話があマルシュ Marche フランス中部の歴史的の戦車競技が行われ、勝者の馬が彼に捧げられて使われており、外航船は新しく築かれた港に るが真実は不明。のち。ハリに戻り、ふたたびオ地域名、旧州名。マッシフ・サントラル ( 中央た。そのほか二月と三月に戦車競技 Equirria 入港する。新しい港ではコルシカ島への連絡船 が、三月にラッパ祭 TubiIustrium が、一〇も発着する。 群山 ) の北西一帯に位置する。 月に武具の祭り ArmiIustrium がそれそれマ 〔市域の拡大〕マルセイユの拡大は隣接海岸に 現在のクルーズ県と、オート・ ビエンヌ県の一部にあたる。名ルスをたたえて行われた。マルスはまたその戦とどまらず、ローヌ川の方向にも拡大してい 称は、アキテーヌ公爵領の辺境闘力によって土地の保護者ともなった。農業をく。一九二六年にはマルセイユ港とローヌ川を marche にあるということによっかさどる神官団アルウアレスは、「荒ぶる神結ぶマルセイユーローヌ連絡運河が開通し、マ て え る。経済的には農業が主であマルス」に祈願して害敵の侵入に備えたのであルセイユとローヌ川が結ばれるとともに、途中 さ おおかみ のペール潟湖とも結ばれることになった。ペ り、高地、丘陵地では牧畜が行る。狼がマルスの聖獣であることから、この を多 ル潟湖岸には、石油精製や石油化学など石油関 口がわれており、低地にいく につれ神は狼に養われたふたごロムルスとレムスの父 入店 とみなされた。そしてロムルスの建国伝説の発係の近代工業が発達した。今日さらに西のフォ 出理て穀物、牧草の栽培が盛んとな る。 ス Fos ・ sur ・ Mer に、港湾・工業地帯の造成が 〈青木伸好〉展とともに、軍神はアウグストウス時代におい 塞る 行われており、石油、製鉄を中心とした大規模 、 . 要せマルシュナー Heinrich てローマ人の祖先として崇拝されるに至った。 のさ これは、同じく口ーマ建国の祖アエネアスの母開発が進められている。このようにマルセイユ つべ Marschner ( 一七九五ー天六 l) は工業地帯を市街地の外に発達させ、旧港から ドイツの作曲家。ウェーバ ーとウエヌスが、その時代に国の重要な神になった 右 〈小川正広〉東に延びるカヌビエール大通りを中心に、取引 ことと並行している。↓アレス 一ワーグナーを結ぶドイツ・ロマ ざせきょやくそうち 関係、管理関係の機能を集中させている。 ン主義オペラ史の重要な存在。マルス 0 座席予約装置 ャ コ イ ツィッタウで生まれる。ライブマルセイユ Marseille フランス南部、プ〔市街と交通〕旧港は海岸から東に向けて市街 に食い込むように位置し、旧港の出入口北側に ーシュ・デュ・ローヌ県の県都で、港湾都市。 やツイヒ大学法科に進むが、同地 ン サ 建のトマス・カントルだったシヒ ローヌ川河口デルタの東端、地中海に面して位サン・ジャン要塞、南側にサン・ニコラ要塞 トのもとで作曲を学び、一 八一置する。人口八七万八六八九はパリに次いでフ ( ともに一七世紀 ) がある。カヌビエール大通 ト左古 りには、ホテル、レストラン、商店が軒を連 ランス第二位、都市圏人口一〇八万はリョンに ンど六年プレスプルク ( 現プラチス ラバ ) で音楽教師として出発、次ぐ第三位 ( 一九公 I) 。港は地中海のリオン湾東ね、左右 ( 南北 ) に延びるエクス通りやローム ジ会 通りとともに繁華街となっている。大通りの東 ・教同地で作曲したオペラの成功に部、クローヌ岬とクロアゼット岬に挟まれた小 ン サ舎より二一年ドレスデンに進出、 湾に面する天然の良港で、フランス最大の貿易端近くのロンシャン宮殿 ( 一九世紀 ) は美術館 となっており、マルセイユ生まれの画家・彫刻 港市二四年には同地の歌劇場音楽監港である。 やかた 〔港湾と産業の発展〕港湾都市としての本格的家の作品を集める。市街南部のポレリーの館 督となる。二七年ライブツイヒ ュ辺市立劇場指揮者となり、そこで発達は一九世紀のことで、プルポン王朝による ( 一八世紀 ) は地中海考古学博物館に使われて イ周 いる。旧港南側の標高一六二の丘上にラ・ガ 北アフリカの植民地化政策 ( マグレプ政策 ) に 。代表作のオペラ『聖堂騎士とユ マ ダヤ女』 ( 一全九 ) が生まれた。 おいてその進出拠点となった。また一八六九年ルド大聖堂 ( 一九世紀 ) があり、丘からはイフ せき・一 165
みしよ て除去しないと、発芽の遅れやそろいが悪いこ伝統ある格花とは別に、大正時代には現代様式 0 とが多い。なお草花、野菜などは普通、実生とのいけ花を取り入れたが、八代目康甫の弟中山 3 はしゅ ぶんば 部 はよばず、種子播き、播種という。〈堀保男〉文甫は、未生流の旧態に飽き足らず、未生流を 館 頭 い術御荘 ( 町 ) みしよう ( ちょう ) 愛媛県南部、南離脱して、別に「未生流中山文甫会」を一九五 ぶんご うちうみ 代 宇和郡の町。豊後水道の内海に面する。一九一一四年 ( 昭和二九 ) 創立した。この内紛は末生流 近 立 三年 ( 大正一一 l) 町制施行。五六年 ( 昭和三 にとって少なからぬ動揺をきたしたが、伝統あ みなみ ョ 一 ) 南内海村と合併。国道五六号が通じる。町る未生流の地歩は崩れず、今日なお関西を中心 えんりやく かんじざいしよう レ 名は中世に延暦寺領の観自在寺庄が置かれた に全国的な組織をもっ流派として、いけ花界に ュ ひらじよう シ ことによる。中心地区の平城は四国八十八か重きをなしている。分流派も多く、一〇〇をも 〈北條明直〉 まれながら、一一一一口語に対する大胆な破壊作業を通所第四〇番札所の観自在寺の門前町として発展って数えるはどである。 ぎんしん コの影響のもと、時代に適合し、時代を代表じて特異なユーモアをたたえた斬新な表現を生してきた。御荘湾の先端にある中浜は巻網漁業未生流中山文甫会みしようりゅうなかやまぶ 、ナ花流派の一つ。一九五四年 ( 昭 の基地で、三陸沖や黄海にまで出漁する。県内んばかいしし し、時代を指導する人物を中心とする独自のロみ出すことで、その不安を克服しようとした。 マン主義的歴史哲学を形成することに成功しその結果、一一一一〕語は一種の悪魔いの効用を帯びの真珠養殖の発祥地で、ハマチ養殖も盛ん。ミ和二九 ) 中山文甫 ( 天究ー一九会 ) によって創 あまなっかん ることになる。海外旅行体験をもとに奇妙な風力ン栽培は甘夏柑が主で品質は全国一を誇る。流。文甫は早くから進歩的いけ花作家としてモ た。処女作『世界史への序説』を三〇年に公に して、三一年の『ローマ共和政史』に続いて、俗の土地を描いた『エクアドル』 ( 一九一一九 ) 、『ア南予レクリエーション都市施設の中心で、大ブダニズムないけ花の先頭にたち、四八年一〇月 ールやロープウェー 、公園がある。海岸一帯は 「前衛挿花個展」を開きしレ 、、ナ花に初めて前衛 三三年から一生の大著、主著となる『フランス ジアの一野蛮人』 ( 一九一一一三 ) などの旅行記、奇怪 あしずり の名を冠した。五四年「今日のいけばなはもは な幻想に満ちた内的領土を描いた『グランド・ 足摺宇和海国立公園に指定されている。人口一 史』 ( 全一七巻、天三三 ~ 六七 ) の筆をとり始めた。 〈横山昭市〉や過去のいけばなであってはならない」とし ーニュの旅』 ( 一九三六 ) 、生の困難を戯画化万〇一一六 その華麗な文体、絵画的な描写、とりわけ人物ガラバ した『プリューム』 ( 一九三 0 などの詩集がある。回『御荘町誌』 ( 一九七 0 ・御荘町 ) て、伝統ある未生流から独立した。その後前衛 の活写により多くの熱狂的な読者を獲得した。 かしわじようへん 三八年からはコレージュ・ド・フランスの教授また、麻酔性をもっメスカリンをはじめとする囮二万五千分の一地形図「柏」「城辺」「伊予的な先鋭さを和らげ、五六年には「暮しのいけ かしま 鹿島」 ばな」を主題とするなど、新しい生活環境への となったが、フランス革命の精神的遺産と当時幻覚剤を用いた内部世界探求の軌跡は『みじめ しんえん つば ( 一七六一ー 展望を企図して特色ある流派活動を行ってい の市民社会との矛盾に悩み、政治・社会問題に な奇蹟』 ( 一九五五 ) 、『深淵からの認識』 ( 一九六一 ) そ未生斎一甫みしようさいい 〈北條明直〉 一一四 ) 江戸後期のいけ花作家。未生流の創始者る。一一代目家元は中山景之。 も筆をとった ( 『僧、婦人、家族』一会四、『民の他の著作や膨大な数のデッサンにみられる。 さんせき ひまっ 衆』天四六など ) 。とりわけ、人民への愛に満ち象形文字的な線や飛沫を中心とするその絵画作で、山村山碩と称し幕臣の家に生まれたといわミショット Albert Edward Mich0tte ー一九六五 ) ベルギーの心理学者。プリュッ 品はアンフォルメル絵画の先駆とみなされ、晩れる。若くから風流の道を志し、全国各地を放 ( 天 た『フランス革命史』 ( 全七巻、一会七 ~ 五三 ) は、 四八年の二月革命の時代的背景をなすもので、年の著作では文章とデッサンが混じり合った例浪後、大坂に居住し末生流を創始する。晩年失セルの生まれ。一九〇〇年ルーバン大学におい きよじっとうぶん 時代と人民と革命政治家との相互関係を描き尽も多い。はかに詩集『かっての私』 ( 一九 = 七 ) 、明したが門人の指導を続け、「虚実等分」の説てメルシェ Désiré Felicien Franqois Joseph せいか しれん ー一九一一六 ) のもとで哲学、科学、 くすことによって、単なる歴史研究の域を超え『試煉・悪魔祓い』 ( 一九四五 ) など多数の作品があをたて、生花の三角形式を体系づけるなど、生 Mercier ( 一会一 〈田中淳一〉花理論においても優れた業績を残している。失生理学で博士号をとり、〇五年から五六年まで て、一九世紀フランス文学史中の最高の歴史文る。 ルーバン大学に勤める。その間、〇五年から〇 学とたたえられる。しかし、革命の行きすぎに回小海永二訳『アンリ・ミショー全集』全三巻明後の一甫のロ述によるいけ花理論書として、 八年にかけてドイツに留学、プント、キュルペ 八一六年 ( 文化一三 ) に『本朝挿花百練』が ( 一九五三・青土社 ) も疑念をもつうちに第二帝政の成立にあってこ 〈北條明直〉 について心理学を学ぶ。生涯を通して知覚に関 刊行されている。 れに反抗し、職を追われた。以後、彼は歴史書実生みしよう種子を播いて発芽させるこ 心をもち、ことに第一次世界大戦後はゲシュタ いけ花流派。創流は のみでなく、散文詩的な自然・動物の描写にも とであるが、普通は繁殖の方法を区別するとき未生流みしようりゅう に用いる用語である。挿木や取木のように植物一九世紀初頭で、未生斎一前による。一甫は氏ルト心理学に興味をもち、知覚の土台にある運 筆を伸ばし ( 『鳥』一会六、『愛』一会公『女性』 さんせき 一会九 ) 、またパリ・コミューンにも共鳴し、一体の一部分を用いて殖やす栄養繁殖 ( 無性繁を山村、山碩と号し、関東に生まれ、諸国遍歴動や時間のゲシュタルト Gestalt ( 形 ) の発達 九世紀フランスの国民にもっとも愛された歴史殖 ) に対し、実生は有性繁殖である。実生繁殖ののち大坂に住み、未生流を広めた。のち盲目を研究していたが、三九年以後は物理的因果の 〈樋口謹一〉 は主として樹木の苗木、接木用台木の大量生産となり、盲目の華道家として知られ、「本朝挿知覚の研究を始め、世界の注目を集めた。彼 家として生を終えた。 は、二つの対象が衝突して一方が他方を動かす に利用されるほか、果樹、花木、林木の品種改花百練』などのいけ花理論書を著した。二代目 回桑原武夫他訳『フランス革命史』 ( 『世界の名 まうげん 良にも用いられるが、開花までに長い期間を要広前は嵯峨御所に仕官し、法眼の位を得、末生種々の状況を設定し、因果の知覚が色や音と同 著』所収・一九穴・中央公論社 ) おんりゅう じように直接経験されるもので、経験を解釈し 御流を開いている。現在は九代目で、家元は 、、、ショー Henri Michaux ( 天究ー一九会 ) する。 ひはらせきほ たものではないと主張した。著書に『トを、・ 肥原碩甫。 種子は樹種により保存できるものと、すぐに フランスの詩人、画家。・ヘルギー生まれだが、 ぶんかぶんせい c ミ斗 c ミé ( 因果の知覚 ) 』 ( 一九四六 ) 文化・文政期 ( 一〈 0 四 ~ き ) に大成した末生流 播く ( 取り播きともいう ) ものに区別できる。 一九五五年フランスに帰化した。シュルレアリ きよじっとうぶん などがある。 〈宇津木保〉 ストと同世代に属し、共通する内的探求を課題発芽条件には水分、温度、酸素などが大きく関は、その特徴として「虚実等分」の説をあげ、 = 、シン英語のソーイング・マシン sewing 草木の出生を尊重するが、あるがままの自然の としながら、いかなるグループにも属さずに独係するが、種子によっては好光性 ( 明るくない 得の世界を開拓した。ロートレアモンの影響下と発芽しない ) のものと嫌光性のものがある。姿ではなく、その奥にある自然の本体を抽出す machine が略され、なまって日本語化した語。 ることを眼目とし、「方円の説」を用い、天地布地、皮革、紙などを縫い合わせたり、刺しゅ に詩作を始め、外界の不可解な敵意への不安、 一定期間低温や高温を受けないと発芽しにくい せいか , つなどをする機械。 ものもある。また果肉のあるものは水洗いをし人三才格の生花の理論づけを行った。その後、 そこに生きる困難さ、言語への不信感にさいな きせき つぎき イ .1
とマンチェスターを結ぶ航洋船運河。マージー とモノローグの手法、作者と作中人物が交錯し た。詩風はバンビル風の押韻の妙、語術とほど 作品には師匠スクワルチオーネ由来の考古学的 川とマンチェスターを結ぶ艀用運河を経営してた複雑な構造をもち、女性らしい、知的で叙情よい叙情性によって特徴づけられる。詩集に 知識や、おりしもパドバ滞在中のドナテッロの いたプリッジウォーター・ナビゲーション社的な世界をつくりだした。代表作は『獅子のご 『フイロメラ』 ( 一会四 ) など。また『現代高踏詩感化による彫塑的な表現が際だっている。 やかた ( のちマンチェスター・シップ運河会社と改称 ) とく強く』 ( 一九四四 ) 、『出版社への手紙』 ( 一九四五 ) 、集の伝説』 ( 一公四 ) 、『老女の館』 ( 天九四 ) 、『一八 一四六〇年にはマントバの領主ゴンザーガ家 たか によって計画され、一八八七年に着工、九四年『はい鷹』 ( 一九五六 ) 、『立てる肖像』 ( 一九七一、カン 六七年から一九〇〇年のフランス詩の動向』の宮廷画家に登用され、以後、短期間ローマや 一月一日に開業した ( ビクトリア女王臨席の開ピエッロ賞受賞 ) など。 〈望月紀子〉 ( 一九 0 一 (l) など詩史的資料も書き残している。さ トスカナに滞在したことはあるが、終生この文 業式は同年五月二一日 ) 。長さ約五八 運河マンディアルグ 0 ピエール・ド・マンデらにマラルメの重要な文通相手の一人としても 化都市で過ごした。マントバにおける大作は一 - 一うもん 入口のイースタム閘門ほか四か所の閘門があィアルグ 記憶される。 〈遠山博雄〉四七一 ~ 七四年に制作したパラツツオ・ドウカ ー九 0 ) 江 り、運河入口とマンチェスター間の水位差一万亭応賀まんていおうが ( 天天 ? マンデス・フランス Pierre Mandés ーレのカメラ・デリ・スポージ ( 夫妻の居室 ) ・四を克服する。現在はイースタム閘門よ戸後期の験作者。本名服部孝三郎 ( 長三郎と France ( 一九 0 七 —<ll) フランスの政治家。 の壁画と天井画 ( 図写実主義 ) である。壁画 ながさ・一うとう り約八キ。の地点にあるスタンロウまでは一万五も ) 。江戸の人。父服部長狭勾当は、彼に士分 リ生まれ。弁護士出身。一九三二年の選挙に一一は領主一族の屋内と屋外での集団肖像画である ひたち 〇〇〇重量トン、最奥部の、マンチェスターに隣の株を買って常陸下妻藩に出仕させたが、まも五歳で急進社会党から立候補し当選。以後四〇 しようていきんすい 殉スタ作テ厳空めの射君聖さ ペ 接するソーフォード・ドックスまでは一万二五なく辞して戯作界に入った。松亭金水、亭年まで下院議員を務め、一九三八年の短命な第 なナでな高人を暴は回 きんが ごうかんしゃ スフド 一要ド的的を巨スて右き 〇〇重量トンの船の入港が可能である。この運河金鵞などの戯作者グループに加わり、合巻『釈二次プルム内閣の大蔵次官となった。第二次世 レ オ重び刻実張はルれ かはっそうやまとぶんこ オろ堂すよ彫写緊面オそろを の完成によって、大型の外航船が直接マンチェ迦八相倭文庫』 ( 初編、天四五 ) によって幕末戯界大戦中は一時ビシー政府に捕らえられるが、 , の場フがこ中 フこ 5 聖示おだ やまとかがみ ャト年引ニを術ん写面のト矢と市 スターまで入れることになり、内陸の工業都市作界に地位を得、『聖徳太子大和鏡』『高祖朝ロンドンに逃れ、自由フランス空軍、ついでド ニス 6 6 一堂式芸学描画左スたたが マンチェスターは一時はイギリス有数の港湾荷日衣』などの実録風合巻も刊行した。明治にな リしつ体面 ゴールのフランス解放委員会に参加した。解放一リ馮 2 タ拝様典ら態が テ ミ礼の古か形成るクとた死場 クっ 0 役量をもっ都市となり、運河沿岸にも多くのエり、反時勢的な風刺作品を書いたが注目され後の四四年ドゴール臨時政府の国民経済相に就ン 」レリ期 - , ロな構い人う当のる ろう - 」う かながきろぶん マ「教コエ一初品ッ格問て聖ょに人れ 場が立地した。第二次世界大戦後もその繁栄はず、陋巷に窮死した。開化主義の仮名垣魯文と任するが翌年辞任。ふたたび下院議員 ( 一九四六 ~ 続き、一九五四年には原油タンカーの大型化と対照的な戯作者だった。 ^ 興津要〉夭、 六七 ~ 六 0 を務め、しばしば国際金融機構で ともに入口のイースタムには三万重量トン用の石回興津要著『転換期の文学ーー江戸から明治フランスを代表した。フランス軍のディエン・ 油専用のドックも建設された。しかし、外航船 へ』 ( 一九六 0 ・早稲田大学出版部 ) ビエン・フーの敗戦直後の五四年六月、インド のたたかい シナ戦争を批判してきた前歴を買われて首相に の大型化傾向は運河をしだいに使いにくいものマンティネイアの戦い ない・一う にし、七〇年代以降はもつばら海側のイースタ 紀元前三六二年、アルカディア同盟の内訌に介就任し、ジュネープ会議でインドシナ休戦協定 ムーランコーン間に大部分の交通が集中して、 入したテーべと、スパルタとの間の戦い。マンを成立させた。その後もチュニジアに自治を認 この区間のドックが石油、あるいはコンテナ・ ティネイア Mantineia はペロポネソス半島中めるなど懸案解決に努めたが、反対も強まり五 ターミナルとして繁栄するようになった。八一一一部、テゲアの北方の地名。テーベ側は最終的勝五年辞任。五六年モレ内閣の国務相となるが、 年までに定期貨物船もこの運河から撤退してい 利をものにしたものの、将軍工パミノンダスを首相のアルジェリア政策を批判して同年辞任。 る。 〈青木栄一〉失った。この戦いによって、テーべの覇権は陰ドゴールの政界復帰に反対して五九年急進党を ちょうせき 満潮まんちょう high water 潮汐によるり始め、。 ヘロポネソス半島諸国への介入は弱ま除名され、統一社会党に所属したが、七三年に 海面の昇降で、海面が上昇しきった状態をい ったが、スパルタも大いにその威勢を落とし第一線を引退した。第四共和政時代のもっとも こうちょ・つ う。高潮ともいう。これに対して、下がりき 〈古川堅治〉優れた政治家の一人であったが、議会の頭越し かんちょう った状態を干潮という。通常は満潮と干潮が ー一九 0 九 ) マンデス catulle Mendés ( 天四一 に直接国民に呼びかけるその政治スタイルが、 それそれ一日二回生じるが、満潮時の高さに差フランスの詩人、小説家、劇作家。ポルドーに ユダヤ系の家系と相まって敵を多くし大成を妨 こう、一う ギー .. つ」 0 があり、それを区別するときは高いはうを高高生まれる。一 八六一年『幻想派評論』やき e 〈平瀬徹也〉 ちょう ていこうちょう みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ まんてつ 0 南満州鉄道株式会社 潮、低いほうのものを低高潮とよぶ。満潮のミミ s ミ e 誌創刊。六六年リカール Louis ・ Xa ・満鉄 vier Richard ( 天四三 時刻や高さは日々変化するが、新月と満月のこ ー一九二 ) とともに『現代高マンテーニヤ Andrea Mantegna ( 一四 ろは潮差が大きく、高い満潮となる。夏から秋踏詩集』を刊行し、高踏派形成の中心となっ ー一五 0 六 ) イタリアの画家。パドバ近郊に生 にかけて平均潮位が高い季節に、大潮の満潮 まれ、少年期から生地の画家スクワルチオーネ たかしお と、高潮や異常潮位が重なると、浸水・冠水の に師事し、その養子となる。一四四八年、早く 被害が大きくなるので注意を要する。↓干潮 も同市エレミターニ聖堂オーベターリ礼拝堂 ↓潮汐 〈岡田正実〉 ( 一九四四年戦争で罹災 ) の装飾を数人の画家 よろずちょうほう ス ン まんちょうほう 0 萬朝報 萬朝報 たちとともに委嘱され、五六年までに「聖ヤコ ラ フ マンツィーニ Gianna Manzini ( 天九六 プの生涯」「聖母被昇天」「聖クリストフォルス 一しー一〈 ) イタリアの女流作家。『ソラーリア』 の殉教」の諸場面を仕上げた。五九年には・ヘロ ス ん誌の作家として出発。処女作は『魅せられた時 ーナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の祭壇 ン ま代』 ( 一九 = 0 で、写実と追想、洗練された文体 マ画『聖母子と諸聖者』を制作したが、これらの 227
まどりど ① ② マドリー たいかく Universidad 4- 一五世紀である。カスティーリヤ王国とアラゴマドリード大学 場としてつくられ、バルコ ニーのついた建物に囲まれン王国の合同 ( 一四六九 ) によるスペインの統一以 Complutense de Madrid スペインの首都 マドリード北西「大学都市」区にある同国最大 ているマヨール広場、世界後、フェリペ二世の時代に宮廷がトレドからこ 有数の美術館プラド美術館こに移されてからは、文字どおりスペインの中の国立大学。正式校名マドリード・コンプルテ ンセ大学。コンプルテンセは地名アルカラ・ などがあり、多くの観光客心都市としての地位を確立する。一七〇一年に デ・エナーレスの意で、一四九九年教皇アレキ を集めている。とくに五月始まったスペイン継承戦争では、〇六年から一 中旬のサン・イシドロの祭〇年までハプスプルク家カール大公に占領されサンデル六世 ( 在位一四九一一 ~ 一五 0 三 ) の設立認可教 たが、一貫してプルポン家フェリペ五世を支持書を得たトレド大司教ヒメネスが、一五〇八年 りは盛大でにぎわう。 はいもっ 〈田辺裕・滝沢由美子〉した。政治都市としてばかりではなく、啓蒙専設立した神学中心のアルカラ・デ・エナーレス 〔歴史〕九世紀にイスラ制時代、カルロス三世のもとで商工業も発展学寮制大学を前身とする。法学中心のサラマン ム・ウマイヤ朝のムハンマし、一七八二年にサン・カルロス銀行 ( 後のスカ大学 ( 一 = 一一七ころ設立 ) と並び一六 じようさい かけて、ラテンアメリカ植民地に多くの上級聖 一世がここに城砦を築ペイン銀行 ) が設立された。 ほうき 一八〇八年フランス占領軍に対する民衆蜂起職者、行政官僚を送出し、また植民地に設立さ いたことに始まり、カステ ィーリヤ・レオン王アルフが起こったが、フランス軍が過酷な弾圧を行れた二六大学のモデルとなった。一八世紀末一 八二一年公教育法に基づ 、そのためこれを契機に全土で対フランス独時消滅しかけたが、一 オンソ六世が一〇八三年に き開設されたマドリード大学の中心施設とし 奪回した。以後レコンキス立戦争、ゲリラ戦による国民戦争が始まった。 八三八年アルカラからマドリードへ移 しかし、ここは、戦争が終結する一八一四年まて、一 タ ( 国土回復戦争 ) の拠点 転。一九世紀末、大学の教育方針をめぐりカト となり、一三世紀には国王でフランスの占領下に置かれた。一九世紀にお リック系保守派と自由主義派の対立抗争があっ から都市特権を与えられける政権交替では、ここでのクーデター、民衆 た。一三三九年にここでコ蜂起の成否が決定的な役割を果たす。一八四〇て分裂危機の状態を続けたが、アルフォンソ一 せっしよう 三世、プリモ・デ・リ・ヘラ内閣期 ( 一九一一三 ~ ルテス ( 王国議会 ) が開か年の民衆蜂起による摂政マリア・クリスティ の「大学都市」建設プランを契機として統一と れるなど徐々に重要性を増ナの追放、五四年近郊の町ビカルバロでのクー デター宣言と民衆の呼応による進歩派政権の誕平静に向かい、今日までの発展路線にのる ( ス していったが、 王国の中心 ペイン内戦期を除く ) 。現在、学部二〇、技術 となり始めるのは、コルテ生などである。 政治の中心であったことは、二〇世紀に入っ系高等専門学校・研究所一五、そのほか学生寮 スがたびたび開催されるよ うになり王宮も据えられるてからも変わらす、一九三四年一〇月のここで九。一九七〇年改革で各学部修業年限は第一課 のゼネスト失敗は十月革命を敗北に導き、三六程三年 ( 学士 ) 、第二課程二年 ( ただし医学部 年七月の軍反乱の失敗、共和国側の防衛成功三年、修士 ) 、博士課程二年以上 ( 論文審査、 は、フランコ側に短期決戦を断念させ、長期の博士 ) 。教員数約八三〇〇人、学生数八万〇六 〈皆川卓三〉 〈中塚次郎〉〇〇人 ( 一九会 ) 。 内乱を余儀なくさせた。 ぶんか MagdaIénien じようやくハプス。フマドレーヌ文化 マドリード条約 フランス、ドルドーニュ地方のマドレーヌ Ma- ルク家の神聖ローマ皇帝カール五世 ( 同時にス いわかげ deleine 岩陰を標準遺跡とする後期旧石器時代 ペイン国王カルロス一世 ) とバロア家のフラン 一五二六年一最後の文化。全期にわたって遺物が存在したの ス国王フランソア一世との間に、 どう 月マドリードで結ばれた講和条約。両家はイタはシャンスラード人を伴出したレイモンドン洞 リアにおける覇権をめぐって、一五世紀末以来窟であるが、一九世紀末に行われた発掘は、層 ヨーロッパ各地で闘争を繰り返していたが ( イ位を把握しきっていないので、前期はプラカー ル洞窟の遺物をもとに定義されている。一万七 タリア戦争 ) 、一五二一年から両君主の戦いが 開始された。二五年二月二四日の北イタリアに〇〇〇年前ごろから一万二〇〇〇年前ごろに存 おけるバビーアの決戦で、フランソア一世はカ在し、主としてフランス、スペインに分布する ようへい 一囲 , 地 ア線ス代ボで食開 ール五世のスペイン・ドイツ傭兵軍に敗れ、捕が、イギリス、南西ドイツ、ポーランドにも同 ショで判催 る幹レ点時ル産大公 走のべ心世プ遺。はイマ物裁開虜となった。この条約によってフランソア一世系統の文化があることが知られている。六期に せんとうき う建 , の に北シ中 3 た的式部 — ~ Ⅲ期は骨製尖頭器の、Ⅳ ~ Ⅵ期 ンわの市事 は釈放されたが、その代償として、ミラノ、ジ細分され、 西南るのスし表様一 もり 東 , す通ロ成代クのサぎ紀は行 エノバ、ナポリなどイタリアに対する要求の放は骨製銛の形態変化に特色がある。石器では ほが差交ル完のツ屋のに世て諸 ほり交内力に代シ部る日で卩っ 棄とプルゴーニュ公国の引き渡し、アルトアと期とⅡ期の差が大きく、—期はバドウグール文 かど を通と市年時ラ 内ラ 宮朝クどて月祭場 , な 化の名で区別されることもある。美術品にも顕 フランドルに対する封建的支配権の放棄を約束 市カ通場王卩王オなれ 5 の広れ牛 ①ル大広②のンネ堂さ③ロルま闘 させられた。 〈岡部健彦〉著なものが多く、リアリズムの様相が濃い美術 ー第第言さ、気き新、に くっ
力を失わせ、衰退させる。逆に個人の欲望に根採択により国家反逆罪として五年間 ( 一九五六 ~ 論」 ( 『後期資本主義』〈一九七 = 〉所収 ) が有名で び 六 I) 投獄され、六二年再逮捕。六四年終身刑とある。その他の著作としては、『ドルの没落』 2 ざす悪徳こそが社会全体の利益になると説く。 この説は道徳の現世化という一八世紀の思想的なり口ッペン島に抑留され、八二年からポール ( 一九七一 l) 、『ューロコミュニズム批判』 ( 一九七 0 な 〈新田俊三〉 スムア刑務所に収容されている。〈林晃史〉どがある。 主題の提示であり、ヒューム、アダム・スミ ん 回岡田純一他訳『現代マルクス経済学』全四巻 ス、ペンサム、ポルテール、モンテスキューら E)> ・マンデラ著、阿部登他訳『わが魂はネル ( 一九七一一・東洋経済新報社 ) ▽飯田裕康他訳 ソンとともに』 ( 一九全・新日本出版社 ) に影響を及ばした。しかし同時代においても、 ークリ 『後期資本主義』全三巻 ( 一九〈 0 ~ 八一・柘植書 ー、ハチソンらによる激しい反論があマンデリシュターム OCHII 3MHJ1beBHt1 房 ) ▽明石元訳『ドルの没落』 ( 一九七三・柘植 り、この書は一八世紀においてつねに論争の種 MaHJteJ1bL11TaM/Osip Emil'evich Mandel' ・ ー一九三 0 ロシア・ソ連の詩人。 書房 ) ▽杉村昌昭・水谷驍訳『ューロコミ になった。しかし利他的行為をそれを行う個人 shtam ( 天九一 テ ュニズム批判』 ( 一九〈 0 ・柘植書房 ) ワルシャワでユダヤ系の商家に生まれる。ドイ ンの心の満足から説明する点などでは、シャフッ さん mandelic acid ヒ べリ伯、ハチソンなどと同じく道徳感覚学派に ツのハイデルベルク大学、ペテルプルグ大学でマンデル酸 ドロキシカルポン酸の一つ。ーヒドロキシフ 〈小池英光〉 フランス中世文学を学ぶ。とりわけフランス、 が、人物の配列や個性描写の適確さにおいて、彼を数えることもできる。 イタリアの詩編に通暁し、ロシア象徴主義の影ェニル酢酸、フェニルグリコール酸ともいう。 イタリア・ルネサンス絵画のなかでも傑出してマンテマ S ミミミミ L. var. ・ いる。八四年に新領主となったフランチェスコ きミミき (). ) R0hrb. ナデシコ科の越年響も受けて、詩人グミリョフ、アフマートワら がいせん 酸 とアクメイズムの詩誌『アポロン』によって活 の要請により装飾画『カエサルの凱旋』 ( 一七草。茎は直立し、高さ二〇 ~ 四〇拜一。葉は長楕 レ えん 躍。一九一三年の処女詩集『石』 ( 第三版一九 ワ 3 -0 世紀にイギリス国王チャールズ一世に売却さ円形で、全体に毛が多い。初夏、枝先に径約八 8 一 0 ワ」 、リの花を多数開く。花弁は白色で、紅紫色の斑 lllll) 、詩集『トリスチア』 ( 一九一一一 l) 、詩論集『ポ れ、ロンドン西郊ハンプトン・コートに現存 ) ルマ てん デ を描いたが、古代ローマについての正確な知識点が目だっ。ヨーロッパ原産。海岸など日当りエジーについて』 ( 一九 = 0 ・『ダンテについての 子子点点 をもとにした独特の装飾効果を示している。そのよい場所に生え、日本全土に帰化している。会話』 ( 一九三〇年代初め ) のほか、散文には 分分融沸 のほか彼の作品はヨーロッパ各地の美術館に散変種シロバナマンテマは、同じくヨーロッパ原『時のざわめき』 ( 一九 = 五 ) 、『エジプトのスタン べンズアルデヒドにシアン化水素を付加させ 在するが、とくにミラノのプレラ美術館の『死産で各地に帰化しているが花弁に紅紫色の斑点プ』 ( 一九 = 0 などがある。詩風は新古典派的で、 ゴシック建築的イメージをもち、ロシア詩文学たのち、加水分解すると得られる。無色の板状 がない。名は、本種が渡来したころムギセンノ せるキリスト』 ( 一四六五 ~ 六六、図第ビエタ ) は、 モノクロームに近い色彩効果によって精神の厳ウ属ゝ。 s 、 e ミきの植物であるとし、その学にヨーロッパの神話を加える。散文は幻想的、結晶で、水、エタノール ( エチルアルコール ) 、 エーテルに溶ける。遊離酸またはカルシウム塩 粛さと安らぎが暗示される、含蓄に富む表現を名からマンテマンとよばれていたものが、マン多響的で、世紀末のペテルプルグ ( 現レニングラ の形で尿路防腐剤 ( 医薬 ) として用いる。普通 ード ) を舞台にユダヤ的色彩も濃密に描く。三八 みせている。また彼は銅版画にも優れた作品をテマンが略されてマンテマになった、と牧野富 はラセミ体 ( 乢ー体 ) として知られているが、 残している。図し聖セバスチャンの殉教し版画太郎は記している。マンテマ属は全世界に二百年極端に非政治的であるとして逮捕され、ウラ さくか 十字架 〈濱谷勝也〉数十種あり、萼が筒状となり、蒴果は花柱の倍ジオストクの獄中で死亡、「雪どけ」後に名誉プルシンを用いて光学分割するとー体、 / ーメ ントールを用いて光学分割すればー体が得ら 数に裂ける。子房の基部に隔壁のないものを、回復。七〇年アメリカでナジェージダ末亡人に マンデビラ M をキョウチクト 〈廣田穣〉 〈工藤正広〉れる。 よる『回想』が刊行された。 フシグロ属 e dry ミきとして区別すること ウ科の藤本 ( つる植物 ) 。熱帯アメリカに約一 力いとう がある。 〈三木栄二〉回峯俊夫訳『石』 ( 一九七六・国文社 ) ▽安井侑子マント manteau 外套ゃべールを意味 〇〇種が分布する。よく知られるサンデリミ . 訳『時のざわめき』 ( 一九七六・中央公論社 ) ▽するラテン語の mantellum を語源とする、衣 きこ e (Hemsl.) woodson はプラジル原産マンデーマス・プロシーディング ナジェージダ・マンデリシュターム著、木村服の上に羽織って着るゆったりとした外衣の総 で、春から秋に径六 ~ 七垰一の淡桃から濃桃色の mandamus proceeding 英米法における職 ろうと 浩・川崎隆司訳『流刑の詩人・マンデリシュ称。古代ギリシアのヒマティオン、古代ローマ しし公の職務の執行を命ず 漏斗形花をつける。つる性であるが、摘心して務執行令状手続を、 のパルラのような、女子用の袖なしの長い寛衣 ターム』 ( 一九含・新潮社 ) 鉢花として利用する。園芸店では旧属名のディるために発せられる。日本でいわゆる機関委任 のはか、ケープ、ペラリン pelerine プラデニア 0 きトの名でよばれる。ま事務の執行を確保するため地方自治法一四六条マンデル Ernest Mandel ( 一九一一 = ー 引き回し、とんび、二重回しのような、袖なし ベルギーのマルクス経済学者。フランクフルト その他で認められている職務執行命令訴訟はこ た、アマビリスは種間交雑種で、より大形で、 の、肩に掛けるようにして着るもの。また、フ つる性が強く、品種のローズ・ジャイアントはの英米法の制度を導入したものである。↓職務に生まれる。プリュッセル自由大学を卒業後、 あんどん ランス各地の民俗服や、キリスト教のある宗派 〈阿部泰隆〉 パリに留学。第二次世界大戦中は反ナチス・レ 行灯仕立てにされる。径一〇以上の大輪種執行命令訴訟 ジスタンスの一員として活動し、戦後はマルクの修道僧の聖職服にみられるような、袖なし、 で、夏によく開花する。繁殖は、両種とも挿木マンデラ Nelson Rolihlahla Mandela フード付きのゆったりした外衣などがある。中 ) 南アフリカ共和国の黒人解放運動ス主義の理論家として、労働運動や学生運動に による。 〈高林成年〉 ( 一九天ー 指導者。トランスケイのテンプ族の首長の子と大きな影響を与えた。代表的著作としては『現世を通じて一般化し、一九世紀後半からは、防 マンデビル Bernard Mandeville ( 一六七 0 寒、防雨、防塵などを目的とした袖付きの外套 ー一七三三 ) イギリスの医師、モラリスト。オラして生まれる。ウィットウアーテルスラント大代マルクス経済学』 ( 一九六一 l) がある。そこでは、 ンダに生まれ、のちイギリスに帰化した。彼を学法学部を卒業。ヨハネスプルグで弁護士開業マルクス経済学の基礎理論から、帝国主義、ソをもマントとよぶようになった。 はちぐうわ 一八六四年 ( 元治一 ) の村上英俊の『仏語明 もっとも有名にした著書『蜂の寓話、または個 ( 一全一 ~ 五六 ) 。在学中アフリカ人民族会議 ()Z ビエト経済論に至るまでの広範な領域が分析の 人の悪徳は社会の利益』 ( 一七一四 ) において、彼 O) に入党、その青年同盟を創設。一九五二年対象となっている。経済理論の領域における業要』に「 manteau 合羽」とあるように、日本 では合羽 capa との混用がみられるが、幕府 は当時の道徳を厳しく批判した。すなわち、伝 <ZO トランスパール支部長。同年の抗議キャ績としては、コンドラチェフやシュンペーター 統的なキリスト教的道徳は社会を単純にし、活ンペーンにより逮捕、さらに五四年の自由憲章の理論の影響のもとに展開された「長期波動から引き継がれたフランス式陸軍用語からマン とうはん はん ~ うじん そで 羽ば