うやく気を取り直して航空会社の電話番号を調べ、ホノルル行きの飛行機の予約を人れた。領事 館員に言われたように、とにかく一刻も早く現地に行って、それが本当に自分の息子なのかどう かを確認しなくてはならない。ひょっとしたら、人違いだったということになるかもしれない。 しかし連休にあたっていたせいで、当日と翌日のホノルル便の空席はひとつもないと言われた。 どこの航空会社も状況は同じだった。しかし事情を説明すると、ユナイテッドの係員は「とりあ えず今から、急いで空港までお越し下さい。なんとか席はみつけましよう」と言ってくれた。簡 単に荷物をまとめて成田空港に行くと、女性の担当者が待っていてビジネス・クラスのチケット クラスの料金でけ を彼女に渡してくれた。「今はこれしか空いていません。しかしエコノミー・ っこうです」と彼女は言った。「お辛いでしようが、どうかおカ落としのないように」。ありがと う、ほんとにたすかりました、とサチは礼を言った。 ホノルル空港に着いたとき、あまりに慌てていたので、到着時刻を領事館員に伝えるのを忘れ ていたことにサチは気づいた。ホノルルの日本領事館員が彼女に付き添ってカウアイ島に行くこ とになっていたのだ。しかし今から連絡をとって待ち合わせをするのも面倒だったので、そのま ま自分一人でカウアイに行ってみることにした。現地に行けばなんとかなるだろう。飛行機を乗 り換え、カウアイ島に着いたのは昼前だった。彼女は空港のエイヴィスでレンタカーを借りて、 まず近くの警察署に行った。そして息子がハナレイ湾で鮫に襲われて死んだという知らせを受け 東京奇譚集
ーの常連客だったからだ。中古のグ その銀行の支店長が、それまで彼女の働いていたピアノ・バ ランド・ピアノを置き、そのかたちにあわせたカウンターを作った。目をつけていた有能な。ハー テンダー兼マネージャーの男を、ほかの店から高給で引き抜いた。彼女が毎晩ピアノを弾き、客 はリクエストをしたり、彼女の伴奏にあわせて歌ったりした。ピアノの上にはチップを人れるた めの金魚鉢が置かれていた。近所のジャズ・クラブに出演したミュージシャンが立ち寄って、軽 く演奏していくこともあった。常連客もついて、商売は予想以上に繁盛した。借金も順調に返済 することができた。結婚生活にはうんざりしていたから、再婚こそしなかったが、そのときどき につきあう相手はいた。おおかたは妻帯者だったが、彼女にしてみればその方がむしろ気楽だっ た。そうこうするうちに息子は成長してサーファーになり、サーフィンをするためにカウアイ島 のハナレイに行ってくると言い出した。気は進まなかったが、言い合いをするのにも疲れて、サ チはしぶしぶ旅費を出してやった。長い論争は彼女の得意とするところではなかった。そして息 子はそこで、カのある波が来るのを待っているときに、亀を追って湾に人ってきた鮫に襲われて、 十九歳の短い生涯を閉じたのだ。 息子が死んだあと、サチは以前にも増して熱心に仕事をした。一年間ほとんど休みなく店に出 てただただピアノを弾いた。そして秋の終わりになると三週間の休暇をとり、ユナイテッド航空 のビジネス・クラスに乗ってカウアイ島に行った。彼女がいないあいだは、べつのピアニストが 東京奇譚集
警官は深いため息をついた。「お気の毒です。私どもにできることがありましたら、おっしゃ ってください」 「息子が死んだ場所を教えてください。泊まっていたところも。宿泊費の支払いもあると思いま すので。それからホノルルの日本領事館と連絡をとりたいのですが、電話を使わせていただけま すか ? 」 警官は地図を持ってきて、息子がサーフィンをしていた場所と、泊まっていたホテルの場所に マーカーでしるしをつけてくれた。一 彼女は警官が推薦してくれた、町中にある小さなホテルに泊 まることにした。 「私からひとつ、あなたに個人的なお願いがあります」とサカタという初老の警官は別れ際にサ チに言った。「ここカウアイ島では、自然がしばしば人の命を奪います。ごらんのようにここの 自然はまことに美しいものですが、同時に時として荒々しく、致死的なものともなります。私た ちはそういう可能性とともに、ここで生活しています。息子さんのことはとてもお気の毒に思い ます。心から同情します。しかしどうか今回のことで、この私たちの島を恨んだり、憎んだりし ないでいただきたいのです。あなたにしてみれば勝手な言い分に聞こえるかもしれません。しか しそれが私からのお願いです」 サチは頷いた。 ハナレイ・べイ
サチは首を振った。「この季節のノースショアはね、夜がやたら冷えるし、家の中でもセータ ーが必要なくらいなの。野宿なんてしたらまず身体を壊しちゃうよ」 「あの、ハワイって常夏じゃないんですか ? ーと長身が尋ねた。 「ハワイはしつかり北半球にあってね、ちゃんと四季もある。夏は暑いし、冬はそれなりに寒 い」とサチは言った。 「じゃあ、どっか屋根のあるとこに泊まらなくちゃな」とずんぐりが言った。 「あの、おばさん、どっか泊まれるところ、紹介してもらえませんか ? ーと長身が言った。「俺 たち、英語ってほとんどしゃべれないんです」 「ハワイはどこでも日本語が通じるって聞いてきたんだけど、来てみると、ぜんぜん通じないっ すね」とずんぐりが言った。 「あたりまえじゃないーとサチはあきれて言った。「日本語が通じるのは、オアフのそれもワイ キキの一部だけ。日本人が来て、ルイ・ヴィトンだとかシャネルだとか高いものを買っていくか ら、あっちも日本語ができる店員をわざわざ捜してくるの。あるいはハイアットとかシェラトン とかね。そういうところを一歩出たら、あとは英語しか通じない。なにしろアメリカだから。そ んなことも知らないでカウアイまで来たの ? 」 「いや、知りませんでした。ハワイならどこでも日本語が通じるって、うちのおふくろが言って ハナレイ・べイ引
「おばさん、あー、テカシのサーフポード持っていく ? 」と黒髪が言った。「鮫のやつにられ て、ぎざぎざに : : : ふたつに裂けちゃってるけどさ。ディック・プリュワーの古いやつ。警察が 持っていかなかったから、あー、まだそのへんに置いてあると思うけど」 サチは首を振った。そんなもの見たくもない。 「気の毒したね」と金髪がまた同じことを言った。ほかの台詞はとくに思いつけないみたいだっ ( 0 「クールなやつだったね」と黒髪が言った。「オーケーだった。サーフィンの腕もずいぶんよか った。えーと、そうだな、前の晩もいっしょに : : : ここでテキーラ飲んでたんだ。うん」 サチは結局一週間、ハナレイの町に滞在した。いちばんまともそうなコテージを借りて、そこ で簡単に自炊をしながら暮らした。彼女は日本に戻る前に、なんとか自分を取り戻さなくてはな らなかった。ビニール・チェアとサングラスと帽子と日焼けどめクリームを買い、毎日砂浜に座 ってサーファーたちの姿を眺めた。一日に何度か雨が降った。それもたらいをひっくり返したよ うな激しい雨だった。秋のカウアイのノースショアは天候が不安定なのだ。雨が降り出すと車の 中に人って、雨を眺めていた。雨が止むと、またビーチに出て海を眺めた。 それ以来サチは毎年この時期になると、ハナレイの町を訪れるようになった。息子の命日の少 ハナレイ・べイ
て、東京からやって来たのだと言った。眼鏡をかけた白髪まじりの警官が、冷蔵倉庫のような遺 体安置所に彼女を連れて行った。そして片脚を食いちぎられた息子の死体を見せてくれた。右脚 が膝の少し上のところからなくなっていた。断面からは白い骨が痛々しくのぞいていた。それは 疑いの余地なく彼女の息子だった。顔には表情というものがなく、ごく普通にぐっすり眠ってい るように見えた。死んでいるとは思えない。たぶん誰かが表情を整えてくれたのだろう。肩を強 く揺すったら、ぶつぶつ文句を言いながら起き出してきそうに見えた。かって毎朝そうしていた のと同じように。 別室で、その遺体が自分の息子であることを確認する書類にサインをした。息子さんの遺体を どのようになさるおつもりですか、と警官が尋ねた。わからない、と彼女は言ったーー普通の場 合はどのようにするものなのでしよう ? 火葬にして、その灰を持って帰られるのが、こういう 場合のもっとも一般的なやり方です、と警官が言った。遺体をそのまま日本に持って帰られるこ とも可能ではありますが、これは手続きも面倒ですし、お金もかかります。あるいはまたカウア イの墓地に葬ることもできます。警官はそう説明した。 火葬にしてください。遺骨を東京に持って帰ります、とサチは言った。息子はもう死んでしま ったのだ。どのようにしても生き返る見込みはない。灰であろうが骨であろうが遺体であろうが、 何の変わりがあるだろう。彼女は火葬許可申請書にサインをした。そのための費用を支払った。 ハナレイ・べイ