の社会主義国が出現し、人類史の動向に大きな影響を与えるは、労働組合運動はかなり強力であるが、有力な社会主義政 段階に到達した。また、これまで長年の間、発達した資本主党がなく、労働者階級の独自の政治闘争は低調である、とい った特徴がみられる。労働運動には経済闘争、政治闘争、思 義国の帝国主義的支配を受けていたアジア、アフリカ、ラテ ンアメリカの植民地・従属国における民族解放闘争の発展の想闘争の三つの側面があると述べたが、資本家階級が労働者 〔労働運動の意義と領域〕労働運動の発生 / 労働運動のなかで、労働者階級が指導的役割を果たす傾向が強まった。階級を経済的に搾取し、政治的に支配し、また経済的搾取と さらに資本主義諸国の内部でも、労働運動の力が強大にな政治的支配とを維持するために思想的支配を図るのに対抗す 諸部面 / 経済闘争 / 政治闘争 / 思想闘争 〔国際労働運動の成立と展開〕産業革命と労働運動の高り、独占資本の支配に介入し、政治、経済、社会の動向に大るためには、右の三つの側面をそれそれ独自の運動として展 開し、それとともに互いに結び付きを図ることが必然的とな 揚 / 科学的社会主義の成立 / 第一次世界大戦とロシきな影響力をもつようになってきた。 〔労働運動の諸部面〕労働運動は、初めは個々の資本家の圧るのである。 ア革命 / 軍国主義の台頭と侵略戦争 「戦後の国際労働運動〕世界労連の結成と分裂 / 現代の制と搾取に反抗する労働者の孤立・分散した抵抗として開始〔経済闘争〕経済闘争は、歴史的にみて労働運動の最初の形 されたが、 資本主義の確立・発展とともに労働者階級の数が態であるが、いまでも労働者が生きていくためには避けるこ 国際労働運動 「戦前日本の労働運動〕資本主義の形成と労働運動の台増え、生産活動のなかで集団的規律を身につける訓練を受とのできない闘いであり、資本家階級による搾取に反対し、 頭 / 独占資本主義の確立と社会主義運動 / 総同盟のけ、互いの立場の基本的共通性を意識して連帯を強めるよ , っそれを弱めることを目的とする。それは、労働力の販売のよ り有利な条件を獲得するために、労働条件と生活状態の改善 になった。さらに計画的、組織的な活動を展開するようにな 成立と発展 / 労働運動の分裂 / 恐慌下の「合理化」 り、ストライキその他の闘争方法を発展させ、また持続性ののために、労働者が雇主に対して行う賃金引上げ、労働時間 反対闘争 / 十五年戦争と労働運動 労働者が最初につ短縮、資本家的「合理化」反対、首切り反対などを目的とす ドッある自主的組織に団結するようになった。・ 〔戦後日本の労働運動〕占領下の民主主義運動 くった組織には、労働組合、協同組合、共済組合などがあるる闘争である。労働組合が組織されたのも、もともと経済闘 ジ・ラインと朝鮮戦争 / 高度成長と万働運動 / 安保 が、さらに階級的自覚の高まりとともに、社会主義思想を受争の必要からであった。 闘争と三池争議 / 労働戦線再編の動自 け入れて、資本主義社会の変革を目ざす革命闘争を指導する〔政治闘争〕労・資の階級対立は経済的利害の対立を根本に 労働運動とは、万働者階級が、資本家階級から受ける搾取ための政治組織、すなわち社会主義政党あるいは労働者政党しているが、それは政治に集中的に反映する。政治とは、国 と抑圧に反抗して自分たちの労働と生活の条件を守り、改を結成して活動するようになった。この労働者階級の団結家権力による階級支配のさまざまな形であるが、資本主義社 は、一企業から産業部門全体へ、さらに一地域、一国から国会では資本家階級の支配のために権力が行使される。政治闘 善するための運動をいう。 際的規模へと拡大してきた。そしてその活動分野も、経済闘争は、資本家階級の政治的支配を弱め、労働者階級と勤労人 労働運動の意義と領域 民の政治的地位を改善するための闘争から、さらに労働者階 争、政治闘争、思想闘争の三つの側面をもつようになった。 これらの諸組織部面、諸闘争形態は相互に関連しあってお級を中心とする人民が政治権力を獲得するための闘争を含 〔労働運動の発生〕労働運動は資本主義社会の必然的産物で ある。封建制度の社会が解体して資本主義制度の社会が成立り、促進しあって発展するが、その具体的現れ方には、歴史む。 〔思想闘争〕資本主義社会では、支配階級である資本家階級 し始めるに伴って、新しく発生してきた労働者階級は労働運のそれそれの時期によって、またそれぞれの国の事情によっ 動をおこした。さらに産業革命を経過して資本主義が確立て特殊性がみられる。一般的に労働者は、初めは主として生のものの考え方や、農民や都市の小市民などのプチ・プルジ し、高度化するに伴って、その矛盾も広がったから、労働運活防衛のための相互扶助組織である共済組合や協同組合に団ョア的 ( 小所有者的 ) なものの考え方が労働者階級のなかに 動は社会主義思想を受け入れ、資本主義制度そのものを廃止結するが、やがて労働組合をよりどころに持続的、大衆的な持ち込まれ、影響力をもつ。思想闘争は、これらを克服し , フし、階級対立のない社会主義制度を実現することを目標とす闘いを運動の中心とするようになり、さらにその基礎のうえて、労働者階級の独自の立場にたつものの考え方を確立し、 に社会主義政党を先頭に押し立てて闘うようになったといえ広げていくための闘争であって、政治闘争を発展させ、経済 とるようになった。 北闘争と政治闘争を結び付けていくうえで欠くことのできない , フ労働運動は数世紀にわたる歴史的発展を経て、今日では世よう。そのなかで、たとえば協同組合運動は、イギリスや ろ界に労働者階級を中心とする勢力が政治権力を握る十数か国ヨーロッパ諸国で伝統的に活発であり、アメリカ合衆国で闘いである。 、職種間の上向移動は可能であり、このこと者へ「脱サラリーマン化」する方向も同時に進 産業構造の再編過程は技術革新を基礎に労働って大企業労働者に特徴的にみられた終身雇用 過程を変容したが、これに対する適応力に富む制は、低成長期に移行するやい 0 そう動揺の度が、高学歴を求める受験戦争を全社会的に引き行しているため、都市自営業者層は農民とは異 なり滞留傾向にある。↓社会的移動↓労働力 新規学卒者を中心とする若年労働者が、長い勤を増し、彼らの下向移動は顕著になった。この起こす要因になっている。 〈伍賀一道〉 さらに都市自営業者と労働者との間の労働移流動化政策 続期間に裏打ちされた熟練工にかわって大企業ように企業規模間の労働移動については、下向 に集中した。この反面で中高年労働者は大企業移動はしばしばみられるが、上向移動は困難で動も無視できない。経営難を理由に前者から後回石田英夫・佐野陽子・井関利明編『労働移動 の研究』 ( 一九大・総合労働研究所 ) から中小企業へ下向移動する傾向をみせた。かある。ただし世代を越えてみれば、企業規模者へ賃労働者化する動きとともに、後者から前 ろうど、つうんど , っ working-class movement 材ス 労働運動 labor movement 好 Arbeiterbewegung イ mouvement フ一フ ouvrler ンス 475
り、前者には流体継手やトルクコンバーター こら文名は大いにあがった。門下に姚黼が出て、 という。とくに流体の静止状態を対象とする場上の各点を通る流線を引くと、それらの流線を四 壁とする管ができる。これを流管という。流体 合、流体静力学 hydrostatics という。浮力に 後者には油圧伝動装置がある。流体に中間的に , フ彼らの出身地の名をとった「桐城派」古文は、 伝えられる動力は、ポンプで発生させられる圧関するアルキメデスの原理、水圧機の基礎を与はあたかも流管の中を流れているようにみえ 清末の古文の主流を占めるに至った。方苞、姚 ゅ る。時間的に変化しない流れを定常流という。 鼎と並んで桐城派の三祖とよばれるが、方苞のカと流量との積で表される。一定の動力をえるパスカルの法則などがその範囲に入る。こ 「義法」の説を受けて、義理は材料で文人の仕伝える場合、を大にしてを小さくする方法れに対して運動中の流体を対象とする場合が流定常流では流体粒子は流線に沿って運動するか ら、流体中に色素を流せば、それによって流線 と、を小にしてを大にする方法とがあり、体動力学 hydrodynamics である。 事は神気音節にあるとした文章論『論文偶記』 〔流体力学の確立〕水路、水道、噴水など実際が観察される。非定常流では、粒子の軌跡は流 は特色あるものである。『海峯詩集』『海峯文油圧伝動装置は前者に対応し、流体継手やトル 〈伊藤虎丸〉クコンバーターは後者に対応している。↓流体方面の応用から、流体力学についての素朴な知線とは一致しない。 集』各八巻がある。 りゅうたいつぎて 隣接した流体粒子の速度が異なる場合、粒子 りゅうたい 識は古くから蓄積されていたが、流体力学とし 0 流体継手継手↓トルクコンバーター 流体クラッチ りゅうたいつぎてターポ型ポンプ 油圧伝動装置では、油圧ポンプと油圧モータて学問体系が成立したのは一八世紀で、スイスは自転する。その角速度 0 は 流体継手 ーまたは油圧シリンダーとを別々に離して設置の・ベルヌーイやオイラー、フランスのラグ 羽根車とタービン羽根車を主構成要素とし、液 0 日・ー・ , Ⅱ rot 0 し、管あるいはホースで接続することが可能でランジュによって完全流体の運動方程式が樹立 体 ( 一般に油 ) を作動媒体として一つの軸から うずど されたのに始まる。一九世紀なかばにはフランで与えられる。のは渦度とよばれる。点にあ 他の軸へ動力を伝達する装置。流体クラッチとあるので、動力伝達システムの配置の自由度が る流体粒子から出発して、自転軸の方向、すな もいう。原動機により駆動されてポンプ羽根車大きい。また、一つの原動機からいくつかの系スのナビエとイギリスのストークスによって、 統に動力を伝えることが容易であり、パワーシ粘性流体の運動方程式が提唱され、流体力学のわち渦度べクトルの方向に次々とつないで得ら 、、ゝ回転すると、液体は遠、い力によって押し出さ うずせん ョベル、フォークリフトトラック、ダンプトラ基礎は確立した。一八八〇年にはイギリスのレれる曲線をを通る渦線という。また、一つの れ、循環運動を行う。ポンプ羽根車内でトルク うずくだ イノルズによって乱流の概念が導入され、さら閉曲線上の各点を通る渦線を壁とする管を渦管 ックなど建設機械や産業車両の駆動に広く用い ( 回転カ ) を与えられて角運動量を増した液体 〈池尾茂〉 に二〇世紀に入ってドイツのプラントルの境界という。微小断面積の渦管の内部にある流体部 られている。 は、タービン羽根車に入って角運動量を減少さ うずいと りゅうたいへんそくそうち液層理論の提出により、流体力学の現代化が始ま分を渦糸という。流速じと渦度のとの間には せ、トルクを与えてこれを回転させたのち、ふ流体変速装置 体を作動媒体として、一つの軸から他の軸へ動る。これはアメリカのライト兄弟による飛行機 たたびポンプ羽根車に戻る。原理的にポンプ羽 co ・ dS の誕生と相まって、航空力学という新分野を生 根車の与えるトルクとタービン羽根車の受け取力を伝達する流体伝動装置の一つで、トルクコ の関係式が成り立つ。ここでは任意の閉曲 ンバーターともよばれる。二つの軸の間の速度み、流体力学の飛躍的な進歩が始まる。一九三 るトルクとは等しく、トルクの変換は行われな 比を無段階に変えることができ、またトルクを〇年代からは、飛行機の高速化に対応して高速線、はを縁とする曲面である。 P(C) は 流体継手を歯車式変速装置と組み合わせる変えて伝えることができる。そのため、トルク流体力学が展開され、第二次世界大戦の前後をに沿う循環とよばれ、を通り抜ける渦線の総 と、発進時や加速時の衝撃や騒音が減少し、円コンバーターに歯車変速装置を組み合わせて、通じて亜音速、遷音速、超音速の流体力学が確数を表す。 o=() のとき流れは「渦なし」、 0 のとき流れは「渦あり」という。渦なしの流 立する。さらに、宇宙ロケットの登場は極超音 滑な動力の伝達が可能となるため、自動車や船自動車のクラッチとして用いられている。↓ト 〈池尾茂〉速流および希薄気体の力学を促した。一方、内れでは流速は v=gradØのように表される。 舶などの動力伝達に応用されている。↓流体伝ルクコンバーター りゅうたいゅそう流体が流れる管燃機関、タービンに関しての熱現象や化学反応のを速度ポテンシャルという。流体粒子は一般 動装置図クラッチ 〈池尾茂〉流体輸送 に時間的に体積や形を変化する。その膨張速 りゅうたいでんどうそうち機の中に物を混入して輸送する方法。機械的輸送を含む流体力学の研究が行われ、さらに核融合 流体伝動装置 に比べ装置の維持保守が容易、天候に左右され炉に関連して電磁流体力学が登場した。船舶へ度は 9=divv で、変形速度はテンソルⅡ 械的エネルギーを流体の力学的エネルギーに変 の応用から、波浪現象の流体力学的研究がなさ D ド、、 D # + き、 D きで与えられる。ある瞬間に 衛生的であるなど多くの利点をもつ。 換し、これをもう一度機械的エネルギーに変換ない、 , ばら状の被輸送物が流体に直接接触して輸送れ、これはまた海洋工学にも関連する。台風の球形の流体粒子は角速度 0/2 で自転しながら することにより動力を伝達する装置。最初の変 される方式と、破砕または流体との接触を嫌 , っ発生・進行など大気現象の流体力学も重要であ並進速度じで動き、かっ膨張速度@ で膨張ある 換はポンプにより行われ、二回目の変換はター だえん いは収縮しながら楕円体に変形している。↓渦 ビンあるいは液圧モーターによって行われる。被輸送物を容器 ( カプセル ) に詰めて輸送するる。これら多彩な新分野が開発される一方、乱 流現象の研究は、流体力学の基礎として現在着〔流体力学の基礎方程式〕流れの状態を完全に 動力伝達の過程での二回のエネルギー変換のた方式とがある。前者は空気輸送と水力輸送とに 記述するためには、流体中の各点の流速じのほ びに損失が生じるので伝達される動力は減少す大別される。空気輸送は小麦粉、セメントなど実に進められている。↓航空力学↓乱流 か、圧力力、密度、温度などの物理量がわか の粉粒体の工場内輸送や地域のごみ収集に利用〔流れの場〕流体の微小部分を流体粒子とい るが、動力が確実に伝達される、入出力軸間の 回転速度比が無段階に選べる、入力軸側に振動され、水力輸送は石炭や土砂などの長距離輸送う。流体を連続物体とみなす流体力学の立場でればよい。自然現象の一つとして、流体の運動 に使用されている。空気力プセル輸送は従来のは、これらの流体粒子によって流体が構成されは質量・運動量・エネルギーの保存法則に支配さ や衝撃が加わっても出力軸に伝わらない、逆に 輸送方式よりも経済的で、将来の大都市間の輸ていると考える。各流体粒子は並進速度じで動れる。これを数式で表現したものが流体力学の 負荷の急激な変動が原動機に影響を与えない、 基礎方程式である。まず、質量保存の法則は、 制御が容易である、などの利点があり、広く用送手段として期待されている。そのほか、郵便き、角速度 0 で自転している。この並進速度じ が流体の各点における速度である。いま、点 局における郵便物の輸送、銀行、会社における いられている。 十 d 一 v ミ ) Ⅱ 0 にある流体粒子から出発して速度じの方向に隣 作動流体としては潤滑能力の高い油が使われ書類の輸送に用いられる気送管も流体輸送の一 という微分方程式で表される。これを連続の方 〈池尾茂〉接している流体粒子を次々とつないでいくと、 ている。主要構成要素となっている流体機械と種である。↓気送管 りゅうたいりきがく fluid mechan- 一つの曲線が得られる。これを点を通る流線程式という。次に運動量保存の法則は して、ターポ型ポンプとタービンとの組合せを流体力学 ics, hydrodynamics 液体と気体を総称してという。流線は、その上の各点の流速の方向を 用いる場合と、容積型のポンプとモーターまた Ⅱで K 十 十 ? grad ② Dt DXk ) Dt D 、 しし、その運動を論する学問を流体力学示す曲線である。一つの閉曲線 0 をとり、その はシリンダーとの組合せを用いる場合とがあ流体と、 ようだい つぎて
ろ一〈全 一九四六 一九四セ 一九一三昭和七 3 東京地下鉄争議 7 社会大衆党結成 9 日 本労働組合会議結成 二 2 二・二六事件 3 内務省、メーデーや各種 集会の制限・禁止を指示 一一一 7 日中戦争勃発全日本労働総同盟「スト ライキ絶滅宣一一一口」怩人民戦線事件 一三 7 産業報国連盟結成 一五 7 社会大衆党、総同盟解散大政翼賛会結 成ⅱ大日本産業報国会結成 一一 0 8 ポッダム宣言を受諾して無条件降伏政 治犯釈放、日本共産党合法化 ⅱ日本社会党 結成怩労働組合法公布 一一一 1 民主人民戦線運動おこる 5 一一年りに メーデー復活 8 日本労働組合総同盟、全日 本産業別労働組合会議結成 9 労働関係調整 法公布産別一〇月闘争 一三 2 二・一ゼネスト闘争 3 全国労働組合連絡 協議会結成 4 労働基準法公布 一一三 7 政令一一〇一号公布 ( 公務員のスト権剥奪 ) 8 政令二〇一号反対の職場離脱闘争 一一四 7 下山・三鷹事件 8 松川事件怩産別会議 脱退派、全国産業別労働組合連合結成 7 日本労働組合総評議会結成。レッド・ ジ始まる 8 全労連に解散命令 一一六 3 総評、平和四原則採択 一毛 4 破壊活動防止法反対闘争始まる 5 血のメ ーデー事件秋、日本電気産業労働組合、日 本炭鉱労働組合の長期スト 一一八 8 日産自動車争議。三井鉱山人員整理反対闘 争 ( 英雄なき一一三日の闘い ) 始まる 一元 3 尼崎製鋼争議始まる 4 全日本労働組合会 議結成 ( 一九六一一全日本労働総同盟組合会議、一九六四 全日本労働総同盟に改組 ) 5 近江絹糸人権 争議本格化 6 日本製鋼室蘭製作所争議始まる 三 0 春闘始まる 「一一 9 中立労働組合連絡会議結成 三三 3 日本教職員組合の勤務評定反対闘争激化 7 王子製紙争議始まる警職法改悪反対国 民会議結成 三五 1 民主社会党結成 ( 一九六九民社党と改称 ) 。三 池争議始まる。安保闘争高揚 四五 3 統一戦線促進懇談会結成 ( 元七四統一戦線促 進労働組合懇談会に改組 ) 四九国民春闘、賃上げ率最高の三二・九 % ⅱ公共企業体等労働組合協議会のスト権スト 五六怩民間先行による労働戦線統一準備会結成 五七怩全日本民間労働組合協議会結成 五八労働組合組織率三割を割る 六一一ⅱ全日本民間労働組合連合会結成 一九哭 一会四 一九七四 一九七五 一九三七 一九一入 一九四 0 一九四五 一九四九 一九五一 = 一九七 0 一九五 0 一九至 一九五五 一九五六 一九大 一九六 0 ( 国鉄一九二時間連休 ) たぞえ 三三 ) に制定された治安警察法は、労働運動の発展に致命的新しい潮流であると主張して、片山や田添鉄二らの議会政策 な障害となった。とくにその第一七条は、労働組合や労働争派と対立した。直接行動派の「過激な」主張を理由として日 あかはた 議を禁止し、「労働組合死刑法」といわれた。未成熟であっ本社会党は結社禁止 ( 一九 0 七 ) を受けた。〇八年六月には赤旗 た労働組合運動は一時的に消滅した。↓職工義友会↓労働事件の厳しい弾圧がおこされた。これは、出獄同志の歓迎会 で直接行動派の青年が「無政府共産」「無政府」と記した赤 組合期成会 〔独占資本主義の確立と社会主義運動〕労働組合運動の誕生旗を振り回して警官隊と衝突した小事件に、厳しい重刑が科 たいぎやく て一〇年五月から大逆事 せられた弾圧事件であった。続い とほば時期を同じくして社会主義運動が始まった。一八九八 年に社会主義研究会が結成され、知識人たちによる社会主義件の検挙が始まった。これは、少数の直接行動主義者の空想 の集団的研究が始まった。一九〇一年五月、わが国最初の社的なテロリズム計画を、幸徳を首謀者とする明治天皇暗殺の 会主義政党である社会民主党が結成された。しかし治安警察一大陰謀計画にでっち上げて、社会主義運動を一掃しようと 法によってただちに解散させられたので、「宣一言」を発表しする権力側の謀略事件であった。秘密裁判の結果、二四名に 死刑が宣告されたが ( うち一二名は天皇の名によって無期懲 ただけで具体的に活動することはできなかった。 役に「減刑」 ) 、その大多数はまったく無実の犠牲者であっ 日露戦争 ( 一九 0 四 ~ 0 五 ) に対して、社会主義者たちは公然と 一うとくしゅうすい、かいとしひ・ 反対の声をあげた。幸徳秋水、堺利彦らは一九〇三年に平た。韓国併合と同じ年に起こされた大逆事件によって、社会 民社を創立し、その機関紙として週刊『平民新聞』を発行主義運動は「冬の時代」とよばれる一時的窒息状態のなかに し、「非戦論」を叫び続けた。また片山は、戦争さなかの〇凍結された。↓赤旗事件↓大逆事件 四年八月、オラン、ダのアムステルダムで開かれた万国社会党〔総同盟の成立と発展〕第一次世界大戦と一九一七年のロシ 大会 ( 第二インターナショナル第六回大会 ) に日本の社会主ア革命は日本の労働運動にも大きな刺激を与えた。大戦を利 義者を代表して出席し、日本人民の平和と社会主義への熱意用した高度経済成長を通じて、日本資本主義は独占資本主義 の段階に達した。これまでの若年女子労働者が圧倒的多数を を表明し、「敵国」ロシアの代表プレハーノフと壇上で固い 握手を交わして大きな国際的反響をよんだ。〕。平民新聞』は占める繊維産業中心の産業構造から、成年男子労働者を主力 労働運動発展 とする重化学工業中心へと比重が移行し始め、・ たびたび発売禁止を受け、執筆者、編集者が次々に罰金刑・ 投獄の弾圧を受け、ついに〇五年一月廃刊を余儀なくされの条件が成熟してきた。一八年 ( 大正七 ) 夏、米騒動が起こ った。物価とくに米価暴騰に反対する大衆運動が暴動化して た。後継紙として『直一 = ロ』『光』『新紀元』などが刊行された てらうちまさたけ 全国に広がり、寺内正毅内閣を総辞職させた自然発生的な運 が、長くは続かなかった。 日露戦争の勝利を画期として日本は独占資本主義・帝国主動であったが、この経験が土台になって人民各階層の組織化 が始まった。↓米騒動 義に向かって「前進」した。戦後の労働運動はストライキ件 これより先一九一二年八月、友愛会が結成された。東京帝 数の増加、その規模の拡大と激化などの特徴を示した。軍事 工場や巨大工場にストライキが続発したが、一九〇七年一一国大学出身の法学士鈴木文治の指導のもとに一五人の労働者 月、足尾銅山争議は暴動化し、軍隊が出動して弾圧を加えが集まった共済・親睦団体であったが、時代の潮流にのって た。一一年末には東京市電六〇〇〇人のストライキが、片山急速に発展し、二一年には日本労働総同盟 ( 総同盟 ) と名の ら社会主義者の指導・協力を受けて勝利した。↓足尾銅山争る労働組合の全国中央組織 ( ナショナル・センター ) に成長 した。↓友愛会↓日本労働総同盟 議↓東京市電争議 社会主義運動も「冬の時代」から脱出して新しい発展を開 一九〇六年、日本社会党が初めて合法的に成立し、〇七年 日刊の機関紙『平民新聞』を発行して活動した。しかしやが始した。ます一九一二年一〇月に、アナルコ・サンジカリズ さかえあらはたかんそん て、議会政策派と直接行動派の対立がおこった。社会主義運ム ( 革命的労働組合主義 ) 派の大杉栄・荒畑寒村らが『近代 動は、それまでドイツ社会民主党流の議会政策論の立場をと思想』誌を発行して再生の声をあげた。続いて堺利彦らがマ ルクス主義的な立場から一五年九月に『新社会』誌を発刊し り、普通選挙権の獲得を通じて労働者・農民の代表が議会の 多数派となることによって社会主義を実現する路線を追求し 米騒動の年一九一八年には一〇七を数えるにすぎなかった ていた。ところが、アメリカ旅行から帰国した幸徳は、無政 府共産社会の一挙的実現を目ざす直接行動が世界革命運動の労働組合が、その後、急テンボで増大した。一一〇年に第一回 しんばく
りさる リサジューの図形 〔図 A 〕リサジュー図形 ( ニつの振動の振幅が等しい場合 ) 〔図 B 〕リサジューの装置 りさ 鼠 180 。 ) を ( 45 。 ) ( 135 。 ) ー (900) ロ 0 新 , 。ロ住を 。ロ 0 ロ 振動数の比 砂を入 れた漏斗 2 めせい りさい 0 李済 れはリサジューが用いた装置で、漏斗の細孔か Jules Antoine Lissajous 李済 リサジュー みん リ・ . の・リ , ら流れ出る砂が下の平面上にリサジューの図形 りざい生没年末詳。中国、明代前期 ( 一全一一ー含 ) フランスの物理学者。 李在 あぎな ほでん せつ 〈石川光男〉 の画家。字は以政。蕾田 ( 福建省 ) の人。雪セ、サンールイの物理学教授。波動に興味をもを描く。↓単振動 舟に影響を与えた画家として有名。宣徳 ( 一四ち、振動の研究で光学的方法を発展させた。一 リーサスモンキー rhesus monkey 、、、国 たいしんしやかんせきえいしゅうぶんせい おんさ ほにゆ・つ 一一六 ~ 三五 ) のとき、戴進、謝環、石鋭、周文靖 八五五年、彼は二本の音叉を振動させ、光線を。ミきミミミ哺乳綱霊長目オナガザル科 かく とともに仁智殿で画院画家として活躍した。郭それらの音叉で順に反射させ、その像をスクリ のアカゲザルの英名。ヒトの式血液型は、ア ばえんカー、 熙、馬遠、夏珪を学んだといわれるが、その筆 ーンに映し出す装置をつくり、単振動の合成をカゲザル血球でウサギを免疫して得られた抗血 触荒々しく墨面も重い画風は、同時期の戴進か示す図形を得た。このリサジューの図形とよば清を用いて発見され、その名称は本種の英名に 〈川中健二〉 ら強い影響を受けているものと思われる。代表れる曲線は、今日ではオシロスコープの水平由来する。↓アカゲザル 作は『山水図』 ( 東京国立博物館 ) 、『雪景山水軸、垂直軸にサイン波を引加することにより容リサーチ・アンド・デベロプメント け人きゅうかいはっ 図』 ( 京都、個人蔵 ) 。 〈近藤秀実〉易に得ることができる。七四年よりいくつかの 0 研究・開発 ノハ六ー・・ りさいしん / リーチーシェン ( 一、 李済深 アカデミーの会員を経てパリ科学アカデミー会リサー丿 José Rizal ( 天六一ー九六 ) フィ ) しゅう あぎなじんこ 五九 ) 中国の軍人。広西省梧州の人。字は任湖。員となった。↓リサジューの図形〈佐藤忠〉 リピンの民族的英雄。ラグナ州カランバ町の富 のずけい互いに垂裕な大借地農の家庭に生まれる。マニラのアテ 北伐のとき国民革命軍第四軍長、黄埔車官学校リサジューの図形 副校長となり、一九二七年国共分直な方向に振動する二つの単振動を合成したとネオ・デ・マニラ学院、サント・トマス大学で れ上直合 裂後は広東、広西で軍政両権を握きに得られる運動の軌跡。一八五五年にリサジ学んだのち、一、 八二年スペインのマドリード さの垂の しようかいせき 定 Z に方 るが、蒋介石と対立した。三三 ューがこの運動軌跡を実験的に示す装置を考え中央大学に留学、医学と古典文学を修めた。留 ちんめいすう 固い両 年陳銘枢らと反蒋反帝国主義を掲 たので、この名がつけられた。リサジューの図学中、ヨーロツ。ハの自由主義思想に触発され、 で棒互は いは斗る げ、福建人民政府を樹立したが失形は、互いに垂直な二つの単振動の振動数、振同胞の留学生らに呼びかけて、スペインのフィ 細動漏す リピン統治改革運動を開始した。彼は初め、 , 振 , を敗。抗日戦では広西で活躍し、第幅、位相差などによって複雑な曲線を示す。図 < りので動 二次世界大戦後内戦に反対し、国 < は、二つの振動の振幅が等しい場合に、振動説『ノリ・メ・タンヘレ』 ( 一会七 ) や運動の機 はお下の連 糸てとな成民党革命委員会を組織した。新中数の比と位相差によってリサジューの図形がど関紙『団結』紙上に発表した評論などを通じ 国成立後、全国政協会議副議長なのように変わるかを示したものである。一一つのて、スペイン政府に植民地改革を促す運動に専 どの要職を歴任。 ^ 阿川修三〉振動数が等しい場合には、位相差がゼロまたは念したが、八七年に帰国して郷里カランバ町で の整数倍のときに直線となり、ミ 2 の奇数組織した修道会所領の地代値上げ反対運動が、 リサイタル recital 独唱会、 だえん 独奏会。ラテン語の recito ( 朗倍のときに円となり、その他の場合には楕円と当局の徹底した弾圧を受け、彼は国外脱出を余 読する ) から生じた語で、詩の朗なる。二つの振動数が異なる場合には、振動数儀なくされるという事態を経験して以後、状況 読会をさしていたが、のちに文芸の比と位相差に従って図のような複雑な曲線と によっては革命もやむなしとする急進的な思想 や音楽などの一人で行う公開パフなる。 を抱くに至り、二番目の小説『反逆』 ( 一瓮 D を公にした。同時に、スペイン政府に向かって オーマンス ( 独演会 ) にも適用さ リサジューの図形を描かせる実験としては、 れるようになった。日本ではおも電気的な方法と力学的な方法がある。電気的なする言論活動よりも、むしろフィリピン人自身 に音楽面で用いられ、演奏者一人方法としてはオシロスコ ( 伴奏者を除く ) の音楽会をさす ープの水平軸と垂直軸に が、今日では演奏者二 ~ 三人の小 それそれ正弦波発振器の 規模な音楽会も、この名称でよぶ出力をつなげばよい。こ 傾向にある。また、複数の独奏の場合、一方に周波数の ( 唱 ) 者が合同で開くジョインわかった正弦波を加え、 ト・リサイタル joint recital 他方に末知の周波数を加 の形式も存在する。なお、この語 えるとリサジューの図形 が独奏会の意で用いられた初例から末知の周波数を求め は、一八四〇年六月九日ロンドンることができる。力学的 で開かれたリストのピアノ演奏会な方法の一例としては、 の予告においてであるといわれて図に示すように、上部 〈アルバレス・ホセ〉 と下部の振動が互いに垂 さんかなまり 直になるように結んだ糸 リサージ 0 酸化鉛 ろうと レザー の先に砂を入れた漏斗を リザー・シャー シャー つるした装置がある。こ しゅう リサール マニラのリサール公園に建つホセ・リサール記念碑
りようし のすけ 之助との間に「貿易覚書」を締結。六四年方程式がハイゼンベルクの提起した連動方程式のの値の場合のみとなる。数学的にいえば、 の存続がみられる。このほか、全領民の用益に と同等であることが示されて、量子力学の基礎先のシュレーディンガー方程式はエネルギー演 以降、中日友好協会会長であった。 ^ 加藤祐三〉 ゆだねられる森林、原野、河川などの共同地が 算子〃の固有方程式で、関数のは固有関数、 が確立した。 りよ、つしりきがく quantum me ・ あった。一二世紀ごろには、概して領主直営地量子力学 その後今日まで、原子の安定性、原子的見方は固有値である。ので表された状態は〃の固有 は縮小し、賦役は軽減され、古典的な荘園体制 chanics 原子、分子や光などの現象を理解す に基づく物質の性質、原子核、素粒子および宇状態である。図 ( ) はこうして求めた水 るため、ニュートンの運動法則やマクスウエル は崩壊の方向をたどる。 封建時代の領主は、そうした土地領主制の後の電磁法則などの古典論にかわる新しい運動法宙線の現象が量子力学に基づいて研究されてき素原子のエネルギー値を示す。 同じように量子力学の角連動量は古典力学の 則がみいだされ、一つの力学の体系となった。 た。一方、電磁場や中間子場など場を対象とす 退を、新たなバン Bann 響領主制の発展によ る量子場すなわち場の量子論が展開されたが、 って償うことができた。バン権の内容は複雑でこれが量子力学である。 角運動量 ix Ⅱ z ー 2 などの運動量ルなどを 量子力学では古典論と比べて運動状態や物理光の放出・吸収など場に関するいろいろな方程微分演算子ー ( を : ) などで置き換えて得 あるが、政治的な上級支配権と、経済的な下級 支配権に大別される。前者は刑事事件を扱う裁量の扱い方がまったく異なっている。量子力学式の解に発散が生ずるなどの困難な問題が現られる ( 表参照 ) 。さてこうして得られた演算 判権、城に象徴される軍事罰令権、治安維持の における運動状態を量子的状態という。その結れ、このため量子力学を超える次の理論の試み子などの二乗の和たは角運動量という物理 ための警察権などで、この部分はやがて王侯権果、われわれが日常経験して疑いえないと思わもしばしば提起された。しかしながら、量子力量の大きさの二乗の演算子である。したがって 力によって吸収・統合される。後者は民事的訴れてきた考え方の多くが、そのままでは原子な学の適用の限界を端的に示す事実は現在みいだ水素原子の場合に限らず角運動量の大きさスと その状態関数のは固有値方程式 i2 Ⅱ 2 から 訟にかかわる裁判権、援助金などの直接税、鍛どの領域で成り立たないことが明らかになってされていないといってよい 冶場・水車・かまど・圧搾器などの領主独占に きた。微視的という用語は、一般に古典力学あ〔量子力学の骨組み〕水素原子内電子 ( 以下電決まる。のは特定の角運動量の大きさスをもっ よる強制使用料 ( バナリテ banalité) などのるいは量子力学に従って運動する粒子の集団の子という ) は中心の陽子から、、、を ( は単位量子的状態を表す。 粒子はつねに定まった角運動量を有している 経済的収益権が主たるもので、この部分は、シ状態を個々の粒子の状態にまで立ち入って論ず電荷、は電子と陽子間の距離 ) の引力の作用 ャテルニーの解体によって分出する小領主層る場合に用いられる。この場合、原子、分子やを受け、その結果ー 3 、のポテンシャルエネとは限らない。水素原子の場合、電子は定まっ たエネルギーをもつうえに定まった角運動量を ルギーをもつ。運動エネルギーは、、 2 きⅡ ( px ( 村の領主 ) に、広く分有されるところとなっ素粒子などの現象が量子力学的に進行すること た。↓シャテルニー 〈井上泰男〉を強調して用いることが多い。微視的に対して + ~ + ~ ) 、、 2 き ( 襯は電子の質量、ルなどはエ有している。このことが可能であるのは、エネ ルギー演算子〃と角運動量の大きさの二乗の演 りようじよう / リヤオチョン中国、山東巨視的という用語は、個々の粒子の運動に立ちなどの方向の電子の運動量 ) であるから、その 聊城 は」′、だい 省西部の市。聊城地区の公署所在地。人口七一一入らずこれら莫大な数の粒子の集団全体の物理全エネルギーは、、 2 ミー第、、となる。量子力算子 / との間に交換可能という特別の関係き Ⅱミが成り立つからで、この関係を可換とい 万四三〇〇 ( 一九会 ) 。華北平原の中部、大運河的特徴に注目するとき用いる。この場合、粒子学ではすべての物理量にはそれそれ演算子が対 う。二個の演算子、が共通の固有関数 7 す 沿岸にあり、周辺の物資集散センターとして発集団の運動は古典的となる。また、量子力学的応している。工方向の連動量の演算子は、ーき 展した。小麦、大豆、ラッカセイのほか綿花栽運動を強調して微視的という用語を用いること ( D 、、 : ) ( 力はプランク定数んの分の一 ) でなわちムⅡ , Bx Ⅱをもっための必要十 〈駒井正一〉 が多い。これらの事情のため巨視的という用語あって、この結果電子のエネルギー 培が盛んである。 廖承志りようしようし / リヤオチョンチー ( 一九は古典論的という意味合いをもっている。微視の演算子〃は りようちゅうがい かこうぎよう <lll) 中国の政治家。廖仲愷と何香凝的をミクロスコピック、巨視的をマクロスコピ 2 ミöx2 Dy2 Dz ( 婦人運動指導者 ) の息子として東京に生まれックという。 れいなん る。一九二五年中国共産党入党。嶺南大学卒〔量子力学の誕生〕量子力学的法則の認識は一となる。ある定まったエネルギーを わせだ もっ電子の量子的状態は只き 業、早稲田大学を二八年中退、ヨーロッパ留学九〇〇年のプランクの熱放射公式に始まるとい 2 ) Ⅱ E 只い ) という偏微分方程 から三二年帰国して逮捕される。釈放後、江西ってよい。この法則の意味をアインシュタイン 応 ソビエトに入り、三四年長征に参加、三五年延が分析し、この公式が光に波動性と粒子性の一一式解で表される。これがシュレーデ 対 インガーの波動方程式である。関数 の 安で出版局長を務めた。日中戦争中は香港を中つを同時に付与したことになっていることを示 レ に活躍。四二 ~ 四六年香港で国民党により投すとともに、光のエネルギー量子、すなわち光のを状態関数または波動関数とい プ 獄されていたが、人民共和国成立後は共産党幹量子を提唱した。一九一三年ポーアは、古典カう。この方程式は電子のエネルギー 部 ( 五六年中央委員など ) となり、とくに華学を用いて得られる水素原子の電子軌道のうちが一定という古典力学の関係 きよう たかさきたっ 僑問題、統一戦線活動を指導。六一一年高碕達実際に軌道として可能なものを選択する条件す オ 2 ミ の なわち量子条件と、光放出の新しいメカニズム 学学 を導入した。 に対応している。 子典 ハイゼンベルクはポーアの理論を出発点とし この偏微分方程式を解く場合、状 量古工 - ル と て二五年これを新しい力学につくりかえ、ここ態関数にいろいろな条件を与える。 量 に量子力学が誕生した。これとは別に二三年これらの条件は、電子が遠方にまで 理 物 ド・。フローイは電子もまた波動性をもつべきこ広がっていないなどの物理的条件に とを予見し、これを一般化して二六年シュレー 対応するもので、この結果シュレー 学 ディンガーが任意のポテンシャルの作用を受けディンガー方程式の解は一義的に決子典 た粒子の波動方程式をみいだした。やがてこのまるが、解が存在するのはある特定量古 0 廖承志 1 2 2 量子力学 位置 運動 運動エネルギー 角運動のェ成分 ) ルーを 角連動の〃成分 x ーエル 角運動量の ~ 成分」ー ーェ 量了・カ学のオプサーバブルにはいろいろな表し方がある。 E にあげたのはよく用いられる一例である 「 0 「 0 ( 0 一〃 2 2 川 2 D 〃 2 売 2 ö D ( カ ' 十十ルっ 155
れじすた レジスタンス ①市街にバリケードを築き , ドイツ軍との戦いに備える バリ市民。自分たちの都市 0 を自力で解放しようとする 決意と自信に満ちた表情。 バリケードにはヒトラー ゲーリングらナチス指導部 の写真がはられている。 1944 年 8 月 ②ドイツ軍に処刑される直 前の , マキ ( フランスの対 独抵抗地下組織 ) の若い隊 員たち。ソーヌ・エ・ロア ール県。 1944 年 3 月 ③道路の左右を警戒しつつ , ドイツ軍駐留地に近づくユーゴスラビアのパルチザン。 ドイツ占領下のスロべニア地方。 1 944 年 ④自国のファシズム体制とナチスの支配からの解放を目ざし , 北部の山中で活動する イタリアのレジスタンス組織の隊員。 1944 年 アは一九四三年七月ムッソリーニが失脚しての の運動よりは、政治的ないし思想的な運動とい ・ト諸 5 う性格が強かった。南部がドイツ軍の直接占領ち、連合軍に降伏 ( 九月八日公表 ) したバドリ 下に置かれ、運動の性格も大きく変わったのオ政権の下の南部と、ドイツ軍が進駐してムツ 0 . 三一 は、四二年一一月以降のことである。なお、四ソリーニを再度押し立てた北部に分かれたが、 この北部で、激しいパルチザン戦の様相を呈し 一年六月の独ソ戦開始以後、共産党が明確に対 たレジスタンスが展開された。レジスタンス諸 独抵抗へと進み、武装行動を含む活動に入った ことは、フランスばかりではなく、諸国の抵抗運動は、ファシズム体制につながっていた・ハド リオ、あるいは国王権力の復活に同ぜす、国民 運動にとって重要な意味をもった。↓独ソ不可 解放委員会 (0-2Z) を結成して、北部をしだ 侵条約 宝 ) 粤 ~ 覃一 いに自力解放するとともに、同委員会による臨 一九四二年末のドイツ軍による南北全面占領 動・一日夕に ン抵の ののち、運動は急速に多様な広がりを示すよう時政府樹立の意志を示した。連合国が承認した 運レセと下る月ラ「」ど ・バドリオ政権と解放委員会の間では、と になった。一つは、これまでビシー政府の下に国王 抗「ン月き字あフにな。 抵っラ 9 書題と年「め」る くに共産党の方針転換により四四年四月に妥協 あった軍人たちの多くが抵抗運動に入ったこ ス一フ年手 , 線 ンの る訓見館と、いま一つは、ドイツ軍による義務労働徴用が成立 ( サレルノ転回とよばれる ) するが、な かっとう ラ紙ル四面使民紙 きのが書 フ関ト 1 を国同の生動し図 (U)+O) を拒んで、若者たちが数多く山岳地お北部で戦うレジスタンスと中央政府との葛藤 ッ』のプ家「が運出立 のレズ号イ作 は絶えず、王政存続の是非、戦後改革の方向を ス抗見国帯などに逃れてマキを形成したことである。こ れら若者の活動は、レジスタンスの底辺を拡大めぐる戦後政治の焦点に連なった。イタリアの 解放は、四五年四月ミラノの一斉蜂起により最 するとともに、一面では、自発的でダイナミッ 、、 : 。、レチザンに捕らえられた 終局面を迎えるカ / 丿 クな力を運動にもたらした。↓マキ 国外にあったドゴールは、連合国に自己の地ムッソリーニを、北部解放委員会は連合軍に引 き渡すより自ら処刑することを選んだ。 位を認めさせるためにも、国内レジスタンスの 支持を不可欠とし、諸連動の統合に努めた。そ〔東ヨーロツ。ハ〕ナチス・ドイツの人種政策 が、ユダヤ人やジプシーなどを露骨な隔離・排 のために活動したのがジャン・ムーラン Jean Moulin ( 天究ー一九四三 ) であり、一九四一年末除政策の対象としたことは知られているが、ヨ ーロッパの東側では、とくにポーランドに現れ より国内に潜入した彼の努力により、まず南部 諸組織がレジスタンス統一運動 (ÜY-Å) に結たように、非ゲルマン系民族を「アーリア人」 に奉仕すべき劣等民族として位置づけ、兵力・ 集、北部諸運動との連携もしだいに進んで、四三 リでひそかにレジスタンス全労働力として動員する一方、政治的にも文化的 年五月二七日、 にも民族としては解体する厳しい政策がとられ 国評議会 (OZZ) の結成会議が開かれた。こ うして、ドゴールはフランス国民の解放の指導た。したがって、東ヨーロッパでは抵抗運動 かれつ は、西ヨーロッパよりも全体的にみて苛烈な武 者としての権威を確立していった。しかし、レ ジスタンス内部で生まれた、自らの解放は自ら装闘争として現れた。ューゴスラビアの場合、 の手で、という志向は、国内レジスタンスの諸軍隊の士官将校のなかからミハイロビチにより 運動とドゴールとの間に、また諸運動内部でチェトニクとよぶ地下組織がつくられ、彼はロ も、運動のあり方をめぐってしばしば対立を生ンドンに亡命した国王政府により最高司令官に んだ。四四年八月のパリ蜂起は、一面ではこの任じられた。しかし、多民族国家ューゴスラビ アで露骨にセルビア人優先を打ち出し、旧権力 ような解放に向かっての主導権争いによってい 温存を図るミハイロビチとは別に、ユーゴ共産 っそう劇的なものとなっている。 連合国あるいは亡命政権による戦争遂行の枠党のチトーを中心に独自の抵抗連動が組織さ を超えた自発的な抵抗の動きは、先にあげた諸れ、諸国レジスタンスのなかではもっとも活発 なパルチザン闘争が展開された。この闘争は、 国でも多かれ少なかれ現れている。フランスは ほとんど全土の自力解放を成し遂げ、チトーは もちろん、それらの国でもその動きは、単にド 新しい解放政権の指導者となった。ミハイロビ ィッ軍からの解放というだけでなく、国を敗北 に導いた戦前の体制への批判、解放による新しチは、このパルチザンと敵対するため、枢軸側 い政治・社会への願望をはらむものとなり、そとひそかに協力することも辞せす、ロンドンの のことは戦後政治の大きな争点となった。イタ信用をも失って失墜した。一方、チトーは、ユ 7 ーゴ共産党を自己の統制下に置こうとするソ連 3 リアではとくにそれが強く現れている。イタリ なビ
、フ労働運動 ( 世界 ) / 略年表 一七八九フランス革命 ( 、究 ) プつ一七九九団結禁止法制定 (: ギ、 一八二四団結禁止法撤廃 リョンの絹織物「の蜂起 ( ) 一八四四 6 シュレージェン織工一揆 ( 響 ) 一八四八 2 二月革命 ( ) 。マルクス、エンゲルス『共産党 宣一言』発表 3 三月革命 ( 響 ) 4 チャーティスト 運動最高潮 ( ) 一八六三 5 ラッサールら、全ドイツ労働者協会結成 一八六四 9 第一インターナショナル結成 ( ロンドン ) 一八六八 6 イギリス労働組合会議 (e=o) 結成 コミューン 一八七一 3 ハリ・ 一八七五 5 ドイツ社会主義労働者党結成 ( ゴータ綱領採択 ) 一八七八社会主義者鎮圧法制定「イ ) 一八八六 5 八時間労働制要求のストライキ ( 、メーデー ー盟 ( < ) 結成 の起源 ) アメリカ労働総司 一八八九 7 第二インターナショナル結成 ( パリ ) 一八九〇 5 国際的メーデー始まる 一八九三 1 独立労働党結成 ()* び 一八九五 9 フランス労働総同盟 ( ) 結成 一八九八 3 ロシア社会民主労働党結成 一九〇〇 2 労働代表委員会結成 ( 、一九実労働党と改称 ) 一九〇一 8 コペンハーゲンで国際労働組合会議開催 一九〇三 7 各国労働組合センター国際書記局設立 ( 一九一三国 際労働組合連盟と改称 ) 一九〇四 8 第二インターナショナル・アムステルダム大会 に日本から片山潜出席、日露戦争反対を決議 一九〇五 6 世界産業別労働者組合 (—33) 結成ⅱロシ ア第一次革命 ( ロシア暦では一〇月 ) 一九〇六 イタリア労働総同盟 (oe—;--a) の前身、労働 総同盟 ( »-a ) 結成 一九一四 7 第一次世界大戦勃発。第二インターナショナル 崩壊 一九一七 3 ロシア二月革命、ツアー リ制崩壊ⅱロシア十 月革命 ⅱドイツ革命、皇帝制崩壊怩ドイツ共産党結成 一九一九 1 ドイツ社会民主党、第一党に。ワイマール体制 成立 3 三・一独立運動 ( 響 ) 。コミンテルン ( 共産 主義インターナショナル ) 創立 5 五・四運動、抗 国際労働機関 (—QO) 日運動各地に拡大 ( 中国 ) 創一成 一九二〇 6 国際キリスト教労働組合連合結成 ( 一突八国際労 働組合連合と改称 ) 7 フロフィンテルン ( 赤色労働組合インターナシ ョナル ) 創立 一九二二ⅱ極東諸民族大会 ( モスクワ、ベトログラード ) 開催、日本から片山潜ら参加 一八目修正法制定 ) 算用数字は月を表す 義への移行が行われる必然性が理論的に根拠づけられ、科学 % 国際労働運動の成立と展開 的社会主義 ( Ⅱマルクス主義 ) が成立して、労働運動に大き 〔産業革命と労働運動の高揚〕封建社会が解体して資本主義な影響力をもっことになった。 マルクス、エンゲルスが指導的役割を演じて、一八六四年 社会が成立し始めるに伴って、農民や手工業者が土地や仕事 場などの生産手段から切り離されてプロレタリア ( 無産者 ) にロンドンで国際労働者協会 ( 第一インターナショナル ) が に転落し、賃金労働者となった。この変動に投げ込まれた結成された。さまざまな社会主義の潮流や労働運動団体がヨ そうじよう ーロッパ中、いに寄り集まった混成部隊であったが、・ 労働運動 人々の不満は、多くの騒擾や暴動を引き起こした。産業革 命によって機械制工場生産が行われることに反対する職人的の国際的結集を実現したという歴史的意義をもった。協会は 労働者を中心とする機械うちこわし運動 ( ラダイト運動 ) 七二年以降活動停止状態となり、七六年に解散した。しかし が、イギリスで一九世紀初めに広がったが、やがて歴史の発その間、ヨーロツ。ハ各国に社会主義政党の結成が進んだ。先 展に取り残されて消滅した。一方、賃金労働者は相互扶助の頭を切ったドイツでは、六三年にフェルディナンド・ラッサ ための共済組合や協同組合をつくるとともに、労働組合に団 ールの指導のもとに普通選挙法獲得を目ざす全ドイツ労働者 結して、賃金、労働時間その他の労働条件の改善を目ざす組協会が結成された。六九年にはマルクス主義の影響のもと 織的運動を始めた。これに対してイギリスの議会は、一七九に、・ ヘーベル、リープクネヒトを指導者にドイツ社会民主労 九年と一八〇〇年に団結禁止法を制定して弾圧を加えた。し働者党が結成された。そして両派は七五年のゴータ大会で合 かし、この法律は労働者の抵抗と資本主義の状況変化によっ同してドイツ社会主義労働者党 ( のちにドイツ社会民主党と て意味を失い、一八二四年に撤廃されるに至った。↓ラダイ改称 ) と名のり、七七年の総選挙で九 % 以上の投票を獲得し ト運動 て政治勢力として進出した。これに対しビスマルク宰相は七 一八世紀末から一九世紀なかばにかけてイギリスを先頭に 八年に社会主義者鎮圧法を制定して弾圧を加えたが、地下活 西ヨーロッパ諸国に産業革命が進行し、資本主義が確立する動と国外での運動で力を充実させた社会主義勢力は、ビスマ に伴って労働運動が本格的に発展し始めた。大陸では、一 ルクを失脚に追い込んで合法政党となり、社会民主党と名の ほうき 三一年、三四年のフランス・リョンの絹織物工の蜂起、四四るようになり、九一年のエルフルト大会でマルクス主義の立 年のドイツ・シュレージェン織工一揆などがその先駆けとな場をとる新綱領を採択した。この時期、一八七〇年オランダ 労働者階級独自の政治闘争も始まり、イギリスでは一 に、七一年デンマークに、七二年ポヘミアに、七六年アメリ 八三〇年代後半以降、労働者の政治的権利確立の「人民憲カ合衆国に、七九年フランスとスペインに、九八年ロシアに 章」の制定を求めるチャーティスト運動が展開され、大陸でと、次々に社会主義政党が結成された。社会主義とは縁遠い は一八四八年の二月革命、三月革命のなかで、労働者階級は と考えられたイギリスにも、一 八三年マルクス主義的な社 資本家階級とは別に独自に封建勢力と闘い始めた。↓チャー 会民主連盟が結成された。↓インターナショナル ティスト運動 資本主義の最先進国として「世界の工場」といわれたイギ 〔科学的社会主義の成立〕産業革命の進行に伴って資本主義 リスでは、一九世紀なかば以来、労働運動が穏健化し、経済 の弊害が表面化したことに対して、人道主義の情熱に燃える闘争中心を特色とした。その主力部隊は熟練労働者の職業別 知識人のなかから社会主義の主張が現れた。イギリスのロバ 労働組合であった。一 八六八年にはその全国的結集体として ート・オーエン、フランスのシャルル・フーリエ、サン・シイギリス労働組合会議 ( O ) が組織された。しかし資本 モンらがその代表である。しかし彼らは、労働者階級が未成主義の拡大・発展に伴って、末熟練労働者を組織する一般労 熟であった歴史的条件に制約されて、資本主義から社会主義働組合 general union が登場するようになった。さらに、 への変革の必然性を根拠づけることができなかったので「空独占資本主義の時代である二〇世紀に入ると、職種を問わす 想的社会主義者」とよばれている。画期的な意味をもったの同一産業に従事するすべての労働者を一括組織することを原 は、一八四七年に革命運動の小さな国際組織として結成され則とする産業別労働組合が基本的な組織形態になり、労働組 た共産主義者同盟の綱領として、マルクスとエンゲルスが四合の大衆的・階級的性格が強まった。 八年に「共産党宣言』を発表したことであった。これによっ 一八八九年にパリで社会主義政党の国際組織が結成された て労働者階級が変革の担い手となって、資本主義から社会主 ( 第二インターナショナル ) 。マルクス主義的な社会主義政党 いっき
立が激しくなり、二五年五月に分裂して、左派は日本労働組展開された。 、フメーデーが東京・上野公園で催された。一八九〇年に始まっ 一九二六年一二月、日本共産党は非公然の第三回大会を開 とた国際的メーデーに遅れること三〇年であるが、日本の労働合評議会 ( 評議会 ) を結成した。このできごとは、容共か反 共かをめぐって運動団体が分裂するモデルとなった。評議会 、フ運動の発展を象徴するできごとであった。↓メーデー いて再建した。翌二七年、正式に採択した最初の綱領的文書 ろ 一九二〇年三月、戦後恐慌がおこった。第一次大戦を通じ は日本共産党の指導を受ける左翼労働組合として戦闘的潮流として「日本問題に関する決議」 ( 二七年テーゼ ) を決定し て経済が急膨張したことへの反動であった。首切りと賃下げを代表し、東京の共同印刷争議や浜松の日本楽器争議などのた。二七年テーゼは、日本の革命はプルジョア民主主義革命 の資本攻勢が労働者を襲った。困難な抵抗闘争のなかで、ア大争議を指導した。↓日本労働組合評議会↓共同印刷争議 から社会主義革命に急速に転化する見通しをもっていると規 ↓浜松日本楽器争議 ナルコ・サンジカリズムが労働者の戦闘的分子の間に影響力 定した。そして二八年二月一日に中央委員会機関紙「赤旗』 一九二五年の議会で男子普通選挙法と治安維持法とが抱き を広げた。争議は長期化し、しばしば暴力化した。さらには ( 当時は「せつき」と読んだ ) を秘密出版物として創刊した。 労働組合そのものを否認する傾向も現れた。しかし、大衆的合わせで制定された。すなわち、無産者に政治参加の機会をこれに対して、日本の革命は直接に社会主義革命を目ざすと な団結を軽視する少数者の先鋭な闘争が有効でないことが、拡大する民主主義的譲歩と同時に、主権在民と資本主義変革主張するグループは二七年一二月、雑誌『労農』に結集し 運動の経験を通じて確かめられていった。基幹産業の巨大工を目ざす革命運動には徹底的弾圧を加える「あめとむち」のた。日本共産党と労農派との間に、革命の戦略をめぐる論争 とっ′一う 場でも争議が続発した。二〇年二月に、わが国最大の工場で政策であった。治安維持法を実施する部隊として特高警察が展開された。↓二七年テーゼ やはた 一九二八年二月に第一回普通選挙が行われ、無産政党議員 ある八幡製鉄所で一万三〇〇〇人の労働者が立ち上がり、溶 ( 特別高等警察とよばれる政治的秘密警察 ) の網が張り巡ら みつびし され、共産主義運動を徹底的に弾圧したばかりでなく、やが 鉱炉の火を消した。二一年には、神戸の川崎・三菱両造船所 が初めて議会に進出した。その直後、治安維持法が発動され の労働者は三万人の争議団を形成して一か月にわたって闘い て社会民主主義者、自由主義者、宗教家へと弾圧の対象は拡て、全国で約一六〇〇人の共産党員やその支持者が検挙され 続け、警官隊・軍隊と衝突した。これは第二次大戦前最大規大され、一九四五年 ( 昭和二〇 ) の敗戦によって廃止されるた ( 三・一五事件 ) 。そして労農党、評議会、無産青年同盟 模のストライキ闘争であった。↓八幡製鉄所罷業↓川崎・ までの二〇年間に、治安維持法によって逮捕された者は数十の左翼三団体は四月一〇日に結社を禁止された。さらに翌二 三菱造船所争議 万人、送検された者は七万五〇〇〇人以上、獄死ないし虐殺九年、約一〇〇〇人が治安維持法によって検挙されて共産党 された者も多数に上った。↓治安維持法 一九二〇年一二月、各派の社会主義的傾向の団体が合同し は甚大な打撃を受けた ( 四・一六事件 ) 。戦闘的な合法無産 て、日本社会主義同盟を結成した。やがてマルクス主義派 一方、選挙権が拡大したことによって合法無産政党に活動政党としての労農党の再建運動は難航を重ね、二九年に結成 ( 当時の呼び方でポルシェビキ派 ) とアナキスト ( 無政府主の道が開かれた。一九二五年一二月、農民労働党が結成されされたいわゆる新労農党 ( 正式名称は労農党 ) も発展するこ 義者 ) のアナ・ポル論争が表面化し始めた。同盟そのものも た。しかし、背後に共産党の影があることを理由に、結党一一一とができず、やがて三一年七月、合法無産政党の合同体であ まもなく結社禁止された。↓アナ・ポル論争 時間後に禁止された。改めて一一六年三月、労働農民党 ( 労農る全国労農大衆党のなかに右派の社会民衆党の一部および中 一九一一一一年七月一五日、日本共産党が結成された。非公然党 ) が結成された。しかし、同党が出発後、左派に門戸を開 間派の全国大衆党とともに解消していった。評議会禁止後の の秘密結社であり、コミンテルン日本支部として位置づけら放して戦闘化の傾向をみせ始めると、たちまち分裂がおこっ左翼労働組合として、二八年一二月、日本労働組合全国協議 れた。科学的社会主義 ( マルクス主義 ) を指導原理とする革た。同年一一一月に右派は社会民衆党 ( 社民党 ) を結成し、総 会 ( 全協 ) が組織された。全協はプロフィンテルンに加盟し 命運動の司令部が成立し、今日まで一貫して運動を続けてき同盟を支持基盤とし、反共主義の立場を明らかにした。中門 日て国際連帯の強化を図ったが、事実上、非合法状態を余儀な はらん た。しかし、その歩みは波瀾に満ちている。まず二三年六月派は日本労農党 ( 日労党 ) を結成し、総同盟を分裂させた日 くされ、三四年ごろ消滅状態に陥った。↓日本労働組合全国 に共産党に対する一斉検挙が行われた ( 第一次共産党事件 ) 。本労働組合同盟を支持基盤とした。このほかに農民運動家の協議会 その後まもなく二四年三月には解党決議が行われ、改めて再平野カ三は一〇月に日本農民党を結成した。このように、合 昭和大恐慌下の「合理化」反対闘争は長期・激烈なものと おかや やまいちはやしぐみ 組織を目ざすことになった。↓第一次共産党事件 法無産政党は思想潮流ごとに分立した。↓無産政党 なった。長野県岡谷市の山一林組製糸工場、千葉県野田市 しようゆかねがふち 〔労働運動の分裂〕一九二三年九月一日に関東大震災が起こ 〔恐慌下の「合理化」反対闘争〕一九二七年 ( 昭和一 l) に始の野田醤油、鐘淵紡績会社の京阪神を中心とする各工場、東 った。その混乱のなかで、支配階級の手による人民の虐殺事まった金融恐慌、二九年秋アメリカから始まった世界大恐慌洋モスリン ( 洋モス ) 亀戸工場、川崎市の富士紡績工場の 件 ( 白色テロル ) が起こされた。在日朝鮮人虐殺、戦闘的労 に息つくひまなく襲われて、日本資本主義は深刻な危機を迎「煙突男」、東京の芝浦製作所、東京市電その他に次々と賃下 かめいど 働運動家を車隊が虐殺した亀戸事件、アナルコ・サンジカリ えた。失業者は二五〇万人といわれた。「産業合理化」の掛げや首切りに反対する争議が起こったが、資本の壁を突破す やくさっ ズム運動の指導者大杉栄夫妻の憲兵隊での扼殺事件がそれでけ声のもとで賃下げと首切りが労働者を襲った。大企業は経ることは困難であった。↓野田醤油大争議↓鐘紡争議↓洋 ある。この時期から、労働運動における革命的・戦闘的潮流済界への支配力を強め、国家権力と癒着して国家独占資本主モス争議 と改良主義的・労資協調主義的潮流との分化がはっきりし始義の体制を固めていった。この時期に、日本軍部の中国侵略〔十五年戦争と労働運動〕一九三一年九月に始まった満州事 め、左右の対立が激化するようになった。当時もっとも有名が開始された。二七年五月、中国革命の進展を妨害する目的変から、三七年七月に始まった日中戦争、四一年一二月に始 なナショナル・センターであった総同盟 ( 組合員約三万人 ) で山東半島への出兵が強行された。これに反対して「対支非 まった太平洋戦争を経て、四五年八月の敗戦に至る十五年戦 の内部で、右派の社会民主主義者と左派の共産主義者との対干渉」を主張する反帝国主義・反戦・平和擁護の統一行動が争の拡大に反比例して労働運動は衰退し、やがて一時的消滅 りきぞう 480
りゆうた 森ヶ岳城にて敗死。その子政家は、豊臣秀吉よ兵にあい自刃した。 によらす一定値をもっことになる。このような 〈太田順三〉運動の間に成り立っファラデーの電磁誘導の法 あんど り肥前一国 ( 三十五万石 ) を安堵されたが、病回川副博著『龍造寺隆信』 ( 一九穴・新人物往来則によって、流れに直角に設置された磁場と発応力を静水圧という。すなわち、静止流体の内 なべしまなおしげ 部の各点での緊張状態は圧力のみで表され 生電圧から流速を求める。 弱のため一五九〇年重臣鍋島直茂に所領を譲り 社 ) ー一六四五 ) 中 6 熱の放散を利用する方式熱線風速計が代表る。 隠退、五千石余の隠居料を受けた。そのため佐劉宗周りゅうそうしゅう ( 一五天 きとう あぎな ねん 賀一国の支配権はしだいに鍋島氏の手に移った国、明末の思想家。字は起東、棟、号は念的で、加熱された物体からの熱の放散が、流速〔流体の運動〕流体が運動する場合には接線応 だいしゅうざん 力も存在しうる。たとえば、円筒形の容器に水 と特定の関係にあることを利用している。 ので、政家の子高房は鍋島氏への抗議の意味を台。山で学を講じたことから敲山先生とも せつ - 1 うしようこう 含め一六〇七年 ( 慶長一 (l) 九月六日自殺し称される。浙江省紹興府山陰県の人。明朝の ⑥渦の発生など流体の周期運動を利用する方を入れ、軸を鉛直にして回転させると、最初静 止していた水は容器の壁に接する部分からしだ た。ここに龍造寺本家は絶家したが、この自殺滅亡に際し、二三日の絶食の果て、殉死を遂げ式カルマン渦を利用した流速計が代表的で、 いに動き始め、ついには容器と一体となって回 は後世、佐賀御家騒動 ( 化け猫騒動 ) の因とも た。その行状は思想とともに後世に影響を与え渦発生の周波数が流速に比例する原理により、 たんじゃくすい とうすう きよけいあん なった。↓龍造寺隆信 転する。これは連動中の流体が接線応力をもち 〈森山恒雄〉た。彼は湛若水を師とする唐樞の門下許敬庵渦を発生させるための物体と渦検出器を用いて うることを示すものである。このように、運動 に師事し、王守仁 ( 陽明 ) に私淑したが、朱子周波数を測定して流速を求める。カルマン渦の 立月造寺隆信りゅうそうじたかのぶ ( 一五一一九ー 会 ) 戦国時代の武将。父は龍造寺氏の支流水学にも明末の陽明学にも批判を加えた。彼によ ほかにも物体と流れの相互作用によっておこる中の流体に接線応力を生じさせる性質を流体の けいぎん ケ江家の周家。母は村中龍造寺家出身の慶誾。れば意は否定されるべき意念ではなく、心の主周期現象があり、流速の測定に利用されてい 粘性という。空気や水のような流体では粘性が ちゅうなごん る。 〈三井清人〉 小さい。そこで、運動中でも接線応力が現れな 七歳で宝林院 ( 佐賀市鬼丸町 ) に出家し中納一一一一口宰であり心の運用をつかさどるものとされる。 げんぞく しんどく いという仮想的な流体を考え、これを完全流体 りゅうたい fluid 物体は通常、固体、 円月と称した。還俗して水ケ江家を相続、民部それゆえ、主体の確立には慎独を修養としてこ流体 そうりよう だいぶたかたね 大輔隆胤と名のる。ついで惣領家村中龍造寺の意が誠。 こされねばならない、とする独自な誠液体、気体の三つに分類される。そのうち液体あるいは非粘性流体という。実在の流体はすべ たねみつ たねのぶ - : つは・れりゆ・つ 胤栄が病死したため、胤信 ( 隆胤を改名 ) が村意説を説いた。東林派高攀竜は彼の益友、黄と気体は容易に変形するという性質を共有するて粘性流体である。 そうぎ 中家の家督をも継承した。一五五〇年 ( 天文一 宗羲は彼の門下に出る。著に『劉子全書』三八 ために、その運動の仕方も似通っている。すな 液体の密度は運動中ほとんど変化しない。そ よしたか 九 ) 少弐氏に対抗して大内義隆と通じ、偏諱を巻、『劉子全書遺編』一三巻など。〈杉山寛行〉わち「流れる」というのがその運動である。そこで、これを理想化して、密度がつねに一定で やましろのかみ ほにゆっ りゅうそうせい哺乳類の成育の型のれゆえ、液体と気体を一括して流体という。流あるような流体を「縮まない流体」という。こ 受け山城守隆信と改名。翌年家臣らの陰謀で留巣性 こくじんかわぞえ れに反して、密度が変化しうる流体を「縮む流 体の運動を議論するのが流体力学である。 一時筑後に逃れたが、旧好の国人や河副荘 ( 佐一つ。↓発達 じギ一むらい 現実の物体は多数の原子・分子から成り立っ体」という。常識的には気体は縮む流体であ 賀市川副町 ) の地侍層の援助で、五三年佐嘉流速計りゅうそくけい current meter 流 ふゅひさ 城を奪回した。五九年 ( 永禄一 l) に少弐冬尚体 ( 気体、液体、蒸気 ) の流れの速さを測定すているが、このような微細な構造に立ち入らなる。一般に、流体が運動する場合、流れの中の ときひき、 いで、多数の分子について平均をとって物体の各点の圧力は速度によって変化する。しかし、 ( 時尚 ) を破り肥前に勢力を伸ばした。七〇年る計器の総称。測定の原理から六種類に大別さ そうりん ( 元亀一 ) 肥前に侵攻した大友宗麟の軍勢を退れる。 性質や運動を考えるのが便利である。このよ , っ速度変化が小さければ圧力変化は小さく、した - 一くじん まつら がって、気体でも密度変化は小さい。その場 ①時間と距離から平均速度を求める方式流れな方法を用いるとき、物体を連続物体という。 却させ、その余勢で松浦党の国人を討つ一方、 ー ) げたん ~ はるのぶ 七八年 ( 天正六 ) 有馬鎮貴 ( 晴信 ) と和議し肥の中に浮きなどの指標物体を入れてその運動か 液体と気体を流体という場合、連続物体の立場合、気体を縮まない流体とみなすことができ がとられる。 る。たとえば、速度の気流が静止物体に当た 前一国をほば平定した。その後筑後、翌年には ら流速を求めるものと、食塩、放射性物質など ちくぜんぶぜん 筑前、豊前へと攻略、領国を拡大した。八一年検出しやすい物質を一時的に注入して、下流の 力を加えられた物体は一種の緊張状態にある場合、その気体中を伝わる音波の速度をと 島津氏の肥前侵攻に有馬氏が盟約を破り呼応し一定距離の地点まで達する時間を測定するものる。これを数量的に示すために応力の概念が使すると、マッハ数 M=U/c が〇・五程度以下 おきたなわて たため、八四年島津・有馬の連合軍と沖田畷がある。 われる。すなわち、物体内部の任意の点を通であれば、気体を縮まない流体とみなすことが 動圧を利用する方式航空機の対気速度、風る任意の平面を考え、の両側の物体部分ができる。液体中でも音波が伝わる。音波は密度 ( 長崎県島原市 ) に戦う。形勢不利のうちに伏 速などの測定に用いるピトー管が代表的で、測互いに及ばし合う ( 単位面積当りの ) 力を応力および圧力の変化が媒質中を波動として伝わる 定口を流れの上流に向けて測った圧力と側面に というのである。面に垂直な応力の成分を法線現象であるから、液体も縮む流体としての取り 向けて測った圧力との差として動圧を求め、べ応力、面に平行な成分を接線応力という。ま扱いが必要である。なお、アスファルト、氷 ルヌーイの定理によって流速を算出する。ま た、面の両側の物体部分が互いに押し合う場合河、地殻なども常識的には固体であるが、長期 た、動圧を羽根車を使って検出する流速計も多には法線応力は圧力、引っ張り合う場合には張的には変形しながら流動する。すなわち、流体 として議論することができる。つまり、流体、 力という。同一の点についても、面のとり でんば ③波動の伝播を利用する方式ドップラー効果方によって応力はいろいろ変わる。流体が容易完全流体、粘性流体、縮まない流体などの概念 寺 の応用で、流体中の音波の速度が流れの向きと に変形するという性質は、「静止状態では接線は、物体の力学的な挙動を議論するために導入 逆向きとで流速の分だけ異なることを利用した応力はゼロで、法線応力は圧力である」と表現されたものであって、固体・液体・気体という 賀 佐超音波流速計が代表的である。流体中の浮遊物することができる。なぜなら、もしも接線応力常識的な分類とはかならずしも一致しないので 〈今井功〉 などからの反射のドップラー効果から流速を測 が存在すれば、流体はすり動かされるし、もしある。↓流れ↓流体力学 画 りゅうたいかい ー一七九 ) 中国、 るレーザードップラー流速計も、類似の原理に 法線応力が張力であれば流体は張り裂けるの劉大 あぎなさいま 信基づいている。 で、いずれにしても流体は静止状態にはありえ清代の古文家。字は才前また耕南、号は海峯。 とうじよう あんき 寺 ④電磁誘導を利用する方式水などの導電性流 ないからである。さらに、静止状態にある流体安徽省桐城の人。官は不遇に終わったが、古 3 ほ、つは」・つ 造 龍体の流速測定に用いられる。電場、磁場、導体では、圧力の大きさが応力を考える面の選び方文 ( 散文 ) に優れ、同郷の方苞に認められてか ・ 0 ちかいえ とよとみ へんき と う
、つ労働運動 ( 日本 ) / 略年表 算用数字は月を表す 一〈六〈明治一明台維新 三 4 高島炭鉱暴動 ( 以後たびたび繰り返す ) 一公六 元 6 甲府・雨宮製糸場女エストライキ 一三 6 鉄工の同盟進工組結成 天九七 三 0 4 職工義友会「職工諸君に寄す」アピール 7 労働組合期成会結成怩鉄工組合結成。労 働組合期成会機関紙『労働世界』創刊 一一一 2 日本鉄道機関方スト 4 日本鉄道矯正会結 成社会主義研究会結成 ( 元呂社会主義協 会に改組 ) 三一一ⅱ活版工組合結成 三三 3 治安警察法公布 三四 5 社会民主党結成、ただちに結社禁止 三六ⅱ幸徳秋水ら、週刊『平民新聞』創 三七 2 日露戦争勃発、社会主義者ら「非戦論」展 開 1 日本社会党結成 ( 元宅結社禁止 ) 2 石川 島造船所スト 8 呉海軍工廠、東京・小石川 砲兵工廠スト大阪砲兵工厰スト 一九 0 七 四 0 2 足尾銅山暴動始まる 一九一 0 四三 5 大逆事件の検挙開始 8 「韓国併合」 四四怩東京市電スト 一九 = 一大正一 8 鈴本文治ら、友愛会結成 七 7 米価大暴騰、以後、各地で米騒動 一九一九 八 ( 国際労働機関 ) 労働代表政府選定 反対運動おこる 九 2 八幡製鉄所スト 5 第一回メーデー ( 上野 公園 ) 怩日本社会主義同盟結成 一 0 6 神戸の川崎・三菱両造船所争議友愛会、 日本労働総同盟と改称 一一 7 日本共産党結成 一一一 9 関東大震災、亀戸事件など起こる 一四 4 治安維持法公布 5 普通選挙法公布。総同 盟分裂、日本労働組合評議会結成農民労 働党結成、即日結社禁止 1 共同印刷争議 35 怩労働農民党、日本農 民党、社会民衆党、日本労農党相次いで結成 4 労働争議調停法公布。浜松日本楽器争議 怩日本労働組合同盟結成 一一 3 金融恐慌始まる 8 長野県岡谷市の山一林 組争議 9 野田醤油大争議 三 3 三・一五共産党弾圧事件 4 労農党、評議 会、無産青年同盟に解散命令怩日本労働組 合全国協議会結成 四 4 四・一六共産党弾圧事件ⅱ大山郁夫ら、 新労農党結成 五 4 鐘紡、東洋モスリンなど世界恐慌下で争議 頻発 6 全国労働組合同盟結成 天九九 一九 00 一九 0 一 一九 0 = 一 一九 0 四 一空 0 一九 0 六 建設に向かう国々が相次いで現れ、さらに朝鮭、ベトナム、 った。また、既存の社会主義国でも共産党のイニシアテイプ による改革への試みが進められることになった。 中国でも革命が起こり、社会主義世界は拡大し、資本主義と 一九七〇年代なかばから資本主義の矛盾が新たに激化し、 の「二つの世界」の対立が人類史の基本条件となる時代に入 った。労働運動はこの条件に規定されて展開することになっ生産の不振、貿易摩擦、財政危機、産業構造の転換、多国籍 企業の広がりなどの条件のもとで、労働運動に対する資本の 大戦末期から、イギリス、フランス、ソ連などの労働組合側からの攻撃が厳しくなり、失業が増大し、賃金引上げが困 間で戦後を展望した交流が進んでいたが、一九四五年一〇難になり、労働組合の地盤沈下がみられ、労働運動はその打 月、バリで世界労働組合連盟が結成された。資開への挑戦を余儀なくされている。さらに米ソを中心とする 本主義国、社会主義国、植民地の労働者を、社会体制、思核軍拡競争が激化したなかで、核戦争阻止・核兵器廃絶の課 想・信条、皮膚の色の違いを超えて結集した初めての全地球題に立ち向かう労働運動の姿勢が問われている。↓平和運動 的な国際労働組合組織の成立であった。これに加盟を拒否し 戦前日本の労働運動 た主要組織は、アメリカ労働総同盟 (<ß2) だけであっ た。世界労連は、ファシズムの絶滅、戦争の根源である独占〔資本主義の形成と労働運動の台頭〕明治維新によって幕藩 資本との闘争と恒久平和の樹立、賃金・生活水準の改善を目体制が倒れ、資本主義的発展の道が切り開かれるに伴って、 標に掲げた。ヨーロッパ各国に社・共両党が連合する革新政労働運動が発生し始めた。しかし、絶対主義的天皇制が権力 を握り、専制的、非民主的な政治制度のもとで資本主義の育 権が樹立された。 しかし一九四七年以降、早くも二つの世界の「冷たい戦成が進められたので、労働運動は厳しい制約を受けた。資本 争」が表面化した。アメリカ陣営から反ソ・反共を目的とす主義の発展にとって必要な労働力は、土地を失った農民を主 力に、ギルド的株仲間の解体に伴う手工業職人と封建的支配 る分裂攻撃が加えられ、産業別組合会議 (0—0) 、イギリ ス労働組合会議 (+DO) を先頭に資本主義国の有力組合が層としての地位を失った士族層のなかから生み出された。労 脱退して世界労連は分裂した。そして脱退派は四九年一二働運動として最初に目だったのは鉱山労働者と職人層の反抗 月、ロンドンで国際自由労連を結成し、反共であった。それはしばしば暴動化した。一 八八六年 ( 明治一 あめみや 主義・労資 ( 使 ) 協調主義の立場を明らかにした。世界労連九 ) 山梨県甲府で雨宮製糸の女子労働者が労働条件の悪化に の組織勢力は七三か国、二億〇六〇〇万人 ( 一九会 ) 、国際自反対しておこしたストライキが、もっとも初期の工場労働者 由労連は九六か国、八五〇〇万人 ( 一九〈七 ) といわれている。のストライキ闘争とされている。労働組合結成の試みも、卩 なおこのほかに国際労働組合連合があり、七九か 刷労働者や鉄工 ( 金属・機械工業の中核としての熟練労働 国、一五〇〇万人 ( 一九会 ) といわれている。↓世界労働組合者 ) の間で始まった。↓雨宮製糸争議 につしん 連盟↓国際自由労連↓国際労働組合連合 日清戦争 ( 一八九四 ~ 九五 ) は、日本資本主義確立の画期となっ たと同時に、労働運動発展の出発点ともなった。政府統計に 労働運動の政治的側面でも、共産主義と社会民主主義の対 よると一八九七年の下半期だけで三二件のストライキが記録 立がふたたび激しくなった。一九四七年一〇月、ヨーロッパ 九か国の共産主義政党はコミンフォルム ( 共産党および労働されており、それまでと際だった対照をみせた。とくに九八 者党情報局 ) を結成した ( 五六年に解散 ) 。一方、同じ四七年二月におこった日本鉄道機関方の待遇改善要求と首切り反 年一一月にコミスコ ( 国際社会主義者会議委員会 ) が組織さ 対のストライキは、労働問題に対する社会の関心を刺激し れ、これは五一年に社会主義インターナショナルと名のり、 た。↓日本鉄道争議 反マルクス主義の民主社会主義の立場を明らかにした。↓コ 労働組合の組織運動が始まった。アメリカ帰りの高野房太 ろう ミンフォルム↓コミスコ↓社会主義インターナショナル 郎らは、職工義友会を設立して労働組合の結成を呼びかけ、 〔現代の国際労働運動〕一九六〇年以降、国際共産主義運動労働組合期成会を組織 ( 天九七 ) して、それを母体に運動を進 の内部に中ソ論争を中心とする路線対立が表面化し、それはめた。片山潜を主筆に、わが国最初の労働組合運動の機関紙 世界労連その他の左派系の労働運動にも反映した。そのなか 『労働世界』が発刊された。鉄工組合、日本鉄道矯正会、活 から日本を含めて発達した資本主義国の共産党は、自主独立版工組合などの職種別組合が相次いで結成された。この時期 の立場からそれそれ独自の革命路線の探求を試みるようにな に生活協同組合の運動も始まった。しかし一九〇〇年 ( 明治 せん ふさた