^ 藤本博〉 場面のほかに、下町の裏長屋などの貧しい家の代農業、現代工業、現代国防、現代科学・技術「穏歩」と「急進」の単純な往復循環ももはやとなるべきことが強調された。 〈渡辺尚子〉を備えた社会主義の強国に築き上げる」というありえないと思われる。もとより、今日の中国のヨッヅノレイヨウ〔四角羚羊〕ま ur- 場面に用いている。 ー一四 OII) 目標を回顧し、改めて「比較的整った工業体系転換が不可逆的なものだとしても、建国三〇年 horned antelope/ T ミミ ce き s 、ぎ ) 四辻善成よっつじよしなり ( 一三 = 六 ~ はにゆ・つだ : っ一・、し くぎよう じゅんとく たかまき ~ nis 哺乳綱偶蹄目ウシ科の動物。ョッヅノカ にわたって激動の政治的振幅を繰り返してきた 南北朝時代の公卿、学者。順徳天皇の孫尊雅と国民経済体系を打ち立て」「国民経済を世界 王の子。一三五六年 ( 正平一一・延文一 ) 源姓の前列にたたせる」ことの必要性を「四つの現中国は、社会主義的近代化への基盤をいまだ形モシカともいう。インドに分布し、開けた森林 じゅ 成しえていないのであり、膨大な農業社会としゃ起伏のある丘陵地帯に生息する。肩高六五 を賜り、八一年 ( 弘和一・永徳一 ) 従一位に叙代化」として強調したのであった。 、体重一七 ~ 二一キ。に達する。雌は角がない だが、こうして提起された「四つの現代化」ての中国の産業構造の転換もなおきわめて困難 され、九五年 ( 応永一 l) 左大臣に任じられ、さ かんれいしばよしまさ しんのうせんげ が、雄には四本の角があり、前方の角は三 ~ 四 らに親王宣下を望んだが、管領斯波義将の反対は、具体的な経済計画であるよりは、なによりで、「四つの現代化」を目ざす中国の将来には 垰一と小さく、後方のものは一〇ほどと大き にあい、即日官を辞して出家した ( 法名、常もまず、脱文革のための政治戦略として推進せ厳しい試練が待ち受けているといえよう。 じようじ 。体上面は褐色、下面はやや淡い。普通は単 ざるをえなかったのであり、それだけに、、 今日の中国は、計画経済と市場経済の結合に 勝 ) 。彼の最大の業績は、貞治年間 ( 一三六一一 ~ 六七 ) 先人らの『源氏物語』研究の成果を集大成したゆる文革派の抵抗も大きかった。しかし、一九よる経済の合理化を求めて、市場原理の導入、独で生活するが、雄と雌のつがいや雄が四 ~ 五 ベキン 七六年九月の毛沢東の死、北京政変 ( 同年一〇経営管理システムの強化を図るなどさまざまな頭の雌を従えた小群、雌と子の群れなどもみら 『河海抄』二〇巻を著したことである。また八 六年 ( 元中三・至徳三 ) から三年間にわたる彼月 ) によるいわゆる「四人組」失墜 ( 四人組事試行錯誤を重ねているが、一方、こうした試みれる。行動圏は明確で、圏内にはかならず水場 ふん そうじよ の講釈を連歌師平井相助の筆録したのが、名高件 ) を経て、文化大革命の終結を宣言した七七は、社会主義諸原則との抵触をも内包するものがあり、糞を積んでマークするという。警戒心 が強く、危険を察知すると低い警戒音を発し、 い『源氏物語千鳥抄』であり、ともに後世の年八月の中国共産党一一全大会では、新しい党であるだけに、中国の現代化の行方には、今後 茂みに飛び込む。交尾期は五 ~ 六月で、八か月 の解決にゆだねるべき多くの問題が残されてい 『源氏物語』研究に大きな影響を与えた。彼は規約のなかに「四つの現代化」が明記された。 ちよくせん 〈中嶋嶺雄〉余りの妊娠期間ののち、一 ~ 二月に一産一 ~ 三 また和歌をもよくし、『風雅集』以下の五勅撰こうして「四つの現代化」は脱文革の表象となる。 集に七首とられており、大原寺の『 ~ 3 仏縁 0 たばかりでなく、翌七八年二月の第五期全人回中嶋嶺雄著『中国歴史・社会・国際関係』子を産む。警戒心が強いわりに、飼うと非常に ことばがき なれやすいので、ペットとして飼育されること ( 中公新書 ) 〈芳賀幸四郎〉代第一回会議では華国政治報告のなかの「国 起』の詞書も書いている。 よっつのしじゅうそう Four もある。また、ヒンドウー教徒からは聖獣視さ 民経済発展十か年計画 ( 一九七六 ~ 八五年 ) 」四つの四重奏 回四辻善成他著『河海抄・花鳥余情』 ( 一九大 〈今泉忠明〉 として具体化され、中国の新しい国家目標とな Quartets イギリスの詩人・ TJ ・エリオッれる。 日本図書センター ) つ 0 ント・ノー トの長編詩。一九四三年刊。『バー 四手網よっであみ網漁具の一種で、敷網類 ョッヅノカモシカョッヅノレイヨウ の底敷網に属する漁具。方形をした浅い袋状の トン』 ( 一九三六 ) 、『イースト・コーカー』 ( 一九四 0 ) 、 こうした曲折を経て「四つの現代化」が統一 四つの現代化よっつのげんだいか今日の中 とうしようへい 『ドライ・サルべージズ』 ( 一九四一 ) 、『リトル・ギ網と竹または木製の枠との二つの部分から構成 国の国家再建のための基本政策。いわゆる近代的な国家目標として鄧小平指導下で最終的に 二、四部の題されており、網の四隅を幹で張ってその形状を ディング』 ( 一九四一 I) の総称。一、 化の概念を拡大して、それを近代国家形成への定着したのは一九七八年一二月の中国共産党一 一期三中全会においてであった。だが、「四つはイギリスの古い屋敷や村の名前、三部はアメ保たせている。河川で遊漁用に用いられている 歴史過程だとすれば、文化大革命も「大躍進」 リカのマサチューセッツ州沖の岩礁群の名称一辺一内外のものから、一般漁業に使用され 政策も、ひいては中国革命そのものも、近代の現代化」が路線的にも定着するや、それはも はや政治闘争のスローガンではありえなくなで、エリオットの過去の生活や、歴史的な由来ている一辺一〇にも及ぶものまである。小形 化のための試行錯誤のプロセスだといえよう。 みんしん についての連想を伴う。詩人はこれらの情景描のものはそのまま水底に沈めるが、大形のもの しかし、今日の中国では明末清初のときとは異り、実行可能なプログラムとしての調整が早く ざお は陸岸から張り出し竿をつけて水中に平らに沈 なって、「近代化」という用語を用いずに、あも三中全会で図られたのである。やがて一九七写をきっかけに、人間の意識のあり方を探り、 えさ に設する。目的物が自然にくるのを待っか、餌を えて「現代化」と表現していることに含意され九年六 ~ 七月の第五期全人代第二回会議では、啓示の瞬間をとらえようとする。時間と永遠 ついての深い省察が全編を貫き、現実と幻想が用いて網の上に誘導し、機をみて急に引き上げ 「四つの現代化」を「調整・改革・整頓・向上」 ているように、いわゆる「四つの現代化 ( 四个 現代化 ) 」 ( 「農業・工業・国防・科学技術の現させるという名目での規模縮小が決定され、以入り混じり、第二次世界大戦中の緊迫した雰囲 後、中国では、再三にわたって経済調整が図ら気も加わる。エリオットの詩的総決算ともいう 代化」 ) は、当初は紛れもなく非毛沢東化のた 〈高松雄一〉 べき代表作の一つ。 めの政治戦略であった。それが今日では、中国れて今日に至っている。 このように中国は、建国三〇年にしてようや回二宮尊道訳著『四つの四重奏』 ( 一九六六・南雲 社会の全体的な経済的向上 ( 具体的指標として 堂 ) ▽森山泰夫注解『四つの四重奏曲』 ( 一九 く「開かれた中国」への巨大な転換を遂げ始め は二〇世紀末までに一人当りを一〇〇〇 八 0 ・大修館書店 ) トし相当にする ) と富国強兵を求める新しい国家たのだが、この転換は、いわば「毛沢東思想」 みぞう を建国の理念としてきた中国にとっての未曽有四つの自由よっつのじゅう Four Free ・ 目標に転化したのである。 doms アメリカの第三二代大統領・・ル ここで、「四つの現代化」が国家目標となるの転換を意味するものであるだけに、そこに含 ーズベルトが、一九四一年一月六日の年頭教書 までの経過をみるならば、まず、「四つの現代まれている矛盾もまたきわめて動態的であると いわねばならない。しかし、いまや「閉ざされで述べた内容で、「言論および表現の自由、信 化」は、一九七五年一月の全国人民代表大会 ( 第四期第一回会議 ) における周恩来政府活動た中国」から「開かれた中国」への歴史的移行仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」 あ報告のなかで明白な輪郭をとって公式に提起さ期を経過しつつある中国にとって、脱文革・非毛のことをいう。これは、将来の世界像の基礎と なるべきものとして提示され、年頭教書におい 一」れた。すなわち、周恩来総理は、文化大革命以沢東化の潮流をふたたび逆流させることは、こ の国の国家的・社会的要請に照らしてももはやては、これらの目的のためにアメリカがファシ つ前の第三期全国人民代表大会 ( 一九六四年一二 しよう よ月 ~ 六五年一月 ) で自ら提案した、中国を「現不可能であり、従来のような中国政治におけるズム諸国の侵略に対する「民主主義の兵器廠」 ぎ 一Ⅳ霎を 四手網張り出し竿の先端に四手網を取り付ける。 引き上げた網からは漁獲物をタモ網で収獲する 613
送の四分の三を担う。貨物の残りは大半が自動舎の建設によって解決された。八五年現在、普月一〇日モンゴルは対日宣戦をして南下し、一 〔文字〕モンゴル文字 ( 蒙古字 ) は、チンギ 車輸送である。首都と地方は自動車のほか飛行通教育学校 ( 八年制、一〇年制 ) 九一一、高等万数千人の日本人を捕虜とした。これを建築労ス・ハンが一三世紀初頭にタタトウンガという ウイグル人に自分たちの言語を書写させたのに 機でも結ばれ、ともに旅客運輸上重要である。専門、技術専門学校六八、大学八であり、一万働などに使役し、死没者は一六八四人に達し 外国人旅客は鉄道と空路によって、ソ連および人当り大学生数は一三〇である。このほか毎年た。この不幸な関係は、七二年の国交樹立、翌始まるといわれる。アラム文字の系統を引く文 中国から入ることができる。 数千人がソ連に留学している。かって大勢力を年の両国大使館の開設、七七年の経済協力協定字であるが、書式はそれをそのまま縦にしたも 〔社会〕民族はハルハ族が四分の三を占め、北誇ったチベット仏教 ( ラマ教 ) は、革命後の反の締結、それに基づく日本の五〇億円無償援助ので、各文字は上から下へ綴り、行は左から右 げんぞく 部にプリャート、デルベト、東部にダリガン 宗教政策の結果ほとんどが還俗させられ、一九 によるカシミャ・ラクダ原毛加工工場の建設 に追う。一七世紀ごろから字形に変化がおこ ガ、ウゼムチン、バルガ、西部にバイト、デル四〇年までに完全に勢力を失った。現在ウラン ( 一九全完成 ) などによってしだいに好転してき り、それ以前のものをウイグル式モンゴル文 へト、トルグート、ザフチン、オイラート、ミャ ートルのガンダン寺院のみが数十人の僧を擁た。一九七四年の文化協定締結も日本・モンゴ字、それ以後のものを現代モンゴル文字とよん ンガトなどのモンゴル諸族がある。モンゴル語 して機能し、隣接する宗教大学とともにラマ教ルの友好的交流に貢献している。七五年ウランで区別する。この文字は表音文字ではあるが、 系諸族が人口の九〇 % を占める。ほかは西部に の伝統を保守している。博物館になったいくっ バートルの大学文学部に日本語コースが開か 0 と、•-•となどの区別をすることができ 居住するウリャンハイ、ホトン、カザフなどのかを除いて多数のラマ寺が廃寺となった。↓モれ、また語学教師と留学生の交換が行われてい ず、モンゴル語にとって理想的なものではなか った。そこで、オイラートのザヤ・パンデイタ トルコ系民族である。カザフは少数民族中、人ンゴル文字 る。こうして日本語を修得したモンゴル人は、 ロ最多である。公用語はハルハ方一言だが、カザ 〔文化〕モンゴル族は本来典型的な遊牧民であ大学の日本語コースの教師となり、また科学アは一六四八年にオイラート語の発音を正確に表 しル フが主要民族であるバヤンウルギー・アイマク り、いまでも田舎の多くの人は移動に便利なゲカデミー、外務省、カシミャ・ラクダ原毛加工せるように改良を加えたオイラート式モンゴル ではカザフ語である。文字は、一九四一年、そル ( パオ ) に居住する。食事は夏・秋は乳製工場、インツーリストなどに就職している。な文字 ( トド文字 ) を考案した。プリャート語、 れまでのウイグル文字に基づく旧文字 ( モンゴ品、冬・春は肉を主食し、いつも乳茶を愛飲、おこのはか、五年に一度モンゴルで開かれる国力ルムイク語、モンゴル語ハルハ方言の三言語 ル文字 ) をロシア文字 ( キリル文字 ) に改める人によって夏・秋の食事は馬乳酒だけであるな際モンゴル学者会議には日本人研究者も参加し は二〇世紀前半より口シア文字による正書法を ことに決め、四六年から完全に実施された。革ど伝統的生活様式をかなり保持している。このている。 〈吉田順一〉採用しており、現在でもモンゴル文字を使用し 命後ソ連文化の強い影響の結果、多くのロシアような生活様式や五畜、野生動物に対する強い 回ラティモア著、磯野富士子訳『モンゴル』ているのは中国内のモンゴル人だけである。そ りよう きったん 語語彙がモンゴル語に入った。男子の四〇 % も関心が現在までも彼らの精神文化の中心をな ( 一九六六・岩波書店 ) ▽坂本是忠著『モンゴル のほか、遼を建国した契丹族の用いた契丹文 字、フビライ・ハンがチベットの高僧パスパに が妻帯を禁じられるラマ僧となったことや、性し、革命後も、民族の心を培うのに重要な役割 の政治と経済』 ( 一九六九・アジア経済研究所 ) 病などのため、革命前の人口は約六五万 ( 一九を担ったロ承文芸その他に色濃く反映してき ▽吉田実著『モンゴル発見』 ( 一九七九・青林書命じて元帝国内の諸民族の言語を書き表すため 一 0 という少なさであった。それが経済発展のた。一六世紀末以来チベット仏教も重要であっ 院新社 ) ▽磯野富士子著『モンゴル革命』 につくらせたパスパ文字、ハルハのザナバザル 障害ともなっていた。その後五六年に約八五万た。中国の文化も古くから少なからぬ影響を与 ( 中公新書 ) が制作したソョンポ文字などがあるが、いずれ もう - 」 に漸増したが、同年から人口増加策が実行されえてきた。 ご蒙古語ともいう。狭義も長く使用されるに至らなかった。 モンコル語 ると急増に転じ、二五年後の八一年には約一六 革命後はソ連の物質文化が多量に流入し、マでは現在モンゴル人民共和国および中国の内モ 〔系統・歴史〕モンゴル語の系統はいまだ明ら 九万と倍増した。これは人口政策にもよるが、 かとなっておらず、チュルク系やツングース系 ルクス、レーニンの思想がチベット仏教にかわンゴル自治区で話されているモンゴル系の言語 この間経済が比較的順調な発展を続けたこと って精神文化の基調の一つとなった。だがチベをさすが、広義ではモンゴル系民族が過去からの諸一一一一口語と同系関係を有し、それらとともにア や、衛生医療が改善されたことにもよる。たと ルタイ語族を形成するという説を支持する立場 ット仏教文化も含む旧来の文化は消滅したので現在にわたって使用してきたモンゴル系諸一言語 えば一万人当りの医師数は一九五〇年の一 いまも儀礼などの習俗や音楽、舞踊、全般をさす。 と、そうでない立場とがある。そして、前者の エリーングルバン・ナー から八五年の二四・〇に、病床数は五〇から一絵画、韻文など芸術の分野、また男の三競 〔分布・方言〕現代モンゴル語の分布地域はき なかには朝鮮語や日本語との同系関係を認めよ ダム すもう 一一に増えた。なお薬代以外の医療費は無料で技 ( 競馬、弓射、相撲 ) と称されるスポーツのわめて広く、モンゴル高原を中心に西はポルガ うとする考え方もある。歴史的には、おもに音 ある。人口急増分の大半は都市に吸収され ( 一分野などに残り、モンゴル文化を特徴づけてい 川下流域から東は中国東北部にまで及ぶ。総使韻上の特徴により一二世紀までを古代モンゴル 九五六年一八万、八六年九九万 ) 、一九七九年る。男の三競技は現在、七月一一日の革命記念用人口は約五〇〇万と推定され、そのうちのほ 語、一六世紀までを中世モンゴル語、それ以降 には都市人口が農村人口を上回った。そこで都日に全国的に行われている。新旧の文化は首都とんどを狭義のモンゴル語の話し手が占める。 を近代モンゴル語と分ける。契丹文字が解読さ 市の住宅建設が急がれ、近代的な数階から十数 にある中央博物館、美術館、宗教博物館、ポグ狭義のモンゴル語、ソ連プリャート自治共和国れていない現在、古代モンゴル語の直接の資料 階建ての集中暖房付き集合住宅が増えている。 ド・ハン博物館、革命博物館、劇場、歌劇場に のプリャート語、同カルムイク自治共和国のカまよ、 ; 、 。オしカ中世モンゴル語の文献は豊富で、 びよう 人口が少ないため婦人も仕事をもち、託児所が 「チンギス・ハン碑文」をはじめとするモンゴ よって知りうる。地方にはエルデニ・ズー廟ルムイク語やそれと近い関係にある中国西部の げんちょう 完備している。国民総生産は一八億五〇〇〇万 ( モンゴル最古のラマ廟 ) 、アマル・バヤスガラオイラート語などの間の地域差は分布地域の広ル文字による碑文類、『元朝秘史』などの漢字 ル ( 一九会 ) 、一人当り国民総生産はアジア諸国ント廟 ( ュネスコが修復 ) がある。図書館、古大さに比して驚くほど小さいが、アフガニスタで表音表記された諸文献、パスパ文字による碑 のなかで中位にあり、国民の暮らしは安定して文書館などの図書は一三四〇万冊、一万人当り ンのモゴール語や中国に散在する、ダウール語、 文や牌子、アラビア文字による辞書などがあ いる。革命前は、王公、ラマ僧以外の一般民は七万一六七〇冊である ( 一九会 ) 。 モングオル語などは著しく異なっている。現る。近代モンゴル語は、『黄金史綱』 ( アルタ っ遊牧の移動生活のためもあり文盲率が高かった ン・トプチ ) 、『蒙古源流』などの年代記やチベ 〔日本との関係〕革命時以来、日本は帝国主義在、モンゴル系諸民族間に共通語とよべるもの が、革命後ソ連式教育が導入され、一九六〇年者、侵略者と意識されてきた。ノモンハン事件 は存在しないが、モンゴル人民共和国の公用語 ット仏典の翻訳をはじめとするモンゴル文字に ろうきつだい はモンゴル領内で起こり、モンゴル兵の死傷者であるハルハ方言がその役割を果たしつつあよる膨大な文献をもつ。また『蒙語老乞大』な んまでに未就学児童は一掃されて文盲率もゼロに る。 もなった。遊牧民の子供を通学させる問題は寄宿は少なくなかった。一九四五年 ( 昭和二〇 ) どのようにハングルの付されたものもある。
もんごる り、これらの人民大会代議員によって幹部会、近が試みられている。農業は三か年計画中にソ 一『 ~ 一 ~ 閣僚会議、最高裁判所の構成員が選ばれるから連の援助を得て大規模に農地が開かれ、一九四 である。一九八四年八月、二六年間モンゴル人一年に約二万七〇〇〇タであったのが、六〇 民革命党書記長 ( のちに幹部会議長、国防会議年には約一一六万六〇〇〇タと増えて、穀物と 議長を兼任 ) の地位にあったツェデンバルが解野菜の自給が可能となった。八五年には農地は 七八万九六〇〇 f-> タに増加した。その約五〇 % 任され、後任にバトムンフ首相が就任した。 〔外交・軍事〕モンゴルは一九八六年六月現在がトプとセレンゲ両アイマクに集中している。 九九か国と外交関係がある。外交政策の基本は農地の八〇 % を国営農場が所有し ( 私有地はな ソ連および他の社会主義国との友好・協力関係 い ) 、労働力が不足のため機械化された農業を の維持、増強にあるが、異なる社会体制の国々 行っている。作物の大半は小麦などの穀物で、 との平和共存も重視している。モンゴルは、中ほかに飼料作物、ジャガイモその他の野菜が栽 国からの独立と社会主義革命とに際して物心両培されている。農業生産高は牧農生産高の四分 面から支援してきたソ連を絶対の友好国としての一にすぎない いる。一九六〇年代初頭の中ソ論争の際もソ連 鉱工業は三か年計画までに達成された成果を ~ 六五 ) 、第六次 ( 一九七六 ~ を支持し、四六年の友好相互援助条約 ( 期間一一踏まえて第三次 ( 一九六一 〇年 ) に続い て六六年友好協力条約を締結し 含 ) の二度の五か年計画を遂行した。達成時に た。以来モンゴルにソ連軍が駐留して中国に備は鉱工業総生産が牧農業総生産を上回ることが えているが、これが中国との関係を悪化させる期待されたが、それは実現しなかった。鉱物で 一因ともなっており、文化大革命の時期に両国は銅、モリプデンが注目され、エルデネトにソ の関係は最悪となった。しかし、八五年四月中連と共同の世界有数の銅・モリプデン・コンビ 国との国境貿易が再開されるなど両国の関係はナートが建設されて、一九七八年に操業を始め 改善されつつある。 た。開発のもっとも進んでいる石炭はナライ シャリンゴルなどで六五一万五九〇〇万ト一 軍隊は党中央委員会の特別軍事部の管理下に ほたるいし あり、将校のほとんどが党員である。徴兵制が ( 一九会 ) 採掘されたとされ、また蛍石、石灰も すず 敷かれ、満一八歳の男子は二年の兵役義務を負採掘されている。ほかに金、鉄、亜鉛、錫、タ う。現在陸・空軍あわせて兵力三万四六〇〇人ングステンなどがある。工業は第二次五か年計 だが、質量ともこれを上回るソ連の駐留軍がい 画以来まずウランバートルで本格的に発展し始 めた。現在同地区には発電所や畜産加工、食 〔経済・産業〕モンゴル民族は古来遊牧と狩猟品、建築資材その他の工場が存在している。第 を経済の基本とし、一部の者が農・エ・商業も三次五か年計画以来ダルハン市が建設され、発 営んでいた。その遊牧においてはヒッジ、ヤ電所、セメント、建築資材、食品、皮革などの ~ ンギ、ウマ、ウシ、ラクダの五畜が飼養された。 工場がつくられた。これに最近エルデネト市が ウシは森林ステップで、ヤギとラクダはゴビで加わった。ほかにチョイバルサン、本材工業の 多く飼われる。牧畜生産物は狩猟の獲物の肉や中心スフバートルが注目される。工業生産はこ 毛皮などとともに衣食住の基本的材料を提供すこ一一〇年間年平均一〇 % の増加率であり、国民 る一方、商品として売られ、中国など農業地域総生産の四〇 % 以上を占めているとされる。一 しやし ラのル族でたっ プ業ゲるルツ から茶、穀物、織物その他の日用品や奢侈品を九八四年の貿易は、輸出が八億六九三〇万トル コ工る居あゴ一ど高 購入した。こうした遊牧は、革命後、とくに一輸入が八億一九六〇万ドルで、出超である。輸出 タ農い住でンポ子が フ , て式居モスる率 九五三年からの第二次五か年計画と五八年からの九八・四 % 、輸入の九八・五 % が社会主義 とかし幕住に的す盲 ジだ下天なも統進文 の三か年計画による牧畜業の集団化 ( 現在、牧国、とりわけソ連である ( 一九ハ 0 ) 。輸出品目の 行め ッ業低る利と伝 ネグデル ヒ産に残便とる らたる農協同組合数二五五 ) と、農・工業の発達によ大半は毛、毛織物、毛皮、皮革、肉などの畜産 る心的にに撲れがの れ中対近動相わな活て って相対的に地位が低下した。遊牧の近代化も物であり、輸入品目は機械、燃料、化学製品、 し生し さは相付移 行われ、草刈りの機械化と干し草貯蔵量の増肥料、ゴム、食品などである。 牧畜はルの馬とを牧少 放牧置ト有競」ス遊減 交通は、ウランバートルを起点とし、北はシ 大、家畜囲い、畜舎・井戸などの増設、衛生条 ンはは で。位一特は 兄タてで ル漠れのバ族技親 べリア鉄道に通じ、南は中国に通じる鉄道、チ 件の向上も企てられてきたが、家畜数は二二四 でつ日 ゴ砂群そンル競三 ビのでラゴ射の ョイバルサンからエレンツアプを経てシベリア 庭か今九万頭 ( 一九会 ) で増えていない。近年、遊牧の ンゴダ展ウン弓「る校。が ①ク発②モ③のあ④ちた 移動の回数、距離の減少による定着牧畜への接鉄道に通じる鉄道があり、旅客のほか全貨物輸
ち山口 ( 県 ) やまぐち 位位 〔自然〕地形 / 気候 2 つん 2 人人人人 2 00 -4 -4 E 浦人 〔歴史〕先史・古代 / 中世 / 近世 / 近・現代 1 7 四 2 5 のの へ 0 内ー 0 / 8 の 7 億 ワ】っー 5 2 人観人 3 1 国 1 国 6 3 ー 8 ー行ー 8 っ 0 〔産業〕農林業 / 水産業 / 鉱業 / 工業 / 開発 0 8 全全 〔交通〕 ワ戸 0 ( 男女 1 男女 2 カツルュ 〔社会・文化〕教育文化 / 生活文化 / 文化財 年年年年年市ミマヅシ 0 -. 0 0 -4 8 8 8 8 ロッカべン 「伝説〕 1 一 1 四四山ナアナホ 得在 中国地方の西部を占める県。東は島根・広島両県に接し、 所所 ひびきなだ 民庁花木鳥獣 北は日本海、西は響灘、南は瀬戸内海に面し、三方を海で 温 県県県県県県 気 囲まれている。南西部は狭い関門海峡を隔てて九州と相対 げんかい し、響灘、玄界灘を越えて朝鮮半島へも近く、北九州とともあるが、全国人口が三倍以上の増加であるのに比べると低調県 に大陸への門戸的位置を占め、また西日本における海陸交通で、人口流出県である。一九五八年には一六二万に達した が、以後減少し七一年から上昇に転じている。人口分布は内 の要地として重要な地域的機能を果たしてきた地方である。 も、つ すおうながと 古代、周防、長門二国からなり、中世は大内氏、近世は毛海沿岸に集中し、山陽本線沿いの一一市の人口が総人口の七 利氏によって統治され、明治以降もその領域は変わらず比較〇 % を占めている。 一九八八年六月現在、一四市一一郡三七町五村からなる。 的まとまった地域として発展してきた。長く農水産業が中心 しものせき で、産業の近代化はやや遅れたが、大正期以降、下関や宇〔自然〕〔地形〕中国山地は西へ向かうにつれて高度を減じ、 部、小野田の工業化が進み、さらに昭和一〇年代以後、内海県域の大部分は高原状の山地や丘陵地である。 せきりよ、つ 広島、島根県境には中国脊梁山地の一部をなす一〇〇〇 沿岸各地に重化学工業の立地をみた。一方、日本海沿岸は農 じゃくち あぎみ 水産業への依存度が高い。関門海峡を海底トンネルや関門橋級の寂地山や平家岳、莇ヶ岳など起伏の大きい山地があ象 気 り、その延長に六〇〇 ~ 七〇〇の鳳翩山などの分水界山地 温水度 によって北九州と直結し、文化、経済、産業上も北九州圏と 気降経 が連なる。分水界山地よりやや低い三〇〇 ~ 五〇〇の周防市 の関係が深い 均均 / ぎび 平平度高 8 月月緯標 明治以降の人口の趨勢をみると、一八七六年 ( 明治九 ) の山地、長門山地などは中国地方の吉備高原面に相当し、侵食下 O LO 0 L'¯) 0 【 -0 0 L-n 0 0 0 0 0 0 E で ) っっつ」 1 ー 1 ・ 八四万は一九二五年 ( 大正一四 ) に一〇九万、八五年 ( 昭和谷によってさらに小さく分かれる。瀬戸内沿岸に広く発達す 1 ーっ」っ 0 ・【 E しゅうなん 六〇 ) には一六〇万となった。一一〇年間に約二倍の増加でる一〇〇 ~ 三〇〇の周南丘陵や長門丘陵は、瀬戸内面と よばれる侵食小起伏面に相当する地形で、長門丘陵のうちで気候上の特徴が、山口県ではそれそれ漸移的に北九州型の気 あさ 男女 門候へ移り変わる。三方を海に囲まれ、高い山地もないので、 もとくに宇部・厚狭丘陵はその標式地として知られる。長 止陵の内陸には約一三〇平方キ。にわたってカルスト地形が発気温も降水量も沿岸から内陸山間地へ向かって温暖少雨から あきよしだい 冷涼多雨へと高度に応じて同心円状に変化する。日本海沿岸 達する日本最大の石灰岩台地秋吉台がある。 自然公園は、県南東部の多島海景観を中心に関門海峡付近は山陰型に属し、概して冬の季節風が強く、曇天や雨雪が多 っしま いが、対馬暖流の影響もあって気温の較差は小さく温暖で、 までの地域が瀬戸内海国立公園の一部をなし、県北東部の大 8 る こ ) 」ろう 起伏山地と渓谷美に優れた寂地山、小五郎山などが西中国山年平均気温は一五 ~ 一六度 0 。内海沿岸は山陽型に属し、東 はぎ 地国定公園に、日本海沿岸北端の須佐湾一帯から萩海岸を経部ほど冬季の日照時間が多く温暖で季節風の影響も少ない。 おうみ つおう て青海島、津黄海岸にわたる海食景観が北長門海岸国定公園年平均気温一五 ~ 一六度 0 。山間部は中国山地型に属し、高 しようにゆうどうあきよし に、カルスト高原秋吉台と鍾乳洞の秋芳洞 ( ともに特別天地ほど冷涼で年平均気温は一五度 0 以下である。夏季には台 人勢然記念物 ) を含む地域が秋吉台国定公園に指定されている。風による風水害も多い 年 いわき ちょうもんきようとよた らかん 幺国 位国 〔歴史〕〔先史・古代〕県内の数か所から旧石器時代の石器 なお、県立自然公園には石城山、長門峡、豊田、羅漢山、 - Ⅱ ) 1 単全注 が出土しているが、確かな居住開発は新石器時代に入ってか 西長門海岸の五つがある。 〔気候〕中国地方に一般的な山陰型、中国山地型、山陽型のらで、縄文時代の土器や石器の発見地は四〇か所以上ある ロ男女 男年 「 / 「 / .0 (. 0 L.n 【う ) ′・ム・つ 0 っ亡つ」 1 ー 1 ー ( 冂 ) L-n 0 (¯) O につ O L.n O 【う ) - Ⅱ ) 【う ) O 一う ) 【う ) 0 CO フー 7 ー ( 0 ( 0 尸っ L.n 内 4 ・月っ 0 っ乙フ」 県章 すうせい 面人 世帯数 ほうべん 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 月 0 山 年平均気温 15.5 ℃ 年降水量 1718mm 33 。 57 ' N / 130 。 56 ' E 年降水量 3.3m 2400mm 以上ロ 2000E 未満 02000 ~ 2400 等温線 ( ℃ ) 8 月 2 月 。気象官署所在地 240
ヾラ斗サクラ属モ結果率が低いため直接的な栽培利用は伸びなか 上上 上上上 上上 もモモ〔桃〕 P 、ノ不 のの のの 質ののの ったが、多汁で甘く、肉質は柔らかく、大果で 品中中中中上中中中上上中中上上上上上上 もモ亜属の落葉性小高木。中国原産。高さは五 ~ みしよう し 六で、枝や幹に樹脂があり、傷がつくと分泌あるため、その後優れた偶発実生を生み、ま 多 する。葉は互生し、基部に蜜腺をもっ短い葉柄た、交雑育種の素材として優れた素質を示し や ひしん 味 む 甘少少少少中中少中多多中多多多や多多多 がある。葉身は五 ~ 一二拜一、長披針形または倒た。日本で育成された主要品種は多少ともこれ きよし 披針形で先端がとがり、葉縁に小さい鋸歯があの血を受けたものが多い。またテンシンスイミ ようえき 粗密密中中密密中中密密密密 る。前年に伸びた枝の葉腋に一 ~ 三個の腋芽をットウは果頂部がとがり、腰高で、果肉は赤 質 く、肉質は粗く、いわゆる桃太郎を産んだモモ つける。このうち中央の芽は葉芽で、左右が花 特 の形をしたものである。これは果頂部が傷みや 芽となり、三月下旬から四月上旬、葉に先だっ のさ 大 大大大大大 の のの のの 実き 強種 て開花する。花色は桃色が基本で、白、濃紅、すいため、今日の品種ではみられなくなった。 種果大小中中中小中中中中中大中中中大大大中が一 種酸の モモは枝がわりや偶発実生による品種が出や 咲き分けなどがある。萼は五枚。花弁も五枚で 1 ム 1 よ、 1 品 培 桃ら桃桃の種 平開するが、重弁、菊咲きなどの変異がある。すく、そのうえ、経済的な一樹の寿命は一五 ~ め生生生山鳳生生き き品 ぞ白白③ と早早早桃白早早っ保白 む肉ン 二〇年で、他の果樹に比べて短いため改植が行 雄しべは多数、雌しべは一本で、子房には短毛の お目方山生川子和か鳳久知う 桃陽野津樹黄リ さ布倉岡早白砂大あ白大愛錦ゅ白高西興果用タ 密生する種類と密生しない種類とがある。 いやすいこともあって、品種の交替は早い。今主 庭詰ク 家缶ネ 生 日では、生食用を主とし、加工用品種も加え / 果実は核果で大形、七 ~ 八月に熟す。果面に 1 人ワ 0 00 ごくわせ 生 生 生 て、六月中旬に熟す極早生品種から、九月以降 短毛の密生する種類と毛のない種類とがあり、 おくて 中 晩 けもも 早 に熟す晩生品種まであり、諸形質に関する変異 前者をモモ ( 毛桃ともいう ) P ミ、 s を ) ぎ 〔利用〕モモの果実は大部分が水分 ( 八九・三 く甘味の多い品種の一般名となっている。 Batsch var. ~ ミ一 Maxim. 、後者をア。フ一フは非常に広い。近年は新品種の登録も多く、一 〔栽培〕北海道から九州まで広く栽培できる % ) で、糖質は九・二 % 、ビタミン類などはほ モモ ( 油桃。ヒカリモモ、ズバイモモ、ネクタ九七八年 ( 昭和五三 ) の種苗法の施行以来、八 リンなどがある ) var. き c き e ) ぎ schneid. 五年までで三七品種に達した。新旧あわせ、栽が、生育期に比較的高温を好み、宮城、山形県とんど含まれない。花は観賞し、果実は生食の だえん せん へん 身心臓、尖円、扁培面積が大きいか、あるいは家庭果樹として栽以西で経済栽培が可能である。降雨の少ない地ほかに缶詰、ジュース、プリザープ、ジャムな とよぶ。果形は円、楕円、卩、 方でよく育ち、福島、山形、山梨、長野、岡山どに用いる。この際、白肉種の白桃は缶詰加工 表のとおりである。 円形など、果皮色には桃、白黄、黄色などがあ培しやすい品種は、」 めのめ 布目早生、鳳、大久保、桃は大栽培が行県などが主産地である。一九八五年現在、全国用として尊ばれるが、傷つくと変色するため扱 る。果肉は桃、白黄、黄色などで、肉厚多汁で いにくい。それに比べて加工用の黄肉桃は果肉 甘酸味が適度である。種子は一個で、表面に凹われる経済品種で、さおとめ、早生桃山、あかで一万八九〇〇タの栽培面積、二七万七〇〇 がゴム質で扱いやすく、味もよいので、家庭で 凸のある堅い核内に一個の膠がある。果肉と核つき、ゆうぞらは味がよく、家庭果樹として栽〇トンの収穫となっている。 のシロップ漬け、サラダなどに利用。鉢植えで 苗木育成は、実生の共台か野生モモ台を用い しくいものとがあり、 培しやすい品種である。早生種は無袋栽培も可 の離れやすいものと離れこ 前者を離核性、後者を粘核性とよぶ。なお、果能である。缶詰をはじめとする加工用品種にて、九月ころに芽接か、二 ~ 三月に切接ぎをすもよく開花結実し、径三三拜一鉢なら十数果が得 〈飯塚宗夫〉 られ、また盆栽としてもよい は、欧米のオウニクトウ ( 黄肉桃 ) の遺伝的特る。排水のよい土壌でよく育つ。定植は一一 実および種子の扁平な一変種があり、これをハ は / 、レつ者 ~ にしき 〔薬用〕漢方では、開花直前のつばみを白桃花 一二月または二 ~ 三月がよい。一〇当り一二 ントウ ( 蟠桃 ) またはザゼンモモ var. ミ性を入れて育成した錦のほか、缶桃 2 号、同 5 ふしゅ すなご ~ 三三本で、砂子早生のように花枌のない品種と称し、浮腫の治療に用いる。これは、つばみ 号、同貶号、同号などが知られている。これ きき Bailey とよぶ。 やよい に弓い利尿作用があるためである。民間では、 らはよく着果し、無袋栽培も可能である。いずには花粉のある品種を混植する。冬季に整枝・ 〔品種〕日本では、出土品によれば弥生前期か せんてい らモモが利用されていたが、果実が小さく、甘れも果肉は黄色で香りが強く、酸味に富み、砂剪定を行う。定植後三年目で結実を始め、約一花をごま油に漬けて顔を洗うと美顔の効がある とされるほか、白桃の果肉をカツオによる中毒 五年で更新期に入る。施肥は一〇当り窒素一 味に乏しく、果肉は堅く、かっ果汁が少ないも糖煮、ジャムに加工される。また生食に向く品 のときに食べるとよいといわれている。また、 のが多かった。これに比べ、明治初年に欧米や種もある。ア。フラモモは酸味が強いが香りもよ五、リン酸一〇、カリ一七キ。。成園では一〇 、味も濃厚であるが灰星病などに弱く、育成当り三・五トンの収穫がある。果実には紙袋をか葉を入れた浴湯はあせもによいとされている。 中国から導入された品種には優れたものが多か とうにん おきっ った。しかし、欧米の品種は、日本とは異なる品種の興津は品質が優れているが、栽培はむずけて保護するが、加工用品種は無袋で栽培できる。漢方では核の中の種子を桃仁 ( 桃人 ) といし はいのう せんこう 病気には縮葉病、穿孔病、炭そ病、黒星病、浄血、緩下、鎮痛、排膿剤として月経不順、月 かしい。しかし、近年育成されたヒラッカレッ 気候で改良されたもので、そのままでは栽培に だっそ ドは、栽培がしやすく、味もよい品種として期灰星病などがあり、発芽前に石灰硫黄合剤、機経困難、腰痛、打撲症、便秘、脱疽などの治療 適さず、また、欧米の品種は輸送、日もち、加 〈長沢元夫〉 に用いる。 械油乳剤、生育期にストマイ剤、「トップジン 工性を主として品種改良が進められたものが中待されている。ハントウは一八七五年シャンハ でんば し - 一う 〔モモの起源と伝播〕モモは現在その野生種が 心で、生食を主体とする日本人の嗜好には「当イスイミットウなどとともに中国から導入され」「ロプラール」などの各一〇〇〇倍液など かんしゆくせんせい 時はあまりなじまなかった。一方、中国中・東たもので、白肉種のオオペニハントウ ( 大紅蟠を用いる。害虫は、ア・フラムシ、シンクイム分布する中国西部から黄河上流の甘粛、陜西 部の種類は日本の風土に適し、日本の栽培品種桃 ) や黄肉種のキハントウ ( 黄蟠桃 ) などがあシ、モモハムグリガ、クワカイガラムシなど省の高原地帯が起源地である。モモはアーモン ドともっとも近縁で、おそらく中央アジアに自 の向上に大きく貢献した。なかでも一八七五年り、味はいずれも中位であるが、日本ではあまで、「エストックス」や「エカチン」などの浸 透性殺虫剤一五〇〇倍液、「サリチオン」乳剤生しているモモ亜属のある種を共通の祖先種と り栽培されない ( 明治八 ) に導入されたシャンハイスイミット してもち、西方に分布して西アジアで起源され 一〇〇〇倍液などを散布する。またコスカシバ なお、スイミットウ ( 水蜜桃 ) は古文献には ウ ( 上海水蜜桃 ) とテンシンスイミットウ ( 天 ふん は、幹や太い枝に食い込んで糞の混じった脂をたのがアーモンドで、東方に分布して中国で起 品種として出ているが、現在の品種との関係は 津水蜜桃 ) はその後の品種改良に大きく貢献し 源されたのがモモであると考えられる。中国で た。とくにシャンハイスイミットウは日本では不明で、今日では、大果多汁で、果肉が柔らか出すので、刃物や針金で捕殺する。 みっせん まくとう めつぎ いおう
・ : っすし だいつうが 古を実現した。デポンシャーに生まれる。バッ河港をもち、鉄道交通の要地で、りつばな空港の間、黄河の支流である湟水の支流、大通河の・・メイ編、中屋健一監訳『アメリカの チンコー キンガム公のカディス ( スペイン ) 遠征をはじ がある。木製器具、毛織物工業が発達するほ河谷にある。谷地では青株 ( ハダカエンバク ) 外交』 ( 一九六六・東京大学出版会 ) めとして数多くの戦争に参加し、その武勲によ か、付近に豊富な油田・ガス田があり、将来のや小麦などの栽培が行われる。ヒッジやウマの モンゴメリー Lucy Maud Montgomery ( 天七四ー一九四一 l) カナダの女流児童文学作家。カ って勇名をはせた。革命が始まると王党派に加開発が期待されている。最初フランス人が入植飼育が盛んで「大通馬」は有名。〈駒井正一〉 わって戦ったが、捕らえられて議会派のもとでし、一八世紀中ごろドイツ人が大量に移住し、 モンゴウイカ〔紋甲烏賊〕本来は軟体動ナダのプリンス・エドワード島生まれ。二歳で アイルランド、スコットランドの遠征に加わる。開拓した。一八五五年にモンクトン将軍を記念物門頭足綱コウイカ科に属するカミナリイカ母を失い祖父母に育てられた。生地で教育を受 〈山下脩二〉 さらに海軍提督として第一次イギリス・オランして現市名に改名された。 S 肓ミの市場名であったが、近年はアけ、教師、地方新聞の編集スタッフなどを短期 しょげんご一 フリカなどの遠洋で漁獲される同科の大形のコ 間勤めた。『赤毛のアン』 ( 一九 00 に始まる「ア ダ戦争を勝利に導き、一六五四年にはクロムウモン・クメール諸言語 エルの信任を得てスコットランド総督に就任し インド北東部のアッサム地方、ビルマ、インドウイカ類 ( たとえばヨーロッバコウイカ S. ・ ン」シリーズほか、個性的で魅力あるヒロイン の活躍するシリーズもので多くの読者を獲得し た。クロムウエルの死後も共和政の存続に努力シナ半島に分布する言語群。↓オーストロアジ ci き、トラフコウイカ S. トぎき。こ s ほか ) したが、中央政府の混乱に乗じてイングランドア語族 などにも用いられる。↓カミナリイカ↓トラ た。一方で、感傷的、迎合的との評もある。 〈神宮輝夫〉 およびスコットランドの全軍隊の司令官に就任モンクロシャチホコ〔紋黒天社蛾〕フコウイカ↓ヨーロッバコウイカ〈奥谷喬司〉赤毛のアン りんし もんこ力しー した。そして六〇年二月三日ロンドンに入り、 回村岡花子訳『赤毛のアン』 ( 新潮文庫 ) ▽山 P 、ミ e き flavescens 昆虫綱鱗翅目シャチホコ 門戸開放・機会均等政策 、つ・キ、かいキ、んと , っせい、 / 、 ランプ議会への長老派議員の復帰を認めるととガ科に属するガ。フナガタケムシ、サクラケム 一八九九年と一九〇 ロ昌子訳『険しい道・モンゴメリ自伝』 ( 一九 もに、王政復古を不可避のものとして受け入れ、 シともよばれる。はねの開張四〇 ~ 五〇 = 、リ。前 〇年の再度アメリカが表明した対中国・極東基 七九・篠崎書林 ) につしん その準備を整えた。その後も軍人としてイギリ 翅は明るい灰黄色で、基部に紫黒色の紋があ本政策。日清戦争を契機に一八九〇年代後半、モンゴメリー Bernard Law Montgom ・ ス・オランダ戦争に参加したが、ふたたび脚光り、外縁部には同色の太い帯がある。後翅の外列強は競って中国へ進出、中国分割が日程に上 ery ( 天ー一九七六 ) イギリスの軍人。陸車士 を浴びることなく七〇年に没した。〈小泉徹〉縁近くに暗色帯を薄く現すことが多い。日本本った。アメリカは伝統的に「中国市場の夢」を官学校を卒業後、インド勤務を経て第一次世界 っしま 土、対馬、台湾、隣接大陸に分布する。年一回抱き、実際九〇年代には対中貿易が急増した大戦に従軍。一九三八年にはパレスチナ師団長 モンク TheIonious Monk ( 一九 = 0 アメリカのジャズ・ピアノ奏者、作曲家。ノー の発生で、夏によく灯火に飛来する。幼虫はサが、極東の危機を憂慮しつつも当面はキューバ となって、アラブの反乱で動揺するイギリスの ス・カロライナ州生まれ。四歳のときニューヨ クラ、ナシなどバラ科の害虫で、群生して大害 問題に手を縛られたため、イギリスからの門一尸支配力の立て直しを図った。第二次大戦中の四 ようか 二年、第八軍司令官として、ロンメルの率いる ークに移住。一七歳でプロ入りし、一九四〇年を与えることがある。秋に土中に入って蛹化し開放協同行動の申入れをも退け、アメリカ・ス 〈井上寛〉 にクラプ「ミントンズ」の専属となり、ビ・ 越冬する。 ペイン戦争に突入した。その結果フィリピン、 強力な独伊軍をエル・アラメインの戦いで破 ップの創造者チャーリー グアムを獲得し、ハワイを併合して太平洋、東り、北アフリカでの戦況を連合国側に有利に転 ーカーやディジモンケ・ハン Möngke Qaran ( 一一一只 ・ガレスピーらと共演したが、やがて自身の五九 ) モンゴル帝国第四代皇帝 ( 在位一一一五一 ~ アジアの強国として立ち現れたアメリカは、本換させて名声を博した。四四年六月のノルマン びようごう 創意による特異なハーモニー ディー上陸作戦ではイギリス軍総司令官として リズム感などで五九 ) 。廟号は憲宗。チンギス・ハン遊牧軍の大格的な中国進出に乗り出したが、中国はすでに オリジナルなスタイルを確立した。偉大なモダ半を継承したトウルイの嫡長子としてオゴタイ 列強によって租借地、勢力範囲、利益範囲に分指揮をとり、戦後は四六年に参謀総長に就任、 ン・ジャズのパイオニアの一人で、代表作に 政権でも重んじられ、三五年の西征にはバトウ 割されており、アメリカの通商利害は脅威にさ五一 ~ 五八年 Z<+O 軍副最高司令官を務め 〈木畑洋一〉 『ラウンド・ミッドナイト』『ストレート・ノと並ぶ準主将格で参加。キプチャク連合やアスらされていた。 この ・チェイサー』ほか多くの名曲がある。 3 し 集団を撃破して手兵とし、のち両族が元朝の近 このような状況下で、国務長官ジョン・ヘイ モンゴメリー ( 地名 ) 0 モントゴメリー つうちょう ジャズ 〈青木啓〉衛車団ともなる基を開いた。定宗グュクがバト は、一八九九年第一次通牒をイギリス・ドイモンゴリア Mongolia 中央アジア東部の ツ・ロシア ( 九月 ) 、日本・イタリア・フラン ウの刺客に倒れると、亡夫トウルイの大封を守 モンゴル族が居住する地域。モンゴル高原をさ モンクアザラシ monk seal/ 。き・ ほい」ゅ・つ ス ( 一一月 ) に手交し、勢力範囲の事実を認めし、モンゴル人民共和国と中国の内モンゴル自 chus spp. 哺乳綱鰭脚目アザラシ科に属するる母ソルコクタニ・ベキの尽力と、西征以来の 海獣。三種のモンクアザラシが北半球の暖海の盟友で母方でも従兄弟関係になるバトウ以下のたうえで「門戸開放」と通商上の「機会均等」治区を中心とする。一二 ~ 一四世紀には、この 地中海からカナリア諸島にかけてと、カリブ海ジュチ家諸王の強力な支援によって即位し、反を要求した。さらに一九〇〇年、義和団の反帝地を中心にモンゴル帝国が栄えた。↓モンゴル ベキン 諸島およびハワイ諸島の沿岸に生息する。体長対したオゴタイ、チャガタイ両統を徹底的に弾国主義連動が高揚し北京の外国公館を包囲する高原↓モンゴル↓内モンゴル ( 自治区 ) ↓モ ンゴル帝国↓モンゴル族 は約三、淡灰褐色の短く細い毛が密生してい 圧した。同母弟フビライを東の中国方面に、フや、列強は連合軍を派遣して義和団鎮圧に乗り ラグを西のイラン方面に、アリク・ブハを本土出し、中国全領土の分割を策した。これに対し る。原始的な形態を一部保っており、生息域へ の人間の侵入に影響を受けやすいために漸次減留守に配置して強力な兄弟政権を目ざし、新してヘイは、同年七月第二次通牒を関係一一か国 少し、現在の生息数はもっとも多いハワイモン い徴税機構や人口台帳をつくって庶政一新を図 に送り、中国の独立と領土的、行政的保全の維 クアザラシでも一〇〇〇頭にすぎず、絶滅の危ったが、フビライと不和となり、フビライの任持の原則を提唱した。 〈西脇昌治〉務であった中国経略に自ら出軍した。しかし南 機に瀕している。図しアザラシ 門戸開放政策は、経済的優越を背景に自由競 そう しせん 宋領四川の車営で急逝した。 〈杉山正明〉争を通じて中国市場制覇を目ざす戦略であり、 モンクット ( 王 ) 0 ラーマ ( 四世 ) 二〇世紀アメリカ極東政策の基本となったが、 り・モンクトン Moncton カナダ、ニュー 源もんげん / メンユワン中国、青海省北 ′」プランズウィック州南東部の同州第二の都市。東部、海北チ・ヘット族自治州にある回族自治その実現は容易でなく、ワシントン会議の九か ん人口五万七七四三 ( 一〈〈一 ) 。シグネクト湾に流県。同自治州の政府所在地。人口一二万四八〇国条約 ( 一〈 = = ) によってようやく国際的に承認 きれん れいりゅうれい 〈高橋章〉 も入するべティコディアック川左岸に位置する。〇 (IR<II)O 祁連山脈東部、冷竜嶺とダバン山された。 ひん なん B. モンゴメリー
- 1 うぎよく 〔日本の養蜂〕日本では『日本書紀』皇極天 おり、新世界、つまりアメリカ大陸、オースト ラリア、ニュージーランドには生息していなか皇二年 ( 六四三 ) の条にミッパチに関する最初の 言事が登場する。国産蜂蜜の記事がはっきりと った。一八〇〇年代、新世界に導入されたセイ した史料に書かれたのは、平安時代に入ってか ョウミッパチによる養蜂は、豊かな蜜源植物に えんしき らである。『延喜式』 ( 九一一七成 ) に蜂蜜献上の記 支えられて発展し、多くの取穫を得ることで、 経済基盤を確立した。地中海を除くアジア地域録がある。『今鏡」『今昔物語集』に、それそれ には、セイヨウミッパチではなく、トウョウミ ミッパチを飼った記事や報恩説話が登場する。 ツバチが野生しており、熱帯アジアでは古代かその後一七九一年 ( 寛政三 ) 『家崋畜養記』、一 らオオミッパチによる蜂蜜採取が行われてき七九九年『日本山海名産図会』、 類天 め 種 ( 明治五 ) 『蜂蜜一覧』には江戸時代末期までの た。日本、韓国、台湾、中国ではセイヨウミッ 込 バチが早くから導入され、安定した養蜂形態が伝統的な養蜂様式をかいまみることができる。 も お 成立しているが、近年、熱帯・亜熱帯アジア地旧式養蜂でのミッパチはニホンミッパチによる 面式 域においてもセイヨウミッパチでの養蜂振興の養蜂の歴史である。これらニホンミッパチは現 式 ち 壁 在でも、旧式な木胴巣箱などを用いて飼養され 可能性が検討されている。 え 、つカ面 持 現在、少なくとも一四五か国、約六五〇万人ている。 よ重前 支 片 近代養蜂は、一八七六年に可動巣枠巣箱とと の養蜂家と五〇〇〇万群のミッパチによる蜂蜜 支え壁式よう壁は、片持ち梁式よう壁に控え壁によって緒についたといえる。とくに、ヨーロ生産がある。一九八四年の主要養蜂国の飼養群もにセイヨウミッパチがアメリカより導入さ おがさわら もしくは支え壁式を付したもので、一般に六 ~ ハの各地では、地方色豊かな巣箱は丸太、コ数は、ソ連八二〇万群、中国五七〇万群、アメれ、まもなく小笠原諸島で飼われるようになっ かご つぼむぎわら リカ四三五万群、メキシコ二三〇万群、プラジたのが始まりである。その後しだいに全国に普 七程度以上のよう壁に用いられることが多ルクや樹皮、陶製の壺、麦藁や小枝を編んだ籠 と変化に富んでいた。しかし、養蜂暦は毎年変ル一七〇万群、アルゼンチン一七〇万群など及するようになり、岐阜県が多くの先覚者を生 石積・プロック積よう壁は、石またはプロ ックを積み重ねたもので、施工が容易であり古わることなく、初夏に分封群 ( 分蜂群 ) をとらで、九三万四〇〇〇トンの蜂蜜が全世界で生産さみ、日本の養蜂をリードしてきた。一九八五年 ( 昭和六〇 ) 一月の登録によれば、ミツ・ハチ飼 くから広く用いられている。 えて巣箱に営巣させ、晩夏にハチを殺して巣をれている。そのうち、ソ連一九万八〇〇〇トン 以上のほか特殊な形式として、棚式よう壁、取り出すという、いわゆる蜂蜜搾りをし、残っ中国一一万五〇〇〇トン、アメリカ九万五〇〇〇養者数は九四九九人で、過去数十年大きな変化 トン、メキシコ五万五〇〇〇トン、カナ、ダ四万四〇はない。総蜂群数は二八万四七一九群である。 棚付控え壁式よう壁、箱形よう壁、矢板式よう た巣から蜂ろうをとるという原始的なものであ つ 0 壁、枠式よう壁、補強土工法によるよう壁など 〇〇トン、アルゼンチン三万三〇〇〇トン、オース七五年より三〇万群以上を保っていたが、やや がある。 〈河野彰・清水仁・鴫谷孝〉 一六世紀になると、養蜂の歴史にたいへん重 トラリア二万四五〇〇トンなどがおもな生産国で減少している。上記の群数以外に一〇万群以上 のミッパチが、果樹や蔬菜類の花粉媒介に利用 ある。これに対し輸入量の多い国は、西ドイツ ようへん製陶用語。窯の中における要性をもっ三つの流れが動き始めた。第一は、 窯変 ゅうやく されている。近年では、イチゴ、メロン、スイ 特異な焼成変化のこと。とくに釉薬の変色をい 養蜂家に基本的なミッパチ科学が理解される可六万六〇〇〇トン、アメリカ四万九〇〇〇トン、日 う。焼炎には酸化炎、中性炎、還元炎とがある能性が探られ始めたこと。第二は、第一の事実本三万三〇〇〇トン、イギリス二万一〇〇〇トンな力の施設園芸に七万四二五八群、リンゴ、ナ シ、モモ、オウトウ、ウメ、カキなどの果樹に が、それらの炎を使い分けることによって、一をつかみながら、ミッパチを家畜化するためのどである。そのほか、ロイヤルゼリーは中国、 うわぐすり 般的な釉の呈色や素地の呈色以外の珍しい釉養蜂技術改良に熱心な努力が始まったこと。第台湾が主要生産国であり、蜂ろうは全世界の生二万〇六七六群、カボチャ、キュウリ、タマネ 色・素地色を得る場合が、第一種の窯変であ三は、アメリカ、オーストラリア両大陸にミッ産量一万九〇〇〇トンの大部分をアフリカ地域がギなどの野菜類に二三六四群が報告されてい る。第二種は、焼炎のほか燃料の灰や炭が素地 バチが移入されたこと。第三の二つの大陸はの占めている。ミッパチの集めた花枌 ( 花粉団る。八四年の蜂蜜国内生産量は六七九七トンで、 子 ) は食用に用いられているが、おもな生産国過去一五年間七〇〇〇トン前後と大きな変化はな に直接ついて還一兀が行われ、変色するものであちにミッパチ科学と養蜂技術のうえに偉大な前 は中国、スペイン、アルゼンチンなどである。 輸入量は国内生産量の約五倍にあたる三万 る。いずれも異色な装飾効果が貴ばれるが、自進をもたらした。 三一七八トンで、日本の消費量の八〇 % 以上が輸 一八五一年アメリカのラングストロス L. プロポリスは東ヨーロッパ諸国を中、いに、プラ 然になる場合と、予期しない変化を求めて作為 てんもくちやわん 的になす場合とがある。天目茶碗の窯変である Langstroth は、ミッパチに必要な巣板間隔ジル、アメリカ、中国で生産されている。また入でまかなわれ、西ドイツ、アメリカに次ぐ世 とごうはんのぎめ ようへん 界第三位の輸入量である。蜂蜜は二二か国から 兎毫斑 ( 禾目 ) 、油滴天目、曜変天目などがよ ( 巣枠と巣枠との間を約九ミリあける ) を発見し、農作物の花粉媒介 ( ポリネーション ) 上、ポリ く知られている。国天目茶碗〈矢部良明〉それを応用した可動式巣枠と改良巣箱、五七年ネーターとしてのミッパチの利用は多くの国々輸入され、そのうち中国からのものが総輸入量 ドイツのメーリング J. Mehring による人工で重要な役割を果たしている。アメリカ農務省の六〇 % を占めている。ロイヤルゼリーの国内 ようほう beekeeping, apiculture 養蜂 はちみつ の一九八一年の農業統計によれば、一二九種の生産量は一九八五年現在一二トンであるが、中 昆虫のミッパチを飼養して、蜂蜜、ロイヤルゼ巣礎、六五年オーストリアのルシュカ M. E. はちゃこ 国、台湾より一二八〇トンが輸入され、他国から 蜂ろう、花粉、プロポリス ( 蜂膃 ) 、蜂 von Hruschka による採蜜用遠心分離器の一一一作物を根拠とした一九八〇年一年間の、アメリ 毒などの生産利用や、農作物の花粉媒介昆虫と大発明が続いて行われ、養蜂が産業として急速力のハチによるポリネーションの経済的価値はみれば驚異的な数字である。多くは健康食品と 、つして利用することをいう。 に近代化され、養蜂技術は世界各地に普及する一八九億トル相当と評価されており、蜂蜜と蜂ろして利用されているが、その背景には東洋医学 一ま う生産の一億四〇〇〇万トルに比べて実に一四一一一的な発想に加えて工業化社会、高齢化社会と経 〔歴史〕養蜂は、木の洞穴などに営巣していることになった。 、つミッパチ群を見守ることから始まり、巣箱をく 〔世界の養蜂〕ミッパチ属ゝを s は、一六世紀倍になっている。このように、世界各地でそれ済的な豊かさがある。蜂ろうは国内生産量一五 3 五トンであるが、蜂蜜、ロイヤルゼリーと同様に よふうし、巣箱に営巣させて一か所に集めること までヨーロツ。ハ、アフリカ、アジアに分布してぞれ特徴ある養蜂が営まれているのである。 半重力式 ゅてき 水抜孔 控え壁式 石積・プロック積式
〔歴史〕螺鈿の起源は明らかではないが、古代円鏡をはじめ八面の遺例があり、中国には一九四 ) に藤原道長が宋の天台山大慈寺に螺鈿蒔絵菊唐草の文様からなり、縁には連珠文や星形な らくよう 擘れなどを寄進している。また一〇七三年 ( 延どを巡らし、境界線や茎などに銀、錫、真鍮 エジプトのハダク文化期 ( 前三五 00 ころ ) の装身具六二年に河南省洛陽の一六工区七六号唐墓から より - ) うらい や器物に、貝殻を細工した装飾例がみられると発見の花鳥人物文平螺鈿背鏡、韓国にも同種の久五 ) 、高麗の王室へ鞍、鏡箱、硯箱などを王の縒線を用い、貝裏に彩色したり、玳瑁を貼る などの技法もみられ、わが国にも菊花文螺鈿経 則貞らが贈っている。とくに注目すべきは、北 鏡が出土するなど、国際化を証する好例である。 ころから、地中海沿岸の諸国に伝わり、しだい まうしやく 平安時代には、唐風の木地螺鈿から漆地螺鈿宋の方勺が著した『泊宅編』に「螺鈿器はも箱 ( 東京国立博物館 ) や花文螺鈿玳瑁合子 ( 奈 に加飾法として進展したものと思われる。 たいま すこぶ いん 東洋における螺鈿は、中国の殷代にすでにあへと主流が移ってゆくが、とくに表現・技法のと倭国に出する。物象百態、頗るエ巧を極む」良・当麻寺奥院 ) の遺例がある。 室町時代には日本の螺鈿は低迷したが、中国 ったとする説と、ササン朝ベルシアをはじめと面で和様化を遂げるのは、藤原道長が政治を支とあって、螺鈿技術のおこりが日本であり、多 みん 明代の薄貝を用いる技術が新たに伝わる。さら 配した一一世紀初めごろで、貴族の室内調度に様な意匠が精巧を極めていると評価しているこ する西方の国々からシルク・ロードを経て唐に りちょう まきえ に桃山時代には、李朝期の朝鮮から割貝法や青 とである。このことは螺鈿の中国での衰微をも 流入したとする説があり、後者が有力である。蒔絵と螺鈿の技術の併用もみられるようにな めいげつ おだうらくさい すはまう すずり 貝法が伝わって、織田有楽斎の考案という明月 このことは、正倉院に伝わる西方系の楽器である。黒漆地螺鈿の代表的遺例に洲浜鵜螺鈿硯示している。 わん くら からびつはぎ ばこまうおう したんびわ 鎌倉時代にはますます螺鈿の技術は進み、椀や、南蛮意匠の器物に応用されている。江戸 る螺鈿紫檀琵琶や、螺鈿紫檀五績琵琶 ( 3 正箱や凰円文螺鈿唐櫃、萩螺鈿鞍 ( ともに東京 かた 倉院〈別刷〉 ) 、玳瑁螺鈿筌篌などから推測され国立博物館 ) があげられ、蒔絵との併用では片時雨螺鈿鞍 ( 国宝、東京・永青文庫、し漆器時代には鮑の厚貝を使い独得な表現を試みた尾 そまだみつ ・」うめん わぐるま る。また正倉院の沈香木画箱にみられるよう輪車螺鈿蒔絵手箱 ( 国宝、東京国立博物館、国〈別刷〉 ) では不整形の曲面に螺鈿だけで絵画的形光琳や、薄貝でモザイク文様を表した杣田光 正、彫刻した貝を嵌入する芝山仙蔵などの精巧 膨漆器〈別刷〉 ) 、淵や螺鈿蒔絵小唐櫃 ( 国な文様と文字を表した巧緻な技にまで達してい に、紫檀材などの木地に琥玳、玳瑁 ( べっこ こんごうぶじ さんごぞうげぎよく 宝、和歌山・金剛峯寺 ) がある。日本の景勝、る。朝鮮の螺鈿が著しく発達したのも高麗時代ではでな作品が世に出た。なお沖縄にも青貝法 う ) 、水晶、珊瑚、象牙、玉などを併用してい りゅうきゅう ~ 一三九一 l) 以降で、官営の「中尚署」で螺鈿が伝わり、精緻な杣田細工が琉球漆器に活用 る。正倉院宝物の漆地の螺鈿品は、螺鈿箱 ( 風物に基づく意匠が繊細優美な感覚によって表 ( 九天 〈郷家忠臣〉 された。 し漆器〈別刷〉 ) 、筌篌の二点しかみられないのされており、一〇世紀末ごろにはすでに中国、匠によって制作され、中国宋朝で非常に尊重さ で、螺鈿は本来、漆工よりもむしろ木工技術の朝鮮でも高く評価された。九八八年 ( 永延二 ) れたことが文献によって知られる。一二七二年回荒川浩和著『螺鈿』 ( 一九〈五・同朋舎出版 ) ▽ ちょうねん 河田貞編『日本の美術川螺鈿』 ( 一九盒・至 に奝然が弟子嘉に託して宋の王室への進物には「鈿函造成都監」を設け、『大蔵経』を納 もとにあったとする説もある。螺鈿はまた金工 ・ : つらい へいらでんはい 文堂 ) 品にも施された。わが国では正倉院の平螺鈿背品に螺鈿の品々を贈ったり、一〇一五年 ( 長和める箱を大量に制作した。高麗螺鈿は、立菊や アメリカ諸国で西欧をモデルとした近代国家の建設が模索さその文化的影響を今日もある程度残している国が多く、ま ラテンアメリカ Latin America れ始めたとき、前近代的と考えられたイベリアとの関連を想た、近年では近隣のスペイン系諸国との間の政治的、経済的 起させるイスパノアメリカにかわる新しい呼称が求められな関係が深まる傾向にある。イギリス、フランス、アメリ 〔総論〕名称の由来と定義 / 歴史的・文化的特質 た。一フテンアメリカという呼称が初めて使われたのは一八五カ、オランダの支配下にある属領、海外県においても同様の 〔歴史〕特徴 / 歴史の始まりと時代区分 / 征服前のアメ : バリに在住するラテンアメリカの知識人がアメリカ傾向がみられる。そのため、ラテンアメリカという場合に、 リカ大陸と中世イベリア半島 / ヨーロッパ人の到来六年て これら新興独立国と非独立地域を包含するのがより妥当と思 と植民地制度の確立 / 一八世紀改革・一九世紀独立の膨張に対抗するため、新大陸のスペイン系諸国やプラジル に、フランスがそれらの国とラテン的伝統を共有しているこわれるようになった。もちろん、こうした純粋にラテン的と 革命・混乱期 / 物質的進歩と西欧化の時代 / 現代 ちゅうちょ いえない国々をラテンアメリカに加えることに躊躇する人 とを印象づけるべくつくりだした名称であった。二〇世紀に 〔民族・文化・社会〕 もあり、その場合には「ラテンアメリカおよびカリブ海」と 入るとラテンアメリカの呼称はラテンアメリカ諸国でますま 11 一口 いう表現をとっている。 す広く受け入れられていったが、スペインの知識人はこれに 〔歴史的・文化的特質〕ラテンアメリカと世界のほかの地域 アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて大きく広憤慨し、イス。ハノアメリカの名称の正当性を主張した。そう とを対比したとき特徴的なことは、ラテンアメリカでは垂直 がる、三三の独立国と一三の非独立領土からなる地域の総した抵抗にもかかわらず、ラテンアメリカの名称は普遍化し、 的な断層があるものの、ほば均質な言語と文化が多数の国に 称。北はリオ・グランデ川とフロリダ海峡を隔ててアメリカ国連などの国際機関もすべてこの名称を採用するに至った。 一九六〇年ごろまで、ラテンアメリカの範囲は、ラテン文またがって広がっており、それが共有されていることであ 合衆国に面し、東は大西洋を隔ててアフリカ大陸とヨーロッ バに比較的近い距離にあり、こうした地理的な位置がラテン化の伝統を引き継ぐ一一〇の共和国にほば限られていた。すなる。ラテンアメリカでは域内国家間および国内地方間で、ま わち、スペイン系の一八か国とプラジル、ハイチであり、そた、階層間で大きな違いがあるにもかかわらず、言語と宗教 アメリカの歴史の展開に大きな影響を与えてきた。 〔名称の由来と定義〕一六世紀から一九世紀初めまでの植民れは「ラテン」の名と矛盾しない文化と伝統を有する国々でを中心とした文化伝統の面で、一つの共通軸が貫かれている のである。ラテンアメリカはヨーロッパ世界と非ヨーロッパ 地時代、この地域はインディアスあるいはアメリカとよばれあった。ところが、一九六二年以後旧イギリス領から一二、 あていた。一九世紀初頭にスペイン植民地の大部分が独立を遂旧オランダ領から一つの新興独立国が生まれ、これが国連な世界の両方の要素を内包している。ラテンアメリカはヨーロ ッパ世界の拡大の産物であり、ヨーロッパ文明の大きな影響 げたとき、新しい独立諸国の国民たちは植民地的においの強どでラテンアメリカ地域の一員として扱われることになっ ん を受けているが、一方では経済的な低開発と他地域への従属 ていインディアスの名を捨て、新たにイスパノアメリカの名をた。これら新興独立国は、その公式次元での一一一一〕語や文化は非 という点で、ほかの新大陸国家と異なり、むしろアジア、ア 7 ラテン系だが、ゝ カってスペインやフランスの支配を受けて、 、ら多用するようになった。さらに一九世紀中葉を過ぎ、ラテン じ、 しぐれ まさ
導ミミ se ミとよばれている。病名も西各種利権をめぐる大小の汚職事件が少なくなか史』 ( 共著 ) などのほか、鉄道関係の著書もあ自治区銀川市 ) と改め、政治、軍事の中心と ふっしよく 〈宮島一彦〉し、国名を大夏とした。早くから河西地域への 日本腺熱症とよぶようになった。感染経路はま った。戦後は、この傾向が完全には払拭される。 しゆく しゅちょう すうせい りけんかいしゅううんどう一進出を目ざし、前後して瓜州、沙州、粛州を占 だ不明で、発熱、全身のリンパ節腫脹、多数ないまま、さらに、世界資本主義の趨勢に歩調利権回収運動 しん の異型リンパ球を含む単核細胞の増多を主徴候をあわせて、行政権が統制力を拡大し、社会経九世紀末、中国、清朝が列強に与えた鉄道や鉱拠し、河西回廊全部を手中に収め、西夏国の基 〈柳下徳雄〉済活動が国家・公共財政機能に依存する比重が山の利権を回収し、民族資本によって運営しょ礎を固めた。軍事的にまれにみる英傑であるの とする急性熱性疾患である。 著しく大きくなるにつれ、拡張増大された利権うとした行動。義和団事件 ( 天究 ~ 一九 0 一 ) 以後みならず、政治のうえでも新興国家の建設者と リケ一アイ György Ligeti ( 一九 = 三ー ハンガリー生まれのオーストリアの作曲家。一をめぐる、官僚・政治家の各種汚職行為が頻発中国における列強の支配圏拡大、資本輸出の有して優れ、文化政策にも有能な才幹を示した。 〈西田龍雄〉 ↓西夏 効な手段となったのは、清朝財政窮乏の解決策 九五六年、ハンガリー動乱を避けるためにプダしている。 りけんーー昭和初年 ベストからウィーンに亡命し、西欧の前衛音楽 アメリカでも、古くは猟官運動をめぐるスボでもあった鉄道借款であった。そこで鉄道・鉱理研コンツェルン に台頭した新興財閥の一つ。財団法人理化学研 山の建設・採掘などの利権の再分割闘争が引き 家との接触が始まる。五九年よりダルムシュタイルズ・システムが有名であったし、戦後は、 おおこう 起こされた。反面この時期には民族産業が発展究所 ( 一九一七設立 ) の三代目所長に就任した大河 軍需産業とこれを発注するべンタゴンの癒着に ット夏期音楽講座で講義をもち、ポスト・セリ ちま寺一とし ー主義の理論家としても知られている。代表作絡む「ミリタリー・インダストリアル・コンプし、地主・高利貸資本・官僚資本の転化した中内正敏が、研究所の発明・発見の工業化と、そ レックス」 ( 軍産複合体 ) などの利権問題も後国プルジョアジーは有利な投資と産業資本へのれを通じての研究資金の獲得を目的として一九 に、トーン・クラスター ( 音塊 ) 技法を用いた オーケストラのための「出現』 ( 一九夭 ~ 五九 ) のを絶たない。が、これをチェックする自浄機構転換を待望していた。利権回収運動 ( 外貨排斥二七年 ( 昭和一 I) 理化学興業を設立したのが発 を含む ) は彼らを推進者として、民族意識や民端。以後、理化学興業は大河内の「科学主義工 ほか、オルガン曲『ポルーミナ』 ( 一九六一 ~ 六 (l) も活発に機能している。その点、わが国では、 などがある。 〈細川周平〉超長期政権と癒着しがちの官僚機構の公共事業衆運動の高揚を背景に、プルジョアジーの要求業論」「いもづる式経営法」などのユニークな リゲル Rigel オリオン座の日星の固有名。等発注、補助金交付、国・公有財産払下げなどを反映させ、同時に産業資本への転換を促進し経営理念の下に理化学研究所の特許を次々に企 えっかん た。利権回収は一九〇五年の粤漢鉄道を手始め業化し、最盛時には会社数六二、工場一一一一、 リゲルとはアラビア語で「足」の意で、オリオをめぐる直接的な、および企業優遇の税制など に絡む間接的な利権行為をチェックする自浄機に、鉄道・鉱山を中心に実現する。ところでこその公称資本金総額一億五〇〇〇万円の規模の ン座のうち右下の足にあたる。青白く輝く〇・ ↓汚職↓疑獄 〈室伏哲郎〉の運動の中核となったプルジョアジーは政治的企業集団を形成、新興財閥の一つに数えられ 一二等の恒星で、スペクトル型の超巨星。ム月。し には立憲派にくみし、清朝とは妥協的な一面をた。だが、傘下企業数こそ多かったが、その一 表面温度は一万二〇〇〇である。日本では古利原りげん / リウオン朝鯡民主主義人民共 ゅう かんきよう つ一つは小規模企業であり、しかも資金力が脆 くは源氏星とよばれた ( これは左上の赤いべテ和国、咸鏡南道利原郡にある邑 ( 町 ) 。郡の所もっていた。一方、革命派は利権回収運動のな じゃく かでは傍流にあったが、鉄道国有化問題を契機弱であったため、戦時統制の進展のなかでそ ルギウスが平家星とよばれたのに対応する ) 。在地。鉄の産地として知られる。邑は東海 ( 日 距離は六〇〇光年。質量、半径ともに太陽の数本海 ) 岸に面し、海岸沿いの平野では米、アとした立憲派と政府の対立関係を反満革命運の支配権を日本興業銀行を中心とするシンジケ しんがい ート団に握られ、コンツェルンとしての実体を 十倍とされている。一九九〇年の天球上の位置ワ、大豆などの農産物を産出している。利原鉄動、さらに辛亥革命 ( 一九二 ) へと発展させてい 〈南里知樹〉喪失した。現存する理研系企業としてはリケ は赤経五時一〇分、赤緯マイナス八度一九分。山は邑の南方にある。赤鉄鉱が主であるが磁鉄った。 ン、リコー 丿コーエレメックスなどがある。 スペクトルを調べると、吸収線 ( 主として水素鉱、黄鉄鉱を伴う。鉱床は品位四五 ~ 五〇 % で李健吾りけんご / リチェンウー ( 一九 0 六ー りゅう しんら 〈宇田川勝〉 ↓大河内正敏↓理化学研究所 ある。郡内の万徳山にあった新羅の真興王 ( 在中国の作家、戯曲家、文学研究者。筆名に劉 バルマー線 ) の形が時間的に変化することで、 ときどき輝線が見える。これから、外層大気が位 0 ~ 六 ) の巡狩碑は現在咸興歴史博物館本。山西省の人、長く北京に住む。一九三〇回大河内記念会編「大河内正敏、人とその事 業』 ( 一九五四・日刊工業新聞社 ) ^ 魚塘〉年清華大学西洋文学系を卒業。三一年渡仏し、 秒速一〇〇キ。メートルにも及ぶ速度で膨張運動宮分館に保存されている。 せんほう りげんしゅうらん国語辞書。二六 ー一九六三 ) 銭宝 フロべールを研究、三三年帰国、翻訳と教育研俚言集覧 をおこしていることがわかる。リゲルは光度八本ナ儼りげん / リーヤン ( 天九 = げんえん おおたぜ人を一い ー一九七四 ) と並ぶ現代中国の数学史家。究に従事した。また少年時より話劇運動に参巻。太田全斎 ( 一七五九ー一全九 ) の著『諺苑』をも 等の暗い伴星がゆっくり回っている実視連星で琮 ( 一翁一 がげんしゅうらん しんほう びんこう 福建省閊侯に生まれ、唐山の路礦学堂を卒業。加、『晨報』副刊や『語絲』に作品を発表、軽とに増補改編されたもの。『雅言集覧』に対し もある。この伴星自体がまた、九・八六日の公 ぞくげん しやだっ ・つ・つルい 妙洒脱な対話を駆使した、軽快なテンボの喜劇て名づけられたもので、俗諺、俗語のほか漢 一九一二年隴海鉄路局に入り、四二年間にわた 転周期をもっ分光連星であり、結局リゲルは三 こうそ かんしゆくらんしゅう 語、仏教語、固有名詞などを豊富に収録してお り江蘇省連雲港ー甘粛省蘭州間の隴海鉄道建を得意とした。三〇年代を代表する戯曲家の一 重連星である。全体として毎秒二一キ。メートル り、江戸時代のロ語語彙集として注目される。 〈北村正利〉 設に心血を注いだ。一方、一七年から数学史を人。戯曲に『これは春だけ』「率先垂範』など で太陽系から後退している。 せつこう りけん業者が政府および公共機関の研究したが、銭宝琮は浙江大学など中国南部でがある。解放後、北京大学文学研究所、科学院五十音図の横段の順序 ( アカサ・ : イキシ・ : ) に しかるべき地位にある公務員 ( 特別公務員も含活躍したので、「北李南銭」と称された。李儼文学研究所などで外国文学の研究に従事し、仏第一一音節まで従って語を配列し、語釈を加え、 む ) と結託して、形式的には公的手続によっては銭宝琮より一年早く五五年に中国科学院に入文学のほか、ゴーリキー、トルストイなど多数出典を示す。写本で伝わってきたが、井上頼 みかき 〈近藤龍哉〉・近藤瓶城が現行の五十音順に改編、さらに 獲得する権益をいう。通常、業者が提供する金り、数学研究所学術委員会委員、自然科学史研の訳著がある。 品、供応、地位などに対し、法律発案権、予算究室 ( 現研究所 ) 主任、哲学社会科学部 ( 現社李元昊 りげんこう ( 一 0 品ー哭 ) 西夏国初代増補して「俚言集覧三冊 ( 一〈究 ~ 一〈 00 ) と びよう一う 〈沖森卓也〉 決定権、徴収監察権、管理監督・行政指導権、会科学院 ) 学部委員を務めた。資料の李儼、方の皇帝 ( 在位一 0 三 = ~ 四 0 。廟号は景宗。太宗李して刊行された。 認可許可権、発注権、警察・検察権などを占有法論の銭宝琮といわれ、対照的な気性・学風で徳明の長子として生まれ、創造の才に富み、兵リコー ( 株 ) 複写機、機器の総合メー する権限をもっ官僚および官僚を監督指導するあった。中国だけでなく日本の数学史にも関心法、法律に詳しく、仏学にも通じた。一〇三一一カー。一九三六年 ( 昭和一一 ) 理化学研究所に よしお を寄せ、小倉金之助、三上義夫らとも交流があ年、李徳明の死後、西平王の位を継ぐと、姓をおける発明の工業化を目的とする理化学興業 政治家の反対給付として成立する。日本では、 ろんそう った。『中算史論叢』『中国算学史』「中国数学嵬名と改め、吾祖 ( 西夏語で皇帝の意 ) と称し ( 株 ) の感光紙部門が分離し、市村清 ( 一九 00 ー 」第二次世界大戦前、官職を私的権利とみなす公 ねいか そう り・職私有観が強かった前近代的な官僚制の下で、史大綱』「中国古代数学史料』『中国古代数学簡宋に対抗した。国都の興州を興慶府 ( 寧夏回族六 0 が中心となって設立した理研感光紙 ( 株 ) 8 ぎめい
たいまうりつりよう ようし proton 素粒子の一つで、プ 6 し大宝律令が制定 GOI) され、政府は公民に対七年に始まった日中戦争は、日本経済を戦時体新した。さらに最近、桑葉を用いずに羊かん状陽子 くぶんでん して租税を負担させるために一定のロ分田を与制に追い込み、その結果生糸の輸出は減少し、 の人工飼料による稚蚕人工飼料が普及しつつあロトンともいう。正の電荷をもち、大きさは電 5 よえ、各戸にクワやウルシなどを植えさせて、調日本の養蚕業はしだいに縮小し、第二次大戦にる。このような技術革新によって、一九五〇年子のそれに等しい。現存の素粒子論では、電荷 物としては原則として絹を貢がせた。その結よって壊滅的状態になり、戦後の四七年 ( 昭和以降三〇年間で、上繭一キ。当り労働時間を四分 2 一 3 のクオーク二個とー 1 一 3 のクオーク 果、養蚕は奈良時代に近畿より関東、東北地方二一 l) の産繭量は大正以来最低の五・三万トンまの一にすることができた。 一個からできていると考えている。陽子は大き まで伸び、平安時代にはほとんど全国に広がつで低下した。 〔世界と日本の養蚕業の現況〕世界における繭さをもち、その広がりは約 10 ま cm である。 しよう た。しかし、中世に入ると、治安の不良、荘 一九五〇年朝鮮戦争の勃発を契機にして経済および生糸の生産は、わが国をはじめとして、 中性子とともに原子核の構成要素であるので、 えん 園制度の崩壊ならびに貨幣の流通などの影響を復興が進み、戦後の食用作物を中心とする農村中国、ソ連、インド、大韓民国、プラジルおよ陽子と中性子の総称として核子といわれる。原 受けて、養蚕は著しく衰えた。 プームは終わり、養蚕業がふたたび重要視されび朝詳民主主義人民共和国などおよそ五〇か国子核の種類は原子番号と質量数で指定され、化 近世初期の農業は自給自足的で、生産性も低るようになった。しかし、その後の生糸輸出不で行われているが、上記七か国で全生産量の九学的性質は原子番号で決まる。原子番号は陽子 かった。しかし、戦乱がなかったことと、領主振に加えて内需の伸び悩みにより、繭価は低下五 % 以上が生産されている。一九八五年現在世の個数であり、質量数は陽子と中性子の個数の と農民との力関係の変化などによって、農家は した。そのため、五八年桑園二〇 % 減反の行政界の総繭生産量は約五〇万トンであるが、その半 和で指定される。陽子の質量は 1.6726 x 10 当 g しだいに余剰生産に精力を注げるようになり、措置がとられるとともに、翌年繭糸価格安定の分以上が中国で生産されている。中国の主要養で、電子の約一八三六倍である。スピン 172 しせん せつこう - 一うそ カントン 米麦中心の農業から特産物生産も可能となっ ため日本蚕糸事業団が設立された。六〇年以降蚕地帯は、四川省、浙江省、江蘇省、広東省おでフェルミーデイラック統計に従い、その磁気 ひつばく た。一方、江一尸幕府は財政的な逼迫をあがなう は高度経済成長に支えられ、絹織物の内需が急よび山東省などで、技術的にはわが国より遅れモーメントは約 2.7928e ミ 2 き pc である ( は ために養蚕を奨励した。その結果、蚕種、繭、増し養蚕業は一時安定化した。この時期は、日ているが、豊富な労働力を利用して集約的な養陽子質量、カはプランク定数んの分の一 ) 。 生糸、真綿ならびに絹織物の需要が増加した。本の蚕糸業が輸出産業から内需産業へ転換した蚕が行われている。一方、生糸および絹の消費 真空技術の発達に伴って一九世紀なかばに始 このように商品化が容易になるにしたがって、 ときである。すなわち、六五年以降生糸消費量 についてみると、世界の消費の約六〇 % を日本まる陰極線の研究は、イギリスの・・トム それら個々の生産に専念するものが現れ、蚕種は国内生産量を超過し、中国や韓国などから生が占めており、したがって日本の消費動向は、 ソンによる比電荷 ( ミき e ) の測定により電子の 世界の養蚕国に大きな影響を与えている。 製造、養蚕、製糸および機織りが個々の生産業糸を輸入し、七二年にはついに一六・八万俵に 存在を確立した ( 天九七 ) 。一方、陽極線の研究 として分化していった。 も達した。これは生糸総需要量の三四 % にあた 日本は現在ソ連に次ぐ世界第四の養蚕国であは、それが分子線 ( イオンビーム ) であったた 江戸時代の末期になると、経済不振による絹 り、日本は世界第一の生糸消費国に変容するに る。一九五〇年以降約二五年間一〇万トン台の繭め、比電荷は陰極線に比べ非常に小さいこと 消費の減少や社会不安によって、養蚕業は衰微至ったのである。 生産量を維持してきたが、七五年一〇万トンの大 ( 約数千分の一 ) がわかったが、その値はばら の方向へ傾いていった。しかし、横浜開港 ( 天 〔養蚕技術の変遷〕明治期から現在までの約一 台を割って以来漸減の傾向にある。しかし、一戸ばらで陽子の存在を確立するに至らなかった。 まん きんばく 五九 ) ならびにヨーロッパにおける微粒子病の蔓〇〇年間のわが国の養蚕業を技術的観点からみ当りの経営規模は拡大し約二倍に達している。 イギリスの・ラザフォードは、金箔や白金箔 えん アルファ 延による繭、絹生産の低下によって、わが国のると、第二次大戦を境にして二つの時期に分け わが国の養蚕業は全国に分布しているが、そでの粒子の散乱で大きな散乱角のものが多 蚕種と生糸は一躍にして輸出品の花形となった ることができる。前半は品種改良ならびに飼育の主産地は南東北、北関東、東中部および南九 い現象を分析して、原子のほば全質量が原子の のである。一八八〇年 ( 明治一三 ) ごろまでの日回数を増やすことによって、土地生産性を向上 州で、主要養蚕県は群馬、福島、埼玉、山梨、中心の非常に狭い領域に集中していることを明 本生糸の主要輸出先はヨーロッパであったが、 させた時代であり、後半は機械化などによって長野、茨城、山形、鹿児島、熊本および栃木県らかにし ( 一九一 l) 、原子は、原子のほば全質量 一八九七年以降アメリカが支配的市場となっ労働生産性を向上させた時代である。 などである。↓カイコ↓蚕糸業〈吉武成美〉を担う原子核と、それを取り巻く電子からでき た。第一次世界大戦 ( 一九一四 ~ 一 0 は、ヨーロッ 一九〇〇年ごろと一九八〇年ごろの生産性を回福田紀文監修『総合蚕糸学』 ( 一九七九・日本蚕ているとする原子模型を実証した。こうしても パの養蚕業に壊滅的な打撃を与えたが、アメリ 比較してみると、表に示したように、桑園一〇 糸新聞社 ) ▽有賀久雄著『新編養蚕学大要』っとも軽い水素原子の原子核として陽子の存在 カおよび日本には逆に経済発展をもたらした。 当り収繭量は約二倍、箱 ( 蚕種一〇・カイ ( 一突三・養賢堂 ) が確立した。↓ラザフォード散乱 ようし海路伝来してきた紙を意味す われわれの世界の物質が安定に存在するため その結果、一九二〇年 ( 大正九 ) ごろには生糸コ二万頭 ) 当り収繭量は約三・五倍、生糸量歩洋紙 輸出量中アメリカ向けが九五 % まで達した。 合は二・八倍、そして一〇当り生糸生産量は るが、普通はヨーロッパ伝来の製紙法により木に、陽子は他の素粒子に崩壊せず安定であるこ 明治以来、生糸により外貨獲得を行い、富国実に五・四倍になっている。このような生産性材パルプを機械で抄いた紙をいう。古代中国でとが要求されるが、約年以上の半減期で崩壊 強兵を図ろうとした政府は、国際信用を確保しの向上は、蚕桑の品種改良、一代雑種の利用、 発明された紙は麻ばろなどから得た長繊維パル していても現存の観測事実と矛盾しない。ちな みに、宇宙の年齢は約 2X19 。年である。電 養蚕業を発展させるために、種々の法律を施行人工第化法および防疫など土地生産性向上技プから手すき技術によ 0 て製造されていたが、 するとともに、研究・教育機関の設立を行っ術と、年間条桑育 ( 一枚一枚桑葉を与えるのでヨーロツ。ハに渡り抄紙機械が発明され、木材パ 磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用の三 た。また、民間においても大正初期に片倉組、 つの相互作用を統一的に記述する大統一理論 はなく、枝ごと与える飼育の方法 ) 、稚蚕共同ルプを用い大量生産が可能な洋紙となった。日 じようぞく 郡是製糸の研究所がつくられ、技術向上の体制飼育、育蚕・栽桑の機械化および上蔟法 ( 糸本では現在、紙および板紙のほとんどが洋紙で (o•e) では、核子数が保存しない相互作用を みつまた が整えられた。 を吐き始めたカイコを繭をつくらせるために蔟ある。なお、和紙の原料となる三椏パルプ、含むので、陽子が約 ~ 年の半減期で崩壊す がんび 一九三〇年 ( 昭和五 ) わが国の産繭量は史上に入れること ) の改良など労働生産性向上技術雁皮パルプのほか麻パルプなどの長繊維パルプることを予言する。 うすようし 最高の四〇万トンに達したが、その前年秋に始ま に負うところが大きい この理論によれば、大爆発 ( ビッグ・バン ) に を機械で抄いた和紙風の薄葉紙や、場合によっ った世界恐慌によって、アメリカ絹産業は決定 年間条桑育が確立した結果、葉摘みで室内でては木材。ハルプを主原料として機械で抄いて図より現存の宇宙が創生される際に、この核子数 非保存と 0 不変性の破れ ( 時間反転対称性の 的打撃を受けた。それによって、当時八億円近棚飼いであった従来の集約的養蚕が、条桑で屋面の複写用の薄葉紙に仕上げたものは、機械抄 かった生糸輸出額は、三一年には半減した。三外飼育されるようになり、養蚕のイメージが一 き和紙として取り扱われる。↓紙〈御田昭雄〉破れ ) の相乗効果がおこり、その結果、われわ ばつばっ