いっちょう し出資により設立された。三六年に日本化成工業して鉱業にも進出、三菱財閥の基盤の一つとな事、三菱鉱業、三菱海上火災保険 ( 一九四四年〇年 ( 明治二三 ) 。明治の終わりには「一丁ロ川 しん・一う に東京海上火災保険に合併 ) 、三菱銀行が創設 ンドン」とよばれたれんが造りのビル街が出現 3 る。一九一八年 ( 大正七 ) 三菱鉱業株式会社と 、ひと改称し、四二年に新興人絹を合併。四四年に し、一九二三年 ( 大正一一 l) には丸ノ内ビルチ され、また、三菱内燃機製造 ( 一九二八年から つは旭硝子を合併して三菱化成工業とな 0 た。第して独立、国内だけでなく海外の鉱山開発にも ング ( 丸ビル ) が完成した。三菱地所は一九六 二次世界大戦後は、財閥解体による旧三菱化成進出、日本有数の鉱業会社に発展した。第二次三菱航空機と改名 ) 、三菱電機の二社が神戸造 工業の三社分割により、五〇年 ( 昭和二五 ) に世界大戦後の一九五〇年 ( 昭和二五 ) には集中船所から独立し、三菱合資のもとにコンツェル〇年代以降、丸の内地区の全面的再開発を実行 ンとしての形態を整えていった。さらに二七年するとともに、住宅・レジャーなどビル賃貸以 日本化成工業として新発足。財閥商号使用禁止排除法により金属部門 ( 現三菱金属 ) を分離し ( 昭和一 l) には三菱信託を設立し、三一年には外の新規事業にも進出した。資本金は約八〇二 令の廃止に伴い、五二年にはふたたび三菱化成石炭専業となったが、エネルギー革命の進展に 〈橘川武郎〉 工業となった。戦前以来のコークス、染料、肥伴い多角経営に転換、五四年三菱セメントを設アソシェーテッド石油会社の資本を導入して設億円 ( 一九 ) 。 立された三菱石油が加わった。三〇年ごろの三 料、薬品に加えて、戦後は、合成樹脂、合成繊立、六二年に建材、七〇年代から電子セラミッ 三菱重工業 ( 株 ) みつびしじゅうこうぎよう 維原料など事業をさらに多角化し、六四年以クス製品のほかエンジニア・コンサルティン菱財閥は、直系一〇社、傍系一一社、孫会社四わが国最大の総合重工業会社。一八七五年 ( 明 降、岡山県水島地区で石油化学事業にも進出しグ、不動産業などにも進出。七三年石炭会社の〇社、計六一社となり、払込み資本金総計は五治八 ) 郵便汽船三菱会社が横浜に三菱製鉄所を た。関係会社には関西熱化学、三菱モンサント三菱鉱業が三菱セメントと同系統の豊国セメン億九二〇〇万円で、三井の約七〇 % であった。建設して船舶修理を開始したことに始まる。 化成、三菱軽金属工業などがある。プラジルをトとを合併して発足したのが三菱鉱業セメント三四年には三菱造船に三菱航空機を合併して新七年、江戸幕府が一八五七年 ( 安政四 ) に設立 はじめ海外にも進出。資本金は約六六七億円である。資本金二〇二億円、年間売上高一七一一たに三菱重工業が発足し、第二次大戦期の軍需して維新後官営となっていた長崎造船所の払下 ( 一九 ) 。福岡県黒崎、岡山県水島など五工場を〇億円、国内に六工場、三研究所、関連会社四生産に絶大な役割を果たした。戦時期には三菱げを受け、以来、設備を拡充しながらわが国第 一の造船所としての地歩を築いた。一九〇七年 〈橘川武郎〉 もつ。 八社をもっ ( 一九八七 ) 。↓岩崎弥太郎〈森真澄〉系各社の増資が相次ぎ、三菱合資は資金需要に ( 明治四〇 ) 三菱合資会社造船部となり、一七 三菱銀行 ( 株 ) みつびしぎんこう都市銀行の回三菱鉱業セメント株式会社編・刊『三菱鉱業応するために三七年に株式会社三菱社に改組さ れ、さらに四三年には財閥本社の性格を強化し年 ( 大正六 ) 三菱造船株式会社として独立。こ 社史』 ( 一九七六 ) 一つで、三菱系企業集団の中核的金融機関であ ひ・一しま やたろう る。一九一九年 ( 大正八 ) 三菱合資会社銀行部三菱財閥みつびしざいばっ岩崎弥太郎が創て株式会社三菱本社に改められた。三菱合資はの間、神戸、彦島 ( 下関市 ) にも新造船所を設 設し、岩崎一族が出資し、また歴代社長に就任大正期からアジア諸地域の各種資源の調査を行置した。その後二〇年に三菱内燃機製造 ( のち の事業を継承し、株式会社として設立され、一一 きんばら 、多くの投資を行ってきたが、満州事変以後三菱航空機 ) 、二一年に三菱電機を分離独立さ 九年 ( 昭和四 ) 森村銀行、四〇年金原銀行、四した、三井に次いで第二位の大財閥。岩崎弥太 一一年東京中野銀行をそれそれ買収し、四三年第郎が土佐藩事業をもとに築き上げた郵便汽船一一一も満州や中国で多数の合弁会社を設立し、政府せたが、三四年 ( 昭和九 ) 三菱航空機を合併し 百銀行 ( 当時の七大銀行の一つ ) を合併した。菱会社が、一八八五年 ( 明治一八 ) に共同運輸出資法人の北支那開発株式会社にも資本参加して三菱重工業株式会社となり、船舶、航空機、 第二次世界大戦後の四八年 ( 昭和二三 ) 財閥解と合併して日本郵船になると、弥太郎の弟の弥た。第二次大戦期にも三菱鉱業や三菱商事は南各種機械、兵器を生産する、わが国有数の軍需 ちょだ 工業会社に発展した。とくに戦艦「武蔵」、戦 六年方受命事業で占領地域の産業開発を行った。 体のため千代田銀行と改称したが、五三年三菱之助は「海から陸へ」戦略転換を行い、八、 ゼロせん 敗戦後の一九四五年一一月に ( 連合国闘機「零戦」の生産が著名である。 に三菱社を設立して社長に就任し、さらに九三 銀行の旧商号に復帰した。前身は一八七一年 やたろう 第二次世界大戦後、過度経済力集中排除法に ( 明治四 ) 岩崎弥太郎が土佐藩から引き継いだ年には三菱社を改組、弥之助と弥太郎の長男の最高司令部 ) は財閥解体指令を発し、小弥太は つくも より、一九四九年 ( 昭和二四 ) に東日本重工業 自発的解体を拒否したが、大勢には抗しがた 九十九商会で、七三年三菱商会と改称、海運業久弥との折半出資により三菱合資会社を設立し かわせ ( のち三菱日本重工業 ) 、中日本重工業 ( のち新 、岩崎一族は退陣し、四六年九月三〇日に三 のほか為替業務を営んでいたが、八五年第百十て、久弥が社長に就任した。三菱合資は、八一 九国立銀行を吸収して銀行業務を拡充、これが年に買収した高島炭鉱、八七年に払い下げられ菱本社は解散した。三菱商事は四七年七月に解三菱重工業 ) 、西日本重工業 ( のち三菱造船 ) た長崎造船所を中心に、九六年に払い下げられ散し、三菱電機、三菱化成工業、三菱重工業、の三社に分割されたが、六四年再合同して旧社 九五年に三菱合資会社銀行部に継承された。 さど いくの た佐渡・生野の鉱山と大阪製錬所、北海道と筑三菱鉱業 ( 現三菱鉱業セメント ) の各社も独立名に復活した。七〇年には三菱自動車工業を分 第二次大戦後、財閥解体のため苦況にたたさ れたが、その後再編成された三菱系企業集団の豐の炭田、丸ノ内ビル街の建設など、事業を拡または分割し、ここに三菱財閥の解体は完了し離設立させた。一九八六年度の売上高は約一 中心に位置し、資金供給面での役割を担ってき大していった。また久弥個人の出資により、三た。しかし講和条約の締結 ( 一九五 l) のころから六三九七億円、内訳は船舶・鉄構一四 % 、原動 きりんびーる 三菱系の各企業は復活し、三菱企業グループを機二八 % 、機械二〇 % 、航空機・特車二一 % 、 / 岩井農場、麒麦酒などの傍系会 た。近年は内外にわたるフル・バンキングを展菱製紙所、ト 形成して今日に至っている。 〈三島康雄〉その他一七 % である。資本金は約一九五〇億 開しており、名実ともにわが国を代表する銀行社も経営された。 〈中村青志〉 一九〇八年 ( 明治四一 ) には三菱合資の組織回旗手勲著『日本の財閥と三菱』 ( 一九天・楽游円。↓三菱会社 の一つである。一九八七年三月末現在、資本金 書房 ) ▽三島康雄編『三菱財閥』 ( 一九全・日回三菱重工業株式会社編・刊『三菱重工業株式 一三一一三億六一〇〇万円、預金残高二五兆一一一改革が行われ、造船、銀行、鉱業、営業などの 会社史』 ( 一九五六 ) ▽同編・刊『三菱造船株式 本経済新聞社 ) ▽同著『三菱財閥史』全二 〇五億円、貸出残高一 八兆三五二七億円、店舗各事業部は、大幅な権限を与えられて独立採算 会社史』『三菱日本重工業株式会社史』 ( 一九 冊 ( 教育社歴史新書 ) 数国内二六〇、海外一一、従業員数一万三二六制に移行した。一四年 ( 大正三 ) に第一次世界 けんじま ばつばっ 〈村本孜〉大戦が勃発すると、朝鮮の兼二浦に製鉄所を建三菱地所 ( 株 ) みつびしじしょ大手不動産会 八人である。 設し、造船所をはじめ傘下の各企業は生産を拡社。賃貸ビル業の最大手。一九三七年 ( 昭和一 三菱商事 ( 株 ) みつびししようじ大手総合商 三菱鉱業セメント ( 株 ) みつびしこうぎよう こやた やたろう 発祥は、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の大した。一六年七月に弥之助の長男の小弥太が一 l) に三菱合資の地所課を継承して設立。五一一一社。前身は一八九九年 ( 明治三一 l) 三菱合資会 つくも 社に商事部門として設置された営業部だが、発 九十九商会 ( 後の三菱合資会社 ) が一八七一年三菱合資の社長に就任し、本社スタッフ部門を年 ( 昭和二八 ) には、財閥解体により解散した 一年以来の三菱の石炭貿易に求めら 三菱本社の第一一会社である陽和不動産および関祥は一八八 ( 明治四 ) 紀州新宮藩の炭鉱を租借し汽船の燃強化したのち、各事業部を一七年から一九年に かけて独立の株式会社として再編することとな東不動産を合併した。事業の基盤である東京都れる。一九一八年 ( 大正七 ) 営業部を分離独立 料の自給を図ったことに求められる。その後、 吉岡銅山、高島炭鉱などを買収し、明治期を通り、三菱造船、三菱製鉄、三菱倉庫、三菱商心の丸の内地区を三菱社が取得したのは一八九させて三菱商事株式会社とし、国内主要都市の むさし
まんが ①ワーグマン「き△ 弓単 . 圧」「ジャノヾン・ノヾ ンチ』 1878 年 ( 明治 11 ) 新聞紙条例・出 カタホカツがナイカ 版条例による明治政府の厳しい言論弾圧 政策に抗議している ②小林活親「清親ポンチ ( 東京谷中天王 地 ) 」 1 1 年 ( 明治 14 ) 前年 12 月の集会 条例改正で , うつかりタ涼みもできなく なったことを風刺 ③ビゴー「漁夫の利」 「トバエ』 1887 年 工ェ与・ンっイ ( 明治 20 ) 朝鮮をつり上げようとしてい る日本と清国。そしてすきあらば横取り しようとするロシア あわれ ④北沢楽天「憐むべきやせ馬」「東京バ ック』 1910 年 ( 明治 43 ) やせ馬 ( 国民 ) が 桂太郎内閣の重税と軍備拡張政策にどこ まで耐えられるか ? ーヒカウキ ( ャ′ャウニチキ・ココ ( アマ , ガハ′まト , ウキ 4 マハチにサミエ ホシホタル′ャウ - 一 トア しよ、せ、一 ⑤織田小星・樺島勝ー「正チャンの冒険」 「アサヒグラフ』 1923 年 ( 大正 12 ) 児童漫画 の最初の大ヒット作。正チャン帽も有名 ⑥麻生豊「ノンキナトウサン」「報知新聞 1923 年関東大震災直後の不況時代に登場 した失業者が主人公の人気漫画 ⑦岡本一平「漱石先生」大正末期夏目 漱石と親しかった一平の得意の漫像。右は わかはい 「吾輩は猫である』のモデル猫 ⑧癩企蕚「この威力 / 」「無産者新聞 1927 年 ( 昭和 2 ) グロッスとグロッパーの 影響を受けた力強い労働者教宣漫画 こんなことて 擧いてたまるかい 物を、 亠最後の一人となっても ( 第はこ」をする 心ぶながら 一ざぬば なの鑓いむだに てることにな物ます 耳しよう だなア 、・れよを やられちゃ たまらない オイサン アメが ⑨田河水泡「のらくろ」 「少年倶楽部』 1931 年 ( 昭和 6 ) 11 年問連載 され , 単行本もベスト セラーとなる。昭和漫 画を象徴する作品 ⑩横山隆一「フクちゃん」「朝日新聞」 1936 年 ( 昭和 11 ) 戸ッ子健ちゃん」の脇役として登場 , 8 か月後に「養子のフ クちゃん」と改題し , 主役となる。戦後も「毎日新聞ーに連載 ⑩杉浦幸雄「見通しの街」「漫画』 1946 年 ( 昭和 21 ) 「ああ春 夫さんがおみえになったわ , ハロー」焼跡の中で , スカート をはきバーマをかけた女性が登場。平和の喜びが伝わる作品 ⑩清水崑「吉田茂像」「アサヒグラフ」 1953 年 ( 昭和 28 ) 吉 田首相が予算委員会の野党議員とのやりとりで , 「バカヤロウ」 と発言し , 衆議院が解散した事件を風刺 ⑩小島功「三十代」昭和 20 年代女性の宿命を象徴的に描 いた作品。美人風俗漫画の名手の片鱗がすでにうかがえる ⑩牧野圭一「列島改造」「読売新聞」 1976 年 ( 昭和 51 ) ロッ キード事件でこの年流行したことは「黒いビーナツツ」を使 っての日本列島改造。事件の主役田中角栄前首相の政策を痛 烈に風刺している く解説・構成 : 清水勲〉 アクマーン 197
わり 村垣範正むらがきのりまさ ( 天一三ー八 0 ) 幕割への変化要求が顕著にみられる。中期以降っとも目覚ましく、その強力な水軍力は瀬戸内となった。『ホトトギス』の初期より投句し正 きよし ぶぎよう 末期の旗本。外国奉行を勤めるなど外交面で活は、発生件数が著しく増加するとともに、質地海沿岸の戦国大名から恐れられた。能島、因島岡子規の指導を受け、次いで高浜虚子に就く。 第一うの あわじのかみ 両村上氏は毛利氏と、来島村上氏は伊予河野氏『ホトトギス』の有力作者となったが、耳疾の 躍した。『村垣淡路守範正公務日記』などを残関係の進展に伴い小作騒動的要素が強まってく 〈保坂智〉との関係が深い。一族の故地である宮窪町と因ため裁判所を辞めさせられ、多くの子女を抱え している。一 八三一年 ( 天保一 l) 新規召し出さる。 しよしき 一、じゅうにんかく れて小十人格庭番となり、諸職を経て五四年村上 ( 市 ) むらかみ新潟県北部の中心をなす島市には、水軍関係の資料を集めた資料館があて貧困と不遇の生活に甘んじ、動物に哀憐の目 おおすがおつじ かんじようぎんみ 〈山内譲〉を注いだ独特の境涯句は大須賀乙字の激賞を受 旧城下町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 村上、岩る。↓水車 ( 安政一 ) 勘定吟味役に進み、海岸防御のこと かわじとしあきら さべり ー一九三九 ) 日 ( 天公 け、乙字編『鬼城句集』 ( 一九一七 ) により一躍俳 などにも関係し、同年一〇月には川路聖謨ら 船、瀬波の三町と山辺里、上海府の二村が合併村上華岳むらかみかがく やま しもだ みおもて して市制施行。下越平野の北端、三面盆地の南本画家。本名震一。大阪市生まれ。京都市立美名があがった。その後愛知県発行の俳誌『山 とともに、下田に来航したロシア使節の応接係 ていよ はこだて じゅ ぶどう を命ぜられた。五六年箱館奉行に進み、従五位端に位置し、蒲萄、朝日山地に囲まれている。術工芸学校専攻科を経て京都私立絵画専門学校竧』の選者に迎えられ、浅井啼魚らの尽力で大 せいほう えぞ 下、淡路守に叙任された。在任中は蝦夷地の開羽越本線と国道七号、三四五号が通じる。市のを一九〇九年 ( 明治四一 l) に卒業、竹内栖鳳に阪に鬼城会も発足し、生活もしだいに安定し ばくせん がぎゅう こいずみのしよう さかキ、ばらしほう た。句集には前記と同名の『鬼城句集』 ( 一九 拓に尽力した。五八年外国奉行を兼ね、翌五九シンポルをなす臥牛山は、中世小泉庄を領有師事。同期に榊原紫峰、入江波光、土田麦僊、 ちくきよう ころ ほんじようしげなが 小野竹喬らがいる。卒業制作『二月の頃』は一一六 ) 、「続鬼城句集』 ( 一九三三 ) のほか、『鬼城俳句 年神奈川奉行も兼帯した。同年九月日米通商条した本荘繁長の居城があった。近世は加賀小 よしあき なおより 〈村山古郷〉 第五回文展で褒状を受けた。一六年 ( 大正五 ) 俳論集』 ( 一九四七 ) 等がある。 約批准交換の副使を命ぜられ、六〇年 ( 万延松城から村上義明が移封し、さらに堀直寄に引 じろうしゅ さんろくひらじろまいづる しんみまさおき あだのず 治聾酒の酔ふほどもなくさめにけり き継がれて、山麓に平城の舞鶴城と城下町が築の第一〇回文展で「阿弥陀之図』が特選。一、 一 ) 正月、正使新見正興らとともにアメリカに やまじろ 赴き、その功で三百石の加増を受けた ( 計五百かれ、町も「村上」と改められた。古い山城城年に麦僊、竹喬らと個性的な表現を標して回「村上鬼城全集』全三巻 ( 一九七四・あさを社 ) けんおう ▽中里昌之著「村上鬼城の基礎的研究』 ( 一九 石 ) 。『遣欧使節日記』がある。同年末プロシア下町から近世の平城城下町に改造された典型的国画創作協会を結成、画界に新風を送った。代 ひだかがわきょひめず 会・桜楓社 ) な城下町で、諸形態がそのまま保存され、県の表作の一つ「日高河清姫図』 ( 東京国立近代美 との通商条約交渉の全権に任ぜられるなどあっ たが、以後外交面から離れ、作事奉行、西の丸史跡・名勝に指定されている。いまの中心商店術館 ) はその第二回展への出品作である。しか村上源氏むらかみげんじ村上天皇の皇子具 もろふさ ほりん ~ わ ひら ぜんそく 留守居などを勤め、六八年 ( 明治一 ) 病のため街をなす本町通りが町人町で、山麓の士族の町し二一年ごろから喘息が始まり、画壇から離れ平親王の子師房に始まる賜姓源氏。堀川、久 もと がっちみかどなかのいんろくじようちぐさきたばたけ まんえん 隠居した。↓万延元年遣米使節〈林亮勝〉は「村上本町」とよばれていた。古くから二、七て引きこもり、孤独のうちに制作に没頭した。我、土御門、中院、六条、千種、北畠などの ちかふさ やまたわ ろくさいいち じかた せな 公家に分かれた。北畠親房もこの流れである。 日の六斎市場でにぎわい、西奈弥羽黒神社で行二〇年の『裸婦』 ( 東京・山種美術館 ) では官 村方三役むらかたさんやく地方三役ともい ↓源氏 能性と宗教性の融和が図られているが、以後仏 う。江戸時代の村役人で、名主 ( 庄屋 ) 、 " 頭われる村上大祭に引き出される山車は名物で、 し としよりおとなびやくしようひやくしようだい ( 年寄、長百姓 ) 、百姓代をいう。↓村役人昔のおもかげをしのばせている。茶の商業的栽画や山水画が多く制作され、思惟性の強い独自村上元三むらかみげんぞう ( 一九一 0 ー の画境へ進んでいった。ほかに『夜桜之図』説家、劇作家。朝鮮元山に生まれる。青山学院 村方騒動むらかたそうどう江戸時代の村役培の北限といわれる村上茶と県の文化財工芸品 こまえ きゅうだん に指定されている堆朱が名産である。藩の殖産「秋柳図』『太子樹下禅那図』「世 ( 亠宅立尊中等部卒業。長谷川伸に師事。直木賞候補作を 人に対する小前百姓たちの不正糾弾闘争。 ぐふう でいり むらうナ 前騒動、村方出入ともよぶ。村講制下の近世村興業策から発展した三面川のサケ漁はいまも盛像』などが代表作。また著書に『画論』 ( 一九四一 ) 収録した『先駆者の旗』 ( 一九四 0) 、『颶風の門』 〈原田実〉 ( 一九四 I) は、北方を舞台とした異色作である。 落では、村役人に広範な徴租・統治機能が付与んで、その資金は藩士の育英資金に利用され人がある。神戸に没。 かずさふどき 下男の献身美を描いた『上総風土記』 ( 一九四 0 ) されており、村役人が不正を働かしうる余地が材の養成に努めてきた。岩船は、古くから日本回『村上華岳画集』 ( 一九会・日本経済新聞社 ) えんぎ いわふねのき ▽村上華岳著「反古集』『画論新装版』 ( 一九で第一一一回直木賞受賞。戦後派的なエピキュリ 存在したので、小前百姓らがその不正を摘発海側の漁港として栄え、磐舟柵や延喜式内社 ・一う いわふね 、七七・中央公論美術出版 ) ▽河北倫明著アンの色彩をもって、小次郎の屈折した青春を し、糾弾する村方騒動が多数発生した。青木虹岩船神社がある。これに続く瀬波は三面川河口 じ 造型した『佐々木小次郎』全三巻 ( 一九五 0 ~ 五一 ) 『村上華岳』 ( 一九六九・中央公論美術出版 ) の漁村と温泉町からなり、上海府海岸とともに 二編『百姓一揆総合年表』には、全国各地で三 で、文壇の位置を不動にした。『加賀騒動』 ( 一九 〇〇〇余件の事件が確認されているが、実際に 海岸景勝地になっている。人口三万三三二五。村上鬼城むらかみきじよう ( 天六五ー一九三 0 みつくに ↓村上堆朱 〈山崎久雄〉俳人。江戸に生まれ、幼時高崎に移る。本名五 l) 、『次郎長三国志』 ( 一九五一 l) 、水戸光圀の一代 はさらに多数の事件が存在したものと推定され しよう がつぎ 記『水一尸黄門』四部作 ( 一九五六 ~ 六一 l) 、『五彩の絵 る。小前百姓たちの要求は、年貢・村入用の勘五万分の一地形図「勝木」「塩野町」「小風」荘太郎。一一歳で母方の養嗣子となる。若く ふしんすけごう き一さがわ して耳疾を患い、ために軍人、司法官を志して図』 ( 一九七四 ) など佳作。一九六五年 ( 昭和四〇 ) 「笹川」「村上」 定不正をはじめとして、普請・助郷役などの人 いり・めい そくわりつけ 〈山崎一穎〉 足割付、田畑の横領、入会地などの不正使用、村上氏むらかみうじ南北朝時代から戦国時果たさず、父の職を継いで高崎裁判所の代書人放送文化賞受賞。 家格問題、小作年貢問題などの村人の生活上多代にかけて瀬戸内海で活躍した海 のしま みやくば 岐にわたって展開し、村役人の退役を求め、跡賊衆。伊予国能島 ( 愛媛県宮窪 役のん札 ( 選挙 ) 制などを要求することもあ町 ) 、同来島 ( 同今淪市 ) 、備後国 いんのしま る。通常の騒動は、小前が訴願し、村役人の返因島 ( 広島県因島市 ) にそれそ 答書が作成され、役所での吟味は受けるが、周れ根拠地を置く三家からなる。三 ないみ」い 辺村落の村役人や寺院などが扱人となり、内済家は互いに強固な同族意識で結ば さんとう が成立して解決するものが多いが、後期に至るれ、後世には三島村上氏とも称さ みと幕府や藩に越訴するものや、打毀へ発展すれた。南北朝時代には村上義弘が カるものもみられる。初期の騒動は、土豪の系譜南朝方として活躍したことが記録 かんぶん 、らを引く村役人の諸特権に対して展開し、寛文期にみえるが、その実態は明らかでつ めんわり たか む ( 一六六一 ~ 七三 ) ころから年貢・諸役の面割から高はない。戦国期における活躍がも いっき せなみ かみかいふ 0 ひょうまう 村上華岳「日高河清姫図」 1919 年 ( 大正 8 ) 絹本着色 143.5X55.6cm 東京国立近代美術館 安珍を追い求める箍の姿が浮かぶ ように描かれている。清姫は浮世絵 風に描かれ , その目良を表さない目の 描き方も加え , 女性の哀れさを効果 的に表現している とも 661
みやけし 回池上幸二郎著『三宅尚斎先生事略』 ( 『闇斎史』として刊行される「同時代観」を連載し 先生と其門流』所収・一九四三・明治書房 ) ▽た。一九四三年文化勲章を受章。三代にわたる 4 平重道著『三宅尚斎の神道批判と鬼神来格思彼の評論活動を貫くバックポーンは健全なナシ ョナリズムの感覚であったが、彼の思想は、明 想』 ( 『近世日本思想史研究』所収・一九六九・ 吉川弘文館 ) 治中期のナショナリズムが大正デモクラシーや しようぎん 大正文化主義を経て、「文化創造への参照」と 三宅嘯山みやけしようざん 0 嘯山 いう形で第一一次世界大戦後まで継続されたもの 三宅雪嶺みやけせつれい ( 天六 0 ー一九四五 ) 哲 〈田代和久〉 窿学者、文明評論家。加賀藩家老のお抱え医師のとして評価される。 子として金沢に生まれる。号の雪嶺は加賀の名回柳田泉編「明治文学全集芻三宅雪嶺集』 はくさん ( 一九六七・筑摩書房 ) ▽本山幸彦著「明治思想 焼峰白山にちなむ。幼時より漢学とともに英語、 フランス語を学ぶ。開成学校を経て一八 八三年 の形成』 ( 一九六九・福村出版 ) ( 明治一六 ) 東京大学文学部哲学科を卒業、た三宅恒方みやけつねかた ( 一公 0 ー一九一二 ) 昆 だちに東京大学準助教授として東京大学編輯所虫学者。石川県金沢市生まれ。一九〇五年 ( 明 に勤務、日本仏教史の編集に従事した。のち文治三八 ) 東京帝国大学理科大学動物学科を卒業 後、大学院で昆虫学を専攻。〇七年同大学農科 昭区部省編輯局に移ったが八七年これを辞し、以 年古 後、終生野にあって哲学的見識に満ちた評論大学助手、一六年 ( 大正五 ) 農商務省農事試験 えんりよう 田阿 四の家として旺盛な活躍をした。八八年井上円了、場昆虫部主任となり、また農科大学実科講師を ー ) げたか 、しげたけ 志賀重昂、杉浦重剛らと政教社を創立、雑誌嘱託され、一九年には農学部講師となったが、 宅南 『日本人』を発刊。同時に陸羯南とも親交を保二一年腸チフスのため四一歳の若さで没した。 ち陸主筆の新聞『日本』にもしばしば寄稿し しかし、日本産のシリアゲムシ、ガ、カマキリ 池などもあり、山紫水明で、富士箱根伊豆国立 に属し、三六年 ( 昭和一一 ) 総選挙から四二年た。この時期以降、ジャーナリストとしての彼モドキ、ミバエの研究など、多数の論文を発表 はんろん 翼賛選挙 ( 非推薦 ) まで当選三回。第二次世界の活躍は目覚ましく、『江湖新聞』の主筆、新し、名著として名高い「昆虫学汎論』上・下、 公園に属す。東京から海・空の定期便があり、 観光客が多い。人口四一六七。一九八四年以大戦後、日本社会党結成に参加し副委員長など聞『国会』の社説を担当する一方で、九一年の訳書『ふおるそむ氏昆虫学』のほか、『第六感 来、島民たちや内外の自然保護団体などが強く 歴任、また四九年 ( 昭和二四 ) から八〇年の引『真善美日本人』『偽醜悪日本人』、九二年のを交えて』『旅と私』などの随筆集を著した。 せつれい 退まで通算一一期衆議院当選、七六年から副議『我観小景』などの著作において、欧米文化の評論家三宅雪嶺の甥。ともに小説家・評論家の 反対する米軍艦載機の夜間発着訓練基地新設問 つやこ 〈諏訪彰〉長を務めた。昭和五七年五月一一三日死去。著書圧倒的優位という時代状況のなかで、人類史にやす子は夫人、艶子は長女である。〈中根猛彦〉 題で騒然となっている。 二万五千分の一地形図「三宅島」 に『幾山河を越えて』 ( 一九六六 ) 、『激動期の日本おける東洋や日本の固有の価値を正当に評価す三宅藤九郎みやけとうくろう ( 一九 0 一ー 〈荒川章一一〉 る有力なオピニオン・リ 能楽師。和泉流狂言方。五世野村万造 ( 隠居 ーダーの一人であっ ー一九社会運動史』 ( 一九七三 ) がある。 三宅周太郎みやけしゅうたろう ( 天九 = まんさい 六七 ) 演劇評論家。兵庫県に生まれる。一九一回『私の履歴書第四三集』 ( 一九七一・日本経済新た。この間、東京専門学校 ( 早大 ) 、哲学館 ( 東名、萬斎 ) の次男として東京に生まれる。前 まんすけ うつばぎる 聞社 ) ▽三宅正一先生を偲ぶ刊行会編・刊洋大 ) に出講し、論理学や西洋哲学史を講義し名、万介。一九〇五年 ( 明治三八 ) 「靱猿』の 八年 ( 大正七 ) 慶応義塾大学文学科卒業。在学 た。彼の文筆評論家活動はその後も絶えること猿で初舞台。三六年 ( 昭和一一 ) 江戸初期以来 『農魂』 ( 一九全 ) 中から劇評を『演芸画報』に執筆。毎日新聞社 かぶきぶんらく なく、各新聞・雑誌に社会時評や人生論、処世の名家で、長く中絶していた三宅藤九郎家に入 に籍を置き、新聞・雑誌に歌舞伎や文楽の劇評三宅向斎みやけしようさい しげもとあぎな を発表、型に詳細な検討を加えつつ、新しい視江戸中期の儒者。名は重固、字は実操。播磨国訓などを書き続け、これらは『人生訓』『青年り、九世を襲名。六二年度 ( 昭和三七 ) 芸術選 あかし 奨受賞。七九年重要無形文化財各個指定 ( 人間 明石 ( 兵庫県明石市 ) の人。山崎闇斎の門にあ訓』『人の行路』『世の中』などの処世訓シリー 点と独自の文体をもって、劇評に新生面を開い なおかた きもん た。また、文楽の人々を温かい目で描いた『文って、佐藤直方、浅見斎とともに崎門の三傑ズとして同時代の修養の書として広く愛読され国宝 ) 認定。写実味の濃い重厚な芸風。新作狂 むさしおし 楽之研究』 ( 一九三 0 ) で評論家として独自の地位といわれた。武蔵国忍の阿部家に仕官したが直た。一九二三 ~ 四五年 ( 大正一二 ~ 昭和二〇 ) 一一一一口作家の第一人者でその数は三十余番に及び、 せい一う また希曲・秘曲の復活上演に努めた功績も大き を築く。第二次『演劇新潮』の編集にも従事。言したために幽囚された。のち京都に塾を開には女婿中野正剛と共同で『我観』を刊行し、 くめていさい さいけんか・ 著書に『狂言鑑賞』 ( 増補改訂版『狂言の 著書に『演劇往来』『演劇五十年史』『俳優対談き、経書講釈に優れ、久米訂斎、石王塞軒、鼠同誌上に一一〇年間にわたって、のちに『同時代 ようき一い 見どころ』 ) 、『狂言物語』『藤九郎新作狂言集』 記』『歌舞伎研究』など、自伝に『観劇半世紀』養斎など多数の門人を擁し、一大学派を形成し げんぶん 〈菊池明〉 など。長男に和泉流一九世家元である和泉元秀 ( 一九四 0 がある。 た。元文六年一月二九日没、八〇歳。京都新黒 うこん ) がい ) 、次男に三宅右近 ( 一九四一ー 三宅正一みやけしよういち ( 一九 00 ー八 = ) 農谷紫雲山に葬られる。著述はすこぶる多く、 わせだ いがくようせつ 寺 ) いしらいかく 〈小林責〉 る。六世野村万蔵は実兄。 民運動家、政治家。岐阜県生まれ。早稲田大学『為学要説』一巻、『祭祀来格説』一巻、『黙識 ろうち 在学中、建設者同盟、日農関東同盟に参加。卒録』六巻 ( 以上『日本倫理彙編』所収 ) 、『狼寔 三宅米士ロみやけよねきち ( 天六 0 ー一九一一九 ) 明 そうしょ まんえん 治 ~ 昭和初期の歴史学者、教育者。万延元年五 業後、新潟で県連合会を結成、一九二六年 ( 大録』三巻 ( 『甘雨亭叢書』所収 ) 、『養子弁証附 ひで きギ ~ きむら 月一三日、紀伊国和歌山城下宇治で藩士三宅栄 正一五 ) 木崎村小作争議、王番田争議などを指録』一巻 ( 『日本儒林双書』所収 ) 、『為後称呼 光の長子に生まれる。一八七二年 ( 明治五 ) 上 導した。この間、渋谷信子と結婚、赤いロマン説』一巻 ( 『日本儒林双書』所収 ) などは刊本 〈平重道〉 京、慶応義塾に入学するも七五年諭旨退学。七 スとして噬伝される。政治的には日本労農党系がある。 下根崎・ : ・ .. 飾笏 ~ 雄亠 8 ロ△ ペン欄 村営牧場 宅を 新澪池跡・ " 0 薄木 、刀レ機北太平洋 あんさい ー一七四 l) はりま おうせい その くがかつなん 三宅雪嶺 みつ
として信仰され、一〇月一四日の秋季古例祭は 紋が三個認められる。はねは褐色を帯び、細い 上で採食し、水を飲むとき以外は地上に降りな三上於菟吉みかみおときち ( 一兊一 とうにん すもう 基部は黒褐色。脚は細長く、腿節末端は黒褐 。樹上に巣をつくり、一卵を産む。動物園な 小説家。埼玉県生まれ。中学時代から自然主義「そうもく」 ( 相撲神事 ) といい、頭人が社宝の すもう ずいきまつり 〈竹下信雄〉の洗礼を受けて『文章世界』に投書し、創作に角カ像を奉斎して奉仕し、また「随喜祭」とも 色。平均棍は基部以外は濃褐色。幼虫は山間のどで飼われることがある。 み - 一し そうらく わせだ 、芋の茎や花・果実でつくった神輿六基を 渓流付近の砂中に生息し、成長したものは大人瓶原みかのはら京都府南東部、相楽郡加志した。早稲田大学英文科中退後、一九一五年 いりもや きら ( 大正四 ) 長編小説「春光の下に』を自費出版氏子が献じる。本殿は鎌倉時代の入母屋造神社 の親指ほどの大きさになる。本州、四国、九州 茂町の木津川北岸の地区。七四〇年 ( 天平一 しようむ 〈伊藤修四郎〉 に分布する。図カガンポ 一 l) に聖武天皇の恭仁京が造営されたが、わずしたが、朝鮮の独立運動に触れているという理建築の代表例で国宝。摂社若宮神社、楼門、宝 やましろ 〈牟禮仁〉 ミカドキジ〔帝雉〕 mikado pheasant/ か四年で廃都となり、その跡に山城国分寺が建由で発禁処分となった。この作品が機縁で、物の狛大は国の重要文化財。 おうみやす いくたちょうすけ 立された。現在、金堂と塔の礎石が残ってい 『講談雑誌』主幹生田蝶介の知遇を得て、同誌 、きミ ~ ミ s き ~ 守 do 鳥綱キジ目キジ科の 三上藩みかみはん近江国野洲郡などを領有 わどうかいちん に長編現代小説『悪魔の恋』 ( 一九一六 ) を連載し、 した譜代藩。一七〇〇年 ( 元禄一三 ) 遠藤胤 鳥。雄は全長約九〇、尾が非常に長く、全体る。また東の銭司には、和同開珎の鋳銭所跡が ひたち ある。 が常陸国より転封されて立藩。別称甲賀藩。志 に紫黒色の羽色をしている。雌は全長五三 〈織田武雄〉大好評を博した。一一四年『時事新報』に出世作 くりた 長編『白鬼』を連載、この現代小説によって大賀、甲賀、野洲、栗太四郡内で一万石を領有 全体に褐色の羽色である。体形はヤマドリに似御荷鉾緑色岩類みかぶりよくしよくがんるい かたきうち し、野洲郡三上村 ( 滋賀県野洲町 ) に陣屋を置 ている。台湾の標高一三〇〇 ~ 三〇〇〇の森 Mikabu green rocks 御荷鉾帯の主体をな衆作家としての地位を確立、また『敵討日月 たわまさたわただたわとみたねおたねき さんばがわ いた。胤親、胤将、胤忠、胤富、胤緒、胤城と 林にすみ、おもに地上を歩きながら草の種子やす緑色岩類。西南日本の外帯で、三波川変成帯草紙』 ( 一九三九 ) で時代物に独自の境地を開いた。 よどぎみ ちちぶ ゆきのじようへんげ 六代続き明治維新に至った。一八四二年 ( 天保 小動物をとって食べる。詳しい生態は、まだよ とその南側に並走する秩父帯との間に、緑色岩『雪之丞変化』 ( 一九三四 ~ 三五 ) 、『淀君』 ( 一九一一七 ) 、 てんばうだいいっき 一三 ) 野洲、甲賀郡を中心とした天保大一揆が くわかっていない。新種の記載が尾だけに基づを主とした狭い帯状域が断続しつつ分布してい 『清河八郎』 ( 一九一一九 ) などは時代小説の代表作で はせがわしぐれどうせい いて行われた珍しい例として知られる。図キる。これを御荷鉾帯と、 しし、その主体をなす緑ある。女流作家長谷川時雨と同棲、時雨の女流発生している。また一八六〇年 ( 万延一 ) 胤緒 ジ 〈藤田恒春〉 〈樋口広芳〉色岩類である。それらは、海底に噴出した玄武文芸誌「気芸術』の創刊を助けた。↓雪之丞は外国事務掛に就任している。 はんれい 〈磯貝勝太郎〉回野洲郡史』全二巻 ( 一九一一七・野洲郡教育会 ) ミカドドロバチ〔帝泥蜂〕 E さミ・岩ないし斑糲岩が、比較的低い温度で変成作用変化 まくし せん rus きミ s 昆虫綱膜翅目スズメバチ科に属を受けたもので、バンペリー石、アクチノ閃回『増補昭和国民文学全集 5 三上於菟吉集』三上山みかみやま滋賀県南部、野洲郡野洲 町にある山。琵琶湖陥没時の残止で標高四三二 する昆虫。体長一〇 ~ 一五ミリ。体は黒色で黄色石、緑泥石などが生成している。原岩の玄武岩 ( 一九大・筑摩書房 ) おうみ はんもん 。美しい山容から「近江富士」の名で親しま の斑紋を有する。斑紋は変化に富むが腹部背面や斑糲岩は、三波川変成岩の生成に伴って貫入三上参次みかみさんじ ( 天六五ー一九三九 ) 明治 ナい 4 わ・つ うたまくら した変動時貫入岩と考えられたこともあるが、 ~ 昭和前期の歴史学者。応元年九月二八日、れ、歌枕としても詠まれてきた。頂上は雄山 の第一節から第四節後縁には横帯がある。五 ~ 九月ごろ平野部に出現する普通種であるが、北 最近では、海底の玄武岩類が崩壊し、その破砕磨国に幸田貞助の三男に生まれ、のち姫路藩と雌山に分かれ、古くから神体山として信仰の いわくら たいせき 海道ではまれである。本州、四国、九州に分布片が堆積して形成された、ある種の堆積岩類で士三上勝明の養子となる。一八八九年 ( 明治一一対象とされてきた。現在も山頂部に磐座があ えんしき りゅうきゅう 一一 ) 帝国大学文科大学和文学科を卒業、大学院る。『延喜式』所収の神社もかっては山頂 する種と北海道産、あるいは琉球諸島産の種あるという考えが有力になった。〈橋本光男〉 さんろくまっ にあったが、現在では山麓に祀られている。こ はわすかに形態が異なっている。巣は竹筒や空御荷鉾山みかばやま群馬県南西部、関東で国史を研究、九〇年に編年史編纂掛編纂助 やすのく : のみやっこ 茎などの中につくられ、泥壁で幼虫室を仕切山地北東部の山。「みかぶやま」ともいう。東手を嘱託され、『白河楽翁公と徳川時代』を刊の地は安鯡造の本拠地であると伝えられ、 ひもっ る。卵は一ミリほどの紐で吊るして産み付けられ御荷鉾山 ( 一一一四六 ) と西御荷鉾山 ( 一一一会 ) か行、また『社寺領性質の研究』 ( 共著 ) をまと山麓一帯の遺跡などから強大な政治的権力が存 る。幼虫の食物としてハマキガ、メイガ類の幼らなり、ともに山容は丸みを帯びて高崎付近かめる。史料編纂事業に尽力するとともに、九一一在したことは確実であるといってよい。藤原秀 さとたわらとうた むかで あんぶ なげいし 〈須田博久〉らよく見える。両御荷鉾山の間に投石峠の鞍部年に文科大学助教授、九九年に教授・文学博士郷 ( 俵藤太 ) の百足退治の伝説からムカデ山 虫を狩る。 ′一とうぶんじろう 〈高橋誠一〉 がある。一 八八八年 ( 明治二一 ) 小藤文次郎が となる。『大日本史料』の刊行に努力し、一九ともよばれる。↓俵藤太伝説 ミカドネズミ〔御門鼠〕 northern red- この地域に多い結晶片岩類にこの山の名をとっ 一一六年 ( 大正一五 ) 定年退官。『明治天皇御紀』地三万五千分の一地形図「野洲」 backed voleZ C 斗 0 0 き嵶ミミに s き ほにゆうげつし さんばがわ の編修を主宰し、三二年に貴族院議員となる。 哺乳綱齧歯目キヌゲネズミ科の動物。て御荷鉾層と名づけ、東方の三波川層とともに 三上義夫みかみよしお ( 天七五ー一九五 0 ) 科学 まんば 同科ャチネズミ属に含まれ、ヒメャチネズミと 日本の地質学発祥の地として知られる。万場町昭和一四年六月七日死去。遺著に『江戸時史家。広島県生まれ。眼疾のため仙台の第二高 かみひの もよばれる。北海道の原野に分布するが局地的あるいは藤岡市上日野から投石峠を経る登山コ代史』上下 ( 一九四三、四四 ) がある。〈松島栄一〉等学校を退学、独学で中等教員検定に合格、数 ースがある。 で、数も一般には多くない。頭胴長八・六 〈村木定雄〉御上神社みかみじんじゃ滋賀県野洲郡野洲学科免許を得た。一九〇五年 ( 明治三八 ) ごろ みかみ ー、セン、 から和算史の研究を始め、〇八年帝国学士院嘱 町大字三上に鎮座。古くは三上大明神とも称し 九・二垰一、尾長三・二 ~ 体重約二五二万五千分の一地形図「万場」 おうみ びわ 等。↓ャチネズミ 〈宮尾嶽雄〉三上章みかみあきら ( 一九 0 三ー七一 ) 文法学た。近江における古来からの名社で、琵琶湖東託。一一年東京帝国大学哲学科選科入学、一九 ミカドバド〔帝鳩〕 green imperial 三・者。広島県に生まれる。東京帝国大学工学部卒近江平野の随所から望み見ることができ、近江年 ( 大正八 ) まで大学院に在籍。四九年 ( 昭和 たかかず せいろく 二四 ) 理学博士。関孝和を中心に日本の数学、 富士の名のある秀麗な山容の三上山の西麓に、 geon \ 0 ミぶミミ鳥綱ハト目ハト科の業後、旧制中学、高校の数学教師などを経て、 そうし ・一うれい おおたに 鳥。全長が四五もある大形種で、頭と頸、下大谷女子大学教授。ほとんど独学で日本語文法野洲川に臨んで位置している。創祀は孝霊天皇日本と中国の数学関係史などを研究、一九二三 あめのみかげのみこと 面は灰色、下尾筒は赤色、上面は金属光沢のあの研究を行い、『現代語法序説』 ( 一九五五 ) 、『象はのときに三上山の頂に降臨した天之御影命を年の論文「文化史より見たる日本の数学」は科 はふり る緑色をしている。インドからマレー半島に、鼻が長い』 ( 一九六 0 ) などを著す。従来の主語概御上祝の祖が祀ったのに始まり、のちに現社地学史を文化史としてみた世界初の論文であり、 に遷座して、社殿を造営したと伝えている。 科学史研究に大きな影響を与えた。〈大矢真一〉 またスリランカ、大スンダ列島、ポルネオ島、念を否定して何々ハと何々ガの機能差を明確に めセレ・ヘス島、フィリピンに分布する。海抜五〇した「主語否定論」をはじめ、多くの独創的見『延喜式』内の名神大社で、旧官幣大社。祭神三瓶 ( 町 ) みかめ ( ちょう ) 愛媛県南部、西宇 〇以上の山地の森にすみ、耕地や村落には出解を示し、日本語構文論研究に新しい展開をも は地方開拓の祖神として崇敬され、中世以降は 和郡の町。宇和海に面する。一九二一年 ( 大正 9 ない。野生イチジク、ナツメグなどの実を枝のたらした。 〈清水康行〉武家の崇敬がことに厚かった。三上山は神体山一〇 ) 町制施行。五五年 ( 昭和三〇 ) 三島、二 2 たいせつ まっ へんさんがかり ー一九四四 ) こまいめ ひで
ひ数学や論理学では、公理系を満足するもののず、経済学の知識を援用して研究対象とする経のである。この一連の作業が、計量経済学におて、自由奔放な歌い方で自作自演する彼のいき つ集合を、その公理系のモデルという。たとえ済のもっ経済変数間の因果関係を一般的な数式けるモデル・ビルディングの具体的な内容であ方は、多くの人々の心をつかんだ。彼の登場以 8 ば、プール代数の公理系は命題計算として解釈として設定し、ついで、変数間を結び付ける具る。↓計量経済学↓計量経済モデル↓構造方後、多数のカンタウトーレ cantautore ( シン で 〈高島忠〉 ガー・ソングライター ) が輩出するに至った。 されうる。したがってプール代数の公理系は、体的な係数を、それらの経済変数に関する過去程式 しゅま もと . 〔翫〕酒母ともいう。もろみを発酵五八年以降、二年連続、計四回サン・レモ音楽 命題によって満足されうる。それゆえ命題の集のデータに基づいて推定する。こうすることに 一、うば よって、その経済についての模型 ( モデル ) が させるもとになる酵母 ( ィースト ) を培養した祭で優勝。その優勝曲『ポラーレ』 ( 一九五 0 、 合は、プール代数の公理系のモデルである、と 『チャオ・チャオ・バンビーナ』 ( 一九五九 ) は、イ できあがる。これらの一連の作業が、モデル・ もの。ビールやアルコールもろみの発酵に用い 考えることができる。 ビルディングとよばれるものである。 る酒母は、殺菌した麦汁などに酵母を純粋培養タリアのみならずアメリカでミリオン・セラー これに対し、自然科学においては事情はかな になるなど、世界中で親しまれている。ミュー いま、ある経済社会の動きの基礎にある構造したものであるが、日本酒造りでは、「一麹、 り異なっている。たとえばポーアの原子モデル ジカルや映画でも活躍している。〈田井竜一〉 は、彼の原子理論のモデルであるというよりを、その経済を構成する主要な変数として、国二もと、三造り」といわれるように、もと造り もとおりおおひら ( 一七五六 は重要な操作で、その作り方も複雑である。 は、まずは、いまだ知られざる原子について構民所得、費支出、投資 / の三変数を中心 本居大平 原理は、強い酸性の条件下で ( 加熱殺菌の操江戸後期の国学者、歌人。通称三四右衛門 想された模型であった。この種のモデルは「理として表現するものとする。まず、人々の消費 ふじのかきっ 論モデル」とか「構成モデル」とかといわれ行動および企業の投資活動に関する経済理論を作を行わずに ) 、清酒酵母を純粋に培養するも藤垣内と号した。伊勢松坂に豆腐商稲掛棟隆 のりなが る。これに対し、実際の対象がいちおうはわか手掛りとして、消費および投資の動きを説明すので、その酸性をつくりだす手段として、乳酸の子として生まれる。父も本居宣長の高弟。一 三歳で宣長に入門し、四四歳で宣長の養子とな っているが、しかしそのままでは複雑で取り扱る方程式を一般的な数式として定める。さら菌を応用する伝来の方法と乳酸を用いる方法と きもと えないとき、われわれはその対象を単純化して に、これらの合計値は社会全体の総需要としてがある。乳酸菌を用いる酒母には、「生翫」おる。宣長の実子春庭が盲目であったため、宣長 やまはいもと 取り扱う。その単純化されたものは「単純化モ国民所得に一致するという国民所得統計に関よびその改良型である「山廃翫」の二つがあの死後四七歳で家督を相続して紀州侯に仕え、 てんぼう る。生翫の作り方の原理は、まず蒸し米と麹と和歌山に移住する。天保四年九月一一日七八歳 デル」といわれる。質点、理想気体、単振動なする知識を用いて一つの均等式を置く。以上に うちとお っ どはこれである。また、実際の対象がいちおう よって、経済社会の構造が、次のような一組の水とを低温 ( 六 ~ 八度 0 ) で仕込み、自然に増で没した。女婿内遠が本居家を嗣ぐ。研究も作 はわかっているが、しかしそのままでは大きす連立方程式として表現されることになる。 殖してくる乳酸菌と硝酸還元菌によって、清酒歌も独創性を欠くが、温厚な人柄と親切な教授 により、一〇〇〇余名の門弟を擁し、宣長の学 酵母だけが生育可能な条件をつくりだすことに ぎ、あるいは小さすぎてわかりにくいとき、わ C ( Ⅱ 0 十】 Y 十 2C7 】十ミ ある。しかしこの方法は、「もと」ができあが芸を継承してその普及に努めた。主要な門人に れわれはその対象を縮小または拡大してみる。 lt Ⅱ 30 十 3 】十 32Kt 十 ともお かのうもろひら Ⅱ 0 十 lt 加納諸平、近藤芳樹、長沢伴雄がいる。研究書 るまで約一か月もかかり、作業も繁雑である。 この縮小または拡大されたものは「相似モデ かぐら これらの式のなかで、変数につけたーは時間をこの工程を、乳酸を用いることにより一挙に解に『神楽歌新釈』、歌文集に『稲葉集』『藤垣内 ル」といわれる。地球儀、球と棒でつくられた そくじようもと 決したのが「速醸翫」で、今日広く用いられ文集』があり、『本居全集』『増補本居宣長全 分子の模型などはこれである。相似は合同をも表し、は現存する生産設備量であり、と 〈上野理〉 は消費行動および投資活動において確率的に変ている。作り方は、蒸し米七、麹三、水一二集』に収められている。 含むから、相似モデルは「合同モデル」をも含 もとおりながよ ( 天会ー一九四五 ) 作 んでいる。ある車の特性を調べるのに、それと 化する部分を表現するものとして導入された変 ( 乳酸〇・五 % を加える ) の割合で混ぜ、さら本居長世 のりなが に優良な純粋培養の清酒酵母を加えて、約二〇曲家。東京生まれ。本居宣長の正系で、筆名は 同じ型の別の車で調べるとすれば、それは合同数である。そして、および日は経済変数間の モデルで調べていることになる。同じ型といっ因果関係の強さを示す係数であり、パラメータ度 0 に保っと糖化と発酵が進み、わずか数日で長予。一九〇八年 ( 明治四一 ) 東京音楽学校本 おとぎ 〈秋山裕一〉 科卒業。初期には御伽オペラ『月の国』、小オ ーとよばれる。 酒母ができる。↓清酒 ても、いまの場合は、それを構成している素材 ペラ『夢』などを発表したが、のち童謡や歌曲 これは、一つの簡単な経済モデルの例であ回大塚謙一編著『醸造学』 ( 一一・養賢堂 ) までも含めて同じ型というのであるが、これに しんじよう もとあいかい山形県中北部、新庄市に日本的な要素を含む佳作を多く生み、大正か 対し、物質的には違う二つのものが変化の仕方る。このようにして設定された経済変数間の理本合海 もがみ 論的な因果関係に対して、次には、研究対象との一地区。最上川中流に位置し、古くから最上ら昭和初期にかけての童謡隆盛の一角を担っ が同じ型である場合には、その一方を他方の みやぎ なっている経済の具体的な姿を与えなければな 川舟運の河岸であったが、とくに明治になってた。二〇年 ( 大正九 ) に宮城道雄らとともに 「同型モデル」という。ある範囲内で、水流は しようない 「新日本音楽運動」をおこし、邦楽界にも大き 電流の同型モデルであり、単振子は単振動の同らない。それは、変数間を結び付けているバラ内陸と庄内地方を結ぶ河港として繁栄した。 メーターのもっ値を推定することによって行わ一九一四年 ( 大正三 ) の酒田線 ( 現在の東日本な影響を与えた。主要作品は『赤い靴』『青い 型モデルである。 こやぎ 目の人形』『七つの子』『めえめえ子山羊』『十 さらにまた、とくに単純化モデルにおける仮れ、この作業が、構造方程式の推定とよばれる旅客鉄道陸羽西線 ) の開通で河港としての機能 〈船山隆〉 〈中川重〉五夜お月さん』など。 ものである。これは、モデルに採用した各経済を失った。 説もまた「モデル」といわれることがある。心 ふるくち もとおりのりなが ( 一七三 0 ー天 OI) 理学や社会学における仮説の多くは、この意味変数が過去に示した実際の統計数値に基づいて囮二万五千分の一地形図「古ロ」 本居宣長 しんとう すずのや むこう でモデルといわれることが多い。経済予測に使種々の方法を用いて行われる。こうして得られ元稲荷古墳もといなりこふん京都府向日市江戸時代中期の国学者、神道学者。鈴迺屋と号 きようほう われるさまざまなモデルなどは、その例であた推定結果については、さまざまな角度から検向日町北山、長岡 ( 向日 ) 丘陵の最南端にあるする。享保一五年五月七日に生まれる。伊勢 さだとし おとくに 明。↓乙訓古墳群国松坂の木綿問屋小津定利の二男。母はお勝、 る。↓理論 〈黒崎宏〉討を行い、 先に設定したモデルが、研究対象と前期の前方後方墳。全長九四 幼名は富之助。父の死後、一七四八年 ( 寛延一 ) モデル・ビルディング model building する経済の姿を正しく表現しているか否かが検モドウー一一ョ Domenico Modugno ) イタリアのカンツオーネ歌手。一 一九歳で同国山田の紙商今井田家の養子となっ 計量経済学では、経済予測や経済分析を行うに証される。そして、不都合な点があれば、ふた ( 一九天ー じようとう 際して、経済を構成する個々の経済的変量 ( 経たび経済理論に立ち戻り、モデルの修正が行わ九五三年にデビュー。それまでの常套句を多たが、一一一歳で不縁となって実家に出戻り、翌 用した甘美なカンツオーネと違って、真実の感五一年 ( 宝暦一 ) 兄の死によって小津家の家督 済変数 ) の間の因果関係を一組の方程式体系にれる。このようにして、経済の実態を安定的に を相続した。若くから和歌を習い四書五経を読 よって表現することが行われる。すなわち、ま表現しうる経済モデルに到達するように努める情から生まれた詩を、新鮮な感覚の曲によっ はるにわ せ ー天三三 )
みやしろ に奔走するが、無理がたたってふたたび病床のり、美濃部達吉の後継者として憲法講座を担当を説いて多くの後進を指導した。さらに京都大て没した。評論集『第四階級の文学』 ( 一九一一一 l) 、 した。旧憲法下においては、批判的合理主義の学自然人類学講座、同霊長類研究所、財団法人自伝『遍歴』 ( 一九五三 ) などのほか、仏教関係の 身となり、昭和八年九月一一一日に病死した。 すいこう 〈大塚博〉 日本モンキーセンターなどをつくって霊長類著作も多い。↓坑夫 晩年は詩や童話の旧作の推敲、改稿、改作に立場から、独裁制やファシズムのイデオロギー 没頭、多くの文語詩を制作・清書した。没後一を批判的に分析する論文が多く、第二次世界大学・人類学の発展に尺、くした功績も大きい。一一回『宮嶋資夫著作集』全七巻 ( 一九ハ三・慶友社 ) 戦後は、日本国憲法の解釈者、擁護者として活〇〇編以上の専門論文・著書のほか、「アユの 年で早くも三巻本の『宮沢賢治全集』 ( 一九三四 ~ 宮島注次郎みやじませいじろう ( 天七九ー一九 ホッダム宣一言の受諾は主権者話」「サルの話」などを含む『宮地伝三郎動物六三 ) 大正・昭和期の実業家。第二次世界大戦 三五・文圃堂 ) が刊行され、実弟の清六、詩人の躍した。とくに、。、 後は財界のトップ・リーダーとなる。栃木県佐 草野心平、高村光太郎らの尽力もあって、宮沢を天皇から国民に変更した法的革命であるとす記』『生物学の視座から』「俳風動物記』など、 しようたろう 〈川那部浩哉〉野市に小林庄太郎の次男として誕生。一九〇六 は、以後激しい論議の対象と一般向きの著作もある。 賢治の人と作品は急速に世に知られるようになる「八月革命説」 った。代表作に童話では『風の又三郎』『銀河なっている。趣味も広く、エッセイストとして回宮地伝三郎著『宮地伝三郎動物記』全五巻年 ( 明治三九 ) 東京帝国大学政治学科 ( 同期生 に吉田茂ら ) 卒業後、住友別子鉱業所入社。東 ( 一九七一一 ~ 七三・筑摩書房 ) ▽同著『生物学の視 鉄道の夜気詩ではい水訣の朝』、メモ『雨ニモマも有名。一九六九年 ( 昭和四四 ) 文化功労者。 座から』 ( 一九含・人文書院 ) ▽同著『俳風動京紡績社長田村利七の娘盛子と結婚、田村氏の ケズ』などが著名である。花巻市に宮沢賢治記昭和五一年九月四日死去。著書は『憲法』『日 実家宮島家の養子となる。一〇年東京紡績に移 本国憲法・コンメンタール』のほか多くの論文 物記』 ( 岩波新書 ) 念館がある。↓風の又三郎↓銀河鉄道の夜 しん / ノ六 〈長尾龍一〉 ー一九四九 ) 神って事務長、支配人を経て専務取締役となる。 注文の多い料理店↓春と修羅〈天沢退一一郎〉集、評論集がある。 宮地直一みやじなおかず ( 一、 あまがさき 回原秀男「宮沢俊義ーー理論と実践」 ( 日本法道史学者。高知市に生まれる。東京帝国大学文尼崎紡への合併を機に辞任、一四年 ( 大正一一 l) 日 回『校本宮沢賢治全集』全一四巻 ( 一九七三 ~ 七七・ しん じんぎ 科大学史学科で、神祇史を研究。卒業後、明治清紡に移り、経営改革に成功し、専務、社長、会 哲学会編「日本の法哲学①法哲学年報』 筑摩書房 ) ▽中村稔著『宮沢賢治』 ( 一九七一一・ かいちろう 所収・有斐閣 ) ▽宮沢俊義著、芦部信喜補訂神宮造営局、文科大学講師を経て内務省神社局長を歴任。この間、根津嘉一郎の懇請で武蔵高 筑摩書房 ) ▽斎藤文一著「宮沢賢治とその に勤め、神社の考証にあたる。一九二四年 ( 大校の創設や日清レイヨン、国策パルプ、大日本 『全訂日本国憲法』 ( 一九大・日本評論社 ) 展開』 ( 一九七六・国文社 ) ▽天沢退二郎著『宮 沢賢治の彼方へ ( 一九七・思潮社 ) ▽恩田逸宮地みやじ熊本県北東部、阿郡一の宮正一 lll) 東大教授。第二次世界大戦後は神社本麦の経営にも参加。戦後は、公職追放後、四 くらぶ 八年 ( 昭和二三 ) 日本工業倶楽部理事長に返り 夫著「宮沢賢治論』全三巻 ( 一〈〈一・東京書町の一地区。旧宮地町。農耕神として噐められ庁、国民信仰研究所の創設に尽力する。厳密な いちのみや 考証で近代的神道史学の確立に貢献、また熊野咲き、吉田茂首相の要請で四九年日銀政策委員 籍 ) ▽『小沢俊郎宮沢賢治論集』全三巻る肥後一宮の阿蘇神社がある。↓一の宮 ( 町 ) むなかた に就任した。日銀の中立性を守り、他方で吉田 ( 一九ハ七・有精堂出版 ) ▽『新潮日本文学アル宮地嶽神社みやじだけじんじや福岡県宗像三山の研究でも名高い。著書に『神祇史』正 おきながたらしひめのみことかつむら ^ 加藤幸三郎〉 郡津屋崎町に鎮座。息長足毘売命、勝村続、『神道論考』『神社綱要』『熊野三山の史的内閣の陰の支持者であった。 ハム宮沢賢治』 ( 一九会・新潮社 ) じんぐう かつより まっ はんのう ー会 ) 歌人。本 〈菟田俊彦〉宮柊ニみやしゅうじ ( 一九一 = 宮沢湖みやざわこ埼玉県南部、飯能市郊外大神、勝頼大神を祀る。社伝によれば、神功皇研究』などがある。 いつくしま あまっ かんがい 名肇。新潟県堀之内町に生まれる。長岡中学在 みやじま 0 厳島 にある灌漑用貯水池。高麗丘陵の小谷をせき止后が信仰していた天津神の遙拑祠を建て、勝宮島 ギ一よふう いるま め、入間川の水を引き込み、入間台地西部の水頼・勝村の二柱の従神にこの祠掌を命じた。の宮島 ( 町 ) みやじま ( ちょう ) 広島県南西部、学中から作歌、相馬御風の『木蔭歌集』に投 いつくしま 田を灌漑する目的でつくったもの。満水時の面ち皇后の御神魂が合祭され、ここに宮地嶽神佐伯郡の町。広島湾内の厳島 ( 宮島 ) 一島か稿。中学卒業後上京して一九三三年 ( 昭和八 ) 北原白秋に師事。三五年『多磨』創刊に参加、 積一二・九夕、周囲二キ。。周辺地域は西武鉄社が創建されたという。宗像大社所蔵の『年中らなる。一九五〇年 ( 昭和二五 ) 厳島町 ( 一会九 道が買収し、観光地として整備されており、駐行事記』一三六八年 ( 正平二三 ) のなかに当神町制 ) が名称変更して成立。対岸の大野町宮島俊英として注目され、三九年応召されて中国大 口から連絡船で一五分の距離にある。島の最高陸を転戦。戦後、清新な叙情で戦後短歌の代表 社の神事の記載があり、盛大な神社であったこ 車場も完備している。またワカサギが養殖さ おくむさし はせん れ、釣りの名所となっている。奥武蔵県立自然とがうかがえる。なお、神社裏山の奥の院の古所弥山 ( 吾一 0 ) 北麓に厳島神社があり、瀬戸歌人となり、五三年 ( 昭和二八 ) 『コスモス』 しよう・一ん くらあぶみ 公園のうちで奥武蔵自然歩道も通る。西武池袋墳から、金銅製の鞍・鐙などの精巧な金属工芸内海国立公園の拠点の一つとなっている。島内を創刊主宰。歌集は『群鶏』 ( 一九四六 ) 、『小紺 しゅ るりつば には厳島神社のほか、水族館や歴史民俗資料館珠』 ( 一九四 0 に始まり、従軍体験を結晶した 〈中山正民〉品や瑠璃壺などの骨蔵器の類が多数出土し、三 線飯能駅からバス一五分。 つつみうら 『山西省』 ( 一九四九 ) は戦争文学の収穫。五五年か 〇〇余点が国宝に指定されている。〈落合偉洲〉もある。北東部の包ヶ浦は海水浴、キャンプな 囮二万五千分の一地形図「飯能」 ) どの適地。厳島神社前には門前町が形成され、ら朝日歌壇選者。六一年『多く夜の歌』で読売 宮地伝三郎みやじでんざぶろう ( 一九 0 一ー 宮沢俊我みやざわとしよし ( 天究ー一九七六 ) ちょうくう しやくし みやげ 憲法学者。明治三二年三月六日長野市に生まれ動物生態学者。広島県に生まれる。一九二五年杓子などを売る土産物店が並び、観光業に従文学賞をはじめ、七六年『独石馬』で迢空賞、 ↓厳島↓厳七七年芸術院賞を受賞。八三年芸術院会員に推 る。東京帝国大学法科卒業後、一九二五年 ( 大 ( 大正一四 ) 東京帝国大学理学部卒業。京都帝事する者が多い。人口三一 〈北川建次〉 された。長い闘病中にも作歌を続け、一四冊の 正一四 ) 同大学助教授となり、三〇年 ( 昭和国大学理学部臨湖実験所、同瀬戸臨海実験所、島神社↓弥山 あたたじま ^ 島田修二〉 歌集のほか評論、随筆も多い 五 ) フランスに留学。帰国後、三四年教授とな同動物学教室に在職し、六四年 ( 昭和三九 ) 停囮二万五千分の一地形図「厳島」「阿多田島」 ろうそく 蝦燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若 年退職。初期には日本および近隣地域の湖沼・ 宮嶋資夫みやじますけお ( 一会六ー一九五一 ) よ のぶやす き代過ぎぬ 海洋の底生動物の群集生態・生物地理学的研究説家。東京に生まれる。本名信泰。小学校高等 に従事し、この分野に一紀元を画した。第二次科に学んだのち、各種の職業を転々とした。や回『定本宮柊二短歌集成』全一巻 ( 一九〈一・講談 ィ一かえ 社 ) ▽島田修二著『短歌シリーズ人と作品 世界大戦後は海洋の藻場群集、アユを中心とすがて雑誌『近代思想』によって大杉栄を知り、 宮柊二』 ( 一九含・桜楓社 ) る河川生物の研究、ニホンザルの研究などを組アナキズム、サンジカリズム系の労働運動に近 織指導し、大学を超えた共同研究を進めて生態づいた。一九一六年 ( 大正五 ) には大正期労働宮代 ( 町 ) みやしろ ( まち ) 埼玉県東部、南埼 もんま 学を各方面で大きく発展させ、日本の動物相は文学の先駆作品となった処女作「坑夫』を刊玉郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 百間 せイき 須賀の一一村が合併、町制施行。東武鉄道伊勢崎 実は貧弱であるとする説を出して群集地理学の行、その後本格的文筆活動に入ったが、のちに はんもん 線が通じ、東武動物公園駅で東武鉄道日光線が 4 思想的煩悶から仏門に入り、昭和一一六年京都に 基礎を築き、自然哲学の必要性と応用への関心 ぶんほ えいけっ 宮沢俊義 みのべ はじめ たま
ゅ、つなり かすがやま ある三笠山から命名。タ張山地から流れる幾春の南側、春日山の西峰で、原始林に覆われ、蓋 ( 笠 ) を伏せたような山容からその名がある。 別川の河谷を占める。一八八〇年 ( 明治一三 ) 石狩炭田最古の幌内炭鉱が開坑、八二年には小 山体は主として三笠山安山岩 ( 両輝石安山岩 ) たるてみや 樽の手宮との間に鉄道が開通。一方、炭鉱労働からなるが、旧火山ではなく、火山岩が侵食に そらち X ウ に使役する囚人を収容した空知集治監が設置さ耐えて残存したものである。かって若草山と混 れ、所在地の市来知は中心地として発展、廃監同された。山頂に本宮神社と七本杉があり、西 まんべっとうまっ の明治後期まで続いた。幾春別、奔別、唐松、 側中腹に国指定天然記念物のナギ樹林がある。 あべのなかまろ やよい 笠レ 弥生にも炭鉱が開かれ、幾春別川沿岸に炭鉱集古歌に多く詠まれ、とくに阿倍仲麻呂の「天の 落が並び、市制施行当時は人口六万を超えた。原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月 茨ア その後、石炭不況による閉山が続き、現在は新かも」 ( 古今集巻九 ) は有名である。〈菊地一郎〉 石。へ 幌内炭鉱一山のみとなり、人口も激減した。幾二万五千分の一地形図「奈良」 かつらざわ 春別川上流の多目的ダムの桂沢湖は三笠ほか三ヶ島葭子みかじまよしこ ( 一公六ー一九一一七 ) 上下 x ひかわ 周辺都市に電力、用水を供給するほか、観光地歌人。埼玉県生まれ。家は代々氷川神社神官。 ^ 山崎久雄〉ろいろな色調のものがあり、斜長石が多く白色ともなっている。市来知の東方には新市街が形埼玉女子師範学校中退。一九〇九年 ( 明治四 が注がれている。 せいとう 一 l) に新詩社に入り、ついで『青鞜』同人とな の白御影 ( 茨城県の稲田御影 ) 、カリ長石の多成されて本市の中心をなし、市来知とその西の 囮二万五千分の一地形図「御神楽岳」 ひがしなだ い淡紅色を帯びた桃色御影または淡紅御影 ( 神岡山はタマネギ中心の農業地帯で、国道一二号る。一六年 ( 大正五 ) 『アララギ』会員となり、 御影みかげ神戸市南東部、東灘区の一地 こいずみちかし まんなり ろっこう 現実的作風へと一変、一一一年古泉千樫に師事す 区。旧御影町。六甲山地に発する住吉川のつく戸市の本御影、岡山県の万成石、福島県の桜御沿いの岡山には工業団地を造成し、企業誘致に ゅうすい も成功している。工ゾミカサソウの化石は国指る。孤独な境涯にあって内省的、沈潜した傾向 る扇状地にあり、扇状地末端の湧水を利用する影 ) 、黒雲母・角閃石・輝石などの有色鉱物が われもこう うきがね みや をもつ。歌集に「吾木香』 (一九 lll) や『三ヶ島 酒造地灘五郷の一つ中郷の地。「沢の井」の宮多い黒御影 ( 福島県の浮金石、岩手県の折壁定天然記念物。人口二万一五一一。↓市来知 いしめ みず ↓幌内 〈柏村一郎〉葭子全歌集』 ( 一九三四 ) などがある。 ^ 藤岡武雄〉 水井戸がある。六甲山地からは御影石を切り出石 ) などがある。採石には節理と俗に石目とい 置時計今宵とまりたり先の日に来たりし吾子 う割れやすい面が利用される。石英と長石の膨回『三笠市史』 ( 一九七一・三笠市 ) し、大坂築城にも用いられたが、現在、石切り かみあしべっ さんろく が巻きしままなる 場はほとんど姿を消した。山麓は閑静な住宅張率が違うため耐火性にやや劣り、風化にも比囮五万分の一地形図「上芦別」「幾春別岳」「石 回『現代日本文学全集囲現代短歌集』 ( 一九五七・ 狩鹿島」「岩見沢」 地。山手側に阪急電鉄、海岸側に阪神電鉄が走較的弱いという欠点があるが、堅硬で美しい外 筑摩書房 ) ▽倉片みなみ編『三ヶ島葭子日 る。↓神戸 ( 市 ) ↓灘 〈藤岡ひろ子〉観をもち大材が得られやすいために、建築・土三笠宮崇仁みかさのみやたかひと ( 一九一五ー にしのみや 記』全二巻 ( 一久一・至芸出版社 ) ▽福本武久 ) 皇族。大正天皇の第四男子。大正四年一 木用石材としてもっとも広く利用されている。 二万五千分の一地形図「西宮」「神戸首部」 すみのみや せんりよく 著『地の歌人三ヶ島葭子』 ( 一九会・新潮社 ) 〈斎藤靖一一〉 二月二日生まれ。幼称は澄宮。幼年時代はその ↓石材 御影石みかげいし花崗岩や花崗閃緑岩の ひがしなだ ろっこうなんろく しょ Miykäh 袴 The book 石材名。兵庫県六甲山南麓、神戸市東灘区御三笠みかさ日露戦争における連合艦隊の詩作で「童謡の宮様」とよばれた。一九三五年ミカ書 影地方で採石される花崗岩の石材を御影石とよ旗艦。東郷平八郎司令長官が座乗して黄海海戦 ( 昭和一〇 ) 三笠宮家を創立。陸軍士官学校四 of Micah 「旧約聖書』中の一一一小預言書 八期。陸軍大学校卒業。第二次世界大戦中は支の第六書。ミカの預言を収録し、七章からなる。 んだのが始まりで、それが花崗岩や花崗岩の石 ( 一九 0 四 ) 、日本海海戦 ( 一九 0 五 ) の先頭艦として戦 ミカはエルサレムの南西三〇キ。メートル余りの 材の通称となった。この種の石材を多量に産すった。一九〇二年イギリス、ビッカーズ造船所那派遣軍参謀などの軍職にあった。この間、四 ゆりこ あぶくま モレシテの出身で、紀元前八世紀に活躍した。 一年に子爵高木正得次女百合子と結婚。戦後、 る地域は、東北日本では阿武隈山地から筑泌山で完工。常備排水量一万五一四〇トン、速カ一、 塊にかけて、西南日本では岡山県から広島県のノット、三〇主砲四門、一五垰一副砲一四門を東京大学史学科の聴講生となり古代オリエント同時代のイザヤがエルサレムの上流階級の出身 南部、瀬戸内海周辺の島々である。普通は産地備え、当時世界第一級の戦艦であった。日本海史の研究を始める。歴史学者としての立場からであるのとは対照的に、農村を基盤として貧し い者の立場から正義を求めた預言者といわれ 紀元節復活反対の意志表明を行ったり、歴史学 名をつけて、稲田御影や北木御影などとよばれ海戦の大勝利により世界にその名を知られるよ うになり、ワシントン軍縮条約で戦艦の保有量研究会会員として活動するなど、自由で進歩的る。都会の支配層の暴政、宗教家の腐敗堕落を る。そのため御影地方のものは、本御影とよば くろうんも れ区別されている。本御影は中粒の黒雲母花崗が制限された際にも、三笠は制限外の艦としてな態度が注目された。日本オリエント学会名誉糾弾し、神の徹底的な審判の到来を告げ、聖都 岩で、肉紅色のカリ長石を含むため肉紅色を呈保全が認められた。一九二六年 ( 大正一五 ) 神会長、日本レクリエーション協会総裁、中近東エルサレムといえども敵の手に渡されて滅びる よこすか し、御影石のなかでもっとも美しいとされる奈川県横須賀に記念艦として永久保存されるこ文化センター総裁などを務める。皇位継承順位と語った。宗教の本質は、祭礼や儀式にあるの ではなく、正義と愛の実践、謙遵に神とともに 第五位。著書に『帝王と墓と民衆』 ( 一殳 0 、 が、風化が著しく大材が得られないため、残塊とになり、第二次世界大戦後は一時ダンスホー どうろう 生きることにあるとした。救い主は、聖都エル が採石され石灯籠などの細工や彫刻に利用されルになるなどの変転もあったが、六一年 ( 昭和『古代オリエント史と私』 ( 一九会 ) 、訳書に・ はんれい る。また、閃緑岩や斑糲岩なども御影石とよば三六 ) 復原。現在は防衛庁の所管、三笠保存会フィネガン『考古学から見た古代オリエントサレムでなく、地方の小さい町ベスレヘムから 〈前田哲男〉史』 ( 一九会 ) などがある。長男は寛仁、次男は登場するとの預言 ( 五章 ) は、イエス・キリス れることがあって、その色が黒っぱいために黒運営で一般に公開されている。 たかまどのみやのりひと かつらのみやよしひと トの誕生をさす預言として『新約聖書』に引用 御影といわれる。 三笠 ( 市 ) みかさ北海道中央部にある炭鉱桂宮宜仁、三男は高円宮憲仁。〈小田部雄次〉 いちきしり されている。「つるぎを打ちかえてすきとし、 御影石の外観は構成鉱物の結晶粒の大きさの都市。一九〇六年 ( 明治三九 ) 市来知、幌内、回三笠宮崇仁著『古代オリエント史と私』 ( 一九 やりを打ちかえてかまとする」との有名な万 会・学生社 ) 違いで異なり、山口県の徳山石のように粗粒な幾春別の三村が合併して三笠山村となり、四 ものと、香川県の庵治石のように細粒なものと 二年 ( 昭和一七 ) 町制施行して三笠町と改称。三笠山みかさやま奈良市の市街地東方にあ国平和預言は四章にある ( 同じものが「イザャ みか寺 〈清重尚弘〉 五七年 ( 昭和三一 l) 市制施行。町名は市来知にる山。標高二九三。御蓋山とも書く。若草山書」二章にも収められている ) 。 がある。また含まれる鉱物の種類と量によりい なかごう きたぎ いくしゅんべっ しろ ほろない おりかべ ともひと
ふすま からよう じ財 ) など多くは唐様である。方丈の襖絵は狩野 べよのはか置列クい たんゅう ますのぶ ら立一配アと 、フ探幽・益信の筆になり、庭園は国の名勝・史 要んしようおうじきちょう ま ) 丸れののる ン 0 5 。白そンっあ 跡。そのはか日本最古の梵鐘 ( 黄鐘調の鐘、 ン よ O ど Z だいとう ばくせき 2 るゞ , て 5 オ二で ウ 国宝 ) 、大燈国師墨蹟 ( 国宝 ) や海北派の水墨 「引し + しイち塩 ちんそう じゅうほう たっちゅう ョ ウ 0 ・水 . ョ 画、頂相など什宝も多い。塔頭は退蔵院、霊 2 0 っ 心クなの けいしゅん しゅん 度 6 ( 0 ム C 4 ルな 9 し中アす塩 雲院、桂春院、東海庵、玉鳳院、春光院、春 2 bC 0 ン珥 《 0 0 11 ウ 9 ら置のの錯 オ ウ 浦院、天球院など四八院を数え、末寺に至って 0 か位体れをる 定単 4 1 ずいがん へいりん bC イ カ方ぞあな 4 0 「 は瑞巌寺 ( 宮城県 ) 、平林寺 ( 埼玉県 ) 以下約 ' びわ一 4 司オはい立れでら レ レ に ] のそうカ 7 ュ 6 イ 〈平井俊栄〉 1 、・′、 C•O っ 三五〇〇か寺を擁する。 ・、ア 0 4 9 の ン 2 ア置 6 つ。よン ム ハ ( ク位 2 一るのオ 〇 系率度 ウ 回『古寺巡礼京都川妙心寺 ( 一〈七・淡交ウウ ウアの田る くて錯る ョ [ な丸 社 ) ▽荻須純道著『妙心寺』 ( 一九七七・東洋文ョリ量点点重晶折解 っしはアえ ミカ式融沸比結屈溶 ミてう黒 化社 ) ▽川上孤山著『妙心寺史』 ( 一九七五・思 えんまんいん 文閣出版 ) 任。円満院を充実し、晩年志賀寺に住し、円満勢神宮文庫で発見されながら、上巻は寛政年間 世荘園史研究の歩みーー・律令制から鎌倉幕府 みようじんしよう東京都伊豆諸島青院僧正、志賀僧正といわれる。 〈木内堯央〉 ( 一天九 ~ 天 0 一 ) 没収宗教書の仏法に関する部分 まで』 ( 一九全・新人物往来社 ) 明神礁 かっちゅう ヶ島の南約六〇キ。のべヨネース列岩の東方にあ明珍みようちん甲冑師の一流派。「明珍系がほばそれに該当すると推定されるにとどま明忍みようにん ( 一五七六ー一六一 0 ) 江戸初期、 いずものかみきのむね りつ あぎな しんごん る暗礁で、富士火山帯に属する石英安山岩の活図」によると、平安時代末に初代出雲守紀宗る。自由に南蛮寺に出入りできない女性知識人廃れていた律を復興した真言宗の僧。字は俊 このえ たかおさんじんご しんかい 火山。海面下約一五〇〇に基底をもち、同列介が京都九条に住し、近衛天皇より明珍の号をを対象として、妙貞と幽貞なる一一人の尼僧の問 正。京都の人。高雄山神護寺の晋海のもとで密 しんとう 岩を外輪山の西縁とする二重式の一大海底火山賜ったと伝える。しかしその作品がみえるのは答形式で、仏教・儒教・神道を論破し、キリシ教を学び、二一歳で出家した。西大寺の友尊ら の中央火口止とみられる。一九五二年 ( 昭和一一室町以降で、室町後期にもっとも活躍したこと タンの教義を説く。 〈松田毅一〉 とともに高山寺で自誓受戒 ( 戒師がいないと しようえんこくが 七 ) 九月一七日朝、海底噴火と新火山島誕生をが推察される。このころすでに小田原、鎌倉、名田 みようでん荘園・国衙領において、 き、仏前で自ら誓って大乗戒を受けること ) し ひたち 第」うずけ みよう まきのおさんびようどうしんおういん 発見した漁船第一一明神丸の名にちなんで命 常陸 ( 茨城県 ) 、上野 ( 群馬県 ) などに分派が名に編成され名主によって管理・統轄された た。また、槇尾山平等心王院を復興し、そこ じよでんじようでん 名。以後約一年間に三回以上も溶岩円頂丘の新でき、江戸時代に入ると江戸、姫路、広島、高田地をいう。荘園内の耕地には除田と定田の に住した。一六〇七年 ( 慶長一一 l) に教えを求 ひろさき みん っしま 島ができたが、標高二〇〇 ~ 三〇〇に成長す知、金沢、福井、仙台、弘前と各地に広く分布区別があり、除田部分は荘官や在地寺社の給田め明に渡ろうとしたが、対馬で病になり他界し けんろう あ ると、大爆発で海面下に没した。その最初の爆した。鉄の鍛がよく、堅牢で実用的なのがこのなどに宛てられて直接荘園領主による収取の対 た。明忍は律学の中興ともいわれている。ま くつわてつつば 砕期に海上保安庁水路部の観測船第五海洋丸が派の特徴で、甲冑のほか馬の轡、鉄鐔、茶道具象とはならない。 ) それに対して、定田は荘園領 た、思想的には律と真一言宗の思想を統合した立 かんひばし 遭難、全乗員三一人が殉職し、世界火山観測史の鐶、火箸や自在に動く置物などの制作も行主の年貢・公事の賦課対象となる荘園の基幹部場をとり、その思想的流れが真言律宗となって 〈由木義文〉 上最大の惨事となった。 、そのほか古甲冑の鑑定にも権威を示した。 分で、この部分がいくつかの名に分割・配分さ のぶいえ 付近では、一八六九年 ( 明治一 l) 以降、十数 一七代信家 ( 室町後期 ) は名工の誉れ高く、 れる。畿内の比較的小さい荘園では名の規模も ミョウバン〔明礬〕 alum 一般式 MIMM たかよしよしみち 回も海底噴火が記録され、一八九六年と一九四ほかに高義、義通も知られ、江戸時代にはこの 小さく、名田は荘内各所に相互に入り組んで散 ( S04)2 ・ 12H6 あるいは NC(S04) ・ M}(S04)3 ・ 六年にも新島が出没。七〇年にも数回海底爆発三工を三作と称して珍重した。 〈原田一敏〉在する。名田はすべてがその名主の所有、経営 24H6 で示される複塩の総称。は一価の金 はろう おばま が認められ、波浪礁をなした。以後も八六年ま明通寺みようつうじ福井県小浜市門前にあする田地であるわけではなく、名主以外の百姓属イオンあるいはアンモニウムイオン、は三 しん・こんおむろ ゆずりぎん でに四回海底火山活動によるらしい海水変色が る真言宗御室派の寺。棡山と号する。平安時が所有・経営する田地も少なくなかった。一荘価の金属イオンで、表のようなものがある。こ さかのうえのたむらまろ ネ = された。 〈諏訪彰〉代の初め坂上田村麻呂の発願で、諸堂が建立 の名の数や規模は荘園領主側の都合によるとこれらのうち MI=K, M 日Ⅱとのとき、すなわ みようそん ( 九七一 ー一 0 六三 ) 平安後期の され、本尊薬師如来を安置した。その後火災にろが大きいが、荘内に散在する幾片かの耕地がち K と ( S04 ) ~ ・ 12H20 ( カリウムアルミニウム 明尊 ミョウバン ) が、もっとも古くから知られてお 天台宗の僧。「めいそん」ともよぶ。京都生まあったが、鎌倉時代に中興と仰がれる頼禅がき どのような基準で一つの名に編成されるのかは ち おんじようじ おののとうふう におう り、これが初め「明礬」とよばれていたもので れ。小野氏出身、小野道風の孫。園城寺の智て、本堂 ( 薬師堂 ) 、三重塔、仁王門などを造明らかにされていない。中間・遠隔地の大きい ちじよう かえんちかん 荘園では大規模な名も多い。名田は丘陵部の荘ある。現在でも単にミョウバンというときはこ 弁に弟子入りし、智静、慶祚、賀延、智観に天営。のち祈願所として武家の尊信が厚く、寺門 いちじよう のものをさすことが多い「ミョウバン」の語 台・密教を受学した。一条天皇は八宗総博士が繁栄した。現在、本堂・三重塔 ( ともに国園では谷地ごとに比較的まとまって存在した。 あが ごんのだいそうず と崇め、一〇二八年 ( 長元一 ) には権大僧都宝、鎌倉時代 ) 、弁天堂、仁王門、鐘楼、客殿また村を含み込んで一円的、領域的に存在する は、ラテン語の「苦い塩」という意味の alu- 1 ) う にまで進み、園城寺長吏となった。一年にしてなどがあり、寺宝には平安後期の薬師如来、降場合もあった。名田を名主・百姓などが自由に men に由来し、天然産のアルミニウムを含む そうじよう ざんぜ じんじゃ 辞任したが大僧正に進み、ふたたび長吏とな 三世明王、不動明王、深沙大将の木彫、『彦売買することは荘園領主によって抑圧され禁止硫酸塩がアルミニウム aluminium の語源とも ざす ほほでみのみこと った。ときに天台座主に任ぜられようとする火々出見尊絵巻』 ( 市指定文化財 ) 六巻、古文されたが、実際には一、二反ずつ、売券に「先なっている。また「明礬」は「透明な礬類」の ひえいぎん と、比叡山の僧徒がこれを拒み、いわゆる比叡書などがある。 〈勝又俊教〉祖相伝所領」「相伝私領」「作手夜く・貨」などと意味で含水硫酸塩のことであり、このものがガ ラスのような光沢をもっていることから名づけ 山の山門と、園城寺の寺門との確執は激しいも妙貞問笨ロみようていもんどう日本人イエズ表示されて売買されていた。↓名主〈安田次郎〉 ふかんさい のとなった。園城寺独自の戒壇建立を請い、 まス会修道士不干斎フアビアンのキリシタン護教回永原慶二著『日本の中世社会』 ( 一九穴・岩波られたようである。 〔ミョウバン類の種類と構造〕いずれも美しい た山門の妨害でならなかった。一〇四八年 ( 永書。一六〇五年 ( 慶長一〇 ) に京都で著された 書店 ) ▽稲垣泰彦著『日本中世社会史論』 ( 一九〈一・東京大学出版会 ) ▽中野栄夫著『中正八面体結晶をつくり、特徴ある性質を示すの 承三 ) 天台座主を命じられたが在職三日で辞が、中・下巻の写本は一九一八年 ( 大正七 ) 伊 あん かのう すけ きたえ ひこ せ きない かんせい 〇 CAI (H20) 6 ] 3 + [ K ( H20 ) 6 ] + S042- 498
みったん 彼は人格に最高の法理念を求め、これに基礎 粉を媒介される植物に普遍的にみられ、媒介動 かたく 物を呼び寄せる役を果たす。花内蜜腺は花托、を置く自然法が歴史においてかならず非法を打 萼、花冠、雄しべ、雌しべのいずれにも存在す破して自己を貫徹するという一種の歴史的自然 るが、どこに蜜腺をもっかは植物の種類によっ法論の立場から法制史を研究し、膨大な業績を て異なる。花外蜜腺は、サクラの葉柄上部また残した。おもな研究分野は中世国制史で、とく は葉身基部、ソラマメの托葉、トケイソウの葉 にレーン制研究での業績は古典的地位を占めて 柄などにみられ、ある種のアリとの共生関係を いる。主著に「レーン法と国家権力』 ( 一九三一 (l) 、 健 田 もつのに役だっている場合もあるが、機能不明 「中世盛期の国家』 ( 第四版・一九五三 ) 、「ドイツ法 光 〈福田泰二〉 の場合も多い 制史概説』 ( 一九五四 ) 、「ドイツ私法概説』 ( 一九六一 ) ぜんせい かすが 〈井上達夫〉四 (l) に創立の公立らい療養所全生病院 密蔵院みつぞういん愛知県春日井市熊野町などがある。 おうさんやくしじ にある天台宗の寺。時王山薬師寺と号する。本回林毅訳「法史学の存在価値』 ( 一 0 ・創文社 ) ( 東京 ) の医長、一四年 ( 大正三 ) には同 こよらい じみようしよう 院長となり、さらに三一年 ( 昭和六 ) 、岡 尊は薬師来。一三二八年 ( 嘉暦三 ) 慈妙上密陀絵みつだえ日本の古代絵画などに用い ようじよう 人がもと薬師堂に入り、栄西に始まる葉上流られた技法。密陀僧 ( 酸化鉛 ) を加えて乾燥性山県下、瀬戸内海の島に前年設立された最 かんしつかんじよう しのき がんりよう 初の国立らい療養所長島愛生園の園長とし の灌室 ( 灌頂を行う室 ) を開き、以来篠木談を高めた油で顔料を練って描いた絵 ( 油画 ) 。 さんない 議所として学問道場となった。盛時は山内三六 さらに、普通の絵の表面にこのような油をかけて赴任し、五七年退官するまでその地位に にかわえ 坊、数百の末寺をもち、江戸時代には名古屋東て光沢を出した絵 ( 膠画 ) もさす。これらの技あり、全国のらい療養所の充実に努め、ら べっとうしき のうび い患者数を減少させるのに貢献した。朝日 照宮の別当職も兼ねた。濃尾地震 ( 天九一 ) で薬法は早く中国からわが国に伝わり、ともに奈良 師堂、灌室などが倒壊したが、その後諸堂が修時代から平安初期まで用いられた。また後者の社会奉仕賞、文化勲章 ( 一九五 D を受けた。 復された。多宝塔 ( 室町時代 ) と木造薬師如来技法は鎌倉・室町時代にもみられる。近世に入著書に「癩病理図譜』などがある。渋沢栄 みん 〈塩入良道〉り明代の新技法が輸入されると、漆では発色で 一がその事業を支援し、優れた女医や看護 像は国重要文化財。 〈長門谷洋治〉 きない白などの明な色調が珍重され、漆器の婦を育てた。 、、、ツタイス Heinrich Mitteis ( 一会九ー たまむしずし 装飾に多用された。遺品には「玉虫厨子」 ( 法回藤楓協会編・刊『光田健輔と日本のらい l#ll) ドイツの法制史家。ローマ法学者ルー びわげんかんかんばち 予防事業』 ( 一九五 0 ▽青柳緑著『癩に捧 トウィッヒ・ミッタイスの子。一九二一年ケル隆寺 ) や、正倉院の琵琶・阮咸の捍撥画などが げた八十年ーーー光田健輔の生涯』 ( 一九 ン大学、二四年ハイデルベルク大学教授となるある。なお、密陀絵の語が用いられたのは近世 〈加藤悦子〉 以降である。 六五・新潮社 ) ▽内田守著「光田健輔』 が、三三年に政権を獲得したナチスの圧迫のも ー一九六四 ) 日 ( 一九七一・吉川弘文館 ) とに各地の大学を転々とした。第二次世界大戦光田健輔みつだけんすけ ( 一 0 六 さんかなまり 後はベルリン、ミュンヘン、チューリヒの各大本の救らい事業に尽くした医師。光田反応な 密陀僧みつだそう 0 酸化鉛 きようべん 学で教鞭をとる。 ど、らい ( ハンセン病 ) 医学の面での業績も多満谷国四郎みったにくにしろう ( 天七四 。山口県生まれ。済生学舎を ー一九三六 ) 洋画家。岡山県生まれ。一八九 一一やま 卒業 ( 天九六 ) し、医術開業試験一年 ( 明治一一四 ) 上京し、翌年小山正太郎 に合格。帝国大学医科大学の選の不同舎に入る。一九〇〇 ~ 〇一年 ( 明治 三三 ~ 三四 ) 渡欧し、 リ万国博覧会に出 科で病理学を修めたのち、一 九八年 ( 明治三一 ) より東京市品して褒状を受け、帰国の翌年同志と太平 養育院に勤めたが、ここでらい 洋画会を創立した。〇七年の第一回文展以 患者に接したことより、らいに 後毎年審査員を務め、また同年の東京府勧 関心をもつようになり、同院内業博覧会で一等賞を受けた。のち再渡欧 ~ 一四 ) し、近代的造形に作風を転じ にらい患者専用の「回春病室」 ( 一九一一 を設営したのをはじめとして、 る。二五年 ( 大正一四 ) 帝国美術院会員と 行政・有識者などにらい予防に なる。大正後期から昭和初めにかけて中国 ついて提言。一九〇九年 ( 明治 に四回旅行し、しだいに装飾的な様式化に 進んで、独自の画境を開いた。代表作に 撥 5 器撥図八の中すに 捍ュ楽捍たに赤の戦風 『戦の話』『かりそめのなやみ』「砂丘の家』 ひもうせん 図巧 のれ上をそ観し士 〈小倉忠夫〉 『緋毛氈』などがある。 ご碁径物製かの図 , と高 たっちゅう 」囲短宝皮描地なき人の みったん京都・大徳寺塔頭竜光 密庵 下院のに下う描ニ境 樹 5 倉咸上のよでる仙る 院の書院に接続された四畳半台目の茶室 当正阮お料の色すを で、小堀遠州の好みと伝えられる。当初は る顔花彩局人て 陀径良あ撥色の繝対一え 密長奈で ( 白弁暈にる加 別棟で、二方に縁が巡っていた。床、違い 4 えいさい 1 に 密庵大徳寺塔頭竜光院 の茶室。四畳半台目で , 床 , 違い棚 ( 写真左 ) お よび書院床 ( 同右端 ) を 備える。書院床は密庵禅 師の墨跡を掲げるための ものといわれ , 密庵床の「 称がある。遠州好みと伝 えられる。国宝京都市 満谷国四郎「かりそめの なやみ」 1907 年 ( 明治 40 ) 油彩 134X cm 臥した娘を案して , 枕元 で眠らすに看病する母親 , 深い愛情をテーマにした カ作。当時 , 大いに話題 を集め高い評価を得た 361