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検索対象: 東京奇譚集
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1. 東京奇譚集

私は尋ねてみた。「胡桃沢さんは仕事が大変だとか、家庭にトラブルがあるとか、ひょっとし てそういうことを話されませんでしたか ? 」 老人は首を振り、煙草の灰を灰皿に落とした。「ご存じのように、すべての水は与えられた最 短距離をとおって流れます。しかしある場合には、最短距離は水そのものによって作り出されま す。人間の思考とは、そのような水の機能に似ております。私はいつもそういう印象を抱いてき ました。しかしあなたの質問にお答えしなくてはなりませんね。私と胡桃沢さんとはそのような 突っ込んだ話は一度もしたことはありません。軽い世間話しかしませんでした。天気とか、マン ションの規約とか、それくらいのことです」 「わかりました。お手間をとらせました」と私は言った。 「ときとして私たちは一一一口葉は必要とはしませんーと老人は言った。私の言ったことが耳に人らな かったみたいに。「しかしその一方で、言葉は言うまでもなく常に私たちの介在を必要としてお ります。私たちがいなくなれば、言葉は存在意味を持ちません。そうではありませんか ? それ は永遠に発せられることのない言葉になってしまいますし、発せられることのない言葉は、もは や言葉ではありません」 「そのとおりですね」と私は言った。 「それは、何度も繰り返し考えられる価値のある命題ですー どこであれそれが見つかりそうな場所で 109

2. 東京奇譚集

こ 0 「胡桃沢さん」と私は、天井の一角に向かって、声に出して語りかけた、「現実の世界にようこ そ戻られました。不安神経症のお母さんと、アイスピックみたいなヒールの靴を履いた奥さんと、 メリルリンチに囲まれた美しい三角形の世界に」 ーナツツだか、象さんだかのかたちを 私はまたどこかべつの場所で、ドアだか、雨傘だか、ド したものを探し求めることになるだろう。どこであれ、それが見つかりそうな場所で。 どこであれそれが見つかりそうな場所で 119

3. 東京奇譚集

警官は深いため息をついた。「お気の毒です。私どもにできることがありましたら、おっしゃ ってください」 「息子が死んだ場所を教えてください。泊まっていたところも。宿泊費の支払いもあると思いま すので。それからホノルルの日本領事館と連絡をとりたいのですが、電話を使わせていただけま すか ? 」 警官は地図を持ってきて、息子がサーフィンをしていた場所と、泊まっていたホテルの場所に マーカーでしるしをつけてくれた。一 彼女は警官が推薦してくれた、町中にある小さなホテルに泊 まることにした。 「私からひとつ、あなたに個人的なお願いがあります」とサカタという初老の警官は別れ際にサ チに言った。「ここカウアイ島では、自然がしばしば人の命を奪います。ごらんのようにここの 自然はまことに美しいものですが、同時に時として荒々しく、致死的なものともなります。私た ちはそういう可能性とともに、ここで生活しています。息子さんのことはとてもお気の毒に思い ます。心から同情します。しかしどうか今回のことで、この私たちの島を恨んだり、憎んだりし ないでいただきたいのです。あなたにしてみれば勝手な言い分に聞こえるかもしれません。しか しそれが私からのお願いです」 サチは頷いた。 ハナレイ・べイ

4. 東京奇譚集

19 9 3 年から 19 9 5 年にかけて、僕はマサチューセッツ州ケンプリッジに住んでいた。 ・イン・レジデンス」のような資格で大学に属し、『ねじまき鳥クロニクル』というタ イトルの長い小説を書いていたのだ。ケンプリッジのチャールズ・スクエアには「レガッタ・ ー」というジャズ・クラブがあり、ここで数多くの一フィブ演奏を聴いた。適度な大きさの、リラ ックスしたジャズ・クラプだ。名のあるミュージシャンがよく出演するし、料金もそんなに高く ない。 あるとき、ピアニストのトミー・ フラナガンの率いるトリオがそこに出演した。妻はその夜何 か用事があったので、一人で聴きに行った。トミー・ フラナガン氏は個人的にもっとも愛好して きたジャズ・ピアニストの一人である。多くの場合サイドマンとして、温かく深みのある、心憎 いばかりに安定した演奏を聴かせてくれる。シングル・トーンがこの上なく美しい。ステージの すぐ近くのテープルに陣取って、カリフォルニア・メルローのグラスを傾けながら、彼のステー ジを楽しんだ。しかし個人的な感想を正直に述べさせていただけるなら、その夜の彼の演奏はそ れほどホットなものではなかった。体調がすぐれなかったのかもしれない。夜もまだ早いので、 気分がもうひとっ乗らなかったのかもしれない。決して悪い演奏ではないのだが、我々の心を別 の場所に送り届けてくれるような何かがそこには不足していた。マジカルなきらめきが見あたら なかったとでも言えばいいのだろうか。「本来はこんなものじゃないはずだ。きっとそのうちに 「ライター 偶然の旅人

5. 東京奇譚集

どこであれそれが見つかりそうな場所で

6. 東京奇譚集

偶然の旅人 ハナレイ・べイ どこであれそれが見つかりそうな場所で 日々移動する腎臓のかたちをした石 121

7. 東京奇譚集

初出 「偶然の旅人」 ( 「新潮」一一〇〇五年三月号 ) 「ハナレイ・べイ」 ( 同四月号 ) 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」 ( 同五月号 ) 「日々移動する腎臓のかたちをした石」 ( 同六月号 ) 「品川猿」 ( 書下ろし )

8. 東京奇譚集

た。それは頭上の天井の隙間から聞こえてくる他の誰かの声のようだ。 「ええ、いろんなスポンサーとかつけて、やってるみたいですね。この前はドイツの、なんとか いう有名なカセドラルでそれをやったそうです。本当はもっと高い高層ビルでやりたいんだけど、 なかなか当局の許可が下りないんだそうです。それくらい高いところになると、安全ネットが役 に立ちませんからね。だからちょっとずつ、実績を積み重ねていって、徐々により高いところに 挑戦したい、と。もっとも綱渡りだけでは食べていけないから、普段はさっき言ってたみたいに、 ビルの窓ふきの会社を経営しているんです。同じ綱渡りでも、サーカスとかそういうところで働 くのはいやなんだそうです。高層建築にしか興味ないって。ほんと変わってますよ」 「何よりも素晴らしいのは、そこにいると、自分という人間が変化を遂げることです」と彼女は インタビュアーに語った。「というか、変化を遂げないことには生き延びていけないのです。高 い場所に出ると、そこにいるのはただ私と風だけです。ほかには何もありません。風が私を包み、 私を揺さぶります。風が私というものを理解します。同時に、私は風を理解します。そして私た ちはお互いを受け人れ、ともに生きていくことに決めるのです。私と風だけーーほかのものが人 り込む余地はありません。私が好きなのはそういう瞬間です。いいえ、恐怖は感じません。一度 高い場所に足を踏み出し、その集中の中にすつぼりと人ってしまえば、恐怖は消えています。私 日々移動する腎臓のかたちをした石 153

9. 東京奇譚集

「あなたがこれからなそうとしている行為」と彼女はどことなく乾燥した声で言った。 私はうなずき、先の丸くなった鉛筆を。ヘン皿に戻した。 とがったハイヒールをはいた女は、私をマンションの幻階と % 階を結ぶ階段部分に案内してく れた。彼女は自分の住居ュニットのドアを示し ( 2609 号室 ) 、それから義母の住んでいる住 居ュニットのドアを示した ( 2 417 号室 ) 。二つの階は広い階段で結ばれていた。行き来には、 ゆっくり歩いても五分はかからない。 「夫がこのマンションを買うことに決めたのには、階段が広くて明るいという理由もありました。 多くの高層マンションは階段部分に手を抜きます。広い階段は場所をとりますし、ほとんどの住 民は階段を使わず、エレベーターを使用するからです。ですからマンション業者の多くはもっと 人目につくところに趣向をこらします。たとえばロビーに豪華な大理石を使ったり、ライプラリ を設けたり。しかし階段は何よりも大事だというのが夫の考え方でした。階段というのは建物の 背骨のようなものなのだと」 たしかに存在感のある階段だった。階と % 階とのあいだの踊り場には、三人掛けのソフアが 置かれ、壁には大きな鏡がとりつけられていた。スタンド付きの灰皿があり、観葉植物の鉢も置 かれていた。広い窓からは晴れた空といくつかの雲が見えた。窓は開かないようにはめ殺しにな どこであれそれが見つかりそうな場所で

10. 東京奇譚集

「ふうん」と女の子は言った。「おじさんはそれを長いあいだ捜しているの ? 」 「ずいぶん長く。君が生まれる前からずっと」 「そうなんだ」と彼女は言った。そしてしばらくのあいだ自分の手のひらを眺めながら、何かを 考えていた。「わたしも手伝ってあげようか。それを捜すのを」 「手伝ってくれるとすごく嬉しいね」と私は言った。 「ドアだか、雨傘だか、ドー ナツツだか、象さんだか、なんだかよくわからないものを捜せばい いんだね ? 」 「そういうことだね」と私は言った。「でも見ればそれだってすぐにわかる」 「面白そう」と女の子は言った。「だけど今日はそろそろ行かなくちゃ。これから。ハレエのレッ スンがあるから」 「じゃあね」と私は言った。「お話ししてくれて、どうもありがとう」 「あのね、おじさんの好きなドーナツツの名前、もう一度言ってくれる ? 」 「オールド・ファッション 女の子はむずかしい顔をして、〈オールド・ファッション〉と小さく口の中で何度かくり返し ( 0 「さよなら」と女の子は言った。 どこであれそれが見つかりそうな場所で 115