ラジオ / 略年表 ヘルツ ( 響 ) 、電波の存在を実証 天突マルコーニ ( 〕 三無線電信実験に成功 一九 00 フェッセンデン ( 修、 , カ ) 高周波発電機式 無線電話を発明 一九 0 六フェッセンデン、世界初のラジオ実験 放送 ド・フォレスト ( アメ、 リカ ) 三極真空管を発 一九一四アームストロング ( 影 ) 、真空管発振回 路、再生回路を開発 一九一五カーソン ( 影 ) 、単一側波帯変調を開発 一九一〈アームストロング、スー ーへテロダ イン回路を発明 一九 = 0 ウエスティングハウス社 ( ) 、ピッツ ーグに < 局を開局 一九一三フランス国営放送、イギリス放送会社、 モスクワ放送局などが本放送を開始 一九ニ = 一「放送用私設無線電話規則」制定 ( 日本 ) 一九社団法人東京放送局が愛宕山の局舎で 本放送を開始。大阪放送局、名古屋放 送局も相次いで開局 ( 日本 ) 。国産第一号 ラジオ発売 ( 日本 ) 一空六社団法人日本放送協会 ( ) 設立、 東京、大阪、名古屋の各放送局が一本 化される ( 日本 ) 一空〈交流式真空管ラジオ生産開始 ( 日本 ) 一空九アームストロング、画期的な周波数変 調 (æä) 方式を発明 ーラジオ発売 ( 日本 ) 一九 = 五国産初のスー 並四球ラジオ発売 ( 日本 ) 一九一 = 六アームストロング、放送の実用化 に成功 一九 = 入世界最初の実験放送局が誕生 ( 影 ) 一九四一放送認可 ( 影 ) ーラジオ発売 ( 日本 ) 一九四六五球スー 一九五 = 接合型トランジスタ生産開始 ( ) 一九会世界初のトランジスタラジオ発売 ( ) 一九 z 東京に日本最初の実験局が 開設 ( 日本 ) 。世界初のポケットラジオ発 売 ( 日本 ) 一突 = ディジタル—0 生産開始 ( 影 ) 一突三国内の九局でステレオ実験放送を 開始 ( 日本 ) 一九六七世界初の— 0 ラジオ発売 ( 日本 ) 一突九本放送開始 ( 日本 ) お一〈超薄形ラジオ発売 ( 果 ) じ一九会メモリー機能の付いたマイクロコンピ ュータ内蔵ラジオ発売 ( 日本 ) ラジオ にー三 ③さぐり式鉱石受信機ラジオ本 放送開始に伴い , 急速に普及した 受信機。 1925 年当時 , 聴取者の約 70 % がこの型のものを使っていた ①ラジオを聞く東京放送局総裁後藤新平。 1925 年 含三二 ④ 6 球スーバーへテロダイン受信機 3 極管 を 6 個使用した R c A 社 ( アメリカ ) 製の高 級受信機。国産受信機が普及する一方 , 外国 製の輸入製品もしたいに増えた。 1925 年 ⑤トランジスタラジオ日本で初のトランジスタラジオ。 1955 年アメリカのリーゼンシー社が世界初のトランジス タラジオを発売 , 同年 8 月 , 日本でも東京通信工業 ( 現 ー ) が商品化に成功した 0 2 ②スーバーへテロダイン受信機スーバーへテロダ イン回路発明の 2 年後 , アメリカのアームストロン グとハウクによって製作された。 1920 年ワシント ンスミソニアン歴史技術博物館 ⑧ー C ラジオ世界で初めて一 c を搭載した超小型ラジオ。⑦ポケットラジオ世界最初のポケットラジオ。 006P 電池⑥ AM—FM 受信機 FM 実験放送開始に伴 トランジスタ 1 4 個 , ダイオード 4 個 , 抵抗 1 4 個などで構成とポケッタブルラジオの名称を生むとともに , 本格的輸出って生産された国産中波兼用受信機。 1957 年 されている。 1967 年 機種の第 1 号となった。 1957 年 注 : ③ ~ ⑥は , 東京 N 日 K 放送博物館 , ⑦、⑧は、東京ソニー本社ショールーム 7 引
まヨーロッパ諸科学の危機と超越論的会の定める方法によ 0 て選ばれ、その数は各国廃、生産費と価格の管理、石炭および鉄鋼業のは、 QO 加盟国通貨を統合し最終的にはヨーロ しよかがくのききとちょうえつろんてき の人口に比例する。協議総会は審議機関であっ拡張と近代化の達成などを目的としていた。一 ハ単一通貨制度を目ざすもので、これには各 6 っ現象学 くずてつ 九五三年二月には石炭、鉄鉱石、屑鉄の共同市国の主権の部分的委譲という政治問題が絡むた げんしようがく Die Krisis der europäischen て、閣僚委員会に勧告を行う権限を有してい ろ Wissenschaften und die transzendentale る。 〈岡村堯〉場、同年五月には鉄鋼の共同市場、五四年八月め、一挙には推進できない。そこでそれへの中 よ Phänomen010gie 現象学の創始者・フッ には特殊鋼の共同市場が発足し、また、域内関間的措置として一九七九年三月に設立されたの ヨーロッパ人権条約ーじんけんじよ サールの末完の遺著。約二八〇ページの現行の うやく European Convention on Human 税も五八年三月までに全廃され、 ;.2 (U)O 設立がである。 定本は、関連諸論文とともに一九五四年初版の Rights 正式には「人権および基本的自由保後、加盟国の石炭および鉄鋼業は急速に発展し 成立の基礎は、一九七三年二月のドル 『フッサール著作集』第六巻に収録されている。護のための条約」とよばれ、一九五〇年一一月 の再切下げを契機に誕生した QO の共同フロー 彼の他の著作と比べて本書の特徴は、ヨーロッ四日にローマにおいてヨーロッパ審議会加盟国 この O O の成功がヨーロッパの経済統合 ト制 ( 共同変動相場制 ) である。共同フロート バの科学と哲学の運命 ( おもにガリレイ以降によって調印され、五三年九月三日発効した。 に弾みをつけ、一九五七年には加盟六制はドル危機の影響を緩和し、域内通貨の統合 の ) に歴史哲学的な考察を加えて、近代科学の この条約は、世界人権宣言のなかのいくつかのか国によってローマ条約が調印され、翌五八年促進を目的としたが、しかしその後も通貨不安 偉大な発展にもかかわらず、科学の危機、ひい 権利の集団的保障を確保するのに適切な最初の にヨーロッパ経済共同体 O ) とヨーロッ は収まらず、フランス・フランの離脱、復帰、 ては人間性の危機が到来した事情を論じている手段をとることを目的とし、調印当時合意に至 パ原子力共同体が設立され再離脱やマルク、ギルダーの切上げなどが相次 点にある。危機が生じたのは、存在者の世界全らなかったり、後日必要とされたものは、議定た。 QOT)O の主要機関としては、超国家的性 いだため通貨統合は進展しなかった。そこで西 体を理性の立場から統一的ー普遍的に認識しょ書によって補っていくという形式がとられ、現格を有する最高機関のほかに、理事会、総会、 ドイツとフランスとの間で折衝が進められ、七 うとする学問本来のテオリア ( 観想 ) の目標が在までに八つの議定書が作成され、第七、第 八司法裁判所の四つが設けられていたが、 八年七月のプレーメンにおけるヨーロッパ理事 放棄された結果、学問の領域にも物理学的客観議定書を除きすべて発効している。この条約に O 、の発足とともに、総会と司会でまとまった構想がである。 主義と哲学的主観主義への分裂が生まれ、実証はヨーロッパ審議会の加盟一一一か国が参加して法裁判所はこれら三共同体に共通の機関とされ は共同フロート制を継承したものであ 主義や非合理主義が台頭してきたからである。 いる。この条約は、締約国の管轄区域内にあるた。さらに六七年には、理事会のほか、最高機るから、域内固定レート制、域外変動レート制 かわせ それゆえ本書では、科学の成立基盤である生活すべての人に、条約および議定書の定める市民関も委員会という名称で三共同体共通の機関とをとる。域内では各通貨は平価を固定し、為替 世界についての存在論的考察を通して、さらに的、政治的権利、いわゆる自由権を保障し、条約して統一されることとなり、それとともに三共レートはその上下二・二五 % の幅で変動が認め それを成立させる超越論的主観性の能作を究明の履行確保のためヨーロッパ人権委員会、ヨー 同体はヨーロッパ共同体 (QO) と総称される られる。これをバリティ・グリッド parity するという仕方で、現象学的理性主義の立場か ロッパ人権裁判所を新設し、委員会には国家だ こととなった。このように、 QO(J)O は QO の grid 方式という。参加国通貨は共通の計算単 ら、主観と客観的存在者との関係について、新けでなく個人も一定の条件で申立てをすること成立を先導した機構であるといえる。↓ヨーロ位で表示される。の価値は QO 加 たな解明が試みられた。 ッパ共同体 〈立松弘孝〉ができ、八六年一月一日現在約一二〇〇〇件が 〈横川新〉盟国の通貨による標準バスケット方式で決まる 回細谷恒夫訳『ヨーロッパの学問の危機と先験処理され、一〇九の判例がある。〈芹田健太郎〉 が、バスケットの構成比は定期的に点検され ヨーロッパ通貨協定ーっうかきようてい 的現象学』 ( 『世界の名著フッサール他ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ーーせきたん European Monetary Agreement 略称る。為替レートが変動幅の限度に達した際に 。一九五五年ヨーロッパ決済同盟 集』所収・一九七 0 ・中央公論社 ) ▽細谷恒てつこうきようどうたい European Coal and は、関係中央銀行は市場介入によってレートの 夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越 Steel Community 略称石炭・鉄 D) 加盟一八か国の調印によって、ヨーロッパ 変動を抑えなければならない。 このような参加 論的現象学』 ( 一九七四・中央公論社 ) 鋼についての共同市場と共同管理を実現するた基金と多角的決済機構の設立を決めた通貨協国の安定義務を助けるために、各国は金・外貨 しんぎかい Coun- めに設立されたヨーロッパの地域的経済統合機定。この協定は、加盟国の通貨が交換性準備を出資してヨーロッパ通貨協力基金 ヨーロッパ審議会 cil of Europe 一九四九年、西ヨーロッパ五構。一九五〇年五月九日、フランスのシューマを回復した場合ににかわるものとされて oc.k) をつくっているが、これは将来はヨーロ 国同盟 ( ベルギー、フランス、オランダ、 ン外相は、フランスとドイツの伝統的対立を解 いたが、五八年末に西欧一四か国通貨がこの条 ッパ通貨基金に発展する予定であ ルクセンプルク、イギリス ) にデンマー 消するため、両国の石炭・鉄鋼の全生産を共同件を満たしは発展的に解消したので、たる。↓共同変動相場制 〈土屋六郎〉 なんばうてんも ク、アイルランド、イタリア、ノルウェーおよ機関のもとに置くこと、また他のヨーロッパ諸だちに発効した。ヨーロッパ基金の融資はヨーロッパ南方天文ムロ びスウェーデンを加えた一〇か国によって設け国の参加を歓迎する旨の提案を行った。これがのように自動的ではなく申請に基づいて供与んだい European Southern Observatory られた国際協議機関。一九八七年現在、加盟国 いわゆるシューマン・プランとよばれるものでされ、多角的決済機構はとほば同じで、南アメリカ、チリにある天文台。フランス、西 ドイツ、オランダ、ベルギー、スウェーデン、 は二一か国である。審議会の目的は、加盟国のある。イギリスや北欧諸国はこの提案に消極的業務は国際決済銀行 (n—n) が代行した。こ 共通の遺産である理想と原則とを擁護し、かつであったが、フランス、西ドイツのほか、イタの協定は六一年に経済協力開発機構 (OQO デンマークのヨーロッパ各国が、南天観測のた 実現することにより、また加盟国の経済的社会 リア、オランダ、ベルギー、ルクセンプルクが Q) の管理下に置かれ、七二年一二月に廃止さめに共同でアンデス山脈の海抜一三〇〇のラ 的進歩を助長することによって、加盟国間にい 参加することとなり、五一年四月一ノ日 れた。↓ヨーロッパ決済同盟 〈土屋六郎〉 シア地区に一九七〇年代に開設した。口径三・ つうかせいど 六の大反射望遠鏡をはじめ一〇台余りの望遠 っそう大きな統一を図ることにある。主要な機において、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体創設条約ヨーロッパ通貨制度 関として、閣僚委員会と協議総会があり、事務 ( パリ条約 ) が調印され、翌五二年七月二五日 European Monetary System 略称鏡を備えている。の本部は西ドイツのミ 局がストラスプールにある。閣僚委員会は原則 に発効した。本部は当初ルクセンプルクに置か ヨーロッパ共同体 0) が通貨同盟を完成さ ュンヘン近郊のガーヒンにあり、観測者は交代 として各国外相によって構成され、目的達成にれたが、六七年にプリュッセルに移された。 せるために設けた中間的措置。 QO は関税同でヨーロッパから派遣される。近年、スイス、 必要な事項について審議し、内容に応じて加盟 0 は、加盟国間における石炭と鉄鋼の盟、共同市場を実現し、経済統合の完成に向か イタリアも加盟し、さらに三・五の望遠鏡建 国に勧告を行う。協議総会の議員は加盟国の議移動に関する関税その他の貿易上の制限の撤って進んできたが、次の目標である通貨同盟設が計画されている。 〈小平桂一〉 ュ ラ
製鋼原料銑の需要増加にこたえて、ドイツ、 る冶金分野を電気冶金という。二〇世紀には、頭に実用化したが、一九五〇年代から結晶粒の引 キ、〔産業革命期の冶金〕一八世紀初頭にイギリスアメリカで高炉技術が発達し ( 前床廃止・一〈粉末冶金、真空冶金、原子力冶金などの新分野方向制御により性能を高めた。以上のような鉄 も開けた。 冶金技術の発展で、一九七〇年代の世界粗鋼年 一八九七年のデュケー で、高炉を石炭コークスで操業することに成功六七、炉床拡大・一公 0 ) 、 や 〔ニ〇世紀の冶金〕二〇世紀の冶金技術の特徴 間生産量は七億五〇〇〇万トンとなった。 した ( ダービー・一七 0 九 ) 。一八世紀末にはイギヌ高炉 ( アメリカ ) は日産七〇〇トンに達した。 は、他の生産技術とも共通して、生産工程の機 非鉄金属製錬の分野では、一九一五年以後実 リスで、石炭焚き反射炉で錬鉄を生産する。ハド鋼材の需要増大は鋼材加工技術の進歩を促し、 用化した浮遊選鉱法は複雑鉱からの各種金属の 圧延機では三段式圧延機 ( 一会六 ) 、可逆式圧延械化、自動化、科学的管理が進んだことである。 リング法が発明された ( コート・一大三 ) 。コー 鉄鋼製錬技術は、高炉技術において二〇世紀相互分離も可能にした。この方法の産物である クス高炉の送風機にも、 パドリング法の圧延機機 ( 一公六 ) が現れ、薄鋼板製造用の連続圧延機 がアメリカで稼動した ( 一会九 ) 。都市ガス管用前半にアメリカで高炉作業の機械化、鉄鉱石の微粉の硫化鉱精鉱は一九四〇年代から流動床法 にも蒸気機関が用いられた。石炭製鉄の時代が 到来したのである。高炉自体にも熱風の採用として鍛接鉄管製造法 ( 天 = 四 ) や、自転車産業焼結・整粒、二〇世紀中期にソ連で高圧送風、で焙焼されるようになった。流動焙焼炉は高能 からの需要にこたえて継目無し鋼管を製造する気化冷却、一九六〇年代から日本で熱風温度上率であり、排ガス ( 亜硫酸ガス ) からの硫酸製 ( ニールソン・一全 0 、高炉ガスの回収 ( フォー ル・ l<lllll) などの改良が加えられた。鋳鉄と錬マンネスマン製管機 ( 一公五 ) が発明された。る昇、重油吹込み、装入物分配制御、などの技術造を容易にした。銅の乾式冶金では、一九五〇 鉄は産業革命を推進する工業材料となり、イギつば鋳鋼法で各種金属を配合することにより優改良が加えられ、一九七〇年代の高炉は日産一年代から微粉硫化鉱精鉱を酸素ないし予熱空気 良鋼を得る試みはファラデーに始まり ( 一〈一九 ) 、万トンに達した。製鋼法は、二〇世紀前半に重油で急速燃焼して溶錬する自溶炉、さらに七〇年 リスの鉄年産量は一七五〇年の二万五〇〇〇トン からみかわ 引き続いて自硬性工具鋼 ( マシェット・天 = 0 燃料の採用などで平炉が能率を高めたが、一九代から溶錬炉、鍰・鈹分離炉、製銅炉の三者を から、一八五三年の三二〇万トンへと増大した。 イギリスでは錫製錬も銅製錬も一八世紀中にをはじめ、耐摩耗性高マンガン鋼 ( ハットフィ四九年にドイツ・オーストリア共同で発明され樋で連結した連続製銅炉、などが発達した。非 た酸素上吹き転炉法が日本で改良を加えられ、鉄湿式冶金では、一九二〇年代から金製錬法 ールド・ l<<ll) が発明された。銅製錬法もべッ 石炭焚き反射炉で行われるようになった。後者 かわ は数段階の酸化溶錬工程からなり、ウェールズセマー製鋼法と同様に、溶融硫化銅・鉄 ( 鈹 ) 二〇世紀後半には平炉にとってかわった。電気は、金鉱石を微枌砕し、青化ナトリウム水溶液 に空気を吹き込んで金属銅を得る転炉法が採用製鋼炉は超高電力操業法 ( 一九六四 ) で生産性が高で金を浸出する方法となった。一九四〇年代か 法とよばれた。蒸気機関は圧延機の能力を高 ら原子炉材料金属の湿式冶金に有機溶媒抽出法 め、一八世紀中には広幅鉛板や銅板 ( 船底保護された ( 一公 0 ) 。一九世紀に入って急速に発展まり、高級鋼、特殊鋼の生産に使用されてい る。溶鋼を真空脱ガス、真空脱炭する諸装置が利用されたが、この方法は六〇年代から銅、 した電気学は冶金技術にも変革をもたらした。 用 ) が圧延されるようになり、一九世紀に入っ コバルトなどの一般金属の採取にも応用され てプリキ板薄鉄板も圧延機で量産されるように発電機が実用段階に入ると、ただちに、銅の電が、一九六〇年代から低水素高級鋼、ステンレ よっこ。 ス鋼の生産に実用されている ( 真空冶金 ) 。 解精製 ( 天六九 ) 、 ニッケルの電解採取 ( 天九三 ) 金属加工分野のなかで、鋳造技術は、一九二 鉄鋼加工の分野では、二〇世紀中期から、連 が工業化され、フッ化アルミニウムの溶融塩浴 産業革命期に発達した気体化学に基づき、ラ 続鋳造法が発展している。鋼板圧延機は、一九〇年代からの自動車量産方式が、金属鋳造作業 ボアジェがフロギストン説を打破 ( 一大三 ) してに酸化アルミニウムを溶解し、電解することに 樹立した新化学は、金属化合物、金属製錬の本よってアルミ一一ウムを量産する方法が発明され二〇年代からアメリカで広幅熱間および冷間連の機械化、強じん鋳鉄やダイカスト法の発展を タイカスト法は金属溶湯を金型に圧 た ( エルー、ホール・一公 0 。一九世紀末には続圧延機 ( ストリップ・ミル ) が自動車用など促進した。・ 質的理解を可能にした。分析化学が発達して、 の薄鋼板を量産し始めた。二〇世紀中期からの入して鋳造する方法で、専用のアルミニウム合 多くの新金属が発見され、亜鉛、コバルト、白冶金炉への電力利用も実用化し始めた ( エルー 進歩は著しく、一九七〇年代には圧延速度が秒金、亜鉛合金も開発された。一九四〇年代には 金、ニッケル、マンガン、タングステンなどの炉・天究 ) 。 この時期に反射型顕微鏡による金属組織の観速二五にも達した。製管技術は、一九二〇年超耐熱合金のタービン・プレードを鋳造するた 製錬法が開発された。鋳鉄や錬鉄を構造材に用 一会一 (l) 、高温度測定法代から石油採掘・輸送用鋼管の需要増大にこため、古来の脱ろう法が精密鋳造法として復活し いるための強度試験が盛んに行われ、材料力学察が始まり ( ソルべー ( ル・シャトリエの熱電対・天九一 ) および熱カえて、新型の継目無し鋼管圧延機が発達し、二た。 が弾性論を中心に発達した。一八世紀末から、 一九世紀末に発明されたアーク溶接法、電気 フランス、ドイツ、やや遅れてイギリスと理工学の進歩 ( ギブスの相律・天七三 ) と相まって、〇世紀後半には電気溶接法を利用した各種の溶 抵抗溶接法、ガス溶接法などの金属溶接法は、 系大学の設立が始まり、その教授たちによって金属組織学の基礎がつくられ、鋼をはじめ各種接鋼管製造法が発達した。 へんさん 鉄鋼材料の分野では、一一〇世紀初頭、高速度一九二〇年に最初の全溶接船が建造され実用に 合金の状態図作成や鋼の焼入れ硬化の本質の検 優れた冶金学専門書が編纂され始めた ( カルス 工具鋼 ( テイラー、ホワイト・一九 0 六 ) が発明さ入った。一九三〇年代にサブマージ・アーク溶 討が進められた。 〔冶金の諸分野と各種の冶金〕以上の冶金の歴れた。自動車部品用の低合金焼入れ鋼は一九一一一接法、不活性ガスアーク溶接法が考案され、前 〔工業化時代の冶金〕一九世紀なかばに新原理 に基づく二つの新製鋼法が登場し、鋼の量産が史からみて、冶金には大別して金属製錬、金属〇年代に規格化が進んだ。一九四〇年代に頻発者は鋼船、後者は軽合金航空機の量産に利用さ した溶接船・橋梁の低温脆性による破壊事故れた。電気抵抗溶接法は今日の車体自動組立て 可能となった。①溶融銑鉄に空気を吹き込み、加工、金属材料の三分野があることがわかる。 ラインに欠かせない金属加工法である。 銑鉄中の炭素を燃焼・脱炭して溶融鋼を得るべ金属材料とは、所要の性質をもった金属材料のは、破壊力学と溶接性のよい高張カ鋼を発達さ 金属粉を圧縮成形・焼結する粉末冶金法によ 組成・熱処理法を開発する分野である。冶金せた。金属の高温クリープ現象の研究を基礎 ッセマー法 ( 一会六 ) 、②蓄熱室を備えた平炉に 、高温タービン用耐熱鋼の開発も進み、一九つて、タングステン線 ( 一九 0 九 ) 、炭化物系超硬 より、溶融銑鉄と鉄鉱石を反応させて溶融鋼をを、関係する科学分野によって物理冶金、化学 得るシーメンスーマルタン法 ( 一会 0 ) である。冶金に分類することもある。製錬・加工分野を六〇年代から航空・宇宙材料用として超強力鋼合金 ( 一九 = 六 ) がつくられ、一九五〇年代からは 小形鉄製部品の量産にも進出している。 これらの新製鋼法で量産される鋼材は、鉄道、あわせて製造冶金とよぶこともある。冶金技術が研究されている。ステンレス鋼は一九一二年 きようりよう 非鉄金属材料の分野では、時効硬化性アルミ 船舶、橋梁、高層建築に使用され、ヨーロツで生産する金属材料の種類に応じて、鉄冶金、以来、クロム鋼、ニッケル・クロム鋼が開発さ アメリカに重工業化時代を到来させた。一非鉄冶金に分類する。高温化学反応による金属れ、第二次世界大戦後に生産が急増した。磁石ニウム合金 ( ウイルム・一九 0 九 ) が金属航空機の 九〇〇年の世界鋼生産量は一一五〇〇万トンとなっ製錬を乾式冶金とよび、鉱石から溶剤で金属を鋼は日本でよく研究が進んだ ( 本多光太郎、発達を、また一一ッケル基析出硬化型超耐熱合金 が一九四〇年代からのジェット機の発達を可能 浸出する製錬を湿式冶金という。電気を利用す鋼・一九一七 ) 。鉄心用のケイ素鋼は二〇世紀初 ぜいせい
もののけ 物差し ものなり近世、田畑の本租のこと。 ンピュータなどの情報処理の分野で文字をプラ物成 ができない。それをカントは物自体とよぶ。の管。電子銃、ターゲット、アノードおよびグリ とりかなりか ち『実践理性批判』においては、物自体の世界ッドなどを一つのガラス管に収めたもので、タウン管に表示することが多くなってきた。この年貢、取箇、成箇、本途 ( 物成 ) などともよば れた。↓年貢 ーゲットにはテストバターンが印刷されてあような目的のために文字を発生するモノスコー を自由の概念と結び付けて、現象界に対して叡 ちかい プもある。 〈木村敏・金木利之〉もののあはれもののあわれ平安朝の文芸 智界と名づけた。物自体概念は、カント哲学のる。印刷用物質には、印刷されてない部分と比 もとおりのりなが かなめいし Mon- ス monodle 冖ス 理念を示すといわれる語で、本居宣長が重視し 要石であると同時に、批判が集中した概念でべて二次電子放出比が大きくとれるようなものモノディ mono お Odie monodia 西洋音楽の様式に関た点でも知られる。宣長の『源氏物語玉の小 が使われている。電子銃から発射された電子ビ あり、その後のドイツ観念論の発展ーーーフイヒ ームがこのターゲットを走査すると、パターンする用語。ギリシア語 monos ( 単一 ) と ode 櫛』 ( 一七究刊 ) によれば、「あはれ」は「物に感 テの自我概念に始まる絶対者概念の成熟ーーは に応じたターゲット電流が変動するので、これ ( 歌 ) との合成語で、広義には単一声部からなずること」で、「何事にまれ、感ずべき事にあ そのままこの概念に対する批判的発展であった ともいえる。 〈武村泰男〉を映像信号として利用する。パターンには解像る声楽曲をさす。これは通常リュートや解楽たりて、感ずべき心を知りて感するを、ものの くさびがた モノスコープ monoscope テレビジョン度試験用の楔形のほか、コントラストやグレ器による和弦的伴奏に伴われることが多いたあはれを知るとはいふ」のであり、とくに『源 氏物語』は「もののあはれ」を表現した最高の ースケールも印刷されてある。また、最近はコめ、ホモフォニーの一種とみなされる。狭義に 用のテストパターンを発生させる特殊な真空 は、一六〇〇年ごろ、ポリフォニー様式の反動作品とされる。「あはれ」は古く記紀の歌謡な としてイタリアで発展した独唱音楽の様式に対どから感動を表す語として用いられているが、 して用いられる。今日、単にモノディといえしだいに美意識も表すようになる。平安時代に は調和のとれた美に感動することが多くなり、 ば、狭義の意味で用いるのが普通である。↓ホ ↓ポリフォニー モフォニー その場合しめやかな情緒を伴い、独特の優美な 一六世紀の末、フィレンツェのカメラータ情趣の世界を形成するようになって、理念化さ ( バルディ家の学者や音楽家たちの集団 ) の間れたとみられる。同じ時代の「をかし」と比べ では古典ギリシア劇の再興が企てられていたると、優美にかかわる点など類似した面をもっ が、モノディはその理念に端を発し、形成され一方、「をかし」の明るい性質に対して「あは た。ここでは歌われる歌詞が高い表現力や劇性れ」は哀感を伴う点など異なるところがある。 「もののあはれ」も、こういう当時の「あはれ」 をもって一語一語克明に表現されることが求め られ、旋律は通奏低音楽器の和弦的伴奏に支えと内容はほば同様である。ただ「もののあは られたレチタティーポ風なものとなっている。れ」は「春雨のあはれ」「秋のあはれ」などを 初期のモノディのもっとも有名なものには、カ一般化したことばとみられ、「ものの」は「あ 文の物れや ッチーニの『新音楽』 ( 初版一六 0 一 ) や、現存最はれ」の引き起こされる契機を一小すのであろう。 記出代よ院寸 ーリ、カそして「あはれ」の性質は中世以後も変わって 古のオペラ『エウリディーチェ』 ( ペ 時と多ど 割鳥竿喜な いき、強い感動を表す「あつばれ」にもなり、 ッチーニ共作、一六 00 初演 ) があげられる。その でを飛 ⑥ は市 後、この様式はあらゆる音楽に急速に浸透し、同情や哀れみの意味での「あはれ」にもなるが、 の度 も角し に越尺 「もののあはれ」にはそういう変動がなく、そ 器楽面では独奏ソナタの成立を促した。しか るや施横川鯨 れ館法を館の の点とくに平安朝的な「あはれ」を示す語とも し、声楽や器楽固有の表現法の開発とともに、 ば術寸 ) 物材 ) よ美な彫博木分⑩ 〈武田元治〉 〈黒坂俊昭〉 い , っことができる。↓をかし 一六三〇年代を境に衰退した。 とル要館り立 尺し 」プ必物つ国工本新保た記 モノドラマ monodrama たった一人の回岡崎義恵著『日本文芸学』 ( 一九三五・岩波書店 ) 一に博は京大模」享れを 腕 ▽『日本文学評論史』 ( 「久松潜一著作集 5 」 俳優が演する演劇、一人芝居。この意味では、 ルどトて東宮』はさ率 の なプしの会に用比館 家 一九穴・至文堂 ) 丿築ジめ物期飃代併の物古代ローマのパントミモスにその例がみられ、 いきりよう 紅納桃職戸類尉学下 0 ては一八世紀後半ドイツに俳優・劇作家プ物の怪もののけ生霊、死霊などの類をい 尺た尺口を献 ~ 「江種種科 人に取り憑いて、病気にしたり、死に至ら ランデスが出て流行する。音楽の伴奏で合唱隊 直れ曲イげ牙寺倉 。の各立 のらのカ象隆鎌るしく が大筋を物語り、俳優が身ぶりによるパントマせたりする憑き物をいう。平安時代の文献には 。法。れ差多尺 よくこのことが記録されている。『紫式部日記』 イムで視覚化していくのが一般であった。しか プ用プた ~ 尺竿ら物る例京 びようぶ ジてジれ鏤文問見のな比東 には、中宮のお産のとき、物の怪に対して屏風 し、△フ日いうところのモノドラマはもうすこし 工し工ら撥重とが世異の ちょうぶく 古具用「し曲直称井⑥内面性を重視し、一人の人物の心理的変化を克を立て巡らし調伏したことが記されている。 ①房②」差④る⑤名⑦⑤明に描き出すドラマをさす。こうしたモノドラ『源氏物語』葵の巻に、「物の怪、生霊などい マ論に影響を与えた人に、二〇世紀初頭のロシふもの多く出で来てさまざまの名のりする中に おおとの おんもの : 」とあり、また同じ巻に「大殿には、御物 アの詩人工ウレイノフがいる。彼は、登場人物 の内的体験を観客が深く自らの体験とすることの怪いたう起こりていみじうわづらひたまふ」 せいしようなごん まくらのそうし を演劇の本質とみなし、モノドラマこそ演劇のなどとある。清少納言も『枕草子』のなかで、 しゅげんじゃ 〈高師昭南〉昔評判の修験者があちこち呼ばれ、物の怪を調 5 本来的あり方だと論じた。 ①② 4 - ④ ⑥ ⑤ わみぐ はんと
よろつば じゅ , つば、つ うことが必要となり、また、当時増大しつつあ通の基盤形成を目的として設立された地域的経ヨーロッパ域内諸国の関係緊密化と国際道路交ヨーロッパ自由貿易連合 通の発展を期するための道路網計画。国際連合 えきれんごう European Free Trade Associa ・ った発展途上国に対する援助の負担を先進諸国済統合機構。一九五七年三月、ローマにおい において分担することが要請されるようになって、ヨーロツ。ハ石炭鉄鋼共同体 (QO(-DO) 加のヨーロッパ経済委員会は、一九五〇年に「国 tion 略称ヨーロッパの地域的経済 た。こうした国際社会の発展および構造変化に盟六か国 ( フランス、西ドイツ、イタリア、べ際幹線道路網の建設に関する宣言」を起草し、統合機構の一つ。一九六〇年一月四日にイギリ ス、スウェーデン、ノルウェー 対応するため、は一九六一年九月三〇ルギー、オランダ、ルクセンプルク ) によってアジアのトルコまでを含んだほとんどのヨーロ 日をもって経済協力開発機構に改ヨーロッパ原子力共同体創設条約が調印されッパ諸国の同意を得た。さらに、七五年起草のオーストリア、スイス、ポルトガルの七か国に 組された。↓経済協力開発機構 ^ 横川新〉 ( 同時に調印されたヨーロッパ経済共同体〈「主要国際交通幹線に関するヨーロッパ協定」よって自由貿易地域結成のための条約がスウェ けっさいど、つめし ーデンのストックホルムで調印され、同年五月 〉創設条約とともに「ローマ条約」とよば ( 八三年に八か国が調印 ) では、幹線・補助幹 ヨーロッパ決済同盟 れる ) 、翌五八年一月一日に発足した。本部は線からなる国際道路網の指定、その統一された三日に発効した。その後、六一年にフィンラン European Payment Union 略称 ド ( 当初準加盟、八六年に正式加盟 ) 、七〇年 番号づけ、および標識の統一を定めた。各路線 ヨーロッパ支払同盟ともいう。ヨーロッパ経済・ヘルギーのプリュッセル。 にアイスランドが加盟したが、七三年にイギリ は、原子力産業の急速な開発にはそれぞれの国内番号のほかにの記号を冠 協力機構 (OQQO) の下部機構で、それに加 した番号が付され、それが緑の地に白字で書かス、デンマーク、八六年にポルトガルが脱退し 盟する西欧一八か国をメンバーとし、これら各に必要な条件を整えることにより、加盟国内に 国相互間の対外収支の多角的な決済を目的としおける生活水準の向上と他の諸国との貿易の促れた標識で示されることとなった。南北方向のたため、八八年三月末現在は六か国で構成され た機構である。一九五〇年九月に調印され、七進に寄与することを使命とし、共同研究の推幹線は西から東に向かって増加する二権の奇数ている。本部はスイスのジュネープ。 は、全ヨーロツ。ハを結集する大自由 月にさかのばって実施された。その構想は、国進、専門的知識の普及、保安措置の確立、核燃番号、東西幹線は北から南へ向かって増加する 二桁の偶数番号で表される。そのなかで骨格を貿易地域設立構想が破れてヨーロッパ経済共同 際通貨基金 (—*z) 設立時のケインズ案 ( 国料の供給、原子力資材についての共同市場の設 なす主要な南北幹線の番号は五で、東西幹線の体 (QQO) が結成されたため、これに対抗し 際清算同盟案 ) にきわめて類似していた。立、域外諸国および国際機関との平和利用のた 番号は〇で終わっている。また、その設計基準て、イギリスが、独自の立場で、イギリス連邦 は多角的決済制度と自動的信用供与の一一つのめの協力などを行っている。 機能により、西欧諸国間の貿易拡大と自由化に 主要機関のうち、総会と司法裁判所は、も作成され、可能な限りの道路規格の統一が図諸国との関係を維持し、ヨーロッパにおける経 大きく貢献した。の基金はマーシャル援発足以来 QO(-D(-) およびと共られている。近年、ヨーロツ。ハ共同体 (QO) 済的・政治的リーダーシップを確保しようと は、その一体化や低開発地域の進行に役だっ道し、最終的に政治統合を目ざすに対して 助からの資金と加盟国の出資からなり、業務は通の機関とされていたが、さらに一九六七年に 国際決済銀行 (22—T)) が代行した。五八年は理事会、委員会も三共同体共通の機関として路の改善に力を入れており、たとえばモンプラおもに政治的理由から加盟をためらっていた北 欧、スイスなどを加えて発足したものである。 末、西欧主要通貨の交換性回復に伴って統一されることとなり、それとともに三共同体ン・トンネルの改良などに助成金を出してい は、域内の関税を撤廃する点では はヨーロッパ共同体 (QO) と総称されることる。また、ヨーロッパ地域開発基金からも、地 は発展的に解散し、多角的決済制度はヨーロッ ハ通貨協定に、信与供与機構は修正となった。↓ヨーロッパ共同体〈横川新〉中海沿岸総合開発プログラムなどの国境を越え O と同じであるが、域外に対しては、と のうえヨーロッパ基金にそれそれ継承された。 ヨーロッバコウイカ S 0 当ミる地域開発プロジェクトの道路整備に融資が行異なり、共通関税を設定することはしない。当 初のスケジュールでは、一九七〇年一月一日ま ↓ヨーロッパ通貨協定 〈土屋六郎〉軟体動物門頭足綱コウイカ科のイカ。大形の種われている。このような国際道路網は、ヨーロ ッパ各国相互の通商、文化交流、ツーリズムのでに域内工業製品の関税および数量制限を撤廃 ヨーロッバケナカイタチ 0 ケナガイタチで、ヨーロッパ・アフリカ沿岸を南北に、北 げ・んしりよ はスカンジナビア半島からヨーロッパ、地中海発展など、ヨーロッパの一体的発展に寄与してすることになっていたが、実際には三年短縮し ヨーロッパ原子力共同体 〈武田文夫〉て六六年末には撤廃を完了し、自由貿易地域を を経てさらにアフリカ南部まで分布し、その間 くきようどうたい European Atomic Energy ラトム がいとう ュ 完成した。 Community 略称原子力にで数亜種に分かれている。外套 ( 胴 ) 長は三〇 ヨーロッパ一ノエネット 0 ジェネット ところが、一九七三年一月一日にイギリスと しきのうぎよう宀座 関する技術の開発、調査、研究などを行い、ヨ 垰一以上になり、外套膜の背側には、虎斑模様がヨーロッパ式農業 だえん えんすい デンマークがを脱退して、六七年に ーロッパにおける原子力の平和利用のための共ある。甲 ( 貝殻 ) は長楕円形で、内円錐は低業革命後の農産物需要の増大と新大陸からの小 さんは く、外円錐に密着する。棘は短くほとんど突出麦輸入を契機に、三圃式農業から分化した農業を中心として発足していたヨーロッパ共同 しない。ひれは広く、腕吸盤は四列、触腕の吸方式である。商業的混合農業、自給的混合農体 (QO) に加盟した。これはの経済 盤は五 ~ 六列で、中央の一列の吸盤は他よりも業、酪農、園芸農業、地中海式農業の四種五類的地位を弱体化し、かっの存在意義を 大きい。現在、市場でモンゴウイカ ( 紋甲烏型からなり、ヨーロツ。ハ以外の国々にも分布し失わせるものであった。そのために残 ている。いずれも耕種農業と家畜飼養が結合し留した七か国は、との間で連合協定締結を 賊 ) とよばれているイカは大部分本種である。 モンゴウイカの名は、本来カミナリイカの地方た有畜農業であること、土地利用は穀物類と飼個別に交渉、七二年七月一三日にベルギーのプ リュッセルでヨーロッパ自由貿易地域協定に調 名であったが、最近では遠洋トロールによって料用作物との輪作を特色とすること、自給的混 印した。協定内容は各国ごとに異なるが、その 本種が多量に入荷するようになり、もつばらそ合農業地域を除き商品生産が盛んであること、 地中海式農業地域の一部を除いて一般に中規模骨子は、一部の例外品目を除いて、工業製品に の名は本種に流用され流布した。日本の遠洋ト ついて段階的に関税を引き下げ、最終的には関 ロールのみでなく、ヨーロッパ諸国も本種を漁経営の自作農を主体とすること、労働生産性・ 獲利用していて、底引網のほか「イカ籠」など土地生産性ともにアジア式農業に比べて高いこ税の撤廃を目ざすというものであった。この結 と、などの点を特色としている。〈新井鎮久〉果七七年七月一日、七か国、九か でもとられる。 〈奥谷喬司〉 しはらいど , つめし こくさいど , つろ 国を含めた一六か国からなる一大自由貿易地域 3 ヨーロッパ支払同盟 ヨーロッパ国際道路網 けっさいどうめい もう The lnternational E-Road Network 〈相原光〉 6 が形成された。↓経済統合 0 ヨーロッパ決済同盟 ヨーロッバコウイカ 通常は足の付け根のポケットに収めた触腕を すばやく伸ばし , 甲殻類などを捕食する 、デンマーク、
らてんあ ラテンアメリカの国々 その固有の文化的伝統を残した。これに対して、ラテンアメ硯 リカの植民地化は一五 ~ 一六世紀のスペイン、ポルトガルが 国民国家を建設した動きと理念をそのままに拡大する形でな されたから、言語・文化・宗教面での徹底したヨーロッパ化 を受けた。世界史の流れが、近代でのヨーロッパ世界の非ョ しゅうえん ーロッパ世界への優越を終焉させ、現代に入って非ヨーロ ハ世界が台頭し、世界がもはやヨーロッパ世界中心に動く のをやめるようになったとき、ラテンアメリカは台頭した。 しかし、そこにはヨーロッパ世界への帰属感が多分に残され ていた。現代におけるラテンアメリカの台頭は、非ヨーロッ ハ世界の巻き返しという一面をもち、基本的にはその流れに 促されながら、他方では、同じヨーロツ。ハ世界内部での、近 代においては優位を占めた中心部に対する劣位だった周辺か らの巻き返しが、現代になって進行し始めたという一面をも っている。 〔歴史の始まりと時代区分〕従来、ラテンアメリカの歴史 は、一五世紀末、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を「発見」 し、それをヨーロツ。ハ文明の枠の中に引き入れたときに始ま み出された周辺としてのラテンアメリカが陥った政治的・経ると考えられていた。しかし、近年では、その歴史に、ヨー 済的従属から自らを解き放っため、それを支配するヨーロッ ロッパ人到来以前の原住民社会の諸制度が及ばした影響が再 ハ的世界の中心に対する反逆の過程という他の一面とから成評価を受けるようになり、かっては歴史以前とよばれた新大 り立っている。 陸の古代文明の歴史がむしろラテンアメリカ史そのものの必 す ラテンアメリカは近世・近代におけるヨーロッパ文明の拡須の一章として扱われるべきだとの考えが強まってきてい 大の直接の産物であり、その文化的・制度的母胎の最大のもる。一方、今日のラテンアメリカの諸制度を形成するにあた のをヨーロッパから受け、また、新大陸という共通の地理的って、もう一つの、しかもより大きな母胎を提供したのはイ 環境での歴史的発展を遂げた点で、アメリカ、カナダ、オー ・ヘリア半島 ( スペイン、ポルトガル ) であり、それゆえに、 ストラリアなどの新大陸国家と共通した歴史を有する。しか一六世紀に至るまでのイベリア半島の歴史は、ラテンアメリ えんげん し、他の新大陸国家と違って原住民社会の文化や制度を相当力の淵源として顧みられねばならない。 このような異種の文 に残存させ、それを融合したこと、また、受け継いだヨーロ 明が接触し、融合の過程が始まる一五世紀末以後にラテンア ツ。ハ文明は主として近代合理主義以前のそれであったことか メリカそのものは生まれるわけだが、それ以後の歴史は、ま ら、産業文明とは異なった文明へと発展し、一方では経済的ったく異なった大陸で互いに孤立して発展した前記一一つの文 フリカと共通の歴史的発展を遂げた。現代においては、ヨー な低開発と他地域への従属が深化したことなどの点で、他の明の歴史と直接につながっているのであり、そうした複数 ロツ。ハ的世界の中心となったアメリカ合衆国に対する反逆、新大陸国家と明らかに違った歴史的発展を遂げた。アメリカの、しかも互いに著しく異質な起点を有することこそが、ラ 抵抗という過程をとっており、ラテンアメリカの台頭は非ョ 合衆国がヨーロッパ的世界の中心となったのと対比的に、ラ テンアメリカ史の独特な性格といえよう。 ーロッパ世界の巻き返しという一面をもっている。 テンアメリカはその周辺にとどまり、中心であるアメリカの 時代区分に関しては、従来は、いかなる国家権力の下に置 支配に反逆、抵抗するというのがラテンアメリカ現代史の一かれたかによって、次の二時代に大別されていた。①一五世 歴史 つの基調であるといえる。 紀末から一九世紀初めまでの植民地時代、すなわち、新大陸 〔特徴〕ラテンアメリカはヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世 ラテンアメリカは、また、植民地化と従属、低開発の持続の植民地がスペイン、ポルトガル、フランスの王権の下で統 界の両方の要素を内包し、両者の掛け橋的存在である点で、 という点で、アジア、アフリカと共通の歴史的体験を有す治されていた時代。②一九世紀初めより今日に至るまでの独 世界の諸文明圏のなかで特異な地位にある。その歴史も、ヨる。しかし、アジア、アフリカは主として一九世紀の西欧列立国時代、すなわち、カリブ海地方の少数の植民地を除い ーロッパ世界の拡大の過程という一面と、その拡大の結果生強の植民地主義の下で政治的・経済的支配を受けながらも、て、一般に新大陸のスペイン、ポルトガル、フランス領植民 ッソー マ、 / 、マ プエルト・リコ〔みリカ〕 バス・テールセント・クリストファー・ネイビス 和国 キングスト / セント・ジョンズアンティグア・ / 、一プーダ ・リーズ ント・ドこ ジャマイカ ・ルモノヾン ーマラ ポルトー・プランス カストリーズセントりレシア テグシガルバ カリブ海グレナダ ・プリッジタウン / くル / 、ドス ント・ジョージズ . ` キングズタウンセント・ビンセント・グレナディーンズ ラグア マナグア・ ポート・オプスペイントリニダード・トパゴ / ヾナマ ラカ サン”、・ コスタリカ ) ベネ マ ・ヨージタウン 。ーマリポ ノ、力・ ・ボゴタ ( 、ノーイ、ス、キ・ コロンビア ム キシコ市・ グアテマ サン・サルバドル 工ルサノレ / 、ト ) レ 〔フランス〕 〔工クアトル〕 工クアトル ガラパゴス諸島 2000km 1000 ス / 、ノいさ、 ・ラジア ・ラりヾス ポリビ ーノ、《ヾラアイ ・アスシオン 1 ) ウルグイ アビデオ 大 ア チ 1 サンティア・ ) / プエノス・アイレス・ ン チ グ 4 0 ひっ
ラントの影響を示している。この様式は一七〇義をとり、収録項目一六万五〇〇〇、挿画、写事家の詩』 Poémes 、をユをき、を一九二〇年代の石油と天然ガスの発見によって 〈菅野峰明〉 〇年代に確立され、とくに当時のプルジョアジ真、地図などを多く用い、平易な記述を特色と母胎に、一三年の・ O ・バルナプース全発展した。 ーに愛好された。 しており、一九八二年からまた新たに改訂版を集』によって文名を確立した。短編一、詩、日ラロ Edouard LaIo ( 一全三ー九一 l) フラン 肖像画の代表作に『美しいストラスプールの編集中である。 記からなるこの作品は、プルーストの『失われスの作曲家。スペイン系。生地リールの音楽院 娘』 ( 一七 0 三、ストラスプール美術館 ) などがあ 一方、後者は二〇巻 ( 一九七一 ~ 七六 ) 、索引 ( 一九た時を求めて』 ( 一九一三 ~ 一一七 ) やアポリネールのでバイオリンとチェロを学んだのち、バリ音楽 る。バリ市の委嘱で制作したモニュメンタルな七 0 、補遺 ( 一九八 l) からなり、知識を総合・評『アルコール』 ( 一九一三 ) と並んで、二〇世紀フラ院に学ぶ。最初はおもに室内楽を発表するが成 奉献画「聖女ジュヌビエープの前に立っパリ市価的に知らせることを目ざしている。大項目主ンス文学に新感覚の息吹と視野の拡大をもたら 功せず、一八五五年以後弦楽四重奏団員として の司法官たち』 ( 一六究、現サンテティエンヌ・ 義をとり、収録項目八〇〇〇余であるが、さら した。初期作品『フェルミナ・マルケス』洋、・ バイオリンあるいはビオラを演奏。七二年に作 デュモン教会蔵 ) もある。わが国では、東京の にそれらの項目に関連する重要事項を掲げて、 きミミい ( 一九一 D 、短編集『幼ごころ』曲した管弦楽のためのデイベルテイメントでよ 国立西洋美術館に『幼い貴族の肖像』 ( 一七一四ころ ) 体系的に解説、挿画、地図、年表等も大きく、 E ミミ es ( 一九一 0 も捨てがたいが、『恋人よ、 うやく作曲家として認められ、スペインのバイ が収蔵されている。 〈上村清雄〉楽しいものにしている。また執筆陣も、学際的幸せな恋人よ』 3 ミミ望ミ e をミミ s ( 一九オリン奏者サラサーテの依頼で作曲したバイオ ラルース Larousse フランスの代表的な な知識と最新の学問の水準を伝えるため、国立三 ) に代表される三部作も、ジョイスの「内的 リン協奏曲へ長調 ( 天七四 ) 、バイオリンと管弦 事典・辞書出版社。一八五二年、ピエール・ラ科学研究センターの研究者を中心に、広く協力独白」を取り入れた作品として重要である。二楽のための「スペイン交響曲』 ( 天七五 ) によっ ルース Pierre ・ Athanase Larousse ( 一八一七ー 者を集めている。人名項目も同様なシステム冊のエッセイ集『黄・青・白』 ( 一九一一七 ) 、『ロー て名声を確立した。このほか「ノルウェー狂詩 七五 ) が友人ボアイエ Pierre Augustin Boyer で、フランスの人物はもとより、たとえば、ドマの旗の下に』 ( 一九三 0 は、ヨーロッパの古今曲』 ( 天七九 ) 、チェロ協奏曲ニ短調 ( 天七六 ) など ( 天 = 一ー九六 ) とともに開いたラルース・ボアイツの演出家、劇作家である・フレヒト BertoIt に通じた文人ラルポー像を浮き彫りにしてい 弦楽器独奏と管弦楽による協奏的作品で、華麗 〈岩崎カ〉 イエ書店がその前身である。一八五六年に初め Brecht の項をみると、七ページにわたり、人る。 な技巧と豊かな表情、色彩感とを融合するのに て小百科事典を出版、これが後の『プチ・ラル と作品の展開を紹介・論評するほか、関連事項回新庄嘉章訳『美わしきフェルミナ』 ( 新潮文成功した。八二年パリ・オペラ座でバレエ「ナ ース』 ( 一九 0 六初版 ) の元祖となり、『一九世紀世として彼が妻とともにつくった劇団「ベルリー 庫 ) ▽岩崎カ訳・ O ・バルナプース全ムーナ』を初演、八八年にはオペラ・コミック 界 ( 万有 ) 百科事典』全一七巻 ( 一 / 穿 、、、 ~ 公 ) にナー・アンサンプル」 Berliner Ensemble の 集』 ( 一九七三・河出書房新社 ) 座で『イスの王』を初演、とくに後者は高い評 0 ローリー よって、ラルースの名は世界的に有名になったテキストの分析とその協力者の略伝などもあげラレー 価を与えられたが、その他の舞台音楽は成功に が、一九八四年六月、経営難から情報関連会社ている。 一九は至らなかった。パリに没。 〈彌吉光長〉ラレータ Enrique Larreta ( 天七五ー 六 l) アルゼンチンの小説家。弁護士の資格を に吸収された。『大ラルース百科事典』ラルテ Edward Armand Lartet ( 天 0 一 『二〇世紀大事典』のほか、『フランス語大辞 —?I) フランスの地質学者、考古学者。サ得て、大学卒業後は新聞、雑誌に寄稿。スペイ 典』『レキシス』などの言語辞典が代表的出版ン・ギローに生まれる。一八三四年にオーシュ ンに渡り五年間古文書をあさり、『ドン・ラミ 物である。↓ラルース百科事典〈矢野浩三郎〉で行った発掘研究をはじめとして、フランス各 ーロの栄光、フェリペ二世時代の或る生』 ( 一九 どうくったいせきぶつ ー - にゆ・つ モデルニスモ ーーひや。かじてんフ地の洞窟堆積物と化石唖乳類の研究に専念し 00 を発表した。近代主義の古典ともいわれ、 ラルース百科事典 ランスを代表する百科事典。ラルース出版社 フロべールの『サランポー』にも比較されるこ た。一八六〇年から六五年にかけての発掘研究 Librairie Larousse 発行。創始者のラルースで、洪積世 ( 更新世 ) に人類が存在したことをの歴史小説は、アビラの町を舞台にスペイン人 は一八五〇年『フランス語辞典』き守 2 証明した。また六三年には化石哺乳類の変化に とモーロ人、そして両者の文化が共存する一六 ミミ洋を旁 e を出版し、好評であっ よって、洪積世を古期、中期、新期の三つに区世紀末のスペインを色鮮やかに描いたもの。帰 作曲家としては、とくにオーケストラから色 たため、五二年友人と共同で出版社を設立、国分している。六九年にはバリの自然史博物館の国後は大学で中世史を講義、かたわら外交官、 語教科書や文法書に新エ夫を加えたものなどを古生物部門の主任に任命された。白亜紀および文化協会会長などを務めながら、『ソゴイビ』彩豊かな響きを引き出す点で・ヘルリオーズを継 発行して歓迎された。彼はこれをもとに国民教第三紀の化石有尾類の専報を出版したほか、第 ( 一九一一六 ) 、『パンパにて』 ( 一九五五 ) などアルゼンチ承、一方ロマン性にあふれた表情の点でシュー 育的発想から百科事典の大衆化を企て、小項目三紀の化石サルの発見者としても知られてい ンが舞台の一連の小説や戯曲、歴史評論を著しマンの影響を受けた。またスペインの舞曲のリ 〈安藤哲行〉 主義で図版を多く採用した二九世紀世界 ( 万る。クロマニョン人を発見したルイ・ラルテは ズムを巧みに、生き生きと自分の作品のなかで 有 ) 百科事典』 Grand c を e ) ミ彼の息子である。 〈大森昌衛〉ラレード Laredo アメリカ合衆国、テキ用いるなど、生気にあふれた表現を目ざした。 XIXe 全一五巻 ( 一会六 ~ 七六、のち大、 ー一九五七 ) サス州南部、ウエプ郡の郡都。人口九万一四四彼の息子ピエール・ラロ ( 一会六ー一九四三 ) は、有 一フルホー VaIery Larbaud ( 天 〈美山良夫〉 公に補遺二巻 ) を刊行した。完成一年前に彼自フランスの作家。ビシーの富裕な鉱泉経営者の九 ( 一九ハ 0 ) 。リオ・グランデ川に面した国境の名な音楽批評家になった。 身は没したが、後継者がその意志を受け継いでひとり息子に生まれる。病気保養も兼ねて幼少町で、合衆国とメキシコ両地域に商圏をもっ 一フロ Charles La10 ( 天耄ー一九五三 ) フラ 今日の発展の基礎を築いた。 ンスの美学者。ペリグーに生まれる。音楽美学 期からヨーロッパ各地を旅行、とりわけ一七歳卸・小売業の中心地である。周囲は灌漑農業と ラルース百科事典の代表的なものは、第二次の夏から秋にかけてロシアやトルコまで足を伸牧畜が発達し、石炭・石油もある。衣服、電気や実験美学の研究によって博士号を取得したの 世界大戦後に出版された二種の新改訂版であろばし、「コスモポリティスム cosmopolitisme 器具、陶器、医療用品、皮革製品などの工業がち、ソルポンヌ大学の美学講座をバッシュから う。すなわち、『大ラルース百科事典』 G き文学の旗手」としての素地を培った。一八九六発達している。一七五五年にメキシコ人が入植受け継いだ。スリオ、バイ工とともに『美学雑 Larousse 導 cyc & ミと『大百科事典』ご年、一五歳で処女詩集『柱廊』を自費出版、一一し、メキシコとテキサスの都市を結ぶ街道の宿誌』や戔ミ dEs 、ミミを創刊し、フランス ろ Grande 導。、。である。前者は全一〇巻〇歳のときコールリッジの『老水夫の歌』を翻駅として栄えた。一八四八年に合衆国領とな美学会最初の会長となった。思想的には当初、 3 - 一う 、ら ( 一九六 0 ~ 六四 ) 、補遺一一巻 ( 一九六九、七五 ) で小項目主訳、一九〇八年同じく自費出版した『富裕な好り、八〇年代の鉄道の開通、灌漑農業の発展、社会的環境が芸術に及ばす影響を重視し、実証 8 か鴛んルい .1 E. ラロ
よろつば ョーロッパ共同体 機構と運営 一九五六年六月から五七年三月にかけて条約よび競争等の各分野における共通政策を実施し年四月八日、ヨーロッパ共同体の単一理事会お 一九五五年五月に開かれた総会の討 よび単一委員会設立条約が調印され、六七年七 議のなかで、石炭、鉄鋼以外の分野にも共同体草案が練られ、その三月二五日に加盟ている。 が別に設けられたのは、原子月一日に発効した。これによって三つの共同体 的アプローチをとることの必要性が論じられ、国は、新しい二つの共同体条約に調印した。す は、五八年以来の総会および裁判所に加えて、 なわち、ヨーロッパ経済共同体 (European 力が危険性を伴う特殊な分野に属しており、し 会期の終わりに同総会は全会一致でヨーロッパ たがって特別な取扱いを必要としたこと、また理事会ならびに委員会を共通機関として有する 統合の次の段階を目ざすため、六加盟国の外相 Economic CommunitY) 創設条約とヨーロッ ハ原子力共同体 (European Atomic Energy 原子力産業の発展にはきわめて高度な科学的知ことになった。なお、これによっての 会議を開催することを決議した。これを受け て、同年六月、イタリアのメッシーナで外相会 community) 創設条約である。これらの条約識と巨額の費用が必要とされるが、これらは一最高機関は委員会に統一される形になった。こ のような主要機関の統一を機に、三共同体はヨ は五八年一月一日に発効した。これらをローマ国家の能力を超えるので、各国が共同して研究 議が開かれた。そこではヨーロツ。ハ建設の新た ーロッパ共同体とよばれるようになった。 および開発にあたる必要があったからである。 な前進を検討する政府間委員会が設けられ、そ条約ともいう。 〔拡大〕イギリスは、一九六三年と六七年に加 は、石炭、鉄鋼および原子力を除く他と同時に、国際原子力機関と有機的に結び付く の委員長にベルギーのスパーク外相が指名され 盟申請を行ったが、いずれもフランスの反対に ことも考慮されたといえる。 た。五六年四月、ス。ハーク報告が各加盟国の首の経済分野を包含する共同体である。それの目 脳の下に提出されたが、それの中心は新しい経的は、共同市場の創設、共同体全体の経済活動〔諸機関の統合〕およびあって失敗に終わった。七〇年に三度目の加盟 の発足に際して、それそれが理事会と委員会を申請を行った結果、加盟が認められることにな 済的結合の創設にあった。この報告に対し、各の調和的発展、生活水準の向上および加盟国間 り、同国と並んで加盟申請を行っていたアイル 国の首脳はすばやい反応を示した。すなわち、の関係の緊密化ということにある。そして有することになったが、総会と裁判所は ランド、デンマークおよびノルウェー四か国と O のそれらと共通の機関となった。しかし三つ 彼らは同年五月・ヘネチアに会合し、公式会議の O は、これらの目的実現のために、域内におけ の共同体がそれそれ別個の立法機関と行政機関原加盟国との間に加盟に関するプリュッセル条 討議資料として同報告を採択することを決め、る関税および数量制限の廃止、域外に対する共 スパーク委員会に対し引き続いて報告を具体化通関税の設定など、いわゆる関税同盟を基礎を有したことによって、それらの活動に重複が約が締結され、七三年一月一日に発効すること になった。しかしノルウェーは国民投票の結 するための条約草案の作成を委嘱したのであに、人、財貨および資本の自由移動の障害を除みられ、また政策の調整が必要とされるように る。 去し、また、通商、農林水産業、社会、運輸おなった。この問題を解決するために、一九六五果、反対が過半数を超えたため加盟に至らなか った。その後、七五年にギリシアが加盟申請を 府 区区 マ間のフタンのう 区 府政 一広約 ( イラ , よ 挙挙区 ノ一年一月一日に加盟国となった。七七 ロの条国 , オクも 政ク府 区挙区区区区選区選区挙区府 マかッ , ルの年にはスペインおよびポルトガルが加盟を申請 体 挙選挙挙挙挙ド挙ク挙選挙府政府府府府ト府ル府政府 同日ト一 6 ィ一プ 選ク選選選選ン選の選ル選政ク政政政政ン政プ政ル政 し、八六年一月一日に加盟した。八七年現在、 ドギン調 一ツアンスラアンタガス 一ツアンスラアフダガス一 一参西ルセる 加盟国は一二か国である。 ン キマイシインルリセントリ キマイシインルリ ッ 3 ( れ , ペクよ ヘライタクラルキ ヘライタクラルキルンドリ ロ年所わ式ス 〔法〕の注目すべき点は、それ独自の ペデ西キスファイルオホイベデ西キスファイルオポイ 一引役行印ンア , 相 ョ四市で調ラリダ外法秩序を有していることである。法は、① 三共同体創設条約、諸機関の統一に関する条 約、加盟条約および予算条約など、②共同体立 法、③ 0 裁判所の判例、④加盟国に共通な法 の一般原則、によって構成される。三共同体創 設条約は、 O の憲法的性格を有する。第二の 法源としての共同体立法は、理事会あるいは委 員会の定める諸法規によって構成され、運 営上重要な役割を演する。種類としては、規則 regulation 、命令 directive 、決定 decision 勧生ロ recommendation および意見 0 三 n 一 on の五つがある。規則は全加盟国において拘束力 を有し、直接に適用される。命令は、達成され あ るべき結果についてはそれが宛てられた加盟国 を拘束するが、履行の形式と方法の選択は当該 加盟国にゆだねられる。決定は、すべての点に おいて、それが宛てられた者を拘束する。勧告 および意見は拘束力を有しない。①および②が 文字どおりの立法とすれば、③はすこし異な る。つまり、裁判所の判例は制定法そのも のではないが、解釈を通して諸条約あるい かんげき は共同体立法の間隙を埋めることによって判例 6 直接選挙 ロ 一会 ョ議 ニ一一口 監督 経済社会評議会 通貨評議会 運輸委員会 ニ一一口 ニ : ロ 閣僚理事会一 常駐代表 委員会 見 意 見 意 EC 委員会 覚え書・提案 委任・指示・決定 共同体基金の運営 会計監査院 執行 欧州投資銀行 一三ロ 訟 ・各個人 ・各国政府 審判 審判 審判 一三ロ 所 LLJ 注 : 駐日 EC 委員会代表部資科による 価 U 督 U せ u 鬨咄↓
らんぐん ランクーン / 歩ィ わたしは二〇べん目の気まぐれを元前六世紀ころの建立の仏塔 ) を擁する一 一やっているところです」など、自寒村にすぎず、聖地ダゴンとして知られる 由な女性の面目が生き生きとうかのみであった。王朝時代の都は、もつばら がえる。 〈榊原晃三〉上ビルマに置かれ、下ビルマの中心はペグ ーにあった。また、海港として栄えたのも 一フングーン Rangoon ビル マの首都で同国最大の都市。ビル対岸のダラ、シリアムや、ペグー、マルタ マ語名はヤンゴンであるが、英語 バンなどの港であった。ダゴンが重要性を 風になまったラングーンで知られもつのは、一八世紀にアラウンパャー王が ~ る。人口二四五万八七一二 ( 一九全ビルマを統一して以降のことである。一 <III)O ペグー山脈から流れるフラ七五五年、モン族と戦ってダゴンの町を占 、イン川とペグー川の合流点に位置領したアラウンバヤー王は、この地に城 さい 「する。合流点以下はラングーン川 砦を築き対モン族戦争の軍事基地とし、敵 とよばれ、約三〇キロ下るとマルタの根絶を願ってこの地をラングーン ( 「戦 ハン湾に達する。熱帯モンスーン いの終わり」の意。現代ビルマ語でヤンゴ ン Yangon) と命名した。モン族制圧後、こ教授となり ( ~ 天七 I) 、以後プロイセン修史官 義 1 ~ 気候に属し、年平均気温は二七・ 二度 0 。一二月から二月までは比の町は下ビルマ統治の中心として機能し、ま バイエルン学士院史学委員会長を兼任するかた 較的しのぎやすいが、四月と五月 た、王国最大の貿易港として発展していった。わら、『ローマ教皇史』 ( 天三四 ~ 三九 ) をはじめ晩 はきわめて暑い。年降水量は二五しかし、ラングーンが一大発展を遂げるのは、年の『世界史』 ( 一公 0 ~ 会、未完 ) に至るまで、 宗教改革史やフランス、イギリス、プロイセ 一〔七四・二ミリで、その八〇 % は六月一八五二年の第二次ビルマ戦争後のイギリスに から九月までに降る。ビルマの政よる一方的な下ビルマ併合以降のことである。 ン、ドイツの各国史その他の画期的大作を著 おうせい 】第治の中心地であるとともに経済の ラングーンはイギリス領ビルマの中心としてし、旺盛な研究、教育活動を行った。 彼は、プロテスタント思想、ロマン主義思想 一」、 . 中心地で、ラングーン港は同国の再建拡張され、ほば現在のラングーンの原型が : 貿易の八〇 % を取り扱う。工業は築かれた。二〇世紀に入るとその重要性は高まを基礎に「あらゆる時代は直接神につながる」 以前から精米、製材工場が多数あり、一八七〇年代には約一〇万であった人口 と述べ、カトリック的および啓蒙主義的、ヘー ったが、独立後は産業国有化政策も、一九〇一年には二五万、三一年には四〇万ゲル的歴史観に反対して、各時代、各民族の個 により鉄鋼、薬品、ジュート紡と急増していった。この人口増加にはインド人性的特質とその質的発展重視を主張した ( 歴史 績、造船などの国営工場が新設さ労働者の移民が大きな部分を占めていた。ビル主義 ) 。また、歴史学の任務は「それが実際い れ発展が著しい。また、ラングー マ人は人口の三〇 % 弱を占めるのみで、インド かにあったかを示す」ことだと述べ、実用主義 かきよう ン大学、ラングーン工科大学など人、華僑が経済活動を握るなど、典型的な植民的歴史叙述を排して客観的歴史叙述を主張し、 各種教育機関もここに集中する。 地都市の様相を示していた。第二次世界大戦中その基礎となる厳正な客観的歴史事実確定のた 交通面でも同国の中枢をなし、一フ の日本軍による占領、イギリス軍の再占領によめの史料批判の方法を確立した。その理論は、 ングーン港は運河によりイラワデ って、都市の大部分が破壊されたが、一九四八 西欧の政治的発展のみに視野が限定されて、社 イ水系やシッタン水系と結ばれ年にビルマが独立すると、独立国家の首都とし会的構造分析に欠け、またアジアがその前史ま る。鉄道はマンダレー、プロー て面目を一新した。 〈渡辺佳成〉たは停滞社会と位置づけられているなどの問題 ム、マルタバンの各市への起点 点はあるが、科学的方法の確立と歴史主義に基 一フンケ Leopold von Ranke ( 一七九五ー天 で、北部のミンガラドン空港はこ 八六 ) ドイツの歴史家。チューリンゲンの地方づく広範な芸術的歴史叙述によって、彼は近代 の国の空の玄関である。市内には都市ウィーエで、プロテスタント牧師の家系で歴史学の確立者となった。その学風は、ワイ ロイヤル湖やインヤ湖などの水道弁護士だった名望家の子として生まれる。プフ ツ、ギーゼプレヒト、ジーベルなどによって継 用人工湖があり、緑に包まれた市ォルタ学院、ついでライブツイヒ、ハレ大学で承され、歴史学の一大潮流 ( ランケ学派 ) とな 街地や公園が多い。また都心部の神学、一言語学を学び ( 天一四 ~ 一 0 、卒業と同時った。 〈岡崎勝世〉 広場にある優美なスーレー にフランクフルト ( オーデル河畔 ) のギムナジ回ランケ著、鈴本成高・相原信作訳『世界史概 きんばく ド記 , 識ス ハ像ダ、ラングーン丘陵にある金箔をウム教官となった。処女作『ロマン的・ゲルマ 観』 ( 岩波文庫 ) ▽村岡晢著『ランケ』 ( 一九 ン立舎標る ン施した巨大なシュエダゴン・パゴン的諸民族の歴史』 ( 一全四 ) が認められてベル パ・田 ~ な口王い 五九・有斐閣 ) ▽林健太郎編『世界の名著 のる市里てダゴあ リン大学員外教授となり ( 一全五 ) 、イタリアへ 続Ⅱランケ』 ( 一九七四・中央公論社 ) 部あはのつゴダにダなど、仏教国の首都にふさわし 工内 むに方マなハ く多くの仏塔がある。〈酒井敏明〉の史料研究旅行後、『歴史・政治雑誌』 ( 天三一一 ~ 一フンケ Friedrich AIbert Lange ( 天天 中園後ルと 市公。ビ点一シの〔歴史〕一八世紀までは、シュエ 三六 ) の主筆となって歴史的保守主義を説き、七 ー七五 ) ドイツの哲学者。ポン大学に学び、の ラ塔は基レ〕ダ 右 一念左の一 ゴダゴン・パゴダ ( 伝承によれば紀 月革命に反対した。一八三四年ベルリン大学正ち同大学私講師。やがてチューリヒ大学を経て じよう 、ランケ西ベルリンベルリン国立美術館 834
キ、良好な画質が得られること、などの利点があどが、激しい下痢による脱水であることに気づは、対象となる生体の年齢、体重、身長、体表たものである。これに対し後者は、すでに栄養 4 る。 いたラーター A. Latta は、コレラ患者の静面積などを基本指標とし、これに体温などの因輸液用素材として相当古くから実用化されてい え たブドウ糖の高濃度溶液 ( 二五 % 前後 ) に、 脈内に食塩水を輸注することによって顕著な成子を参考とした、一定量の水分電解質量という 〔送信設備〕大・中電力用アンテナには双ルー らせん ゅ ~ 三 % の割合でアミノ酸を混じた高浸透圧の輸 ことになる。これに対して、修復輸液量は、異 プアンテナ、螺旋アンテナ、反射板付きダイボ果をあげた。静脈内注射の最初の試みからおよ ールアンテナなどが用いられ、微小電力には必そ一五〇年を経て、輸注の臨床効用が明らかと常喪失される水分電解質を実測し、その実測量注液 ( 高張液 ) を、血流量の多い中心静脈 ( 上 ということになり、欠之輸液量は、輸液療法開大静脈 ) 内に留置した細いチュープ ( カテーテ 要に応じて三素子、五素子、八素子などのリンなったわけである。しかし、依然として当時に グアンテナが用いられることが多い。用おいては、細菌感染についての十分な知識がな始直前の体重、血清電解質濃度、血清浸透圧ル ) を経て、微量輸液ポンプで輸注する方法で く、消毒の概念も確立されていなかったため、値、血液ガス測定値、尿量、尿比重、尿浸透圧あった。この輸注液は、単に、熱量源としての 送信機は本質的に用と変わりないが、一 値などから、対象となる生体の水分電解質の欠ブドウ糖とタンパク源としてのアミノ酸を含ん 五 ~ 五〇メガヘルツの中間周波数帯の搬送波を映静脈内注射にはまだ多くの危険が伴っていた。 像信号で変調し、これを周波数変換してその後一八六一年パスツールによって細菌学が乏量を算出し、その二分の一量を輸液開始直後でいるだけではなく、生体が必要とする多種類 の電解質、ミネラルおよびビタミン類を含有し の二四時間で輸注することとなる。したがっ 帯の信号を得たのち、増幅する形式のものが多確立され、一八六七年、リスターによって消毒 おうと 法が開発されるなどを経て、静脈内注射すなわて、嘔吐などのために脱水症状のある生体に輸ており、静脈内輸液だけで、生体が必要とする 増幅器には四極管、進行波管、クライスト ロンなどが用いられ、とくにクライストロンはち輸液は、近代医療における重要な治療法の一液を行う場合には、水分電解質の補給について熱量と栄養素のすべてを補給するという、独創 は、これら三種類の概念の輸液を総合して一日性を有する栄養輸液法である。この完全静脈栄 っとしてしだいに注目されるようになり、多く 大電力用である。小電力、微小電力用にはトラ の研究が加わって発展した。さらに第二次世界の輸液量を決定し、その量を二四時間要して、養法による栄養輸液は、従来の栄養輸液と比較 ンジスタ増幅器が用いられる。 〔受信設備〕アンテナには八木ー宇田アンテ大戦を迎えると、水分電解質輸液 ( 塩類輸液 ) 少量継続点滴輸注法で静脈内に投与するのが原して、その保有熱量が著しく高くなったことか ら「高カロリー輸液」と通称されている。以上 則である。 ナ、リングアンテナなどが多く用いられる。素の重要性に対する認識が完全に確立した。わが 水分電解質輸液のために用いられる輸注液とのような新しい輸液製剤および輸液法の導入に 子数は八 ~ 二六程度で、より一般に小型国でも、当時の軍陣医学において多くの研究が しては、五 % ブドウ糖液、生理的食塩液、リン よって、栄養輸液は最近の一〇余年間に飛躍的 なされたようである。したがって、治療法の一 ですむ。テレビ放送開始当時は、 に発展し、経ロ的栄養摂取が制限あるいは途絶 チャネルだけ受信する受像機が普及していたたっとしての「輸液」の真の発展普及は同大戦終ガー ( リンゲル ) 溶液、ハルトマン液などのほ した症例の、内科的あるいは外科的治療の成績 了後ということになり、今日、実地医療の場でか、維持輸液用輸注液、脱水症用輸注液などと め、の電波をに変換する / > コ 多くの種類があり、既製市販されている。 向上に画期的な役割を果たしている。 は不可欠の治療手段の一つとなっている。 ンバーターを使用し、出力を受像機に加えた 〔栄養輸液〕この水分電解質の非経ロ的補給と この高カロリー輸液による完全静脈栄養のた このような発展過程からも明らかなように、 が、現在では一つの受像機に > 、の 一体になって発展してきたのが「栄養輸液」とめに用いられる輸注液としては、高濃度糖質液 一般に、単に「輸液」という場合には、水分電 全チャネルを受信できるものが普及している。 ↓テレビジョン いう概念である。前述の一九世紀におけるコレ C フドウ糖中心 ) 、電解質ミネラル液 ( ナトリウ 〈木村敏・金木利之〉解質 ( 塩類 ) の非経ロ的補給を意味しているこ ム、カリウムから、銅、亜鉛といった生体に極 ラ流行の際には、牛乳輸液も試みられたが、こ ゆえき infusion therapy 非経ロ的とが多いしたがって、包括的には輸液という 輸液 はんちゅう ことばの範疇に入れられるが、その目的とすれも、栄養を補給したいという当時の医師の願微量しか存在しないミネラルまで ) 、型結晶 経路 ( 非経腸的経路。おもに静脈内 ) に大量の 人工溶液を持続的に注入補給する治療手段の総るところが栄養補給である場合には「栄養輸望があったものと思われる。この栄養素の非経アミノ酸混合液、脂肪乳剤、多種ビタミン液な けっしよう 液」とよばれ、血漿浸透圧維持のために血漿ロ的補給という考えが実現されたのは、一九世どがあり、使用の便を考慮して、多種電解質ミ 称である。また、この人工溶液をさして輸液と もいうが、ここでは混乱を避けるため、後者にあるいは代用血漿が投与される場合には「血漿紀末のブドウ糖液の輸液が初めてであり、二〇ネラルを含有した高濃度ブドウ糖液なども既製 世紀に入ると、乳化された脂肪、タンパク水解市販されている。 ついては、輸注液と称することとする。なんら輸液」「代用血漿輸液」などと称される。 また、急性出血などによって循環血液量が減 〔水分電解質輸液〕水分電解質輸液は、維持輸物などの輸注が試みられた。しかし、輸注液の かの病的状態、すなわち疾病、外傷、手術など 問少し、出血性ショックに陥り、輸血を必要とす のために、経ロ的 ( 経腸的 ) に水分、電解質液、修復輸液、欠乏輸液という三つの因子に大精製度、製剤技術、副作用などの点で多くの る生体に、緊急的処置として加熱ヒト血漿タン 別される。維持輸液とは、生体が毎日摂取する題があり、一般に普及するまでには至らなかっ ( 塩類 ) 、熱量、栄養素を摂取することができな た。この栄養輸液が実地臨床の場に取り入れら ハク液、アルプミン液を輸注する場合が「血漿 必要量だけの水分および電解質を供給すること くなった生体に、それらを経静脈的に補給する ・一うしつ であり、修復輸液とは、輸液療法が開始されてれだしたのは第二次大戦後であるが、今日の爆輸液」であり、血漿の膠質浸透圧と同程度の浸 のが輸液であるが、その歴史はきわめて古い 発的発展の起爆剤となったのは、一九五七年の透圧の人工的膠質液 ( デキストラン液、ゼラチ 〔輸液の歴史〕静脈内への薬剤投与の可能性からの体液の異常喪失 ( 経鼻胃管によって吸引 大豆油乳剤の開発と、一九六八年の高濃度ブド ン液、ポリビニルピロリドン液、アルギニン液 ーベーによる血液循環排棄される胃液、創浸出液、腹水漏出などをい は、一六一六年の・ じようせつ 、尿、普通便、不感蒸泄水分などは含まれウ糖・アミノ酸液の中心静脈内輸注による「完など ) を輸注する場合が「代用血漿輸液」であ の発見に源を発するといわれている。そのほば 〈平井慶徳〉 ない ) を補うことである。また、欠乏輸液と全静脈栄養法」という革新的な栄養輸液法の開る。 四〇年後の六五年にイギリスのウレン C. Wren 、つし第、よ・り ューエスエーアメリカ合衆国 United が、イヌの静脈内に羽軸鑵を用いてアヘンを溶は、輸液が開始される前に異常喪失された水分発であった。 電解質を補うことをいう ( 異常喪失状態を脱水 前者は、単位重量当りの熱量がブドウ糖に比 States of America の略号。↓アメリカ合衆国 解したビールを輸注するという実験を行ってい べ二倍以上であるがゆえに、二〇世紀初めから・・ューエスエーアメリカの作家 る。これ以降、さまざまな人がこの手法を人体症という ) 。 ドス・パソスの長編小説。『北緯四十二度線』 しずれも生体に水分栄養輸液の素材として着目されていた脂肪を、 これら三種類の輸液は、、 に応用することを試みたが、滅菌法、発熱物質 ( 一九三 0 ) 、二九一九年』 ( 一九三一 l) 、『ビッグ・マ の除去についての知識のなかった当時では悲惨電解質を補給するわけであるが、その目的とす静脈内に相当量輸注しても、安全でかっ十分に るところが異なっているため、輸液量の算出方利用されるような、安定した乳化状態にした製ネー』 ( 一九三六 ) の三部からなり、一九三八年 な結果に終わっていた。ところが一八三一年に ・・』として刊行。二〇世紀初頭三〇 ヨーロッパで大流行したコレラの死因のほとん法も異なってくる。すなわち、維持輸液一日量剤であり、栄養輸液の発展に素材面から貢献し