よろつば ョーロッパ共同体 機構と運営 一九五六年六月から五七年三月にかけて条約よび競争等の各分野における共通政策を実施し年四月八日、ヨーロッパ共同体の単一理事会お 一九五五年五月に開かれた総会の討 よび単一委員会設立条約が調印され、六七年七 議のなかで、石炭、鉄鋼以外の分野にも共同体草案が練られ、その三月二五日に加盟ている。 が別に設けられたのは、原子月一日に発効した。これによって三つの共同体 的アプローチをとることの必要性が論じられ、国は、新しい二つの共同体条約に調印した。す は、五八年以来の総会および裁判所に加えて、 なわち、ヨーロッパ経済共同体 (European 力が危険性を伴う特殊な分野に属しており、し 会期の終わりに同総会は全会一致でヨーロッパ たがって特別な取扱いを必要としたこと、また理事会ならびに委員会を共通機関として有する 統合の次の段階を目ざすため、六加盟国の外相 Economic CommunitY) 創設条約とヨーロッ ハ原子力共同体 (European Atomic Energy 原子力産業の発展にはきわめて高度な科学的知ことになった。なお、これによっての 会議を開催することを決議した。これを受け て、同年六月、イタリアのメッシーナで外相会 community) 創設条約である。これらの条約識と巨額の費用が必要とされるが、これらは一最高機関は委員会に統一される形になった。こ のような主要機関の統一を機に、三共同体はヨ は五八年一月一日に発効した。これらをローマ国家の能力を超えるので、各国が共同して研究 議が開かれた。そこではヨーロツ。ハ建設の新た ーロッパ共同体とよばれるようになった。 および開発にあたる必要があったからである。 な前進を検討する政府間委員会が設けられ、そ条約ともいう。 〔拡大〕イギリスは、一九六三年と六七年に加 は、石炭、鉄鋼および原子力を除く他と同時に、国際原子力機関と有機的に結び付く の委員長にベルギーのスパーク外相が指名され 盟申請を行ったが、いずれもフランスの反対に ことも考慮されたといえる。 た。五六年四月、ス。ハーク報告が各加盟国の首の経済分野を包含する共同体である。それの目 脳の下に提出されたが、それの中心は新しい経的は、共同市場の創設、共同体全体の経済活動〔諸機関の統合〕およびあって失敗に終わった。七〇年に三度目の加盟 の発足に際して、それそれが理事会と委員会を申請を行った結果、加盟が認められることにな 済的結合の創設にあった。この報告に対し、各の調和的発展、生活水準の向上および加盟国間 り、同国と並んで加盟申請を行っていたアイル 国の首脳はすばやい反応を示した。すなわち、の関係の緊密化ということにある。そして有することになったが、総会と裁判所は ランド、デンマークおよびノルウェー四か国と O のそれらと共通の機関となった。しかし三つ 彼らは同年五月・ヘネチアに会合し、公式会議の O は、これらの目的実現のために、域内におけ の共同体がそれそれ別個の立法機関と行政機関原加盟国との間に加盟に関するプリュッセル条 討議資料として同報告を採択することを決め、る関税および数量制限の廃止、域外に対する共 スパーク委員会に対し引き続いて報告を具体化通関税の設定など、いわゆる関税同盟を基礎を有したことによって、それらの活動に重複が約が締結され、七三年一月一日に発効すること になった。しかしノルウェーは国民投票の結 するための条約草案の作成を委嘱したのであに、人、財貨および資本の自由移動の障害を除みられ、また政策の調整が必要とされるように る。 去し、また、通商、農林水産業、社会、運輸おなった。この問題を解決するために、一九六五果、反対が過半数を超えたため加盟に至らなか った。その後、七五年にギリシアが加盟申請を 府 区区 マ間のフタンのう 区 府政 一広約 ( イラ , よ 挙挙区 ノ一年一月一日に加盟国となった。七七 ロの条国 , オクも 政ク府 区挙区区区区選区選区挙区府 マかッ , ルの年にはスペインおよびポルトガルが加盟を申請 体 挙選挙挙挙挙ド挙ク挙選挙府政府府府府ト府ル府政府 同日ト一 6 ィ一プ 選ク選選選選ン選の選ル選政ク政政政政ン政プ政ル政 し、八六年一月一日に加盟した。八七年現在、 ドギン調 一ツアンスラアンタガス 一ツアンスラアフダガス一 一参西ルセる 加盟国は一二か国である。 ン キマイシインルリセントリ キマイシインルリ ッ 3 ( れ , ペクよ ヘライタクラルキ ヘライタクラルキルンドリ ロ年所わ式ス 〔法〕の注目すべき点は、それ独自の ペデ西キスファイルオホイベデ西キスファイルオポイ 一引役行印ンア , 相 ョ四市で調ラリダ外法秩序を有していることである。法は、① 三共同体創設条約、諸機関の統一に関する条 約、加盟条約および予算条約など、②共同体立 法、③ 0 裁判所の判例、④加盟国に共通な法 の一般原則、によって構成される。三共同体創 設条約は、 O の憲法的性格を有する。第二の 法源としての共同体立法は、理事会あるいは委 員会の定める諸法規によって構成され、運 営上重要な役割を演する。種類としては、規則 regulation 、命令 directive 、決定 decision 勧生ロ recommendation および意見 0 三 n 一 on の五つがある。規則は全加盟国において拘束力 を有し、直接に適用される。命令は、達成され あ るべき結果についてはそれが宛てられた加盟国 を拘束するが、履行の形式と方法の選択は当該 加盟国にゆだねられる。決定は、すべての点に おいて、それが宛てられた者を拘束する。勧告 および意見は拘束力を有しない。①および②が 文字どおりの立法とすれば、③はすこし異な る。つまり、裁判所の判例は制定法そのも のではないが、解釈を通して諸条約あるい かんげき は共同体立法の間隙を埋めることによって判例 6 直接選挙 ロ 一会 ョ議 ニ一一口 監督 経済社会評議会 通貨評議会 運輸委員会 ニ一一口 ニ : ロ 閣僚理事会一 常駐代表 委員会 見 意 見 意 EC 委員会 覚え書・提案 委任・指示・決定 共同体基金の運営 会計監査院 執行 欧州投資銀行 一三ロ 訟 ・各個人 ・各国政府 審判 審判 審判 一三ロ 所 LLJ 注 : 駐日 EC 委員会代表部資科による 価 U 督 U せ u 鬨咄↓
もんごる ・を、ドい 3 を当 北西から見た首都ウランバートル。 周囲を山に囲まれた標高 1300 ~ 1350m の高原に位置し , 中心部に は近代建築が建ち並ぶ 100 。 95 。 15 。 モンゴノレ 邦 ラーンコム ヒャルガ物 ツ主ツェルレ・ ザプノ リャスタ イシルゞ ( ハトガル / てフス測 レ , グド / 5 、スフ / ←トルノルタン・フ・ラク 丿レ、ン セレカ・、 \ ノンガ ラフ′レム ウ ? ィく , ト ) 脈 界大戦を経て四六年には同年に行われた国民投増えた。六〇年には資本主義の段階を経すに封 票の結果、モンゴル国民の独立の意志が確認さ建主義から社会主義の段階に入ったとの認識に れたとして、中国によって独立が認められ、革たつ新憲法が公布された。六〇年代に中ソ論争 と文化大革命が起こるとソ連を支持した。そこ 命後二五年にしてようやく国際的地位が確立、 六一年には国連加盟も認められた。 で中国が経済援助を打ち切ると、その打撃をコ 一九四八年から数次の長期経済計画がソ連、メコン加盟とソ連・東欧諸国の援助で切り抜け た。現在モンゴルは、伝統の牧畜と発達してき 中国の資金、技術両面の援助を得て実行され、 た農・工業のうえにたっ安定した社会主義国家 工業が顕著に発展した。一方牧畜業の集団化も ついに実現し、農業のための国営農場も各地にであるといえる。 〔政治〕現行憲法は、封建・神権制度の一掃と 政治の民主化を目ざした一九二四年の憲法、社 会主義への非資本主義的発展を目ざした四〇年 の憲法 ( チョイバルサン憲法 ) を受けて、六〇 年に公布され、モンゴルが社会主義の段階にあ ると規定している。モンゴルの政治は、一院制 の人民大会に全権力が集中する人民民主主義的 政治形態をとり、その代議員は住民四〇〇〇人 を一選挙区とする小選挙区で選ばれ任期五年。 人民大会は年一度大会を開き、そこで選ばれた 幹部会 ( 議長は国家元首を兼ねる ) が人民大会 休会中は国権の最高機関となる。人民大会はま た、行政の最高機関である閣僚会議議長 ( 首 相 ) を選出し、議長が副議長、各省大臣その他 を選ぶ。人民大会はまた、司法の最高機関であ る最高裁判所判事を選ぶ ( 任期三年 ) 。地方行 政区画は一八のアイマク ( 州、ソムに分かれ る ) と、ウランバートル、ダルハン、エルデネ トの三ホト ( 市、ホローに分かれる ) であり、 これら四種の行政単位はそれそれ人民代議会を もち、その正・副議長、書記長が行政機関を兼 ねる。政党は、マルクス・レーニン主義理論に 依拠するモンゴル人民革命党一党であり、憲法 の規定に基づきモンゴルを指導している。最高 機関は五年ごとに開かれる党大会で、中央委員 会、中央監査委員会、党統制委員会の委員を選 ぶ。中央委員会は政治局と書記局を設置してい る。党の書記長は、人民大会幹部会議長を兼ねて いる。党は憲法改正のつど新綱領を決め国の発 展に対応してきた。党の管轄下に革命青年同盟 があり、その下にピオネールがある。人民大 会、地方の各級代議員会の代議員は、普通・平 等・秘密選挙で選ばれる。選挙権、被選挙権は ともに満一八歳以上。選挙は、党が国家を支配 する重要な手段である。党の綱領、政策に賛同 する者のみが候補者となることができ、したが って人民大会、地方代議員会の議員の大半が党 員で、わずかの非党員議員も党の支持者であ 7 ム / ナライ、 レハン、 . を 362 プルガン ーホブド フ′ヾ 卞ンゴル / - ノ不・ドウン・ゴビ モン、ゴル原 サイン・ジャンダ ドルゴピ オムノゴ , 、ンポグド = , 、タンフ・ラ冫 400 ルタ ホン ランザダガド ノョン 200. / ? む 40 。
ゆごすら 社会にもっとも特徴的な自主管理という考え方 ていたが、そのために準備されたのが現在の諸方針に沿って議会活動を行う。代議員団に選ば同盟が推薦し、連邦議会がこれを選ぶ。任期は は、まず経済の分野で現れた。一九四八年にコ 制度だったのである。これによって、自主管理れても職場を離れることはない。任期はいずれ四年。 ミンフォルムを追放されると、それまでのソ連 〔政党〕共産主義者同盟が唯一の政党である。 という考え方は工場だけでなく、社会生活のすも四年で、同一の代議員団に三選されることは できない。また同一人物が、連合労働基礎組織戦前から存在した共産党が一九五二年に改称し型社会主義を根本から改めることで、彼らは国 みずみにまで浸透することとなった。 たもので、一九三七年以来、書記長はチトーが難を脱出しようとした。翌年の後半あたりか と地域共同体の代議員団に同時に選出されるこ 〔議会制度〕市にあたるコンミューンの議会と 務めていた。現在は集団指導制がとられておら、生産の現場で労働者のイニシアテイプ ( 主 共和国・自治州の議会では三院制、最高の決定とも許されない。 共和国・自治州議会の三院とは、連合労働会り、メンバーは各共和国から三名、各自治州か導権 ) がしだいに生かされるようになり、一九 機関である連邦議会は一一院制である。 コンミューンの三院とは、連合労働会議、地 議、コンミューン会議、社会政治会議からなるら二名、軍代表一名の計二三名からなる。中央五〇年の自主管理法によって企業が労働者の手 で管理されるようになった。つまり、企業は社 、こナ委員会の執行機関であるこの幹部会の議長も一 域共同体会議、社会政治会議の三者をさす。連が、このうちコンミューン会議のメンバーた。 会有である ( 国有ではない ) が、その管理と剰 合労働会議のメンバーは、のちに経済の項で詳は、コンミューン議会の三院から選ばれる。他年任期の輪番制で、その間は連邦幹部会のメン ーでもある。ただし軍代表はこれに就任でき余労働 ( 利潤 ) の分配を労働者に任せたのであ しく述べる連合労働基礎組織の労働者がこれをの二院のメンバーは、それぞれコンミューン議 ない。機関紙は週刊の『コムニスト』。勤労人る。これを労働者自主管理という。三〇人末満 選ぶ。地域共同体会議のメンバーは、定住する会の同名の会議メンバーがこれを選ぶ。 連邦議会は、連邦会議と共和国・自治州会議民社会主義同盟は共産主義者同盟の大衆政治組の企業では全員が、三〇人以上ならその代表機 地域の住民がこれを選ぶ。社会政治会議のメン ノーには、共産主義者同盟、勤労人民社会主義からなる。前者は、六共和国から各三〇名、一一織で、かっての人民戦線が一九五三年に改称し関である労働者評議会が企業を運営する。労働 同盟、労働組合などのいわゆる社会政治組織の自治州から各二〇名の計二一一〇名で構成されたものである。連邦機関紙は日刊の『ポルバ』者評議会は、執行機関である経営委員会を選出 する。企業長は公募する、というのがその骨子 メンバーが選ばれる。選出方法には独特の代議る。勤労人民社会主義同盟が各層から選んで作である。 〔司法制度〕通常裁判所、自主管理裁判所、連であった。 員制度を採用している。すなわち、右の三グル成した候補者リストに基づいて、コンミューン だが、その後さまざまな不備が指摘され、一 ープはまず代議員団を選び、代議員団のなかか 議会が秘密投票で選挙するのである。後者は、邦裁判所、検察庁、憲法裁判所などがある。ま 六共和国から各一二名、二自治州から各八名のた自主管理裁判所は連合労働裁判所、仲裁裁定九六五年の新経済政策あるいは企業の巨大化に らコンミューン議会へ代議員を送るというもの である。この方法は共和国・自治州議会、連邦計八八名で構成されるが、このメンバーは、共所、和解斡旋所などいくつかの種類に分かれて伴い十分に機能しないことがわかり、労働者自 いる。憲法裁判所はいわゆる憲法の番人とし主管理の抜本的な改革を迫られた。一九七六年 議会にも適用される。代議員団と代議員の比率和国や自治州議会が三院合同の秘密投票によっ の連合労働法によってこうした問題を解決した はほば一〇対一である。代議員団は選出母体のて互選する。両院の権限は憲法などで規定されて、共和国・自治州レベルのものと連邦レ・ヘル が、それによれば、従来の企業は労働組織とよ 意を体して基本方針を決め、代議員はこの基本ている。原則は、社会計画や経済問題は共和のものとがある。 ばれる。労働組織は、プルーカラーによるいく 国・自治州会議で、その他の重要〔国防〕陸・空・海の三軍からなり、このユー つかの連合労働基礎組織と、ホワイトカラーに な内外政策は連邦会議で決定されゴスラビア人民軍の最高司令官は、連邦幹部会 るということであるが、問題の性議長が兼任する。徴兵制で、男子は一五か月のよるいくつかの労働共同体に分かれる。そして 質によっては両院の合同会議も開兵役が義務づけられているが、一人で家族を扶それそれが労働者評議会、その執行機関、およ で 都 養している者は一二か月のみ。高等教育を受けび単独事業運営機関 ( ディレクター ) または合 かれる。合同会議はまた共和国・ 議制事業運営機関をもつ。つまり従来の企業を る青年は入学前に一二か月、修学後に残り三か のる自治州議〈ム、あるいはコンミュー アれ ンの議会でも開かれる。 月を勤めればよい。国防法によって全人民防衛細分化することで労働者の自主管理を徹底し という体制が敷かれ、侵略者に対する降伏は国た。労働組織も全体としての労働者評議会など 連邦幹部会は、終身大統領だっ セと 同様の機構で運営される。さらにいくつかの労 たチトー亡きあとに備えて考案さ家に対する反逆であると規定された。 和通 皹第。竃共大れた集団指導制である。一九七四 〔外交〕一九四八年のコミンフォルム追放以働組織が連合して複合連合組織を形成すること . ( 、・を成命 もある。労働者評議会メンバーの任期は二年 構革年に発足し、八〇年までチトーが来、東西プロックの対立が国際緊張の原因だと - 、ぢだのは で、連続三選は許されない。執行機関メンバ して、積極的中立と非同盟主義を唱えてきた。 議長職を務めたが、死後、大統領 最通職はなくなり、六共和国と二自治国際連合を舞台に活躍するだけでなく、発展途の任期は長くて二年であるが、ディレクターの たの 州から一名ずっと共産主義者同盟上国と語らって一九六一年、・ヘオグラードで第任期は四年で再選も可能である。 〔農林漁業〕第二次世界大戦前のユーゴスラビ り会議長を加えた九人からなる連邦幹一回の非同盟諸国首脳会議を開いたのである。 ( ~ 、 ( あ議 このときは二五か国であったが、チトーが最後アはヨーロッパの後進国であった。それが現在 で邦 部会の議長 ( 元首 ) がこれにとっ に出席した七七年の第六回ハバナ会議には、実の中進国に仲間入りできるまでになったのは、 「首はてかわった。ただし任期一年の輪 邦物 に九五か国が参加した。今日では、非同盟諸国右にみてきた労働者自主管理が成果をあげたか 番制である。幹部会員の任期は五 連建 らであろう。ただしこの仕組みは農業に適用し 障の年で、再選も可能である。連邦執の一大勢力を無視して世界政治は語れない、と にくいところに問題がある。戦後、農業人口は いっても過言ではないだろう。↓非同盟主義 一中行会議は連邦議会の執行機関であ 激減したものの ( 戦前は全人口の四分の三 ) 、 グる ↓非同盟諸国会議 り、政府にあたる。議長 ( 首相 ) 、 オあ 農業は依然ューゴスラビアの重要な産業部門だ 副議長 ( 副首相 ) 、各種の連邦大 べも 経済・産業 からである。数度の農地改革により、国土の四 臣や連邦委員などで構成される。 都 首 議長は、連邦幹部会と共産主義者〔労働者自主管理〕ューゴスラビアの社会主義〇 % を占める農業適地の五分の四が個人有、残 4 広望「】三一 7. あっせん
ゃなぎだ きぎん かんじようがしら 日本民俗学講習会が開催され、これを契機とし 藩主時代の綱吉に仕え、同藩の勘定頭を勤召し抱え、和学では北村季吟について古今伝授七年に上京して森外宅に出入りするようにな ちぎよう め、知行高百六十石と蔵米三百七十俵を受けを受け、詩歌のたしなみもあった。一六七七年り、文学活動に入り「文学界』に詩作を発表すて、民間伝承の会が発足し、機関誌『民間伝 じくどうそばん た。保明は一六七五年 ( 延宝三 ) 相続、綱吉の ( 延宝五 ) 二〇歳のとき竺道祖梵について参禅るようになった。東京帝国大学法科大学卒業承』が発刊され、全国各地の研究者を組織化す 小姓を勤め、八〇年綱吉の将軍就任に従って幕して以来、多くの禅僧によって工夫を重ね、九後、農商務省農政課に入り、農政官僚の道を進る第一歩が始まっている。柳田は全国各地を旅 行した際、現地で同じ関心をもっ同学の士と会 み、当時の農政学に関心を抱くようになる。一 臣に加えられ、小納一尸となった。その後頻繁に五年万福寺五世高泉から印可を受けた。 しっーしーし じゅ へんさん れいげん い民俗学の普及に努める一方、木曜会のメンパ 昇進・加増を受け、八五年 ( 貞享一 D 従五位下その問答録を徂徠らに編纂させ、霊元法皇から九〇一年 ( 明治三四 ) 柳田家の養嗣子となり、 しよう でわのかみ そばようにん 出羽守に叙任。八八年 ( 元禄一 ) 側用人に昇勅題と序文を賜ったのが『勅賜護法常応録鈔』その後、法制局参事官に転出した。その間、土 ーを中心として全国的な民俗調査を実施し、山 り、一万二千石余の大名となる。九〇年従四位である。 〈辻達也〉曜会、竜土会、イプセン会などで文学活動を続村、海村、離島の報告書をまとめている。 カたい かんばらありあけおさないかおる 柳田は第二次大戦中から、しだいに日本人の 下に昇進、二万石加増。九四年侍従に昇進、武柳田 ( 村 ) ゃなぎだ ( むら ) 石川県北部、は至けた。田山花袋、蒲原有明、小山内薫、島崎 とうそん 基層信仰に焦点を定め、一九四五年七月に『先 蔵 ( 埼玉県 ) 川越城主として七万二千石を領郡の村。能登半島北部の内陸村で、止陵地が広藤村らが当時の仲間である。 祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に し、老中格となる。九八年老中より上格の左近 い。能登有料道路に接続する大規模農道が貫通 一九〇八年九州旅行で宮崎県椎葉村を訪れ、 えのごんのしようしよう まちの のちのかり 衛権少将に昇任。一七〇一年 ( 元禄一四 ) する。町野川の流域に水田が開け、江戸時代に山民の実態に触れたのが契機となり『後狩取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、 とおの ごうろくわんきゅうでん 、一とばのき には松平の家号を許されるとともに、綱吉の偏は合鹿椀、久田紙を産した。広葉樹が多く製詞記』をまとめた。さらに一〇年に『遠野物民間信仰を研究することによって、民俗学を経 やすさだ せいさいみん 諱を賜って、保明は吉保、その子安貞は吉里と炭地であったが、現在は冬季の出稼ぎが多い 語』と『石神問答』を刊行し、日本民俗学の基世済民の学として位置づけようとする気概が読 織物、繊維製品、電気機械などの工業、和牛飼礎をつくった。その後、柳田の関心は郷土研究み取れる。 改名した。〇四年 ( 宝永一 ) には従来徳川一 じようじ にとペ おだうちみちとし に置かれ、新渡戸稲造、ト ノ田内通敏、松本烝治 戦後、柳田は民俗学を学校教育に取り入れる にしか与えられたことがない甲斐国 ( 山梨県 ) 育、シイタケ栽培が行われる。農耕儀礼の「あ 十五万石余に封ぜられ、甲府城主となったが、 えのこと」は国の重要無形民俗文化財。人口五らと郷土会を組織し、一三年 ( 大正一 l) に雑誌 ことを積極的に進めた。そして一九四九年 ( 昭 おいいえのぶ 〇九年綱吉が死去し、その甥家宣が六代将軍に四三六。↓あえのこと 〈矢ヶ崎孝雄〉『郷土研究』の刊行を開始した。 和二四 ) に民間伝承の会は日本民俗学会と改称 就任すると、吉保は隠居して保山元養と号し、回「柳田村史』 ( 一九七五・柳田村 ) 一九一九年貴族院書記官長の要職を辞したのされ、柳田は初代会長となった。戦後の柳田の しようとく こま 1 」め りくぎえん 正徳四年一一月二日駒込の別荘六義園で死去地二万五千分の一地形図「松波」「柳田」「鵜ち、朝日新聞社客員となり、全国各地への旅行思想の軌跡は、日本民族と稲作の伝来のルーツ え かわ わじま した。甲斐山梨郡の永慶寺に葬り、のち同郡恵 川」「輪島」「長沢」 を続け、沖縄へも初めて訪れ、民俗学飛躍のきをつなげる『海上の道』であり、死の一年前に りん 林寺に改葬した。 柳田泉ゃなぎだいずみ ( 天九四ー一九六九 ) 国文つかけをつかんでいる。二二年国際連盟委任統その構想が大著となって公刊されている。柳田 治委員に任命され、ジュネープに赴いた。帰国の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の 吉保の著しい栄進は将軍綱吉の異常なまでの学者、翻訳家。青森県中津軽郡の農家の生ま ちょうあい あくらっ わせだ 寵愛によるものであったから、吉保は悪辣なれ。早稲田大学英文科卒業後、『トルストイ全後『朝日新聞』論説委員として活躍する一方、人生観、世界観を探ることにあり、その業績は ろあん 策謀家であったとの風評が広く流布している集』の訳業に関係、内田魯庵や木村毅を知る。 『海南小記』『明治大正史世相篇』『都市と農村』日本研究の根幹にかかわるものとして高く評価 が、彼はさほどの悪人ではなく、また天下の政関東大震災による文献焼失に感じ、広範な資料などを公刊した。昭和一〇年代にかけて民俗学されている。↓後狩詞記↓遠野物語↓海上の 〈宮田登〉 治を左右するほどの手腕家でもなかった。むし収集を基盤とした明治文学の研究に着手、一九の理論化を行い、「民間伝承論』 ( 一九三四 ) 、『郷土道↓民俗学 ろ愚直なほど誠実に綱吉の意に従った側近であ二四年 ( 大正一三 ) 発足の明治文化研究会にも生活の研究法』 ( 一九三五 ) 、『国史と民俗学』 ( 一九回『定本柳田国男集』三一巻・別巻五 ( 一九穴 ろはん みやけせつれい り、なまじの才気のなかったことが、かえって参加。晩年の三宅雪嶺、幸田露伴の知遇も得、 三六 ) を相次いでまとめている。とくに民俗資料 七一・筑摩書房 ) 気まぐれな将軍に長く奉仕しえたゆえんであろ和漢洋の膨大な知識、硬派の文学まで及ぶ目配の取集、分類の基準を説くとともに、民俗のなャナキダコ〔〕柳蛸」 0 ミを ~ 、 s きミ s ミミ・ う。ただし、藩主としてはかなり施政に心が りを支えに、手堅い実証的研究を推進。長く母かの心意伝承を重要な領域に設定したことが大ミ、 s 軟体動物門頭足綱マダコ科のタコ。北海 きな特色となっている。 道以南から本州中部に分布する。全長一余、 け、領民に慕われていたらしい。また学問・教校の教壇に立つかたわら、『政治小説研究』三 養の面では、綱吉の好学に迎合したとみられる巻 ( 一九三五 ~ 三九 ) 、『随筆明治文学』正続 ( 一九三六、 一九三三年 ( 昭和八 ) 九月以来、民俗学研究体重四キロ程度になる中形種。皮膚は柔らかい しようよう おぎゅうそらい の中心となった木曜会を組織した。木曜会は第が、ミズダコに比べいくぶん堅く滑らかであ 点もあるが、家中に荻生徂徠など優れた学者を三 0 のほか、『若き坪内逍遙』 ( 一九六 0 ) 、『明冶 はんてん 初期の文学思想』上下 ( 一九六五 ) など多数の研究 二次世界大戦後の民俗学研究所の活動に引き継る。青灰色で、背側には黄斑点がある。腕はほ 書、カーライルなどの翻訳があり、学界からも がれた。木曜会において、その後成長した日本ば等しい長さであるが、右第三腕が交接腕で、 左第三腕の約三分の二しかない。雌は七〇〇 ~ その人ありと長く敬愛された。 〈中島国彦〉民俗学者たちの数多くが柳田の教えを受けた。 一二〇〇粒はどの卵をもち、秋季に産卵する。 回明治文化研究会編『柳田泉自伝』 ( 一九七一一・広 一九三五年に還暦を迎えた柳田を祝う目的で 主漁場は水深二〇〇以深の泥底で、ミズダコ 文庫 ) ▽柳田先生記念会編・刊『柳田泉先 よりいくぶん深い所である。北海道地方では本 生年譜竝著作目録』 ( 一九六五 ) 種をミズダコとほとんど区別せず、地方によっ 柳田国男ゃなぎたくにお ( 天七五ー一九六一 I) 日 ては両種の雄をミズダコとかシオダコ、雌をマ 本民俗学の創始者であり、近代日本の生んだ思 〈奥谷喬司〉 ダコなどと俗称する。 3 タコ 想家。明治八年七月三一日に兵庫県神東郡田原 つじかわ 像 村辻川 ( 現神崎郡福崎町西田原字辻川 ) に生ま ャナギタデ 0 タデ 画 かなえ ゃなぎだにかんのん 0 楊谷寺 れる。父松岡操は儒学者、長兄鼎は医者、三兄 柳谷観音 保 せんりゅう みちやす 吉井上通泰は歌人、次弟静雄は言語学者、末弟映 柳多留ゃなぎだる江戸中 ~ 後期の川柳句 7 集。初編一七六五年 ( 明和一 l) 刊 ~ 一六七編一 柳止は日本画家として名をなしている。一 - 一しよう 寺、 - 一ん きゅう れ・つ ~ い 柳田国男
きたかみ えんぎ れた。この草案はヘールツが主体となって作成委員会、生薬等委員会、製剤委員会、一般試験され、延喜年間 ( 九 0 一 ~ 九 = 三 ) の奴婢停止令によ供奉したりで、全国的に散在する。岩手県北上 たけお たちばな され、七七年一二月に完成している。ヘールツ法委員会、名称調査会、極量委員会が設置されって、法律的身分としての奴婢はなくなった市の「立花の奴踊」は毛槍の踊り、佐賀県武雄 かさおか あらおどり が、富家の隷属的使用人としては存続し、奴と市の「荒踊」は手踊り、岡山県笠岡市の盆踊 はオランダ薬局方を中心にして、ドイツ薬局ている。 しらいし もよばれた。 り「白石踊」は御殿女中と混成の踊り、東京都 方、フランス薬局方、イギリス薬局方、アメリ 『第十一改正日本薬局方』は第一部と第二部に 幻近世において、広義には家臣という意味に使西多摩郡日の出町の「奴舞」は少年の踊り、と カ薬局方などを参照している。その後、一八七分かれ、第一部には通則、製剤総則、一般試験 ろつぼう ちゅうげん さまざまであるが、奴の六方 ( 独特な歩き方 ) 、小者など 九年内務省に中央衛生会 ( 会長長与専斎 ) が設法、第一部医薬品各条五八五品目、第二部にはわれるが、狭義にいう場合、中 1 まいーら ぬまく きよう 置されたのを機に、八〇年一〇月六日内務卿松生薬総則と第二部医薬品各条四八一品目がそれの下級武家奉公人、奴の呼称である。行列にぶりは基本的に共通している。静岡県攪県郡吉 かつらぎ なると ともやっこ まさよし だじよう さね 田町の「大奴」や徳島県鳴門市の「葛城神社の 方正義が日本薬局方選定の儀を太政大臣三条実ぞれ収載されている。収載品目選定の原則は、供するのを供奴などという。 は、みば・一 けいちょう ③戦国末期から慶長年間 ( 一五九六 ~ 一六一五 ) にかお練り」は大名行列式で、奴が鳥毛や挟箱の 美に上申し、同年一一月五日に太政官より聴許医療上の必要性、繁用度および使用経験などか 彼らは曲振りを見せる。「奴歌」を伴うこともある。 を得た。かくして薬局方編纂委員として当時のら検討し、医療上重要と認められる医薬品であけて、武家の奴僕にかぶき者が現れた。 , ぜんだく ゅうきよう かねひろ 〈西角井正大〉 ↓白石踊↓供奴 って、性状や品質が規定できるものを選定する遊侠無頼の徒であるが、しだいに然諾を重ん 海軍中医監高木兼寛、陸軍薬剤正兼一一等軍医永 しばたしようけい と定められている。第一部には①繁用される原じ義侠に富む気風を生じ、奴という名が、奴僕ャッコカンサシゴカイ〔奴簪沙蚕〕 松東海、衛生局員柴田承桂、司薬場教師ヘー ルツ、同・・エイクマン、東京大学医学薬となる医薬品、②繁用される基礎的製剤 ( 主のことでなく、侠気があって腕がたち血気の勇 P 。きミ 0 ミ os 守 ssii 環形動物門多毛綱カン として単味の製剤 ) 、③繁用されないがとくにある者をいうようになった。江戸初期の旗本ザシゴカイ科に属する海産動物。陸奥湾以南に 部製薬学科教師ランガルトと exander Lang- 広く分布し、ごく普通にみられる。潮間帯で岩 gaard らが選ばれた。ヘールツの草案は八一治療上必要な医薬品、また第二部には①混合製奴、町奴の源流である。 ④江戸時代、関所破りをした女子、重罪者の妻の日陰になるような場所に重なり合って群生す 年一月の第一回委員会に提出されたが、諸般の剤、②天然より生産された医薬品 ( 主として生 せいかん 事情により改訂を余儀なくされた。その後、ラ薬類 ) 、③製剤化のために必要な物質、④そのや娘の籍を除いて獄舎内で使役したり、貰い下る。棲管は青色で、ロの上縁が前方に向かって ほか衛生材料などが収載されている。なお、第げを請う者に与えて奴婢とさせた。これを奴と三角形状に突出しており、管の表面の両側には ンガルトとへールツが分担して起草したが、ラ ー」ーレっ あな いう。また、私娼取締りのときに捕らえた女を細かい孔が一列に並んでいる。虫体は長さ一五 一部の製剤総則には、製剤全般にわたる一般的 ンガルトの帰国とへールツの没後はエイクマン ~ 三五 = 、リ、体幅二ミリ。頭部の前端には、二〇対 取調べのうえ、奴刑が確定すれば遊女屋に引き がドイツ語の起草原稿の修正と新原稿を独自に注意事項をまとめた製剤通則と、各剤形につい 〈稲垣史生〉 ほどの鰓糸からなる鰓冠があり、おのおのの鰓 まとめた。ドイツ語の草稿を日本語に訳し、日て定義、製法、性状など、試験法、貯法が規定さ渡した。その女を奴という。 糸には、三 ~ 五対の暗黒色の眼点がある。殻柄 本語稿本を日本薬局方案として審議し、一八八れている。『第十一改正日本薬局方』製剤総則ャッコェイ〔奴鱶〕 blue-spotted sting ・ へんべい には二五製剤の剤形が収載されている。↓剤形 ra ド、、、 D ミ軟骨魚綱ェイ目アカは扁平で、上端は翼状突起になる。殻の蓋は扁 五年一〇月一三日に日本薬局方の日本文、ドイ 薬局方の性格は、規格書であると同時に医薬ェイ科に属する海水魚。北海道以南の日本各平な杯状体で、上面は石灰質の薄い膜で覆われ ッ文、ラテン文の三巻を内務卿に提出して、四 えり′一うもう ている。胴部は六剛毛節からなり、襟剛毛はな 地、東・南シナ海、インド洋などに分布する。 年余を費やした編纂を終わった。この『日本薬品の製造および使用に関しての指導書的な面も むち 腹部は多くの体節からなる。成熟期は五 ~ 局方』初版は翌八六年六月二五日、官報第八九もっている。『第九改正日本薬局方』までは収体盤の幅と長さがほば等しいこと、尾部は鞭状 一〇月。カサネカンザシゴカイのように、海中 四号付録として発行され、内務省令第一〇号で載医薬品について各条で常用量の記載があったでその基部付近に大形の棘があること、尾部の めいりよう が、『第十改正日本薬局方』より削除され、極背腹正中線に低いが明瞭な皮質の膜があるこ諸施設に付着して害を与えるようなことはな 「日本薬局方別冊ノ通リ創定シ明治二十年七月 〈今島実〉 量のみが記載されている。また、医薬品各条に となどが特徴。また、生鮮時には体背面に灰色 一日ョリ施行ス」となった。 はんてん 調剤上あるいは取扱い上の留意点などの情報をまたは青色の斑点が散在する。砂泥底などに生ャッコササケ〔奴虹豆〕まミミ・ 初版『日本薬局方』の収載品目数は四六八、 その内容は有機医薬品五九、無機医薬品八〇、記載してほしいという使用者側からの希望もあ息するが、ときにごく浅い岩礁地帯などにもみミ ~ ミ (). ) WalP. マメ科の一年草。ササゲ の類縁種で、栽培されているササゲ類中ではも 生薬八九、油脂揮発油三七、製剤一七七、製剤るが、日本薬局方は現状では規格書として公的られるため、海水浴などで踏みつけないように っとも野生的なものとされ、 wild cowpea の な書という性格で使用される。医薬品そのもの注意を要する。全長六〇になる。練り製品の 原料一九、衛生材料など七である。ちなみに、 〈仲谷一宏〉名もある。原産地はアフリカで、タンガニー 現在の『第十一改正日本薬局方』では収載品目をはじめ、新しい剤形、新しい試験法など、関原料にされる。 さんろく 数が一〇六六になっている。 連技術の進歩によって、薬局方もその内容が奴踊やっこおどり江戸時代の武家の下僕でカ、キリマンジャロ山麓から、標高二〇〇〇 ぎきよう ふん 日本薬局方の改正は、一九五一年 ( 昭和一一徐々に改訂され、医薬品の安全性や有効性の向あった奴の姿に扮して踊る舞踊。奴は義侠的な地帯にまで野生種がある。中央アフリカで古代 でんま だて に栽培化され、いまは世界各地に伝揄してい 六 ) 三月一日『第六改正日本薬局方』より第七上に役だっことが期待されている。↓薬↓薬言行を誇り、伊達ぶりが人気をよんだが、その かぶき 〈幸保文治〉風俗などを題材とする踊りで、歌舞伎舞踊と民る。日本へは、中国から九世紀までには伝来し 改正 ( 六一年四月一日 ) 、第八改正 ( 七一年四事法 ふりゅう 月一日 ) と一〇年ごとに大改正が行われ、第九回日本公定書協会監修『日本薬局方第十一改俗芸能の風流系の舞踊との二種類がある。歌舞ていた。 げんろく つるはほとんど伸びす、三小葉の葉の付けね ~ 一七 0 四 ) ごろ成立の毛 正』 ( 一九会・広川書店 ) ▽同監修『日本薬局伎舞踊では、元禄 ( 一六公 改正 ( 七六年四月一日 ) より五年ごとに改正が さや まばさき やっこ 方解説書第十一改正』 ( 一九会・広川書店 ) 槍を担ぐひげ奴を描写した『縣場先踊』を嚆矢に花序がっき、一一あるいは三個の莢が物を捧げ 行われている。現在、日本薬局方の改正は厚生 おおっえ として、以後『関三奴』『大津絵奴』 ( 以上槍踊る手のように、上向きにつく。莢は長さ約一一一 大臣が薬事法第四一条第三項の規定に基づき、ヤッケ 0 アノラック たんぜん 、リの円柱形である。 ~ 二〇、豆は長さ七 ~ 八 中央薬事審議会に諮問することから始まる。中奴やっこ①古代における隷属的使用人のこ物 ) 、『奴丹前』 ( 丹前物 ) 、『ひげ奴』『うかれ - 一くはん とも やっこもの へんげ 、央薬事審議会では日本薬局方部会がこれを担当と。『古事記伝』に「賤奴の二字を夜都古と訓奴』『供奴』 ( 変化物 ) など多くの「奴物」が豆の色は白、褐色など多様であるが白色に黒斑 これ AJ し、下部組織として日本薬局方調査会が実際のむべし。賤は良に対する賤にて、是も奴の義なっくられた。民俗芸能では、「奴踊」のほかのある品種が多い。高温でよく育ち、おもに関 「鳥毛振り」「大名行列」などの名でよばれ、祭東地方以西に栽培される。煮豆にしたり、飯と っ改正作業を行っている。なお、日本薬局方調査り」とあり、奴僕、僕の字もあてられている。 しん - 」う くめひ りつりよう 〈星川清親〉 1 しゃ盆のおりに集団で踊り、神幸祭のお練りに混炊する。↓ササゲ や会には総合委員会、収載品目委員会、化学薬品律令の制定とともに、公奴婢、私奴婢に編入ネ とみ へんさん やり せきさん もら ふた ィ一さ
まヨーロッパ諸科学の危機と超越論的会の定める方法によ 0 て選ばれ、その数は各国廃、生産費と価格の管理、石炭および鉄鋼業のは、 QO 加盟国通貨を統合し最終的にはヨーロ しよかがくのききとちょうえつろんてき の人口に比例する。協議総会は審議機関であっ拡張と近代化の達成などを目的としていた。一 ハ単一通貨制度を目ざすもので、これには各 6 っ現象学 くずてつ 九五三年二月には石炭、鉄鉱石、屑鉄の共同市国の主権の部分的委譲という政治問題が絡むた げんしようがく Die Krisis der europäischen て、閣僚委員会に勧告を行う権限を有してい ろ Wissenschaften und die transzendentale る。 〈岡村堯〉場、同年五月には鉄鋼の共同市場、五四年八月め、一挙には推進できない。そこでそれへの中 よ Phänomen010gie 現象学の創始者・フッ には特殊鋼の共同市場が発足し、また、域内関間的措置として一九七九年三月に設立されたの ヨーロッパ人権条約ーじんけんじよ サールの末完の遺著。約二八〇ページの現行の うやく European Convention on Human 税も五八年三月までに全廃され、 ;.2 (U)O 設立がである。 定本は、関連諸論文とともに一九五四年初版の Rights 正式には「人権および基本的自由保後、加盟国の石炭および鉄鋼業は急速に発展し 成立の基礎は、一九七三年二月のドル 『フッサール著作集』第六巻に収録されている。護のための条約」とよばれ、一九五〇年一一月 の再切下げを契機に誕生した QO の共同フロー 彼の他の著作と比べて本書の特徴は、ヨーロッ四日にローマにおいてヨーロッパ審議会加盟国 この O O の成功がヨーロッパの経済統合 ト制 ( 共同変動相場制 ) である。共同フロート バの科学と哲学の運命 ( おもにガリレイ以降によって調印され、五三年九月三日発効した。 に弾みをつけ、一九五七年には加盟六制はドル危機の影響を緩和し、域内通貨の統合 の ) に歴史哲学的な考察を加えて、近代科学の この条約は、世界人権宣言のなかのいくつかのか国によってローマ条約が調印され、翌五八年促進を目的としたが、しかしその後も通貨不安 偉大な発展にもかかわらず、科学の危機、ひい 権利の集団的保障を確保するのに適切な最初の にヨーロッパ経済共同体 O ) とヨーロッ は収まらず、フランス・フランの離脱、復帰、 ては人間性の危機が到来した事情を論じている手段をとることを目的とし、調印当時合意に至 パ原子力共同体が設立され再離脱やマルク、ギルダーの切上げなどが相次 点にある。危機が生じたのは、存在者の世界全らなかったり、後日必要とされたものは、議定た。 QOT)O の主要機関としては、超国家的性 いだため通貨統合は進展しなかった。そこで西 体を理性の立場から統一的ー普遍的に認識しょ書によって補っていくという形式がとられ、現格を有する最高機関のほかに、理事会、総会、 ドイツとフランスとの間で折衝が進められ、七 うとする学問本来のテオリア ( 観想 ) の目標が在までに八つの議定書が作成され、第七、第 八司法裁判所の四つが設けられていたが、 八年七月のプレーメンにおけるヨーロッパ理事 放棄された結果、学問の領域にも物理学的客観議定書を除きすべて発効している。この条約に O 、の発足とともに、総会と司会でまとまった構想がである。 主義と哲学的主観主義への分裂が生まれ、実証はヨーロッパ審議会の加盟一一一か国が参加して法裁判所はこれら三共同体に共通の機関とされ は共同フロート制を継承したものであ 主義や非合理主義が台頭してきたからである。 いる。この条約は、締約国の管轄区域内にあるた。さらに六七年には、理事会のほか、最高機るから、域内固定レート制、域外変動レート制 かわせ それゆえ本書では、科学の成立基盤である生活すべての人に、条約および議定書の定める市民関も委員会という名称で三共同体共通の機関とをとる。域内では各通貨は平価を固定し、為替 世界についての存在論的考察を通して、さらに的、政治的権利、いわゆる自由権を保障し、条約して統一されることとなり、それとともに三共レートはその上下二・二五 % の幅で変動が認め それを成立させる超越論的主観性の能作を究明の履行確保のためヨーロッパ人権委員会、ヨー 同体はヨーロッパ共同体 (QO) と総称される られる。これをバリティ・グリッド parity するという仕方で、現象学的理性主義の立場か ロッパ人権裁判所を新設し、委員会には国家だ こととなった。このように、 QO(J)O は QO の grid 方式という。参加国通貨は共通の計算単 ら、主観と客観的存在者との関係について、新けでなく個人も一定の条件で申立てをすること成立を先導した機構であるといえる。↓ヨーロ位で表示される。の価値は QO 加 たな解明が試みられた。 ッパ共同体 〈立松弘孝〉ができ、八六年一月一日現在約一二〇〇〇件が 〈横川新〉盟国の通貨による標準バスケット方式で決まる 回細谷恒夫訳『ヨーロッパの学問の危機と先験処理され、一〇九の判例がある。〈芹田健太郎〉 が、バスケットの構成比は定期的に点検され ヨーロッパ通貨協定ーっうかきようてい 的現象学』 ( 『世界の名著フッサール他ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ーーせきたん European Monetary Agreement 略称る。為替レートが変動幅の限度に達した際に 。一九五五年ヨーロッパ決済同盟 集』所収・一九七 0 ・中央公論社 ) ▽細谷恒てつこうきようどうたい European Coal and は、関係中央銀行は市場介入によってレートの 夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越 Steel Community 略称石炭・鉄 D) 加盟一八か国の調印によって、ヨーロッパ 変動を抑えなければならない。 このような参加 論的現象学』 ( 一九七四・中央公論社 ) 鋼についての共同市場と共同管理を実現するた基金と多角的決済機構の設立を決めた通貨協国の安定義務を助けるために、各国は金・外貨 しんぎかい Coun- めに設立されたヨーロッパの地域的経済統合機定。この協定は、加盟国の通貨が交換性準備を出資してヨーロッパ通貨協力基金 ヨーロッパ審議会 cil of Europe 一九四九年、西ヨーロッパ五構。一九五〇年五月九日、フランスのシューマを回復した場合ににかわるものとされて oc.k) をつくっているが、これは将来はヨーロ 国同盟 ( ベルギー、フランス、オランダ、 ン外相は、フランスとドイツの伝統的対立を解 いたが、五八年末に西欧一四か国通貨がこの条 ッパ通貨基金に発展する予定であ ルクセンプルク、イギリス ) にデンマー 消するため、両国の石炭・鉄鋼の全生産を共同件を満たしは発展的に解消したので、たる。↓共同変動相場制 〈土屋六郎〉 なんばうてんも ク、アイルランド、イタリア、ノルウェーおよ機関のもとに置くこと、また他のヨーロッパ諸だちに発効した。ヨーロッパ基金の融資はヨーロッパ南方天文ムロ びスウェーデンを加えた一〇か国によって設け国の参加を歓迎する旨の提案を行った。これがのように自動的ではなく申請に基づいて供与んだい European Southern Observatory られた国際協議機関。一九八七年現在、加盟国 いわゆるシューマン・プランとよばれるものでされ、多角的決済機構はとほば同じで、南アメリカ、チリにある天文台。フランス、西 ドイツ、オランダ、ベルギー、スウェーデン、 は二一か国である。審議会の目的は、加盟国のある。イギリスや北欧諸国はこの提案に消極的業務は国際決済銀行 (n—n) が代行した。こ 共通の遺産である理想と原則とを擁護し、かつであったが、フランス、西ドイツのほか、イタの協定は六一年に経済協力開発機構 (OQO デンマークのヨーロッパ各国が、南天観測のた 実現することにより、また加盟国の経済的社会 リア、オランダ、ベルギー、ルクセンプルクが Q) の管理下に置かれ、七二年一二月に廃止さめに共同でアンデス山脈の海抜一三〇〇のラ 的進歩を助長することによって、加盟国間にい 参加することとなり、五一年四月一ノ日 れた。↓ヨーロッパ決済同盟 〈土屋六郎〉 シア地区に一九七〇年代に開設した。口径三・ つうかせいど 六の大反射望遠鏡をはじめ一〇台余りの望遠 っそう大きな統一を図ることにある。主要な機において、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体創設条約ヨーロッパ通貨制度 関として、閣僚委員会と協議総会があり、事務 ( パリ条約 ) が調印され、翌五二年七月二五日 European Monetary System 略称鏡を備えている。の本部は西ドイツのミ 局がストラスプールにある。閣僚委員会は原則 に発効した。本部は当初ルクセンプルクに置か ヨーロッパ共同体 0) が通貨同盟を完成さ ュンヘン近郊のガーヒンにあり、観測者は交代 として各国外相によって構成され、目的達成にれたが、六七年にプリュッセルに移された。 せるために設けた中間的措置。 QO は関税同でヨーロッパから派遣される。近年、スイス、 必要な事項について審議し、内容に応じて加盟 0 は、加盟国間における石炭と鉄鋼の盟、共同市場を実現し、経済統合の完成に向か イタリアも加盟し、さらに三・五の望遠鏡建 国に勧告を行う。協議総会の議員は加盟国の議移動に関する関税その他の貿易上の制限の撤って進んできたが、次の目標である通貨同盟設が計画されている。 〈小平桂一〉 ュ ラ
とられた。労働については、労働者の国籍によ よ法として間接的な法創造の機能を果たしている対して質問を行ったり、または意見を表明す農業問題、工業、石炭、内陸運輸、木材、水問 からである。次に④についてであるが、裁る。は、七一年一月一日に発効した予算条題、貿易拡大などの委員会がある。委員会におる差別が段階的に除去され、制度的には就業条 6 っ いては、基準・規格の作成および統一化問題を件、社会的優遇措置、税制措置などの制限はす 判所は、法における法の一般原則として、約によって、独自の財源が認められるようにな ろ った。財源となるのは、共通関税、農業課徴金中心に、専門家による実務的問題の審議が行わべて撤廃されている。人の移動については、一 加盟国に共通な法の一般原則を援用しており、 よ れ、加盟国に対し専門的な情報、統計などの提九八四年に域内の統一。ハスポートの発行につい 加盟国のかかる原則を第四の法源として認めるおよび付加価値税の一部である。 〈横川新〉て合意がみられ、また、フランスと西ドイツの ことができるであろう。 一九七四年一二月に開かれたバリ首脳会議供が行われている。 けいざいきよう国境での検問の廃止がある。サービスについて 法の特徴は、加盟国において直接に適用で、ヨーロッパ首脳会議 European council ヨーロッパ経済共同体 は、ローマ条約はサービス業者 ( 個人、法人 ) されること、個人 ( 企業 ) に広範囲の提訴権がの定期的開催が合意された。この会議は、 どうたい European Economic Community 与えられていること、国内法と抵触したときに の内部問題とヨーロッパが直面する対外問題略称ヨーロッパの地域的経済統合機構の域内での営業の自由を保障しており、個人営 に全体的に対処することを目的としており、加の一つで、ヨーロッパ共同市場 European 業の性格の強い医者、弁護士の営業は自由化さ はそれに優位すること、以上の三点に要約でき る。この場合の直接適用ということは国内法に盟国の首脳が外相を伴って一年に三回会合する Common Market ともいう。第二次世界大戦れている。しかし、金融機関についてはまだで ものである。内部的には、加盟国の分担金問題後、西ヨーロッパは米ソという二大陣営に挟まある。資本については、直接投資、不動産投 変型する必要がないということだけでなく、 0 法に規定される個人の権利が侵害された場合あるいは 0 農業制度など、対外的にはヨーロれながら、経済的繁栄と政治力の強化を模索し資、証券投資は自由化されたが、短期資本の移 ッパとアラブの対話、アフガニスタン問題、あていたが、各国がばらばらでなく、相互の経済動については自由化されていない に、当該個人がその救済を求めて、国内裁判所 政策面の共通化は、加盟国政府が権限を完全 あるいは裁判所に訴えを提起することがでるいは対日貿易問題などを取り上げた。この会的・政治的協力体制の確立を図る「一つのヨー ロッヾ に共同体に委譲し、国家がなんらの権限も行使 ノ」という構想が根強くあった。そこでま きるという積極的意味をもっている。国際司法議は、理事会あるいは委員会といった機関ほど 裁判所においては、個人の提訴権が認められて組織的に整備されたものではないが、 Q(-) の抱ず、一九五二年七月にヨーロッパ石炭鉄鋼共同しないことを意味する。このような共通政策 える諸問題に高度な政治的判断で対処すること体が発足したが、さらにそれ以外は、通商政策のような対外政策を別とすると、 いないことと比べれば、が個人あるいは企 業に法の主体としていかに大きなウェイトを置ができ、その意味で運営上きわめて重要なの分野でも協力を促進する必要性が論じられ、実現しているのは農業政策のみである。共通農 役割を演じているといえる。↓ヨーロッパ経済五七年三月、ローマにおいて加盟六か業政策は、七五 % に及ぶ農産物の価格支持、そ いているかがうかがい知れる。 法が国内法と抵触した場合にどちらが優共同体↓ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体↓ヨーロ国 ( フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギのための輸入に対する関税・課徴金の賦課、農 オランダ、ルクセンプルク ) によってヨー 業の近代化、これらのための農業基金の設定な パ原子力共同体↓ヨーロッパ議会〈岡村堯〉 位して適用されるのかということも、重要な問 どを行っている。しかし、各国の利害対立があ 題の一つである。この点について 0 裁判所回伴野文夫著『 0 Ⅱヨーロッパ九つの顔』ロッパ経済共同体創設条約が調印され ( 同時に ラ ( 一九七四・日本放送出版協会 ) ▽・マテイセ調印されたヨーロッパ原子力共同体り、現実の政策運営は安易なものではない。 は、創設の基本目的からして法が優位 主要機関のうち、総会と司法裁判所は 0 〉創設条約とともに「ローマ条約」とよ ン著、山手治之監訳『法入門』 ( 一九全 すべきことをいくつかの事件のなかで判示して ばれる ) 、これに基づいて五八年一月一日に発設立以来 0 0 、 < O と共通の機 有斐閣 ) ▽ P. S. R. F. Mathijsen 】 4 いる。加盟国の国民が、法に関する争 関とされていたが、さらに一九六七年七月には いについて裁判所のみならず国内裁判所に G ミ、 0 E ミきミ Co ミミミご 4th Ed. 足した。本部はベルギーのプリュッセル。 ローマ条約は、の経済統合の完成期限理事会、委員会も三共同体の共通の機関として ( 198 望 Sweet 年 Maxwell, London, The も提訴できることは先述のとおりであるが、し を一九七〇年とし、それまでの過渡期の一二年統一されることとなり、それとともに三共同体 United Kingdom) ▽ A. Bleckmann 】 たがって同一の 0 法について種々の解釈が示 はヨーロッパ共同体 (QO) と総称されるよう 以内に共同市場を完成することにしていた。共 、を c ミ ( 1980 , Carl Heymanns Verlag され、混乱が生ずる可能性が予想される。この になった。↓ヨーロッパ共同体〈相原光〉 KG Köln, West Germany) ▽ La Commis- 同市場の中核である関税同盟は、予定より早く ような混乱を避け、法の統一された解釈と けいギ、いき SIOn des Communautés Europeennes 適用を確保するために、三共同体創設条約はい 六八年一〇月に完成した。関税同盟は、域内関ヨーロッパ経済協力機構 よ , つりよくきこ , っ OrgamzatIOn for European Trente ans 斗 d 、きミミ、きミミき ( 1981. 税の撤廃、第三国に対する共通関税の設定、と ずれも、国内裁判所が法の解釈について、 いう二つの要素をもっている。の輸出は Economic Cooperation 略称一 Off1ce des publications offcielles des Com ・ 必要と思う場合には O 裁判所に判断を求める 五八年以降七〇年代前半ごろまで世界の伸び率九四七年、アメリカはヨーロッパ復興援助計 munautés europeennes) ことができるし、また最終審の場合にはそれを 、ん 十・・い、ししし より高い伸びを示し、とくに域内輸出の伸びが画、いわゆるマーシャル・プランを発表、これ 求めなければならない旨を規定している。 ヨーロッパ経済委員会 に基づいて四八年四月一六日にヨーロッパ 高かったのは、関税同盟結成の効果であったと かい Economic Commission for Europe 〔の変化〕一九五八年以降、三共同体共通 か国によって「ヨーロッパ経済協力に関する条 い , んよ , っ 機関の一つになった総会は、六二年に自らをョ略称国連経済社会理事会の下部機構で は関税同盟の基礎のうえに、労働、サ約」が調印され、が設立された ( 加盟 ーロッパ議会 European Parliament とよぶある地域経済委員会の一つとして、一九四七年 ービス、資本の自由移動を図り、農業、運輸、国はのち一八か国 ) 。 O 0 はマーシャル・ ことを決議した。もっとも、議会と称しても立三月二八日、同理事会決議三六に基づいて設立 法権が与えられたわけではない。七九年に、同された。加盟国間および他の国々と、貿易、科エネルギー、通商、社会政策などに関し共通政プランの受入れ機関として設立されたもので、 策を設定して、加盟国の通貨・金融政策や税制アメリカからの総額約一三二億トルの援助資金を 議会最初の直接選挙が行われた。選挙は各加盟学、技術、環境保護などの分野における政府間 国を一つの選挙区として、政党 ( グループ ) に協力関係の強化・改善を行うことを目的としてを調和させ、地域政策、産業構造政策、教育政基として、ヨーロッパ諸国の経済の復興、貿易 いる。加盟国はアメリカ、カナダ、スイスを含策を展開し、経済同盟を実現することを目ざしの自由化などを行うことを目的とした。その 投票する形をとっている。議員は国別ではなく 後、一九五〇年代後半にヨーロッパ諸国の経済 グループ別に着席する。議員定数は五一八名でむ西欧二三か国および白ロシア、ウクライナをている。 域内における労働、サービス、資本移動の自が回復すると、これまで援助供与国であったア あり、任期は五年である。議会は共同体全体の含む東欧一一か国の計三四か国である。 メリカがヨーロッパ諸国と経済政策の調整を行 由化に関しては、これまでに次のような措置が の本部はジュネープに置かれ、総会のほかに、 活動について検討し、委員会あるいは理事会に トム
やろう ーーかいだん第二次世界大戦現状維持、②サハリン ( 樺太 ) 南部の返還、③ なオアシスとして繁栄し続けてきた。それはア月に国防相のまま首相に就任、一〇月党第一書ャルタ会談 フガニスタン、インド方面へ向かうシルク・ロ 記を兼任、一二月に戒厳令を敷き、救国軍事評末期の一九四五年二月四 ~ 一一日、アメリカの大連港の国際化とソ連の優先権の承認、④旅順 ードの最大の難所バミール・ヒマラヤ越えの拠議会議長。八三年七月戒厳令を解除、同評議会大統領・・ルーズ・ヘルト、イギリスの首相港のソ連車港としての租借権の承認、⑤南満州 ちしま 点として東西通商路上の要衝となり、周辺オアを解散し、一〇月国防相を辞任。八五年一一月チャーチル、ソ連の首相スターリンの三首脳が鉄道、東支鉄道の中ソ合弁による連営、⑥千島 ソ連のクリミア半島の保養地ャルタ Yalta で、 列島の引渡し。これら一連の協約のうち、三首 〈木戸蓊〉 シス・遊牧地帯からの農産物、畜産物の集散地国家評議会議長。 として発達してきたためである。この経済上のヤルタ flJITa/YaIta ソ連、ウクライナ共戦後処理の基本方針について協議した会談。正脳コミュニケが一九四五年二月一二日に発表さ 利点を背景に、カシュガルとともにタリム盆地和国南部、クリミア半島南岸にあるソ連屈指の式にはクリミア会談という。最終日に合意に達れただけで、ヤルタ秘密協定は一年後の四六年 二月一一日、ヤルタ協定は四七年三月二四日、 のオアシス地帯における政治的中心地を形成し保養都市。黒海に面する港湾都市でもある。人した事項は、①三首脳のコミュニケ、クリミ てきた。現在でも、南新疆における小麦、トウロ八万七〇〇〇 ( 一九会 ) 。クリミア半島中心部ア会談の議事に関する議定書 ( いわゆるヤルタそれそれアメリカ国務省から一方的に発表され モロコシ、綿花などの重要な産地となってい のシンフェロポリから南へ八六キ。にあたり、そ協定 ) 、③ドイツ賠償に関する議定書、④ソ連た。ャルタ会談の一連の取決めは、戦後国際政 る。 〈真田安〉の間をバス、トロリーヾ、 ノスシャトル便のヘリ の対日参戦に関する協定 ( いわゆるヤルタ秘密治体制すなわち「ヤルタ体制」の出発点である コプターが結ぶ。クリム山地を北側に背負い 協定 ) の四つにまとめられた。このうち①と③ ことは否定できないが、大国による世界分割の ャルゼルスキ Wojciech Witold Jaruzel- ^ 藤村瞬一〉 ) ポーランドの軍人、政治家。平均気温は七月約二四度 O 、一月約四度 O 、年はのヤルタ協定の重要項目をとくに三首脳が合意だと非難する声も大きい ルプリン州クルフ生まれ。同県が一九三九年に 降水量は約七〇〇ミリと、気候温和である。海水確認したもので、実質的には②と④が中心であ回ゲルト・レッシンク著、佐瀬昌盛訳『ャルタ からポッダムへーー戦後世界の出発点』 ( 一九 ソ連に支配されたのち、ソ連の士官学校に入浴シーズンは六月初旬 ~ 一〇月初旬だが、とくる。まず、②のヤルタ協定のおもな合意事項 七一・南窓社 ) ▽アルチュール・コント著、 り、四三年にソ連領で組織されたポーランド人に北国のソ連では避寒地として知られる。クリ は、①世界機構 ( 国際連合 ) の設立会議の開催 なんろく 師団に参加した。四七年に労働者党に加入。戦ム山脈南麓から海岸にかけて、ホテル、。 ヘンシ日と開催地の決定、②ソ連のほかにウクライ 山口俊章訳『ャルタ会談ーーー世界の分割』 後も軍務につき、六〇年に軍総政治部長、六二 ( 一九会・サイマル出版会 ) ▽藤村信著『ャル ョン、保養所、サナトリウムなどが、疎林やブナ、べロルシア ( 白ロシア ) 各共和国が別個に 年国防次官、六五年参謀総長、六八年国防相に ドウ畑の中に散在している。観光産業以外で世界機構に加入し、ソ連は実質的に三票の表決 ターー戦後史の起点』 ( 一九会・岩波書店 ) 就任、七一年からは党政治局員を兼任した。八 とう Jaluit 太平洋北西 は、ぶどう酒 ( 商標名「マッサンドラ」は国外権をもっこと、③安全保障理事会における常任ャルート島 みやげ 〇年以降政治危機が進行するなかで、八一年一一でも著名 ) 、プランデーなどの醸造、土産品製理事国の拒否権の承認、④信託統治制度の創部、ミクロネシアのマーシャル諸島を構成する 造、食品加工などが行われる。また農業技術学 設、⑤解放ヨーロツ。ハ宣一一一一口、⑥ドイツ分割占領二列の列島のうち、西側のラリック諸島南部に 間トか観ソリ称 校、医学校、醸造試験場、転地療養医学研究の決定、⑦フランスのドイツ占領参加、⑧ドイある環礁。マーシャル共和国 ( 一九七九自治政府発 のナ港型「クと ひしがた 「ど レしー、キ、 面サ , 大 東西一九キロの細長い菱形 所、映画撮影所、チェーホフの住居記念館など ツからの賠償取立てと賠償委員会の設置、⑨ド 足 ) 領。南」四ノ 斜いしのる」な の近在航すラ が置かれている。一九四五年二月のヤルタ会談ィッからの賠償総額を二〇〇億ドルとし、うち五をなして八〇以上の小島が連なる。陸地面積一 緑点巡着工珠 が海発ビ真 は、海を見下ろすリバディャ宮殿で行われた。〇 % をソ連割当てとすることの米ソの合意 ( イ〇平方キロ、人口約一三〇〇。礁湖の中は四五 ~ タ小ム黒がリのる ↓ャルタ会談 〈渡辺一夫〉ギリスは保留 ) 、⑩戦争犯罪人の処罰、⑩現在五五の深度を有し、数か所の水道から通過が ル大ウは船のアれ ヤにリら光連ミさ のポーランド臨時政府にポーランド内外の民主可能なので最適の泊地をなす。通常、ヤルート 勢力を加え、ポーランド国民統一臨時政府を設島というのはこの環礁全体をさすが、環礁の南 立し、米英ソ三国が承認すること、⑩ポーラン東端に位置する主島が本来のヤルート島で、同 ドの東部国境をほばカーゾン線とし、ポーラン島のジャポール Jabor には日本の委任統治時 ン ドは北部、西部で領土を拡張すること、⑩ュー 代 ( 一九一九 ~ 四五 ) ャルート支庁が置かれ、行政中 ゴスラビアに関し、チトーーシュバシチ協定 心地でかっ海軍の根拠地であった。〈大島襄二〉 タ ス ( 一九四四年一一月ノ丿 、ヾレチザンの指導者チトャルンズアンホ江ーーこう〔雅魯蔵布 ーとイギリスの推す政治家シュバシチとの間で江〕中国、インド、バングラデシュを経てペ レ 結ばれた連立政権協定 ) により新政府を樹立ンガル湾に注ぐ大河、プラマプトラ川の中国で ズ し、国民解放反ファシズム評議会を拡大して臨の呼称。↓プラマプトラ川 レ 時国会とすること、⑩三国外相は三 ~ 四か月ご夜郎やろう中国の西南地方にいた非漢民 LL とに定期会合をもち ( 外相理事会の設置 ) 、会族の一、またその国家。前漢武帝の在位した前 . レ 二世紀後半ごろはすこぶる優勢で、精兵一〇万 合は三国の首都で輪番で開催し、第一回はロン チ ドンで開くこと、⑩モントルー条約 ( ダーダネを有したと伝えられる。そのため夜郎の君主の ャ レス、・、 チ ホスポラス両海峡の航行に関する三六年自負心は強く、漢の使者に対して夜郎と漢とど ことわざ の国際条約 ) の改訂に関するソ連の提案を第一ちらが大かと尋ね、「夜郎自大」の諺を生じ よ た。現在の広西チワン族自治区の北西部、貴州 左回外相理事会で検討すること、などであった。 談 一方、ヤルタ秘密協定の内容は以下のとお省の西部、雲南省の東部を含む地域を占め、そ 会 タ り。ソ連はドイツ降伏の二 ~ 三か月後、次の条こでは定住農耕の生活が行われていたという。 レ もう - 」 しゅ - 一う 件で日本に対する戦争に参加する。①外蒙古の夜郎の地は、雲貴高原に発し東南流する珠江の 3 い。 1 からふと
よんえい 動により会員は減少する一 電荷分布が時間的に変動している場合には、 は、図 < ー@ の灰色部のような架空の国を考 立なう 市とよ方だったが、上記のの四極子モーメントは時間の関数になる。運動しえ、この国も含めて色分けし、その色分けをそ ムのえ 理念を堅持しながら、活動ている電荷の加速度の時間微分がゼロでない場のまま S 図の点の周りの国々の色として定め ルると はいまなお続いている。し合には、四極子は宀 d さこミこ ~ に比例した強ればよいので、国の境界はいつでも線で相隣る テあ駆 スの先 ものと考えてよい ム行のたがってクラブの呼称さの電磁波を放射する。この放射を四極放射 〈安岡弘志〉 図のような地図はどの国も互いに隣り合っ quadrupole radiation とよぶ。 ア奧義は存続している。なお、日 は主 ているから、四色が必要であることがわかる。 面本 4 協会は、七八年、そョンキント Johan BarthoId Jongkind ては の任務を社団法人全国農村 ( 天一九ー九 I) オランダの風景画家。ロッテルダしたがって、問題はどんな地図でも四色あれば x れ現 ら表青少年教育振興会に託し解ム近郊に徴税官の息子として生まれ、初め公証国々を塗り分けることができるか、すなわち、 〈藤原英夫〉人役場で働く。 散した。 ーグの美術学校を経て一八四地図塗りには四色で十分であるか否かを明らか ・由 ' 淡て回社団法人全国農村青少年六 ~ 五三年パリの海洋風景画家イザベイ Louis にすることであり、それが四色問題である。 景割 教育振興会編・刊『日本 E. lsabey ( 一〈 0 四 ー会 ) のアトリエで修行。 この問題は、一八七〇年代後半にケー 背分 4 協会史』 ( 一九〈 0 ) ルビゾン派の画家たちと交わり、ノルマンディ Arthur Cayley ( 天 = 一ー空 ) が学会へ難問らし 、れ彩 ー、プルターニュを旅行後、五五年帰国し、情 いと提唱してから、しだいに研究が進められる , か色四か国条約よんかこく こくじようやく の 描 じようやく 0 四か国条約感的な雰囲気をとらえた海浜、港湾風景を描ようになった。まず、七九年にケンべと fred てい ダ 。六〇 ~ 七〇年ふたたびパリに滞在し、各地 Bray Kempe ( 天四九ー一九一一一 l) は「四色問題に関 ョンカーズ Yonkers 丿色づ い筆アメリカ合衆国、ニューヨ にスケッチ旅行を試み、海洋風景を描く画家プする地理学的問題」の論文を書き、これを証明 ロ は夬 ーク州南東部、ニューヨー ーダンと親交を結ぶ。直観的で軽妙なタッチに した。この証明はその約一〇年後、ヒーウッド 景軽 ク市の郊外都市。ハドソンよる水彩画にとくに優れ、初期にはコロー、ポ Peray John Heawood ( 一会一 ー一九五五 ) が誤り ンる 川東岸に位置する。人口一 ニントン、イザベイの影響が強いが、五〇年代を発見するまで正しいと思われていた。 キ館い ン術て九万五三五一 ( 一九〈 0 ) 。 以後の制作では印象派を先取りすると評価され ケンべの考え方は数学的帰納法による。まず ョ美っ 接するプロンクス区とよく る。過度の飲酒による精神障害のためグルノー 国の数が四個以下であればもちろん四色で十分 日本共産党中央委員会出版局 ) ▽上田誠吉似た特性をもつ。主として住宅都市ではあるプル近郊サンタンドレの精神病院で死去。代表である。国の個数が”個のときに四色で十分で が、一八五二年以来の伝統をもっエレベーター 作は『ロッテルダムの港』 ( 一会六・アムステルあると仮定してミ + 1 個の国の地図の場合、 著『昭和裁判史論』 ( 一九会・大月書店 ) 〈野村太郎〉その国の数を減らす還元法を発見し、帰納法の 4 クラブよんェイチ。ー農村青少年ク一フ製造を中心に、ケープル、薬品、製紙など各種ダム市立美術館 ) など。 プの一つの名称。農業改良助長法に基づき、一 工業も盛んである。一六三九年にオランダの西四行程機関よんこうていきかん 04 サイク仮定を用いてこの場合の証明をする、というも のである。 ルエンジン 九四八年 ( 昭和二三 ) 発足した農業・生活改良インド会社によって開かれたが、町として独立 この還元法を、たとえば地図に図 O ーのよ 普及事業の一環として、農業改良普及員たちに したのは一八五五年で、七二年より市制が施行四サイクルエンジンよんー。 04 サイ うに二角形や三角形が現れる場合について考え よって育成されることになったグループ活動。された。一七世紀に建設されたフィリップ邸クルエンジン よんしよくもんだい four-color てみる。これらの場合、二角形、三角形を無視 アメリカのクラブに範をとり、とは青 は、植民地時代の代表的な建物として保存され四色問題 少年の Head ( 頭脳 ) ・ Hand ( 技能 ) ・ Heart ている。 〈作野和世〉 problem どのような地図でも四色で塗り分して、たとえば図 O ー回のような地図について けられるか否かを明らかにする問題。一八五一一塗れば、最大三色で塗れるから、残りの一色を ( 心情 ) ・ Health ( 健康 ) を表し、その向上を四極子モーメントよんきよくしーー quadru ・ 二角形、三角形に割り当てることによって四色 図るものであった。アメリカでは農務省と協力 pole moment 大きさの等しい二つの双極年にロンドン大学教授であったド・モーガン する州立農科大学 ( または州立大学農学部 ) の子が反対向きに接近して並んでいるような電荷 に、学生が「線で接する国を違う色で塗るとしで塗れる。よって二角形、三角形の国が現れれ て、地図を塗るのに必要な色の最大数は四であば、その地図は還元できることがわかる。 校外教育事業 extention service の面から積の分布を、極が四つあることから四極子とい 図 O ー 9 のように地図が与えられたとき、そ 極的に進められた。日本でもクラブの急速な発う。もっと一般に、有限の広がりをもった電荷る」ということについての、ある証明が正しい 展に呼応し、五一年民間支持団体の日本協分布が、これと同等の場をつくるときにも拡張かどうかを尋ねた。ド・モーガンは答えがわかれを平面グラフとみて、その双対グラフを考え 会が設立された。また、これら農村の青少年ク して四極子とよぶ。このような電荷分布を定量らず、当時の有名な数学者であり物理学者でもる。つまり各国の中に新しく一つの頂点をと し合わせの手紙り、隣接する国の一一頂点をその境界線と交わる ラブの連絡協議体として全国農村青少年クラブ的に表現するには、テンソル形式を使う必要があった・・ハミルトンに問、 ような辺で結んでできるグラフを考える。この 連絡協議会 ( 一九五五 ) が発足、その後、全国ある。このテンソルのことを四極子モーメントを書いた。これが四色問題の発端といわれてい クラブ連絡協議会 ( 一突 = ) となり、さらに全国とよび、しばしばと書く。直観的には、四極る。質問した学生はのちに物理学者となったガ双対グラフは平面グラフであるが、頂点が国を スリー Frederick Guthrie ( 天三三 会 ) で、表しているし、また各国は辺で接しているから 農業青年クラブ連絡協議会 ( 一九七三 ) と改称、現子は電荷分布の球対称からのずれを表すと思っ 在に至る。活動は、農林・漁業の職能の裏づけてよい。四極子は、空間的に一様でない電場と兄からこの問題の証明を聞き、その真偽をド・ 二角形、三角形の場合と同様に処理して、双対 グラフの面は三角形のみであると考えられる。 になるグループ学習とか、地域社会の新しい人相互作用する。この相互作用を四極子相互作用モーガンに尋ねたのであった。 よって双対グラフのほうが元の地図より四色問 間関係樹立を図るとか、目覚ましいものがあっ とよぶ。実験的には、四極子相互作用の大きさ 地図では図ー 9 の点のように、色分けし た。しかし、高度経済成長下での農村青少年のを測定することによって、四極子モーメントをたい国々 ( あるいは州など ) の境界線がしばしば題としては扱いやすい。この双対グラフの頂点 激減、高等学校進学者数の著増その他の情勢変知ることができる。 一点で交わることがある。しかしこの場合に から辺が本出ているとき、その頂点を枝点
やまもと ぎよらいてい 回内山武夫解説『現代日本絵巻全集 5 山元春五月一一八日京都市に生まれる。宇治の「花やし京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、芝浦製第二次世界大戦末期、魚雷艇特攻要員として死 ちよく に直面した青春期を過ごした。金井直らと『零 挙・橋本関雪』 ( 一九会・小学館 ) ▽原田平作き」は生家の別宅。カナダへ留学後、東京帝国作所に入り、〇九年から二年間、欧米に留学し ど 解説『山元春挙展』図録 ( 一九会・滋賀県立近大学を卒業し京都帝国大学、同志社大学の講師て電気機械設計を学んだ。一一一年 ( 大正一 ) 早度』創刊。『歴程』同人。「僕は素朴に詩をかき せだ はじめた。裸の立ちん棒として出発し、詩を書 稲田大学理工学部教授。電気機械の発明者とし となる。一九二八年 ( 昭和三 ) 労働農民党から 代美術館、京都新聞社 ) きつづけた。」というように、いわゆる知的に 山本春正やまもとしゅんしよう江戸時代か代議士となり、治安維持法改悪に反対するなどて知られ、とくにテレビジョン研究が有名で、 かわらだまさたろう まきえ ら明治にかけての世襲の蒔絵師。一〇代まであ無産者のための政治家として活躍したが、翌年二五年、川原田政太郎らとともに研究に着手、衰弱した意識とは無縁な、大地にたっ原初的な る。初代 ( 一六一 0 ー公 l) は京都の人で、通称は次三月五日右翼により刺殺された。山本は「死物三〇年 ( 昭和五 ) には早大式テレビを完成、公生命のエネルギーを背後にした問いと願望の詩 ほっきよう 郎三郎。晩年法橋に叙せられ舟木と号した。学」ならぬ「生物学」、すなわち「生命の科学」開した。三〇年、十大発明家の一人として宮中法を展開する。「私は泣き笑い唸り歌う / それ し寺 ) ん いんべい きのしたちょうしようし が私の詩だ」 ( 『私の詩は直線的だ』冒頭 ) 。詩 初め木下長嘯子に歌道を学び、『二十一代集を追究、従来隠蔽されていた性の領域を科学的賜餐の栄に、三一年には朝日賞を受けた。早稲 ろうわ じん一い に開拓した。それはアカデミーの枠内にとどま田大学理工学部長、理事などのほか、日本聾話集に『歩行者の祈りの歌』 ( 一九五四 ) 、『ゴリラ』 類句』を著す。伊藤仁斎とも交わり、漢学にも くがやま らず、人々の生活に直結するものであった。二学校長、東京女子大学理事長、久我山電波工業 ( 一九六 0 ) 、『単独者の愛の唄』 ( 一九六一 ) などがあ 漆芸、ことに蒔絵にも 通じた文人であったが、 キリスト 〈角田敏郎〉 巧みであったことからこれを家業となし、清楚二年 ( 大正一一 ) にはサンガー夫人来日を契機専門学校長、国際基督教大学評議員会会長などる。 かげまさ に産児調節運動に乗り出し、雑誌『産児調節評を兼務、電気学会、照明学会などの会長にも選回『山本太郎詩全集』全四巻 ( 一九大・思潮社 ) な作風に特色があった。二代景政 ( ? ー一七 0 七 ) まさよし ▽『現代詩文庫 4 山本太郎詩集』 ( 一九穴・思 論』 ( のち『と社会』と改題 ) を創刊。労働ばれた。またアムステルダムの第九回オリンピ 以下代々春正を名のり、五代正令 ( 一七三四ー天 やません まさゆき 潮社 ) ック ( 一九一一 0 総監督を務めるなどスポーツ界に OIII) からは名古屋へ移住。六代正之 ( 一七七四ー天者や農民に親しく接して人気を博し、「山宣」 ぐそく おわり こなんど 〈菊池俊彦〉山本常朝やまもとつねとも ( 一六五九ー一七一九 ) 三 l) は尾張藩の小納戸御具足方御用を勤め、以の愛称でよばれていた。その死にあたっては各も貢献している。 まっかめ 〈郷家忠臣〉地で労農葬が営まれた。↓産児制限運動↓労回山本忠興博士伝記刊行会編・刊『山本忠興佐賀藩士。幼名は松亀。通称は不携、市十郎、 下明治まで続いた ごんのじようじんえもん しげずみ 権之允、神右衛門。山本重澄の二男四女の末 〈成田龍一〉 伝』 ( 一九五一 ll) 山本条太郎やまもとじようたろう ( 天六七ー一九働農民党 なべしまみつしげおそば やまもとたつお ( 一会六ー一九四七 ) 実子。九歳のとき、二代藩主鍋島光茂に御側小僧 三六 ) 明治・大正・昭和期の実業家、政治家。回佐々木敏二著『山本宣治』上下 ( 一九七四、七六・ 山本達雄 こ 1 一しよう うすき ぶんご けいおう 業家、政治家。豊後 ( 大分県 ) 臼杵藩士山本確として仕え、ついで小小姓となる。二〇歳で一兀 汐文社 ) ▽『山本宣治全集』全七巻 ( 一九七九・ 慶応三年一一月一一日福井県に生まれる。三井 てつだい みつびし 汐文社 ) ▽西口克己著『山宣』 ( 一九五九・中央の二男。一八八〇年 ( 明治一三 ) 三菱商業学校服し、御側役、御書物役手伝となったが、まも 物産に入社して中国貿易を担当し、一九〇一年 たんわん なく出仕をとどめられる。この間、禅僧湛然に 卒業後、教員を勤めたが、八三年には三菱会社 公論社 ) ( 明治三四 ) 上渺支店長となり在華紡績を確立。 きよくイ、んじようちょう そんぶん に入社し、同社幹部川田小一郎の知遇を得た。仏道を、石田一鼎に儒学を学び、旭山常朝の 〇八年本社理事に栄進。孫文の要求に応じ三〇 山本之助やまもとたきのすけ ( 天七三ー いんとん 川田の招きで九〇年に日本銀行に入り、九八年法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあっ 〇万円の借款を供与するなど中国政策に関与し三一 ) 明治 ~ 昭和初期の社会教育家。青年団 た。二二歳のとき、ふたたび出仕し、御書物 たが、シーメンス事件に連座して退社。二〇年 ( 青年会 ) 運動の提唱・推進者。明治六年一一 めまくまちとせ 役、京都役を命じられた。四二歳のとき、光茂 ( 大正九 ) 衆議院議員に当選、二七年 ( 昭和二 ) 月一五日広島県沼隈郡千年村 ( 現沼隈町 ) に生 ↓っうさく の死の直前に、古今伝授一箱を京都より持ち帰 まれる。小学校卒業後、小学校教員などを勤め 政友会幹事長、ついで満鉄総裁となり、張作 おいばら りんまんもう った。光茂の死に際し、追腹を願ったが果たせ 霖と満蒙五鉄道建設を協定し満蒙問題解決を図ながら、一八九〇年 ( 明治一一三 ) 村の青年有志 いおり ず、北山黒土原に庵を結んで隠遁した。「分け ったが、張の爆死事件 ( 一九一一 0 で挫折した。田で「好友会」をつくり、青年団運動を開始。九 みやまペ ぎいち 入りてまだ住みなれぬ深山辺に影むつまじき秋 中義一内閣総辞職後は満鉄総裁を辞任して挙国六年『田舎青年』を自費出版したのをはじめ、 の夜の月」はそのときの歌である。 雄 一致内閣運動を推進した。三五年貴族院議員に著述や講演によって、学生など都会の青年に伍 つらもと ー一七四 0 がゆえあって三代藩 田代陣基 ( 一六天 しての農村青年の自覚と向上を目的として青年 本 勅選。翌昭和一一年三月二五日死去。↓シーメ ゅうひっ 山 主綱茂の祐筆役を免ぜられ、宗寿庵に常朝を訪 〈藤村道生〉会の設立を主張した。従来の「若連中」などの ンス事件 には第五代総裁に就任した。一九〇三年 ( 明治ねたのは、常朝五一歳のときである。ここから 回山本条太郎翁伝記編纂会編・刊『山本条太農村の青年組織が娯楽中心であったのを改善 はがくれ 郎』 ( 一九四 = / 復刻版・一九八三・原書房・明治百し、青年会による夜学会、農事学習、共同作三六 ) 退官後は、貴族員議員、日本勧業銀行総田代陣基の筆録になる『葉隠』一一巻が生まれ つわとし さいおんじきんもち 常朝にははかに、養子の常俊に与えた『愚 業、運動会などを通して風俗改良や実践道徳の裁を経て、一一年第一一次西園寺公望内閣の蔵相 年史叢書 ) せんべっ むねしげ に就任し、財政の健全化の立場から陸海軍と対見集』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖 山本宣亠やまもとせんじ ( 一会九ー一九一一九 ) 大振興に資することを図った。こうした活動や主 正・昭和時代の生物学者、政治家。明治一三年張は当時の内務省や文部省の農村青年統合の方決するなど注目を集めた。その後も農商務、内父、父および自身の「年譜』などの著述があ 〈佐藤正英〉 針とも合致して、各地の青年団や一九二五年務などの各大臣を歴任した。この間一三年 ( 大る。↓葉隠 ( 大正一四 ) の大日本連合青年団の結成を促し正一 l) には政友会に入党、脱党後政友本党を結回相良亨著『武士の思想』 ( 一九会・べりかん社 ) やまもととうじろう ( 天九ハ 山本東次郎 た。昭和六年一〇月二六日没。↓大日本連合青成し、さらに一一六年に立憲民政党の結成時には おおくら 〈西村はっ〉 六四 ) 能楽師。大蔵流狂言方。山本東次郎家三 〈青木哲夫〉その最高顧問に就任した。 年団 かわちすすむなのりのりしげ 回熊谷辰治郎編『山本滝之助全集』全一巻 ( 一九回小坂順造編『山本達雄』 ( 一九五一・同伝記編纂世。前名、河内晋。名乗、則重。山本東次郎 家は、江戸時代には豊後竹田・中川藩の江戸髢 三一・日本青年館 ) くらたにやさぶろう ) 詩狂一一 = ロ方で倉谷八三郎の芸系を受けた初世東次郎 山本太郎やまもとたろう ( 一九一一五ー 山本忠興やまもとただおき ( 一分 あずま のりまさ ー一九 0 = 。隠居名、東 ) に始まり、そ 9 電気工学者。高知県の生まれ。高知中学校、第人。東京・大森に生まれる。父は画家の山本則正 ( 一盒六 のりただ かなえ 一高等学校を経て、一九〇五年 ( 明治三八 ) 東鼎、母は北原白秋の妹。東京大学独文科卒業。の長男の二世東次郎則忠 ( 天六四ー一九三五 ) が古格 2 シャン、イ ざせつ 山本宣治 ー一九五 D 会 ) あん