諸君にさせたことが、卒業して社会に出てから役に立ったと何人もから聞きました。その練習 法をこれから実習しましよう。 私は『岩波古語辞典』の制作のために、一一〇年間、協力者たちの多くの助力を得ながら、一 語一語の理解とその説明に力を注ぎました。古典から、一つの単語の用例を何十と集め、使い 方の類型によって区分し、それぞれの意味を抽出する。最も根源的な意味、それからの脈絡と 展開をたどる。その結果を短い現代語によって的確に示さなければならない。訳語だけでは不 十分と思われるときには、その単語の特徴を文章で説明しようとしました。そういう仕方の辞 典は日本には例がありませんでした。どう書けは簡単明瞭で分かりやすく解説できるか、どん な単語を使えは適切か。それを求めて書き上げる。それを結局一一万語繰り返した。これが私の 文章の書き方の基本的訓練になりました。語の意味の中心点を的確に把握する。それを平明に 表現する。 文章を縮約する それと同じような結果を得る練習をするにはどうすればよいかを考え、私は一つの作業を学 生諸君に課しました。それは新聞の社説を縮約するという作業です。 114
これは、初めは高校の一年生に課した作業でした。小説を読んだことのあまりない生徒もい たので、最も初歩的なこととして、小説を題材にとりました。小説を読み馴れている人は、む ヘンをとって書くまでもなく、 読み進むままに、大事な ろん要旨、要点をとったりはしない。。 ところを次々に頭に蓄えていき、その上で作品の中心部を読む。それが普通です。 ところがその後、大学生にこれをさせてみると、こうした練習が整った文章を簡潔に書くこ とに有効なことでもあるのに気づきました。それで、ここでもそれを課題にします。文章の初 歩を練習する人のためのものです。 材料には、夏目漱石の『こころ』を使います。本当は専門的な論文とか、哲学書の文章とか 力しし 内容のむすかしい作品を区切り、その段落ごとの要旨をとり、それをつないでいくこ その作業をし とによって初めて全体の論旨をつかみ、ほば全体像が描けるようになっていく。 た後であらためて細部を読む。そして、もう一度初めから読む。そういうむすかしい文章がい いのです。しかし、それでは材料が一つの専門にかたより、誰でも取りつくというわけにはい きません。その選択と実習は読者におまかせして、ここでは小説『こころ』を扱います。 『こころ』は、新聞の連載小説として執筆されました。「上先生と私」、「中両親と私 , 、 「下先生と遺書」の三部から成り、「下先生と遺書」が最も中心的な重要な部分です。長い 130
ここまで「単語に敏感になろう」「ハとガの使い分け」「二つの心得」と話を進めてきました。 「文章」と「文」という単語がありますが、「文」は、「文章」の意味にも、「一つのセンテン ス」の意味にも使うので、私は「文」を避け、そのかわり「センテンス」をおもに使い、それ が集合して一つにまとまったものを「文章」としています。 「単語に敏感になろう」でもお話ししましたが、文章を建物にたとえると、単語・語彙は建 物をつくる一個一個の煉瓦です。文章を読むとは、書き手の意図・内容の全体を理解すること。 書くとは、書こうとする意図・内容の全体を表現すること。だから、建物の部品に注意するだ けでは足りない。建物全体の構成を考える必要があります。 文章の実習 そこで練習すべきことは何か。 よく書くためには、ますよく読み馴れること。たくさん読むこと。つまり、文章全体をつか 112
日本語練習帳大野晋著 I S B N 4 ー 0 0 ー 4 3 0 5 9 6 ー 9 C 0 2 8 1 \ 6 6 0 E 定価 ( 本体 660 円十税 ) 日本語練習帳 ど、つすればよりよく読めて書けるよ、つになるか。何に気を つけ、どんな姿勢で文章に向かえばよいのか。練習問題に 答えながら、単語に敏感になる練習から始めて、文の組み 立て、文章の展開、敬語の基本など、日本語の骨格を理解 し技能をみがく。学生・社会人のために著者が六十年の研 究を傾けて語る日本語トレーニングの手順。 岩波新書から 日本語の起源新版大野晋著知 日本語の文法を考える大野晋著黄 日本語をさかのばる大野晋著 日本語はおもしろい柴田武著齠 日本語ウォッチング井上史雄著 9 7 8 4 0 0 4 5 0 5 9 6 5 1 9 2 0 2 8 1 0 0 6 6 0 9 岩波新書 596 岩波新書 596
ものをいうこと。「独学」「独習」も、普通なら学校でいっしょに学ぶ相手がいるはすなのに、 一人でする学習。「独力で . とは、協力する相手なしに、一人のカで、ということです。国や 人間が他の支配から脱して自分の自由をもっときに「独立」という。「独立」は他に服従しな いこと。それが「独断専行」となると、勝手に一人でしてはいけない場面で「相手なし」に強 行すること。「独裁」とか「独走」、あるいは「独善」なども同じです。つまり「独 , とは、相 手に制約されすに自由にすることです。 「自」はどうか。「自分自身 . とか「彼自身 , とかは、自分が事の中心となること。「自白」 は、自分から進んで申し出て犯罪の事実を言うこと。犯人が「自首ーして「自白」する。「自 学」「自習 . とは、自分から進んでする勉強。 つまり、「自分から進んで」というのが「自」です。「自力で」といえは、自分の活力でやる、 ということだから、相手の制約なしで一人でやる「独力で」と近い意味になる。 最後の「孤立」ですが、「孤」は一人ばっち、みなし児のこと。相手を求めても得られない で、まわりから切り離されて一人だけポツンといること。支配を脱して思いのままにする 「独」とは違います。「孤独」は、心が通しることを求めているのに通しる相手がいないこと。 相手と連合したりせすに一人でするなら「単独でする」という。また、「孤高の人ーといえば、
四〇〇字を一一 0 〇字に要約する 縮約の次の練習です。それは四〇〇字の文をさらに縮めること。そうなるともはや原文の縮 約では文章として整わなくなることが多く、要約としなくてはなりません。要約とは場合によ って、文章そのものを読み手が作り変えなくてはならないものです。縮約と要約とは違う。 練習 ″四〇〇字でまとめた前間のあなたの文章を、半分の二〇〇字に要約して下さい 骨 章答えの一例。 薬害エイズ事件、大蔵・日銀接待汚職など 127
のは、文章を傷つけるような感しさえするのですが、むすかしい文章を読み通そうと思う人は、 こういうやさしい、よく分かる文章で基本を練習するといし では、ハの文をもう一つ。 練習⑩ 〃次のセンテンスの中に出てくる ( 1 ) ( 2 ) ( 3 ) の ( の下にくる「答えにあたる部分」〃 ″を指摘して下さい 安政条約によってフランスやイギリスば日本に軍隊を駐留させる権利を得てい〃 ( 2 ) たし、日本の裁判所ば外人に対し裁判する権利がないものとされていたし、また〃 ( 3 ) 日本の国内産業の死活を制する輸入関税率も日本自身で決定することばできない〃 ことになっていた ( 川島武宜『日本人の法意識』 ) ″
Ⅳ文章の骨格 作品あるいは論文にとりついていく初歩的な練習の一つとして、「上先生と私」の各節の要 占を、順序を追ってメモにまとめて聿日き出してみましよ、つ。 ″練習⑩ 夏目漱石の『こころ』の、「上先生と私」の前半、一五節までの要点を節ごとに″ ″三〇字以内で書いて下さい 答えの一例。 一先生との出会い 一一先生のあとを追う。 三眼鏡を拾ってあげて、言葉を交わすきっかけを作る。 ぞうし 四訪問すると先生は留守。雑司ヶ谷の墓地に行ったという。 五それは友人の墓と分かる。 131
結果の判定 15 5 の「縮約 , の 左の数字は練習間題全体に答えた場合のために勘案したものです。必すド 3 3 課題に答える作業を実際にして、その上で計算して下さい。 0- 0 5 5 0 占 ワ】ワ朝 すでに日本語についてすぐれた理解力もあり、根気もある。日本語のよい読み手・書き手に なるでしよう。 9 、 -0 9 、 3 点 このような形式の出題には、従来あまり出あわないので、戸惑いがあるかもしれません。本 書に述べているところを心にとめて、「縮約」の練習を重ねれは、あなたが生まれつき持っ ている言語能力をもっと引き出すことができます。 点以下 全体として読書の量が少ないでしよう。ます、好きな小説でも何でもいし しいと思います。 読むことから始めると、 もっとたくさん 214
大野晋 1919 年東京に生まれる 1943 年東京大学文学部国文学科卒業 専攻ー国語学 現在一学習院大学名誉教授 著書 - 『日本語をさかのほ、る』 『日本語の文法を考える』 『日本語以前』 『日本語の起源新版』 ( 以上 , 岩波新書 ) 『日本書紀』 ( 共編・校注 , 岩波文庫 ) 『岩波古語辞典』 ( 共編 ) 『上代仮名遣の研究』 『仮名遣と上代語』 『文法と語彙』『日本語について』 『源氏物語』『係り結びの研究』 ( 以上 , 岩波書店 ) 『一語の辞典神』 ( 三省堂 ) ほか 日本語練習帳 岩波新書 ( 新赤版 ) 596 第 1 刷発行 第 11 刷発行 著者 発行者 発行所 電話 1999 年 1 月 20 日 1999 年 4 月 22 日 おおのすすむ 大野晋 大塚信一 株式会社岩波書店 〒 101- 繝 2 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 案内 03-5210 ー 4000 営業部 03 ー 5210 ー 4111 新書編集部 03 ー 5210 ー 4054 印刷・精興社カノヾー・半七印刷製本・中永製本 ◎ Susumu Ohno 1999 ISBN 4 ー 00 ー 430596 ー 9 Printed in Japan