ていることです。我と汝の関係を契約書の甲乙のように、 いつでも抽象的な関係としてとらえ ている。そういうことをヨーロッパ語の人称代名詞の体制は表現しています。これを人称代名 詞の甲乙体制と名づけましよう。 それにくらべて日本語の社会では、人間関係を契約書のような甲乙の関係としてとらえるこ とをしません。いつも相手は自分より上なのか下なのか、遠いのか近いのか、親しいか疎いか を、込みにしてとらえ、その条件のもとでしか相互に接触ができない。そのとらえ方を敬語と いう形式で言語に表現しているのです。 「親分、ポリの野郎が来やがりましたぜ [ といえば、泥棒の子分が親分に対して「ポリの野 郎が来やがる」と警官を侮蔑的に扱っている。それとともに「 : : : ましたせ。といって、親分 に敬意を忘れません。日本語社会の成員は、たえず相手が自分をどう見ているか、上か下か、 遠いか近いかと神経をまわしています。自分もまた相手をどう遇したらよいか、そのほどよい 度合を求めて、それに応して言葉づかいを適応させます。日本語の社会はそういう社会です。 戦前のことですが、築地の小劇場で村山知義氏の新劇を見たとき、登場する若者が父親に向 かって「あんた : : 」と話しかけたのです。観客は一斉に笑いました。当時としては、それは ありえないことで、その一言で若者の社会観、人間観、父親観が受け取れたのです。 162
理由を明確化し、限定できることがある。メモを使って不足の部分を目の前に確認して書いて いくと、論述が進行しやすくなる。それを頭の中だけでやっていて、やみくもに筆をつけると、 全体像が自分で見えす負担が大きい。④の作業は、作品を書き上げて、半月くらい箱に入れて おいたあとでするといい。 その頃になると自分の文章を客観的に見ることができるようになり ます。 作品を読むとき、その構成の要素ごとに区分し、それぞれに分けて内容を理解していくとい う方法は、長大な論文、あるいは大きな作品の全体像を把握する上で有効です。 センテンスの長い文章 文章の骨格を確かにすること、それを身につけるためには、練習として文章の縮約を試みる こと、要点をとることをお話ししました。また、Ⅱ章の助詞ハの使い方を中心とした項目では、 骨短いセンテンスを書くと文章が鮮明になるということもお話ししました。 章しかし、実際に短いセンテンスはかりで文章を仕立てたらどうなるか。それは文章としては せかせかした寸詰まりの文章になるかもしれません。そこでここに、息の長いセンテンスの文 章を一つ出して、そこに何があるかを考えてみようと思います。 137
「遅れすに参りますー、「必す参ります」の「参る」という言葉は、マヰ ( 古い発音では mawi) とイル ( 入る ) との合成語です。マヰとは宮廷や神社など、多くの人が集まる尊貴な所 へ自分も行くことでした。 「拝見する第「拝の付く言葉には拝観・拝顔・拝眉・拝察・拝借・拝受・拝聴・拝領・ 拝読などがあり、手紙に使う拝啓・拝復もこの仲間で、実にたくさんあります。「拝はおが むこと。自分の行為を低めて、相対的に相手を高く扱うことになります。 、「 : : : ております , という形は自分や自分の側についてだけ使います。「わが社では この品物を扱っております , は、会社を自分の側として使うわけです。 尊大語 ( いばり語 ) 謙譲語とは逆に、自分や自分の側の人物やその動作を高く扱うのが尊大語です。 自分については「我輩・俺様ーとか、動作としては、「参る」「おる」「存する」など。本来 は卑下語でしたが、現在、それを裸で自分のことに、「我輩はここにおる」などとマスを付け いばった形になり尊大な表現です。 すに使うと、 192
ものをいうこと。「独学」「独習」も、普通なら学校でいっしょに学ぶ相手がいるはすなのに、 一人でする学習。「独力で . とは、協力する相手なしに、一人のカで、ということです。国や 人間が他の支配から脱して自分の自由をもっときに「独立」という。「独立」は他に服従しな いこと。それが「独断専行」となると、勝手に一人でしてはいけない場面で「相手なし」に強 行すること。「独裁」とか「独走」、あるいは「独善」なども同じです。つまり「独 , とは、相 手に制約されすに自由にすることです。 「自」はどうか。「自分自身 . とか「彼自身 , とかは、自分が事の中心となること。「自白」 は、自分から進んで申し出て犯罪の事実を言うこと。犯人が「自首ーして「自白」する。「自 学」「自習 . とは、自分から進んでする勉強。 つまり、「自分から進んで」というのが「自」です。「自力で」といえは、自分の活力でやる、 ということだから、相手の制約なしで一人でやる「独力で」と近い意味になる。 最後の「孤立」ですが、「孤」は一人ばっち、みなし児のこと。相手を求めても得られない で、まわりから切り離されて一人だけポツンといること。支配を脱して思いのままにする 「独」とは違います。「孤独」は、心が通しることを求めているのに通しる相手がいないこと。 相手と連合したりせすに一人でするなら「単独でする」という。また、「孤高の人ーといえば、
o を謙譲語と ) は尊大表現とでもいうべきでしよう。 ②の①について気をつけるべきは、「話しかける相手」と「二人称の代名詞」とは別だ、 ということです。自分より高い人、低い人、遠い人、近い人と、扱い方はいろいろあっても 「話しかける相手」としては一つです。この「相手」に対する敬意は、①でみたように、マス とかデスとかの部分で表されます。いつばう、「二人称」とはその相手を「話の中身」に登場 させるときの形で、「アナタサマ・アナタ・アンタ・オマエ・オメエ・テメ工 , など、いろい ろ区別できます。 ①「話しかける相手」と②「話の中身」とは別ですから、 ポリの野郎が来やがりましたせ といえます。泥棒の子分は、「話の中身 , の警官には侮蔑的な扱いの表現として「来やがる」 「話しかける相手」としての親分にはマシタと尊敬の意を表したのです。 本 これを図示すれは、次ページのようになるでしよう。 基 吾例をもう一つ。 一三ロ 敬 父と娘と話をしました。 お医者様がお見えになりました 171
( 与える ) 自 ( 受け取る ) ( 自分ガ ) ( 対者ガ ) クダサル・クレル ( 尊敬 ) 話しかける相手 の ( 軽 話し手 これに対する高い扱いは マス・デスで表す ョっス 見 . 逵 ) ( 対者が ) 4 〇 2 ( 自分ガ ) ( 自分ガ ) ( 与える ) ( 受け取る ) 授受の動作の敬語のしくみ ( 大野陽子氏原図 ) 194
「動作。には次の二つがあります。 佐藤が住んでいるーー佐藤さんが住んでいらっしやる・住んでおいでになる ( 相手を高く扱う ) 佐藤が住んでいるーー佐藤の奴が住んでいやがる・住んでいくさる ( 相手を侮蔑する ) 自分や自分の側の扱い 「人物」は、「テマエドモ・ワタクシタチ・我輩・拙者 . など、低くする形や尊大な形が あります。 「動作」には、次の二つがあります。 田中に教えたーーー田中さんにお教えした 田中に教えたーー田中に教えてやった・教えてつかわした その人物をどう扱うか 「人物 ( 二人称・三人称こは、先に人称代名詞のところでお話ししたように、「アナタ・オマ エーとか「キサマ・テメェ」、「カレ・アノ方・アイツ・ヤツ」とか、「佐藤・佐藤さん・佐藤 の奴」のように、親疎・遠近による区別をします。 図その人がする動作をどう扱うか ( 自分を低く扱う ) ( 自分を高く扱う ) 170
「思い出す、「考え出す、は「 ( 心配だと ) 思い始める」「 ( どっちがいいか ) 考え始める」という 意味にもなります。 そこで、「思う」と「考える」の違いに戻りましよう。次の言葉の「思い」を「考え」に置 き換、たることかできるかど、つか 思い知らせる 田 5 いとどまる 思い ,Y±かへる 思いおこす この「思い」を「考え、に置き換えることはできません。なぜできないか。 うら 「思い知らせる」とは、自分の心の中にある一つの気持、恨みとか悪い感情を相手に分から 、間、自分の心の中に抱いている限みを相手に知らせるのが「思い知らせ せることです。長し る」。 「思いとどまる」とは、自分の胸の中にあって突っ走ろうとする一つのことを抑えること。 「思い浮かべる」「思いおこす」の「思い」も同じことです。 つまり「思い」とは、胸の中にある一つのことをいいます。これに対して「考える」とは、
言語とはそういう表現行為、理解行為の全体をいうのではないか。私がこう言えるよ うになったのはかなり後のことでした。 言語をそう見る点で、私は今も変わっていない。自分の思うところをと表現した とき、相手が・と取ったとしたら、それは相手が ' と取り得るように表現した自分が ~ い。相手が分からないと言ったら、分からない表現をした自分が悪い。相手がと 取れるように、とだけしか取れないような形式を選び出して表現することを心がけ なくてはならない。言葉は天然自然に通じるものではなくて、相手に分かってもらえ るように努力して表現し、相手をよく理解できるようにと努力して読み、あるいは聞 そういう行為が言語なのだと私は考えています。 この練習帳はそういう表現と理解の努力をどう具体化すれはいいかについて、その 入口を書いたということです。 0 210
「お取り遊ばす」と いいなさいと訓示を受けたりしていました。 どい、 : 敬語は、人間関係のとらえ方に反応する形式ですから、自分が生活の場で占めてい る自分の位置を原点として、遠近・上下を関係づけ、それにともなう敬語の体系を身につける。 そこで会得した自分の位置を中心とする敬語の体系しかこなしきれないものです。実際に自分 が出あっていない、 いっしょに暮らしたこともない集団の敬語の体系をすみすみまで的確に使 うことははとんどできない。そう考えると、太宰が華族という生活集団を設定して物語を進め たのは、その作品全体の手法としてはともかく、そこでやりとりされる会話を写実的に描くこ とは他所で育った太宰としては本来無理だったのです。 別の例ですが、井上ひさしさんの『父と暮せば』は、昭和一一〇年広島の原爆で死んだ父と、 生き残ったその一人娘の会話だけによって成り立っています。井上さんはその広島弁について 現地の人にチェックを求めました。東京の人間が聴くと、その広島弁自身が面白く聞こえると ころがあって、劇の一つの役割を果たしています。しかし、この劇はフランス語に訳されてフ ランスで上演されて好評を博したそうです。ということは、この作品はたまたま広島で起こっ た事件を扱ったから広島弁を使っているわけで、本質的には広島弁と関係のない言語作品なの だということでしよう。もし『斜陽』がヨーロッパ語に翻訳されれば、志賀直哉などが指摘し 204