ローマ - みる会図書館


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ろ、古代文化を大幅に継承して、ローマ的・ゲ 0 ルマン的混合文化を創出し、中世以降のヨーロ 5 ッパ文化発展の基礎を置いたと考えるべきであ ) のろう。移動の様相については、原住地から長距 諸離の移動を行った東ゲルマン系諸部族 ( 東ゴー ト、西ゴート、バンダル族など ) と、原住地に ロ接続して移動を行った西フランク系諸部族 ( フ ランク族はか ) とを区別することが必要で、後 者が農民層の移住も伴ったのに対し、前者で は、指導者を中核とする戦士集団が移動の中心 舞団 であり、新定住地におけるローマ系原住民との 宮舞′ 宮 / 比率は五 % を超えなかったと推定される。政治 的にも、かならずしもローマの宗主権を否定し たわけでなく、多くはローマとの同盟関係の下 ドカ ンヤ に、土地占取もローマの軍隊駐屯法に従った平 ク和的な土地分割が行われた。国内統治において も、とくに行政面ではローマ系官吏に依存する 点が多く、カシオドルスやポエテイウスを登用 した東ゴート王国がその典型である。最近の研 究では、法や制度の面においても意外とローマ ・。・ 0 。心 , 的影響の強いことが注目されている。他方ゲル マン人の側では、民族大移動を契機として王権 の伸張が著しく、また政治的統合が進んで、大 部族の形成が促進されたことも重要である。↓ バイキング↓東ゴート族↓西ゴート族 ンダル族 〈平城照介〉 回山中謙二著『西欧世界の形成』 ( 一九天・東海 大学出版会 ) ▽増田四郎著『西洋中世社会 史研究』 ( 一九七四・岩波書店 ) ▽長友栄三郎著 『ゲルマンとローマ』 ( 一九七六・創文社 ) ▽ ・ピレンヌ著、中村宏・佐々木克巳訳『ョ ーロッパ世界の誕生』 ( 一九六 0 ・創文社 ) ▽ ・リシェ著、久野浩訳『蛮族の侵入』 ( 一九 七四・白水社 ) ▽・アンビス著、安斉和雄 訳『アッチラとフン族』 ( 一九七三・白水社 ) ▽ ・クルセル著、尚樹啓太郎訳『文学にあら われたゲルマン大侵入』 ( 一九七四・東海大学出 版会 ) 物踊民族舞踊みんそくぶよう民族あるいはその 民族によって形成される国家を単位にした舞踊 を査 ~ 一の総称。民族舞踊は英語のエスニ「ク・ダンス ethnic dance の訳語であり、フォーク・ダン ダンス ス folk dance あるいはカントリー・ country dance の訳語である民俗舞踊とは異 なる。民族舞踊ということばが日本で使われる ようになったのは、民族音楽の語が定着してき たごく最近のことである。欧米でエスニック・ 〔上〕プータン仮面舞 踊 ( 首都ティンプー ) 韓国シャーマン ( 巫女 ) による 巫舞 ( 仁川市の農漁祭 ) 中国ハニ族の舞踊 ( 雲南省 , 景洪の水かけ祭 ) 〔右〕スリランカキャ ンディアン・ダンス ( キ ャンテ・イのペラへラ祭 ) インド北部地方に伝承する 古典舞踊カタック オテア ノヾプア・

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ス期の画家。本名はメロツツオ・デリ・アンプ媒体だった。事実、冒険活劇、犯罪実話、家庭力が著しく強化され、実権は豪族層の頭領であ二つの種族、南西のガロ・ロマン人と北東のゲ ルマン人によってそれそれ異質の美術が芽生 悲劇、あるいは汽船の遭難、鉄道事故、大地震る各分国の宮宰の手に握られた。とくに、アウ ロージ Melozzo degli Ambrogi で、フォル リに生まれ、同地で没した。初めピエロ・デッ など一九世紀メロドラマの題材は、テーマ音楽ストラシアの宮宰カロリング家の台頭が著しえ、やがて融合に向かっていった跡をたどるこ く、ピピン ( 中 ) のときには全フランク王国のとができる。すでにキリスト教が普及していた ラ・フランチェスカのもとで修業したと思わとともに映画のなかへと受け継がれていったの れ、師の様式を受け継ぐとともに、より動感にである。サイレント時代の映画ではグリフィス 宮宰職を掌握し、その子力ール・マルテルはト 南西部では修道院および教会が美術の推進力と あふれる画風を確立した。バチカン美術館の の長編映画にメロドラマ性が濃厚であり、トー ゥール・ボアチェの戦い G 三 (l) で侵入してき なったが、異教的な北東部ではゲルマンの王宮 やかた ようらん 『シクストウス四世とプラティナ』 ( 一四七七ころ ) キー時代では『風と共に去りぬ』 ( 一九三九 ) 、『哀たイスラム軍を破り、実質上フランク王国の支や貴族の館が美術の揺籃となった。そして、そ は、遠近法に基づく空間構成とフランドル派的愁』 ( 一九四 0 ) 、日本映画では『愛染かつら』 ( 一九配者としての地位を確立した。こうした基盤のれはフランク王国の次の王家、カロリング朝の な写実とが融合した代表作である。ローマのサ三 ハ ~ 三九 ) 、『君の名は』 ( 一九五三 ~ 五四 ) などが有名。 うえに、その子ピピン ( 小 ) はクーデターを敢行美術に受け継がれていく。 ンティ・アポストリ聖堂のアプス ( 後陣 ) に描大衆の心をつかんだメロドラマも、その御都合し、最後のメロビング国王チルデリヒ三世を廃 古代ローマの石造建築の伝統は、修道院制度 いた天井画 ( 一四七 ~ の発達に伴って造営された大小の修道院建築に 0 ころ。その断片が現在クイ主義、扇情性、通俗性、感傷性のため、現在でし、カロリング朝を開いた ( 七五 D 。〈平城照介〉 べっしよう リナーレ宮とバチカン美術館にある ) や、ロレ ーーちょうびじゅっ五発揮された。回廊による僧房の組織的な配列は は蔑称として使われる場合が多くなってしまメロビング朝美術 つ ) 0 ートのサンタ・カーサ聖堂の聖マルコ聖器室の 〈岩本憲児〉世紀末から八世紀なかばに至るフランク王国の後世永く範を残している。広く普及した古代ロ メロビング朝における美術。クロービス一世 ーマ末期のバシリカと並んで、新しい教区教会 ちょう Merowinger 天井画 ( 一哭四こしでは、マンテーニヤの影響とメロビング朝 思われる極端な仰視法を駆使し、みごとな幻覚 フランク王国前半期 ( 在位哭一 ~ 五一 l) は、王妃クロチルデの勧めでや墓地教会が単純な方形の広間として出現し Mérovingiens ン 的表現に達している。このほかウルビーノ、フ の支配王朝。フランク族の一派サリ支族は、民カトリックに改宗したため、ローマ教会との結た。同時に聖公会や洗礼教会が多角的な平面プ ォルリでも活躍した。 〈篠塚二三男〉族大移動期にライン川を越えトクサンドリアにび付きを密にした。したがって、広義にはビザランの上に造営されたものと推定される。これ せんりつ 進出した。当時フランク族は多くのバーグス ンティン美術によって継承された古代末期の美ら教会建築で現存するものはボアチェ、フレジ メロディ 0 旋律 ュスなどの洗礼堂、ジュアール、グルノープルな 術の影響下にあるが、フランク王国を構成する メロドラマ melodrama ギリシア語のメ ( 郡 ) に分かれ、それそれ小王に支配されてい ロス melos ( 歌 ) とドラマ drama ( 劇 ) の合 たが、プリュッセル付近にあったパーグス、デ 成語で、演劇の一ジャンルをさすが、時代や地スパルグムの王クロディオ Clodio が勢力を振 ン世世世世世世 域によって多様に使われてきた。一八世紀後半るい、メロビング朝の祖となった。その子が王 グ 2 からジャンルとして力をもち始めたが、当初ド 朝名のもとになったメロビス Merov 一 s である。 2 , 「スヒヒヒ せりふ レ ル ~ ピ ~ ィッではオペラのなかで音楽の伴奏がつく台詞その子チルデリヒ一世 Childerich I のとき、 3 一 7 フタ弸べ 2 レ ( 歌わない ) の部分を、フランスでは登場人物すでにサリ支族の統一はかなり進んでいたらし ル位 クダクチチチに廃 が沈黙したときにその感情を音楽で表現する演 。四八一年、その後を継いだ子のクロービス 劇をさしていた。しかしメロドラマが隆盛をみ 一世は、サリ支族だけでなくリプアリ支族、カ 世世 ヒ るようになったのは、ドイツ出身の劇作家アウマビー支族をも併合してフランク王国を建て、 レ グスト・コツツェ。フーがウィーンやペテルプル ロアール川流域に残っていたローマ人の勢力を ~ ル レ グ ( 現レニングラード ) で戯曲を次々に発表し滅ばし ( 哭六 ) 、西ゴート王国やプルグント王国 ジダ 始めてからである。彼の代表作『人間嫌いと後を討ち、アラマン族を征服、ガリア南部から南 世 悔』 ( 一大九 ) ほかがイギリスやアメリカでも翻西ドイツにまで勢力を広げた。彼はカトリック 世 ト 2 世世 訳・上演され、イギリス、アメリカにおけるメ に改宗して、ローマ教皇との提携を図った。し レ し」 11 、 かし彼の死 ( 五二 ) 後、王国は四子テウデリヒ ロドラマ・・フームに火がっき、フランスにも劇 レ 作家ギルべール・ド・ピクセレクールが現れる」世、クロドメール、チルデベルト一世、およ ジデデべ なぞ ルウギ引 と、彼の『セリーナ、または謎の子供』 ( 天 00 ) びクロタール一世の間で分割され、兄弟は対外 チテジ ほかがやはりイギリス、アメリカで翻案され、的には協力して、。フルグント王国を滅ばし、西 メロドラマの流行に油を注いだ ゴート王国をピレネー山脈のかなたへ駆逐し、 メロドラマは誇張されたドラマであり、ヒー ハイエルン族、チューリンゲン族を服属させる かたき ない・一う ローとヒロインの前途に迫害する敵役もしくは など領土を広げたが、分国相互間では内訌を繰 越えがたい障害が現れるという。ハターンが多り返した。その後クロタール一世によって統一 されたが、彼の死 ( 五六一 ) 後はふたたび四人の く、善玉と悪玉とははっきり分かれている。ま たドラマ全体としては道徳的、感傷的、楽観的子供に分割され、とくにアウストラシア分国王 んで、最後はハッピー・エンドになる。さらに、 ジギベルト一世とノイストリア分国王チルペリ び劇的効果を強めるための音楽の使用、スペクタヒ一世との対立は、全国的な内乱にまで発展 し、チルペリヒの子クロタール二世によって再 ろクル性を高めるための大仕掛けの舞台装置な めど、映画が誕生するまでも 0 とも大衆的な娯楽統一された G(IIII) とはいえ、国内豪族層の勢 クロディオ メロヒ・ス ( 448 ~ 457 ) チルデリヒ 1 世 ( 458 ~ 481 ) クローヒ・ス 1 世 メロビング朝 / 略系図 ーーー親子 ( ) 内数字は在位年 す没年 す 448 ( 481 ~ 511 ) テウデリヒ 1 世クロドメールチルデベルト 1 世クロタール 1 世 ( 511 ~ 534 ) ( 511 ~ 524 ) ( 511 ~ 558 ) ( 511 ~ 561 ) テウデベルト 1 世 ( 534 ~ 548 ) テウデバルト ( 548 ~ 555 ) プルンヒルト 797

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むなぐろ 書約大 , どうる ウムは中心の都市のはか、周囲の農村部を含ん がではなのれ 安部氏 大行事山口頼近 長一丈七尺 銘さ築でエ」わ ^ 弓削達〉 書長建の漆人思 天治元季八月廿日建立堂一宇「〕大工物部清國小工十五人「〕大檀散位藤原清衡女檀清原氏 ムニャチコ Ladislav Mhaöko ( 一九一五ー 墨で古もや五と 平氏 廣一丈七尺 木まるるエ十る ) チェコスロパキアのジャーナリスト、ル 棟尾すか金工 て寺 堂末存わ ポルタージュ作家。一九五〇年代の中ごろまで 第民色ら現での「れ尊 まもはま , 甲 金か はルポ作家として活躍していたが、小説『死の し 5 名の人含 札出 7 の古工に手 名はエンゲルヘン』 ( 一九五九 ) で作家としても有 ・ノ手廣一廴もに 棟き工最のち岩 名になり、ゆがめられた社会主義の現実を告白 を題材にした作品を制作。七八年以降、ベルギく。ムニエルには、ヒラメやスズキのような白したルポ風短編集『遅れたレポート』 ( 一九六三 ) ムナグロ〔胸黒〕 American golden 三 ov ・ ーの工業地帯を訪れて労働者をテーマに社会批身の魚、タイラガイやアワビなどの薄い切り身で一躍人気作家となった。六八年には『権力の er \ P きこミ do き鳥綱チドリ目チド が適する。 味』を発表、ノボトニー政権を批判したが、ワ リ科の鳥。シベリア北部、北アメリカ北部の極判的な作品を制作する。八五年、絵画とともに 〔シタビラメのムニエル sole 5 la meuniére 〕 ルシャワ条約機構軍の介入により、六七年に続 地のツンドラで繁殖し、冬には南アメリカ、太彫刻をも手がけ、鋳銅と石とをおもな素材に いて二度目のイスラエル亡命をし、以後チェコ シタビラメは頭の先を指先でつまみ、皮をむ 平洋各地の島々、ニュージーランド、東南アジ炭坑夫、製鉄工、人夫などをモデルに力強いリ く。両側のひれを鋏で切り取る。頭と尾は切りスロパキアでの影響力を失った。介入のプロセ アの沿岸などへ渡る。日本では全国から記録がアリズムの制作を行うかたわら、絵画ではとく ばいえん に煤煙や炎を暗い色調で描いた。主題の選択で取り、内臟を取り出して、塩、こしようをしてスを書いた『七日目の夜』 ( 一九六 0 など、一時 あり、おもに春・秋の渡りの季節に通過する旅 おがさわら 〈千野栄一〉 一〇分間置く。牛乳に二〇分間浸すか、白ワイ 日本でも人気を博した。 鳥であるが、小笠原諸島や沖縄諸島では越冬すはミレーの影響があるとされるカ / 丿 ンをふりかけて魚の生臭みをとる。魚の両面を回栗栖継訳『遅れたレポート』 (r ムニャチコ選 るものもいる。全長二四弩に達する。冬羽では派のリアリズムよりもさらに明確な象徴性と社 よくふき、全面に小麦粉をまぶし、余分の粉は 集 1 』一九六九・勁草書房 ) ▽同訳『死の名は 会主義的な感情が作風の基盤をなしている。と 上面は黄褐色と黒褐色の細かいまだら模様で、 エンゲルヒエン』 (r ムニャチコ選集 2 』一九 くに彫刻ではベルギーを代表する存在で、労働はたき落とす。粉が多いとまだらに焼ける。フ 下面は淡色。夏羽では上面は黒褐色で、黄褐色 六九・勁草書房 ) の小斑が散在する。下面は顔の下半分から腹ま者を造形化した最初の作家として知られる。死ライバンにサラダ油とバターを半々に入れ、熱 ばう ) 一う でが黒色になる。ムナグロの名はこれに由来後、プリュッセルの住居はムーニエ美術館とな したところへ用意したシタビラメを入れる。中無尿むによう anuria 膀胱内に尿が存在 つつ ) 0 〈野村太郎〉火にしてフライバンの柄を前後し こ揺すって全体しない状態で、臨床上は、平均的な体格の成人 し、英名の golden plover は上面の黄褐色に 广リットル以下のときにい に火が回るように焼く。片面が焼けたら、オイで一日尿量が一〇〇に 由来する。草原、耕地の刈り跡、荒れ地などをムーニエ Emmanuel Mounier ( 一九 0 五ー う。これと同様にまったく排尿はないが膀胱内 ル少量を加え、裏返して同様に焼く。焼き上が 五 0 ) フランスの哲学者。グルノープルに生ま 好み、海岸にもいるが、干潟にはまれである。 には尿が停滞する場合を尿閉とよび、両者を区 〈柳澤紀夫〉れる。グルノープルとソルポンヌの両大学に学る寸前に白ワインを注ぎ、蓋をしてさっと蒸ら 図要チドリ 別しなければならない。無尿の原因には次の四 むなふだ建築物の創建または修理にんだが、その間詩人・思想家ペギーに傾倒し、す。温めた皿に左側に頭がくるように盛り付け じん ノョック、、い不全 際して、その事実を本札などに記して棟や梁にその研究書を刊行した。一九三二年に雑誌『エる。フライバンをきれいにして火にかけ、バタつがある。①腎前性 ( 脱水、、、 じゅくしゅそくせん など ) 、②血管性 ( 粥腫性塞栓、解離性動脈 ーを入れ、泡がたって軽く焦げ色がついてきた 打ち付けた記録である。その多くは建造の年月スプリ』を創刊、第二次世界大戦中は発禁処分 りゅう 日、建築主、エ匠の名前などを記す。家の守護を受けて中断し、地下に潜ってレジスタンス運らレモン汁を加えてソースをつくり、シタビラ瘤、悪性高血圧など ) 、③腎実質性または腎内 じゅもん 神の名を記したり、呪文を記したものもある。動に加わった。四四年終戦とともに、雑誌を再メの上面にさっとかける。シタビラメの中央に性 ( 糸球体腎炎、毒素や毒物による腎障害、急 レモンの輪切りをのせ、上から刻みパセリをふ性尿細管壊死、急性皮質壊死など ) 、④腎後性 刊して健筆を振るった。彼の思想的立場はベル 一般に薄く細長い板で、頭部は多く山形をな じんう 〈小林文子〉 ( 単腎者における腎盂または尿管結石、両側尿 りかける。上等な料理である。 ソナリスム ( 人格主義 ) であり、それをまとま し、呪物などとともに箱に入れる場合もある。 管結石、外傷性尿管損傷など ) である。またこ 同じような記録は棟や梁などに直接記される棟った形で述べているのが『人格主義とは何か』 ムニキピウム municipium 冖 ' 古代ロー ( 一九四七 ) および『人格主義』 ( 一九四九 ) である。彼マ時代にローマとなんらかの関係を結んだ共同れとは別に、膀胱または尿管の神経的刺激によ 木銘にもみられ、これが棟札の起源であるとい っておこる反射性無尿というのが、ごくまれに われている。現存する古い例としては、岩手が「ベルソンヌ ( 人格 ) 」とよんでいるものは、体 ( 都市国家・都市 ) をいう。共和政初期には はうあん 県・中尊寺蔵の棟札 ( 保安三年〈二一一 = 〉 ) 、同金自由にして、かっ創造的な人間、けっして客体ローマとの通婚権と通商権をもっ対等の共同体みられる。 無尿と尿閉とは、カテーテルを膀胱内に挿入 化されない主体的人間のあり方を意味し、そのをさしたが、やがてローマに征服された都市国 色堂の棟木銘 ( 天治元年〈二一一四〉 ) 、また奈良・ しようじ 点で「実存」とほば同じ概念と解してよかろ家がのちにローマ市民権を与えられて「ローマすることによって鑑別することができる。もし 東大寺三月堂礼堂の棟札 ( 正治元年〈二究〉 ) 1 一じよう くりやま う。↓人格主義 〈西村嘉彦〉市民の自治市」 municipium civium Romano- 尿が得られなければ無尿であるから、腎後性無 がある。民家では奈良県五條市五條の栗山家が ナいちょう 長一二年 ( 一六 0 七 ) の棟札を残し、現存する回木村太郎・松浦一郎・越知保夫訳『人格主 rum となった。紀元前一世紀初めのイタリア尿でないかどうかを知るため、少なくとも一側 〈神野善治〉 義』 ( 白水社・文庫クセジュ ) ▽竹下春日訳同盟市戦争後、ラテン人共同体とイタリア同盟の尿管に尿管カテーテルを挿入し、その通過性 最古の町屋とされている。 『実存主義案内』 ( 一九六四・理想社 ) ▽池長澄市はほとんど「ローマ市民のムニキピウム」とを確かめる。それでも尿が得られなければ、腎 ムー一一工 Constantin Meunier ( 天三一ー 著『エマニュエル・ムウニエ』 ( 澤瀉久敬編 なった。帝政期には、属州の諸共同体にローマ循環の状態を検査し、一刻も早く無尿の原因を 一九 0 五 ) ベルギーの彫刻家、画家。プリュッセ 市民権を付与するにあたって、第一段階として把握して、それに適した治療を開始しないと手 『現代フランス哲学』所収・一九六八・雄渾社 ) ルに生まれる。最初彫刻を学ぶが、のち絵画に 転向し、シャルル・ド・グルー ( 天一一五ー七 0 ) に ムニエル meuniére 魚料理の一種。は「ラテン権をもったムニキピウム」 municipi ・遅れになる可能性がある。↓尿閉〈中村宏〉 um Latini iuris に格上げし、第二段階で「ロム一一ョス Alonzo Mufios ( ? 師事する。一八五九年ウエストマール・トラピ粉屋の粉ひき娘が枌にまみれた姿を形容したも ーマ市民のムニキピウム」とされた。ムニキピスペイン人のフランシスコ会宣教師。フィリピ スト修道院に滞在し、以後二〇年間修道院生活のだといわれ、かならず小麦粉をまぶして焼 はん 歳次 甲辰 はさみ ふた

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かん えなんじ ン。フルク、・ サムラントなどから地中海まで何の最短距離を結ぶことを道路建設の原則とし『荘子』を経て漢初の「淮南子』原道篇に至っ ち み・本か通じていた。これらの道は、ドナウ、ビスた。また、道を水平に保つことを心がけた。して完成する。道家はこうした道を模範として人 ワ、ドニエプルなどの水路を併用していた。 たがって、小さな丘ならば切り通しを開き、谷をもまた行為すべきだと考える。儒家はいわゆる しん 〔中国の王道〕前一三一年秦帝国の成立ととも渡るときにはアーチからなる陸橋をつくった。 道徳的、政治的規範としての道は説いたが、実 紀元後四七六年、西口ーマ帝国の滅亡ととも体としての道は説かず、その点で独自な道を説 に中国の王道の建設が始まる。始皇帝は郡県制 いたこの学派は道家とよばれることとなった。 度の実施に伴 0 て王道の建設も行い、首都の磁 にローマ道は廃れた。強力な中央集権の欠けた 陽を中心に各地に通ずる放射線状の道路網をつ ヨーロッパ中世では、道路に関する関心が低この道家の道の思想はその後儒家にも影響を与 え、「易』繋辞伝には、感覚的にとらえうる くったが、これが漢代以後の中国北部の王道のく、 荒廃したローマ道の残存部分か自然道を通 基本的なパターンとなった。中国の古代帝国の って旅行する以外になかった。ヨーロッパで近而下の器に対して、超感覚的な形而上のものを 拡大とともに遠隔地に通ずる道路が発達した代的な道路がつくられるようになるのは、一 道だと定義して、現象の背後にある究極者とし 挈つが′、 きようレ J ての道を考えるようになった。後の宋学での理 が、なかでも重要なのは、北方の匈奴に対抗す世紀後半以後である。↓ローマ道 るためにつくられた道と、西域に向かういわゆ〔インカの王道〕一五世紀前半に、南米、中央気論の理は、万物に内在してその物を成り立た ようす - 一う るシルク・ロードであった。しかし揚子江以南アンデス南部に生まれたインカ帝国 ( タワンテしめる根拠であると同時に、倫理的な仁義礼智 インスーユ ) は、その名のように四つの州 ( タ という生得的本性だとされるが、道はこの理に の地や越南 ( ・ヘトナム ) に向かう道は、山地地 形のため発達が遅れ、部分的に河川に依存する ワンティンは「四」、スーユは「州」 ) よりなあたるものとされ、人生論と宇宙論の両者にわ ことが多かった。隋・唐以後、国家の中心が東り、それらに通ずる四本の道が首都クスコを中たる究極的な概念とされるようになる。↓道家 〈澤田多喜男〉 ↓淮南子↓荘子↓老子 に移動し、南海の海外貿易が活発化するのに伴 心につくられた。現ェクアドルからアルゼンチ ソ鼓をジ ナ ン大芸 って南部に経済の重点が移るにしたがい、運河ン北部、チリ中部に至る細長い国で、幹線は高 〔日本思想史における道〕基本的には通路の意 や河川による輸送の重要性が高まった。この傾地と海岸に沿って並行につくられ、その間を多である。究極のありようへ至るためにたどらる ・宿い〒、い じんき一い ノン懸ノ 向は、経済・商業の繁栄を経験した宋代以後著 くの支線が結んだ。その全長は約八八〇〇キ。 べき具体的階梯をいう。たとえば伊藤仁斎は、 イ レタ ンクせェッ ーし 日常眼前の人間関係の交わりを道という。人間 しくなり、そのため北部の経済的停滞が生じ から、ローマ道の約一〇分の一でしかない。 ザ・わジェ 一ある かし、インカ道にはタンボとよばれる宿泊所や関係の交わりは生々化々して窮まることがな て、陸路の発達を阻んだ。 。道に参与する営為は忠信とよばれる。忠信 〔ローマ道〕古代帝国で、もっとも大規模かっチャスキとよばれる飛脚の制度が置かれ、旅 の思想』 ( 一九四六・岩波書店 ) 行、輸送、伝令などがきわめて能率的に行われを通じて人は仁へと高められていくのである。 組織的な道路網を建設したのはローマ人であっ おぎゅうそらい た。ローマ帝国の拡張に伴い、統治の必要上かていた点に大きな特色があった。飛脚は一日一一荻生徂徠における道は、中国古代の為政者たる道みち La Strada イタリア映画。一九五 ら建設されたのである。帝国の最盛時に、ロー 八〇キ。の速度で命令や情報を伝えた。またタン聖人によって制作された制度体系としての礼楽四年作品。監督フェデリコ・フェリーニの名を マと辺境をつなぐ幹線道路網は全長八万五〇〇ボには、旅行者や軍隊の便宜を図り、大量の食刑政である。礼楽刑政は六に書き記されてあ一躍国際的に高めた作品。ロ減らしのため大道 り、人をして親愛長養ならしめ、その生の志を芸人のザンバノ ( アンソニー・クイン ) に売ら 〇キロ以上に達した。もっとも古く代表的な道料、衣料、履き物、燃料などが用意されてい もとおりのりなが は、前三一二年に建設されたアッピア街道であた。治安のよさにおいては、ローマ道や中国の遂げしめるものである。本居宣長は、その時々れた頭の弱い娘ジェルソミーナ ( ジュリエッ の風儀人情に従うものとしての生まれながらのタ・マシーナ ) 。粗野で獣のようなザンパノが、 る。この道は、ティレニア海岸に沿いカプアに王道をはるかにしのいでいた。インカは全アン 真心を道とよぶ。「ほどほどにあるべきかぎり無垢で子供のようなジェルソミーナを連れて旅 通ずる道で、前三世紀にはイタリア半島の南端デスの道路網の完成者であったが、同じ性格の おだい のプルンディシウムまで延長された。ローマの道路は、インカ以前のワリ期、モチェ文化期なのわざをして、穏しく楽しく世をわたる」ことをするが、途中で二人は綱渡りの男「キ印」 が道なのである。このように道の内実をどうと ( リチャード・べースハート ) に出会う。ザン どに、すでに部分的につくられていた。↓イン 幹線道路はアッピア、フラミニア、アウグスタ、 カ文化 〈増田義郎〉 パノはキ印を極度に嫌い、暴力を振るうが、キ らえるかは、これらの近世の思想家にあっても トラヤナ、アウレリアなど、建設者の名をもっ 日・ま。ノエレノ、、、、ーナ . こ、、 月石でさえ何かの役に ている。アッビア街道を例にとると、道幅は一 道みち中国思想では、人生論あるいは政治かなりの隔たりがある。しかし、眼前に置かれ 五あまり。二列の縁石で仕切られた空間に幅論での規範・模範としての意味と、宇宙論あるた、いわば成り続けていくものとしての事象をたっているのだといって励ます。ザンパノはキ 印を殴り殺してしまい、ふさぎ込んだジェルソ 四・七の中央道が二本と、その外に幅二・三 いは生成論での存在根拠、存在の法則としての意識的に受け止めて道とし、そこに究極のあり じゅか の副道が二本つくられていた。建設にあたつ意味との、両者を含む概念である。原始儒家でように至る方途をみいだしている点で共通してミーナを置き去りにする。数年後、彼女の死を は、「道」「先王之道」「聖人之道」「人道」など いよう。色道、武士道、芸道、花道などは、そ知ったザンパノは、夜の浜辺で砂に顔を埋めて ては、地面を深く掘り込み、まず平石を敷き詰 のことばを使い、その内容は仁、仁義、礼義な うした道がより個別的・限定的場面において展号泣する。人間に宿る神性と獣性、名もなき者 めてから、砕石と砂と石灰を混ぜてつくったコ 〈佐藤正英〉 ンクリート層をその上にのせ、それをモルタル ど倫理的、政治的規範や理想の意味をもつもの開せられたものである。 への愛が、旅、見せ物芸、パレード、海などを どうか と砕石層で覆ってから、いちばん上に厚さ約であった。これに対して道家での道は、感覚的回寺田透著「道の思想』 ( 一九大・創文社 ) ▽山通して象徴的に描かれた傑作。日本公開は五七 〈岩本憲児〉 にはとらえられないが実体としては存在し、万 田宗睦著『道の思想史』上下 ( 一九七五・講談年 ( 昭和三一 l) 。 一・五の固い火成岩の敷石を置いたのであ 、にしえ六月・一 る。道全体の厚さは〇・九ないし一・五だつ物を生み出す根源であると同時に万物に内在し 社 ) ▽福永光司編『老子』 ( 朝日新聞社・朝道饗祭みちあえのまつり みそか 日文庫 ) ▽小川環樹訳注『老子』 ( 中公文二月晦日の両度、恒例として京城 ( 京都 ) 四隅 た。この方法は、その後近代社会に至るまで道てそれぞれの働きをなさしめるという、万物の うらべ やくじんそくし 庫 ) ▽津田左右吉著『道家の思想と其の展の道の上でト部らが行った疫神塞止の祭り。 路建設の原理となった。アッピア街道の初めの根源、宇宙の究極者としての存在である。こう じんぎりようぎげ 一〇〇キ。にみられるように、ローマ人は二点間 した道についての叙述は『老子』に始まり、 開』 ( 一九三三・岩波書店 ) ▽同著「論語と孔子『神祇令義解』に「謂、ト部等於 = 京城四隅道 ずい せいいき そう 348

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みんぞく 民族大移動 375 ~ 476 年の諸部族 国領内に移住し、西口ーマ帝国の滅亡を経て帝などの諸原因が重なって、いわゆる民族大移動プルグンド王国を建てたが、フン族に滅ばさ chologie 一〇巻の大著を発表した。 じゃっき という現象を惹起したと考えねばならない。とれ、グンド・ヘックの指導下にサポイア地方に移 ラツアルス、シュタインタールにしてもプン国領内の各地に定住、諸部族王国を建設する六 くに最後にあげたローマ側の事情に関して、帝って王国を再建した ( 四四三 ) 。さらにハンガリー トにしても、彼らの民族心理学はもつばら既存世紀末までの二〇〇年余の過程をさす。「ゲル 、「蛮族政末期のローマ軍のかなりの部分が、ゲルマン地方にいたバンダル族は、アラマン族やスエビ の文献資料に基づく研究であったが、その後、 マン人の侵入」 German invasions , ス ようへい ギともよばれ系の傭兵軍によって占められていた事情や、ガ族の一部とともにガリアを経てスペインに入 実際に末開民族に接しての調査研究も行われるの侵入」 Barbarian invasions 矚ス リアにおけるバガウダ工の反乱のように、後期り、一時ここに定着したが、南フランスに建国 ようになり、また個々の民族の特性を明らかにる。 した西ゴート族から圧迫され、ガイセリックの しようとする「民族性心理学」を提唱する者も〔原因〕狭義の民族大移動は上述の経過をいう帝政の専制的支配体制の下で重圧に苦しんでい た下層民の不満が、民族大移動と重なって帝国指導下にジプラルタル海峡を渡り、北アフリカ 現れたが、 この種の研究方向は、やがて文化人が、ゲルマン民族はすでに紀元前一千年紀以 類学、社会人類学、民族学などに統合吸収され来、原住地のスカンジナビア半島南部、バルトへの反乱という形で表面化し、ゲルマン人はむのカルタゴの故地にバンダル王国を建てた。他 てきている。他方、孤立した個人の心性を超え海沿岸地方から、緩慢な移動・定住の過程を繰しろ解放者として迎えられた事情なども考慮す方西ゴート族は、イタリア各地を荒らし、アフ リカに渡る機会をうかがったが、アラリックの る必要があろう。 た客観的精神、集団心理の問題は、社会心理り返しながら南下し、ライン川以東、ドナウ川 〔経過〕二世紀なかばころ、東ゲルマン系の西死後、後継者アタウルフは一転してガリアに向 学、集団心理学として扱われるようになってい 以北のゲルマニア地域から、黒海北岸にまで広 かい、南フランスのトウールーズを中心に西ゴ る。↓心理人類学 〈辻正三〉 がっていた。さらに前二世紀末のキンプリ、テゴート族はドナウ川下流北岸に、東ゴート族は みんぞくだいいどう Völkerwan- ート王国 ( トロサ王国 ) をつくり、バンダル族 ウトニ族の侵入以来、ローマ帝国にもしばしばその東、黒海北岸に定住していた。他方、中央 民族大移動 四世紀末フン族の西進に触発さ侵入を試みていたし、紀元後六世紀末のランゴ アジアのステップ地帯の遊牧騎馬民族であるフを圧迫してスペインに勢力を広げた。 derung フン族は、東ゴート征服後も西進を続け、五 ン族は、二世紀ごろから西進を始めてヨーロッ れて、ゲルマン系の諸部族が大規模にローマ帝 バルド族のイタリア侵入以後も、八世紀から一 ノガリーを 一世紀ごろまでのノル パに姿を現し、ポルガ、ドン両川流域のイラン世紀末ごろのアッテイラのとき、ハ、 マン人 ( デーン人、ノ系アラン族を服属させ、さらに西進して三七五中心に周辺のゲルマン系諸部族を服属させて大 ルンク ルウェー人、スウェー 年東ゴート族を破り、部族民の大部分を支配下帝国を樹立し、ガリア侵入の勢いを示したが、 ダグン アエテイウス将軍指導下の西口ーマ車とゲルマ デン人などの北ゲルマ に入れた。隣接していた西ゴート族の一部はア ンルラ タナリッヒの指導の下に逃れ、他の一部はフリ ン諸部族との連合勢力に撃退され、アッテイラ ン系諸部族 ) のヨーロ カカし → ハ各地への侵入、おティゲルン兄弟の指導の下にローマ帝国に保護の死 ( 四五三 ) 後、急速に瓦解し、支配下の諸部 よびアイスランドへのを求め、東のローマ皇帝ウアレンスの許可を得族の多くは独立した。なかでも東ゴート族は、 テオドリックの指導下、東ローマ皇帝の委嘱を 植民、キエフ・ロシアて、三七六年ドナウ川を渡り、モェシア、トラ の建国など ( これらがキア地方に移住した。これが一般に民族大移動受けて、西口ーマ皇帝ロムルス・アウグストウ いわゆるバイキングの の発端とされる事件である。だが与えられた土ルスを廃位 ( 四七六、西口ーマの滅亡 ) してイタ リアの支配権を奪っていたゲルマン系の傭兵隊 活動で、第二の民族大地は地味が悪く、そのうえローマの役人の圧迫 移動ともよばれる ) が が重なったため、ローマに対し反乱を起こし、長オドアケルを討っため、イタリアに侵入し、 あり、広義には前後一一 三七八年アドリアノープルの戦いでローマ軍を東ゴート王国を建てた。また、北西ドイツに広 がっていたサクソン族の一派は、アングル族、 〇〇〇年はどにも及ぶ破り、皇帝ウアレンスを敗北させた。後を継い ジュート族とともに五世紀前半プリテン島に渡 だテオドシウス一世が親ゲルマン政策をとった 長期の現象である。 へプターキー り、ここに多くの小王国 ( いわゆる七王国 ) を 上述の狭義の民族大結果、反乱は収まったが、アラリックが西ゴー 移動とは、そのなかでト国王に選ばれたのち、三九五年ふたたび反乱つくり、しだいに統合の動きを示した。最後に ランゴバルド族もドナウ川中流域でフン族から 移動の規模、スピードを起こし、バルカン半島各地を略奪したすえ、 独立し、パンノニア、ノリクムを領有したが、 などがとくに著しかっ四〇一年イタリアに侵入、三日間にわたり口ー 東ゴート王国の滅亡したあとのイタリアに侵入 アた時期であり、したがマ市を略奪した。 西口ーマ帝国は、これに対抗してイタリア本し ( 五六 0 、北イタリアを中心にランゴ・ハルド王 ってその直接の原因 が、フン族の圧迫によ土を防衛するため、ライン川国境の守備軍団を国を建てた。 ルン ダグ 〔意義〕民族大移動は、その結果として歴史の ることは疑いないとし召還したので、多くのゲルマン系諸部族が、 ンても、ゲルマン民族自次々とローマ帝国内に移動を開始した。ライン中心舞台が地中海沿岸からヨーロッパ、 ソ 川下流域にいたフランク族サリ支族は、トクサ西ヨーロッパに移り、文明の担い手もゲルマン ク体の内部事情、とくに サ人口増加による土地不ンドリアから北ガリアに進出し、五世紀末、ク人にかわったという点で、中世の開幕を告げる 事件であったことに疑問の余地はないが、いわ トトロ足などの、より一般的ロービス一世のもとで、サリ支族だけでなく、 ゆる「蛮族」の侵入によって古代文化が一挙に 他のフランク系部族 ( リプアリ支族、カマビー ゴゴンな原因や、さらにロー 西東アマ帝国側の事情、すな支族 ) をも統合してフランク王国を建てた。ま没落し、暗黒時代が始まったとする、ルネサン わち軍事力の弱体化に た、マイン川流域に居住していたプルグント族ス期の人文主義者に端を発して一九世紀まで続 9 いた「評価」は、現在では支持されない。むし 伴う国境防衛力の低下は、ライン川中流域からガリア中部に進出し、 国国 帝帝 ママトト ロロンゴゴ場 西東フ西東戦 レ 395 年 北毎 ジ アングロ・ サクソン 十 大西洋 プル 東ゴート ラ . ン カスヒ海 、ストル川 トウールズ ゲピデろ / ウ ス工ビ ・リアノーレ トレド ジプラルタル海 地 ンテキア タ / ヾルダ。。 諸部族の建国地域 エサレム アレクサンドリア

6. 日本大百科全書 22

くっしやろ もことやま北海道東部、屈斜路カル ュトウン族などと変わりはない。生業は定住的て、この技法が広まるとともに、ヘレニズム末を制作した例もあるが、絵画技法の模倣に陥 6 や藻琴山 デラ外輪山の北部を形成する火山。標高九九九な農耕と牧畜で、小麦、大麦などを栽培し、ヒ期からローマ時代にかけてさらに変化のある次り、モザイク技法固有の表現力を失い衰退して 8 と あばしり こしみず び 。山頂部は網走支庁小清水町・東藻琴村・美ッジ、ヤギ、ウシ、ウマを飼う。しかし、彼らのような材料技法が開発されていった。 〈長谷川三郎〉 くしろ てしかが ほろ は比較的裕福な遊牧パシュトウンの小作をしてオプス・ウエルミクラートウム opus vermicu- モサイク mosaic 生物の体の部分が場所 も幌町、釧路支庁弟子屈町の境界とな 0 ている。 南側は屈斜路湖に向かって急崖のカルデラ壁 いる場合が多い。↓モゴール語〈佐々木史郎〉 latum オプス・テッセラートウムで使用され により二つ以上の遺伝的に異なる形質が入り混 をなし、北側はオホーック海に向かって緩やか回梅棹忠夫著『モゴール族探検記』 ( 岩波新書 ) るものよりも小さく切ったテッセラが用いられじった状態になる現象、またはその個体をい さんろく フラ ~ 10 ー な山麓が広がる。山体は古い安山岩からなり、 る。曲面や細密な表現に適し、材料も大理石やう。生物の体の中にこのような遺伝的に異なっ モサイク mosa1C 材 = mosaique , = 北斜面は針葉・広葉の樹林帯で自然休養林に指 saik 響大理石やガラスなどの小さな断片を硬石ばかりではなく、ガラスや陶器も利用さ た部分ができる原因としては、発生の過程にお 定されている。山頂は草地が広がり高山植物が 使って建築の壁面や床を装飾する美術技法、おれ、その形も正方形に限らず、長方形、三角 いて、核内または核外遺伝子の突然変異や染色 みられ、東側山腹まで自動車道があり登山も容よびこのような技法で制作された作品。技法的形、菱形などさまざまな形に切ったものが使わ体の組換え、染色体の構造や数の変化がおこ おう ぞうがん 易である。頂上からは南に屈斜路湖のほか硫黄には広い意味での象眼の一種であり、表現形式れた。おもにエンプレーマ emblema ( 舗床モり、このような変化をおこした細胞の子孫が、 とうふつ 山、摩周岳、西別岳なと 、、、北に濤沸湖、網走からみれば絵画 ( 壁画 ) に属するということもザイクの中心部の特別な意味をもっ主題を表し ほかの変化をおこさない細胞の子孫と共存して 湖、サロマ湖などを眺望できる。〈岡本次郎〉できる。最古の例としては、紀元前三千年紀初 た部分 ) を制作する技法。 発育し、体の各部分をつくりあげることによっ 囮二万五千分の一地形図「藻琴山」 頭のシュメールの都市ウルクの遺跡で発見されオプス・セクティレ opus sectile さまざまて生ずる。カイコやショウジョウバエなどの昆 ーーごモンゴル系の他の諸言 た建築装飾 ( ベルリン国立美術館 ) がある。こ な色大理石を用い、表現する形態にあわせて形虫では環境の影響によって、モザイク個体が自 モゴール語 ひし 語から、はるか遠くに離れたアフガニスタンにれは三角形や菱形、ジグザグなどをモチーフとを整えた石板を組み合わせて制作する技法。壁然に生ずることもあるが、 x 線や化学物質の処 えんすい 孤立して存在するモンゴル系の一一一一口語である。 したもので、円錐形に成型したテラコッタを使面装飾にも舗床にも利用される。 理によって人為的に高い頻度でつくりだすこと この一言語の研究は多くはないが、古くフィン って制作されていた。円錐の底面に相当する部 モザイクの技法はこのようにほとんどローマもできる。このようなモザイクは、生物の発生 ランドのラムステッド G. J. Ramsted の研究分を赤や黒で彩色したものや素地のままのもの時代に確立し、建築の発展と相まって数多くの における各組織や器官の形成の仕組みを調べる があり、また一九五五年にはわが国の京都大学を用い、壁面に円錐の先端を差し込んで固定す美しいモザイクの傑作が生まれた。ポンペイのためによく利用されている。 から派遣された学術探検隊によって調査され、る技法によって装飾模様が構成されていた。し「牧羊神の家」の舗床モザイク『アレクサンダ モザイクのなかでも、性染色体の一部の欠失 さらに、一九七〇年代の後半のドイツのバイエかし、このタイル・モザイクの一種である技法 ・モザイク』 ( 前一 8 こ ・ナポリ国立考古美や卵細胞の重複受精など、一個体の中で雌雄の ル M. Weiers の調査研究もみられ、徐々にこ はその後まもなく衰退した。 術館 ) 、ヘルクラネウムの「ネプチューンとア両細胞が共存する性モザイク ( 雌雄モザイク の言語の概要が知られてきている。 モザイクが隆盛し、材料技法においても表現ンフィトリテの家」の壁面モザイク ( 紀元後一 gynandromorph) は、ミッパチ、ショウジョ モゴール語は、一三世紀の元朝時代の駐留モ内容においても美術的に高度な発展を示したの世紀 ) 、チボリ近くのハドリアヌスの別荘で発ウバエ、カイコなどの昆虫類のほか、ニワトリ - 一うえい ンゴル人の後裔の言語と考えられ、古い一言語的は、ヘレニズム期のギリシアとそれを継承した見された『野獣と闘うケンタウロス』 ( 二世紀 などの鳥類においても数多くみられる。 特徴を保持している一方で、他のモンゴル系言 ローマ、そしてビザンティンである。ギリシア前半・ベルリン国立美術館 ) などが、ローマ時 植物では、トマトとホォズキの接木によって 語にはみられない変化を遂げた部分もある。古 においては古典後期の紀元前四世紀前半にさか代のモザイクを代表する作例であろう。 生じた葉や花や果実に両方の組織が入り混じっ い特徴を保持した例として、現在でよ、、ゝ 。し力なのばる作例がマケドニアのオリントスで発見さ ローマ時代においても、顔料で色づけした練たものや、キンギョソウやオシロイバナにみら るモンゴル系の言語も失った音節 qi と言のれている。またヘレニズム期ギリシアの代表的りガラスや、金銀の箔をガラスに封入したものれる斑入りの現象などは、キメラ chimera と 残存がみられる。他の諸方言では qi>ki, Yi> な作例としては、マケドニアのペラ ( 前三 00 ころ ) がモザイクの材料として制作され、テッセラと よばれるが、モザイクと似た現象である。↓キ ほしよう 〈小沢重男〉 とデロス島 ( 前二世紀 ) で発見された舗床モザして使用されていた。しかし、ガラスの効果をメラ↓突然変異 〈黒田行昭〉 gi の変化を遂げている。 びよう mosaic 作物の モゴール族 ーーそく MogoI アフガニスイクが知られている。オリントスとペラの例で最大限に生かしたモザイク技法が発達したのモサイク病 タン西部に残るモンゴル系の民族。ゴラート高は小石が使われていて、モザイク技法史からみは、北イタリアのラベンナに代表されるビザン葉、とくに新葉に濃緑色の部分と淡緑色あるい 原を中心に五〇ほどの村に約一万人が散在すればまだ初期の段階に属していることがわかティン建築においてであり、ビザンティンの諸は黄緑色の部分がモザイク状に現れる病気。病 えんがい る。その祖先は一三世紀にイル・ハン国の将軍る。しかし、デロス島の作品では、さいころ型聖堂では円蓋やアプス、身廊側壁などが、や原はウイルスで、植物がウイルスに冒される ニクダル・オグランに率いられたモンゴル族将 に切った石片が使われるようになっている。 かな金色や濃青色の地を背景とした宗教的図像 と、感染細胞では細胞内成分の異常がおこり、 兵で、彼の死後ヘラートのクルド朝についてゴ石を使ったモザイクは前一世紀まで存続するで覆い尽くされた。ギリシア各地やコンスタン葉緑体の小形化、数の減少、デンプンの蓄積、 ラート高原に住み着いたといわれる。しかし、 が、さいころ型石片を使う技法はすでに前三世ティノボリス ( イスタンプール ) 、イタリアで空胞化、ラメラ構造が乱れ崩壊する。このよう 一九世紀末にタイマニ族との抗争に敗れ、多く 紀から始まっていたようである。ギリシアでは はラベンナのほかにローマやベネチアに中世のな細胞の異常がおこった部分が淡緑色から黄緑 の者が北へ逃れ散った。モゴールは厳格な内婚アパキスコイ abakiskoi とよばれ、ローマでモザイクの作例をみることができる。また、ビ色を呈するため、モザイク症状になるもので、 制を維持して長らく民族としての意識を保ってはテッセラ tesserae, tessellae とよばれたこザンティンでは携帯用イコンがモザイクで制作ウイルスによる植物の病気の特徴の一つになっ きたが、現在はそれがまったく崩壊している。 のさいころ型石片が使われるようになって、モされることもあった。しかし、アルプス以北でており、モザイク症状の顕著に現れるものをモ モゴール語も一部の古老に記憶があるだけで事ザイクの技法は飛躍的に発展し始める。このテはモザイクはほとんど顧みられることがなかっザイク病と称している。多くの場合、モザイク いしゆく 実上死語となっている。その文化もモンゴルの ッセラを使った技法はオプス・テッセラートウ た。図しビザンティン美術 ( 別刷 ) 症状のほかに萎縮症状を伴い、草丈が小さくな おもかげを残してはおらず、宗教は熱心なスン ム opus tessellatum とよばれ、舗床モザイク イタリア・ルネサンスでは、ラファェッロやる。モザイク病は多くの作物に発生し、とくに ニー派イスラム教徒で、物質文化も周辺のバシ技法としてローマに継承されていった。そしティッィアーノがモザイクのための原寸大下絵マメ類、野菜類、花類で被害が大きい。病原ウ こ つぎき

7. 日本大百科全書 22

歴史の見直し 近年「歴史の見直し」が、世界的な現象として徐々にではあるが、確実に進められているように思う。新しい 資料の急激な増加や、その整理される過程で、歴史の学問そのものが自然に拡大されてきたからである。 そのもっとも顕著な実例として、ヨーロッパ中心の世界史観が揺らごうとしている。西欧ではギリシアからロ ーマへ、ローマからゲルマンへと文明が拡大し、発展したとみる史観であった。ところが、二〇世紀に入って古 きわ 代オリエントの研究が進み、ギリシア文明の根源が、東地中海域を含めた古代オリエント文明にあったことが究 められる。またゲルマン文明は、ローマ文明とは根源を異にし、そのルートが北方ューラシアの遊牧民系諸文明 に連なるものであったことも明らかになる。 思えは遊牧民族は、凶暴かっ好戦的な民族として恐れられ、ひとしく野蛮・未開で、文明とはおよそ無縁な人々 として史書に記述されてきた。したがって西欧人が、彼らに近・現代文明の根源があるなど、想像もしなかった ことに不思議はない。しかし、ハムラビ法典で有名な古バピロン王国、世界国家を最初に興したアケメネス朝ペ ルシア帝国、東西両洋にわたるヘレニズム世界を開いたアレクサンドロス大王のマケドニア王国も、また大乗仏 とんこう うんこう りゅうもん 教やガンダーラ美術によって仏教をひろめたクシャン帝国も、その仏教を受けて、敦煌・雲崗・竜門の諸仏窟を 開き、東西の宗教や美術の交流の先駆をなした鰕卑族の魏も、さらにイスラム教をめて、広大な宗教国家を 実現したイスラムーアラビア帝国も、イギリス・北欧・ロシアなどの各地にノルマン王朝を開いて、近代ヨーロッ ハの発展に寄与したノルマン系諸国家も、なおまた「タタールの平和」をもって、東西文明の交流に一時期を画 したモンゴル帝国も、現在の中国の基礎を築いた満州族の清国なども、いすれもその征服王朝国家の建設者の三 さかのば 代前に遡れば、牧畜民族、とくに遊牧騎馬民族なのである。 がっさく その建国された征服王朝というものは、多民族の合作国家であり、国際的な、多方面の文化を自由に取り入れ た「開かれた文明」の国家であった。そこには諸文明の尊重とその実現ばかりでなく、契約思想・自由主義・民 主主義・人権主義など、農耕・都市文明に本来欠如していた思想が、それぞれの国家の性格として内在していた のである。しかも遊牧騎馬民族に固有な民族性として、彼らの卓抜した軍事・政治・外交の手腕、また豊かな管 理能力や適時応変の組織能力とともに、彼らの征服王朝国家の実現を可能にしたのである。圧倒的な人口や、厖 大な社会・経済力をもち、歴史的な大文明を誇った農耕・都市文明の物質的な「見える文明」に打ち勝ったのも、 彼らのそのような頭脳のなかにある「見えない文明」に他ならなかったのである。 このような世界史上の画期的な「歴史の見直し」がいまや始められつつあるが、そしてそのことは、現代なら びに近い将来の世界史を考えるうえに、重大な示唆を与えるものではなかろうか。 、上 ほか えがみなみお ( 江上波夫 )

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まんすほ ーやエドムンド・スペ駐日アメリカ大使。海軍や陸軍、海兵隊への入 ) が、ウォーター・ローリ 律」 ( 一九六 = 制定、一三改正 ) に基づき「区分所マンズー Giacomo Manzü ( 一九只 有」される。これは建物を「専有部分」と「共イタリアの彫刻家。・ヘルガモに生まれ、職人的ンサーらによって開始され、共和国の独立まで隊経験を経て、坑夫、鉱山技師として働くかた イギリスの支配を受けた。耕作と酪農・牧畜のわら、一九三一年モンタナ大学入学。三三年に 用部分」に分けて所有・管理するもので、後者な技術を身につけるが彫刻家を志して一九二八 については区分所有権者が管理組合を結成して年バリに赴き、三〇年ミラノに定住して古代ギ混合農業地域が卓越しているが、セント・ジョ卒業後、約一〇年間、同大学で歴史学、政治学 ージズ海峡に臨む沿岸の都市では近代工業の集を教える。四二年にモンタナ州選出民主党連邦 共同で管理することになっている。しかし、専 リシア、ローマ、エトルリアに触発された最初 有部分と共用部分との区別は技術的にはかならの作品をつくる。三六年にふたたびパリに旅行積がみられる。コーク、ウォーターフォード、下院議員に当選。五期務めたのち、五三年から 〈米田巖〉七七年まで同州選出民主党連邦上院議員。上院 ずしも明確ではなく、とくに後者の位置づけは し、ロダンや印象派絵画に関心を示す。しかし リムリックなどが主要都市。 不安定である。また、管理組合の運営方法、管その後徐々にこれらの影響を離れ、力強い量感マンスフィールド Katherine Mans ・外交委員会所属のハト派議員として活躍し、六 理水準の設定と費用の負担のあり方など、今後 と構成力を獲得する。ローマで見た聖職者の衣 field ( 一公ノ ー一九一一三 ) イギリスの女流小説家。 一年以降は上院院内総務でもあった。七七年か すうききよう ら駐日アメリカ大使の職にある。モンタナ大学 さらに検討を必要とする課題は多い。 装に強くひかれ、三八年に『枢機卿』を制作すニュージーランドの首都ウエリントンで富裕な このほか、中古市場をめぐる問題、住宅性能るが、この主題はその後も繰り返される。四一実業家の娘として生まれ、ロンドンのクイーン教授時代には極東史を講義し、また上院外交委 をめぐる問題など、マンションの抱える問題は年ミラノのプレラ美術学校の教師となるが短期ズ・カレッジで学ぶ。卒業後帰郷し、一九〇八 員会のメンバーとしてアジア地域を何度も視察 ぞうけい 数限りなく存在している。これらに対する技術 間で辞職。第二次世界大戦中、ナチの暴挙に憤年ふたたびロンドンに出る。音楽家と不幸な結するなど、アジア問題に造詣が深い。〈藤本博〉 りを感じてパルチザンを象徴させた『キリスト 婚をして、まもなく別居。一一年、オックスフ回マイク・マンスフィールド著、松尾文夫編訳 的・制度的改善は個別に検討されつつあるが、 「私の日本報告ーー日本の道・アメリカの道』 さらに研究、開発を進める必要は大きく、かっと将軍』 ( ローマ国立近代美術館 ) を制作。戦オード大学に学ぶジョン・ミドルトン・マリと どうせい ( 一九大・サイマル出版会 ) 総合的、体系的な視点からの政策の実施が望ま 後の代表作として、ローマのサン・ピエトロ大知り同棲 ( 一九一八年正式に結婚 ) 。マリ編集 れる。たとえば、供給計画と物的計画を連動さ聖堂の正面扉『死の門』 ( 一九五 = ~ 六四 ) 、ザルップの『リズム』や『アセニアム』誌その他に批評マンスフェルト Constant George van MansveIt ( 天三一一 ーー九 lll) オランダ海軍車医。 ルクのカテドラルの「愛の門』 ( 一九 ~ 五 0 、ロ せ、入居者との対応を考慮した設計を行うとと シャンハイ ッテルダムのサン・ロレンツ寺院の『平和と戦 一八六〇年 ( 万延一 ) 来日。その後上海で病院 もに、住戸の属性に応じてある程度の入居制限 せいとく が行われるべきであろう。また、民間の分譲マ争の門』 ( 一九六五 ~ 六九 ) など、記念碑的な作品が 経営にあたっていたが、長崎精得館 ( 養生所を 改称 ) でのポードインの後任として、六六年 ンションについては、その開発・供給エネルギある。彼の主題は宗教的なものが多いが、晩年 レ ( 慶応一 l) 長崎へきた。明治維新にあたり、荒 ーを生かしつつ、適切な公的規制と効果的誘導には男女の抱擁を扱った大胆な作品もある。六 イ が図られなければならない。 廃した精得館 ( のち長崎医学校 ) の学制改革に ↓集合住宅↓住九年ローマ郊外アルデアに退き、そこに個人美 フ ながよせんさい ス 長与専斎とともに尽力した。七一年 ( 明治四 ) 宅産業 ^ 髙田光雄〉術館を創設した。 ふるしろ ン 熊本古城の治療所 ( のち熊本医学校 ) へ招か マ 回梶浦恒男編著『マンション管理を問う』 ( 一九マンスター Munster アイルランド共和 しゅんげん れ、新旧勢力の激突する熊本で、峻厳・精励 ハ三・都市文化社 ) ▽小林清周著『分譲マン国南西部の地域。クレア、リムリック、テイベ おがた ションのすべて』 ( 一九含・鹿島出版会 ) ▽神レリー ケリー、コーク、ウォーターフォードや短編小説を発表した。繊細な感受性の持ち主の教師として知られた。そのときの学生に緒方 きたさと . しばさぶろう 戸都市問題研究所編『集合住宅管理の課題との六県を含む。面積二万四一二七平方キロ、人口で、チェーホフの影響を多分に受けながら、徴正規、浜田玄達、北里柴三郎らがいる。いった 展望』 ( 一九会・勁草書房 ) ▽日本土地学会編九九万八三一五 ( 一九八一 ) 。アイルランド古王国妙な人間心理を印象主義的タッチで巧みに描出ん帰国したが、内務省衛生局長となっていた長 『土地問題双書集合住宅の管理・高層建の一つ。一〇世紀にバイキングの来襲、一二世した。第一次世界大戦で弟が戦死してからは、与専斎の招きで再来日し、京都府療病院 ( 天七六 ~ 耄 ) 、府立大阪医学校 ( 一七 ~ 七九 ) へ勤務し 築』 ( 一九含・有斐閣 ) ▽玉田弘毅編『マンシ 紀にアングロ・ノルマンの侵略を受けた。」五故郷ニュージーランドでの幼いころの思い出を ョンの法律』上下 ( 一九天・一粒社 ) 八六年ごろからイギリス人による植民地政策素材とする決心を固め、郷愁のこもった傑作をたが、京都ではドイツ語での教授を要求される 書いた。二三年一月、肺結核のため、三四歳でなど、時流の転変のなかで七九年、一四年間の ^ 神谷昭典〉 リ郊外フォンテンプローにおいて没。生前の日本滞在を終えた。 短編集に『ドイツの宿にて』 ( 一九二 ) 、『序曲』マンスホルト Sicco Leendert Mansholt ) オランダの政治家。デベンター国 ( 一九一 0 、『完全な幸福』 ( 一九一一 0 ) 、『園遊会』 ( 一九 llll) など。『竧の巣』 ( 一九 = 三 ) 、『子供らしいこ立農大卒業後、農業に従事。一時ジャワで茶園 と』 ( 一九一一四 ) の短編集は死後の出版である。『日を経営した。第二次世界大戦後、労働党に入党。 記』 ( 一九一一七、増補一九五四 ) 、『書簡集』 ( 一九一一 0 は、 作家の個性と内面生活をよく伝えている。↓園 ^ 小松原茂雄〉 遊会↓マリ 回安藤一郎訳『マンスフィールド短編集』 ( 新 潮文庫 ) ▽伊吹知勢編『二〇世紀英米文学 案内 2 マンスフィールド』 ( 一九六六・研究社 出版 ) マンスフィールド MichaeI Joseph MansfieId ( 一九 0 三ー ) アメリカの政治家。 マンズー「地上の死」 1963 年プロンズ 92 x 63cm 神奈川彫刻の森美術館 サン・ビエトロ大聖堂正面扉「死の門』のた めの習作の一つ。のびのびとした線を自在に 生み出すマンズーの卓越した鋳造技術が , プ ロンズに粘土板のような温かみを与えている まさのり ( 一九 0 八ー M. J. マンスフィールド 215

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まりなけ らん している。 熙〉派の創始者。エジプトのアレクサンドリアに生 8 冖鐙な制れの ズもれにかて 回吾妻兼治郎解説『フアプリ世界彫刻集マまれる。ヾリ。ヾ ノてノカロレア ( 大学入学資格 ) を ン 3 鞍らマ省し ロはめ一はと とり、イタリアのジェノバ大学法学部卒業。 リーニ』 ( 一九七一一・平凡社 ) プに認テの品 リの「サムディ・ポピュレール」コンクールに マリニスモ marinismo 一七世紀のイタ 馬はをも作 年だ」な刻 リアで用いられた詩法。西欧バロック期に一世入賞、フランス語で詩作した。一九〇五年ミラ 館ひ士分彫 ふうび 四術の騎余の を風靡したイタリアの詩人マリーノによって始ノで詩誌『ポエジーア』を創刊、「自由詩」を 一天服とは個 代衣馬で められ、その絶大な影響力のもとに大流行し導入。〇九年二月二〇日バリの「フィガロ』紙 手近も「 騎立に問作しる た。ルネサンス文化が生命力を失った時代に、上に末来派宣言を発表 ( イタリア語版は翌日ミ な国手年の ラノで発表 ) 、伝統的価値の粉砕、スピードの その典雅と均整を理想とする古典主義からの脱 さ騎こ体て マのは , 一つ 皮を図るため、マリーノとその追随者たちは、美学を提唱した。小説『末来主義者マファル 一上ニがが保 ロ馬一た人を 詩の目的は読者を驚かすことにありとする驚異カ』 ( 一九一 0 ) は女の性を介さずに子供を生む男 リけ・とス 一 5 くマ続馬ン の詩学を唱え、その手段を修辞に求めて、奇想の物語である。この男性中心の力学賛美は、必 いんゅ リ O なを , ラ マ高もい作て 天外な隠喩の発見に没頭した。そのために「奇然的にファシズムの美学と同調した。一二年 けつべっ 想主義」ともよばれるこの詩法は、技巧に走っ『末来派文学技術宣一 = ロ』で旧来の修辞学と訣別、 「自由語」の概念を打ち立てた。ファシズムと アメリカが行数百キ。メートルの近傍通過に成功、多くの画像て内容空疎な単なることば遊びに堕する場合が マリナー計画 データを送ってきた。八号は失敗したが、九号多く、歴史的にも、「マリーノ主義」の識であの結託、戦争礼賛は表現の自律性を奪ったが、 った金星と火星の探査計画。打ち上げられたマ リナー Mariner 探査体は一号から一〇号までは七一年五月に打ち上げられ、火星を回る探査るこの呼称は一七世紀イタリア文学の退廃的傾ヨーロッパ前衛運動の先駆者としての彼の思想 一〇機ある。このうち一号、二号、五号、およ体となり、火星とその衛星の七〇〇〇枚にのば向をさすものとして、長らく否定的に用いられおよび文学に、近年、時代の証言としての新た 〈望月紀子〉 な関心が向けられている。 び一〇号は金星探査を目的とし、一〇号は水星る写真を送ってきた。これは地球以外の惑星のてきた。とはいえ、保守化した古典主義と決別 の探査をも行った。他の三号、四号、六号、七軌道に入った最初の探査体である。〈輿石肇〉して新しい詩的一一一一〔語を知的に探求したという側マリーノ Giambattista (Giovan Battis ・ マリナトス Spyrid6n Marinåtos ( 一九 0 一面は否定することができず、二〇世紀に入って (a) Marino ( 一五六九ー一六一一五 ) イタリアの詩 号、八号、九号はいずれも火星探査を目的とし ー七四 ) ギリシアの考古学者。西ギリシアのケからは、バロック復権の潮流のなかで、評価の人。ナポリの弁護士の家に生まれる。早くから 見直しが行われている。↓マリーノ〈林和宏〉詩人を志して、法律の勉強を強制する父親と対 ファリニア島出身。一九三九年アテネ大学工ー 一号は一九六二年七月に打ち上げられたが、 立、ついには勘当を受け、文学を愛好する貴族 コースを外れ、指令により破壊された。一一号はゲ先史考古学教授。同年、三〇年代におけるクマリ一一ョリ Giovanni de Marignolli たちの援助に頼りながら、文学修業と二度の投 ( 一一一九 0 以前ー一三五七以後 ) イタリア、フィレンツ 一か月後に打ち上げられ、金星から三万四八〇レタ島アムニソス遺跡の発掘成果に基づいて、 ほ・つレっ 工の名門マリニョリ家出身のフランチェスコ会獄にみられる放蕩無頼の青春を故郷に送った。 〇キ。メートルの近傍通過に成功し、その大気クレタ先史の宮殿文化はテラ ( サントリーニ ) 島の噴火と津波によって崩壊したという大胆な修道士。一三三八年、ローマ教皇の使節としてこの間、晩年の大詩人タッソを知り、その対話 圧、地表温度を測定し、磁場や放射能帯のない ことを初めて明らかにした。六七年六月に打ち自然災害の仮説を発表した。六七年テラ島アク元朝に派遣された。陸路により中央アジアのア編の出版に携わる。一六〇〇年に故郷を逃げ出 すうききよう ロティリ遺跡の本格的な発掘を開始したが、七ルマリクを経由し、四二年に元朝の首都大都してローマへ赴き、〇二年から枢機卿に仕え 上げられた五号は、さらに近傍の四〇〇〇キ。メ ベキン 〈馬場恵二〉 ( 北京 ) に到着し、元朝最後の皇帝順帝トゴンた。なおこの年、処女詩集を・ヘネチアで刊行し ートルのところを通過し、大気がほとんど炭酸四年八月発掘現場で事故死した。 テムルに謁して、名馬を献じた。しばらく大都ている。〇六年、主人に従ってラ・ヘンナへ移っ ガスからなることなどを明らかにした。七三年マリーニ Marino Marini ( 一九 0 一ー合 ) たが、〇八年にはトリノのサポイア公に取り入 に滞在したのち、四五年末、海路により帰途に イタリアの彫刻家。ピストイアに生まれ、フィ 一一月に打ち上げられた一〇号は金星のテレビ じよう って宮廷へ迎え入れられた。激越な論争詩を闘 つき、五四年にアビニョンに帰着した。のち、 観測を初めて行い、金星上層大気の流れや擾レンツェの美術学校に学ぶ。古代彫刻、とくに エトルリア美術の体験を根底にしながら、アル神聖ローマ皇帝カール四世より「ポヘミア年代わした同僚詩人から未遂に終わったものの拳 乱の動画を送信してきた。このあと一〇号は、 じゅう 金星の重力場を利用して軌道を太陽の方向に曲カイックな量感に満ちた人間像の彫刻から出発記』の新たな編集を依嘱され、プラハでその仕銃で撃たれる事件が起きたりするなかで、騎 する。一九三〇年代には「馬と騎士」が中心的事に従事した。マリニョリはその書中に、東方士の称号を受けるなど急速に地位と名声を高め げ、七四年三月二九日、水星から六九〇キロメー ひばう なテーマとなり、それは六〇年代まで一貫して旅行で自らの見聞した中国やインドのことなどていったが、他方、主君を誹謗したかどで一年 トルのところを通過した。こののち、さらに六 〈海老沢哲雄〉余りの獄中生活を強いられもした。一五年フラ 続く。さらに女性像「ポモナ」のシリーズがあを織り込んだのである。 か月置きに二回近傍通過を行い、表面のクレー ンスの皇太后に招かれてパリに渡り、やがて国 り、そこでも古代的な母性のイメージが表され回オドリコ著、家入敏光訳『東洋旅行記』 ( 一九 ター、大気、表面温度の観測などに初めて成功 王ルイ一三世の庇護も得て、ここに宮廷詩人の 六六・桃源社 ) る。第二次世界大戦を避けるためにスイスに赴 き、その間アルプと知り合ったことなどから、 マリネー mariné翳調理法の一種。油、光栄をほしいままにした。作品の多くはこの時 火星探査のマリナー三号は一九六四年一一月 ひっせい に打ち上げられたが失敗し、同じ月に四号が打作風は表現主義的な傾向を示し、馬と騎士の像酢、香味野菜、ワインにゲッケイジュの葉、タ期に完成し、発表された。二三年、畢生の大作 『アドニス』をルイ一三世に献じたのを最後に ち上げられ、火星から九六〇〇キ。メートルの近は激しい運動感を加える。戦後はミラノに戻イムなどを入れてつくったつけ汁に魚や肉など 傍通過に成功し、表面のクレーター、大気の成り、抽象的とまでいえる具象の限界に達するをつけて臭みをとり、香りづけをすること。魚イタリアへ帰り、二年後の二五年、まさに栄光 の絶頂において故郷の地に没した。 が、そこでもなお対象の生命力を失わない。四や肉を長く保存することもできる。〈小林文子〉 分と圧力などを観測し、磁場も放射能帯もない 作品は韻文を中心に膨大な量に上るが、おも ことを明らかにした。六号、七号は六九年二月 八年と五二年のベネチア・ビエンナーレ展で彫マリネッティ FiliPP0 Tommaso Mari- ー一九四四 ) イタリアの詩人。未来なものは、処女作の「詩集』 ( 一六 0 一 D を増補改 と三月に打ち上げられ、いずれも火星から三千刻大賞を受賞。なお、石版などの版画も多く残 netti ( 天七六 第 1 ひご

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みつぎし 長い柄があり、托葉はない。花は両性で放射相約四六 % ) の九〇 % 以上がミカン農家。大福寺の歌となった。コ。フノで教師として働く間に詩宗教は、宗教儀礼の秘密保持を宗紀とし、古代 ふげんじゅうらせつによ は普賢十羅刹女画像などの国重要文化財を所集『バラードとロマンス』 ( 一全一 l) 、長編劇詩のギリシア、とくにヘレニズム時代のローマ世 称、五数性である。花冠の裂片は内面に毛また まかや せんじゅかんのん は縦ひだがあり、つばみのときは内に巻き互い 蔵し、摩訶耶寺も国重文、千手観音・不動明王『父祖の祭』第二部、第四部 ( 天 = 三 ) を発表し界に広く隆盛をみた諸宗教の総称である。これ たが、前者は新しいロマン主義の先触れとなる は元来、穀物の豊穣を祈願する自然宗教を基 に擦り合わせ状に重なる。リンドウ科に近縁との彫像があり、庭園は県名勝。人口一万六四八 キ・いにゆ・つ 盤として成立した。すなわち、植物の枯死から 〈川崎文昭〉作品集、後者はロシア皇帝の悪政に対する戦い されるが、並立維管束で、葉は互生し、胚乳形六。 」で生まれた夢幻的な象徴詩劇である。なお『父の再生を願う宗教儀礼が、植物の人 ( 神 ) 格化 成の過程が造膜型であるなど、リンドウ科と異囮二万五千分の一地形図「三河富岡」「三ケ日 とともに人間の連命にかかわる儀礼に転化さ 祖の祭』第一部は末完に終わり、第三部はドレ なる。水中または湿地に生え、世界に五属約四 「豊橋」 れ、死すべき人間に永遠の命 ( 神化 ) を保証す スデンで発表された ( 一ハ三三 ) 。 〇種、日本に三属五種分布する。〈高橋秀男〉三ケ日人み「かびじん静岡県引佐郡三ケ日 ただき リトアニアでの青年秘密組織発覚でロシア官るものになる。この宗教儀礼 ( 祭儀 ) は、入会 ミッカドコオロギ〔三角蟋蟀〕ごさ・町只木の石灰岩採石場で、一九五九年 ( 昭和三 ちよくし ミミ d ミミ・昆虫綱直翅目コオロギ科四 ) に発見された洪積世人類である。頭骨の破憲に逮捕され、裁判の結果、ミッキエビッチは儀礼と本儀礼とからなり、前者には断食や洗 かんこっ 片五点と腰部の寛骨片および大腿骨破片の計七ロシアへ追放となり、一八二四年ペテルプルグ礼、後者には秘教の伝授 ( 多くの場合神話を素 に属する昆虫。いわゆるオカメコオロギの仲間 ( レニングラード ) に行き、のちにデカプリス材としたドラマを介する ) 、聖物の捧持、聖な であるが、雄の頭部はひどく変形し、三つの出片の標本が発見されている。人骨片と同時に、 る結婚の秘儀などが含まれる。これへの参加に っ張りが目だっ種。体長一六 ~ 二〇ミリ。全体はすでに絶滅したアオモリゾウの牙、トラ、オオトとして処刑されたルイレーエフ、ベストウー 褐色ないし黒褐色。雌の頭部は一般的な丸形でツノジカ、オオカミなどの獣骨片が発見されてジェフ・マルリンスキーらとも交わった。そのよって得られる「再生」または「神化」の過程 には、しばしば脱自 ( ェクスタシー ) 体験を伴 後オデッサへ移り、二五年三月から一一月まで る。これらの動物は上部洪積世に生息してい あるが、雄では顔面が平たく、左右両側は三角い オこうして密儀宗教は、それが元来成立し たもので、三ケ日人も同時代のものと推定され滞在するが、その間にクリミア半島を旅してつこ。 形に強く突出し、また頭頂部が大きくなってい とう力い 『クリミア・ソネット』 ( 天一一 0 を書いた。モスた国家や民族や地域を離れて、広くへレニズ る。頭頂の背面部にはやや太めの一本の黄色のる。人骨片はすべて断片で、頭蓋の全形やその 横帯が目だっ。前翅は雄では腹端に達する程他身体の全体像を詳しくは復原できないが、観クワ滞在は二八年四月までで、すでに詩人としム・ローマ世界に流布し、民族的、社会的、性的 度、雌ではやや短い。成虫は八月から秋にかけ察できる部位の特徴はすべてホモ・サビエンスても有名になった彼は、モスクワ、ペテルプル区別を超えた人間個人の魂の救済を志向する。 ギリシア出自の密儀宗教には、ますエレウシ てみられ、畑地や草地などにすむ。雄はジッジであることを示している。興味ある特徴は、寛グの文学界・社交界の仲間となり、プーシキ ス祭儀がある。これは、大地と豊穣の女神デメ 骨が小さく、かつ大腿骨片の長さから推定されン、ポレポイ、ビャーゼムスキーらと親交を結 ッジッと鋭い声を発する。本州、四国、九州に めいか、 テルが冥界の王ハデスに連れ去られた娘コレー 〈山崎柄根〉 た生前の身長が一五〇弩前後という低い値であんだ。『コンラド・ワレンロド』は二八年ペテ 分布する。↓コオロギ ふうしん った点である。これはピグミーの範囲に属する ル・フルグで出版された。プーシキンらの努力も ( 穀物の種 ) を探し求め、ついにはゼウスの助 三日はしかみ 0 かはしか 0 風疹 へけにより娘を一定期間神々とともに住まわせる 〈赤澤威〉あって二九年五月ロシアを出国、ヨーロッパ 三ケ日 ( 町 ) み。かび ( ちょう ) 静岡県西部、数値である。 みつぎしゅうきよう の旅に向かうが、ローマへの途次ワイマールでことに成功したという神話を中、いに、デメテル 引佐郡南部西端の町。町の北東から南西にかけ 密儀みつぎ 0 密儀宗教 ほ・つキ一 て赤石山系の引佐山地が連なり、南は浜名湖御調 ( 町 ) みつぎ ( ちょう ) 広島県東部、御調ゲーテに会った。三〇年のワルシャワの蜂起失の苦難とその克服を、入会者が象徴的に追体験 いちすげ と、その支湖猪鼻湖に臨む。西浜名村が一九一一郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 市、菅敗の報を聞きパリに亡命、代表作『パン・タデする密儀 ( 洗礼、籠からの聖物の取り出し、麦 のかみかわべ かわち いまつの もろた 二年 ( 大正一一 ) 町制施行して三ケ日町と改野、上川辺、河内、今津野、奥の六村と諸田村ウシュ』 ( 天三四 ) を書く。ナポレオンのロシア穂の捧持、聖なる結婚 ) を特色とする。ディオ ニソス ( またはバッカス ) 祭儀は、とりわけ女 侵攻とリトアニアの美しい自然を背景に当時の 称。五五年 ( 昭和三〇 ) 東浜名村を編入。天竜の一部が合併して町制施行。中心の市は御調川 おのみち いずも 浜名湖鉄道、国道三六二号が通じる。東名高速沿いの東西路と、尾道から山陰地方へ至る出雲ポーランド貴族の生活を描いたこの作品は、祖性の乱舞その他の宗教的狂乱を伴ったことで有 名である。これは生産力の表象と考えられ、ギ 道路三ケ日インターチェンジがあり、近年浜名街道 ( 国道一八四号 ) の交点にあり、市場町と国への思慕にあふれた不朽の傑作とされる。 リシアで酒の神となり、小アジアで豊穣神の性 湖レークサイドウェイが開通し、奥浜名湖観光して発達した。農林業が主で、御調米・タバ 一八四八年、イタリア独立運動を助けるため ただき の拠点となっている。只木の石灰岩地から発見コ・果樹栽培や御調牛の飼育などを行い、尾ローマで「ポーランド軍団」を組織したが鎮圧格を帯び、イタリアに入って民衆の間に熱狂的 ばつばっ 道・三原市への通勤者も多い。照源寺の本造涅 され、クリミア戦争 ( 一会三 ~ 五六 ) の勃発ととも支持を得たために、しばしばローマ当局によっ された化石人骨は、約二万年前の更新世 ( 洪積 たか はちまん にコンスタンティノープルへ行って「ポーランて弾圧された。ォルフエウス教では、楽神ォル 世 ) 末期の「三ケ日人」として有名。町はミカ槃仏は国指定重要文化財。高御調八幡神社の豊 フエウスがトラキアの女たちによって八つ裂き ンを主とした農業中心で、全農家 ( 就業人口の年踊・雨乞い踊の「みあがりおどり」は県指定ド義勇軍」を組織しようとする ( 天五五 ) が、コ 〈吉上昭三〉 〈北川建次〉 にされてもその首はなお歌を歌い続けていたと レラに倒れた。 無形民俗文化財。人口八五六三。 よ ・一う 影 みなり いう神話に拠って、魂の諸身体への流転、身体 二万五千分の一地形図「府中」「三成」「甲回樹下節訳『バラードとロマンスクリミャ・ かいち レ 1 」欧・東欧』からの魂の解放、魂の不滅を保証する密儀 ( 禁 山」「垣内」 ソネット』 (r 世界名詩大成 5 ヒ じゅもん タ 欲、浄め、死者の呪文 ) が執行されている。工 所収・一九六三・平凡社 ) = 、ツキエビッチ Adam Mickiewicz ナ ジプト出自のオシリス・イシス宗教では、信徒 ( 一七九ハ みつぎしゅうきよう Mystenenreli ・ ー天五五 ) ポーランド・ロマン派最大の詩密儀宗教 かんすい 年 人。白ロシアの貧乏貴族で弁護士の息子として gionen ハイ「密儀」は「秘密」を意味するギたちが密儀 ( 灌水、秘教の開示、禁欲、脱自 ) 生まれ、ウイルノ ( ウィリニウス ) 大学文学部 リシア語 mysterion に由来。これが、人知をへの参入によって、オシリスとイシスととも チ に、苦難の克服と神化の体験を得た。ベルシア に学ぶが、すでに在学中に秘密学生結社「フィ超えた「奥義」または「秘義」の意となる。た ッ ほふ ビ ロマート会」の中心メンバーとなり、愛国的革だし、密儀宗教における「密儀」は、「奥 ( 秘 ) 起源のミトラス教は、聖牛を屠って太陽となっ 工 しようし キ命運動に参加した。詩集『青春への頌詩』 ( 天義」にあずかるための「秘密の宗教儀礼」の意たミトラス神との合一 ( 悪からの救済と悪との せいさん ッ 110) は、自由と博愛と進歩への青年たちの戦い ( したがって「密儀」は「秘儀」と同義 ) 。密儀闘い ) を説き、その密儀 ( 供犠、焼香、聖餐、 3 な ~ 1- いのはな たくよう 0 ざん だいたい 、なさ きょ か 1 一