私は尋ねてみた。「胡桃沢さんは仕事が大変だとか、家庭にトラブルがあるとか、ひょっとし てそういうことを話されませんでしたか ? 」 老人は首を振り、煙草の灰を灰皿に落とした。「ご存じのように、すべての水は与えられた最 短距離をとおって流れます。しかしある場合には、最短距離は水そのものによって作り出されま す。人間の思考とは、そのような水の機能に似ております。私はいつもそういう印象を抱いてき ました。しかしあなたの質問にお答えしなくてはなりませんね。私と胡桃沢さんとはそのような 突っ込んだ話は一度もしたことはありません。軽い世間話しかしませんでした。天気とか、マン ションの規約とか、それくらいのことです」 「わかりました。お手間をとらせました」と私は言った。 「ときとして私たちは一一一口葉は必要とはしませんーと老人は言った。私の言ったことが耳に人らな かったみたいに。「しかしその一方で、言葉は言うまでもなく常に私たちの介在を必要としてお ります。私たちがいなくなれば、言葉は存在意味を持ちません。そうではありませんか ? それ は永遠に発せられることのない言葉になってしまいますし、発せられることのない言葉は、もは や言葉ではありません」 「そのとおりですね」と私は言った。 「それは、何度も繰り返し考えられる価値のある命題ですー どこであれそれが見つかりそうな場所で 109
こ 0 「胡桃沢さん」と私は、天井の一角に向かって、声に出して語りかけた、「現実の世界にようこ そ戻られました。不安神経症のお母さんと、アイスピックみたいなヒールの靴を履いた奥さんと、 メリルリンチに囲まれた美しい三角形の世界に」 ーナツツだか、象さんだかのかたちを 私はまたどこかべつの場所で、ドアだか、雨傘だか、ド したものを探し求めることになるだろう。どこであれ、それが見つかりそうな場所で。 どこであれそれが見つかりそうな場所で 119
警官は深いため息をついた。「お気の毒です。私どもにできることがありましたら、おっしゃ ってください」 「息子が死んだ場所を教えてください。泊まっていたところも。宿泊費の支払いもあると思いま すので。それからホノルルの日本領事館と連絡をとりたいのですが、電話を使わせていただけま すか ? 」 警官は地図を持ってきて、息子がサーフィンをしていた場所と、泊まっていたホテルの場所に マーカーでしるしをつけてくれた。一 彼女は警官が推薦してくれた、町中にある小さなホテルに泊 まることにした。 「私からひとつ、あなたに個人的なお願いがあります」とサカタという初老の警官は別れ際にサ チに言った。「ここカウアイ島では、自然がしばしば人の命を奪います。ごらんのようにここの 自然はまことに美しいものですが、同時に時として荒々しく、致死的なものともなります。私た ちはそういう可能性とともに、ここで生活しています。息子さんのことはとてもお気の毒に思い ます。心から同情します。しかしどうか今回のことで、この私たちの島を恨んだり、憎んだりし ないでいただきたいのです。あなたにしてみれば勝手な言い分に聞こえるかもしれません。しか しそれが私からのお願いです」 サチは頷いた。 ハナレイ・べイ
19 9 3 年から 19 9 5 年にかけて、僕はマサチューセッツ州ケンプリッジに住んでいた。 ・イン・レジデンス」のような資格で大学に属し、『ねじまき鳥クロニクル』というタ イトルの長い小説を書いていたのだ。ケンプリッジのチャールズ・スクエアには「レガッタ・ ー」というジャズ・クラブがあり、ここで数多くの一フィブ演奏を聴いた。適度な大きさの、リラ ックスしたジャズ・クラプだ。名のあるミュージシャンがよく出演するし、料金もそんなに高く ない。 あるとき、ピアニストのトミー・ フラナガンの率いるトリオがそこに出演した。妻はその夜何 か用事があったので、一人で聴きに行った。トミー・ フラナガン氏は個人的にもっとも愛好して きたジャズ・ピアニストの一人である。多くの場合サイドマンとして、温かく深みのある、心憎 いばかりに安定した演奏を聴かせてくれる。シングル・トーンがこの上なく美しい。ステージの すぐ近くのテープルに陣取って、カリフォルニア・メルローのグラスを傾けながら、彼のステー ジを楽しんだ。しかし個人的な感想を正直に述べさせていただけるなら、その夜の彼の演奏はそ れほどホットなものではなかった。体調がすぐれなかったのかもしれない。夜もまだ早いので、 気分がもうひとっ乗らなかったのかもしれない。決して悪い演奏ではないのだが、我々の心を別 の場所に送り届けてくれるような何かがそこには不足していた。マジカルなきらめきが見あたら なかったとでも言えばいいのだろうか。「本来はこんなものじゃないはずだ。きっとそのうちに 「ライター 偶然の旅人
どこであれそれが見つかりそうな場所で
偶然の旅人 ハナレイ・べイ どこであれそれが見つかりそうな場所で 日々移動する腎臓のかたちをした石 121
初出 「偶然の旅人」 ( 「新潮」一一〇〇五年三月号 ) 「ハナレイ・べイ」 ( 同四月号 ) 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」 ( 同五月号 ) 「日々移動する腎臓のかたちをした石」 ( 同六月号 ) 「品川猿」 ( 書下ろし )
た。それは頭上の天井の隙間から聞こえてくる他の誰かの声のようだ。 「ええ、いろんなスポンサーとかつけて、やってるみたいですね。この前はドイツの、なんとか いう有名なカセドラルでそれをやったそうです。本当はもっと高い高層ビルでやりたいんだけど、 なかなか当局の許可が下りないんだそうです。それくらい高いところになると、安全ネットが役 に立ちませんからね。だからちょっとずつ、実績を積み重ねていって、徐々により高いところに 挑戦したい、と。もっとも綱渡りだけでは食べていけないから、普段はさっき言ってたみたいに、 ビルの窓ふきの会社を経営しているんです。同じ綱渡りでも、サーカスとかそういうところで働 くのはいやなんだそうです。高層建築にしか興味ないって。ほんと変わってますよ」 「何よりも素晴らしいのは、そこにいると、自分という人間が変化を遂げることです」と彼女は インタビュアーに語った。「というか、変化を遂げないことには生き延びていけないのです。高 い場所に出ると、そこにいるのはただ私と風だけです。ほかには何もありません。風が私を包み、 私を揺さぶります。風が私というものを理解します。同時に、私は風を理解します。そして私た ちはお互いを受け人れ、ともに生きていくことに決めるのです。私と風だけーーほかのものが人 り込む余地はありません。私が好きなのはそういう瞬間です。いいえ、恐怖は感じません。一度 高い場所に足を踏み出し、その集中の中にすつぼりと人ってしまえば、恐怖は消えています。私 日々移動する腎臓のかたちをした石 153
「あなたがこれからなそうとしている行為」と彼女はどことなく乾燥した声で言った。 私はうなずき、先の丸くなった鉛筆を。ヘン皿に戻した。 とがったハイヒールをはいた女は、私をマンションの幻階と % 階を結ぶ階段部分に案内してく れた。彼女は自分の住居ュニットのドアを示し ( 2609 号室 ) 、それから義母の住んでいる住 居ュニットのドアを示した ( 2 417 号室 ) 。二つの階は広い階段で結ばれていた。行き来には、 ゆっくり歩いても五分はかからない。 「夫がこのマンションを買うことに決めたのには、階段が広くて明るいという理由もありました。 多くの高層マンションは階段部分に手を抜きます。広い階段は場所をとりますし、ほとんどの住 民は階段を使わず、エレベーターを使用するからです。ですからマンション業者の多くはもっと 人目につくところに趣向をこらします。たとえばロビーに豪華な大理石を使ったり、ライプラリ を設けたり。しかし階段は何よりも大事だというのが夫の考え方でした。階段というのは建物の 背骨のようなものなのだと」 たしかに存在感のある階段だった。階と % 階とのあいだの踊り場には、三人掛けのソフアが 置かれ、壁には大きな鏡がとりつけられていた。スタンド付きの灰皿があり、観葉植物の鉢も置 かれていた。広い窓からは晴れた空といくつかの雲が見えた。窓は開かないようにはめ殺しにな どこであれそれが見つかりそうな場所で
「ふうん」と女の子は言った。「おじさんはそれを長いあいだ捜しているの ? 」 「ずいぶん長く。君が生まれる前からずっと」 「そうなんだ」と彼女は言った。そしてしばらくのあいだ自分の手のひらを眺めながら、何かを 考えていた。「わたしも手伝ってあげようか。それを捜すのを」 「手伝ってくれるとすごく嬉しいね」と私は言った。 「ドアだか、雨傘だか、ドー ナツツだか、象さんだか、なんだかよくわからないものを捜せばい いんだね ? 」 「そういうことだね」と私は言った。「でも見ればそれだってすぐにわかる」 「面白そう」と女の子は言った。「だけど今日はそろそろ行かなくちゃ。これから。ハレエのレッ スンがあるから」 「じゃあね」と私は言った。「お話ししてくれて、どうもありがとう」 「あのね、おじさんの好きなドーナツツの名前、もう一度言ってくれる ? 」 「オールド・ファッション 女の子はむずかしい顔をして、〈オールド・ファッション〉と小さく口の中で何度かくり返し ( 0 「さよなら」と女の子は言った。 どこであれそれが見つかりそうな場所で 115