という出だしの部分。これは書き手が認める現在の検察の事態を象徴的、比喩的に書いたもの。 その限りでは正確です。しかし、いきなりこれを読む者には、標題の「足元を固める細心さ を . と直接的には結びつきません。これが具体的に何を指しているのかは後になって分かるこ とで、最初に何とない不安を与える。これなしでは以下の具体的な話が理解できないというこ とはない。 つまり、この導入の部分はよい役割を果たしているとはいえないように見える。 ②職責の重さを胸に刻み、自らの言動を律する。この当たり前の姿勢を徹底させることが 何よりも大切である。 ③政治権力からの不当な干渉をはねのける力量を持ち続ける。そのためにも、念には念を 入れて足元を固めてもらいたい。 ②と③が述べている趣旨はほば同じです。②が前にあると、それは終結部③の結論を先取り げ・んさい しているわけで、むしろ③の力を減殺している。③は繰り返しという印象になる。 この論述はむすかしい内容をいってはいないので、①のような水先案内は不要であり、③が 予定されているのだから、②はない方がかえってよいとは考えられないだろうか。 ただ社説は一四〇〇字で書かなければならない。最初の原文から減らす必要も増やす必要も 生じる。ちょうどよい長さに仕立てなくてはならないという条件があります。 126
漢語はニつの意味の組み合わせが基本 現在、カタカナ語が猛烈な勢いでふえています。しかし現代日本語をよく読み、よく書ける ようになるには、やはり漢語が大きな役割をしています。 昔は、むすかしい、人の知らないような漢字の言葉を振りまわす人が、いかにも学間がある、 な言葉がよく分かる人と扱われました。、現在ではそれは影を潜め、それだけ漢字の使い方はや 感さしくなったような感しがします。とはいえ、一見ありふれた言葉、ありふれた漢字も、よく 考えてみると徴妙な働きをしています。そのことに心を配ることは、よい文章を読み書きした 五ロ 一 11 一口 単いと思う人々に大切です。そこで次に漢字・漢語をめぐる問題を扱います。 二 = ロ それが問題です。それが言語の能力があるということです。歌人や小説家か辞書を売 んで単語を覚えようとしたのは、そういうときに備えたいからです。だから、読み手 もその細かい心づかいにつきあうだけの感度をそなえていなくてはいい読者といえま せん。
くべきだと考える」のように使います。しかし場合によっては、どちらを使ってもい ′いとい、つわけにはい医、ません。例、たば、 今夜のごはんの献立を 〃という場合には、「献立を考える」が普通で、「献立を思う」とはい、 〃これにならって、 を思、つ ( または、 を考える 〃と区別して使うのが普通なととを、それぞれ一二つすっ書いて下さい。 〃次に、「思う」と「考える」はどう違うのか、書いて下さい 問 2 〃 感「考える」とは理生的な働きで、「思う」とは感情的なものだとみる人もあるでしよう。しか し「入学試験を受けようと思った」という場合には、感情的とはいえないでしよう。 との答えの一例。 故郷を思う。はるかなベネチアの都を思う。不満に田 5 う。 に田 5 、つ ) しません。
本 基 の 五ロ 二 = ロ 着物を脱ぐと、雪江さんが後からフワリと寝衣を着せてくれる。 ( 二葉亭四迷『平凡』 ) さあらぬ体をつくろいつつ、内実は自分を恋うてくれていたのか。 ( 司馬遼太郎『国盗り物語』 ) クダサルは、「下す , という動作が自然的に成立するということで、対者を高く扱っていま す。クレルとは、恩恵として、あるいは好意をもって物事を与えることです。どちらかといえ は、上下を示す敬意の表し方としてはクダサルよりは弱いといえるでしよう。 ただし、困ったことを子供がしてしまったときなど、 とんでもないことをしでかしてくれた といえは、これは不都合な恩恵が与えられたことになり、迷惑の表現となるわけです。 ( 受け取る側からみて ) 対者ガ低い位置から高い位置の人になえる。ョコス。 わざと身体不自由な老人をよこす : ・ 駒子ちゃんがこれよこしました。 一一人を世話してよこしたのである。 ( 野坂昭如『焼土層』 ) ( 川端康成『雪国』 ) ( 志賀直哉『流行感冒』 ) 197
間題を考える。万が一の場合を考える。段取りを考える。 この場合、どうして「思う」あるいは「考えるーの片方しか使えない のか。上の甲乙の図を見て下さい ます、上の図のまん中の重なっている部分、これは二つの言葉の意味 重の重なるところ、二つの言葉のどちらを使ってもよいところです。「私 味はこ、つしよ、つと田 5 った「こ、つしよ、つと考えたなどとい、つ場合は、だ の いたいどちらを使ってもいい。 しかし、「百万円も使ってしまった」と 葉 言「百万円も費やしてしまった」とは重なってはいても、「使う」と「費や す」では重なりが小さく、図の甲に当たる。「思う」「考える」の場合に は、重なりが大きく、図の乙に当たる。図のイ、ロという重ならない部 分は小さい。しかしイとロとは交換するわけにいきません。このように , 「とロとか・ 、さい場合と大きい場合とがあります。 これから、いくつかの問題を取り上げますが、乙の図のように単語によっては、重なってい る部分が大きくて、イと口が小さいものもある。その徴妙なところを、言葉のニュアンスとい っています。言葉の使い方かいいとか、言葉が鋭く読めるとかいうことは、このイとロとを明 ロ ロ 甲 乙
ものをとらえる角度によって単語がかわる 練習③ 感 それはとてもうれしいことです それはとてもよろこはしいことです 五ロ 一三ロ 〃「うれしい」も「よろこはしい」も同じ文脈で使えますが、「うれしい」は使えても〃 「よろこはしい」というと変な場合があります。それを一例書いて下さい sum ) というラテン語の言葉があります。現在、英和辞典にも項目として立てられて いて、昔ながらに「我思、つ、ゆえに我あり」と訳してある。 co ・は「共に」の意、 -gito は agitare 「動かす」から来た言葉で、合わせて「事物を頭の中で一つにまとめ る」とされています。もし cog 一 to がその意味なら、それを「我思う」と訳すのは不 的確で、むしろ「我考う」とあるべきでしよう。最近のデカルト研究書では、「私は 考える」と訳しているものが多いようです。
でヒトの意。「御仁」で初めは敬意的に人を高く扱う表現でした。 このように、人称代名詞の中には、相手を上下の意識で遇する表現があります。しかし、ヤ マトコトバの代名詞には、相手を上下で扱うものはない。上下で扱うのは、漢語によるものが 大部分、ということは、上下でとらえる敬意は、中国の家父長制の考え方が輸入されてから漢 語とともに広まったので、それ以前は人を遠近で扱い、近くが親愛、遠くが尊敬の扱いとなっ ていたと考えられます。 一人称の代名詞 さて、一人称はどうか。コチラ・コッチ・コチトラが自分自身を指します。それよりも、私 にとって残念なのは、現代語の一人称として一番広く使われているワタクシの語源が、何十年 考えていても分からないことです。だいたい、ワタクシのように四音節もある単語は、たいて い二つまたは三つに分離できるもの。それができない。ワタクシのワはたぶん、「我 . のワと 関係があるだろうと誰しも思いますが、これもアクセントの研究からは反証があります。ワタ クシのシはたぶん、方向を示すシでしよう。例えは、ヒガシ ( 東 ) 、ニシ ( 西 ) のシと同じで、こ れはソレガシ ( 某 ) のシでもある。しかし、ワタクがまったく分析不能です。 152
しゃれぼんたつみのその ( 洒落本『辰巳之園』 ) 「お前は知らないだろうが、永代橋というのはこの橋だ [ と相手に教えているところです。 大学の先生は講義の中で、しきりにノデアリマスを使う。「君たちは知らないだろうが、こう いう事実があるんだよ」という気持をこめた表現です。だから、大学教授の本にはノデアルが 多し : ト児科の医師が育児について若い母親に語る本にノデアルが目立ったと聞きました。 俳句の講釈にもノデアルはしきりに使われ、むしろ一つの表現定型とさえいえます。その例を ・ : 英国へ留学するのである。 : まことに素朴な表現なのである。 、冫止したのであって、 : 脱皮を遂げることができたのである。 ノデアルが多く使われています。ノデアルは、ノダともノデアリマスとも使います。普通、 強い断定と思われています。しかし考えてみると、単に強い断定であるのではなく、相手に教 える場合によく使う。江戸時代から例があります。 えいたいばし 此橋が永代橋と云のだ この
授受の動作の敬語 さて、授受の動作については、特別な言葉づかいがあります。それは次の三つに分かれま << 与える動作 ・ 0 受け取る動作 与える動作をするときに、与え手が対者を高く扱う。サシアゲル・アゲル。 さあ、おじいちゃまに唄ってさしあげなさい。 ( 野坂昭如『アメリカひじき』 ) 君をどうしてあげることも、僕には出来ないんしゃないか。 ( 川端康成『雪国』 ) かんにんえ ! かんにんえ ! 今治してあげるから ! 今しきだから ! ( 三島由紀夫『金閣寺』 ) 本 基 吾アゲルは「上に位置をかえる , こと。つまり動作を上の相手にすること。自分の位置を低め る謙譲語です。 与える動作をするときに、与え手ガ対者を低く扱う。ャル・ツカワス・クレル。 す。 193
作業をやってみると、実はこの文章には棄てていいと思われるような贅肉はほとんどないこと に気づくでしよう。そこまでいくと、この文章のいうことがかなりはっきり見えてきます。 しかし、それでも、この文章はやさしいことをいっているとはいえない。確かにやさしくは ない。けれどもこの文章は実は無駄もなければ順序の錯雑による困難もない、確実な文章なの です。私は吉田氏がどのくらい漢文を習ったのか、何も知りませんが、吉田氏はたぶん、自分 の心の中で自分の文章に読点を打ってしまって、それを実際には書かないだけだということが 分かります。 文体としての長いセンテンス 私はこれまで文章は長く書いてはいけないと言ってきました。それは日本語が構造上、終結 をするすると後へ後へと引っ張っていくようになりやすい傾向をはらんでいるからです。そし て、考えてみるとここにはさらにもう一つのことがあります。というのは私は、 「一つの問題をよりよく解決するためには、その研究しようとすることを、求めうる限り 細かな小部分に分割するー ことが大事な方法だと教えられたことがあるのです ( 実はこれは、高等学校の生徒のときに、 140