ろんどん アデイケアの反乱で一度破壊されたものの、ロ ンディニウムは急速に復興し、商業で大いに繁 6 栄した。五世紀の前半にローマ人が去り、ロン ドンは後のアングロ・サクソン七王国の分裂時 る物 代には衰退した。その後ロンドンは徐々に商港 としての繁栄を取り戻したが、この町の重要性 かン が再度高まるのは、一〇世紀にイングランドが 統一されてからである。一一世紀に入ってクヌ ぎん ジる ッえ ード ( 大王、在位一 0 一六 ~ 三五 ) とエドワード ( 懺 悔王、在位一 0 四一一 ~ 六六 ) が、旧来のロンドンの西 フか 方、ウエストミンスターに王宮や寺院を建てた ことは、ロンドンの歴史に大きな影響を与え 三 ~ す館 た。以後ロンドンは、旧市街であるシティが商 に当兀 一一左図 業の中心、ウエストミンスターが王宮の所在地 ムタ ( 銀ホで政治の中心という二重構造をもって発展して テス しくことになる。 一フギ 〔商業の発展〕一〇六六年の征服 ( ノルマン・ 一あト ~ かス コンクエスト ) 後、ウィリアム一世はロンドン 塔工 ンウ とン市に対して、前王エドワード治下で認められて いた権利を保障するとともに、シティの東端に ロ左 ロンドン塔をつくり支配を固めた。一二世紀前 ラ 端れ 断グ半に起こった大火の結果、多くの建物が石とタ イル造に変わり、やがてロンドン橋も石造とな 立色 った。このころからロンドンは旧来の市壁を越 王彩 ン市 えて地理的に拡大する一方、一一九一年には自 イる のイ 治都市となり、一一一一五年以降は市長選挙が毎 一ろテ 年行われるようになった。こうした発展の背後 にあったのは商業の拡大で、各種の、キルドがす でに一二世紀に結成されている。他方、一二世 紀後半からイングランドの統治制度の整備が進 は予想以上に減少し、一九六一年からの二〇年と暴動が発生するなど、新しい都市問題となっ ドンは新たな発展を始める可能性が大きい。ロ ている。 ンドンが過去、現在、未来にわたって人々をひみ、一三世紀に議会が誕生したことは、政治的 二三〇万人の減となり、とくにインナー ロンドンとよばれる旧ロンドン県の部分では、 きつけているのは、ひとロでいえば、人々が都首都ロンドンの成長をも促した。ロンドンは政 世界でもっとも早く大都市問題に直面したロ ンドンでは、戦後大口ンドン計画に代表される市に求める魅力がそろっているからである。 治と不可分に結び付き、一 三八一年のワット・ 住民の流出に伴い市街地の荒廃が著しく、深刻 な社会問題を引き起こした。このため、七〇年一連の大都市行政が取り入れられた。その実施「ロンドンに飽きた人はこの世に飽きたも同然タイラーの乱や一四五〇年のケードの乱の際に だ。なぜならば、ロンドンにはこの世のすべては反徒の侵入を受けた。。 はら戦争 ( 一四五五 ~ 代後半に入ると、政府は都市政策の重点を従来 にあたる地方政府の制度的改革の一環として、 の新市街地建設から既存市街地の再開発へ移一八五五年のロンドン県設置以来の伝統をもつがそろっているのだから」という一八世紀の文の時代には、ロンドンはヨーク派と良好な関係 豪サミュエル・ジョンソンのことばは、現在もを維持して混乱を避けた。また疫病の流行も中 し、内部市街地にふたたび住民や企業を呼び戻統一的行政体をさらに発展させ、一九六五年に そうと努力している。ロンドンでは従来アメリ 面積約一六〇〇平方キ。の連続する市街地を行政そのまま生きているといえよう。〈井内昇〉世以来ロンドンを悩ませたものの一つで、一四 世紀中葉の黒死病 ( ベスト ) の大流行では人口 力の大都市のような人種問題はまれであった区域とする大口ンドン県が労働党政権により設 歴史 の過半が失われた。 が、戦後旧植民地から受け入れた大量の移民の 置され、一元的な大都市行政の強化を図った。 ロンドンの歴史が確認されるのは、紀元後四 中世後期のロンドンは、ヨーロッパの国際的 多くがロンドンに定着し、市民の人種別構成も しかし、この大都市行政体は八六年に保守党政 以前に比べると複雑化し、近年ロンドン中心部権のもとで廃止され、ロンドンの大都市問題も三年にローマ人がこの地にやってきてからであな商業網のなかでも重要な位置を占めた。ドイ るが、それ以前にもケルト系の先住民がこの付 ツのハンザ商人が一三世紀にはロンドンに定着 の街頭は、外国人観光客も加わりニューヨーク新たな対応を求められている。 のような人種の展示場の観を呈している。これ イギリスは今後ヨーロッパ共同体 (QO) の近に住んでいたものと思われる。ローマ人はロ し、フランドルや北イタリアからきた人々とと らの移民の一部は、市の南部や北部地区に集中一員として生きてゆく以上、大陸に近いイングンディニウム Londinium の町をつくり、テもにロンドンの商業や金融で力を振るった。北 的な居住区を生み出したが、これらの地区でランド南東部は恵まれた気候と相まって今後さ ムズ川の渡河に適したこの地をプリタニアの道イタリア ( ロンバルディア ) 出身の金融業者 は、不景気で失業率が高まり生活不安が高じるらに産業や人口が集まり、その中心であるロン路網の中心とした。六一年にイケニ族の女王ポは、現在でもロンドン金融の中心地ロンバード 1 を
盛り場でのリリース型レジャーが中心で、市場レーシングカー racing car レースに使水を除いた重量 ) 一一〇〇キ。グラム以上という 者のレジャーと高齢者のレジャーとでは、時間 複合フォーミュラが課せられ、エンジンの直接 規模もの一〇 % 前後から年々その比重をわれる自動車の総称。競走用自動車ともいう。 の意味が違うからである。したがってレジャー は、ただ単に自由な時間を各人の好みにあわせ高めてきた。一九六四年の東京オリンピック大〔歴史〕一八九五年に史上初の本格的な自動車規制が始まった。一三年にはふたたび燃費一〇 ーハリ」が開催され〇キロメートル当り二〇 ( 五キロメートル / 羂 ) 会、七〇年の大阪万国博などは、新幹線、高速レース「パリーポルドー て過ごすだけではなくて、そのことを通して、 以下、車両重量八〇〇 ~ 一一〇〇キ。グラムとい た。ようやく自動車が実用化されたころであっ 人生をいかに生きるかを自分自身に問うことで道路など社会資本を充実させ、モータリゼーシ たから、とにかく自力で走れる車ならなんでも う燃費と重量の複合規制が採用された。第一次 ある。人間はレジャーを生活のなかでうまく位ョンを加速化し、旅行、スポーツなどレジャー 置づけることによって、時間を貯蓄することが活動の屋外化、高額化を促し、レジャー産業の出場してきた。レーシングカーどころか、乗用世界大戦の始まる一四年には、初めてエンジン の総排気量を四・五曰」以下に抑制、あわせて車 できるとともに、自分独自の人生を設計するこ大型化を促進した。この時期、企業社会では飲車とバス、トラックの区別さえ判然とはしてい とができる。↓遊び↓娯楽↓レクリエーショ食、勝負事、スポーツを接待に利用する慣行なかったころである。しかしレースの人気が高両重量を一一〇〇キ。グラム以上とし、以後はエ ンジン排気量と車両重量を中、いに、ときに車体 ン↓レジャー産業 〈藤竹暁〉 ( いわゆる「社用族」 ) が定着し、社員旅行をまり、競走が激しくなるにしたがって、レース 含む仕事と結び付いた「半レジャ ー」が、レジ に勝っための専門のレーシングカーがつくられ寸法や燃料消費率も併用するという方法が用い ー』 ( 日経新書 ) 回藤竹暁著『個性あるレジャ るようになってきた。実用的な装備を外して軽られてきた。フォーミュラが強化されると、そ ャー産業を支えた面も無視できない。 ▽・カイヨワ著、清水幾太郎他訳『遊びと の範囲内で性能の限界を追求して安全限界に近 人間』 ( 一九七 0 ・岩波書店 ) ▽・デュマズデ 経済の安定成長への移行後も、レジャーに対量化したシャシーに、大排気量の強力エンジン イエ著、寿里茂監訳『レジャー社会学』 ( 一九する支出は増大傾向をたどり、一九八〇年代にを搭載した専用車である。それを操るためにはづき、ふたたびフォーミュラが強化される。こ 全・社会思想社 ) ▽世論調査部編入ると、レジャー活動は個性化し、多様化した。度胸と反射神経と腕力が必要で、レーシングドのように、レーシングカーの歴史は、マシーン ライバーという新しい職業が生まれた。その結の性能向上とフォーミュラ強化の終わりのない 『図説日本人の生活時間一九八五』 ( 一九円高を背景に海外旅行がプームとなり、ホビー 追いかけっこであり、それは今後も果てしなく 会・日本放送出版協会 ) ▽松原治郎他編や学習、さらにはマニアの出現 ( 個性派レジャ果、レース速度は安全が保てないほど高くな ー ) が新市場 ( クラフト模型など ) を拡大させり、事故が多発した。そこで早くも一八九八年続いていくものと思われる。 『講座余暇の科学』全三巻 ( 一九七七 ~ 大・垣 には、車両重量を重量車で四〇〇キ。グラム以 以上のフォーミュラによるレーシングカー た。茶・華道、ピアノ、囲碁など「求道性」の 内出版 ) ▽ J. R. Kelly 】 F & 0 ミご 強いレジャーが、 =—>()o 一 ( yourself) や園上、軽量車で二〇〇 ~ 四〇〇キ。グラムとする史は、第二次大戦前は一般にグランプリカーとよ Be . ・ New SO 0 一 og ト e ミ、 e ( 198A ばれてきたが、戦後はフォーミュラ 2 やフォー 芸など日常的レジャー ( 手作り文化 ) と並んで息上初のレーシングカー・フォーミュラが設けら MacmiIIan PubIishing CO こ N. Y. ) さんぎよ , っ leisure ln- ミュラ 3 も設けられ、レーシングドライバーの の長い人気を確保している反面、ジョギングやれた ( フォーミュラとは規格のことである ) 。 レジャー産業 重量を重くすることによって速度を下げるの 登竜門としてのレースが行われるようになった dustry 人々のレジャー活動に対して、それェアロビクスなど健康スポーツに高齢層を中心 エフワン がその目的だったが、エンジンの大きさに制限 結果、フォーミュラ 1 カー、略してカーと に必要な用具の製造・販売、施設・用具の提とするゲートボールなどが仲間入りしている。 のない以上、最初のフォーミュラは安全性確保よばれるようになった。カーによるレース 〔レジャー産業の特徴〕時間帯や曜日、季節に 供、レジャー活動の指導を行う産業の総称。 は、プラジル・グランプリ、モナコ・グランプ 〔レジャー産業の分類〕レジャー活動の能動よる繁閑差や流行のライフサイクルの短さなどの面からはあまり効果がなく、かえって強力な デトロイト・グランプリのように、開催国 性・積極性を基準に三つに大別される。①仕事から経営リスクが大きいため、中小企業が多エンジンが積まれる結果となった。そこで一九 、需要立地型労働集約的色合いが強く、バー 〇二年には重量車六五〇キ。グラム以上、軽量車名や都市名を冠したグランプリ・レースの名で などのストレスからの一時的な解放を目的とす るリリ ト、アルバイトなど臨時雇用者が多い。大資本四〇〇 ~ 六五〇キ。グラム、小型車二五〇 ~ 四〇よばれている。 ース ( 発散、解放 ) 型レジャー ( 外食、 一九一〇年ごろから、高度に専門化し実用車 も「大型レジャー館」とかディズニーランド型〇キ。グラムと、フォーミュラを強化しなければ テレビ、レコード、興業などの鑑賞、ゲーム・ とはかけ離れてしまったグランプリカーと実用 の「大型テーマ。ハーク」に進出しているが、多ならなかった。さらに〇二 ~ 〇六年には、逆に ギャン。フルなど勝負事を含む ) 、②非日常的行 角経営による危険分散によって経営安定を図っ車両重量を一〇〇〇キログラム以下に抑えること車との間に、いわゆるスポーッカーが生まれ 為を通じて明日への活力を生み出すレクリエー ↓レジャー ているものも多い 〈殿村晋一〉 により、大排気量の強力エンジンを締め出す方た。スポーッカーは基本的に高性能な実用車で ション型レジャー ( スポーツ、観光など ) 、③ 自己実現を意識した自己啓発型レジャー ( 音レジャーヌ Ré」 ane ( 天五七ー一九一一 0 ) フラ法がとられた。それでも一九〇六年のル・マンあるが、やがてそれによるレースも行われるよ うになった。スポーッカーのレースとしてもっ の第一回フランス自動車クラブ・グランプリ ンスの女優。本名はガ。フリエル・レジュ。自然 楽・美術などの創作活動、和・洋裁、茶・華道 など「褓古事」、読書や各種講習会での学習な主義演劇興隆後の。ハリの劇壇における人気女優 ( グランプリの名のついた最初のレース ) に優とも有名なフランスのル・マン二四時間耐久レ ースは一九二三年に第一回が開催されている。 勝したルノーは、排気量一二・九七五、一〇 ど ) に区分される。一九八六年 ( 昭和六一 ) 現で、とくに軽い風俗喜劇を得意とした。パリし さらに現在では実用車 ( ツーリングカー ) による 在、わが国のレジャー市場は五四兆三九五〇億生まれ、一八七四年にコンセルバトアールを卒五馬力で、最高時速一六〇キ。メートルにも達し レースも盛んで、ひと口にレーシングカーとい ース型が業し、ポードビル座に入り、写実風の演技で頭た。 円 ( 前年比四・四 % 増 ) で、うちリリ 重量による規制が効果がなかった結果、一九つてもきわめて多岐にわたるのが現状である。 五七・七 % 、レクリエーション型が一九・一角を現していった。九三年に演じたサルドウー 〔レーシングカーの種類〕全世界のモータース % 、自己啓発型が二三・ 一 % ( 『レジャー白書の『無遠慮夫人』が当り役。一九〇六年以後は〇七年には、使用燃料の量を一〇〇キ。メートル 当り三〇 ( 約三・三キ。メートル / ) 以下にポーツを管掌しているのは、 ( 国際自動 』 ) を占めている。この市場規模は国民総支レジャーヌ劇場を得て、自ら運営にあたった。 ここでのメーテルリンク作『青い鳥』の上演制限し、間接的ながら初めてエンジンの大きさ車連盟 ) 傘下の— ( 国際自動車スポーツ 出の一六・四 % 、民間最終消費支出の二八・五 〈加藤新吉〉 % にあたる。 ( 一九二 ) は大成功を収めた。 に枠が設けられた。さらに〇八年にはエンジン連盟 ) である。が決めている一九八七 おう ーーようしき 0 ルイ王の総ピストン表面積七五五平方メートル以下年現在のレーシングカーのカテゴリーは次のと ん〔レジャー産業の発展〕わが国のレジャー産業レジャンス様式 、ちょうようしき ( 四気筒で内径一五五 : リメートル以下、六気筒おりである ( なお各生産台数は連続した一二か しは、一九五〇年代なかばからの高度成長ととも朝様式 月間のもの ) 。 で一二七、、リメートル以下 ) 、乾燥重量 ( オイル、 れに急成長した。パチンコ、酒場、野球観戦などレ・シルフィード 0 ラ・シルフィード 371
いワインになってしまうので、一定制限内で果代エジプトでも古くからブドウが栽培され、ワロ ん会で明らかとな 0 たロッキード事件は、日本国り、相当の行為をしなかった場合や、職務上不 、内での金権政治批判の世論を背景として、つい インがつくられていた。エジプト第一王朝 ( 前 7 正の行為をしたり、相当の行為をしなかったこ汁に糖分を添加して発酵したものも果実酒とし に首相経験者をはじめ有力な政治家や経営者とに関して、賄賂を収受、要求、約束し、またている。 三〇〇〇年ごろ ) の墳墓からブドウ種子が発見 わ が賄賂罪により有罪判決を受けるという事態に は第三者にこれを供与させたり、その供与を要 この制限とは、①糖類添加後の果汁の糖分が されており、第一八王朝 ( 前一五八〇年ごろ ) まで発展した。しかし、このようなわが国の政求、約束する場合に成立し、一年以上の有期懲二六 % 以下であること ( この補糖のかわりに一 のナクト墳墓の壁画には、ブドウを摘み取った 治経済構造を反映した贈収賄事件は後を絶たな役 ( 同条ノ三第一項・二項 ) 。 定制限内でアルコールを使用してもよい ) 、②り、果汁を絞る風景など、ワイン醸造のようす いし、日本特有の贈答文化とも関連して、この 事後収賄罪は、公務員、仲裁人であった者糖類の添加は発酵終了前であること、③糖類は が描かれている。ワイン醸造の技術はその後フ 種の事件も頻発しているのが現状である。 が、その在職中、請託を受けて職務上不正の行砂糖またはブドウ糖であること、④補糖した場ェニキア人を経てギリシア人に伝わり、ギリシ 合には製成酒のエキス ( ワイン一〇〇 :. 〔本罪の歴史〕わが国では、奈良時代の大宝律為をし、または相当の行為をしなかったことに , リットアはもとより、彼らの植民地が延びていくイタ りよう リア、スペイン、南フランス、北アフリカに広 令 ( 七 0 一 ) のなかに賄賂罪にあたる規定がすで関して、賄賂を収受、要求、約束する罪であル中に含まれる不揮発成分のグラム数 ) が七度 にみられるが、明治初年の仮刑律、新律綱領、 り、五年以下の懲役 ( 同条ノ三第三項 ) 。 未満であることの四つで、これらが満たされてまっていった。ローマ人はさらに積極的にワイ たる いるものが果実酒となる。したがって、果汁へ 改定律令にもこの種の規定が存在する。一、 斡旋収賄罪は、公務員が、請託を受け、他の ン醸造を奨励した。この時代には樽貯蔵の技術 公務員をしてその職務上不正の行為をさせ、まの補糖量が制限を超えたり、できあがったワイ も普及し、ワインを長く貯蔵したら品質がよく 〇年 ( 明治一三 ) に立法された近代的刑法典た ンにプランデーや果汁、糖類、香味料などを加 なることも知られていた。 る旧刑法には、「官吏漬職ノ罪」のなかに賄賂たは相当の行為をさせないように斡旋するこ 中世に入ると、キリスト教の布教とともに、 罪の規定を設けていたが、後に述べるような受と、またはしたことの報酬として、賄賂を収えたりするものはすべて甘味果実酒になる。シ エリー、ポート 、ベルモットなどはわが国では赤ワインがキリストの血として儀式に欠かせな 託収賄罪を規定するにとどまり、単純収賄罪や受、要求、約束する罪であり、五年以下の懲役 そう . りレ - 甘味果実酒に入る。また甘味果実酒も無制限に 贈賄罪などの規定を欠いていた。そこで、一九 ( 同条ノ四 ) 。 いため僧侶たちがワイン造りの技術を研究し、 贈賄罪は、一九七条から同条ノ四のすべての アルコールなどの使用が許されているのではな率先してワインをつくった。またこのワインは 〇一年 ( 明治三四 ) に漬職法が公布され、その 処罰範囲が拡大されたが、これを受けて〇七年罪につき、賄賂を供与したり、申込、約束するくて、果実酒が一〇 % 以上入っていることが必教会の維持費にあてられたといわれる。一七世 に公布された現行刑法は、第二編第二五章にお罪であり、三年以下の懲役または五〇〇〇円以要である。なお果実酒類のエキスは二一度末満紀末にはガラスやコルクが現在のようにできあ で、それ以上の酒はリキュール、雑酒になる。 がり、ワインの品質もいっそうよくなった。こ いて、漬職ノ罪の一つとして賄賂罪を規定して下の罰金に処せられる ( 一九八条 ) 。 、た。しかし、制定当初の刑法には、単純収賄 なお、犯人または情を知った第三者の収受し ただし貴腐ブドウを原料としたような果実またのようにワイン醸造は順調に発展していたが、 罪と単純贈賄罪の二つの犯罪類型しか設けてい た賄賂は没収され、その全部または一部を没収は果実水のみを原料に使った場合は果実酒 ( ワ 一八世紀の中ごろ突然アメリカから入ってきた イン ) になる。↓果実酒 フイロキセラ虫が大発生し、ヨーロッパのブド なかったため、四一年 ( 昭和一六 ) の大改正 にすることができないときは、その価格を追徴さ 〈名和鉄郎〉 〔歴史〕ワインのような果実酒は、果実が自然ウはほとんど収穫できなくなった。のちにフィ より、受託収賄罪、事前収賄罪、第三者供賄れる ( 一九七条ノ五 ) 。 ロキセラ抵抗性台木が育成され、問題は解決さ 罪、事後収賄罪が追加された。その後、五八年ワインワイン wine は英語で、フランス語発酵することにより容易にできるから、穀物の あっせん ( 昭和三三 ) の改正で、斡旋収賄罪および斡旋ではバン vin 、ドイツ語でワイン Wein 、イ酒よりもその歴史は古い。ブドウの栽培の歴史れた。その後ワインは二つの世界大戦を経て現 贈賄罪が新設された。さらに、ロッキード事件 タリア語、スペイン語でビノ vino 、ポルトガは紀元前五〇〇〇年にさかのばるといわれ、シ在では多くの国でつくられ消費されている。 、ずれもラテン ルでビニョ vinho とししし リア、コーカサス ( カフカス ) 地方の中央アジ 〔日本への渡来〕わが国に初めてワインが入っ を契機に、八〇年の改正により各罪の法定刑が あづち 引き上げられている。 語の vinum ( ブドウを発酵したもの ) からき ア民族が栽培を始めた。当時は雌雄異株の野生てきたのは一六世紀の中ごろで、安土桃山時代 〔各犯罪類型〕現行刑法の賄賂罪は次のとおりている。したがって狭義のワインは、ブドウ果型プドウミもミ s ミ s であったが、長い栽に南蛮貿易によりフランシスコ・ザビエルが山 よしたかチンタざけ である。 培の歴史の過程で雌雄同株である両性花の栽培 ロの領主大内義隆に珍陀酒 vinho-tinto ( 赤プ 汁を発酵させてできた酒のことで、日本流にい とよ ブドウが出現した。最初の両性花ブドウはトラドウ酒 ) を献上した記録がある。織田信長や豊 単純収賄罪は、公務員または仲裁人がその職えば生ぶどう酒 ( 本格ワイン ) がこれに当ては 務に関して賄賂を収受、要求、約束する罪 ( 五まる。しかし一般にはワインというと、生ぶど ンスコーカサス ( ザカフカス ) の農園で栽培さ臣秀吉もチンタ酒を珍重した。ワイン醸造が行 われたのは明治になってからで、一八七〇 ~ 七 年以下の懲役 ) で、請託 ( 一定の職務を行うよ う酒に砂糖やプランデーなどを加えたり、草根れたといわれる。 たくま やまだゅうきよう う依頼 ) を受けた場合は受託収賄罪 ( 七年以下木皮を抽出してつくったりする酒精強化ワイン ワインがいつごろからっくられたかは不明で一年 ( 明治三 ~ 四 ) に山田宥教が甲府の詫間 けんきゅう の懲役 ) にあたる ( 一九七条一項 ) 。なお、こ ( ポート、シェリー 、ベルモットなど ) も含まあるが、前四〇〇〇年ごろ、ティグリス川中流憲久と共同でぶどう酒を醸造した。以後各地 に生活していたシュメール人がワインをつくでワインはつくられたが、原料の制約があり、 れから公務員や仲裁人になろうとする者が請託れる。また、。フドウ以外の果実を発酵させてつ くる酒もワインとよばれるが、この場ムロにはワ を受けて右の行為を行い、現にこの地位につい り、飲んだことが、この地方の都市国家ウルク第二次大戦前までは大きな発展はなかった。一 インの上に果実の名前をつけ、たとえばモモかのウル王墓や遺跡から発見されており、これが方、一八七二年、東京の宮内福三が甘味ぶどう た場合には、事前収賄罪 ( 五年以下の懲役 ) に らっくられたワインは、モモワインのようにし 『旧約聖書』の「創世記」にあるノアの箱舟の酒の製造を始め、これが日本人の舌にあい、製 あたる ( 同条二項 ) 。 第三者供賄罪とは、公務員または仲裁人がそてよぶ。なお、わが国の酒税法上の分類に従え物語 ( ノアは洪水のあと。フドウを栽培し、ワイ法も改良されて生産量は飛躍的に増大した。い の職務に関し請託を受けて、第三者に賄賂を供ば、これらはすべて果実酒類に入る。果実酒類ンを飲んで酔って寝たという話 ) の原型とされまでも多くの日本人はワインといえば日本的ポ ている。その後この地方はセム族の支配すると 与させたり、その供与を要求、約束する罪であは「果実酒」と「甘味果実酒」とに分けられ、 ートワイン ( 現在はスイートワインとよぶ ) を り、五年以下の懲役 ( 同条ノ一 I)O 果実酒のなかにいわゆる本格ワインが入る。た ころとなり、そのなかからバビロン国家が生ま連想するくらいである。戦後は食生活も変わ 加重収賄罪は、公務員、仲裁人が一九七条・ だ完熟した。フドウでも糖分の少ないものが多れた。ハムラビ王が制定した「ハムラビ法典』り、ブドウ栽培とワイン醸造の技術も改良さ 同条ノ二の罪を犯し、よって不正の行為をした く、そのまま発酵したのではアルコールの少なのなかにはワイン税が記されている。一方、古れ、ワイン生産量も増大し、輸入ワインの増加 たいほうりつ とみ
りゅうさんかゆ sulfonated oil 水に含まれる。工業的には天然物の採取のほ も妊娠第二四週末満までと規定されている。 さ硫酸化油 か、種々の化学工業で副産物として製造され 一九世紀の中ごろに、赤色の天然染料であった 流産の頻度は全妊娠の一〇 % 前後とみられて 度 トルコ赤 ( アリザリン ) によるまだら染めを防る。カルシウム塩の水溶液に希硫酸、またはア いるが、その大部分は妊娠第一五週までにおこ ゅ 0 温 1 -4 。 -8 戸 0 -4 ノ O ルカリ金属の硫酸塩の水溶液を加えると、六六 ぎ、均一な染色を得るために用いられた薬剤。 る。すなわち、胎盤が完成される妊娠第一五週 定。 チ田 0 1 1 よ 1- ・ / ー、 そのため別名をトルコ赤油あるいはロート油と度 0 以下で二水和物、それ以上では無水和物が 以後にはおこりにくくなる。妊娠初期の心得と メ O して流産予防に重点を置くのも、このためであ よばれている。初めはオリー・フ油を硫酸で処理析出する。いずれも無色であるが、天然の無水ジ式量 酸℃、子子点点重振 したものが用いられたが、 一八七五年ごろひま 和物は不純物の混入で着色している。一般に水 る。また、胎盤完成を境として徴候や経過に大 硫分分融沸比屈 し油の硫酸化油が現れてから主流はそれにかわにあまり溶けず、たとえば無水和物の二〇度 O きな差異がみられることから、妊娠第一五週以 った。一九二八年以降に新しいいくつかの合成での溶解度は水一〇〇等に対し約〇・三であことがあるが正しい名称ではない。発煙硫酸と前のものを狭義の流産、以後のものを未熟産と 界面活性剤が登場するまでは、せつけんを除い る。二水和物は一〇〇度 0 程度で加熱すると乾いたメタノールとの反応により生成する硫酸 いって区別することもある。なお、妊娠第四か ての唯一の界面活性剤として長い間繊維工業で〇・五水和物 ( 斜方晶系、比重二・六三。焼き 水素メチルを蒸留して製造する。無色の油状液月 ( 妊娠第一二週 ) 以後の流産については、死 用いられてきた。現在でも酸性染料の染色助剤石膏、半水石膏ともいう ) に変わるが、実際に体で、エタノール ( エチルアルコール ) 、エー 産としての届出が必要となる。↓死産 として用いられており、このほか農薬の乳化 は少量の無水和物を含んでいる。この混合物がテルに溶ける。刺激性はないが、きわめて有毒 〔原因〕多種多様であるが、卵性原因と母性原 しよう 剤、分散剤、あるいは植物を用いた皮革のなめ焼石膏で、常温で水分を吸収して二水和物 にで、吸入、あるいは皮膚への付着によって中毒因に大別して考えられる。卵性原因は受精卵そ し助剤に用いられている。 〈早野茂夫〉戻る。その際、発熱して体積が増す。二水和物をおこし、呼吸器粘膜の炎症で死に至ることがのものが病的な場合で、受精前の卵や精子に異 りゆ , っさん potassium を二〇〇度 0 以上で長時間加熱すると無水和物ある。強力なメチル化剤として、工業的にも実常があったり、正常な受精卵が激しい細胞分裂 硫酸カリウム sulfate 硫酸のカリウム塩。硫酸カリともい となるが、これは水を加えてもほとんど二水和験室的にも用いられている。 〈廣田穣〉を繰り返すのに適した環境が得られないために りゅうさんすいぎん mercury sul- 発育異常をおこしたり、あるいは受精卵の着床 う。天然にはアルカナイトとして産出する。工物に戻らない。なお空気中二〇〇度 0 以下での硫酸水銀 加熱、あるいは減圧下六〇 ~ 九〇度 0 での五酸 fate 水銀の硫酸塩で、一価および二価水銀の異常などが考えられる。近年は受精卵の染色体 bC 化合物が知られている。 化二リンによる脱水によって、可溶性の無水和 異常が多くみつけられ、注目されている。母性 物 ( 三斜晶系、比重二・四五 ) が得られる。石 ①硫酸水銀田 ( 硫酸第一水銀 ) 化学式 Hg 0 、、 原因としては、熱性感染症や糖尿病など全身疾 又 / 1 よ -0- ム 膏、焼き石膏としてきわめて広い用途がある。式量四九七・六。無色ないし淡黄色の単斜晶系患によって母体が甚だしく害された場合をはじ 9 9 7 定 1 よワ ウ 〈鳥居泰男〉 ↓石膏↓焼き石膏 結晶。硝酸水銀田水溶液に希硫酸を加えて得らめ、ホルモン作用の不良のため性器の発育不全 丿 4 りゅうさんし 0 パーチメント紙 れる。加熱すると分解する。水では徐々に加水 カ がみられる場合、精神的な原因で自律神経や内 硫酸紙 系率度 酸 & 量点点重晶折解 リュウサンジェ中国の主として広西、分解する。電池に用いられる。 分泌関係に異常をおこした場合、激しい性的興 劉三姐 硫式融ヒ ノ上結屈溶 とりわけチワン族に伝えられる伝説上の娘で、 奮や栄養のバランスがとれていない場合などの 硫酸水銀 ( 硫酸第一一水銀 ) 化学式 HgSO 、、 き一んか サンメイ サンニャン きんしゅ 業的には、カイナイト MgS04 ・ KCI ・ 3H20 、ビ山歌の巧みな歌い手。劉三妹、劉三娘ともよ式量二九六・六。無色の斜方晶系結晶。酸化水 ほか、子宮筋腫、子宮内膜症、子宮腔癒着、子 けいかん クロメライト MgS04 ・ K 9 ・ 6H20 、キーゼばれる。中国のとくに西南地方では、日本の古銀囲 HgO を硫酸に溶かすか、または水銀を過宮奇形、頸管不全症などの疾患があげられる。 うたがき ライト MgSO 、・ H20 などの水溶液に塩化カリ 代にあった歌垣に似た民俗が盛んであるが、山剰の濃硫酸と熱して溶かすと得ることができる。 なお、母児間の血液型不適合や免疫学的不均衡 ウムを加え、蒸発濃縮によって分離する方法で歌とは本来、そのような男女の集いの場で即興潮解性。熱すると黄褐色から赤色となり、さら も原因となる。これらの原因は相互に密接な関 いおう そうもんか 製造される。精製するには水から再結晶する。的に交わされる一種の相聞歌のことである。劉 に熱すると二酸化硫黄、酸素、水銀に分解す連をもち、また重複する傾向もあり、できるだ 無色の結晶。結晶には二つの変態があり、斜方三姐をめぐる伝説は多いが、いずれも、この山歌る。水によく溶ける。エタノール ( エチルアル け原因を確かめる必要があるが、それでも不明 晶系は低温型で、五八七度 0 で六方品系の高温を交わし合ういわゆる歌合戦のくだりがその柱コール ) 、アセトンに不溶である。多量の水でな場合が多い。 型に転移する。水には溶けるがアルコール、ア になっていて、劉三姐の機知に富んだ歌いぶり 加水分解して、黄色、難溶性塩の塩基性塩を生〔分類〕自然に妊娠が中絶する場合を自然流産 セトン、二硫化炭素などには溶けない。カリウがさまざまに伝えられている。広西チワン族自ずる。アセチレンからアルデヒドを製造する際といい、人為的に流産させる場合を人工流産 ムミョウバンや臭化カリウムなどカリウム化合治区では、一九五八年の全国的な新民歌運動に の触媒として用いられる。暗所に密栓して蓄え ( 人工妊娠中絶 ) という。この場合、治療目的 物の製造原料となるほか、ガラス工業の原料、続いて「劉三姐」創作上演連動が展開され、無数る。 〈中原勝儼〉で妊娠を中絶させる治療的流産をさすが、非合 りゅうざん・そうざん妊娠初期法的に行う場合は堕胎といって区別する。ま 医薬品などの用途があるが、カリ肥料としてもの山歌の収集を基礎に、種々の脚本による上演、流産・早産 に妊娠が中絶する場合を流産 abortion とい 重要なものである。ほとんど無臭で、各種の肥検討を経て六〇年に歌劇『劉三姐』がまとめら た、自然流産が同一女性に三回以上続けておこ 料と配合することができる。肥効は速効性で、 れた。歌唱の部分がすべて山歌の形式によった 、早期に中絶する場合を早産 premature de- った場合は習慣性流産と いい、以後の妊娠予後 硫安、過リン酸などとともに基肥となる。↓カュニークな民族歌劇として注目された。この舞 livery という。流産は胎児の母体外生活が不が不良となる可能性が大きいので、独立疾患と リ肥料 〈鳥居泰男〉 台では、劉三姐は、封建地主やその御用文人に可能な時期にみられるものであり、早産はそれして扱われる。↓習慣性流産 そうめい り・ゅ , つ、ん calcium 痛烈な風刺に満ちた山歌を浴びせる聡明で勇敢が可能な時期のものをさす。 臨床的には、流産の進行状態や病態から次の 硫酸カルシウム sulfate 硫酸のカルシウム塩。化学式 Ca な娘として登場している。↓山歌〈菊田正信〉 〔流産〕日本産科婦人科学会では、母体外生育ように分類される。①切迫流産流産が始まっ せつ りゆ , っさん S04 、式量一三六 dimethyl の可能な下限を現在、妊娠第二四週としておたばかり、あるいは始まろうとしている状態 ・一。天然に二水和物 ( 石硫酸ジメチル - 」う ぶんべん 膏 ) および無水和物 ( 硬石膏 ) の鉱床となって sulfate メタノール ( メチルアルコール ) と り、したがって流産は妊娠第二四週末満の分娩で、まだ子宮口があまり開いていないものをい 大量に産出するほか、岩塩鉱床、海水および硬硫酸の中性エステル。ジメチル硫酸とよばれるをさし、優生保護法による人工妊娠中絶の適用う。治療によって妊娠の継続が可能と考えられ 1 14
世紀後半までの帝政期とに三区分して説明されるのが便宜で ローマ史 共和政期 ある。この時代区分はおもに政体の変化によるが、発展の時 〔第一期 ( 前五 0 九 ~ 前一一六四 ) 〕紀元前五〇九年、ローマ人はエ 期区分としても妥当である。 〔概観と時代区分〕 なお、西口ーマ帝国滅亡後の東ローマ帝国の歴史についてトルリア系の王タルクイニウス・スペルプスを追放し、王の 〔先史時代と王政期〕 は、別項「ビザンティン帝国」を、また、ローマの法律、神権限を受け継いだ任期一年の二人の最高政務官 ( コンスル ) 一一六四 ) / 第二期 ( 前一一六四 ~ 〔共和政期〕第一期 ( 前五 0 九 ~ 前 , 話、文学、演劇、美術については、それぞれ「ローマ法」と元老院を中核とする共和政を始めた。初めの二五〇年ほど 前一三三 ) / 末期、内乱期 ( 前一三三 ~ 前三一 ) 「ローマ神話」「ラテン文学」「ローマ演劇」「ローマ美術」のは貴族と平民の身分闘争が激しく、前四九四年には平民が大 〔帝政期〕第一期 ( 前一一七 ~ 後六 0 / 第二期 ( 六九 ~ 一九一 D / 挙して聖山に立てこもり、共同体の分裂の危機を迎えたが、 第三期 ( 一九三 ~ 一一会 ) / 第四期 ( 天四 ~ 三空 ) / 西口ーマ項目を参照されたい。 平民に、平民の権利を守る護民官などの設置、平民だけの民 帝国とその滅亡 ( 三九五 ~ 四七六 ) 先史時代と王政期 会 ( 平民会 ) の開設などを認めた貴族の譲歩によってこの危 〔ローマ史の研究史〕 ローマ人以前のイタリア半島には、まずテラマレ文化と総機は切り抜けられた ( 聖山事件 ) 。このころ全市民総会の意 概観と時代区分 称される青銅器文化、それを吸収したビラノバ文化とよばれ味をもっケントウリア民会が最重要な民会として存在してい たが、これは財産額によって等級づけられた不平等な投票権 ローマ人は、イタリア半島中部テべレ川下流域に紀元前数る鉄器文化がすでに存在していたところへ、紀元前八世紀ご によって運営されるもので、貴族と平民の富裕な上層だけで 百年のころから小さな共同体集落をつくっていたが、やがてろには南部にギリシア人の植民が始まり、同じころ中北部に ギリシアのポリスと同じような構造をもった都市国家に発展エトルリア人が定住した。その後におそらく北から移住して決議が決まる差別的民会であった。前五世紀前半には、旧来 し、前四世紀初めごろからしだいに近隣の都市国家や種族をきたのがインド・ヨーロッパ語系諸族で、そのうちの一派ラの氏族を基礎にした三トリプス制を廃し、地域を基礎にした 征服し、前三世紀末には地中海西部の覇者となり、前二世紀テン人の一部がテべレ川下流域に小集落をつくった。これが新トリプス ( 区 ) 制が設けられた。区は領土の拡大に伴って 増加し、前二四一年には三五になった。ローマ市民はすべて にはすでに地中海東部をもその支配下に入れるほどの大帝国ローマの始まりで、前六世紀の初めまでに近くの七つの丘に をつくりあげていた。このような海外領土の獲得は、前一世分散定住していた彼らが集住して都市国家をつくった。考古区民として登録され、トリプス単位で投票するトリプス民会 も設置され、ケントウリア民会とトリプス民会は、政務官選 紀から紀元後二世紀初めに至るまで間断なく続き、前一一七学はこれを前五七五年以前と考えている。 この最初期の歴史については、考古学的証拠以外には伝説挙、法案決議などに関して機能を分けて運営された。↓コン 年には最大版図を実現した。それはほばライン、ドナウ両川 の線 ( 一部はそれを越える ) 、ティグリス川を越えて今日のしか残っていない。伝説は、トロヤの敗将アエネアスの子孫スル↓元老院↓聖山事件↓ケントウリア 平民に対する貴族の政治的譲歩はさらに続き、前三六七年 イランに食い込む線、それと黒海に囲まれるすべての地中海のロムルスとレムスなる双子の兄弟のうち、前者が初代の王 には、従来貴族によって独占されていたコンスル職が平民に となり、続いて、ヌマ・ポンピリウス、トウルス・ホスティ 北岸の地域、地中海東岸のシリア、レバノン、イスラエル、 リウス、アンクス・マルキウス、タルクイニウス・プリスクも開かれ、プラエトル ( 法務官 ) 職、ケンソル ( 戸口調査 ヨルダン、それにアフリカ北部の砂漠以北の地域とエジプト 官 ) 職もこれに続いて開放され、前二八七年には平民会決議 全土、さらにイングランドとウェールズを包含するものであス、セルウイウス・トウリウスおよびタルクイニウス・スペ が全市民を拘束する法と同価とされるに及んで、貴族、平民 ルプスの六代の王がたったことを語るが、この王政時代はさ った。歴史上これらの広大な地域が一つの政治的支配の下に 間の身分闘争は終わった。前四世紀以後は、貴族にかわっ まざまな徴候から北方エトルリアの勢力下に入ったことが確 置かれたことは、後にも先にもこのとき以外にはなかった。 て、コンスルを出す平民最上層の家柄と貴族とからなるノビ この大帝国は、紀元後四世紀末に東西分治が最終的に定ま実視されている。↓エトルリア人 リタス ( 名門 ) が国家の支配層となった。↓プラエトル↓ この時期には、軍事、政治、祭祀をつかさどる王に対し り、四七六年に西の帝国が事実上消滅するまでの長年月、幾 多の消長は経つつも存続した。東の帝国は、一四五三年に滅て、有力氏族の長たちの構成する元老院がこれを補佐し制ケンソル↓ノビリタス ちゅう このように貴族が平民に譲歩を続け共同体の分裂を回避し 亡するまで、コンスタンティノープルを首都として国際場裏肘したので、王の権力は独裁的ではなかった。人民は氏族 を基礎として三部族 ( トリプス ) に分かれ、各部族は一〇クたのは、この時期に近隣諸種族との戦争が続き、それに勝っ に長く威容を誇った。 ーリアに分かれた。クーリアは兵士提供の基礎とされた。重ための軍事的必要からであった。この時期の戦争としては、 ローマ帝国の支配によって、これらの地方に栄えたそれ以 前の諸文明、諸文化間の交流が生まれ、経済的交易圏として要な国事や氏族の裁量を超える問題はクーリア民会で決めら前五世紀のエトルリア人との戦い、サビニ人など東部の山地 もこの広大な地域がまとめられ、帝国以後の中近東、東西ョれたから、これがこの時期の政治・軍事組織であったわけで種族との激しい戦闘があったが、前三九六年には最強のエト ーロッパ、やがてイスラム化する北アフリカの諸地域の発展ある。人民は、特定の家柄に属し多数の被護民 ( クリエンテルリア都市ウェイイを陥落させた。しかし、前三八七年には ス ) を擁する貴族 ( パトリキ ) と、それ以外の平民 ( プレプ北からケルト人が侵入し、ローマ市に放火、略奪した。この しする素地をつくった。 この長いローマの歴史は、前六世紀までの先史時代と王政ス ) とに分かれていた。↓トリプス↓クーリア↓クリエン痛手から立ち直る間もなく、ラテン諸都市との全面戦争に入 ま り、前三三八年これに勝利を収めてラテイウムを勢力下に置碩 ろ期、それ以後前一世紀末までの共和政期、それ以後紀元後五テス↓パトリキ↓プレプス し
れいぞう ① 京円たを音がア 送したものである。一、 八三年には東京にも製うもの、ダイヤルまたは押しボタンなどによる 6 ニせ・の 東 8 っ l-—ア騒 氷会社が発足した。そして、一九〇三年 ( 明治手動式のものとがある。冷蔵庫内の冷却の方式 3 。京モさ , 一 で でれモす東ン化源タ 5 時 三六 ) には氷冷蔵庫が出現し、東京の魚河岸で には、冷気自然対流式とファンを使った冷気強 のさンや ア気電イ 和当 も売ア冷るたで用ラ 使われるようになった。家庭用の氷冷蔵庫は一制循環式がある。 る発でをあれ炎庭 年 冷凍冷蔵庫の形態は、冷凍室と冷蔵室のそれ 面たり炎内でさな家ッ 九〇七年ころに発売された。 。々よな庫徴入さ。レ た微・斯さて特封小るガ 氷冷蔵庫では、庫内の温度は一五度 0 前後でぞれに扉のあるツードア型が一般的であるが、 れはガ瓦小しが久のすシる あり、一〇度 0 以下に冷やすことは困難であっ冷凍冷蔵庫の大型化への対応および使用上での 庫さ況京の用の永ス却のき ガ冷車で 蔵売状東ス利い た。また、定期的に氷を補充する必要があっ便利性を考慮したスリードア、あるいはそれ以 冷発及にガをな庫 , て動用 普 熱少蔵しつ自使 た。氷冷蔵庫は一九六〇年代まで使用された。上の扉のあるものも登場している。冷凍冷蔵庫 庫化が冷環使 , て の冷凍室の性能は、に定められていて、 号「め蔵気障ル循をジし最近ではレジャー用にアイスポックスが利用さ た冷の故フを熱ッと 東 第 平均冷凍負荷の温度によって規定されている。 た年スそ , 館タ素化リ源れるようになってきた。↓アイスポックス 料一水気ト熱 産 , ( しカ , く 〔電気冷蔵庫〕一九一三年にアメリカで実用化すなわち、冷蔵室の温度が〇度 0 以下にならな 国気上円型めな資ポ , の一を ③電以④温がす⑤水そカ源 され、二〇年代に日本に輸入された。国産第一 い前提で、冷凍室の負荷の温度が零下一八度 0 号の電気冷蔵庫は、一九三〇年 ( 昭和五 ) に発以下のもの、零下一五度 O 以下のもの、および 売されたが、価格は七〇〇円以上で家が一軒買零下一二度 0 以下のものの三区分に分かれてい て、それそれ記号を * * * 、当、米 ) で表 えるほど高価なものであった。 ( 日本工業規格 ) によれば、電気によす。記号の呼び方は、「スリースター」「ハイツ ースター」「ツースター」とい , っ って駆動される圧縮冷凍機によって冷却され、 冷凍食品の保存期間は、食品の種類、冷凍方 冷凍食品以外の食品を貯蔵するために必要な温 度を保つことができる貯蔵室 ( 冷蔵室という ) 法、冷凍するまでの食品の履歴などにより一概 が一つ以上あるものを冷蔵庫といし 、冷蔵室を にいえないが、第区当は約三か月、図をは約 一つ以上もち、なおかっ冷凍食品を貯蔵するた一・八か月、は約一か月が目安とされてい めに必要な温度を保つことができる貯蔵室 ( 冷る。 電気冷蔵庫を据え付ける場所は、直射日光の 凍室という ) が一つ以上あるものを冷凍冷蔵庫 、これらを総称したものが電気冷蔵庫で当たらないところ、ガス台など発熱器具から離 ある、ということになる れたところ、水がかからない湿気の少ないとこ 電気冷蔵庫の原理は、液体が気化する際の気ろを選ぶ。また、凝縮器の放熱を妨げないよう に注意することもたいせつである。冷蔵庫内の 化熱を利用したもので、これに使用する液体 ( 冷媒 ) は、一般にフロンガス ( ジクロロジフ食品の温度上昇を防ぎ、電気工ネルギーを節約 ルオロメタン ) が使用される。構造は、圧縮式するためには、食品を詰めすぎたり、熱い食品 冷凍機、貯蔵室、運転制御装置からなってい をそのまま入れたりしないようにする。また、 る。圧縮冷凍機は冷媒ガスを圧縮し、そのガスむだな扉の開閉や扉の閉め忘れなどに注意する を凝縮器で液化させ、その液化冷媒を毛細管をことも必要である。 〔ガス冷蔵庫〕アンモニア水溶液を冷媒とする 通すことによって圧力を下げ、冷却器で蒸発さ せるという機能を連続的に行う。貯蔵室は食物吸収冷凍機を使用するもので、ガスパーナーで を入れる容器で、冷凍機により冷却された貯蔵冷媒を加熱してアンモニアと水とに分離し、ア ンモニアが気化する際の気化熱を利用する。こ 室内の温度が外気によって上昇しないように、 内箱と外箱の間に断熱材を入れてある。運転制の形式のガス冷蔵庫は、一九二二年 ( 大正一 一 ) 、当時スウェーデンの学生であったマンタ 御装置は、貯蔵室内の温度を適当に保っための ーおよびプランテンによって発明された。日本 装置で、温度を感知するセンサーが各貯蔵室に 道き」室用書がレを出庭 , める 海でひ氷て本とン内に家もたい 設けられており、冷蔵室は三度 0 前後、冷凍室では一九五五年 ( 昭和三〇 ) に国産化されてい 北にてし日こ テ庫やでぐて どし出「るスて舗在防れ は零下一八度 0 前後に調節できるようになってる。ガス冷蔵庫の特徴は、使用中の騒音がな しな出りに見にれ、冫店現をさ 出湖り取でを部入で。燥用 、機械的な磨耗による故障がないとされてい いる。冷蔵庫の使用時には、扉の開閉中に侵入 , 切にす録内を年また乾使 した外気中の水蒸気および貯蔵室内の食品からるが、普及の点では、電気冷蔵庫にはるかに及 。ラ 0 代いので 切季を夏は記 年て物ど の冬氷 , 室の庫 蒸発した水蒸気が冷却器に霜となって付着する れ品な 庫永のし氷そ蔵り 然湖然存。にる冷貼すてわの屋 〔電子式冷蔵庫〕形と形の半導体を銅板で ために、貯蔵室内の冷却状態が悪くなる。この 天寒天保る』き氷をやし使内し 、己で②ス冷現で庫す霜を取り除く装置が霜取り装置で、自動的に行っないだベルチェ素子を利用するものである。 ⑤
laban ( 白 ) に由来し、高山の万年雪がその語 4 ん駐留・占領車が割拠している。政府軍はキリス自然条件に恵まれているほか、バールべック神市 ( トリポリ、サイダ、ザフレ、ティール ) の ト、イスラム両教徒からなり、総兵力約二万殿などフェニキア時代以来の遺跡も多く、また 人口とあわせると、人口の半数近くが五大都市源である。アラビア語ではルブナン山脈 Jabal 4 の 人、・ヘイルートを中、いにべカー高原やトリポリ 近隣諸国への観光基地としても大きな役割を果に居住している。 Lubnän 、またはべカー高原を隔てて東に並走 などに駐留する。キリスト教系民兵にはレバノたしていた。 宗教は、多種多様な宗教、宗派が存在し、するアンティ・レバノン山脈に対して「西の山 れ ン軍団、約七〇〇〇人 ) 、南レバノン軍 しかし、一九七五年以後の内戦と政情不安に 「生きた宗教の博物館」といわれるほどである。脈」の意のガルビーヤ山脈 JebaI al-Gharbiya ( 約一五〇〇人 ) 、イスラム教系民兵にはシーアよって経済は壊滅的打撃を受けた。その原因と一九三二年以後政治的な理由で人口調査は行わとよばれる。古代からの乱伐によって減少した 派で親シリアのアマル ( 約五五〇〇人 ) 、同じ して次の諸点があげられている。第一は、経済れていないが、最近はシーア派イスラム教徒の レバノンスギも所々に群生する。山腹では小 くシーア派で親イランのヒズボラ ( 約四〇〇〇が第三次産業に依存し完全な自由貿易政策をと増加が目だっている。各宗派別の推定人口は、麦、大麦、ブドウ、果樹などが栽培され、高山 人 ) 、派 ( 約四〇〇〇人 ) などがある。 〈末尾至行〉 ったため、国内の農業や工業はまったく保護をイスラム教が、シーア派一〇〇万人、スンニー 地帯にはスキー場がある。 外国人部隊はイスラエル軍約二五〇〇人、シリ 与えられず、生産性が向上しなかったことであ派六〇万人、ドルーズ派三〇万人、キリスト教レハール Franz Lehår ( 天七 0 ー一九四 0 ア軍約二万五〇〇〇人、国連レバノン暫定軍る。第二は、階層別、地域別、宗派別の所得分徒は、マロン派六〇万人、ギリシア正教一五万オーストリアの作曲家。一八七〇年四月三〇 約五八〇〇人が駐留している。 配の不均等である。就労人口の約五 % にすぎな人、ギリシア・カトリック二〇万人、アルメニ日、当時ハンガリー領だったチェコのコマロム このほか左派イスラム勢力のさまざまなゲリラ い高所得層が国民総生産の約半分を支配し、四ア正教・カトリック二〇万人、プロテスタント に生まれる。軍楽隊隊長の父に音楽の手ほどき 組織がある。 〇 ~ 五〇 % を占める農民や労働者は、国民総生五万人となっている。 を受けたのち、プラハ音楽院でバイオリンと理 レバノンはまた、北アメリカ、アフリカ、ヨ 一九八五年一二月、レバノンの主要民兵組織産の一二 ~ 一五 % にとどまっていた。地域格差 論を学ぶが、ドボルザークの勧めで作曲を目ざ ーロッパなどに多くの移民を送り出してきたこすようになる。トリエステ、プダベスト、ウィ の、アマル、派が、①内戦の終結、も大きく、べイルートなど一部の大都市に産業 ②イスラム、キリスト両教徒の平等、③大統領 が集中し、シーア派イスラム教徒の多い南部は とで知られる。レバノン移民は、移民後二世 権限の縮小を骨子とする和平協定 ( ダマスカス発展が遅れた。さらに、宗派別の格差が加わり代、三世代を経ても、レバノンに残る親類と密 合意 ) に調印して、レバノンの政治改革の方向事態をいっそう複雑にした。一般的にはマロン接な関係を保っており、移民からの送金は重要 ぎゅうじ を示したが、内部の反乱によって和平協定派キリスト教徒が経済を牛耳り、イスラム教徒な収入源となっている。近年は中東産油国への は実施できなかった。八七年二月、西べイルー より高い生活水準を維持していた。第三は、第移住が目だち、政府顧問、事務員、計理士、技 トでアマルと派などが武力衝突したのを三次産業を中心とするレバノン経済は外的要因師、商店主など、ホワイトカラーとして活躍し 機にシリア軍が進駐し、シリアの仲介でアマル に影響を受けやすいという体質的弱点をもってている例が多い とは和解し統一解放戦線が結 いたことである。たとえば、一九七三年以後の 教育水準は高く、就学率は八〇 % でアラ。フ諸 レ 成された。この間 一九八六年九月 ~ 八七年九オイル・ショックでは、オイル・マネーの流入国では最高である。大学は一九世紀に設立され 月のアマルによる難民キャンプの武装包囲、八 により金融界など一部の特権階級は潤ったが、 たアメリカ・べイルート大学、サン・ジョセフ ーンなどで軍楽隊指揮者を務め、各地を旅行し 七年六月のカラミ首相暗殺事件、相次ぐ外国人インフレが国民生活を圧迫し低所得者層の間で大学のほか、レバノン大学、べイルート・アラ た経験が、彼のオペレッタを変化に富んだもの 誘拐事件、八八年五月のアマルとヒズボラの戦不満が高まった。レバノンの内戦の原因は、イプ大学の四校がある。一八五八年にアラブ世界にしているという。一九〇二年の『ウィーンの 闘などが続き、事態は混迷化の一途をたどってスラエルの建国によるパレスチナ難民の流入、 で最初の新聞が発行されて以来、中東地域の情女たち』の成功以降ウィーンに定住。〇五年の イスラエルやシリアの介入など外的要因が主因報センターの役割を担ってきた歴史をもち、新『メリー・ウイドー』の大成功で世界的名声を 〔経済・産業〕一九七五年以後の相次ぐ内戦やであるが、それに伴う経済の悪化が混乱に拍車聞、雑誌の種類はきわめて多い。主要紙は中立博し、以後、ヨハン・シュトラウス以降でもっ イスラエルの占領などによって、レバノンの経をかけている。 系の『アンナハル』、保守系の『アンアンワとも成功したウィーン・オペレッタ作曲家とし 現在の産業は果実、野菜、畜産などの農業生ル』、左派系の『アッサフィル』などである。 済は極度に悪化している。内戦以前は自由港ペ ての地位を確保した。四八年一〇月二四日バ イルートを中心とする中継貿易と金融業、観光産が中心で、金融、流通など第三次産業はその放送は国営べイルート放送、国営レバノン・テド・イシェルで没す。そのほかの代表作に『ジ 収入、海外移住者の送金などの貿易外収入が多機能を喪失している。一九八二年の国内総生産レビのほか、各宗派が独自のラジオ放送局をもプシーの恋』 ( 一九一 0 ) 、『バガ一一 っている。 、国内総生産の約七〇 % を第三次産業に依存は二六億五六〇〇万ドルで、構造的な国際収支の 〈高橋和夫〉『ロシアの皇太子』 ( 一九一一七 ) 、『ほほえみの国』 していた。とくに金融業の発展は著しく、一九赤字が増大し、物価が上昇、経済の停滞が続い 回小山茂樹著『レバノンーーアラブ世界を映す ( 一九一一九 ) 、そしてワルツ『金と銀』などがある。 かわせ ↓メリー : ウイ、トー 鏡』 ( 中公新書 ) ▽荒田茂夫著「レバノン 〈細川周平〉 五二年に為替制限を撤廃し、銀行秘密法によっている。貿易は輸出八億八六〇〇万ドル、輸入三 て金を含む金融活動を自由化するなど完全な自六億一五〇〇万ドル ( 一九会 ) で、大幅な入超が続 危機のモザイク国家』 ( 一九会・朝日新聞社 ) レバル一アイ、、、エント repartimiento いている。おもな輸出品は果実、繊維、輸入品 ▽・・ヒッティ著、小玉新次郎訳『レバ 由経済政策をとっていた。また中継貿易の柱と スペイン語で「分配」「割当て」を意味するが、 は機械類が中心である。 して、アラブ産油国の石油輸出基地となり、イ ノンの歴史』 ( 一九七七・山本書店 ) ▽板垣雄三 スペイン史上とくにレコンキスタ ( 国土回復戦 ラクのキルクーク油田やサウジアラビアの油田 〔社会・文化〕住民の大部分はセム系のアラビ 編『中東ハンドブック』 ( 一九全・講談社 ) 争 ) とアメリカ植民地形成期における土地分与 さんみやく Lebanon 方法およびその土地をさす。レコンキスタ時代 からトリポリなど地中海岸へのパイプラインをア人で、公用語はアラビア語である。一部でアレバノン山脈 ルメニア語が話されるほか、かってのフランス Mountains レバノンの中央部にある山脈。 には、アラゴン、アンダルシア、マジョルカ、 建設し、多額の通過料を得ていた。しかし、こ れらのバイプラインは、イスラエルの占領と内支配の影響で、上流階層ではフランス語も普及地中海岸と並行してほば南北走する。延長約一一 レバンテなどの地方において行われたが、一三 戦によって切断され現在は使用されていない している。人口の都市集中が激しく、総人口の四〇キ。。最高峰はクルナ・アル・サウダ山 ( 三 0 世紀後半、アラゴン王ハイメ一世がイスラム教 / / トル 観光も重要な産業で、避暑地、避寒地としての約三分の一がべイルートに集中し、他の四大都 メー ) 。レバノンの名は古くアラム語のラバン徒から土地を回復したとき、部将に割当地を与
れす レース / 歴史 ・グループ << 大量生産ツーリングカー。生産由 ) ・レーシングカー。各国独自のフォーミュ 造である。これはアルミニウムの五倍もの強度まれたのもこのころである。一六世紀ごろにな 台数五〇〇〇台以上。四人乗り以上。公認強化 ラ・レーシングカー。アメリカの ( イをもち、したがって同じ強度なら重量を五分のると、豪華な刺しゅうから清楚な衣装へと関心 。ハーツで五〇 % 程度の出力アップ可、公認ェア ンディ 500 など ) がこのグループに入る。 一にできる。この新素材によって初めて一〇〇が変わり、布地を四角や丸角に切り取って糸を ロバーツ ( 空カ特性を向上させる部品 ) 装着 このほか各国に独自のレギュレーション ( 規〇馬力に耐えるボディーが可能になり、また一渡してかがる「レチセラ」、さらに布地に制約 可。〈参加できる競技〉世界ツーリングカー選則 ) によるレースがあり、そのためのレーシン つのボディーで年間の十数回のレースに使えるされない「プントインアリア」から、ニードル 手権 (>+O) 、世界ラリー選手権 (>xo) 、グカーが存在する。 よ , つにもなった。。 : ホティー形状はもちろん風胴ポイント・レースへと発展した。 全日本ツーリングカー選手権。 〔現代のレーシングカー〕性能の限界を競うレで決定されるほか、サスペンションともども、 フランスのルイ王朝では、豪華なレースが宮 ・グループ量産スポーッカー。生産台数二 ーシングカーは、その時点における最先端の技サーキットごとに微妙に調節される。 廷衣装として不可欠のものとなり、男性もレー 〇〇台以上。二人乗り以上。〈参加できる競技〉術を駆使して設計・製作されている。なかでも 一九八八年現在ののターポ付きの場合、 スを使用するなど、大量のものが要求され、各 世界スポーツ・プロトタイプ選手権 (> 一レースの走行距離が三五〇キ。メートル程度燃料タンクは一五〇に制限されているので、 地で独得のレースがレース職人によってつくら で、スプリントレースの性格の強いに著し過給圧をあげて走るとガス欠をおこす危険性がれた。また、婦人のたしなみとしてレース作り グループ 01 ( 0 2 ) スポーツ・プロトタ 一九八六年までは短距離のプラクティスある。そこで車載のコンピュータで精密に燃料が広まり、現在のレースの諸技法はこのころに イプ。生産要求なし。二座席。エンジン / 排気 ( 公式予選 ) ではターボの過給圧を六 ~ 七バ 消費量を測定・計画し、過給圧を調節してい 確立されたといっていし やがてフランス革命 量自由。最低重量八五〇 ( は七〇〇 ) キ。グルにもあげ、瞬間的には千数百馬力にも達し、 る。このほかエンジンの調節をはじめとして各が起こり、レースの需要は激減してレース職人 ラム。一〇〇〇キ。メートル・レースの燃料消費レースでも一〇〇〇馬力を超えていた。しかし部にマイクロコンピュータが使われている。な は失業するが、手作りのレースは婦人の趣味と 量五一〇 ( は三三〇 ) 以下。〈参加でき安全性の見地から八七年以降、過給圧を四バ かには、サスペンションにまでスプリングを使して続けられた。 る競技〉世界スポーツ・プロトタイプ選手権ルに規制し、さらに八八年以降は過給圧を二 わず、コンピュータで瞬間的に油圧を調節する〔日本のレース〕わが国のレースは奈良時代ご ろしゃ ( 例、ル・マン二四時間 ) 、全日本スポーツ・プ五バール以下に規制を強めたが、それでも七〇方式を採用しているものもある。現代ののろから羅、絽、紗などの織物類が装束や着尺と ロトタイプ選手権。 〇馬力以上で、ほば同重量の軽自動車の二〇倍最高時速は、三五〇キ。メートルを超えている。 してつくられ、寺院の飾り結び、馬具の七宝結 グループフォーミュラ・レーシングカ にも達する。八九年からはターポチャージャー ↓自動車レース 〈高島鎮雄〉びなど、わすかに使用されている。 おうど 。生産要求なし。一人乗りで、四本の車輪が が全面禁止されるが、現在はターポなしの三五レス 0 黄土 現在のいわゆるレース類は、明治の文明開化 ろくめいかん 露出しているもの。 〇〇 8 と混走している。 レース lace 糸を操作することによって透に 伴い外国から伝来したもので、鹿鳴館時代の ①フォーミュラ 1 一二気筒以下で、ターポ このパワーを可能な限り路面に伝えるためかし模様をつくりだしたもの。その技術とくふ欧風衣服の使用、洋服の普及とともに、レース 付き一・五以下、ターポなし三・五以 に、重いエンジンを後輪直前のミッドシップに うにより模様は複雑、多様になる。また布地に透編は婦人の教養として普及した。糸、羊毛など 下。重量ターポ付き五四〇キ。グラム以上、タ積むほか、ボディー形状のくふうや、ウイングかし模様でつくった刺しゅうもレースとよぶ。 の輸入とともに技術書も輸入され、日本人好み ーポなし五〇〇キ。グラム以上。レース。 などさまざまな空気力学的付加物により、高速〔歴史〕エジプトやインカの遺跡から、糸を巻の繊細さが、やがて手内職として全国的に普 ②フォーミュラ 3 0 0 0 ( 一九八七年時点のでは強、ダウンフォース ( 路面へ押さえ付ける いたポビン ( 糸巻 ) や精巧なレース織が発見さ及、レースを逆に輸出するまでになった。第二 フォーミュラ 2 に相当 ) 一二気筒以下、タカ ) を得ている。タイヤも後ろは一八インチれ、欧州各地からスプラング ( 渡した糸をねじ次世界大戦後、衣服としての編物、レースが必 ーポなし三以下、五四〇キ。グラム以上。 ( 四五七・二ミリメートル ) の制限幅に近い超幅 ってつくるレース ) が発掘されている事実か要となり、新しい糸、素材の開発に伴い、それ 3 0 0 0 レース 広で、路面に粘着するような軟らかい材質を用ら、古い伝統と歴史をもっていることがわか にあわせた各技法のレースが流行するようにな ③フォーミュラ 3 四気筒以下、ターポなし 、滑り止めの模様のない、スリックである。 る。一五世紀ごろには修道院の尼僧の日課とし っている。 二以下のグループエンジンを用いる。四 ボディーはアルミニウムが長い間使われてい てつくられ、繊細で華麗なレース類が考えられ〔レースの種類〕〔ニードルポイント・レース〕 五五キログラム以上。レース。 たが、現在ではカーポンファイバーやケ。フラー た。網地をつくり模様の箇所を埋めるフィレ・ 縫針を使うもので、厚手の紙または固めの布に グループフォーミュラ・リプレ ( 自を用いた繊維強化プラスチックのモノコック構レース、ドロンワーク、カットワークなどが生模様を描き、輪郭線に糸を沿わせて別糸で留め ) 当・、ト勗、ミ 0 16 世紀ころ豪華な刺しゅうから清楚な衣装へ ドルポイント・レースへ発 と変わった 展したレチセラ ( 上 ) , ポビン・レースに発展 したプレード・レース ( 下 ) 373
、。旨時代に身を挺しながら現実的に対処して志士の 設が墓以外の形で存在する例は珍しくなし言 民が墳丘に立ち入ることができず、研究対象外所が多いが、数年、十数年後という土地もある。 さっちょう ひがん り墓に移ったあとも、盆や彼岸などには両方の道を歩む。が、薩長連合を成立させ、大政奉 両墓制の個々の事例の成立事情は単純ではな とされ、古墳研究の進歩を大きく阻んでいる。 い。明治以後、墓地を整備したために、埋め墓墓に詣るなど、埋め墓が単墓制の墓とあまり違還へと時代の流れを導きながら、維新の達成を 天皇陵は一八九〇年 ( 明治二三 ) までに決定さ 見届けることなく暗殺された。「日本史が所有 と詣り墓の別が生じたという例もある。しかわない扱いを受けている場合もある。 れ、陵墓参考地はそれ以降一九四〇年代までに 葬ることを古語でハフルというのは、捨てるしている〈青春〉のなかで、世界のどの民族の し、宗教的に両墓制を支えているのは、遺骸は 決定されたが、その比定は、実在したとすれば たしらか 前に出しても十分に共感をよぶに足る青春は、 六世紀前半の人である体天皇皇后手白香皇后れているが、ある期間を経た死者の霊魂は清という意味で、埋め墓は遺骸を放棄する施設の なごり こしとのづか 陵に四世紀前半の叫殿塚古墳 ( 奈良県天理市 ) 浄なものとする観念であろう。日本の葬法は本名残とする考えもある。現に埋め墓を埋葬後ま坂本龍馬のそれしかない」という気持ちで書い こ . 午ー 0 〈都築久義〉 ったく顧みないという例もあるが、数も少な ↓古墳↓大山古来二重葬的で、古く「もがり」などとよばれた をあてるなど矛盾が著しい こんだやま く、これを重視することはできない。ただ埋め回『龍馬が行く』全八巻 ( 文春文庫 ) 〈今井堯〉仮葬と、本格的に遺骸を処置する本葬との二段 墳↓誉田山古墳 り・よ、つ こうマンガンの 菱マンガン鉱 回原島礼二・今井堯他著『巨大古墳と倭の五階があった。埋め墓での死後の供養は仮葬での墓に捨てたとも考えられない。埋め墓から骨だ 王』 ( 一一・青木書店 ) ▽森浩一著『巨大古供養に相当し、忌みのかかった親族が穢れのあけを収め、詣り墓に改葬する葬法もあり、さら鉱石鉱物の一つ。わが国ではおもに中生代の珪 りゅうきゅう には琉球諸島の洗骨葬の問題とも関連してく 墳の世紀』 ( 岩波新書 ) ▽石部正志・宮川後る遺骸に近づいて供養を行った形をとどめてい 全 『「天皇陵」と考古学』 ( 『岩波講座日本考古る。埋め墓は、地上葬であった仮葬が本葬のよる。埋め墓は遺骸供養の信仰に、詣り墓は死者 学 7 現代と考古学』所収・一九会・岩波書うな埋葬に変化したために生じたとも考えられの霊魂祭祀の信仰にかかわっている。埋め墓に , ス向 る。詣り墓に移るとき、埋め墓の土をすこし持は、石を円形に並べて中央に石を一つ立てたも 店 ) 5 7 佻ラ方 0 亠刀 えんすい ・淡ガ白三 両墓制 りようばせい日本の墓制の一つ。土って行くという習俗が広くみられるのは、仮葬のや、小さな丸石を円錐形に積み上げたものな鉱市三 ン ど、古風な墓のしるしと思われる形態のものが 葬を基調とする墓制で、一人の死者のために遺地から本葬地への遺骸の移動に対応している。 名式 カ英成 〈小島瓔禮〉 詣り墓は墓石によって標示されることも多ある。↓洗骨 骸を埋葬する墓 ( 埋め墓 ) のほかに、供養のた ン . 組分系 マ名学成品度重沢痕開 、両墓制は、庶民の間に墓石が普及したと回最上孝敬著『詣り墓』 ( 一九五六・古今書院 ) めに詣る墓 ( 詣り墓 ) を設ける。遺骸を埋葬し しばりようたろう 菱学ヒ イ副結硬比色光条劈 りようまがゆく司馬遼太郎の長 き、埋葬地とは別の場所に墓石を立てたために た墓で供養を続ける単墓制に対して両墓制とよ 龍馬が行く たいせき ぶ。事例はおもに関東から中国、四国地方に分生じたとする見方もある。詣り墓には仏教信仰編小説。一九六二年 ( 昭和三七 ) 六月から六六質堆積岩中に鉱層をなし、またある種の熱水鉱 ~ 六脈鉱床の鉱脈を形成し、いずれの場合も鉱床と 布し、東北、九州地方にはきわめて少ない。死の影響を受けた、死者の霊魂を供養する聖地の年五月まで『サンケイ新聞』に連載。六三 して稼行される。自形結晶は菱面体で比較的単 六年文芸春秋新社刊。「坂本の泣き虫」とばか 後一定期間だけ埋め墓に詣り、それ以後は詣り性格が強い。詣り墓に髪や爪を葬るというの こうやさん にされていた龍馬は、江戸に出て北辰一刀流を純である。前者の鉱中の産状では、マンガン 墓に詣るというのが一般の傾向である。初七は、高野山など寺院の納骨堂に髪や爪を納めて の酸化物、ケイ酸塩などとともに高品位鉱を形 日、四十九日、百か日、一周忌など、死後一年の死後の成仏を願うのと共通している。単墓制で学び、国に帰って土佐勤王党に加わり、長州に くさかげんずい 間の法事を機会に、詣り墓に供養の中心を移すも、供養堂など詣り墓に相当するような供養施久坂玄瑞を訪ねて脱藩を決意し、やがて激動の成することが多く、後者の鉱脈では、鉄、亜 塚 地市地 塚 塚 度 塚 立ロ 地陪 地 考大考 地地宇地地地陪 考号 考地参陵姫参 地 塚号 考地考陵命地考考考号地 ほ陵 陪と 参考墓山襲墓 参は命 陵参考参后彦考参参参 陵陵陵墓参陵陵津百陵陵陵陵陵陵陵陵陵后陵后墓参墓皇入参墓陵墓墓陵陵陵参陵陵墓陵陵彦墓陵参陵陵陵陵 作 皇皇皇陵墓皇島仲日后辺皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇陵墓夋姫敷墓陵尊陵陵皇皇皇墓皇皇陵皇皇津王皇墓皇皇皇皇墓 名天天天塚陵天褫命迹皇奈天天天天天天天香天媛辺陵第酢瓊陵鳥武穂穂天天天陵天天塚天天親天陵天天天天命 墓徳神中大傍行百姫迹功和城神哀体恭仁神白務之奈園井葉十吉舌本狭狭正行明部化徳大神閑吉予達山賢寧神徳彦 陵仁応履西畝景東仲倭神宇平崇仲継允垂応手成磐小磐藤日五三百日雌雄反景欽雲宣称東崇安大伊敏郡仁清応仁倭 4 員 在阪阪阪阪良良阪阪良良良良良阪阪阪良阪良良良良良阪良阪良阪阪崎崎阪良良庫良良良良阪山都阪良阪阪阪阪良 所大大大大奈奈大大奈奈奈奈奈大大大奈大奈奈奈奈奈大奈大奈大大宮宮大奈奈兵奈奈奈奈大岡京大奈大大大大奈 青員 ′ィーノイー 末中 前後中 後中中後 末後中 ′ィー 中中前前中後末初初中中前後末中後末前前後中前初末後後中中末前末後中中初後後前前末中末前末前後 . 紀己 , 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀己 , 紀 . 紀 . 紀 , 紀 . 紀 . 紀紀 , 紀 . 紀 . 紀衂礼 . 紀 . 紀衂礼 . 紀 , 紀 . 紀 . 紀コし . 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀 . 紀紀 . 紀 . 紀衂礼 . 紀 , 紀 , 紀 , 紀 . 紀 方 名営 世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世世 . 墓造 -. 0 -. 0 ^ 0 ・ 4 戸 0 戸 0 -4 -4 -. 0 LO ・ 4 -0 -0 -. 0 ・ 4 ・ - -0 4 -4 戸 0 -0 -4 ・ -4 【 0 - -0 - -0 -0 L.n ・ 4 《 0 《 0 陵 -4 ・ 0 11 0 - -0 ワワ」ワ】 -8 t—•— LO ・ 0 り 0 -0 -8 / 0 ワ】 1 4 -4 8 0 0 -8 「ー 00 ワ」っ・】 -0- ・ 0 -0 0 -0 - 血 - ー応 と長 , -8 ワ】っ 0 11 -0- -8 「ー -. 0 -4 -4 ・ワ】ワ】ワワんり・】 11 イ 1 1 よ 1 よ -0- -0- 0 「ー -4 -4 4 っ 0 っ 0 ワんワワワ」ワ】ワりんワ】、 1 -0 -0 -8 ・ー っワワ】ワ】ワワワ】ワ朝ワ】ワ】ワワワ】ワ】ワっワ】ワ 3 ワ】ワ】 1 1 “ 1 人 11 1 1 よ 1 よ 1 よ 1- ・ 1 人、 1 1 人 14 1 人・ 1 、 1 、ー - 、 1 1 よ 1 ・ 1 よ 1 よ 方 墳入王 4 4 3 3 3 3 古 墳 要 主 墳一 墳古墳墳墳 墳墳 イ墳 山墳墳墳墳墳墳墳 ま 古墳墳サ ( 墳墳古イ古古古墳古古 墳墳サ古墳墳墳墳墳墳古墳墳築古古墳古古古古古後 墳墳山古古ン墳墳古古 * 山サ山山山古墳山山墳古古ン山墳古古古古墳古古才古①古 ) 山塚古山山山山山防 墳古古塚山山サ古古山 ~ 墳燈ン臼ノ来山古塚ゲ古墳山山サ木古塚塚塚山古山塚三塚墳山臼金山本ケ髪「墳桝 よ墓墳山田津内瀬谷師ッ中社ワ庭本ミ田府池田殿紀シナ山堂紀輪吉廟里狭狭出ノ田部屋紀山ン屋山治子山中浦田山越 り・陵古大誉石河見渋土仲箸五ウ市柳岡太国西誉西佐ヒコ築津佐淡三御軽女男田上平雲鳥佐新ア高中宇太郡野西誉永北注 ナいたい だいせん 菱マンガン鉱 〔左〕北海道楯倉石鉱山は 0.4 ) 〔右〕南アフリカ共和国産 ( xl .8 ) 167
わ五十音図第一〇行第一段の仮名で、平仮中心とする西日本と考えるのが妥当である。四ワイアシュトラース Karl Weierstrass - 一うくり そうじよ 名の「わ」は「和」の草体からでき、片仮名の世紀末の高句麗好太王碑文、五世紀の「宋書』 ( 天一五ー九七 ) ドイツの数学者。ミュンスターに やまと つくり 「ワ」は「和」の旁からとも、「 輪」の符号倭国伝の倭は大和王権と考えるのが一般的であ近い小さな町オステンフェルデに生まれる。父 る。倭はやがて「ヤマト」と訓じられ、大和をは期待を寄せ、ポン大学へ進ませた。そして政 「〇」からともいわれる。万葉仮名では「和、 ラカ 宛、沆、倭、渦 ( 以上音仮名 ) 、丸、輪 ( 以上示す語となった。七世紀後半以降、わが国の称治学を学ばせようとしたが、彼は、プリュッカ トア ーの新しい方法による幾何学の講義以外は何も 訓仮名 ) 」などが使われた。ほかに草仮名とし号は日本となるが、倭と日本の関係について ュ学 くとうじよ シ科 『旧唐書』は、「日本国は倭国の別種なり、其の聴かず、卒業の見込みもないまま郷里へ帰っ ては「わ ( 和 ) 」「み ( 王 ) 」「 ( 〇 ) 」「第 ア あるい イ 国日辺に在るを以って名となす。或は日う。倭た。ついでミュンスター大学でギムナジウムの ( 倭 ) 」「れ ( 輪 ) 」などがある。 ワ 音韻的には /wa/ で、両唇を狭めて発する有国自ら其の名の雅ならざるをみ、改めて日本教員資格検定試験の準備を始めたが、ここでも 樹立した。そして、これを土台としてアーベル と為す。或は云う。日本は旧小国、倭国の地をグデルマン Christophe Gudermann ( 一七九〈 声摩擦音 Cw 〕を子音にもつ。平安時代中期以 関数の統一的研究に入った。 〈関和彦〉天五一 D の数学の講義に出ただけで、他の講義に 彳謡頭以外の「は」はワと発音されるのが原併す」と論じている。 だえん もっとも簡単な楕円関数として「関数」を 則となったが、現代仮名遣いでは、助詞の回鈴木靖民著「古代国家史研究の歩み』 ( 一九は出ていない。グデルマンのべき級数を用いる 〈 0 ・新人物往来社 ) ▽関和彦著『邪馬台国方法はワイアシュトラースに大きな影響を与え解析的に構成し、「任意の楕円関数は関数で 「は」を除いて、みな発音どおり「わ」と表記 た。一八四一年、検定試験に合格したが、数学表現することができる」ことを証明し、楕円関 〈上野和昭〉 されている 論』 ( 一九盒・校倉書房 ) へきち ワイ英語アルフア・ヘットの第二五字。起教員の職はなく、僻地のギムナジウムで体操の数を研究するには、 2 関数を研究すれば十分で 倭わ wi と発音された可能性がある。本来 的には七世紀以前の中国・朝鮮での日本に対す源は、ギリシア語において母音字イオタ ( — ) と教員となった。彼は一五年間、体操を教えながあることへ導いた。超楕円積分 る呼称であるが、冊体制内で自称国号としてなり、英語アルファベットの—になったセム文ら、アーベル関数を研究した。その研究成果の ト R ) 一部が「アーベル関数論について」と題してク も援用された。倭の字は委とも表記される場合字の yodh までさかのばる。の字体は、セ (R(z) は五次以上の多項式 ) レレ August Leop01d Crelle ( 一大 0 ー一会六 ) が があり、意味は一人称の吾 ( わ ) 、従順な人、ム文字の waw から発達したギリシア文字の の逆関数 ( アーベル関数 ) において、五次と六 などの見解があるが不明。倭に関する史料上のイプシロンに由来している。ラテン語において発行している数学雑誌の一八五四年号に出たの しん せんがいきよう 初見は中国の地理書『山海経』 ( 戦国 ~ 秦・漢は、紀元前一世紀のギリシア征服以後、ギリシをケーニヒスペルク ( 現力リーニングラード ) 次の場合は解決されているので、ワイアシュト ろんこう えん ラースは、 R(z) が任意の次数の場合に取り組 時代成立 ) の「倭は燕に属す」、雑家書『論衡』ア語からの借用語を取り入れる際、音を表記大学のリシェロト Friedrich Julius Richelot 〈小堀憲〉 ( 九 0 成立 ) の断片的記事であるが、実態はわかするのに用いられ、 N とともにアルファベット ( 天一六ー全 ) が賞賛し、五六年この大学から名み、これを解決したのである。 かんじよ っていない。『漢書』地理志には「楽浪海中に の最後に加えられた。化学ではイットリウムの誉博士を受けた。同年秋、ベルリン大学助教授ワイアシュトラースの多項式近似定 のたこうしききんじていり polynomial 元素記号を表し、数学ではエに次ぐ第二の末知になり、六四年には教授に昇格、また各国の科 倭人あり、分かれて百余国」、『後漢書』東夷伝 理 ばかり 学アカデミー会員に迎えられた。 approximation theorem Of Weierstrass には「使駅漢に通じる者、三十国許」「建武中数であり、座標平面では縦軸を表す。中世ロ なこく ワイアシュトラースのライフワークはアーベ有界閉区間をで定義された連続関数 f(x) 元二年、倭の奴国奉貢朝賀」などとみえ、中国 ーマ数字では一五〇を示す。日本の通貨単位 ル関数の研究であった。一。 彼よ「一般の関数」に は、ズの多項式によって、いくらでも近く一様 「円」の略号として¥が用いられる。英語では、 王朝下の冊封体制において倭の「国」々が統合 に近似される、という定理。 されている過程がうかがえる。『三国志』魏志接尾辞として種々の用法があり、動詞から行為ついて直観に頼ることを極力避けて追究し、複 すなわち、正の数。 ) を任意に与えるとき、 倭人条を根拠に、近年、朝鮮南部も倭とする見を示す名詞 (inquiry など ) をつくったり、名素数が変数の場合には、グデルマンの方法に倣 たいほう べき級数を出発点とし、「関数要素」とその適当な多項式、 0 ) をとれば、、〕のどの 解が出されているが、「倭人は、帯方東南大海詞から形容詞 (healthy. dreamy など ) をつ よ くったり、名詞につけて愛称を示す (dolly, れの「解析的接続」を導入して、「解析関数」点においてもメこー、 0 ) 入のであるように 中に在り、山島に依りて国邑を為す」などを細 かに検討すれば、倭は九州・四国・中国地方を Johnny など ) 際に用いられる。〈斎藤公一〉を定義してワイアシュトラース流「関数論」をできる。 0 、一くゆう とうい 平仮名〔和〕をわわわ いワ 片仮名〔和〕 ( 旁から ) ヘ一ィミ「 700