らくひん の間の上半身で押さえること。 ラグビーの用語 デンジャラスゾーン dangerous zone 防チに対してはフリーキックか、相手がキックし ゲインライン gain line スクラム、ラッ御側にとってもっとも手薄な危険地域のこと。 た場所でのスクラムのどちらかを選択できる。 アップ・アンド・アンダー戦法 up-and ・ ク、モールの中心を通る、ゴールラインに平行ドロップアウト d 「 op out 防御側に与えフォール・オン・サ・ポール fall on the under method ハイバントを相手ディフェン な線で、アドバンテージラインともいう。 られるドロップキックをいし 二二メートルラ ball タックルののち、地上に横たわっている スラインの背後にあげ、ポールを支配してモー コンバート convert ゴールキックしたポ イン上、またはその後方から行う。攻撃側によプレーヤーの上に倒れ込む反則。相手側にペナ ルかラックからふたたび攻撃に移る戦法。 ールが、クロスパーを越え、ゴールポストの間 ってプレーされたポールを、防御側がインゴー ルティキックが与えられる。 を通り得点になること。 アンウイルフル・オフサイド unwillful ルでグラウンディングするか、そのポールがタフッキング hooking スクラムの中にある offside ポールまたはポールを持ったプレー サイドアタック side attack スクラム、 ッチインゴールに出るかデッドボールラインを ポールを足で後方にかき出すこと。 ャーが、オフサイドにいる味方プレーヤーに偶 ラック、モールから出たポールを持ち、バック越えたときに行われる。 フットアップま 0 ( up スクラムの中に投 然に触れること。その地点で相手ポールのスクスにパスせずその近くから攻撃に移る戦法。 ノーサイド no side ゲームの終了。 げ入れられたポールをフッキングする際、足の ラムになる。 ジャージー jersey ラグビーのユニフォー ノックオン knock on ポールを相手側デ出し方が早すぎる反則。相手側にフリーキック ッドボールラインの方向 ( 前方 ) に落とし、ある インターセプト intersept 相手のバスをムの別称。 が与えられる。 横取りすること。 いは手や腕に当たって同方向にはじかれること。 スクラム scrum フィールドオププレー内 フリーキック free kick フェアーキャッ オフサイド offside プレーヤーがプレーでで、双方三人以上のプレーヤーが、互いに腕をノットストレート not straight スクラチ、スクラム、ラインアウトなどにおける特定 きず、反則が適用されやすい位置にいること。 回して組み合い、ポールを中央の地面に投げ込ム、ラインアウトでポールが曲がって投げ入れの反則に対して与えられるキック。パント、ド プレーしているポールの前方にいる味方はオフめるような体勢をいう。 られること。 ロップキック、プレースキックのいずれでもよ サイドの位置となる。スクラム、ラック、モー スローフォワード throw forward ポー いが、ゴールは得られない。 ノットリリース・サ・ホール not release ル、ラインアウトにおける定められたオフサイ ル wheel ホイーリングともいう。 ルを相手側デッドボールラインの方向 ( 前方 ) the ball タックルされたプレーヤーが、たたホイー ドラインを越えて犯した反則には、ペナルティ に投げるか、またはパスすること。反則となちにプレーできない場合、ポールを手放さない 正しく組まれたスク一フムを左または右に回すこと。 る。 キックが相手に与えられる。 ときの反則。相手側にペナルティキックが与えモー maul ポールを持ったプレーヤーの オプストラクション obstruction 妨害行セービング saving 地上にあるポールに飛られる。 周囲に、双方の一人またはそれ以上のプレーヤ 為のことでペナルティが課せられるが、レフェ び込んで相手の前進を阻止するプレー イバント high punt 高く蹴り上げるパ ーが、立ったまま身体を密着させた状態。 ントキック。 リーの判断で警告、退場が課せられることもあセプンエース seven eighth スリークオー ラインアウト line out ポール、あるいは る。 ターとフルバックの中間に位置するバックス・ ノインディング binding スクラム、ラッ ポールを持ったプレーヤーがタッチに出た場合 オープンサイド open side スクラムの位プレーヤー ク、モールにおいて、プレーヤーが腕で味方との競技再開の方法の一つ。ラインオプタッチに 置からみて、タッチまでの間が広いほうのサイセンタースクラム center scrum ハ ーフ組み合うこと。またスクラムで双方のプロップ平行に一列ずつ並んだ双方二人以上のプレーヤ ド。この逆はプラインドサイド blind side と ウェーラインまたは二二メートルラインの中央が互いにしつかり組み合うこと。 ーによって形成される。プレーヤーは味方の隣 よばれる。 で組まれるスクラム。 ピックアップ pick up スクラムやラックのプレーヤーから一以上、相手とは五〇の カウンターアタック counter attack キダイレクトタッチ direct touch キックオの中にあるポールを手で扱うか、拾い上げる反 間隔をとる。 ックされたポールをキャッチして攻撃に転する フおよびドロップアウトで蹴られたポールが、 則。相手側にペナルティキックが与えられる。 ラック ruck ポールが地上にあって、双方 など、防御から一転して攻撃に移ること。 直接タッチになるか、また自陣二二メートルラピールオフ peel 0 ラインアウトに参加の一人またはそれ以上のプレーヤーが、立った キャリ ーバック carry back 防御側プレ インより前方のフィールドオププレーで蹴った している味方のプレーヤーが、ポールをパスか まま身体を密着させて、ポールの周りに密集し ーヤーが味方のインゴールへポールを持ち込んポールが、直接タッチになった場合をいう。 ノックバックしたとき、一人またはそれ以上のた状態。 でデッドになること。相手方ポールのスクラタッチダウン touch down 味方のインゴプレーヤーがそのポールを受けようとして、ラ リターンバス return pass 同じ方向に回 ム。 ールに蹴り込まれたポールを最初にグラウンディンアウトの中の自分の位置を動くこと。 していたパスを逆方向に回す。ハス、および同一 グラウンディング grounding トライおよ イングすること。 フェアーキャッチ faircatch 相手のキッ プレーヤーに返してやるパス。 びタッチダウンのとき、プレーヤーが手またはダミー dummy パスすると見せかけて。ハスクしたポールを、自陣二二メートルライン内ワインディング winding 相手ポールをフ 腕に持っているポールを地面につけること、おせず相手を惑わすプレー。または練習用のタッ で、両足で立ち、停止した状態で、「マーク」 オロアーが奪い取り、身体を回転させながら前 よび地上にあるポールを手、腕または首から腰クル・マシーンのこと。 と叫び直接キャッチすること。フェアーキャッ 進するプレー ポールの支配と判断したときで、単に利益を得 、横の周囲五八〇 ~ 六二〇い、重さ四〇〇 ~ 直径一三ミリ以上、先端直径一〇ミリ以上、ワッシ触れ、東北 ( 旧満州 ) に戻るが、一九三六年 シャンハイ しようぐん る機会があっただけでは不十分とされ、レフェ 四四〇であるが、中学生以下では縮小しても ャー直径二〇ミリ以上となっている。なおプレー 「満州国」当局に追われ上海に脱出。蕭軍、蕭 びじよう リング ( 審判 ) のむずかしさと妙味のあるとこ ャーは尾錠・指輪などの金具や危険物はいっさ紅の活躍に鼓舞され、抗日救国軍を描いた処女 ながそで へんすいせんじよう ろで、試合の興味を倍加させる。 、パノッ、ストッキン 服装は長袖ジャージー い身に着けてはならない 〈畠山元彰〉 作『辺陲線上』 ( 一九三 0 を書き、おもに抗日戦 〔施設と用具〕①競技場 ( 図襯 ) グ、ラグビー靴を着用する。靴のびようは、 駱賓基らくひんき / ルオピンチー ( 一九一七ー ) を描いたルポルタージュ風短編で知られた。上 ちょうはくくんきつりんこんしゅん ナいりんじゅうけい 用具ポールは皮革四枚張りの楕円形で、長革、ゴム、アルミニウムまたは承認された合成中国の作家。本名張璞君。吉林省琿春県の商海陥落後、香港、林、重慶、上海などで文 ベキン さ二八〇 ~ 三〇〇ミリ、縦の周囲七六〇 ~ 七九〇樹脂のもので、寸法は高さ一八ミリ以下、付け根人の家に生まれる。北京で新しい文学、思想に 学活動を続け、『北望園の春』 ( 一九四一 l) をはじめ 720
よろつは きずな にすぎない。 ように集う血縁の強い絆と、そして観光客によれず、ナチス集権体制の一時期を経て、戦後東大陸ヨーロッパの人々をさすことばである。そ 8 って支えられている。ちなみに、日本を訪れる西ドイツに分割されたが、いかにして連邦政府れはちょうど、私たちが自分のことを「日本 6 フランス東南部の・フルゴーニュ地方は古くか らワインの名産地として知られるが、そのブド 外国人観光客は年間二〇〇万人強であるが、フ の権限を強化・拡大するかが、ドイツ連邦共和人」といって、「アジア人」とはいわないのと ウの葉を食べる害虫がエスカルゴすなわちカタ ランスは約三〇〇〇万人、スペイン、イタリア国にとって最大課題の一つとなっている。 同じであり、大陸から一線を画そうとする、島 ッムリである。一八世紀にこのカタッムリが大は約四〇〇〇万人の外国人観光客を毎年受け入 〔イタリアの地方分立〕一方、イタリアは、ド国としての意識が強く働いている。 発生し、人々がその対策に苦慮したすえに生まれている。美しい自然と歴史、そしてどの土地ィッと同じく一九世紀後半の一八六一年に統一 イギリスのサッチャー首相は、「われわれョ れたのが、「食うにしかず」という結論であり、 にもおいしい地方料理と酒、安くておいしくてされ、同じく州の自立性が高い。同じくそれそ ーロッパ人」という表現を好んで使うが、それ そこからエスカルゴ料理が世に一般化すること人情のあるレストランがあり、土の匂いに満ちれの州がイタリア人にとっては国であり、自分は決して一般的ではない。一九九二年の市 となった。まことにフランス料理に代表されるた文化の魅力がある、というのがその理由であはイタリア人だという前し こ、トスカナの生まれ場統合、そして長い間の懸案であった英仏海峡 ヨーロッパ諸地方の料理は、土の匂いに満ちてろう。技術文明が成熟し、本当に買いたい工業とか、ベネト ( ベネチア ) の人間だとか、シチリ トンネルの実現をにらみ、それとともにイギリ いる。そして、その土の匂いこそがまた、文化 新製品がほとんどみいだせない今日、だれもがア人であるという言い方をする。しかしながスがしだいにヨーロッパ大陸の半島としての性 の本義でもある。すなわち、日本語の文化は、旅に、食に、地方文化に楽しさと夢、驚き、喜ら、背後の事情はドイツ人とは対照的である。 格を強め、アメリカとの距離がいくぶんなりと 「耕作」を意味するカルチャー ( 英 ) 、キュルチびの実感を求めるようになってきた。 すなわち、イタリア半島が臨む地中海は、古も広がることを見越しての、いわば政治的な表 ュール ( 仏 ) 、クルトウーア ( 独 ) の訳語であ〔ドイツの地方志向〕先ほど、地方志向のメン代以来商業・コミュニケーションの場として都現ということができよう。 る。耕作の仕方は土地ごとに異なり、したがっ タリティをもつ国 ( フランス ) は中央集権体制市・商品経済が発達した。イタリアも中世以来 ヨーロッパ各地における地方の文化的・社会 て作物・食・酒のあり方も土地ごとに違う。そをとり、中央志向のメンタリティをもつ国 ( イ ジェノバ、ベネチア、フィレンツェその他の都的・歴史的な独自性は、一九世紀近代国家の成 のような、土地ごとに異なる人間の営み、たとギリス ) は地方自治の体制をとると記したが、市が繁栄して並び立ち、ことに一四、一五世紀立とともに、多かれ少なかれ弱められ、あるい えば食と酒、祭り、芸能、物産、言語、風俗・ ドイツは地方志向がさらに強く、地方 ( ラン のルネサンス期には、フィレンツェのメディチは国家の下に覆い隠された。たとえば、フラン 習慣などが文化の内容を形づくる。したがってト ) が実質においても意識においても国として家、ミラノのビスコンティ家、べローナのスカス北西端のプルトン語、南のプロバンス語、東 文化はすべて地方文化であり、中央文化なるもの意味をもっている。それは、森があまりにも ラ家、フェッラーラのエステ家その他、各地の のアルザス語など地方独特のことばは、一九世 深く、山があまりにも高くて、長い間生活集団有力都市貴族が金融や仲継貿易、商工業などに のは存在しない。 紀以降フランス政府によって無視ないし否定さ よって巨額の富を得、周辺の農村地帯を支配しれた。赤ん坊のとき以来母親から習い覚えたプ その地方文化の個性が、町並みとか教会堂、を分断してきたためということができよう。 そして食と酒などにおいてそれそれに輝いてい すなわち、ドイツ連邦共和国は一一のラントて、分立・競合的に都市国家を形づくった。 ルトン語を小学校で使うことは、禁止された るのがヨーロッパである。各地に、、 どんな片田 ( 州 ) から成り立っているが、一つ一つのラン 〔国家としてまとまる英仏〕イタリアの地方分プルトン語を使うと、先生から木靴を首にぶら 舎にも、しゃれたこぎれいなレストランがあトがそれそれ独自の成文憲法および議会、政立は、したがって、もともと各地の都市の経済下げられ、あざけられ、罰せられた。それが悲 しかったと涙を流す老婆がフランスにいたの り、味とか室内装飾の点で、大都市のレストラ府、首相と大臣をもち、独自の司法・立法・行力と自立性が強すぎてのことであるが、このよ ンにひけをとらない。そして土曜とか日曜にな政権、教育・文化事業、警察の権限を有してい うな地方分立が今日なおヨーロッパの現実であも、一九六〇年代ころまでであろうか。フラン ると、遠くからでも、成人した子供たちが親一兀る。さらに連邦政府の同意の下に、国際条約をるなかで、フランスとイギリスだけが実質的なス中どこでもきれいな標準語が話されるように に帰り、着飾ってレストランに繰り出す。 締結することもできる。文部省もラントごとな国家のまとまりを有する、例外的な国家であなったのは、戦後ことに一九七〇年代以降のこ 日本と違い地続きのヨーロッパでは、国家のら、国立大学もラントごとの州立大学である。 る。二国だけが中世以来国家統一への道を歩みとである。 範囲もあり方も時とともに変わるから血縁関係一〇〇〇年に及ぶ歴史のうちでドイツが中央集続けて今日に至っており、新聞もイギリスの 〔浮上する「地方」の意義〕ところが戦後、一 だけが頼りであり、フランスでは大学生から一一一権国家であったのは、ナチスが政権をとり、ラ 『タイムズ』、フランスの『ル・モンド』や『フ九五八年にヨーロッパ経済共同体 ( 0 ) が 五歳ころまでは、毎週、土日曜には親元に帰ントの独立を否定した一九三三年から一九四五イガロ』のような全国紙をもっているのは英仏成立し、その後このを含む ( ヨーロ 両国だけで、ほかの国々には地方紙しか存在し り、親兄弟と出会っている。たとえ一〇〇キロ以年までの、一〇年余のことにすぎない ッパ共同体 ) の拡大・統合の動きが進むなか 上親元から離れていても、である。三五歳を過 ドイツには、中世 ( 九六二年のオット ー一世ない。アメリカ合衆国は、もともとイギリスとで、国境ないし国家の枠組みのもつ意味は時と たいかん ぎても可能な限り親元に帰っており、兄弟姉妹戴冠 ) より一九世紀初頭 ( 一八〇六年 ) まで神は緊密な関係にあるが、フランスを説得できな ともに低下しつつある。近代国民国家のフィク が一年に一、二度、正月やお盆の季節に出会 , っ聖ローマ帝国が存在した。しかしながら一三世ければ、ヨーロッパ大陸諸国全体を説得するこ ション性があらわとなるその一方で、中世以来 だけの日本と違って、親兄弟、親類縁者の結び紀なかばころよりラントごとの集権化、帝国のとができない。ヨーロッパ大陸においてフラン実質的なまとまりを保持する文化・風土の単位 がかい 合いはきわめて強い。 事実上の瓦解が始まり、一五世紀にはそれぞれスが中世以来農学的にもっとも豊かであるとと として再浮上してきたのが、「地方」である。 春の復活祭 ( 日曜日 ) のときなどは、一つの主権をもっラントや都市の数が三〇〇を数えるもに、国家的なまとまりを有する唯一の国であ このような「地方」の歴史的・文化的特性を 家にそれこそおじ、おば、いとこ、はとこまで に至っている。神聖ローマ帝国はしたがって、 り、その意味でヨーロッパ大陸の中心をなして重視し、保持しようとする地方主義 ( リノョ 集まって手料理をわいわいと楽しみ、あるいは これらたくさんの地方主権による、いわばモザ いるからである。バリはフランスの首都であるナリズム、レジオナリスム ) の理念は、ヨーロ レストランに打ちそろって出かけて一日を集い イク国家であったといっていし とともに、ヨーロッパの首都でもある。 ッパ統合化の、そして低成長経済下の今日にお うた 楽しみ、翌日の月曜日、また自分の家に帰ってはラントのうち最強だったプロイセンの武力に このフランスないしはヨーロッパ大陸に相対 いてこそ、積極的に支持され、謳い上げられ ゆく。したがって列車は超満員であり、自動車より、ドイツは事実上史上初めて統一され、ドするイギリス人は、自分たちのことを「。フリテる。それとともに、ヨーロッパの自然・文化 は各地で渋滞となる。各地のレストランは、た ィッ帝国が成立する。しかしながら地方の分立ィッシュ」としし 、、、「ユーロピアンズ」 ( ヨーロ歴史などを、フランス、ドイツ、イギリスとい とえ親兄弟が離れ離れに暮らしていても毎週の状態はその後今日に至るまで依然として克服さ ハ人 ) とはいわない。「ユーロピアンズ」は、 った国単位で考えるのではなく、地方単位で、 かたい
ゆきぐに 灰白色から淡桃色に変わり、被害がひどいとき という説が有力である。 に達する雪穴を掘ることがある。夜行性で、 ちなむ。国道四三三号が通じる。町域は中国山 一九五〇年代、イギリスの探検隊が異様な足は畑全面が灰白色を呈するほど全部の茎葉が枯 地の一部で、山林が多く、林業が盛んである。草本類、木の芽・枝・皮などを食べ、カラマ れる。これは日数の経過とともにしだいに回復 ほかにシイタケ・コンニヤク・ワサビ・野菜栽ツ、カバなどの植林木やリンゴなどの果樹に大跡の写真を発表してから、欧米や日本からいく 培などがあり、砂谷では酪農も行われている。害を与えることがある。不規則であるが数年おっかの「雪男探検隊」がネパールヒマラヤなどするが、生育が遅れ、収量が少なくなる。病原 かぐら に出かけている。しかし、これといった成果は は糸状菌 ( カビ ) で、正確には病原菌の種類に 水内神楽は県指定無形文化財。湯来温泉のほか きに生息数の増減がみられる。妊娠期間約五〇 し。よ・フりゅう 湯の山温泉がある。人口七六三〇。↓湯の山温日ののち一 ~ 三子を産む。新生子は毛が生えそあげていない 〈鹿野勝彦〉よって、雪腐褐色小粒菌核病 ( 病原菌は 0 ・ 泉 ろい開眼している。天敵はワシ・タカ類、キッ雪女ゆきおんな雪の夜に現れるという女ミ。きこミを、雪腐黒色小粒菌核病 ( 0 ・ じようろう たいりゅう うちおだに よう力い 〔湯来温泉〕打尾谷川沿いにある国民保養温ネなどである。 〈阿部永〉性姿の妖怪。雪女郎、雪おんば、雪降り婆な斗守斗を、雪腐大粒菌核病 ( S き・ ・一うしよく だいどう 泉。発見は大同年間穴 0 六 ~ 、 / 一 0 ) ごろともいわ雪えくほゆきえくば融け始める雪面にみどともいう。種々の要素が入り組んでおり、統 3 、き ) 、紅色雪腐病 ( Fus ミきミき誉 れ、江戸時代には湯治場として知られた。ラジられる模様。平地に大量の新雪が積もったあと一的な姿をみつけだすことは困難であるが、① f. も . ミミぎミを、褐色雪腐病 ( ) きき ウムを多量に含むことで有名。広島市からバス〇度 0 前後の気温が続き、強い日射を受ける雪の印象から、肌が白いとか白衣を着ているな ぎきミ ) などに区別されており、病徴や分 ・、しきえ うたまろ の便がある。 〈北川建次〉と、雪面には雪が融けたための小さなくばみが どの伝承が多い。②喜多川歌麿の描く錦絵の雪布などが異なるが、一般には、これらを総称し 回『湯来町誌資料編—』 ( 一九会・湯来町 ) 無数にできることがある。早春の雪模様とし女は美女の姿であるが、それは文芸的な発展のて雪腐病とよんでいる。雪腐褐色小粒菌核病、 かわすみはつか 結果であって、むしろ老女や産死者の姿を考え紅色雪腐病の分布が広く、雪腐黒色小粒菌核 囮二万五千分の一地形図「坪野」「川角」「廿日て、かわいらしい呼び名がつけられたもの。 いち とごうち 雪 市」「戸河内」「湯来」「津田」 ^ 小林禎作〉ている場合が多い。③雪の降り積む夜に出ると病、雪腐大粒菌核病は北海道および東北地方の いうほか、正月元日に降りてきて最初の卯の日 一部に発生が限られている。ムギの品種や牧草 雪あられゆきあられ普通、単に「あられ」雪男ゆきおとこヒマラヤ高地のチベット ともいわれる。対流性の雲から降る白色不透明系住民の間で、存在すると信じられている人な に帰るという伝承がある。これは年神の降臨伝の草種によって発病に差があるので、強い品種 な氷の粒。もろくて、固い地面に落ちると、弾 いしは人に近い動物。民族、地方によって、伝承と一致する。④雪女から赤子を抱いてくれとを栽培するほか、根雪前に殺菌剤 ( メプロニル んで壊れる。よくみると、ごく小さい氷の粒が承の内容や名称には多少の異同があるが、一般頼まれ、引き受けた人は大力を授かるとか、逆剤、トリアジメホン剤、チオフアネートメチル うぶめ 〈梶原敏宏〉 くつつきあっているのがわかる。地上気温が〇 に名称はイエティ Yeti として知られている。 に殺されるなどの話があり、その点は産女の伝剤など ) を散布して防ぐ。 ふぶき わら 度 O 前後のとき、普通の雪が降る前に降ること ネパール北東部のシェルバ族の間では、大形承と一致する。⑤吹雪の夜に宿を求める娘があ雪沓ゆきぐっ雪道を歩くときに用いる藁 ↓あられ 〈篠原武次〉のチュティと小形のミティとがあり、身長は前 り、泊めてやって翌朝みると、白衣の中に黄金製の履き物。その特色は、暖かいうえに歩きや も少なくない。 おおとし このことばは『日 ~ 匍辞 ユキウサギ〔雪兎〕 arctic hare/8Le ・者が一一以上、後者は一・五程度で、いずれがあったという話は、「大歳の客」の昔話ともすく、雪が浸透しない 一はにゆ - っ pus 、ぎミ哺乳綱ウサギ目ウサギ科の動も長い体毛をもち、きわめて強力で、前者はヤ共通する。⑥女性の姿ではないが、雪入道や雪書』 ( 一六 0 三刊 ) にも記されているくらいで古い。 かたあし ク、後者は人を襲うという。近くで目撃した場ん坊は一本足で、霜月二十三夜に訪れくる片足その利用地域は積雪地帯つまり東北地方から日 物。ューラシア大陸北部に分布し、日本では北 がみ 海道に一亜種工ゾユキウサギ ( 一名工ゾノウサ合にも、病気や不幸の原因になるといわれる。神や山の神の姿に類似している。以上を総合す本海沿岸地域である。稲藁を利用してつくられ 、尾長鳴き声はロ笛によく似ているが、一方で、人のると、雪女は、雪害の恐ろしさや、雪中に閉じるので、雪沓といわずにワラグッという地方も ギ ) が生息する。頭胴長五〇 ~ 五八 四・ ~ 七・五。夏毛は褐色であるが、冬に 呼びかけに対してはおうむ返しに同じことばを込められた冬の閉塞状態を背景として、一方である。この履き物は、かっては日本全体にわた 」りよう って分布していたと考えられ、その形態によっ は耳の先の黒色部を除き白化する。本州以南応答するのが特徴であるともいう。一般に人のは産死者の霊など御霊系の妖怪となり、また一 それい のノウサギよりも大形で、尾が長い。歯式は行動を模倣するくせがあるので、かってイエテ方では年神など祖霊系の神々とも結び付いたのてジンペイ、クツ、アサグッ、フカグッの四つ わらじ ^ 井之ロ章次〉 に分類される。ジンペイといわれるものは草鞋 で合計二八本。低地から高山までの イの被害に悩まされた人々が、イエティの出没であろう。 つまがけ じよせっしゃ ゆきかきしゃ 0 除雪車 に爪掛を作り付けたもの。クツは、シ・ヘ、ワラ 草原から森林にすみ、地上性で地中の穴は掘らする場所で酒宴を開き、酔って刀を振り回し、 雪かき車 つば ない。冬も通常は雪上で眠るが、ときに深さ一一争う身ぶりをしたのち、酒壺と数本の刀を置き 雪合戦ゆきがっせん雪の降り積もったあグッともいわれ爪掛のある草履で現在のスリッ パ的なもの。アサグッ ( 浅履 ) は、スンべ、ア 去りにしておいたところ、イエティがそのまねと、雪を投げ合う遊び。敵味方に分かれて雪の をして実際に殺し合いをしたため、めつきり数玉をぶつつけ合うだけであるが、玉つくりをすクトシベといわれ藁製の短靴、つまり昔の沓の が減ってしまったという伝承も、シェルバの間 る者と投げて戦う者など受け持ちを分けたり、形態のもの。フカグッ ( 深履 ) は、現在の長靴 に似ておりカンジキ、フンゴミともいわれ、雪 では伝えられている。 雪の玉を固めやすくするために一晩凍らせてお いて使うなどのくふうもされている。鎌倉時代中の歩行に履くものである。いずれも藁の編み イエティはまた、地形や障害物の有無にかか ^ 遠藤武〉 わらず、一直線に歩行するといわれる。したが末ごろにすでにみられる遊びで、江戸時代以降方に特色がある。 3 って、雪上に一直線につけられた足跡は、しば には、「雪打ち」「雪ぶち」「雪つぶて」などと回宮本勢助著『民間服飾誌履物篇』 ( 一九三三・雄 山閣 ) しばイエティのものと考えられる。足跡のほ いって、俳諧などに盛んに詠まれ、降雪後の代 川端康成の中編小説で中期 か、イエティの鳴き声を聞いたり、遠くから、表的景物となった。 〈高野修〉雪国ゆきぐに ゆきぐされびよう の代表作。一九三五 ~ 三七年 ( 昭和一〇 ~ 一 北海道、東北、北 または薄暗がりのなかでイエティを見たことが雪腐病 一 l) 『文芸春秋』『改造』など諸誌に分載。三七 あると主張する人々は、シェルバの間では少な陸地方などの積雪地帯に発生するムギ類やイネ シェルバの村のチベット仏教寺院のい 科牧草の病気。積雪下で病原菌が繁殖し、葉や年いったん本になり、文芸懇話会賞を受賞する が、四〇年よりまた書き継ぎ、四七年 ( 昭和一一 くつかは、イエティの頭皮と称されるものを所茎が冒され、熱湯をかけたように水浸状になっ 一 l) 完結。四八年創元社より刊行。無為徒食の 4 有しているが、実際にはカモシカの一種の毛皮て腐る。被害を受けた葉や茎は雪融けと同時に 2 ・ 0 ・ 3 ・ 3 1 ・ 0 ・ 2 ・ 3 ユキウサギ冬毛では , 耳先の黒色 部のほかは白化する やすなり
よろつば ョーロッパ / 国勢変遷図 814 年 出典 : 、、 S. 〃 EP. 〃 E. D ' S 〃 / STO / C. ん ATLAS" はか スコッランド王国 ノルウェー国 ロ 1490 年 王 ノ ) レマン 500km 500km 0 モスクワ 大公国 工ストニア 9 ヴ スエノ アイルランド国「 大 大 ウェズ グ王ト ーしイーてリトアニア大公ノ 国 シュレージェ、 西 サクソニア ベルン・ プランプレ 神ローマ帝 ウイラン 西 ネーデルラント スラ諸族 、ポヘミア 、一、モラヒ・ア / ババリア′ ノヾリ バリアウストフ フランク アクイタニア プル 洋 ス 洋 同盟 ル フランス ナバラ王国 マドリード / ジェノ′く 王 / カスティーリヤアゴン王国。ルシカ ゝ王国 0 。地 サルデーニヤ リー王国モルダビア ーワラキア オスマン帝国 コンスタンティノープ く一ル王国 プレガリア ・ス . レートセルピア \ ~ ′ーーー スーブ諸族、、ゞ琢タンテープレ サ アストウリ 4 チ 国 王 コルシカ マ 。ロ中 フィレンツェ コルトパ回教国 0 サルデーニヤ 0 ポ っ 0 2 0 ビ アルジェリア フ アッパース朝カリフ王国 シチリア海 シチリア海 フィン一ンド。 ロ神聖ローマ童国 1914 年 1648 年 スウーデン国 、エー王国 ノエー王国一 ウェーデ、 500km 500km スコツンド ネーデルラント P リ、ニアロシア帝国 アーンド デンマーク国 オランダ王国 大 大 イギリス ロント ハ、 ) ・十ロイセン公 ル丿ン・ ワルシャワ ポーー / ド王国 神ローマ帝国 ウネーン、、ガリ国 トランシルバニア ワラキア オスマン帝国 コンスタンティノープ イン一ンド王国 スペイン領 ネーデルラント ロシア帝国 ベル丿ン・ ドイツ帝国 ボランド べギー王国 ウィーン / スイス オーストリア・′、 モテネ 西 西 バリ ノヾリ 洋 洋 シ フランス和国 コ、 フランス王 サ モルダビア リー帝国 ) レーマニア セルビア ) / プルガリア国 一 - イスタンプー ) リシ王鹵オスマン 帝国 ポ ル アンドラ ミラ / ジェノ′く コルシカ 1 ベネチア ガ マドリード 国 / スペイン王国 領 トスカナナポ マドリード スペイン王国 マ ロ 地 0 0 イ外 00 2 フェズ モロッコ ア ) レくニア アルジェリア アルジェリア シチリア海 モロッコ チュニジア チュニジア を意識しつつ中央 ( ロンドン ) を見つめ、地方 が中央とともに生きようとするからであり、地 方に広範な自治を認めても、それが国益に反 し、国がばらばらになるおそれが少ないという ことである。すなわち中央志向のメンタリティ があるからこそ、地方自治体制が可能となる。 〔地方志向の大陸諸国〕これに対してヨーロッ ハ大陸諸国では、地続きであるからこそ人々は 各地方ごとに安心のできる生活集団の単位をで きるだけ小さく限定しようとし、地方志向のメ ンタリティが中世以来今日まで支配的である。 したがってフランスのイル・ド・フランス、プ ルゴーニュ、シャンパーニュ、プロバンス、ド ィッのザクセン、バイエルン、シュワーベンと いった「地方」が一二世紀ごろ形成されてか ら、これらが一九世紀に近代国民国家に統合さ れるまで、数百年の時間を要している。近代国 民国家の前段階として一六、一七世紀に形づく られた、絶対主義国家のうちに諸地方が組み込 まれるのにも、五〇〇年ほどを要している。 大陸諸国はこのような地方志向のメンタリテ イを強固に保持し続けるからこそ、国家のまと まりとしては官僚制の整備による中央集権体制 をとらざるをえない。英米系の国々における役 人よりも、大陸諸国の官僚のほうが一般に優秀 なゆえんがここにある。フランス革命の結果、 各地の市町村役場や警察に三色旗が翻り、今日 に至っているのも、パリ 中央政府が各地を抑え 込んだしるしとしてであった。 そして今日、国家それ自体が一九九二年の O 統合とともに、ヨーロッパのなかに有機的に 組み込まれ、国家それ自体の独立性・主権性を 大きく後退せざるをえない状況下で、ヨーロッ バの歴史的・文化的な単位としての地方は、ふ たたび大きく浮上し、クローズアップされつつ ある。すなわち、現実に観光・料理・国土開発 などの単位として生き続ける地方は、ヨーロッ ハ人それそれにとって実感のある「くに」であ り、生きる自信と誇りの根拠である。 にお 〔土の匂いのする文化〕地方と中央との間に、 これがヨーロツ。ハの特色 文化的な落差はな、。 である。どの地方もそれそれに美しく、おいし く、そして歴史がある。フランスに、フランス 料理は存在しない。あるのは、プルゴーニュ地 方のエスカルゴ料理とか、プロバンス地方のニ ース風サラダといった、地方料理だけである。 これら地方料理の総称が、フランス料理である 6
よろつは ①都市の成立農工業の発達によって市場が開かれ , 人々が集まって都市が誕生する。図は 14 世紀イタリ アの都市の光景。城壁に囲まれた内部では、靴屋、 香料屋 , 洋服屋が店を並べ , 物売りの農民や着飾っ た人々が行き交う。 A. ロレンツェッティ画「シエナ 市街図 ( 善政 ) 」部分シエナ市庁舎 ②農業の発達 11 世紀になると農具が改良され , 圃農法が普及して農業生産力が高まる。領主の城館《も 内で収穫したコムギの脱穀作業を行う農民たちと , 指示する監督官。『田舎の収益の書』より / ヾリア ルスナル図書館 ョーロッパ / 中世における変化 ヨーロッパをいくつかの地域に区分する場合 , 西ヨーロッパは近代文明の 発祥の地であり , そこに生まれた科学 , 技術 , 精神 , 文化は近代を推進し , 資本主義社会をつくるうえで主導的な役割を果たした。そして , 近世から 近代へと続く社会の土台が築かれたのが , それに先だつ中世という時代で あった。中世社会に現れたいくつかの特徴的な事象を取り上げてみるとき , そこに新しい時代の基礎が用意されていることを知ることができよう 1 1 ~ 1 2 世紀 , ローマ教 会は教皇を頂点とする 支配を確立して各地に 教会を建設し , キリス ト教は庶民の精神生活 に深く浸透する「ク ララ会の修道女たち』 フィレンツエウフィ ツィ美術館 ⑤大学の出現 13 世紀 , ヨーロッ / ヾの学芸のキ旦 い手として大学が誕生 するが , その一因とし て国家統治のための官 吏の必要性の高まりが あげられる。「ソルポン ヌ大学における神学の 講義』フランストロ ア図書館 、一「 1 」、、 . あるいは似通 0 た地方の連合体としての西ヨー ロッパ ( 北フランス・西ドイツ ) 、南ヨーロッ パ ( イタリア・スペイン・ポルトガル・南フラ ヨーロッパ ( スカンジナビア諸国 ) 、 ンス ) 、北 そして東ヨーロッパ ( 東欧諸国 ) といった枠組 みで取り上げる視点が、より確実・有効なもの として優勢になりつつある。 いわゆる重厚長大型の技術が低迷し、技術文 明の成熟が実感される今日、都市にあって土の 匂いを求め、地方文化に生きる証と根拠、そし て幸せと喜びをみいだそうとするのは、現代人 にとっての切なる願いである。その意味で地方 主義は、これからいよいよ現実的な理念として 追求されることになろう。世界のだれもが土地 ごとの文化に幸せと喜びをみいだそうとしてお り、その地方的なものこそ国際的であり、世界 が求める価値を備えている。 〔現代日本と地方主義〕先ほど述べた地方志向 型のメンタリティがフランスのような中央集権 体制を生み、中央志向のメンタリティがイギリ ス型の地方自治を形づくるとすれば、すでに一 七世紀の江戸幕藩体制成立以来江戸・東京に対 をのた 、れ担ばしたア -L 1 ー もれズ画 さを結新し上 する中央志向のメンタリティをもつ日本は、イ スのなか一コ 「三積割てるき ギリス型の地方自治体制がもっとも適合的であ 。へ分的描エス 蓄役しじ抜景 3 常がシレ がなと通型風年 るといえるのかもしれない。しかし明治に入っ 病の日絵 , フ 富要介もはの田 て重媒に図所死ロすの県た てからの日本は、欧米先進列強に対する大きな ルれ 黒人わ してを代。造 , は問多一か 達し幣現る製 , 恐怖・緊張感から、官僚制に基づく中央集権体 発と貨にく幣よ年ハをるア描 制によって、わすか二〇年の間に近代国民国家 」ンか段もこて貨」ッ齢す口に ロ年と・面年 " 業手係それる尽 の体制を曲がりなりにも整えることができた。 商換関 , まい人 交のり生て職ジョ分主一の こうして近代日本は、中央志向のメンタリティ 割がとながし洋一 , 身をオ院 役幣人に係印西メしは死道 に中央集権体制が加わることにより、異常なま イ行死 , ス修 . 一一の貨とう関刻 一一幣 , 人よ問に画の流 でに能率的な挙国一致体制が形づくられ、今日 大うなラュ 貨と。る人幣ン に至っている。地方文化の重視・育成と地方自 ③るうれい貨マ 6 が失とフデ 治拡大の観点からすれば、現代日本こそもっと も地方主義の理念が強く求められるべき国であ るといえよ , っ エピローグー明日に生きるヨー 〔ヨーロッパからユーラシアへ〕キリスト教か ら始まって、ヨーロッパにおける地方の問題に 論点が及んだが、一四、一五世紀以降農業技術 が成熟し、開墾運動もストップして、飢えとか 疫病 ( ベスト ) がヨーロッパを襲ったとき、各 地方がやむなく空間感覚を発揮して、国王ない し国家を認め、そのもとで地方を生かそうとし たのが、一七、一八世紀に至る近代化の過程で 6 あかし
らぐび 注 : タックルされたプレーヤーは直ちに、ポール ①後方の味方がプレーしているとき , 前方にいる味方のプレーヤーはオフサ 一般的なオフサイド ) ノックオン スクラムでのオフサイドライン ラックとモールのオフサイド オフサイド ライン ( 赤 ) ラインアウト 15m ライン オフサイド ) ライン ( 白 ) 白チームの オフサイドライン 0 白チームのスクラム ハーフはポールの線 まで出られる オフサイド ライン ( 赤 ) オフサイド ライン ( 白 ) ポールの線 1 m あき 赤チームの オフサイドライン 5m ライン スクラム / 、一フ 50cm ラインオプタッチ 不正なプレー スクラムやラック内首へのタックル の選手が相手を妨害 キック後の妨害ポールを持たないプ レーヤーにタックル なぐる ける タッチライン できる。 反則を犯した場合、ポールが相手側に与えら 7 れ、軽い反則の場合 ( ノックオン、スローフォ ワードなど ) はスクラムから、重い反則 ( スク ラム、ラインアウト、タックルなどの際の不正 な行為 ) の場合はペナルティキックによりゲー ムが再開される。ポールが競技場外 ( タッチ ) に出た場合は、ラインアウトによりゲームが再 開される。試合の興味は、反則によるプレーの 中断がなく、連続した鮮やかな。ハスワークによ るオープン攻撃と勇気あるタックルに集約され る。 ーフタイムで五分以内の休憩ののち、ゲー ムは再開され、あらかじめ決められた前後半同 じ競技時間 ( 二〇分、二五分、三〇分、三五 分、四〇分など ) の間、ノーサイドまでゲーム を続け、同点でもゲームは延長しない。ただ し、インジュリータイム ( 負傷者が出て競技が 中断された時間 ) のみ競技時間に加えられる。 〔得点〕相手側インゴールにポールをつけると 「トライ」になり四点、トライ後プレースキッ クまたはドロップキックにより、ポールがゴー ルポストの間でクロスパーを越えると「ゴー ル」になり二点加算されて六点、ペナルティキ ックによるゴールは三点、上記以外のドロップ キックによるゴールは三点となっている。 〔交代〕試合は双方一五人以内のプレーヤーに よって行われ、次の場合のみプレーヤーの交代 が認められる。①試合を管理する協会が交代を 認めた選考試合、②一方が国の代表チームで行 う試合で、プレーヤーの負傷を医師が認めた場 合、③その他の試合では次の条件の下で交代が 認められる。①負傷に対する医師、医務心得者 またはレフェリーの許可のあるとき、②交代人 一数は二人以内、ただし高校生チームまたは一九 な相レ 歳末満のプレーヤーでは六人以内まで交代でき なたス る。なお、退場したプレーヤーはその試合に二 れか ムけ度と出場できない。 なラる 〔反則〕反則には軽いものと重いものとがあ れクな 入スと り、前者では普通スクラムが課せられ相手側に ポールの投入権を与えられ、後者ではおもにペ 投合ウ に場アナルティキックが相手側に与えられる。 ぐたン スクラムが課せられるおもな場合は、①ノッ すれイ っ入ラ クオンまたはスローフォワードがあったとき、 まげの はで ②ポールまたはポールの保持者が偶然オフサイ ルてル ド・プレーヤーに触れたとき、③キックオフ、 ポ曲ポ ドロップアウトで、キッカー側のプレーヤーに
タルド J. G. Tardo はこ のはんらん一九一一カデミーの会員に選ばれた。二八年イギリスに のモープラーの反乱 れを社会的行動の発生基盤 、ら一年八月から南インド、マラバル地方 ( 現ケラ渡り、ニュートンカ学を学んで、これをフラン と考えていた。優越者の行 スに取り入れ、数学・カ学の発展に寄与した。 ラ州内 ) のムスリム ( イスラム教徒 ) 農民 ( マ ふ 動を模倣することで、劣等 三五年、地球の形状を確かめるための観測隊 ラヤラム語でマーッピラ mäppila 、通称モー も 者はそれとの強い情緒的結 プラー moplah) が起こした反封建的、反帝国が、南アメリカのベルーと北極圏ラップランド 合を求めようとし、流行の に派遣されるにあたり、自ら隊長となってラッ 主義闘争。彼らの多くは少数ヒンドウー地主の 現象を発生させる。地域や もとで過酷な状態を余儀なくされていたが、そプランドに行き、地球が扁平であることを明ら 職業にみられる慣習は、そ かにした。これはすでにニュートンの理論から の抵抗の歴史も古く、一九世紀を通じて、マド れに従う模倣によって維持 ラス州政府や地主への闘争を展開していた。一予想されていたことで、ニュートン理論のいっ される。子が親の、年少者 そうの普及をもたらした。四五年、ドイツ科学 九二一年の反乱は、第一次世界大戦後、キラー が年長者の行動を模して、 ファト運動と結び付けたガンディー指導下の反アカデミーの招きに応じ、総裁に就任し、一四 文化が伝承され、社会化が 年間その任を務めて故郷に帰った。業績の最た 英非暴力的抵抗闘争の掛け声にこたえて、モー 促進される。芸術の面でも プラー農民が自らの反地主的要求を掲げて立ちるものは四四年に「最小作用の原理」を導出し 域 優れた先人の技法・表現を 上がったものである。彼らは地税不払いを叫たことで、力学の基礎原理を発見したことにな 区 模倣する行動が創造と並ん 〈島村福太郎〉 び、地主の屋敷、政府倉庫、役所を襲撃し、一る。 発 で重視されることもある。 時は同地の行政を完全に麻痺させた。しかし下モヘンジョ・ダーロ Moe 三 o-da 「 0 イ 模倣を通じて、モデルと観 ンダス文明の代表的都市遺跡の一つ。。ハキスタ 層ヒンドウー農民と提携することができず、ま 察者との同一視 identifica ・ ン南部シンド地方ラールカナー地区にあり、カ た国民会議派中央の支援も得られず孤立し、一一 tion が説かれる。 二年二月に軍隊によって鎮圧された。ケララ現ラチの北北東約二九〇キ。、インダス川右岸に位幅八近い大通りによって幾つかのプロックに 代史のうえで初めての反帝・反封建農民闘争と置する。一九一三年・・バナルジーが初め分けられており、さらに中・小路によって碁盤〔模倣と習得性〕しかし、近来では、生得的な ・・マーシャル、 目状に区画されている。大きな家は中庭に井戸面ではなく、模倣の習得面が注目され、模倣学 して、その歴史的意義は大きい。独立後、一九て発掘して以来、 —・・マッケイ、第二次世界大戦後はパキスを備え、また各戸からの排水は、やがて大通り習の実験的研究がなされている。たとえば、 一年にようやく国民会議派中央政府は、この あんきょ の本下水道へと暗渠によって導かれている。概 Z ・・ミラーらは高架式迷路を用いてネズ タン考古局や・・ディルズらが発掘を行っ 反乱がインドの民族解放闘争の一環であること 〈内藤雅雄〉た。都市の範囲は周四キ。近くにも及び、文化層して豊かで安定した都市生活のようすが見て取ミに白・黒の弁別学習をさせたのち、学習を完 を公式に承認した。 モヘア mohair 中央アジアにいるアンゴの埋積は、所によっては二二以上も確認されれるが、そのみごとな都市計画性は、ふんだん了したネズミをモデルとして、別のネズミにこ ラヤギの毛のこと。現在では、トルコや南アフている。下層は地下水位下にあって発掘が困難な焼成れんがの使用とともに、他文明に類をみれを観察させ、それに従って進路を選択させる 〈小西正捷〉訓練に成功した。この実験では模倣行動によっ リカ共和国が主産地である。モヘアは羊毛繊維であるが、シンド地方の初期の文化展開を知るない。↓インダス文明 えさ より太くて長く、純白で絹様の美しい光沢があためにも重要な遺跡である。 モーボアッサン・ダム Mauvoisin Dam て目標 ( 餌 ) に到達するわけであるが、モデル えさ じようさい けんしゆく に追従し、模倣行動をしても餌に到達できない スイス南西部、ローヌ川支流のポンネー川上流 都市全体は西側の小高い城塞部と、東側の る。また羊毛にみられる捲縮やスケールはほ 建設されたアーチダム。高さ二三七、総貯と ( 消去 ) 、モデルの価値はなくなり、模倣行 とんどないため、単独で紡績することは困難低くて広大な市街地に分けられる。城塞部は高に さ一〇ほどの基壇をもち、外側には城壁を巡水量一億八〇〇〇万立方。一九五七年完成当動は消失する。模倣行動を維持するのは積極的 で、一般に羊毛と混用される。一方、手ざわり は非常に滑らかで、強さも大で折り曲げにも反らしている。その内側には大建造物群が密集し時は世界最高のハイダムであった。延長約五〇強化であって、そこに習得される面がある。 もく 模倣行動をモデルの行動の結果 ( 強化・無強 キロの水路による、流域外からの導水をあわせて 発するため、用途として、高級な夏服地のほているが、なかでも城塞中央部に位置する大沐 てんもう 化 ) に関連させる学習は、観察学習 observa ・ か、高級な添毛織物として椅子張地などに使わ浴場が目を引く。水槽部のみで一二 x 七の貯水し、約五キ。のトンネルでフィオネーの地下 tional learning 、モ一丁リング modeling など 〈並木覚〉規模のもので、南北から降りられるように階段発電所に送水され、最大一二万七五〇〇キロワッ れている。 おしま かみ ともいわれる。観察学習は実際の行動だけでな トの発電を行う。さらにその放水を利用して、 もへじ北海道南西部、渡島支庁上がついている。底は天然瀝青で固めてあり、人 茂辺地 く、スクリーン上の実演、戯画化されたもので 礙町の一地区。茂辺地川河口にあり、津軽海峡の背丈より高い排水溝もある。その西側に隣接下流で最大一三万五〇〇〇キ。ワットの発電を行 〈石崎正和〉あっても効果をもっている。観察学習を通じ して大規模な穀物倉があるが、高いれんが積みう。 に臨む。地名はアイヌ語のモ・ペッ ( 静かな川 てんか もほう imitation 人および動物が他て、新しい行動の様式の獲得、すでにもってい の意 ) からの転訛。一四五四年 ( 享徳三 ) に安の基壇には通風溝が幾条も設けられている。そ模倣 もべったて まさすえよ る行動様式の促進、すでにもっている好ましく 者の行動 ( モデル ) を観察することによって、 東政季が拠ったといわれる茂別館跡 ( 国の史の上に木造建築が建っていたのであろうが、い 〈瀬川秀良〉 まは失われている。そのほか、僧院の跡と思わその行動の全体、あるいは部分と類似した行動ない行動様式の除去がなされる。〈小川隆〉 跡 ) がある。↓上磯 ( 町 ) れる遺構や、柱を連ねた集会堂の跡もある。概を繰り返すことをさす。模倣の範囲・性質はさ・。ヒアジェ著、大伴茂訳「模倣の心理学』 囮二万五千分の一地形図「茂辺地」 ( 一九六〈・黎明書房 ) して建物の造りはよく、この城塞部が、モヘンまざまであり、モデルの特徴・価値、観察者の モーベルチュイ Pierre Louis Moreau もほう imitation 文学・芸術におけ ジョ・ダーロのみならず、インダス文明全体に ー一九 ) フランスの 傾向・経験、モデルの行動の結果 ( 強化 ) に依模倣 de Maupertuis ( 一六九〈 る模倣は一般に「自然模倣」と「古代模倣」に とって重要な政治、経済的 ( またおそらくは宗存する。 数学者、天文学者。サン・マロに生まれ、一六 〔模倣と生得性〕模倣は古くから生得的な本能大別される。自然模倣の自然とは日本人のいう 歳でバリに出て、主として数学に熱中し、一七教的 ) 中枢をなしていたことに疑いはない。 二三年「楽器の形状について」の論文で科学ア 東側に広がる市街地は、ほば東西南北に走るの一種として扱われ、たとえば社会心理学者の花鳥風月ではなく実物の意で、外界の実物によ まひ れきせい へんべい モヘンジョ・ダーロ平面図 博物館 ロこ 0 00 「 0 堂 0 400m 200
はとがり、基部は丸いか広いくさび形で小さな きよし せんたい ネネ こ腺体があり、縁に内向きの鋸歯がある。成葉の ママ ャヤ 裏面はほば毛がなく、粉白色を帯びる。葉柄は へんべい オ ツォ 長さ二 ~ 五垰一で上部は左右扁平、風で揺れやす や 、葉が触れ合って音を出すので山鳴の名があ 一れ ョさ ー、セン る。雌雄異株。春、葉に先だち、長さ五 ~ ネ種重 マ縁珍 の花穂を垂れ下げる。雄しべは五 ~ 八本。花柱 ャ近て のるし は短く、柱頭は二個あり、それそれ二裂する。 種すと 有布物 包葉は浅裂して絹毛があり、蜜腺は杯状。受粉 固分食 は風媒性である。山野の陽地に生え、本州、四 本にで 日ハマ 国、および朝鮮半島に分布する。材の中心部が ロロ 白色なのでシロドロの名がある。また、材で箱 マヨ古 をつくるためハコャナギともいう。近縁種チョ ャ ウセンヤマナラシ P. 、、 e きミ L. var. 斗や き (Dode) schneid. は、冬芽と葉は早くからの義父、伯母、母親の過去における堕落と贖敵はヘビ、テン、フクロウなどである。巣は木コ類の俗称で、イエネコとピューマ以外のネコ ・バック手法で描く。現の洞のほか、岩壁の岩の割れ目、小鳥の古巣、亜科のものをさす。南極、オーストラリアやニ 無毛、葉は鋸歯が開出して腺体はなく、葉身と罪の物語をフラッシュ ュージーランド、マダガスカル島、西インド諸 葉柄はほば同長である。北海道、およびアジア実の背景となるのはハーレムの黒人教会だけだ巣箱などにもっくられる。繁殖期は春から秋ま でで、その間、雌は妊娠期間三三日前後で、一島などを除く地域の寒帯から熱帯まで広く分布 北東部に分布し、各地にヤマナラシとの中間形が、各人の過去が随所に投入されているため、 し、スナネコのような砂漠生のものからサー がみいだされる。ャナギの仲間は一般に挿木で時間はときに南北戦争当時までさかのばり、舞産二 ~ 四子を産む。冬眠は、寒冷地では一〇月 ルのような草原生のもの、マー。フルドキャット から翌年五月ごろまで、温暖な地方では一一月 容易に殖やせるが、両種とも挿木繁殖は困難で台も南部から北部へと拡大される。見方によっ ある。 〈菅谷貞男〉ては、黒人一家の壮大な年代記ともいえる構成から翌年二月ごろまで、地中あるいは木の洞でのような熱帯林の樹上性のもの、マレーヤマネ をとる。作者は過去の黒人の生活のなかに、ア行われる。ただし、秋に生まれた子は体に十分コのような熱帯林の地上性のもの、オオヤマネ ヤマニガナ〔山苦菜〕トミききき & き・ のろ な脂肪を蓄積するまで冬眠に入れず、冬にも活コのように寒帯林にすむものまであり、さまざ ミ Maxim. var. ミミ (HemsI. ) Kitam. メリカ黒人全体の「私生児」としての呪われた まな環境に適応している。 キク科の一年草または越年草。高さ約一に達宿命をみている。アメリカ黒人の主体の形成に動することがある。近縁の種にヨーロッパのヨ ーロッパヤマネ、オオヤマネ、メガネヤマネ、 体の大きさは変化に富み、体長三五 ~ 四〇 触れる物語であり、「抗議小説」の傾向を脱し する。ニガナの名があるがニガナ属ではなく、 〈関口功〉 北アフリカのアフリカヤマネなどがある。とく 、尾長一五 ~ 一七のクロアシネコから、体 た指標的作品。 アキノノゲシ属の植物である。全体がアキノノ にオオヤマネは、古代ローマで冬眠前の肥大し長八五 ~ 一一〇、尾長一二 ~ 一七のオオヤ ゲシによく似るが、葉は三角状卵形、黄色の頭回斎藤数衛訳『山に登りて告げよ』 (r 黒人文学 はんもん たものを美味な食物として珍重したことで知らマネコまである。外形、体色、斑紋なども変化 全集 3 』所収・一九六八・早川書房 ) 花は往一とより小さく、色が濃い。また、外 そうか 〈今泉吉晴〉 に富むが、ヨーロッパ系、東アジア系、南アメ 総包片は幅が狭く、一一ミリ以下であり、痩果に脈ヤマネ〔山鼠〕 Japanese dormouse/8 れる。 ほにゆうげつし リカ系の三グループに大別できる。①ヨーロッ 〔民俗〕秋田県の「またぎ」が伝えるコダマネ が三本あるので区別される。花期は八 ~ 九月。 G = 、ミ ~ 、 s ををこミ s 哺乳綱齧歯目ネズミ科の パ系ヤマネコ耳が三角形で先端がとがり、そ ズミは、ヤマネである。昔、六人組と七人組の 山地の陰地に生え、日本および中国、インドシ動物。日本固有の樹上生の小獣で、ネズミ科に からふと の背面に普通は白斑がなく、体の斑紋が多くは 二組の「またぎ」が山小屋に泊まっていると、 ナ、樺太 ( サハリン ) に分布する。〈森田竜義〉属するが、尾に長い毛が密生するため、ときに リスと混同される。しかし体ははるかに小さ女が訪れた。女人禁制なので、六人組は断った横の方向に走り、リビアヤマネコ、スナネコ、 山に登りて告げよやまにのばりてつげよ Go Tell lt on the Mountain ジェームく、 が、七人組は泊めた。女は山の神で、その後七カラカル、オオヤマネコ、ポプキャットなどが 、尾長五前後、体重一一五 ~ 体長七 ~ 四〇。四肢と首が短く、ずんぐりしている。人組は福運に恵まれて栄えたが、六人組はコダ含まれる。②東アジア系ヤマネコ耳が丸くそ ズ・ポールドウインの小説。一九五三年刊。一 の背面に普通は白斑があり、体の斑紋が多くは 九三五年早春、一四歳の黒人少年ジョンが神へ体色は、黒色の目の周囲を除いて全体に黄褐マネズミにされてしまったという。コダマネズ ミは、音をたてて破裂することがあるが、その縦の方向に走り、べンガルヤマネコ、スナドリ の回心を経験した一日の事件を枠組みにし、そ色。背中の中央に、頭部から尾の付け根にかけ て一本の黒条がある。本州、四ときは山の神の機嫌が悪いので、音を聞けば猟ネコ、イリオモテヤマネコなどがある。③南ア メリカ系ヤマネコアジア系に似て尾の黒輪が 国、九州の山地の森林に広く分布をやめる。無理に猟に出ても不猟でろくなこと はない。コダマネズミはキノコタマともよばれ顕著で、オセロットやマーゲーなどが属する。 する。夜行性。地上では比較的鈍 食物はネズミ、リス、ウサギ、シカの子など 重な動物のようにみえるが、本来る。コタマとは「木の霊」の意であろう。破裂 の哺乳類や鳥類がおもで、ほかにトカゲ、ヘ のすみ場所である樹上での行動は音は、凍っていた木の融ける音ともいう。ヨー びんしよう きわめて敏捷で、細い枝を四肢ロッパのアルプス周辺地方では、近縁種のヤマビ、カメ、カエル、魚、甲殻類、昆虫などもと でぶら下がって走り、枝から枝へ ネは神秘的な動物とされ、ユーゴスラビアのゴらえる。夜行性のものが多く、岩の割れ目、樹 とジャンプする。サルナシ、アケットシェーでは悪魔と称している。〈小島瓔禮〉洞、岩穴、やぶなどを巣とする。熱帯地方に分 ・にゆ、つ ビなどの果実のほか、昆虫、クモヤマネコ〔山猫〕 wildcat 唖乳綱食肉目布するものの繁殖期は不定で、そのほかの地方 のものは普通、春に出産する。妊娠期間は五八 類などの小動物を常食とする。天ネコ科の動物のうち、小形ないし中形の野生ネ ヤマニガナ へり みっせん ざい しよく 4 284
やまがた 原書房 ) 思弁と日常の生活行為と遮断された内面の修養学・著述に努め、『原源発揮諺解』などを著し じようきよう に対する批判は、それ以後しだいに明確とな たが、貞享二年九月一一六日江戸の私邸積徳堂山方 ( 町 ) やまがた ( まち ) 茨城県北部、那珂 2 館 に没した。享年六四歳。その墓は現在、東京新郡にある町。一九四七年 ( 昭和二一 D 町制施 り、門人たちが編纂した『山鹿語類』では、 資 しおた そうさんじ もろとのしもおがわせき かんとうそうみん 行。五五年諸富野、下小川、世喜、塩田の四村 光漢・唐・宋・明の書を媒介とせず直接古代の聖宿区の宗参寺にある。 やみぞ 素行の門人・支持者のうち大名では、浅野長各一部を編入。久慈川を挟んで八溝山地と久慈 戸賢の教えにつくべきであるとする古学的立場が むつひろさき つがるのぶまさしもつけからすやま へん 平 直をはじめ陸奥弘前藩主津軽信政、下野烏山山地をもっ山間地域。東日本旅客鉄道水郡線と 表明され、『語類』聖学篇の要約ともいえる一 しげのりひぜん すみなが ひらど 六六五年 ( 寛文五 ) に著された『聖教要録』で藩主板倉重矩、肥前大村藩主大村純長、同平戸国道一一八号が通じる。長く佐竹氏が支配し、 長 よしゆき なんごう まつらしげのぶ は、古学転回後の素行学が体系的に展開され藩主松浦鎮信 ( 素行の弟義行が家老として仕近世は水戸藩領。南郷街道の宿場として、また かしまち ふとどきなる 画 た。しかし『聖教要録』は「不届成書物」とえ、のち孫高道が平戸に下り、一族は現在に至久慈川と那珂川の各水運を結ぶ河岸町として栄 行 され、翌年幕府によって播磨赤穂に流され、七つている。平戸には山鹿文庫があり重要文化財えた。肉牛飼育が多く、コンニヤク、ソバ、ロ るたく 紙や砕石、砂利、木材の産がある。西の内紙は の稿本類を伝えている ) らが知られている。↓ 鹿五年 ( 延宝三 ) 許されるまで流謫の身であっ ちゅう す 山 〈佐久間正〉手漉き和紙として県指定文化財。江戸後期、コ た。その間、朱子の『四書集註』を批判した聖教要録↓中朝事実 ししよくとう 『武教全書』などを著す。林家入門以来朱子学『四書句読大全』、日本を中華とする日本主義の回『山鹿素行全集』全一五巻 ( 一九四 0 ~ 四一一・岩波ンニヤクの粉末化技術を開発した中島藤右衛門 くん - 一 書店 ) ▽田原嗣郎・守本順一郎校注「日本の出生地 ( 旧識淵村 ) 。奥久慈県立自然公園に の訓詁し こ親しんでおり、のち老荘や禅にもひか立場から神代・古代について述べた『中朝事 思想大系山鹿素行』 ( 一九七 0 ・岩波書店 ) 属し、キャンプ場、淡水魚館がある。人口九一 れ、儒仏老三教一致的な見解を述べたこともあ実』、武家の百科全書ともいうべき『武家事紀』 ↓コンニヤク↓西の内 〈櫻井明俊〉 ▽堀勇雄著『山鹿素行』 ( 一九五九・吉川弘文館 ) るが、三五歳の『修教要録』では朱子学の立場などを著し、配流から赦免された七五年には自 おおなかしゆく 伝的著作として有名な『配所残筆』を著した。 ▽佐佐木杜太郎著『山鹿素行』 ( 一九天・明徳囮二万五千分の一地形図「大中宿」「山方」 にたつ。 ひたち かみおせ 出版社 ) ▽山鹿光世著『山鹿素行』 ( 一九八一・ 「常陸大沢」「上小瀬」 しかし朱子学の、日常から遊離した観念的なその後江戸において主として兵学に関する講 山形 ( 県 ) やまがた 〔自然〕地形 / 気候 〔歴史〕先史・古代 / 中世 / 近世 / 近・現代 〔産業〕農林業 / 水産業 / 鉱工業 〔開発〕 〔交通〕 〔社会・文化〕教育文化 / 生活文化 〔伝説〕 る 表 年 量 温水度科 気降経 版 均均 平平度高 8 月月緯垣 東北地方の南西部に位置する県。北西部は日本海に面し南積ロ 0 1-n 0 L.n 0 【 - 「 ) 0 (C) 0 0 0 (Z) 0 0 E ) っ 0 っ乙フ」 面人 つ」っ 0 4 ・ l-n E 北約一五三キ。、東西約九七キ。で、よく人の横顔に例えられる ちょうかい ひのと かむろ を占め、地域別では村山地域が県人口の四五・二 % を占めて 形をしている。北部は鳥海山、丁岳山地、神室山で秋田県している。 てんどう 県内は、県中央西寄りを南北に横たわる出羽山地を境にし いる。とくに山形市と天童市などの県都周辺地域への人口集 と境し、東部は南北に走る奥羽山脈を境に宮城県および福島 しようない あづま て、日本海に面し庄内平野を中心とする庄内地方と内陸地中による増加がみられる一方で、山村地域を控えた町村での 県と接し、南部は吾妻山地、飯豊山地の両山地で福島県と、 よねぎわ 南西は朝日山地と飯豊山地で新潟県と境している。面積は九方に大別され、さらに内陸地方は、米沢盆地、山形盆地、新減少傾向には歯止めがかからず、人口高齢化現象も顕著にな 三二六・六〇平方キ。で、東北六県では五番目であるが、全国庄盆地を中心とした、それぞれ藩政期までの歴史的背景も異ってきている。八八年六月現在、一三市九郡二七町四村から なる。 なる置賜、村山、最上の三つの地域に分けられる。 では九番目に大きな県である。 〔自然〕〔地形〕県域の四分の三を山地、丘陵が占めている 人口は一九八五年 ( 昭和六〇 ) 国勢調査では一二六万一六 四方を山地で囲まれているため他地域との隔絶性が強く、 近世までは峠越えの陸路よりも、県内を縦貫して日本海に流六二。一九五〇年の一三六万をピークとしてその後青少年層が、標高一〇〇〇以上の山地は八 % にすぎない。県域の東 こしまわり もがみ 出する最上川の舟運が物資交流の大動脈で、叫廻海運によの県外流出によって減少の一途をたどり、とくに山村地域で縁を限る奥羽山脈は、第三紀層の基盤岩の上に、那須火山帯 ふながた かみがた に属する船形火山、蔵王火山、吾妻火山などが覆った連峰か る上方との結び付きが強かった。県土の約七五 % を流域との過疎化が急速に進行して、七三年には最低の一二一万とな ら形成されている。県北半部の中央を走り県域を庄内と内陸 し、しかも県内だけを流れる最上川は、まさに山形県の「母った。しかし、七四年以降は自然増加が社会減少を上回り、 たいせき なる川」として、産業や県民生活に現在も大きな役割を果た増加傾向に転じている。人口分布をみると市部が七〇・四 % に二分する出羽山地は、第三紀の堆積岩からなる丘陵で、鳥 章 で へんさん 9 326.60km2 ( 全国の 2.47 % 9 位 ) 1985 年 1 261 662 人 ( 全国の 1 . 04 % 31 位 ) 男 609 417 人 女 652 245 人 1980 年 1 251 917 人 男 605 407 人 女 646 510 人 人口密度 1985 年 135.3 人 / km2 ( 全国 42 位 ) 1980 年 134.2 人 / km2 1985 年 331 303 ( 全国の 0.87 % 37 位 ) 1980 年 323 583 県民所得 1984 年 21 028 億円 県庁所在地山形市 県花 県木 サクランポ 県鳥 オシドリ 県獣 カモシカ おきたま 世帯数 でわ 山形市の気象 ぎおう 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 月 年平均気温 11.2 ℃ 年降水量 1163mm 38 。 15 ' N / 140 。 21 ・ E 152.5m すいぐん なか
- 一うらい りちょう ばみに枯れ葉や落ち葉を敷き、その中にクリー 両班ャンバン朝鮮の高麗・李朝時代にお的な都市で、トラキアの都市カビレ Kabile で氷河を頂く。山腹噴火が多く、一九七〇年と 八四年の割れ目噴火では溶岩流が海に達した。 ム色の地に褐色または淡青色の斑点のある五個ける文・武の官僚の総称。九五八年、高麗は文 (Cabyle) に源を発し、ローマ時代に栄えた。 ようさい の卵がみられた。発見の二日後に巣内には、多官の一部を科挙によって地方豪族などから登用その後破壊されたが、要塞として復興、プルガ一六〇七年にイギリスの航海者・ハドソンが ひな リアとビザンティン帝国の争奪の対象であっ発見したが、一六一四年に捕鯨基地を設けたオ くのクイナ類の雛と同様に黒色をした雛が三羽する制度を実施した。これに伴って中央集権的 いたという。図しクイナ 〈森岡弘之〉官僚体制が整備され、文官を文班、武官を武班た。第二次世界大戦後、食品工場、化学繊維エランダの船長ャン・マイエンにちなんで名づけ られた。一九二九年にノルウェー領になった。 ャンバルテナカコガネ〔山原手長金亀と称し、あわせて両班とよぶようになった。李場などが建設され、トラキア東部の経済・文化 〈諏訪彰〉 子〕 C 0 ( 0 き s ミ、昆虫綱甲虫目コ朝では文・武の官僚はほとんどが科挙を通じて中心地となった。鉱泉を利用した療養設備があ気象台とレーダー基地がある。 〈中村泰三〉 ガネムシ科に属する昆虫。沖縄本島特産で北部なるようになり、両班官僚体制がいっそう整備る。 ャン・ヨーステン Jan Joosten van やようす ー一六一三 ) 耶揚子ともいう。 山地帯に産し、国の天然記念物に指定されてい された。両班の多くは地方の地主層でもあり、 ャンマ〔蜻蜒〕昆虫綱トンポ目ャンマ科 Lodenstijin ( ? る。体長五、六垰一前後の大形の甲虫。頭・前胸やがて、彼らの子孫、一族も両班とよばれるよ Aeschnidae の昆虫の総称。広義にはオニャンオランダ人船員で朱印船貿易家。デルフト市の 背面は銅緑色に光り、上ばねは黒色ですこし金うになった。両班はカ役や軍役の重い負担を免マ科、ムカシャンマ科を含め、ときに大形のサ名家に生まれ、長じてロッテルダムの東方貿易 属光沢を帯び、黄褐色の小紋を散らすが、雄で除される特権をもち、中央・地方の支配者としナエトンポ科の種類もそのようによぶことがあ会社が一五九八年に東洋貿易に派遣した船隊中 彼らは家門の来歴を示す族る。狭義のヤンマ科の種類は、一般に体長六〇の一隻リーフデ号 Liefde に乗り組み、船長ク は各はねの周辺に限られる。前胸は両側が著して勢力を振るった。 , ふ く丸みがあり、縁はぎざぎざしており、背部は譜をつくり、身分を誇ったが、武班よりも文班 、リ以上の大形昆虫で、複眼は背面で広く相接着アーケルナック、航海士のイギリス人ウィリア 大点刻を備え、中央に縦のくばみがある。雄のが地位が高かった ( 文官優位 ) 。一八世紀後半し、その後方に小さい三角形の後頭背面部を残ム・アダムズ ( 三浦按針 ) らとともに、一六〇 うすき たいせつ だんな 前脚は長く伸びて、腿節下方に歯状突起があ以降、両班身分制も崩れ、のちには「旦那」とす。下唇の中片には裂け目はないが、中央に一〇年 ( 慶長五 ) 四月豊後国佐志生 ( 大分県日杵 りよう けいせつ り、脛節は弧状で先端に長い棘をもつ。成虫は いう程度の意味で使われたが、家系を重んずる対の小突起がある。腹節側縁には一般に側稜が市 ) に漂着した。徳川家康の招きで江戸に出、 夏から秋にかけて現れ、幼虫は照葉樹原生林内韓国では、い までも両班出身を誇りとする意識あり、雌の第八、第九腹節には産卵管が発達すアダムズとともに家康の外交・貿易の顧問とな 〈矢沢康祐〉る。趣と後翅の三角室はほば同形で翅端方向り、世界情勢の説明などにあた「た。家康はそ の大木の樹洞内にたまった腐植土を食べて成長が根強い。↓族譜 - 一うカく に長く、また雄の後翅肛角は突出する。 の覇権確立のための巨額の財源の一つを貿易に する。成虫になるまで二、三年を要するといわャンピー〔羊皮〕中国語で、羊の皮やそ とよとみ れ、秋に洞内で蛹となり、晩秋に羽化して翌夏のなめし革のこと。羊皮の売買には、主として ャンマ科の代表はギンヤンマミをミ・求めていたが、ポルトガル人との貿易が豊臣氏 まで洞内にとどまるが、一生洞外に出ないもの中国人が従事していたため、商取引上でヤンピ きを s であるが、平地の池沼種であるたや西国大名に握られ、またイエズス会が深く介 在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始 もあるという。特殊な生態のため近年になって ーの語が使われるようになった。そのなめし革め環境破壊によって著しく減少した。この種に は毛穴が小さくて柔らかく手ざわりがよいが、 は海洋飛来性があり、熱帯産のオオギンヤンマを求めて、アダムズとヤン・ヨーステンとを召 初めて発見された。同属種は中国、台湾、東洋 熱帯域に産する。↓テナガコガネ〈中根猛彦〉弾力性に乏しく腰がないため、手袋や衣服、手とともに北上飛来し、とくにギンヤンマは北海し抱えた。ャン・ヨーステンは江戸に居宅を与 えられ、日本婦人と結婚して子女をもうけた。 芸材料などに用いられる。現在、日本へはイン道東部まで達する。ルリポシャンマゝ ) き コペ Dry き、ミ d き ャンバル、 やえすがし 八重洲河岸 ( 東京都中央区 ) なる地名は彼の宅 BI. ナデシコ科の一年草。一見ハコ・ヘに似るド、パキスタン産のインドャンピーもかなり輸ミきは北方種であるが、関西地方、四国、 せんもう ヾ丿ハコペともし が、花部に腺毛があるためネ / 入され、このうちインド南方産のヘアシープを九州では山地の池沼に限られる。カトリャンマ地にちなむという。彼は、朱印状を得て連年コ ウチシナ ( 中部・ヘトナム ) 、シャム ( タイ ) 、パ う。茎は細く、よく分枝して地表をはう。葉は原料としたものが優れている。 〈田中俊子〉 Gy きミミぎ、をぎは成虫の未熟の時代には たくよう 薄暮と薄明に地表を群飛して摂食する。サラサタニ ( マライ半島中部 ) 、カンポジア、トンキ 円心形で長さ約一、毛状の托葉がある。春かャンピ・サウンド Yampi Sound オー ン ( 北ベトナム ) など各地に手広く貿易を営ん ら夏、径約五ミリの小花を開く。花弁は白色、深ストラリア北部、ウエスタン・オーストラリアヤンマ 0 。ミ s きこは小形種で低山地 ひらど だ。一六〇九年平戸にオランダ商館が開設され の湿地に育ち、五、六月ごろ短期間現れるが、 く二裂する。名のヤンバルは沖縄本島の北部を州の鉄鉱石産地およびその輸出港。本来、ダー ビーの北約一三〇キロ、コッカトウー、クーラン本科のうち原始的なものと考えられる。アオヤて以後、蘭館と幕府との間にあって貿易の発展 さし、沖縄県の日当りのよい道端などにみら に尽力したが、彼の事業はしだいに振るわす、 れ、アジア、アフリカ、ヨーロッパの熱帯およ両島と本土に挟まれた狭い水域の名称で、両島ンマ、ネアカヨシャンマ、ヤ・フャンマ、マルタ ンヤンマなどは平地種で、ごく小さい水域にも帰国を思い立ち、持ち船で・ハタビアに渡り、東 び亜熱帯からオーストラリアに分布する。近縁で採掘される鉄鉱石の輸出港、および両島を一 インド政庁と交渉したが不調に終わり、日本へ のオムナグサは花弁の先は丸く、八丈島から小 括した鉱山名として用いられる。一九五〇年採育つが、生息地の都市化によって全国的に著し がさわら 〈沼田哲〉 〈谷内達〉 の帰航途中難破して死亡した。 〈三本栄二〉掘開始。 く減少した。コシポソャンマ B e 、ミ c ・ 笠原諸島に分布する。 回岡田章雄著「三浦按針』 ( 一九四四・創元社 ) とミルンヤンマは幼虫時代流水性で、 ャンバルヒゴタイを ci ミ、きャンプリコス lamblichos ( 0 こ ィ一んろく し新プラトン派の哲学者。シリアのカルキ前者は山麓地帯に、後者は山間の渓流に育つ。 (). ) Less. キク科の多年草。茎は直立し、 りゅうきゅう ひし 高さ一に達する。葉は柄があって互生し、菱スの人。ポルフィリオスに学び、シリアのアパ 日本産のヤンマ科昆虫は琉球諸島のものを加 メアに新プラトン主義哲学の一派を開いた。宗 えれば一一一種あり、いすれもよい環境の指標昆 状卵形または卵形、ときに二、三対中裂する。 教的な傾向が強く、新プラトン主義哲学を古代虫となるものである。↓トンポ〈朝比奈正一一郎〉 九 ~ 一二月、茎頂にやや散房状の花序をつく とう Jan Mayen り、多数の頭花をつける。頭花は紅紫色の管状多神教の哲学的な基礎づけとして用いた。↓新ャン・マイエン島 〈加藤信朗〉アイスランドの北北東約五〇〇キロ、ノルウェー す・花からなる。冠毛は剛毛状で二列あり、外側のプラトン学派 よ 冠毛は短い。道端や耕作地に生え、九州南部、ヤンホル Yambol プルガリア南東部、ヤ海のほば中央にあるノルウェー領の活火山島。 ん冲縄、小原、および熱帯アジアに広く分布すンポル県の県都。人口八万八七三三 ( 一〈〈一 (l) 。面積約一一一七三平方、。。最高峰のべーレン・ヘルク 〈小山博滋〉トラキア平野のトウンジャ川沿いにある。歴史火山 ( 標高一三七七 ) は、粗面玄武岩の成層火山 さなぎ あんじん 323