彼は思った。半年後に決めることにしよう。 その半年のあいだに、彼は集中的に多くの短編小説を書いた。そして机に向かって文章を推敲 しながら、キリエは今ごろたぶん風と一緒に高いところにいるのだと思った。僕がこうして机に 向かって一人で小説を書いているあいだ、彼女は誰よりも高いところに一人きりでいるのだ。命 綱をはずして。一度その集中の中に人ってしまえば、そこには恐怖はありません。ただ私と風が あるだけです。淳平はよく彼女のその言葉を思い出した。そして淳平は自分がキリエに、ほかの 女性に対しては一度も感じたことのない、とくべつな感情を抱くようになっていることに気づい た。明瞭な輪郭を持ち、手応えをそなえた、奥行きの深い感情だった。その感情にどのような名 前をつければいいのか、淳平にはまだわからない。しかし少なくとも、ほかの何かと取り替える ことのできない思いだ。もう二度とキリエに会えないとしても、この思いはいつまでも彼の心に、 あるいは骨の髄のような場所に残ることだろう。彼は身体のどこかでキリエの欠落を感じ続ける ことだろう。 その年が終わりに近づくころ、淳平は心を決めた。彼女を二人目にしよう。キリエは彼にとっ て「本当に意味を持つ」女性の一人だったのだ。ストライク・ツー。残りはあと一人ということ になる。しかし彼の中にはもう恐怖はない。大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意 味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する。そ 日々移動する腎臓のかたちをした石 155
し前にやってきて、三週間ばかり滞在した。やってくると、毎日ビニール・チェアを持って海岸 に行き、サーファーたちの姿を眺める。そのほかにはとくに何もしない。一日ただビーチに座っ ているだけ。それがもう十年以上続いている。同じコテージの同じ部屋に泊まり、同じレストラ ンで一人で本を読みながら食事をする。それを毎年、判で押したように続けているうちに、親し く話をする相手も何人かできた。小さな町だから、今では多くの人がサチの顔を覚えている。こ の近くで鮫に子供を殺された日本人のマム、として彼女は知られている。 その日、具合のよくないレンタカーを取り替えてもらいにリフェ空港まで行った帰り、途中に ある力。ハアという町で、ヒッチハイクをしている日本人の若者二人を見かけた。彼らは大きなス ポーツ。ハッグを肩から下げて、「オノ・ファミリー・レストラン」の前に立ち、頼りなさそうに 車に向かって親指を上げていた。一人は背が高くひょろひょろして、もう一人はずんぐりしてい た。どちらも茶色に染めた髪を肩まで伸ばし、くたびれた e シャツにだらんとしたショーツ、サ ンダルというかっこうだ。サチはそのまま通り過ぎたが、しばらく進んでから思い直し、方向転 換して戻った。 「どこまで行くの ? 」と彼女は窓を開けて日本語でたずねた。 「あ、日本語しゃべれるんだ」と背の高い方が言った。 東京奇譚集
「寮は原則的に二人部屋ですが、高等部の三年生になると、一年間だけ特権として一人部屋がも らえます。その出来事があったのは、私が一人部屋にいるときのことでした。私は最上級生でし たので、そのとき寮生代表のような役についていました。寮の玄関には名札をかけておくボード があり、私たち寮生は一人ひとり自分の名札をもっています。名札の表には黒い字で、裏は赤い 字で、自分の名前が書いてあります。外出するときには必ずその名札を裏返します。帰ってきた らもとに戻します。つまり名札の黒い字で書かれた面が出ていればその人は寮にいるし、赤い字 で書かれた面が出ていれば外出しているということになります。そして外泊したり、休暇で長期 的に留守にするときなんかは、その名札をはずしておきます。玄関の受付は寮生が交代で当番を 務めるのですが、外から電話がかかってきたときなんか、名札を見ればその人が寮の中に今いる かいないか一目でわかるので、なかなか便利なシステムです」 カウンセ一フーは励ますように小さく相づちを打った。 「十月のことです。夕食前に私が部屋で翌日の予習をしていると、松中優子という二年生の子が 訪ねてきました。みんなにはユッコと呼ばれていました。私たちの寮の中では間違いなくいちば ん美人でした。色白で、髪が長く、目鼻立ちはまるでお人形みたいでした。親はたしか金沢で老 舗旅館の経営をしていました。お金持ちです。一学年下だったので、詳しいことは知りませんが、 成績もかなり上の方だったと聞いています。つまりすごく目立っ子だったんです。彼女に憧れて 東京奇譚集 176
「そこが母の母校だったんです。彼女はその学校のことがとても好きで、娘の一人はそこに入れ たいと希望していました。それに私にも、両親とはべつに暮らしてみたいという気持ちがいくら かありました。ミッション系でしたが、わりにリべラルな校風の学校でしたし、そこで親しい友 だちも何人かできました。みんな地方から来ている子たちです。私の場合と同じように、やはり 母親が卒業生だという人がたくさんいました。おおむね楽しく六年間をそこで過ごすことができ たと思います。毎日の食事にはちょっと苦労しましたが」 カウンセ一フーは徴笑んだ。「たしかお姉さんが一人いたって言ってたわよね ? 」 「はい、二歳上です。二人姉妹です」 「お姉さんはその横浜の学校には行かなかったの ? 」 「姉は地元の学校に行きました。そのあいだもちろん、ずっと親元にいました。姉は積極的に外 に出て行くというタイプじゃないんです。体も小さい頃からちょっと弱かったし : : 。だから母 としては妹の私に、その学校に人ってもらいたかったんです。私は基本的に健康でしたし、自立 心も姉よりは強い方でしたから。それで小学校を出るときに、横浜の学校に行く気はないかとき かれて、行ってもいいよと私は答えました。週末ごとに新幹線でうちに帰って来るというのも、 そのときはなんとなく楽しそうに思えたし」 「ロをはさんでごめんなさいね」、カウンセラーはそう言って徴笑んだ。「どうぞ話を続けて」 ロロ 175
「そりや、日本人だもの」とサチは言った。「どこまで行くの ? 」 「ハナレイってところなんですけど」と背の高い方が言った。 「乗っていく ? ちょうどそこまで帰るところだから」とサチは言った。 「助かります」とずんぐりした方が言った。 彼らは荷物をト一フンクに人れ、それからネオンの後部座席に二人で座ろうとした。 「あのね、二人で揃って後ろに座られても困るんだけどーとサチは言った。「タクシーじゃない んだから、一人は前に乗ってちょうだい。それが礼儀ってもんよ 結局背の高い方がおそるおそる助手席に座ることになった。 「これ、なんていう車ですか ? ーと長身が長い脚を苦労して折りたたみながら尋ねた。 「ダッジ・ネオン。クライスラーが作ってる」とサチは言った。 「へえ、アメリカにもこんな狭苦しい車があるんだ。うちの姉貴がカローラに乗ってますけど、 あっちの方がむしろ広いですね」 「アメリカ人がみんな、でかいキャデイラックに乗ってるわけじゃないからね」 「でも小せえなあ 「気に人らなきやここで降りてもいいよ」とサチは言った。 「いや、そんなつもりで言ったんじゃないっすよ。参ったな。ただ狭いんで、ちょっと驚いただ ハナレイ・べイ
ま一切の交際を絶っていたが、父親の持ち出した「三人の女」説だけは、根拠の十分な説明も与 えられないまま、一種の強迫観念となって彼の人生につきまとっていた。同性愛に進むべきなの かもなと、冗談半分に考えたことさえあった。そうすれば、このろくでもないカウントダウンか ら逃れることができるかもしれない。しかし幸か不幸か、淳平は女性にしか性的な関心を持てな かった。 あとでわかったことだけれど、そのときに知り合った女性は、彼より年上だった。三十六歳。 淳平は三十一歳だ。恵比寿から代官山に向かう道筋に、知人が小さなフレンチ・レストランを開 店して、そのオープニング・ 。ハーティーに招待されたのだ。一 彼はペリー・エリスの濃紺の絹のシ ャツの上に、同じ色合いの夏物のジャケットを着ていた。そこで落ち合うことになっていた親し い友人が急に来られなくなったので、彼はどちらかというと時間を持て余していた。ウェイティ ーのスツールに一人で腰掛け、大振りなグ一フスで時間をかけてポルドー・ワインを飲ん でいた。そろそろ引き上げようと思い、あいさつをするためにレストランのオーナーの姿を目で 探しかけたときに、一人の背の高い女性が、名前のわからない紫色のカクテルを手に、彼の方に 近づいてきた。とても姿勢がいい、というのが彼女の第一印象だった。 「あなたは小説家だってあっちで聞いたんだけど、本当 ? 」、彼女はバーのカウンターに肘を置 東京奇譚集
エレベーターで下に降ります。そしてロビーで待ち合わせます。うちに帰るときは、私が先にエ レベーターで上がります。あとから夫がやってきます。ヒールのある靴で長い階段を上下するの は危険ですし、身体にもよくありません」 「そうでしようね」 しばらく一人で調べものをしたいのだが、管理人にひとこと断っておいてもらえないだろうか、 と私は彼女に言った。幻階と階のあいだの階段部分をうろうろしているのは、保険関係の調査 をしている人間だとでも言っておいてください。空き巣ねらいかと疑われて、警察に通報された りすると、私としてはいささか困ったことになる。私には立場と呼べるほどのものがないからだ。 言っておく、と彼女は言った。そしてハイヒールの音を攻撃的に響かせながら、階段を上って消 えていった。一 彼女の姿が見えなくなったあとも、そのヒールの音は不吉な布告を打ちつける釘み たいな感じであたりに響いていたが、やがてそれも消え、沈黙がやってきた。私は一人になった。 私は % 階と幻階のあいだの階段を三度、歩いて往復した。最初は普通に人が歩くくらいの速度 で。あとの二回はゆっくりと、注意深くあたりを観察しながら。私は意識を集中し、どんな些細 なものごとも見落とさないように心がけた。ほとんど瞬きもしなかったくらいだ。すべての出来 事はあとにしるしを残していく。そのしるしを見つけだすのが私のひとまずの仕事だ。しかし階 どこであれそれが見つかりそうな場所で
荒れた庭があり、髪の長い半裸の若い白人が二人、キャンバス・チェアに座ってビールを飲んで いた。ローリング・ロックの緑の瓶が、足元の雑草の中に何本か転がっていた。一人は金髪で一 人は黒髪だったが、それをべつにすれば二人とも同じような顔つき、同じような背格好だった。 どちらも両腕に派手ないれずみを人れていた。マリファナの匂いもかすかにした。犬の糞の匂い がそこに混じっていた。サチが近づいていくと、彼らは警戒の目で彼女を見た。 「このホテルに泊まっていた私の息子が、三日前に鮫に襲われて死んだの」とサチは説明した。 二人は顔を見合わせた。「それ、テカシのことかい ? 」 「そう、テカシのことーとサチは言った。 「クールなやつだった」と金髪の方が言った。「気の毒したね」 「あの日の朝、えーと、亀がたくさん湾に人ってきてたんだ」と黒髪が弛緩した声で説明した。 「亀を追って鮫が人ってきた。あー、ふだんはあいつらサーファーを襲わないんだよ。俺たち、 鮫とけっこう仲良くやってる。でもさ : 、うーん、まあ、鮫にもいろいろあるからさ」 ホテルの宿泊費を支払いに来たのだと彼女は言った。たぶん未払いのぶんがあると思うから。 金髪が顔をしかめて、ビール瓶を空中でひらひらと振った。「ねえ、おばさん、あんたよくわ かってない。ここは前払いでしか客を泊めないんだ。何しろ貧乏サーファー相手の安ホテルだか らさ、未払い料金なんてものはあり得ない」 東京奇譚集
あとになって、いくつかの疑問が年若い息子の頭に浮かんだ。「父親は三人の女に既に巡り会 ったのだろうか ? 母親はそのうちの一人なのか ? だとしたら、あとの二人とのあいだにはい ったい何が起こったのか ? 」。でも父親にそんな質問はできなかった。最初の話に戻るが、二人 は腹を割って話をするような親密なあいだがらにはなかったからだ。 十八歳のときに家を離れ、東京の大学に人り、それ以来何人かの女性と知り合い、つきあうこ とになった。そのうちの一人は淳平にとって「本当に意味を持つ」女性だった。そのことに彼は 確信を抱いていたし、現在でもやはり同じように確信を抱いている。でも彼女は、淳平がその思 いを具体的なかたちにして持ち出す前に ( 何かを具体的なかたちにするまでに人より時間がかか る性格なのだ ) 、彼のいちばんの親友と結婚してしまった。今ではもう母親になっている。だか ら彼女は、人生の選択肢からひとまず除外されなくてはならなかった。心を固め、その存在を頭 から追い払わなくてはならなかった。その結果彼の人生に残された「本当に意味を持つ」女性の 数はーーーもし父親の説をそのまま受け人れるならということだがーーあと二人になった。 淳平は新しい女性と知り合うたびに、自らに問いかけることになった。この女は自分にとって 本当に意味を持っ相手なのだろうか、と。そしてその問いかけは常に、ひとつのジレンマを呼び 起こした。つまり彼は、出会った相手が「本当に意味を持っー女性であってほしいと期待しつつ ( そう期待しない人間がどこにいるだろう ? ) 、同時にまた、限られた数のカードを人生の早い段 東京奇譚集
呂あわせのような名前を名乗らなくてはならない状況だって起こり得たのだから ( 彼女は短いあ いだではあるけれど、実際に三木という名字の男性と交際していたことがある ) 、それに比べれ ば「安藤みずき」はまだ上出来の部類ではないか、と思った。そして彼女は徐々にではあるけれ ど、その新しい名前を自分自身のものとして受け人れていった。 しかし一年前から、その名前は突然逃げ出し始めた。最初は一ヶ月に一度くらいだったが、日 を追うにつれ頻度が増してきた。今では少なくとも週に一度はそれが起こる。「安藤みずき」と いう名前がいったん逃げ出してしまうと、彼女は誰でもない「名前のない一人の女」として世の 中に取り残されることになった。財布があるうちはいい。それを出して免許証を見れば、自分の 名前はわかる。しかしもし財布をなくしてしまったら、もう自分がどこの誰だか見当もっかない ということになってしまうかもしれない。もちろん名前を一時的に失っても、彼女は彼女として そこにあるわけだし、自宅の住所も電話番号も覚えているから、存在がまったくのゼロになると いうわけではない。映画に出てくるような全面的な記憶喪失とは話が違う。しかし自分の名前が 思い出せないというのは、やはりおそろしく不便であり、不安なことだった。名前を失った人生 は、まるで覚醒の手がかりを失った夢みたいに感じられる。 彼女は宝飾店に行って、細くてシンプルな銀製のプレスレットを買い求め、そこに名前を彫っ てもらった。「安藤 ( 大沢 ) みずき」という自分の名前を。住所も、電話番号もなし。ただ名前 猿 161 ロロ