スのロンドンに亡命した。地方講演中急死した 七九六四。 〈中山正民〉わないが、津市と上野市を結ぶ県道津上野線が牧の一つ木崎野があった。一九四一年 ( 昭和一 ながれやま 囮二万五千分の一地形図「流山」「松戸」「越通じ、津市までバスで約三〇分の距離にあり、六 ) 旧海軍航空基地が設置されたが、第二次世が、葬儀には多数の労働者、下層市民が参加し がやそうか リ・コミュ 谷」「草加」 同市への通勤兼業農家が多い。西の布引山地笠界大戦後はアメリカ空軍基地に接収され、以来た。詩などの文学作品のほかに、。ハ とり むろう みなみあずみ ーンの回想録などの著作がある。〈桂圭男〉 三郷 ( 村 ) みさと ( むら ) 長野県西部、南安曇取山一帯は美里高原とよばれ、室生赤目青山国基地の町となった。五八年には航空自衛隊の基 やませ やまじろ 郡の村。松本盆地の西縁にある。一九五四年定公園の一部。長野氏城跡は南北朝時代の山城地も置かれた。夏は偏東風山背が冷気をもたら回ルイーズ・ミシェル著、天羽均・西川長夫訳 ゆたかめいせい おぐら 『パリ・コミューン』上下 ( 一九七一・人文書院 ) 〈伊藤達雄〉す冷害の常襲地で、米作に不向きなため畑作が ( 昭和二九 ) 温、明盛、小倉の三村が合併してで国指定史跡。人口四四七一。 むくもと さびしろたい 成立。東日本旅客鉄道大糸線が通じる。温、明囮二万五千分の一地形図「椋本」「津西部」「平多かったが、一九七〇年淋代平などの大開田が ミシェル・ド・ロピタル 0 ロピタル さだ あずさ 松」「佐田」 盛地区は梓川の扇状地にあり、用水路の開削に 行われた。太平洋岸の淋代は一九三一年米人飛ミシカン Michigan アメリカ合衆国、五 より県下の米作の核心地をなしている。小倉地美郷 ( 村 ) みさと ( そん ) 徳島県北部、麻植郡行士ハーンドンとバーングボーンが世界最初の大湖地方の州。面積一五万〇七七九平方キ。、人 区は伏流水の黒沢川扇状地にあり、開拓は明治の村。吉野川の支流川田川流域の山村。国道一太平洋無着陸横断飛行の出発地とした地。古牧ロ九二五万八三四四 ( 一九〈 0 ) 。州都ランシング。 つるぎ 以後で畑地が多く、かっては桑園であったが、九三号が南北に走り、剣山の表参道にも通じて温泉にある小川原湖民俗博物館には国指定重要上部と下部の二つの半島からなり、五大湖のう ちミシガン湖、ヒューロン湖、スペリオル湖、 いる。特産物にウメ、茶がある。村内各地には有形民俗文化財の南部さしこ仕事着コレクショ 現在はリンゴ、モモなどを栽培する。人口一万 ^ 横山弘〉 エリー湖に面しており、北のカナダをはじめ、 〈小林寛義〉氏堂とよばれる四つ足堂 ( 柱だけの吹抜けのおンがある。人口四万一四二五。 とよしな しなの インディアナ州、オハイオ州、ウイスコンシン 囮二万五千分の一地形図「豊科」「松本」「信濃堂 ) がある。住民の寄り合いの場であり、「回回『三沢市史』復刻版 ( 一九全・三沢市 ) むかわめ はた 州と境を接する。両半島の間のマキナック水道 り踊り」が伝承されている。川田川上流のゲン二万五千分の一地形図「天ケ森」「六川目」 小倉」「波田」 ももいし かっち いめおとせ には世界第四位の吊橋のマキノ橋が架かり、サ 「浜三沢」「百石」「甲地」「三沢」「犬落瀬」 美里 ( 町 ) みさと ( まち ) 埼玉県北西部、児玉ジボタル生息地は国指定天然記念物。人口一九 こんヂんぎら ギノー、グランド、カラマズーなどが主要河川 郡にある町。一九八四年 ( 昭和五九 ) 町制施五六。 〈高木秀樹〉ミサントロープ 0 弭嫌い まち - 一う 八である。気候は一般に冷帯多雨気候を呈する。 行。東日本旅客鉄道高線、国道一一五四号が通回『美郷村史』 ( 一九六九・美郷村 ) 、、、シェル Clémence Louise MicheI ( 一 あわよりい はんじよう まつひさ じる。本庄台地と松久丘陵からなり、養蚕、囮二万五千分の一地形図「川島」「阿波寄井」三 0 ー一九 0 五 ) フランスの女性革命家、文学者、上部半島と下部半島の北半分は丘陵地で、森林 わきまち 詩人。オート・マルヌ県の貴族の私生児としてが広がり、大小の河川や湖が点在する豊かな自 「脇町」「阿波川井」 キュウリを中心とする野菜づくりが盛んであ る。古くから開発された地域で、古墳群、遺跡箕郷 ( 町 ) みさと ( まち ) 群馬県中部、群馬郡生まれる。高等教育を受けたのち教師となった然は観光資源として注目されるほか、鉄、銅な ひょく みのわ すえどのかわらかま どの鉱物資源にも恵まれる。五大湖平野の肥沃 が、早くから社会問題に目覚め、詩作を行いな が多く、国指定史跡の水殿瓦窯跡をはじめ十にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 箕輪町と くるまギ ~ と 条条里遺跡、黒山古墳群や『万葉集』ゆかり車郷村が合併して箕郷町と改称。南東は高崎がら貧しい労働者の教育に従事した。第二帝国な土地と気候に恵まれた下部半島南部には、南 つぶら はるな ィ一らしい いのまたひやくやとう の曝井の遺跡、猪俣の百八灯などがある。円良市に接する。榛名山南東斜面の農村で、町域の憲法に忠誠を拒否、パリで私塾を開き、貧民教東端部のデトロイトをはじめ、グランド・ラピ しらかわ からす 田湖は農業用貯水池で、釣りや行楽でにぎわほば中央を白川が南東に流れ烏川に注ぐ。集落育に献身しながら革命運動に参加した。一八七ッズ、ウォーレン、フリント、ランシングなど ろうじよう 〈中山正民〉 城州内のほとんどの大都市が集中し、合衆国第八 は標高一四〇 ~ 五〇〇に分布し、主要地方道〇年のプロイセン・フランス戦争のパリ籠 う。人口一万一五四六。 が南の高崎市、北の渋川市に通じる。旧箕輪町戦中は、モンマルトルの監視委員会に選出され、位にランクされる州人口の九〇 % がこの地域に 回『美里町史』 ( 一九会・美里町 ) より にしあきや は室町時代箕輪城の城下町で、西明屋にその名プランキ派のフェレと親交を結んだ。翌年三月集まっており、周囲には工業地帯と農業地帯が 囮二万五千分の一地形図「本庄」「寄居」 1 」り 広がる。州最大の産業である工業は、デトロイ ノリ・コミューンの革命に際しては、 美里 ( 町 ) みさと ( ちょう ) 和歌山県北部、海残をとどめている。一五九八年 ( 慶長三 ) 井伊一八日のヾ じようし なおまさ しも - 一うの 草郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 下神野、上直政が高崎城に転じてから廃城になった。城址武器を手にして活躍、コミューンとベルサイユト、ディアポーン、ポンティアックなどを中心 く・、よし はせけまら とした世界最大の自動車工業が多くの問題をか 神野、風吉、長谷毛県、真風の五村が合併して ( 国史跡 ) は桑畑や山林になっているが、なお政府との内戦が再開されると、イシー、ヌイイ 成立。なお、上記各村は五一年に那賀郡から海城門などの遺構が存する。養蚕、米、麦のはかの戦闘に加わり、最後の「血の週間」の市街戦かえながら健在であり、航空機部品、電気機 きし ″・れ ~ い ともぶち 草郡に編入。貴志川と支流鞆淵川に沿う山間地ナシ、モモ、ウメの果樹栽培が特色。灌漑用のでも最後までバリケードで戦った。コミューン械、金属、プラスチック、食品加工、製紙、家 さんナい なるさわ こうやさん 具など多種工業が各地で発達する。農業では、 域。旧高野山領で、中心の神野市場は高野参詣人工湖鳴沢湖は風景に優れる。人口一万五二一崩壊後一時死刑を宣告されたが、結局ニュー りゅうじん 〈村木定雄〉カレドニアに流刑となり、その地で原住民カナジャガイモ、トウモロコシ、小麦、サトウダイ 路と龍神温泉への旧街道の分岐点にあたる市四。 しもむろだ 場町、宿場町であった。シュロ栽培とその加工二万五千分の一地形図「伊香保」「下室田」カ族の反乱を指導した。八〇年大赦を得て帰国コンなどが栽培され、リンゴ、サクランボ、イ すると、無政府主義者の運動に身を投じ、三度チゴ、ブドウといった果樹栽培でも知られる。 「榛名湖」 が盛んであったが、いまはカキ栽培にかわっ じゅうさん また、牧畜も盛んである。鉄鉱、銅、砂利など 有罪宣告を受け、九〇年から九五年までイギリ た。十三神社本殿、摂社生神社本殿、摂社見ざる・聞かさる・言わざるみざる・ さんびきぎる の鉱業も重要で、最近は新たに多量の石油、天 八幡神社本殿は国指定重要文化財。人口五二五きかざる・いわざる三匹猿 然ガスが発見されており、漁業も見逃せない。 〈小池洋一〉 三沢 ( 市 ) みさわ青森県中東部にある市。 ゃなせ おがわら 工業と並ぶ勢いの観光業は、将来ますます発展 二万五千分の一地形図「高野山」「梁瀬」「龍東は太平洋、西は小川原湖に臨み、市域の大部 た とどろき へいたん かみきた まるす の余地があると思われる。五〇州中最長の沿岸 分は平坦である。一九四八年 ( 昭和二三 ) 上北 門山」「田」「丸栖」「動木」 ろくのヘしもだうらのだて 線 ( 三五七〇キ。 ) と約一万一〇〇〇に及ぶ大小 美里 ( 村 ) みさと ( むら ) 三重県中北部、安郡三沢村と六戸、下田、浦野館の各一部が合併 の湖や河川は、とくに釣り人を多く集め、アイ ん郡の村。布引山地の東麓、長野川と ~ ~ 倉川の上して大三沢町となり、五八年市制施行して三沢 とわた たっ ル・ロイヤル国立公園やスリーピング・・ヘア砂 カ流域に開けた山村。一九五四年 ( 昭和二九 ) 辰市と改称。東北本線、十和田観光電鉄、国道三 みず 丘、ピクチャード・ロックスなどの湖岸公園に し水、高宮、長野の三村が合併して成立。中心集三八号が通じ、三沢空港は羽田空港間に定期便 代表される自然の美しさが多くの観光・行楽客 2 がある。中世から馬産地で、近世は盛岡藩の九 み・落は三郷。村域の八〇 % が山林で、産業は振る そ、つ 0 こだま .4 みぐ、 ミシェノレ - 一まき つりばし
松山平野、瀬戸内海の展望に優れ、皿ケ嶺連峰 ミサキに取り憑かれたとか、山に入るとヤマミ出する岬に位置するところからつけられた。南よるアワビやサザ工などの採取も行われ、第二 ′一とう 県立自然公園に指定されている。〈深石一夫〉サキにあうという。あるいは七人ミサキといっ海電鉄南海本線、同多奈川線と国道一一六号が通次世界大戦前は五島列島や朝鮮への出漁も多か とべ 囮二万五千分の一地形図「砥部」 て不慮の死を遂げた者は七人で行動し、八人目 じ、深日港からは四国へのフェリ ーが発着すった。段畑のサツマイモや麦栽培にかわって夏 じようぶつ がわら 神坂峠みさかとうげ長野・岐阜県境にあを仲間に入れると先の者が成仏できるので、 る。古来漁業と和泉瓦の産地。第二次世界大戦柑の主産地となり、一時は県最大の生産量を誇 り、木曽山脈南部を越える峠。古代の官道であ人を誘い込むゆえ恐ろしいなどともいし 、ミサ後、関西電力火力発電所が設置され、紡績、機った。現在は甘夏柑や伊予柑への転作が進んで とうさんどうみの しなの る東山道が美濃 ( 岐阜県 ) から信濃に入る峠キは心残りをして死んだ者の亡魂で、祟りやす械工業も行われる。海浜は景勝地でツッジの名 いる。国指定天然記念物にアコウの巨本があ で、信濃では碓氷峠とともにもっとも険しい峠 〈横山昭市〉 く祈念する神ではないという所が多い。人が一一所淡輪遊園と自然動物園のみさき公園のほか、 る。人口五五三五。↓佐田岬 寺、いりトっ であった。峠には鏡や滑石の玉などが多量に発度以上死んだ場所にはミサキがいるゆえに、石府立青少年海洋センターがある。西陵古墳は回「三崎町誌』 ( 一九会・三崎町 ) まっ ふなもり みつくえふたなず 掘された祭祀遺跡がある。旅人が旅の安全を祈塔を立てて祀るという伝承は、各地にみられる国指定史跡。船守神社本殿は国指定重要文化 二万五千分の一地形図「三机」「二名津」「三 って神に捧げたもので、山麓の神坂神社 ( 阿智人身事故のあった鉄道線路の傍らの地蔵建立と財。人口二万二三二六。↓深日〈位野木寿一〉 さぎもり かだ 村 ) には防人が詠んだ「ちはやふる神のみ坂に 相通するものである。 〈鎌田久子〉四一万五千分の一地形図「尾崎」「淡輪」「加太」 = 、サキウバウォ blidled clingfish%($) めさまっ おもちち 幣奉り斎ふ命は母父がため」 ( 『万葉集』巻二 みさき cape, headland, point, promon- 三咲みさき千葉県北西部、船橋市の一地をミ c ミを s 洋 2 きき s 硬骨魚綱ウバウォ目 かど こがねごまき しもの 〇 ) の歌碑が立つ。峠からは伊那盆地や南アル tory 海へ突き出た陸地。崎、角、鼻などと区。江戸時代、小金五牧の一つ下野牧が置かれウバウォ科に属する海水魚。本州中・南部地方 りゅうきゅう プス、中津川方面が一望でき、富士山も見えもいう。岬の大規模なものを半島と称するが、 たが、一八六九年 ( 明治一 D 東京の窮民を救う から琉球諸島、オーストラリアのクイーンズ る。峠へは車道が通じ、中央自動車道恵卅山トその先端や側部に突出した部分が岬である。た ために開墾され、三咲の新村が成立した。一九ランド、ポリネシアと広く分布する。生時は赤 おおすみ ンネルが峠直下を通っている。 〈小林寛義〉とえば、鹿児島県の大隅半島の先端が佐多岬、五五年 ( 昭和三〇 ) に新京成電鉄が通じて以みを帯びた黄色である。全長七に達し、体形 回市川健夫著『信州の峠』 ( 一九七一一・第一法規出長崎県の長崎半島の先端は野母崎、和歌山県の来、住宅地化が進んでおり、ナシの産地でもあ に雌雄差がみられない。背びれ、臀びれは大き しおの 版 ) 〈山村順次〉 紀伊半島の南端は潮岬、千葉県の房総半島の先る。↓船橋 ( 市 ) く、それらの後端の膜は尾びれと続いている。 ならしの 囮二万五千分の一地形図「伊那駒場」 腹びれの吸盤は前後の二部に分ける仕切りがな 端を野島崎とよんでいることなどはその好例で二万五千分の一地形図「習志野」 潮だまり ( タイドプール ) や磯の石の面に 御坂峠みさかとうげ山梨県の御坂山 ( 一五九六ある。岬は海に突き出ているので、海食を受け三崎みさき神奈川県三浦半島南端、三浦 あんぶ 力、しよく力し じよう ) と黒岳 ( 一七九三 ) との鞍部を通る峠。古 くやすく海食崖となっている所が多い。陸地が市の中心市街地。旧三崎町。南方に城ヶ島が横吸着して生活する。産卵期は春から秋までの長 から甲府盆地と富士北麓を結ぶ峠として利用さ沈降したり海面が上昇すると谷は沈水し、尾根 〈中坊徹次〉 たわって自然の防波堤をなし、内側は古来避難期にわたると考えられている。 はっちょう れてきたが、八町峠に御坂トンネル ( 国道一 は半島や岬とな 0 て残る。岬は一般に風光に恵港、印待港、漁港にされてきた。台地上は展望御崎馬みさきうま乳綱奇蹄目ウマ科の動 と 三七号 ) が通じ、さらに一九六七年 ( 昭和四まれた所が多く、古来、詩歌に歌われたり、絵に優れ、鎌倉時代には源家の遊覧地 ( 三崎御物。同科の一種ウマの一品種で、宮崎県の都井 一 l) 県営有料道路として御坂山の西に新御坂 ト画の題材となっている所が多い。 〈市川正巳〉所 ) 、戦国時代から江戸前期には小田原や江一尸岬原産。この地に一六九七年 ( 元禄一〇 ) 高鍋 しすみ ぶぎよう ンネルが完成し、交通の便は倍加した。旧国道 岬 ( 町 ) みさき ( まち ) 千葉県南東部、夷隅郡の防衛拠点 ( 三崎十人衆、三崎奉行 ) とされて藩の軍用馬生産の目的で放牧されたウマを祖先 おもむき かず * ) は峠路として趣があり、近年は注目され、交 にある町。上総丘陵を刻む夷隅川流域に位置 いた。関東大震災後は近代的漁港として整備さ とする半野生馬。体高一・三の小格馬で、一 通量もやや増加している。 〈吉村稔〉し、太平洋に面する。一九六一年 ( 昭和三六 ) れ、現在沿岸・沖合両漁業はもとより、遠く太九五八年 ( 昭和三三 ) 天然記念物に指定され たいとうちょうじゃ ^ 加納康彦〉 太東、長者の二町が合併して岬町と改称。町平洋、インド洋、大西洋で操業する遠洋漁業のた。↓ウマ 囮二万五千分の一地形図「河口湖東部」 みさき神の去来の先触れを意味し、古くは名は太東崎があることに由来。東日本旅客鉄道基地となり、岸壁、魚市場をはじめ、冷凍、運三崎町みさきちょう東京都千代田区北部、 とき そとばう 御前、御先、御崎などと記録されている。全国外房線と国道一一一八号が通じる。中世、土岐氏輸、金融、船員休養などの漁港施設が整いイ 、主中央線水道橋駅南側の地区。かっては江戸川や に広く分布しているが、信仰には大きな変異がの領有ののち、江戸時代は天領、旗本領地とな民の生活も漁業に深く結び付いている。海南神 小石川が流れ、沼地の中に岬状の陸地が形成さ ろくさいいち けんきゅう みられる。 り、長者地区は六斎市の市場町、また、東社のチャッキラコは南海伝承の歌舞で国指定重れたのが地名の由来という。町内には建久年 一と おねりじし て人ぶん 熊野信仰では烏をミサキというが、これは神往還の宿場町として発達した。米作が盛んで、要無形民俗文化財。ほかに同社で行道獅子、里 間 ( 二九 0 ~ 九九 ) 創建、天文年間 ( 一吾三 ~ 五五 ) かぐら うじつな の使わしめを意味するものである。鹿児島のミ トマト、キュウリの野菜栽培も増えている。海神楽の民俗芸能も行われる。↓三浦 ( 市 ) 3 し 条氏綱により再建と伝える三崎稲荷神社があ てつばうず サキドン祭も、供物を烏に食べてもらうことが食崖の断崖上に太東崎の灯台があり、海水浴場チャッキラコ 〈浅香幸雄〉る。幕末期、講武所が鉄砲洲から移った地で、 現在も日本大学、東京歯科大学水道橋病院など 重要であり、このミサキも烏である。烏のミサも含めて南房総国定公園に属する。太東海浜植回内海延吉著『三崎郷土史考』覆刻版 ( 一九七五・ ばんどう がある。 キは東北地方にもあり、キミサキとよんで正月物群落は国の天然記念物、坂東三十三所第三二 〈沢田清〉 名著出版 ) きよみず の行事になっている。中部地方、中国地方では番札所清水寺にある木造十一面観音像は県の指 二万五千分の一地形図「三浦三崎」 一万分の一地形図「日本橋」 狐をミサキとし 、、、稲荷社に御崎大明神と記定文化財。人口一万三六六 〈山村順次〉三崎 ( 町 ) みさき ( ちょう ) 愛媛県最西端、西三崎半島みさきはんとう香川県北西海岸に しようない さだ して、ミサキサマとよんでいる所がある。烏も回『岬町史』 ( 一九会・岬町 ) 宇和郡の町。佐田岬半島の先端部を占める。一 突出する半島。荘内半島ともいう。長さ約一 とらみ かんまつな 三、。。幅三 ~ 四キ。で、娵讃瀬戸と燧灘を分け 狐も、ともに動物の挙動を神意の伝達とみなし囮二万五千分の一地形図「東浪見」「上総長者」九五五年 ( 昭和三〇 ) 三崎、神松名の二村が合 いちのみやくによし みィ一き しうんでやま て、ミサキとよんだものである。主神の先鉾と 「上総一宮」「国吉」 併して町制施行。町名は御崎の転化といわれる。花崗岩からなり、最高は紫雲出山の三五二 きゅうがい せんなん ほうよ はやすい して従神的性格ももつものである。 。山地がちで海岸も急崖が多い。半島の中 岬 ( 町 ) みさき ( ちょう ) 大阪府南西端、泉南る。三方を海に囲まれ、豊予海峡 ( 速吸瀬戸 ) たた たながわ ミサキには祟り神の性格をもっ伝承も多い 郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 深日、多奈川 を隔てて九州の佐賀関半島と向かい合う。国道南部にある大浜集落は砂州上にあり、大浜以西 たんのわきようし ) とくに瀬戸内海沿岸地域、岡山県、四国地方に の二町と淡輪、孝子の二村が合併して成立。新一九七号が通じ、道路公団のフェリ ーが三崎、は陸繋島であることを物語っている。陸繋部分 いずみ は浦島伝説の地で、生里は浦島太郎の誕生地、 。川に行って疲労を覚えると、カワ町名は、和泉山脈の西端にあたり、大阪湾に突佐賀関両港を結ぶ。沿岸漁業が盛んで、海士に み・濃厚である きつね からす さんろく さきほ・一 っ 0 さた ッいう かん いそ たかなペ 291
ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 日本大百科全書 OSHOGAKUKAN 1988 1988 年 7 月 1 日初版第一刷発行 定価 7 , 800 円 22 編集著作 出版者 発行所 印刷所 本文 相賀徹夫 小学館 郵便番号 101 ー 01 電話編集・東京 03 ー 230 ー 5620 振替東京 8 ー 200 番 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 3 ー 1 ( 特抄百科用紙 ) ( 特抄アート紙 ) 表紙 ( 特製クロス ) 製本 業務・東京 03 ー 230 ー 5333 販売・東京 03 ー 230-5739 凸版印刷株式会社 王子製紙株式会社 三菱製紙株式会社 タイニック株式会社 凸版印刷株式会社 若林製本株式会社 * 本書に掲載した日本関係地図は , 国土地理院発行の 2 万 5 千分の 1 地形図 , 5 万分の 1 地形図 , 20 万分の 1 地勢図 , 2 万 5 千分の 1 土地利用図を使用したものです。 * 造本には十分注意しておりますが , 万一 , 落丁・乱丁などの不良 品がありましたら , おとりかえいたします。 * 本書の内容の一部または全部を , 無断で複写複製 ( コピー ) するこ とは , 法律で認められた場合を除き , 著作者および出版者の権利 の侵害となりますので , その場合はあらかしめ小社あて許諾を求 I S B N 4 ー 0 9 - 5 2 6 02 2 - X Printed in Japan めてください。
めいか 一口 ④⑦い ①④「、 . ; キロメートルまで大きく変化し、近日点付近では はるかに小さい。今日までの観測によれば、キ値から冥王星の密度は二・〇以下となるので、 思想であったとはいいきれない。名の中心問題 海王星よりも太陽に近くなる場合がある ( たと ャロンの軌道ははとんど円形で、半径が一万九土星や天王星の衛星などに似た、氷を主成分と は名実論である。すなわち名と実 ( 対象 ) との えば一九七九 ~ 九九年の二〇年間 ) 。また軌道 一三〇キ。メートル、軌道の傾斜角は九一・六度する天体と思われる。分光観測によって冥王星関係を考えることであり、今日の意味論 ( 記号 傾斜も一七・一四五度で、九つの惑星中もっとである。冥王星とキャロンとは公転軌道面とほ には凍ったメタンの存在が報告されており、大論三部門の一つ ) に相当する。また論理学にお も大きい。地球から見た明るさは一五等級であとんど直角な軌道をもって回り合っていること気が存在するという説もあるが確定していな ける概念論でもある。この意味論、概念論が中 になり、またこの両者は互いに同じ面を向け合 るが、近日点付近での極大光度は一三・六等に 〈村山定男〉国論理学の主流となるので、その意味で先駆的 まで明るくなる。 って回転していると考えられるので、冥王星の めいか中国古代、諸子百家の一つ。 役割を果たした名家を論理学派とみることがで 名家 一九七八年にアメリカ海軍天文台のクリステ自転軸もほとんど横倒しになっていることにな周末春秋戦国期に名 ( ことば ) をめぐる論争が きよう。ただし名家は判断論、推理論について べつばく イは写真観測によって冥王星に衛星の存在を確る。またこのため冥王星の公転周期の間に二回行われた。孔子、老子、荘子をはじめ当時のほ詳しくない。 ) それはむしろ同時代の別墨 ( 墨家 〈加地伸行〉 認した。その公転周期は六・三八六七日で、こずつ、地球からキャロンの軌道を真横から見るとんどの思想書にそのことが記されている。孔の一派 ) である。 りんし の周期はそれ以前から冥王星の変光の周期とし時期があり、一九八五 ~ 九〇年がそれにあた子の正名、老荘の無名がその例であり、名の問 メイガ〔螟蛾〕昆虫綱鱗翅目メイガ科 py- て知られていて、冥王星の自転周期と推定される。このようなときには冥王星とキャロンが題だけを論じていた思想家などはいなかった。 ralidae の総称。はねの開張一〇 ~ 二〇ミリくら しよく ていた。キャロン Charon と命名されたこの食をおこすのが観測され、これを利用して両ところが漢代になって学派の分別整理が行われ いの小形種が多い。非常に大きい科で、全世界 衛星の発見によって、冥王星系の質量を求める者の直径や表面の明るさの分布などが調べられたとき、周末に名の問題を専門的に論じていた に分布し、日本産だけでも六〇〇種くらい知ら あし ことが可能となり、もっとも新しい値として地ている。それらの方法で求められた冥王星の直と判断された思想家をひとまとめにして名家とれている。体は細長く、脚は長い。触角は単純 とうせき いんぶんこうそんりゅう 球の〇・〇〇二三倍が求められている。この数径はおよそ二四〇〇キロメートル、キャロンは一名づけた。鄧析、恵施、尹文、公孫竜などでで、多くの種が前翅の長さの二分の一くらいの 字は、以前にローウエルらが予想したものより 二〇〇キ。メートル程度となっている。これらのある。今日からみれば、これらの人たちが同じ長さである。鼓膜器は、腹部の基部に開口す メイガ ②同 , 成虫 ③同 , イネの被害状況。 5 月下旬から 7 月中旬 ころの第 1 世代による「芯枯茎」や「株絶え」 ⑥同 , イネの被害状況。出穂期に甚だしい被害がみられる ⑦ハイマダラノメイガの幼虫⑧同 , 成虫 : 、」⑨同 , ダイコンの被害状況。本葉が出始め るころに心葉を食害する ⑩モモノゴマダラノメイガの幼虫⑩同 , 成虫 ⑩同 , モモの被害状況。熟度の進んだ部分から 果実に食入し , 食害する 698
いやだに で、東部の弥谷山 ( 三八一一 ) の耳納山地みのうさんち福岡県南部、筑後川 が合併して市制施行。阪急電鉄箕面線、国道一 中腹には四国八十八か所の第七中流の南を東西に二〇キ。余り続く傾動地塊の山七一号 ( 西国街道 ) が通じる。市域の大部分は 4 せんり - 」うら おいき一か ひあげやま ン万 一番札所弥谷寺がある。火上山地で、水縄山地とも書く。西端の高良山 ( 三一一一老ノ坂山地で、南縁を断層崖で限られ、千里丘 ラボ究 たかとり ほっしん しつばうさんさんろく ケノ研 ) から発心山 ( 六九 0 し、鷹取山穴 0 一一 ) と陵との間に扇状地が展開する。市域中西部を南 や七宝山の山麓は。フドウやミカ はちぶせ 蓑 ( 民 ンの樹園地になっている。俗に徐々に高度を増す起伏の少ない尾根が東に延流する箕面川沿いには、鉢伏山・天上ヶ岳の総 ほっけじ 背子国館たかせだいばう び、大分県境の津江山地に連なる。大部分が称箕面山 ( 国指定名勝 ) 、高さ三三の箕面滝 高瀬大坊とよばれる法華寺は一 〕帽雪料 おうぜ 〔蓑資 〕田俗〇余りの堂宇を数える。秋の一結晶片岩 ( 変成岩 ) からなるが、合瀬耳納峠などの自然景観に富み、またもみじの名所とし かつお 蓑〔秋民週間、境内では大坊市が立ち、 ( 璧 = ) 以東では安山岩などの火山岩に覆われて知られる。西国三十三所第一一三番札所の勝尾 こさっ ろうあん 名物行事になっている。三野津ている。北斜面は直線的なみごとな断層崖で、寺や滝安寺などの古刹もあって明治の森箕面国 まちかねさんろく 湾上の津島へは海岸から橋中央構造線 ( 松山ー伊万里線 ) の一部と考えら定公園に指定されている。南部の待兼山山麓の せがわ さんろく 瀬川はかって西国街道の宿駅であった。明治末 ( = 四五 ) が架けられ、八月の津れ、山麓に扇状地が連続的に発達、カキ、プト ありま に箕面有馬鉄道 ( 現阪急電鉄 ) が開通してから 島神社の祭礼には予讃本線の臨ウ、ミカン、苗木などの栽培が盛んで、開発の 時駅が設けられる。人口九五六歴史は古く古墳も多い。南斜面は緩傾斜で、矢住宅開発が進み、第二次世界大戦後は公団住宅 〈稲田道彦〉部川支流の星野川流域では山頂近くまで水田ゃなどが進出し、大阪府下有数のべッドタウンと 回「三野町史』 ( 一九含・三野町 ) 茶畑に利用されている。一九七一年 ( 昭和四なった。北部山間地区はかって池田炭の生産の へいたん 二万五千分の一地形図「仁六 ) 平坦な尾根を利用して展望に優れた耳納ス中心であったが、果樹やシイタケ栽培にかわっ た。山林開発による霊園も多い。一九六六年千 カイラインが開通。筑後川県立自然公園に含ま 尾」 せんば 〈石黒正紀〉里丘陵には船場繊維卸商団地が設置された。 美濃 ( 市 ) みの岐阜県南部れる。 の商工業都市。美濃和紙の産地 ミノウスパ〔蓑薄翅蛾〕 p 、、ミぎ「勝尾寺旧境内示八天石蔵および町石」は国 として有名。一九五四年 ( 昭和昆虫綱鱗翅目マダラガ科に属するガ。はねの開指定史跡。人口一一万四七七〇。↓勝尾寺↓ あいみなか すはらしもまき 〈樋口節夫〉 では若者が嫁を迎えるときの贈り物として、首二九 ) 美濃町と洲原、下牧、大矢田、藍見、中張二五 ~ 三五ミリ。体は軟毛に覆われ、胸部は黒明治の森箕面国定公園 に回『箕面市史』五巻 ( 一九六四 ~ 耄・箕面市 ) 回りの部分を色糸で矢羽根や吉祥文字を編み込有知の五村が合併して市制施行。市街地は、見く、腹部は赤褐色、尾端には黒色の長毛が束 たかっき すいた んだものをつくり、嫁からは花婿に、こぎん、良川とその支流板取川の合流点よりやや下手のなって生えている。はねは透明であるが、翅脈二万五千分の一地形図「高槻」「吹田」「広 かなもり ひしぎし 根」「伊丹」 菱刺などの仕事着を贈る地方もある。一六世東岸の台地を中心に発達。ここは戦国大名金森は黒っぱく、前翅基部は黄色みを帯びる。日本 っしま らしゃ かつば 本土、対馬、朝詳半島、中国に分布する。成虫ミノカ〔蓑蛾〕 bagworm moth 昆虫綱 紀、南蛮文化の到来によって、羅紗製の合羽が長近が一六〇〇年 ( 慶長五 ) に標高一四五の小 りんし ふもと 伝えられ、蓑は農山漁村の民具となり、昭和初倉山に館を築き、その麓の台地に近在の商業中は晩秋に羽化し、陽光の下で活発に飛ぶ。ニシ鱗翅目ミノガ科 Psychidae のガの総称。全世 〈遠藤武〉 心町を開いたのが始まりで、美濃紙の集散地とキギ科のマサキの枝に産み付けられた卵塊はそ界に分布するガで、幼虫が蓑 ( ポータブルケー 期まで用いられた。図し雨具 ふか みよし ス ) をつくってその中にすむ、いわゆるミノム のまま越冬し、翌春孵化して葉を食べ、五、六 三野 ( 町 ) みの ( ちょう ) 徳島県北西部、三好して続いてきた。かっては長良川の水運の終点 な 1 」り さめ 月に蛹化する。多発するとマサキの生け垣が坊シで、成虫はミノガとよばれている。はねの開 郡の町。一九二四年 ( 大正一三 ) 町制施行。讃でもあり、川岸の灯台がその名残をとどめる。 なんろく 岐山脈南麓、吉野川北岸の小扇状地上に立地す現在は長良川鉄道が通じ、名古屋鉄道美濃町線主になってしまう。ほかの一一シキギ科にも寄生張一〇ミリ以下から四〇ミリに達するものまである むや わみようしよう 〈井上寛〉 小形種から中形種。はねの形はさまざまである る。『倭名鈔』の三野郷の地。中心地区は撫養の終点。国道一五六号の便もあり、東海北陸自する。図しマダラガ はんもん ぐじよう かかみがはら が、豊かな色彩や斑紋をもっ種はなく、はねが ヾ、ハッサクの生産が動車道が各務原市から本市まで開通し、郡上ミノウミウシ〔蓑海牛〕ムき、ミミ 街道に沿う芝生。葉タ / コ はちまんしろとり き守き s ぎ軟体動物門腹足綱オオミノウ透明な種を除いてすべて茶褐色、黒褐色あるい 八幡、白鳥方面へ延びる予定。美濃紙の製造は あり、養蚕も行われる。クリ、シイタケなどの まきだに ますず は黒色をしている。夜間、灯火に飛来すること ミウシ科の動物。房総半島から九州までの潮間 林産物もある。山間の集落では北の真鈴峠を越板取川沿いの牧谷を中心に行われ、集落により は少なく、昼間飛ぶ種が多い。この科の雄成虫 えて、讃岐 ( 香川県 ) への通婚が多く、また香特色のあるものが漉かれた。いまでは従業者、帯の岩礁にすむ。体長三〇ミリに達し、細長い。 わらび かり - 」うし はすべてはねをもち、一般のガと変わりがない 川県の農家へ出稼ぎに行く借耕牛の習俗が昭和生産量ともに減少したが、蕨生地区で保存され触角は長く、後方は朱色。背面にはえら突起が たき かものみや が、雌の特徴から三つのグループに大別するこ 三〇年代まであった。加茂野宮地区の滝寺は鎌る優秀な手漉き和紙技術は、国指定の重要無形多数生え、それそれの先端は朱色。突起のすぐ しようかんのん とができる。すなわち、雌が雄と同じように二 下には環状模様があり、基部は暗褐色をしてい 倉時代の創建で、木造聖観音立像は国指定重民俗文化財。和紙などの製造にかわり、しだい る。背面の地色は黄白色で美しい。背面のえら対のはねと三対の脚を有するもの、はねはない 〈高木秀樹〉 に刃物製造の下請、縫製加工などが行われる。 要文化財。人口五二二四。 さだみつ ないでん 工業製品出荷額では一般機械器具が首位で、紙、突起が蓑を着たようにみえるのでこの名があが脚を有するもの、はねも脚もないものであ 囮二万五千分の一地形図「貞光」「内田」「辻」 みとよ る。はねのない雌は、成虫になると自分の蓑か 三野 ( 町 ) みの ( ちょう ) 香川県中西部、三豊プラスチックがこれに次ぐ。市の南西部に大矢る。オオミノウミウシ当を、ミ。はさらに しもだかせおお 郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 下高瀬、大田工業団地を造成し、優良企業を誘致する計画大形で、体長四〇 = 、リを超え幅が広く、えら突起ら半身を乗り出すか、蓑の外側で交尾のために みよしづ が具体化中。大矢田神社のヒンココ祭りは有の数がミノウミウシよりはるかに多い。体は淡飛来する雄を待つが、はねも脚もない雌は蓑の 見、吉津の三村が合併して三野村となり、六一 よさん 年町制施行。予讃本線、国道一一号が通じる。名。人口二万六九三五。↓美濃紙〈上島正徳〉褐色で目だたない。北海道をはじめ、北部北太中で飛来した雄と交尾し、蓑の中に産卵する。 〈奥谷喬司〉 したがって、雄の腹部はよく伸長できるように 平洋、大西洋にも分布する。 町名は古い郡名による。町域の中央を高瀬川が回『美濃市史通史編』 ( 一九七九・美濃市 ) しもまら かりやす 北流し、沖積平野は水田となっている。北部は 囮二万五千分の一地形図「苅安」「美濃」「下潸箕面 ( 市 ) みのお大阪府北西部にある住宅なっている。幼虫は種ごとに独特の材料で独特 とよかわ ど びさん 都市。一九五六年 ( 昭和三一 ) 箕面町と豊川村の蓑をつくり、上方の開口部から頭や胸を出し 一尸」「岩佐」 備讃瀬戸の三野津湾に臨み、東部と西部は山地 ながちか やかた いたどり りんし みの いたみ あし みの
みはら には虫こぶをつくるものもある。 の状態にある。心が外物と接することによって郷、耳の四村が合併して成立。町域は耳川の谷回『美浜町史・資料編』 ( 一九会・美浜町 ) ④植物の花に食入するもの。とくにキク科に入動となると情が現れるのが「已発」である。そを中央に、東は敦賀半島、西は常神半島に及ぶ。二万五千分の一地形図「御坊」「三尾」 ごういちかわらいち るものが多い して、未発のところこそ心の本体であって、ひ中心の郷市、河原市は耳川の小扇状地にあり、 御浜 ( 町 ) みはま ( ちょう ) 三重県最南端に近 おばま みなみむろ ⑤その他。シロアリの巣とかコウモリガの食入とたび心が用として動いて情が発動しても過不西日本旅客鉄道小浜線美浜駅にも近く、窯業、 い南牟婁郡にある町。一九五八年 ( 昭和三三 ) いちぎおろし - 一うしやま あたわ 跡から発見されたものもある。〈伊藤修四郎〉及なき「和」なる発出をするとは限らない。気木材業、食品加工業が行われる。久々子湖ロの阿田和町と市木尾呂志、神志山の二村が合併し ちゅうよう なだしちり ひるが 未発已発論みはついはつろん『中庸』第一質の阻害によってしかるべき節度にびたりと中久々子は三方五湖遊覧の拠点。日向湖ではハマて成立。熊野灘の七里御浜に面し、町名もそれ ちゅう かんよう 章に「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂 らぬ危険性がある。そこで朱熹は、未発の涵養チ、タイを蓄養し、常神半島沿岸はプリ定置網にちなんで命名された。沿岸は平坦で、耕地と あた う。発して皆な節に中る、これを和と謂う」と ( 存養。心を静的場において保持するくふう ) の好漁場で早瀬には魚市場がある。敦賀半島西集落が開けるが、内陸部は険しい紀伊山地で占 して、「未発の中」を説いた一節に由来する議と已発の省察 ( 察識。心が事物と応対する場に岸の母生もプリ定置網の漁村で、近くに関西電められる。紀勢本線、国道四二号、三一一号が 論。朱子学の心性論、修養論の重要な課題となおいてその理非曲直を観察するくふう ) とを一カ美浜原子力発電所が立地する。久々子、日向通じる。かって市木木綿などを産する農漁村で じ、よ・つ わかさ ったもので、喜怒哀楽 ( すなわち情 ) がいまだ本化し、居敬のくふうを主張し、いついかなる両湖や海岸一帯は若狭湾国定公園の一部で、京あったが、地引網漁業の衰退により、温暖な気 発動しない以前の「末発」の状態と、情が発動ときにあっても心の主体性を保持する方法とし阪神からの釣り客や海水浴客でにぎわう。人口候を利して七一年から丘陵地に五〇〇タもの した「已発」の状態とにおける心のあり方、そた。↓朱子学↓朱熹 〈大島晃〉 一万三三八四。↓三方五湖 〈島田正彦〉大規模柑橘園を開く国営事業が行われ、「年中 いまじよう ちくぶしま へんばう してその修養のくふうが問われた。儒教倫理学回島田虔次著『朱子学と陽明学』 ( 岩波新書 ) ミカンのとれる」町に変貌した。七里御浜は吉 囮五万分の一地形図「今庄」「敦賀」「竹生島」 たけなみ にしづ における思弁の深まりがみられる一テーマであ ▽荒木見悟編『世界の名著続 4 朱子・王 「竹波」「西津」「熊川」 野熊野国立公園の一部である。人口一万〇二七 しゆき ちた り、朱熹 ( 朱子 ) の定論確立の端緒もこの問題 陽明』 ( 一九七四・中央公論社 ) 〈伊藤達雄〉 美浜 ( 町 ) みはま ( ちょう ) 愛知県知多半島南九。 みかた どろ にあった。 美浜 ( 町 ) みはま ( ちょう ) 福井県南部、三方部、知多郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 囮二万五千分の一地形図「木本」「阿田和」「靜 つるが こうわのま はっちょう 朱熹によれば、心がまだ動かぬ状態を末発と郡の町。日本海に臨み、敦賀市の西に接する。河和、野間の二町が合併して美浜町と改称。名 八丁」「大里」 さんとうきたさい ) ) う ときしかんのん いい、心は静で、中正を得た、本来的な「性」一九五四年 ( 昭和二九 ) 山東、北西郷、南西古屋鉄道河和線・知多新線が通じる。時志観音三原 ( 市 ) みはら広島県南東部、瀬戸内海 めた のある河和は河和線の終点、バス交通網の起点 に注ぐ沼田川のデルタにある工業都市。一九三 いとイ一き で、早くから海水浴場として知られた所。野間 六年 ( 昭和一一 ) 三原、糸崎の二町と山中、西 おのうら すなみ は近世、千石船の寄航地、小野浦には灯台、宝野、須波、田野浦の四村が合併して市制施行。 ながたこやはた 順丸の漂流船員の和訳聖書発祥の碑があり、奥五三年 ( 昭和二八 ) 長谷、八幡の二村、五四年 田の南知多ビーチランドは新しい総合海浜公沼田西、小泉、沼田東の三村、五六年幸崎町と だいばう 園、野間大坊には源義朝の墓がある。丘陵上の、の一一村を編入。山陽本線、東海道・ 鵜の山は全国でただ一か所のカワウの繁殖地で山陽新幹線、国道二号が通じる。また西日本旅 とうしょ くれ 国の天然記念物に指定されている。知多新線奥客鉄道呉線を分岐し、四国の今澄港や島嶼部へ 田駅に近い丘陵上には名古屋市から移った日本の定期船便もある。 福祉大学がある。特産はミカン、の けいきみずあめ り、鋳物用珪砂、水飴。人口二万三四 四四。 〈伊藤郷平〉 もろ 二万五千分の一地形図「河和」「師 うつみ 崎」「野間」「内海」 美浜 ( 町 ) みはま ( ちょう ) 和歌山県 ひだか 中西部、日高郡にある町。一九五四年 のま ( 昭和二九 ) 松原、和田、三尾の三村 虫産 妊を が合併して成立。紀伊水道に面して六 不代 キロにわたって大松原があり、町名はこ る世 えんじゅはま れ次 れによる。煙樹ケ浜とよばれ、西端の さもる 飼て 日ノ御埼とともに煙樹海岸県立自然公 放して ら尾げ 園域。三尾の漁村はカナダ西海岸への か交あ 袋とを移民が多く、アメリカ村として知られ しおふき 紙種果 に同効 る。海岸には弁天島 ( 海猫島 ) や汐吹 みさき 除のに ッ防生除岩、和田の御崎神社、吉原の御坊跡な 一第工野防 どがある。施設園芸や沿岸漁業が行わ バは虫 ミ虫害 れる。人口九〇四二。↓煙樹ケ浜 第ウ不め 日ノ御埼 〈小池洋一〉 ミカンコミ / ヾ工の群れ キュウリに産卵中のウリミバエの雌 月ー ツワプキケプカミバエの幼虫が食入 し , 虫こぶができたツワプキの茎 あた ) き みみ みさき つねがみ かんきっ きのもと へいたん 三原市仏通寺含暉院地蔵堂。仏通寺は 1397 年 ( 応永 4 ) 愚中周及の 開基。小早川氏や浅野氏の保護によって栄えた。地蔵堂は愚中周及 の塔所で 1404 年の創建。重文 さいイ」き 425
みしま ↓竹島↓黒島 〈平岡昭利〉 6 じていった。なお、室町末期に日本でわび茶の村が合併して三島村となり、六一年町制施行。 ちやわん 茶碗として半島の粗製碗を珍重し始めたが、ま宮下、三島の地名は三島神社にちなむ。町域の回松永守道著『三島村秘史』 ( 一九七 = ・三島村 ) 2 ただみ ず三島が注目されて高い声価を得た。伝世の大部分は山地で、北部を只見川が北東方向へ流囮二万五千分の一地形図「薩摩竹島」「薩摩硫 おけ うえだこよみで 黄島」「薩摩黒島」 「上田暦手」「三島桶」「大三島」「二徳三島」なれ、川沿いを東日本旅客鉄道只見線、国道二五 はぎ どの名品は古三島ともよばれ、また江戸初期に 二号が走る。中心地区の宮下は只見川とその支見島みしま山口県萩市の浜崎港から北西 ふざん へ四五キ。の日本海に浮かぶ島。旧見島村。面積 釜山窯などで日本からの注文で焼かれた三島茶流大谷川の合流点付近にある。農林業が主で、 ・六二平方キ。。玄武岩からなる台地状の島 〈矢部良明〉キリ・スギの植林と製材、葉タバコ栽培、養蚕六 碗を御本三島という。↓刷毛目 などが行われる。積雪が一 ~ 二に達し、特別で、イクラゲ山 ( 一七五 ) には航空自衛隊のレ 回田中豊太郎著『陶磁大系三島』 ( 一九七六・ わみようしよう ーダー基地がある。『倭名鈔』には大津郡三島 平凡社 ) ▽『世界陶磁全集四李朝』 ( 一九豪雪地帯に指定されており、豊富な水資源を利 用して只見川に宮下ダムがつくられ、最大出力郷とみえる。ジーコンポ古墳群は国指定史跡 含・小学館 ) あげみず 三島 ( 市 ) みしま静岡県東部、伊豆半島の基は九万キ。ワット。沼沢の揚水発電にも利用されで、七 ~ 一〇世紀の群集古墳。中世は大陸貿易 〈安田初雄〉で栄え、近世は海防上の要地として一島一郡を 部に位置する市。一九四一年 ( 昭和一六 ) 市制ている。人口三一八〇。 なした。萩藩は遠見番所を置き、砲台が築かれ 施行。五四年 ( 昭和二九 ) 中郷村を編入。市域回『三島町史』 ( 一九天・三島町 ) はかせ た。また、藩の流刑地でもあった。一七三九年 の北東部は箱根連山の西側斜面にあたり、西部二万五千分の一地形図「宮下」「博士山」「沼 のじり あしたか 、、、冫」「野尻」 ( 元文四 ) の記録には家数三四六軒、人数一九 は愛鷹山の東側斜面。東に境川、西に黄瀬川が 流れて、市街地は両河川の扇状地上に広がり、 三島 ( 町 ) みしま ( まち ) 新潟県中央部、三島二七人、船数三一艘とある。暖流に洗われ わきの たがた 南は田方平野に連なる。富士山噴火で流れ出た郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 脇野町とる暖かい島で、島内はよく水田化され、水稲、 おおっ 溶岩流の最末端にあたり、溶岩流の間を流れ出大津村の一部が合併して三島町と改称。五六年タバコ、ダイコン、冬キャ・ヘッの産出が多い で手巧東反特たの木あ白のの 館に独し手冬で眼とも てくる富士山の伏流水が市内の随所に泉や池を日吉村の一部を編入。小木城山の東麓を流れる特産は見島和牛。漁業は刺網、延、一本釣り ~ 由高 5 術外島を暦て持 ( 象暦 がおもで、アマダイ、プリ、イカ、サザ工、ウ つくり、「東海の水の都」とよばれる。東海道黒川流域は中越米の米どころをなし、長岡から 上紀美く三姿田っ所 , 島き いずもざき 銘世径津強古な上か氏と三ら ニの漁獲が多い。見島ウシ産地、見島のカメ生 本線、同新幹線、伊豆箱根鉄道が通じ、国道一出雲崎に出るバス路線の要衝にあたる。中心地 ロ根が , 正。は田ののかう 島碗 ~ 部た端碗称上た様似 号が東西に、国道一三六号が南北に通じる。古区脇野は、近世天領の代官所の置かれた地で、 息地は国指定天然記念物。浜崎港からの定期便 三茶 5 京ロつの茶呼鮏っ文類と のこぎりかんな うちはものかじ 代、伊豆国国府の所在地として地方行政の中心古くから鋸、鉋、のみなどの打刃物の鍛冶町がある。人口二〇八九。↓萩 ( 市 ) 〈三浦肇〉 りちょう 回山口県教育委員会編『見島総合学術調査報 三島みしま朝鮭半島李朝時代の前期を代地で、初め国府と称したが、三嶋大社が南伊豆として知られた。いまも会津鍛冶の伝統を継ぐ 告』 ( 一九六四・山口県 ) 表する陶芸。日本では一般に三島手、刷毛目と白浜から移ってからは三島とよばれるようにな鋸がつくられる。良質の水に恵まれ、清酒、製 めん おぎじよう もいう。名称の由来は、その文様が三島暦 ( 江った。中・近世は三嶋大社の門前町、また東海麺、みそなどの食品工業も盛ん。西境の小木城囮二万五千分の一地形図「見島」 し よど たかっき 戸時代に静岡の三嶋大社発行の暦 ) の文様に似道の宿場町として繁栄した。一八八九年 ( 明治址は展望が優れる。人口六 〈山崎久雄〉三島江みしまえ大阪府北東部、高槻市の淀 でぐちひらかた こよみで 川右岸の地。対岸の出口 ( 枚方市 ) との間に ていることによるとするのが通説で、暦手とも二 (l) 鉄道敷設に反対したため、東海道本線が回「三島町史』二巻 ( 一九会・三島町 ) かぶさんじ ふんせいしやき ) 一てんば 御殿場を通るようになると一時さびれたが、一囮二万五千分の一地形図「与板」「長岡」「出雲「三島江の渡し」があり、北摂山中の神峯山寺 よぶ。近年韓国では粉青沙器と称している。 のせみようけんどう たんな びしやもんてん - 一うらい ぞうがん 崎」「西山」 への毘沙門天参道、能勢妙見堂への妙見道の 高麗時代の象眼青磁の技法が崩れて衰退して九三四年丹那トンネルの開通で三島駅ができる とふたたび活況を取り戻した。東海道新幹線三 渡船場であった。また景勝地で、「三島江の玉 三島 ( 村 ) みしま ( むら ) 鹿児島県鹿児島郡に いく過程で生まれ、一作風として定着した。作 くぎぼり 江の薦をしめしよりおのがとぞ思ふいまだ刈ら 島駅の設置で名実ともに富士箱根伊豆国立公園ある村。薩摩半島の南方海上約五〇キロにあり、 種は技法上から、彫三島、釘彫三島、刷毛目、 おう 絵三島などに分けられる。三島は細やかな象眼の玄関口となった。近年は火山灰土壌を生かし竹島、硫黄島、黒島の三つの火山性の島々からねど」 ( 『万葉集』巻七 ) など古歌に多く詠ま きじ いんかもん 〈樋口節夫〉 文を主体とするが、灰色の素地に印花文などをてニンジン・ダイコンの栽培や、施設園芸が盛なる。第二次世界大戦後、北緯三〇度以南のれている。 じっと・つ すいた ゅう 施し、白土で化粧がけしたのち、透明釉をかけん。また化学繊維、電気機器、ゴム、製薬など島々がアメリカ軍政下に置かれたため、十島村囮二万五千分の一地形図「吹田」 かみさんとう にしきだ たものが基本で、大柄の文様の周りを掻き落との工場がある。国史跡に錦田一里塚、山中城跡、から分離し、一九五二年 ( 昭和二七 ) 上三島でミシマオコセ〔三島縢〕 Japanese star ・ 三島村として発足した。村役場は鹿児島市にあ gazer/8UranoscoPus を、を s 硬骨魚綱 し、ここに白土を埋めたものが彫三島である。伊豆国分寺塔跡があり、国天然記念物・名勝に うめまきえ また釘で文様を粗く線彫りして白土を象眼した楽寿園がある。三嶋大社には梅蒔絵手箱 ( 国宝 ) り、硫黄島に三島開発総合センターがある。鹿スズキ目ミシマオコゼ科に属する海水魚。本州 のが釘彫三島で、白化粧の上に鉄絵が加わるとをはじめ国重要文化財が多く、キンモクセイは児島市と三島村を結ぶ村営定期船は、八六年よの中部以南の各地と朝鮮半島の南岸に分布す 絵三島となる。文様上の特色から、三島、檜国の天然記念物。市立郷土博物館、佐野美術り月に一三便と増え、便によっては鹿児島からる。名のミシマは三島 ( 昔の宿場町、現静岡県 三島市 ) に由来し、オコゼは醜い魚 ( 遊女 ) を 三島、角三島、渦三島などの称があり、銘文館、県教育研修所、日本大学 ( 文理学部、国際の日帰りも可能となり、観光客の増加が期待さ じゅうへん の文字から礼賓三島とよばれるものもある。窯関係学部 ) などがあり、文教の都市でもある。れている。畜産が基幹産業で、傾斜草地を利用意味する。頭と体の前半部はいくぶん縦扁し、 〈川崎文昭〉 した肉用牛の飼育のほか、シイタケ栽培やタケ尾部に向かうほど側扁する。頭の背面と側面は は半島全体に分布しているが、とくに忠清南道人口九万九六〇〇。↓三嶋大社 あたみ すそ けいりゅうぎん 公州郡の鶏竜山窯が名高く、一五世紀が全盛囮二万五千分の一地形図「箱根」「熱海」「裾ノコの加工、ツバキ油の生産などが盛んであ骨板で包まれる。ロは大きく上方に向かって開 ししたに しゅんかん おちゅうど の じんしんわらん る。鹿ヶ谷事件の俊寛や平家の落人伝説にま く。目は頭の背面にある。肩部に強大な棘が突 野」「三島」「韮山」 期で、一六世紀までは焼成されたが、壬辰倭乱 かカく ぶんろく けいちょう ( 文禄・慶長の役 ) を境に一七世紀にはこの系三島 ( 町 ) みしま ( まち ) 福島県西部、大沼郡つわる史跡が多く、雄大な自然とともに重要な出する。腹びれは極端に前にあり、下顎の下に みやしたにしかた の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 宮下、西片の一一観光資源となっている。人口五五二。↓硫黄島位置する。体は褐色で、背側面に暗褐色の網状 譜はとだえ、半島南部の窯の多くは白磁窯に転 れいひん で にらやま きせ ・一も
にしやっしろ 物品税についても、課税済みの物品が、①輸出本栖湖もとすこ山梨県西八代郡、上九一色党、二八 ~ 二九年衆議院議長。政界長老として本埜 ( 村 ) もとの ( むら ) 千葉県北部、印旛郡 しもう寺 ) に向けられた場合、②特定用途に供された場村と下部町の境にある富士五湖の一湖。五湖の遇され、三二年枢密顧問官に任じられた。昭和にある村。下総台地と印旛沼の低地に位置す とね 〈阿部恒久〉る。国道三五六号が通じる。江戸時代、利根川 合、③返還または製造場に戻し入れされた場合 うちで最西端に位置する。標高九〇〇、面積 一三年一〇月一日死去。 ちょうし の流路が銚子へかえられ、印旛沼の排水路長門 などには、一度徴収された税が払い戻される。五・一平方キ。。最大深度は一二一 ・六で五湖回古庄豊著「国東余影』 ( 一九三九・森採雲堂 ) ▽ 「元田国東翁自伝」 ( 『中央大学学報』一一 川へ利根川の土砂が流入して湖畔に逆三角州地 物品税では戻し税のかわりに税の還付という用中で最深。透明度一七、水色は澄んだ藍色で わじゅう 帯が形成され、そこに輪中で囲まれた新田一四 四所収・一九一穴・中央大学 ) 語を用いているが、同じ内容である。酒税などある。八六四年 ( 貞観六 ) の富士山の噴火によ しようじ もとち - よ , っ いくつかの勘定口座を網か村が成立した。現在、水田耕作を中心に施設 他の内国消費税にも、一度徴収した税を払い戻る溶岩で西湖、精進湖に分離した。貧栄養湖で元帳 す制度が組み込まれている。なお、所得税減税あるが、フナ、ヤマメ、ウグイなどが釣れる。羅して収容する会計上の帳簿をいう。複式簿記園芸も行われるが、南部一帯は千葉ニュータウ ふじのみや ン建設地にあたり、新たな地域変化がみられ においては主要簿たる総勘定元帳と補助簿たる の際にも、過去の年度にさかのばって減税を行また富士宮有料道路を経由しての観光客も多く とりみ えいふく なったが、湖畔には青少年スポーッセンターな補助元帳とがある。取引は、仕訳により勘定のる。栄福寺薬師堂は国重要文化財、鳥見神社の 、その減税額を、税務署長への還付請求書な かぐら 借方要素と勘定の貸方要素に分解され、仕訳帳神楽は県無形文化財に指定されている。人口四 どの提出を待って、あるいは給与の支払者を通ど若干の施設があるのみで、山中湖、河口湖ほ 〈山村順次〉 において、どの勘定口座の借方とどの勘定口座六六 じて還付することがあるが、これも戻し税あるどのにぎわいはなく、まだ自然が多く残ってい 〈林正寿〉る。↓富士五湖 ^ 吉村稔〉の貸方へどれだけの金額を記入すべきかが指示回『本埜村史』全五巻 ( 一九七 ~ 会・本埜村 ) いは戻し減税などとよばれる。 りゅうさき 。もとしなしょ , つみ、んづか される。これにより、該当する勘定口座へ記入囮二万五千分の一地形図「成田」「龍ヶ崎」「小 二万五千分の一地形図「精進」 元島名将軍塚古墳 しょ・つぐんづかこふん 林」 もとだとうや ( 天天ー九一 ) 儒者。がなされる ( これを転記という ) が、資産、負 こふん 0 将軍塚古墳 元田東野 なかうおめま あぎな ながざね もとのきいせき新潟県中魚沼郡 ーーしやしん 0 ファッション明治天皇の侍講。名は永孚。東野は号、字は子債、資本、収益、および費用に属する各種の勘本ノ木遺跡 モード写真 しもふなと ぶんせい しやしん 写真 中。文政元年一〇月一日熊本藩士の家に生まれ定口座を網羅した帳簿が総勘定元帳である。た津南町大字下船渡にある縄文時代草創期の遺 しようなん じしゅうかん とえば、現金の増減 ( 収入、支出 ) は、それそ跡。一九五六年 ( 昭和三一 ) 淵、五七 もとしんしまかんたく茨城県南る。藩校時習館に学ぶ。このころ横井小楠と 本新島干拓 やまのうちすがお しなの 、なしきあ子・ま 部、敷郡東村にある干拓地。旧村の本新島村相知り、熊本実学派の影響を受けた。家督相続れ現金勘定口座の借方と貸方に記録される。勘年山内清男が発掘調査。信濃川に面した低位 うきしま るす かすみ 八六二年 ( 文久一 l) 京都留守居、の定口座により記録の量に違いがあるため、伝統段丘にあり、細身両面加工の石槍が多量に発見 の北側と浮島東側の間の霞ヶ浦の入り江、約五ののち、一 し ちゅうごしようがしらそばようにんぶぎよう され、石槍製作址としての特色をもつ。ほかに 七二タを干拓して四一七 : 写の水田をつくっち中小姓頭、側用人兼奉行など藩の要職を歴的帳簿組織では、総勘定元帳は通常、ルーズリ 、ん″、りいめ ーフ式のものが採用される。決算において、総ノッチ ( 快入石器 ) 、エンド・スクレー た。茨城県が国営代行事業として一九四二年任。七〇年 ( 明治三 ) 隠居し、私塾五楽園を開 せきふせきぞく おうあっ 。七一年藩命により上京、宣教使および少参勘定元帳の各勘定口座は一定の方式に従って締石斧、石鏃が少数ある。押圧縄文のある深鉢平 ( 昭和一七 ) 着工、五六年 ( 昭和三一 ) 完成。 としみち 事となる。同年大久保利通の推薦で宮内省出仕め切られる。次に、補助元帳は、総勘定元帳の底土器が出土。この土器と石槍とを同一時期と 山形県など各地から入植し、約一九〇世帯、 じどく みる山内説と、段止礫層上に生活面を想定して 〇〇人余が居住する。稲作と酪農に園芸農業を侍読、七五年侍講、以後天皇側近として君徳補特定の勘定口座の内訳を記録する帳簿であり、 加えた新農村経営方式のモデル地区である。堤導にあたる。八六年宮中顧問官、八八年枢密顧得意先元帳や仕入先元帳などがある。得意先一兀両者の伴出を認めない芹沢説とがある。石槍に 問官。八二年勅命により『幼学綱要』を編集。帳は、得意先別に請求書を発行する必要上、得もいくつかの形態があるが、本ノ木型の細身の 防利用の酪農は特色であり、茨城県第二位の乳 ものは、縄文時代草創期の特徴をなす一型式。 牛頭数をもつ。干拓地を囲む国道五一号、一一一国民教化にとくに関心が深く、儒教を原点と意先口座ごとに売掛金の増減を記録し残高を明 五号および稲敷広域農道の一環をなす堤防外周し、祖宗の訓典に源流を求める国民道徳の形成らかにするもので、各得意先口座の売掛金残高とくに石槍とノッチの組合せは、石槍文化の特 ^ 麻生優〉 に力を注いだ。その考えは『国教論』『聖喩記』合計は、総勘定元帳の売掛金残高と一致する。性を十分に物語っている。 道の整備は、新農村の経営に効果をあげてい もとのもくあみ ( 一七一一四ー天 ↓帳簿↓簿記 る。堤防上より見る霞ヶ浦と浮島は景勝に富んなどにみられる。「教育勅語」の起草には、井 〈長谷川哲嘉〉元の木網 こわし もとながさだまさ ( 一九二ー ) 洋戸中期の狂歌作者。本名大野屋喜三郎。狂名木 だ地帯である。 〈櫻井明俊〉上毅とともに中心的役割を果たした。勅語発布元永定正 あそう 画家。 = 一重県上野市生まれ。一九五五年 ( 昭和網の前は網攤鱶釜、画名嵩松。武蔵松山 の翌年明治二四年一月二二日没。↓教育勅語 二万五千分の一地形図「麻生」「潮来」 じろう ↓幼学綱要↓忠君愛国 〈尾崎ムゲン〉 三〇 ) 具体美術協会会員となり吉原治良に師 ( 埼玉県 ) から江戸に出て湯屋を営むかたわら、 ちえのないし 本巣 ( 町 ) もとす ( ち、う ) 岐阜県南西、本 もとだはじめ ( 天夭 ー一九三 0 明治・ 事、七一年退会まで具体展に出品。一九五八年和歌和文を妻 ( 狂名知恵内子 ) とともに学ぶう 巣郡にある町。一九五〇年 ( 昭和二五 ) 山添、元田肇 からころもきっしゅう あんせい ぶん もんじゅ 文殊の二村が合併して本巣村となり、五六年外大正・昭和期の政治家。安政五年一月一五日豊「新しい絵画世界展ーーアンフォルメルと具体」ち、一七七〇年 ( 明和七 ) 唐衣橘洲宅の狂歌 あわせ いのまた やま に出品、翌年トリノのプレミオ・リソーネ展で合に参加してから狂歌に親しみ、八一年 ( 天 後国 ( 大分県 ) に生まれる。旧姓猪俣。国東と 山村と合併、六〇年町制施行。根尾谷の谷口に ていはっ かわらけ たにくみけごん あたる山口は、かっては谷汲山華厳寺や根尾方号す。一八八〇年 ( 明治一三 ) 東京大学を卒業受賞。六六年現代日本美術展で二度目の優秀賞明一 ) に隠居剃髪して芝の土器町に落栗庵を構 てんめい ばっ・一う えて、夫妻で指導に努めた。天明狂歌勃興時に 後代言人となり、九〇年郷里から代議士に当を受け、渡米してニューヨークに滞在、翌年ョ 面への往来のための休憩・宿泊の地であった。 よっや よものあからやまのて ーロッパを巡遊して帰国。激しい抽象表現主義落栗連は四方赤良の山手連、橘洲の四谷連と並 また、下流の扇状地水田地帯への用水取り入れ選。以後一六回当選。大成会、国民協会など経 ロのある所で、根尾川沿いに住友セメントのエて一九〇〇年 ( 明治三三 ) 立憲政友会に入党。から簡潔でユーモラスな造形に移る。七〇年のぶ中心であり、いわゆる寛政改革期には、和歌 場も立地する。町の南東部、丘陵南縁は岐阜市衆議院および党内に重きをなし、一一年拓殖局万博美術展に『三つの浮遊体』を出品、翌年現に近い作風が迎えられて、古今にわたる選集 ていしん はらたかし に接し、住宅団地が開発されている。樽見鉄道総裁、一三年 ( 大正一 I) 逓信相、二〇年原敬代日本美術展で『 Z. Z. Z. Z. Z. 』により京都国立『新古今狂歌集』を著している。作風は温雅平 〈上島正徳〉内閣の初代鉄道相に就任、政友会の積極政策を近代美術館買上賞。その後も八三年第一一回美術凡で特色に欠けるが、そこに特色があるともい もが通じる。人口七四六五。 これきょ える。 〈浜田義一郎〉 推進した。後継高橋是清内閣でも留任したが、文化振興協会賞、新潮社日本芸術大賞のほか、 の回『本巣町史」全二巻 ( 一〈・本巣町 ) たにあい みのこうみ あせ水をながして習ふ剣術の役にも立たぬ御 と囮二万五千分の一地形図「谷合」「美濃神海」二二年内閣改造問題で苦境にたち、二四年脱第四回ソウル国際版画ビエンナーレ展で大賞を よ きたがた も 〈小倉忠夫〉 代そめでたき ( 「剣術に寄する祝」 ) 党、政友本党に参加した。二七年 ( 昭和一 l) 復受ける。 「北亠刀」 ートえ しもべ あい しき つなん れきそう かんせい み 901
きう ふたいわ いわ 化財。人口四七三五。 木生の二村、双岩村の一部と合併。町名は三瓶の開始から、毎夜男は女のもとへ通うのである も 国指定史跡。四国八十八か所第四五番札所の岩川 もち あらや 神社に由来するといわれる。集落はリアス式のが、普通三日目の夜に餅を婿に供することが行 〔三川温泉〕阿賀野川の支流新谷川の下流にあ屋寺があり、境内の岩峰群「岩屋」は国指定名 2 おおかわみねさんろく あさだっ つぶり ところあらわし 海岸沿いに立地し、三瓶湾奥の朝立や津布理はわれた。本来これは露顕の儀と一体のものる古くからの湯治場で、五頭連峰の裏登山基地勝。大川嶺山麓には美川スキー場がある。人口 〈横山昭市〉 江戸時代の新田干拓地。イワシ漁業で栄え、海で、その本質は、自家の女性の寝所に忍んで通であり、県民の森もあって静かな山の湯であ三二一七。 まうしよう にぎゅう はかた 運業も盛ん。二及地区は県内の伯方町に次いで う男を、その現場でとらえ、自家の火で調理しる。泉質は含食塩己硝泉。東日本旅客鉄道磐回『美川村二十年誌』 ( 一九七五・美川村 ) ひがしがわやないがわ 船主や船員が多い。真珠養殖から転じたハマチた餅を食べさせることで同族化してしまうとい 越西線三川駅からバスの便がある。〈山崎久雄〉囮二万五千分の一地形図「東川」「柳井川」 むことら じゅじゅっ だいにちだけ みかぐらだけ かさとりやま 養殖も盛んで、宇和海沿岸の主要産地。海運に う婿捕えの呪術の儀式化といえる。露顕の際囮五万分の一地形図「大日岳」「津川」「御神楽岳」 「久万」「笠取山」 しゅうとしゅうとめ よる原料、製品の輸送と安い労働力を利用して には、婿は舅姑以下と対面、披露の宴が催美川 ( 町 ) みかわ ( まち ) 石川県中央部、石川 三加和 ( 町 ) みかわ ( まち ) 熊本県北部、玉名 きようおう 大正期から綿紡績工業が立地したが、現在は規され、新婦側は婿の従人を饗応した。餅の種郡の町。日本海に臨む。一八八九年 ( 明治一一郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 春富、 ) 」うけ ちょうや 模が縮小している。県指定無形民俗文化財に朝類、数などには諸説あるが、『江家次第』は、 一 I) 町制施行。一九五四年 ( 昭和二九 ) 蝶屋村緑、神尾の三村が合併して誕生。六八年町制施 のみみなと てどり ちくひ 日文楽がある。人口一万一二 八一。〈横山昭市〉銀盤に餅三枚をのせて供し、婿はそれを全部は と能美郡湊村を合併。手取川河口にあり扇状地行。主幹産業である米麦農業は、北端の筑肥山 ぎくち 回『三瓶町誌』全二巻 ( 一九六三・三瓶町 ) 食い切らないのを作法としている。〈杉本一樹〉と砂丘からなる。北陸本線、北陸自動車道が通地の山奥に源を発し、南端の町界をなす菊池川 じっちょう みさきのたたかい ベル 二万五千分の一地形図「三瓶」「伊予高山」 じ、美川インターチェンジがある。古代からの に流入している十町川・和仁川の本・支流沿 ミカレ岬の戦い きたまえぶねもとよしみなと いに階段状にみられる耕地に展開。また昭和三 美甘 ( 村 ) みかも ( そん ) 岡山県北西部、真庭シア戦争中の一戦闘 ( 前四七九 ) 。ギリシア軍はプ港町で、近世は北前船の本吉湊として栄えた。 あさひ しんじよう 郡の村。旭川の支流新庄川の中流域を占めるラタイアイでベルシア陸軍を破る一方で、サモ明治初期、一時石川県庁が置かれた。伏流水に〇年代後半から本格化したミカン栽培地は、北 中国山地の山村。古代の美甘郷、中世の美甘庄ス島の対岸ミカレ Mykale 岬で攻勢に出た。 恵まれ、染色、化学、機械、土石、織物工業が半域の諸峰の頂までに広がっているが、米同 の地。山、黒田の両地区では明治中期まで盟た スパルタ王レオティキデスの率いる海軍はベル発展し、仏壇、刺しゅうは特産。小舞子海水浴様、生産過剰に悩んでいる。米の減反政策の強 〈矢ヶ崎孝雄〉化は、ナス、メロン、イチゴ、スイカ、クリな 流しによる砂鉄採取、たたら製鉄が行われ、そシア軍攻撃を決意したが、敵軍は海戦を避けて場がある。人口一万二三二 のため地形が大きく変化した。以後は和牛の放船を引き揚げて陸上部隊に合流した。だが彼回『美川町近代産業史』 ( 一九六五・美川町商工会 ) どの導入を盛んにしている。過疎化の歯止め策 ▽『美川町文化誌』 ( 一九六九・美川町 ) 牧飼育に転換、第二次世界大戦後は林業が活発は、上陸を敢行して完勝した。この結果、大戦 として、輸送機械・ゴム製品などの工場誘致に まっとう あおう いずも となる。中心地区の美甘は出雲往来 ( 国道一八 の導火線となったイオニア地方回復の基礎が築囮二万五千分の一地形図「松任」「粟生」「美川」成功してはいるものの、その労働力吸収は女子 かれ、大戦は後のカリアスの和約で終息した。 一号 ) の宿場町。人口二〇九八。〈由比浜省吾〉 美川 ( 町 ) みかわ ( ちょう ) 山口県中西部、玖雇用に偏りがちである。南端付近を東西に国道 ↓ベルシア戦争 回『美甘村誌上巻』 ( 一九七四・美甘村 ) 〈豊田和二〉珂郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 臨、桑根四四三号が走り、近くに三加和温泉センターが ゅばら 〈山口守人〉 囮二万五千分の一地形図「湯原湖」「横部」「美三川 ( 町 ) みかわ ( まち ) 山形県北西部、東田の二村が合併して美川村となり、五九年町制施ある。人口六三九四。 おし やまが 作新庄」「ど刑」 川郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 横山、押行。岩国市の北西に接し、平地の少ない錦川中囮二万五千分の一地形図「高井川」「山鹿」「野 きりとう 1 」う 流域の山林が大部分を占める農山村。河港の南 町」「関町」 三加茂 ( 町 ) みかも ( ちょう ) 徳島県西部、三切、東郷の三村が合併して三川村となり、六 しようない ぐわ かもいっき 好郡の町。吉野川南岸に位置する。一九五九年年町制施行。庄内平野の中央に位置し、町域桑を中心に川舟による河川交通が昭和初期まで三河一揆みかわい。き 0 加茂一揆 おおやま さんしよう きようでん ( 昭和三四 ) 加茂町と三庄村が合併して成立。 の中央を赤川、東を京田川、西を大山川の行われたが、現在は錦川沿いに陰陽連絡路の国三河一向一揆みかわいっこうい。き一五六 吉野川沿いを徳島本線と国道一九二号が並行し 「三川」が北流し沖積地を潤す水田単作地帯が道一八七号と錦川鉄道が走る。硫化鉱の河山鉱三年 ( 永禄六 ) の九月から翌年三月にかけて、 たんだ まつばっ て走る。加茂谷川岩陰遺跡群 ( 県史跡 ) 、丹田広がる。国道七号が南北に縦断し、酒田、鶴岡山のある町として知られたが、一九七一年の閉徳川家康の本拠、三河国岡崎周辺に勃発した一 やは 古墳 ( 国史跡 ) などがあり、また条里制の遺構両市の中間点にあたる地理的位置から、中心地山で人口が激減した。近年タングステン鉱山の向一揆。一五世紀後半、矢作川周辺には浄土真 ねか とろほんしゅうじ さんじ がみられ開拓は古い。背後は四国山地で、林産の横山には山形県庄内支庁が設置されている。 開発が進んでいる。根笠谷の岩屋観音には石宗本願寺派が、土呂本宗寺や三河三ケ寺とよ じようぐうじ はりギ ) きしようまんじ のでらほん 〈中川重〉灰華によって石化した観音仏があり、錦川中流ばれる佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺・野寺本 物としてシイタケ、クリ、ミツマタなどがあ人口八五一一。 しようじ る。毛田地区では、県営パイロット事業により回『三川町史』 ( 一九七四・三川町 ) のカジカガエル生息地とともに国の天然記念物証寺の有力寺院を中心に教団を形成し、寺内 標高一〇〇〇の高原に七〇タを開拓、高冷囮二万五千分の一地形図「藤島」「酒田南部」 に指定されている。特産は錦川のアユ。人口一一町の建設などを通じて広く当地域の流通機構を そ寺、い おけはざま 五四九。 地蔬菜のハクサイ、レタス、ダイコンを栽培す 「湯野浜」「鶴岡」 〈三浦肇〉掌握していった。一方、一五六〇年の桶狭間合 もとやす る。三加茂八幡神社は、神を祀るため石を築き 戦後、岡崎帰城を果たした松平元康 ( 徳川家 三川 ( 村 ) みかわ ( むら ) 新潟県中北部、東蒲回中本三十一編『美川町史』 ( 一九六九・美川町 ) あがの すおうほんごう しぶくま 巡らしたイワクラ ( 磐座 ) があり、玉垣式神社原郡にある村。阿賀野川谷口右岸に位置する。囮二万五千分の一地形図「周防本郷」「渋前」康 ) は、三河の領国化政策を着々と進めていっ すま 「玖珂」「周防広瀬」「周防須万」「菅野湖」 として知られる。古川には特別天然記念物「加近世までは会津藩領に属し、村の中央を縦貫す た。しかしこの政策は、同時に農民や寺院への かみうけな 茂の大クス」がある。樹高二五、根回り二〇る旧会津街道の諏訪峠、綱木峠越えの難所とし 美川 ( 村 ) みかわ ( むら ) 愛媛県中部、上浮穴過酷な収奪となって現れ、その過程で三ケ寺の おも 1 一 に及ぶ。人口九六二一。 〈高木秀樹〉て知られた。村の中央を阿賀野川が貫流し、阿郡の村。仁淀川上流の面河川と久万川流域の山もっていた不入特権が侵害されたため、その擁 しながわひろかた - 一くじん 回『三加茂町史』 ( 一九七三・三加茂町 ) 賀野川ライン県立公園の景勝地を形成。東日本村。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 仕七川と弘形の一一護を旗印に領国内の反対派の国人・土豪、農 あわこみ ばんえっさい あげかわ ほ ) っキ一 村と中津村の一部が合併して成立。村名は面河民、一向門徒などが蜂起した。また松平家臣団 囮二万五千分の一地形図「貞光」「阿波古見」旅客鉄道磐越西線、国道四九号が並走し、揚川 しろさき ダムがある。白崎から石間までの一三キ。間は、 川の美しさにちなんだもの。旧土佐街道 ( 国道も分裂して一揆に加わったため、松平氏にとっ 「辻」「阿波中津」 こんか 三日夜餅みかよのもちい婚嫁の際に行われ旧津川船道の舟下りが楽しめる。村の九七 % が三三号 ) に沿う交通の要地であった。スギ、ヒては大きな危機であった。しかし、松平氏は苦 た儀式の一つ。平安時代、貴族社会において主山林で、木材、クリ、シイタケ、ナメコなどが ノキの人工林が多く、葉タバコや茶の栽培も盛戦のすえ、一揆勢力の不統一もあってようやく かみくろいわいわかげ 流を占めたいわゆる婿取り婚の婚儀では、結婚主産物である。平等寺の薬師堂は国指定重要文ん。縄文早期の住居跡である上黒岩岩陰遺跡は勝利を得、その後松平氏は本願寺派寺院を破却 まっ さだみつ みま つなぎ ひがしかん つるおか 0 すがのこ たまな
みすみ ース・ファン・デル・ ローエ げはほとんどない。一九三一年 ( 昭和六 ) 土地 したのち、七一年閉山したため衰退した。現在計画を具備したものとして貴重な文化遺産とな プ居を品粋浴べとンめ中 やよい 州で合作純。す内テたのる区画整理の際、発見された。弥生文化後期の各は北九州市のべッドタウンとして住宅団地が開っている。熊本県下最初の特別輸出港・貿易港 邸イ築統のはたを室一る境め としての同港の機能が衰え始めたのは、一九〇 スノ建とこンっど , 力い環営型式の土器が多量に出土し、前期、中期の土器発され、産炭地振興による企業進出もみられる。 せき 宅理 , ラななめとて然が ワイ住整がプと室集スれ自活片もわずかに出土している。また一部から、縄 八〇年完成した遠賀川河口堰は釣り場として親三年 ( 明治三六 ) 三角線が現在の三角港 ( 三角 はの 体械にラらは生 ン年ス問し久方機央ガ切人代文文化中期末から後期初頭の土器片、晩期の土しまれている。人口三万〇〇六二。〈石黒正紀〉東港 ) まで開通したのが直接の原因である。こ すえ てつぞく アノ一空求至直 , 中は仕む近 器片、古墳時代の土師器・須恵器・鉄鏃など、回『水巻町誌』 ( 一九六 = ・水巻町 ) の東港も、天草五橋の開通 ( 一九六六 ) に伴う国道 フラミ住追にな室て外で住で おおがめ まうきよういんとう おりお なかま まつばせ 歴史時代の陶質土器、大甕に入った宝篋印塔囮二万五千分の一地形図「折尾」「中間」 五七号 ( 北岸道路 ) 、県道松橋線 ( 南岸道路 ) たてあな なども発見された。工事に伴い、竪穴住居址、 の整備によって、その取扱い貨物量は伸び悩ん 水枕みすまくら水または水を入れるゴム 溝状遺構などが多数露出発見され、そのつど小 製の枕。発熱時や体熱感のあるとき、心身の安でいる。かわって観光ルートの中継地としての 栗鉄次郎、中山英司、吉田富夫らが調査した。楽をもたらすために用いる。氷を用いるときは地位が確立し、三角ー島原間就航のフェリー旅 お 土器のほか銅鏃、各種の石器、骨針、ガラス小 クルミ大に割り、ざるに入れ、水をかけて角を客は年間一〇〇万人を超えている。町内にはト へきぎよくくだたま だら りゅうじようかん 玉、碧玉製管玉などが出土した。また愛知県とる。これを水枕の容量の三分の一から三分の田良古墳 ( 国史跡 ) 、龍驤館 ( 武道場 ) 、九州 てんしようだい 下の弥生後期の一型式として、本遺跡出土の一 海技学院 ( 旧宇土郡役所 ) 、天翔台 ( 展望台 ) 二ほど入れたあと、ごろごろした不快感をなく おおたお かんげき グループの土器を標式として「瑞穂式」というすため、氷の間隙を埋める水を少量入れる。水や大田尾・若宮海水浴場、さらに戸馳花卉団 型式名を設定したこともある。 〈江坂輝彌〉枕は、後頭部に密着することがたいせつなので、地、戸馳車工ビ養殖池など観光資源には事欠か すいとう 〈山口守人〉 枕の中の空気を抜いて専用金具でロを留め、水ない。人口一万二六八七。 水疱瘡みすばうそう 0 水痘 ~ いづん ~ まつあい やっしろ 囮二万五千分の一地形図「松合」「八代」「三 水間みずま大阪府南部、貝塚市の一地漏れのないことを確かめて、水滴をふきカバー そふら きびたに まひ 区。蕎原川と秬谷川が合流して近木川となってをかける。凍傷や感覚麻痺をおこさないように 角」「天草松島」 北西流する地にあり、水間寺の所在地として知カバーの厚さや使用時間を調整するほか、肩の三隅 ( 町 ) みすみ ( ちょう ) 島根県西部、那賀 られる。水間寺背後の水間公園はサクラ、ツツ部分に水枕が当たらないように注意する。ま郡の町。日本海に臨み、北部は浜田市、南部は ますだ ジの名所。↓貝塚 ( 市 ) た、家庭用の冷凍庫に入れて薬品を凍らせ、水枕益田市に接する。一九二七年 ( 昭和一 l) 三隅、 おんが にしずみ 水巻 ( 町 ) みすまき ( まち ) 福岡県北部、遠賀同様に用いる製品も市販されているが、使用時西隅の二村が合併して町制施行。五五年 ( 昭和 〈山根信子〉 郡にある町。一九四〇年 ( 昭和一五 ) 町制施の注意点は水枕と同じである。 三〇 ) 黒沢、岡見、三保の三村と合併。山陰本 せんとく 線、国道九号が通じる。中世は豪族三隅氏の居 行。遠賀川下流右岸に沿って沖積低地が南北に水間占みすませんとく 0 沾徳 広がり、東端は低い第三紀丘陵が分布してい 水間寺みずまでら大阪府貝塚市水間にある城があった。三隅川流域に耕地が開け、米作な りゅうこくざん る。鹿児島本線と国道三号が南部を東西に通じ天台宗の寺。同宗の別格本山。龍谷山と号し、 どが行われ、ユリ、ナッミカン、西条ガキを特 かんのん しようかんぜ いわみ る。明治中期以降、炭鉱町として発展したが、俗に水間観音の名で知られる。本尊は聖観世産する。一本釣りなどの沿岸漁業もある。石見 おんばさっ 筑豊炭田有数の日炭高松炭鉱が六五年 ( 昭和四音菩薩。寺伝によると、七四四年 ( 天平一六 ) 和紙の製造技術は国の重要無形文化財に指定さ しようむ わかまっ 〇 ) に鉱害のために坑口を北九州市若松区に移聖武天皇の勅命により行基が開創したとされれている。三隅公園はツッジ、ショウブ、梅の 名所。なお、一九八三年七月の集中豪雨により る。坊院一五〇を数え隆盛を誇ったが、一五八 とよとみ ねごろ 五年 ( 天正一三 ) 豊臣秀吉の根来攻撃の際に根大被害を受けた。人口九六一一九。〈野本晃史〉 工 来方につき、焼打ちされたが、歴代の岸和田城回「三隅町誌』 ( 一九七一・三隅町 ) 彡 / うづかわ あいぜん 同プた 主により再建された。境内には、縁結びの愛染囮二万五千分の一地形図「木都賀」「宇津川」 せいじゅうろう せんどうごう の」え 堂、お夏・清十郎の墓がある。正月三が日に 「三隅」「仙道郷」 棟一与 もち コ 2 ハを 千本つき ( 十六童子餅つき ) を行う。〈田村晃祐〉 三隅 ( 町 ) みすみ ( ちょう ) 山口県北部、大津 はぎ シれレ影 三角 ( 町 ) みすみ ( まち ) 熊本県中部、宇土郡郡の町。東は萩市に、西は門市に接し、日本 らクな 年てスき下の宇土半島の南西端にある町。一九〇二年海仙崎湾に入る三隅川の流域を占める。一九四 建ィ大 てカに ( 明治三五 ) 町制施行。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 二年 ( 昭和一七 ) 町制施行。国道一九一号と山 ごうのうらとばせおおたけ えス築 トかの建郡浦、戸馳、大嶽の三村と合併。樹枝状に発陰本線が通じる。東西に延びる三隅谷は平地に うまや わみようしよう にス層達している谷底平野は、久しく主幹産業である恵まれ、『倭名鈔』の三隅郷の地、三隅駅家の 角ラ高 ア直ガの米麦農業の舞台であったが、海岸の温暖な緩傾置かれた所。町役場のある三隅は近世の北浦 かんきっ をと後 プき鉄以 斜地を利用して始められた柑橘栽培はいまや一一一街道に沿う宿駅、市場町として発達。仙崎湾岸 おおたけ イ向「 角町農業の中核となっており、樹園地は大岳にはタイ、プリ、ウニの漁獲の多い野波瀬の漁 ラにのし ト岸年現 〈三浦肇〉 ) 、三角缶 ( 四 0 六 ) の中腹にも広がって村がある。人口七二〇二。 ア東幻実 ョ湖 ~ て いる。三角西港 ( 一公七開港 ) は、内務省お雇い 回司三隅町の歴史と民俗』 ( 一九七三・三隅町 ) シンめ クガ円初 のオランダ人技師ムルドルによって設計され、囮二万五千分の一地形図「三隅中」「秋吉台北 イシを 単なる港湾の修築だけではなく、総合的な都市 部」「仙崎」「長門湯本」 壟」ゞ ! ! 鱸蠱 ! 亠 ! 1 い鱸鱸 : 」驅 に ! ーまこ第 ! を物 ! い一 玖′ / 、ほ・つ あまく寺一 333