長身はすぐに財布の奥からダイナースクラブの家族カードを出して、コテージのマネージャー に渡した。サチはマネージャーに、どこか安い中古のサーフポードを売っているところはないか と尋ねてみた。マネージャーは店を教えてくれた。ここを出るときにはそれを適当な値段でまた 買い取ってくれる、ということだった。二人は荷物を部屋に置くと、すぐにその店にポードを買 いに行った。 翌日の朝、サチがいつものように砂浜に座って海を眺めていると、その日本人の若い二人組が やってきて、サーフィンを始めた。いかにも頼りなさそうな見かけに比べて、二人のサーフィン の腕は確かだった。力のある波を見つけてそれに素速く乗り、器用にポードをコントロールしな がら、軽々と岸辺近くまでやってきた。それを何時間も飽きもせずに続けていた。波に乗ってい るときの彼らは、とても生き生きとして見えた。目が明るく輝き、自信に満ちていた。弱々しい ところはまったくない。きっと学校の勉強なんかしないで、波乗りに明け暮れているのだろう。 彼女の死んでしまった息子がかってそうであったように。 サチがピアノを弾き始めたのは、高校生になってからだった。ピアニストとしてはずいぶん遅 いスタートということになる。それまではピアノに手を触れたことさえなかった。しかし高校の ハナレイ・べイ
け。アメリカの車ってみんなうすらでかいもんだと思ってたもんで」 「それで、ハナレイに何しに行くの ? 」とサチは車を運転しながら聞いた。 「いちおう、サーフィンとか」と長身が言った。 「ポードは ? 」 「現地調達するつもりですけど」とずんぐりが言った。 「日本からわざわざ持ってくるってのもかったるいし、中古で安いのを買えるって聞いたもんで すから」と長身が言った。 「あの、おばさんもここに旅行に来てんですか ? ーとずんぐりが言った。 「そう」 「一人で ? 」 「そのとおり」とサチはさらりと言った。 「ひょっとして、伝説のサーファーとかじゃないすよね ? 」 「そんなわけないじゃないの」とサチはあきれて言った。「ところであんたたち、ハナレイで泊 まるところは決まってんの ? 」 「いいえ、行けばなんとかなるだろうって思ったから」と長身が言った。 「だめなら浜で野宿すればいいしとか思って」とずんぐりが言った。「俺たちあまり金ないし」 東京奇譚集
「ふうん、あんたでもちゃんと卒業できるんだ ? 」 「ええ、まあ、こう見えていちおうそのへんは押さえてますから」、そして向かいの席に腰をお ろした。 「サーフィンはやめたの ? 」 「たまに週末にやってますが、就職のこともありますし、そろそろ足を洗わないと」 「ひょろひょろの友だちは ? 」 「あいつは超気楽なんですよ。就職の心配ありません。親は赤坂でけっこうでかい洋菓子屋をや ってんです。うちを継いだら買ってくれるんだって。いいっすよね。俺の場合、そうはい きませんから」 彼女は外に目をやった。夏の通り雨が路上を黒く濡らしていた。道路は渋滞して、タクシーが 苛立たしくクラクションを鳴らしていた。 「あそこにいる子は恋人 ? 」 「ええ、ていうか、まだ今のところ発展途上なんですけどーとずんぐりは頭を掻きながら言った。 「けっこうかわいいじゃないの。あんたにはちょっともったいないね。なかなかやらせてもらえ ないんじゃない ? 彼は思わず天井を仰いだ。「相変わらずひでえことを、遠慮なくきつばりと言いますねえ。で ハナレイ・べイ
てしまったのか、いったいどっちなんでしようね ? 自分ではどっちだと思う ? 」 男はそれについてまた少し考えていた。それからウイスキーのグラスを、テープルの上にごっ んという音を立てて置いた。「あのな、レイディー その大きな声を聞きつけて、店のオーナーがやってきた。彼は小柄な男だったが、元海兵隊員 の太い腕をとり、どこかに連れていった。知り合いらしく、男も抵抗はしなかった。ひと言ふた 言、捨てぜりふを残していっただけだった。 「すまなかったね」、少し後でオーナーが戻ってきてサチに詫びた。「ふだんは悪いやつじゃない んだけど、酒が人ると人が変わる。あとでよく注意しておくよ。店からなんかサービスするから、 不快なことは忘れてくれ」 「いいよ、ああいうの慣れてるから」とサチは言った。 「あの男、いったいなんて言ってたんすか ? 」とずんぐりがサチに尋ねた。 「何言ってるのか、ぜんぜんわかんなかったな」と長身が言った。「ジャップってのは聞こえた けど」 「わかんなくていいよ。そんなたいしたことじゃないから」とサチは言った。「ところであんた たち、ハナレイで気楽にサーフィンしまくって楽しかった ? 」 「すげえ楽しかった」とずんぐりが言った。 東京奇譚集
くて、あんたのピアノでしやきっとやってもらいたいんだ。川ドルやるよ」 「 500 でもごめんだわね」とサチは言った。 「そうかいーと男は言った。 「そういうこと」とサチは言った。 「なあ、どうして日本人は自分の国を守るために戦おうとしないんだ ? なんで俺たちがイワク ニくんだりまで行って、あんたらを守ってやらなくちゃならないんだ ? 」 「だからピアノくらい黙って弾けと」 「そういうことだ」と男は言った。そしてテープルの向かいに座っている二人組の方を見た。 「よう、お前らどうせ、役立たずの、頭どんがらのサーファ 1 だろう。ジャップがわざわざハワ ィまで来て、サーフィンなんかして、いったいどうすんだよ。イラクじゃなーーー」 「ひとつあんたに質問があるんだけどーとサチが口をはさんだ。「さっきから頭に、ふつふっと 疑問がわき起こってきててねー 「言ってみなよ」 サチは首をひねって、男の顔をまっすぐ見上げた。「いったいどういう風にしたら、あんたみ たいなタイプの人間ができあがるんだろうって、ずっと考えてたのよ。生まれたときからそうい う性格なのか、それとも人生のどっかで何かしらすごおく不快なことがあって、それでそうなっ ハナレイ・べイ月
った。わがままで、集中力がなく、やりかけたことを成し遂げることができない。真剣な話を避 け、すぐに適当な嘘をつく。勉強はほとんどしなかったから、学校の成績も惨憺たるものだった。 多少なりとも身を人れてやっていたのはサーフィンだけだったが、それだっていつまで続いたか わかったものではない。甘い顔立ちだったから、つきあう女の子には不自由しなかったが、遊ぶ だけ遊んで、飽きると玩具を捨てるみたいにあっさり捨てた。私がたぶんあの子をスポイルして しまったのだろう、と彼女は思う。小遣いも与えすぎたのかもしれない。もっと厳しく育てるべ きだったのかもしれない。でもだからといって、具体的にどのように厳しくすればよかったのか、 彼女にはわからない。仕事が忙しすぎたし、男の子の心理や身体についてまったく知識がなかっ ( 0 彼女がそのレストランでピアノを弾いているときに、サーファー二人組が食事をとるためにや ってきた。彼らがハナレイにやってきてから、六日目になっていた。二人はすっかり日焼けして、 最初に見かけたときよりも心なしかたくましくなっていた。 「へえ、おばさん、ピアノ弾くんだ」とずんぐりが言った。 「すげえうまいっすねえ。プロなんだーと長身が言った。 「遊びよ」とサチは言った。 東京奇譚集
警官は深いため息をついた。「お気の毒です。私どもにできることがありましたら、おっしゃ ってください」 「息子が死んだ場所を教えてください。泊まっていたところも。宿泊費の支払いもあると思いま すので。それからホノルルの日本領事館と連絡をとりたいのですが、電話を使わせていただけま すか ? 」 警官は地図を持ってきて、息子がサーフィンをしていた場所と、泊まっていたホテルの場所に マーカーでしるしをつけてくれた。一 彼女は警官が推薦してくれた、町中にある小さなホテルに泊 まることにした。 「私からひとつ、あなたに個人的なお願いがあります」とサカタという初老の警官は別れ際にサ チに言った。「ここカウアイ島では、自然がしばしば人の命を奪います。ごらんのようにここの 自然はまことに美しいものですが、同時に時として荒々しく、致死的なものともなります。私た ちはそういう可能性とともに、ここで生活しています。息子さんのことはとてもお気の毒に思い ます。心から同情します。しかしどうか今回のことで、この私たちの島を恨んだり、憎んだりし ないでいただきたいのです。あなたにしてみれば勝手な言い分に聞こえるかもしれません。しか しそれが私からのお願いです」 サチは頷いた。 ハナレイ・べイ
サチの息子は十九歳のときに、ハナレイ湾で大きな鮫に襲われて死んだ。正確に言えば、食い 殺されたわけではない。一人で沖に出てサーフィンをしているときに、鮫に右脚を食いちぎられ、 そのショックで溺れ死んだのだ。だから正式な死因は溺死ということになっている。サーフポー ドもほとんどまっ二つに食いちぎられていた。鮫が人を好んで食べることはない。人間の肉の味 はどちらかといえば鮫の嗜好にはあわないのだ。一口齧っても、だいたいの場合がっかりしてそ のまま立ち去ってしまう。だから鮫に襲われても、。ハニックにさえ陥らなければ、片腕や片脚を 失うだけで生還するケースは多い。ただ彼女の息子はあまりにも驚いて、それでおそらくは心臓 発作のようなものを起こし、水を大量に飲んで溺死してしまったわけだ。 サチはホノルルの日本領事館からその知らせを受け、そのまま床に座り込んでしまった。頭の 中ががらんとして、何を考えることもできなかった。ただそこにへたり込んで、目の前の壁の一 点を見つめていた。どれくらいの長いあいだそうしていたのか、彼女にもわからない。しかしょ ハナレイ・べイ
「おばさん、あー、テカシのサーフポード持っていく ? 」と黒髪が言った。「鮫のやつにられ て、ぎざぎざに : : : ふたつに裂けちゃってるけどさ。ディック・プリュワーの古いやつ。警察が 持っていかなかったから、あー、まだそのへんに置いてあると思うけど」 サチは首を振った。そんなもの見たくもない。 「気の毒したね」と金髪がまた同じことを言った。ほかの台詞はとくに思いつけないみたいだっ ( 0 「クールなやつだったね」と黒髪が言った。「オーケーだった。サーフィンの腕もずいぶんよか った。えーと、そうだな、前の晩もいっしょに : : : ここでテキーラ飲んでたんだ。うん」 サチは結局一週間、ハナレイの町に滞在した。いちばんまともそうなコテージを借りて、そこ で簡単に自炊をしながら暮らした。彼女は日本に戻る前に、なんとか自分を取り戻さなくてはな らなかった。ビニール・チェアとサングラスと帽子と日焼けどめクリームを買い、毎日砂浜に座 ってサーファーたちの姿を眺めた。一日に何度か雨が降った。それもたらいをひっくり返したよ うな激しい雨だった。秋のカウアイのノースショアは天候が不安定なのだ。雨が降り出すと車の 中に人って、雨を眺めていた。雨が止むと、またビーチに出て海を眺めた。 それ以来サチは毎年この時期になると、ハナレイの町を訪れるようになった。息子の命日の少 ハナレイ・べイ
た。木の幹にもたれるようにして。ピクニック・テープルがあって、アイアン・ツリーが何本か かたまってあるかげのあたり」 サチは何も言わずにワインをひとくち飲んだ。 「でもさ、どうやって片脚でポードの上に立つんでしようね ? わかんないすよ。両脚でだって ずいぶん大変なんだけどなあ」とずんぐりが言った。 サチはそれから毎日、朝早くから暗くなるまで、長いビーチを何度も往復して歩いた。しかし 片脚のサーファーの姿はどこにもなかった。地元のサーファーたちに「片脚の日本人のサーファ ーを見たことある ? 」と尋ねてまわった。しかし誰もが変な顔をして首を振った。片脚の日本人 のサーファー ? いや、そんなの見かけたことないねえ。もちろん見たら覚えているよ。目立っ もの。でもいったいどうやって片脚でサーフィンやるわけ ? 日本に帰る前の夜、サチは荷造りを済ませてからべッドに人った。ゲッコーの鳴く声が波の音 に混じっていた。気がつくと目から涙がこぼれていた。枕が濡れていることで、初めて自分が泣 いていることに思い当たった。どうして私には息子の姿を目にすることができないのだろう、と 彼女は泣きながら思った。どうしてあの二人のろくでもないサーファーにそれが見えて、自分に は見えないのだろう ? それはどう考えても不公平ではないか ? 彼女は遺体安置所に置かれて いた息子の遺体を思い浮かべた。できることならその肩を思い切り揺すって起こし、大声で問い ハナレイ・べイ乃