ストラバック 岡山天体物理観測所 通商産業省 タイガー販売 小林しおり 写研 ダイキ 野辺山宇宙電波観測所 機械技術研究所 蛇の目ミシン工業 住友金属鉱山 駒沢大学図書館 理学部 工業技術院 大京観光 ジャパンサイエンスプラン住友重機械工業 五味清 動物学教室 コミュニケーション・ ニング 大京管理 築地市場おさかな普及 角屋 シャープ 附属臨海実験所 センター資料館 エンジニアーズ タイ大使館 清家清 東京タンカー 月田美都子 大日本印刷 昭栄社 静甲 五洋建設 東京電力技術研究所 堤俊夫 セイコー電子工業 大日本蚕糸会蚕糸科学 コロナ社 翔企画 東京都家具商業組合 綱田工業 研究所 成山堂書店 埼玉県立伊奈学園高等学校彰国社 東京都庁 椿本興業 大日本山林会 埼玉新都市交通 湘南モノレール 製品安全協会 椿本チェイン 環境保全局 大日本スクリーン製造 尚文社 西武鉄道 斎藤一三 業務部普及課 鶴崎展巨 大洋漁業 酒井重工業 照明学会 聖文舎 下水道局 鶴見精機 高尾山電鉄 酒井玲子 昭和写真製版所 製本工房リー。フル ディズニー・トラベル 港湾局 高木誠 白石行正 世界野生生物基金 酒巻忠雄 センター 水産試験場 高島機械 城田鉄工 日本委員会 櫻井欽一 清掃局 高橋カーテンウォール工業帝都高速度交通営団 佐々木硝子 新エネルギー総合開発機構石炭技術研究所 土木技術研究所 高森寛子 鉄鋼産業研究所 佐々木四元一 進化生物学研究所 関戸順一 東京都立衛生研究所 鉄道ジャーナル社 匠建築設計事務所 神宮司庁 石油鉱業連盟 サスナ服部商店 鉄道総合技術研究所浮上式東京都立大学 竹村望 新星図書出版 石油連盟 薩摩雅登 附属図書館 竹村嘉夫 鉄道宮崎実験センター 三起製作所 新東京国際空港公団 全国家具工業連合会 牧野標本館 寺田製作所 全国漁業協同組合連合会田坂小夜子 三協精機製作所 新日本海フェリー 理学部遺伝学教室 電源開発 田代工業 全国自動ドア協会 新日本製鐵 産業報知センター 東京モノレール 電子部品 多田信作 全国畳床工業会 三條機械製作所 新日本ナムラスケール 東京ライフル 天然ガス鉱業会 たたみ新聞社 全国段ボール工業組合 三省堂 新日本。フロック 東京リコー販売 デンマーク大使館 立川プラインドエ業 新明和工業 連合会 サンポックス企画 ドイツ民主共和国大使館東京流機製造 立石電機 シンワ測定 全国燃料協会 三友社 ドイツ連邦共和国大使館燈光会 立石友男 水産大学校 全国農村教育協会 三洋測器 東芝 東亜潜水機 水産庁 全国農村青少年教育振興会田中工業 三洋電機 東芝タンガロイ 田中英夫 東海カーポン 遠洋水産研究所 全国母子健康センター 三楽 東芝電池 東海大学 田中冨久子 三和銀行 東海区水産研究所 連合会 東陶機器 桃花台新交通 合ロ汎邦 三和シャッターエ業 養殖研究所 線材製品協会 東邦レーヨン 東海旅客鉄道 合朋子 スイス大使館 全日本空輸 塩谷茂 東北大学理学部付属地震 東京急行電鉄 田畑貞寿 水道協会 全日本初生雛鑑別協会 重田誠 予知センター 玉川大学ミッパチ研究所東京航空計器 スウェーデン大使館 全日本畳組合連合会 四国旅客鉄道 東洋スプリンクラー 東 ~ コカ・コーラボト 田村享 船舶技術協会 静岡県柑橘試験場 菅原研究所 リング 動力炉・核燃料開発事業団 田宮玩具工業 綜合警備保障 自治省消防庁救急救助室菅原操 東レ・エンジニアリング 東京市政調査会 田宮模型 シチズン時計 杉田バルプエ業 相互産業 道路施設協会 東京自働機械製作所 象印魔法瓶 俵谷郁三 杉山英男 品川白煉瓦 同和鉱業 チェコスロパキア社会主義東京水産大学 造水促進センター 至文堂 椙山八重造 十和村役場 東京大学 共和国大使館 島津製作所 鈴木自動車工業 トキワ工業 ソニーサウンドテック 応用微生物研究所 千葉都市モノレール 四万十川中央漁業協同組合鈴木幸雄 得能寿美 海洋研究所 ステンレス協会 ソビエト社会主義共和国中華人民共和国大使館 清水伸一 図書印刷 東京天文台 チリ共和国大使館 清水長次郎 須藤志成幸 連邦大使館 877
資本主義社会においては、労働者が国家に対し物的条件には、機械・装置の安全性、工具・機割を占め、ついで製造業四二八人、陸上貨物運が被災するケースも目だっ。技術教育や安全教 育が不十分なまま就労していることや、若年層 て具体的な請求権までも有するとするのは無理械の不良、採光・照明・温度・騒音など作業環送事業二七二人の順となっている。 そのほか近年における発生状況には以下の諸や高齢者あるいは婦人が危険有害作業に就労し 境の不適切、作業場の整理整頓、作業衣・保護 があるという批判がある。 ていることがその背景として指摘できる。 点が特徴として指摘できる。 具の不備などがあげられる。一方、人的条件と 学説においては、労働権は、国家が労働者に 〔法制度〕労働災害の防止に関する基本法とし ①一時に三人以上の死傷者を伴う「重大災害」 対して就労および生活保障などの具体的な請求しては、若年および高齢などの年齢、性、体力 権までも保障している権利でないという点では不足、知識や経験の不足・末熟練、疲労、精の件数には減少傾向がみられるが、反面、そのては、労働基準法 ( 昭和一三年法律四九号 ) と 一致している。しかし国家には、失業問題の解神・身体上の欠陥、適性、不注意などがあげら大規模化傾向が指摘できる。化学工業や造船業相まって運用される労働安全衛生法があり、労 における爆発事故、建設業における土砂崩壊、働大臣の定める労働災害防止計画や事業場にお 決 ( 完全雇用の実現 ) や就労機会確保への努力れる。 ける安全衛生管理体制、危険防止措置、安全衛 と、それに関する必要な措置をとる義務がある これらの要因は複合的に作用し、災害発生の仮設構造物などの倒壊による重大災害が目だっ 生教育、健康管理、免許などが総括的に規定さ といえよう。ただし、労働権の完全な保障のた原因となることが多いが、とくに重要な要素はている。 従来から指摘されている中小零細企業におけれている。また同法のもとでの個別規則とし めには、一九三六年のソビエト連邦憲法が定め物的条件と労働者の疲労である。たとえば、作 ているように、経済恐慌の除去や失業の解消な業中のミスや不注意は人間にとって不可避である災害多発傾向が是正されていない。労働省のて、ポイラー及び圧力容器安全規則 ( 昭和四七 どの前提条件の整備が不可欠である。ところがるともいえるが、機械に安全装置が完備されて「労働安全衛生基本調査」によれば、製造業の年労働省令三三号 ) 、クレーン等安全規則 ( 昭 資本主義社会においては、社会主義社会におけ いれば災害は防止できる。安全立法の大部分の事業所規模別労働災害率は、規模が小さいほど和四七年労働省令三四号 ) 、ゴンドラ安全規則 ( 昭和四七年労働省令三五号 ) 、高気圧作業安全 るような労働政策を期待することに無理があろ内容が技術的対策にあてられているのは物的条高くなる傾向が顕著である。 ③第三次産業の就業人口が増加しているなか衛生規則 ( 昭和四七年労働省令四〇号 ) 、酸素 う。しかし資本主義社会においても、たとえば 件整備の重要性のためである。また労働者の疲 一九一一年のイギリスの職業紹介法、国民保険労は、作業動作の乱れを生み、機敏性を低下さで、とくにビルメンテナンス ( 建物の維持管欠乏症等防止規則 ( 昭和四七年労働省令四二 法第二部としての失業保険制度にみられるようせ、注意力を散漫にする。したがって、労働時理 ) 、廃棄物処理業を含むサービス業における号 ) などがある。 また災害防止の実施にかかわるものとして、 に、失業対策と生活保障のための諸立法が制定 間が長くなると、時間の延長された割合以上に 災害多発が注目される。労働災害の頻度を一小す されている。また ( 国際労働機関 ) は、災害率は高まるし、また一日の災害発生状況で度数率 ( 一〇〇万延べ労働時間当りの労働災害検査代行機関等に関する規則 ( 昭和四七年労働 は、作業テンボの速い時間帯や労働者の疲労が による休業一日以上の死傷者数 ) を一九八六年省令四四号 ) 、機械等検定規則 ( 昭和四七年労 三四年に、「非任意的失業者に対し、給付また についてみると、サービス業は七・七〇で林業働省令四五号 ) 、労働安全コンサルタント及び は手当を確保する条約」および「失業保険およ高まるころに多発傾向があるといわれている。 このように考えると労働災害の防止には、物的の一三・八七、鉱業の八・二三に次いで第三位労働衛生コンサルタント規則 ( 昭和四八年労働 び失業者のための各種扶助に関する勧告」を採 択している。 諸条件の安全性確保とともに、労働者を疲労蓄になっており、製造業の一・六〇よりかなり高省令三号 ) 、産業安全専門官及び労働衛生専門 わが国においても、職業紹介のための職業安積状態に置かないための労働条件、生活条件の率になっている ( 企業規模一〇〇人以上。労働官規程 ( 昭和四七年労働省令四六号 ) 、労働災 省「労働災害動向調査」 ) 。 害防止団体法 ( 昭和三九年法律一一八号 ) など 定法 ( 一九四七 ) 、失業中の生活保障、労働者の労改善も必要である。 がある。さらに労働省組織規程 ( 一九五一 l) では付 働能力の開発、雇用促進などを定めた雇用保険〔発生状況〕一九八〇年 ( 昭和五五 ) の労働災 ④就業人口の高齢化は今後とも進行することが 法 ( 一九七四 ) 、雇用対策法 ( 一九六六 ) などの失業対害による死傷者数は一〇九万八五二七人 ( 労働予測されるが、年齢階層別災害被災率では、三属機関として産業安全研究所の設置も規定され 策およびその生活保障のための諸立法が制定さ者災害補償保険新規受給者数 ) で、同年の交通〇歳代以降加齢とともに被災率の高まる傾向がている。そのほか被災労働者および遺族の補償 れている。↓生存権↓自由権〈村下博〉事故による死傷者六〇万七四七九人の二倍近く 指摘されている。加齢現象として視力、聴力、は労働者災害補償保険法 ( 昭和一三年法律五〇 回『沼田稲次郎著作集 7 労働権保障法論』 ( 一九 になり、その重大さがうかがわれる。第二次世平衡感覚、反応速度などの諸機能の低下が避け号 ) に基づいて行われ、その行政判断に対する られないものとすれば、労働力の高齢化に対応不服申立ての手続は「労働保険審査官及び労働 七六・労働旬報社 ) 界大戦後における発生状況の推移を死亡者数に ついてみると ( 死傷者数については一九七三年した安全対策が必要である。 労働火圭ロろうどうさいがい labour accident 死亡者数 6 マイクロエレクトロニクス機器の導入など工 労働安全衛生法 ( 昭和四七年法律五七号 ) 第一一以降、指標が「休業八日以上」から「休業四日 以上」に変化しており、長期間の比較には適さ場の化が進行するもとで、労働災害の分野 条によると、労働災害とは、「労働者の就業に ない ) 、経済の高度成長期にあたる一九六〇年でも新しい問題が発生している。一九八二年に 係る建設物、設備、原材料、ガス、蒸気、粉じ 移 ん等により、又は作業行動その他業務に起因し から七〇年までの一〇年間は毎年六〇〇〇人台労働省が行った「産業用ロポットの労働災害等 の て、労働者が負傷し、疾病にかかり、又は死亡で増減を繰り返し、低成長期に入ると急速に減 に関する実態調査」によれば、一九〇調査対象 数 者 することをいう」と定義され、業務上疾病つま少傾向を示した。しかし七五年に三七二五人に事業場において、ロポットとの接触などにより 亡 死 り職業病をも含めた広義の概念が採用されてい なって以降は減少のテンポが鈍化している。 一一件の死亡災害を含む一一件の労働災害が発生 る。一方、狭義には、職業病の対語として、業六年の発生状況は、休業四日以上死傷者数二四している。また災害には至らないいわゆるニア 数 者 ミスは三七件も報告されている。ロポット開発 務遂行上の事故に伴う負傷および死亡を限定的万六八九一人、死亡者数一一三一八人となってい に労働災害とよぶ。一般に広狭両義が用いられるが、これらを産業別にみると、休業四日以上の歴史はまだ浅く、故障や誤作動の際の安全装 害 , フるが、ここでは狭義の労働災害について述べ死傷者数では製造業が七万四八四九人でもっと置や制御装置の研究に不十分さが指摘されてい 災 災 とる。↓職業病 も多く、ついで建設業七万一六〇二人、陸上貨る。 労労 ートタイマーやアルバイト、派遣労働者な 、フ〔発生要因〕災害発生の直接的要因を大別すれ物運送事業一万八二五八人の順となっている。 ろば物的条件と人的条件に分けることができる。 また死亡者数では建設業が九二七人で全体の四どいわゆる不安定雇用が増大しているが、彼ら せいとん 死傷者数 ( 万人 ) ( 千人 ) 3 死傷者数 死亡者数 1975 年 1980 1985 86 注 : 死傷者数は「体業 4 日以上」の者。 労働省編「労働白書」 ( 1987 年版 ) による 493
東山魁夷画『秋彩』 1986 年 ( 昭和 61 ) 73. ()x 100. ()cm 山種美術館蔵 背後の山は逆光の青紫色。 前景の紅葉はタ陽を透かして赤と黄に。 洛北の秋彩の華やかさ。 ( 東山魁夷・文 )
わたりば 〈小山博滋〉 る。 3 日本 ( 植物相 ) 力の微生物学者。キエフ近くのプリルカで七月 一三日に生まれる。一九一〇年アメリカに渡 8 和知 ( 町 ) わち ( ちょう ) 京都府中央部、船井 るか かみ え咲 郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 上和知、 り、ラトガース大学を卒業。一六年市民権を しも 生を 下和知の一一村を合併して町制施行。大部分は六 得、カリフォルニア大学で学位をとり母校に戻 たんば 場頭 ・ジャー 岩の 〇〇前後の丹波高地で占められ、由良川とそ り、三〇年教授になる。この間ニュー たかや の色 の支流の高屋川に沿ってわすかに平地が開けて ジー州立農事試験場で土壌の微生物学的な生化 岸黄 いる。山陰本線、国道二七号は由良川に沿って 学の研究を行った。三〇 ~ 四二年にはウッズ・ 月 左 東西に通じる。農林業を主とし、とくに丹波グ ホール臨海実験所に海洋微生物学者として勤 ソ イ ン 9 リの産地として知られ、養蚕業も行われる。由 務。三九年以降、土壌中の徴生物が生産する細 ガ ダ〕・る ワせ良川には和知ダムがあり、関西電力の水力発電 チ菌発育抑制物質の研究に入り、放線菌ストレプ 所が設置される。人口四八七二。〈織田武雄〉 トミセス・グリゼウスからストレプトマイシン 回『和知町誌』 ( 一九六五・和知町 ) 国道四〇号、二三八号が通じ、稚内港からは利を四四年に発見。この物質は結核菌その他の病 おばま や まいづる しりれぶん 五万分の一地形図「小浜」「四ッ谷」「舞鶴」尻、礼文両島にフェリ ーが通い、稚内空港ま 。本原菌に対して強い抗菌作用をもち、感染症治療 あやべ 「綾部」 幌や両島を結んでいる。東はオホーック海、西上きわめて有効な物質であり、この研究に対し のしやつぶ ワチカイソウ〔輪違草〕 P ミミ。 s ミ は日本海に面し、宗谷岬と野寒布岬との間に宗て五二年にノーベル生理学医学賞が授与され まくべっ 、、 e きミ (Maxim. ) Pax. ナデシコ科谷湾を抱く。宗谷湾に面して幕別平野が広がるた。四九年にラトガース微生物学研究所を設 の多年草。根は主根がダイコン状に肥厚する。 が、市域の大部分は樹木の少ない宗谷止陵など立、五八年に退任するまで所長であった。七三 茎は直立し、高さ一〇 ~ 一五弩。春、茎の先に が占める。中心市街は宗谷湾西岸の稚内港を中年八月一五日死去。なお抗生物質 antibiotics 小さな五数性の白色花を少数開き、茎の下部に 、いに発達する。 という語は彼がつくったもの。〈宇佐美正一郎〉 閉鎖花をつける。落葉樹林下に生え、関東地方 江戸時代は宗谷岬の西側に松前藩の宗谷場所ワッゲルル Karl Heinrich Waggerl 以西の本州から九州、および中国に分布する。 が開かれて繁栄したが、一 八八八年 ( 明治二 ( 一瓮七ー一九七三 ) オーストリアの小説家。両大戦 本種によく似るヒゲネワチガイソウ P. ト心ま ~ ・・ 一 ) 道北の行政の中心は宗谷から稚内に移っ 間の代表的郷土文学作家。貧しい大工の息子と からふと こミミ (Takeda) Ohwi は根が肥厚せす、普た。一九二三年 ( 大正一一 D 樺太 ( サハリン ) してバートガスタインに生まれる。ハムスンの 通、花は茎頂に単生し、七数性となることが多の大泊 ( コルサコフ ) との間に連絡船が就航し 影響を強く受けた開拓農民小説「パン』 ( 一九三 0 ) しゅ 0 リョコウバト ワタリバト 。落葉樹林下に生え、中部地方、および朝鮮て交通上の要地となった。第二次世界大戦後一 の成功で一躍注目を浴びた彼は、小説「主の ワダン国 C 、ミミミミををミ半島に分布する。 時停滞したが、五七年 ( 昭和三一 D 稚内港が重年』 ( 一九三一 (l) で農民のバロック的なカトリシズ r. et Sav. ) Kitam. キク科の多年草。茎 ワチガイソウ属は、ナデシコ科のなかでは閉要港湾に指定、市街南部の埋立地造成、港湾整ムの秩序世界を表現し、独自の文体を確立し、 そうせい は太くて短く、先端に根出葉を叢生する。根出鎖花をつけるのが特徴的で、アジア東部の温帯備などが行われ、魚市場、石油基地がつくられ一九三四年オーストリア国家大賞の第一回受賞 〈三本栄二〉 葉は倒卵形で先は丸く、長さ約一五、全縁でを中心に約一五種知られる。 たほか、水産加工業も活発となり、北洋漁業の者となる。 〈鈴木隆雄〉 そうらく 質は厚く、柔らかい。葉柄は太く、径五 : リ。九 和束 ( 町 ) わづか ( ちょう ) 京都府南部、相楽基地として全国屈指の水揚げ量を示すこともあワッケンローダー Wilhelm Heinrich ~ 一一月、根出葉の腋から枝を斜上して、高さ郡の町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 西和束、中和 った。七七年以降、漁業水域が二〇〇海里に制 Wackenroder ( 一耄三ー九 0 ドイツ・ロマン 約五〇弩になり、密な花序をつける。頭花は黄束、東和束の三村が合併して町制施行。五六年限され大打撃を受けたが、現在もなお水産業は主義初期の詩人。・ヘルリンに生まれる。司法官 ゅぶわ ようせつ 色で、径一。 海岸の岩場に生え、関東地方南湯船村を編入。町域の大部分は山地であるが、基幹産業である。農業は酪農を主とし乳牛一万試補になったが夭折した。エルランゲンの学生 部から東海道、伊豆七島に分布する。名は、 中央を南西流する木津川の支流和束川に沿って五〇〇〇頭 ( 一九会 ) を飼育する。市街背後の海時代に親友ティークと南ドイツを旅行し、バン 「ワタ ( 海 ) の菜」が転じたものといわれる。平地が開ける。宅地化が進む宇治市にかわっ岸段止上には稚内公園があり、サハリンを遠望ベルクやニュルンベルクなどの中世都市で建築 せんちゃ 近縁のホソバワダンは、根出葉がより細い種類て、宇治茶の最大の産地となり、府下煎茶生産できる。寒流水族館のある野寒布岬、日本の最と美術、とくに画家デューラーに心を奪われ うじたわら である。↓ホソバワダン 〈森田竜義〉の約六〇 % を占める。北の宇治田原町との境に 北地宗谷岬などの観光地があり、日本海沿いのた。このとき書いた十数編の評論に、ティーク ド ) ゅ - っか ワダンノキ D d 、 oc をミ c 、ミさ = 4 は鷲峰山 ( 六会 ) がそびえ、山頂には七世紀原生花園は利尻礼文サロべツ国立公園の一部。は自らも数編を加えて、作者を修道僧に仮託 こんたい Nakai ex Tuyama キク科の常緑の小高木。末創建と伝えられる金胎寺がある。金胎寺多宝人口五万一八五四。↓宗谷 〈岡本次郎〉 し、「芸術を愛する一修道僧の心情の吐露 ( 一七 幹は高さ一・五 ~ 四、上部でよく分枝する。 塔、天満宮本殿は国指定重要文化財。人口六一一一回「稚内百年史』 ( 一九大・稚内市 ) 九七 ) として出版した。また遺稿「芸術幻想」 胸高直径は一〇に達し、樹皮は縦に裂ける。 〈織田武雄〉囮五万分の一地形図「宗谷岬」「宗谷」「沼川」 ( 一七究 ) もティークとの共著の形で出版された。 しがらぎ あさ あが 葉は互生し、倒卵形で長さ九 ~ 一六、質はや囮二万五千分の一地形図「信楽」「島ヶ原」「朝 「稚内」「抜海」 芸術を宗教のごとく崇める芸術至上主義、デュ みや かさぎやま や厚い。一二月から翌年の一月、枝先に密な散 宮」「笠置山」「田辺」 ほう 0 へキストーワッカ ワッカー法 ーラーの再発見、ドイツ中世芸術の賛美は、 房状花序をつくり、淡紅紫色の管状花五個から 稚内 ( 市 ) わ。かない北海道の最北端にある 「新しい芸術観の宣一一「ロ」といわれたように、ド なる頭花をつける。総包は筒状で長さ六ミリ、総市。道北の中心をなす。一九四九年 ( 昭和二 ワックスろう ィッ・ロマン主義の出発点ともなる。また両作 そうや 包片は五枚で一列に並ぶ。日本特産の一属一種四 ) 市制施行。五五年宗谷村を編入。宗谷支庁ワックスマン selman Abraham waks ・ の主人公として、芸術に魅せられ芸術を実践す おがさわら むこうじま てんほく の植物で、小笠原の母島と向島にのみ分布す所在地。北海道旅客鉄道の宗谷本線、天北線、 man ( 天 ー一九七三 ) ロシア生まれのアメリる身となりながら、その社会的無力に絶望する 1 えき ばっかい
りよう いまや日本の理容技術は世界の理容をリードし 礼式、典故、官職、法令などを収めた本 ) の りよう民謡の同意語。明治から昭和外科手術や歯の治療なども手がけていたことが 俚謡 記載されている。中世になると、傷の手当てや「元服の儀式」の項に「理髪役」として記載さているといってもいし 二〇年代まで用いられたが、今日では死語とな また、髪を刈る、洗う、ひげを剃るという実 髪をおやす ( 切る ) 人」 っている。「民間で歌い伝えられた歌、さとう血液をとることなど、外科一般の業務も含まれれており、「髪を結い、 うた るようになり、これを理髪医者の職業として確とある。この理髪の語源は、中国語の理髪から用的な理容から、ヘアファッションを重視する 田舎らしい唄、田舎の唄、 た、俗謡」をいい 立させるようになった。その後、ルネサンスの発したものとされ、一般には一八七九年 ( 明治へアスタイリスト・サロン、ヘアケアを重視す 都会のように洗練されていない唄などをさす語 (l) に「理髪人」と記した営業鑑札が発行さるヘアクリニック・サロン、高級指向型のソシ であった。ところが、この語には、都会に対し時期になると、医学の分野でもラテン語の読解一 ヘア アル・サロン、地域密着性のファミリー・ て田舎を一段下にみる差別用語的な感じがっき力が重視されるようになり、ラテン語の語学力れてからである。さらに一九〇一年 ( 明治三 サロンなど、業種から業態への専門店化が進ん まとうため、では一九四七年 ( 昭和一一をもつ者と、もたない者とが区別されるように四 ) 三月「理髪営業取締規制」が警視令第一一 (l) 七月三日までは用いていたが、第二次世界なった。古代の文献などを理解する力の重要性号で公布されて公的なものとなったが、三五年でいる。特殊な例としては、男女の若者を対象 大戦後の民主主義の急速な広がりのなかで廃止が強調されたからである。ラテン語能力のある ( 昭和一〇 ) 一二月に同令第二九号「理容術営としたユニセックス・ヘアサロンなども出現 〈竹内勉〉者が医学を中心とした医者理髪、ない者を理髪業取締規制」が出され、理容業として公的に確し、新しい理容に向けての機能の拡大や技術革 された。 りよう「容姿を整える」という意味を中心とする理髪医者というように、社会的地立された。また四七年 ( 昭和一一一 l) の新憲法施新も進行中である。 理容 現在の理容の方法 ( 技術 ) を大別すると、整 の語。一九四七年 ( 昭和一一一 l) 理容師法が制定位の差を設ける習慣が生まれた。理容の仕事と行に伴い、それまで内務省令による警察管理下 され、そのなかにも「理容とは、頭髪の刈り込医者の仕事が専門職としてはっきり区別されたであった理容業が、環境衛生の立場を考慮に入髪技術としては、カッティング ( 散髪 ) 、セッ ティング ( 調髪 ) 、シャンプー ( 洗髪 ) 、トリー にれ、厚生省の管理下に置かれるようになった。 み、顔剃り等の方法により、容姿を整えることのは、ルイ一四世 ( 在位一六四三 ~ 一七一五 ) の時代 なってからである。現在、理容店にみられる理容店の休日に月曜日が多いのは、第二次世界トメント ( 療髪 ) 、ヘアダイ ( 染髪 ) 、ウィッグ をいう」と定義されている。 ーマなどがあ 」こ赤・青・白の縞模様の標識 ( サインポール ) 大戦中の電休日が、そのまま休日として定着、 ( かつら ) 、アイロン、メンズバ 西洋における理容 ( 理髪 ) の歴史は紀元前し な」り り、顔面技術としてはシェービング、フェイシ は、動脈、静脈、包帯を表した当時の名残であ現在に至っている、という説もある。近年、日 さかのばる。バビロニアのハムラビ王 ( 在位前 、バーバーはラテン語の barba ( あごひげ ) 本における理容業界の発展は著しいものがあャル・マッサージ ( 美顔術 ) 、ムスターシュ 一七天 ~ 前一六会 ) が制定したハムラビ法典に理容り り、海外理容業界との交流も活発に行われ、世 ( 整髭 ) などがある。これらの技術は、ファッ を業とする者の記述があり、おそらく職業の歴からきたものである。 一方、理髪という語が日本で用いられたのは界規模による技術のコンクールも数多く行われション的要素、情緒的要素、医療的要素のほか 史ではもっとも古い部類に属するといわれてい ゅうそく 、薬粧品や刃物、電気器具などを使用するの る。この法典のなかに、医師の補助者として、平安時代で、『有職故実』 ( 古来の朝廷や武家のている。その技術水準はトップクラスであり、 リューリク朝 / 略系図 = = = 夫婦 ーーー親子 ( ) 内数字は在位年 丿ューリク ( キエフ大公 ) ( ? ~ 879 ) オレーグ ( 879 ~ 912 ) ィーゴリ ( 913 ころ ~ 945 ) オリガ ( 摂政 ) ( 945 ~ 964 ) スビャトスラフ ( 964 ~ 972 ) ャロポルクウラジーミル 1 世 ( 聖公 ) ( 973 ~ 980 ころ ) ( 980 ころ ~ 1015 ) スピャトボルクャロスラフ ( 賢公 ) ムスチスラフ ( 1019 ~ 54 ) ( 1015 ~ 19 ) ( 1024 ~ 36 ) イジャスラフ ( 1054 ~ 78 ) スピャトボルク ( 1093 ~ 1113 ) スピャトスラフフセポロド ( 1073 ~ 76 ) ( 1078 ~ 93 ) ウラジーミノレ・ モノマフ ( 1113 ~ 25 ) ムスチスラフャロポルクピャチェスラフューリ・ドル ゴルーキー ( 1125 ~ 32 ) ( 1132 ~ 39 ) ( 1139 ~ 46 ) ( スズダリ公 ) ( 1125 ~ 57 ) イジャスラフロスチスラフ ( 1154 ~ 67 ) ( 1146 ~ 54 ) アンドレイ・ボゴフセポロド リュプスキー ( 大巣公 ) ( ウラジーミル大公 ) ( 1176 ~ 1212 ) ( 1157 ~ 74 ) ューリーヤロスラフスピャトスラフ ( 1246 ~ 48 ) ( コストロマ公 ) ( 1272 ~ 76 ) ( 1238 ~ 46 ) ( 1212 ~ 38 ) アレクサンドアンドレイヤロスラフ ル・ネフスキー ( 1249 ~ 52 ) ( トべーリ公 ) ( 1252 ~ 63 ) ( 1263 ~ 71 ) アンドレイダニール ( モスクワ公 ) ( 1281 ~ 83 , 1293 ~ 1304 ) ( 1276 ころ ~ 1303 ) ( 1276 ~ 93 ) イワン 1 世 ( カリタ ) ( モスクワ大公 ) ( 1325 ~ 40 ) ( 1303 ~ 25 ) シメオンイワン 2 世 ( 1353 ~ 59 ) ( 1340 ~ 53 ) 丿ー・ドンスコイ ( 1359 ~ 89 ) ワシリー 1 世 ( 1389 ~ 1425 ) ワシリー 2 世 ( 盲目公 ) ( 1425 ~ 62 ) イワン 3 世 ( 1462 ~ 1505 ) ワシリー 3 世 ( 1505 ~ 33 ) イワン 4 世 ( 雷帝 ) ( 1533 ~ 84 ) イワンフョードルドミ ( 1584 ~ 98 ) 141
わ たいせき fourth chord など、三度の堆積以外による和 ける。中世は和賀氏の支配下にあり、江戸時代 ぜき 音も用いられている。そのもっとも顕著な例は盛岡藩領。和賀川の水を引いて、松岡堰 ( 猿 7 おくでら は、スクリャービンによって考案され用いられ田堰とも。一六穴完成 ) と奥寺堰 ( 一六七九完成 ) が た神秘和音である。 〈黒坂俊昭〉開削され水稲耕作の基盤ができ、さらに一九六 回 和歌わか「やまとうた」すなわち日本の四年湯田ダムの完成で後藤野、岩崎地区の一、 2 国の固有の歌を意味するが、その概念は平安時〇〇診タが開田した。農業の機械化、集約化が 代の『古今和歌集』の成立によって確立したの進み、乳牛、肉牛の畜産振興、和賀仙人鉱山 たて せつこう で、具体的な和歌の歌体としては、その当時固 ( 鉄鉱 ) 、岩沢鉱山 ( 石膏 ) などの鉱業振興、竪 かわめ 有の歌体として認められていた短歌・長歌およ 川目工業団地の造成による企業誘致も図られて せどうか ぶっそくせきか Ⅳ和 び旋頭歌・仏足石歌体をさすことになり、それ いる。夏油川沿いの「夏油温泉の石灰華」は特 えづりこ 和度 下 の 7 が現代に至るまで狭義の和歌の範囲となってき 別天然記念物。東接する江釣子村にまたがり江 bC すすまごだいじようかぐ ている。五音節句と七音節句との繰り返しによ釣子古墳群 ( 国の史跡 ) がある。煤孫大乗神 けんば、 る音数律が基本となって、五七五七七の短歌、楽 ( 選択無形民俗文化財 ) 、岩崎鬼剣舞などの 音 五七を三回以上繰り返して七で結ぶのが基本形民俗芸能も伝えられている。和賀川に沿って東 かたうた Ⅱ市 和度 和一 式の長歌、五七七 ( それだけを片歌とよぶ ) を日本旅客鉄道北上線、国道一〇七号が走る。人 の 7 七長 〈金野静一〉 口一万五〇六三。 一一度繰り返す旋頭歌、それと奈良の薬師寺の仏 長 長 ・音回 足石碑に刻まれた、短歌形式にさらに七の加わ回『和賀町史』 ( 一九七七・和賀町 ) 一ム置 コ O 不一車 はなまき しんまち 主 主と位 レ J った歌体の仏足石歌体があり、それそれ『万葉囮五万分の一地形図「花巻」「北上」「新町」 音 ム かわしり ム ( 置本 号 3 音和度 集』にもみいだせる。 位基 一三ロ 〔長和の 7 号ネ 号ネ本 「私法上の和解」と「裁判上 『万葉集』所収歌の大部分は短歌、ついで長歌和解わかい 一三ロ 一三ロ 長和調 音一 音一 であり、長歌は、特定の場合や「万葉集』尊重の和解」とがあり、後者はさらに「訴訟上の和 4 和コ 和コ 2 と結び付いて間欠的につくられつつ現代に至る解」と「起訴前の和解」に分かれる。 、、ゝ、絶えることなくつくられ続けたのは短歌〔私法上の和解〕当事者が互いに = = 歩して、そ る ) 、最上音の三音以外の楽音を省略する場合 また、近年よく用いられるコードネームと は、調に関係なく、根音の音名と和音の種類にで、和歌史は短歌史といいかえていいほどであ が多い。なお、すべての構成音が含まれる和音 神北て統性る 乗東れ系的い よって名づけたもので、 O を根音とする長三和る。現存する歌集の最初は「万葉集』であり、 は完全和音とよばれ、構成音がいくつか省略さ ちよくせん 大はさ一道て 音は O 、を根音とする短三和音は E のように平安時代から室町時代にかけて勅撰和歌集二 れた和音は不完全和音とよばれる。 孫楽承の験し 煤神伝楽修残王 また、三度の積み重ねによってつくられる和書く。増三和音や減三和音の場合は、音名の横一集が成立しているが、そのほか私撰集・私家 大多伏く農「 集も多い。近代になるとほとんど個人歌集であ 音は、さらに異なった方法、つまりその合成音 にそれそれ aug. や dim. と添えられる。 に山と色は 町 れんが れん 賀お方る , を目 なお、和音には、こういった音階上の音以外る。短歌から連歌が分化し、それが俳諧 ( 連 の響き方によって、協和音 ( または協和和音 和楽地いで格演 concord) と不協和音 ( または不協和和音 dis ・ の変化音を含む和音もある。そこでそれらを区句 ) を生じたし、短歌形式のものでは優美さか きようか らくしゅ 別し、前者を全音階的和音、後者を半音階的和 ら外れた狂歌や、風刺性をもっ落首、教訓のた cord) とに分類される。あらゆる和音のうち、 うた めの道歌、さらには歌占いやまじない歌まで、 長三和音と短三和音が前者に属し、その他のす音とよんでいる。 日本の伝統詩歌には短歌に根ざすものが多く、 〔基本と変形〕和音は構成音の配列順序によっ べての和音は後者に属する。 〔名称〕和音は根音を音階上のどの音にするかていろいろなバリエーションを生み出すことが歌謡形式にも大きな影響を与えている。和歌研 によって、それそれ呼称が与えられている。通できる。根音を最低音に置く和音を基本位置究のための歌学は平安時代末期にすでに体系化 例、ローマ数字の大文字を用いて、音階 ( 調 ) ( または根音位置 ) というのに対し、それ以外され、以後日本の古典 ( 文化 ) 学の中軸となり の主音を根音とする三和音を—度の和音、主音のバリエーションは総称して転回和音とよばれ続けてきたことにも注意しなければならない。 〈藤平春男〉 ↓短歌 から二度上の第二音を根音とする三和音をⅡ度る。この転回和音はさらに、最低音にどの音が の和音、第三音を根音とする三和音をⅢ度の和あるかによって、すなわち最低音が第三音であ回新編国歌大観編集委員会編『新編国歌大観』 全一〇巻二〇冊 ( 一九公一 ~ 八七・角川書店 ) ▽ 音と順によぶ ( 譜例 3 ) 。このなかでとくに主るか、第五音であるか、第七音であるかによっ 和歌文学会編『和歌文学講座』全一一一巻 ( 一九 音上の三和音 ( —度の和音 ) と属音上の三和音て、第一転回、第二転回、第三転回といったぐあ しに分類される。したがって、基本位置のなか 六九 ~ 七 0 / 再版・一九会・桜楓社 ) ( 度の和音 ) および下属音上の三和音 ( Ⅳ度 の和音 ) の三つは、楽曲を構成するうえでもつで第三音が一オクタープ上げられた場合は、基和賀 ( 町 ) わが ( ちょう ) 岩手県南西部、和賀 ふじわよこかわ とも重要な役割を果たす和音で、それそれ主和本位置の楽音構成とは異なるが、最低音が根音郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 藤根、横川 音、属和音、下属和音ともよばれる。またこのであるため、やはり基本位置とされる ( 譜例 4 ) 。目、岩崎の三村が合併して和賀村となり、翌年 三つの和音をまとめて主要三和音、残りのⅡ なお、調的音楽の崩壊した一一〇世紀の音楽で町制施行。奥羽山脈の東縁に位置し、中央部を 度、Ⅲ度、Ⅵ度、Ⅶ度の和音を副三和音という。 は、四度音程の楽音を積み重ねていく四度和音和賀川が東流、その河谷低地に集落と耕地が開 音 減三和音 短 3 度 長三和音 短三和音 増三和音 長 3 度 短 3 度 長 3 度 長 3 度 短 3 度 短 3 度 減七の和音 減 7 度 音導七の和音 長 7 度 短三和音減三和音 減三和音 Ⅶ Ⅵ Am. Bdim. Ⅳ V F G ( 下属和音 ) ( 属和音 ) Dm. Em. Ⅵ Ⅶ Ab Bdim. 第 1 転回形 め 日ョヨーー 0 ′一とうの
ならまる 1 」じいん に一九五一年 ( 昭和二六 ) から始まった民間放 は、減衰型がもっとも典型的で、その寿命は通のちにこれを江戸神田橋外に建立し護持院と称た『奈良丸くずし』『どんどん節』が、そして けいしよういんげ ) 一 おとくに 常二 ~ 三か月であるといわれている。 する。将軍とその母桂昌院の外護により乙訓一四年 ( 大正三 ) から『カチューシャの唄』が送や、五三年に放送が開始されたテレビジョン でらむろうじ す は、流行歌の普及に拍車をかけた。六五年のグ 〔社会変動と流行〕流行を社会変動とからめて寺、室生寺を中興して新義派に転ぜしめ、また 日本列島を風靡する。この歌によって、松井須 あった おうりよく - う 理解する立場にも注目すべきであろう。プルー 筑波神社、熱田神宮などの社寺多数を復興し磨子の人気は急上昇した。『鴨緑江節』や『磯ループ・サウンズの登場、六六年のフォーク・ た。一方、江戸城に日々登城して将軍の左右に 節』のあと、一三年の『枯れすすき』と二四年プームなども幸いし、テープレコーダーの需要 マー Herbert George BIumer ( 一九 8 ー だいそうじよう はうなぎ上りとなり、弱電産業は好業績を続け 侍して勢力を振るい、世に護持院大僧正と称の『籠の鳥』によって、映画が流行歌の強力な 次のように述べている。「長期的にみれば、流 る。が、七三年の石油ショック以後にニューミ 行は時代精神 Zeitgeist 響ないし共通の主観された。関東の新義真一一一一口宗はこの隆光のころを媒体となることが証明された。↓オッペケベー 〈吉田宏晢〉 ↓法界節↓さのさ↓東雲節↓鉄道唱歌 ュージックが台頭してからというもの、それま 的生活の構築を助成し、かくして新しい社会秩もって最盛期とする。↓護持院 序の基礎を築くのに役だっ」。流行は絶えず変 りゅうこうかある時期に庶民が愛好ラッパ節 で「歌謡曲」とよばれていた流行歌に、「演歌」 流行歌 動する社会において、いまだ末定形の、漠然た した歌曲。流行した時代や地域は、商品の流通 映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多という名称が与えられるようになった。しかし ニューミュージックも一〇年とは続かなかっ る集合的性向・趣向に対して、その表出の機会機構、交通網の発達、映画、レコード、ラジく製作され、『東京行進曲』や『女給の唄』が や回路を提供し、こうした性向や趣向を結晶化オ、テレビジョンなどマスメディアの浸透状況大きな話題となる。しかもこれらの歌は、電気た。。 ヒンク・レディーの驚異的な流行を最後 し、定型化する集合現象として把握されている によって異なる。なお、一九一〇年代 ( 大正中吹き込みで音色が一段と改良されたレコードに に、日本の流行歌は八〇年代には曲がり角にさ しかかった。カラオケ・。フームとも相まって、 のである。この限り、流行は社会変動の重要な期 ) までは「流行唄」と表記されることが多より、家庭内に浸透した。その結果、三つの問 一環を担うことになる。 く、「はやりうた」と読まれていた。「流行歌」題が派生してくる。第一は教育問題である。幼レコードの生産枚数や放送の視聴率は頭打ちと 〔流行の展開過程〕流行の展開過程には二つの の文字がレコードのレーベルに現れるのは二三 い子供たちが無意識に口ずさむため、人間形成なった。とくに演歌は不振で、レコード売上げ 決定的段階がある。一つは新しいモデルやアイ年 ( 大正一 (l) 、そして三〇年代 ( 昭和初期 ) に悪影響を与えるときめつけられ、その防止策一〇〇万枚を超えたのは『矢切の渡し』と『命 くれない』のわすか二曲にすぎない。また、年 デアが創出され、提示される段階である。新し には「りゆ , っこ , つか」とい , っ呼称が定着する が真剣に検討された。次に、一九三〇年 ( 昭和 、流行のロ火を切る人々はイノベーター ( 革新が、三三年 ( 昭和八 ) から「歌謡曲」ともいわ五 ) を境としてレコードの売上げは飛躍的に伸末恒例の「紅白歌合戦」では、六〇 ~ 七 者 ) とかイニシェーター ( 創出者 ) とよばれ、れた。 びだしたので、レコード・メーカーは流行歌の〇年代に八〇 % を上回る視聴率を確保していた わざうた はやり 社会の構造的・文化的拘束から比較的自由な 奈良時代の童謡をはじめ、古代や中世の流行製作に重点を置き、音楽産業への傾斜を深めてものが、八六年には六〇 % を割り込んだ。翌八 いろことまちじゅう 人々である。いま一つはいわゆるファッショ 唄は数多く残っているが、色里町中はやり歌 いく。そして、流行を予測し、最初から「流行七年は建て直しの効果もなく、関東地区五五・ ノ・リーダーによる新しいモデルやアイデアのとして著名なものは、一六五〇年代 ( 明暦・万歌」と銘打った曲が発売される。従来は庶民が 二 % 、関西地区四七・八 % と低迷している。 選別と正当化である。ファッション・リーダー 治 ) から流行した京都・島原の「投ぶし」、大愛好したので「流行歌」となったが、その性格 かって流行歌は庶民の生活を反映し、「涙」 し は個々の流行領域において社会的威信をもち、坂・新町の「籬ぶし」、江戸・吉原の「つぎぶは一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜とか「悲しい」という歌詞を多用してきたが、 流行追随者への重要な影響源であるわけだが、 し」である。しかし広範囲に及ぶのは、一七七好を左右する原動力となる。その三は、著作権高度成長のころからテーマは「愛」や「恋」に 彼らが流行追随者の共有する未定形の感情や潜〇年代 ( 明和 ) の「おかげまいりの歌」や「潮意識の高揚とも絡むが、作詞や作曲の専業者が変わった。そして大量生産、大量消費を繰り返 在的傾向を媒介し表出するときに、新しい流行来節」からであろう。一八四〇年代 ( 弘化・嘉現れ、歌手がスターの座につくようになり、従しているうちに、新曲の魅力も薄れたのであろ よ は一般に成功する。こうした意味合いにおい うか、今日では混迷と模索の時代に入ってい 永 ) の「伊予節」「よしこの」「大津絵節」、一来にない新しい職業が誕生したことである。さ はうた 〈倉田喜弘〉 て、「流行の究極的調停者は世論である」とい 八五〇年代 ( 安政 ) 以降の端唄などがこれに続ま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオる。↓演歌 1 ~ ・ どどいっ われるのである。↓慣習↓社会変動↓流行 くが、同時期から流行し始めた「都々逸」は、 や新聞、雑誌も参加してくる。『島の娘』や回園部三郎・矢沢保他著『日本の流行歌ーーーそ おんど 歌↓流行語 〈岡田直之〉昭和初期まで長い生命を保った。↓潮来節 の魅力と流行のしくみ』 ( 一九含・大月書店 ) 『東京音頭』などの芸者唄にあこがれる者が現 伊予節↓よしこの↓大津絵節↓端唄↓ 回鈴木裕久著『流行』 ( 池内一編『講座社会心 ▽新藤謙著『日本の流行歌手ーー東海林太郎 れる反面、それを拒否する声も大きくなった。 理学 3 集合現象』所収・一九七七・東京大学出都々逸 その矢先に、『忘れちゃいやヨ』が大ヒットし からピンクレディまで』 ( 一九七九・三一書房 ) 版会 ) ▽小山栄三著『ファッションの社会 明治における最初の大流行歌は、『オッペケた。軍歌やラジオ歌謡からも流行曲が現れてく ▽添田知道著『流行歌明治大正史』 ( 一九全・ たれ 学』 ( 一九七七・時事通信社 ) ▽川本勝著『流行 ペー』である。一八八九年 ( 明治一三 ) 川上音 る。また映画は、『愛染かつら』や『誰か故郷 刀水書房 ) ▽『高橋碵一著作集川流行歌で おも の社会心理』 ( 一九全・勁草書房 ) ▽・ < ・ 二郎が京都・新京極の高座で歌いだし、数年をを想はざる』によって、主題歌の強さを誇一小し つづる日本現代史』 ( 一九会・あゆみ出版 ) 、六五 ) 中国、 りゅうこうけん ( 七七ハー / , デカン著、杉山光信・杉山恵美子訳『流行の経ずして全国に広まった。この曲に刺激されてた。一九三〇年代は、日本調が一つの頂点に達柳公権 あぎな けいちょう きんば 社会心理学』 ( 一九全・岩波書店 ) 生まれたのが『ャツッケロ節』や『欽慕節』したときである。 唐代後期の書家。字は誠懸。京兆華原県 ( 陜 につしん 一一 0 ) の初めに進士に りゅうこう ( 一六四九ー一七一一四 ) 江戸初期で、とりわけ日清戦争の最中には「日清談判破 このころから外国楽曲の愛好者が増え、『 ダ西省 ) の人。元和 ( 含六 ~ 〈 隆光 あざなえいしゅん やまと しん」ん かんりん の真一言宗の僧。字は栄春、俗姓は川辺氏。大和裂して」がもてはやされた。こうした歌を街頭イナ』や『雨の。フルース』が歌われる。この流及第し、穆宗に筆跡を認められて翰林侍書学士 とうしようだいじちょ・つい ( 奈良県 ) の人。一二歳のとき唐招提寺の朝意で歌ったのが壮士や書生であったから、「壮士れは第二次世界大戦後になってますます顕著と となり、ついで敬宗、文宗に仕えた。晩年には りようた ぶぎんはせでら げつきん に従って受戒、ついで豊山 ( 長谷寺 ) の亮汰に歌」とか「書生節」とよばれたが、やがて月琴 なり、。フギ、マンボ、サンバなど、さまざまな太子太保にまで至り、八八歳で没した。書は初 おうぎし おうようじゅん せいなん 」師事。一八歳のとき京都で詩書、春秋、老荘をを用いた『法界節』や、花柳界からおこった リズムの曲が生まれてくる。メロディーに終始めは王羲之を学び、さらに欧陽詢や虞世南な こうやさん しののめ がんしんけい , フ学び、高野山、興福寺、法隆寺、醍醐寺で東『さのさ』『東雲節』が全国で愛唱される。『鉄 していた日本人が、豊かな音楽性を身につけ始どを広く学んで一家をなし、中年以降は顔真卿 ももえ ゅ・密、唯識、華厳、三論、倶舎を学ぶ。将軍徳川 道唱歌』『戦友』『ラッパ節』も大流行。一九一 めた。美空ひばりから山口百恵や松田聖子に至の書風がしだいに強くなった。よく「顔柳」と ちょうぐう ちそくいんしゅ なにわぶし り・綱吉の寵遇を受けて筑波山知足院主となり、〇年代 ( 大正 ) になると、浪花節の影響を受ける十代歌手の出現は、その実証となろう。さら並称されるが、顔真卿よりも端正で骨ばった独 とう まがき かご ふうび せん 川 7
ー一九四六 ) 俳 に入る。一九一九年 ( 大正八 ) 二月一一日新人回弓削達勝著『素行渡辺祐策翁』 ( 一九三六・同翁た。昭和一二年八月二〇日死去。〈松島栄一〉 渡辺水巴わたなべすいは ( 天 記念事業委員会 ) ▽松田武四郎著『炭坑開ワタフキカイガラムシ 0 イセリャカイ 人。東京の生まれ。本名義。日本画家省亭の長会に入会、同亀戸分会をつくり、五月六日新人 めいせつ ガラムシ 発の偉人渡辺祐策』 ( 一九四三・日本出版社 ) 男。日本中学中退。若くして内藤鳴雪の門に入セルロイドエ組合を組織、友愛会城東連合会に 綿帽子わたばうし女子の被り物の一種。真 り、一九〇六年 ( 明治三九 ) 『俳諧草紙』を創参加、二〇年最初のメーデーに参加した。一三 渡辺勇次郎わたなべゅうじろう ( 天全ー なん 刊、大正初め『ホトトギス』雑詠欄に村上鬼年七月創立の日本共産党に参加、同年一〇月南五六 ) 日本に本格的ボクシングを植え付けた綿を平らに伸ばしてつくったもので、初めは防 じよう かっ だこっ 「日本ボクシングの父」。栃木県生まれ。県立真寒具として用いた。その製法は真綿を引き伸ば 城、飯田蛇笏らと主要作者として活躍し、そ葛労働協会を組織し、一一三年三月の党臨時大会 かゆ おか 岡中学四年生のときストライキの首謀者としてして、その上に薄い粥の粘液をまき散らし、そ に参加した。六月レフト ( プロフィンテルンⅡ の作品は父の血脈を継いで江戸情調の流麗な唯 ひのし 美的色調に富むとの評価を得た。一六年 ( 大正国際赤色労働組合加盟を目ざす左派の労働運動放校され、単身渡米してボクシングを習得、太の上に麻布を当てて、火熨斗で乾かす。真綿 あさ きよくすい 五 ) 『曲水』を創刊して昭和俳壇の第一線に活組織 ) 機関紙『労働組合』を創刊、署名人とな平洋岸地方で活躍した。一九二一年 ( 大正一〇 ) は、白のほかに紅、桃色、浅葱などに染めたも った。六月五日の第一次共産党事件の検挙に連帰国し、同年一二月二五日、東京・下目黒 ( 現のも使われた。また、安価なものは、真綿のか 躍を続け、没後『曲水』は妻桂子、次女恭子に まる けんとうくらぶ わりに木綿綿を用いた。綿帽子の形態には、丸 目黒区 ) に「日本拳闘倶楽部」を創立、正しい 受け継がれた。『水巴句集』 ( 一九一五 ) 、『白日』座し逮捕、起訴された。二三年一二月保釈出獄 こきんわたうなぎわた おぎのさだゆき ( 一九三六 ) 、『富士』 ( 一九四三 ) などの句集のほか、随し、二四年二月東京東部合同労組を組織し、四ボクシングを教えた。その門下からは荻野貞行、綿、船底綿、古今綿、促綿の四種類がある。 とうきち ていのすけ 〈村山古郷〉月日本労働総同盟に加盟し、総同盟戦闘化の先横山金三郎、田中禎之助、川田藤吉、高橋一男、丸綿は、クラゲのような形をしたもので、綿帽 筆の著書も多い うすだ なすの 頭に立った。二五年五月の総同盟分裂後、日本臼田金太郎、岡本不二、ピストン堀ロ、笹崎子でいちばん古く、婚礼用として江戸時代から 冬枯れて那須野は雲の溜るところ かみがた てる 用いられ、上方 ( 関西 ) では老人用の被り物で 労働組合評議会の指導者となった。また共産主、アマでは石川輝らが育ち、日本のプロ・ 回『水巴句集』 ( 一九五六・近藤書店 ) アマ・ボクシング界の基盤をつくった。昭和一一一もあった。船底綿は、細長い船のような形をし 渡辺直己わたなべなおき ( 一九 0 ハー三九 ) 歌義ビューローの一員となり、二六年一二月第三 えんぼう がん くれ 〈石川輝〉たもので、一七世紀の後半、つまり延宝年間 人。広島県呉市生まれ。広島高等師範学校卒回大会で中央委員となった。二七年テーゼ作成一年六月二八日肝臓癌で死去。 いしのまき 業。呉市立高等女学校教諭となる。一九三五年 に参加し、その普及に努め、中央常任委員・組渡波わたのは宮城県東部、石巻市の一地 ( 一六七三 ~ 全 ) より流行したが、一八世紀の前半 ほお まん′く ぶんめい には廃れた。一方、古今綿は、頭から頬を包ん ( 昭和一〇 ) 「アララギ』に入会、土屋文明に師織部長となり、『赤旗』発刊に努力、二八年区。旧渡波町。中心市街地の東、万石浦の入口 ひしかわもろのぶ に位置する。近世は石巻街道の宿場町、港町でだところから頬包みともいわれ、菱川師宣の絵 ( 昭和三 ) 二月の総選挙以後委員長となった。 事。三七年日中戦争に陸軍少尉として応召、三 によくみられる。促綿は、火の玉のような形を 九年天津で戦死した。その従軍作品は、戦う知三・一五の弾圧では検挙を免れたが、同年一〇あり、製塩が行われていた。↓石巻 ( 市 ) キールン したもので、老婆が頭上にのせ、その上から手 識人の思想的苦悩を鋭敏な感覚と具象的な把握月六日、国際連絡の帰途、台湾の基隆で官憲とワタノメイガ〔綿野螟蛾〕 cotton leaf ・ りんし 〈大丸義一〉 交戦、自らの命を断った。 ro = er \ ~ ミミ斗きミ昆虫綱鱗翅目拭で風に飛ばされないようにあごの下で結ん によって表現したものとして注目され、のちの いえみつ ちまで深く広い影響を与えた。遺歌集『渡辺直回「渡辺政之輔著作集』 ( 一九六 = ・日本共産党中央メイガ科に属するガ。はねの開張二五 ~ 三〇でいる図柄が多い。この帽子は三代将車家光以 〈遠藤武〉 〈岡井隆〉 体翅とも黄褐色を帯びた白色、はねには黒降に多く用いられた。図 委員会出版局 ) ▽及川恒夫著『日本共産党 己歌集』 ( 一九四 0 ) がある。 ・三一書房 ) 褐色の横線があり、翅脈上も同じ色で、網目状和田岬わたみさき神戸市南部、兵庫区にあ と渡辺政之輔』 ( 一九七一 涙拭ひて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍 たるみ の模様をつくる。前後翅の横脈上と前翅の中室る瀬戸内海に突き出た岬。塩屋、垂水方面から ( 天六四ー一九三四 ) なりき 渡辺祐策わたなべゅうさく たいせき げんじ 沿岸流によって運ばれた土砂が堆積してできた 明治から昭和初期の実業家、政治家。元治元年内に環状の紋がある。日本全土、アジア、オー 回『渡辺直己歌集』 (r 現代短歌全集 8 』所収・ 砂嘴で、神戸港の西部を占める兵庫港を抱くよ 一 0 ・筑摩書房 ) ▽米田利昭著『戦争と歌六月一五日、恭輔の二男として長門 ( 山口県 ) ストラリアの熱帯から亜熱帯に広く分布する。 みつびし あさ うな形をしている。明治以後、岬には三菱重工 厚狭郡宇部村に生まれる。号は素行。協興学舎幼虫は、ワタ、フョウ、ムクゲなどのアオイ 人』 ( 紀伊國屋新書 ) ー一 0 一一五 ) 平安中 に学んだのち、一八九〇年 ( 明治二三 ) より炭科、アオギリ、その他の植物の葉を巻いて食害業神戸造船所やその関連工場が立地し、現在、 渡辺綱わたなべのつな ( 九五三 ~ が 期の武将。嵯峨源氏に属す源宛の子。源満仲の鉱業に着手、九七年組合組織で開坑した沖ノ山する害虫で、北海道では年二回、暖地では三回阪神工業地帯の一部をなしている。三菱重工の 〈井上寛〉構内に和田岬砲台 ( 国の史跡 ) がある。江戸幕 女婿敦の養子となる。養母が摂津国渡辺 ( 大阪炭鉱で成功した。以後、炭鉱より得られる利潤発生、幼虫態で越冬する。 市 ) に居住したので渡辺家をとなえた。源頼光をもとに積極的に経営多角化を推進。一九〇九和田英松わだひでまっ ( 天六五ー一九一一一七 ) 明治府が海防のため設けたもので、一八六四年 ( 元 ナいおう 〈藤岡ひろ子〉 の郎等として活躍する契機は、頼光も摂津国に年 ( 明治四一 D 宇部電気、一一年宇部軽便鉄から昭和初期の歴史学者、国文学者。応元年治一 ) の築造である。 びんご めまくまともともの さだ さかたのきんとき 本居を構えたことによるか。坂田金時、平貞道、一二年宇部銀行、一九一四年 ( 大正三 ) 宇九月一〇日、備後国 ( 広島県 ) 沼隈郡鞆 ( 鞆二万五千分の一地形図「神戸南部」 みち すえたけ 綿向山わたむきやま滋賀県南東部、蒲生郡 道、平季武らとともに四天王の一人に数えら部新川鉄工所、二四年宇部セメント、一九三一一一浦 ) に生まれる。小学生のころ漢籍を学び、一 ・一うかっちゃま きどうまる しゅてんどうじ 八四年 ( 明治一七 ) に上京、帝国大学古典講日野町、甲賀郡土山町、神崎郡永源寺町の境に れ、主君頼光に従って酒呑童子や鬼同丸を退治年 ( 昭和八 ) 宇部窒素工業 ( 炭鉱、鉄工所、セ もどりばし 八年卒業ののち皇典講究所である山。鈴鹿山脈の一峰で、日野岳、朝日岳と した話や、一条戻橋で鬼婆の腕を切った話をメント、窒素の四社合併により四二年宇部興産習科に学ぶ。 ちちぶ こじるいえん ぎようゆう もって驍勇で通った。しかし、これらの話は株式会社となる ) など多数の企業を設立、宇部『古事類苑』の編集に従い、九五年に東京帝国もよばれる。標高一一一〇。秩父古生層から へんさん 説話的要素が強く真実性は薄い。渡辺党の祖と炭田の開発と宇部炭利用による工業化を進め、大学文学部史料編纂掛に奉職、『大日本史料』なり、西の山麓部には国指定天然記念物の「接 よっこ。 〈朧谷寿〉宇部を一大工業都市に育て上げた。また、一九の編纂などを行った。一九二一年 ( 大正一〇 ) 触変質地帯」がある。周辺は日野蚕種・日野絹 一二年以来三度衆議院議員に当選、立憲政友会文学博士、三一年 ( 昭和六 ) 帝国学士院会員との名で知られた養蚕地域で、「わたむき」は 渡辺政之輔わたなべまさのすけ ( 天究ー一九 なる。この間、帝室制度の歴史的研究、贈位申「わたつむぎ」から転化したといわれ、山麓の 一一 0 戦前の日本共産党における労働者出身の山口県支部長を長年務め、地方政界の重鎮をも まっ しんかん 日野町にある蚕の祖神を祀る綿向神社の神体山 む指導的幹部の一人。明治三二年九月七日、千葉って目された。そのほか宇部鉱業組合初代会請調査、国宝保存、宸翰の研究などを進め、ま た東京帝国大学、東京高等師範学校などの教壇として古くから山岳信仰の対象とされてきた。 オ県市川町根本の畳職の家に生まれる。東京・亀長、宇部商工会議所初代会頭などを歴任。昭和 〈畠山秀樹〉 に立ち、古典の注解などに堅実な業績を残し山頂部には綿向神社の奥の院があり、社殿の造新 わ戸町永峯セルロイドエ場の職工となり労働連動九年七月二〇日没。 じよせい てんしん たま あつる みつなか よりみつ かめ わた めぐい さんろく かんぎき て
1 え りとう本土から海を隔てて隔絶してる。なお、これとは別に奄美群島振興開発特別 ナダなどにも移民が多い。リトアニア人は地理フ二世 WIadysIaw = ( 在位一三会 ~ 一四三四 ) とし離島 おがさわら 的分布とかっての部族的分割によって四つのグてポーランド王につき、リトアニアとポーラン いる島。日本は島国であるといわれるが、都道措置法 ( 昭和二九年法律一八九号 ) 、小笠原諸 ループに分かれる。それらは東部のアウクシタドの王朝連合が成立した。そして一四一〇年に府県庁の所在する本土から隔絶している島が離島振興特別措置法 ( 昭和四四年法律七九号 ) 、 イチアイ Auk5taiöiai ( 上リトアニア ) 、西部はポーランドと協力して、ドイツ騎士団を大敗島といわれる。離島には有人島と無人島があ沖縄振興開発特別措置法 ( 昭和四六年法律一三 のジェマイチアイ Zemaiöiai ( 下リトアニア ) 、 させ、ドイツ人の脅威を最終的に取り除いた。 り、わが国にはあわせて約四〇〇〇の離島があ一号 ) によって指定されている五二の島がある。 さらにスパルケチアイ Suvalkieéiai あるいは 以降、上層階級のポーランド化が進んだが、一るが、このうち人が常住している島は四〇四島 離島のもっ本土との隔絶性が離島にとっても さどがしま ウジネムネチアイ Uinemunieöiai 、そしてヅ五世紀後半からモスクワ公国の台頭によって国である。有人離島のうちには、佐渡島のよう っとも困難な条件をなすだけに、離島振興のも ーキ Dzüki である。以前はこのほかにヤトビ勢が衰え、一五〇一年からポーランドと同君連に、人口八万を超え、そのなかに一〇もの市町っとも重要なポイントは港湾の整備と住民の交 グ Yatvig ( スダビ Sudavi) 、クルシ Kuröi 、 合し、六九年にはルプリンの合同によって、ポ村をもつものから、わずかに一〇戸前後の居住通の確保に置かれてきたが、それとともに生活 スカリ Skali 、ゼムガリ Zemgali などのグル ーランド王国と合体した。 〈安部一郎〉者のある程度の小離島までさまざまな規模のも環境の整備のため、道路の開発整備、電気・水 りとう みんとう ープが存在したが、ヤトビグは白ロシア人に、 りとう 0 民党・吏党 吏党 のがあり、また本土からの距離の遠近や、群島道の導入、学校などの社会資本の整備などが進 そのほかのグループはラトビア人やほかのリト 李唐りとう生没年未詳。中国、北宋 ~ 南をなすもの、孤立しているものなど、立地条件められ、さらに島の産業を開発して住民の所得 もう あざなきこ アニア人のグループに同化された。一三世紀に宋の画家。字は晞古。河陽三城 ( 河南省孟県 ) などにかなりの差のあるものを含んでいる。 を確保することにも力が注がれている。こうし きそう せんな 国家を建設したが一四世紀以来ポーランドと合の人。徽宗帝 ( 在位一一 00 ~ = 五 ) の宣和画院に入 概していえば離島は、形態的にも、また人口 た施策によって社会資本の整備はある程度進ん 同し、その影響から優勢な宗教はカトリック。 る。北宋滅亡後は流浪の生活を送ったが、一一規模からも小さく、輸送手段に恵まれない。産できているが、産業の振興には困難が多い。す りんあん 第一次、第二次世界大戦間には独立を達成した三八年 ( 紹興八 ) ごろ、南渡した臨安の地で画業の面では第一次産業の比重が高く、住民の所なわち、離島では、概して平坦地が少なく水資 が、一九四〇年にソ連邦内のリトアニア共和国院に復職、官は成忠郎に至り、金帯を賜った。得も低い。生活環境施設などの整備も不十分な源が乏しいことから農業の発展には限界があ となり、現在に至っている。伝統的な生業は農このとき八〇歳近くの高齢であったという。李ものが多く、開発の遅れている地域として位置る。漁業の面では、港湾などの制約から規模の し・つほ - っ 耕、漁業、養蜂。伝統的な家族形態は家父長的唐は北宋絵画と南宋絵画をつなぐ重要な役割をづけられることが多い。歴史的にみれば、離島うえでの限界があり、また貯蔵加工施設の整備 な核家族。叙情詩ダイナが有名である。神話に 果たした。山水、人物その他すべてにわたり得の多くは海上交通において一定の位置を占めてや流通の面で本土に比べて不利な場合が少なく おいては太陽崇拝の要素の強い天体神話が核と意であったといわれる。台北の国立故宮博物院おり、それそれの位置に応じて文化の継承発展ない。近年は、観光などを含めてさまざまな産 ばんがくしようふう なっている。↓ノ ・、 . レ、 L 族 〈伊東一郎〉蔵『万壑松風図』を北宋時代の作、京都・大に役割を果たしてきたのであり、またそれぞれ業が相互に補完しあって島民の経済を支えてい - 一うとう リトアニア大公国 ーーたいこうこく中世徳寺高桐院蔵『山水図』双幅を南宋時代の作との島において文化の発展をみてきた。さらに、 る例が多いが、そうした経営のあり方がかえっ のリトアニア人の国。リトアニア Lithuania する説がある。いまだこの論議は決着をみてな幕府や藩が流刑地として利用した島もあり、特て思いきった発展の方策をとりにくくしている の諸部族は一三世紀に統合され、ゲデイミナス いが、李唐の画風の幅広さを示すものとして、色のある発展をしてきたものもある。 面もみられる。↓島 〈蓮見音彦〉 へいたん Gediminas ( 在位一三一六 ~ 四一 ) の代に大公国と称この二作を代表作とすることには異論がないも 離島の集落は、平坦地が限られ、季節風の影回藤岡謙二郎・浮田典良編『離島診断』 ( 一九 し、ロシア系住民の地域にも支配を拡大し、アのと思われる。 〈近藤秀実〉響を避けることなどから、島の玄関に相当する 七五・地人書房 ) ▽大藤時彦解説『桜田勝徳 ルギルダスと girdas 大公 ( 在位一三四五 ~ 七七 ) , 港の近くに集中して形成されることが多い。社 著作集 4 離島と山村の民俗』 ( 一久一・名著 情幅あが , も観対れ よってウクライナの大部分が併合され、バルト 会構造のうえでとくに離島に特徴的とされるも 出版 ) ▽『宮本常一著作集 4 ・ 5 日本の離 画宝の右に記れ冪柳幅さ 墨国山の横款さたい楊三と 海から黒海に及ぶ大国となった。その後、ドイ のは少ないが、比較的階層分化に之しいにもか 島』 ( 一九六九、七 0 ・未来社 ) ▽日本離島センタ 深幅のた読れりこ 絹 5 院で双頂い判さよしの ( 0 う - 0 ッ騎士団の脅威を防ぐためャギエウォ Jagiello かわらず、村落秩序としては多分に強固なもの ー編『離島振興ハンドブック』 ( 一九会・大蔵 ・と棡致たのてととにと玄 ( ャガイラ Jagaila) 大公 ( 在位一三七七 ~ 九一 l) は、 図 4 「高筆い松れ」作伝心道 がみいだされる例が多い。また、離島住民の間 省印刷局 ) 水 な描のさ〕の寺中呉た 都勁を央消唐はを ポーランドと同盟し、一三八六年ウワディスワ では、しばしば閉鎖的で排他的なものの考え方李東垣りとうえん ( 二ハ 0 ー一 = 五一 ) 中国の医 きんげん こうあぎなめい 李「田京【雄景中る「李と翌日でて ; いといわれる 家。金元医学の四大家の一人。名は杲、字が明 〔離島振興〕近代産業が発展するにつれて、規之、東垣と号した。真定 ( 河北省正定県 ) の 模の小さい第一次産業を基盤とする離島は徐々人。幼時から医薬を好み、張元素に師事し、そ に取り残される結果となった。ことに高度経済の業をすべて得た。富家であったので医を職業 成長過程での生活様式の変化が全国的に進んだ とはせず、世人は危急のとき以外は診てもらわ 結果、離島では産業面の遅れや生活環境施設のなかった。神医とみなされていた。病因は外邪 整備の遅れのために、人口流出が激化し、後継によるもののほかに、精神的な刺激、飲食の不 者の不足や人口の高齢化に悩む島が増大するよ摂生、生活の不規則、寒暖の不適などによる素 うになった。離島の振興を図り、住民の定住を因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱え 進めるために、離島振興法 ( 昭和二八年法律七た。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病 二号 ) が制定され、それそれの島の振興計画をが生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には たてるとともに、振興事業の実施についての援脾胃を温補する方法を用いたので「温補 ( 補 しゅしんこう 助がなされている。一九八六年 ( 昭和六一 ) 四月土 ) 派」とよばれた。朱震亨とあわせて李朱医 現在、二八八の島が同法による指定を受けてい 学といわれる。 〈山本徳子〉 5 わぎ あまみ
キ、とソ連内の小数民族の一一一一〕語およびモンゴル人民告一小第一号が出された。 づけられるようになった契機の一つは、一九四の神学的自己紹介である。彼の他の手紙に比 日本文を表記するのに、標準式は、英語のア 六年三月、アメリカ教育使節団がその報告書の べ、論述は網羅的かっ体系的。人は信仰のみに 6 じ共和国のモンゴル語を表すのに使用されてい る。アラビア文字はイスラム教とともに進展ルファベット二六文字のうち Q, v, x を除い なかで行った国語の改革に関する勧告にあっ より救われるとする彼の持論が強調されるほ し、アラビア語、ベルシア語、ウルドウー語、 た二三文字を、訓令式と日本式は C, F, J, Q, た。同使節団は「仮名よりもローマ字により多か、イスラエルの不信仰にもかかわらず、神は ろ ウイグル語などがこれによっている。しかし、 V, X 以外の二〇文字を用いる。訓令式と日本 くの利益がある。そのうえ、ローマ字は民主主イスラエルに与えた約束に誠実であり続けると アジアでもラテン文字への切り換えが行われ、式では、子音を表すのに一文字を用い、拗音は義公民精神と国際的理解の成育に資するところする見解のような、他の手紙にはない重要な内 トルコ、インドネシア、・ヘトナムなどがラテン子音字のあとに y を付している ( チャ行 tya が大きい」と判断し、「可能なあらゆる手段に 容が含まれている。後世に与えた影響がきわめ なんら 式を採用した。 tyu tyo)0 標準式では ch, ts のように二文字よって、ローマ字の何等かの形式が一般に使用て大きく、アウグステイヌス、ルター、・ 日本へ入ってきたラテン文字をローマ字とよを組み合わせることがあり、拗音も y をつけな 〈佐竹明〉 されること」などを提案した。「ローマ字の採ルトなどから重要視された。 ぶならば、日本でもローマ字はキリスト教によ いことがある ( チャ行 cha chu cho)0 三方式用は国境を越えて、知識と思想の伝達に大きなロマショーフ bopuc CepreeBHq POMa ・ り導入された。フランシスコ・ザビエルは一五とも文頭の字は大文字としているが、日本式で貢献をなすであろう」とも述べている。以来、 1MOB/Boris Sergeevich Romashov ( 天九五 四九年 ( 天文一八 ) に日本でキリスト教の布教は名詞も大文字で書き始める。長音を表すの文部省はローマ字教育協議会を設けたり、やが ー一九五 0 ソ連の劇作家。俳優の家に生まれる。 を始めたが、その後信徒の数が増えてきたの に、訓令式と標準式は文字の上に横棒 ) をて国語審議会のなかにローマ字教育部会を設置モスクワ大学で学んだのち、一九一六年から俳 きとう で、教義や祈疇書の翻訳が盛んになった。ロー つけ、日本式は山形 (å) をつける。はねる音したり、また、ローマ字教育の実験学級を全国優、舞台監督として活躍、かたわら戯曲を手が マ字で表記された現存する最古の文献は、日本を表すのに、訓令式と日本式はすべて n による に設けたりして調査研究に積極的に取り組んけ、一九二四年国内戦に取材した戯曲コサッ うちめキがき 語版使徒行伝『諸聖徒の御作業の内抜書』 Sanc ・ が、標準式は b, m の前では m に変えるだ。ローマ字を学習させる意義と効用は、ロー ク大尉フェージカ』で本格的創作活動に入る。 tos き Gos ミ 0 き冐ミ ~ ミミ・ ( 一五九一 ) で ( 散歩 sampo 、新聞 shimbun)0 はねる音の マ字を読み書きする能力を養うとともに、国字鋭い風刺、題材の劇的構成、性格描写の的確さ ある。続いて『平家物語』洋 e きミ。き次に母音がくる場合、日本式と標準式は , をつ国語問題に対して反省する機会を与えること、 を特色とするが、とくにネップ時代の実利主義 こ ( 一五九一 l) などのキリシタン版ローマ字本が刊 ける ( 原因 n ゴ ) が、訓令式は・を挟む ( gen ・国語の機能と特質を理解・習得させ、聞いただ者を痛烈に批判した『空気入りピローグ』 ( 一九 行された。いずれもポルトガル語に基づく書き (n)0 詰まる音は次にたっ子音を重ねて表すけでわかることばを使う習慣を養うこと、ロー 一一五 ) はソビエトで最初の風俗喜劇として注目さ マ字のもっている国際的・能率的な長所をみい れた。ほかに戯曲『火の橋』 ( 一九一一九 ) 、「兵士た 方であった ( タ行 ta chi tqu te (o)0 しか ( マッチ matti 、雑誌 zassi) が、標準式は ch し、一六一三年 ( 慶長一八 ) よりキリシタン弾の前では t を、 sh の前では s を用いる ()a ・ ださせることなどにあるとされた。こうして昭ち』 ( 一九三三 ) 、『大いなるカ』 ( 一九四七 ) などがあ 圧が始まり、以後ローマ字本は姿を消した。江 tchi, zasshi)0 和二〇年代から三〇年代にかけて、ローマ字教る。 〈柳富子〉 よしむね 戸幕府第八代将軍吉宗の「洋書解禁」 ( 一七一一 0 ) ローマ字表記は、使用する文字の数が少ない しろん Discorsi sopra la 育は熱心に実践され、相当の実績をあげるに至ローマ史論 らん から幕末にかけてオランダ語の研究が進み、蘭ので、能率的で表記が容易である。また、外国ったが、国語科の指導事項の精選、国語科の授業 prima deca di Tito Livio 正式には『ティ 学者はオランダ式ローマ字を用いるようになつ人に違和感を与えないという利点もある。さら時数の削減などが行われるようになって、国語 トス・リウイウスの最初の十巻についての論 た ( タ行 ta ti toe te (o)0 明治に入り、洋学に、分かち書きにより、語の単位を把握し、そ科における取扱いもしだいに後退していった。 考』という。マキャベツリの代表作。彼がフィ の興隆からドイツ式ローマ字 ( タ行 ta tsi tsu の文法的機能が理解しやすいという長所もあ 一九七七年 ( 昭和五一 l) 改訂の小学校『学習レンツェの文化人サークルで、ローマの歴史家 te (o) やフランス式ローマ字 ( タ行 ta tsi る。しかし日本語は同音異義語が多いので、表指導要領』国語には、第四学年の〔一一 = ロ語事項〕 リウイウスの『歴史』に加えた注解を集めた作 tsou te (o) が試みられたが、・ 0 ・ヘップ音表記の場合はこれを処理する方法を講じなけ に「日常使われる簡単な単語について、ローマ 品である。ここでマキャベツリは共和政ローマ ーン ( へポン ) の『和英語林集成』 ( 天六七 ) ればならない。 〈小泉保〉字で表記されたものを読み、また、ローマ字でがどのような原因によってあのように広大な領 じきよういく国語科のな書くこと」とあるだけである。漢字・仮名にか域を支配するに至ったのかに関、いを注ぎ、ロー により英語式ローマ字、いわゆるヘポン式がローマ字教育 普及するようになった ( タ行 ta chi tsu te かでローマ字を読んだり、ローマ字で書いたりえてローマ字そのものを普及させることを目的マの政治体制や軍制、さらにはローマ人のとっ たなかだてあいぎつ (o)0 これに対し、田中館愛橘は日本語の五十する能力を養うことをいう。このローマ字教育とするローマ字教育もあるが、運動としてはと た政策や戦術を当時のイタリアを念頭に置きっ 音図にあわせた日本式ローマ字 ( タ行 ta ti 〈佐々木毅〉 の位置づけは、第二次世界大戦後になって初めもかく、本来は国語科教育の一環として生かさ っ分析した。 tu te (o) を提唱した ( 一穴五 ) 。そこでヘポンて行われた。文部省は一九四七年 ( 昭和二一 l) れるのが望ましい。↓ローマ字〈野地潤家〉 しんわローマの神々は、 ローマ神話 式 ( のちに標準式とよばれる ) と日本式の二派二月「国民学校におけるローマ字教育実施要回松村明著『ローマ字教育論』 ( 一九哭・牧書房 ) 古くからギリシアの神々と同一視されていた。 の間に激しい対立と競争が生じた。政府も、対項」を発表し、四七年度から国民学校 ( 四七年 ▽ローマ字教育研究所編『国語科ローマ字の紀元前三世紀には、すでにユピテルⅡゼウス、 ュノⅡヘラ、ミネルバⅡアテネ、マルスⅡアレ 外的にローマ字表記の統一が必要となったの七月からは小学校になった ) において、事情の 学習指導』 ( 一九五一・ローマ字教育会 ) しょ The Letter of Paul to ス、ウエヌスⅡアフロディテ、メルクリウスⅡ で、一九三〇年 ( 昭和五 ) に臨時ローマ字調査許す限り、ローマ字による国語の読み方・書きロマ書 会を設置し、論議を重ねた結果、ローマ字のつ方が第四学年 ( または第三学年 ) 以上で、一年 the Romans 『新約聖書』六番目の書で、「ロ ヘルメス、ディアナⅡアルテミスなどの神々の づり方につき訓令が公布された ( 一九三七 ) 。これを通じて四〇時間以上、国語あるいは自由研究 ーマ人への手紙」とよばれる。パウロが晩年近融合が行われていた。これらローマの神々のギ を訓令式という ( タ行 ta ti tu te (o)0 訓令の時間のうちで行うことを示した。指導の方 く ( 五五ころ ) コリントからローマのキリスト教会 リシア化を促した原因の一つは、ギリシア文化 式は日本式をすこし簡略にしたものである。第針、教材、方法などについては、別に『ローマあてに書いた手紙である。彼は早くから未知のを盛んに取り入れていたエトルリアの影響を早 一一次世界大戦後アメリカ軍が駐留し、英語が盛字教育の指針』が文部省によって編修され、配 この教会を訪問することを望んでいたが、スペ くからローマが受けていたことによる。したが んになったので、一九五四年 ( 昭和二九 ) 英語布された。 イン伝道に赴く途中でそれを実現しようと企てってエトルリアの神々も、ティニアⅡゼウス、 に都合のよい標準式つづり方をも許容する内閣 ローマ字教育が戦後、義務教育のなかに位置た。この手紙は訪問の準備のためのもので、彼ゥニ日へラ、トウランⅡアフロディテ、トウル