っと考えてから手を差し出した。「おばさんもがんばってください」 サチはその手を握った。「あのさ、あんたたち、ハナレイ・べイで鮫に食われなくてほんとに よかったよね」 「あの、あそこって鮫出るんですか。マジに ? 」 「出るよ」とサチは言った。「マジに」 サチは毎晩、田個の象牙色と黒の鍵盤の前に座り、おおむね自動的に指を動かす。そのあいだ ほかのことは何も考えない。ただ音の響きだけが意識を通り過ぎていく。こちら側の戸口から人 ってきて、向こう側の戸口から出ていく。ピアノを弾いていないときには、秋の終わりに三週間 ハナレイに滞在することを考える。打ち寄せる波の音と、アイアン・ツリーのそよぎのことを考 える。貿易風に流される雲、大きく羽を広げて空を舞うアル。ハトロス。そしてそこで彼女を待っ ているはずのもののことを考える。彼女にとって今のところ、それ以外に思いめぐらすべきこと はなにもない。ハナレイ・べイ。 ハナレイ・べイ四
「おばさん、あー、テカシのサーフポード持っていく ? 」と黒髪が言った。「鮫のやつにられ て、ぎざぎざに : : : ふたつに裂けちゃってるけどさ。ディック・プリュワーの古いやつ。警察が 持っていかなかったから、あー、まだそのへんに置いてあると思うけど」 サチは首を振った。そんなもの見たくもない。 「気の毒したね」と金髪がまた同じことを言った。ほかの台詞はとくに思いつけないみたいだっ ( 0 「クールなやつだったね」と黒髪が言った。「オーケーだった。サーフィンの腕もずいぶんよか った。えーと、そうだな、前の晩もいっしょに : : : ここでテキーラ飲んでたんだ。うん」 サチは結局一週間、ハナレイの町に滞在した。いちばんまともそうなコテージを借りて、そこ で簡単に自炊をしながら暮らした。彼女は日本に戻る前に、なんとか自分を取り戻さなくてはな らなかった。ビニール・チェアとサングラスと帽子と日焼けどめクリームを買い、毎日砂浜に座 ってサーファーたちの姿を眺めた。一日に何度か雨が降った。それもたらいをひっくり返したよ うな激しい雨だった。秋のカウアイのノースショアは天候が不安定なのだ。雨が降り出すと車の 中に人って、雨を眺めていた。雨が止むと、またビーチに出て海を眺めた。 それ以来サチは毎年この時期になると、ハナレイの町を訪れるようになった。息子の命日の少 ハナレイ・べイ
ハナレイ・べイ
たから」 「やれやれ」とサチは言った。 「あの、いちばん安いホテルみたいなんでいいんですけど」とずんぐりが言った。「俺たち、ほ ら、お金ないから」 「ハナレイのいちばん安いホテルはね、初心者は。ハスした方がいいよ」とサチは言った。「ちょ っとやばいから」 「どういう風にやばいんすか ? 」と長身が尋ねた。 「主にドラッグ」とサチは言った。「サーファーの中には、たちが悪いのもいるからね。マリフ アナくらいならまだいいけど、アイスなんかが出てくると大変なことになっちゃう 「アイスってなんですか ? 「聞いたことないっすね」と長身が言った。 「あんたたちみたいな、なんにも知らないぼけっとしたのが、そいつらのいいカモになるのよ」 ードなドラッグで、私も詳しい とサチは言った。「アイスってのはね、ハワイに蔓延しているハ ことは知らないけど、覚醒剤の結品みたいなもの。安くて簡単で、いい気持ちになるけど、一回 はまりこんだらあとは死ぬしかない」 「あぶねえ」と長身が言った。 東京奇譚集
け。アメリカの車ってみんなうすらでかいもんだと思ってたもんで」 「それで、ハナレイに何しに行くの ? 」とサチは車を運転しながら聞いた。 「いちおう、サーフィンとか」と長身が言った。 「ポードは ? 」 「現地調達するつもりですけど」とずんぐりが言った。 「日本からわざわざ持ってくるってのもかったるいし、中古で安いのを買えるって聞いたもんで すから」と長身が言った。 「あの、おばさんもここに旅行に来てんですか ? ーとずんぐりが言った。 「そう」 「一人で ? 」 「そのとおり」とサチはさらりと言った。 「ひょっとして、伝説のサーファーとかじゃないすよね ? 」 「そんなわけないじゃないの」とサチはあきれて言った。「ところであんたたち、ハナレイで泊 まるところは決まってんの ? 」 「いいえ、行けばなんとかなるだろうって思ったから」と長身が言った。 「だめなら浜で野宿すればいいしとか思って」とずんぐりが言った。「俺たちあまり金ないし」 東京奇譚集
「あのー、マリファナなんかはやってもいいんすか ? 」とずんぐりが聞いた。 「いいかどうかは知らないけど、マリファナじや人は死なないからねーとサチは言った。「煙草 で人は確実に死んでいくけど、マリファナじゃなかなか死なない。ただちょっと。ハアになるだけ。 まああんたたちなら、今とそれほど変わりないと思うけど 「ひどいこと言いますねえ」とずんぐりが言った。 「おばさん、ひょっとしてダンカイでしよう ? 」と長身が言った。 「なに、ダンカイって ? 」 「団塊の世代」 「なんの世代でもない。私は私として生きているだけ。簡単にひとくくりにしないでほしいな」 「ほらね、そういうとこ、やつばダンカイっすよ」とずんぐりが言った。「すぐにムキになると こなんか、うちの母親そっくりだもんな」 「言っとくけど、あんたのろくでもない母親といっしょにされたくないわねーとサチは言った。 「とにかく、ハナレイではなるたけまともなところに泊まった方がいいよ。その方が身のためだ から。殺人みたいなことも、ないわけじゃないんだし 「平和な。ハラダイスっていうんでもないんだ」とずんぐりが言った。 「ああ、もうエルヴィスの時代とは違うからね」とサチは言った。 ハナレイ・べイ
偶然の旅人 ハナレイ・べイ どこであれそれが見つかりそうな場所で 日々移動する腎臓のかたちをした石 121
「そりや、日本人だもの」とサチは言った。「どこまで行くの ? 」 「ハナレイってところなんですけど」と背の高い方が言った。 「乗っていく ? ちょうどそこまで帰るところだから」とサチは言った。 「助かります」とずんぐりした方が言った。 彼らは荷物をト一フンクに人れ、それからネオンの後部座席に二人で座ろうとした。 「あのね、二人で揃って後ろに座られても困るんだけどーとサチは言った。「タクシーじゃない んだから、一人は前に乗ってちょうだい。それが礼儀ってもんよ 結局背の高い方がおそるおそる助手席に座ることになった。 「これ、なんていう車ですか ? ーと長身が長い脚を苦労して折りたたみながら尋ねた。 「ダッジ・ネオン。クライスラーが作ってる」とサチは言った。 「へえ、アメリカにもこんな狭苦しい車があるんだ。うちの姉貴がカローラに乗ってますけど、 あっちの方がむしろ広いですね」 「アメリカ人がみんな、でかいキャデイラックに乗ってるわけじゃないからね」 「でも小せえなあ 「気に人らなきやここで降りてもいいよ」とサチは言った。 「いや、そんなつもりで言ったんじゃないっすよ。参ったな。ただ狭いんで、ちょっと驚いただ ハナレイ・べイ
サチの息子は十九歳のときに、ハナレイ湾で大きな鮫に襲われて死んだ。正確に言えば、食い 殺されたわけではない。一人で沖に出てサーフィンをしているときに、鮫に右脚を食いちぎられ、 そのショックで溺れ死んだのだ。だから正式な死因は溺死ということになっている。サーフポー ドもほとんどまっ二つに食いちぎられていた。鮫が人を好んで食べることはない。人間の肉の味 はどちらかといえば鮫の嗜好にはあわないのだ。一口齧っても、だいたいの場合がっかりしてそ のまま立ち去ってしまう。だから鮫に襲われても、。ハニックにさえ陥らなければ、片腕や片脚を 失うだけで生還するケースは多い。ただ彼女の息子はあまりにも驚いて、それでおそらくは心臓 発作のようなものを起こし、水を大量に飲んで溺死してしまったわけだ。 サチはホノルルの日本領事館からその知らせを受け、そのまま床に座り込んでしまった。頭の 中ががらんとして、何を考えることもできなかった。ただそこにへたり込んで、目の前の壁の一 点を見つめていた。どれくらいの長いあいだそうしていたのか、彼女にもわからない。しかしょ ハナレイ・べイ
やってきて代理をつとめた。 ハナレイでもサチはときどきピアノを弾いた。あるレストランに小型のグランド・ピアノが置 いてあり、週末になると五十代半ばの、もやしみたいな体型のピアニストがやってきて演奏した。 ー・ハワイ』といったような人畜無害な音楽を主に演奏した。とくに腕 『バリハイ』とか『ブル のいいピアニストではなかったが、人柄は温かかったし、その温かみは演奏にもにじみ出ていた。 サチはそのピアニストと親しくなり、ときどき彼のかわりにピアノを弾かせてもらった。もちろ ん飛び人りだからギャラは出なかったけれど、店の主人はワインと。ハスタ料理をサービスに出し てくれた。彼女はピアノを弾くこと自体が好きだったのだ。鍵盤の上に十本の指を置くだけで、 気持ちが広々とした。それは才能のあるなしに関係のないことだ。役に立っとか立たないとかの 問題でもない。私の息子もたぶん波に乗りながら、同じような思いを抱いていたのかもしれない、 とサチは想像する。 しかし正直なことを言えば、サチは自分の息子を、人間としてはあまり好きになれなかった。 もちろん愛してはいた。世の中のほかの誰よりも大事に思ってはいた。しかし人間的にはーーそ どうしても好意が持てなかった。 れを自分で認めるまでにはずいぶん時間がかかったのだが もしあの子が血をわけた自分の息子でなかったら、まず近寄りもしないのではないかとサチは思 ハナレイ・べイ矼