一一 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 22
903件見つかりました。

1. 日本大百科全書 22

まんが ①ワーグマン「き△ 弓単 . 圧」「ジャノヾン・ノヾ ンチ』 1878 年 ( 明治 11 ) 新聞紙条例・出 カタホカツがナイカ 版条例による明治政府の厳しい言論弾圧 政策に抗議している ②小林活親「清親ポンチ ( 東京谷中天王 地 ) 」 1 1 年 ( 明治 14 ) 前年 12 月の集会 条例改正で , うつかりタ涼みもできなく なったことを風刺 ③ビゴー「漁夫の利」 「トバエ』 1887 年 工ェ与・ンっイ ( 明治 20 ) 朝鮮をつり上げようとしてい る日本と清国。そしてすきあらば横取り しようとするロシア あわれ ④北沢楽天「憐むべきやせ馬」「東京バ ック』 1910 年 ( 明治 43 ) やせ馬 ( 国民 ) が 桂太郎内閣の重税と軍備拡張政策にどこ まで耐えられるか ? ーヒカウキ ( ャ′ャウニチキ・ココ ( アマ , ガハ′まト , ウキ 4 マハチにサミエ ホシホタル′ャウ - 一 トア しよ、せ、一 ⑤織田小星・樺島勝ー「正チャンの冒険」 「アサヒグラフ』 1923 年 ( 大正 12 ) 児童漫画 の最初の大ヒット作。正チャン帽も有名 ⑥麻生豊「ノンキナトウサン」「報知新聞 1923 年関東大震災直後の不況時代に登場 した失業者が主人公の人気漫画 ⑦岡本一平「漱石先生」大正末期夏目 漱石と親しかった一平の得意の漫像。右は わかはい 「吾輩は猫である』のモデル猫 ⑧癩企蕚「この威力 / 」「無産者新聞 1927 年 ( 昭和 2 ) グロッスとグロッパーの 影響を受けた力強い労働者教宣漫画 こんなことて 擧いてたまるかい 物を、 亠最後の一人となっても ( 第はこ」をする 心ぶながら 一ざぬば なの鑓いむだに てることにな物ます 耳しよう だなア 、・れよを やられちゃ たまらない オイサン アメが ⑨田河水泡「のらくろ」 「少年倶楽部』 1931 年 ( 昭和 6 ) 11 年問連載 され , 単行本もベスト セラーとなる。昭和漫 画を象徴する作品 ⑩横山隆一「フクちゃん」「朝日新聞」 1936 年 ( 昭和 11 ) 戸ッ子健ちゃん」の脇役として登場 , 8 か月後に「養子のフ クちゃん」と改題し , 主役となる。戦後も「毎日新聞ーに連載 ⑩杉浦幸雄「見通しの街」「漫画』 1946 年 ( 昭和 21 ) 「ああ春 夫さんがおみえになったわ , ハロー」焼跡の中で , スカート をはきバーマをかけた女性が登場。平和の喜びが伝わる作品 ⑩清水崑「吉田茂像」「アサヒグラフ」 1953 年 ( 昭和 28 ) 吉 田首相が予算委員会の野党議員とのやりとりで , 「バカヤロウ」 と発言し , 衆議院が解散した事件を風刺 ⑩小島功「三十代」昭和 20 年代女性の宿命を象徴的に描 いた作品。美人風俗漫画の名手の片鱗がすでにうかがえる ⑩牧野圭一「列島改造」「読売新聞」 1976 年 ( 昭和 51 ) ロッ キード事件でこの年流行したことは「黒いビーナツツ」を使 っての日本列島改造。事件の主役田中角栄前首相の政策を痛 烈に風刺している く解説・構成 : 清水勲〉 アクマーン 197

2. 日本大百科全書 22

キ、存がよい。近世の街道交通にかかわるものとしては、奥州街道『斎太郎節』とともに県の代 宮城県 / 略年表 やや浜街道、および奥羽山脈越えの脇街道の一つ七ケ宿街道の表的民謡である。 かみとぎわ 旧石器時代岩出山町座散乱木遺跡、古川市馬場壇遺跡 年中行事としては、一月一 み・上戸沢、下戸沢 ( 白石市 ) には旧宿場町の街村形態が残ってお たけ第一ま ありかべ かんなり おおひら 縄文時代白石市松田遺跡、七ケ浜町吉田浜貝塚、小牛 り、大衡村には街道の松並木が、また金成町の旧有壁宿本陣日の塩竈神社と岩沼市竹駒神 がんたん たかしみず 田町素山貝塚 ( 早期 ) 、七ケ浜町大木囲貝塚、 社への元旦詣での風習があ ( 国の史跡 ) や築館町、高清水町の本陣跡などの旧観が残り、 鳴瀬町宮戸島貝塚、石巻市沼津貝塚 ( 前期ー どんと はなやま り、大崎八幡神社の松焚祭 仙台藩花山村番所跡 ( 国の史跡 ) も当時の姿をとどめている。 晩期 ) まごめ 弥生時代仙台市南小泉、多賀城市桝形囲、塩竈市崎山 ( 一月一四日 ) 、塩竈神社の帆 馬籠 ( 本吉町 ) は一六〇六年 ( 慶長一一 ) ごろより約三〇〇年に とうや 囲などの遺跡 ( 中期ー後期 ) わたり仙台藩の砂鉄による製鉄の行われた地で、炯屋とよば手祭 ( 三月一〇日 ) と、みな 古墳時代名取市雷神山、小牛田町京銭塚、名取市山囲、 と祭 ( 八月四、五日 ) 、竹駒 れる製錬場の跡が各所に残っている。初期の製鉄従事者には 涌谷町追戸、丸森町台町などの古墳 はつうま キリシタンが多く、神社の神体など十字架をかたどった鉄製神社の初午祭 ( 旧暦二月初午七 0 九和銅 = 巨勢麻呂、蝦夷を討伐 おいのか 七 = 四神亀一多賀城に陸奧国府、鎮守府が置かれる、木ノ 品が多く残されているが、異教の禁以後弾圧を受け、狼河の日から七日間 ) 、牡鹿町黄 おおかご わらとうわ 下に国分寺、国分尼寺建立 原 ( 東和町 ) や岩手県の大籠 ( 藤沢町 ) とともにキリシタン殉教金山神社の五月の初巳大祭、 だし にしかみざわ 九駄一障奧守百済王敬福、黄金を献す の地となった。狼河原に近い西上沢では、奥州キリシタンの栗駒町の栗駒山車まつり ( 七 耄四宝亀五大伴駿河麻呂、蝦夷を討伐 じゅあん 中心人物で、異教徒禁令に従わなかった後藤寿庵の墓碑が発月下旬 ) 、石巻市の川開き 天 0 一一蝦夷反乱、按察使を殺し多賀城に侵入 たな まいや 合一延暦一一 0 坂上田村麻呂、蝦夷を討伐 見されている。米谷 ( 東和町 ) には、荒鉄を精錬し、武具を製作 ( 八月一、二日 ) 、仙台市の七 ばた おかじ 一三田村麻呂、鎮守府を胆沢城に移す 八日 ) 、松島 した御鍛冶屋敷跡がある。このほか、国指定史跡には名取市タ祭 ( 八月六 とうろう こがねやま たじり 一 0 至永承六安倍頼時反し、前九年の役起こる ( ー一 0 六一 l) の雷神山古墳、涌谷町の黄金山産金遺跡、田尻町の木戸瓦窯町の灯籠流し ( 八月一五日 ) 、 一 0 会永保三後三年の役起こる ( ー一 0 八七 ) じようのさく みようのだてかんが 跡、中新田町の城生柵跡、古川市の名生館官衙遺跡などがあ鳴子町のこけし祭 ( 九月七 ~ 一一大治承一一角田市高蔵寺阿弥陀堂建立 あみだ ぎぞう 一一兊文治五源頼朝、奥州征伐 る。また角田市高蔵寺の阿弥陀堂および阿弥陀如来坐像、築九日 ) 、築館町の薬師まつり 館町双林寺の薬師如来坐像、牡鹿町の十一面観音立像などが ( 一一月上旬 ) などはいずれ一 = = = = 陸奥守北畠顕家、多賀国府に入る 一吾一 = 大永二伊達植宗、陸奧国守護となる も郷土色豊かな民俗行事であ あり、いずれも国の重要文化財に指定されている。 一吾一六天文五伊達稙宗、塵介集を定める うたまくら 宮城県で特筆すべきは、古来歌人に親しまれた歌枕の地る。仙台の七夕祭は他地方の 一天九天正一七伊達政宗、蘆名氏を滅ばす おおとものやかもち すめらぎ あずま 一九政宗、米沢より岩出山に移る の多いことであろう。大伴家持が「天皇の御代栄えむと東七夕祭りと同様の伝習に加 ききん みちのくやまくがね 一六 0 一慶長六政宗、岩出山より仙台城に移る なる陸奥山に金花咲く」 ( 巻一八 ) と詠んだ地は『万葉集』え、この地方が冷害や飢饉に たけ 九松島五大堂完成 一六 0 四 のなかでもっとも北の地といわれる。宮城野、末の松山、武悩まされることが多かったた 一六皂 一一一大崎八幡神社造宮なる おだえ まのかやはら 隈の松、野田の玉川、緒絶の橋、真野の萱原などの歌枕があめ、田の神信仰とも結び付い 一四松島瑞巌寺方丈の上棟式 ド・。し・よう 一八支倉常長ら遣欧使節出発 ( 一六一己帰国 ) たものといわれるが、現在で り、芭蕉の『おくのほそ道』の句碑も多い ほういんかぐらししおどり 一空六寛永三 川村孫兵衛重吉、北上川付替工事を完成 民俗芸能では法印神楽、鹿踊がよく知られている。法印 は観光的な七夕行事となり、 とめ やまぶししゅげん 九仙台藩の江戸廻米始まる 神楽は牡鹿、桃生、登米、本吉の各郡で行われ、山伏修験の例年二〇〇万人以上の観光客 一三政宗没、家臣一五名殉死 神楽が農民たちによって受け継がれている。石巻市の「牡鹿を集めている。 一奕 0 万治三三代藩主伊達綱宗、幕府に逼塞を命しられる ( 伊達騒動の発端 ) 法印神楽」、仙台市の「大崎八幡神社の能神楽」は選択無形次に宮城県の衣食住につい 民俗文化財。鹿踊は本吉、栗原、名取、柴田、宮城などの諸てみてみよう。伝統を引き継 = 宅一寛文一一河村瑞賢、東廻航路を整備 かわまえししおどり けん 一六九一元禄四岩出山に学問所有備館設置 郡で行われており、仙台市宮城地区の「川前鹿踊・川前剣ぐ衣服としては、高級絹織物 一七一一六元文一仙台藩学問所養賢堂開設 ひら 舞」は選択無形民俗文化財。田植踊は県内各地にあり、仙台の仙台平と八ッ橋織、藩士や 一大 = 一天明三大飢饉。仙台城下に打毀起こる あきう 一大六 六林子平『海国兵談』を著す 庶民の婦女子が自家用につく 市秋保地区の「秋保の田植踊」は国の重要無形民俗文化財に 一会〈明治一戊辰戦争、仙台藩降伏 指定されている。このほか、国指定重要無形民俗文化財に金った地織木綿があったが、後 . おド・さま 一全 0 三亘理領主伊達邦成、家臣ともに北海道に開拓 成町の「小迫の延年」、気仙地方の農耕行事「室根神社祭の者については、その染色技術 移住 しぐれ マツリバ行事」がある。民謡では『さんさ時雨』『遠島甚句』が常盤紺形など藍染めの手法一全 四仙台県、一関県設置 さいたらぶし しおがま やまうた 五仙台県を宮城県と改称 『斎太郎節』『塩釜甚句』『秋の山唄』『わしが国』『松島甚句』として伝えられるのみであ しふおり 九現在の宮城県域となる。一関県は岩手県に統 などがあって東北地方の他県と同様に豊富である。とくに格る。白石地方に伝わる紙布織一〈実 合される は絹糸と紙糸 ( 和紙 ) とで織 調高い祝い唄の『さんさ時雨』は漁村で愛好される勇壮な つきだて わき じんく がねやま て はつみ はせくらつわなが 祭服 ( 支倉常長 の請来 ) 重文 仙台市博物館 ↓荷陀茹来坐像 重文 角田市 高蔵寺 一ッ 1 縄文鉢 小半田町山前遺跡出土小牛田町教育委員会 嶐国分寺薬師堂重文仙台市 450

3. 日本大百科全書 22

等分して季節を表したもの。↓二十四節気 助。↓真田十勇士 はつか易の算木の面に現れる八種の形。を表す語として使われるようになった。 しんそんかんごんこん けんだ じゅう 冠の種類によって朝廷内の一 ニ十八宿翳くインド、中国などで、赤 ーカし 乾、兌、離、震、巽、坎、艮、呻。「はつけ」九字くじ「臨兵闘者皆陳列前行」の九個の文十ニ階 しゅげんどう 二階の序列を示す最初の制度。「冠位十二階」道、黄道付近で天球を二八の不等な部分に分け 字。道家に始まり、のちに密教、修験道でも行 と一 7 も。↓八卦 - ひじゅ て設けた星座。↓二十八宿 とも。↓冠位十一一階 八苦はつく人生の八つの苦しみ。生、老、われた護身の秘呪。この九字を唱えながら、指 おんぞうえ ぐふとくごいんじよう さんじゅう 観音を安置した三三の巡 黄道に沿った天域を一二分割三十三所 ローさんしょ で空中に縦に四線、横に五線を描くときは、ど十ニ宮翳うー 病、死、愛別離、怨憎会、求不得、五陰盛。 につとう 礼霊場。三三の数は観音の化身する数に合わせ したもの。占星術で用いられる。↓黄道十二宮 平安時代に唐に留学、密教んな強敵も恐れる必要はないとする。 入唐八家 はつけ ぼんもう じゅう 暦法などで、一二の数を動物たもの。それそれの地方名を冠してよばれてい をもたらして布教に努めた八人の高僧。空海、十戒 ①『梵網経』による一〇の戒め。十ニ支 も : っ′一 ねうしとら ちゅうとう じゃいん せっしよう えうんしゅうえい 恵運、宗叡、常暁、円行、最澄、円仁、円珍。不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、の名に置き換えたもの。子、丑、寅、卯、辰、る。「三十三箇所」「三十三番札所」とも。↓西 じっかん みうまひつじさるとりいめ しん′一ん 国三十三所↓坂東三十三所↓秩父三十三所 「百一一口八 - 家 ~ 」と丁も。 不酷酒戒、不説過戒、不自讃毀他戒、不慳法財巳、午、未、申、酉、戌、亥。↓十干十一一支 きんとう しようしよう じゅう はっー、、 藤原公任が選んだ優れ キリストが教えを伝えるた 一ノー 4 ・・ろっかせん ノカ所の景勝地。中国の瀟湘八景戒、不瞋恚戒、不謗三宝戒。②『旧約聖書』十ニ使徒 た歌人三六人。後年、これを模して選ばれたも で、神がモーセを通じてイスラエルの民に与えめに選んだ一二人の弟子。↓使徒 におこり、日本にもこれに倣って各地にある。 けんぞく せきしよう さんしせいらん じゅ・つに 薬師如来の眷族で、仏教のが多種ある。↓三十六歌仙 しんしよう 十ニ神将 ①瀟湘八景。山市青嵐、漁村タ照、瀟湘夜雨、た戒め。↓十戒 くびら きのえきのとひのえひのとっちのえっちのとかのえ えんじ へいさらくがん えんば さんじゅう じっ 兵法に説かれている三六 の行者を守護するという一二神。宮毘羅、保折三十六寸 甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、 ノ = 一口ろつけい かん 遠浦帰帆、烟寺晩鐘、洞庭秋月、平沙落雁、江十干 さんちら いんだ らめいきらあんちら おうみ ひら かのとみずのえみずのと ばせつ 天暮雪。↓瀟湘八景②近江八景。比良の暮辛、壬、癸。五行 ( 木、火、土、金、水 ) 羅、迷企羅、安底羅、頻羅、珊底羅、因陀種の策略。 ら きらこうずけのすけ しんだらしようとらびか や からさき かたた しじゅう 吉良上野介の首級をあげ、 しちし に陰陽の兄・弟を配したもの。普通、十二支と羅、夷羅、摩虎羅、真達羅、招杜羅、毘羯四十七士 雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、矢 ら あ・一ら′ たくみのかみあだ えと ばせ あわづ 主君浅野内匠頭の仇を討った赤穂藩浪士四七 橋の帰帆、粟津の晴嵐、石山の秋月、瀬田のタ組んで用いられ、干支の称が生まれた。↓十干羅。↓十二神将 わかのうら じゅう 古代日本で鋳造された一二種人。↓赤穂浪士 照。↓近江八景③日本八景。紀伊の和歌浦、十二支 十ニ銭 にせん すもう りゅう わどうかいちん はりま あかし やまと せつつ しじゅう 相撲の決まり手の通称。四 の銅銭。和同開珎、万年通宝、神功開宝、隆四十八手 はって 臨済宗で、五山に次ぐ格式をもっ 摂津の住吉浦、播磨の明石浦、大和の吉野山、十刹つ じようわしようほうちょうねんたいはうによう やましろ でわもがみ むっしおがま 十大寺。①京都十刹。等持寺、臨川寺、真如平永宝、富寿神宝、承和昌宝、長年大宝、饒十八は、数多いという意味で、四八に限られて 陸奥の塩竈浦、山城の加茂川、出羽の最上川 かんびよう えんぎ やくしんぼうじようがん するが いなかった。↓相撲 駿河の富士山。④金沢八景。横浜市金沢区の平寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光益神宝、貞観永宝、寛平大宝、延喜通宝、乾 五十三次江戸時代、東海道に置かれ 溿海岸の景勝地。平潟の落雁、称名寺の晩鐘、寺、大徳寺、竜翔寺。②鎌倉十刹。禅興寺、瑞元大宝。↓皇朝十一一銭 すさき うちかわ じゅう 世界を守護する一二種の天神。た五三の宿駅。↓宿場 にてん 内川の暮雪、乙艫の帰帆、野島のタ照、洲崎の泉寺、東勝寺、万寿寺、東漸寺、万福寺、大慶十ニ天 びしやもん - : っー ) トっ たいしやく えんま 四国の各地に点在する 帝釈天、焔魔天、水天、毘沙門天、火天、羅 - ノ十・ノカ所一つかしょ 寺、興聖寺、法泉寺、長楽寺。 晴嵐、小泉の夜雨、瀬戸の秋月。↓金沢八景 ・一うば・つだいー」 あ せつ キ ) がみし一ーし ノ八か所の弘法大師の霊場。↓四国八十八か所 関東の八国。相模、武蔵、安十哲ある門下における一〇人の高弟。刹天、風天、伊舎那天、梵天、地天、日天、月 関八州いゅ引 がんえんびんし しもうさひたちこうずけしもつけ わかずさ ひやくにん 一人一首すつ一〇〇首の ①孔門の十哲。孔子門下の儒者。顔淵、閔子天。↓十二天 百人一首 いっしゅ 房、上総、下総、常陸、上野、下野。 しんちよくせん けんぜんはくぎゅうちゅうきゅうさいが しこうぜんゅう かばね まひとあそんすく はっ じ『新勅撰集』『続後撰集』優れた和歌を選んだもの。『小倉百人一首 - 』が しよう 古代の姓の制度。真人、朝臣、宿騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季十三代集 ー ) ゅ・つい ろ しゅう しようもん いなぎ いみきみちのしおみむらじ 彌、忌寸、道師、臣、連、稲置。六八四年に天路、子游、子夏。↓孔門の十哲②蕉門十哲。『続古今集』『続拾遺集』『新後撰集』『玉葉集』その代表。↓百人一首 きよりくきよらい きかく せんぎい ひやくはち 一〇八種の煩悩のこと。 ・↑ーばんのう 武天皇が従来の姓制度を再編成して新たに制定色蕉門下の俳人。其角、支考、許六、去来、嵐『続千載集』『続後拾遺集』『風雅集』『新千載百八煩畄 ろっこん せつじようそうやば さんふう まくしえつじん 六根から生ずる苦・楽・不苦不楽で一八種、こ 雪、丈草、野坡、杉風、北枝、越人をさす場集』『新拾遺集』『新後拾遺集』『新続古今集』。 した八種の姓で、皇親を最高とする身分制度の さん やくさかばわ 合が多い。↓蕉門十哲③木門の十哲。木下鎌倉時代から室町時代の一三の勅撰和歌集。一一れを貪者と無貪者に分けると三六種、さらに三 樹立を目ざしたもの。「八色の姓」とも。↓八 じゅんあん あらいはくせきむろきゅうそうあめのもり 世に配して一〇八種の煩悩とした。 順庵門下の儒者。新井白石、室鳩巣、雨森十一代集から初めの八代集を除く後代のもの。 色の姓 イ、かキ、は 2. っ・ : っー ) ゅ、つ まうしゅうぎおんなんかい りつりしっ 四百四病病気の総称。仏説では、人 ↓勅撰和歌集 洲、祇園南海、楙原篁洲、南部南山、松浦 しよう律令制で太政官に設けられた八 八省 かんらん なかっかさ じゅうろ 間は四大 ( 地大、水大、火大、風大 ) の調和で 世にとどまって仏法を護持 十六羅漢 くらかん つの行政官庁。中務省、式部省、治部省、民霞沼、三宅観瀾、服部寛斎、向井三省。 ぎようぶ ひょうぶ 十悪 う①仏教の三業、つまり身とロと心する一六人の羅漢 ( 悟りを開いた仏弟子 ) 。↓十成り立っている。その調和が崩れると、それそ 部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省。↓八 ちゅうとう じゃ れから黄病、痰病、熱病、風病が各一〇一、合 の働きがつくる一〇の罪悪。殺生、偸盗、邪六羅漢 省百官 りようぜっあっく きごどんよく いんもう - 一 じ 9 う嵎江戸時代中期の安永・天計四〇四病を生じるという。↓四百四病 三条、西園寺、徳大寺、菊亭、淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋、十八大通 九華族 けつじゅう かぎんいんおおいのみかどくがだいご ごひやく 釈迦入滅後の、第一結集 らかん 花山院、大炊御門、久我、醍醐、広幡の九家。邪見。②上代において、重く罰せられた一〇の明年間、江戸新吉原の花柳界や演芸界で豪遊し五百羅漢 むへんばうだいぎやくむはん と第四結集のときに来会したとされる五〇〇人 罪名。謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大た大通人。↓十八大通 「九清華」とも。 ぶきよう ちくぜんちく′」 じゅう きゅう の羅漢 ( 悟りを開いた仏弟子 ) 。↓五百羅漢 七世市川団十郎が制定した一 十八番 はちばん 西海道の九か国。筑前、筑後、豊不敬、不孝、不睦、不義、内乱。 九州 しゅう りよう しやり かぶき しやか さつまおおすみ ひぜんひごひゅうが ぜんぶんご 千字文 せ中国、梁の武帝の命により、 ①釈迦の十大弟子。舎利 八種の歌舞伎狂言。↓歌舞伎十八番 前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅。 十大弟子 ほっもくけんれんかしようあなりつしゅばだい ふるな じゅう 一〇〇〇の漢字を四字句からなる韻文に編んだ 中国の武芸一八種のこと。こ 弗、目揵連、迦葉、阿那律、須菩提、富楼那、十八般 はつばん 九州地方 しゅうこうしせん かせんねんうばり らごらあなん おんみようどう いつばく きゅう れに倣って、日本でも、時代ごとに異なるが定もの。周興嗣の撰による。↓千字文 迦旃延、優波離、羅猴羅、阿難。↓十大弟子 陰陽道における九つの星。一白、 九星 しゆみせん じちえどうおう はっ」く ′」おうろつばく しちせき さんべき さ第ん須弥山を中、いに、周囲は九 められた。↓武芸 三千世界 二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、②空海の十大弟子。真済、真雅、実慧、道雄、 そう ごうりん ちせん にじゅういち 平安時代から室町時山八海、上は色界初禅天から下は風輪までが一 だいしゅう 九紫。これにより方位・配偶などの相生・相円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延。 ニ十一代集 ちよくせん じゅう 小世界。この一〇〇〇倍が小千世界、さらに各 戦陣でとくに活躍した勇士一代にかけて編集された二一の勅撰和歌集。 剋をみて吉凶を占う。↓九星 十勇士 ゅ・つし さなだゆきむら 中国周代に定められた敬礼法の九〇人をあげたもの。真田幸村の家臣の真田十勇代集と十三代集をあわせてよぶ。↓勅撰和歌集一〇〇〇倍すっすると中千世界、大千世界とな 九拝 9 う あなやまこすけうんの けいしゆとんしゅ にじゅう ・中・大と千世界が三つ 中国古来の代表的な孝子一一る。三千世界とは、小 し・」う 種。稽首、頓首、空首、吉拝、内拝、奇拝、褒士がよく知られる。穴山小助、海野六郎、筧十ニ十四孝 きりがくれさいぞうさるとびさすけねづじんばちみよしせい 重なることからいったもの。これが一仏の教化 数拝、粛拝、振動。転じて何度も拝礼して敬意を蔵、霧隠才蔵、猿飛佐助、根津甚八、三好清四人。↓二十四孝 にじゅう 太陰太陽暦で一年を一一四範囲となる。「三千大世界」とも。 しせつき 名表すこと。さらに、手紙の末尾に置いて、敬意海ズ道、三好伊三入道、望月六郎、由利鎌之ニ十四節気 きゅうし おっとも さいおんじ だい 2 しト ` - っ み ひら ずい だい すけ ら たん 713

4. 日本大百科全書 22

のをはじめ、鈴鹿海軍工廠、津海軍工廠が設立され、民間工の名で全国に売られたダイコンなどが消え、かわって茶、ミ面積は三八万二〇〇〇タ ( 一九会 ) で民有林率は九四 % 、人 工林率は六三 % ( 全国平均四〇 % ) 。林業専業労働者数は一一 場も軍需工場への転換や新設が図られた。一九四四年 ( 昭和カンが中心となった。とくに茶の生産は静岡、鹿児島に次い 一九 ) 一二月におこった東南海地震は県下でも死者・行方不で三位を占める。ミカンは気候温暖な熊野灘沿岸が主産地。〇年前に比べると四分の一近くに減少して二六〇〇人とな 明者二五九人、倒壊・流失家屋約七〇〇〇戸に及ぶ被害を受このほかレタス、カリフラワー、イチゴなどが中京、阪神市り、しかも高齢化が進んでいる。素材生産量は六三万立方 そさい けた。四五年には四日市、津両市を中心に米軍機による空襲場へ出荷されるが、蔬菜の県内自給率は約四〇 % で、三重県 ( 全国一六位 ) で、うち、スギ四三 % ( 全国八位 ) 、ヒノキ三 は蔬菜の移入県である。松阪肉で知られる肉牛の理想肥育は七 % ( 同三位 ) 。 が続き多大の被害を被った。また五九年 ( 昭和三四 ) 九月、 〔水産業〕内湾性の伊勢湾と外洋性の熊野灘を漁場とし、漁 伊勢湾台風は県下北部に大被害を与え、死者・行方不明者一中勢、伊賀で盛んで、約二万八〇〇〇頭が飼育されている。 農家戸数は九万五〇〇〇戸、農業就業人口は九万八〇〇〇業従業者は二万二〇〇〇人 ( 一九会、全国五位 ) 、漁獲高一二 二八一人に達し、被害総額は一八二六億円に上った。 〔産業〕〔農業〕伊勢平野と上野盆地のほかにはまとまった人、専業農家率は八・二 % 。農業粗生産額は一六四九億円四九億円 ( 全国六位 ) をあげる水産県である。伊勢湾の漁業 平地が少なく、県土面積に対する耕地率は一三・三 % ( 一九で、うち米四〇・五 % 、畜産二八・四 % 、蔬菜一三・一 % 、はイワシ、イカナゴなどをとる船引網、カレイ、アナゴ、貝 類の底引網、沿岸一帯のノリ養殖などで、志摩半島から熊野 会 ) で、うち水田が七六・五 % で畑は少ない。第二次大戦後果実五・七 % などとなっている。 くしだ 灘沿岸ではプリ定置網、カツオ、マグロの巻網、敷網、カッ 〔林業〕櫛田川、宮川の上流は吉野林業の、尾鷲地域は紀州 の激しい経済構造の変化のなかで三重県農業も大きく変わっ はえなわ たくあん た。かって伊勢平野の春を黄色に染めたナタネや、伊勢沢庵林業のそれそれ伝統を継ぐ優良材生産の先進地である。林野オの一本釣り、マグロの延縄などの漁業が行われる。志摩半 島沿岸には現在もアワビ、サザ工な まと CO 8 0 ー ) っ 0 0 ー ) っ 0 1 ー 0 8 「 / 1 ーっ 0 っ 0 「 / っ 0 0 L.n つ」 (. 0 4 ・ 数 ー 0 " 0 8 ー 8 ワ 0 00 0 -4 【 0 ~ 亠 . (. 0 0 ・ ) 「 / どをとる海女漁業が盛ん。一方、的 4 ・ 0 【う ) L-n ( 0 っ′」 1 ー - 4 ー L.n O つ」 O (. 0 っ「 / 一 8 0 っ 0 -0 8 -4 8 つ / 8 つんワ咸 / 0 ィー - 4 一 帯 ゃあご 8 ー 1 -4 ( 0 ー 8 0 ー 1 ▽ ▽▽▽▽ ▽ ▽ ▽ ▽▽▽▽▽ 世 -4 ーっっっ 0 1 -4 1 11 矢、英虞、五ヶ所などの入り江では -4 っ 8 11 ワ】 1 よ「 / 11 ・ 4 t-—っ 0 -4 っ っ 0 8 0 11 「ームロ っ 0 -4 -4 ・ -4 -4 ー 0 0 0 8 , 1 っ 0 -8 ワ」 ワ朝 LO 真珠、ハマチ、タイなどの養殖漁業 1 0 っワ】 0- 8 8 ワ 00 0 1 1 よ -4 っ 0 00 4 日冖 み ー八 1 人ー 8 ワ」ワ】 8 4 ワ】ワ】 0 《 0 8 「 / 1 人 0- 8 っ 0 / 0 《 0 0- -0 -8 ワ】 4 が行われている。とくに真珠は、御 1 よ 11 1 よ 11 ワ】 きもと 00 0 -4 ワ」 -8 -0 「ー 1 人 1 人 8 -4 8 っ 0 戸 0 1 ム 00 -8 / 木本幸吉が養殖生産に成功したこと -4 0 ー -8 ー「ー戸 0 ー戸 0 0 8 ー 11 ・ 4 戸 0 11 戸 0 1 よ -8 LO 1 積 、 1 ワ】 1 よ -4 0 8 戸 0 L.n 、 .0 ワ / -4 -8 0- ( 0 ワ】っ 0 2 で名高い 面 4 11 1 よ 0 0 ) 《 0 00 ワ】 11 1 人 -4 ー 14 一 4 ・ 11 、ー人 1 地 〔鉱工業〕鉱業はほとんどみるべき 内 4 ・】 4- ′ 4 ・・・っ 0 っ 0 月」ー 4- っ 県 0 、 ) O つ」 0 4 ・ O (. 0 0 ・ ) ー - O (. 0 (. 0 ( 、 0 図引 O LiJ 【尸「」冖こ一こ O L.L 」 3 5 地索 咸のっ 0 0 ) 【 0 (. 0 ) (. 0 ものがない。鈴鹿山脈藤原岳の石灰 ▽ ▽ ▽▽▽ ま 6 岩が小野田セメント藤原工場に利用 し ま 6 わ む らの、つま まがや や だわがらきみたせとみ ペむなまみまう されている程度である。江戸期に お ゃなははわど やたまたばんんおせ たそおやがやまおがおまま -0 1 よ 1 人ワ《 0 -4 11 0 -4 地 はった 0 L.n 8 っ 0 1 よー 4 ・、 1 《 0 ワ】 あしおなあしは だしあ ききみみみききう おせみわたふおななおきわみおあ ロ、′ 0 4 8 ー -8 4 t— - -0 00 、 1 11 銀・銅山として栄えた治田鉱山 ( 北 少 ・入 - ( ・ 0 0 4 0 ・ 4 -0 8 亠 1 十 4 LO 0- 11 【 0 ワ】っワ朝ワ ~ 00 宀石 勢町 ) 、平安から室町期に大量の水 村 町台和川会城見俣勢島宮勢会園内山賀山ケ山賀山摩島王摩児部牟伊山牟浜宝和殿 銀を産した丹生鉱 ( 勢和村 ) 、一九 郡大勢宮度玉二小南南大紀度御大阿伊阿島大名青志浜大志阿磯北紀海南御紀紀鵜を LO (. 0 0 LO 8 ワ】ーワ ト 6 七八年まで硫化鉱、銅鉱を産した紀 8 8 L.n 0 0 ) 0 L.n 8 っ 0 つ」 0 こ 「 / 8 L-n っ 0 4 》つ」 0 ・ ) CO 1- ー -8 -4 0 C-D 11 ー 8 っ乙 8 (. 0 ワ」ワ」 1 ーフ」 O 4 4 ・つ乙つ」 0 0 ) っこ っ 0 8 LO 8 O ワ」 0 (. 0 5 州鉱山 ( 紀和町 ) などが知られてい ▽ ▽▽ ▽▽ ▽ ▽▽▽ たが、いずれも廃鉱となった。 っ -8 00 戸 0 00 t-— -8 1 よ 戸 0 0 0 0 11 -4 尸 0 0 -4 ・ -4 L..O ワ】 -8 っ 0 CO ワ ワ 4 0 0 、 1 、 1 11 1 人 1 人 0 , 1 1 人 0 1 人 1 ・・ 1 人口 -8 1 よ《 0 4 《 0 8 《 0 っ 0 《 0 1 よ 0 ー 8 0 -4 ・ 日 三重県の工業製造品出荷額は五兆 っワ】 4 7 率 8 っ -8 / -0- 0 t— 0- 0 0 減 ′ィー 4 8 ワ 1 -4 ワ】 00 0 11 1 8 1 よ、 1 11 11 1 人 、 1 ワ 11 1 人 11 増 二三一一億円 ( 一九会 ) で全国一四 施 11 《 0 《 0 -8 1 よっ 0 ワ」 -0 っ L.n 1 よりん - -0 《 0 / 《 0 00 《 0 1 人 -0- 査位。業種別では、輸送用機器、電気 積 11 11 1 よ 1 人、ー人 11 11 1 よ 11 11 1 ー・ 1 人 1 ー 市 -8 -4 ワ】っ 0 ー【 / L.n 8 面 -4 1 よ【 / 1 よ 0 -8 りん -4 ワ】《 0 1 よ《 0 一 -0 9 。機器、石油・石炭製品、食料品、機 年 CO っ 0 っ 0 CO っ 0 フ」 っ 0 44- 4 ・つ 0 月っ乙 / 廾っ乙っ乙っ 0 L.n っ乙っ 0 内 4 ・ 4 ・ 8 械器具の順となる。一方、県内を北 地索 覧地索 0 し (-) O 勢、中勢、南勢、伊賀、東紀州と五 ち 人 ま 、つ え んんか カ んんら 地区に分けると、北勢が群を抜いて 村 な わ か の の ひごか げのうとしすしさしもぎななた さなのかりせや しざペせペあ 町 す わどがそなくない うしえもすさわすきけわ のさちらちく れ っせつわえすばわめはまさ 現 高く、以下中勢、南勢の順で、南へ ひ くたなき し力いはうみみ いたため まくうすなおかとく げあみ いだとふみこくあかすせあか 市 4 下るにつれて低くなる。北勢は中京 年 名 市 〒」〒」 8 田 - 田 - 工業地帯の一角をなし、四日市港を ん重名市日勢阪名野鹿張鷲山羽野居町名度島曽弁勢弁安員原重野町日越鹿町芸芸濃濃里志良志山野雲杉南南高気気和 み・三市津四伊松桑上鈴名尾亀鳥熊久郡桑多長木員北員大東藤三菰楠朝川鈴関安河安美一香一白嬉三美飯飯飯多多明注抱えて第二次大戦前から繊維、鋳 2 人口密度 ( 人 /km2) 1 482.4 1 334.2 592.6 561.4 1 650.7 312.6 842.0 433.5 151 . 6 319.5 264.2 97 . 5 570.5 面 (km2) ( km2 ) 55 .14 53 . 60 306.01 「こっ 0 っ¯' 冖こ LLJ ロ」 47 . 56 11 381 33 . 04 13 743 12 . 19 6 307 っ ") イ 4- っ 4 っ 0 OO 内 4- 月 7 300 80 . 59 ( し っこっ 0 っ 0 っ 0 108.68 O 8 667 なだ おわせ LLJ LLJ 【に「」 LL 」 76 . 35 E 3 240.74

5. 日本大百科全書 22

まつもと 巻 ( 一九三三・松本市 ) ▽『観光の松本シリー ズーー史蹟文化財編』 ( 一九七 0 ・松本観光協会 ) 囮五万分の一地形図「和 田」「諏訪」「松本」 「塩尻」 の閣 平守 松本奎堂まつもとけい 本天 松城るどう ( 天三一ー六 lll) 幕末 , 本誇 み松をの志士。三河国 ( 愛知え いんなみこれしげ かりや 望るさ お本聿呼叶 をえ古県 ) 刈谷藩用人印南維成 々びの の次男。松本氏に養われ 山そ目 のに番る。名は初め孟成、のち① ~ ・ ス央 3 プ中で衡、通称謙三郎、奎堂は とうえん おわり ル国 クた全号。尾張藩儒臣奥田桐園 しようへい に学び、のち江戸昌平 どてで こう なめ閣 , 占守黌に学ぶ。一八五九年 方を天 ( 安政六 ) 名古屋に私塾 上置存 佑位現を開設したが、二年後、 岳要造大坂に出て昌平黌の同窓 れんのすけおかろくもん 念重築 常らのの松林廉之助、岡鹿門と そうしよう ) 一う 3 双松岡学舎を開塾。塾 ゼんじよう 西古 文生に盛んに尊攘論を説 し年 く一方、京都で交わった わかしゆがた たちゃく とらたろう てっせき 市と 子から若衆方、さらに立役に転じた。江戸に下 吉村寅太郎、藤本鉄石ら 松本剛士口まつもとごうきち ( 天六一一 ぶんきゅう たんば 松中は と討幕挙兵を計画。六一一一明治・大正期の政治家。文久二年八月丹波国って四世市川団十郎の門弟となり、一七七二年 やまと たなばた ( 安永一 ) 四世幸四郎を襲名。芸熱心な名優で、 料を収蔵し、七夕人形、民間信仰資料、農耕用年 ( 文久三 ) 八月一三日、大和行幸の朝議決定 ( 兵庫県 ) に生まれる。旧姓今井。維新後上京。 でんけんじろう により長州藩が討幕を実行する構えをみせると警察畑を歩み同郷の田健治郎の知遇を得る。一九四年には極上上吉の最高位に位置づけられ 具の各コレクションは国の重要有形民俗文化財 じつあく わ ) 一と 八九八年 ( 明治三一 ) 憲政党に入り、一九〇四た。和事、実事に本領があったが、晩年は実悪 それに呼応し、一四日、吉村、藤本ら同志三〇 に指定されている。 てんちゅう あめ なわて 年 ( 明治三七 ) 郷里より代議士に当選。一六年も演じた。曽我十郎、藤屋伊左衛門、帯屋長右 一月一〇日には女鳥羽川に沿う縄手通りに飴余名とともに天誅組を組織、吉村らとともに すけつわ ていしん ) 、じよう 市が立つ。かって上杉氏が武田治下にあった松総裁となり大和五條に挙兵した。しかし八月十 ( 大正五 ) より田逓信相 ( ついで台湾総督 ) の衛門、工藤祐経などが当り役だった。〔五世〕 やまがたあり 八三 0 四世の子。立役から実悪に進み、 秘書官。こうしたなかで田の背後にいる山県有 ( 一七六四ー一 八日の政変により事態は急変、朝議とりやめと 本地方の住民に塩を送った故事にちなむ塩市が こまそう さいおんじきんもち わしかぐち しおだわら 一八〇一年 ( 享和一 ) 前名市川高麗蔵から五世 なり追討を受け、鷲家ロの戦いに敗死。著書に朋と通じ、一方では西園寺公望とも親しくな 前身といわれ、塩俵を模した飴が売られる。 ようばうかしし り、政界の表裏を知る消息通として活躍。それを襲名した。容貌魁偉で実悪役者にふさわし 市街の善光寺西街道と野麦街道の分岐点には『奎堂文稿』『奎堂遺稿』がある。〈奈倉哲三〉 なまこ うしつなぎいし く、俗に「鼻高幸四郎」とよばれて人気の高か を克明に記した日誌は著名である。二七年 ( 昭 牛繋石が残り、また、生子壁の古風な建物も回森銑三著『松本奎堂』 ( 中公文庫 ) つるやなん った名優である。写実的な芸風で、四世鶴屋南 和一 l) 貴族院議員に勅選されたが、昭和四年三 あって城下町らしい風情を漂わせる。一方、松松本謙三まつもとけんそう ( 天究ー一九合 ) ぶんかぶんせい きぜわ しもがかほうしよう 〈阿部恒久〉 北の生世話の演技に新生面を開き、文化・文政 月五日死去。 能役者。下掛り宝生流ワキ方。富山県に生ま 本駅前は再開発により近代的建物が並ぶ。 のぶよし はやし 東部の美ヶ原高原一帯は八ヶ岳中信高原国定れる。能楽囃子方養成に大功のあった池内信嘉回岡義武・林茂校訂『大正デモクラシー期の政期 ( 天 0 四 ~ = 0 ) の江戸劇界の重鎮となって活躍 こうのもろなお につきだんじようたけち はち 治ー。。松本剛吉政治日誌』 ( 一九五九・岩波書店 ) した。仁木弾正、武智光秀、高師直、松王丸、 公園の一部で、周辺には美ヶ原温泉がある。鉢の勧めで上京、一一歳で下掛り宝生流一〇世宗 たへいじ なおすけごんべえたてば かぶき しん めいさっ 1 」ふく しんごん ぶせ まつもとこうしろう歌舞伎俳直助権兵衛、立場の太平次などが当り役。〔六 松本幸四郎 伏山北西麓の牛伏寺は真一一一一口宗の名刹で、うしぶ家宝生新に師事。宝生新の没 ( 一九四四 ) 後は、相 ・」うらいや せ厄除観音として知られる。市街北部の浅間温弟子の宝生弥一とともにワキ方を代表し、重厚優。屋号は代々高麗屋。〔初世〕 ( 一 ~ 毟四ー一七 = 0 ) 世〕 ( 天一一一ー四九 ) 五世の子。一八四四年 ( 弘化 しもう一 おみがわ みすず ふじまかんえもん 泉は長野県 0 代表的温泉 0 一 0 。東方 0 美鈴湖で存在感」優れた舞台を勤めた。一九 ~ ( ~ 【年幼名松本小四郎。下総国 ( 千葉県 ) 小見川 0 生一 ) ~ ( 世を継ぐが、大成をみなか 0 た。〔七世〕 ( 昭和四一 ) 重要無形文化財各個指定 ( 人門国まれと伝える。一七一六年 ( 享保一 ) 幸四郎と ( 一 00 ー一九四九 ) 幼年のころ二世藤間勘右衛門の は天然のスケートリンクになり、湖畔には浅間 じっ′一とあらごとぶどう 1 一と かすみ 養子になり、九世市川団十郎の門に入る。市川 温泉国際スケートセンターがある。このほか入宝 ) 。ワキ方の主張を生かした霞会を主催、シ改名。実事、荒事、武道事が得意で、二世市川 とびら 山辺、扉などの静寂な温泉がある。〈小林寛義〉テの名人を迎えて歴史に残る名舞台を提供し団十郎と並ぶ名優とたたえられた。〔二世〕四金太郎・染五郎・高麗蔵を経て、一九一一年 回『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』全七冊 ( 一九た。また都民劇場の組織に協力、能の普及に努世市川団十郎の前名。〔三世〕五世市川団十郎 ( 明治四四 ) 七世を襲名。容姿・音調に優れ、 〈増田正造〉の前名。〔四世〕 ( 一七三七ー天 0 一 D 京都生まれ。色時代、世話、所作事のいずれもよくした。師団 五七 ~ 七六・松本市教育会 ) ▽「松本市史』全一一めた。 やったけ とも 松本幸四郎 ① 5 世当り役の一つ「筅筏穀』の仁木彈正。 まゆ はなびし 定紋「四ツ花菱」をあしらった衣装は , 左の眉 のほくろとともに , 型として今日まで引き継 がれている。 3 世歌川豊閠画東京早稲田大 学演劇博物館 ② 7 世師 9 世市川団十郎直伝の「新歌舞伎十 八番」などに独自の風格を示した。「大森彦七』の 彦七 ③ 8 世死の前年初世白鸚を名のり「忠臣蔵七 段目』の圭莨芝莇はその最後の舞台になった

6. 日本大百科全書 22

るモーツアルト / 年譜 算用数字は月・日または月を表す あ ・幻午前八時ザルップルクに誕生 も一七六一五歳。最初のクラピア作品を作曲 一実一一 1 最初のミュンヘン音楽旅行 ( 二四日 間 ) 9 父に連れられ、第一回ウィーン ・シェーンプル 旅行 ( 約四か月 ) ン宮殿で御前演奏。皇女マリ・アント アネットに求婚したというエピソード ーロンドン旅行 ( 約三年半 ) 一実三 6 ・ 9 パリ 一七六四最初の出版作品「クラピアとバイオリ ンのためのソナタ』 4 イギリスに渡 り′・ ( し ヾッハ ). 知一リ・ムロ、つ 一セ奈腸チフスにかかる 一実七 9 ・ⅱ第一一回ウィーン旅行 ( 約一五か 月 ) 天然痘になる ジングシュピール「バスティアンとバ スティエンヌ』、「荘厳ミサ曲ハ短調』 ( 通称「孤児院ミサ」 ) 一実九ザルップルクの大司教宮廷のコンサ 怩・第 ートマスターに就任 ( 無給 ) 一回イタリア旅行 ( 約一五か月 ) ⅱローマ到着。聖ペテロ大聖堂の 一耄 0 4 ・ 秘曲を採譜したというエピソード 6 教皇クレメンス一四世より黄金拍車勲 怩オペラ「ポントの 章を受ける 王ミトリダーテ』ミラノ初演 一耄一 8 ・第一一回イタリア旅行 ( 約四か月 ) 一耄 = 8 サルップルクで有給のコンサートマ スターとなる ・第三回イタリア 旅行 ( 約四か月 ) 一耄三 3 イタリアでの就職活動に失敗し、帰 7 ・第一二回ウィーン旅行 ( 約一一 郷 か月 ) 。弦楽四重奏曲第八ー一三番 ( 通 称「ウィーン四重奏曲」 ) 。交響曲第一一 五番 一耄四 4 交響第一一九番怩・ 6 オペラ「偽 りの女庭師」上演のためミュンヘンへ 赴く ( 約三か月 ) 一耄七 8 サルップルク宮廷への休暇願受理さ れす、彼自身による辞職願提出 9 ・ 職を求め、母とマンハイムーパリ旅 行 ( 約一六か月 ) 。アウクスプルクで従 妺マリア ( べーズレ ) と知り合う ーの次 1 マンハイムで写譜家ウェー 女アロイジアに恋 3 父の叱責にあい 求職のためパリへ 6 交響曲第一二一番 」パリ初演 7 求職果たせす。母 死去 8 父によるサルップルク宮廷へ の復職連動成功 ②気 ① ③ モーツアルト の第一胃はミノ、第二胃はハチノス、第三胃はの年に著した『バイオリン奏法』は、その分野 6 センマイ、第四胃をギアラとよぶ ) は切り開の古典的文献である。 き、塩をつけて内側をよく洗い、ゆでてから用〔幼・少年期ー一七七三年まで〕幼少時から父 すなぎも いる。ニワトリの筋胃は砂肝とよばれ、切り開親によって天才教育が施されたモーツアルト は、すでに五歳のとき最初の作品を書いたとい いて砂袋を取り出す。煮込み、焼き物にする。 腸 ( ヒモ。小腸をヒモ、大腸をシマチョウ、直われる。しかし、こうした最初期の作品はほと 腸をテッポウともよぶ ) は開いてぬるま湯で洗んど父の書いた原稿の形で伝わっており、それ って油抜きし、よくゆでてから焼き物、煮込みらにおいて父親が果たした役割は推測の域を出 ない。父レオポルトは息子を音楽に関心の深い に用いる。沖縄ではプタの胃、小腸、大腸をま なかみ とめて中身とよび、柔らかくゆでてせん切りに 人々の前で披露し、名声を得ようとし、また同 し、吸い物仕立て ( 中身の吸い物 ) にしたもの時に、多くの刺激を息子に与えて、その実りの しゆくぜん は祝膳料理に欠かせない。脳髄 ( プレンズ、豊かな発展を期待した。たいていはこうした目 ミソ ) は豆腐状のもので、薄い塩水の中で血管的で企てられたたび重なる旅行が、彼の生涯を を取り除き、ゆでてから用いる。フライ、てん彩っている。延べ日数にするとその旅行は一〇 ぶら、バター焼きにする。尾 ( テール ) はウシ年以上にも及び、生涯の四分の一以上が旅の間 に過ぎていったといえる。ことに一七七〇年代 の尾が用いられ、毛を取り除き、関節ごとに切 り分けて用いる。市販品では皮を取り除いて節までに行われた相次ぐ旅行は、当時ヨーロッパ の各地でそれそれ独自に展開していた音楽を吸 、【一・、、、 ~ 切りしたものが多い。オ「クステールシチー などの煮込み、スープにする。そのはか、肺臓収する絶好の機会となったし、その影響が刻々 せん ( 鳥以外 ) 、胸腺 ( 子ウシと子ヒッジのみ ) 、血と変化するさまは、その作品にはっきりと跡づ 液、耳、足、子宮 ( コ。フクロ ) 、アキレス腱、けることができる。しかしもちろん、こうした 皮など多くの種類がある。いずれも、洗う、ゆ少年時代からの肉体的な消耗が、早逝の遠因を つくったことも否めないであろう。また、こう でるなどして下処理し、焼き物、煮込みなどに 用いる。もっ料理は新鮮な材料を入手し、香辛した数多い旅の間に家族と取り交わしたおびた だしい手紙が、彼の生活ぶりや考え方、作品成 料、みそ、しようゆ、酒類などを用いてにおい 立の事情、また一八世紀後半の音楽情況などを 消しをする。市販品は下処理したものが多い もっ料理としては各部位を用いた焼きとり ( 串よく伝えてくれる。 六歳の誕生日の前後に行ったミュンヘンへの 焼き ) 、ホルモン焼き ( 焼き肉 ) 、煮込みなどが 外食で親しまれている。脳髄、レバーなどは新二四日間の旅行が最初のものであったが、この ケルル のルアもイ ろンサア バⅱ画ポリ姿イ ときに関してだけ記録が残っていない。翌一七 鮮なものを生食する場合もある。 ルオマのテ ン 年・完一弾トテレ 六三年六月 ( 七歳 ) に開始されたパリーロンド 〔栄養〕もつはタンパク質のほかにビタミン、 フ未モをルン父ナ丿ャ館 ン ン旅行は、六六年一一月 ( 一〇歳 ) までの三年 アアモ ミネラルの宝庫といわれる。とくに肝臓は他の シ術 ン 美 一彩ク館ビッルア もつより栄養価が高く、ビタミン < では五食半近くにも及び、生涯で最大の旅行であった。 像ョ油ル物ラ一カ画姉、るデ 肖兄のプ博クモ彩とえン 音楽の重要な中心地を巡りながら、各地の宮廷 べれば、ほば一日分の < がとれる。鉄は肝臓に みコ ①義画ット②の年水 とくに多く、心臓、腎臓にもかなり多い。脂肪で演奏し、教会でオルガンを弾き、道中や仮住 当→宿驪の会 の多いのは舌、胃腸、豚足、尾など。ビタミンまいの家で作曲をする、という旅であった。ミ ゲ協 ュンヘンをはじめとするドイツ各地を経て、出 〈河野友美〉 ン友ではのはかに、が多い ラ楽 ン モーンアルト Wolfgang Amadeus Mo- 発から五か月すこしたってバリに到着、五か月 ろイ zart ( 一七五六ー九一 ) オーストリアの作曲家。西滞在する。同地で活躍するショーベルト JO- ー六七 ) らドイツ人作曲 洋音楽の歴史が生んだ最大の大家の一人。一月 hann Schobert ( 一七三五ころ 二七日、ザルップルクに生まれ、九一年一二月家たちの影響を受け、バイオリン・ソナタを作 フ ) が彼の最 ~ フ五日、ウィーンに没する三六年にわずかに満た曲、この作品集の刊行 ( 一七六四・パリ ェク 初の出版となる。続いて六五年七月までロンド ない短い生涯に、数多くの名曲を残した。父レ タく ンに一五か月滞在するが、とくにここではヨハ オポルト Johann Georg Leopold M. ( 一七一九 スづ ・、ンハの・ ン・クリスチャン・バッハ・・ ー ) はザルップルク大司教の宮廷楽団のバイ , , 朝ノ、ン基 オリン奏者 ( のち副楽長 ) で、作曲家としても末子 ) と一家をあげて親しくつきあった。こう 妻画 ③原活躍。また三男四女の末子ウォルフガング誕生して、かってミラノにいた・ o ・バッハを通 え

7. 日本大百科全書 22

もすくわ ヾールも撤去された。また 路となる ) 。さらに第三の外壁ゼ壁とゼムリヤノイ・ノ ムリヤノイ・ / ヾール ( 「土塁」 ) ポリショイ劇場 ( すでに前世紀に活動を始めて 8 画 が一五九一 ~ 九二年につくられ いた ) やマールイ劇場、調馬場 ( マネージ ) な 右 央 た。これは当時のモスクワの境界ども建造された。 の 中 線でもあったが、一九世紀前半に 市の居住条件も改善された。とくに公共交通 世 叶る撤去され、今日サドーポエ環状道の発達が顕著であった。一八四〇年代には最初 域「て路となっている。町の周辺には要の公共交通機関である大型四輪馬車が、七〇年 塞化された修道院 ( アンドロニコ代には馬車鉄道が、九九年には市街電車が走り のま 4 キにフ、ノボジェービチー、ドンスコ始めた。人口も一八二七年には対ナポレオン戦 南壁 イなど ) が配置されていた。今日争前の水準を超え ( 二七万五〇〇〇 ) 、六二年 ( 左の 、岸央重赤の広場の南端に独特な姿を見せ には三一万七〇〇〇となった。農奴解放 ( 天 右中 4 と ているワシリー大聖堂もこのころ六 l) 後の人口増はさらに急で、九七年には一〇 ンと イワン四世 ( 雷帝 ) 治世下に建立〇万を超えた。人口の急増は資本主義発達期の ワリル クム一 された。市はリューリク朝断絶後モスクワの経済的・文化的発展の反映であった モク の動乱時代の一六一〇 ~ 一二年が、他方ひすみも出てきた。二〇世紀初頭にお た。イ 見景ノ に、ポーランド軍によって占領さ いて九〇 % 以上の家屋は木造の一ないし二階建 ら全ャ かワリ れ大きな被害を受けたが、ロマノてであったし、都市整備の恩恵を受けたのは中 側クム 心部に住む人々だけであり、七〇 % 以上の住民 内スゼフ朝成立後まもなく復興され、市 のモ 域もゼムリヤノイ ・バールを越えは生活上の基本的な設備もない狭い住居にひし 史ンのド 歴リ代ロ て発展し、一七世紀なかばには人めいていた。 ム年ゴ ワレ ロも二〇万に達した。 モスクワは、ロシア革命が開始された一九〇 ククイ ス ピヨートル大帝治世の一七一二五年に続き、一七年にもロシア革命の主要な舞 上下ノ モ 年、首都は新たに建設されたペテ 台となった。同年の十月革命後、一九一八年三 ルプルグ ( 現レニングラード ) に移された。だ 月一一日、ソビエト政権はベトログラード ( ペ た、モスクワだけでなく、モスクワ都市圏の整後半、一二三八年より続いたキプチャク・ハン 備も考慮して計画が進められている。しかし計国 ( タタール ) 支配に対し、ロシア人の反タタがモスクワは第二の首都として依然として経テルプルグ ) からモスクワへ移り、モスクワは 画どおりにはかならずしも進んでいないのは、 ール闘争が起こったが、モスクワはその中心的済・文化の中心であり続けた。すでに一八世紀ふたたび首都となった。内戦と干渉戦の危機を モスクワの膨張を防ぐため早くから人口制限が役割を果たすようになり、一三八〇年にはモス初頭には一般市民のための学校教育の基礎が置乗り越えたソビエト社会主義共和国連邦は、モ ドンスコイがクリコボのかれ、一七五五年にはロシア最初の大学、モス スクワを拠点に社会主義建設に乗り出した。一 行われてきたにもかかわらす、モスクワとそのクワ大公ドミトリー・ クワ大学が創設された。最初の公共劇場が開設九四〇年には、モスクワの全工業生産は第一次 周辺への人口集中が計画を上回る速さで進んだ戦いで初めてタタールの大軍を撃ち破った。 一五世紀後半のイワン三世治世下に、ロシアされ、印刷新聞が発行されたのもこの地におい 大戦前 ( 一九一三 ) のそれの二一倍に達した ( 金属 ことからもわかる。すでに一九八〇年代初めに 一九九〇年の計画人口に達していて、計画の再がキプチャク・ハン国から独立するとともに市てである。遷都後も一八世紀末までの通算二〇加工業は実に九六倍であった ) 。一九三五年に 検討が必要な段階になっている。〈中村泰三〉の急速な発展が始まる。クレムリンが今日みら年間にわたり、政府と中央機関の多くがこの地は地下鉄の建設が始められた。人口も増え、三 〔歴史〕一一世紀末にすでに相当規模の集落がれるような形になったのも、基本的には彼とそで活動した。市域も拡大し、市の境界は一七四九年には四五四万に達した。第二次大戦 ( 大祖 二年に築かれた土塁カメルーコレシスキー 国戦争 ) はソビエト国家に大きな被害をもたら 存在していたことが知られているが、市名が年の子ワシリー三世の治世下のことである。この ール ( 全長三七キロ余 ) となった。 した。ドイツ侵入軍はモスクワの西方数十キロ地 代記の記録上に最初に現れるのは一一四七年の時期、商工業の中心はクレムリンの東方に広が 一九世紀に入ってもモスクワの重要性は衰え点で撃退されたが、戦争による人的・物的損害 る地域で、大ポサードとよばれた。それは一六 ことである。当時それはスズダリ公ューリー・ ドルゴルーキーの領地であったので、今日では世紀にはキタイ・ゴロドとよばれるようになるなかった。そのことは一八一二年にロシアに侵は甚大であった。 それだけに戦後の復興と発展は目覚ましかっ が、そのなかの「市場」 ( 一七世紀中葉から入したナポレオン軍が一路モスクワを目ざし、 彼が市の創始者とみなされている。 「赤の広場」とよばれるようになる ) には多数占領したことからもうかがえる。このときモスた。すでに一九五〇年には、モスクワの工業生 モスクワの本格的な発展は、アレクサンド クワを襲った大火は一週間続き、全市の四分の産高は戦前 ( 一九四 0 ) の二倍に達し、六四年には ル・ネフスキー公の末子ダニールが一二七六年の店舗が並び、活発なにぎわいをみせた。 三が失われた。侵入軍は三九日後に撤退した四・九倍となり、文字どおり世界有数の大都市 一六世紀のモスクワは、外敵 ( とくにクリミ ごろここをモスクワ公国の首都とするに及んで となって、今日に至っている。↓モスクワ大 ア・タタール ) の侵入に備えて堅固な防備を施が、それに先だってクレムリンの一部を爆破し のことである。公国は地理的利点と歴代諸公の 〈栗生沢猛夫〉 された。クレムリンはいうまでもなく、キタた。戦後ただちにモスクワ市建設委員会が発足公国 巧妙な内外政策により急速に発展するが、モス イ・ゴロドも一五三五 ~ 三八年、さらにその外し、モスクワは急速に復興した。クレムリンの回・・ギリャロフスキー著、村手義治訳 クワ市の発展もそれと不可分に結び付いてい あんきょ 『帝政末期のモスクワ』 ( 一九会・中央公論社 ) た。すでに一四世紀前半のイワン一世治世に 側のべールイ・ゴロドも一五八六 ~ 九三年に石西側を走るネグリンナャ川が暗渠となり、その ▽レフ・コロドヌイ著、宮沢俊一訳『モスク は、モスクワはウラジーミルにかわって北東ロ の城壁で囲まれた ( これは一八世紀末から一九上にアレクサンドロフスキー庭園ができたのは シアの政治・宗教上の中心となった。一四世紀世紀初めに撤去され、今日のプリワール環状道このときのことである。べールイ・ゴロドの城 ワ物語』 ( 一九七九・ナウカ ) 1 一第・

8. 日本大百科全書 22

〔植物と万葉人の生活〕花は染色にも用いられ とが求められたのだといえる。 回高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古クラ、ウッギ、ツッジ、アジサイ、ナシ、セン た。カキッパタ、ツュクサ、ケイトウ、コナギ 典文学大系 4 ~ 7 万葉集』 ( 一九毛 ~ 六一一・岩ダン、ネムノキの一二種があり、庭木としては 〔伝来・研究〕九五一年 ( 天暦五 ) に『万葉 はなずり くん 集』の歌に付けられた訓を古点とよび、このと 波書店 ) ▽小島憲之・木下正俊・佐竹昭広マツ、タケ、カエデの三種がある。また、草花などの花は、直接にすり付ける「花摺」によっ にはナデシコ、ユリ、ススキ ( ハナススキなて染色した。このほか、アカネ、ムラサキ、ヤ き訓み残された歌にのちに付けられた平安時代 校注『日本古典文学全集 2 ~ 5 万葉集』 / ンノキも染色 の訓を次点という。平安時代の古写本中最古の ( 一九七一 ~ 七五・小学館 ) ▽青木生子他校注『新ど ) の三種がある。このうち、ススキは積極的マアイ、クヌギ ( つるばみ ) 、、 むらさき かつらのみや に植えられたかどうかは不明であるが、いちお に使われている。巻一二には「紫は灰さす 桂宮家旧蔵の桂宮本万葉集には古点のおもか 潮日本古典集成万葉集』五冊 ( 一九七六 ~ やそちまた あ つばきち らんし げん げが残され、その後の書写になる藍紙本、元 新潮社 ) ▽中西進編訳『万葉集』四冊 ( 講う庭の植物に含めると日本の自生植物は一八種ものそ海石榴市の八十の衢に逢へる児や たれ りやく あまがさき るいじゅう 暦校本、金沢本、天治本、尼崎本、類聚古集 談社文庫 ) ▽五味智英著『増補古代和歌』となる。これに前出の渡来植物一一種を加えた誰」と歌われており、ムラサキはツバキの灰で などは次点を伝える。次点本で『万葉集』一一〇 ( 一九〈七・笠間書院 ) ▽伊藤博著『万葉集の構二九種が、万葉人の庭に植えられた樹木と草花媒染されていたことがわかる。 万葉時代の繊維はアサがおもに使われたが、 巻のそろった写本は現存しない。新点は、鎌倉 造と成立』上下 ( 一九七五・塙書房 ) ▽大久保ということになる。 せんがく フジの繊維も作業着として残されていた。巻三 時代中期に仙覚が諸写本を校合し訓と本文を改 正編『日本文学全史 1 上代』 ( 一 . 九天・学燈〔万葉人の花好み〕庭に植えられた二九種のう ま 日 めた際、古点と次点の訓の付けられなかったす 社 ) ▽稲岡耕一一著「万葉表記論』 ( 一〈実・塙ち、樹木は一三種、草花は七種で、圧倒的に樹には「須磨の海人の墲焼きの藤衣 べての歌に施された訓であり、西本願寺本はそ 書房 ) ▽大久保正著『万葉集の研究史』木のほうが多い。これは、野生種を含めて考え遠にしあればいまだ着なれず」と詠まれてい ると、いっそうはっきりする。花の美しい自生る。コウゾの樹皮からも繊維がとれ、縄 ( たく れを伝える最古の一一〇巻そろった完本で、現在 ( 『和歌文学講座貶』所収・一九七 0 ・桜楓社 ) しろたえ の樹木は一六種で、このうち一二種は栽培もさ縄 ) 、綱 ( たく綱 ) や衣料 ( 白細 ) にされた。 多くの注釈書の本文校訂の底本に利用されてい ▽稲岡耕二編『万葉集必携』 ( 一九〈一・学燈社 ) こもまくらす 1 」も たたみごも る。ほかに鎌倉時代末期から室町時代にかけて万葉植物まんようしよくぶつ『万葉集』に詠れている。これに対して花の美しい草は二〇種マコモの葉からは畳薦、薦枕、食薦がつくら すげがさすがまくら しし、その数は一六〇種ほどを数えるが、栽培されている形跡があるのはわれた。スゲも菅笠、菅枕に使われた。 書写された紀州本があり、のちに神宮文庫本、まれている植物を、 材は山林からの利用だけではなく植林によっ 細井本、温故堂本、大矢本、京都大学本、金沢である。万葉植物を知ることによって、当時のずかに四種である。万葉植物は、草本類が八一一 文庫本などもみえ、江戸時代になると活字本や栽培植物、渡来植物、食用・染料・繊維などの種、木本類とタケ・ササ類が七八種と、ほば同ても得ていた。巻一〇には「古の人の植ゑ すぎえ かすみ 木版本も出回るようになった。それらの伝本の有用植物、庭の花、野外で観賞された花、花の数となるので、明らかに栽培には花木好みが現けむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」 と詠まれている。タチバナは並木にされていた すべてに目を通すことは容易でないため、諸本飾り方など、万葉人の植物利用や関心が明らかれているといえる。この傾向は、個々の植物が やちまた たちばなかげ にできる。 し ( 巻二「橘の影踏む道の八衢に物をそ 歌にどのくらい詠まれているかという総数から の文字の異同を示して集成したものが一九二四 思ふ妹に逢はずして」 ) 、ヤナギも都の大路を 食用植物にはイネ、アワ、キビ ( きみ ) 、ムもっかむことができる。 年 ( 大正一三 ) から翌年にかけて出版された佐 万葉植物のうち、もっとも多く詠まれた植物飾っていた ( 巻一九「春の日に萌れる柳を ギなどの穀物、カプ ( あおな ) 、フュアオイ 佐木信綱他編『校本万葉集』である。 おほち はハギで一四一首、これに次ぐのがウメの一一取り持ちて見れば都の大路し思ほゅ」 ) 。 注釈書のもっとも古いものは仙覚の『万葉集 ( あおい ) 、サトイモ ( うも ) 、ウリ、ニラ ( く 万葉人は花を手折り、観賞し、飾ったが、室 八首、さらにマッ七九首、タチバナ六八首、サ 註釈』で、一二六九年 ( 文永六 ) の完成。そのくみら ) などの野菜、クリ、ナシ、モモ、スモ ゅうあ しりんさいようしト ` う・ クラ五〇首と続く。一方、草本類ではアシ五〇内にいけることはなかったようで、いけ花は一 後、由阿の『詞林采葉抄』があり、近世にはモ、ナツメ、タチバナ類などの果実があり、 かっこ きぎん しゅうすい しもこうべちょう 北村季吟の『万葉拾穂抄』 ( 一六九 0 ) 、下河辺長ずれも栽培下にあったと考えられる ( 括弧内は首、スゲ ( スガも含む ) 四九首、ススキ ( カヤ、首も歌われていない。室内ではわずかにユリの あぶら はなかずら りゅう けいちゅう 流の『万葉集管見』 ( 一六六一 ? ) 、契沖の『万葉当時の呼称 ) 。ほかにもミズアオイ ( なぎ ) 、コオバナなども含む ) 四七首が上位を占める。花花縵が詠まれているにすぎない ( 巻一八「油 だいしようき 代匠記』 ( 初稿本一六会、精撰本一六九 0 ) 、賀茂真ナギ、セリ、ノビル、ヨメナ ( うはぎ ) 、オケの美しい草ではナデシコが一位で二六首詠ま火の光に見ゆる我が縵さ百合の花の笑 かぎし ぶち かんじ かだあずままろ まはしきかも」 ) 。花縵のほか、挿頭華、結ひ ラ ( うけら ) 、スミレ、クログワイ ( えぐ ) 、ヒれ、オミナェシ一四首、ユリ一〇首、カキッパ 淵の『万葉集考』と『冠辞考』、荷田春満の そでこき のぶな へきあん 『万葉集僻案抄』と春満の講義を弟信名が筆録シなどの野草やマッタケ ( あきのか ) 、およびタ七首などがこれに続く。また、野の花の観賞垂れ、袖に扱入れ、袖に受ける、玉に貫くなど どうもう もとおりのりなが して花を身につけたり、飾ったりした。花縵や アシッキ、ホンダワラ ( なのりそ ) 、ミル、ワは季節に差があり、春の美しい草花はスミレ、 した『万葉童蒙抄』、本居宣長「万葉集玉の小 つきのおちば たちばなちかげ ひさおゅ オキナグサ ( ねっこぐさ ) 、カタクリ ( かたかご ) 挿頭華に使われた植物にはヤマプキ、フジ、サ 琴』、荒木田久老『万葉集槻落葉』、橘千蔭カメなどの淡水藻、海藻も食用とされていた。 りやくげ ゆずる クラ、ハギ、ウメ、ヤナギ、ショウブなどがあ くらいしか登場しない。これに対し、夏から秋 『万葉集略解』、岸本由豆流『万葉集攷証』、橘海外から渡来した植物には、穀物や野菜のほ にかけては一五種の花の美しい草が詠まれ、り、女性よりも男性が飾ることが多かった。こ 守部「万葉集墨』と「万葉集檜嬬手』、富士か、観賞植物がある。渡来した観賞植物には、 を やまのうえのおくら みつえ ともしび 谷御杖『万葉集燈』、香川樹「万葉集桾解』、花木としてはウメ、モモ、スモモ、ニワウメ山上憶良の秋の七種の歌 ( 巻八「萩の花尾れらのことから、万葉人の花利用には現代とは おもむき ばなくずはな かもちまさずみ ( はねず ) 、タチバナ、カラタチ、庭木としては花葛花なでしこが花をみなへしまた藤趣を異にする面もあったといえる。 鹿持雅澄『万葉集古義』などがまとめられた。 はかまあさがほ なお、万葉植物を植栽する植物園には、国分 明治以後になるとアララギ派の歌人による『万シダレャナギがあり、草花としてはハス ( 自生袴朝顔が花」 ) も花を中心に据えた選択であ かすが 寺万葉植物園 ( 東京都国分寺市 ) 、春日大社萬 もある ) 、ケイトウ ( からあい ) 、べニバナ ( くる。ところが、『万葉集』には春の七草がなく、 葉集』の唱導と批評の活発化に伴い研究もいっ やまべのあかひと ま一・一と みふぐ そう盛んになった。木村正辞『万葉集美夫君れない ) 、ヤプカンゾウがあり、その数は樹木春の代表花であるスミレですら、山部赤人が歌葉植物園 ( 奈良市 ) などがある。↓植物園 ( 日 し みちやす 〈湯浅浩史〉 本の植物園 ) ったように摘み草の対象にされていた ( 巻八 志』、井上通泰『万葉集新考』のほか、橋本進七、草花四の計一一種である。一方、日本に自 こわれ やど さえきうめとも おりくちしのぶ 吉・佐伯梅友らによる国語学的研究、折ロ信夫生する植物のうち、宿 ( 屋戸、夜戸、室戸、屋「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野を回小清水卓一一著『萬葉植物と古代人の科学性』 ひとよわ かきっ ( 一空 0 ・大阪新聞社 ) ▽同著『万葉の草・ なっかしみ一夜寝にける」 ) 。厳しい冬を過 前、屋外と書く ) 、垣内、垣根、垣間、植える、 , フの民俗学的研究、岡崎義恵・高木市之助の文芸 よしえ 木・花』 ( 一九セ 0 ・朝日新聞社 ) ▽松田修著 よ論的研究、北島葭江らによる風土地理研究まで播くなどの表現を伴い、庭で栽培されていたとごした万葉人は、春にはまず、食用として草花 『増訂・萬葉植物新考』 ( 一九七 0 ・社会思想社 ) ん多彩な研究が行われ、第二次世界大戦後の研究みられる観賞植物がある。花の美しい木としてをみていたようである ( 歌の表記はすべて小学 ▽桜井満著『万葉の花』 ( 一九会・雄山閣出版 ) 2 はヤマプキ、アセビ、ハギ、ツバキ、フジ、サ館『日本古典文学全集・萬葉集』による ) 。 〈稲岡耕一一〉 まのための足場が築かれた。 ごと はぎ ふぢ た はひ

9. 日本大百科全書 22

省間の主管のもつれもあって第三回の大会から次世界大戦中から三菱色を強め、第二次大戦後田区神田駿河台一 〈喜多村和之〉 大日本体育会 ( 日本体育協会の前身 ) の主催と一九四五年 ( 昭和一一〇 ) には財閥解体、制限会回明治大学編・刊『明治大学百年史史料 じ なった。大会は各回ごとに競技種目を定める方社令の適用を受ける。四七年金融機関再建整備 編・通史』全四巻 ( 一九会 ~ 式で、ときには全日本選手権大会を兼ねること法に基づき相互会社として再出発、積極的に新明冶大正詩史めいじたいしようしし日 - 」うのすけ め もあった。一九三九年 ( 昭和一四 ) の第一〇回種保険、大型商品を開発し、法人市場を開拓し夏耿之介著。上下二巻。一九二九年 ( 昭和 大会から時局も緊迫さを加え、第二次大戦突入て安定成長を遂げる。七〇年代後半からは国際四 ) 新潮社刊。『中央公論』誌上に発表され 後の第一三回大会から厚生省主催となって明治 化・自由化に取り組み、業際分野へも進出してた四つの評論、「日本近代詩の成立」 ( 一九 ろうまん 神宮国民錬成大会と名も改められた。四三年の いる。八六年度の収入保険料一兆六一九二億一一一一 ・一 0 ) 、「日本近代詩の浪漫運動」 ( 一九 天 ムロ 第一四回では夏季大会だけ神宮で開かれたが、 円、総資産五兆五六〇〇億円。〈田付茉莉子〉 ばんきん ちょうかん 秋季は地方別分散となり、事実上この大会は消回明治生命保険相互会社編・刊『明治生命百年四 ) 、「日本輓近詩潮の鳥瞰景」 ( 一九一一五・六 ) ぜんじ 史』 ( 一九〈 I) 滅した。当時としては国内最高の競技大会であ を母胎としたもので、著者の象徴主義的詩観にせ、七五年には漸次立憲政体を立てるとの詔書 ^ 深川長郎〉 明治節めいじせつ昭和前期の祝日。明治天たった個性的な詩史。三六年に新潮社から普及を出して政体改革を進めるなど、天皇は政府内 明治製菓 ( 株 ) めいじせいか最大手の菓子皇の遺徳をしのび、明治時代を追慕する目的で版が出されたが、その後、三巻からなる改訂増補部の対立を調停する役割を果たした。さらに自 製造企業。抗生物質を中心とする薬品製造でも 制定された。明治天皇の誕生日である一一月一一一版 ( 一九哭 ~ 四九・創元社 ) 、『日夏耿之介全集』第由民権運動の高まりに対しては、八一年国会開 トップクラス。一九一六年 ( 大正五 ) 相前後し 日 ( 天長節 ) があてられた。四方拝、紀元節、三巻 ( 一九七五・河出書房新社 ) に収められた矢野設の時期を明示して運動の鎮静化を図り、八二 しだいせつ て設立された東京菓子と大正製菓 ( 明治製糖に天長節と並んで四大節の一つに数えられ、この人校訂の決定版が刊行されている。〈窪田般彌〉年の軍人勅諭では軍隊を天皇の軍隊と位置づ げんす、 よって設立 ) とが翌一七年合併 ( 資本金二五〇日は宮中でも祭儀と宴会が行われる。第二次世回『日夏耿之介全集 3 』 ( 一九七五・河出書房新社 ) け、大元として軍隊の統率にあたり、軍備の ーー九 lll) 皇増強に努めた。八四年以降は内閣制度創設をは 万円 ) し、二四年明治製菓と改称。当初から洋界大戦後の一九四八年 ( 昭和二三 ) に廃止され明治天皇めいじてんのう ( 一会 = 菓子の国産化と輸出とを目ざす。一一五年には たが、一一月三日は「文化の日」として現在も統譜上第一一三代とされる天皇 ( 在位一会七 ~ 一九じめ立憲制に対応する諸制度の整備に着手し、 こうめい ごんだいなごん 崎に近代的製菓工場を新設して、キャラメル、継承されている。 〈酒井信彦〉 III)O 孝明天皇の第二皇子で、母は権大納言中市制・町村制、府県制・郡制の制定による地域 ただやすむすめよしこ かえい まくだい キャンデー、ビスケットなどの量産を開始、三 山忠能の女、慶子。嘉永五年九月二二日生ま末端までの官僚支配体系の整備と、樊大な皇室 メイジソウ 0 ヒメムカショモギ さちのみや 私立。一八八 一年れ、祐宮と命名された。一八六〇年 ( 万延一 ) 財産を確保した。 二年 ( 昭和七 ) にはチョコレート、三六年には明ム大学めいじだいがく むつひと 果実の缶詰にも進出した。一方、これより先一 ( 明治一四 ) 、フランス留学から帰った岸本辰雄皇太子となり、睦仁と改名。六六年 ( 慶応一 l) 一八八九年、大日本帝国憲法を公布して広範 せん 九二〇年には製乳事業の兼営を開始し、各地に ー一九一 (l) 、宮城浩蔵 ( 一会一ー九三 ) 、矢代操一二月孝明天皇の急逝により、翌六七年一月践な天皇大権を規定して天皇制国家の基礎を確立 かんばっ 事業所を新設あるいは企業合併を行って事業を ( 天五一一ー九 I) の三人の近代法学のバイオニアに 祚。この年、幕府側と討幕派はそれぞれ朝廷へし、翌九〇年には教育勅語を渙発して国民道徳 拡張、四〇年にこの部門を明治乳業として分離よって開校された明治法律学校を起源とする。 の工作を強め、若年の天皇を擁する朝廷は、天の規範を示した。帝国議会開設後は、衆議院に よしのぶ 独立させた。太平洋戦争末期には空爆により主一九〇三年 ( 明治三六 ) 専門学校令により明治皇の名において一〇月将軍徳川慶喜の大政奉還依拠する政党勢力と藩閥政府が鋭く対立する さっちょう カエ場全焼。戦後は、五五年 ( 昭和三〇 ) 大阪大学専門部と改称、二〇年 ( 大正九 ) 大学令に の上表に勅許を与える一方、薩長両藩主に討 が、天皇はしばしば詔勅によって調停者的機能 げんくん 工場を新設して菓子の量産体制を整え、六八年より明治大学となり、法学、商学の一一学部およ幕の密勅を下すという複雑な対応を迫られた。 を果たし、元勲間の政策上の対立や感情的反目 ゅうわ こっしん スナック菓子、七〇年代に入ると食品にも進び予科、のちに政治経済学部を置いた。四九年さらに一二月、討幕派の主導で王政復古の大号を宥和することにも努めた。印清・日露戦争で 出、さらにヨーロッパの菓子製造会社との提携 ( 昭和二四 ) 新制大学に移行、法、商、政経、令を発し新政府を樹立、六八年 ( 明治一 ) から は大本営で直接戦争指導の衝にあたり、また、 ばしん を行うとともに輸出にも力を注ぐ。ペニシリン文学、工学、農学の六学部をもって再発足し翌年にかけての戊辰戦争では東征を命じ旧幕府日英同盟を締結して列強の一員たるべく軍事 の製造は四六年から開始、ストレプトマイシた八八年現在、法、商、政経、文、エ、農、勢力を打倒した。この間、五か条の誓文を発布的、経済的内実の充実を図った。日露戦後には ン、カナマイシンなど抗生物質の製造も拡大。経営学の七学部 ( 昼間七学部、夜間四学部 ) して新政府の基本方針を宣言し、政体書によっ韓国併合や満州経営を進め、植民帝国として膨 薬品部門は売上げの四〇 % 近くを占める。資本と、それぞれのうえに大学院七研究科を置き、 て新しい政治制度を採用、明治と改元し一世一張政策を採用するとともに、一九一一年 ( 明治 金二八二億円、年間売上高一九四〇億円。国内学生数三万人余を擁する日本有数の大規模な総元の制を定めた。六九年には東京に遷都し、版四四 ) には懸案の条約改正を完成させたが、こ するが に九研究所、一二工場、関連会社は国内四五、 合大学となっている。校歌「白雲なびく駿河籍奉還の上表を勅許した。政府内では初め公家のころから持病の糖尿病が悪化し一二年七月三 だい かんだ 〈森真澄〉 海外一三をもっ ( 一七 ) 。 台」のとおり、文科系の専門学部は東京都神田や旧大名が中心を占めていたが、しだいに三条〇日に病没した。 さねとみ ともみ たかよし としみち 回明治製菓株式会社編・刊『明治製菓四〇年小 駿河台に集中しているが、教養課程は都内杉並実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発 若年にして即位した天皇は、幕末から明治時 いくた 史』 ( 一九五 0 区の和泉校舎、エ・農学部は川崎市の生田校舎 言権が大きくなり、七一年廃藩置県を断行し中代の激動期を、いわゆる維新の元勲らとともに だいきようせんぶ に分かれている。創設以来の伝統をもっ法学部央集権体制を実現した。他方、大教宣布の詔明治国家の建設に努め、絶対君主として国民に 明冶生命保険 ( 相互 ) めいじせいめいほけん しんと・つ 近代的生命保険会社の草分け。一八 八一年 ( 明 と商学部を中心として、私学で最初の経営学部を出し、神道の国教化と天皇の絶対化の推進を畏された。日常生活は質素を旨とし、自己を ゆきち 治一四 ) 福沢諭吉門下の発起により株式組織で ( 一九吾一設置 ) 、充実した教授陣をもっ文学部や女図った。岩倉らは天皇を主体的な君主として育律すること厳しく、天皇としての威厳を堅持し しゅうえん 創立。一九一一年 ( 明治四四 ) 「日本三会社生子専門学校 ( 一九二九年開設の明治大学女子部、成するため、宮廷改革を行って旧習を廃止し、 た。そのため明治天皇の死は明治国家の終焉 命表」の完成など、科学的生命保険業務の基礎のち明治女子専門学校 ) を前身とする短期大学天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に努力として意識され、明治天皇を中軸に構築された を築く。また、国債引受けや生命保険会社協会 ( 法律科、経済科 ) 併設などの特徴をもつ。 した。七三年征韓論をめぐる政府内の対立には天皇制国家のあり方にも変容が迫られることに さい 1 ) うたかもり よっこ。 〈宇野俊一〉 の設立など業界の指導的役割を果たした。第一〇年に創立百周年を迎えた。本部は東京都千代勅許をもって西郷隆盛の朝鮮大使派遣を中止さ つ「 ) 0 みつびし じん 1 1 ロ 0 704

10. 日本大百科全書 22

みん 明 かいとう、もんつは け、、とくち人 ①黄地紅彩海濤竜文壺景徳鎮の磁器は , 嘉靖年間にな③漬明上河図清明節 ( 陰暦 3 月 ) の日の都城のにぎわ いぶりを描いた図。趙浙の描いたもので , 明代蘇州の生 ると白地の赤絵とは別に , 色地に別色で施文する雑彩と き生きとした繁栄ふりがうかがわれる。右上方には上流 よばれる特殊な色絵磁器がつくられるようになるが , 階級が楼上で酒宴を開いており , 手前の商店街には漆器 , の壺はそのなかでももっとも豪華で異例の大作である。 白磁の肌にます黄釉をかけて強火で焼き , 雲竜の文様を楽器 , 書籍 , 布地などの店が建ち並び , 多くの通行人が 黄で残し , 他の地を紅で塗りっぷし , 低火度で再焼を経行き来している。岡山林原美術館 たものである。同し紅でも黄地の上に彩色するとはるか④万里の長城北京郊外 , 八嶺の東に位置する金山嶺。 に明るく引き立つ。高 27cm 大阪市立東洋陶磁美術館現存する長城は 16 世紀後半に修築されたもの ②世宗皇帝の行幸図 12 代皇帝世宗が皇陵に参拝するた⑤十三陵の石獣明代の 13 帝の陵墓群が北京郊外の天寿 め , ものものしい警備をつけて宮殿を出発する図。皇帝山にある。参道の両側には陵を守る 18 対の石人や石獸 は武装して , 装甲をつけた黒馬にまたがり , 周囲を警備が並んでいるが , いずれも一個の白石を刻んだもので , 兵が護衛している。台北国立故宮博物院 造形的にも美しく重厚な感しがする き人さん 一会 0 アルタン・ ン、ついに北京を包囲 一五至フランシスコ・サビエル、広東に没す 一会 = 一王直、倭寇を率いて沿海地方を侵す 一会五倭寇南京を侵す 一会七アルタン・ ハン、入寇、胡宗憲、王直を誘い出し殺 す。ポルトガル人のマカオ居住を許す 一五六三アルタン・ ハン、遼東を侵寇。戚継光ら福建に倭寇 を破る ハン、遼東を侵寇 一五六六アルタン・ 一五六七国初以来の海禁政策を緩める 一五六九海瑞、応天巡撫となり江南の地主を抑圧 ンと和し、順義王に封する。このころ 一五七 0 アルタン・ 『西遊記』完成 一一一神宗即位 一五スペイン人広東にきたる。ハルハ部、遼東に侵入 一五七〈張居正、全国的に上地丈量を始める。「本草綱目』完成 一九万里長城の西部を修築 ノチ、マカオに到着。アルタン・ マテオ・ 張居正没す 一五会女真のヌルハチ挙兵し、遼東を侵す 一五〈七「万暦大明会典』成る。東林書院復興 一五九一一モンゴルの降将ポバイ寧夏に反乱を起こす。豊臣秀 吉朝鮮に侵入、明、朝鮮に援軍派遣 ( この二大征を 播州の乱とともに万暦の三大征という ) 一五九 = 一女真族、ヌルハチに統一される 一五九四戸部主事の顧憲成削籍される ( 東林党議の始まり ) 一七播州の土司楊応童乱を起こす。鉱税の害起こる 一六 0 一蘇州で「織傭の変」。マテオ・リッチ、北京に大主堂 建設 一六 0 = 「坤輿万国全図」刊行 一六 0 六「幾何原本』刊行 一六一一東林・非東林の党争激化 一六一六ヌルハチ、後金国を建てる 一六一九サルフの戦いに明軍大敗。後金、遼東を制圧 一六ニ 0 七月神宗死去。九月紅丸を服用した光宗急死 一六ニ一一徐鴻儒の白蓮教徒の乱山東に起こる 一六ニ四オランダ人台湾を占領し根拠地を設ける 一六ニ六ヌルハチ死去 一六ニ七毅宗即位。魏忠賢磔刑に処せられる。各地で農民反 乱起こる 一六 = = 李自成、農民反乱軍に参加 一六一 = 四アダム・シャールらの「崇禎暦書」完成 一六実後金、国号を清と改める。朝鮮、清に服属 一六一宅「天工開物」完成 一六 = 一九「農政全書」刊行 一六四四李自成北京に入り、毅宗万歳山に縊死。清軍、山海 関の守将・呉三桂を降し、その先導により北京無血 占領、清の中国支配始まる 一六四五南京陥落、福王捕らえらる。李自成自殺 一奕一南明の永明王ピルマで捕らえらる 527