ろんどん アデイケアの反乱で一度破壊されたものの、ロ ンディニウムは急速に復興し、商業で大いに繁 6 栄した。五世紀の前半にローマ人が去り、ロン ドンは後のアングロ・サクソン七王国の分裂時 る物 代には衰退した。その後ロンドンは徐々に商港 としての繁栄を取り戻したが、この町の重要性 かン が再度高まるのは、一〇世紀にイングランドが 統一されてからである。一一世紀に入ってクヌ ぎん ジる ッえ ード ( 大王、在位一 0 一六 ~ 三五 ) とエドワード ( 懺 悔王、在位一 0 四一一 ~ 六六 ) が、旧来のロンドンの西 フか 方、ウエストミンスターに王宮や寺院を建てた ことは、ロンドンの歴史に大きな影響を与え 三 ~ す館 た。以後ロンドンは、旧市街であるシティが商 に当兀 一一左図 業の中心、ウエストミンスターが王宮の所在地 ムタ ( 銀ホで政治の中心という二重構造をもって発展して テス しくことになる。 一フギ 〔商業の発展〕一〇六六年の征服 ( ノルマン・ 一あト ~ かス コンクエスト ) 後、ウィリアム一世はロンドン 塔工 ンウ とン市に対して、前王エドワード治下で認められて いた権利を保障するとともに、シティの東端に ロ左 ロンドン塔をつくり支配を固めた。一二世紀前 ラ 端れ 断グ半に起こった大火の結果、多くの建物が石とタ イル造に変わり、やがてロンドン橋も石造とな 立色 った。このころからロンドンは旧来の市壁を越 王彩 ン市 えて地理的に拡大する一方、一一九一年には自 イる のイ 治都市となり、一一一一五年以降は市長選挙が毎 一ろテ 年行われるようになった。こうした発展の背後 にあったのは商業の拡大で、各種の、キルドがす でに一二世紀に結成されている。他方、一二世 紀後半からイングランドの統治制度の整備が進 は予想以上に減少し、一九六一年からの二〇年と暴動が発生するなど、新しい都市問題となっ ドンは新たな発展を始める可能性が大きい。ロ ている。 ンドンが過去、現在、未来にわたって人々をひみ、一三世紀に議会が誕生したことは、政治的 二三〇万人の減となり、とくにインナー ロンドンとよばれる旧ロンドン県の部分では、 きつけているのは、ひとロでいえば、人々が都首都ロンドンの成長をも促した。ロンドンは政 世界でもっとも早く大都市問題に直面したロ ンドンでは、戦後大口ンドン計画に代表される市に求める魅力がそろっているからである。 治と不可分に結び付き、一 三八一年のワット・ 住民の流出に伴い市街地の荒廃が著しく、深刻 な社会問題を引き起こした。このため、七〇年一連の大都市行政が取り入れられた。その実施「ロンドンに飽きた人はこの世に飽きたも同然タイラーの乱や一四五〇年のケードの乱の際に だ。なぜならば、ロンドンにはこの世のすべては反徒の侵入を受けた。。 はら戦争 ( 一四五五 ~ 代後半に入ると、政府は都市政策の重点を従来 にあたる地方政府の制度的改革の一環として、 の新市街地建設から既存市街地の再開発へ移一八五五年のロンドン県設置以来の伝統をもつがそろっているのだから」という一八世紀の文の時代には、ロンドンはヨーク派と良好な関係 豪サミュエル・ジョンソンのことばは、現在もを維持して混乱を避けた。また疫病の流行も中 し、内部市街地にふたたび住民や企業を呼び戻統一的行政体をさらに発展させ、一九六五年に そうと努力している。ロンドンでは従来アメリ 面積約一六〇〇平方キ。の連続する市街地を行政そのまま生きているといえよう。〈井内昇〉世以来ロンドンを悩ませたものの一つで、一四 世紀中葉の黒死病 ( ベスト ) の大流行では人口 力の大都市のような人種問題はまれであった区域とする大口ンドン県が労働党政権により設 歴史 の過半が失われた。 が、戦後旧植民地から受け入れた大量の移民の 置され、一元的な大都市行政の強化を図った。 ロンドンの歴史が確認されるのは、紀元後四 中世後期のロンドンは、ヨーロッパの国際的 多くがロンドンに定着し、市民の人種別構成も しかし、この大都市行政体は八六年に保守党政 以前に比べると複雑化し、近年ロンドン中心部権のもとで廃止され、ロンドンの大都市問題も三年にローマ人がこの地にやってきてからであな商業網のなかでも重要な位置を占めた。ドイ るが、それ以前にもケルト系の先住民がこの付 ツのハンザ商人が一三世紀にはロンドンに定着 の街頭は、外国人観光客も加わりニューヨーク新たな対応を求められている。 のような人種の展示場の観を呈している。これ イギリスは今後ヨーロッパ共同体 (QO) の近に住んでいたものと思われる。ローマ人はロ し、フランドルや北イタリアからきた人々とと らの移民の一部は、市の南部や北部地区に集中一員として生きてゆく以上、大陸に近いイングンディニウム Londinium の町をつくり、テもにロンドンの商業や金融で力を振るった。北 的な居住区を生み出したが、これらの地区でランド南東部は恵まれた気候と相まって今後さ ムズ川の渡河に適したこの地をプリタニアの道イタリア ( ロンバルディア ) 出身の金融業者 は、不景気で失業率が高まり生活不安が高じるらに産業や人口が集まり、その中心であるロン路網の中心とした。六一年にイケニ族の女王ポは、現在でもロンドン金融の中心地ロンバード 1 を
街にその名を残している。最初羊毛の輸出港でえた。しかし内戦の終結後に成立したクロムウ市となっていた。それに応じて、一七五〇年に多くは郊外に住むようになっていた。 ロンドンは第一次世界大戦でドイツ軍の空襲 エルの厳格な支配の体制はロンドンにとって好はテムズ川に架かる第二の橋としてウエストミ あったロンドンは、一四世紀後半以降イングラ ンスター橋が完成したのをはじめとして橋や道を受け、二〇〇〇人ほどの死傷者を出した。第 ンドで羊毛工業が発達すると、毛織物の輸出港ましいものではなく、一六六〇年の国王チャー 路の整備が進み、一九世紀に入るとガス灯や乗二次大戦の被害はさらに大きく、空襲による死 になっていった。初めは外国人商人が有力であルズ二世の帰還は大歓迎を受けた。当時ロンド ったが、 一の大都市合馬車も登場した。また一八二九年にはピール傷者は数万に達し、ロンドンは一六六六年の大 ンは人口五〇万を擁するヨーロツ。ハ 徐々にイギリス人の冒険商人組合 ( マ ーチャント・アド・ヘンチャラーズ ) が成長を遂となっていたが、市内にはごみごみした貧民街の手で首都警察 ( スコットランド王のロンドン火以来の大規模な破壊を被った。戦後は復興が 進み、ロンドンの拡大に対処するため、一九六 げ、一六世紀にはハンザ商人の勢力を駆逐するが広がっていた。一六六五年にベストが流行し屋敷跡に面していたためスコットランド・ヤー ドとよばれるようになった ) が設置された。こ五年に大口ンドン県庁が設けられた ( 一九会廃 ことに成功した。その間ロンドンは国内の他のた際には一〇万人近い人々が死亡し、王室をは 〈青木康〉 うして首都の市民生活は徐々に便利なものにな止 ) 。 港を抑えて独占的な体制を固め、一七世紀初頭じめとして多くの市民がロンドンを離れる騒ぎ にはロンドン経由の輸出貿易がイングランド全となった。さらに一六六六年九月には有名な大っていったが、水や空気といった環境問題では回マクミラン社刊『ロンドン百科事典』 ( 英語 版・一九会・— 0 ) ▽ O ・ヒバート著、横 火が起こり、セント・ポール大聖堂をはじめ多難問が山積していた。とくに一八五八年の「大 体の三分の二から四分の三を占めるに至った。 山徳爾訳『ロンドンーーある都市の伝記』 くの建物が焼失して、およそ二五万の人々が家悪臭」は有名で、汚物が流れ込むテムズ川のあ 〔ロンドンの拡大〕チューダー時代に入り、ヘ ( 一突三・朝日イプニングニュース社 ) ▽ ンリー八世 ( 在位一五 0 九 ~ 四七 ) による宗教改革でを失った。建築家 O ・レンらはすぐに再建計画まりの悪臭に議会の討論も妨げられたといわれ ・ミッチェル他著、松村赳訳『ロンドン庶 修道院が解散されたため、ロンドンにおいてもを提出し、新たに建築上の規制が設けられ、ロている。首都の環境は、衛生向上運動家チャド 民生活史』 ( 一九七一・みすず書房 ) ▽桜庭信之 従来修道院がもっていた多くの土地が個人の手ンドンは数年のうちに復興した。ロンドンの拡ウィック、 Edwin Chadwick ( 天 00 ー九 0 ) 著『ロンドンーー・紀行と探訪』 ( 一九会・大修 らの努力によって徐々に改善されていったが、 に移った。これによって得られた土地は、一六大はもはや抑えることのできない事実となり、 ばいえん 館書店 ) ▽小池滋著『ロンドンーーほんの コペント・ガーデンなど新しい市場の開設も認石炭の煤煙によるスモッグは長く口ンドンの住 世紀前半から急速に増大していた住民のための 百年前の物語』 ( 中公新書 ) 民を苦しめた。 住宅用地にも使われ、一七世紀初頭にはロンドめられた。 ロンドン London カナダ、オンタリオ州 八三六年ロンドンに鉄道が初めて登場し、 〔政治的成長〕一六七〇年代末から議会のなか ンの人口は郊外も含めると二〇万人を超えてい にホイッグ、トーリ ーの党派対立が現れ、ロン 六三年には地下鉄も開通した。鉄道などと並ん南東部の都市。トロントの南西一七五キ。、テム た。シティの東側に貧民街であるイースト・エ ドンはふたたび政治対立の舞台となった。一度で一九世紀イギリスの繁栄と技術の勝利を示しズ川中流沿岸に位置する。人口二五万四二八 ンドが誕生し、また西側のウエスト・エンドに はくだっ 〇、大都市圏人口二八万三六六 は特許状を剥奪されたロンドンのシティは、名たのは、一八五一年にロンドンのハイド・パー は有力者や富裕者が住む街区ができ始めてい ー湖岸に外港ポート・スタンリーをもち、鉄 クで開かれた万国博覧会であった。これには半 た。ロンドンの拡大はテムズ川の北岸に限られ誉革命に際して当然ウィリアムを支持し、一六 道が集まる交通の要地である。また、オンタリ ず、シティの対岸にあたるサザークも発展しつ九四年にはウィリアム三世の下でイングランド年間で六〇〇万人が見物に訪れ、そのなかには つあった。このような急成長の原因の一つは、銀行が設立された。以後ロンドンはアムステル多くの労働者が含まれていた。三年前の一八四オ半島の豊かな農業地域の中心地でもあり、農 ノ年ロンドンではチャーティスト運動を支持産物の集散地としてのほか、食品加工、紙、織 従来にも増して地方からロンドンへ地主が集まダムにかわって国際金融の中心地に成長し、シ、、 ってきたことであった。中央集権化の進行ととティの金融勢力はイギリスの政治にも強い影響する民衆暴動が懸念されたが、この万国博の成物、電気製品などの軽工業が発達する。一 もに、裁判や政治的任務で首都ロンドンを訪れ力をもち続けた。ロンドンにおける活発な政功以後、そうした激しい階級対立は忘れられ六年に建設され、五五年より市制が施行され た。街路、建物、公園などはイギリスのロンド る地方地主が増大し、宮廷に職を得ようとする治・経済活動を支えた背景として、一七世紀のた。政治的自由の国イギリスの首都ロンドンに ンを模している。ウエスタン・オンタリオ大学 は、マルクスのような大陸からの亡命者もきて 人々も上京してきた。借金や土地の売買のため後半から自由な議論と情報交換の場であるコー 〈山下脩二〉 にもロンドンは便利であった。こ , っして地主た ハウスが発展し、新聞・雑誌の増加が世おり、一八六四年には労働者の国際的組織であ ( 天大創立 ) の所在地でもある。 力いぐんぐんし ちがロンドンに集まり、秋から翌年六月までの論の形成を可能にしていたことは無視できなる第一インターナショナルがロンドンで創立さロンドン海軍軍縮会議 ゆくかいぎアメリカ、イギリス、日本、フラン 首都において成長した世論は、一八世紀のれた。 季節を社交界で過ごすという習慣のもとがつく 〔行政の発展〕シティとウエストミンスターはス、イタリアの五か国が、一九三〇年一月二一 られた。ロンドンに劇場が建てられ、シェーク貴族政治の停滞・腐敗を抑制する機能を果た 日 ~ 四月二二日、ロンドンで開催した海軍軍備 し、ときに民衆暴動のような形をとって政治に 本来別の町であり、一九世紀中葉までロンドン スピアの戯曲が演じられたのも、この時代のこ 制限のための会議。ワシントン、ジュネープ両 は一つのまとまった行政区域ではなかった。よ とであった。ロンドンの無秩序な拡大を防ごう直接的に介入した。ロンドンの民衆運動のなか うやく一八五五年の首都圏管理法によって行政海軍軍縮会議で合意に失敗した補助艦艇の制限 とするエリザベス女王 ( 一世、在位一五夭 には、カトリック教徒の解放に反対するゴード ン暴動 ( 一大 0 ) のような保守的なものもあったの統一が図られ、その後八八年にロンドン県庁を主要議題とした。ジュネープ会議はアメリカ 0 三 ) や初期スチュアート朝の王たちの試みにも が、一七六〇年代のウイルクス運動以後、議会が設置され、さらに九九年にも行政の改組が行とイギリスの厳しい対立で挫折したが、両国は かかわらず、ロンドンは消費の中心地としても 改革を求める急進主義運動が盛んになった。 われた。このような行政の整備が進む一方、電このロンドン会議ではあらかじめ海軍カ均等で 発展を続けた。 一七世紀のイギリス革命では、ロンドンは議〔環境問題の発生〕一八世紀のロンドンは産業気の利用や自動車の出現によって、ロンドンは合意していた。かわって、全艦種について対米 へんぼう 英七割の比率を要求する日本とこれに反対する 会派についた。一六四二年一月にチャールズ一革命をリードするような工業都市ではなかった一九世紀の末からさらに変貌を遂げた。とくに アメリカとの対立が主たる問題となり、これに 目だっことは、一九〇〇年までにロンドン県の が、市内には小規模な作業場が数多く存在し、 世が五人の反対派議員を逮捕しようとしたと んき、彼らはシティに保護され、それ以後首都のさらに政治、金融、商業、文化などの中心とし人口は四五〇万に達していたにもかかわらず、フランスと地中海の制海権を競うイタリアの対 て、ますます多くの人口を吸収していった。一九そのうちシティに居住する人はわずか三万人で仏均等の主張も加わって、会議は紛糾した。一 と反王感情は急速に高まった。内戦が始まると、 んロンドンは議会派の拠点として防備を固め、物世紀の初頭までに人口は一〇〇万を突破し、ロあったという事実である。交通機関の発達に伴時休会後、二つの三国会議に分かれて交渉が続 3 ろ資の欠乏に苦しみながら、議会派を財政面で支ンドンは「大きなできもの」とよばれる巨大都って、シテイやウエスト・エンドで働く人々のけられ、アメリカ、イギリス、日本の三国会議 6 ぎせつ
モビリエ・ナスイオナル レッジョ・ディ・カラブリア博物館 マドリード国立図書館 フィレンツエサン・ロレンツォヘリフォード大聖堂 レニングラードロシア美術館 ベルガモアカデミア・カッララマドリード大学アメリカ博物館モロー美術館 聖堂 レンヌ美術館 モンレアーレ大聖堂 ベルガモン美術館 マルケ国立美術館 フィレンツ工大聖堂美術館 レンバッハ美術館 マルチャーナ図書館 ュトレヒト中央博物館 ベルギー王立自然史博物館 フィレンツェ博物館 ローザンヌ州立美術館 ヨハネス・ネボムク教会 ベルー国立人類学考古学博物館マルチン・フォン・ワーグナー フィレンツェ昔の家博物館 ロダン美術館 ライデン国立民族学博物館 博物館 フィンランド国立美術館 ヘルゴッツ教会 ロッジア・一丁イ・ランツィ マルメゾン城 ライブツイヒ市立博物館 フェッラーラスキフアノイア宮ベルサイユ宮殿 ローテンプルクヤコプ教会 ラウレンツィーナ図書館 マルモッタン美術館 プエノスアイレス国立歴史博物館・ヘルン市立図書館 マンセル・コレクション ローマ国立近代美術館 ラクナウ博物館 フォンテンプロー宮 ベルン美術館 マンチェスタープリンセス・ ローマ国立美術館 ラゴス博物館 ブザンソン美術館 べローナサン・ゼーノ教会堂 シアター ラサロ・ガルディアーノ美術館ローマサンティニャーツイオ プーシキン美術館 べローナ大聖堂 ローマスパーダ宮殿 ラージャラーニ寺院 マンハイム市立美術館 ペンシルべニア美術アカデミー プチ・パレ美術館 ロンドンアプスリ ハウス ラテラノ宮 ペンチャマポーピット寺 ミケーネ博物館 プラド大聖堂 ミュンヘンアルテ・ピナコテ ラ・バチェーカ市立美術館 ロンドン王立園芸協会 プラド美術館 ヘント中央図書館 ラベンナアリウス派洗礼堂 ロンドン王立音楽院 ボアチ工大聖堂 ・フランカッチ礼拝堂 ロンドン王立研究所 ラベンナ国立美術館 ホイットニー美術館 ミュンヘン演劇博物館 フランクフルト市立美術館 ミュンヘングリュプトテークラホール美術館 ロンドン王立戦争博物館 ホイップル博物館 フランス学士院図書館 ロンドン王立美術アカデミー ラ・レイネ・マチルダ美術館 ポイマンス美術館 ( 彫刻館 ) フランス軍事博物館 ランス大聖堂 ロンドン科学博物館 ミュンヘン国立図書館 フリーア美術館 ボコタ金の博物館 ランス美術館 ロンドン聖書協会 ポストン美術館 ミュンヘン古代美術館 プリストル市立美術館 リカルディアーナ図書館 ロンドン大学コートールド研究所 ミュンヘン市立博物館 プリュッセル王立歴史美術館ボタラ宮 ミュンヘンノイエ・ピナコテ 美術館 リスト博物館 ポモルスキー美術館 プールジュ大聖堂 ロンドンナショナル・ギャラリー リスポン科学アカデミー ポルゲーゼ美術館 プルックリン美術館 ロンドンナショナル・ポートレ ミラノカステッロ・スフォル リスポン国立古代美術館 ポルテッラ絵画館 プレーメン美術館 ト・ギャラリ ツェスコ リソルジメント美術館 ポレリー美術館 ・フレラ美術館 ハプールウォーカー ロンドン塔軍事博物館 プレンハイム宮 ミラノ ~ 甲立ベルタレツリ卩リ物 ポローニヤ国立絵画館 アート・ギャラリー ロンドン薬剤師協会 ポロー一一ャ市立音楽資料博物館収集館 北京故宮博物院 ワイタンギ・ナショナル・トラスト リービヒ博物館 ミラノスカラ座博物館 香港市立美術館 北京首都博物館 リョン・ギメ美術館 ワシントン国会図書館 ムーラン大聖堂 ポン大学 ペシャワル博物館 ワシントンナショナル・ギャラ リンプルク大聖堂宝物館 ベステ・コレクション マインツグーテンベルク博物館ムンク美術館 ルーアン市立図書館 ベネチアアカデミア美術館マウリッホイス美術館 メキシコ国立人類学博物館 ワシントンナショナル・ポート ルーアン美術館 ・ヘネチアカ・ドーロ メキシコ政庁 マザラン図書館 レート・ギャラリー ルクソール美術館 ベネチアグッゲンハイム・ メトロポリタン美術館 マチルド王妃美術館 コレクション ワルラフ・リヒャルツ美術館 ループル美術館 メルポルンビクトリア国立 マトウラ州立美術館 ル・マン美術館 美術館 マルチアーナ図書館 マドリードアメリカ博物館 レオナルド・ダ・ビンチ国立科学・ メルポルン美術館 マドリード王立歴史アカデミー ベネチア考古博物館 技術博物館 海事博物館 モスクワ国立中央演劇博物館 べラクルス大学人類学博物館マドリード レ・ザビニョン施療院 ・ヘリー美術館 マドリード国立考古学美術館モーツアルト博物館 875
できないものも多い 〈大崎滋生〉 かならずしも明確な区分をもたない例も無 ン・イーデン』 ( 一九 0 九 ) 、ストライキを扱ったるなど、ロンドンの景観は変わりつつあるとは ど ローントリー 0 ロウントリイ 視できないが、ロンド形式と称される整然とし 『月の渓谷』 ( 一九一三 ) 、短編集『生命の愛』 ( 一九 いえ、裏通りにはなお一九世紀の雰囲気も残っ 6 ロンドリーナ Londrina 。フラジル南部、 0 六 ) 、評論集『階級闘争』 ( 一九 0 五 ) 、ロンドン貧ている。植民地からの富で築き上げられた一九 わた形式も確立される。↓ロンド形式〈大崎滋生〉 ロンドー rondeau 元来輪になって踊っ パラナ州北部の新興都市。人口二五万七八九九民街の記録『どん底の人々』 ( 一九 0 三 ) 、自伝「ジ世紀のロンドンは、一方ではフランスのナポレ た舞踏に添えて歌われたロンデ・ド・カロール ・バーリコーン』 ( 一九一三 ) などがある。↓ (I*<O)O 一九三〇年に四人の日本人と二人のド オン三世にパリ改造を決意させる直接のきっか rondet de carole に発し、一三 ~ 一五世紀に 荒野の呼び声 ィッ人が創立した町で、コーヒー栽培の発展に 〈板津由基郷〉けとなった壮麗さを誇るとともに、他方では 流行し、一九世紀まで続いた詩形式である。語 つれて急速に都市に成長した。住民の半分以上回アービング・ストーン著、橋本福夫訳『馬に 「この世の地獄とはロンドンのような町のこと 源は rotundus ン ラテにさかのばり、 rond ( 丸は日系人である。コーヒー地帯の中心をなし、 乗った水夫ーー大いなる狩人、ジャック・ロ だ」という詩人シェリー の嘆きが示すように、 い ) > rondel > rondeau と変わった。ロン大きなインスタント・コーヒーの工場がある。 ンドン』 ( 一九天・早川書房 ) すでに過大化による大都市の弊害に悩まされ、 3 3 ロンドン Fritz Wolfgang London ( 一九そのいくつかを二〇世紀に持ち越すことになっ デ・ド・カロールの形式 ( ) ( 大最近では大豆と小麦の一大集散地にもな 0 た。 aA ab AB 文字は繰返句、小文字は同一脚韻を示す ) にさ中心部に高層建築が集中し、街路が広い近代的 00 ー五四 ) アメリカの理論物理学者。数学者をたのである。古さと新しさの調和・融合は現在 らに繰返句 AB を詩の冒頭に置けばロンドー な都市である。鋼材とガラスでできた近代的な 父に、プレスラウ ( 現ポーランドのプロッワ のロンドンに大きな魅力を与えているが、反 の古典的な形式トリオレ triolet が得られた教会がある。テラロッサ地帯にあり、町は赤土フ ) に生まれ、ポン大学、ミュンヘン大学など面、このような多くの性格を同時に抱え込むこ に覆われている。 〈山本正三〉 に学んで一九二一年学位を取得。その後、中等とで、他の大都市にはみられない複雑な問題の ) 歌唱ではⅡ独唱、 <= 、ご AB aA abAB ロンドン Jack London ( 天七六ー 学校の教師になったが、ふたたび研究生活に戻解決も迫られている。 Ⅱ合唱となっていた。最古 の例は一三世紀初頭のジャン・ルナール Jean アメリカの小説家。占星術師の私生児としてサった。三三年ナチスの台頭でドイツを離れ、オ 〔市街〕ロンドンとよばれる地域は単一ではな ックスフォード、 Renart の物語『ばら物語別名ギョーム ンフランシスコに生まれる。無軌道な少年時代 リで研究を続け、三九年アく、ロンドンの名をもっ地域には次の三つがあ ド・ドル』 Ro 、ミミ Rose 0 ミ G ミミミ 0 ミト ののち、アザラシ狩り船に乗り日本にも立ち寄メリカに渡り、デューク大学理論化学教授となる。①もっとも内側の政治、経済、文化など、 ・ ) に挿入された詩にみられる。そる。帰国後、自国やカナダを放浪し、カリフォ り、生涯その地位にあった。二七年ハイトラー ロンドンを代表する活動が集まる都心地区はセ の後、詩人・音楽家のマショー GuiIIaume de ルニア大学に一時期在学、クロンダイク地方のとともに水素分子の構造を量子力学的に論じ、 ントラル・ロンドンとよばれ、その核となるの Machaut ( 一三 00 ? ー七七 ) 、デシャンらによってゴールド・ラッシュに加わり、ついで新聞記者化学結合の量子論を開拓した研究 ( ハイトラ がシティである。②セントラル・ロンドンの外 ー・ドウーフレ rondeau dou- 完成され、ロンド ーロンドンの理論 ) は著名である。ほかに極側にも連続市街地が広がるが、この両地域をあ blé、ロンドー ・ル、トウ , ー。フレ rondeau redou- 低温現象の研究、超伝導に関する現象論的な式わせて大口ンドン Greater London とよぶ。 bléなどの変種を生む。主題は初期の民謡風か ( ロンドン方程式、一九三五 ) の提出も重要な業績旧大口ンドン県の行政区域はほばこの範囲と一 ら宮廷風恋愛、宗教的主題に及び、狭い世界な であり、液体へリウムに関する研究もある。な致していた。旧大口ンドン県には、シティ・オ がら機知とコケットリーを得意とした。楽曲の お、イギリスで活躍した物理学者のハインツブ・ロンドン ( これを通常シティとよび、中世 〈神澤榮三〉 ロンド形式とは無関係である。 Heinz London ( 一九 0 七ー七 0 ) は弟。〈藤村淳〉 以来の自治特権の一部が残されている ) と、そ イギ けいしき rond() form ロンドン London イギリスの首都。イン の周辺にシティ・オプ・ウエストミンスターな ロンド形式 Rondoform ハ音楽用語。一八世紀後半に グランド南東部、テムズ川河口から約六〇キ。上どのバラ borough とよばれる三二の行政体が 確立された器楽曲の形式で、ソナタ、交響曲、 流に位置する。このテムズ川のもっとも下流部ある。これら計三三の行政体のうち、都心部に 協奏曲、室内楽曲など、いわゆるソナタ多楽章となる。日露戦争時、新聞社特派員として東京 の渡河地点という立地条件に加え、温暖な気相当する一四行政体をインナー ( 内部 ) ・ロン 構造をとる器楽曲の終楽章に用いられることがを経て満州 ( 中国東北部 ) へ渡る。その間・ 候、大陸への近さなどの自然条件がロンドンをドン、その外側を囲む一九の行政体をアウター 多い。整備された形式的規範としては、中心的スペンサー、ダーウイン、マルクスらの著作に 生み、現在の大都市としての発展を促した重要 ( 外部 ) ・ロンドンとよぶ。③大口ンドンは周り 楽想であり、何度も回帰するロンド主題 ( これ触れ、しだいに社会主義に傾倒した。一方、創 な要因となっている。 を取り巻くグリーン・ベルトで外側の市町村と はつねに主調で出現することを原則とする ) 作活動に努め、一九〇〇年、クロンダイク地方 イギリスの長年にわたる首都として、政治、遮断されているが、ロンドンの通勤圏はグリー おおかみ と、それが数回繰り返される間に挿入されるい の体験を基に短編集「狼の子』で文名を高め経済、文化などのあらゆる活動が集中するだけ ン・ベルトの外側にまで広がる。このため、通 くつかのエピソードからなる。エピソードは主る。以来流行作家として活躍、カリフォルニアでなく、イギリス連邦の中心として、また世界勤圏も含む中心市街地と一体となって活動する 調から離れるのを原則とするが、やがてソナタ に邸宅を構え、五〇冊に及ぶ小説、評論をもの経済、とくに金融・保険業、海運業等の中枢と広い範囲は一般にロンドン大都市圏 London 形式の調構造の影響を受けて定式ができあが にし、一時名声と富をほしいままにする。しか して重要な役割を演じてきた。このため、ここ Region とよばれ、面積は一万〇六一一一平方キロ る。もっともわかりやすい形を図式的に示すし、世俗的欲望と己の主義の相克に悩み、一九で日夜営まれる各種活動に従事し生活する人々人口一二〇七万 ( 一九〈 l) に達する。↓都市計画 と、 << ( 主調 ) ー ( 属調 ) ー ( 主調 ) ー 0 一六年一一月二二日自殺を遂げた。おもな作品 の数は膨大な量に達する。大口ンドン県 ( 自治 以下、セントラル・ロンドンとイースト・エ ( 平行調、下属調など ) —< ( 主調 ) ー ( 主調 ) に、犬を主人公に、適者生存の社会を描く『荒体機能は一九八六年廃止 ) とよばれた市街地部ンドについて、市街の概要を述べる。中心市街 ー ( 主調 ) ということになる。しかし、これ野の呼び声』 ( 一九 0 三 ) 、これと対をなす『白い 分は、面積一五八〇平方キ。、人口六六九万六〇地の主要鉄道ターミナル駅を結んだ線の内側が きば かいろう をロンド形式の基本型と考えてしまうのは誤解牙』 ( 一九 0 六 ) 、超人的船長を描く『海狼』 ( 一九〇八 ( 一 I)O これは全国人口の一二 % にあたセントラル・ロンドンで、経済の中心シティ で、こういった単純明快な形式を示すもの以外 0 四 ) 、プロボクサーを描く「試合』 ( 一九 0 五 ) 、資り、東京、ニューヨークと並び世界の三大都市と、政治の中心ウエストミンスター地区および はんちゅう に、この形式の範疇に組み入れるべき実例は本家によるファッショ化をつく一種の未来小説の一つに数えられている。市内には近年急速に ロンドン第一の繁華街を含むウエスト・エンド きわめて多様であり、また整然とくぎることの『鉄のかかと』 ( 一九 0 七 ) 、自伝的な「マーティ 高層ビルが増え、高速道路が中心部に乗り入れからなる。 J . ロンドン
スでは東京の地下鉄に一歩譲るが、路線網はと 級商店、ホテル、劇場、その他各種サービス産〇〇人で、その内訳をみると、サービス業が一一 〔シティ〕シティはロンドン発祥の地で、長い くに都心部で密で便利である。第二次大戦中、 自治の伝統を誇り、いまも独自の市議会をも業が集中するロンドン第一の繁華街を抱え、ポ六五万人 ( 七五・四 % ) と圧倒的に多く、つい 空襲時に避難場所として多くの市民の命を救っ で製造業が六五万人 ( 一八・五 % ) 、建設業・ ジェント街などはとくに名高い ち、ロード・メイヤーとよばれる市長を選挙すンド街、 ハス交通は、きめの細 るなど多くの特権を有する。面積はわずか約その心臓部にあたるのが「エロスの像」で知ら鉱業などが二一万一〇〇〇人 ( 六 % ) となってたことも忘れられない。 れるビカデリー いる ( 一久一 ) 。雇用者数最大のサービス業につかい路線網と頻繁な運行回数で地下鉄と並ぶ市 ・サーカス ( 広場 ) である。東 二・七平方キ。、夜間人口は一万人に満たない いて、さらにその内訳をみると、専門的サービ民の足として親しまれており、赤い二階建ての が、ここには世界の一流商社、銀行、保険会社寄りのホルポーン地区は、大英博物館やロンド ン大学がある静かな文教地区である。「計画的ス、商業、金融・保険、輸送・通信の順に上位車体はロンドンの町を象徴するアクセサリーの などが集中し、昼間は三〇万人を超えるホワイ 一つとなっている。 につくられず、ただ大きくなっただけの町」とを占める。第二次世界大戦前には世界の海運、 トカラーで活気を呈する。第二次世界大戦中、 〔文化的資産〕文化的資産の充実もロンドンの 空襲で大きな被害を受けたが、セント・ポール酷評されるロンドンでは、このホルポーン地区金融・保険の中心として栄えたが、戦後はアメ は近代的都市計画に基づいてつくられた数少な リカ、一九七〇年代以降は日本の台頭でその比魅力の一つである。過去と現在が同居するロン 大聖堂、ギルドホールなど近世の優れた建物が ドン市内には、歴史的価値の高い建造物も少な まだ残り、一一〇〇〇年前の城壁・城門の一部も い市街地で、整然とした街路や緑の小公園が美重は低下している。しかし、現在もや第三 しい街並みをつくりだしている。これらの小公世界相手の貿易・金融活動では重要な地位を占くないが、その過半数はシティ、ウエストミン 遺跡としてオフィス街に保存されている。しか ク、リージェント・ ークめている。また、ロンドンは二〇〇〇年に及ぶスター両地区に集まり、しかもその多くがイギ し、一九六〇年代以降、建物の高層化が目覚ま園や、ハイド・バー ・レンの リッチモンド・ リス建築史を代表するクリストファー しく、一九世紀以前のロンドンのイメージは高 ( 一九七診タ ) 、 ーク ( 一〇〇歴史的遺産や文化的資産に恵まれており、世界 層ビル群の谷間に消えてゆきつつある。とくに〇タ ) などの市街地の大公園は、集合住宅にでも多くの観光客が集まる都市の一つとなって設計になる。大英帝国時代、国力を背景に世界 はいきょ いる。観光客を受け入れるホテルは伝統的高級各地から集めた豊富な文化財などを展一小する各 空襲で廃墟と化した中心部のバービカン地区で住むロンドン市民の心身の健康維持に欠かせな いものである。 ホテルから若者相手の大衆クラスまでそろって種博物館や美術館等も充実しているが、なかで は、六〇年代以降、大規模な再開発事業が進め シティの東には、テムズ川沿いの東の端に有おり、おもにウエスト・エンド地区に集まっても大英博物館は、エジプト文明以来の古代遺物 られ、多くの住宅、コンサート・ホール、劇 や日本も含む東洋美術品のコレクションを中心 場、学校などを立体的に組み合わせた近代的な名なロンドン塔があり、その背後にテムズ川に 大口ンドンは全国工場労働者数の一七 % を占とし、世界一の博物館とされている。ロンドン 街区につくりかえられた。シティの中央を東西架かるタワー・・フリッジが見える。一一世紀に は音楽・演劇公演でも高い水準の活動がみら に走るキヤノン街の西に続くフリート街には内ウィリアム一世が築いたロンドン塔は、初めはめるイギリス製造業の一大中心地でもあるが、 じよう寺 ) い れ、とくに演劇はこの国の伝統芸術で、四〇余 外の新聞社、通信社の本社・支局が軒を連ね、城塞、王宮として使われたが、のちに政治犯業種別に就業者数をみると、電気製品、出版・ ろう′一く の牢獄となり、多くの血なまぐさい歴史を残し 印刷、食品、機械、衣服などが上位に並んでおの劇場のなかでもシェークスピア劇のオール 新聞街を形成する。フリート街の西端がシティ ド・ビック劇場はとくに名高い。その近くにあ の西の境で、この一帯には王立裁判所をはじめた。とくに断頭台の露と消えた王族・貴族の物り、典型的な消費地立地型の構造を示してい 五ロ↓よ、、 るロイヤル・フェスティバル・ホールは、都、し る。工場の分布地域は、一九世紀から受け継い 法曹界の機関・団体が多い。 しまもここを訪れる人々の涙を誘ってい 〔ウエストミンスター〕フリート街の西に続くる だ市の中心部やイースト・エンドの古い工業地のロイヤル・オペラ・ハウスとともにヨーロッ ハを代表する音楽の殿堂で、秋から春にかけて ストランド通りを経てさらに西へ行くと、ネル 〔ィースト・エンド〕タワー・プリッジの下流区と、一九二〇年代に始まった中心部からの移 ソンの銅像と噴水とハトで有名なトラファルガ両岸には、荷扱い量ではイギリス最大の港であ動の結果、戦後とくに発展したテムズ川下流部のシーズンに登場する音楽家たちの豪華な顔ぶ ・スクエア ( 広場 ) へ出る。ここから南へ下るロンドン港がある。テムズ川の干満差が数 沿岸や周辺近郊部の新興工業地帯の二つに分けれは他の追随を許さない。 - 一うもん れば官庁街のホワイトホールに至り、アドミラ に及ぶため、巨大な閘門式ドック群が建設さ ることができる。しかし、全国的な傾向を反映〔都市問題とロンドンの将来〕ロンドンも、東 ル・アーチをくぐり西へ美しい遊歩道のマルれ、戦前は大型船も入港したが、戦後斜陽化が して、大口ンドンの製造業雇用者数は、一九七京、ニューヨークなどと並び、同じ過大都市の The Mall を行けばバッキンガム宮殿に達す著しく、ドック地帯は荒廃した。このため、一 一年から八一年までの一〇年間に三九万人の減悩みを抱えている。とくに、一九世紀に早くも 過密の弊害に悩まされたロンドンは、一九三〇 る。ホワイトホールを中心とする一帯は中世に九七〇年代後半以降、大規模な再開発が進行中少を示し、その後も減少が続いている。 政治の中心として開かれたウエストミンスター で、すでにオフィスビル群が出現している。戦〔交通〕現在テムズ川には市内部分で一四の道年代に入り、国内の人口・産業分布の不均衡を 地区で、国の中央省庁、首相官邸などが並び、 前、このドック地帯には港に結び付いた倉庫業路橋が架けられ、河底トンネルも通じている。是正する国の方針に基づき、その工業と関連人 口を地方へ分散することが求められるようにな 官庁街の南に接してウエストミンスター寺院、や各種軽工業が集まり、周辺に下級労働者の町一七五〇年に議事堂わきにウエストミンスタ が発生、一帯はイースト・エンドとよばれた ・プリッジが架けられるまではロンドン・プった。第二次大戦中につくられた大口ンドン計 時計塔のビッグ・べンで親しまれる壮麗なゴシ 画は、ロンドン県とその周辺が一体となった約 ック様式の国会議事堂が偉容を誇る。バッキンが、生活環境が悪かったためィースト・エンド リッジが両岸を結ぶ唯一の橋で、いまでも単に 一万一〇〇〇平方キロをロンドン大都市圏として ガム宮殿の周りには大公園が多く、北西側に位はスラムの別名となった。第二次大戦後の戦災「橋」といえばロンドン・プリッジを意味する。 置するハイド・ ークは一四六 f* タの広さがあ復興事業でイースト・エンドは面目を一新し橋も一例であるが、交通網の充実がロンドン市とらえ、既存の連続市街地の拡大を周辺にグリ ロンドンの ーン・・ヘルトを巡らせることで阻止し、その外 り、隣接するケンジントン・ガーデンズとあわた。テムズ川の南岸地帯は工場や労働者の住宅街地発展に果たした役割は大きい せると総面積は二四九に及ぶ。 が多い新興の市街地であるが、その発展はテム代表的な公共交通機関は地下鉄とバスで、これ側に八つの新しい工業衛星都市 ( ニュー・タウ ン ) を建設してロンドンから工場と関連人口を 〔ウエスト・エンド〕シティの西に広がる一帯ズ川に多くの橋が架けられた一九世紀以降のこ らの路線網は市内だけでなく郊外にまで張り巡 んはウエスト・エンドとよばれ、街路も整い建物とである。 らされている。「チュープ」の別名をもっ地下受け入れ、内部の市街地は再開発によって整備 ともそろっているが、これはこの一帯が当初シテ 〔産業〕減少ぎみとはいえ、なお七〇〇万人近鉄は、最初の路線が一八六三年に開通し、営業しようとするもので、戦後、政府はこの計画を 、うち地下部分三二五キ 実施に移した。しかし、戦後の産業構造の変化 い人口を抱えるロンドンは多様な産業をもってキロ延長は四一 んイの富裕な商人の郊外住宅地として開かれたた ろめである。しかし、現在ウエスト・エンドは高 いる。大口ンドンの雇用者総数は三五一万三〇 ( 一〈〈 = ) で世界一を誇る。輸送人員数やサービや経済の斜陽化などもあって内部市街地の人口い
げる。 約で、これによって、トルコはエーゲ海のエノ 4 では、結局日本は六砲搭載軽巡洋艦と駆逐艦成果を積極的に取り入れて、イギリスの学界に ん ①一八二七年七月六日、イギリス、フランス、 スから黒海のミディアを結ぶ線以西のバルカン 6 で対米英七割、潜水艦は均等とする条件で八弩 清新の気を導入した。ロンドン大学の中心とな ど ロシアの間に結ばれたギリシア独立戦争に関す半島の領土およびクレタ島を放棄し、コンスタ ん砲搭載重巡洋艦の対米英六割の比率を受け入れ 0 たのは・ o ・ロビンズ、・・ハイエク つオ。他方のイギリス、フランス、イタリア三国であり、そのもとに若き日の・・ヒックる条約。三国は共同して、ギリシア問題の調停ンティノープル周辺の小地域のはかは、ヨーロ ッパにおける領土を失った。 ) 2 第一次世界大戦 会議は決裂したため、最終的には三〇年四月アス、 Z ・カルドア、 < ・・ラーナーなどが集をトルコに申し出るが、トルコがこの調停を拒 メリカ、イギリス、日本三国がロンドン海軍車まり、多彩な業績をあげた。これら一群の人々否した場合は、武力によってギリシア、トルコ中の一九一五年四月二六日、イギリス、フラン 両交戦国に休戦を強制することを約した。トルス、ロシア、イタリアの間に結ばれた秘密条約 備制限・縮小条約に調印した。この条約によの活動をロンドン学派とよぶ。 ロンドン学派の内容は多様である。まずロビ コはこれを拒否したため、三国は一〇月、ナバ ( 正式の署名は五月九日 ) 。これによって、イタ り、ワシントン海軍軍備制限条約に定められた リアは戦勝の場合にダルマチア、トレンティー 主力艦の代艦建造時期は、三六年に延期されンズにみる、経済学を希少な資源の合理的配分 リノの海戦でトルコ・エジプト連合艦隊を全滅 させた。一八三〇年、ベルギーの独立問題に ノ地方などの領土獲得を約され、翌月イギリ た。また同条約に加盟しなかったフランス、イを追究する学問であるとする態度、上記の考え ス、フランス側にたって参戦した。⑩一九三〇 タリアの将来の海軍力増強に対しては、ある加方に発して、ピグーの厚生経済学を批判するヒ関して、イギリス、フランス、オーストリア、 盟国が、これとの均衡上必要な海軍力増強を行 ックス、ラーナー、カルドアなどの新厚生経済プロイセン、ロシア五か国がロンドンに国際会年 ( 昭和五 ) 四月二二日、アメリカ合衆国、イ った場合、その他の加盟国も比例して保有量を学、ヒックスの一般均衡理論、ロビンズ、ハイ議を開いて、一二月二〇日、議定書を作成してギリス、日本、フランス、イタリアの間に成立 増加できるといういわゆるエスカレーター条項ェクなどの貨幣的景気理論、そのほか限界生産ベルギーの独立を認め、ついで翌三一年一月一一した海軍の軍備制限に関する条約 ( ↓ロンドン が第一一一条に規定された。 力説、生産構造理論、資本理論などが含まれ〇日および同月二七日の議定書によって、ベル海軍軍縮会議 ) 。一九三六年三月二五日、ア なお、日本国内ではこの条約を不満とする海る。こうして大陸経済学は、イギリスでも花をギーを永世中立国とし、オランダとベルギーの メリカ合衆国、イギリス、フランス間に成立し 軍軍令部と政府との間に、先の妥協案受諾に関開き、さらにまた世界に影響を与えた。↓経済境界について定めた。三一年一〇月二四日、境た海軍軍備制限に関するもの。これは、一九三 する政府回訓決定をめぐって、統帥権干犯問題学説史 〈佐藤豊三郎〉界を改定した「二十四か条」をロンドン会議が〇年のロンドン条約が五年間の暫定的なものと おさち が発生した。また、浜口雄幸首相は、条約反対 E)= ・ロビンズ著、辻六兵衛訳『経済学の本質決議し、同年一一月一五日ベルギーとの間にロ して成立したのを受けて、改めて軍備制限を問 派の攻撃にさらされながら、軍縮の方針を堅持 と意義』 ( 一九五七・東洋経済新報社 ) ▽・ ンドン条約を結んだ。三九年四月一九日に至っ題としたものであるが、艦船の定義など実効の 〈斉藤孝〉 して難局を切り抜け、一九三四年 ( 昭和九 ) 一 << ・ハイエク著、一谷藤一郎訳『資本の純粋てオランダはこのロンドン条約を認めた。 ) 一ないものであった。 八三四年四月二二日、イギリス、フランス、ス 〇月二日条約批准にこぎつけたが、その一二日 理論』全二冊 ( 一九四四 / 改訳版・一九当・実業之 ロンドン世界経済会議ー・せかいけいざい そげき 後、東京駅で暴漢に狙撃されて重傷を負った。 日本社 ) ▽・・ヒックス著、安井琢ペイン、ポルトガルの間に結ばれたもの。スペ かいぎ一九三三年六 ~ 七月、ロンドンで六四 同条約は、第二三条で、一九三五年に新たな 磨・熊谷尚夫訳『価値と資本』全二冊 ( 一九五一インのカルリスタ戦争について、ドン・カルロ か国が参加して開かれた国際経済会議。三二年 海軍軍縮会議の開催を予定していたため、三四 / 改訳版・一九六五・岩波書店 ) スの王位要求に反対し、ポルトガルについてはのローザンヌ会議の決議に従って、国際的な経 ャ ) , っキ、よ , つが / 、だん 年一〇月、アメリカ、イギリス、日本はその予 ドン・ミゲルの王位要求に反対した。 ) は一八四済財政問題の解決のため開催されたが、戦債問 ロンドン交響楽団 備会議を開いたが話し合いがっかず、その直 London Symphony Orchestra イギリスの〇年七月一五日、イギリス、ロシア、オースト題でのアメリカとイギリスの対立、通貨問題で リア、プロイセンの間に結ばれたもの。エジプのアメリカとヨーロッパ諸国の対立などによ 後、日本は三六年末をもってワシントン海軍軍管弦楽団。略称一九〇四年設立。初代 備制限条約を廃棄する旨通告した。条約所定の のハンス・リヒターが一一年まで常任指揮者をトの太守メフメット・アリーに対して、北部シり、なんら得るところなく無期休会となり、以 とおり三五年一二月、同三か国のロンドン海軍務めたあとは、常任を置かすに活動を続けてい リア、クレタ島、メッカ、メジナをトルコに返後、各国の経済的対立をいっそう強める結果と 〈栗原優〉 一八四一年七月一三なった 軍縮会議が開催されたが、冒頭から海軍カ均等たが、第二次世界大戦後に・クリップス ( 一九還することを求めた。 ) たいかく London Uni- を要求して、米英の反対を受けた日本が、建艦五 0 ~ 五四 ) 、・モントウー ( 一九六 0 ~ 六四 ) 、 ・ケ日、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイロンドン大学 通報に関するイギリス案を不満として、三六年ルテス ( 一九六五 ~ 六 0 を音楽監督に迎え、その後セン、フランス、トルコの間に結ばれたもの。 versity イギリス最初の近代大学。オックス 一月、会議から退席した。同年末をもってロンは七九年まで < ・プレビンを音楽監督に迎えてダーダネルス、ポスポラス両海峡において、平フォード、ケンプリッジ両大学に対抗する第三 ーシテ ドン海軍軍備制限・縮小条約は、ワシントン海人気を集めた。彼の辞任後は八七年まで 0 ・ア時の外国車艦の通過を禁止した。海峡条約ともの大学として首都に誕生。最初にユニバ 軍軍備制限条約とともに失効し、ふたたび建艦 ードが、八八年からはマイケル・ティルソ う。⑥一八五二年五月八日、イギリス、オー イ・カレッジが詩人・キャンベルなどの急進 競争が繰り広げられることになった。↓ジュネ ン・トーマスが音楽監督を務め、イギリスを代ストリア、フランス、プロイセン、ロシア、ス主義者や功利主義者、非国教徒のグループによ ーブ海軍軍縮会議↓統帥権干犯問題↓ワシン表する交響楽団として活動を続けている。一九ウェーデンおよびデンマークの間に署名された り株式会社組織で設立され ( 一全六 ) 、続いてこ 〈美山良夫〉 トン海軍軍縮会議 〈前田寿・納家政嗣〉 六三年 ( 昭和三八 ) 初来日。 シュレスウイヒ・ホルシュタインに関する議定の宗教色を排した「無神の大学」に対抗してキ じようやくイギリスの書。シュレスウイヒ、ホルシュタイン両公国の ングズ・カレッジが国教派の人々によって設立 ロンドン学派 がくは London school ロンドン夂木約 一九世紀末から二〇世紀へかけてのイギリス経ロンドンにおいて締結された諸条約。近代の外不可分と独立などを承認した。⑦一八六七年五された ( 一全九 ) 。いずれのカレッジも通学制を 済学界は < ・マーシャルのケンプリッジ学派交史のうえで、ロンドンで締結された条約はか 月一一日、イギリス、フランス、イタリア、プ採用して教育費を抑え、新興中流市民階級の子 ( 狭義の新古典学派 ) が圧倒的地位を占め、こ なり多い。これは、イギリスが一九世紀から一一 ロイセン、オーストリア、ロシア、ベルギーの弟を対象に近代科学や医学を含む広範なカリキ のケンプリッジ学派は世界の主流でもあって、〇世紀の前半にかけて、国際政治上の比重が高 間に結ばれたもの。ルクセンプルクの独立と永 ュラムを提供したが、学位授与権はもたなかっ オーストリア学派、ローザンヌ学派、北欧学派 く、ロンドンが多くの国際会議の議場となった 世中立を規定した。 ) 一九一三年五月三〇日、 た。ついで一八三六年、国王勅許状により、両 など大陸経済学の業績には関心を払わなかっ ことを反映している。ここでは、ロンドンで締 バルカン同盟諸国とトルコとの間に結ばれたもカレッジの学生をはじめ一定の学生に対して試 た。これに対してロンドン大学は大陸経済学の結された条約のうち、歴史的に重要なものをあの。第一次バルカン戦争に終結を与えた講和条験を実施し学位を授与する機関が、ロンドン大
たなごおり Ronne lce ロンネ棚氷 学という名称のもとに設立された。この試験機が、歴史上はむしろ監獄として知られ、トマない。ャン・ファン・アイク『アルノルフィニ 関としての大学の機能はやがて植民地にまで拡ス・モア、アン・プリン、ジェーン・グレーら夫妻』、ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キ Shelf 南極、ウェッデル海西部に張り出して がん いる南緯七八度三〇分、西経六一度を中心とす リストの洗礼』、レオナルド・ダ・ビンチ『岩 が処刑されるなど、数多くの歴史的エピソード 大されてユ一一ークな学外学位制度を生んだ。ま た一八七八年にはイギリスで初めて女子に学位をもつ。ウエストミンスターではなくシティの窟の聖母』『聖アンナと聖母子 ( 画稿 ) 』、レンる棚氷。面積約三六万平方キ。。西は南極半島に を授与した。研究・教育機関としてのロンドン内部に置かれたその立地が示すように、本来はプラント『水浴の女』、セザンヌ『大水浴図』接し、東はバークナー島を経てフィルヒナー棚 シティの住民に対する国王権力の威圧の意が込などの世界的名作とともに、ホガース『えび売氷に接する。一九四七年末アメリカのフィン・ 大学が新たに発足したのは一九〇〇年のこと。 ロンネが機上から発見し、棚氷の部分を空中写 以来、帝国理工カレッジ lmperial college められていたが、一八世紀ごろから観光の名所りの娘』、ゲーンズバラ『水のみ場』など自国の 画家にも四六の展示室中五室が与えられている。真の撮影者にちなみラシスター棚氷と命名、南 Science and Technology ( 一九 0 七 ) や政治・経として親しまれるようになり、現在に至ってい 〈大久保桂子〉 本来は倉庫の役割を果たす地階が近年整備さ部の氷に覆われた陸地と思われる地域を、とも る。 3 城 ( 別刷 ) 済スクール (London School of Economics に越冬した妻エディスにちなみエディス・ロン ーーどうぶつえん London れて公開され、これによって作家の確定が不可 and political science =QT)Q 天九五 ) 、そしロンドン動物園 がんさく ネ・一フンド Edith Ronne Land と命名した。 能な作品、明らかに贋作とされる作品も含め、 て病院など多数の研究教育施設を傘下に吸収・ Z00 (Zoological Society of London) ロ 一九五七 ~ 五八年の国際地球観測年以後の調査 この美術館が所蔵する作品は、特別の事情のな ンドン動物学協会により一八二八年にイギリ 統合して、同国最大の連合制大学となり現在に で、棚氷はロンネが考えていたより南へ延びて い限り、すべて見ることができるようになっ ーク内に開 至る。一九八五年のフルタイムの学生数は約四ス、ロンドン市のリージェント・ 〈湊典子〉 いたことが判明、アメリカの南極地名委員会は た。美術館 万六〇〇〇人で、教師数は約九五〇〇人。↓ロ園された動物園。当初は Gardens of The Zo- 〈楠宏〉 これをロンネ棚氷と改名した。 ンドン学派 〈安原義仁〉 0 一 og 一一 society という名称で、会員とその友ロンドン・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがくだん London Philhar- 人だけが入園できるものであった。一八四七年団 ロンバーグ Sigmund Romberg ( 一〈 ロンドン・タイムズ 0 タイムズ ー一九五一 ) アメリカのミュージカル初期の代表 monic Orchestra イギリスの管弦楽団。指 から平日のみはだれもが入園できるようにな ロンドンデリー Londonderry イギリ り、日曜も開放されたのは一九四〇年のことで揮者トーマス・ビーチャムが一九三二年に設的作曲家。ハンガリー生まれ。ウィーンで音楽 ス、北アイルランド北部の都市。一六一三年以 立。略称優秀な奏者を集めたため、設を学び、一九〇九年に渡米。一四年『世界の渦 前はデリー Derry とよばれ、一九八四年ふたある。ロンドン動物学協会は一八一一六年に設立 され、一八二九年には国王のジョージ四世によ立時から高い演奏水準を実現していた。三九年巻』で名をあげ、オペレッタ「学生王子』 ( 一九 たび旧称に復した。ベルファストに次ぐ北アイ 一一四 ) 、同『砂漠の歌』 ( 一九一一六 ) 、ヒット曲『恋人 ルランド第二の港湾・工業都市で、市街地人口り「動物学の振興と動物界の新しく珍しい事実ビーチャムが退いたあとは自主運営を続け、音 よわれに帰れ』『朝日のごとくさわやかに』を 六万二六九七 ( 一九〈 l) 、行政区画ロンドンデリを紹介する」ための協会として認められた。当楽監督にペイヌム、エイドリアン・ポールト、 含むミュージカル『ニュ ー地区の人口は九万五三〇〇 ( 一九会 ) 。フォイ時のイギリス王国の力を借りて、世界各地の動ウィリアム・スタインバーグ、ジョン・プリッ エ・にゆ、つ 『セントラル・ヾ ーク』 ( 一九四五 ) などを作曲し ル川の河口近くに位置する。農村家内工業の伝物が収集展示された。乳類と鳥類だけでなチャードを迎え活動した。六七年から七九年ま はちゅう 、動物界のすべてを紹介するため、爬虫類館では・ヘルナルト・ハイティンクが音楽監督を務た。作風は優雅でロマンチック、そして格調高 統を引く綿紡績や醸造、食品などの産業のほ 〈青木啓〉 か、第二次世界大戦期の海軍基地設置による港 ( 天四九 ) 、水族館 ( 天吾 l) 、昆虫館 ( 一会一 ) を世め、優れたアンサンプルで高い評価を獲得、六 がい Lombard Street 湾機能拡充の結果、石油化学工業や造船業も発界で初めて建設した。一九三一年には、より自九年 ( 昭和四四 ) に初来日している。その後、 ロンバード街 ロンドンのシティのうち、イングランド銀行か 達した。一六一〇年イギリスの植民会社ロンド然に近い状態での展示を目ざして、郊外に分園ショルティを経て、八三年からクラウス・テン ン・カンパニーが創設され、アイルランド植民のホイプスネード動物公園 ( 一九八二年末現在シュテットが音楽監督の地位にあったが、八七らグレースチャーチ街に至る三〇〇ほどの通 〈美山良夫〉 りの名称。多くの銀行や保険会社などが軒を連 二一九診タ ) を開園した。一九八二年末におけ年健康を害して退任した。 地経営の拠点とされた。プロテスタント、カト ねているため、ロンドン金融市場の代名詞とさ リック両派の宗教的対立が激しく、イギリス支る飼育動物数は、九〇三種、八六三三点。面積ロンドン・ブリッジ London Bridge 〈祖谷勝紀〉 イギリス、ロンドンのテムズ川に架けられたれている。 配に対するアイルランド住民の反発が絡んで両は一五診タである。 その名は、一二世紀ごろ、イタリアのロンバ 橋。ローマの植民地であった時代から木橋が何 派の衝突が社会問題となっている。城郭都市ロンドン・ナショナル・ギャラリー ルディア出身の商人が移住して金融業に従事し で、旧市街は城壁に囲まれる。一七世紀のセン National Gallery, London ロンドンにある回となく架け替えられてきたが、一一一〇九年に 〈米田巖〉美術館。実業家 ・・アンガースタインが残完成した最初の石造橋がとくに有名である。こていたことに由来する。一七 ~ 一八世紀には国 ト・コロンバ教会がある。 とう Of London したコレクションを国家が買い上げ、ベル・メル の橋はコールチャーチのピーターという聖職者際金融の中心地となり、一九世紀なかばには、 ロンドン塔 ロンバード街を中、いに、商業銀行、ビル・プロ の彼の邸宅を改造して一八二四年に開設。・ が寄付を集めて着工し、その没後完成したもの イギリスのロンドン東部、シティ地区の東端に とりで ーカー、イングランド銀行などからなる短期金 ある砦。タワー・ヒルとよばれるテムズ川北岸ウイルキンズ設計の新古典様式の美術館が現在で、二〇径間の石造アーチを本体とし、橋上は 融市場が成立、また一九世紀後半には、マーチ 地のトラファルガー・スクエア北側に建造され雑多な家屋が建ち並んでおり、ロンドンの中心 の高台に建ち、中央のホワイト・タワーのほ ャント・バンク、金融商会、引受商社などから か、王室宝物館、武器展示館など数個の建物と たのは一八三八年である。創建当初の姿を伝えをなしていた。数回の火災や地盤沈下に悩まさ それらを囲む城壁があり、さらにその外側にはるのは正面部のみで、内部は作品の増加、諸設備れながら、一七五五年に法令により橋上の家屋なる資本市場が成立した。そのようすは、・ パ・ンヨットの名著『ロンバード街・・ー・ーロンドン 濠が巡らされている。その歴史はカエサルのプの改良などで増改築が繰り返され、一九七五年が取り除かれて道路専用となるまで、歴史にも の金融市場』ト 0 ミ S 、、 e ミ . ・ Description リタニア遠征の際の築城に始まるといわれ、古に北西側の新館が増設されて現在の形になった。 登場する数々の事件の舞台になっていた。その ・トっさい ど くから要塞として使われていたが、一二世紀の 八六点で出発したコレクションの数は現在約後、何回かの改修を経て、一九七三年に現在の 0 、、ミを 0 。ミ ( 天七三 ) に詳しい 第一次世界大戦後ニューヨークのウォール街 〈堀井健一郎〉 ノルマン王朝による再建を経て徐々に拡張さ 二〇〇〇点、ヨーロッパの大美術館に比べると橋が架けられた。 の台頭によって、ロンバード街の国際金融の中 けっして多いとはいえないが、美術史上の代表回出口保夫著『ロンドン・プリッジ』 ( 一九会・ んれ、一三世紀後半にほば現在の外形が整った。 心地としての地位はしだいに低下してきてはい 朝日イプニングニュース社 ) ろ一七世紀前半までは王室の居城の一つであった的絵画作品を系統的に収集している点、類をみ 695
ろんどん 、なニ 0 ふを . 、 ・碎新を - ー ⑧高級商店街のリージェン ト街。弧状の道筋にあわせ て建物の前面も弧を描く部 分はクオドラント ( 4 分円 街区 ) とよはれる ⑨オックスフォード街。百 貨店のセルフリッジ ( 左 ) や チェーン・ストアのマーク ス・アンド・スペンサーほ か多くの洋服店などがあり , 買い物客でにぎわう ⑩イタリア式アーケード街 のコペント・ガーテ・ン。月 物市場 ( 1974 年移転 ) と王立 歌劇場の存在で知られたが , 再開発により , 大陸風のレ クラブが ストラン , ノヾー 集中する観光名所となった に 02 ~ , , 。イ。新雎を i Ⅶ扣い ード ⑩仕事を終えた市民憩いの場 , バブ。有名人が通った伝統のある店や 個性的な趣向を凝らした店など , その数は市内で 6000 軒を超す @) ロンドン塔の守衛。王室護衛兵 (Yeomen of the Guard, Yeomen wardens) が正称だが , 体格がよいためビーフィーター ( 肉食らい ) の 名で親しまれ , ロンドン名物となっている ⑩手前からリリク , アポロ , グロープの 3 劇場が並ぶシャフッペリ通 , / り。劇場や映画館はウスト・、ンドのこの通りの周辺に集中してお ' ノ↓ \ り , おもなものだけで劇場約 40 , 映画館約 25 を数える ⑩スクエアやサーカスとよばれる町角の広場から , 貴族の残した庭園 , 王室のシカ狩り場であった公園まで , 空問・緑地の多さはロンドンの財 産となっている ( セント・ジェームズ・バーク ) ⑩テムズ川に沿うチェルシーの住宅街。市民の大半はこのような集合住 宅に住んでいる 687
れしえと 郵便局員の家に生まれた地域は他のどの宣教師よりも広く、蒙古、東うに、戦争初期からロンドンには敗れた諸国の 6 こうそあんきせつこう る。早くに親を失い 、山東、河北、河南、江蘇、安徽、浙江、福亡命政権が集中した。イギリスはこれを保護す 3 たんのう 最のし るだけでなく、亡命政権が本国の支持勢力との ベルミでおじに育てら建、雲南、台湾に及んだ。語学にも堪能で、 館で品と 間に有するひそかなつながりなどを情報活動や れた。一八五九年同地『易経』をラテン語に翻訳した。北京で客死。 △術か製品 ^ 矢沢利彦〉さらには破壊工作などに活用すべく、経済戦争 の学校を出て、郡裁判↓皇輿全覧図 代のエの きんせんとうろくき 近そ重工 省の下に新たに特殊作戦部 ((J)OQ) を設置し 所、税務監督局で働レジスター 0 金銭登録機 クはたジ 一品れレ 抵抗を意て協力させた。これらの活動は、抵抗運動の重 き、六三年ペテルプル レジスタンス Résistance 翳 ョ作さた 一の化し ) 味するフランス語。ここでは、第二次世界大戦要な一環を構成することとなる。 グ ( レニングラード ュこ格求 フランスは、降伏とともに結ばれた休戦条約 において枢軸国の占領下に置かれた諸国におけ の下級官吏になった。 ニ , 規追 かもを ( 一九四〇年六月二二日 ) により、国土が大き 六一年文筆活動に入る抵抗運動をさす。それは各地に起こったが、 5 るで係 . いま関 とくにフランスでは、早くから「レジスタンく 南北に分割され、北部はドイツ軍の直接占領 り、六四年には代表作 て婦の の中編『ポドリープノス」を名のる組織が現れただけでなく、運動は下に置かれ、南部はペタン元帥がビシーに政府 ・をる人 工村の人々』で、零落多様な展開を示し、フランスの解放に大きな役を置き、いわゆるビシー体制を敷いた。しかし 1 カ . しと してなかばプロレタリ これに対し、六月一八日にロンドンに逃れたド 割を果たした。また占領下において、のちにレ 裸て明 たれ文 アート化した民衆の生ジスタンス文学とよばれるようになる詩や小説ゴール将軍が、その日の夕方より放送を 、由し・は ( 械 によ機 などの作品が生み出され、戦後の思想動向にも通じてフランスの降伏を認めないよう訴え始め 活を活写した。ほゝに 年題もる 主とす ウラルの鉱山労働者の影響を与えた。こうして、レジスタンスというていて、まもなく口ンドンで「自由フランス 四を達 事事発 労苦、飢え、貧困を描フランス語は、諸国の抵抗運動を広くさすこと軍」を組織して抗戦継続を目ざした。先に述べ 」食食 一 ) 、より・冗木 いた『鉱山労働者』ばとして用いられるようになった。事実、このた諸国の場合、敗戦当時の合法政権がロンドン 期きお味 の ような抵抗運動が各地で展開されたことは、第に 存続して、国民はこれを支持するか、あるい ( 一会六 ) 、労働者の怒り 時大て興 人 の 3 れわ っ 二次大戦の際だった特徴をなしており、戦争のはドイツ軍やこれに追随する権力に従うか、と と抗議の激化を主題と こでかき いう選択の前にたった。しかし、フランスの場 はの描とする『グルーモフ一推移や、諸国の戦後政治のあり方にも、重大な 工工もにひ ジジのう 家』 ( 一会六 ~ 六七 ) 、労働意味をもった。なお、ドイツやイタリアでのヒ合はそれと異なり、ロンドンで抗戦を訴えたド レレ大よて 者の自意識の目覚めをトラーやムッソリーニの権力に抵抗する運動ゴールは、政府と軍の決定を無視した一介の は、それそれ自国の体制に対するものであるか「脱走軍人」にすぎず、多くのフランス人はド ン・レイたちの協力を得て映画『バレエ・メカ扱った『どこがましか』 ( 一会 0 の長編三部作 〈島田陽〉ら、いちおうここでは除外して考え、また、アゴールの名さえ知らなかったという。この点は が重要。 ニック』 ( 一九一一四 ) を制作、純粋に造形的な関心、 ノ、 , んーしょ , っ フランス・レジスタンスの展開に大きな特徴を ジアにおける日本の占領地支配に抗した運動は とりわけ「オ。フジェ」への関心を示している。 レジオン・ドヌール勲章 フラン別の局面の問題として、ヨーロッパ方面に限定与えている。↓ドゴール↓ビシー政権↓ペタ 第二次大戦中の一九四〇 ~ 四五年には、フ一フ Ordre de la Légion d'honneur ン ンスを離れアメリカで制作、戦後フランスに帰スの最高の勲章。軍功のあった人、社会に功績してみることにする。↓反ファシズム運動 レジスタンス文学 フランス国内での抵抗運動は、北部では、占 国、サイクリスト、サーカス、ピクニックなのあった人に与えられ、一八〇二年ナポレオン 領初期から武器の隠匿、占領行政へのサポター ど、現代生活の明るさをテーマに、平たい色一世が制定し、共和制の現在にあっては大統領〔西ヨーロッパ〕一九四〇年四 ~ 六月、ドイツ ジュ、南北の境界や国境を越えての脱走や連絡 軍の進出とともに、敗北した諸国では、国王と が授与する。グランクロア、グランゾフィシェ、 面、太い有機的な曲線、明快な色彩の対照によ コマンダー、オフィシェ、シュバリ 工の五階級その政府が曲がりなりにも四三年まで存続し戦ルートの形成、反占領軍ビラやパンフレットの って構成される大画面を数多く制作、そのなか に分かれ、他の勲章のような表彰の意味合いよ前の統治機構が比較的温存されたデンマークを発行など、比較的小グループによる自発的で直 にはニューヨークの国連本部大ホールの壁画 り、身分栄誉を与える意味が強く、現役軍人が除いて、ドイツ軍の占領ないしはそれに協力す接的な地下活動が生み出されていった。そうし ( 一九五一 l) がある。陶器、版画、モザイクなどに た動きのなかで、パ リの人類博物館を中心にす も多彩な活動を示し、 リ近郊のジフ・シュ受章した場合は年金が支給される。外国人にはるファッショ的政権の支配下に置かれた。ノル おもにシュバリエが与えられ、日本人も多数受ウェーでは国王がイギリスに亡命して、親ナチる若い知識人グループが、一九四〇年一二月一 ル・イベットに没。六〇年、彼が陶芸のアトリ 工を構えていた南仏ビオにレジェ美術館 ( 六七章している。赤いリポンに下がる正章は共和制スのクビスリングが権力を握り、オランダもま五日を第一号とする『レジスタンス』と題する 年、国家にコレクションとともに寄贈され、現以降、勲賞の中央に彫ってあったナポレオンた女王とその政府はロンドンに亡命、ドイツ軍新聞を発行したことは、このことばが人々の活 〈中山公男〉の横顔が女神像に取り替えられた。 3 勲章は、オランダ国家社会主義党のムッセルト An ・動の自覚的表現となったことを示すものとして 在国立 ) が設立された。 〈梶龍雄〉 ton Adriaan Mussert ( 天九四ー一九四六 ) を押し立注目される。他方、南部はビシー政府の下にあ E)> ・シュマーレンバッ、 ノ著、八重樫春樹訳 ( 別刷 ) ー一七て、彼はやがて四二年に国家指導者 ( ヒューラ り、その体制、あるいは、そこに結集するファ 『レジェ』 ( 一九天・美術出版社 ) ▽瀬木慎一 レ一ンス Jean Baptiste Régis ( 一六六三 ー ) を名のる。ベルギーでは、国王レオポルド シズム的潮流に反対することが、まず第一の課 三 0 フランス人のイエズス会士。漢名は雷孝 解説『現代世界美術全集プラック / レジ 三世は国内にとどまったが、自らをドイツ軍の題となった。したがってここでは、社会主義や 一六七九年イエズス会に入会し、九八年に 工』 ( 一九七一一・集英社 ) 中国に渡り、その数学、天文学に対する知識を「捕虜」とみなしてそれへの協力を拒否、ピエ労働運動の活動家、キリスト教民主主義者など レシェート一一コフ (i)éAOP MHxaüJ10- ベキン による比較的大きなグループが組織され、その ルロ首相以下の閣僚がロンドンに逃れて、保持 BHt1 PeLIRTHHKOB/Fyodor Mihaylovich 買われて、宮廷奉仕のために北京によばれた。 こうよぜんらんず Reshetnikov ( 天四一 ー七一 ) ロシアの作家。『皇輿全覧図』作製の事業で、レジスの測量しする軍事力をイギリス軍と協力させた。このよ活動も、占領軍との絶えざる対決に進んだ北部 0
ミンカソ、 ュ・ヒル オク・ウフド・ ス」ク 大口ンドン ーク・ - ヒル・ ングフォー イ・、、スト 工 ッグ 工→。モント、 ド ォ 5 師 、ウィリ ェアベリ・ ・。・エッジ ロイヤ 田整形 当ナル ト ザン % , 、グレ チンフド・ロード 1 : 1 0 , 80 ぐ・ヨセフ・ ルー ルド・ , ボウズ ・ . バウン パ ~ ワ駅 、一ウッ レ名サン・・穴ーグ、 丿ノ田 ツォ っ院 オオ効レ スタ , ・モ・ キヤノ・ V 、ロー・ウェル ペノドフォード・ ウント キヤノンズ・ \ 、 イ ・ノト = レヒル ・ストーン イノールト駅 を、、 0 テナム墓地 クレイベリ ンチー / トバンクラス フィ、 地 、ド・イズリントン セ、 儿駅 セン ル・、、第地 \ イ スト・ インヂ - ト駅 ウェ 合病院 ノ・オーワ駅 ビレナー トッテム 卩トキ ) グイト ーグッドメ病院砂 パ駅 ? ヾレンタインズ の′グッ ノレフォート のホー ・アンド・ ター ノよ ンズベ ーーパーワ駅 カオ以ト・ グート駅 リイキ、 フノし駅 しつ ーンジ・。 、おヴ 7 の \ セントンズ・ウ、シト駅セ ) ー、 ) ウェストリ ・ナル、 丿ーう ィースト・ ホワイシテロード第 ) 卞ランド・ 、ワイ ト第ノ、イ 、こ瓣第亠 第シアター ノ、、マスここみ : ン、、 、トン パーワ駅 。 . イ、コト駅ー 展覧会印 ( キ。ャンべノレ 、エノレ ーっロス ストい 丿ー冫駅 フム宮殿 ロート 丿ッ三駅 ブットこ クイーン , メ病 プロックウェ ダリッジ美術館 1 レ逆駅 、丿い・ ) 駅 ヨ以フ ス 乙・ \ ダリッジ・。 ーヒ ) [ 駅 カレッジ三 ・ - 、ウインプル ン っーティンプ ・パグ / , ウインプルドン・ ニス場占。 ストタ 4 ・ショ、一ジ ストな インプルド ) 駅・ノ 、ドコ丿ァー冫で— : ・ロヨ ア・パ駅 , ) / ①ウル ッド病 ナレスコい 、リー・パク ロオーー ャドウェル・ヒら病院 ェスト・ヘ、 ン ロ乙フ 乙フォー ャドウェル・ ホーンチャ チ トンスト ) 駅 ウイい ・チャチ病院 イトコト駅 ′スリップ・ ン / 占 ロー校 ・ハロー イン フィ サウス・ ・ザ・ヒル ・ニッドラ、 よミラ ′ケナイイッケナ I 駅 、ディ・オプ・ イロー ーズ・ ウェスト・ ンライスリ、 ェンプリー 丿ープ、 レ、 ノブ ) ン ワラ 工 ラッドストーン・ ・リス・ヒ ) ウイズテ、 ンデス ショノ駅ライス駅 ・・リアンド・ ・ロード駅 . コ、 ェンカー セントラ几駅 ースオルト・サド ルト駅 リンド、 丿ッフ第づ 广。ノ + ズオルト、、、 ウイ、第 。タウ、 ド駅ウェ ト・ノ、 ト・ノ ム ク可 ストラ ヒリノドン ヒリンドン ト・ノ、ム 丿ーンフォート駅、 ・ハイ・ロー パ - ク駅 ヒ駅 て : ペズ 第 - 博物 ミドルセック ド刀駅しべ : こ = 丿ペイル・ ー久占 . プロー ー駅 ウェ ン ドレ ィーリ ' イレエンド : ス ・ド イトン レ・ウェー 6 税関 プ , ロイヤル・アルバート・ ウェスト ノース・ ーカスタ乙・ハウス・ ワトリブド、駅一 イヤル七クトリア 工 ンデ スオー几駅 ウリッジ・ ール ノース オスタリみ仁ク . ①イ ウリッジ ー / ウリソジ・フ アカ ノド・ プディー ) ・セン・一 チャールト ツ台 - 病院 クランフォード・ バーク 王立植物園 ) 交ガー・ハウス・ ウイ、、クツ、ウ ィーリス ス・ロード イウヒザー グ丿う駅 ・オ・ノレイ′シム ットフォード・ キャットフ ヒザー べ丿 ) ガ ・ケナム・プレイ・ サと リッジ・・ . な・ゞ ; ・ . べケナと駅。よ : 、 よトサンドリンラ 勹、ウス駅ヤンワショ〕 レイ。 / トワ 完云に ィ - - プ OL わー ンヨ . ンリヾー 住 シーン・ハウス第 ・天文ロ オールト・ ニプル・ ル・ル・バウス・に ングス ブッシー・バーク ダイアナの永 マルデ〕駅 ハン外、ンプトン : コート宮 ツップル 1 ト・ 0. トラン マル / ・ マナ - 駅 ←ワ駅 グ丿ー冫駅 0 、ターえ・と元・ プルック病 バーントスト駅 ジョ冫 刀リー駅 ウェリ、 ンヤ L コしサこ駅 工丿レ ロンドン大都市圏 ハウ、 ワロ しコ、 、・クスー ダンソ・ン 0 メ ヒタ っオンカ 匚コインナー・ロンドン ロアウタ - ー・ロンド . ン ロロンドン大都市圏 フェたタム フプレスト・ スンジ・ 、、クリタル宮、 ワスタル・ プニッジ スティー ヒ几駅 。占。フルうゴ源 フォート ウェリン・ガーデン・シティ ーッド へメルヘム 占ウ、 ハリフォート駅 っプルド、 土イフ駅 ーンプレ・ ロンドン・ 0 ご / チ・ヤム - ーン・メアリー 貯水 / ヾジルドン ジャンらショ : 工ンド駅 のドサイ . クー巳ィート クロイドン ロイド・パーク を つロイド ) 駅 手、一ディ ワソドンワロイヴ サトウン ーベディントン・ ズ / V しト第 ウォョ丿ン麕 カーズしトウ」一一 / ーワ駅 プラックネル サリ 主デンパーっ駅 ラングレー ・パークト。 セル / ト 凡 例 k 、プロ、ムリ ト : . のと駅 ン ド冫 / インナー・ ロ [ : : : こ ] アウター 緑 地 ハ、ンっプ丿、 一フテ / ヾ 困ガトウィック クローレー ウント ノーフ駅 ザ ) ス・ ストー 二グリ ーン・ペ丿レト ュータウン ノンサッチ・ 50km