ヨーロッパ - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 24
211件見つかりました。

1. 日本大百科全書 24

ひら 〔宗教思想家たち〕一方、ロシア哲学の流れに ざした新しい文学を拓いたラスプーチンもこの 認められる。 で生まれた。その一人、ラジーシチェフ ( 一七四九 は、ホミヤコーフ、キレーエフスキーらのスラ 系統に属する。ほかに歴史ものに新境地をみい ソビエト文学の影響はロシア文学に比べて見 ー天 0 一 D は、自然法の理念をロシアに植え付 だしたオクジャワ、『老人』 ( 一九七九 ) 、『ある時劣りし、ショーロホフ、エレンプルグ、アクシ け、急進的なインテリゲンチャの始祖となっプ派や、彼の文学そのものが近代ヨーロッパ文 ー一全六 ) 、ルーニン明に対するもっとも根本的な告発であったドス 間、ある所』 (R<I) など都会ものの問題作をヨーノフ、ソルジェニツインらの文学がそれぞた。彼に、。 へステリ ( 一七九三 発表し続けたトリーフォノフらが注目された。 ー八一 ) を受け継ぐ、レオン れの時代に関心をよんだにとどまる。政治的に ( 一大七ー一会五 ) などロシア最初の革命家のデカトエフスキー ( 一全一 チェフ ( 天三一ー九一 ) 、フヨードロフ ( 一全〈ー 一九八五年、ゴルバチョフ政権の登場ととも理解された社会主義リアリズム論の悪影響であ。フリストが続く。 ー一九 00 ) 、ローザノフ に「ペレストロイカ」「グラスノスチ」の新時ろう。そのなかでラスプーチン、アイトマート 0 三 ) 、ソロビョフ ( 一会三 〔ロシアの進路〕ナポレオンに対する勝利 ( 天 ( 天五六ー一九一九 ) 、ベルジャーエフ ( 一四ー一九四 0 、 代を迎え、ソビエト文学は新たな高揚を経験しフらが現代文学で注目されている。〈江川卓〉 lll) による民族意識の高揚と、ヘルダー、シェ つつある。バステルナークの『ドクトル・ジバ ー一九四三 ) ら、ギリシア 回木村彰一・北垣信行・池田健太郎編『世界の フロレーンスキー ( 天、 リング、ヘーゲルらドイツ哲学の影響で、ロシ ゴ』、プラトーノフの『土台穴』ザミャーチン 文学史 5 ロシアの文学』 ( 一九六六・明治書院 ) アの進路が、彼らの緊急の課題となった。チャ正教の立場にたっ宗教思想家の系譜がある。彼 の『われら』など、多年禁書扱いになっていた ▽木村彰一編『ロシア・ソビエト文学』 ( 毎アダーエフ ( 一七九四ー一会六 ) は、『哲学書簡』 ( 天 らは、反ヨーロッパ、 反近代、反合理主義で共 日ライフラリ 〈安井亮平〉 イ品が公表され、ルイバコフの『アルバート街 ー ) ▽米川正夫著『ロシア文三六 ) で、この「ロシアとヨーロッヾ ノ」と一い , つ日円 通している。 の子ら』 ( 一九〈七 ) 、ドウジンツェフの『白い衣』 回ベルジャーエフ著、田口貞夫訳『ロシャ思想 学史』 ( 角川文庫 ) ▽金子幸彦著『ロシア文題を、歴史哲学の深みで提起した。同じころ、 ( 一九全 ) 、ビートフの『プーシキン館』 ( 一九〈七 ) 学案内』 ( 岩波文庫 ) ▽スローニム著、神西オドエフスキー ( 天 0 四ー六九 ) は、ロシアは遅れて 史』 ( 一九五八・創文社 ) ▽プレハーノフ著、石 など、長年発表できなかった作品も解禁され 清・池田健太郎訳司ソヴェト文学史』 ( 一九 いるがゆえに輝かしい末来を有すると述べた 川郁男訳『ロシア社会思想史序説』 ( 一九六一・ た。民族文学も活況をみせ、とくにキルギスの 七六・新潮社 ) ▽江川卓著『現代ソビエト文〔スラブ派と西欧派〕それを契機に、ホミヤコ 末来社 ) ▽勝田吉太郎著『近代ロシャ政治 アイトマートフの『一日は一世紀より長い』 学の世界』 ( 一九穴・晶文社 ) ーフ ( 天 0 四ー六 0) 、キレーエフスキー ( 天 0 六ー 思想史』 ( 一九六一・創文社 ) ▽マサリック著、 ーーてつがく口シアは一〇世五 0 、・アクサーコフ ( 天一七ー六 0 ) 、サマー 佐々木俊次・行田良雄訳『ロシア思想史』 ( 一九八 0 ) 、『処刑台』 ( 一九会 ) 、白ロシアの。フィコロシア哲学 き早一し フの『わざわいの兆』 ( 一九会 ) などは長く残る紀末に、・。 ヒサンティンからギリシア正教を受け ン ( 天一九ー七六 ) らのスラブ派と、べリンスキー Ⅱ ( 一九六一一、 六六・みすず書房 ) ▽ヴェイドレ 作品だと思われる。 入れ、国教とした。そして、一七世紀木にビョ ( 天二ー四 0 、ゲルツェン ( 天一一一ー七 0 ) 、グラノ 著、山本俊朗他訳『ロシア文化の連命』 ( 一九 ートル大帝がヨーロッパに門戸を開くまで、ヨ ーフスキー ( 天一三ー五五 ) 、ポトキン ( 天二ー六九 ) 七一一・冬樹社 ) ▽ゼンコーフスキイ著、高野 ロシア・ソビエト文学の日本への影響 ーロッパと異なる道を歩んだ。 らの西欧派が形成された。両派の論争は一八四 雅之訳『ロシャ思想家とヨーロッパ 七三・現代思潮社 ) ▽ヴァリッキ著、今井義 ロシア文学の日本への紹介は一八二二年 ( 文〔ロシアとヨーロッパ〕ロシアは、ギリシア、〇年代に最高潮に達した。彼らの国粋か欧化か 政五 ) ナロードニキ革命家の伝記が『烈女之疑ローマの古典文化とほとんど無縁であったし、 の対立の底には、ギリシア正教か無神論か、反 夫訳『ロシア社会思想とスラヴ主義』 ( 一九 きしゅうしゅう 獄』『鬼啾啾』として紹介されたときに始ま ルネサンスも宗教改革も経験しなかった。ロシ 合理主義か合理主義かの対立があった。 七九・末来社 ) ▽エフドキーモフ著、古谷功 かしん る。その後プーシキンの『大尉の娘』が『花心 アにおいて世俗化が進み、哲学が誕生するの 〔解放思想家たち〕一 八六一年に農奴が解放さ 訳『ロシア思想におけるキリスト』 ( 一九公一一・ ちょうしろく きゅう 蝶思録』、トルストイの『戦争と平和』が は、ようやく一八世紀後半に入ってからであれ、ロシアはようやく近代化の道を歩みだし あかし書房 ) ▽ポルシャコーフ著、古谷功 かえんりゅう よじん 花怨柳・北欧血戦余塵』として部分訳されるる。このため、遅れたロシアは、異質のヨーロ た。六〇年代のチェルヌイシェフスキー ( 天天 訳『ロシアの神秘家たち』 ( 一九会・あかし書 はせがわ が、本格的な紹介は八八年 ( 明治一一一 ) 長谷川 ッパ文明の奔流のなかで、自己の文化をつくり 瓮 ) 、ドプロリューポフ ( 天三六ー六一 ) 、ピーサ 房 ) ふたばてい 二葉亭 ( 二葉亭四迷 ) によるツルゲーネフのださねばならなかった。しかも、ロシアでは、 レフ ( 一八四 0 ー六 0 ら急進的なニヒリストたちロ、ンアとヨーロッパ PoccHfl 一一 EBpona 『あひゞき』『めぐりあひ』の訳出であり、これ一九世紀中ごろまで、人間が人間を所有する農は、既存の権威をいっさい否定したが、彼らも Rossiya 一 Evropa ロシアの思想家ダニレ はその文体の新しさで近代日本文学の成立に大奴制が存続し、ツアーリの専制政体は、自由な また、インテリゲンチャと民衆、個人と社会、 ーフスキーの主著。一八六九年雑誌『暁』に ろあん きな役割を果たした。九二年には内田魯庵訳で知性の活動を厳しく抑圧し続けたのであった。 ヨーロッパと土着という伝統的な問題を追究し分載され、のちに単行本として出版された。自 ドストエフスキーの『罪と罰』が紹介され、 〔ロシア哲学の特質〕この困難な条件のもと たのだった。七〇 ~ 八〇年代には、ラブロフ然科学の方法に基づいて、世界史上の文明をい と、つこく とうそん 村透谷、島崎藤村らに深刻な影響を与えた。 で、ロシアのインテリゲンチャは思想活動を営 ー一九 00 ) 、 ミハイロフスキー ( 天四一一 ー一九くつかの「文化史タイプ」に分類し、歴史の単 明治から大正にかけては、トルストイ、チェんだ。 , 彼らは、もつばら、ロシアとヨーロッ 0 四 ) 、トカチョフ ( 天四四ー : 、 ~ 、 ) らのナロードニ 一発展説を否定して、各タイプは相互に関係な ーホフ、ゴーリキー、アンドレーエフ、アルツ バ、国粋と欧化、伝統と変革、個人と社会、イキが、ヨーロッパの資本主義を回避するため、 く発展・消滅するとした。ロシアをヨーロッパ シェフらが精力的に紹介され、ロシア文ンテリゲンチャと民衆といった、政治と直結し ロシア独自の道を求めた。そして、農村共同体文明とは原理的に異なったタイプとみなして、 学は日本でもっとも人気のある外国文学となっ たアクチュアルな問題を追究し、つねに思想と に基づく口シア的社会主義の理論を打ち立てスラブ世界の精神的優越性を強調し、ロシアを た。新劇の成立もチェーホフ、ゴーリキーを抜行動が一致すべきことを厳しく自己に求めた た。ナロードニキ出身のクロポトキン ( 天四一一ー 頭とする全スラブ連邦の形成を提唱したため、 きにしては語れない。昭和に入ると、プロレタ彼らはきわめて倫理的、禁欲的であった。彼ら一九一一一 ) は、バクーニン ( 天四四ー / 、六 ) のアナキズ本書は汎スラブ主義の典型的教義とみなされて リア文学運動がマルクス主義文芸理論に大きな には、思想自体の体系化への志向は甚だ薄かっ ムを発展させた。しかし、プレハーノフ ( 一会六 いる。シュペングラー、トインビーらの歴史思 関心を示した。しかしなにより大きかったのたし、第一そういった余裕は精神的にも物質的 ー一九一 0 、レーニン ( 天七 0 ー一九一一四 ) らマルキス想の先駆をなすものとされる。 〈長與進〉 よねかわ と は、トルストイと、とくに米川正夫訳で出たド にもなかった。彼らの思考活動は、だから、哲 トは彼らを厳しく批判した。一九一七年、レー 回鳥山成人著『ロシアとヨーロッパ』 ( 一九四九・ あストエフスキーの影響で、これは小林秀雄、埴学というより思想とよぶのがふさわしい ニンの指導のもとに革命が起きたが、その後今 白日書院 ) し谷雄高のみならず、太宰治、椎名麟三、武田 〔インテリゲンチャの誕生〕ロシア・インテリ せんそう一六 日まで、レーニンの思想は、ソビエト・ロシアロシア・トルコ戦争 たいじゅん ろ泰淳、大江健三郎に至る戦後文学にも顕著にゲンチャは、フランスの蒙思潮の強い影響下の思想の規範となっている。 世紀後半から一九世紀にかけて、ロシア、オス 5

2. 日本大百科全書 24

し、この論集の寄稿者の一人、オランダのセム・ドレスデンはなく 、「マニエリスム」という概念にも十分留意する必要 んみに倣う研究が期待される。この作業の積み重ねのうえに、 がある。これはいわば「ルネサンス」概念をして自ら補正せ 一六世紀ヨーロッパの精神的状況に関し がヒ日摘するよ , つに、 六、あるいは「ルネサンス」の全体像が描き出されるということ ほうじよう しめることによってことばの豊饒を取り戻せしめようとす ねがあるかもしれない。その「ルネサンス」はもはや人文主義て、最近「マニエリスム」という概念が提起されていること る者のノスタルジーではありえまい。一九世紀の市民社会が己に注意する必要がある。この論集に寄せたドレスデンの論考る企てである。 加えてまた、科学史の立場からする「ルネサンス」批判に を映した鏡像ではありえまい。近代的諸価値を装わされた偶は「イタリアのルネサンスのフランスへの受容のプロフィー そこでは主としてフランスの一六世紀の人文学も耳を傾ける必要がある。すでにプルクハルトの本の一章題 像ではありえまい。それは中世から近代への持続と変化の多ル」といい、 ) 彩な局面の描き出す確かな図柄の絵模様であるだろう。↓ホ者や文学者について発言しているのだが、ラブレー、ロンサ「世界と人間の発見」に含意されて以来、自然科学的認識と イジンガ ールあるいはモンテーニュといった、従来「ルネサンス文知識の展開が「ルネサンス」の大きな獲物として言及されて 学」の枠内で紹介されることの多かった著述家たちの精神をきた。しかし一九二九年に科学史家ジョージ・サートンは 〔ルネサンス議論の現在〕「イタリアにおけるルネサンス」 「科学の観点からみる場合、ルネサンスは一個のルネサンス はその絵模様の一部分であって、しかもかなり重要な部分で解き明かすのに、「ナトウーラ ( 自然 ) 」「アルス ( 技芸 ) 」 「イミタティオ ( 模倣 ) 」、あるいはモンテーニュがその著述でさえもなかった」と発言した ( 「ルネサンスにおける科 あったことは間違いあるまい。たいせつなことはその図柄の 観察であって、「中世主義者の反逆」から半世紀、一九七五のタイトルにとった「エッセー ( 試行あるいは訓練 ) 」、とり学」サートン他編『ルネサンスの文明』所収 ) 。また『魔術 と経験科学の歴史』全六巻 ( 一九一三 ~ 四 I) の著者リン・ソーン 年に出た『イタリアのイティネラリウム』という論集は、そわけ「マニエラ」といったことばが有効であると彼は議論し ダイクにとって、一五、一六世紀は不毛の時代であった。こ の地道な作業の報告書である。これは、イタリア人文主義のていて、総じて「マニエリスム」なる概念のほうが一六世紀 せきがく 研究で知られた碩学ポール・ O ・クリステラーに献呈されたの精神のありようを解き明かすキーワードとして適切ではなの展望のうちにみえてくるのは「一七世紀の科学革命」であ いか。たとえばセルバンテスもその概念で照射するにふさわる。いま「ルネサンス」議論はそこまでも見通す視力を要求 論文集であって、副題を「ヨーロッパの変容という鏡に映る 〈堀越孝一〉 されている。↓ルネサンス美術↓科学革命 イタリアのルネサンスのプロフィール」と置いている。ここ しい対象であるという。 回ャーコプ・プルクハルト著、柴田治三郎訳『イタリア・ル 「マニエリスム」はもともと美術史の用語であって、イタリ にいう「ヨーロッパの変容」を広義の「ルネサンス」ととら ハン・ホイ ネサンスの文化』全二冊 ( 中公文庫 ) ▽ヨー えることができる。すなわち中世から近代への持続と変化のアのルネサンス美術がバロック美術に移行していく、その過 ジンガ著、堀越孝一訳『中世の秋』全二冊 ( 中公文庫 ) 様相の織り成す図柄である。そこに「イタリアのイティネラ渡期の様式として用いられてきた。その限りでは「マニエ ▽同著、里見元一郎訳『ルネサンスの問題』 (r 文化史の課 ラ」とは美的表現の型を意味するが、すでにジョルジョ・バ リウム」がみてとれる。すなわち「イタリアのルネサンス」 題』所収・一九六五・東海大学出版会 ) ▽ポール・フォール の足跡である ( 「イティネラリウム」とは「道中」「道案内」ザーリは、このことばを単にその意味でだけではなく、およ 著、赤井彰訳『ルネサンス』 ( 白水社・文庫クセジュ ) ▽ を意味するラテン語であって、この含意において書名を『イそ芸術家の表現行為の全体にかかわる、いわば芸術家の生き セム・ドレスデン著、高田勇訳「ルネサンス精神史』 ( 原 方のパターンという意味で用いている。したがって一六世紀 タリアの道』と訳すことも可能である ) 。 題『人文主義思想イタリア・フランス一四五〇 ~ 一六〇 から一七世紀にかけての「ヨーロッパの変容」という事態を ここにいう「ヨーロッパの変容」を広義に「ルネサンス」 〇』一九七 0 ・平凡社 ) しか観察するにあたっては、「ルネサンス」ということばだけで と理解する従来の慣行は尊重されなければならない。 おんがくヨーロッヾ し、ヨーロッパ音楽界をリードしていった。フ ル・シャンソンとは異なる新しいフランス・シ 作曲家ギョーム・デュファイであった。とくに ルネサンス音楽 ランドル人作曲家の指導的立場は一六世紀を通ャンソンが栄え、イタリアにおいては、フラン において、一五世紀前半ごろから一六世紀末ご彼によって確立された循環ミサ曲の形は、ルネ ドル人によって築かれた基礎のもとに、ルカ・ ろまで展開された音楽の総称。各声部が独立しサンス時代を通じてミサ曲の基本となった。デじて維持されてゆき、アドリアン・ウイラール マレンツイオ、カルロ・ジェズアルド、モンテ ト、ヤコプ・アルカデルト、ニコラ・ゴンべー ュファイに続いて、今日の北フランスからベル た動きをみせ、全体として調和のとれた構成を ベルディらによってイタリア語によるマドリガ ギーにかけてのフランドル地方に優れた作曲家ル、チプリアーノ・デ・ローレ、フィリップ・ もつ、ポリフォ一一ー書法を主体とする音楽をい ーレが展開された。また、スペインではビリヤ う。その多くは、全曲を通じて各声部間で模倣たちが次々と輩出する。その最初の世代のオケデ・モンテ、オルランドウス・ラッスス、ヤコ ンシーコ、ドイツではリート、イギリスではマ が行われてゆく、通模倣様式で書かれているヘムは、デュファイの形式を受け継いで独自のプス・デ・ケルレなどが活躍した。これらフラ ドリガルやリュート歌曲が生み出されていっ ンドル人作曲家たちは、とくにミサ曲やモテト が、各声部のリズムをそろえて進行させる和音要素を加え、次の世代の中心人物ジョスカン・ ウスなどの宗教作品において、他の地域の作曲た。一方、宗教曲の分野でも各地に優れた作曲 デ・プレは、通模倣様式による音楽を確立し 様式によるものも少なくない。 ルネサンス音楽は、一四世紀フランス音楽のて、一六世紀の音楽の方向を決定づけた。ジョ家に模範を示したが、同時にシャンソンを中心家が現れ、フランドル人の影響を受けた音楽を 理論と形式、一五世紀初頭のイギリス音楽の甘スカンが活躍した一五世紀末から一六世紀初めとする多声世俗歌曲の分野にも、優れた作品を書いていった。なかでも、イタリアのパレスト ーナ、スペインのクリストバル・デ・モラレ 。力にハインリヒ・イザーク、ピエー 数多く残した。↓フランドル楽派 美な和音の響き、そして、イタリア音楽に伝統 一六世紀には、各地で独自の多声世俗歌曲がスやトマス・ルイス・デ・ビクトリア、イギリ 的な旋律の構成法などが総合され、一四三〇年ル・ド・ラリュー、ヤコプ・オプレヒト、ロワ ードらは スのトマス・タリスやウィリアム・ にゼ・コンペール、アレクサンデル・アグリコラ栄えた。フランスではクローダン・ド・セルミ 前後に生み出されてきたとされる。その成立 中心的な役割を果たしたのは、一五世紀最大のなど、優れたフランドル人作曲家が多数活躍ジやクレマン・ジャヌカンらによってフランド重要である。↓シャンソン

3. 日本大百科全書 24

↓ュスティニアヌス法典 〈弓削達〉 denen Stufen seiner EntwickIung, 3 TIe こ受けカール大帝の後継者を自認したナポレオン 回船田享二著『ローマ法』第一巻 ( 一九穴・岩波 1852 ー 65 一九世紀ドイツの法学者イエーリ にローマ理念の影響が認められる。〈後藤篤子〉 書店 ) ▽・マイヤー著、鈴木一州訳『ロ ングの代表的大著。正確な書名「ローマ法の多回弓削達著『世界の歴史 3 永遠のローマ』 ーマ人の国家と国家思想』 ( 一九天・岩波書店 ) 様な発展段階におけるその精神』からも知れる ( 一九七六・講談社 ) ▽後藤篤子著『西口ーマ帝 ろ ほ , つのけいじゅ、【「・イ ように、イエーリングは法を民族精神の表れと 国の没落とローマ理念』 ( 弓削達編『西洋史 ローマ法の継受 ツを中心に行われたローマ法の採用をいう。通みる歴史法学者として、ローマ国家に生まれた 2 地中海世界』所収・有斐閣新書 ) 常次のように三期に区分して説明される。①中ローマ法はヨーロッパ世界を統一し、ローマ滅ローマ暦 , ー・れき古代ローマで行われた 世初期のゲルマン部族法におけるローマ卑俗法亡後も各地に継受されて、普遍的な文化をつく 暦。その形式は現代のグレゴリオ暦に取り入れ ン マ の継受 ( 早期継受 ) 、②一五 ~ 一六世紀の中世っていった、この進化過程を、法史的ではなく られている。紀元前八世紀ごろ ( ロムルス王の ロ イタリアの普通法 ( 注釈学派、後期注釈学派に むしろ法哲学的に説く。この概念法学に行き詰時代という ) のローマの暦は、三〇日または三 〈小林孝輔〉 よって加工されたローマ法 ) の継受 ( 本継受 ) 、まり、本書は末完に終わった。 一日からなる月を一〇か月で一年とし、三〇四の広がりを『善意の人々』 ( 一九三一一 ~ 四七 ) によっ りねん ldea of Rome 材ス 日であり、太陰暦とも太陽暦とも区別のつかなて得た。また演劇の場でも、ルイ・ジュー・ヘと ③一九世紀のパンデクテン法学によるローマ法ローマ理念 の協力から、『クノック』『トルアデック氏の放 ( ディゲスタ ) の継受 ( 後期継受 ) である。と Romidee 古代ローマ帝国の「ローマ」の い暦であった。その後、ヌマ王の時代に第一一 とう に重要なのは本継受で、これは、世界ローマ名に、普遍的・恒久的な支配や文明・秩序を象月 ( 二九日 ) と第一二月 ( 二八日 ) を加えると蕩』 ( ともに一九一一一 (l) 、『ドノゴ』 ( 一九三 0 ) などの傑 理念、すなわち古代文化へのあこがれと中世の徴させる思想。その最初の高揚期はローマ帝国ともに、三〇日であった月の日数を二九日に改作喜劇が生まれた。三〇年代に入ると、『ヨー 帝国がローマ帝国を承認したものとする考え方初代皇帝アウグストウスの治下で、リウイウめ、一年三五五日とした。そして暦を季節にあロッパの問題』 ( 一九一一一三 ) 以下一連の政治的発言 に基づき、法学者 ( 学識法曹 ) がユスティニア ス、ウエルギリウス、ホラテイウスなどの歴史わせるために、二年ごとに二二日または二三日で反ファシズムを呼びかけ、三七 ~ 四〇年まで うるう ヌス法典を「書かれた理性」 ratio scripta と家や詩人が、いまや世界の女王となった都市ロ の閏月 ( メルケドニウスとよぶ ) を、第一二月国際ペンクラプ会長を務めたのち、四〇年から みて、法的問題解決の最終的よりどころとした ーマの永遠性をうたった。ローマの支配を平和の途中、二三日の次に挿入した。このような複四五年までアメリカ、メキシコにあって自由フ ことにある。当時のドイツでは中央権力の弱さ と幸福と法を世界にもたらすものとして正当化雑な方法をとったのは、ローマ暦では毎月一日 ランスの代弁者であった。四六年アカデミー会 〈小林茂〉 から法の統一を果たすことができず、イタリアするこの時期のローマ理念は、なお都市ローマをカレンデとよび、一方、第一二月の二三日が員。↓善意の人々 で学んだ聖職者や法学者の法的知識を頼りと と密着した民族主義的、帝国主義的なものであテルミナリアという祭日にあたり、第一二月一回山内義雄訳『ある男の死』 (一九 lll< ・白水社 ) し、一四九五年の帝室裁判所条例では陪席員の ったが、「ローマの平和」 ( パックス・ロマー 四日以降二二日までを「テルミナ前幾日」と数 ▽青柳瑞穂訳『プシケ』 ( 新潮文庫 ) ▽岩田 半数を学識法曹から任命するに至り、また各領ナ ) 下でギリシアの文人アリステイデスは、ロ え、二四日以降は「マルチウス ( 第一月の名 ) 豊雄訳『クノック』 ( 新潮文庫 ) 邦国家も学識法曹を重用したので、しだいにロ ーマの支配の受益者層の立場からその支配をたのカレンデ前幾日」と数える習慣があり、二四ロマン roman 長編小説。本来はラテ ーマ法 ( 普通法 ) が浸透した。このような法は たえ、ローマの名を普遍的文明世界の象徴とす日以後の五日間は翌年に属するという感じをも ン語の俗化した方言のロマン語で書かれた物 古くからの農民の慣習法と鋭く対立したので、 る。都市ローマが現実の帝都ではなくなってか っていたためである。ローマ暦は、その形式が 語。市民社会の発達とともに、物語のおもしろ ドイツ農民戦争 ( 一五一一四 ~ 一一五 ) の重大な原因とな らも、こうして普遍化されたローマ理念は生き ュリウス暦に、ついでグレゴリオ暦にも継承さ さより、人間の内面的苦悩を重視し、複雑な心 つ ) 0 続け、ゲルマン民族侵入の危機の時代に、ゲルれた。 ^ 渡辺敏夫〉理を中心に、人間の生きざまを描き、・一つの完 ローマ法は、このようにドイツばかりでなマンの「野蛮」に対する文明の象徴ローマが想ロマン Jules Romains ( 天会ー一九七一 l) フ結した形をとる小説をさすようになる。これに く、オランダやスコットランドでも受け継がれ起され、さらに、危機ゆえにいっそうその永遠ランスの詩人、小説家、劇作家。本名ルイ・フ対し物語性を強調する小説はレシ récit 、中編 小説はヌ・ヘル nouvelle 、短編小説はコント た。一九世紀のバンデクテン法学ではローマ法性への信仰が再高揚した。国教化されたキリス アリグール Louis FarigouIe 。オーベル一一ユ出 へんさん エコール・ / ルマル・シュ・ヘリュ 〈船戸英夫〉 conte とよばれる。↓ロマンス を素材として近代法典の編纂を主張してゲルマト教の側でも、プルデンテイウスが聖使徒ペテ身だが早くからパリに住み、高等師範学 ン法学者と鋭い対立を示した。今日、イタリア ロとバウロに守られた新聖都ローマの永遠性を校に学ぶ。一九〇三年秋、雑踏のなかで、個がローマン Karl Lohmann ( 天久ー ドイツの生化学者。ベルリンのカイザー・ウィ 普通法はヨーロッパの共通法であるという認識うたい、四世紀初頭に司教エウセビオスが説い 群衆と都市と一つにつながり一体をなすという ユナニミスム にたち、ヨーロッパ各地の法の比較研究が重要たキリスト教的ローマ帝国理念を完成させた。啓示を得て、一体主義 unanimisme を提唱すルヘルム生物学研究所においてマイヤーホーフ な課題となっている。 〈佐藤篤士〉四一〇年の西ゴート族によるローマ市の略奪る。人間性と文明への信頼に基づくこの集団的の助手となり、以後も続いて彼の強力な協力者 魂の理想の追求が生涯の文学活動を生み出しであった。のち・ヘルリン大学の教授となった。 回ヴィーアッカー著、鈴木禄弥訳『近世私法は、ローマの永遠性を信じる人々を動揺させた 史』 ( 一九六一・創文社 ) ▽・・ローソンが、伝統的ローマ理念は帝国末期の文人たちのた。この理念は詩集『一体生活』ゞ Vie ミや 一九二九年に筋肉の搾汁中から、筋肉の乳酸生 著、小堀憲助他訳「英米法とヨーロッパ大陸著作になお鮮明に認められる。西口ーマ帝国滅ミ ( 一九 00 、『ヨーロッヾ ノ』 ( 一九一 0 、小説『再成に関与する因子としてアデノシン三リン酸 法』 ( 一九七一・中央大学出版部 ) ▽コーイング亡 ( 四七六 ) 後も、この理念は、「第二のローマ」生の村』 ( 一九 0 六 ) 、『ある男の死』 ( 一九一 l) 、『仲を発見した。また解糖の中間反応に 著、佐々木有司訳『ヨーロッパ法史論』 ( 一九すなわちコンスタンティノープルに、そしてそ 間』 (一九 llll) などに表現される一方、パリ郊外関する論文を彼単独で、またはマイヤーホーフ 含・創文社 ) ▽ウイノグラドフ著、矢田一 の滅亡後は、「第三のローマ」としてのモスク クレティュに芸術と労働の一体化した集団生活と共著で多く発表した。三四年には、筋肉でク 男他訳『中世ヨーロッパにおけるローマ法』ワ大公国へと受け継がれていく。 一方、中世西を目ざしていたデュアメル、ビルドラックなど レアチンがを介して分解され、また ( 一九六七・中央大学出版部 ) 欧世界におけるカール大帝の西口ーマ帝国復興僧院派の文学者に理論的支柱を与えた。一体主も分解することを明らかにした。この反応は ・・ーほうのせいしん Geist や神聖ローマ帝国の建国も、ローマ理念の具現義はさらに、心理的・神秘的表明を『プシシェ彼の名を冠したローマン反応として知られてい ローマ法の精神 des römischen Rechts auf den verschie- 化であった。近代では、ローマ教皇から帝冠を ( プシケ ) 』 Psyché三部作 ( 一九一一一一 ~ 一一九 ) 、世界大る。 〈宇佐美正一郎〉 660

4. 日本大百科全書 24

るくせん 産業別就業者人口 ( 1981 年 , % ) 農業・狩猟・林業・漁業 4.9 その他 3.2 料。主要相手国は西ドイツ、・ヘルギーを主とす いる。駐日ルクセンプルク大使館は一九八七年ある観光都市。古代エジプトでもっとも栄えた る QO 諸国とアメリカである。 に開設された。日本からは銀行、商社など約一 テーべの都の地で、ルクソール神殿など壮大な 2 0 る 交通網は、高速道路の整備、ルクセンプルク〇社が進出している。 〈川上多美子〉遺跡群があり、ナイル観光の拠点となってい 回栗原福也著『・ヘネルクス現代史』 (r 世界現代る。人口三万九九〇〇 ( 一九合 ) 。ナイル川のキ 空港の近代化と拡張、鉄道の電化、モーゼル川 の運河化と築港により、陸・水・空路で他のヨ 史幻』一九全・山川出版社 ) ーナ屈曲部の始点に位置し、カイロから鉄道、 ーレ レ ーロッパ諸国と緊密に結ばれている 道路のほか空路の便がある。ナイル川東岸の遺 ルクセンプルク ( 市 ) Luxembourg 〔社会〕国民はゲルマン系のルクセンプルク人クセンプルク大公国の首都。人口七万六一五〇跡群はルクソール市街と北方三キ。のカルナック でほとんどカトリック教徒であるが、世界有数 ( 一九会 ) 。同国人口の約二一 % を占める。ドイツ との間に広がっている。エジプト古王国時代に 分 の低い出生率 ( 九・九 % 、一九会 ) で近年人口の語の方言であるルクセンプルク語を日常用い は小村にすぎなかったが、中王国時代になりテ 自然増加率はマイナスである。総人口の二七 % る。旧市街は、モーゼル川の支流であるアルゼ ーべを本拠とするアンテフ一世が古王国のあと 「ト 融険動 (k<lll) を外国人 ( ポルトガル人とイタリア人 ット川とベトリュス川の渓谷に三方を囲まれたの混乱を収め、メントウホテプ二世が上・下工 金保不注 が多い ) が占め、労働力不足を補っているが、 丘上に位置する。古名レツツエプルグ Letze- ジプト再統一を達成すると、その首都となっ 人 彼らの高い出生率が総人口の減少を食い止めて burg は「小さな城」の意味で、「北のジプラた。中王国のあとヒクソスが侵入し、ふたたび じようき一い 百 いる。就業人口の一〇 % を占めるべルギーやフ ルタル」といわれるように岩上の城砦から発混乱期に入ったが、テーべを本拠地とする領主 ランスからの越境通勤者も含めると、全就業者展した戦略上の要地のため、帰属がめまぐるし が勢力を伸ばし、アフメス一世のときヒクソス く変化した。 の約五二 % が外国人である。彼らは製鉄業に従 を駆逐し新王国時代となった。中王国・新王国 事する以外に、ルクセンプルクに設置されてい 鉄鋼を中心に機械、繊維、ビール醸造の工業時代のテーべは、地域神から国家神となったア るヨーロッパ裁判所や、ヨーロッパ議会事務が発達する。一九五二年ヨーロッパ石炭鉄鋼共 メン神の総本山として、またエジプトの首都と 局、ヨーロッパ投資銀行本部、ヨーロッパ通貨同体本部が設置されて以来、ヨーロッパ裁判して繁栄し、古代オリエントの中心都市となっ 基金、ヨーロッパ会計検査院などの国際機関で所、ヨーロッパ議会事務局、ヨーロツ。ハ投資銀た。ルクソール神殿は、第一八王朝のアメンへ 働く者も多い。言語は、一九八四年の特別法行が加わり、ベルギーのプリュッセルと並んでテプ三世が建立し、第一九王朝のラムセス二世 成 構 で、国語としてルクセンプルク語が、行政語と O ( ヨーロッパ共同体 ) の中心地となってい らが増築したもので、カルナックのアメン大神 ロ男女 してフランス語とドイツ語が指定された。ルクる。また、開放政策や優遇税制で国際金融機関殿のアメン神がオペット祭に臨むため訪れる場 圦呂 センプルク語はドイツ語の古い方言にフランスが集中している。美しい市街は一六世紀の都市所であり、高さ一六の円柱列がみごとであ 男年 語の要素が加味したもので、国民の日常語とな 計画によるもの。一六世紀のノートル・ダム大る。ナイル川沿岸にはホテルが並び、暑さの和 年 っている。義務教育は六歳から一四歳までであ聖堂、大公の宮殿などがある。〈川上多美子〉 らぐ冬に外国人観光客が多く訪れる。対岸に 1 ーフー (. 0 (. O L'¯) L-n 4 ・ 4- っフ」っ」 1 ーイー るが、一九八七年現在ベルギーと同じく延長を は、ツタンカーメン王墓がある王家の谷やラム ルクセンプルク家 け Luxemburger 0 【う ) 0 (C) 0 LX¯) 0 仄ー ) 0 ) 0 ・ ) 0 一う ) 0 L.n 0 8 フーっ′ ( 0 ( 0 【う ) 尸 0 -4 ・ 4- (¯) っ 0 フ」っ」 検討中である。小学校一年でドイツ語の読み書 バイルクセンプルク伯の家門で、一四 ~ 一五世セス三世葬祭殿などがあり、観光用フェリーが 制優遇措置や企業活動への規制の緩さから、一 きを学び始め、小学校二年からフランス語の読紀にかけて、しばしばドイツ国王を出した。同出ている。 3 エジプト美術 ( 別刷 ) 〈藤井宏志〉 九七〇年以降西ドイツを先頭として各国から銀み書きが加わる。そのうえ、中等教育では英語家の隆盛は、一三〇八年ハインリヒ 世 行が急激に進出し、一大国際金融市場となっ を選択して学習する者が多い。総合大学はな七世が国王に選出されたのに始ま た。銀行からの法人税は国家収入の約一〇 % く、二年の大学課程修了後は近隣諸国の大学に る。彼は息子のヨハンをベーメンの ト家 ( 一九八 0 ) になっている。の主要産業地域に留学する。一人当り国民総生産はクウェート、 王女と結婚させ、べーメンの王位を レカ期 近接する立地上の利点、発達した交通網、迅速スイスと同程度の高水準で、国民の生活水準は継がせるのに成功した結果、東方に たんのう レプ な行政上の手続処理、英・独・仏語に堪能で国高い。これは長期の政治的安定、経済発展、出家門の領土的基礎を据え、ヨハンの て 際性に富む国民、質の高い労働力、政府・経営生率の低下や流入外国人労働力のため有効労働息子力ール四世 ( 在位一三四六 ~ 七 0 、 者・労働組合の三者協議の成果として過去六〇人口比が相対的に高くなったこと、などによその子ウエンツェル ( 在位一三大 ~ 一四 帝世 ン 皇 7 年ストライキの混乱のない安定した労使関係なる。マスコミ関係で注目されるのは、ヨーロッ 00 ) およびジギスムント ( 在位一四一一 系世・「世世「比 どをもとに、外国資本の導入、企業誘致を積極 スⅢザ ハ最大の民間放送会社ラジオ・テレビ・ルクセ ~ 一宅 ) がドイツ国王に選出され、 ン メ メ 略 レ ヒクヒヒ聖イ 的に推進しようとしている。通貨はルクセンプンプルクの存在で、国内はもとより、西ドイプスプルク家と対抗する大勢力とな 工 レ ルク・フランで、ベルギー・フランと等価。変ツ、フランスにも多くの視聴者をもつ。 ジギスムントの死後、同家の家 シュタム・ラント 動相場制である。世界でもっとも貿易依存度が 日本とは一九六〇年 ( 昭和三五 ) にベネルツ男系が絶えて、本領のルクセンク ョカ レ 世 高い国であるが、七〇年代より貿易収支は赤字クス通商協定、査証免除協定を締結して通商関。フルク大公領 ( 一三五四年以降、伯 工 プ 4 側 である。主要輸出品は鉄鋼・機械・輸送機器六係をもっている。貿易関係は、日本からルクセ領から昇格 ) も一四四三年にはプル 一・四 % 、プラスチック・ゴム一二・七 % 、紡ンプルクへの大幅な出超となっており、主としグントに併合された。〈平城照介〉セ 工 ノン ウ レ 織品五・二 % 、化学製品四・二 % ( 一九会 ) となて機械類、繊維、精密機器を日本が輸出し、輸ルクソール Luxor エジプト っている。主要輸入品は鉄鉱石、スラグ、燃送機械、機械器具、陶器などを日本に輸入して南部、上エジプトのナイル川東岸に 地域・ 個人サー ビス業総数 153 842 25.2 鉱業・ 採石業・ 製造業 22 . 6 建設業 人 電気・ ガス・ 水道業 135 90 1984 年「世界人口年鑑」による は夫婦 ・は神聖ローマ皇帝 ( ) 内数字は在位年 ( 1378 ~ 1400 )

5. 日本大百科全書 24

し、フランスではデイドロ、とりわけルソーが けに、ロマン主義はいっさいを自我の所産とす〔南ヨーロッパ〕南ヨーロッパにもフランスを しゅぎ romanticism 矚ス ロマン主義 でんば Romantik イ ロマン主義自然感情や社会と対立する個人の内面を赤裸にるフイヒテの絶対的観念論やシェリングの神秘媒介にしてロマン主義は伝播し、とくにイタリ romantisme ンス アではオーストリアからの独立・国家統一運動 ということばには、時代や地域を超える「永遠告白し、ドイツではクロプシュトック、ヘルダ的な自然哲学に大きく影響されながら深化し、 と一体となって強い政治色を帯び、自由主義と 芸術家の自己創出であるとともに自己超克でも 、若い時代のゲーテ、シラー、それに「シュ のロマン主義」と、ある時代に限定される「歴 ある「ロマン的イロニー」の概念を中心に絶キリスト教に裏打ちされた愛国的文学の確立へ トウルム・ウント・ドラング」の作家たちが、 史的ロマン主義」が含まれる。しかし、前者は ポエジー と高揚した。マンゾーニの歴史小説はその頂点 後者の派生概念にすぎず、正確には、後者すなフランス伝来の文化を排して自国の歴史・伝説対・無限なるものへの憧置を難解な詩理論、 に立ち返るとともに、自然感情や個人の叙情性というより一種の哲学に結晶させた。ノバーリである。ほかにペッリコを中心とするミラノの わち一八世紀末葉に西欧に生じ一九世紀中葉ま コンチリアトーレ でほばヨーロッパ全域およびその文化圏であるを称揚し、デイドロの影響を受けて演劇の刷新ス、ティーク、ついでプレンターノ、アルニ『調停者』誌に拠るプレーメ、ビスコンティな ム、クライスト、ヘルダーリン、ジャン・パウどがあげられるが、レオパルデイも手法こそ古 も行われた。↓古典主義 南北アメリカに波及した、文芸・芸術運動ない 一八世紀中葉から末にかけてのこのような感ル、それにアイヒエンドルフ、ホフマン、シャ典的ではあるが、感情の深さによってロマン主 し現象を意味する。ロマン主義という語のもと ミッソーなどの幻想作家や若きハイネなどがロ義の先駆者と考えてよい をなす形容詞ロマンチック romantic ro- 性の風土を一般にプレ ( 前 ) ・ロマン主義とよ 〔北ヨーロッパ〕北ヨーロッパのロマン主義は フラよもともと俗化したラテン語を、んでいるが、要するにそれは個人のレベルでもマン派に数えられる。 mantique ンス。 〔イギリス〕イギリスではシェークスピアを生オランダでは低調であったが、スカンジナビア ついでその言語によって書かれたすべての作物民族のレベルでも個の独自性の認識への目覚め をさしたフランス語のロマン roman に由来すといってよく、時代・風土に応じて文化が異なんだ国柄から想像力の文学は特別な運動も理論諸国において概して活発に展開され、ロシアで るが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻るように各人それそれに独自の価値があるとす化もなく自然に開花し、シェリーとキーツにおはプーシキン、レールモントフを生み出すこと によってこの国に近代文学の誕生をもたらし いて叙情性と理想主義と、それにロマン主義の る相対性の確認であって、一見逆説的に聞こえ 文で、のちには散文でも書かれた騎士道物語に ぎんしん た。ミッキエビッチに代表されるポーランドの 一性格たる社会不正の告発が斬新なイメージに 対して用いられ、とくにイギリスではロマンスるが経験にたっ啓蒙主義の一側面から必然的に ロマン主義は、列強による国土分割、さらには romance とよばれるようになった。ロマンチ導出された結果ということができる。そしてこ表現されて至純な詩世界を結実させ、バイロン は近代社会に反抗して不安と絶望にさいなまれロシアの支配という悲運を直接に反映して、イ ックの初出は一七世紀中葉のイギリスであり、のプレ・ロマンチスムを本来のロマン主義に転 タリアの場合同様、民族主義的で愛国的な政治 化せしめたものがフランス革命であった。一七る魂を激烈に描出してその生き方ともどもまさ すこし遅れてほば同時期にドイツ、フランスに 八九年のこの革命は革命戦争、ナポレオン戦争しく反逆的ロマン主義の化身となった。他のロ色を帯びている。 入り、主として小説的で幻想的な印象を与える を通じて各地に波及し、ヨーロッパ全土に未曽マン派としては、中世を舞台とする歴史小説を〔新大陸〕最後に新大陸に目を転じると、南米 風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、 フレイクとバーンズの両詩ではそれそれの宗主国からの旅行者や亡命者に やがて一八世紀最末葉から一九世紀初頭にかけ有の政治・社会・文化的大混乱を引き起こし開拓したスコット、・ よってロマン主義がもたらされ、とりわけアル 人心に与えたその最たる影響は深甚な幻滅人、ラム、ハズリット、ディ・クウインシーな て文学・芸術の革新が叫ばれるに及んで、伝統 ゼンチンとプラジルにおいては原住民インディ 文化をよぶクラシック classic ( 古典的 ) の対感であった。啓蒙主義の最高の成果として理性どの散文家がいる。 〔フランス〕フランスでは早くスタール夫人がオを正しく理解しその習俗を描出しようとした による非合理な政治体制の打破であったはずの 立語として定着するに至った。 ところに特徴をもつが、北米のアメリカ合衆国 北方のロマン主義文学の移入を説き、シャトー ものが、恐怖政治のような人間の醜悪面を露呈 〔プレ・ロマン主義の時代〕一八世紀の主要な ヨーロッパ諸国は一七世紀フランスに確立されさせるのを目の当たりにして、初めこの革命にプリアン、セナンクール、コンスタンによってでは反逆すべき既成の芸術原理に欠けていたう た古典主義をおおむね継承すると同時に、理性賛同した多くの青年たちは絶望に陥らざるをえ革命後の社会に生きる青年の苦悩が深刻に表現えに、ピューリタニズムと功利精神に阻まれて がじよう 開花が遅れた。しかしスコット流のクー されながら、古典主義の牙城であったために、 なかった。彼らは四囲のめまぐるしい変化にと を認識の唯一至上の手段とする啓蒙主義に支配 小説やエマソンの超絶主義のほかに、アービン ラマルチーヌは別にして、ユゴー、ビニー されていた。古典主義は普遍絶対的な美の観念まどい、あらゆる原理の崩壊をみていっさいに に立脚し、すべて良識にあわぬものを退け、厳対する不信感を植え付けられた。この精神の廃ュッセ、デュマ、ネルバルらのロマン主義が勝グ、ロングフェロー、ホーソン、ホイットマ きょ ン、メルビルらに独特のロマン主義的傾向を認 利を収めるには約二〇年にわたる闘争を必要と しい規則を設けて、複雑より簡明を、動より静墟のうえに自らの心性に即した文化を築こうと した。戦いは詩歌、とくに演劇の革新をめぐっめることができる。ポーはロマン主義的という を、土俗性より都会性を、露骨より優雅さを、するのがロマン主義精神の本質であり、それは モデルニテ より、むしろポードレールに先行する近代性の なによりもまず唯一確かなものとしての自我のて展開され、世界を全的に表現しようとするロ 破格より均斉を重視する貴族的文化であった。 しかし一八世紀も中ごろになると、絶対王政の確認とその内部への沈潜に始まる。内面にこそマン主義劇の成立をみた。さらに芸術の自由は詩人である。 ーっ・一う しかん 〔ロマン主義の本質〕このように、それそれの 弛緩やプルジョアジーの勃興とともに人間をあ真実があると主張して、一七九八年ドイツのイ政治の自由と結び付き、七月革命以後はプルジ エナでウイルヘルムとフリードリヒのシュレー ョア体制批判の姿勢を強めてロマン主義的社会国ないし民族の事情に応じて多種多彩に花咲い りのままにとらえようとする欲求が生じ、一 たロマン主義の本質を、明確に定義することは ゲル兄弟が『アテネーウム』誌を創刊し、同年主義を生み出すに至る。特筆すべきは、スコッ 方、啓蒙主義そのもののなかから理性による非 にイギリスでワーズワースとコールリッジが自 トの影響を受けて歴史小説が流行すると同時容易ではない。むしろ定義しえぬところにその 合理の発見がなされると、それまで軽視されて きた感覚の諸現象に人間性の真実を探り、同時然の観照のうちに想像力によって宇宙との霊的に、その手法で人間を社会との関連において描最大の特徴があるとさえいわれるほどである。 しかし、ただ一つ確言できるのは、それがフラ に古典主義が範としてきたギリシア・ラテンの合一感を歌う『叙情民謡集』を刊行して、それ写する発想が生じ、ノディエ、ゴーチェらの幻 ンス革命直後の西欧の市民社会形成期に発生し 古典古代から自国の過去へと目を転じて、そこぞれ自国の、と同時にヨーロツ。ハのロマン主義想作家とは対照的にスタンダール、バルザッ しに新たな文化の源泉をみようとする気運が高まの嚆矢となったのは、こうした事情に基づいてク、メリメら現実を直視する小説家が、後の写た文学・芸術であるという事実である。この革 実主義への道を切り開いたことである。これは命は自由と平等を高く掲げて非合理な秩序を打 ん 0 てきた。イギリスではヤング、グレーらが夜 イギリスのデイケンズにもまた当てはまるであ破し、生の深い現実に根ざした真実を希求する 〔欧米諸国のロマン主義〕〔ドイツ〕ドイツは まや墓地を歌う一方、古ケルトの吟遊詩人オシア 十・いド ) 2 ししっ 理想主義を高揚させた。ところが、その理想主 6 ろンの翻訳と称するマクファーソンの詩が流行もともと形而上学的思考を好む国民性があるだろう。

6. 日本大百科全書 24

わいん ワイン 歴史 ①古代エジプトのワイン造り。 ブドウの収穫 , 摘み取ったプ ドウを足で踏んで絞り , 果汁に を甕に密封する工程が描かれ ている。ナクト墳墓の壁画 , B. C. 1580 年ころテーペシ、、 ャイク・アプデル・クルナ フい、 4 ) みを第 ) 第物「朝 ②修道女のブドウ収穫。 ミサ用のワイン醸造の ため , 中世修道院の多 , をくはブドウ園をもって いた。「秋のアレゴリー フランチェスコ・デル・ コッサ画 1 470 年ころ 西ベルリンベルリン 国立美術館 ③ 18 世紀のワイン醸造 工場。 17 世紀末から瓶 やコルクの普及につれ てワインの需要も増し , ヨーロッパ各地に醸造 = 、工場がつくられた ラノ市立ベルタレツリ 印刷物収集館 ポルドーワイン フランス南西部のポル ドーワインは古くから 知られ , とくにジロン ド川河口付近一帯の赤 ワインの評価は高い ①ブドウの収穫。収穫 の時期は , ワイン造り の決め手の一つになる ②ブドウの圧搾 ③バン・メーポー ( 新 酒 ) の発酵度チェック ④発酵が終わったワイ ンはオークの樽の中で 熟成を待つ とあわせて、わが国始まって以来のワインプー ムとなっている。 〔ブドウの品種とワイン〕現在栽培されている おもなブドウは、アメリカ大陸系のラブルスカ 種 Vitis b 、 ~ 、 s L. とヨーロッパ系のビニフ エラ種ま . 戔ぎミミ L. である。前者は北アメ リカの湿地帯が原産で、多湿地帯によく繁殖 し、病害にも強いが、特有の香り ( たとえばフ オクシー臭 ) があり、味も薄く、ワイン原料と しかしわが国のような多 しては適当ではない。 湿地帯で酸性の土壌でも栽培が容易で、グレー プジュースの原料、また生食用ブドウとしてお もに使われている。ビニフェラ種は中近東の乾 燥地が原産地で、乾燥した石灰土の多いやせた 土壌を好み、病虫害に弱く、果粒も小粒なもの が多く、食べてもあまりおいしくないが、香味 豊かなワインになる。ヨーロッパでは気候、風 土にあったいろいろなビニフェラ種が栽培さ れ、ワインの性格を決めている。たとえばフラ ンスのポルドーではカ・ヘルネ・ソービニョン ( 赤 ) 、メルロー ( 赤 ) 、セミョン ( 白 ) 、プルゴ ーニュではシャルドネ ( 白 ) 、ビノ・ノアール ( 赤 ) 、ガメイ ( 赤 ) 、ドイツのライン、モーゼ ネル スリング ( 白 ) 、シルバ ハンガリーではフルミント ( 白 ) などが 有名品種である。わが国でおもに使用されてい ペリー << 、白は甲 るのは、赤ではマスカット・ 州である。そのほか赤のカ・ヘルネ・ソービニョ ースリング、 ン、メルロー、白のセミョン、リ シャルドネなどの高級品種も最近は栽培される ようになり、ワインも一段と品質がよくなっ た。なお白の甲州種はわが国独特の品種で、し かも東洋系ビニフェラ種である。その起源は一 一八六年 ( 文治一 l) ごろ、甲斐国 ( 山梨県 ) の あめのみやかげゅ 雨宮勘解由という人が、野生のブドウのなかに 違った品種をみつけ、これの移植栽培に成功し たのが始まりといわれている。↓ブドウ 〔ワインの分類〕ワインにはいろいろの分類の 仕方があるが、一般的な分け方で説明する。 1 色調による分類通常、白 blanc 、赤 rouge 、 ロゼ roséワインの三通りに大別される。白ワ インの色は淡黄、緑黄、黄色、黄金色と幅があ リトはでにのの礼テをスれコ とうせき キス水る血式紀こ婚日水リか り、赤ワインは橙赤、赤、紅、紫赤色と異な のリとすの儀世るのスがキ描ア でキン徴トはよ村 リ , たかチ館 り、ロゼワインは通常桃色であるが、これも薄 し。イ象スン 。にナキ奥え蹟ネ術 だいだい ネ嵒ワをリイい派カた央変奇ペ美桃色から橙色に近いものまである。なお一般 、寄 , みキワなアはれ中にの 史のは恵 , 赤せチにかルン初る一 に赤ワインで紫色があるとワインは若く、橙色 3 でのたるかネ品招プイ最いレ になるほど古い 文「ス教神まあ欠・ヘ作に一ワトてッ

7. 日本大百科全書 24

りゆうあ . ミ冖守てすのイ 当イ ( ①中国 , 大同の九竜壁 ( 部分 ) 。王府門前の障 壁で明の太祖洪武帝時代に建造された ( 1392 年 ) 。 5 色の瑠璃瓦でつくられ , 高さ 8 中 国では , 古く殷 , 周の青銅器に竜の形が現れ るが , 現在のような姿に定着するのは漢代と 考えられている。とくに 5 本の爪をもつ竜は 天子の象徴とされ , 宮廷の建築や服飾の意匠 として使用された とうしはうろう ②糸琺瑯竜耳炉。竜の文様は , 香炉をはじ め多くの器物にも広く使われ , 中国の代表的 テ・ザインの一つとなっている。糸琺瑯とは しつほう 日本の有線七宝のこと。明代高 37. lcm 台 北国立故宮博物院 ③ . ト ③竜図。竜虎を一対として描く画題は中国から伝わり , とくに神宗と関係深い水墨画に かのうさんらく 多くみられる。狩野山楽「竜虎図屏風」六曲ー双 ( 部分 ) 重文京都妙心寺 ④日光東照宮拝殿庇の彫り物。東照 宮には , 陽明門などにも竜の組物が 数多くみられるが , 竜は徳川家康と いう権威の荘厳化に , もっともふさ わしいとみなされたためであろう。 国宝栃木県日光市 ( ⑤聖ミカエルと竜。ヨーロッパにお ける竜 ( ドラゴン ) は , 聖者や英雄 に退治される悪のイメージとして登 場する。しかし一方 , 戦闘において 敵を畏怖させ , また超自然的能力を もつ戦いの守護者とも考えられ , 盾 , 旗や紋章の意匠に用いられた。 ラファ工ッロ画 1504 年ころバリ ループル美術館 神信仰へと変化していく過程とみなされる。 どう 竜のすみかは竜宮とよばれ、その場所は洞 おとひめ 竄、湖沼や海の底にあるとされる。竜神は乙姫 様と住んでいるという。そうした竜宮に関する 説話のなかで、よく知られているのが「竜宮 ぶち 淵」の伝説である。その淵が竜宮に続いている はた といって、ときおりその淵から機織りの音が聞 ぜんわん こえてくるとか、またその淵に必要な膳椀を貸 してくれるように依頼すると用意してくれると いう。ただし心がけの悪い者がいて返さなかっ たために、貸してくれなくなったと伝えてい る。昔話のなかには、人間が竜宮を訪問すると いうモチーフの話がいくつかある。その代表的 たんごのくにふ な例が「浦島太郎」である。古くは丹後国風 どき 土記』や『万葉集』にもみえる。同系統の話と してほかに「竜宮童子」「竜宮女房」といった 昔話もある。「竜宮童子」は、貧乏な男が薪を かめ 水中に投下すると、そのお礼にといって亀が竜 みやげ 宮に案内する。竜宮からの土産にハナタレ小僧 をもらう。その小僧をだいじにすると豊かにな るが、慢心して粗末にするので元の状態に戻っ てしまうというのがその内容である。「竜宮女 房」は、竜宮から嫁にきた女房に対して、権力 者が横恋慕して難題を課してくるが、女房の知 恵で解決し幸福に暮らすという話である。これ らの話には、神に選ばれた人間が竜宮を訪問 し、富を得るという共通した要素がみいだされ と・ 1 よのくに る。古代には竜宮は常世国ともよばれ、それは 一種の理想境であり、同時に富の源泉として意 識されていたのであった。そうした信仰が説話 に反映されているのである。↓竜宮伝説 ヨーロッパの昔話に「竜退治」という話があ る。犬を連れた若者が、王女をいけにえに求め る竜を退治し、王女と結ばれるという内容の話 である。わが国の昔話では「猿神退治」に相当 する。一般にヨーロッパの竜は、大へビを形象 化したもので、悪神の化身のように考えられて いる。宝物などを守っているが、ついには英雄 や神々に殺される運命にある。東洋の竜は総じ て、現実生活と結び付いて人々に幸福を招来す る善神としての傾向が強い。敵対するよりは調 和を求めようとする一面は、その民族的性格を 〈野村純一〉 反映しているようである。 りゅうあし / リウャーツ ( 一会七ー一九 柳亜子 きしつ 五 0 中国の詩人。名は慰高、のちに棄疾と改 あぎな 名、字は安如、亜子は号。江蘇省呉江の人。一 九〇三年上海愛国学社に学び、〇六年同盟会、 ンヤンハイ まき

8. 日本大百科全書 24

ろしあし くっていた。 / 彼らは一様に、西ヨーロッパ諸国に比べて遅れ 条約 ( 一 0 七 ) を結ばざるをえなかった。その後、ロシアではやむなきに至った。↓モスクワ遠征 ナポレオン一世の没落後に開催されたウィーン会議 ( 天一四ている祖国を改造するためには、まず第一に専制政治と農奴 ナポレオン一世の大陸封鎖に対する不満が増大し、ロシアと 制を廃止すべきだと考えていた。 ~ 一五 ) において、アレクサンドル一世は主役を演じ、さらに フランスとの関係は悪化した。一 八一二年、ナポレオン一世 結局この反乱は、新帝ニコライ一世 ( 在位一全五 ~ 五五 ) の武 ヨーロッパに神による平和を打ち立てるのだと称して、「 はおよそ六四万という大軍を率いてモスクワ遠征を敢行し、 ポロジノの戦いののち、モスクワに入った。しかしアレクサ聖同盟」を提唱した。しかし、国内問題に関して、彼は以前力によって鎮圧され、首謀者五人は絞首刑となり、一二〇余 人がシベリア流刑となった ( デカ・フリストの乱 ) 。しかし、 ンドル一世は、ナポレオン一世の三度にわたる講和の申入れのような情熱はもはや失ってしまった。↓神聖同盟 〔デカプリストの乱〕一八二五年にアレクサンドル一世が旅専制に対する最初の公然たる武装蜂起の企ては、長く人々の を拒否し、迫りくるロシアの冬を前にナポレオン軍は撤退の 先で急死すると、帝位の継承をめぐって混乱が生じた。結記憶に残り、それ以後の革命運動の先駆けとなった。↓デカ ヒロ揮ラ一た 像フ模チスの邸ハ建りは プリストの乱 局、二番目の弟のニコライが即位することになり、同年一二 年・た指クョ日寸 肖ョ規ガモ代 フ家に通物旧 れのウ、をのチ大ブて時一築年の建 ( 画 一八二五年から五五年までのニコライ一世の三〇年間の治 月、慣例によって首都の全軍隊が新しいツアーリに忠誠を誓 ⅱら世をり会世ガにたれ同コ建跖前の館 ュ的 ~ 手こ書ル 車破機 2 フ年し敗 うため元老院広場に集結した。このとき、およそ三〇〇〇人世は、一九世紀のロシアでももっとも暗い時代だった。彼は 率ルンでるナた乃導に シ表別 戦に一デバす画一れ ~ 指車れ 代ⅱ宅街ンラ 彼らの指導秘密警察と憲兵隊を兼ねる「皇帝官房第三部」を設置して、 の将兵が宣誓を拒否して、反乱の姿勢を示した。 , の世カ一タ出一リかを府さ絵ののが邸ャニデ このえ エル進プエ描ⅱ乱政刑のワ半フの一 者の大部分は、ナポレオン戦争に参加した経験のある近衛のあらゆる危険思想を取り締まった。また、国内のみでなく、 タルはウホにエチに反 . 処明ク後ノ族バレた ルト軍スの バッカ上像民はて不ス紀一貴ホ後っ 一八四九年にはハンガリーにも軍隊を送って、この国の革命 ポ一アるナツツェの肖農フワ者モ世工たマ命な 士官で、一 八一六年以来、ロシアの改革のため秘密結社をつ ①ヨシすイロコ 2 画のなョク作 ( 3 ジては革と ヨーロッパの憲兵」と恐れられた。しか を武力で弾圧し、「 し、このような政府の抑圧政策にもかかわらす、一八三〇年 代の末から四〇年代の末にかけて、ロシアの思想界はかって ないほど活発な動きを一小し、ホミヤコーフやキレーエフスキ ヘリンスキーやゲルツェン ーに代表されるスラボフィルと、・ に代表されるザーパドニキ ( 西欧派 ) との間に、ロシアの過 去と未来をめぐって華々しい論争が闘わされた。また、文学 はプーシキン、ゴーゴリ、レールモントフなどが現れて、黄 金時代を迎えた。 改革と反動 〔農奴解放と諸改革〕ロシアは一八五三年から三年間にわた って、オスマン・トルコ帝国とその後押しをするイギリスや フランスを相手にクリミア戦争 ( 一会三 ~ 五六 ) を戦い、敗北を 喫した。敗戦の前年に即位した皇帝アレクサンドル二世 ( 在 全 ) をはじめとして、ロシアの支配階級の一部は、 位天五五 ~ この敗北の原因が単に軍事的なものでなく、ロシアの工業カ の弱さや、鉄道・道路網の不備など、近代化の立ち後れにあ ると考えた。↓クリミア戦争 八六一年、農奴解放令が公布された。ついで地方行政の セムストボとよばれる地方自治会が設置さ 改革のために、。 れ、六四年には司法・裁判制度の改革も行われた。改革はま た軍制、国家財政、教育面などに関しても行われ、ロシア社 会は徐々に近代化に向けて変化していった。↓農奴解放令 〔プ・ナロード運動〕しかし、このような政府による上から の近代化に対して、社会のなかに反対する勢力が生じた。そ れは保守的な地主貴族たちばかりでなく、農奴解放令の内容 ほら′キ一

9. 日本大百科全書 24

位後わすか一〇か月で退位させられ、年金を与仲にある名家であるが、薄情な恋人口ザライン現在では全曲上演の機会は少なく、管弦楽部分 ロムルス RomuIus 紀元前七五三年ロー の抜粋が知られる。 にひと目会いたいと、彼女が招かれているキャ マを建設し、初代の王となったとされる伝説的えられてカンバニアに隠退した。これにより西 チャイコフスキー作曲の幻想的序曲。一 ローマ帝国は滅亡したと一般にいわれているピュレット家の舞踏会に危険を冒して出かけた 英雄。ローマの名は、自らの名を冠してつけた とされる。トロヤの英雄アイネイアス ( アエネが、法的には四八〇年ネボスの死まで帝国は存モンタギュー家のロメオは、思いがけなくもキ九年作。交響詩風の性格をもっ管弦楽のための ん尸ロロ 0 〈島創平〉 ャピュレット家の娘ジュリエットを激しく恋し 続したともいえる。 アス ) の血統を継ぐアルバ・ロンガの王ヌミト ルの娘レア・シルウィアと、軍神マルスとの間 ロムレア Ro きミきアヤメ科ロムレアてしまう。二人は、ローレンス神父の計らいで③プロコフィエフ作曲のバレエ音楽。一九三五 属の総称。西ヨーロッパ、地中海沿岸地方、南秘密のうちに結婚式をあげたが、両家の親族の年作。演出家 ()0 ・ラドロフらの協力を得て作曲 に生まれ、レムスとは双子の兄弟である。 こんじようざた 間に刄傷沙汰がおこり、親友マーキューシオ者が台本を作成。全四幕五二曲の大作である ヌミトル王の弟アムリウスは兄の王権を奪アフリカなど原産の半耐寒性の秋植え球根草 ふくしゅう が、これに基づき第一から第三の三つの演奏会 、姪であるレアが子供を産むのを恐れて彼女で、約九〇種ある。地中海地方原産種は寒さにを殺されたロメオは復讐のため敵方のティポ 〈三宅幸夫〉 ルトを討ち、追放の刑に処せられる。ロメオと用組曲がつくられている。 をウエスタの巫女にするが、彼女は森でマルス強く、南アフリカ系は弱い。三 ~ 四月、クロッ に犯されて、ロムルスとレムスの双子を出産す力スに似た花をつける。赤、桃色をはじめ各色ジュリエットは最初にして最後の一夜を過ごし回『ロミオとジュリエット』 ( 中野好夫訳・新潮 文庫 / 三神勲訳・角川文庫 ) る。アムリウスはこれを知ってレアを殺し、子多彩な大輪花で、美しい。一花の寿命は三 ~ 四たのち、ロメオはマンチュアへ逃れる。父から めす きようてい L0n16 Convention 供たちをティ・ヘル河岸に捨てるが、二人は牝の日であるが、よくつくると次々と続開し、三 ~ ハリス伯爵との結婚を命じられたジュリエットロメ協定 おおかみ は、結婚を回避するため神父からもらった薬をヨーロッパ共同体 (QO) 九か国とアフリカ、 らに乳を与えられ、やがて牧人のファウスト四週間楽しめる。晴天下でよく育ち、用土は砂 カリブ海、太平洋地域の発展途上国 ( 三地域の ウルスに拾われて養われ、成長する。ある日レ質がよい。鉢植えでは五号鉢に一〇球植えくら飲んで仮死状態に陥り、納骨堂に入れられる。 いとする。 〈川畑寅三郎〉運命のいたずらで神父からの正しい情報は届か頭文字をとって諸国という ) 四六か国と ムスがアムリウスの家畜を奪って捕らえられる と、ファウストウルスから自分の素性を聞いたロムロ Carlos P. Romulo ( 天究ー一九会 ) ず、彼女が死んだという誤報を受けたロメオはの間で結ばれた経済協力協定。一九七五年二月 にトーゴの首都ロメにおいて調印され、七六年 ロムルスは、アルバに直行してアムリウスを討フィリピンの政治家。フィリビン大学、コロン納骨堂に駆けつけ、毒を仰いで死ぬ。目覚めた ジュリエットは事の真相を察し、短剣で胸を突四月に発効した。 ビア大学修士課程に学ぶ。一九二二年以後「フ ち、父を王に復帰させた。その後ロムルスとレ 0 は、かってヨーロッパ諸国と植民地・保 いて彼の後を追う。 ィリピン・ヘラルド』紙印社長、『マニラ・ト ムスはローマの地に新都市建設を計画するが、 この悲劇は当時としては珍しい純粋な恋愛悲護領など特別の関係を有していた非ヨーロッパ 用地の選択をめぐって争い合い、鳥占いに審判リビューン』紙主筆などジャーナリストとして をゆだねる。レムスが六羽、ロムルスが一二羽活躍、四一年ピュリツツアー賞授賞。四四年米劇であり、「星の巡り合わせの悪い恋人たち」諸国との間の連合関係を規定しているが、この 連合関係の原型が、一九六三年七月、当時のヨ とい , っことばが用いられているよ , つに、シェ の鷹を見たことから、ロムルスが神によって是軍准将に列せられる。四九年第四回国連総会議 ーロツ。ハ経済共同体 ( 0 ) 六か国とフラン 認され、未来の都市の境界を定めたが、レムス長。五〇 ~ 五一年キリノ政権下で外相。六二年クスピア劇のなかではもっとも強く運命悲劇の がそれを無視したためにロムルスは怒って彼をフィリピン大学総長、六九年マルコス政権下の性格をもっているが、同時にイタリアを舞台とス連合に属するアフリカ一八か国との間に結ば れたヤウンデ協定である。その内容は、相互特 した華麗な悲劇であり、人間味あふれるジュリ 外相。八四年高齢を理由に辞任。〈黒柳米司〉 殺した。 しゃれ こうしてロムルスは支配者となるが、女性不ロメ Lomé西アフリカ、トーゴの首都。ェットの乳母や陽気な洒落者マーキューシオの恵による貿易関係の一体化と開発援助資金の供 足で新都市の人口が減少すると、隣国のサビ一一同国南部、ギニア湾に臨む港湾都市である。人創造など、シェークスピアの特徴がよく表れた、与であった。さらに、アフリカ諸国との連合関 係は、イギリス連邦に属する東アフリカ三か国 一八九七年、ドイ彼の青年期の代表作となっている。〈小津次郎〉 人をコンススの祭りに招き、彼らの多くの娘を口三六万六四七六 ( 一九〈三 ) 。 にも拡大され ( アルーシャ協定 ) 、七一年から 略奪した。怒ったサビニ人はテイトウス・タテ ツが内陸への鉄道敷設の基地として以来発展〔音楽〕この戯曲に題材を求めた音楽作品は数 、・ツリーニ作曲のもの実施された。ャウンデ協定とアルーシャ協定 イウス王を先頭にローマに攻め込むが、ユピテし、トーゴの政治、経済、文化、交通の中心地多く、オペラだけでもへ は、七五年一月末に失効することになってお となっている。港からはカカオ、やし油、やし ( 『キャピュレット家とモンタギュー家』天 ル ( ローマの神界の主神 ) の助けを受けたロー り、他方、イギリスの加盟 ( 一九七三 ) によっ マ人の前に敗北してしまう。しかしロムルスは、核、綿花、ラッカセイなどが輸出される。水深三 0 ・・ヘネチア初演 ) 、グノー作曲のもの ( 天 ・パリ初演 ) 、ポリ タテイウス王にもローマの支配権を与えて共同が浅いので、近年東方に大型船の着岸できる新六七 ザ園 で統治し、タテイウスの死後は一人でローマと港を建設した。市街は、西部がヨーロッパ人居ス・。フラッハー作曲のも 劇ハ庭 悲家 の ( 一九五 0 ) など、十余曲 〈小川正広〉住地および官庁街、中部は商業地、北部がアフ サビニの両民族を長く支配した。 の 〈大林稔〉ある。そのほか同題の代 リカ人居住地となっている。 ロムルス・アウグストウルス Romu ・ ビ挿レ スのユ lus Augustulus ( 四六一ころ ? ) 最後の西口ロメオとジュリエット RomeoandJu ・表的音楽作品に次の三つ ク ,. ヒ ーマ皇帝 ( 在位四七五 ~ 四七六 ) 。西口ーマ帝国の最 liet イギリスの劇作家シェークスビアの五幕がある。 一刊ャ館 工年キ書 ①・ヘルリオーズ作曲の劇 高軍司令官であった父オレステスによるネボス悲劇。創作年代には若干の問題はあるが、一五 シ怩場図 2 属 帝追放後帝位につけられたが、東ローマ ( ビザ九五年ごろとするのが定説となっている。原話的交響曲。一八三九年作 第附 トト幕学 ンティン ) 帝国からは承認されなかった。ロムはイタリアの物語で、マテオ・バンデッ口によ曲・初演。独唱・合唱・ ツツ 2 ・人 工工第語 ルス・アウグストウス Romulus Augustus ってまとめられているが、シェークスピアの直管弦楽による五部からな , 国 よが正式名であるが、年少のゆえにアウグストウ接の原典はアーサー・プルック A 「 thu 「 B 「 oke る大規模な交響曲。原作 ジジよ都 キ、ルス ( 少年皇帝の意 ) とよばれた。四七六年ゲ ( ? ー一五六三 ) の叙事詩『ロミウスとジュリエッをもとに詩人工ミール・ とと ,. 一泉 オオ画 トの悲話』 ( 一五六一 l) である。べローナのモンタデュシャンが執筆した歌 めルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱によりオレ メメル場 ロロレの ろステスは殺され、ロムルスは死を免れたが、即ギュー家とキャピュレット家は、昔から犬猿の詞を用いている。ただし 第野をと攣 665

10. 日本大百科全書 24

しやかいみんし している。ロシア語はインド・ヨーロツ。ハ語族向がある。服装は、北部、中部では農婦の着けモスクワは第三のローマと号した。だが同教会 6 しロシア社会民主労働党 るサラファンが、南部ではポニョーヾ ノという毛は信仰の聖地であるよりも、祭祀主義的、権威 5 ゅろうどうとう P()CCHHCK'dfl C()LIHaJ1-neM()- スラブ語群東スラブ語に属し、ウクライナ ( 小 あ ロシア ) 語、白ロシア C ヘロルシア ) 語と同じ織物のスカートが特徴的である。末婚の女性は主義的場と化し、民衆の間に迷信が盛んとな . し KpaTHqeCKaq pa60 工 a 工、 ZROSSiyska ・ ずきん つき()巨・ demokraticheskaya 「。 0 ぎグループを形成する。形質的には他のスラブ諸髪にリポンを着けるが、既婚者は頭巾 ( キーチり、一方、反権威的な教会分裂 ( ラスコール ) Russian Social Democratic 族と同様に東ヨーロッパ人種に属し、中位の身力など ) で髪を隠す。男子の伝統衣装はルバシや狂信的セクトが生じた。一八世紀ピヨートル partiya 加 イギ ロシアのマルクス主義政長で、髪や目の色は明るいが、周辺の人々との力とよばれる上衣が中心であった。食事はライ大帝により官許正教会は弱められ、以後形骸化 Labor Party ムギの黒パンなどが主食で、特徴的な料理にサした。さらにロシア革命後は反宗教のソビエト 党。ロシア人にマルクス主義が社会民主主義と混血も進んでいる。 リャンカ、ポルシチ、ビロシキなどがある。 政権により、十余年にわたって迫害され ( 一九 して受け入れられたのは、一 八三年にプレハ ロシア人はウクライナ人、白ロシア人らとと 三〇年がビーク ) 、その後も、教会は宗教的行 宗教は、一〇世紀にキエフ大公国のウラジー ーノフらがナロードニキ主義と決別して亡命地 もに一三世紀ころまで古ロシア人を構成してお ジュネープで創立した「労働解放団」においてり、八世紀ころよりノルマン人の進出によってミル大公が改宗して以来、ギリシア正教 ( ロシ動を制限され、布教、宗教教育、慈善事業など である。彼らは、ロシアが西ヨーロッパ諸国同ノブゴロド、キエフを中心に国家を建設した。 ア正教、東方正教会 ) が普及している。現在、は許されす、個人の祈りに限定されて認められ 大部分が一七世紀にモスクワ総主教ニコンによている。現在、信仰の盛んな教会はモスクワ、 様、資本主義を通過すること、したがって当面このころロシアの古形であるルーシ PYCb って改革された信仰に従っているが、それに反レニングラード、キエフ、プスコフなどの教会 する革命はプルジョア革命であると主張した。 Rus' という名称が生まれたが、 その語源には リニキ ) とよばである。教役者養成はモスクワ、レニングラー その後ロシア国内で生まれたマルクス主義者の定説はない。 現在のロシア人は一四、一五世紀発したものは分離派 ( ラスコー ド、オデッサで行われている。↓東方正教会 のモンゴル、タダールへの抵抗とモスクワを中れ、シベリア、中央アジアなど周辺地域で旧来 グループが、全ロシア的組織の結成に向かい、 〈田口貞夫〉 ↓ギリシア正教会 心とした統一国家建設のなかで形成された。モ の信仰を守っている。ロシア人はキリスト教普 一八九八年にミンスクでロシア社会民主労働党 えんげき一 の結党大会を開いた。この大会は、ストルーベ スクワ大公国の独立以降領土は拡大の一途をた及以前。。 こま雷神ベルーンを中心にした多神教的ロシア・ソヒエト演劇 な宗教をもっていたが、その一部はキリスト教九一七年の社会主義革命以前のロシア人による の筆になる「ヨーロッパの東へ行くほどプルジ どり、一九世紀には南は黒海、カスビ海沿岸か 、それ以降のソビエト ョアジーは弱体になり、文化的・政治的任務が ら、北は北極海まで、西はポーランドから東はのなかに取り入れられ、融合した。民間伝承で演劇をロシア演劇といい プロレタリアートに降りかかる」という有名な極東、アラスカにまで及んだ。その間ロシア人は家霊 ( ドモポイ ) 、水霊 ( ポジャノイ、ルサ連邦内の多民族演劇を総称してソビエト演劇と ールカ ) 、森霊 ( レーシー ) 、魔女、吸血鬼などが はコサックを先頭に各地に入植し、その地の原 いう。世界演劇史上、特筆されるのは、一九世 宣言を発したが、参加した活動家の一斉逮捕に 盛んに登場し、民衆の素朴な信仰を端的に表し 紀後半から革命を挟んでの一九二〇年代までの よって活動は中断した。 住民に対して、生業形態、物質文化、精神文化 激動期である。スタニスラフスキー、ネミロビ 党の再組織のためのイニシアティブをとった などに大きな影響を残した。ロシア人は古来家ている。 ロシアの民間芸術も概して素朴なものであるチ・ダンチェンコによるモスクワ芸術座をはじ のは、レーニン、マルトフらが新聞『イスク父長的大家族制 ( ミール MHpZmir) を基礎に ラ』の刊行のために一九〇〇年に組織したグル して村落をつくり、農耕を営んできたが、モスが、それだけに人の心を打つものが多い。木工め、メイエルホリド、ワフタンゴフ、タイーロ ざんしん ープである。その結果、〇三年夏、事実上の結 クワ大公国がロシア帝国として発展するととも芸や銀細工、ミニアチュールなどの工芸品や民フらによる斬新な舞台活動は、チェーホフ、ゴ ーゴリ、ゴーリキー、オストロフスキー、マヤ に、多くの農民が農奴化された。それは国家の謡、。フィリーナ ( 古い英雄伝説を独特の節をつ 党大会となった第二回党大会が。フリュッセルと けて歌ったもの ) 、チャストウーシュカ ( 風刺 コフスキーらの戯曲とともに、二〇世紀前半の ロンドンで開かれた。しかしこの大会で、党規上層部が農民を掌握するための施策であった 約第一条をめぐり、イスクラ・グループが、職が、他方で国の膨張とは裏腹に社会の発展を阻をきかせた歌 ) などは、近現代のロシアの文世界演劇に強烈な影響を与えた。築地小劇場を 業的革命家の党を目ざすレーニン派と、より広害する結果になった。一九世紀末に産業革命が学、美術、音楽、演劇などに大きな影響を与え中心とする日本の新劇界も、この高揚期のロシ い活動家も党員に含めようとするマルトフ派と起きたものの、それまでの社会的ひずみがあまている。↓ロシア語↓モスクワ大公国↓ソビ ア・ソビエト演劇から多くの影響を受けた。 エト連邦 〈佐々木史郎〉 に分裂、前者がポリシェビキ ( 多数派 ) 、後者りにも大きく、第一次世界大戦中に起きた革命 〔ロシア演劇〕ロシアにおいても演劇は、宗教 がメンシェビキ ( 少数派 ) とよばれるようにな は社会主義革命に発展し、一九一七年に世界で回森安達也編『民族の世界史一〇スラヴ民的な行事、婚礼などの儀式、遊戯、祭式などに 族と東欧ロシア』 ( 一九会・山川出版社 ) ▽大行われる、ごく素朴な踊り、歌、音楽、物真 った。両派の対立はその後も続き、ポリシェビ 初めての社会主義国家が樹立され、今日に至っ ている。 キは、一八年、党名をロシア共産党 ( ポリシェ 木伸一編訳〔。ロシアの民俗学』 ( 一九六七・岩崎似、身ぶりなどから生まれた。やがて、スコモ 美術社 ) ビキ ) と変更、メンシェビキの一部は国外での ロシア人はことばと若干の文化要素の違いで ーロヒ cKOMopoxH//skomorohi ( 単数はスコ 活動を続けた。↓ポリシェビキ↓メンシェビキ 北部と南部に大きく分けられ、それそれ住居、 せいきようかいキリストモーロフ ) とよばれる旅芸人たちがそれらを専 ロシア正教会 ↓ソビエト共産党 〈藤本和貴夫〉服装などに特徴がある。さらにモスクワ周辺か教の一派で、東方正教会の中核をなす教会。ロ 門的に勤めるようになり、喜劇的・風刺的小芝 らオカ川、ポルガ川中流域が中部として両者の シアにビザンティンから正教が入った当初のキ居、歌、掛け合い、踊り、楽器演奏、手品、人 じん PYCCKHe7Russkie ロシア人 ソビエト連邦の中核をなす民族。人口は一億一一一中間形態をなしている。住居は、北部では背の エフ時代、ロシア正教会はコンスタンティノー 形劇、芸を仕込んだ熊芝居などの多彩な演目を 七三九万七〇〇〇人 ( 一九七九 ) で、その九九・九高い切妻型の屋根をした木造家屋が主流であるプル総主教の管下にあったが、実際の信仰は修 もって、市町村の広場や有力者の家の中庭など % がロシア語を母語とする。本来の居住地はウのに対し、南部では背が低く、ビラミッド型の道院で行われ、主の祈りに基づく独自な「謙虚で独自の興行を打つようになった。スコモーロ ラル山脈以西のヨーロッパ ・ロシアであるが、屋根の家屋が多い。壁に粘土を塗ったり、れんの精神」が育成された。続くタタール人支配時ヒの語源は、「おどけ職人」を意味するギリシ 一六世紀以降のシベリア入植によって現在はシ が造にすることもある。農家の敷地には、家屋代も修道信仰は森の中で保存された。一六世ア語が起源といわれ、いわばロシアの道化であ ようじゅっ ペリアの人口の九〇 % 以上を占めるに至ってい と付属の菜園があり、さらに穀物乾燥場と浴場紀、モスクワ時代、ロシア正教会は、、 : ヒサンテる。古代スラブ人の魔術師、妖術使いポルフ る。ソ連以外ではヨーロッパ各地、アメリカ合 ( サウナ式の蒸し風呂 ) が建てられるのが一般イン教会がイスラムの支配下になったため、か ビから発生したという説もある。すでに八世紀 衆国、カナダ、中国 ( 俄羅斯族 ) などにも常住的である。集落は南部に行くはど大きくなる傾わって正教の中心となり、総主教制が敷かれ、 に存在したとも、九八八年ごろキリスト教がキ つきじ