「ルール ? ・ 「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かた ちのないものを選べ。それが僕のルールです。壁に突きあたったときにはいつもそのルールに従 ってきたし、長い目で見ればそれが良い結果を生んだと思う。そのときはきっかったとしても 「そのルールはあなたが自分で作ったの ? 」 「そう、と彼はプジョーの計器。ハネルに向かって言った。「ひとつの経験則として」 「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かた ちのないものを選べーと彼女はくり返した。 「そのとおり」 彼女はひとしきり考えた。「そう言われても、今の私にはよくわからない。いったい何にかた ちがあって、何にかたちがないのか」 「そうかもしれない。でもそれはたぶん、どこかで選ばなくちゃならないことなんです」 「あなたにはそれがわかるの ? 」 彼は静かに頷いた。「僕みたいなべテランのゲイにはいろんなとくべつな能力が身についてく るんですー 東京奇譚集
「ねえ、おじさんはここで何をしているの ? たしか昨日もここにいたよね。ちらっと見かけた んだ」と女の子は尋ねた。 「このあたりで捜しものをしているんだよ 「どんなものを ? 」 「わからない」と私は正直に言った。「たぶんドアみたいなものだと思うけど」 「ドア ? 」と女の子は言った。「どんなドア ? ドアにだっていろんなかたちや色があるよね」 私は考え込んだ。どんなかたちと色 ? そういえばこれまで、ドアのかたちや色について考え たことはなかった。不思議な話だ。「わからないな。いったいどんなかたちや色をしているんだ ろう。ひょっとしたら、それはドアでさえないかもしれない」 「ひょっとしたら、雨傘みたいなものかもしれない ? 」 「雨傘 ? 」と私は言った。「そうだね、それが雨傘であってはならないという理由もないような 気がするねー 「雨傘とドアとじゃ、かたちも大きさもやくめもずいぶん違うよね」 「違うね、たしかに。でも一目見れば、その場でばっとわかるはずなんだ。ああ、そうだ、これ ナツツであ が捜していたものだって。たとえそれが雨傘であるにせよ、ドアであるにせよ、ドー るにせよ」 東京奇譚集 114
夜の空気の中で構文としてのかたちを失い、ワインの微かなアロマに混じって、彼の意識の奥に 密やかにたどり着く。「たとえば、風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がっ かないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわく を持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知してい る。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っ ているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそ ういうものとともにやっていくしかない。それらを受け人れて、私たちは生き残り、そして深ま っていく それから五日ばかり、淳平はほとんど外に出ることなく、机に向かって腎臓石の物語を書き続 けた。キリエが予言したように、腎臓石はその女医を静かに揺さぶり続ける。少しずつ時間をか けて、しかし確実に。恋人とシティー・ホテルの無名的な一室で、夕刻に慌ただしい交わりを持 っとき、彼女は相手の背中にこっそりと手を置いて、腎臓のかたちを指で探る。自分の腎臓石が そこに潜んでいることを彼女は知っている。その腎臓は彼女が恋人の身体の中に埋め込んだ、秘 密の通報者なのだ。指の下で、その腎臓は虫のように蠢く。そして彼女に腎臓的なメッセージを 送り届ける。彼女は腎臓と会話をし、交流をする。そのぬめりを手のひらに感じることができる。 日々移動する腎臓のかたちをした石
日々移動する腎臓のかたちをした石
はそれがわかってくる。ポイントは彼女自身の内部にある何かなのだ。彼女の中のその何かが、 腎臓のかたちをした黒い石を活性化している。そしてそれは彼女に、何かしらの具体的行動をと ることを求めている。そのための信号を送り続けている。夜ごとの移動というかたちをとって。 その短編小説を書きながら、淳平はキリエのことを考える。彼女が ( あるいは彼女の中にある 何かが ) 物語を先に押し進めているのだ、と感じる。なぜなら彼はもともとそんな現実ばなれし た話を書くつもりはなかったからだ。淳平が頭の中に前もって漠然とこしらえていたのは、もっ と静謐な、心理小説的なストーリーラインだった。そこでは石は勝手に場所を移動したりしない。 女医の心は、おそらく妻子のある恋人の外科医から離れていくだろう、と淳平は予想する。あ るいは彼を憎み始めるかもしれない。彼女はおそらく無意識的にそうなることを求めていたのだ ろう。 そのような全体像が見えてくると、あとの物語を書くのは比較的簡単だった。淳平はマーラー の歌曲を小さな音で繰り返し聞きながら、コンピュータに向かって小説の結末部分を、彼にして はずいぶん速いスピードで書き上げていった。彼女は決意して、恋人の外科医と別れる。もうあ なたと会うことはできないと相手に告げる。話し合う余地はないのか、と彼は尋ねる。まったく ない、と彼女はきつばり答える。休日に東京湾フェリーに乗り、デッキから腎臓石を海に捨てる。 その石は深く暗い海の底に向かって、地球の芯に向かって、まっすぐ沈んでいく。彼女は人生を 日々移動する腎臓のかたちをした石
偶然の旅人 ハナレイ・べイ どこであれそれが見つかりそうな場所で 日々移動する腎臓のかたちをした石 121
「でもとれなかった ? 彼はただ静かに徴笑んだ。彼女はとくに許可を求めることもなく、となりのスツールに腰を下 ろした。そしてカクテルの残りをすすった。 「いいじゃない。賞なんてどうせ業界内のおもわくでしよう」と彼女は言った。 「実際に賞をとった人がはっきりそう言ってくれれば、それはそれでリアリティーがあるんだろ うけどね」 彼女は名前を名乗った。キリエといった。 「なんだかミサ曲の一部みたいだ」と淳平は言った。 彼女は見たところ、淳平より 2 センチか 3 センチくらい背が高そうだった。髪は短くカットさ れ、まんべんなく日焼けをしていて、頭のかたちがとてもきれいだった。淡いグリーンの麻のジ ャケットを着て、膝までのフレア・スカートをはいていた。ジャケットの袖は肘まで折り上げら れている。ジャケットの下はシンプルなコットンのプラウスで、襟に小さなターコイズ・プルー のプローチがついている。胸は大きくもなく、小さくもない。着こなしは洒落ていて、無理がな く、同時にはっきりとした個人的指針のようなものが貫かれていた。唇はふつくらとして、何か を言い終えるたびに、広がったりすぼんだりした。そのおかげで、彼女に関わるすべてのものが 日々移動する腎臓のかたちをした石
彼女は笑った。「ありがとう それからまた長い沈黙があった。でもその沈黙には以前ほどの濃密な息苦しさはなかった。 「さようなら」と彼女は言った。「いろいろと本当にありがとう。あなたに会えて、話をするこ とができてよかった。少し勇気が出てきたような気がする」 彼は徴笑んで彼女と握手をした。「元気でね」 彼はそこに立って、彼女の青いプジョーが去っていくのを見送った。最後にミラーに向けて手 を振った。それから自分のホンダを停めた場所までゆっくり歩いた。 翌週の火曜日は雨だった。彼女はカフェには姿を見せなかった。彼は一時までそこで黙々と本 を読み、それから引き上げた。 調律師はその日、ジムに行くのをやめた。身体を動かしたいという気持ちになれなかったから だ。昼食もとらず、まっすぐ自宅に戻った。そしてソフアに座ってアルトウール・ルービンシュ タインの演奏するショ。ハンのバラード集を聴きながら、ただぼんやりとしていた。目を閉じると、 プジョーを運転する小柄な女性の顔が目の前に浮かび、その髪の感触が指先に蘇った。耳たぶの ほくろの黒いかたちが鮮やかに思い出された。時間がたって、女の顔やプジョーの像が消えたあ とでも、そのほくろのかたちだけはくつきりと残った。その小さな黒い点は、目を開けても目を 偶然の旅人
初出 「偶然の旅人」 ( 「新潮」一一〇〇五年三月号 ) 「ハナレイ・べイ」 ( 同四月号 ) 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」 ( 同五月号 ) 「日々移動する腎臓のかたちをした石」 ( 同六月号 ) 「品川猿」 ( 書下ろし )
してそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ。 同じころ、女医の机の上からは、腎臓のかたちをした黒い石が姿を消している。彼女はある朝、 その石がもうそこに存在していないことに気づく。それは二度と戻 0 てはこないはずだ。彼女に はそれがわかる。 東京奇譚集 156