仕事 - みる会図書館


検索対象: 東京奇譚集
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1. 東京奇譚集

自分の名前が頭から消えてしまうというのは、ひょっとして何か重大な病気の徴候のひとつな のかもしれないーーそう思うとみずきは落ち着かない気持ちになった。たとえばアルッハイマー 症の可能性もある。それから世の中には、思いもよらないような、複雑にして致死的な病気が存 在する。たとえば筋無力症とカノ ゝ、、ンティントン舞踏病とかいった難病の存在を、彼女はついこ のあいだまで知らなかった。そのほかにも彼女が耳にしたこともないような特殊な病気が、世の 中にたぶん数多くあるはずだ。そしてそれらの病の最初の徴候はおおかたの場合、きわめて些細 な「大沢さん」とか「大沢くん」とか「みずきさん」とか「みずきちゃん」とか呼ぶ。彼女も電 話がかかってくると「はい、ホンダブリモ * * 店の大沢ですーと名乗る。しかしそれは彼女が 「安藤みずき」という名前を拒否しているからではない。彼女はただ、みんなに事情を説明する のが面倒だから、結婚前の姓をずるずると使い続けているだけなのだ。 彼女が仕事場で旧姓を使い続けていることは夫も承知していたが ( たまに仕事場に電話をかけ てくることがあったから ) 、そのことでとくに異論は唱えなかった。彼女が自分の職場でどんな 名前を使おうと、それはあくまで彼女にとっての便宜的な問題に過ぎないと考えているようだっ た。いちおう理屈が通っていれば、うるさいことは言わない。そういうところは楽と言えば楽で ある。 猿 165 ロロ

2. 東京奇譚集

ンを飲み、淳平の部屋でセックスをし、一緒に眠った。朝になると、また同じように彼女の姿は 消えていた。日曜日だったが、やはり「仕事があるので、消えます」という簡潔なメモが残され ていた。キリエがどのような仕事をしているのか、淳平にはまだわからない。しかし朝早くから 始まる仕事に就いていることは確かだった。そして彼女はーーー少なくとも場合によってはーー日 曜日にも働くのだ。 二人は話題には不自由しなかった。キリエは頭が切れたし、話がうまかった。話題も豊富だっ た。彼女はどちらかと言えば、小説以外の本を読むのが好きだった。伝記や、歴史や、心理学や、 一般的な読者のために書かれた科学書なんかを好んで読んだ。そしてそのような分野の知識を、 キリエは驚くほど豊富に持っていた。あるときには、彼女がプレハプ住宅の歴史についてのあま りにも精密な知識を持っていることに、淳平は驚かされた。プレハプ住宅 ? ひょっとして君は 建築関係の仕事をしているの ? ノー、と彼女は言った。「私は何によらず、とても実際的なこ とに興味を惹かれるの。それだけ」と彼女は言った。 しかし彼女は淳平が出版した二冊の短編小説集を読んで、とてもすばらしいと言った。予想し ていたより遥かに面白かった、と。 「実はひそかに心配していたの」と彼女は言った。「あなたの書いた本を読んでみてぜんぜん面 白くなかったら、どうしよう。なんて言えばいいんだろうって。でも心配することなんかなかっ 日々移動する腎臓のかたちをした石

3. 東京奇譚集

「ねえ、少し音を大きくしてくれないかな」と淳平は言った。 「いいですよ」と運転手は言った。 それは放送局のスタジオの中でのインタビューだった。女性アナウンサーが彼女に質問をして いた。 「ーーそれで、小さいころからやはり高い場所がお好きだったんですか ? 」とアナウンサーが尋 ねた。 「そうですね」とキリエはーー・・あるいは彼女にそっくりの声の女はー・・ー答えた。「物心ついたこ ろから、高いところに上るのが好きでした。高ければ高いほど、安らいだ気持ちになれたんです。 それでいつも高いビルに連れていってくれと、両親にせがんでいました。妙な子供だったんで すー ( 笑い ) 「それで結局、こういうお仕事を始められたわけですね ? 」 「最初は証券会社でアナリストみたいなことをやっていたんです。でもそういう仕事が自分に向 かないんだってよくわかりました。だから三年ほどで退社して、最初はビルの窓ふきの仕事をし ていました。本当は建築現場で鳶職みたいなことをやりたかったんですが、そういうところはマ ッチョな世界で、簡単に女性を受け人れてはくれません。だからとりあえず窓ふきのアル。ハイト から始めたわけです」 東京奇譚集 150

4. 東京奇譚集

そこで二人はお互いの年齢を教え合った。彼女は自分が年上であることをまったく気にしてい ないようだった。淳平も気にしなかった。彼はどちらかというと、若い娘よりは成熟した女性の 方が好みだった。それに多くの場合、別れるときも相手が年上である方が楽だった。 「どんな仕事をしているの ? ーと淳平は尋ねた。 キリエは唇を一直線に結び、はじめて生真面目な顔をした。「さて。私はどんな仕事をしてい るように見える ? 淳平はグラスを揺すって、赤ワインをひと巡りさせた。「ヒントは ? 」 「ヒントはなし。むずかしいかしら ? でも、観察して判断するのがあなたの仕事でしよう ? 」 「それは違うね。観察して、観察して、更に観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、 正しい小説家のあり方なんだ」 「なるほど」と彼女は言った。「じゃあ観察して、観察して、更に観察して、想像してみて。そ れならあなたの職業倫理に抵触しないでしよう」 淳平は顔を上げ、相手の顔をあらためて注意深く眺めた。そこに浮かんでいる秘密のサインを 読み取ろうとした。彼女は淳平の目をまっすぐにのぞき込み、彼も相手の目をまっすぐにのぞき 込んだ。 「根拠のない想像に過ぎないけれど、何か専門職のようなことをしているんじゃないかな」、少 日々移動する腎臓のかたちをした石川

5. 東京奇譚集

ーカーがすとんと下りたみたいに、頭の中が空白になってしまう。名前がどうやっても出てこな い。手がかりを求めれば求めるほど、彼女はその輪郭のない空白に呑み込まれていく。 思い出せなくなるのは、自分の名前に限られていた。まわりの人の名前を忘れることはまずな い。自分の住所も、電話番号も、誕生日も、。ハスポート番号だって、忘れない。親しい友人の電 話番号や、大事な仕事関係の電話番号は、ほとんどぜんぶそらで言える。記憶力は昔から悪くな いほうだった。思い出せなくなるのは、ただ自分の名前だけなのだ。名前忘れが始まったのは一 年ばかり前からだが、それ以前にはそんな経験をしたことは一度もなかった。 彼女の名前は「安藤みずきーだった。結婚前の名前は「大沢みずき」。どちらもとくに独創的 な名前とも言えないし、ドラマティックな名前とも言えない。しかし、だからといって、慌ただ しい日常に紛れて記憶からついこぼれおちてしまうのもまあ仕方あるまい、ということにはもち ろんならない。なにしろそれは、ほかならぬ自分の名前なのだから。 彼女が「安藤みずきーになったのは、三年前の春のことだ。彼女は「安藤隆史ーという名前の 男性と結婚して、その結果、安藤みずきと名乗るようになった。最初のうちは安藤みずきという 名前にうまく馴染めなかった。字面も音の響きも、いささか落ち着きが悪いように感じられた。 しかし何度も口にし、繰り返し署名をしているうちに、安藤みずきもそれほど悪くないなと、だ んだん思えるようになってきた。たとえば「水木みずきーとか「三木みずきーとか、そういう語 東京奇譚集

6. 東京奇譚集

「そのとおり」 「そのようなリスクを避けるために、誰とも生活はともにしない」 彼女は頷いた。「少なくとも今の職業に就いている限りは」 「でも君は、それがどんな職業なのか、僕に教えてはくれないんだ ? 」 「あててごらんなさいよ」 「泥棒ーと淳平は言った。 「ノー」とキリエは真顔で答えた。それから楽しそうに顔を崩す。「魅力的な推測ではあるけれ ど、泥棒は朝から働かない」 「ヒット・マン 「ヒット・ 。ハーソン」と彼女は訂正した。「いずれにせよ、ノー かり思いつくわけ ? 」 「それは法律の枠内にある仕事なんだね ? 」 「そのとおり」と彼女は言う。「それはまさに法律の枠内においておこなわれる」 「秘密捜査官 ? 」 「ノー」と彼女は言う。「その話は今日はもうそれでおしまい。それより、淳平くんの仕事の話 が聞きたいな。あなたが今書いている小説の話をしてくれる ? 何か書いているんでしょ ? 」 東京奇譚集 。どうしてそんなひどいことば

7. 東京奇譚集

産関係の職についており、仕事の都合上カミングアウトができない。だから二人は別々に暮らし ている。調律師ではあるけれど、音楽大学のピアノ科を出ているし、ピアノの腕も捨てたもので はない。ドビッシーや一フヴェルやエリック・サティーといったフランス音楽をなかなか上手に、 味わい深く弾く。彼がいちばん愛好しているのはフランシス・プーランクの曲だ。 「プーランクはゲイでした。そして自分がゲイであることを、世間に隠そうとはしませんでし た」と彼はあるとき言った。「当時としてはそれは、なかなかできないことだったんです。彼は またこんな風に言っています。『私の音楽は、私がホモ・セクシュアルであることを抜きにして は成立しない』と。彼の言わんとするところはよくわかります。つまりプーランクは、自分の音 楽に対して誠実であろうとすれば、自分がホモ・セクシュアルであることに対しても、同じよう に誠実でなくてはならなかったのです。音楽とはそういうものですし、生き方とはそういうもの です」 僕もプーランクの音楽は昔から好きだ。だから彼がうちの古いピアノを調律に来たときには、 仕事が終わったあとで、プーランクの小品を何曲か演奏してもらうことがある。『フランス組曲』 とか『。ハスト一フル』とか 自分がゲイであるという事実を彼が「発見した」のは、音楽大学に人ってからだった。その可 ノサムだったし、育ち 能性について考慮したことは、それまで一度もなかったということだ。ハ、 偶然の旅人

8. 東京奇譚集

ンセ一フーは言った。「だけど症状が一年ほどのあいだに少しずつ進行しているというのは、なん となく気になるわよね。たしかにそれが何かの引き金になって、もっと別の症状が出てくる、あ : という可能性はあるかもしれない。だからゆ るいは記憶欠損の部位がほかにも広がっていく : つくりお話し合いをして、今のうちにその出どころのようなものを見つけておいた方がいいと思 うの。それに外に出てお仕事をしてらっしやるわけだし、自分の名前が思い出せないとなると、 現実的な不便も多いでしようしね」 坂木というカウンセラーはまず最初に、みずきが現在送っている生活について、基本的ないく つかの質問をした。結婚して何年になるか ? 職場ではどういった仕事をしているのか ? 体調 はどんな具合か ? それから子供時代のあれこれについて尋ねた。家族構成について、学校での 生活について。楽しかったこと、あまり楽しくなかったこと。得意だったこと、あまり得意では なかったこと。みずきはひとつひとつの質問にできるだけ正直に、手早く、正確に答えていった。 育ったのはごく当たり前の家庭。父親は大手の生命保険会社に勤めていた。とりたてて裕福な わけではなかったが、それでも金銭のことで苦労をした記憶はない。両親と姉が一人。父親は真 面目一方の人で、母親はどちらかと言えば性格が細かく、ロうるさかった。姉は優等生タイプだ が、 ( みずきに言わせれば ) 人格にいささか浅薄で功利的なところがある。しかし家族とはこれ までとくに問題もなく、まずまず良好な関係を保ってきたと思う。大きないさかいを起こしたこ 東京奇譚集 170

9. 東京奇譚集

くてはならなかった。勝手に値引きをしたり、下取り価格を上下したり、オプションをサービス 彼女が話の大半をまとめても、セールス担 したりする権限は彼女には与えられていないからだ。一 当者が最後に出てきて、コミッションをもっていく。彼女の報賞といえば、せいぜいその棚ぼた の担当者から個人的にディナーをごちそうしてもらうくらいのものだ。 私にセールスを任せてくれれば、もっとたくさん車が売れるし、営業所全体の成績だって今よ りは上がるはずなのに、と彼女はときどき思う。本気を出せば、大学を出たばかりの若いセール スマンの倍くらいは売り上げられるはずだ。しかし誰も「君はなかなかセールスの素質がある。 書類の整理や、電話番をさせておくのはもったいない。これからはセールスにまわってくれない か」と声をかけてはくれない。それが会社というシステムのあり方なのだ。セールスはセールス、 事務職は事務職。一度決まった職掌の枠組みは、余程のことがなければ崩れない。それに彼女の 方にも、仕事の領域を広げて、意欲的にキャリアを積み上げていきたいという願望はなかった。 それよりは決められた仕事を九時から五時までこなし、年次有給休暇も余さずにとり、プライベ ートな生活をゆっくり楽しむという方が性格にあっていた。 彼女は勤務先ではいまだに結婚前の名前を使い続けている。顔見知りの顧客や取引先の人々に いちいち改姓の理由を言ってまわるのが面倒だというのが、いちばん大きな理由だった。名刺に も、胸につける名札にも、タイムカードにも、「大沢みずき」という名前が記されている。みん 東京奇譚集

10. 東京奇譚集

生と一年生の女の子 ) 、日常生活の中では読書にあてる時間をみつけるのがむずかしい。しかし たまにこういう風に場所を変え、暇をつくって本を読むようにしている。普段つきあう相手は子 供の同級生の母親たちだが、そこで出る話題といえばテレビ番組か教師の悪口くらいで、なかな か共通の話題が持てない。だから地域の読書クラブに人っている。夫も昔はけっこう熱心に小説 を読んだのだが、最近では商社の仕事があまりにも忙しくて、経済の専門書を手に取るのがやっ とだ。 彼も自分の話を簡単にした。ピアノの調律の仕事をしていること。多摩川の向こう側に住んで いること。独身であること。このカフェが気に人っているので、毎週わざわざここまで車に乗っ て読書をしに来ること。ゲイであることまでは言わなかった。あえて隠すつもりはないが、あた りかまわず言いふらすようなことでもない。 彼らはモールの中にあるレスト一フンで、一緒に昼食をとった。彼女は構えたところのない、素 直な性格の女性だった。いったん緊張がとれると、よく笑った。それほど声の大きくない、自然 な笑いだ。彼女がこれまでどのような人生をたどってきたのか、いちいち説明を聞かなくてもお およそ想像はついた。世田谷あたりの比較的裕福な家庭で大事に育てられ、悪くない大学に進み、 成績は常に上位で、人気もあり ( 男友だちよりは、女友だちのあいだでより人気があったかもし れない ) 、生活力のある三歳ほど年上の男と結婚し、女の子を二人生んだ。子供たちは私立校に 東京奇譚集