〈小橋良夫〉ト・テクトニクス説で統一的に説明されるよう 漑用の井堰、回水路が発達している。流域は矢力に留学した。留学中に東北帝国大学教授となる。 ふなご になった。↓プレート・テクトニクス 部川県立自然公園に指定され、日向神峡や船小 り、帰国とともに同大学地質学古生物学科の創ャーホロフ fleüo flBOPOB/Peyo Yavo ・ ー一九一四 ) プルガリアの詩人。本名 山地は起伏によって、①低山性山地 ( 丘陵 ) 、 設にあたった。中央構造線など日本の地質構 rov ( 天大 屋温泉など観光資源も多い。黒木のフジと船小 しとし ②中山性山地、③高山性山地に分類されること 屋ゲンジボタル発生地は国の天然記念物に指定造、地体構造区分について深く研究し、糸魚ペイヨ・トテフ・クラチョロフ。貧しい靴屋の がわ されている。 〈石黒正紀〉 ・静岡構造線を命名した。そのほか海底地家に生まれ、中学を中退して郵便局で働く。そがある。この場合、①は標高約一〇〇〇以下 ひょう ゃべていじ ( 一九 0 一一ー六七 ) 政治学形、第四紀氷河期の問題など地質学について多のころから詩作を始め、『雹』 ( 一九 00 ) など農民の起伏量、は一〇〇〇 ~ 三〇〇〇の起伏 矢部貞治 者。鳥取県生まれ。一九二六年 ( 大正一五 ) 東方面にわたっての研究がある。とくに北海道その生活をテーマにしたものを多く発表した。の量、③は三〇〇〇以上の起伏を有する山地を まうき 京帝国大学法学部卒業。三九年 ( 昭和一四 ) 東の他の白亜紀アンモナイトの研究を通じて、日ち、マケドニア解放闘争に加わり、『起者のさしている。ヒマラヤ、天山、アルプス、ロッ 大教授、政治学担当。昭和研究会に参加。近衛本の白亜系層序区分の大綱を確立するなど、日歌』 ( 一九 0 三 ) などを書くが、フランスに行ってキー、アンデスなどの諸山脈は、著しい氷河地 ふみまろ 文麿のプレーンとなり「新体制運動」の原案を本の古生物学、層序学の進展に大きく貢献し象徴主義に触れ、プルガリアでは初めての象徴形と周氷河地形で侵食され、典型的な高山性山 ひだ きそあかいし ぎゅうじ た。また古生物学の各部門に幾多の優秀な研究詩白き衣に』 ( 一九 0 七 ) その他を出した。物語地景観を表している。飛騨、木曽、赤石、日高 作成。大政翼賛会が陸軍に牛耳られるや海軍と 協力、ファッショ阻止の活動を行う。敗戦後、者を育てた。二五年 ( 大正一四 ) 帝国学士院会詩、叙情詩、哀悼詩、ソネットと詩の領域は広などの日本の山脈の高所にも高山性山地の景観 家庭の不幸と詩作上の行き詰まりから自殺がみられる。 東大辞任。占領期間中は著述に没頭。『民主政員となり、五三年 ( 昭和一一八 ) 文化勲章を受け 〈真木三三子〉 た。↓糸魚川・静岡構造線 〈木村敏雄〉した。 山地は、、 谷底、谷壁、尾根、山頂、小起伏面 機構の基礎原理』 ( 一九四七 ) 、『民主主義の本質と ヤマ Yama 古代インドの神。死者の王、などの侵食地形の発達状態によって、幼年山 価値』 ( 一九四九 ) 、『政治学』 ( 一九四七 ) 、『近衛文麿』ャーベルク Karl Jaberg ( 天耄ー一九五 0 、んんま わせだ 地、早壮年山地、満壮年山地、晩壮年山地、老 上下 ( 一九五一 l) など刊行。占領解除後、早稲田大スイスの一一一一口語地理学者。ジリエロンの弟子で、閻魔と漢訳された。インド最古の聖典『リグ・ べーダ』において、最初の人間で、ビバスパッ 年山地などに分類されている。低山性山地は幼 学大学院講師、拓殖大学総長 ( 一九五五 ~ 六四 ) 。選ュート J. Jud らとともにイタリア全土と南ス ト Vivasvat ( 太陽神 ) の息子とされ、ゾロア年山地の特色を現し、高山性山地は満壮年山地 イスで方言調査を行い、言語・民俗地図集とし 挙制度調査会、中央教育審議会、憲法調査会な の特色を現す場合がある。 スター教の聖典『ア・ヘスタ』のイマ Yima に どの委員を務めた。憲法改正論者であり、マルて刊行した。さらに、一言語地理学について理論 また、山地を形成した営力によって、①火山 クス主義への鋭い批判で知られ、保守の理論家的にまとめ、「単語はそれぞれ固有の歴史をも対応する。イマも最初の人間で、ウィーワフワ 〈村田克己〉 つ」ことを指摘した。単語の地理的分布から過ント Vivahvant の息子とされる。『リグ・・ヘ作用で形成された火山、侵食作用で形成され として活躍した。 ーダ』において、最初に死んで死者の道を発見た残存山地、③地殻運動で形成された山地など 回『矢部貞治日記』全四巻 ( 一九七四・読売新聞社 ) 去の変化を探るに際しては、名と物 Wörter und sachen の関係を重んじ、実物の種類やした点が強調され、ヤマは死者の王として最高に分類される。①の火山は、形態と構造から、 ャベテ人ーーじん Japhetic 古代オリエ ハム変遷をも考慮に入れた。また、方言調査資料の天にある理想的な楽園を支配するとみなされ単式火山 ( 成層火山、楯状火山、溶岩円頂丘、 ント史に活躍した諸民族の一つ。セム・ さいせつ せんとう 系、インド・ヨーロッパ系いずれにも属さない みに頼るのではなく、過去の文献資料をも活用た。死者の霊はヤマの使者である二匹の犬に導溶岩尖塔、砕屑丘、火砕流台地、溶岩台地な かれてこの楽園に赴き、祖先の霊たちとともにど ) と複式 ( 複成 ) 火山 ( カルデラや単式火山 「帰属不明の諸族」をさす。二〇世紀初頭以来して、研究の視野を広めた。単語の意味変化に 〈井上史雄〉楽しく暮らすという。後代のヒンドウー教での複合 ) などに分類される。カルデラをもっ複 の諸研究によって、彼らが一つのいわゆる人種ついてまとめた功績も大きい。 つう をなすものと考えられ、『創世記』一〇章の記やほ、通、いき、などの江戸時代の美は、ヤマは世界守護神の一つとして南方を守る式火山では、二重式火山 ( 中央火口丘と一つの とされ、死の神、死者の審判者とみなされるよカルデラ ) 、三重式火山 ( 中央火口丘と二つの 述に従って命名された。先史時代に全オリエン的生活理念の反対概念を示す語である。一般に うになった。↓閻魔 ^ 上村勝彦〉カルデラ ) などの区別がある。また火山には、 トに繁栄した彩色土器文化はその所産で、彼ら野暮の字をあてるが、野夫から転化したものと やま mountains 周囲の低平な地形面か噴出位置によって陸上火山、海底火山、氷底火 はカフカス、アルメニアを原住地とし、一一一一口語学考えてよい。近世中期以後は、通の対極にあっ山 こうちゃく ら突出し、比高が大きい地表部 ( 地殻 ) 。どの山の区別があり、火山体における噴出位置によ 的にはカフカス語類似の膠着語に属し、人類て、人情の機微を解せず、粗暴で荒々しく、と 学的にはアルメノイド的特徴をもつ人種群で、 に女性に対して露骨に性欲的な男をいう場合程度の比高があれば「山」とよぶかは、地方、って側火山 ( 寄生火山 ) 、中央火口丘などの区 別があるほか、火山活動の仕方によっては爆発 オリエント人種形成の基盤をなし、ほとんどすが多く、拡大されて無教養で文化的繊細さを欠国、研究者などで異なる。 〔分類〕山には火山作用や侵食作用で形成さ型と静穏型、火山の活動・噴出時代によって いた男をいう。江戸の市民生活にあって、もっ べての民族に混血していると考えられている。 は、近年あまり用いられなくなったが活火山お とも軽蔑される存在であった。↓通〈神保五彌〉れ、孤立してそびえているものがあるが、多く 歴史的には、シュメール人、エラム人、フルリ やほう field gun 野戦砲の主力との山はある範囲に集まっており、それらの全体よび休火山、死火山などの区別がある。の残 人、ヒッタイト、ミタンニ、カッシュ諸帝国の野砲 りゅうだん 民はこれに属し、クレタ人、エトルリア人、現なる移動性の高い軽榴弾砲。移動が簡単で発を山地とよぶ。山地は細かく分類され、脈状に存山地には、湿潤気候地域の侵食で生じた残 てきしゃ 在のアルメニア諸族、バスク人、さらにインダ射速度が大きく、平射と擲射の中間の弾道をも連なった山体を山脈、塊状のものは山塊、不規丘、乾燥地域に生じたインゼルベルク lnsel ・ さん しようい 則に集まったものを山彙、山脈や山塊などの集 berg やポルンハルト Bornhardt とよ ス文明人も同系とされているが、いずれも系統ち、榴弾、榴霰弾、発煙弾、焼夷弾、ガス弾な 不明である。ャベテ人の名称は近年あまり使わど多種の砲弾を発射して歩兵の作戦を支援す合を山系とよんでいる。一般に山といえば、陸ばれるものなどがある。これらの山は、他の類 れない。 〈高橋正男〉る。第一次世界大戦までは馬で引いたが、第一一上にある山体をさすことが普通であるが、海面型の山に比べて小規模であり、その分布範囲も しゅうきよく かいれいかいばう けんいん し③の山地には、褶曲山地、曲隆山地、 ー一九六九 ) 地質次大戦ではトラクターやトラックの牽引法が実下すなわち海底にある山体は、海嶺、海膨、海狭、 矢部長克ゃべひさかっ ( 菶〈 きん ドーム状山地、断層山地、傾動山地などがあ 学者、古生物学者。東京に生まれる。北海道石用化された。日本では明治陸軍の四斤野砲に始底山脈、海底火山、海山などとよばれている。 狩炭田の調査研究を卒業論文として、一九〇一まり、三一式、三八式、九〇式、九五式 ( いずこれらの地形の配置や成因などは、海溝、海盆る。↓火山 造山期によって山を区分する場合には、普 などの海底地形と、陸上の大山脈、弧状列島、 ま年 ( 明治三四 ) 東京帝国大学地質学科を卒業、れも口径七・五 ) があった。陸上自衛隊では たてじようち 通、中生代中期までの古期造山運動で生じた山 2 台地、楯状地などの大地形とともに、プレー 五八式一〇五ミリ榴弾砲がその任務にあたってい や〇八年から一二年までヨーロッパおよびアメリ や せき このえ けいべっ 寺一んい
ゃながわ 情吩郡を支配し、ここに居館を構えた。軍の国際的称号を日本国大君とし、外交文書に雅な作風の好短編を発表、のち長編の家庭小説 て間 江戸時代は幕府領、福島藩領などと 日本年号を使用すること、対馬以酊庵へ京都五が世に迎えられて『さぬ仲』 ( 一九一一一 ~ 一三 ) な し時 一定しなかった。中心の梁川は阿武山の長老を輪番で派遣して外交文書を管掌させどで有名。新派劇の脚本家としても著名で、自 としん きようか 隈川舟運の渡津であった。古くから る以酊庵輪番制の設定など、日朝関係上の諸体作のほか泉鏡花の『婦系図』なども脚色してい ミ水時養蚕が行われ、とくに蚕種製造が盛制が整備された。 〈荒野泰典〉る。 〈岡保生〉 影所んであり、一七七一一年 ( 安永一 ) に回荒野泰典著『大君外交体制の確立』 ( 『講座日回「明治文学全集硯友社文学集』 ( 一九六九・筑 ほんば 本近世史 2 鎖国』所収・一九八一・有斐閣 ) 蔵で ' は幕府から蚕種本場の指定を得たと 摩書房 ) 土覧 ▽田代和生著『書き替えられた国書』 ( 中公梁川星巌ゃながわせいがん ( 一大九ー天五 0 や遊いう。舟生などは和紙の生産で知ら そんじよう れた。現在はニット産業が中心で、 新書 ) 江戸後期の漢詩人、尊攘派志士。名を孟緯、 の下 あぎな 辺川農業は果樹栽培、干し柿 ( あんば 字を公図、号を星巌。美濃国 ( 岐阜県 ) に生 柳河春三ゃながわしゅんさん ( 天三一一ー七 0 ) ほくざん , よ柿 ) 、プロイラー飼育などが行われ幕末の洋学者。日本における新聞・雑誌の創始まれる。一九歳で江戸に出て、山本北山に入門 はるかげ てんぼう 赴刪る。福島県蚕業試験場がある。人口者。名は春蔭、号は柳屋主人など多数。天保一一一して儒学と詩を学んだ。以後、日本各地を遊歴 たっすけ かんよう 二万三〇四〇。 〈渡辺四郎〉年二月二五日名古屋生まれ。初め西村辰助とい 放浪して詩心を涵養し、一八三四年 ( 天保五 ) ぎよくちぎんしゃ 回『梁川町史』全一二巻 ( 一九七一 ~ ったが、のちに良三と改め、さらに一八五六年から四五年 ( 弘化一 l) まで、江戸で玉池吟社を をは 内役 梁川町 ) ( 安政三 ) 柳河春三と改称した。漢学を学んだ開いた。江戸詩壇の中心となった玉池吟社から おわり 市主 ナいすけ がの地〕二万五千分の一地形図「舟生」のち、尾張の藩医伊藤圭介のもとで蘭医学を習は、優秀な詩人が輩出した。ついで居を京都に りようぜん かすがせんあん 一ク光 「霊山」「桑折」「保原」 得。江戸に出て紀州藩に仕えた。洋学者として移し、春日潜庵や吉田松陰らと交わり、尊王倒 あんせい 久す柳川一件やながわい。けん対馬評判高く、六四年 ( 元治一 ) 幕府の開成所教授幕連動に関与したが、安政の大獄の発動される そうよしなり しげおき ばってき 出 藩主宗義成とその重臣柳川調興の争職に抜擢された。開成所では職務として外国新直前、安政五年九月二日、コレラのため病死。 川醸論が発端で、宗氏 ( 柳川氏 ) の日朝聞を翻訳していたが、しだいに新聞・雑誌に興詩集に『星巌集』 ( 一〈四一 ~ 五六 ) などがある。妻 かいぎん こうらん 両国国書の改竄などの不正が露顕味をもち、同僚と会訳社を組織し、回覧雑誌をの紅蘭 ( 一含四ー七九 ) も幕末の女流詩人として活 は広範な水田地帯で行われる稲作を中心とした し、近世初期の日朝関係最大の問題となった事編集。また伝聞したニュースを集め『新聞薈躍し、『紅蘭小集』 ( 天四 l) がある。〈揖斐高〉 しげのぶ そう 農業で、イグサ生産も盛んである。有明海での件。柳川氏は調興の祖父調信一代で家臣の筆頭叢』を出した。これらの経験をもとに『西洋雑回伊藤信著『梁川星巌翁附紅蘭女史』 ( 一九一一五・ ノリ養殖と貝類採取を中心とした漁業も盛んで にまでのし上がった存在で、調興の代には朝鮮誌』 ( 一会七 ) 「中外新聞』 ( 一会 0 を発行し、日 梁川星巌翁遺徳顕彰会 ) ▽富士川英郎著 せんだん あるが、製造業は農水産物加工が中心で、みる関係から宗氏の家政まで擅断するようになって本のジャーナリズム活動に先駆的役割を果たし 『江戸後期の詩人たち』 ( 一九七三・筑摩書房 ) とうどり べきものはない。柳河城跡をはじめ、冲端にあ 、調興は人質として幼少から徳川家た。六八年 ( 慶応四 ) 三月開成所頭取となる。 柳月鍋ゃながわなペドジョウをゴボウとと ひでただひざもと る造り酒屋で明治のおもかげを伝える北原白秋康・秀忠の膝元に置かれており、幕府要路に強 明治維新後、『中外新聞』は佐幕派とみなされ、もに煮て、溶き卵でとじた鍋料理。古くからあ しようとう えん もり一だまん′一う どじよう 生家、白秋詩碑苑、国指定名勝の松濤園や明力な人脈をもっていた。義成と調興の確執は、発行禁止となる。六九年 ( 明治一 l) 三月から一る料理で、江戸末期の『守貞漫稿』に「鰌汁、 わん ほねめき 治建築の料亭「お花」を有する旧立花家別邸、調興がそのような地位を足場に幕臣化しようと時再刊したが、七〇年廃刊。六九年七月大学少鯨汁ともに一椀十六文、鰌鍋四十八文也。骨抜 としま ふくごん ぶんせい 同じく国指定名勝の戸島氏庭園、福厳寺などが した点に発しており、一六一五年 ( 元和一 ) ' 博士に任ぜられたが、一〇月免官となる。明治鰌鍋の始は文政 ( 一、一 ノ八 ~ 三 0 ) 初めころ、江一尸南 みはしら うらだな よろずや ある。三柱神社前の乗船場から、水面に映るヤ義成が家督を継いでほどなくその兆しがみら三年二月二〇日死去。 〈有山輝雄〉伝馬町三丁目の裡店に住居せる萬屋某といふ とのくら なみくら ぞうふ ナギや白壁の土蔵殿倉、れんが造の並倉などのれ、三一年 ( 寛永八 ) に双方が幕府に訴えたこ回湖北社編・刊『柳河春三資料』全二冊 ( 一九者、鰌を裂いて骨首臓腑を去り鍋煮にして売 そのごてんぼう 風景を楽しむ沖端までの川下り遊船は観光の中とから争論となった。その際明らかになった日 会 ) ▽小野秀雄稿『柳河春三』 ( 『三代言論る。其後天保 ( 天き ~ 四四 ) 初めころ横山同朋町 これ ばかりと・一ろ 心である。上宮永にある柳川温泉は一九六五年朝関係上の不正には、それまでの朝使節来日 人集 1 』所収・一九六一一・時事通信社 ) にて是も裡店住の四畳半許の処を客席として売 掘削による新興温泉。ウナギのせいろ蒸しは名の際の国書の改竄・取り替え、国王使 ( 将軍柳月春葉やながわしゅんよう ( 天耄ー一九一 0 始め家号を〈柳川〉といふ。其後横山町二丁目 - ) うよう つらゆぎ しろ 物料理。人口四万四九四二。 〈石黒正紀〉使 ) を詐称しての使節の朝派遣などがある 小説家。東京生まれ。本名専之。尾崎紅葉の門 新表店に移りて大いに行はれ今に存在す。又白 回光行照太・藤丸満編『柳川史話』全三巻 ( 一九が、これらは宗氏あるいは柳川氏の罪というよ下で、四天王の一人といわれる。明治三〇年代銀町日本橋通二丁目の式部小路等諸所に同号の あきあわせ あらぎ もつばこれ 五六・柳川郷土史刊行会 ) りは、中世以来の日朝関係の諸慣例を放置して に『秋袷』 ( 一九 0 一 D 、『泊客』 ( 一九 0 三 ) などの温店を開き、其他同名に非る者も専ら之を売る。 はいめづか 囮二万五千分の一地形図「羽犬塚」「柳川」「佐 いた幕府の姿勢に起因したものである。 京坂にも伝へ売る事になりたり ( 下略 ) 」と紹 ななえ うわ寺一 賀南部」「七ッ家」 争論は当初調興の有利が噂されたが、一六三 介されている。当時から現在まで、柳川の名の いえみつ 梁川 ( 町 ) ゃながわ ( まち ) 福島県中通り北端、五年将軍家光の親裁によって義成の無罪、調興 料理の内容はほとんど変わっていない。ささが 伊達郡の町。一八八九年 ( 明治二 (l) 町制施らの有罪が決定した ( 調興は津軽に流罪、その きごばうの上に裂いたドジョウを並べて卵とじ あわのせきもと 行。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 粟野、堰本、白ほかにも死刑・流罪 ) 。この裁定には、義成室 にするのである。鍋は土製で二重になってい ねやまふにゆうとみの いさぎわ ひのすけかっ たかっかさ 根、山舟生、富野、五十沢の六村と合併。国道が日野資勝娘で家光室の鷹司氏と親類にあた る。だいたい、現在のどじよう鍋と同じで、上 あぶくま 三四九号が通じる。町域は阿武隈高地西縁に広ることが影響しているといわれるが、それだけ にドジョウ、ゴボウ、溶き卵を入れ、下には熱 がり、阿武隈川とその支流広瀬川の流域であではなく、当時の幕府の対外政策、大名統制策 湯を入れて保温の役目をさせる。柳川鍋は、 ともむわ る。鎌倉時代初期に伊達氏の祖中村朝宗が伊達の基本路線に沿ったものであった。一件後、将 味、栄養兼備の料理であるから、いまでも好む こおり がき っしま ぎん につまんこくたいくん 柳河春三 ていあん らん かわ てんま おんな
第外棗第 もりおう ① ② 溺田隷 と肺結核の症状で死去。享年六〇歳。墓は現森外 / 年譜 みたか の稲な 在、東京・三鷹市の禅林寺にある。なお、生家 算用数字は月・日または月を表す ま茉は 端 は津和野町で保存され、一八九二年以降の住 と , 京 一会一一文久一一 ・ ( 新暦 2 ・卩 ) 石見国 せんだぎ 外家東 居、文京区千駄木の観潮楼跡には鵐外記念本郷 躍 鹿足郡津和野横堀 ( 現、島根県津和野 鵰作 ちっ鵬毫 図書館が建っている。 町 ) に誕生。本名は林太郎 画の育飛 ! 揮 穂 ( て館鯤る 〔業績〕鵐外の仕事は、はなはだ多岐にわたっ 一会九明治一一藩校養老館で漢学を学ぶ 百莉け書「よ ている。第一は、陸軍省医務局長まで務めた軍一全 = 明治五 6 上京。親戚の西周邸に寄 福茉受図額に 平女を学篇体 寓、本郷の進文学舎でドイツ語を学ぶ 医としての業績、第二は、医事、文学等につい ②長愛大③書 一全四明治七 1 東京医学校 ( のちの東京大 て啓蒙、批評、報道に努めた大ジャーナリスト ・一くら 学医学部 ) 予科に入学 小倉に左遷された。鵐としての仕事、第三は、ドイツ美学の訳述と、 一会一明治一四 7 大学卒業陸軍軍医に 外は、隠忍して命に従美術審査の仕事、第四は、おびただしいヨーロ 一〈会明治一七 6 ドイツに留学を命ぜられる その間は、ドイツ ッパ文学翻訳の業績、第五は、国家に責任をも 一〈明治一一一 9 帰国、陸軍軍医学舎教官に 美学の翻訳や、アンデ っ立場からの、思想上、政治上の諸発一 = ロ、第六 入〈九明治一三 1 『東京医事新誌』主筆 ルセンの『即興詩人』は、晩年の歴史研究。小説、詩、短歌にまたが 『衛生新誌』創刊。赤松登志子と結婚 の翻訳を続ける程度る作家としての仕事のほかに、以上のような諸 ( 翌年離婚 ) 6 『於母影』発表『し で、心的エネルギーを業績が数えられるわけで、まさしく驚くべき多 がらみ草紙』創刊怩『医事新論』発刊 蓄え、また、一九〇一一カの人であった。鵐外全集も、その過半を創作 入九 0 明治一三 1 『舞姫』発表 8 「うたか 年 ( 明治三五 ) には、 以外の文章が占めている。鵐外の今日の名声 たの記』発表 びばう は、むろん、その文学上の業績によっている 若くて美貌の荒木志げ 一兊一明治一一四 9 坪内逍遙と「没理想論争」 3 みなわ ⅱ『即興詩 一兊一一明治一一五 7 「水沫集』刊 を妻として得、同年一一一が、この多面性は、日本の近代文学者中まった 人』発表 ( ー一 1) 月に『東京医事新誌』主筆に就任、そのかたわ月、第一師団軍医部長に任じられて帰京した。 く類例をみない。 まんねんぐさ 入九 = 一明治一一六 5 「傍観機関」論争 ら三月に蒙誌『衛生新誌』を創刊、一一月に帰京後、『めさまし草』にかえて『万年艸』を〔鵐外文学の特色〕外には、虚構の大道を行 かぶき 天九六明治元 『め癶、ま 6 ー ) 草・』創舸・ ゆえあって『東京医事新誌』を追われるや、翌創刊、この時期には新歌舞伎や長詩の試作が注 く本格的長編は少ない。現代小説では『青年』 かいじん 一〈究明治三一一 6 第十一一師団軍医部長として 一二月に「医事新論』を創刊、九〇年九月に両目されるが、〇四年の日露戦争に第二軍軍医部『雁』『灰燼』が長編だが、小説的によくまとま 小倉へ 誌を統合させて『衛生療病志』と命名、これを長として出征、軍陣の余暇に詩歌の創作に努っているのは『雁』一編で、『青年』は熟成せ につしん 一九 0 一一明治三五 1 荒木志げと再婚 3 第一師 九四年一〇月の日清戦争出征まで続けた。 め、これらは、のちに『うた日記』としてまとず、『灰燼』は中断してしまっている。『渋江抽 がいせん いざわらんけん かてい 団軍医部長となり帰京間「万年艸』 文学面では、一八八九年当初より、評論、翻められた。凱旋後は、その延長線で、〇六年斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』の史伝三作は、長 やまがたありとも ときわ 訳等を諸新聞・雑誌に寄稿、同年一〇月には に、山県有朋を囲む歌会常磐会を、また、〇七編ではあるが、鵐外自身、小説とは考えていな 一九 0 六明治三九 6 歌会常磐会をおこす 『文学評論しがらみ草紙』を創刊、これを九四年には、短歌諸派の交流を企図して、自宅で観かった史的述作である。しかし、とりわけ『渋一〈皂明治当 3 観潮楼歌会をおこすⅱ陸 年八月まで続けた。一時は三誌を併行編集して潮楼歌会を始めた。 江抽斎』は、鵐外がかけた情熱に比例して、深 軍軍医総監・陸軍省医務局長となる いたわけで、その活動のすさまじさがよくわか 一九〇七年一一月、四五歳で陸軍省医務局長 い感銘を読者に与え、結果として優れた文学に 一九 0 九明治四一一 3 『半日』発表 7 『ヰタ・ る。しかも、彼のジャーナリズム活動はきわめ に就任、これをきっかけとして文学活動を全面なっている。外の最高作品であり、小説に新 セクスアリス』発表 一九一 0 明治四三 3 『青年』発表 ( ー一 l) て闘争的で、九三、九四年の、医学界中枢と対的に再開させる。〇八年にはまず翻訳活動を、 領域を開いたものということもできる。これ 一九 = 明治四四 3 『妄想』発表 ( ー 4 ) 9 峙した「傍観機関」論争、九一、九二年の、坪ついで〇九年から創作活動を全開にして、自然は、想像的であるよりは知的である鵐外が、そ しようよう みぞう 『雁』発表 ( ー一三 ) 内逍遙と渡り合った没理想論争が、とりわけ主義興隆後の文壇の盛況に伍した。『半日』『青の資質をよく生かしえた未曽有の世界である。 もうぞう がん 一空一一明治四五・大正一 『かのやうに』発 注目されるものである。創作は、九〇、九一年年』『妄想』『雁』などの長短の現代小説を相次短編は数多いが、傑作はやはり歴史小説に集中 さんしようだゅう 表『興津弥五右衛門の遺書』発表 に『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の雅文 いで発表、一二年 ( 明治四五 ) の明治天皇崩しており、『阿部一族』『山椒大夫』『最後の一 かんぎんじっとく 『阿部一族』発表 三部作を発表して、新風を巻き起こした。私生御、それに続く乃木将軍夫妻の殉死をきっかけ句』『高瀬舟』『寒山拾得』などは、多くの人々 おきつやごえもん 一九一四大正三 1 「大塩平八郎』発表 に親しまれている名作である。 活面では、鵐外の後を追って来朝した「舞姫』として、『興津弥五右衛門の遺書』を書き、以 一九大正四 『山椒大夫』発表 7 「魚 のモデルを説得、帰国させた約五か月後の八九後、歴史小説に転換した。さらに、一六年 ( 五 生涯衰えることのなかった、鵐外の文学への 玄機」発表 しぶえちゅうさい のりよし 年三月に、赤松則良男爵の長女登志子と結婚し四歳 ) の陸軍省退官と前後して、『渋江抽斎』渇望は、終生その身を俗界に置いていた彼の自 一九一六大正五 『高瀬舟』『寒山拾得』『渋 たが、約一年半で離別した。 をはじめとする史伝に移行した。翌一七年末に己救済の願いに深くかかわっていた。『舞姫』 江抽斎』 ( ー 5 ) 発表 6 『伊沢蘭軒』 日清戦争終結ののち、一八九六年に『めさま はふたたび官途について、宮内省帝室博物館総等の初期三部作や、『即興詩人』などの初期諸 発表 ( ー一七 ) ずしょのかみ ろうまん 一九大正六 9 『なかしきり』発表 2 『北 し草』を、九七年に『公衆医事』を創刊するが、長兼図書頭となり、終生その職にあった。一翻訳では、それが、美的、浪漫的方向性をとっ 条霞亭』発表 (—IO) 執筆活動は、以前と比べればかなり沈静したも九年にはさらに帝国美術院初代院長に就任、一一て現れ、明治浪漫主義ーー唯美主義の流れと結 一空 = 大正二 7 ・ 9 没、向島弘福寺に葬られ のとなった。九九年、そのジャーナリズム活動一年には図書寮の仕事として『帝諡考』を完成び付くことになった。第二の活躍期では、高踏 いしゆくじん る。のち墓は三鷹市褝林寺に移された も一要因となって、第十二師団軍医部長として出版。二二年 ( 大正一一 ) 七月九日、萎縮腎的な姿勢をとって、作品のなかで、俗界の権威 森外 ①肖像 1912 年 ( 明治 45 ) こ・ろ かのあし まんわんぐさ いわみ
やくしま 地では、その二倍以上とも推定さヤクシマダカラガイ「屋久島宝貝〕 れる。これは「屋久島では月に一一一 Arabian cowry/ き 3 0 き 3 軟体 ぞくげん 三日雨が降る」という俗諺に言い 動物門腹足綱タカラガイ科の巻き貝。房総半島 表されるように、降水日数の多い 以南の熱帯太平洋およびインド洋に広く分布 島 ことによる。山と水の島とよぶに し、潮間帯から水深一〇の岩礁やサンゴ礁に 行 ふさわしい。気温は、海岸部ではすむ。殻高六五い、左右殻径四五、、リ、背腹殻径 年平均一九度 0 ぐらいで最寒月で三七ミリに達し、背面は丸く膨らみ、腹面はやや も一〇度 O を下回る日は少ない。 平らな長卵形。成貝では背面は平滑で光沢があ ぶつえ 屋 . 鯛ノ しかし、内部ではその高度のためって褐色を帯び、虫食い模様のような多くの黒役者やくしや本来は神事・仏会などの 杉郡文一始岳、 气温 ) : 久 。原忠 石ー 降雪や積雪もある。これら地形や褐斑条がある。左右両側は厚くなり、暗灰褐色祀儀礼に際して特別な役を受け持つ人をさすこ さるがく し上毛 ( ・・、ギ太・ 気候条件により、植生分布に著しで栗色斑がある。腹面殻ロは狭く、内外唇に一一とばだったが、中世の猿楽以後、舞台芸能にお や はやしかた 海 い特色がある。縁辺の二〇〇ま〇 ~ 二五の黒い歯がある。幼貝では殻は薄く、 ける演技者の名称になった。古くは囃子方も含 らとう 田△切 泊 ) 泉 日勿 7 吉坪町 では、アコウ、ガジュマル、ヘゴ螺塔が明らかで青色を帯びた地に淡褐色の雪状めていたが、やがて演技者に限るようになっ や 際峡などの亜熱帯植生、二〇〇 ~ 八〇斑があり、殻ロは広い。 屋久島特産ではない た。『役者全書』 ( 一七七四刊 ) に「役者といへる号 海〇は、クス、シイなど暖帯林、が、以前は同島からもたらされたのが和名の由は、何役でも、それぞれの役を勤むる者を役者 〈奥谷喬司〉 そこから一六〇〇までがヤクス来と思われる。 と称す。されば仏家にも役者の名あり。しかる に役者といへば戯場の狂言をなす者に限ること ギ帯、それ以上がシャクナゲ、ヤヤクシマラン〔屋久島蘭〕を s 、 げんろく になりたり」とある。元禄年間 ( 一六会 ~ 一七 0 四 ) クザサ帯となっている。農業は縁ミ R. Br. var. き、 0 こ Masamune かぶき 辺部の海岸段丘上で行われ、サト ラン科の多年草。根茎は横走する。茎は直立 には、歌舞伎の演者のことを役者、芸者、役人 ひしん ウキビ、サツマイモ、タンカン、ポし、高さ約一〇拜一。葉は数枚互生し、披針形でなどとよんだことが知られるが、しだいに「殳 かんきっ ギ ンカンなどの柑橘類、ガジュッな長さ二 ~ 三。七月ころ、茎頂に黄色で径約八 者」に統一されたらしい。猿楽役者、歌舞伎役 ス がくへん ひせん ク の どが栽培される。集落は、島の内 、リの花を数個開く。三枚の萼片と三枚の花弁と者が社会的に卑賤な身分の者とされていたた ャ かひ は部が国有林であるため、すべて海が、ほば放射相称に並ぶ。各花被片はやや反りめ、近代以降における演者の地位向上とともに きょ キ 6 し ス 7 て岸部に分散立地する。人口は両町返る。距はない。合着する雌しべと雄しべは先「俳優」の称が一般的になった。しかし、江戸 上成あわせ一万五〇七四。霧島屋久国端で分かれ、雌しべの周りを二本の雄しべと一時代を通じて、「役者」の称号は大衆に親しま かゆうずい 以そ形 年よを立公園に属し、観光客が多い。鹿本の仮雄蕊が取り囲む。常緑樹林の林床に生れ、演者自身も「役者」の称に誇りをもってい お林 児島市から毎日船便があり飛行機え、九州南部に分布する。 た。毎年出版され続けた技芸評判の本を「役者 高然 〈塚田公彦〉 齢標天も利用できる。 この属は花被片が放射相称であるなどの点で評判記』と名づけたのはその表れの一例とな 樹。の 。る樹〔植生〕屋久島には亜熱帯から亜ラン科のほかのものと異なり、ヤクシマラン科る。↓役者評判記 〈服部幸雄〉 林れ葉 寒帯にわたって生育する多様な植として独立させることがある。 生ば針 〈井上健〉役者絵やくしゃえ歌舞伎役者を描いた風俗 物群落が一定の垂直分布を示しなヤクシマルリシジミ〔屋久島瑠璃小灰画の総称で、舞台姿を主に、楽屋や街頭、家庭 のとに も がら凝集している。多量の降水量蝶〕 common hedge blue/ 0 s 、こき内などにおける日常の姿も扱われた。また、役 杉杉と ばがん りんし 久とと花崗岩起源の貧養性の母岩のた s を昆虫綱鱗翅目シジミチョウ科に属する者が没したときに売り出された死絵 ( 肖像に没 ( ギなめ、中腹以上には針葉樹林がよくチョウ。日本では本州 ( 紀伊半島中南部 ) 、四年月日、享年、辞世などを添える ) も見逃せな かん ギスキ スコノ発達し、なかでも樹齢二〇〇〇年国 ( 高知県南部海岸地域 ) 、九州 ( 南部 ) より 特定の役者をモデルとした例は、すでに寛 以上ものヤクスギの自然林 ( タカ南西諸島にわたり分布。国外では台湾、中国南文年間 ( 一六六一 ~ 七三 ) のころの肉筆画、いわゆる ヤの サゴシダースギ群集他 ) の生育は部より西はインド、東はニューギニア南東海上寛文美人画のなかに認められるが、浮世絵版画 島のモ げんろく 久下 きわめて顕著である。さらに高海のアルー諸島、ケイ諸島にわたって東洋熱帯に が定着する元禄年間 ( 一六会 ~ 一七 0 四 ) 以降、美人 屋以ガ 抜地にはヤクシマシャクナゲ、ヤ分布が広い。はねの開張は二七ミリ内外。普通の画と並ぶ重要な分野として独立、発展をみる。 とり ある。北西部の一部を除き島の周囲には基盤をクシマダケ、イッスンキンカといった同島固有ルリシジミに似ているが、雄のはねの表の黒縁役者絵専門の流派としては鳥居派がおこり、 ひょうたんあしみみずがき なす熊毛層群 ( 白亜紀から古第三紀 ) や段丘堆の群落が発達している。「屋久島スギ原始林」は幅広く、はねの裏の黒点斑は強い。和名は、 「瓢簟足・蚯蚓描」という独特の様式を踏襲し 積物がみられるが、内側の山地はすべて貫入し 〈奥田重俊〉 は特別天然記念物。 このチョウが屋久島で最初に発見されたことにて、歌舞伎の絵看板などに現代まで続いてい た花崗岩類で覆われる。種子島との地形・地質回松田幸治著『屋久島ーー自然と文化』 ( 一九よる。南九州では三 ~ 一一月にわたってみられる。一八世紀後半から写生的な描写が試みら しゅんしよう とよくにとうしゅうさいしやらく 上の相違はこの貫入岩の有無に起因する。本島 会・南国出版 ) ▽日下田紀三著『屋久島のるが、夏から秋に多く、春には少ない。幼虫はれ、勝川春章、歌川豊国、東洲斎写楽、歌川 かみがた の気候は、これら地形的特異性と相まって複雑 自然』 ( 一九会・八重岳書房 ) バラ科、トウダイグサ科、マンサク科、ツッジ国貞らが個性的な作風を競った。上方にも江戸 りゅう・」う一いじよナい である。降水量の多いことはよく知られ、海岸囮五万分の一地形図「屋久島東北部」「屋久島科、ブナ科、ヤマモモ科など多岐にわたる科の植の浮世絵風が波及し、幕末に流光斎如圭らが からい 部の平年値でも四〇〇〇ミリを超える。内部の高 東南部」「屋久島西北部」「屋久島西南部」 物の新芽、花蕾などを食べる。 〈白水隆〉活躍した。↓鳥居派 〈小林忠〉 せき 鹿児島个↓ ー 30 。 屋久島 1 : 600 , 000 10km 鹿児島県 0 良。 永四瀬ノ 海田千本松 △ 1 ・ 323 、、 ロ 種子島海峡 田 屋久島空港 時 . 果生 . 川 町一 % 栗 はん くり はん ぶん くに、だ かぶき ヤクシマダカラガイ 140
よぐると する。使用される乳酸菌は乳酸生成力、発酵フす。験力にまつわる伝承もある。〈木内堯央〉 ーの付与などの目的で選択されるが、一 よけいもの JIHUIHHVI 工 e ()BeK 、、、、 余計者 かんきん 般的にはプルガリア桿菌、アシドフィラス桿 lishniy chelovek 一九世紀ロシア文学が生 菌、ラクチス球菌、サーモフィラス球菌などをんだもっとも典型的人間像。西欧的教養と進歩 数種混合して用いられる。家庭でつくるには、的思想をもち、活動意欲もありながら、農奴制 市販牛乳またはスキムミルクを溶解したもの一度に支えられた専制政治下ではそれを生かす道 を四〇 ~ 四五度 0 に加温し、市販のヨーグルをみいだせず、支配層からも民衆からも孤立 ト菌種または市販のプレーンヨーグルトを大さ し、しだいに生活に怠し、幻滅のうちに自他 じ二杯程度加えて混合し、保温ジャーに入れて に不満なまま、強い自意識に苦しみながら生き 五 ~ 八時間放置すれば手軽にできる。 る知識人たちをいう。この用語はツルゲーネフ ヨーグルトは乳成分に加えさわやかな酸味がの『余計者の日記』 ( 天五 0 ) による。題名のみ 特徴で、とくに脱脂乳でつくったものは低カロでなく、文中にも「おれは余計者だ」という嘆 ス レ リー食として普及している。そのまま野菜、果きが出てくる。主人公チュルカトウーリンは社 図 イ 物のドレッシングとして用いたり、ヨーグルト会的落後者で、死を前にして生涯を回想し、自 テ ク ケーキ ノロアなどの製菓材料として利用さ らを余計者と定義づける。このタイプを時代の ダ れるほか、調理材料として肉類のつけ込み、シチ生んだ典型ととらえる文学者は、ほかにオガリ ロ テ ューやカレーなどの煮込み料理に加えるなど、 ョフ ( 『余計者の告白』天夭 ~ 五九 ) 、ドプロリ プ 広く利用されつつある。 ^ 新沼杏二・和仁皓明〉 ューポフ ( 『オプローモフ主義とは何か』天 ューク William Tuke ( 一七三一一ー 一全 (l) を中心 ト、カードを細かく砕いて液状にしたドリンク よけい ( 九一九ー究 l) 平安中期の天台 五九 ) 、ゲルツェン ( 『余計者と不平家』一会 0 ) 、 余慶 ちくぜん に一七九二年に、患者を同胞として扱う療養所ヨーグルト、アイスクリーム状に凍結させたフ 宗の僧。「よきよう」ともよぶ。筑前国 ( 福岡ピーサレフ ( 『バザーロフ』 I<KII) らがいる。 さがら おんじようじみようせん を設立し自分たちの手で運営することを決めローズンヨーグルトなど、多種類の加工品が流県 ) 早良の生まれ。宇佐氏。園城寺の明仙に 余計者の最初の出現はニコライ一世 ( 在位一全五 ぎようよ かんじよう た。 Retreat の語は、壊れた舟が避難して安全通している。 師事し、行誉から灌頂を受ける。九七九年 ~ 五五 ) 治下であり、デカプリスト事件後、政治 ごんのしようそうず に修理を受けられる港と同じく、不幸な人が避 近代的製法は、牛乳、脱脂乳または乳製品を ( 天元一 l) 権少僧都となり園城寺長吏となる。 的弾圧が強化されたため、志を得ず、むなしく かんのん あじゃり 難できるところの意味で選ばれた。「心理的療原料とする還元乳を加熱殺菌し、乳酸菌発育温翌年岩倉観音院に阿闍梨五口を置き密教道場と生きる知識人が増え、一つのタイプとなった。 法」 moraltreatment の名でよばれることに度 ( 約四〇度 0 ) まで冷却したあと、純粋培養して整備。九八一年 ( 天元四 ) 一一月法性寺座このタイプは一様ではない。汚辱に満ちた上流 す えんりやくじ ごうそ めんば なる人道的患者処遇によってあげられた好成績をした乳酸菌を接種混合する。発酵は三〇 ~ 四主に任ぜられると、延暦寺の僧徒が嗷訴し、階級を面罵するが、かえって狂人扱いにされる は、創立者の孫サミュエル・テューク Samuel 〇度 0 の範囲で五 ~ 一〇時間で終了し、その後山門・寺門の確執が深まる。よって座主を辞しチャーツキー ( グリポエードフ『知恵の悲し Tuke ( 一大四ー一会七 ) によって一八一三年に発発酵の進行を止めるために一〇度 O 以下に冷却岩倉に退き、その経営にあたった。九八九年 ( 永み』一全四 ) 、誇り高く冷たい孤立者オネーギン 表され、世界的な精神病院改革のきっかけとな 祚一 ) 九月、天台座主に任ぜられると、延暦寺 ( プーシキン『エウゲーニイ・オネーギン』天 せんみよう る ト 6 〈岡田靖雄〉 僧都はその宣命を奪う。一二月天台座主を辞 = 五 ~ 三三 ) 、反抗的、情熱的エゴイスト、ペチョ る 費年 よ ヨーグルト yoghurt アナトリア ( トル 年 つっ 8 1 bC コ ) およびバルカン半島周辺の東欧諸国で、古 当一 - 年ー 1 っ 0 1 1 一 4 な 1 1 1 報 くから利用されてきた発酵乳の一種。ロシアの 年 生物学者メチニコフが、プルガリアに長寿者が 多いこととヨーグルト飲用の習慣を結び付け、 4 -0 0 行ー 0 、【じ製 ーワ 8 4 乳酸菌が腸内の有害細菌の発育を抑制するため 1 ワ -4 1 8 、む 含乳 という説を唱えてから、改めて欧米諸国に普及 をよ牛 、 0 》戸 0 戸 0 ク .. こ し、現在では発酵乳といえばヨーグルトをさす 8 【ー 8 -. 0 0 ーっ 0 レ ( . 部 - 費 0 ) 8 0 ワワ朝 8 1 ーー 4 1 場合が多い。元来、牛乳、羊乳またはその脱脂 千 ワ・ⅱ 乳を殺菌せずに室温に放置するか、または前日 ワ 0 0 0 0 っ 0 サ・統 は”省 産量眸 コお産 つくったヨーグルトの一部を種として加えて、 生産 8 0 3 5 3 7 7 ルエ 0 ) 、、 8 -0 の 自然に乳酸発酵させたものであって、そのま はちみつ 国 ま、あるいは砂糖や蜂蜜などを加えて食べるほ 諸 。千 か、肉料理の調味、野菜のドレッシングなど広 ク く調理材料として用いられてきた。現在ではヨ 一ッスカジロ売位 グ 一漲庫 マインリ② ョ 1 2 ーグルトそのもののほか、糖類、香料、果汁、 ンドラメ本ュ 表 ョ デ西ファ日ニ注 ーヨーグル 果実加工品などを加えたフレー 4 〔表 2 〕可食部 100g 当りの組成分 全脂無糖含月ロ糖 * 月弸ロ糖 * ( 無糖ョー ( スイート ( 普通ョー グルト ) ヨーグルト ) グルト ) 84 60 78.9 88.0 80 . 0 成分 エネルギー 水分 タンパク質 脂質 炭水化物 糖質 繊維 灰分 無機質 カルシウム ナトリウム カリウム ピタミン A レチノール カロチン A 効力 bC 15.3 0 15 . 5 0 - -0 0 0 120 100 0.1 mg 60 150 130 110 60 150 110 100 50 140 5 9 32 0.05 0 . 20 25 100 0.04 0.20 注 : * 印は付加物により数値は異なる 科学技術庁資源調査会編「四訂日本食品標準成分表」による 0 0 0 0.03 0.15 ナイアシン ん た
社日 富 ぐ市衛 跡建 上ロ 史が ロ陸山碑 . 「 . 完 御行 0 0 の堂 一工念 胤かる ゆす 知 . , ロ」線 亠氏念 文ガ 内記 社幵幡 大を 西。、性咄 卍館 栄社今 - 卍界 口を跡」 合う 日ー本 - 橋冓 ( 一ム 書当 山行 のよュ。 ー・亀美堂ロ 自館 寺よ工山卍 光所香寺 大め③ 三ロ刀 守「 宮幵 盆。ド 神積一 ( 民 宀え 室 察済 むの 望そ 街で 市庁 り・目 舎館 空物 庁ロ 《園 方の 南央 会」呆クも ①中 大林寺卍町細た 山② ふげし 川県鳳至郡輪島村に生まれる。一八八七年 ( 明 ど明治維新時の史跡も多く、日本に初めてキリ山口 ( 村 ) やまぐち ( むら ) 長野県南西部、木旅行して三三年帰国し、国画会会友となる。翌 年同志と新時代洋画展を結成し、さらに自由美治二〇 ) 石川県尋常師範学校卒業後、同県や東 スト教を伝えたザビエルを記念するザビエル記曽郡の村。木曽谷の南端にあり、岐阜県中津川 さギ一まい たなばたちょうちん ぎおん 念聖堂もある。祇園祭の鷺舞や七夕提灯祭り市に接する。一九五八年 ( 昭和三三 ) 西筑摩郡術家協会、第二次世界大戦後はモダンアート協京で国語教育ののち、外地での日本語教育に一 あら みさか ゆだ 会の創立に参加する。五六年 ( 昭和三一 ) 現代貫して従事した。九七年からは台湾、一九一一 などの歴史的祭事もある。市街地南西の湯田温神坂村が中津川市に編入した際、馬籠、峠、荒 なかせん まち あきよし 泉は山陽路随一の湯量を誇り、秋吉台や萩城下町の三地区は山口村に編入。国道一九号 ( 中山日本美術展で佳作賞、五八年グッゲンハイム賞年 ( 明治四四 ) からは朝鮮、二五年 ( 大正一 どう 町観光の基地となっている。椹野川の河畔は国道 ) が通じる。中津川市からバスで約四〇分の国際美術展国内賞のはか、第一〇回毎日美術四 ) からは旅順、奉天、三八年 ( 昭和一三 ) か らは北京 ( 新民学院教授 ) 、四四年からは大連 指定天然記念物ゲンジボタル発生地で有名であ距離にあり、生活圏は中津川市にある。気候は賞、昭和三四年度芸術選奨文部大臣賞を受け はやまだ る。なお、山口駅前から早間田交差点を経て県温暖で、太い竹の林や茶畑があり、木曽川左岸る。国内の各種展覧会のほか、サン・パウロやと、日本語教育に携わり、とくに日本語だけに 庁前に至るバークロード沿いにはカエデやケヤの傾斜地は水田化している。旧中山道に沿う馬ベネチアのビエンナーレ展に出品。また東京芸よる直接法の指導理論と実践の確立に努めた。 キの並木が続き、地方裁判所、県立美術館、児籠は近世の木曽十一宿の馬籠宿で、島崎藤村の術大学教授として後進の指導にあたった。豊か第二次世界大戦後は、話しことばの教育の開拓 に力を注いだ。昭和二七年二月二九日逝去。著 童公園、県立図書館、博物館、一五階の県庁舎出身地として知られる。藤村記念館、島崎家のな色彩とのびやかな形態の交響による、独特の えいしよう などがある。大歳地区には維新百年記念公園と墓所永昌寺、清水屋資料館、馬籠宿郷土館な詩情に満ちた画風を示す。代表作に『紐』『母書に『日本語教授法原論』 ( 一九四三 ) 、『話言葉と たんばからす 〈古田東朔〉 陸上競技場、平川地区には国立山口大学の五学どがある。人口二一五〇。↓馬籠〈小林寛義〉子』『田園詩』「季節の哀歓「田圃と烏」』『荒れその教育』 ( 一九丑 ) などがある。 つま 1 」 ひしがた みどの 〈小倉忠夫〉回『追悼記』 ( 全国大学国語教育学会編「国語科 た小さい菱形の沼』など。 部がある。↓陶↓鋳銭司↓椹野川↓湯田温囮二万五千分の一地形図「三留野」「妻籠」 教育第一集』所収・一九五一一・教育評論社 ) 〈三浦肇〉山口薫やまぐちかおる ( 一九 0 七ー六 0 洋画家。回『山口薫』 ( 一九穴・求龍堂 ) ▽『山口薫第 2 集』 ( 一九七五・求龍堂 ) 山口吉右衛門やまぐちきちえもん ( ? 群馬県生まれ。東京美術学校西洋画科に在学中 回『山口市史』 ( 一九〈 0 ・山口市 ) ちょうもん ほうふ 五七 ) 江戸中期の義民。一七五六年 ( 宝暦六 ) から帝展、国画会展はかに出品し、一九三〇年山口喜一郎やまぐちきいちろう ( 一 0 = ー 囮五万分の一地形図「長門峡」「防府」「山口」 あわ に阿波徳島藩が実施しようとした葉藍取引税と FII) 日本語教育者。明治五年四月一七日、石 ( 昭和五 ) 卒業。同年フランスに渡り、各地に 「小郡」「宇部東部」 セー卍善生寺 ・ 257 羆野神ネ 至′トい ま′一め こしちくま ひも ②璃光等五重塔。大内盛覓が兄装畆の菩提を弔うため に建立 , 1442 年 ( 嘉吉 2 ) 完成。国宝 ひろよ ③八坂神社鷺舞。八坂神社は 1369 年 ( 応安 2 ) に大内弘世 か人じよ、 が京都感神院 ( 現八坂神社 ) を勧請したものという。 7 月の祭礼で舞われる鷺舞も京都祇園会から移されたも の。境内のほか町内でも舞う 248
らっこ ラックレール式鉄道 歯形軌条の種類 匚アプト式 にラックを刻んだ特殊なレールを敷設し、この はその逆の運動を得たいときに使用される。↓ 動力によって駆動されるピニオン ( 小歯車 ) を開発・改良が進められ、一九世紀末ごろにもっ レールを水平に、両側からビニオンで押さえっ とも普及した。 歯車 〈中山秀太郎〉 かみ合わせて走行する鉄道。勾配の程度によっ けるようにかみ合わせて走行する。発明者はロ 〔方式〕①アプト式一八八五年にドイツのハ ラックカイカラムシ lndian lac insect て、粘着動輪と併用したり、ラック駆動のみで はんし ルツ鉄道で最初に採用した方式である。薄手のヒャー Eduard Rocher ( 一会 0 ー一九一 0 ) であ \ トミ c 、 lacca 昆虫綱半翅目同翅亜目の走行したりする。アプト式、ストルプ式、 〈松澤正一一〉 ゲンバッハ式、ロヒャー式などがある。普通の鋼板にラックを刻んだ二 ~ 三枚のラックレールる。 ラックカイガラムシ科に属する昆虫。インド、 インドシナに分布し、シェラックの原料となる鉄道は、鋼製のレール上を鋼製の車輪で走行すを、ラックを少しずらして線路の中央に敷設回土木学会編『土木工学ハンドブック』 ( 一九 六七・技報堂出版 ) し、これに対応する枚数のピニオンをかみ合わ 樹脂状の分泌物を出すので商業上重要な昆虫るため、レールと車輪との間の摩擦が小さく、 で、かってはカイコ、ミッパチとともに三大益勾配の征服には弱い欠点をもっている。ラックせて走行する。発明者はアプト Roman Abt ラックワニス 0 セラック レール式鉄道は、急勾配の区間に用いられる方 ( 一会 0 ー一九三三 ) である。↓アプト式鉄道 一フッコ〔猟虎〕 sea 0 ( ( er \ E を d きき・ 虫とされた。台湾にも移入されたことがある。 ほにゆろ・ ②ストルプ式一八九八年にスイスのユングフ哺乳綱食肉目イタチ科に属する海獣。成 雌はやや球形で頭と尾端部が細くとがり、はね式である。 あし こんせき 〔歴史〕もっとも古いものに、 ノ一二年にイ ラウ鉄道で最初に採用した方式である。レール体の頭胴長は一・一 l> 、尾は〇・四。体重は も脚もなく、触角も痕跡的、体はやに状の分泌 し - う - 」う の頭部の大きなラックレール一本を敷設し、そ二五 ~ 四〇キ。。雄は雌よりやや大きい。イタチ 物に包まれている。体の中央辺に多数の小孔ギリスのプレンキンソップ Joho Blenkinsop ( 一大三ー天三一 ) が特許をとった方式がある。これにピニオンをかみ合わせて走行する。他の方に似た体形であるが、頭部は上下に平圧された があって、やに状物質ラックを分泌する。雄に は有翅型と無翅型があり、年二世代のうち、第れは、レールと車輪との粘着力の小さいことを式に比較して構造が簡単なため急速に普及し形で、胴は長く筒形である。ロ辺の感覚毛は長 へいたん 発明者はストルプ Emil Viktor Strub くて目だっ。前肢は短くて小さい。指の間には 一世代は両型が現れるが、第二世代は無翅型だ考慮して、平坦線でも断面が形のレールの直た。 水かきがあるが、器用に物をつかむことができ けである。幼虫は第一齢だけ脚が完全で移動で立面の外側に等間隔の突起のあるレールを敷設 ( 一会〈ー一九 0 九 ) である。 ハンる。後肢は大きく、水かきが発達し、遊泳器官 ③リッゲンバッハ式アメリカ、ニュ きる。多種の樹木を宿主とすることが知られてし、それに前後の走行用車輪 ( 動輪 ) の中間に いる。ラックカイガラムシ科 Lacciferidae (lac 同径の歯形の動輪をかみ合わせて走行する機関プシャー州のワシントン山の鉄道で一八六九年として適応している。尾は平たく、先端はとが に採用した方式である。二枚の鋼板の間に一定る。体色は黒褐色から灰褐色まで個体差が大き insects) の種はほとんど熱帯から亜熱帯にか車を使用する方式であった。しかし、普通の粘 、頭部ほど淡い。年をとるにつれて銀白色に 間隔に、丸棒 ( マーシュ式 ) または角棒 ( リッ けて産し、雌は丸くて、やに状の分泌物に包ま着方式でも、わずかな勾配の走行には支障のな 〈中根猛彦〉 いことがわかり普及しなかった。一九世紀の後ゲンバッハ式 ) を細かく固定した細い梯子状の変わる。綿のような下毛と、太く長い上毛から れる。 。ー・しきてつどう走半になって、ヨーロッパやアメリカで登山の大レールを敷設して、これにピニオンをかみ合わなり、一つの毛穴から一本の上毛と約七〇本の ラックレール式鉄道 行用のレールの中央にラックレール rack rail 衆化に伴い、登山鉄道や山越えの鉄道が次々とせて走行するものである。発明者は丸棒式がア下毛が生える。密に生えた下毛の間の空気の層 が保温の役目をする。 ( 歯形軌条 ) を敷設し、それに対応する車両の敷設されるようになり、改めてラックレールのメリカのマーシュ SYlvester Marsh ( 天 0 三ー ラッコは海生で、岩礁に上ることもあるが、 会 ) 、角棒式がスイスのリッゲンバッハ Nik ・ 軽車に クれ 一関 , れッず県 laus Riggenbach ( 天一七ー究 ) であるが、両者通常は海岸の岩礁域の海の中で生活し、背中を 4 ラっ野 下にして水面で休んだり、泳いだりするのが特 は関連することなく別個に考案された。 横気治入たたず長 線電明輸れっし ④ロヒャー式一八八九年にスイスのピラトス徴的である。その際には頭と前肢を水面に出 4 らさ合少物 . ・越 0 年か用みが念 し、後肢と尾で推進したり体の・ハランスをとっ 鉄道だけが採用した方式である。平鋼棒の両側 挙信ッ使かル記 イてと一道 上印 , ドれンレ鉄 形でかさオク 道 0 急車わニッる 鉄 o が関合ビラか 式配機みののわ 主ぎルる勾気組車枚が 一走は電と関 3 と レを問の式機。こ駅 " 】を礬ク間区初ト同ルる沢 ッ沢の鉄プ〕一い井 ラ井こ国ア〔レて軽 4 0 2 . ストルプ式 3 . リッゲンノヾッハ式 4. ロヒャー式 1 ラッコ〔上〕貝類のほか , 筬動物 , 節足動物を食べる 〔下〕胸の上に子をのせたまま休息する雌親 751
よ大曲市 よこてばんち秋田県南東部にある 級でも尊称でもなかった。また直接には優勝に綱審議委員会」という諮問会を設け、横綱の免発達し、中世には久保田氏の居城があり、江戸横手盆地 関係がなく、徳川将車上覧相撲に際して選ばれ許は相撲協会が候補力士を推挙し、その適否に時代は秋田藩佐竹氏の城代戸村氏の城下町とな西奥羽盆地列最大の盆地。南北六〇キロ、東西の まひる った。北部の金沢には平安時代の金沢柵跡があ最大幅一五キロ。盆地の東縁は真昼岳断層崖によ た大関力士に儀式上の必要から免許が与えられついて横綱審議委員会の諮問を得て決定のう た。幕末の混乱期にはその意味も薄れ、明治に って奥羽山脈と接し、西縁は出羽山地によって え、協会が推挙状を授与する形式となった。なる。横手盆地は米作地帯であり、東部丘陵の おもの 限られる。盆地の西縁を雄物川が北流し、旭 入って長年功労のあった大関や天覧相撲に際しお現在の横綱推挙の条件は二場所連続優勝か、栄、大沢、金沢地区はリンゴ、ブドウの栽培が まるこ 1 」しょの 、鞠子 ( 丸子 ) 川、玉川などをあわせ、盆地 て免許した例もある。維新後に独立した大阪・ これに準ずる好成績をあげた大関力士となって盛ん。大沢、御所野地区には繊維、電気機器、 いる。↓相撲 京都相撲は、吉田司家と別の相撲の家元五条家 自動車部品工場が進出した。県南の卸売りの中の北西端で出羽山地を横断して秋田平野に流れ から横綱免許を得て、初めて番付に「横綱土俵〔横綱の綱のつくり方 ( 綱打ち式 ) 〕綱の材料 心地でもあり、近年横手駅前開発、大型店の進る。盆地の標高は南部で一〇〇、北西端で一一 さらしもめん 入仕候」と書き添えた。 ま麻一二キ。、銅線三本、晒本綿六 ~ 九出によりいっそう活況を呈している。県内有数〇である。盆地床は東部断層崖下の複合扇状 一八九〇年 ( 明治二三 ) 五月、横綱免許の西反。麻を米ぬかでもみほぐして絹糸のように細の豪雪地帯で、一九七三年 ( 昭和四八 ) の豪雪地と西部の沖積地とからなり、横手市以北には しん ノ海が大関にかわる横綱の文字を初めて番付に くし、もんだ麻を三本に分けて銅線を芯にして時には総降雪量一一・六 一日の最高積雪量一〇個の複合扇状地が並び、扇頂から扇央まで は急傾斜をなすが、扇端では緩傾斜となって沖 記したことが、横綱を階級化する前提となっ 三筋つくる。これを晒二反で堅く巻き、三ぐ二・五に達した。以後防雪モデル都市を目ざ じんまく た。これに刺激された幕末の大関陣幕は、引退らいの長さの綱を三本つくる。晒を巻くとき、 積地に移行する。代表的な鞠子川扇状地では真 し、流雪溝造りを進めている。 して三〇年後の九五年に、これまでの大関力士腹部の前面にくるところを太くして両端は細く 旭川右岸の小高い地にある横手城跡は横手公昼岳断層崖下に同心円状の等高線がみられ、等 ゅうせん のうちから横綱免許を受けた力士を「横綱力する。そして三本の綱を真中から左練りに撚り園となり、天守閣を模した展望台からは市街地高線の四五の地点に沿って湧泉列がある。こ こんりゅう ちょうかい あさひおかやま 士」として選び、これを顕彰する記念碑建立合わせる。これを綱打ち式といい、約三時間かや鳥海山を眺望できる。行事には旭岡山神社の湧泉列によって扇頂、扇側、扇端は水田化し を計画し、考案した横綱代数記載の文書を配布かる。 〈池田雅雄〉の梵天 ( 二月一七日 ) などがあり、二月一五、 た。扇央の乏水地域は畑地、草地で、リンゴ、 あかしあやがわ ・フドウなどを栽培するが、近年田沢疎水の延長 した。これには、明石、綾川、丸山の非実在の横手 ( 市 ) よこて秋田県南東部、横手盆地一六日に行われる「かまくらまつり」は雪国の に伴い水田化されている。盆地南部は成瀬川、 伝承力士まで加え、西ノ海の一六代までを数のほば中央に位置する市。東部は奥羽山脈、西 小正月の行事を観光化したもの。人口四万三二 みなせ ひょく 〈宮崎禮次郎〉皆瀬川が合流して大扇状地をつくり、用水路の え、記念碑は一九〇〇年 ( 明治三三 ) に完成し部は肥沃な水田地帯になっている。一九五一年六六。↓金沢柵 ひたちゃま あさひさかえ 開削によって水田化されている。さらに南部の た。さらに五年後には常陸山、梅ヶ谷に免許が ( 昭和一一六 ) 横手町と旭、栄の二村が合併して回『横手郷土史資料』一 ~ 五九号 ( 一九三七 ~ 七六・ さかいまち あって、これまで張り出された横綱が正欄に記市制施行。五五年境町、黒川の二村、五六年 横手市 ) ▽『横手明治百年史』 ( 一九穴・横手狭長な地溝帯は果樹園に利用されている。盆地 おおまがり 載されてからは、一般に階級とみるようにな町を編入。東日本旅客鉄道の奥羽本線と北 北部に大曲市、中央に横手市、南部に湯沢市 郷土史研究会 ) があり、それそれ商圏をもち盆地の中心をなし り、一一年には相撲協会が横綱を階級として成上線、国道一三号と一〇七号が通じる。中心地 囮二万五千分の一地形図「左草」「壮後糶淵」 おもの じゅうもんじ かくまがわ ている。 〈宮崎禮次郎〉 文化し確定した。五〇年 ( 昭和二五 ) には「横区の横手は雄物川の支流旭川 ( 横手川 ) 沿いに 「金沢本町」「横手」「十文字」「角間川」 横手山よこてやま長野、群馬県境の志賀高 原にある山。標高二三〇五。安山岩からなる 火山で、山頂は鍋のような円みを帯びている。 梵納 一 2 の奉る 山頂からは上信の山並みや北アルプス、八ケ 、状をあ ふもとしぶ ー纏天も 岳、浅間山などが大観できる。麓の渋峠から山 消梵と にこ頂までロープウェーが通じ、志賀高原側の斜面 初る 日最な は横手山スキー場で、リフトが設けられてい きゅうがい る。西側は古いカルデラ壁と思われ、急崖で 月、つし つ」か△ロ 落ち込み、この斜面を志賀草津道路が通過して , 向み ゴ一 れにも いるが冬は閉鎖される。山頂には関東と日本海 沢。 さ社で と神前 沿岸とを結ぶ無線中継塔が設置され、樹氷もみ ( 筏を殿 ごとである。 〈小林寛義〉 、俵道社 いわすげやま ・ : っ・けく物一つ の雪 囮二万五千分の一地形図「岩菅山」「上野草津」 神がい のりと はちい 寿詞よごと祭の儀式に唱えられる祝詞の 天たと 梵者る うちで、とくに祝賀の意味が濃いものを寿詞と 天の授 いう。賀詞、吉詞とも書き、また「ほぎごと」 梵内を の町運 とも読む。個人的な祝賀に用いるものとして むろはのことば 社各幸 は、新築の住宅を祝賀する「室寿詞」が伝え 神めの あきつみかみ 冬「山た年 られている。公事に用いられるものは、現御神 岡るの せんそだい 旭すそ なる天皇に奏上する祝賀の詞である。践祚大 納が じようさい たつのひせちえじんかんなかとみ 市奉者嘗祭の辰日の節会に神祇官の中臣氏が奏上す なかとみの あまっかみの 手をた る「中臣寿詞」は、「天神之寿詞」とも称し、 第横天し くり 0 、彳 仙南村 △ー 2 ー ' 所野 0 / △ 744 、を上 、弥勒 外山 平鹿郡 神日 / ・ 月院手所」東岡 日日横 竜 ^ センター・ 三本柳 福内 」まっガ ひらい 久保奥 問内・、 中吉田 大屋新町 0 寺内 イ、町役場 いのの 鍋倉「 \ 4km \ い : 0 00 ゆざわ ばんてん はんて人 あさひ 567
ーリン ( レールモントフ『現代の英雄』天三九 ~ 超人間的なカ ( カリスマ charisma) を授けら書」「ミカ書」「ナホム書」「ハバクク書」「・ヾ セノ預言書よげんしょ Prophets 預言者の文 ニヤ書」「ハガイ書」「ゼカリヤ書」「マラキ書」学をさす。『旧約聖書』の三区分、すなわち 四 0 ) 、高い教養と強い個の自覚をもちながら適れた個人であるところにも、大きな特徴がある。 だれ 「律法」 ( トーラー ) 、「預言書」 ( ネビイーム ) 、 預言が、文字どおり神のことばを預かり、神などの一一一小預一一 = ロ書とに分かれる。 所をみいだせぬ・ヘリトフ ( ゲルツェン『誰の罪 「前預言書」は、預言書の名前こそもつもの「諸書」 ( ケスビーム ) の第二の部分にあたる。 か ? 』一会一 ~ 四六 ) 、純な心をもちながら惰性的にかわって語られるものとなるためには、それ 一般に預言活動それ自体は、古代オリエント世 にふさわしい強烈な神体験、召命体験が要求さの、モーセの指導のもとにカナーンの地に入っ に怠惰な生活を送るオプローモフ ( ゴンチャロ れる。また、シャーマニズムにみられるよう たイスラエル民族が、そこにイスラエル王国を界に広くみられる現象であり、多くの場合、楽 フ『オプローモフ』一会九 ) 、活動の場所がなく ・一うこっ 弁舌のみに情熱を燃やすルージン ( ツルゲーネな、非日常的な心理の高揚状態であるエクスタ建設、やがて南北に分裂、滅亡して「バビロン器を媒介として恍惚状態に入り、神の意志を フ『ルージン』一会六 ) 、低俗な貴族社会に幻滅シーや、意識の低下状態 ( トランス ) も、ときの捕囚」に至るまでを記した、むしろ歴史書で人々に告げるシャーマン的、祭司的職能として ある。ここには見者は登場しても、その名にふ機能した。『旧約聖書』の場合、預言者は、神 に・は伴 , つ。 して領地に引きこもるラブレッキー ( ツルゲー のことばを神にかわって民に語る神の代弁者 さわしい預一一 = ロ者はほとんど描かれていない ネフ『貴族の巣』一会九 ) 、知識と意志と活動力 マックス・ウェーバーは、預言を倫理預言 ( ナービー ) として登場する。彼らの職務は、 典型的な預言者が描かれているのは「後預言 をもち、革命志向を抱きながら、不慮の死を遂 ethische Prophetie と模範預言 exemplarische げるバザーロフ ( ツルゲーネフ『父と子』天 prophetie との二つの型に分けている。「倫理書」である。これらの預一一 = ロ書には、まず、神のヤーウ工とイスラエルの民との間に真実の人格 六一 l) 、周囲と妥協するすべも知る芸術家肌のラ預言」は、古代イスラエルの預言者に代表され命に反し、異教の神々を拝して不義の生活に走関係を打ち立てることにあったが、そのために だんがい 自ら身を殺してャーウェの契約に生きることは るように、超越的な神の命を受けて、それをるイスラエル民族への批判が語られ、そのよう イスキー ( ゴンチャロフ『断崖』一会九 ) など、 もちろん、民に対しても契約に従って生きるよ さまざまである。チェーホフは戯曲『イワーノ人々に伝える道具として自己を自覚した場合でな生活のもたらすものが民族の滅亡であること しやか うひたすら叫び続けた。彼らの預言がイスラエ フ』 ( 一犬九 ) を書くとき、「このタイプをしめくあり、他方「模範預言」は、釈迦で代表されるを告げ、その状態からの立ち直りが叫ばれてい ルに対する厳しい批判となり、痛烈な審判とな くる」といったが、イワーノフはすでに一九世ように、自己を救済の模範として示すものである。しかし、その預一一 = ロ者たちのことばもむなし ぎせつ って現れたのはそのためである。しかし一方、 、民族が滅亡し「バビロンの捕囚」を迎える 紀前半の余計者とはやや異なって社会的挫折者る。 〈佐藤清郎〉 いずれにせよ、預言は、単なる「予一言」や予と、今度は、苦難に陥った民族を励まし、苦難悔い改めてャーウェに立ち返る者への「とりな じよち 兆などとは異なり、倫理性をともなったある特が将来の生活にもっ積極的な意味づけが語られし」も預一言者の職務に属する。ャーウェはく 除地よけち 0 除地 る。これが「エゼキエル書」や「イザャ書」の神であると同時に愛の神であることを伝えるこ 与件よけん data Daten 響経済外定の新しい宗教的世界を提示することによっ て、既成の世界に対し、緊張的な作用をするこ第四〇 ~ 六六章である。とくに「イザャ書」のとを忘れていない。『旧約聖書』の預言者は、 的諸条件のこと。・・シュンペーターは、 紀元前八世紀を境に、前預言者 ( 「ヨシュア とが多い。↓カリスマ↓シャーマニズム↓預第五三章にみられる「主のしもべのうた」は、 その静動一一元論を構築するとき、経済現象を、 記」「士師記」「サムエル記」「列王紀」 ) と後 〈鈴木範久〉きたるべきイエスの出現を「預言」したことば 経済外的諸条件の変化によって影響を受ける部言者 預一 = ロ者 ( 「イザャ書」「エレミャ書」「エゼキエ として知られる。 分と、純粋に経済的な部分とに分けて認識しょ預言者よげんしゃ prophet きたるべき世界 このように預言者は、神のことば、それも倫ル書」「一二小預言書」 ) に分かれるが、通常、 うとした。この場合、経済外的諸条件 ( 人口、 prophéte 駕 Prophet 響 欲望状態、技術、政治等々 ) を与件とよび、その内容や、その意味、それに対する人間の態度理性を強く帯びたことばを、神から預かって語預一一旨書という場合には後預言者の書をさしてい 〈山形孝夫〉 れが変化すれば経済も影響を受けるが、与件にや生活のあり方を指し示す人たちをいう。ユダる人々である。ユダヤ教、キリスト教の、アモる。 対して経済は影響しない、あるいはしないと認ヤ教、キリスト教などの宗教的預言者がその代ス、ホセア、イザヤ、エレミャ、第二イザヤ、予後よご prognosis ギリシア語の pro 識されるものとした。与件をすべて一定とすれ表。『旧約聖書』の「サムエル記」には、神がエゼキエルなどが、なかでも代表的存在であ ( あらかじめ ) と、 gnosis ( 知る ) から生じた りかん けんじゃ ば、その影響が波及し尽くしたとき、経済は一かり状態のなかで幻を見、それを伝える見者る。しかし、イスラム教では、イエスも預一言者ことばで、ある疾患に罹患したとき、その後い ( ローエー rö'eh) のことが記されている。見の一人とされ、マホメット ( ムハンマド ) は最かなる経過、あるいは終末をたどるかを予測す 定不変の状態に保たれる。これが静態である。 後で最大の預言者になっている。日本では、 ることを意味する。予後は、病因とそれに対す これに対して純粋に経済的な部分は交換現象で者には、このようにシャーマンの性格がみいだ りつしようあんこくろん あり、このなかから新機軸 innovation が生ずされるが、預言者 ( ナービー näb ごとなる『立正安国論』によって内憂外患のあることをる個体の反応、治療方法などが関連して決定さ にちれん と、ただ幻を見て語るだけでなく、預一一 = ロ者に臨説いた鎌倉仏教の日蓮や、不義の戦争による日れるものである。しかし、病因が不明な疾患も ることによって動態になるとした。また、シュ うちむら 本の亡国を説いた無教会主義キリスト教の内村数多くあるほか、病因や治療法に対する生体の ンペーターは、なにをもって与件とし、なにをんだ神のことばを語る性格が強くなる。 かんぞうやないはらただお この見者と預言者との区別は、同じ『旧約聖鑑三や矢内原忠雄などが、預一一 = ロ者的人物とされ反応には個人差が大きいし、いまだに根治療法 もって純粋な経済現象とするかは、経済学者の めいりよう のみいだせない疾患も多いことなどから、予後 手腕であるとし、この意味で、もっとも広く経書』のなかでかならずしも明瞭にされているている。 預一言者および預言者的人物にみられる共通性の判定が困難である場合も少なくない。近年、 わけではない。キリスト教で『旧約聖書』とよ 済をとらえた者として・マルクスをあげてい 〈一杉哲也〉 る。↓シュンペーター ばれている部分は、ユダヤ教では主たる聖典では、強烈な召命体験と終末意識とをもってすコンピュータを含めた統計的処理法の進歩か イギ あり、「律法」「預一言書」「諸書」の三部に大別る、その生きた社会への批判である。そのためら、疾患に対する多数例についての経過や予 prophétie 冖肪 預一一一口よげん prophecy に世の迫害を受けることが多く、伝統的宗教の後、さらに予後を規定している因子やリスク ドイ「予言」が、ただ未来のことをされる。このなかの「預一一 = ロ書」は、さらに「ヨ Prophetie ッ まえもって語るだけであるのに対して、宗教的シュア記」「士師記」「サムエル記」上下、「列祭司とも対立する。預言者は、しばしば、社会 ( 危険 ) 因子などに関するデータが数多く報告 な「預言」では、きたるべき世界の内容とその王紀」上下の四書を「前預言書」とよび、「後変動期の危機状況のなかに出現するが、預一言者されるようになったため、より広い視野からの 意味、それを前にして人々のとるべき態度、行動預言書」すなわち「イザャ書」「エレミャ書」とその精神によって、新しい社会を目ざした変結論が下せるようになっている。〈井上義朗〉 AJ を指し示すことをいう。預言を語るのは職業的「エゼキエル書」の三大預言書と、「ホセア書」革状況が促進されることもある。↓シャーマン余呉 ( 町 ) よご ( ちょう ) 滋賀県最北部、伊香 そうりよ ↓預一一一一口↓預言書 〈鈴木範久〉郡にある町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 余呉、丹 ョエル書」「アモス書」「オバデャ書」「ヨナ よな祭司、神官、僧侶ではなく、神によって特別の「
さちょう ち小正月にはどんど焼 ( 左義長 ) が行われ、正月飾りなどを集殿、今八幡宮の本殿・拝殿・ 山口県 / 略年表 とうしゅん かぎぞ かぜ 楼門、八坂神社本殿、洞春 ム、めて焚き、餅を焼いて食べると風邪をひかない、書初めをく かんのん 旧石器時代下関市綾羅木郷遺跡、山口市秋穂一一島美濃ケ まべて高く舞い上がると字が上手になるといい、神社の境内や寺の観音堂・山門など鎌倉時 浜遺跡など や学校の校庭を利用する子供たちの行事となっている。熊毛群代や大内時代のものが集中し や きりかえばた 縄文時代山口市美濃ケ浜遺跡、宇部市常盤池遺跡 ( 早 島の祝島や八島では長く切替畑と牛の放牧が行われてきたている。そのほかには下松市 期 ) 、下関市彦島宮ノ原遺跡 ( 前期 ) 、下関市 あかいばうとうばやまと が、明治以降切替畑は廃れて、放牧だけが続けられている。の閼伽井坊塔婆、大和町の石 安岡町潮待貝塚 ( 中期 ) 、萩市椿遺跡 ( 後期 ) 、 がちりん まきはた 平生町岩田遺跡 ( 晩期 ) など 八島ではこれを「牧畑」とよんでおり、一月四日には正月飾城神社本殿、徳地町の月輪寺 弥生時代豊北町土井ケ浜遺跡、下関市梶栗浜遺跡 ( 前 薬師堂などが注目される。住 りを山の牧場で焼いて、餅を牛に食べさせる「ねがり」とい あさ 期 ) 、防府市井上山遺跡、熊毛町岡山遺跡 ( 中 宅建築では旧厚狭毛利家萩屋 う風習をいまも伝えている。 期 ) 、光市三井岡原遺跡 ( 後期 ) など くまや はながさ 春から夏への行事では田植祭があり、花笠をつけて踊る華敷長屋や熊谷家住宅など特色 古墳時代柳井市茶臼山古墳、下松市西豊井宮ノ洲古墳、 はやしだ かみみ 新南陽市御家老屋敷古墳、山口市朝田墳墓群、 やかな「囃田」の行事はわずかに岩国市平田や須佐町上三ある武家・商家の住宅が、城 はら 防府市大日古墳・車塚古墳など 原などで伝えられているにすぎない。下関市住吉神社のお田下町であった萩市に多く、萩 ひやこ ( 景行一一 l) 景行天皇、熊襲征伐のため周防の沙麼に至る 植祭は下関市農業祭に組み入れられ、典雅華麗な祭典として市堀内地区・平安古地区は柳 ( 仲哀 (l) 仲哀天皇と神功皇后、穴門豊浦宮を営む な′ ) し 復活した。古くからの夏越の行事として、内海沿岸の農村で井市古町金屋とともに、国の 七 = 一四天平六大竹川を周防と安芸の国界と定める 全七天長四このころ周防鋳銭司成立 七月中・下旬に牛を海に引き入れて水浴させる「さばら」と重要伝統的建造物群保存地区 たまえうら 九四 0 天慶三藤原純友、周防鋳銭司を焼き払う よぶ伝統的な行事がある。一方、漁村の行事では萩市玉江浦に選定されている。彫刻では ちょうげん きようそう あみだ = 会文治一壇ノ浦の戦いで平氏滅亡 の和船競漕「おしくらごう」が五月中旬に行われる。四組防府市阿弥陀寺の木造重源 一一周防国が東大寺造営料国となり、俊乗房 ろ ぎぞう の青年宿の若者たちが四隻の五丁櫓の和船に乗り組み、海上坐像、下関市国分寺の木造不 重源が国務を管理する キ。の勝敗を争う雄壮な海の祭礼である。旧暦六月一七日に動明王立像、萩市大照院の木一 = 七 = 建治一元の使者、長門の室津にくる おかげん いつくしま 一一北条宗頼、長門探題となる は県下各地の厳島神社で安芸の本社と同様の御管絃祭が行わ造赤童子立像、山口市神福寺 一 = = 一応長一国司上師信定、『松崎天神縁起』をつくらせる の木造十一面観音立像、防府 れる。漁民休息の日で、豊漁祈願の祭礼が行われる。七 ~ 一三 = 一四建武一周防国が大内裏造営料国となる 月は県下各地で多彩な夏祭が繰り広げられる。約一〇万個の市国分寺の木造四天王立像な 一 = = 六建武三大内長弘が周防国の、厚東武実が長門国の守 ちょうちん 護となる 紅提灯が火のトンネルをつくる山口ちょうちん祭、六〇〇どは傑出した逸品である。 やさか ぎおん じんぐう 正正ー一 O 大内弘世、周防国を平定して長門国に進出し 国指定重要有形民俗文化財一 = = = 文和四 年伝承された鷺舞が奉納される山口八坂神社の祇園祭、神功 いみのみや すおうでい 厚東義武を討っ 皇后の故事にちなむ下関忌宮神社の数方庭祭、藩主御座船をとしては、久賀町と徳地町岸 正車ー一五 このころ弘世、山口開府 ぶろ ふなうた み - 一し 延・又五 模した山車や神輿が繰り出す萩住吉神社のお船謡祭など地方見に残る石風呂、防府市三田 一 = 六 = 平一八弘世、防長両国の守護となる 一六六正平二一弘世、石見青竜城を攻略し、石見国を平定 色あるものが多い。風東半島伊美別宮八幡宮の神輿の海上一尻塩田の製塩用具、長門市の かみのせき 一兀・甲八 山名氏による明徳の乱起こる 明二 」浦捕鯨用具、防府市阿弥陀 三里の渡御を迎えて、五年ごとに行われる上関町祝島宮戸八 このころ香積寺五重塔建立される 幡宮の神舞 ( 県無形文化財 ) では古式ゆかしい二四種の岩一尸寺の湯屋、長門市赤崎神社楽 一四六一寛正一一僧雪舟、大内義弘の招きで山口にくる かぐら 神楽が奉納される。盆踊りは島嶼部に素朴な形でよく残り、桟敷などがあり、それぞれの 一四六七応仁一応仁の乱起こり、大内政弘西軍にくみす のう 都市では観光化される傾向がある。宇部市居能の盆踊りは古時代の生活文化を伝える貴重一哭 0 文明一一一連歌師宗祇、政弘の招きで山口にくる くどき 一き〈永正五大内義興、将軍足利義稙のとき管領代となる 〈三浦肇〉 い口説や振が伝承された優れた郷土芸能である。一一月の農なものである。 一会 0 天文元フランシスコ・ザピエル、山口で布教 村行事に「いのこ」がある。大島郡や周防各地、阿武郡、豊〔伝説〕山口県西部には至る 一一 0 大内義隆、陶晴賢に追われて大寧寺で自刃 じんぐう 浦郡などにみられ、旧暦一〇月最初の亥の日に子供たちが所に「神功皇后」の伝説があ 一会弘治一陶晴賢、厳島で毛利元就に敗れ、自殺 くまそ 一会七 三毛利元就、大内義長を滅ばす ( 大内氏滅亡 ) 「いのこの歌」を歌いながら、収穫感謝と無病息災を祈願しる。熊襲討伐のために九州に しらぎ て、亥の子石を縄で結んで農家の庭をついて回る。こうして遠征した仲哀天皇は、新羅一一 00 慶長、毛利輝元、関ヶ原の戦い後、防長一一国に減封。 ちゅう 毛利秀元を長府に、吉川広家を玖珂郡に配す を先に誅せという神託に従わ 冬に向かい、正月の準備が始まる。 一六 0 四 九輝元、居城を萩へ移す かしびのみや 〔文化財〕重要なものをあげると、国指定重要文化財のうず、神罰により橿日宮 ( 福岡一六一七元和三毛利就隆、徳山藩を創設 一六吾一承応二毛利元知、清末藩を創設 ち、社寺建築では大内時代の山口市瑠璃光寺五重塔、鎌倉時市 ) で急死した。遺体は神功 げさんとようら こうざん 一六六 0 万治三「万治制法」成立 代の下関市功山寺仏殿、大内時代の下関市住吉神社本殿は国皇后が華山 ( 豊浦郡 ) の西の ふくはい ひらしみず 至九享保四長州藩藩校明倫館創立 宝として文化史上貴重である。山口市には平清水八幡宮本嶽に葬り、その地を伏拝の峰 かんまい ) ぎまい く : 一き あき み るり′一う じ ) じき いわ 下関市蘿采鄕遺跡出土下関市教育委員会 246