ぶつげしやり したと伝える仏牙舎利を安置する。そのほか、録、消去を行うことはできないが、最近ではテプレコーダーと同様な原理で行われるが、映画ロ むそう み・求められる。ドップラーログは、ドップラーソ ナー、ドッキングソナーなどとよばれることも 絹本着色夢窓国師像二幅、絹本墨画出山釈迦 ープレコーダーのように、これが自由にできるの映像は連続的に送られるのではなく、間欠的 5 らんせき そせき ディスクの開発も行われている。↓コンパクト に送られるので、音声信号は映像と同期に、し あるが、いずれも同一原理の船の速力を計る装像、紙本墨画蘭石図、夢窓疎石筆『臨幸私記』 〈平井俊栄〉ディスク↓ディジタルオーディオディスク 置である。↓ドップラーログ かも連続的に一定速度で送出されなければなら 〈飯島幸人〉などの国重要文化財を蔵する。 ろ このため、一般に映像より音声をフィル 六阿弥陀ろくあみだ阿弥陀仏を安置する録音ろくおん音声を記録すること。一般〔磁気録音〕音声電流を磁気へッドのコイルに げんろく 一七 0 四 ) にその再生も可能である。現在実用されている流して、ヘッドのギャップに磁気的変化をつくム上の位置で先にくるように記録してあり、映 六つの寺を巡拝すること。元禄 ( 一六公 ~ ぎようき まっ のころから行基作と伝える阿弥陀像を祀る以下方法を大別すると、機械録音、光録音、磁気録り、このギャップに磁気テープを接触させてテ像の間欠的変化が音声に影響しないようにして ひがんさんけい の六か寺を春秋の彼岸に参詣して歩くことが盛音の三つがあげられる。従来は音声を連続信号ープを移動させれば、テープ上に残留磁気の変ある。このような磁気録音ができるフィルムに 化としての音声信号が連続的に記録される。再は三五ミリ、 ノ んに行われたことに始まる。すなわち、一番西のまま記録する方法が多かったが、最近では、 ふく としましんごんぶざん 福寺 ( 東京都北区豊島、真一一一一口宗豊山派 ) 、二番連続信号をディジタル信号に変換してから記録生する場合も、テープをへッドに接触させて移三五ミリフィルムではシネマスコープ用として えんめい えみよう あだち 、。、レス動させると、テープに記録されていた残留磁気 いくつもの磁気トラックをもったものもある。 延命寺 ( のち恵明寺に合併。足立区江北、単する (pulse code modulation ノ丿 むりよう ↓テープレコーダー ^ 金木利之〉 立 ) 、三番無量寺 ( 北区西ヶ原、真言宗豊山符号変調 ) 方式も採用されている。いずれの録がヘッドを通してコイルに入り、磁カ線を変化 よらく 音方法も、まず、スピーチ、音楽、自然界の音 派 ) 、四番与楽寺 ( 北区田端、真言宗豊山派 ) 、 させて微小な音声電流を発生するから、これを鹿苑寺ろくおんじ京都市北区金閣寺町にあ じしよう じようらく 五番常楽院 ( 調布市西つつじが丘、天台宗。 などをマイクを通して電気信号に変換したの増幅して音声信号を得る。テープ上の記録を消る寺。金閣寺と称し、銀閣寺 ( 慈照寺 ) ととも ・」うとう ほくぎん りんぎい じようこう じんだい かめいどそう 去する場合は、テープにヘッドを接触させて、 に一般に広く知られている。北山と号し、臨済 深大寺に合併 ) 、六番常光寺 ( 江東区亀戸、曹ち、各方式に応じて信号処理が行われる。 しよう・一くじ しようかんぜおんばさっ 洞宗 ) である。後世これに擬して江戸の西郊に 〔機械録音〕音声信号を、カッターとよばれるそのヘッドに直流を流すか、耳に聞こえない程宗相国寺派に属する。本尊は聖観世音菩薩。 さいおんじ きたやまどの だいよう ぜんちょう も大養寺 ( 港区虎ノ門、浄土宗 ) 、善長寺 ( 鑑針の機械的振動に変え、円板状の録音板表面度 ( 三〇キ。 ~ 七〇キロへルツ ) の高い周波数の交もとこの地には西園寺家の山荘北山殿があった あしかが よしみつ しゅんりん が、一三九七年 ( 応永四 ) 足利三代将軍義満が 蓮社善長寺。港区芝公園、浄土宗 ) 、春林寺 、上下または左右の波形の溝を切って音声を流を流して消去する。このように磁気録音は一 しようカく たかなわ つの装置で録音、再生、消去を行えるものが多これを譲り受け、金閣などの殿楼を造営したの ( のち西林寺。焼失 ) 、正覚寺 ( 港区高輪、浄記録する方式で、一般にレコード盤への収録に しろがね ゅうてん しようげん このような装置をテープレコーダーとい が、その始まりである。一四〇八年義満の没後、 土宗 ) 、正源寺 ( 港区白金、単立 ) 、祐天寺用いられている。カッターにはその駆動の方式 よしもち む せいほう ( 目黒区中目黒、浄土宗 ) などの西方六阿弥陀 により動電型、電磁型、圧電型などの種類があう。また、テープレコーダーを構成する磁気テ遺命によって子の義持がこれを禅寺に改め、夢 そうそせきしよう りつ ~ ′、 一一うじまちしんばう ープ、磁気へッド、テープ走行系などの機械部窓疎石を請じて開山とし、いまの寺名をたてた。 や、了学寺 ( 現存せず。千代田区麹町の心法るが、電磁型がじようぶで簡便なためよく用い ろく しやか この寺名は、釈迦の最初の説法の場所である鹿 られる。これはコイル、永久磁石、可動鉄片、分や、サーポ系をはじめ電子回路素子に至るま 寺、港区赤坂の浄土寺を入れる場合もある。 さいねん 野苑からと 0 たものである。当時は紫既、天 ずれも浄土宗 ) 、西念寺 ( 新宿区若葉、浄土カッター針などにより構成され、増幅器出力ので研究が進められ、非常に性能が改善されてい くぎよう 」りはー ) ほうとく - 一うとく きようほくろう ぜんこう 門 ) 、拱北楼、金閣、反橋、芳徳 る。しかし、音声を連続信号として記録するア上間 ( 公卿日 宗 ) 、高徳寺 ( 港区北青山、浄土宗 ) 、善光寺音声電流をコイルに流すと可動鉄片が振動し、 しやり ばいそう ( 港区北青山、浄土宗 ) 、梅窓院 ( 梅窓院宝樹その動きがカッター針に伝えられるものであナログ方式を採用する以上、磁気録音の性能の殿、天鏡閣、泉殿、護摩堂、懺法堂、舎利殿、 しようろう みどう かんうん りゅうせん 改善ははば限界に近い。その原因は、磁気テー 小御堂、地蔵堂、看雲亭、塔、輪蔵、鐘楼、 寺。港区南青山、浄土宗 ) 、龍泉寺 ( 港区南青る。↓レコード 山、浄土宗 ) などの山の手六阿弥陀が創定さ 〔光録音〕音声信号を電気信号に変換したのプ上の磁性体の塗布むらによる記録・再生時に総門、四足門などが備わり、壮観を極めたが、 けんこん はせでら れ、また鎌倉にも長谷寺の阿弥陀堂をはじめとち、さらに光の強弱に変えて録音する方式。ラおける雑音発生、振幅の大きな音声信号によるのち紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁 ぶん 〈森章司〉 、磁気テープの非直線性ひずみの発寺に、懺法堂は等持寺に移転された。また文 する鎌倉六阿弥陀を生じた。 ンプの発する光のように位相が不規則なものを磁気へッ しよう ~ 六七 ) 小御堂が炎上し、そのう 六衛府ろくえふ日本古代の宮城警衛にあた使用する方式と、レーザーのように位相がそろ生、さらに、テープ走行系の回転むらによる時正年間 ( 一四六六 りよう おうにん 間的な音声信号の変動、などに基づく。これらえ応仁の乱 ( 一四六七 ~ 耄 ) で芳徳殿など多くの堂 った六つの官府。初め令制では五衛府があった った光を使用する方式がある。映画フィルムの てんしよう えもん が、八一一年 ( 弘仁一 l) 以後は、左・右衛門 サウンドトラックの録音にはおもに前者が、まの欠点を本質的に改善する手段として、舎が破壊された。しかし、天正年間 ( 一五七三 ~ せつかてい ひょうえ このえ 九 (l) の不動堂の再建に始まり、タ佳亭、方丈、大 府、左・右兵衛府、左・右近衛府の六衛府とな た最近注目を集めているディジタルオーディオ方式がある。これは一般の記録方法のように し けび る。のち、検非違使の設置により、都城におけディスクにおけるコンパクトディス直接、音声波形を記録媒体に記録するのでは書院など徐々に堂舎の修理、復興が行われ、一 なく、一度パルス信号 ( 一般に「 0 」または九〇四 ~ 〇六年 ( 明治三七 ~ 三九 ) には金閣の る衛府の機能は衰退した。↓衛府↓検非違使 ク (OQ) には記録、再生ともにレーザーが使 さがきたばり 「 1 」の二進信号を使う ) に変換してから、記大修繕がなされた。現に、金閣、方丈 ( 本堂 ) 、 鹿王院ろくおういん京都市右京区嵯峨北堀用されている。これは従来のレコードと異な りんざい かくゆうざん 町にある臨済宗天竜寺派の寺。覚雄山と号すり、連続的な音声信号でなくディジタル信号と録する。したがって、再生においては、。ハルス不動堂、大書院、タ佳亭などがあり、方丈には かんのん しやかによらい る。本尊は釈迦如来。一三八〇年 ( 天授六・康して記録されている。は直径一一一拜一メートの有無さえ区別できれば、多少の雑音が存在し本尊の観音像のほか、夢窓疎石、足利義満の像 - 一うしよう あしかがよしみつしゅんおくみようは ・二ミリメートルのディスクを用い ても元の信号が正確に再現できる。なお、 暦一 l) 足利義満が春屋妙葩を開山として興聖ル、厚さ一 がある。中心となる金閣は三層楼で創建当時の 寺を創建し、寺後に開山堂を建てて鹿王院と称る。光学式のビデオディスクと同様、再生にお方式は非常に広い周波数帯域を必要とするまま現存していたが、一九五〇年 ( 昭和二五 ) いてまったく接触部を用いないため摩耗する部が、次のような特徴がある。①ダイナミックレ放火によって焼失。現在のものは五五年に同じ したのに始まる。寺はのち宝幢寺と改称し、一 じっせつ ンジが広い、②雑音やひずみが少ない、③音声様式で再建されたものである。初層は平安後期 三八五年 ( 元中二・至徳一 l) には京都十刹の第分がなく、繰り返し使用しても音質の劣化はな 信号の帯域幅が広い、④ダビングにより信号がの寝殿造に擬し、中層は鎌倉期の武家造、上層 ダイナミックレンジ ( 音の振幅の範囲 ) が 五位に列したが、ついに廃絶となり、一六六七 からよう 年 ( 寛文七 ) 鹿王院のみ再興された。本堂には九〇デシベル以上で、ひずみも〇・〇五 % 以下劣化しない。 は仏殿造で唐様を用い、各層に変化をもたせて うるし きんばく 映画フィルムの端に磁性体を塗布してサウン 運慶の作と伝える本尊釈迦如来像および十大弟という非常によい特性があり、再生時間は最大 いる。内外すべて漆地に金箔を押してあるが、 しやり さねともそう 子像など、また舎利殿には源実朝が宋から将来七四分である。このようなディスクは自分で記 ドトラックをつくったものがある。録音はテー 三十有余年を経て剥落や傷がひどくなったた せんほう
ろうのう た故事に倣って、一二月 一日から八日の朝まで、 イ 彫れ期 像ら後 昼夜を分かたず坐禅修行 ウ 肖み安 ロ - ーこと平寺 し、その恩徳に報いる臘 ン せっしん た。大 シ ( おらしる東 八摂心 ( 精神を集中して 統一すること ) を行う。 つ造伝良 下 はっとう にてと奈 後しの 住持が法堂に上 0 て成道 1 イ 没化も宀玉 を祝い、それにちなんで め想の国 た理用 ⅵウ修行僧のために法を説く るを愛 5 ウ え姿前 4 ことを臘八上堂という。 上 ロ た容生 ↓成道 〈中尾良信〉 ャたのは高 物を亠正【意像 ろうばんばん すると人口の圧倒的多数を占めること、帝国主一一九 ) の時代に朝鮮半島を経て渡来した。名は、 蝋板本 労←僧 3 如 ぞうげ 功弁る色 義や独占資本の支配のもとで労働者も農民もと花色が蜜蝦に似ており、ウメと同じころに花を木や象牙でつくった小さ 良す彩 弁。に造 もに搾取され収奪されていること、などの根拠開くからといわれている。高さ二 ~ 三の株立な板の表面に蝦をかぶ 良刻手木 から、革命勢力は労農同盟を基礎に構築されちになる。葉は対生し、長卵形、長さ八 ~ 一五せ、スタイルス stylus こうえい へりきよし おうみ る、といわれる。この階級同盟は、社会経済的 、先は鋭くとがり、縁に鋸歯がなく、薄い革のような、棒状の筆記用具で蝦をひっかいて書人の後裔。その出身地は近江国 ( 滋賀県 ) ある 」がみ ぎえん 利害関係のレ・ヘルで構成されるが、より具体的質で表面がざらっく。一二月から翌年の二月、 く書写材。ローマ人の発明したこの書写材は、 いは相模国 ( 神奈川県 ) と伝える。義淵に師事 な政治的次元では、労働運動組織 ( 労働者政芳香のある蝦質、半透明の黄色花を葉より先に ノートやメモ帳として一八世紀末までヨーロッ して法相教学を学び、七二八年 ( 神亀五 ) に もとい かひ がくへん しようむ パで使われた。板は一枚だけのこともあるが、聖武天皇の皇太子基親王の夭死によって建て 党、労働組合等 ) と農民組織 ( 農民政党、農民開く。萼片と花弁の区別がなく、外層の花被片 ちぎようそう 組合等 ) の日常的な「労農提携」や、政治目標は淡黄色、内層は紅紫色で小さい。五 ~ 六本の 二枚、三枚と重ねて綴じられることもある。 られた金鐘山房 ( 寺 ) の智行僧の一人に選ば しんじよう をもった「労農統一戦線」が必要となる。ロシ雄しべと、その内側に退化雄しべがあり、雌し前者をジプチカ diptych 、後者をトリプチカれた。七四〇年 ( 天平一 (l) に大安寺審詳 つば かたく け 1 一ん ア革命後の社会主義政権は「労農民主独裁」な べは数本で壺状の花托の中にある。花托はその triptych 、そしてたくさん綴じたのをポリプチ ( 祥 ) を講師として『華厳経』の研究を始め、 ・」ん・」うみようさいしようお、つきよう どともいわれた。労働者の多くが農村出身者で後大きくなり、長卵形の偽果になる。中にあるカ polyptych という。二枚以上のときは板の七四三年正月には『金光明最勝王経』の講 だえん ちょうつがいひも そうか やまと 構成されたわが国でも、労農同盟論は戦前から種子状の痩果は濃紫褐色、長楕円形で、有毒で端が蝶番や紐で綴じられていた。これが冊子説を行うなど、仏教界を先導し、当山寺を大和 るしゃな 主張されてきた。 〈加藤哲郎〉ある。変種のソシンロウバイ ( 素心蝦梅 ) は内体 codex ( すなわち、現在のような形の本 ) 国分寺、さらに盧遮那大仏造立の地となる機縁 さえきのすくね の原型なのである。 回マルクス、エンゲルス、レーニン著、日本共部の花被片まで淡黄色である。 〈高野彰〉をつくった。大仏造像にあたっては佐伯宿禰 いまえみしぎようき 産党中央委員会宣伝部編『労農同盟論』全三 日当りのよい適潤地でよく育ち、移植は容易回高野彰「形態からみた本の歴史」 ( 『論集・図今毛人や行基などとともに聖武天皇を助け、七 みしよう だいぶつかいげんくようえ 巻 ( 大月書店・国民文庫 ) である。繁殖は接木、取木、実生、株分けによ 書館学研究の歩み第 5 集図書館資料の保五二年 ( 天平勝宝四 ) 四月の大仏開眼供養会の こうざはろうのうは る。 〈小林義雄〉 存とその対策』所収・一九会・日外アソシェー あと、五月一日に初代の東大寺別当に任ぜられ 労農派ろうのうは 0 講座派・労農派 もう がんじん ろうはいぶつ生体内で物質代謝の副 ッ ) ▽・・ケニオン著、高津春繁訳た。伝戒師鑑真一行が東大寺に詣でたときはこ 廊坊立花伝書ろうのばうりつかでんしょ 老廃物 『古代の書物』 ( 岩波新書 ) れを迎え、聖武上皇の死去にあたっては生前の け花伝書。大・小二巻よりなる。奥書に「六角産物としてあるいは最終産物として生じるもの いけのばう りようしゅう せんあ 堂池坊一流弟子宣阿弥」と相伝者名を記し、受のうち、生体に不要な物質をいう。動物ではタ老婦の夏ろうふのなつ中部ヨーロッパやソ看病の功により、また仏教界の領袖として大 はせでらしぎようろうまうだいぶきようけ そうず そう 伝者が長谷寺執行廊坊大部卿家であるところンバク質代謝の結果生じるアンモニア、尿素、連で、九月下旬から一〇月初めのころ現れる顕僧都となり、七六三年 ( 天平宝字七 ) 九月に僧 じよう かすみ からこの名がある。「かふ」「花ふ」ともいう。尿酸などの含窒素化合物がおもな老廃物で、尿著な夏の戻りの現象。霞や霧がかかり、温暖な正の極官に補せられた。晩年には石山寺の造 うるう ほうぎ 小巻の内容は花形絵を主体に墨と朱、緑の淡彩や汗などによって排出されるが、呼吸によって晴天が続く。英語では old wives' summer 、営にも関係し、宝亀四年閏一一月一六日に八五 で描かれ、これに簡単な説明文があり、座敷飾排出される二酸化炭素も老廃物といえる。植物ドイツ語ではと tweibersommer という。ゲ歳で没した。 ツツ F. W. P. Götz の調べによると、老婦の りにおける飾り方とその法式に即して花図が描ではシュウ酸などの有機酸、タンニン、アルカ 現今東大寺開山堂には、一〇一九年 ( 寛仁 ざぞう かれている。大巻は「花のふこれをひすべし」 ロイドが老廃物で、多くは植物体内に蓄積され夏は顕著な特異日現象で、九月二八日から一〇三 ) 一一月に有慶によって造像された良弁坐像 りつか の内題で始まり、立花や砂の物など花に関する るが、これらの物質はどんな場合にもその植物月二日までの五日間にもっともよく現れる。こ が安置され、その右手に持っ木造如意は生前所 心得を、とくに楽しみの花を中心として記述し によってはエネルギー源として利用されない のとき中部ヨーロッパは、東欧に中心をもった持のものと伝え、奈良時代の製作にかかるもの ている。当時の池坊相伝書にみられない心得を↓排出 〈嶋田拓〉高気圧から吹き出す南東の気流下に入る。アメである。 〈堀池春峰〉 びより 秘文として記しているところからも貴重ないけ ろうはち「ろ , つはつ」ともい , つ。臘月 リカでは一一月上旬ごろに現れる小春日和の天回堀池春峰著『南都仏教史の研究上』 ( 一九 しやか 〈北條明直〉 花資料とされる。 八日、つまり一二月八日のことで、釈迦が苦行気をインディアン・サマーとよんでいる。同じ 合・平楽寺書店 ) りよくばん ばだいじゅ ぜんじよう ろうは 0 緑礬 を放棄し、菩提樹下で禅定に入って悟りを開特異日現象ではあるが、老婦の夏のほうが一か 良弁杉ろうべんすぎ高僧の幼時にまつわる じようどう いた成道の日をさす。寺院では、この日、成月以上早い。↓インディアン・サマー〈根本順吉〉伝説。東大寺建立に力のあった僧良弁が、幼い ロウバイ〔蝦梅〕 0 ぎ。ミミ s ミ・ わし cox (). ) Link. ロウバイ科の落葉低木。中道を奉讃する成道会を修する。とくに禅宗では良弁ろうべん ( 六八九ー七七三 ) 奈良時代の準ころ鷲に連れ去られ杉の木に置かれた話。『元 ごみずのお じようぶつ 」んほっそう ・一うしやくしょ ざぜん おうみ 国中部原産。日本へは後水尾天皇 ( 在位一六二 ~ 臘八会と称し釈尊が坐禅によって成仏得道し厳・法相宗の学僧。東大寺の開山。百済系渡来亨釈書』によれば、良弁は近江国 ( 一説に みつろう つぎき と くだら 506
りようし書きものをするための紙。 0 ってイギリス王チャールズ二世が亡命先のパ 両国を結んだことが橋名となり、地名はこの橋美しい花の精に無限の愛情を寄せる男の物語料紙 「香玉」などは、その屈指の代表的作品である。平安時代に上流社会で多くの紙が消費されるよ に由来する。見世物・芝居小屋、茶店などでに , つからふたたびロンドンへ戻り、王位についたの みん せんとうしん を記念して、後年ハリー彗星でおなじみの・ ぎわった両国広小路は、両国橋の西詰で、現在これらの主要編は唐代の伝奇や明の『剪燈新うになると、料紙は詩歌を美しく書くため、さ よ わ らに紙質が重んじられるようになり、美意識の ーが命名したものと伝えられる。小望遠鏡の中央区東日本橋北部にあたる。東詰には、明話』の系統に属するが、民間の話などをそのま え - 一う 対象となった。なかでも奈良時代からの染め紙 での見ものとしては、九四、六三などの渦暦の大火の死者を葬った回向院があり、江戸後 まに採録しないで、特異な物語を描き出そうと しきし す かんじんずもう ^ 藤井旭〉期しばしば境内で勧進相撲が行われ、一九〇九する明確な創作意識をもって執筆されている。 は色紙として形式化され、美しくしかも薄く漉 巻銀河がある。 りようこうきゅうりよう / リャンコワン年 ( 明治四一 l) 国技館が建設された。現在の国その結果、巧妙な構成をもち、典拠のある用語ける流し漉きの技法と染色技術が組み合わさっ 両広丘陵 うちぐもり とびくも らもんし シャンティー中国南部の広西チワン族自治区か技館は一九八五年 ( 昭和六〇 ) 、蔵前から両国を効果的に駆使した独自の簡潔な表現による精て、打曇 ( 内曇 ) 、飛雲、羅文紙などの漉き模 カントン きりはくのげ なんれい ら広東省にかけて広がる丘陵で、南嶺山脈の南駅北側に移設されたもの。なお両国は隅田川の細な描写が行われ、叙次も整然としている。そ様紙や、金、銀の砂子、切箔、野毛などによる だい すみなが に続く。嶺南丘陵または華南丘陵ともよぶ。大花火でも知られ、旧暦五月二八日の川開きは見こには怪異の世界と人間の世界との交錯が美し加工紙、また墨流し、切り継ぎ、破り継ぎ、重 こうろう かぎ く展開され、エロティシズムの魅力も加わっね継ぎなどの技法による継ぎ紙など、多種多様 瑤山、十万大山、勾漏山、雲開大山、羅浮山、物客と納涼船がひしめき、「玉屋」「鍵屋」の掛 れんか の料紙が工芸美術として発達した。これらは書 蓮花山などの五〇〇前後の低山と丘陵からな け声とともに華やかに夜空を飾った。一時中止て、現実を写した小説からは味わえない人間の されたが、現在の隅田川花火大会は、上流に移真と美とを感じさせ、中国怪異文学のなかで最道の発展とも関連して、現在までに多くの傑作 る。これらのなかには、少数ながら一〇〇〇 か・一う 〈町田誠之〉 〈菊池万雄〉高の傑作となっている。伝奇系の作品のほか が残されている。 って行われている。 を超える山頂もある。東部は花崗岩のなだらか かりゆ りようし狩猟を職業とするもの。狩 な止陵であるが、西部は石灰岩のカルスト地形囮一万分の一地形図「日本橋」 に、清初の志怪小説に似た簡単な異聞の記録も猟師 ともいった。とった鳥や獣の肉や羽・毛・ が多い ん 〈青木千枝子〉両国橋りようごくばし東京都中央区東日本多いが、作者の文才によって、やはり他書のも めいれき すみだ りようこうどう / リャンカンド朝鮮民主橋と墨田区両国を結ぶ橋。明暦の大火 ( 一六五七 ) のにみられない味わいをもっている。 皮・革・角などをそれそれの小売店・問屋に販 両江道 シュオリヤオチャイ おうりよく - 一う 中国では「説聊斎」 ( 聊斎を語る ) という 売した。一〇世紀にはこうした獲物が一般に需 主義人民共和国の北西部にある道。鴨緑江を後、江戸の市街地拡大のため本所、深川を開 隔て、中国と国境を接している。一九五四年新き、一六五九年 ( 万治一 l) に架橋したのが最ことばが怪異譚を話す意味を表し、怪異小説の要されてきた。鳥ではタカ、カモ、キジ、獣で はシカ、イノシシ、クマ、カモシカなどがおも 設された道である。面積約一四〇〇平方キ。。行初。その後、数度の火災、水害で修改築し、一代表としての地位を占めている。日本には青柯 な獲物であった。多くは農村・山村の人々の李 政区画は一市 ( 恵山 ) 、一〇郡。道所在地は恵九〇四年 ( 明治三七 ) 鉄橋に架け換えられ、一亭本の出た翌々年にはすでに舶載されている。 いくつかの翻案があるが、日本に与えた影響は節的な副業の個人猟で、クマ、カモシカなどの 山市。地形は朝詳半島の最高峰白頭山 ( 一一七五 0 九三二年 ( 昭和七 ) 改修したものが現在の両国 ) と蓋馬高原が全道にまたがり、平均高度一橋である。橋は初め大橋といったが、新大橋の明治以降に注目すべきものがあり、そのロマンときは複数での猟も行われた。一四世紀のころ すみだ 〇〇〇以上の高地である。しかし起伏が少な架橋後、隅田川が武蔵と下両国の境界であっ性と優れた描写とが多くの近代・現代の文学者では、商人・職人や漁師・海女とともに猟師・ のちや文芸界に、江戸期における『剪燈新話』を狩人は領主経済を支えるものとなっていた。農 いので、傾斜一五度以下の地域が四〇 % 以上をたことから両国橋または二州橋ともいし とりもち りトフ あみ わな まてんれい 〈菊池万雄〉凌駕する大影響を与えた。三種の全訳本もあ村では鳥の黐猟・網猟、山村での獣の罠猟、 占めている。白頭火山脈、摩天嶺山脈、北水白正式に両国橋と改めた。 しん れんか ふせんれい りようさいしい中国、清初の文人り、多くの読者を獲得している。〈藤田祐賢〉それに一七世紀になってから鉄砲猟が始まった 山脈、蓮花山脈がほば北から南へ走り、赴戦嶺聊斎志異 ー・ーしト↑つれ、 山脈が西南西に道境を界しながら走っている。蒲松輪の文語体の怪異小説集。作者の生存中回増田渉・松枝茂夫他訳「中国古典文学大系が、鉄砲猟は獣のほうが多かった。鉄砲使用の やり -0- . 1 亠 聊斎志異』 ( 一九七 0 、七一・平凡社 ) ▽ 前は弓矢あるいは槍・刀が使われ、これに猟犬 高地帯で、平均気温が四度 0 と低く、年降水量から評判をよび、写本によって読み継がれてい 柴田天馬訳『聊斎志異』全四冊 ( 角川文庫 ) がついた。鉄砲は火縄銃であるが、統制が厳し も六〇〇ミリ内外で少ない。本道の産業は山林資たが、死後五一年を経た一七六六年に最初の刊 せいカてい りようし理容業者に対する法定資格 、猟師以外の所持は禁止されており、猟師は 源による林業および木材加工業が主である。原本青柯亭本が刊行された。四四五編を収めたこ 理容師 の版本の系統の一六巻本が諸版本のなかでもっ の呼び名。その資格や営業の条件は理容師法鉄砲所持の鑑札を持っていた。一六六二年 ( 寛 木生産は共和国総生産の四〇 % を占めている。 さんちえん その主産地は輸平、延岩、太平、三池淵などでとも流布したが、現在では五〇〇編以上を収め ( 一九四七 ) に定められている。理容師になるには、文一 l) 以来、幕府はたびたび鉄砲所持の実態調 ある。木材加工業は輸平、豊山、延岩で行われた会校会注会評本が最良の版本である。この怪義務教育修了者で、厚生大臣の指定する理容師査をして不法所持を取り締まっている。イノシ おど たん シやシカの被害を防ぐための鉄砲は威し鉄砲 ている。地下資源は甲山、雲興、南渓の銅、豊異譚の執筆期間は長年月にわたり、自序の書か養成施設 ( 昼間課程一年、夜間課程一年四か 山の鉄鉱、恵山の無煙炭、白岩のマグネサイトれた一六七九年以後の作品もあるが、主要な編月、通信課程二年 ) で衛生法規、生理解剖学、 ( 威し筒 ) といわれ、一定期間、村に貸し付け 消毒法、公衆衛生学、伝染病学ほかを学び、そていた。これに対して猟師のは猟師鉄砲 ( 猟師 などが採掘されている。農業は耐寒性作物が主はこの年までに成立していたのかもしれない。 あま きつねコェイ でジャガイモ、亜麻、ホップを産出し、山地高 全編ことごとく神仙、狐、鬼 ( 幽霊 ) 、化けの後営業所 ( 理容店等 ) で一年以上の実地習練筒 ) といった。集団猟は東北・北陸・四国・九 ・つは」 ) っ 州の各地方の山村で行われていた。クマ、カモ を行うとともに、都道府県知事が行う資格試験 原地方ではメンヨウ、ウシの牧畜のほか養蜂が物、不思議な人間や事柄などに関係した話で、 に合格しなければならない。かっての日本で シカといった獣をとらえる際は、、 しわゆる大物 行われている。 〈魚塘〉その多くは民間の話に取材している。なかでも がしら すみだ すみ このよあのよ は、理容師と美容師の資格は同時に与えられた猟師が猟師頭として五人から二〇人くらいの集 りようごく東京都墨田区南西端、隅現世と冥界との交渉の物語と狐の物語が他のも 両国 髪ま - つ ~ し が、一九五七年 ( 昭和三一 D 美容師法が制定さ団をつくり仲間を指揮していた。一四世紀ころ 田川左岸の一地区。かっては両国橋の両側をい のに比べてはるかに多い。しかも妖怪と人間と にこうした集団猟は行われていたらしく、一九 、右岸の中央区側にも両国の名があったが、 の交情を中心に展開される情話が多い狐女とれてから、法的な資格も区別された。最近、日 ちょう 二〇年代まで続いていた。一八世紀のころ、ク 一九七一年 ( 昭和四六 ) 東日本橋と町名変更さ幽霊の女が一人の青年をめぐって寵を争い、最本の理容師のなかには、ヘアスタイリストとか ヘアデザイナー、あるいはヘアドレッサー、ヘ マをとらえる猟具は竹槍、槍、薙刀、鉄砲と、 れた。北隣の横網との境に、かって総武線の玄後に三人とも二世にわたる縁を結ぶ「蓮香」、 めいれき 地域によって違っていた。こうした猟師仲間は 関口としてにぎわった両国駅がある。明暦の大 いかなるときにも笑いを失わずに人間に慰めをアコンサルタントなど、英語呼称を用いる人が ーしも、フ えいわい ばたんにんどう 〈坪内靖忠〉山の神を祀り、どこの山でも立入り自由の由来 火 ( 一六五七 ) 後、両国橋が架橋され、武蔵・下総与える賢い狐女の物語「嬰甯」、牡丹と忍冬の増えている。↓理容 し も れんこう まっ すなご っ なぎなた
わこうた ばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者迹ともいう。 うとしたが、成果はあがらなか 〈末木文美士〉 せいそ った。明の成祖 ( 永楽帝 ) のと としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易和玉篇わごくへん部首分類による字形引き あしかがよしみつ きになって足利義満との間に通を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋をしたりの漢和字書。三巻。『倭玉篇』とも書き、「わぎ 交の体制ができ、以後中国大陸したらしい。明では王直一派の掃討に手をやよくへん」とも読む。室町初期ごろの成立で、 き、帰国すれば罪を許して貿易を許可するとし編者は末詳。漢字を見出し語として掲げ、傍ら の倭寇も鎮静した。 明定 ざんしゅ に字音を、下に和訓を片仮名で示してある。写 〔一六世紀の倭寇〕一六世紀にて誘引し、彼が帰国すると投獄、斬首した。 ていじゃくそう ちゅうかい も報と 倭寇に参加した日本人は、鄭若曽の『籌海本、版本の数が多く、書名も『和玉篇』のほか なり、中国大陸の南岸から南洋 、登、の勝成 だいこうえきかいぎよくへん へんもくしだい おんくんへんだて さつま ながと ずへん 『大広益会玉篇』『篇目次第』『音訓篇立』など しんせんじきようるいじゅうみようぎしよう ィ一の唯闘の方面にかけて、また倭寇とよば図編」によると、薩摩、肥後、長門の人がも 0 一・ど戦ろ とも多く、大隅、筑前、日向、摂津、磨、紀多様である。『新撰字鏡』『類聚名義抄』『字 れる集団の活動が始まった。も んのこ ちんはうわん いずみ ぶぜんぶんご とと一不 鏡』など、なかでも『大広益会玉篇』 ( 陳彭年 っとも勢力が盛んだったのは一伊、種子島、豊前、豊後、和泉の人々であった ほ軍代 という。船は三 ~ 五月ころ五島または薩摩を発編 ) からの影響が大きい。成立後も種々の改編 は官明五二二年 ( 明の嘉靖一年 ) 以後 し、大小琉球 ( 沖縄、台湾 ) を経て、江南、広が行われ、中世語・近世語資料として重要であ 料崩る約四〇年間にわたって行動した 史 , あ 〈沖森卓也〉 もので大倭寇といわれる。東、福建に至 0 たという。倭寇の残虐行為としる。 、画火で く - んいようとう 絵放分 この時期の倭寇の特色は、構成て類型化して伝えられているのは「嬰沃湯」和事わごと歌舞伎演出用語。優美な色男 , と部 よ・つふ - 一ふく で奪の員中に占める日本人の率がきわと「孕婦刳腹」である。前者は幼児を柱にくくの恋愛描写を中心にした、柔らかみのある演技 部略陸 めて少なく、大部分が中国人でりつけて熱湯をかけ、その泣き声を聞いて喜ぶ様式をいう。やわらか事、やわら事ともよぶ。 の望は この種の演技を主体にした役柄のことでもあ というもの。後者は妊婦の腹を裂いて、男女の 観れあったこと、東アジアの海域に 巻のこ り、これを得意とする俳優を「和事師」とい 初めて姿を現したポルトガル人どちらをはらんでいたかを当てる賭博であると 図勢 う。堅実な男子の写実に近い演技を中心にした いう。一方、倭寇が善良な住民に温情を示した 寇形が所も倭寇の同類として扱われたこ あらしさんえもん 倭 , る纂 こそうけんせき じっ」と という話もなくはなかった。明では胡宗憲、戚「実事」に対するもので、初世嵐三右衛門 ( 一六 陸いとである。倭寇に捕らえられた けいこうゆだいゅう た上て料 三五ー九 0 ) や初世坂田藤十郎 ( 一六四七ー一七 0 九 ) ら京 , し史中国人が、髪を剃られてにせの継光、兪大猷らが海防にあたって成果をあげ、 描現開学 一五六七年には二〇〇年にわたった海禁令が緩坂の名優が基礎をつくり、江戸でも同時代の初 を出展大倭寇に仕立てられ、一群に加え あさまがたけ 俗ので京 ー一七 00 が『浅間嶽』の められ、南海地方との貿易が許されて、倭寇活世中村七三郎 ( 一六二 風団序東られることも珍しくなかった。 ともえのじよう かいきん 第の船順 く巴之丞、『曽我』の十郎など、この種の役柄を 明では太祖のとき以来、海禁と動は鎮静に向かった。この時代、明では数多 寇寇のる かみがた 倭倭陣い いう一種の鎖国政策をとって中の日本研究書が発表され、中国におけるこれま確立させたが、おもに江戸の荒事に対する上方 は出て 〈田中健夫〉歌舞伎の特色として発達、近年まで伝わってき 寇巻のれ国人の海上活動を禁じていたでの日本認識は一変した。 くるわぶんしよう かわしよう 倭図軍さ が、経済活動が発達した一六世回田中健夫著『倭寇ーーー海の歴史』 ( 教育社歴た。『廓文章』の伊左衛門、『河庄』の治兵 ふういんきり 衛、『封印切』の忠兵衛などが代表的な役。な 史新書 ) 紀ではこの政策の維持が困難となり、海上で密 伝統的に蔑視されていた。 ふたっちょうちょう きようしんかん 1 」う 私立。一九六六年お、『双蝶々』の与五郎のようなとくに柔弱 一三九二年、王氏の高麗王朝にかわって李氏貿易を行うものが激増した。郷紳、官豪など和光大学わこうだいがく な几スは、突けば転ぶとい , っ音 ~ 味から俗に「つつ の朝蝉王朝が成立すると、高麗時代からの外交とよばれた地方の富豪層も密貿易者群と結んで ( 昭和四一 ) 創立で、人文学部 ( 人間関係学科、 折衝による倭寇鎮圧策を継承するとともに国防その活動を助長した。ポルトガル人も明から正文学科、芸術学科 ) と経済学部 ( 経済学科 ) をころばし」とよばれ、ほかに和事・実事の中間 の体制を整備し、新たに倭寇を懐柔する政策を式の貿易許可が得られなかったので密貿易者と置く。少人数教育をモットーにし、カリキュラを意味する「和実」、若干強みのある役をいう 採用した。この政策により、倭寇は朝に投降なった。そこに日本商船が、当時国内で生産量ム編成などでユニークな試みを行っている。大「びんとこな」などの名称がある。〈松井俊諭〉 しじん して官職や衣料、住居などを受けるもの、使人を急増させていた銀を所持して南下し、合流し学のほか幼稚園、小学校、中学校、高等学校を和琴わごん日本のチター属弦楽器の一 つ。かっては「やまとごと」「あずまごと」な や商人として貿易に従うもの、従来どおり海賊た。これらの人々は中国の官憲から一括して倭経営している。所在地は東京都町田市金井町一一 そうしょ せつこう 〈伊藤彰浩〉どともよばれ、平安時代は貴族の男女の遊びの 行為を続けるものなどに分解変質し、やがて消寇とみられたのである。彼らは浙江省の隻嶼、 れき、一う ついで瀝港を根拠地として盛んな密貿易を行っ和光同塵わこうどうじん光を和らげ塵に同場で楽器演奏や歌の伴奏に盛んに使われた。そ 滅していった。朝鮮側では一四一九年 ( 応永一一 ちとく っしま そうくっ 六 ) 、倭寇の巣窟ないし通過地とみなした対馬た。この地が中国官憲の攻撃により壊滅するずること、すなわち、自らの智徳の光を隠しての後、貴族の没落とともに衰退し、現在では皇 と、彼らは根拠地を日本に移し、中国大陸沿岸世俗のなかに立ち交じること。『老子』第四章、室関係の儀式、宮中雅楽演奏、神社・寺院の法 の掃討を目的として大軍を対馬に送り込んだ。 しんとう - 一うりやく き力いとうせい おうえい ルし - : っ に出動して寇掠活動を行った。倭寇の集団は第五六章に「其の光を和し、其の塵に同す」と要など、おもに神道系雅楽演奏の、ごく限られ これが応永の外寇で、朝では己亥東征とよん そう た場でのみかろうじてその存在を保っている。 して出る。それがのちに仏教に取り入れられ、 だ。こののち朝鮮では対馬の宗氏を優遇して、分裂・合体を繰り返し、その行動は複雑な様相 ちゅうゆいまきっきよう まかしかん おうちよく 歴史的にみると、縄文遺跡から出土するヘら 日本からの渡航者を管理する役目を与え、倭寇をみせたが、もっとも有名だったのは王直で『注維摩詰経』や天台の『摩訶止観』では、 1 一とう ばさっしゅじよう ひらど 仏・菩薩が衆生教化のために、その本身を変状の突起形木製品、現在アイヌに伝承されてい ある。王直は日本の平戸や五島地方を根拠と 再発の防止に備えた。↓応永の外寇 やよい お・つげ るトンコリ ( 五弦琴 ) 、弥生遺跡から出土する じて応化の姿をとることをいうようになった。 し、大船団を組織してしばしば中国の沿岸を侵 朝鮮半島を襲った倭寇は転進して中国大陸に たねがしま ほんじすいじゃく げんみん 向かい、元や明を攻撃した。明の太社 ( 洪武した。彼は、一五四三年 ( 天文一 (l) に種子島さらに日本では本地垂迹説に関して用いられ突起形木製品など、和琴との関連を示唆する例 じんぎ が多い。古墳遺跡から出土する輪の弾琴像に に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外るようになり、仏・菩薩が日本の神祇としてか 帝 ) は海岸の警備を厳重にするとともに、日本 1 」ま・つ りに姿を現すことをさすようになった。和光垂表されている「こと」に至っては、きわめてそ の征西将軍懐良親王と折衝して倭寇を防止しょ国船のなかの乗員の一人であり、五糶先生とよ あっせん かぶき
しゅちょう みようりゅう 守澄法親王の命で星光院住職となり、妙立のれられているが、その起源は、古く『易』 ( 咸る。石油の一大産地で、一九五八年の採掘開始り、「個体霊」とよぶことができる。これは、 かんのう ばんもうかし ナ . 教えに接し、七八年 ( 延宝六 ) 妙立から梵網戒卦 ) の感応思想にさかのばることができる。古とともに発展し、精油、機械、自動車修理など感情、意志、認識を支配する主体とされるがゆ 3 きようしょ 〈駒井正一〉 えに個別的、個性的なものであり、肉体から独 を受ける。のち経疏を講じ、九三年 ( 元禄六 ) 来、中国ではさまざまな霊験を記録した霊験の工場がある。 よかわいいむろ 立した原理として、肉体を離れたり、肉体の滅 横川飯室谷の安楽律院に住し、四分律を鼓吹記・感応伝が数多く編まれており、古くは南斉冷光れいこう 0 ルミネセンス めいしようき そう おうえん たいげんえんしゅう ーチャン中国、雲南省北 亡後も存続する力をもっと信じられている。他 し、中国宋代の天台教学を賞し、安楽律を主王珱の『冥祥記』、太原王延秀の『感応伝』、 麗江れいこう / リ しりよう いきりよう とうえんめい そうじんろく どうせん ようす・ - 一う 張、妙立没後に具足戒を受け、古来の教学を伝陶淵明の「捜神録』などがあり、唐の道宣の部の地区ならびにナシ族自治県。揚子江上流の者や生者に影響する霊としての生霊、死霊、 ・」うまう きんさ さんろく それい りんのうじ 1 ) かん じゅうじんしゅうさんばうかんつうろく える諸師と対立したが、日光山輪王寺宮が調停「集神州三宝感通録』は、後漢から唐初に至金沙江に沿い、玉竜山、光山などの山麓を占祖霊、精霊などの観念は、この考え方によるも ひょうい し擁護した。著書が多数あり、安楽派二祖としる六〇〇年の間の仏教上の神異霊験の事跡を多める地区で、麗江ナシ族自治県のほか永勝県、のである。人間は、憑依その他の理由によりこ かへい ねいろう てその確立を果たした。 〈木内堯央〉数集録している。わが国でもこの影響下に、平華坪県、寧菠イ族自治県の四県からなる。住民れらの霊の影響下に置かれるが、逆に儀礼や職 りよういき だいり はナシ族、イ族などの少数民族が多く、とくに 能者を通じて霊を操作することで、他者や事物 麗景殿れいけいでん平安宮内裏の殿舎の安前期に「日本国現報善悪霊異記』 ( 略称『日 によう、 せん 名。皇后、中宮、女御、東宮妃などの居所。宣本霊異記しがつくられ、その後、『大日本国ナシ族は集中して居住し、独自の民族文化を保に働きかけたり、未来や神意を知ることができ よう かすがごんげん じぞ・つばさっ もや ほっけげんき 耀殿の南にあり、南北七間、東西二間の母屋の法華験記』『春日権現霊験記』『地蔵菩薩霊験存している。産業の中心は農業で、米、麦のほるとする信念は広くみられる。このような霊の か、養蚕、ウマの飼育が盛んである。また山地考え方は、わが国では古くから「たま」「もの」 四面に庇、西に孫庇がある西向きの建物。西庇記』など多くの霊験記がつくられるに至った。 かじきと・つ はかまギ一 〈青木千枝子〉と称せられてきた。 と西孫庇で、親王の元服や、皇女の袴着などのまた、平安時代以降、霊験を期待して加持祈疇には漢方薬材が多い。 れいごえ果実の収穫直後、果樹に施〔霊魂観の諸相〕霊魂の観念は、地域や時代に 儀式が行われたこともある。東庇には女房のが流行し、この祈疇行者を験者とよぶようにな 宀↑月 ほそどの つばね った。↓日本霊異記 〈藤井教公〉す肥料のこと。果実の収穫に対するお礼の肥料よって大きく異なっており、それぞれの文化の 局があり、細殿ともよばれた。『栄花物語』に という意味であり、果実の肥大による樹体の衰特徴をなしている。アフリカの諸社会では、霊 は宣耀殿に近いので、双方の女房がことばを交黎元洪れいげんこう / リーユワンホン ( 天六六ー わしたり、琴などの合奏をしたことが描かれて一九一一 0 中国、中華民国前期の軍人、政治家。弱をいやし、翌年の成長に必要な貯蔵養分をで魂が万物に潜むとするアニミズムの考え方が有 - 一うひ あざな 〈吉田早苗〉湖北省黄陂の生まれ。字は宋卿。北洋水師学堂 きるだけ多く樹体内に蓄積させる目的で行う。力であるが、霊魂は一般に単体としてはとらえ いる。↓内裏 冷血れいけっ ln CoId BIood アメリカ卒。ドイツ人の教官について、湖北新軍を訓練ビワでは五、六月ごろ、モモでは八、九月、ナられていない。たとえば西アフリカのドゴン族 シでは九、一〇月、ミカンでは晩秋に施されでは、霊魂は生命霊と魂という二つの要素を含 の作家・カボーティの長編小説。一九六六年し、新軍においてしばしば湖北省の革命党員の しんがい る。 〈小山雄生〉み、それぞれ複数の要素からなるとされる。生 刊。アメリカ西部カンザス州の農家で現実に起活動を弾圧した。一九一一年の辛亥革命におけ ふしようほうき イギåme, es ・者においては、知性や意志をつかさどる魂が生 こった一家皆殺し事件に取材、犯人についてのる武昌蜂起後、軍政府の鄂 ( 湖北省の別称 ) 霊魂れいこん soul, spirit だいととく 綿密な調査に基づくノンフィクション・ノ・ヘル大都督に任じられ、漢ロの革命戦争を鎮圧。南 prit 人間を生かし、精神的な働きをつか命霊を支配しているが、死とともに両者は四散 ( 非虚構小説 ) として話題になった。アメリカ京臨時政府の成立にあたって副大総統に選ばれさどる原理として想定されるもの。単に「霊」し、不浄をもたらす。仮面を伴う葬送儀礼の目 えんせいがい ないし「魂」ともよばれる。人間だけでなく、 的は、魂と生命霊を集め直すことで世界を再浄 のニュー ・ジャーナリズムのはしりともみられた。袁世凱の政権奪取に際しては袁に協力し かいざん 化し、死者の国へ送り届けることにある。 ている。作者の共感はインディアンの血を引く た。一四年袁が国会を解散、約法を改竄し、参動植物をはじめとする全存在に潜むとされるこ 古代エジプトでは、霊魂は肉体に宿る不可視 2J 人へ丿ーに向けられており、彼のノートに書政院を設けた際、院長に任命された。袁の死ともある。肉体や事物から独立した原理として の霊魂の観念は、近代以降の実証科学では否定の実体とされ、好んでアオサギや人間の顔をし き付けられていた「人生とは何か。それは暗い ( 一九一六 ) 後、副大総統から大総統に昇格。その たんきずい た鳥の姿で表象された。これは人間と神に潜む 夜の蛍の光である。冬に野牛が吐く息である」 後国務院総理の段祺瑞と争い、その地位を追わされてきた。しかし多くの宗教体系は、独立し という、人間存在のむなしさを示すインディアれた。一三年、直隷派系の軍閥の支援を受け大た実体としての霊魂の存在を認めており、教えものであり、その力と勇気の源泉である。人間の しゅうちょう の基本としている。また科学者の一部にも、そ死後霊魂は肉体を離れ、地下の世界や砂漠をさ ン酋長のことばに要約できる。 〈稲沢秀夫〉総統に返り咲いたが、一一三年直隷派系の軍閥に てんしん まようが、危険にあうと肉体のところへ戻って 回竜ロ直太郎訳『冷血』 ( 一九天・新潮社 ) 追われてその地位を失った。のち天津で病没しの存在を実証しようとする試みがある。 へんおんどうぶつ 〈山下龍三〉 霊魂の観念はきわめて包括的かっ流動的なも くると信じられ、ここから、ミイラなどにして肉 冷血動物れいけつどうぶつ 0 変温動物 のであるが、一般に次の二つに分化する傾向が体を保存する方法がとられるようになった。 / リーシェン中国、湖南省北 曲豆県れいけん 霊元天皇れいげんてんのう ( 一六五四ー一七三一 D れいすい ホメロス期のギリシアでは、霊魂の観念は存 七 ) 。第一〇八代ある。一つは、生命体を維持し、動かす原理と 部の県。消水の下流部に位置し、湖北省に接す第一一二代天皇 ( 在位一六六三 ~ 八 まさひと かん せんりようれいよう ごみずのお る。枝柳鉄道が通じる。漢代には孱陵、零陽後水尾天皇第一八皇子。名は識仁。生母は新広しての霊魂の考え方であり、「生命霊」と称す在したが、きわめて漠然としたものでしかな みん ずい く、思考や欲望は肉体の作用とされた。のちオ 両県に属した。隋代に潭陽県が置かれ、明代に義門院基子 ( 贈左大臣園基音女 ) 。中宮は新上ることができる。これは無個性、非個別的なも たかっかさのりひら ルフエウス教の影響下に、ソクラテスやプラト 潭州の州治となり、一九一二年潭県と改称。西門院房子 ( 関白鷹司教平女 ) 。一七一三年のであり、人間においてはとくに息や血、影な ていはっ ンとともに霊魂こそが真の自己であり、知と善 米、綿花、小麦、大豆、いも類を産し、養蚕も ( 正徳三 ) 剃髪、法名を素浄という。朝廷の典どに結び付けられている。へプライ語 ruab 、 の主体であるとの考えが生じた。それによる 礼故実の保存復興に関する事績が少なくない サンスクリット語ätman 、ギリシア語 psy- 行われる。淡水魚の養殖も盛ん。〈河野通博〉 きようほう che 、ラテン語 anima, spiritus など、霊魂をと、霊魂は神によって創造されたものであり、 霊験れいげん「れいけん」ともいう。神仏享保一七年八月六日崩御。御陵は京都東山今 じゅじどくじゅ つきのわ ^ 辻達也〉表す語が「風」や「息」を語源としているこ神のように不滅なものである。 に祈請したり、あるいは経典を受持・読誦した 熊野にあり、月輪陵という。 キリスト教においては、ギリシア文化の影響 りすることによって得られる、人知を超えた不令胡れいこ / ロンフー中国、青海省北西部とも、この考え方が背景にある。わが国では しんし 下に霊魂の信仰が説かれたが、霊と肉は分離さ 思議なしるし・効験のことをいう。人間の真摯の鎮。海西モンゴル族チベット族自治州に属す「気」の観念がそれに近い なんろく もう一つは、肉体のうちに潜み、その精神活れるものではなく、復活には両者が伴うという な祈りは、かならずその祈りの対象に通ずるとる。アルトウン山脈の南麓、チャイダム盆地の れきしつ いう考え方は、中国や日本において広く受け入北西端の風食地、ゴビ ( 礫質砂漠 ) の中にあ動を引き起こす原理としての霊魂の考え方であ信仰が保持された。また仏教においても、無我 ひさし げんじゃ かん せいれい
りんほ。ど それに統首、里正、勧農官を置く五家作統法が 定められた。これがどの程度実施されたのかは 不明だが、逃亡による避役者の増加に伴い、一 六七五年「五家統事目二一か条」を制定し、そ の徹底を図った。それによれば、近隣の五家Ⅱ 一統、五 ~ 三〇統Ⅱ一里とし、統ごとに統首、 里ごとに里正、里有司を置き、それそれ統内、 里内の事をつかさどらせた。里は面に属させ、 といん 面には都尹、副尹を置いた。統では、戸ごとに カ役の名称、成年男子数、婦女数、部屋数など を報告させ、相互扶助を奨励し、勧善懲悪に努 国 、」めさせ、親不孝、叛主殺人、傷害、盗み、流民 や来歴不明者の存在、他地方への家族の移住な どは報告させた。また、里中の土木事業は里 内、面内で共同で行わせた。 〈矢沢康祐〉 伍 りんばどうめい 0 アンフィクティ 隣保同盟 オニア ニウムを飽和させて得られる。水に溶けるが、 〈中原勝儼〉 アルカリ性にすると分解する。 がわ Limpopo River リンポポ川 しんりんかィ一い アフリカ南東部の川。南アフリカ共和国とジン林野火災りんやかさい 0 森林火災 バブエ国境を東流したのち、モザンビーク領内林野庁りんやちょう国家行政組織法第三条 を流れ、インド洋に注ぐ。南アフリカ共和国のおよび農林水産省設置法 ( 昭和二四年法律一五 首都プレトリア付近に源をもっクロコダイル川 三号 ) によって設置された農林水産省の外局。 まで含めると全長は一七七〇キ。、流域面積は約その主たる任務は、国有林野および公有林野等 四四万平方キ。。マララ滝をはじめ急流が多い 官行造林地の管理および経営、民有林野に関す 流域の大部分は年降水量が五〇〇ミリ以下で、乾る指導監督、林産物の生産、流通および消費の 期には渇水する。モザンビークではマプート北 調整その他林業の発達改善に関する事務を行う 如ル , れ ~ かい 〈中村和郎〉 方で灌漑に利用されている。 ことである。内部部局として、林政部 ( 林業行 政に関する企画、林業に関する総合調整を図る リンモリプデン酸アンモニウム 図 さん こと等の事務を行う ) 、指導部 ( 林野の総合立 ammonium phosphomolybdate 原 復 リン酸とモリプデン酸とからなるヘテロポリ酸地計画および民有林野の経営計画等に関する事 の 類 ( 異種多重酸 ) のモリブドリン酸のアンモ一一ウ務を行う ) 、管理部 ( 国有林野事業特別会計等 木 木 ム塩を置用的にこのようによんでいる。多くの の事務を行う ) 、業務部 ( 国有林野等の経営計 封 種類の化合物が知られているが、もっともよく画に関する事務等を行う ) がある。審議会およ ったと同じ罰を科したという。この什伍の制 と数えることができるが、隣ではそれができな知られているのは、ドデカモリ。フドリン酸アンび施設等機関に、林政審議会、中央森林審議 は、住居環境が同じである漢代を通じて行われ 。しかし一家を中心として、その東西南北の モ一一ウム六水和物 ()H 、 )3CPMo 】 20 、。〕・ 6H20 、 会、林業試験場 ( 八八年一〇月森林総合研究所 りくちょう たと思われる。しかし、六朝に入り、村制が隣は、もし同じ保内に含まれなくても互いに連式量一九八四・四四とーモリブド二リン酸アンと改称 ) 、林木育種場、林業講習所、病院およ そう モニウム一四水和物 ( NH し 6 ス P04M090 しン 普及し、人民が村落で碁盤の上に碁石を置いた帯責任を分かち合うのである。宋以後、隣保の び診療所がある。また地方支分部局に、営林 〈平田和一〉 ように住宅を建てると、隣組の制度もしたがっ 制は、中央から一律に細部まで規定するより 14H20 、式量三一四一・〇八である。このう局、営林支局、営林署がある。 て変わってくる。 も、実施を地方官に一任し、地方官は必要に応ち普通にリンモリプデン酸アンモニウムという 林邑りんゅう 0 チャンバー 唐代の隣保制は、「四家を隣と為し、五家をじて特別の立法を行うことができた。王安石のときは前者をさすことが多い 林邑楽りんゅうがく古代日本に伝わった外 保と為す」を原則とする。このうち五家の保は保甲法は、軍事的に民兵を組織するのが目的で ①ドデカモリブドリン酸アンモニウム深黄色来音楽。林邑とは二世紀ごろ、いまのベトナム 範囲の固定した隣組で、この保内の各家は平等あったが、その最末端が十家からなる保であるの細かい結晶。水に難溶。濃硝酸中リン酸水素南部付近につくられたチャン。ハー国の中国名。 なんてんじく に責任を分かち合う。これに対し隣の四家とは 点において、隣保制のうえにたつものであるとナトリウム Na2HPO 、とモリプデン酸アンモインド文化の影響が強い。日本には南天竺の僧 ばらもんそうじよう ぶってつ 〈宮崎市定〉 いえる。 ニウムとを反応させて得られる。 相対的で、ある家を中心とした東西南北の四家 姿羅門僧正が、林邑の僧仏哲とともに唐を経 りちょう のことで、相互間に個別的に責任を負い合うの 〔朝鮮〕李朝 ( 一三九一一 ~ 一九一 0 ) 以前の隣保制は不 ーモリブド二リン酸アンモニウム黄色微て七三六年 ( 天平八 ) に伝えたというが、実際 であり、四家の範囲は中心と考える家に従って明だが、李朝になると、『経国大典』 ( 一哭五 ) で結晶。濃モリプデン酸アンモニウム水溶液に過 には唐の胡楽 ( 外来楽 ) とも考えられる。七五 異動する。そのため保はそれを積み重ねて何保五戸Ⅱ一統、五統Ⅱ一里、数里Ⅱ面とし、それ剰のリン酸を熱的作用させ、ついで塩化アンモ 二年 ( 天平勝宝四 ) には大仏開眼供養会で三舞 鱗木の復原図 胞子嚢穂 小舌孔 維管束痕 発散孔 小胞子嚢ゝ 胞子葉 小舌 大胞子嚢胞子嚢穂 ( 拡大図 ) 葉枕 ( 拡大図 ) 2 2 す ~ マ市、す樹模 0 を診 0 樹幹表皮 イ ごか 唐の隣保 南ロ 西 伍 222
りしうみ E 画ら た。彼は飢兵を率いて反乱に参加、まもなく高官僚制度が整備された。しかし王権は絶対的・ 4 げいしよう ちんしよう 水か ・山図 迎祥のもとで隊長となり、闖将とよばれた。超越的な力をもたず、政治は合議制によって行 せいふ 5 の本 三六年高迎祥の戦死後は一方の首領となり闖王われ、高級官僚の合議機関として初め議政府、 びへんし ・思風 を称し、他の首領たちの投降後も活動を続け、のちに備辺司が実権をもった。第四代世宗から 李作 おう 四〇年河南省に入るとふたたび強勢となり、李第九代成宗にかけて国力が充実し、領域が鴨 がん りよく - 一う とまんこう ・、当色 6 。緻 巌、牛金星ら読書人層の参加をも得るに至っ 緑江・豆満江の線まで拡大し、ハングル ( 訓 きせん 本亠宗 た。自成は彼らの建言により「貴賤にかかわら民正音 ) が創作され ( 一四四六 ) 、基本法典である 絹北れ けいこくたいてん へんさん 優 ず田を均しくし、三年間徴税をしない」とい , っ『経国大典』をはじめ各種編纂事業が行われた。 かんいん 図 1 物水 民生策を掲げ、「殺人せず、愛財せず、姦淫せ官僚は原則として科挙で選ばれるとされていた 露博山る 宮亠緑え ず、略奪せす」と唱えて軍規を厳しくし、民衆が、実際は血縁・地縁の原理が強く作用し、そ 帆 じ。よ、つよう 故青か ノ立 1 碧か の支持を得た。やがて四三年には襄陽 ( 湖北 れが政府内部における激しい権力争いとして展 国金う 省 ) で新順王を称し、西安を占領、翌年には国開した。一五世紀末には新興官僚による士禍が えいしよう 思北くよ 号を「大順」、年号を「永昌」と定め、官僚制起こり、一六世紀になると朱子学の解釈を理論 李台とも 度を設け国家体制をつくるや、東征軍をおこ的武器とした学問上の争いの体裁をとる党争へ りしつ すうてい りしうみしほん 0 利子付きる」と評したが、呉道玄の自由奔放な画風とは し、三月、山西を経て北京に入城し、明の崇禎 と発展した。党争は大きく南人、北人、老論、 利子生み資本 せいち 資本 対照的で、きわめて精緻な細密画的作風だった帝を自殺させた。しかし満州軍の援助を得た呉少論の四派に分かれて争われたが、官僚・儒生 んけい リシェ CharIes Robert Richet ( 一会 0 ー 〈吉村怜〉三桂軍の進攻の前に敗退し、北京を捨てて西に がすべていずれかの党派に属し、父子代々続く り・ー ) 了てつ / / リ 一九三五 ) フランスの生理学者。 ースーコワン ( 一会九ー一九逃れ、四五年湖北の山中で地主武装軍に殺され争いを李朝末期まで繰り広げた。 リの生まれ。李四光 しん ) くほう みん 一八七七年バリ大学を卒業し、八七年にパリ大 (l) 中国の地質学者。英語名は J. S. Lee をた。しかし彼の残存勢力はのち各地で反清闘争 冊封を受けた明朝には事大関係を結び、日本 しん 学生理学教授。神経、呼吸、筋肉などの生理や用いる。湖北省黄岡県回竜鎮に生まれる。清国を続行した。 〈谷口規矩雄〉とは対等の交隣関係を外交方針としていた。し みん とよとみ じん りしそう ( 一五六五ー一六三 l) 中国、明末かし一五九二 ~ 九八年の豊臣秀吉軍の侵入 ( 壬 肝臓の機能、血清療法などに関する研究を試み公費留学生として日本へ留学し、孫文の中国同李之藻 ー ) , ル・つい しんていゅうわらんぶんろく けいちょう た。八八年細菌を注射すると免疫体を生じるこ盟会へ参加した。帰国後、辛亥革命に参加しの学者。字は振之、我存。号は存園寄叟や洗礼 辰・丁酉倭乱ⅱ文禄・慶長の役 ) で大きな被 て、のち、イギリス、 とを確かめ、九〇年初めて血清療法を行った。 ーミンガム大学で地質名レオンにちなむ凉菴など。マテオ・リッチに 害を受けた。多くの人命が失われ、国土は戦火 一九一三年「過敏性現象に関する研究」により学を学ぶ。一九一八年帰国して北京大学地質系師事し、一六一〇年洗礼を受けた。一五九八年で荒廃し、貴重な文化財が焼かれたり日本に持 ナンキン ノー・ヘル生理学医学賞を受けた。〈大鳥蘭三郎〉教授となった。一三年中国地質学会を創立して進士となり南京工部に勤め、一六一二年には南ち去られた。民衆を主体とする義兵の活躍、李 しゅんしん がい Regent Street 副会長となり、国立中央研究院地質研究所所長京太僕寺 ( 車馬・牧畜を司る ) 少卿に至る。リ 舜臣指揮下の水車の勝利、明軍の救援などで リージェント街 こんよ イギリスの首都ロンドン都心部、ウエスト・エを兼ねる。中国、東アジアの大構造について研 ッチの『坤輿万国全図』などの刊行のほか、西日本軍は撤退したが、その傷もいえないうち しん ンド地区を南北方向に通ずる大通り。両側に各究し、三九年英文で『中国の地質』を著した。洋学術やキリスト教に関する多くの著訳を行っ 一六二七年、三六年の二度にわたって清軍 しせん けんこん ・一ん力い こらん ていばうへいし 種高級商店が軒を連ねる。道筋はピカデリー またこれより先、四日 , 北西中国や東シナ海、た。「乾坤体義』『同文算指』『渾蓋通憲図説』が侵入し ( 丁卯・丙子の胡乱 ) 、首都が占領さ サーカス ( 広場 ) の北西部で大きな弧を描き、華北平原での石油の有望性を指摘する。日中戦はクラビウスの天文・数学書の、『幾何原本』れ、清に服属を誓わせられた。日本との関係 じゅうけい かんゅうせん 通りに面する建物の前面もそれにあわせて円弧争時は地質研究所の移転とともに、重慶にま はユークリッドの数学書の、『寰有銓』『名理は、政権が豊臣氏から徳川氏にかわったことで っしまそう わかん 状につくられており、この部分はクオドラントで行った。四七年イギリスに留学し、中華人民探』はアリストテレスの自然学・論理学の訳。修復され、対馬宗氏との倭館も復活し、将軍の quadrant ( 四分円街区 ) とよばれる。ジョージ 共和国成立後五〇年に帰国した。五二年地質部「天学初函』はキリスト教、天文・地理・数代替りごとに通信使などの使節を派遣すること そうしょ すうてい 四世が摂政 ( リージェント ) のとき、お気に入り ( 省 ) が設立されたとき、部長 ( 大臣 ) に就任学・測量関係の叢書である。『崇禎歴書』編纂一二度に及んだ。 の建築家ジョン・ナッシュに命じてつくらせたする。第一次五か年計画作成に際し、東北地区、 にも加わったが完成前に没した。 〈宮島一彦〉 一八世紀に入ると清を通して西洋の学問が入 、一うらい りしちょうせん高麗に続く朝鮮最って影響を与え、キリスト ( 天主 ) 教が広まっ のでこの名がある。 3 しロンドン〈井内昇〉華北平原の石油の有望性と開発の必要性を力説李氏朝鮮 りしくん ( 六五三ー七一 0 中国、唐代のして受け入れられ、今日の石油産出への道を開後の統一王朝 ( 一三九一一 李思訓 ~ー九 (O)O 李朝と略す。 た。政府はキリスト教を邪学とよんで禁止し、 りりんま かんきよう 画家。唐の宗室の出身で、玄宗朝の宰相李林前 いた。また中国科学技術協会会長、中国地質学〔概観〕咸鏡道地方の豪族出身の太祖李成棒何度も大弾圧を行った。一九世紀には平安道一 こうけいらい の伯父にあたる。高宗朝に江都令となり、一時会理事長として、中国の地質学のみならす広く は、内外政多難な高麗末期に武人として倭寇対帯にわたる洪景来の乱 ( 一〈一一 —lll) が起こるな えきしゅう 官を去ったが、中宗復位ののち、益州長史、科学技術の振興に力を尽くした。〈木村敏雄〉策などに功績をあげて台頭し、政治中枢に参加 ど生活苦にあえぐ民衆反乱が相次ぎ、一 みん 左羽林将軍、右武衛大将軍を歴任した。若年よ李自成りじせい ( 一六 0 六ー四五 ) 中国、明末のした。土地制度改革で得た新興官僚層の支持を年には全国的な広がりをみせるに至った。こう ぺいしせんせい きようじようおう り書画に優れ、呉道玄、王維とともに初・盛唐農民反乱の指導者。米脂 ( 陜西省 ) の農民出背景に一三九二年高麗最後の国王恭譲王 ( 在して朝鮮が衰退をみせるころ、欧米列強が来航 みん まくしゅう を代表する画家で、明末には北宗画の祖とさ身。彼の生家は小地主であったともいわれる位一三八九 ~ 九 = ) を追放して国王に即位し、翌年国して開国を要求し、六六年にはフランス艦隊 れ、山水画は国朝第一といわれた。子の李昭 が、明朝の政治的腐敗と過酷な税によって没号を朝鮮と定め、漢陽 ( 後の漢城、現ソウル ) が、七一年にはアメリカ艦隊が江華島を攻撃し どう え たいいんくん 道もまた画をよくし、大李将軍、小李将車と父落、破産し、牧夫ののち駅卒となったが失業、 に都した。初め王族の内紛で不安定だった王権た。これに対し高宗の父 ( 興宣 ) 大院君は鎖国 ちょうげんえん じようい 子並び称されている。同代の書画論家張彦遠兵隊になった。おりしも一六二八年、陜西地方も第三代太宗のころ安定し、貴族の私兵が廃止攘夷政策を固持し、キリスト教徒を弾圧しつ ききん たいじ は「山水の変は呉 ( 道玄 ) に始まり、二李に成に大飢饉が起こり、飢餓農民の反乱が起こっ され、朱子学による思想統制の下、中央集権的っ列強の攻撃と対峙していた。しかし外戚閔氏 しほん ひと あざな わ・一う ちん へんさん がいせきびん
わじまぬ ねごろ しゅうえん 中央にある島崎の木村邸は良寛終焉遺跡とし港 ) が栄えた。近世には諸産業がおこり、輪島歌山県 ) 根来寺の僧が輪島の重蓮寺に下向して そうめんかたじ て有名で、多くの遺墨を保存し、良寛美術館も包丁、小刀などの鍛冶、輪島素麺、堅地漆器、器物をつくったのに始まるとされるが、さだか しくら ぶん むなふだ のしあわびなどを産した。漆器は現在も輪島塗ではない。また同地の前蔵神社の棟札には、文 あって、県史跡に指定されている。人口五五六 明八年 ( 一四七六 ) に「小工塗師三郎次郎定吉」が 〈山崎久雄〉として全国に知られる。能登半島北部の中心 てらどまり 堂の建立に従事したとあり、塗師の存在を示し 2 二万五千分の一地形図「寺泊」「与板」「廿で、一八七八年 ( 明治一一 ) には鳳至郡の郡役 もギ、き 所が置かれた。米作を主に、林業も盛んで、県木ている。能登地方では古くから日常食器がつく 雲崎」 かんぶん のと のアテ ( アスナロ ) は輪島塗漆器の素地にも使用られたが、寛文年間 ( 一六六一 ~ 七三 ) の地の枌の発 輪島 ( 市 ) わじま石川県能登半島の北部に ある市。日本海に急斜面で面し、丘陵地が広する。ウルシを植栽し漆液の確保にも努める。海見が大きな転機となった。 ちんきんまきえ ななじまへぐらじま 加飾では沈金や蒔絵が行われ、とくに沈金は 。日本海上の七ッ島、舳倉島を含む。一九五士町の漁民は舳倉島へ季節移動し、漁獲をあげ きようまう けいそうど こしよおおや かわら 一四年 ( 昭和二九 ) 輪島町と叫保、大屋、河原る。漆器工業が主産業で、珪藻土「地の粉」を輪島の特色ある技法で、享保年間 ( 菱六 ~ けんろう だこうす なじみみ 田、鵠ノ巣、南志見、三井の六村が合併して市用い、伝統的手法で堅牢・優美な製品を生産す漆器業の三笠屋伊平が松前 ( 北海道 ) から彫刻 すずりばこ ろくぶ まちの に巧みな六部を伴って帰り、硯箱に唐草を彫 制施行。五六年町野町を編入。西日本旅客鉄道る。漆芸作家が輩出し、県立輪島漆芸技術研修 七尾線の終点で、国道二四九号が通じる。地方所があり、輪島塗の製品展示や製作工程をみせらせたのに始まる。館順助がこれにくふうを凝 らし、さらに息子の雅水が京都で絵を学び、漆 港湾で避難港の輪島港からは舳倉島に定期船がる輪島漆器会館がある。北部の町野川河口近く ときく : きんばく だいなごんときただ には流人大納言平時忠の子時風を祖とする上下器に花鳥などを彫って金箔を付着する沈金法を しも しよう 中世は大部分が大屋荘の地で、大屋湊 ( 輪島の時風家があり、下時国家 ( 江戸中期の建築 ) 考案した。以来今日まで輪島沈金として発達 だんがい そそぎ は国指定重要文化財。断崖の曽々木海岸 ( 国のし、一九五五年 ( 昭和三〇 ) 人間国宝に認定さ まえたいほう そで 名勝・天然記念物 ) や白砂の袖ケ浜、舳倉島なれた前大峰 ( 天九 0 ー一九耄 ) が著名である。 輪島塗はその生産と販売機構に特色があり、 どは能登半島国定公園域。このほか、名舟の白 ′」じんじようだいこ 山神社の祭礼に行われる御陣乗太鼓、急斜面幕藩期には全国にわたって流通した。また地の しらよわ につくられた白米の千枚田、市立民俗資料館な粉を輪島漆器組合で自製し、組合員以外には公 どみるべきものが多い。輪島港に近い河井町本然と販売しない規約があるのも特色といえよ 古郷 う。江戸末期からは生産の分業化が進み、木地 通は朝市が立っことで有名。人口三万一八四 在っ 〈矢ヶ崎孝雄〉の生産から加飾まで、輪島を中心とした近在の 三。↓輪島塗↓舳倉島 港つが 町々で分業でつくられ、挽物・指物・曲物の各 回『輪島市史』全七巻 ( 一九七一 ~ 七六・輪島市 ) 良立市 まうりゅうざん あなみず のがタ 地五万分の一地形図「宝立山」「輪島」「穴水」木地師、塗師、沈金、蒔絵の六職に分かれた。 然市は ほおぎじ 天朝で輪島塗わじまぬり石川県能登半島の輪島で明治中ごろには朴木地 ( 花台、仏具の前机など さしもの う内 けんろう の複雑な形やカー。フした脚などをつくったり、 商境産する漆器。堅牢性に富む日常漆器で、指物・ きようじん を社 輪ど神曲物木地には強靱で弾力 な吉 のある地元産のアテ ( 橋。 あ物住 千の アスナロの変種ヒノキアス 河た魚近ナロの林業品種 ) を使い わん のえ鮮 川栄 , お挽物の椀木地にも地元産の 田て菜な ケヤキを用いる。堅牢を誇 原し野 る輪島塗は、立木を九〇度 むのりな 傾けた形で椀をとる横挽き 望運通に を海の所 ( 輪切りにした原木からと 街〔廻町名 市」西井光 る取り方は縦挽き ) で、補 とは可観 強のため上縁や高台に布着 港世の 島近部で せを施し、漆の吸い込みや 輪 , むま 港中い 食いっきに優れた特産の地 けいそう よ入街 空移市が の粉 ( 小峰山産出の珪藻 上の。る 東化市あ土 ) を下地に用いて塗り重 南文朝で 陸。残ねるなど、特有の本堅地塗 りの技法を駆使している。 おうえい 起源については、応永年間 ( 一三九四 ~ 一四一一 0 に紀州 ( 和 ななお よいた みなと ひき ときくこ めの なぶわ まえたいはう 輪島塗前大峰「沈金猫飾箱」 1934 年 ( 昭和 9 ) 縦 435 横 325 高 13.45 京都国立近代美術館 輪島沈金の第一人者の飾箱。ネコをこよなく愛した大峰は , ネコを 写生し , ネコの精悍さをみことに表現した 777
ろくじゅ えんま きっしよういん い。京都市内の吉祥院六斎、千本閻魔堂六斎出されたが、世論の支持が強く、六三制は存続あるニガンタ・ナータブッタ ( マハービーラ ) れ、ついに化けの皮がはがれ、追い込まれる。 いずみ せっしよう の六人。このうち、プーラナは、殺生、盗賊、和泉流ではすつばの仲間三人が地蔵に化け、シ などは国の重要無形民俗文化財に指定されておした。 かんつうきょげん テは仏師の姿で終始する。類曲に『仏師』があ 戦後日本の六三制の特徴は、教育の機会均等姦通、嘘言などの行為をはたらこうとも悪をな り、このほかに京都府下から滋賀県や福井県の ふせ わかさ 〈渡辺伸夫〉の理念から単線型であったことのほか、中等教したのではなく、また祭祀、布施、自己制御、る。地蔵のおひろめ場所を本舞台と橋懸りに設 若狭にかけても残存している。 ろくさんせい 小学校六年、中学校一一一育の一部が義務化され、中学校までの教育課程真実語をなしたとしても善の生じることはな定し、その間をだまそうとするすつばと確かめ 六三制 ようとする田舎者が走り回り、能舞台の特性を く、善悪の行為に対する果報もまた存在しない 年を基本とする単線型の学校制度をさす。歴史が全国共通のものとなったこと、男女共学の原 〈油谷光雄〉 と説いた。バクダは、人間は地・水・火・風の縦横に発揮する。 的にはアメリカで二〇世紀初期に成立した制度則がとられたことなどである。これらの特徴か なむあ 5 だぶつ ろくじみようごう「南無阿弥陀仏」 六字名号 であるが、日本で一般的には、第二次世界大戦ら、六三制は民主的性格をもつものとして評価四元素と苦・楽・霊魂との七要素から構成さ なむふかし一こうによ され、さらにその後、後期中等教育や高等教育れ、これら七要素は常住不変でなにものも生みの六文字をいう。九字名号「南無不可思議光如 後一九四七年度 ( 昭和二一 D より実施された きみようじんじつばうむげ・一うによらい ・三・四の新制度全般をまとめて六三制の大衆化をもたらすことによって、学校教育の出すことなく、なにものにも損なわれることが来」、十字名号「帰命尽十方無礙光如来」に対 きえ ないから、世の中にはいかなる行為もなく、たする。南無は礼する意で、阿弥陀仏への帰依を という。戦後日本の学校制度は学校教育法 ( 一量的拡大が急速に行われた。 かんむりようじゅきよう しかし、一方では教育の質の問題が生じ、昭とえ利剣をもって頭を断っとも剣刃が七要素の表す術語。『観無量寿経』などに説かれ、この 九四七年四月一日施行 ) による。この法律のな じようどおうじよう かんげき 六字名号を唱えることによって、浄土往生へ 間隙を通過するのみであると説いた。サンジャ かで、修業年限について、小学校六年 ( 一九和四〇年代にはさまざまな学制改革論が示され 条 ) 、中学校三年 ( 三七条 ) 、高等学校三年 ( 四た。なかでも一九七一年 ( 昭和四六 ) の中央教ヤは、来世の存在などの問いに対してことさらの目的が達せられるとされる。真宗ではもつば ら六字名号を本尊としていた。また転じて死ぬ あいまいでとらえがたい議論を行い、確答する 六条。ただし定時制・通信制は四年以上 ) 、大育審議会答申は六三制の改革を示唆しており、 けいじじよう ^ 佐々木章格〉 学四年 ( 五五条。特例あり ) とそれぞれ定めら四・五・五制、五・四・四制など、この答申をことをしなかった。彼によって初めて形而上ことをもいう。 ふんどし がく ろノ、しゃ / 、 六尺褌の略。丈が六尺 れている。六三制により、前期中等教育までが きっかけにさまざまな論議が行われた。今日で学的問題に対する判断中止の思想がインドに現六尺 かわじゃく しやりはつだいもくけんれん ( 曲尺または呉服尺、一八〇または二二〇 ) も、学校教育問題が生するたびに、論議の対象れたとされる。舎利弗、大目揵連という釈迦の 義務教育となり、すべての国民に開放された。 けいちょう の一本の布で巻き締める褌のこと。慶長 ( 一五 〈真野宮雄〉 二大弟子はともに当初はサンジャヤの徒であっ 新制中学校は旧制の国民学校高等科、青年学校とされている。 た。↓ゴーサーラ↓マハービーラ〈松田愼也〉九六 ~ 一六一五 ) 以来、貴人、武士、庶民を通じ広く ろくしき仏教用語。サンスクリット 普通科および旧制中学校の低学年を統合再編し六識 はぶたえちりめんしゆすどんす ろくじぞう六道 ( 地獄・餓鬼・畜使用された。羽二重、縮緬、繻子、緞子などい たものであったが、新学制実施直前には同一年語シャッド・ビジュニャーナ名早 v 一」 fiäna の 六地蔵 しようしゆら ろいろで、色も白に限らず、赤や紺などもあっ 齢層の約九割がこれらの学校に在籍しており、訳。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六生・修羅・人間・天上 ) のそれそれにあって、 さらしもめん しゅじよう じぞうばさっ 義務教育化のための実質的な基盤はすでにでき種の認識をいう。色形と目とによって視覚 ( 眼衆生の苦悩を救済する地蔵菩薩のこと。そのたが、一般には晒木綿が用いられた。母方の実 ていた。敗戦後の極端な財政的窮乏のもとで強識 ) が生じるように、色 ( いろかたち ) 、声、名称・形像は典籍によって異なるが、一般に家から八、九歳になる男児に襌を贈り、「へこ こんごうがん 行されたこの新制度は、「すし詰め授業」や一一香、味、触 ( 可触物 ) 、法 ( 考えられるもの ) は、地獄道を化す金剛願、餓鬼道を化す金剛祝い」 ( 成年式 ) をする風習もあった。大正の 部授業さらには四部授業といった多くの問題をという六境 ( 六種の対象 ) と、目、耳、鼻、宝、畜生道を化す金剛悲、修羅道を化す金剛終わりごろまで用いられたが、しだいに廃れ とう よてんが 抱えて出発した。そのため、発足後二、三年す舌、身 ( 皮膚 ) 、意 ( 一瞬間前の識 ) という六幢、人間道を化す放光、天上を化す預天賀地蔵た。↓褌↓褌祝い また、陸尺とも書いて、一般には駕籠かきを 根 ( 六種の認識器官 ) とによって視覚、聴覚、の総称とされる。日本では平安中期以来、六地 ると、「六二制」への短縮案が大蔵省などから ぎつえき まかないかた きゅうかく しゆい いうが、そのほか賄方、掃除夫など雑役人を 嗅覚、味覚、触覚、思惟が生じる。蔵の信仰が盛んになり、岩手県・中尊寺、茨城 この六種の認識を六識という。意識県・六地蔵寺、新潟県・光照寺、京都府・大善も総称する。江戸幕府では、紅葉山御高盛六尺 二〇人、御賄六尺三八八人、御風呂屋六尺一二 るすなわち思作用は概念的認識であ寺など各地に六地蔵が安置された。六地蔵に まっ さ は、寺院・路傍・墓地などに祀られた六体の地人など数百人の六尺を抱え、それそれに役米、 るとともに、視覚ないし触覚という 納 ^ 片岸博子〉 前五識に参与し、統覚としての作用蔵や、あるいは地蔵堂に祀られたもの、六か所役扶持を支給していた。 奉 ろくしやくきゅうまい江戸時代の をももつ。↓識 〈梶山雄一〉の寺院や堂に安置されるもの、また各所の地蔵六尺給米 夜 てんましゆく たかがかりもの の ろくしげどう紀元前五尊のうちから六か所を選んだものなどがある。高掛物 ( 付加税 ) の一つ。天領では伝馬宿 六師外道 くらまえ にゆうよう いしどうろう しやか 世紀ころ、釈迦と同時代に、中インまた石灯籠などに六種の地蔵を刻んだ場合など入用、蔵前入用とともに高掛三役といわれた。 月 8 〈佐々木章格〉幕府台所人夫への給米として、高百石につき米 ド地方 ( ガンジス川中流域 ) で活躍もある。 ろくじぞう狂言の曲名。雑狂一 = ロ。新二斗の割合で各村に賦課された。↓高掛物 した六人の有力な自由思想家のこ六地蔵 宮 みどう ろくじゅうばんざいうんど と。仏教の側からみて異端の思想家たに建立した御堂に安置する六体の地蔵を購入六・一〇万歳運動 天斎 燒六であることから外道という。①道徳するために上京した田舎者、声をかけられたすう一九二六年六月一〇日、朝で展開された 亠祥 つば ( シテ ) を仏師と信じ込み、翌日に時堂反日示威運動。李氏朝鮮王朝の最後の国王純宗 罟祥否定論者のプーラナ・カッサバ、 の吉 区の決定論者でアージービカ派の開祖ので受け取る約束をする。まんまと仏師になりすの葬儀を期して、朝鮮共産党 ( 一九一一五結成 ) 、学 南系 市臺マッカリ・ゴーサーラ、③七要素説ましたすつばは、仲間二人を呼び出し、三人で生、天道教徒らにより反日デモの計画が進めら のパクダ・カッチャーヤナ、④唯物三体ずつ二度に分けて地蔵の姿に取り繕い田舎れた。計画は事前に発覚し、共産党員多数が検 京い空 丿ン、者をだます算段をする。当日、因幡堂の後ろ堂挙されたが、葬儀当日、ソウル各所で学生らが 論者のアジタ・ケーサカンバ 仏 念 「独立万歳」を叫びデモを行って約二〇〇人が と脇堂の二か所を忙しく行き交いながら、田舎 ⑤懐疑論者のサンジャヤ・べーラッ 斎 テイブッタ、⑥ジャイナ教の開祖で者に地蔵を見せるうちにだんだん立ち姿が崩逮捕された。三・一独立運動ほどの規模にはな 冖す当 商事 わぎ 515
てはだいたい一定である。したがって労働日を なった。しかし総選挙の最中や、直後の三・ 労働取引所連盟が結成され、書記長・ベルー 離職その他雇用の動向を調査するもので、年二 チェをはじめとするサンジカリストの牙城とな五事件などで集中的な弾圧を受け、二八年四月延長すればするはど剰余労働時間は長くなり、 回行われ、年報が刊行されている。 〈吉見義明〉生産される剰余価値も増大するので、資本家は ゼネストによる社会革命を唱える彼ら一〇日解散命令を受けた。 ⑦雇用管理調査 ( 労働省政策調査部 ) 民営企 できる限り労働日を延長しようとする。しかし ろうどうのにじゅうせい Dop ・ 業における労働者管理の状況を調査するものは、労働取引所を末来社会を生み出す核となる労働のニ重性 で、毎年テーマを定めて調査している。例示すべきものと位置づけている。しかし、やがて産 pelcharakter der Arbeit 響商品は使用価労働日の延長には限度がある。それは、労働者 の生理的・肉体的限度によって、さらに精神 ると、退職管理 ( 一九会 ) 、採用管理・退職管理業別組合を中心とした労働総同盟 (0 +) 値と価値という二要因を統一したものである。 の成長に伴って、一九〇二年に連盟はその地域こうした商品の二要因に対応して、その商品を的・社会的限度によって、二重に規定されてい ( 一九会 ) 、採用後の管理 ( 一久七 ) がある。 日る。この二つの限度はきわめて伸縮自在なた ⑧労働災害統計年報 ( 労働省労働基準局 ) 労別部門として合流し、一四年にはの「県生産する労働も具体的有用的労働と抽象的人門 働者災害補償保険のデータから各種の災害統計連」に発展的解消を遂げた。労働取引所そのも的労働という一一つの属性をもっている。これがめ、資本家は肉体的限度ぎりぎりまで労働日を をまとめたものである。なお労働災害動向調査のは、現在でも。ハリやリョンなどで職業紹介業労働の二重性である。上着なら上着というある延長しようとするが、これに対して労働者は、 は、サンプル調査ながら、労働災害率を産業別務を行う労働組合会館として存続しているが、特定の使用価値をつくりだすためには、裁縫労労働力が順当に再生産されるよう労働日の短縮 〈谷川稔〉働という特定の生産活動が必要であり、この活を求めて反対する。こうした労働日をめぐる資 かっての政治的性格はもはやない。 に発表している。 ⑨家計調査 ( 総務庁統計局 ) わが国唯一の年・ルフラン著、谷川稔訳『フランス労働組動は、目的、作業様式、対象、手段、および結本家階級と労働者階級の激しい闘争の結果とし 合運動史』 ( 一九七四・白水社 ) ▽谷川稔著『フ果によって規定されている。こうした使用価値て、法律によって標準労働日が設定された。イ 次別の大量家計調査で、一九六三年以降は拡大 ギリスでは一八四七年に一〇時間労働制が制定 ランス社会運動史』 ( 一九会・山川出版社 ) ▽をつくりだす労働を具体的有用的労働という。 されて、町村を含み、勤労者世帯だけで五〇〇 ・デュビエフ編、、ー 谷月稔他訳『サンディカこれは人間と自然との間の質料変換の過程であされ、一九一九年には総会で八時間労働 〇世帯以上を対象としている。このほか五年に 制に関する条約が採択された。日本では一九四 リスムの思想像』 ( 一九天・鹿砦社 ) って、資本主義社会に限らずどんな社会におい 一回、全国消費実態調査 ( 三か月分 ) が行わ ても不可欠なものである。具体的有用的労働七年 ( 昭和一三 ) 制定の労働基準法で八時間労 ろうどうのうみんとう大正末 れ、二人世帯以上で約四万八〇〇〇、独身世帯労働農民党 〈二瓶敏〉 で三〇〇〇余が調査対象となっている。なお貯昭和初期の左翼無産政党。略称労農党。一九一一は、たとえば裁縫労働と織物労働というよう働制となった。 、質的に相互に異なった生産的活動である EE ・マルクス著『資本論』「第一巻第三篇 蓄・耐久消費財調査も行われ、都道府県別の集五年 ( 大正一四 ) 一二月一日の農民労働党の結 第八章」 ( 向坂逸郎訳・岩波文庫 / 岡崎次郎 社禁止後、日本農民組合 ( 日農 ) 、官業労働総が、いずれも人間の脳髄、筋肉、神経、手など 計もされている。 訳・大月書店・国民文庫 ) ⑩労働組合基本調査 ( 労働省政策調査部 ) 毎同盟の提唱により再組織運動が開始された。翌の生産的支出であり、人間的労働力の支出であ たまひめくらぶ ろうどうぶんばいりつ distribu- 二六年二月一三日のいわゆる「玉姫倶楽部申合ることに変わりはない 。このような労働の具体労働分配率 年六月末現在で行われ、労働争議統計調査 ( 労 働省政策調査部 ) は、争議行為を伴わない労働せ」で日本労働組合評議会、政治研究会、全日的支出の形態にはかかわりなく、量だけが問題 tive share of labour 国民所得のうち労働 に分配される比率をいう。を国民所得、ルを 本無産青年同盟、全国水平社青年同盟の左翼四となる生理学的意味での人間的労働力の支出が 争議を含めて調査されている。 このほか業務統計で重要なものは労働省職業団体のメンバーを排除するとしたのち、日農、抽象的人間的労働である。これが商品の価値の賃金総額、を一人当りの賃金、力を雇用労働 安定局の職業安定業務統計である。〈藤本武〉日本労働総同盟 ( 総同盟 ) 、日本製陶労働同盟、実体であり、その分量が商品の価値の大きさを量とすれば、この分配率住は、 W ミト 回足利末男著『労働統計の基礎』 ( 一九七一一・日本日本労働組合総連合、東京市電自治会など七団規定する。労働の一一重性はマルクスによって初 労働協会 ) ▽労働省大臣官房政策調査部編体が参加して、三月五日に結成された ( 委員長めて指摘され、「経済学を理解するための軸点」 、当レ」ド ) ・つ、つ みわじゅそう としてその意義が強調されたもので、実際にそで表される。は技術進歩の分類やインフレー 杉山元治郎、書記長三輪寿壮 ) 。しかし左翼が 『労働統計年報』各年版 ( 労働法令協会 ) ションの説明などによく使用される。たとえ ろうどうとりひきじよれん個人加盟を通して支部結成運動や排斥反対運動の把握は経済学の全体系を支える礎石としての 労働取引所連盟 めい Fédération des Bourses du Travail を起こして党内に進出すると、一〇月の第四回意義をもっているのである。↓使用価値↓価ば、価格カが労働コストに一定率のマージン川 フラ 〈二瓶敏〉を上のせして決められるとすれば、 一九世紀末フランスにおける労働組合運動中央委員会で日農、日本製陶労働同盟を除く五値 ・マルクス著『資本論』「第一巻第一篇 団体が脱退した ( 日本製陶労働同盟もまもなく の地域的連合組織で、サンジカリズムの拠点。 となる。もし川が一定だとすれば、カの上昇率 第一章」 ( 向坂逸郎訳・岩波文庫 / 岡崎次郎 脱退、日農は分裂 ) 。このため正式に左翼に門 労働取引所は、もともと地方自治体が設置した G(P) は、 訳・大月書店・国民文庫 ) 職業紹介所であり、一八八七年パリとニームで戸を開放し、一二月一二日の第一回党大会で左 G(P) 日 G ( を日 G ( ミ ) ー G(y) ろうどうび Arbeitstag 労働者 開設されて以来全国各地に設立され、一九〇八 翼政党としての路線を確定し、委員長に大山郁労働日 ーそさこかねみつ の一日の労働時間のことを労働日という。資本である。ここでは労働生産性 ( ト ) であ 年には一五七を数えている。本来は労働力市場夫、書記長紐迫兼光を選出した。この時期、一 の安定を目的として設けられた組織であった六支部連合会、一〇六支部、党員七九六七人を主義社会における労働者の労働日は、必要労働り、 G(Y) は技術進歩率を表す。この式は、賃 擁した。このころから党は日本共産党の影響下時間と剰余労働時間とから構成されている。こ金率が労働生産性よりも上昇率が高ければ、物 が、管理運営が労働組合にゆだねられることが じようなん に置かれ、城南小作争議に端を発した議会解のうち必要労働時間は労働力の価値を再生産す価が上昇し、逆の場合には物価が下がることを 多かったため、生成期の労働組合を地域別に結 さんとう 〈大塚勇一郎〉 集する運動拠点となった。それゆえ労働取引所散請願運動、山東出兵に反対する対華非干渉運るのに必要な労働時間である。実際には労働者意味する。 ろうどうほう labour law 曰 Ar ・ は、単なる職業紹介業務にとどまらず、相互扶動、五法律制定要求運動などを果敢に展開し、 はこれを上回って剰余労働を行っており、それ労働法 によって資本家のための剰余価値が生産され beitsrecht バイ資本主義社会において、資本 二七年 ( 昭和一 l) の府県会選挙で一一万票余 , フ助機能 ( 労働災害・失業の補助 ) 、教育機能 に従属せざるをえない労働者の自由と生存権の ( 当選者一三名 ) 、二八年二月の総選挙で一九万る。労働力の価値を生産する必要労働時間は、 と ( 職業訓練、労働者講座など ) を兼ね備え、さ みずたにちょうぎぶろう せんじ , フらにはストライキの支援に力を注ぐ闘争機関で票余 ( 当選者水谷長三郎、山本宣治 ) を獲得所与の生産諸条件のもとでは労働力の価値が不具体的保障ないし人間の尊厳に値する生存の保 障を法原理として掲げる法の総体をいう。 ろもあった。一八九二年にはその全国組織であるして無産諸政党のなかでもっとも有力な存在と変であるがゆえに、一定社会の一定時代におい 501