き、ウェイトレスを呼んでコーヒーのおかわりを注文し、店の外にある洗面所に行って戻ってき た。席に戻ると、隣のテープルで同じように静かに本を読んでいた女性が、彼に声をかけてきた。 「すみません。ちょっとお尋ねしてよろしいでしようか ? 」 彼は口元にいくぶん曖昧な徴笑みを浮かべて相手を見た。年齢はたぶん彼と同じくらいだろう。 「いいですよ、どうぞ」 「こんな風に声をおかけするのは失礼かとは思ったんですが、さっきからちょっと気になってい ることがありまして」、そう言って彼女は少し赤くなった。 「かまいませんよ。どうせ暇ですから、ご遠慮なく 「あの、今お読みになっておられるご本なんですが、それはひょっとしてディッケンズじゃあり ませんか ? 」 「そうですよ」、彼は本を手にとって彼女の方に向けた。「チャールズ・ディッケンズの『荒涼 館』です」 「やつばり」とその女性はほっとしたように言った。「表紙をちらっと拝見して、ひょっとして そうじゃないかなと思っていたんです」 「あなたも『荒涼館』がお好きなんですか ? 」 「ええ。というか、私もずっと同じ本を読んでいたんです。あなたのお隣で、たまたま」、彼女 東京奇譚集
通っている。十二年にわたる結婚生活は、鮮かな色彩にあふれているとはいえないにせよ、そこ には問題と呼べるほどのものはない。二人は軽い昼食をとりながら最近読んだ小説の話をしたり、 好きな音楽の話をしたりした。彼らは一時間ばかりそこで話し込んだ。 「お話しできて愉しかったわ」、食事が終わったとき、彼女は頬を赤らめながらそう言った。「自 由にこういう話ができる人って、私のまわりにはまるでいないんです」 「僕も愉しかったです」と彼は言った。それは嘘ではなかった。 翌週の火曜日、彼が同じカフェで同じように本を読んでいると、彼女がやってきた。顔を合わ せると二人は徴笑んで軽く会釈をした。そして離れたテープルに座って、それぞれに黙々と『荒 涼館』を読んだ。昼前になると、彼女が彼のテープルにやってきて、声をかけた。それから前の 週と同じように、二人で一緒に食事をした。この近くに悪くない、こぢんまりとしたフランス料 理店があるんだけど、よかったらそこに行きませんか、と彼女は誘った。このモールの中にはあ まりまともな店はないから。いいですよ、行きましよう、と彼は同意した。彼女の車 ( プルーの プジョー 3 0 6 、オートマチック ) で二人はその店に食事に行って、クレソンのサラダと、スズ キのグリルを注文した。グラスの白ワインもとった。そしてテープルをはさんでディッケンズの 小説について語った。 偶然の旅人
し前にやってきて、三週間ばかり滞在した。やってくると、毎日ビニール・チェアを持って海岸 に行き、サーファーたちの姿を眺める。そのほかにはとくに何もしない。一日ただビーチに座っ ているだけ。それがもう十年以上続いている。同じコテージの同じ部屋に泊まり、同じレストラ ンで一人で本を読みながら食事をする。それを毎年、判で押したように続けているうちに、親し く話をする相手も何人かできた。小さな町だから、今では多くの人がサチの顔を覚えている。こ の近くで鮫に子供を殺された日本人のマム、として彼女は知られている。 その日、具合のよくないレンタカーを取り替えてもらいにリフェ空港まで行った帰り、途中に ある力。ハアという町で、ヒッチハイクをしている日本人の若者二人を見かけた。彼らは大きなス ポーツ。ハッグを肩から下げて、「オノ・ファミリー・レストラン」の前に立ち、頼りなさそうに 車に向かって親指を上げていた。一人は背が高くひょろひょろして、もう一人はずんぐりしてい た。どちらも茶色に染めた髪を肩まで伸ばし、くたびれた e シャツにだらんとしたショーツ、サ ンダルというかっこうだ。サチはそのまま通り過ぎたが、しばらく進んでから思い直し、方向転 換して戻った。 「どこまで行くの ? 」と彼女は窓を開けて日本語でたずねた。 「あ、日本語しゃべれるんだ」と背の高い方が言った。 東京奇譚集
「でも正解は与えられない」 「小さな秘密というのは大事なのよ」とキリエは言った。「観察し想像するという職業的な喜び をあなたから奪いたくないし : 。でもね、ひとつだけヒントをあげる。私の場合もあなたと同 じなの」 「僕と同じって ? 「つまりずっと以前から、小さな頃からやりたいと思っていたことを、私は職業にしているわけ。 あなたの場合と同じように。ここに来るまでは決して簡単な道のりではなかったけど」 「それはよかった」と淳平は言った。「すごく大事なことだよ、それは。職業というのは本来は 愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」 「愛の行為」とキリエは感心したように言った。「それ、素敵な比喩ね」 「ところで僕は君の名前を耳にしたことがあると思う ? 」と淳平は尋ねた。 彼女は首を振った。「ないと思う。とくに世間的に有名なわけじゃないから」 「誰にでも出発点はある」 「そのとおり」とキリエは言って笑った。それから真顔になった。「でも私の場合、あなたの場 合とは違って、最初から完全なものを要求されているの。失敗は許されない。完全か、あるいは 無か。そこに中間はない。やりなおしもない」 日々移動する腎臓のかたちをした石
してそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ。 同じころ、女医の机の上からは、腎臓のかたちをした黒い石が姿を消している。彼女はある朝、 その石がもうそこに存在していないことに気づく。それは二度と戻 0 てはこないはずだ。彼女に はそれがわかる。 東京奇譚集 156
荒れた庭があり、髪の長い半裸の若い白人が二人、キャンバス・チェアに座ってビールを飲んで いた。ローリング・ロックの緑の瓶が、足元の雑草の中に何本か転がっていた。一人は金髪で一 人は黒髪だったが、それをべつにすれば二人とも同じような顔つき、同じような背格好だった。 どちらも両腕に派手ないれずみを人れていた。マリファナの匂いもかすかにした。犬の糞の匂い がそこに混じっていた。サチが近づいていくと、彼らは警戒の目で彼女を見た。 「このホテルに泊まっていた私の息子が、三日前に鮫に襲われて死んだの」とサチは説明した。 二人は顔を見合わせた。「それ、テカシのことかい ? 」 「そう、テカシのことーとサチは言った。 「クールなやつだった」と金髪の方が言った。「気の毒したね」 「あの日の朝、えーと、亀がたくさん湾に人ってきてたんだ」と黒髪が弛緩した声で説明した。 「亀を追って鮫が人ってきた。あー、ふだんはあいつらサーファーを襲わないんだよ。俺たち、 鮫とけっこう仲良くやってる。でもさ : 、うーん、まあ、鮫にもいろいろあるからさ」 ホテルの宿泊費を支払いに来たのだと彼女は言った。たぶん未払いのぶんがあると思うから。 金髪が顔をしかめて、ビール瓶を空中でひらひらと振った。「ねえ、おばさん、あんたよくわ かってない。ここは前払いでしか客を泊めないんだ。何しろ貧乏サーファー相手の安ホテルだか らさ、未払い料金なんてものはあり得ない」 東京奇譚集
も読んでいた本の力。ハーを取って、表紙を見せた。 確かに驚くべき偶然だった。平日の朝、閑散としたショッピング・モールの、閑散としたカフ 工の隣り合った席で、二人の人間がまったく同じ本を読んでいる。それも世間に広く流布してい るベストセラー小説ではなく、チャールズ・ディッケンズの、あまり一般的とは言えない作品な のだ。二人は不思議な巡りあわせに驚き、そのせいで初対面のぎこちなさは消えた。 彼女はそのモールの近くにある新しく開発された住宅地に住んでいた。『荒涼館』は五日ばか り前にやはりこの書店で買い求めた。そしてカフェに座って紅茶を注文し、何気なくべージを開 いたのだが、一度読み始めると、本を置くことができなくなってしまった。気がつくと二時間が 経過していた。そんなに夢中になって本のページを繰ったのは、学生時代以来のことだった。そ こで過した時間があまりにも心地よかったので、また同じ場所に戻ってきたのだ。『荒涼館』の 続きを読むために。 彼女は小柄で、太っているというほどではないのだが、身体のくびれているべき部分にいくら か肉がっきはじめていた。胸が大きく、人好きのする顔立ちだった。服装の趣味は上品で、ある 程度金もかかっているようだった。二人はしばらく話をした。彼女は読書クラブに人っていて、 そこで選ばれた「今月の本」が『荒涼館』だった。メン。ハーの中にディッケンズの熱心なファン がいて、その女性が次は『荒涼館』でいこうと提案したのだ。子供が二人いるので ( 小学校一二年 偶然の旅人四
する。一時間を少し超える面談が終了したとき、背中にのしかかっていたものがいくらか軽減さ れたという実感があった。 「それで安藤さん、来週の水曜日もまた同じ時間に来られるかしら ? 」、坂木哲子はにこにこし ながらそう尋ねた。 「ええ、来ることは来られますが」とみずきは言った。「また来てもかまわないんですか ? 「もちろんよ。あなたさえいやじゃなかったらね。こういうことって、ほら、何度も何度もお話 しをしなきや、なかなか前には進んでいかないものなの。そのへんのラジオの人生相談番組じゃ ないんだから、適当な回答を出して『はい、これでおしまい。あとはがんばってくださいね』っ てなわけにはいかないのよ。時間はかかるかもしれないけれど、まあお互い品川区民として、ゆ つくりやりましようよ 「それでね、名前に関連して思い出せる出来事って、あなたには何かないかしら ? 」と坂木哲子 は二回目の面談の最初に質問した。「自分の名前でも、ほかの人の名前でも、飼っていた動物の 名前でも、行ったことのある土地の名前でも、あだ名でも、名前に関することならなんでもいい の。もし何か名前がらみで記憶に残っていることがあったら、ちょっと教えてくれる ? 」 「名前に関すること ? 」 ロロ 173
たわ。とても楽しく読めたから」 「それはよかった」と淳平はほっとして言った。彼女の求めに応じて自分の本を渡したとき、彼 もやはり同じことを心配していたのだ。 「これはお世辞じゃないのよ」とキリエは言う。「あなたにはとくべつなものが備わっていると 思う。優れた作家となるために必要な何かがね。雰囲気は静かだけど、いくつかの作品はとくに 生き生きと書けていて、文章も美しい。そして何よりもバランスがよくとれている。実を言うと、 私は何はさておきバランスということがまず気になるの。音楽にしても、小説にしても、絵にし てもね。そしてバランスがうまくとれていない作品や演奏に出会うとーーっまりあまり質の良く とても気持ちが悪くなるの。乗り物酔いした ない未完成なものに出会うとということだけど みたいに。私がコンサートに行かないのも、小説をほとんど読まないのも、たぶんそのせいねー 「バランスの悪いものに出くわすのがいやだから ? 」 「そう 「そのリスクを避けるために、小説も読まないしコンサートにも行かない」 「そのとおり」 「かなり極端な意見みたいに僕には思える」 「天秤座なのよ。バランスがとれていないものごとにどうしても我慢できない。我慢できないと 東京奇譚集
判断できなかった。それは程度の問題なのだろうか、質の問題なのだろうか、あるいは方向性の 問題なのだろうか ? 「つまり酔っぱらうことはあったとしても、普段はそんなにひどく泥酔はしなかったということ ですね ? 」と私は尋ねた。 「そのように理解しております」と女は言った。 「失礼ですがおいくつになられますか ? 」 「私の年齢をお尋ねになっていらっしやるのですか ? 」 「そうですーと私は言った。「もちろんお答えになりたくなければ、お答えにならなくてけっこ うです」 女は鼻に手をやり、人差し指で鼻梁をこすった。筋の通ったきれいな鼻だった。それほど遠く ない昔に鼻の整形手術をしたのかもしれない。私は同じクセを持っている女としばらくつきあっ ていたことがある。彼女も鼻の整形手術をしており、考えごとをするときにはいつも、鼻梁を人 差し指でこすった。新品の鼻がまだきちんとそこにあることを確かめるみたいに。そんなわけで その仕草を見ていると、私は軽いデジャヴュに襲われることになった。それにはオーラル・セッ クスも少なからず関与していた。 「べつに隠す必要はありません」と女は言った。「肪歳になります」 どこであれそれが見つかりそうな場所で