八一・労働旬報社 ) げ、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破する人民一月に全日本民間労働組合連合会 ( 連合 ) というナショナ ・世界▽・ N ・フォスター著、塩田庄兵衛他訳『世界 の民主主義革命の達成を通じて、社会主義日本への道を開ル・センターの実質をもつものに定着し、五五五万人を結集 労働組合運動史』上下 ( 一九五七・大月書店 ) ▽中林賢二郎 く」ことが課題であるとして、「二つの敵」との対決を労働した。同盟をはじめとする既存のナショナル・センターは解 著『世界労働運動の歴史』上下 ( 一九六五・労働旬報社 ) ▽ 散し、総評も一九八九年に解体して、官公労・民間全体を統 者階級と勤労国民に呼びかけた。 労働運動史研究会編『国際労働運動の歴史と現状』 ( 一九 〔労働戦線再編の動向〕一九七〇年代に入ると世界資本主義一 ( 全的統一 ) することを目ざしている。 七五・労働旬報社 ) ▽・マルチネ著、熊田亨訳『七つの これに対抗して統一戦線促進労働組合懇談会 ( 統一労組 の矛盾が激しくなり、日本でも高度経済成長は終わり、不況 国の労働運動』上下 ( 岩波新書 ) のもとで失業者が増大し、賃金上昇は止まった。労働組合の懇 ) が一九七四年一一一月に設立され、「資本からの独立、政 ・日本▽塩田庄兵衛著『日本社会運動史』 ( 一九全・岩波 要求獲得能力、生活防衛能力が低下し、運動は低調になっ党からの独立、一致する要求に基づく行動の統一」を掲げ、 書店 ) ▽歴史科学協議会編『歴史科学大系労働運動 た。八七年には労働組合の組織率は二七・六 % という戦後の革新統一戦線の主力部隊の任務を労働組合が担うことを目ざ 史』 ( 一一・校倉書房 ) ▽清水慎三編『戦後労働組合運動 最低を記録した。そのなかで、体制維持の安定装置の役割をし、階級的ナショナル・センターの結成に向かって活動して 負わせるべく労働戦線の右翼的再編の工作が活発になった。 いる ( 一九八七年現在、一八〇万人。共同行動に参加する部史論』 ( 一九全・日本評論社 ) ▽塩田庄兵衛他著『戦後労働 組合運動の歴史』 ( 新日本出版社・新日本新書 ) 八〇年に社会党が共産党を排除し、公明党と連合政権を目ざ隊を加えると二五〇万 ~ 三〇〇万人の勢力 ) 。↓社会運動 ・年鑑その他▽大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』 〈塩田庄兵衛〉 す協定を結び、総評がそれに同調して以来、その動向に拍車↓労働組合 各年版 ( 労働旬報社 ) ▽同編『社会・労働運動史大年表』 がかかった。八〇年九月、労働戦線統一推進会が結成され回・総論▽塩田庄兵衛編『改訂労働問題講義』 ( 一一・ 全四巻 ( 一九ハ六 ~ 〈七・労働旬報社 ) ▽日本労働協会編・刊 青林書院新社 ) ▽同著『現代労働組合運動論』 ( 一九六九・労 て、民間先行の労働戦線統一の動きが具体化し、八一年一一一 『労働運動白書』各年版▽塩田庄兵衛編『日本社会運動 働旬報社 ) ▽堀江正規編『労働組合運動の理論』全七巻 月の労働戦線統一準備会を経て、八二年一二月には全日本民 人名辞典』 ( 一九七九・青木書店 ) ( 一九六九 ~ 七 0 ・大月書店 ) ▽「大河内一男集』全八巻 ( 一九含 間労働組合協議会 ( 全民労協 ) が結成され、さらに八七年一 ときに生まれた『ラ・マルセイエーズ』 ( 一七九一 l) 法を用いて分析・研究したのが最初で、いまでや労働時間の短縮に活用されたし、有害物質の ろうどうえいせい労働過程におけ 労働衛生 じよげんど 恕限度 ( 最大許容基準 ) 、最低栄養基準、最低 るさまざまな有害因子が労働者の健康に与えるが初期の例で、その後も国際的に名高い『インもそれが中心になっている。 ターナショナル』 ( 一 会 0 、『ワルシャウィアン しかし、現実の労働は、資本主義という階級生活費の諸研究は、労働者の保護、労働条件の 影響を研究し、健康障害の予防と、より快適な 会三 ) などが国社会の下での社会的性格をもった労働であると改善に役だってきた。労働科学そのものは、け 労働と健康の実現を目ざす学問であり、実践でカ ( ワルシャワ労働者の歌 ) 』 ( 一 でんば っして反資本主義的とはいえないが、労働力の もある。一七〇〇年に『働く人々の病気』を著境を越えて伝播伝承されている。新しいところころから、右のような単に自然科学的側面だけ から研究することでは不適切であるとして、ギ合理的使用という点からみて、資本主義社会、 したイタリアのラマツツィーニ B. Ramazzini では、北アメリカのフォーク・ソング運動の一 ーゼ Fritz Giese ( 天九 0 ー一九三五 ) やリッブマン資本家的経営のもっ矛盾を暴露する一面をもっ ー一七一四 ) が労働衛生の祖といわれること環を担う独唱によるプロテストソングや、南ア ており、それの改善のための一手段となるので メリカのフォルクローレに属する「新しい歌」 0. Lipmann やウィーンの労働会議所などは、 もあるが、労働衛生の研究が盛んになったのは 産業革命を経た二〇世紀以降のことである。労としての『不屈の民』 ( キラバジュン作 ) をは労働そのものの社会的性格、社会的環境を問題ある。↓人間工学↓労働科学研究所〈藤本武〉 働衛生の研究には物理学、化学、生理学、医じめ、日本の「うたごえ運動」の曲など、多数とした。ギーゼの場合には、生産科学、労働教回内海義夫著『労働科学序説』 ( 一九五四・法律文 化社 ) ▽勝本新次著『労働科学読本』 ( 一九 〈山口修〉育学、経済学、労働法、労働哲学をも含んだ総 学、心理学、工学、さらには社会科学の見識もっくられている。 みごっ : つ、か、刀 / 、 耄・労働科学研究所出版部 ) ▽三浦豊彦・ 応用科学の一分合的なものを労働科学体系としている。日本の 必要とされ、総合科学としての色彩を強くもっ労働科学 斉藤一編『新労働衛生ハンドブック』 ( 一九 ている。産業衛生、産業医学、労働医学、職業野。このことばは、ベルギーの生理学者イオテ労働科学研究所も、第二次世界大戦前から、労 全・労働科学研究所出版部 ) 働生理・心理学部門、労働衛生部門のほか社会 イコ Josefa loteyko によって最初 ( 一九一九 ) 保健などのことばも、それぞれ広義に解すれば 労働衛生とほば同義のものと理解できる。↓労用いられたもので、ドイツ、フランス、オース科学部門を設けて、単に自然科学的研究だけで労働科学研究所ろうどうかがくけんきゅうじ 倉敷紡績社長大原孫三郎によって一九二一 〈重田博正〉 働科学 トリア、日本などでは一般化したものの、イギなく、社会科学的研究を含んだ総合的な学際的 年 ( 大正一〇 ) に設立された倉敷労働科学研究 リスやアメリカではほとんど使用されず、これ学問分野と考えてきている。 回ラマツツィーニ著、松藤元訳『働く人々の病 労働科学の研究対象は、労働力、労働過程、所の後身。財団法人。同じく大原によって設立 にやや類似した概念である人間工学 human 気』 ( 一九〈 0 ・北海道大学図書刊行会 ) された大原社会問題研究所から分かれ、岡山県 ろうどうか労働運動と結び付いた歌 engineering のほうが一般化し、国際的には労働力の再生産の三つの分野を含み、ヒューマ 労働歌 で、仕事歌とは区別される。労働歌は労働者のそれが使用されている。しかし、労働科学の概ニズムに裏打ちされたものである。労働科学の倉敷の万寿工場内に置かれたもので、初代所長 てるおか一とう は暉峻義等。紡績労働者の実態を科学的に明ら 階級闘争や革命思想を反映し、力強いあるいは念はかならずしも定説はなく、いろいろに解釈研究成果は、労働者保護、労働条件・生活条件 、にし、それの保護・合理化を企図したもので の改善に役だつのか、資本の側の「合理化」政カ されている。この学問は最初の学際的研究部門 悲壮感あふれる曲調と歌詞、そして多くの場合 , フに集団歌唱の形式をとることが大きな特徴であといってもいいが、二〇世紀初めのテーラーの策に利用されるにとどまるのか、という二つのあった。のち研究の範囲を拡大し、機構が大き くなったので、三七年 ( 昭和一 (l) に大原の手 とる。闘争歌、革命歌、反戦歌、追悼歌などに細科学的管理法の非人間的側面への批判として生対立した見方があるが、現実の労働科学は、こ 、フ分類される。こうした内容と形式が集団の連帯まれたものである。労働力の合理的適正な使用の二つの側面をもっているといわなければならを離れて東京に移り、財団法人日本労働科学研 3 ろ感を高め、闘争心を鼓舞する。フランス革命のを企図して、労働を生理学的かっ心理学的な手ない。実際、労働科学の研究成果は深夜業禁止究所となった。第二次世界大戦中は産業報国会 4
鎌倉市観光協会 鎌倉市教育委員会 鎌倉秀雄 鎌倉文学館 鎌澤久也 上市町教育委員会 紙の博物館 神屋二郎 亀倉デザイン研究室 カメラ東京サービス カメラ博物館ペンタッ クス・ギャラリー 鵯川シーワールド 加茂神社 賀茂神社 加茂花菖蒲園 賀茂御祖神社 ( 下鴨神社 ) 賀茂百世 賀茂別雷神社 ( 上賀茂神社 ) 加山又造 カリモク家具販売 軽井沢高輪美術館 河井寛次郎記念館 川合修二 河合省三 河合孝昌 河合雅雄 川上さやか 川喜多記念映画文化財団 川口保 河口洋一郎 川崎重工業 川崎市立日本民家園 川崎製鐵 川瀬正 川端紀美子 川端康成記念会 川又昌子 寛永寺 歓喜光寺 環境庁 環境保全局 自然保護局 願興寺 元興寺 関西電力 勧持院 願成寺 観心寺 観世音寺 観世宗家 神田神社 菅田天神社 菅田庵 酣燈社 関東電気協会 観音寺 上林記念館 企画室ネコ 菊川康男 掬粋巧芸館 菊竹淳一 菊池綾子 菊池神社 菊正宗酒造 岸川靖 岸本洋一 気象庁 気象衛星センター 神戸海洋気象台 キーストン通信社 木曽福島町教育委員会 喜多院 北大路和子 北上市立博物館 太一 喜多川周之 北関東カラーエージェン 北九州市立自然史博物館 呉羽化学工業 京都外国語大学附属図書館櫛引八幡宮 北野天満宮 黒石寺 京都工芸繊維大学美術工芸串本海中公園センター 北原白秋生家保存会 黒川古文化研究所 資料館 楠部敦子 北村美術館 黒崎彰 沓形漁業協同組合 京都国立近代美術館 北脇かね 黒田乾吉 倶知安農業協同組合 京都国立博物館 吉川岩国事務所 グローリ ーエ業 キッコーマン 宮内庁 京都市下水道局 クロレラエ業 京都事務所 京都市交通局 橘高二郎 桑原甲子雄 侍従職 京都市美術館 木之下晃 群馬県教育委員会 正倉院事務所 京都染織会館 木本義一 群馬県総務部広報課 書陵部 京都大学 木原生物学研究所 群馬県立近代美術館 長官官房 附属図書館 木原浩 国立音楽大学音楽研究所群馬県立歴史博物館 文学部考古学研究室 吉備津神社 —ロードサービス 楽器資料館 文学部国史研究室 岐阜県陶器陳列館 慶応義塾大学 国友俊太郎 文学部美学美術史学 岐阜県美術館 北里記念医学図書館 久能山東照宮 研究室 岐阜市歴史博物館 文学部民族学考古学 理学部附属飛騨天文台久保克敬 来振寺 研究室 久本院 京都服飾文化研究財団 金慶植 三田情報センター特 熊谷榧 京都府立鴨沂高等学校 木村巌 殊資料室 瀬月糸 京都府立植物園 木村一夫 京王プラザホテル 有 ~ 副穣 京都府立総合資料館 木村コーヒー店 京急油壺マリン。ハーク 杭全神社 京都府立茶業研究所 木村荘十一一 芸術教育研究所 熊田達雄 共立航空撮影 木村恒久 芸術新聞社 熊野那智大社 玉林院 木村久子 京成電鉄谷津遊園 熊野速玉大社 清水寺 ( 京都市 ) 木屋 京成バラ園芸 ギャルリーワタリ 熊野本宮大社 清水寺 ( 長崎市 ) 京阪ひらかた園芸 熊本市教育委員会 桐野秋豊 九州大学 迎賓館 熊本日日新聞情報文化 桐生広人 教養部生物学科 センター 劇団民芸 文学部考古学研究室 銀河社 月照寺 汲田栄功 銀座能楽堂 九州電力 月輪寺 倉敷考古館 九州フォトライプラリー 金属鉱業事業団 下呂町教育委員会 グラフィック社 九州歴史資料館 金太郎飴本店 グラフィティ 憲政記念館 金峯神社 久昌院 クリエイテイプ・エンタ建設省 金峯山寺 救世軍本営 ープライズ・インター 関東地方建設局利根川ダ キュウ・フォト・インター金龍寺 ナショナル ナショナル ぎんれいカメラ店 ム統合管理事務所 クリエイテイプ ・パック現代美術社 教科書教育センター附属金鈴塚遺物保存館 クリエイト 建築知識 久遠寺 図書館 建長寺 栗田美術館 弘経寺 行田哲夫 謙堂文庫 日下部民芸館 栗林慧 京谷英寿 栗原達夫 建仁寺 国崎漁業協同組合 共同企画センター 剣持加津夫 厨屋雅友 草野慎二 共同通信社・フォト グリーンポックス 源流社 サービス 草野妙子 865
きき、 0 ミミ、をミ e ( 天九 0 を編むとい ゃある五四〇の扉からはそれぞれ一度に八〇〇名ライプルク大学で、気体の研究を続けるととも に、強磁性体の磁化における履歴現象 ( ヒステ う学究生活を送り、一九一〇年一月五日レマン 8 ひの軍勢が打 0 て出られるという。戦場で勇敢に 湖畔クラランで七五歳の生涯を終えた。↓ロー リシス ) の実験的発見と理論的説明、物質の電 っ戦 0 て死んだ勇士たちは、オーディンの命を受 ザンヌ学派↓均衡理論 ( 経済学 ) 〈佐藤豊三郎〉 けたワルキューリによってこの館に集められ、気伝導、ガス放電などの研究を行っている。ワ わ 回手塚寿郎訳『純粋経済学要論』全二冊 ( 岩波 ール・フルクは、研究者であると同時に実験物理 世界の終末に来襲する巨人勢に備え昼は武事に 文庫 ) ▽久武雅夫訳『ワルラス純粋経済学 励み、タベは宴会を楽しむ。人々は天に昇る火学の優れた指導者でもあって、九五年ベルリン ス 要論』 ( 一九〈三・岩波書店 ) ▽『安井琢磨著作 葬の煙から天界に死後の世界を想像したらし大学教授となってから、多数の学徒が彼のもと ラ 集 1 ワルラスをめぐって』 ( 一九七 0 ・創文社 ) く、ワルハラ信仰はバイキング時代から由来すから巣立ち、近代物理学の発展を担った。主著 ワ ▽・ジャッフェ著、安井琢磨・福岡正夫編 るとされる。 〈谷口幸男〉『実験物理学教科書』 ( 一ハ九三 ) は、彼の生存中だ 訳『ワルラス経済学の誕生』 ( 一九七七・日本経 けでも一一一一版を重ねた。息子オットーは生化学 Antoine Auguste WaIras ( 天 0 一ー六六 ) も経済 ワルヒャ Helmut Walcha ( 一九 0 七ー 〈今野宏〉学者であり、『富の性質と価値の起源について』 済新聞社 ) ▽根岸隆著『ワルラス経済学入 ドイツのオルガン、ハープシコード奏者。ライ者として知られる。 門』 ( 一九会・岩波書店 ) ブツイヒ生まれ。一六歳で失明したが、生地のワールフルク 0 ( ( 0 Heinrich Warburg De 一き、ミ e 、 sse ミ一 ) 0 をミ うわじま 音楽院でギュンター・ラミンに師事、一九二六 ー一九七 0 ) ドイツの生化学者。二〇世紀前 きミ ( 一会一 ) 、『社会的富の理論について』和霊神社われいじんじゃ愛媛県宇和島市和 ゃんべきみよりのみたま 年には同地の聖トマス教会ォルガン奏者に任命半における生化学のバイオニアの一人。フライ De 、ミ。 de richesse sociale ( 天四九 ) な霊町に鎮座。祭神は山家公頼之霊。公頼は通称 せいべえ だてまさむね 、もと伊達政宗の家臣。一六一五 された。二九年以後はフランクフルトを中心にプルクで物理学者の子として生まれる。・ヘルリ どの著作があり、息子レオンに大きな影響を与清兵衛といし エコール・ポリテクニク ひでむね ン大学でフィッシャーに師事し、のちハイデル えた。レオン・ワルラスは、理工科大学校の入年 ( 元和一 ) 政宗の長男秀宗の宇和島移封に従 演奏、教育活動を続け、七七年に引退した。こ の間、みごとな構成力と精神性の表出を一致さ ベルク大学に学んだ。一九三一年以降、死亡す学試験に失敗し、一八五四年鉱学校に入学、って、その家老として藩治に大いに功績があっ・ せたバッハ解釈により、つねに二〇世紀のもっ るまで、ベルリン・ダーレムに新設されたカイ専門の勉学をよそにして、文学、歴史などに熱たが、二〇年に暗殺された。没後神異があり、 中する数か年を送ったが、五八年二四歳のとき五三年 ( 承応一 l) 本社が創建。一七三五年 ( 享 とも優れたバッハ解釈者の一人として高い評価ザー・ウイルヘルム ( 五三年以後はマックス・ かまえ こより社会科学に専念する決保二〇 ) 鎌江城跡の現地に遷座した。四国では と尊敬を集め、二度にわたりバッハのオルガンプランク ) 細胞生理学研究所長として研究を続有名な父との対話し 〈美山良夫〉けた。彼はワールプルク検圧計という、細胞や意をした。その後、雑誌記者、会社員、協同組庶民の厚い信仰が寄せられている神社である。 曲全曲をレコード録音した。 〈落合偉洲〉 組織のガス交換を精密に測定する計器を考案合運動などをしながら研究を進めた。六〇年に 例祭日七月二三、二四日の両日。 ワルファリン warfarin 血液凝固阻止剤 ( 抗凝血剤 ) で、肝臓における血液凝固因子し、この器械はその後多くの研究室で広範に使は『経済学と正義、プルードンの経済学説の批われ思う、故にわれ在りわれおもう、ゆ 一フ ( 第Ⅱ・第Ⅶ・第Ⅸ・第因子 ) の生合成を抑用された。彼の研究業績を大別すると、細胞呼判的検討と反論』ト。きミをミミミを s ・ えにわれあり Je pense, donc Je SLIIS 冖 制し、クマリン誘導体としての抗凝血作用を現吸、光合成、癌になる。まず細胞呼吸のメカニ . ・ E. きミ ~ c 、ミミ、 ~ 、 0 ミ des doc ・ テン語ではコギト・エルゴ・スム cogito ergo す。医薬品としてはワルファリンカリウムが使ズムに関する研究は、彼の研究のなかでもっと 、斗ミ s 0 ミミ s ミ . P. ト P きぎミを sum0 デカルト哲学の第一原理として知られ われる。これは白色結晶性粉末で、においがな も重要なものであり、呼吸に対する低濃度の青著し、同年ローザンヌで開催された国際租税会る命題で、『方法序説』 ( 一六三七 ) 第四部および そくせん 議で注目を集めたが、 七〇年にローザンヌ・ア『哲学原理』 ( 一六四四 ) 第一部にみいだされる。主 く味はわずかに苦い。血栓症や塞栓症の治療お酸や一酸化炭素の強い阻害作用の知見から、 ( 一八九一年大学となる ) の教授に就著『省察』 ( 一六四 D にはこれと異なった表現が よび予防に適用される。また、、、 ヒタミン剤と鉄・ポルフィリンをもった酸化酵素 ( ワールプカデミー きっこう 与えられているが、議論の大筋に変わりはな よく拮抗するので、本剤の過剰投与による出血ルク呼吸酵素とよばれた ) の発見など、その後任するまでには一〇余年を要した。 。デカルトはこれまで彼が受け入れてきた意 ローザンヌに移ってからは着実に研究成果を 傾向はビタミン剤の投与で阻止できる。錠剤の細胞呼吸の研究の端緒をつくった。この研究 ( 一ミリグラム、五ミリグラム含有 ) が市販されてで三一年ノーベル生理学医学賞を受けた。またあげた。まず一八七三年には「交換の数学的理見をすべて徹底的に疑ったあげく、このように いる。初回二〇 ~ 四〇ミリグラムを経ロ投与し、金属を含まないフラビン酵素 ( 黄色酵素 ) 、糖論の原理」を発表して限界効用原理を確立し、疑う自我、思惟する自我の、存在そのものは疑 一両日休薬して凝固能を確認後、一日一回一 ~ 代謝におけるべントースリン酸回路 ( ワール。フついで二商品交換の理論から多数商品交換の理うことができないのに気づいてこの命題を確立 五ミリグラムを維持量とする方法と、初めから五ルクーデイケンス回路 ) 、六炭糖リン酸脱水素論へ、またこれら商品が生産されたものであるした。さらにそこからこの自我を精神すなわち ~ 六ミリグラムを一日一回投与する方法とがあ酵素、 Z<QO* 、助酵素Ⅱ ) などを発ことに着目して、生産要素である土地用役、労知性的実体として定立したのである。先駆思想 あやま る。絶えず血液凝固能検査 ( プロトロンビン時見した。光合成に関しては、光量子収量を最初働、資本用役の需給量と価格の決定を含む生産としてはアウグステイヌスの「もし私が過つな 巧テかあ 間の測定など ) を行う必要があり、また他剤と に測定した。癌については、癌細胞の代謝に関理論へ、さらに資本財の生産を扱う資本化の理ら、私は存在する」 Si fallor, sum 〈宇佐美正一郎〉 論へと展開を進め、それらは不朽の名著『純粋り、また一九世紀のフランスの哲学者メーヌ・ の相互作用が多くみられるので注意する。なお、する先駆的な研究を行った。 ド・ビランがこれにかえて、「われ欲す故に 極量は一回七五ミリグラムである。〈幸保文治〉悪者小説わるものしようせつ 0 ピカレスク経済学要論』 E ミミ s d 。きミをミミ しようせつ トミ e ( 天七四 ~ 七七 ) に結実した。『要論』のあとわれあり」お veux, donc je suis を第一 ワール " フルク Emile Gabriel Warburg 彼は貨幣理論を追究し、八六年には『貨幣理原理としたこともよく知られている。 ( 天四六ー一九三一 ) ドイツの物理学者。ハイデルべワルラス Marie Esprit Léon Walras デカルトのコギト解釈をめぐって、いまなお ( 天三四ー一九一 0 ) フランス人で、スイスのローザ論』 T ミ 0 きをきを著したが、九二 ルク大学でキルヒホッフに学び、実験物理学に ひかれる。一八七二年、ストラスプールのカイ ンヌ大学の経済学講座の初代教授となり、一般年 > ・。ハレートに講座を譲って引退した。しか哲学者の間には意見の対立がある。その実在論 ザー・ウイルヘルム大学で、クントとともに気均衡理論の体系を確立し、ローザンヌ学派を創 し、その後も『要論』の改訂を続ける一方、論的解釈によれば、デカルトのコギトは思惟を介 してこの思惟とは異なった存在へとわれわれを 体の統計理論を研究、気体の熱伝導と比熱に関始した経済学者。一一一月一六日北フランスのエ文集『社会経済学研究』 Etudes 。き e so- する法則を発見した。七六年から二〇年間、フプルーに生まれる。父オーギュスト・ワルラス ciale ( 天九六 ) 、『応用経済学研究』 Etudes き・導くとされ、観念論的解釈はただ思惟の存在だ がん
の批判的摂取によって明確に文明単位の歴史考法的基礎づけを行ったのはサビニーである。民 法論』 ( 岩波文庫 ) ▽コリングウッド著、 論、歴史論理学、形式的歴史哲学、歴史認識論 法典編纂論に反対して書かれた「立法および法 松茂夫・三浦修訳『歴史の観念』 ( 一九七 0 ・紀察と文明の並行性の考究へと開眼した。 などとよばれるものに分けられる。前者は、歴 この著で、彼は従来の欧米の歴史家が抱いた学に対する現代の使命』 ( 一ハ一四 ) においてサビ 伊國屋書店 ) ▽ポッパー著、市井三郎・久 史の存在面というか、歴史のできごとや過程、 ニーは、法は一一一口語と等しく民族の共同の確信 野収訳『歴史主義の貧困』 ( 一九六一・中央公論国家を単位とする歴史観や、西欧文明を中心と その意味や価値に対して、後者は、歴史の認識 面というか、歴史学のあり方とか歴史的説明の 社 ) ▽ドレイ著、神川正彦訳『歴史の哲学』する文明観を克服し、世界史上に二一を数える ( 民族精神 ) によって有機的に生成するとの観 点から、蒙主義的自然法論による立法作業を ( 一九穴・培風館 ) ▽ウォルシュ著、神山四郎文明を設定してその等価値性を主張する。さら 論理などをめぐって、哲学的反省を深めようと するものである。 訳『歴史哲学』 ( 一九七九・創文社 ) ▽市井三郎 に文明発生の契機として、ファウストなどにヒ批判するとともに、慣習法研究の必要と歴史主 第一種の歴史哲学は、一八世紀にはポルテー 著「哲学的分析』 ( 一九六三・岩波書店 ) ▽茅野ントを得て、挑戦と応戦という原理を導入して義的法学の構築を訴えた。この法典論争を契機 にサビニーは「歴史法学雑誌』を創刊して学派 良男著『歴史のみかた』 ( 一九六四・紀伊國屋書文明の発生・成長・衰退・解体の諸過程を解明 ル、チュルゴー、コンドルセなど啓蒙思想の系 を形成したが、彼自身のその後の研究は民族法 譜において進歩史観として打ち出され、カント 店 ) ▽神山四郎著「歴史入門』 ( 講談社現代する。とりわけ、文明の衰退・解体に際して、 たるゲルマン法ではなく、もつばらローマ法を 創造的少数者が支配的少数者に変質することに 以後いわゆるドイツ観念論のうちに深められ 新書 ) ▽神川正彦著「歴史における言葉と よって世界国家の段階に到達するとともに、一対象とした。ローマ法を純粋化して法的概念を て、ヘーゲルという最大の思弁的歴史哲学を生 論理』 ( 一九七 0 、七一・勁草書房 ) 文明圏の中に、高度宗教を信じる内的プロレタ抽出する試みは、近代私法学の体系を準備した み出すに至る。この系統とは別に、一八世紀初 歴史と階級意識れきしとかいきゅういしき とはいえ、イエーリングらによりむしろその非 ノリアートによる世界宗教と、その外に外的プロ めにビコがあり、ヘルダーに至る道も忘れては Geschichte und KIassenbewusstsein ハ、 レタリアートの戦闘集団が発生して、文明は解歴史性が指摘されている。 ならない。さらに一九世紀は、一方ではマルクガリーの哲学者ゲォルク・ルカーチの代表作。 歴史法学の当初のロマン主義的な綱領に忠実 スの唯物史観という、いまなお人類史に大きな本書は、一九二三年の公刊以来、さまざまに論体し、動乱時代に入り、文明の一サイクルが終 影響を与えている歴史哲学を生み、他方ではコ評されてきた。いわく、主体・客体同一説的弁わるという記述は特色がある。それに続いて同であったのは、サビニーの弟子・グリムであ ントに代表されるような実証主義的な歴史哲学証法、疎外論を思わせる物象化論、弁証法的唯時代文明の空間的接触 ( 交流 ) と時間的接触る。彼は『歴史法学雑誌』に「法の内なるポエ ジー」と題する論文を寄せて、古ゲルマンの慣 が形づくられる。一九世紀の偉大な歴史哲学物論に反対する史的唯物論主義、ロマン主義的 ( ルネサンス ) を説明し、歴史における法則と な全体性論、等々。本書の主題は、第一次世界自由の問題を論じる。人間は「自然の法則」の習法にみられる法的言語の象徴的性格に着目し は、ヘーゲル、マルクス、コントとそれそれ大い た。いわゆるグリム童話や『ドイツ語辞典』 に異なるにせよ、発展段階説という共通の性格大戦後、西欧の運命について絶望的な雰囲気が支配だけで生きているのでなく、神の呼びかけ に対する人間の応答という「神の法則」のもとおける民俗学的なハレ言語学的業績は、グリム 流れるなかで、歴史の全体性をいかにとらえる を示している。ところが二〇世紀となると、シ かという高らかなものであった。そのために に生きており、人間の自由は愛である神によっ にとって慣習法研究と一体のものと考えられて ュペングラーをはじめソローキン、クロー トインビーなど、歴史の発展ではなく歴史の循は、現代社会において物象化されているプロレてのみ与えられる。したがって近代西欧文明は イギリスの歴史法学としては、メーンの〕。古 タリアートの立場にたっことである。商品形態 「自然の法則」の解明と応用に人類末踏の成果 環なり没落なりを強調する歴史観が登場する。 第二種の歴史哲学は、歴史学および歴史主義の登場によって、歴史は主体と客体に分離せしをあげたとはいえ、人類存在の奥義に盲目であ代法』 ( 天六一 ) に展開された法発展論や、ビノ の進展が一定の反省期にさしかかった一九世紀められた。プロレタリアートは客体の位置にあったところに西欧文明および西欧化されたすべグラドフによる歴史的法理念型の理論がある。 り、だからこそ、分離された主体と客体とをふての現代文明の危機を直視すべきだと説き、高ともに分析法学の思弁性を批判して法と社会の 後半に生まれた。一方、新カント主義を中心と かかわりを追究した点に意義がある。フランス たたび同一にもたらす役割を担いうるのだとい 度宗教による文明救済の道を提示している。 してリッケルトなど歴史学の認識論的基礎づけ トインビーの歴史研究は、文明の客観的・科では、歴史学者のミシュレやフュステル・ド・ うのである。プロレタリアートの意識的実践を が求められたが、この系譜に・ウェーバ クーランジュに、歴史法学的傾向が認められ 学的比較研究から文明における宗教の機能と役 強調する本書は、一九二四年、コミンテルンに 方法論も連なっている。他方、ディルタイなど 〈堅田剛〉 よって観念論的逸脱と批判された。にもかかわ割の重視に至ったところに特長があり、反面多る。 の生の哲学が歴史認識の了解的な構造を明らか くの批判も加えられている。 らず、本書は西欧マルクス主義の古典として、 にしようとした。この系譜は、イタリアのクロ 〈秀村欣二〉歴史物語れきしものがたり日本文学史上の 一ジャンル。歴史に取材した物語の総称。作品 ーチェ、イギリスのコリングウッドへと展開す一九二〇年代以降の思想に大きな影響を与えて回下島連他訳『歴史の研究』全二五巻 ( 一九六六 ~ おおかがみ ^ 清水多吉〉 七一一・経済往来社 ) ▽長谷川松治訳『 ( サマヴとしては、『栄花物語』『大鏡』『今鏡』『水鏡』 る。ところが、このようなコリングウッドの観きた。 ます あきっしま 『増鏡』などがあり、これに『秋津島物語』 ( 作 回城塚登他訳『歴史と階級意識』 ( 一九穴・白水 エル編 ) 歴史の研究』全五巻 ( 社会思想社・ 念論的な立場を批判するところから、ポツ。ハー ゆくえ 現代教養文庫 ) ▽桑原武夫他訳『図説歴史者不詳 ) 、『月の行方』 ( 荒木田麗女 ) 、『池の藻 社 ) ▽林誠宏・吉田浩司編注『歴史と階級 など論理実証主義的な歴史理論が提起されたの くず 屑』 ( 同上 ) を加える説もあり、これらをあわ 意識』 ( 一九 0 ・昭和堂 ) の研究』 ( 一九七五・学習研究社 ) である。歴史哲学は本来人類史の危機や転換期 に直面してその課題にこたえることを求められ歴史の研究れきしのけんきゅう A StudY 歴史法学れきしほうがく historical juris ・せると、神代から一六〇三年 ( 慶長八 ) まで一 of History アーノルド・・トインビーの prudence 法の歴史的性格を重視し、これを貫した物語となるが、「秋津島物語』以下の三 て構築されるが、それだけ今日混迷の度も深い といわねばならない。 〈神川正彦〉主著。一二巻。一九三四 ~ 六一年刊行。彼は第民族の文化総体との連関でとらえようとする方作品は、鏡物の体裁を模倣して書かれているも 法論的立場、あるいはこの方法による実証的研のの、厳密な意味では、歴史物語とはいえな 一次世界大戦が起こったとき、オックスフォー 回ヴィーコ著、清水純一・米山喜晟訳『世界の ↓鏡物 名著芻新しい学』 ( 一九七九・中央公論社 ) ▽ド大学でトウキディデスについて講読中、古代究をいう。一九世紀初頭のドイツに興り、イギ も 歴史物語は、摂関政治から院政へ移行してい リスやフランスの法理論にも少なからぬ影響を ヘーゲル著、武市健人訳『歴史哲学』全三冊ギリシア史と現代史との類似性、すなわち哲学 し く時代を背景に発生した。当時の作り物語は、 ( 岩波文庫 ) ▽クローチェ著、羽仁五郎訳的同時代性の存在を意識し、世界史の比較文明与えた。その同調者は歴史法学派とよばれる。 よるわざめ ドイツの歴史法学は、法源の歴史的な探究を『狭衣物語』や『夜の寝覚』などのように、司源 3 論的考察の発想を得た。さらに一九二〇年、シ 『歴史の理論と歴史』 ( 岩波文庫 ) ▽ウェー ー著、富永祐治・立野保男訳『社会科学方ュペングラーの『西洋の没落』に触発され、そ提唱したフーゴーを先駆者とするが、これに方氏物語』を模倣しながらも、それそれに新生面 3 、・ニ一ろも へんさん
高野潤 楚山勇 大安寺 高野神社 高野ッャ子 第一園芸 高野晴夫 第一商事 高野秀昭 大雲院 高橋栄一 大映 大覚寺 高橋喜平 高橋健司 大興寺 高橋左門 醍醐寺 太子町役場 高橋情報システム 高橋貴 大修館書店 高橋孜 大樹寺 大成建設 高橋昇 大聖寺 高橋文和 高橋光 退蔵院 高橋洋茸園 大蔵寺 高村規 大通寺 高山辰雄 大東急記念文庫 台東区立下町風俗資料館高山不動常楽院 宝塚歌劇団 大徳寺 田川一夫 大日本除蟲菊 タキイ種苗 大日本茶道学会 大日本猟友会 瀧沢晃夫 大福田寺 滝谷寺 竹内園 大報恩寺 当麻寺 武田科学振興財団・ 杏雨書屋 大名時計博物館 大養寺 竹田賢正 武田信夫 大洋ミンク販売 大竜寺 武田弘 武田豊 大隣寺 武田陽 田枝幹宏 竹中大工道具館 高井潔 竹中英雄 高尾龍三郎 髙島屋 多賀大社 竹原伸治 武生市教育委員会 高田嘉七 高田博厚 竹股健六 竹本泰一 高田弘之 凧の博物館 高槻市教育委員会 田島正 高梨斉 タスク・インターナシ 高輪美術館 ョナル 田高昭二 多田信 タチカラ 橘右近 立花吉茂 タックイメージング 辰馬考古資料館 辰馬本家酒造 巽英明 立松光好 立山町役場 田中一栄 田中公明 田中重 田中仙翁 田中正武 田名弘 谷口旭 谷崎松子 谷沢鞄店 渓久 谷村良治 田沼武能 種子島開発総合センター 種子田定俊 種村ひろし たばこと塩の博物館 田畑みなお 田原町教育委員会 玉置憲一 多摩丘陵病院 たまごの会 多摩美術大学 手向山神社 田村仁 田村洋一 為岡進 淡交社 丹後織物工業組合 チェスコ 知恩院 知恩寺 東映 都久夫須麻神社 茅ヶ崎市教育委員会 津島美知子 東映クラシックフィルム 東淵寺 竹生島神社 ったや旅館 東海汽船 筑摩書房 土村清治 東海銀行貨幣資料館 土本典昭 地質計測 東海大学 智積院 筒井新一 医学部外科学教室 秩父市立民俗博物館 堤勝雄 角田健司 情報技術センター 致道博物館 チトセ 椿敬介 海洋科学博物館 童学寺 坪川貞純 茅野市尖石考古館 東京アショカ 千野製作所 鶴岡繁 東京アスレティッククラブ 千葉克介 鶴岡八幡宮 東京 O センター 千葉県立安房博物館 都留市教育委員会 東京医科歯科大学歯学部 千葉市加曽利貝塚博物館ツルモトルーム チャイナ・フォト・セン帝国ホテル 東京海上火災保険 貞照寺 東京ガス 東京計器 茶道総合資料館 逓信総合博物館 中央公論社 滴翠美術館 東京芸術大学芸術資料館 笛畝人形記念美術館 東京光学機械 中央宝石研究所 デザイン一一ユース編集部東京航空写真研究所 中央放送エージェンシー 東京国立近代美術館 中宮寺 勅使河原幸子 東京国立博物館 中国新聞社 鉄舟寺 デュポン・ファーイースト東京国立文化財研究所 中国通信社 東京シネマ 日本支社 中尊寺 東京珠算史料館 寺崎誠 中部電力 寺島マサ 東京証券取引所 中部日本新聞社 東京消防庁 寺島雅子 中南米音楽 東京女子医科大学 テレビ朝日 長恩寺 東京大学 天球院 長興寺 医学部医用電子研究施設 天台寺 彫刻の森美術館 史料編纂所 電通 朝護孫子寺 船型試験所 天童木工 朝鮮画報社 総合研究資料館 天寧寺 長福寺 総合図書館 調布市武者小路実篤記念館デン・フィルム・エフェ 東京天文台 千代田診療所 テンヨー 文学部考古学研究室 千代田スタジオ 天理教表統領室 文学部国語研究室 鎮国守国神社 天理大学 文学部国文研究室 陳立人 ツアーイ ( . ト・フォ - ト 法学部附属明治新聞 附属天理参考館 雑誌文庫 附属天理図書館 津上工販 理学部人類学教室 天竜寺 佃幹雄 理学部附属植物園 電力中央研究所 筑波大学図書館 868
せいるわけではない。とくに第三の主題に関して理論生物学りろんせいぶ 0 がく ( h 。。「。 ( 一。巴根拠を問う認識論、科学方法論、論理学などることの結果として、しばしば末知の粒子の存 6 は、アメリカの・・マートンが、データの biology 古くは生命論に関係した種々の仮説が、むしろ理論哲学の中心と考えられるに至在や、末知の場や粒子の運動が理論的に予見さ サっ単純な経験的一般化命題 ( 作業仮説 ) と、あるや、生物学的方法論などを理論生物学とよんでる。ただし、実践的言動それ自体も理論的考察れ、まもなくこれらが実験的にみいだされた例 が少なくない 説明原理から演繹的に体系化された統合的一般 いたが、近代生物学の発展に伴って、現在ではの対象となり、逆に、純理論的探究や態度も一 物理学が実験物理学と理論物理学に分化した 理論 ( 古典的理論にみられるような ) との中間 いろいろな生物学分野での実験や観察データを種の実践的行為と考えられるから、理論・実践 せつぜん の截然とした一一元論には批判的な傾向も現代でのは、実験的研究および理論的研究に必要な知 領域に、限定された領域のみに適用される検証踏まえたうえでの理論的な解析を目的とした学 は有力である。↓実践哲学 〈杖下隆英〉識技術が複雑多岐にわたって、同一人がこれら 口を全般的にさしていう。 可能な仮説のセット ( 中範囲の理論 theory of 門 近年の分子生物学の目覚ましい発展によっ middle range) を確立することを、理論構成 理論物理学りろんぶつりがく theoretical を身につけ駆使することが不可能になったため の戦略的目標とすべきであると主張して注目さて、種々の生物現象の分子レベルでの素過程が physics 物理学の研究対象すなわち物理現象といわれている。最近の測定の自動化と計算機 れた。たとえば社会移動論やレファレンス・グ明らかにされてきたが、それらを物理や化学のを理論的に研究する分野であって、実験物理学使用の多様化が物理学の単一化を促していくよ とともに物理学全体を構成する。観測・測定の うにも考えられるが、われわれの日常の世界と ループ ( 準拠集団 ) の理論などの特殊理論は、法則を基礎にして解析し理解しようという理論 一方で経験的データと直接につながり、他方で的な研究がある。核酸やタンパク質などの生体結果は現象に関する直接の情報を与える経験事研究の対象とする領域との間の距離はかえって はその蓄積を通して一般理論の洗練に貢献しう 高分子の構造や分子論的機能を明らかにし、酵実であるが、そのままでは現象を生じさせた基大きくなってきており、このことは両者の分化 るとしている。↓応用社会学 〈大塩俊介〉素反応、光合成、筋収縮、生体膜、神経興奮伝本的な物質とその運動法則とを示さない。現象を強めていくとも考えられる。いずれにしても E)Y„・・マートン著、森東吾他訳『社会理論達などの分子的素過程の基本的機構を解明するからその背後にある基本的要因をみいだし、こ物理学の研究は両者の協同によって初めて進ん 〈田中一〉 れに基づいて現象を理解しうるためには、このでいくものである。 目的の理論的研究が行われている。 と社会構造』 ( 一九六一・みすず書房 ) ▽・ しよと , っ また一方で、対象とする生物学的な系の特性ことを可能にする理論的方法を用いなければな ーソンズ著、佐藤勉訳『社会体系論』 ( 一九 リーワード諸島 lslands カリブ海東部、小アンティル諸島北 七四・青木書店 ) ▽青井和夫編『理論社会学』を反映させた数学的な理論モデルを設定し、そらない。 理論的方法の出発点は理論的課題の設定であ部の列島。プエルト・リコ島の東から、ドミニ ( 一九七四・東京大学出版会 ) のモデルの解析から得られる結果に基づいて現 理論生計費りろんせいけいひ theoretical 象の本質を探究しようとする理論的研究が最近る。理論的課題の第一は、実験的事実や広い経カ海峡までの島々で、南東に約四〇〇キ。にわた cost of living 労働科学、生活科学などによ盛んに展開されている。とくに集団遺伝学、生験的事実に基づく通念あるいはすでに得られてって連なる。イギリスおよびアメリカ領のバー る理論的研究の成果などに基づいて現象の一 って理論的に接近して得た生計費をいう。総務態学、発生および形態形成、神経回路網などでい ジン諸島、オランダ領のサン・マルタン島、サ ハ島、セント・ユスタテイウス島、フランス領 庁の「家計調査」や経済企画庁の「消費動向調は、こうした数理モデルによる研究が有効な手般的・基本的法則をみいだし、物質の基本的属 ・ガラント島、イギ 性を明らかにするとともに、これらを包含したのグアドループ島、マリ 査」などのように、実際の家計調査による生計段として幅広く展開されている。 リス領のモントセラト島、アンギラ島、独立国 費を実態生計費というのに対比される概念であ 使われる数学的手法も力学系の理論、システ理論体系を構成することである。その第二は、 第一の課題とは逆に、すでにみいだされているのアンティグア・バー。フーダ、セント・クリス る。理論生計費の算定方法には、家計費目のすム論、オートマトン理論、さらに最近ではゲー ー・ネイビスなどからなる。島々の大部 べてにわたって理論的な標準を決め、それを積ム理論など多様である。後者は普通、数理生物理論体系や物質の基本的属性に基づいて現象をトファ み上げて生計費を算定する全物量方式と、飲食学とよばれることが多いが、それは近代の理論理解し、現象に関する諸法則を根拠づけ、現象分は火山島であり、北東貿易風の影響で風上斜 生物学の発展の特徴を表すもので、理論生物学や諸法則に関する認識を深化させるとともに、面は雨量が多く、山は森に覆われている。ま 物についてだけ理論的に算出し、これをもとに エンゲル係数から逆算して生計費を算定する半のなかでも重要な位置を占めているといってよ理論体系と物質の基本的な属性に関する認識をた、周囲が海のため、気温が和らげられ、気温 ともなが 〈寺本英〉より豊かにすることである。朝永振一郎は、理の年較差は少なく、避寒地となっている島が多 物量方式とがある。 論物理学が実証かっ論証の科学であることを強 。主産物は果物、サトウキビ、綿花、コーヒ わが国における理論生計費の例としては、日 理珊哲学りろんてつがく theoretical phi ・ 、タバコなどである。 〈菅野峰明〉 本労働組合総評議会 ( 総評 ) がかって労働者の theoretische Philosophie イ losophy 物理学の研究は現象の精密な量的把握に始ま 賃上げ要求額の根拠として示した「理論生計 philosopie théorique 実践に指針を与え リン Lynn アメリカ合衆国、マサチュー 、キっ ) 費」、人事院や地方公共団体の人事委員会が公る実践哲学と対照される哲学の分野をいう。アる。そのため、理論的課題やその展開には数学セッツ州東部の都市。ポストンの北東一六 務員給与改定勧告に付随して示す「標準生計 リストテレスは観想を実践から分かち、また、 の処法を手段として用いるのが通常である。ま位置する。人口七万八四七一 ( 一九八 0 ) 。古くか なおみち 費」、一九七一年 ( 昭和四六 ) に船橋尚道が文学を理論的、実践的、制作的の三種に区分し た物理学における研究一般、とくに理論的研究らの工業都市の一つであり、かっての国内最大 化的内容を盛り込んだ四人家族の生計費としてた。その場合、理論哲学はかならすしも超越的 において、模型を設定しこれに基づいて考察をの靴製造地として知られている。一六三五年に 設定した「基準生計費」などがある。諸外国に存在でなく自然も含む万象にかかわる理論的探行うことが多い。模型とは、対象の属性あるい 最初のハンド・メードの靴工場が建設されて以 おいても各種の理論生計費が作成され、公的扶究を意味したが、哲学の中心的、究極的観想は はその運動の一部を共有するよう人為的に構成来、一八九〇年代ころまでつねに業界の頂点に 助の最低生活費や労働組合の賃金要求の基準な個々の存在でなく、存在一般を対象とする第一 された解の可能な力学系である。共有する属性位置し、「靴の町」の異名をとった。現在はか けいじじよう どに利用されている。しかし、理論生計費に 哲学または形而上学に求められ、しかも、彼はや運動の範囲が広い場合この模型は有効であわって電気機械、輸送機器、ジェット・エンジ は、その大きさや内容が想定する生活状態をど直観的理性による神の認識を最高の理想と考える。有効な模型をみいだしこの模型を物質の基ンなどの生産を中心に発達する。一六二九年に ソーガスとして町が開かれ、一八五〇年より市 こに求めるかによって異なってくること、生活た。中世キリスト教神学もその性格、目的から本的属性と理論体系から根拠づけることは理論 〈作野和世〉 的研究の重要な課題である。 内容の多様化や消費構造の変化に対応しきれな右のアリストテレスの傾向を継ぐ。 制が施行された。 いこと、などの問題点も指摘されている。↓生 だが、近世で認識論が盛んになると、形而上 理論的課題とその解決が、すでにみいだされリン phosphorus 周期表第Ⅷ族に属し、 計費↓標準生計費 〈小泉幸之輔〉学よりも、科学や形而上学自体の主張の権利・ た物質の基本的属性や基本的法則に基づいてい 非金属元素の一つ。一六六九年ドイツの錬金術
わせおば 〔歴史〕一八 八一年挂冠した大隈は、政党 月 のほかに、学問を政治より独立させ自由の 精神を養う私学創設の念やみがたく、小野 あずさ さなえ ムロ る梓に諮り、小野のもとに集まる高田早苗、 明 ためゆき おうと 天野為之ら七人の渡会の青年たちの助カ 年 を得て体制を整え、翌八二年一〇月二一 学 学 文 日、東京専門学校を開校した。開校時、政 大 田号 稲刊 治経済学科、法律学科、理学科 ( 八三年廃 早創 止 ) の三科と英語学科を置き、三科はもっ ス ばら邦語をもって講義する。入学金一円、授業六五人、学生二万四三二九人であった。五一年 Ä料月一円、修業期限三年。八六年小野が没し、新制大学院として政、経、法、文、商、エ ( 六 ャ 高田の発案により大隈家から経済的に独立し、 一年理工と改む ) の六研究科発足。五六年二 キ る 別に政治、法律二科の講義録による通信教育を月、アメリカのミシガン州立大学と提携し生産 ・カ しようよう 広始めた ( 校外生 ) 。九〇年坪内雄蔵 ( 逍遙 ) の性向上に関する共同研究を開始、大学内に生産 前提議により文学科を創設、翌九一年『早稲田文研究所を設置する。翌五七年、創立七五周年式 台学』創刊。一九〇二年 ( 明治三五 ) 九月、早稲典 ( 一〇月二一日 ) 前日、記念会堂竣工、立席 囃田大学と改称。〇四年大学部に商科開設。そのを加えて一万人を収容する。六六年社会科学部 しん 堂 翌年清国 ( 中国 ) 留学生部を置き一時は八〇〇設置。ミシガン大学提携前後より海外との交流 講 隈人を受け入れたが一〇年閉鎖。 しだいに多く、六三年国際部開設、諸外国大学 一九〇七年、創立二五周年に校歌っ都の西との学術交流協定も多くなる。八二年創立一〇 >•J よふう とうぎてってき 宮正之訳『和声の歴史』 ( 白水社・文庫クセ一万分の一地形図「池袋」「新宿」 北』相馬御風詞、東儀鉄笛曲 ) 制定。〇九年理〇周年を記念して諸事業を計画し、埼玉県所沢 みじま ジュ ) ▽ < ・シェーンベルク著、上田昭訳早稲田軍研事件わせだぐんけんじけん大正工科開設。翌一〇年野球部など七部を統轄して市三ヶ島に人間科学部、人間総合研究センター りようあん 『新版和声法ーー和声の構造的諸機能』 ( 一九後期の早稲田大学における学生たちの反軍活動体育部発足。創立三〇周年は諒闇により一年を八七年に開設、別に安部球場跡地に総合学術 きよう 全・音楽之友社 ) 事件。早大軍研事件ともいう。一九二三年 ( 大延期し、一三年 ( 大正一 D 大学としての「教情報センターを建設中。八七年現在、九学部、 し 正一 (l) 五月一〇日、早稲田大学において、陸旨」が出された。その意は学問の独立、学問の 六研究科からなる大学院を擁し、大学院・学部 ワセオバナ「早生尾花〕 S ミミミミ から高等学院まで加えて学生数四万八一九二 《。ミをミ、ミ L. var. ミぎ Ohwi ィネ海軍当局と学長の同意を得て、参謀本部の幹部活用、模範国民の造就で、大学の校是を一小すも かん あおやをあつつね 科の多年草。稈は株立ちし、直立して高さ言 たちと密接な青柳篤恒教授を指導者とする学生のであった。一七年、学長問題で世にいう「早人、うち留学生六七一人 ( 女子一一四人 ) 、別 よしお に達する。 ~ 九月、稈頂に、銀白色の長毛が たちの軍事研究団が、「衆に率先して軍事一般稲田騒動」が起こったが、平沼淑郎 ( 一会四ー一九 に委託学生・聴講生等六六六人、教職員四三六 あり、成熟するとばらばらに花序軸が脱落するの考究」をすることを目的として発会式を行っ 三 0 が代表者として事を収めた。その年、新大六人。本部は東京都新宿区西早稲田一ー六 えんすい いくお まなぶ 〈滝ロ宏〉 円錐花序をつける。小穂は対になって同形、小 た。これに対し、大山郁夫教授や佐野学講師を学令公布、大学はただちに準備を進め、申請、 花が二個ある。本州南部の太平洋沿岸に群生顧問とする文化同盟 ( 建設者同盟の学内団体 ) 一一〇年一一月認可された。一一一一年一月大隈没、国回早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年 し、基本種は広くアジア南部に分布する。サトの会員を主とする学生たちが、反軍の立場から民葬。大隈邸が大学に寄付され大隈会館とし 史』全七巻 ( 一九全 ~ ・早稲田大学出版部 ) ウキビとは同属で、ともに稈や根茎に糖分を含発会式を妨害し、一二日には双方の支援学生のて、一隅に大隈記念講堂開館 ( 一九一一七 ) 。その以 ▽同編『都の西北 建学百年 ( 写真帳 ) 』 む。 〈許建昌〉 間に流血の大乱闘が起こった。その結果、軍事前の二五年には図書館、このあとの二八年 ( 昭 ( 一九全・早稲田大学出版部 ) かんだ 研究団も文化同盟も解散したが、この事件は、 早稲田わせだ東京都新宿区北端、神田川 和三 ) 演劇博物館竣工。↓演劇博物館↓早稲早稲田文学わせだぶんがく文芸雑誌。〔第 の南側にある地区。町名に早稲田町、早稲田鶴約一か月後の六月五日の第一次共産党事件の一 田車研事件 一次〕一八九一 ~ 九八年 ( 明治二四 ~ 三一 ) 。 じゅうりん いのまた しようよう 巻町、早稲田南町、西早稲田がある。低地は水端をなす早大研究室蹂躙事件 ( 佐野学・猪俣 一九三二年創立五〇周年、このころから満州 坪内逍遙主宰。当初、東京専門学校 ( 現早稲 つなお 田地域であったことが地名の由来から知れる。津南雄両講師らの研究室がある恩賜館が捜索さ事変、日中戦争、やがて第二次世界大戦へと推田大学 ) 文学科の講義録的内容。やがて「記実 おおくましげのぶ 八二年 ( 明治一五 ) 大隈重信によってこのれた事件 ) の大きな伏線となった。なお早大で移し、太平洋戦争下四五年五月、空襲により諸主義」の方針を打ち出し、「彙報」欄に特色を 」れ・つかい 地に創立された早稲田大学 ( 当時は東京専門学は、一九三〇年代に至るまで大小の反軍活動が施設の三分の一、延べ九〇〇〇坪焼失。 みせる。逍遙の森外との間の「没理想論争」 校で一九〇二年改称 ) の名で全国に知られる。展開された。↓軍事教練反対運動〈佐藤能丸〉 〔現況〕戦後、一九四九年 ( 昭和二四 ) 四月新の拠点でもあった。〔第二次〕一九〇六 ~ 二七 かんせんえん みずいなり 都電荒川線早稲田駅付近に甘泉園公園、水稲荷回早稲田大学大学史編集所編「早稲田大学百年構想による大学発足。学部を政治経済学部、法年 ( 明治三九 ~ 昭和一 I)O 島村抱月、本間久雄 あだうち ぎよふう 神社、堀部安兵衛仇討の碑などがある。営団地 史第三巻』 ( 一九・早稲田大学出版部 ) 学部、文学部、商学部、理工学部ともに第一、 主宰。抱月、相馬御風らの自然主義文学論、正 あなはちまん かたい 私立。一八 八一一第二に分け、高等師範部を母体とした教育学部宗白鳥、田山花袋らの小説を掲載して自然主義 下鉄東西線早稲田駅の西方台地上には穴八幡宮早稲田大学わせだだいがく そうせき おおくましげのぶ みなみとしま があり、また南東の早稲田南町の漱石山房跡に年 ( 明治一五 ) 大隈重信により東京府南豊島を加えて一一学部、早稲田高等学院等学校四、 の基地の観があり、海外の新文学の紹介などに 猫塚がある。 〈沢田清〉郡戸塚村に東京専門学校として開校。↓大隈重図書館・研究所等附属機関五、専任教職員一一一も力を入れたが、漸次文壇の主流の立場を失 鞣置 早稲田大学 1884 年 ( 明治 17 ) , 東京専門学校の全校生と職員。 背景の校舎は東イ大見 ( 東京都保谷市 ) に移築 , 現存する しゅんこう しいカん 早龕田文學 0 明せ 3 ネ十月一 ( 十ロ見 廖門學状 790
原田三郎・宇高基輔他訳『ポリシエヴィキ革語とする者が約一〇〇万人あり、アメリカ合衆 てもたらされた混乱を打開する新しい道を求めポリシェビキ、労働者に集中していたのに対 ~ 三』 ( 一九六七 ~ 七一・みすす書房 ) ▽ト国に約八〇万、カナダとヨーロッパに約二〇万 る人々の希望となった。ヨーロッパでは社会主し、スターリン批判後は研究範囲が各地域、民 ロッキー著、山西英一訳『ロシア革命史』全と推測されている。 義政党内の左派による共産党の組織化が進み、族などにも広がった。今日では、コンピュータ えんげん ・リード著、小笠原〔ロシア語の歴史〕ロシア語の淵源は遠く古代 三冊 ( 角川文庫 ) ▽ 新たなイデオロギーや文化を成立させた。まを使った社会史的分析も現れ始めているが、ポ にさかのばる。スラブ祖語は、紀元前二〇〇〇 豊樹・原暉之訳『世界をゆるがした十日間』 リシェビキ以外の諸党派、諸潮流の研究は依然 た、第三インターナショナルは、被抑圧民族の 年ごろからインド・ヨーロッパ語族の親族方一言 ( 一九七七・筑摩書房 ) 解放へ向けてのさまざまな模索を行ったが、一一として少ない ー丨ぐんかんっ群から漸次分離し始めて、後の発達段階とし 〇世紀のもう一つの人民大革命である中国革命 ソ連の主要な研究動向が、革命の主体、勝利ロシア軍艦対馬占拠事件 八六一年 ( 文久一 ) 二月て、およそ一世紀から七世紀にかけてスラブ共 に大きな影響を与えた。また、現在でも第三世の必然性の解明にあるとすれば、初期の欧米のしませんきよじけん一 から八月までロシア軍艦ポサドニック号 ( 艦長通基語を形成した。共通基語時代のスラブ族が 界の発展にとっては避けて通れない多くの問題研究は、革命による亡命者の影響が大きかった しも ~ キ ~ どこに住んでいたかは論争の多い問題である を提起した。 ため、革命の原因論、責任論が大きな比重を占ビリレフ ) が、対馬芋崎近辺の租借権を要求し 〔日本への影響〕十月革命に対する日本政府のめた。臨時政府首相として革命の一方の当事者て占拠した事件。その間、対馬藩は対応に追わが、紀元前一世紀の後半から紀元一世紀の初め にかけて、東はドニエプル川中流域から、西は 対応は、一九一八年 ( 大正七 ) 八月から一三年であったケレンスキーが編集した大部な史料集れ、警備にあたった島民が小競り合いの際に被 ビスワ川上流域、北はプリピャチ川以南、南は 一〇月に至るシベリア干渉戦争 ( シベリア出『ロシアの臨時政府』 ( 全三巻 ) などは、それら弾し、また艦員に捕らわれた家臣が憤死するな ぶギ一よう ど、緊張が続いた。幕府は外国奉行を対馬に派ステップと森林帯の中間地帯に至る領域を居住 兵 ) であった。ロシアが革命によって弱体化しをめぐる論争の産物といえる。他方、このよう な立場と一線を画したイギリスの・・カー 遣する一方で、ロシア領事ゴシケビチと退去交地として占めていたものと考えられる。一世紀 たのを機に、朝鮮、満州 ( 中国東北 ) に続き、 後半になると、スラブ族の居住領域は著しく拡 バイカル湖以東のロシア極東部を日本の勢力圏は、革命とそれが生み出した政治、経済、社会渉を行い、またイギリスの圧力もあって、よう に組み込もうとするものであった。その過程秩序の体系的な分析を行い、各国の研究者に大やくボサドニック号は退去した。この事件は、張された。二世紀から四世紀にかけてスラブ族 は、極東進出をねらうアメリカとのさまざまな きな影響を与えた。現在、ロシア革命の研究は欧米列強の東アジア進出により日本海と東シナの居住地は南下してきたゲルマン族 ( ゴート 海を結ぶ対馬の戦略的重要性が高まったために族 ) によって荒らされ、おそらくそれが原因と 対立を生みながら進行したが、最終的には成功実証的で広範な分野に及んでいる。 しなかった。他方、大逆事件以来「冬の時代」 〔日本〕日本でロシア革命の研究が本格的に始起こったもので、その経緯にイギリスが深く関なって、スラブ族は東スラブ族と西スラブ族と 与したのもそのためである。また、この事件 に分裂し、孤立化した。 にあった少数の社会主義者は、十月革命に期待められたのは、第二次大戦後、とくにスターリ を寄せた。、、 イへリア出兵反対運動や労農ロシア ン批判以後である。一九五〇 ~ 六〇年代には、 を、幕末維新期の日本の植民地化の危機を示す 五世紀末にはフン族の国家の崩壊後、スラブ 〈荒野泰典〉族の南方進出が始まり、七世紀までにバルカン 承認運動が大衆運動として展開されるのは一九革命の前提としての革命前の社会構造に研究が事例とする見解もある。 ま おうみ ~ 二二年で、小牧近江らの『種蒔く人』の集中し、六八年 ( 昭和四三 ) の共同研究 ( 江口回日野清三郎著、長正統編『幕末における対馬侵入を果たした。このようにして、六、七世紀 ばくろう には、スラブ族は、南西はアドリア海沿岸ま 呼びかけたロシア飢餓救済運動 ( 一九一一一 ) などに 朴郎編『ロシア革命の研究』 ) によって初めて と英露』 ( 一九天・東京大学出版会 ) ごインド・ヨーロッパ語族で、北東はドニエプル川上流域およびィリメニ 始まる。一三年の東京のメーデーでは「労農ロ第一革命、第二革命が本格的な研究の対象とさロシア語 シアの承認」が決議された。二五年一月、ソ連れた。その後、革命の過程の研究が進むなか中のスラブ語派に属し、ウクライナ語、ロシ湖まで領土を拡張し、それに伴い、スラブ族の と日本との間に日ソ基本条約が調印され、国交で、首都やレーニンに集中された革命像の克ア ( べロルシア ) 語とともに東スラブ語群を形種族的・一一一一口語的統一は崩壊し、東スラブ族、西 スラブ族、南スラブ族の三つの近親的民族群が が樹立された。しかし、日本の支配階級は、ポ服、革命が生み出した矛盾に注目する必要が認成する。スラブ語派中最大の勢力を有し、ロシ リシェビズムが日本、とくに日本の植民地とさ識され、そこに内戦期やスターリン時代を解明ア共和国の国語であるばかりでなく、ソ連のも形成された。東スラブ族の言語は七世紀から一 四世紀まで単一的なものとして存続した。それ れた朝鮮に浸透することを恐れた。治安維持法する鍵があることが指摘された。七〇年代後半っとも重要な公用言語でもある。 はその対策の一つであった。↓シベリア出兵 以降の研究では、革命ならびにソビエト権力と 〔ロシア語人口と地域〕一九七九年の人口調査は「古代ロシア語」 npeBHePYCCKH1i ↓日ソ基本条約 によれば、ソ連においてロシア語を母語とする drevnerusskiy yazik とよばれ、共通基語的 労働者、農民、諸民族との関係、さらにそれら 一一一口語人口は一億五三五〇万であり、ロシア人のな古期東スラブ語である。その主要な東スラブ と関係した諸党派の研究が比較的重視されてき ロシア革命の研究史 ている。 語的特徴は次のごとくである。①充音現象 ( ス 〈藤本和貴夫〉民族人口一億三七〇〇万をはるかに上回ってい ラ・フ共通基語のよ r. *ol, *er, ま一の流音 r, 〔ソ連・欧米〕一九二〇年代のソ連におけるロ回江口朴郎編『ロシア革命の研究』 ( 一九穴・中る。このほかにロシア語を第二母語とする二言 シア革命史研究は、豊富な史料の刊行で知られ 央公論社 ) ▽保田孝一著『ロシア革命とミ 語併用者が六一三〇万あり、合計二億一四八〇一を同じ母音で挟み、 0P0 , 日を epe, ene と ている。二〇年代初めから、革命史研究を専門 ール共同体』 ( 一九七一・御茶の水書房 ) ▽長尾万人がロシア語を用いている。この数字はソ連する現象 ) 。②共通基語の」 , 洋 *kt を . ェで継承した。③共通基語の鼻母音第 . が とする『プロレタリア革命』や『赤い年代記』 久著『ロシャ十月革命の研究』 ( 一九七三・社会総人口の八二 % に相当する。一九七〇年の人口 などの月刊誌が刊行され、多くの回想、史料、 思想社 ) ▽菊地昌典編『ロシア革命論』 ( 一九調査によれば、ロシア語を母語ないし第二母語 y, 工に変化した。④動詞の現在時称 ( 末来時 研究が公開された。このような二〇年代の研究 七七・田畑書店 ) ▽西島有厚著『ロシア革命とする一言語人口は一億八三八〇万で、ソ連総人称 ) の三人称の語尾が・ Tb であること。・一〇 書や史料の一定の総括のうえに書かれたのが、 前史の研究ーー血の日曜日とガポン組合』 ロの七六 % であったから、ロシア語人口は九年世紀末に古代ロシア ( キエフ・ルーシ。ルーシ トロッキーの『ロシア革命史』であった。その ( 一九七七・青木書店 ) ▽和田春樹著『農民革命 間に六 % の伸び率を示したことになる。ロシアはロシアの古名 ) はプルガリアよりキリル文字 ′」後、スターリン時代に停滞した革命史研究は、 の世界ーーエセーニンとマフノ』 ( 一九大・東語人口の大部分はモスクワを首都とするロシアと古代教会スラブ語を摂取して文書活動をおこ 、か′、い・れ し、一一世紀には『オストロミール福音書』 あスターリン批判後に活発化し、革命五〇周年に 京大学出版会 ) ▽藤本和貴夫著『ソヴェト 共和国に集中しており、その数一億余と推定さ しは、膨大な一九〇五年革命や一九一七年革命の 国家形成期の研究 ( 一九一七ー二一 ) 』 ( 一九れ、残りのロシア語人口はソ連の全領土に散在 ( 一 0 五六 ~ 五七 ) にみられるように成熟した文語を 7 ろ史料集が刊行された。一一〇年代の研究が中央や 全・ミネルヴァ書房 ) ▽・・カー著、している。このほかに、ソ連外でロシア語を母もつに至った。キエフ府主教イラリオーンの説 5 かき
土門拳 東宝アド・センター 東京電力 富山県教育委員会 同朋舎出版 東京都神代植物公園 富山市民芸館 東宝東和 東京都中央区役所 東北カラーエージェンシー富山美術館 東京都庁 東北学院大学文学部考古学豊田自動織機製作所 計量検定所 トーヨーリンクス 研究室 交通局 東北新社 虎屋 農業試験場 東北大学金属材料研究所鳥海三郎 東京都庭園美術館 ナイガイ 東北歴史資料館 東京都モーターポート 堂本四郎 内藤記念くすり博物館 競走会 東京都立世田谷工業高等堂本美術館 永井敬二 学校 遠山記念館・付属美術館中井春夫 東京都立中央図書館 東洋エンジニアリング 永井弘道 長岡市立科学博物館 東京都立日比谷高等学校東洋大学図書館 中川一政 東京都立日比谷図書館 東洋文庫 東和プロモーション 中川邦昭 東京都立農林高等学校 中川徳右衛門 東京農業大学 十日町市博物館 中込八郎 東京農工大学工学部付属遠山商事 繊維博物館 遠山益 永坂嘉光 長崎県観光課 東京美術 徳岡房子 東京フォトエージェンシー徳音寺 長崎県教育庁文化課 徳川恒孝 長崎県立長崎図書館 東京放送 徳川黎明会 ( 徳川美術館 ) 長崎県立美術博物館 東慶寺 徳正寺 長崎市立博物館 闘鶏神社 徳島県博物館 長崎大学附属図書館 刀剣博物館 中里太郎右衛門 徳富記念館 東郷たまみ 徳本寺 中沢信午 東光徳間 床井雅美 中沢敏彰 東西産業 常呂町漁業協同組合 長沢兵次郎 東寺 ( 教王護国寺 ) 東芝 栃木県立美術館 中沢光敏 東芝科学館 鳥取県物産協会東京支部中島敏子 中島陽子 鳥取県立博物館 同志社社史資料室 長瀬照子 凸版印刷 藤樹書院 中田昭 道成寺 鳥羽水族館 永田製作所 唐招提寺 土木学会 中谷吉隆 苫小牧市博物館 刀水書房 トミーエ業 長根祐範 道祖神社 長野県教育委員会 東大寺 富田信之 永野鹿鳴荘 東大寺図書館 冨成写真工房 東南産業 冨成忠夫 中林忠良 富本壮吉 中原蒼二 東福寺 東宝 友利安徳 中原英子 協会 中平大世 新潟フォトライプラリー ニコン 日本海 中村桂悦 日本カーテンウォール 中村保 西新井大師総持寺 工業会 西岡由利子 中村庸夫 西尾市立図書館岩瀬文庫日本学士院 中村富次郎 日本鞄協会 中村丙午郎 西川産業 日本硝子建材 中村由信 西川弘子 日本玩具資料館 中村立行 西川孟宏 西地美年 日本観光文化研究所 長屋成子 日本棋院 中山巌 西田圭介 日本奇術連盟 中山町立歴史民俗資料館西田利貞 中山ヨシ子 仁科神明宮 日本弓道連盟 西日本工業倶楽部 日本銀行 南雲ミチ 総務局広報課 西本願寺 名古屋市東山植物園 金融研究所 名古屋市蓬左文庫 西村画廊 日本近代史研究会 名古屋城管理事務所 にしむら博物館 日本近代文学館 名古屋大学文学部考古学西村弘明 日本芸術院 西村文男 研究室 日本計量器工業 西山徹 名智健二 日本建機 一一セコ町教育委員会 夏梅陸夫 ナック 日本建築デザイン 二尊院 日光国立公園管理事務所日本航空 七尾育英 日本航空電子工業 日光東照宮 那覇市史編集室 日本栽培漁業協会 日商岩井 鍋島報效会 日本サルヴェージ 日清食品 並河萬里 日本山岳会 日石寺 並木勝利 日本産業デザイン振興会 日ソ著作権センター 並木孝 日ソ図書館 日本しいたけ農業協同組合 奈良恭三郎 日本自転車振興会 仁田三夫 奈良県教育委員会 日本自転車普及協会 奈良県立橿原考古学研究所日展 日本自動車連盟 奈良県立美術館 日販建物 二風谷アイヌ文化資料館日本柔道連盟 奈良国立博物館 日本アイソトープ協会 日本将棋連盟 奈良国立文化財研究所 日本アイビーエム 日本消防検定協会 成田山新勝寺 日本アートセンター 日本少林寺拳法連盟 成田図書館 日本女子大学 日本医学文化保存会 鳴門市商工観光課 日本水産 日本エアコミューター 南禅寺 日本水槽工業 日本映画新社 南天子画廊 日本水路協会 日本映像記録センター 南波松太郎 日本エヌ・シー・アール 日本聖書協会聖書図書館 南蛮文化館 日本石油 日本エアシステム 新潟県美術博物館 日本オリエンテーリング日本船主協会 新潟市郷土資料館 869
る 平仮名〔留〕 % 畜豸る 4 、片仮名〔流〕八ルル オしカらであ る五十音図第九行第三段の仮名で、平仮名記念発生生物学論文集』の名で刊行されてい た「プラグ」、オモリに鉤がついた形の「ジ察して、ルアーを追おうとはしよ、ゝ 〈松田年雄〉 の「る」は「留」の草体から、片仮名の「ル」る。主著は「生物体の発生機構学のプログラムグ」、プラスチックを素材にした「ソフト・プる。 は「流」の終わりの二画からできたものであと研究法』 ( 天九七 ) 、『発生機構学生物学の新ラスチック・ルアー」、ルアーを二種または三 ル・アー。フル Le Havre フランス北西 る。万葉仮名では「留、瑠、流、琉、類、婁、しい一分野』 ( 一九 0 五 ) 、『動物と植物の発生機構種を組み合わせた「コンビネーション・ルア部、セーヌ・マリティーム県の臨海工業都市。 〈竹内重夫〉 樓、屡、蘆、盧 ( 以上音仮名のみ ) 」などが使学の術語考し (一九 lll) など。 ー」となる。またルアーは、釣り人の竿とリー 人口二〇万〇四一一、都市圏人口二五万四五九 Pierre PauI EmiIe Roux ( 天五三ー ルのアクションによって、さまざまな個性的な五 ( 一九ハ一 l) 。 北西一八〇キ。、セーヌ川の河 われた。ほかに草仮名としては「 ( 留 ) 」「れ 一九三三 ) フランスの細菌学者。パリ大学に学び、動きをする。このため運動能力による分類、泳 ロ右岸に位置し、イギリス海峡に臨む。地中海 ( 類 ) 」「次 ( 累 ) 」「雋 ( 流 ) 」などがある。 音韻的には一、 ru 、、で、舌先が歯茎あるいはそ一 八一年同大学で学位を取得。八四年パ 層範囲による分類から、釣り場の条件や対象魚のマルセイユと並ぶ大貿易港を有し、一五一七 の付近に対して一回だけはじく有声音「 r 〕を パスツール研究所の助手になったが、当時は、 の種類・大小で使用目的を分類することもあ年のフランソア一世による開港以来繁栄し続 子音にもつが、場合によってロ」が用いられ パスツールの狂犬病ワクチン研究が軌道に乗りる。こうした多角的な視点からルアーをみて、 け、いまでは北米・中南米航路の起点となって ることもある。和語に関する限り、助動詞 かけたころであった。狂大病ワクチンの人体へそのルアーの個性を釣り人が十二分に引き出す いる。港から石油をはじめとする工業原料、熱 「る」や擬声・擬態語を除いて、「る」が語頭に の応用第一例 ( 八五年七月六日注射開始 ) につ ことによってよく釣れる擬似餌、つまりヒッ 帯作物などを輸入し、工業製品を輸出する。大 たっことはない。 〈上野和昭〉 いての科学アカデミーへの報告の連名を、基礎 ト・ルアーの発見にもつながる。 西洋横断の輸送量は減少傾向にあるが、輸送旅 0 サン・ポル・ルー 実験不十分としてルーは拒否したと伝えられる 竿は対象魚の大小、ルアーの重さなどによっ客数は多い。 貿易額はマルセイユに次ぎフラン WilheIm Roux ( 天五 0 ー一九一一四 ) ド が、重要な協同研究者である。八八年エルサンて調子、長さを使い分ける。調子はウルトラ・ ス第二位。セーヌ川の上流約八八キロに河港をも ライト・アクションから、ヘビー・アクション ィッの動物発生学者。イエナで生まれる。イ工と共同でジフテリア毒素を発見、抗毒素の研究 っルーアン以西の石油化学工業を中心とするバ ナ、ベルリン、ストラスプールの各大学で動物へと発展した。一九〇三年メチニコフと共同でまで普通六段階ある。また、スピン・キャステ ス ( 低 ) ・セーヌエ業地帯に属し、造船、石油 イノグ・リーレ、・ 学、医学、哲学を学んだ。イエナ大学では・ 梅毒病原スピロへータのサル感染実験に成功 ヘイト・キャスティング・リ 化学、鉄鋼、火力発電、熱帯材の加工、食品、 ・ヘッケルに師事した。。 フレスラウ大学講師 し、梅毒スピロへータの病原説が証明された。 ール、スピニング・リールを使い分けるよう繊維などの工業が港湾活動に結び付いて発達し をはじめとしてプレスラウ、インスプルック、〇四 ~ 一八年パ ・パスツール研究所所長を務 に、竿の種類も分けられている。こうしたトー ている。しかし、北方二八キ。のアンチフェール ハレ各大学の解剖学教授を歴任した。解剖学、めた。 〈藤野恒三郎〉 タル・バランスを守らないと、スポーツ・フィ Antifer に石油基地が建設されたため、工業活 ーレ 発生学を専門とし、それまでの記載的発生学の ッシング、ゲーム・フィッシングとしてのルア動の中心が北へ移動しつつある。鉄道、道路、 ルアーフィッシング lure fishing 枠を超えた因果分析的な実験発生学の立場でのアーとは、誘惑するという意味やおびき寄せる ーフィッシングを楽しむことはできない。 海路、河川交通、航空路に恵まれ 、ヾリに。も一一 研究を提唱し、自らも血管分岐に関する研究な というときに使うが、釣りでは擬似餌のこと 釣り方のこつは、前にも説明したように、ル接しているため、工業化の進展が著しい。セー どを行った。ルーの名を高めた実験の一つはワで、これで魚を釣るのがルアーフィッシング。 アーにいかに魚にとって「魅惑的な動き」を与ヌ川上流約二九キ。のタンカルビル橋 Pont de イスマンの生殖質説を実験的に確かめるために 対象魚は淡水、海水魚のうち、小魚などを捕食えてやるかである。リールを巻くスピード、竿 Tancarville ( 一九五九開通 ) との間には運河も通 しよう 行われたもので、カエルの二割球の一つを焼する習性をもつものを主体に、その他の魚でも先のアクションを道糸からルアーに伝える変じている。第二次世界大戦では市街地の大半が しやく 灼し、正常を正中線で半分にしたような半ルアーの種類の選択、使い方などによって釣る化、沈め方のタイミングなど、いろいろな方法破壊されたが、建築家オーギュスト・ペレの都 えさ 胚を得たものである。このように実験によってことができる。 によって、その動きが生まれる。生きた餌を使市計画により復興され、近代的な姿となった。 胚発生の機構を明らかにしようとする学問を発 ルアーの種類は多い。一般的には外観から形って釣ってきた人たちにとって、ルアーは実に 小説家ベルナルダン・ド・サンピエール、画家 生機構学とよび、一八九四年には発生機構学の態の違いにより分類できる。それは、ルアーの 心もとない気もするだろうが、そうした気持ちデュフィらの生地。 3 膨フランス〈高橋伸夫〉 ための雑誌『生物発生機構学論文集』を創刊し原型ともいえる「スプーン」、これが発達進化 でルアーを使うと、けっしていい釣りはできな ルアベフ火山ー・かざん Ruapehu 一一ユ た。この雑誌は現在でもルーの名を冠し『ルー した「スピナー」、小魚や小動物に近い形をし 極端なことをいえば、魚はそんな気持ちを ージーランド北島中部、トンガリロ火山群の南 さお 224